drop,drop,drop down
草凪@ニチカ



 


ぼ…ボーボボみんのすっかり忘れてた…!
がーーーーん!!!破天荒が…!!岸尾が!!!なきたい!!!わーん!そうだよ今日土曜日だよ…。

茶水に行って来ました。
ニコライ堂に行きました。
湯島天満宮にも行ったよ。(何しに行ってるんだ)(サークルです)
でも両方休日って言うか、ニコライ堂のほうは月〜金で礼拝堂を公開してるらしくて中みれなかったし、湯島のほうはお祭があったらしくて片づけで閉館?中とか…。ガーン。
でもアレだよね!湯島とか浅草とかきいちゃうとさ!わたしの大好きなあの設定が思い浮かんじゃうよね!!(笑顔)とある港町で夜な夜な海の荒くれ男たちに抱かれて生業を立ててるのが千石だよね!!!そんでイギリスで生まれて日本に帰ってきた商家の一人息子の跡部と出会うっていうのがテニスの王子様のストーリーだよね!たーのしーや…クスクス…誰かかいてーこんな話…。わたしは似たようなのをオフラインで描きました。(笑)

オフラインといえば、オフの本のほうの乾海っぽなはなしはアヤさんにささげます…!本誌にもお手紙にも書くのを忘れました。
封筒にね…「水濡れ折り曲げ厳禁」て赤ペンで書いたらね、アヤさんとことどいたら水濡れんとこは水でにじんでたらしいよ…厳禁いうたやろ…!!!!


滝ツバは2枚目のアルバムのほうがいいね。愛CHECKIT!とラブスパイラルがすきー!

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天窓のあるガレージを読んで


 私が「変貌する都市・6」のすべての作品を読み終えて、最も印象に残ったと感じたのが日野啓三の「天窓のあるガレージ」である。この作品の何故印象に残ったかと言うと、一度授業で読んだだけでは話の内容がよく理解できなかったからだ。天窓のあるガレージ、父親、聖霊、蜘蛛やキノコなどといったものが、一体何を指し示しているのかもわからないが、わたしが一番理解できないのはこの主人公の少年だ。

 少年は物語の初めの頃は全く普通の子であるようだったが、話が進むにつれ、ガレージの中に閉じこもったり、青酸カリでも買ってくれといったり、私から見れば彼の言動は異常以外の何物でもない。
 少年の父親も「頭蓋骨を叩き割られた白骨の首がずらりと並ぶカラー写真」を眺めていたり、わたしから見れば少しおかしい人のように思える。少年は作中で父親に反発しているが、彼もまたこの父親の気質を受け継いでいるように思える。

 そして、私は3節で、少年と母親が大事故を起こしたというところを読んでいて気になった箇所がある。「乗っていたふたりが、表面上かすり傷ひとつ負わなかったのは奇跡である。」というところだ。私はこの「表面上」と述べられているところが引っかかった。この事故は表面上、体には傷は付かなかったが、彼の精神には何らかの影響を及ぼしたのではないか。その後、少年が事故にあった瞬間、白くきらめく美しい光を見たと書いてあるが、このとき、少年が聖霊とであった最初の瞬間なのではないかと思った。そしてもうこのときから、少年の身体には聖霊が入っていたのではないのだろうか。

 少年がガレージで過ごしているとき、いろいろなものが彼の身の回りに現れるが、それは本当に現実にあるものだったのか、とも思う。浮浪者の老人、若い男女のカップル、この辺りは現実のようだが、汚れた着物を着た男の子の描写はまるで死人であるかのようだし、自分の影が体から離れ、まして自分の動きと関係なく動くことなどありえない。ということを考えると、事故は少年に見えないものが見える力をもたらしたのではないか。

 では聖霊とはなんなのか。広辞苑(岩波書店)でひいてみたところ「キリスト教で三位一体(父・子・聖霊)の第三位を占める位格。教会の誕生を助け、神意の理解をもたらし、カリスマ的な活動の鼓吹力となるもの」とでていた。さらに「三位一体」を調べたところ、「キリスト教で、創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神と、信仰経験に顕示された聖霊なる神とが、唯一なる神の三つの位格(ペルソナ)であるとする説。この三者に優劣の差別はない。」と述べられていた。

 それを踏まえてこの小説における聖霊を考えてみると、まさにキリスト教においての聖霊と合致するものではないだろうか。少年をキリスト、少年の父親を父なる神とおくと、彼らは三位一体、性質は等しいものなのではないだろうか。少年は父親に反発しているが、彼の内包しているものは彼の父親が持っているものと同じ性質をしているように思われる。

 そして、もうひとつ理解不明なものが「宇宙船」である。普通に読めば、『宇宙船は、今目的地にたどり着いた』の宇宙船は少年のいるガレージのことだろうが、わたしはその後の48節の「蜘蛛」が宇宙船なのではないかと思う。
 蜘蛛とは悪の象徴であるらしい。48節でその蜘蛛が少年の身体の中に入ってきた、ということは少年の身体には今は聖霊ではなく悪霊が宿っているのではないか。46節で『天窓からの光が、今体中に降り注いでいる、と少年は思うー『聖霊』が僕の中に入り込んでくる。』ここを読むと、宇宙船に乗ってやってきたものはやはり聖霊ではないか、という気になるが、44節で出てくる少年の『影』が聖霊であったとすればどうだろうか。すでに聖霊が体内にいるのだから、46節で少年の感じている『聖霊』は聖霊を装った悪霊だったと読むことは出来ないだろうか。46節と47,48節は平行して進行していて、少年が聖霊だと思ったものは蜘蛛で、蜘蛛が体内に入ると同時に聖霊は外に追い出されてしまったのではないだろうか。そして49節で『降り注いでいた光がすっと薄れた。』というのは聖霊が彼の身体から去ってしまったからであり、50節の『かつて意識したことのない力を、深く感じながら。』というのは、少年は幼い頃から聖霊というものに触れていたのでその感覚を意識したことはなく、全く別のものが入り込んできたためその感覚を改めて感じている、ととることは出来ないだろうか。

 わたしはこういう風に話を後味の悪い風に捉えるのがとてもすきなのだが、しかしそれにしてもこの小説の場合それをすると洒落にならない気がしなくもない。起き上がった少年が、前と何が違って、どう変わったのかは自分でも予測はつかない。

 だが、わたしが言いたいのはこの小説は書き方にとても空気を含んでいて、こういう書き方でなければ思春期の少年の単なる戸惑いや苛立ち、思春期特有のそういったものを著した通俗的な小説なのではなかったか、ということだ。この時期、少年少女が自分の意思ではどうにも成らないようなものにあこがれるのは当たり前のことのように思う。その対象であるものが『聖霊』なわけだが、日野啓三はこういった書き方をすることによって、小説全体の雰囲気をミステリアスなものにした。
 色々とここに至るまでわたしも悩みながら考えたり、推察したりしてきたが、結論としてはやはりこの作品は雰囲気を楽しむものであると思う。上でわたしが言ったような捉え方もできるし、いっそ何も考えず読んでもいいと思う。何通りもの読み方が出来る、そんな作品であると思う。





評価Sレポート。

起承転結の結の部分が全く違う結になっているというもの。
転のあたりで波に乗ってだだだっとかいたわりに着地点が見つからず、まとまりきらなくて全否定するという新しいスタイルです!(爽)
これほんとう先生によって評価分かれると思うんだ…。だって結論が…こんなやもん…。もっとまとめ方あったろうに…と今でも思いますがこれも時間がなかったの(ニコッ)

何せこのときレポート3本同時進行でしたから…(遠い目)何がなにやら。どのレポートで何書いてんだかだんだんわかんなくなりました。
だってなんか本当集中力無くてね、ちょっと書いてはつまりちょっと書いてはつまりだったのよ。

2004年05月15日(土)
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