長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2004年12月30日(木)

 痛みを、吐露する場所は決めている。物理的な痛みも、心理的な痛みも。
 自分自身に対する枷は必要だ、何時だって。


 昨日から兄が帰宅している。其れ故の、何処と無く非日常。例年通り、多忙を極めていた日常から急に休みに入って気が抜ける所為だとは思うのだけれど、微熱と偏頭痛が続く。病院に行けば原因不明で血液検査の結果異常無し、という私にとっては既にパターン化された診察が待っているだけなので、病院には行かない。少なくとも自分の意思では。加えて私は基本的には薬嫌いだ。鎮痛剤だけは、欠かせないが。更に言えば、何処かで私の偏ったプライドが許さない。そうして通院するだけ時間の無駄だと、最終的には結論付ける。――日がな一日、蒲団に包まって過ごしたい。またそうした時間が年に一度くらいあったって、良いじゃないか。絶対不可能だと知っているからこそ、願ってみたくなる。祈ってみたくなる。神に。神に? 否、多分、違う。
 慌しくて、何かを記憶しておこうと朧に考えてはいるのに、其の瞬間から忘却は始まっている。一つ、二つ。そうして膨大な量の記憶を忘却して、暫く経過した後に既視感として、蘇る。断片的な記憶。思い出、ではない。もっと、パズルのピィスのような。其れは決して一つの絵として完成する事は無くて、ずっと、永遠に、ピィスはピィスの侭。何時しかピィスは断片として一つの山を形成し、其れを整理する事が出来なくなった時、意図的に処理される。処理する。忘却などという曖昧なものではなく、完全に記憶から排除する。此の意図というものが意識的なのか無意識的なのかは、然程問題ではない。少なくとも、恐らくは自分の為になると考えて為している行為であろうから。



 ところで。こんな年の瀬の多忙な時期に可也本気で退部を考えている。否、以前から考えてはいたのだけれど。其れこそもっと本格的に、考えている。日常の忙しさは、今までよりは解消されるだろうけれど。其れに伴って時間を確保する事は出来るだろうけれど。何かを書くことは、未だ続けたい。小説でも、詩でも、兎に角作品として作り上げる事は、辞めたくない。只、一つの思考として、――疲れている。










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