勉強の仕方 - 2003年12月04日(木) 今は時間変更帯を過ぎているので昨日のことになるが、内分泌の試験は無事?終わった。 ストレートな問題(誘導がついていたので)だったと思う。 1)下垂帯の脈管系を説明せよ(その意義もあわせて) 2)甲状腺ホルモンの生合成について、細胞内小器官とのかかわりに触れて説明せよ 3)副腎内の血管について、その意義とホルモン濃度分布に触れて説明せよ。 4)カルシウムのホメオスターシスについて述べよ 前日に10問範囲の発表もあり、そこから4問だったし、、 努力が報われる問題でございました。 って、書いてるつもりでまたいっぱい違ってたら(汗汗)ははは恥ずかしいわf^^; ++ なんかね、all 必須科目の医学部専門課程の試験は「定期試験」などと思ってはいかんとようやく気付いた。さして難易度の高くない科目は「期末試験の副教科」でいいかもしれないのだが、それ以外は、基本的に「センター試験」、さらに重要なものは「国公立大学ニ次試験前期日程」だと思った方が良さそうである。 「定期試験」という言葉に騙されていた。 これからは試験は「入学試験前期日程」だと思って受けようと思う。 ++ 良し悪しはともかく、 いつも自分を取り繕っていてダメな私を出さない人は疲れるだろうなぁ、、 少なくともエネルギーはいるだろうなぁ、、 ++ 真実は細部に宿る、とどこかの哲学者のように言い切る気はないが、ごく平凡な(?)私なりの日常を過ごしていても、いろいろ考えさせられる根は多い。 *家庭教師>予備校のフェロー(親子、家族、進路選び、プレ青春の落としどころ、心理、学校のカリキュラムひいては教育問題、などなど) *教室(カリキュラムひいては教育、勉強の仕方、心理、などなど) 家庭教師によって、それは時間の切り売りでもあるけれども、あちこちの現場を覗かせてもらっているという面も(私にとっては)ある。 もちろん、細部に目を宿らせるのは必要であるが、 気を見て森を見失っても仕方ないので、バランス感覚が必要なのは言うまでもない。 今日思ったのは勉強の仕方、ということ。 去年の私みたいなテストの受け方をしていて、(私がそうであったように)ケセラセラで知識を定着させていないことや書けないことを気にも留めてない、そういう姿を見て、ちょっと懐かしく(???)なって、ついでにあああ、ここはブンガクブじゃないのよぉぉぉねぇえええええ、と思った。 もちろん、その事情を勝手に推し量ってはならないし、言い訳でしかないが(それでも原因ではある)私とて勉強しなくていいと思っていた訳ではなく、やみくもにしなければという気持ちがパニックを産み、手がつかなくなったり、必要なエネルギーを見極められなかったり(それがまたパニックにつながる)、時間が確保できなかったりした訳だから。 試験に対する文化(認識)の違いとかその他の問題があるわけで。 テストなんて(あるものもあるけど)教養のシケタ試験。勉強して意味があるのか、何がポイントなのかも判然としない試験たち。それはブンガクブに限ったことではないが、アバウトさが限り無く許される場であり、また、正確にナニカを覚えるということが、院試以外にはほとんど要求されなかった気がする。 殊に専門課程の文学部生となってしまえば、知識のきちんとした定着と運用なんてことはどこか幼稚園の遊戯場においてきて良いことであり(というか、実は大学に入学する前まで問われていたことの筈ではあるのだが)、あたかもナニカを(仮に他人の物まねであっても、さらにはコピー&ペーストでしかなくても)つくり出すことの方が上であるかのような風潮がある。 だから、テスト白紙というのは当たり前の(というのは大袈裟としても、さして恥ずかしくもない)事態へと急転するのである。 実は、ナニカをつくり出すにしても、インスピレーション云々といっても芸術にしろそれを実現する技術が必要であり、研究であるからには事象を捉える技術とまとめ表現し伝達する技術が必要である。 その、知識の獲得と適格な運用が、個人のオリジナリティーだとか、先行研究を抑えるという名のもとに、おなざりにされているのではないだろうか? それが、ブンガクブ(に限らないかもしれないが)が若き頭脳を社会に向けて開くことなく、淀んだ場になっている一因であるように思った次第である。 (なお、緻密な検証を欠いた、あくまでも私の所感によるものであることはお許し願いたい) -
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