ラット新生児固定還流 / 漫然とした実験 / 勤労学生もどき - 2003年08月26日(火) 結局2度寝してしまい、実験は朝の7時半過ぎから開始した。自分でもスムーズにエレガントに、一発できめる勢いで固定環流したと思ったのに、全身にうまく固定液が回っていないようで(理由がよく分からなかったが、針の差し込み方が甘かったのだろうか)失敗。ただし、生後10日のラットに比べ、毛も大分生え、マウスくらいには大きくなっているので、扱いやすい。器具の都合と、自分の用事とあったので、一旦そこで実験を終え、また夕方6時から再開。このときは泊まり込む覚悟で寝袋も持ち込んだのだが、今度は派手なミスはしなかった(肺循環に固定液が回ってしまったりはしたが)し、おまけに一人かと思いきや他に大学院生が4人ほど現れ、とても寝袋を広げてグウグウ落ち着いて眠ることができそうになかったので、雨の中、夜道を駅まで歩き(くらい半ばスをまっているのは嫌だったので)、22:38のJRに乗って帰宅。 これが授業だったらきっとヘトヘトになっていると思うが、目標のはっきりした実験であり、おまけに今日狙い打ちしてサンプルを取る必要があったので緊張感もあり、余り疲れは感じない。また、高校の教員をしていた時は、その高校が特殊だった事もあり、テスト前は会議で学校を出るのが夜9時から10時になるのが普通、テスト後は採点でまた遅くなり、成績処理の時もまた遅くなる、さらに校務分掌の会議では午前さまが連日なんてことも普通だったので、それを思えばがんばれる。 なんだか、同級生と机に並んで授業を受けていた事なんて遠くに感じられる、と朝ふと思った。 ともあれ、失敗続きの実験を重ねていた訳だが、先日も書いた「大学病院にブラックジャックはいるのか?」という帯のついた「大学病院に、メス!」(鈴木敦秋著、講談社刊)の心臓外科や脳外科での医療ミスの下りを読んでいるため、これを医療の場で行なったら確実に何人も殺しているな、と身の毛がよだち始め、さらにその中に、医療ミスの背景として「漠然と医療に携わる医師が多い」と何度か現場の医師の言葉として書いてあったので、「ああ、私の場合は、漠然と実験しているな」と反省した。漠然としていては、手許を見ずに作業するようなもので、何かを得るのは非常に難しい。 ラットの大きさが生後10日よりは大きくなり扱いやすかった事、そして私が慣れて来た事、さらにこの自覚があったからか、ともあれサンプルを多く取る事ができた(と思う)。 ++ さて、話は全く変わる。勤労学生もどき(?)をしていると、時々悔しくてなきたくなることがある。また、 白状すると、(母もそうだと思われるが)自分を上品で育ちのよい人間だと思いたいのだが(決して主義主張的な意味ではなくライフスタイルとして宮家や旧家が好きな母は、実際そういう育ちをしたとは思う)、実はそうではない、古い伝統や社交、親戚付き合いなどの(洗練された、とここでは言っておこう)から切り離された核家族であり、かといって、それが多数集まって知的な中産階級を形成する大都市に住んでいたのではなく、小さな集まりである地方都市であった事(なので、繰り返し日記に書いているかと思うが、大学院以降、就職などの現実に直面しなければならないまで、私にはずっと根無し草の感覚が強かった事)、かといって、全く品がない訳でもない(などと、大学に寝袋を持ち込んで実験をしようとする私の言う台詞ではないが)、というアンビバレントな感情である。 母は上品で優雅に子供達を育てたかったと思うが、自身は(想像するに、戦後民主化の時代背景もあり)古いしがらみや実家のカッコ付きの庇護から「自立」したく、女子大に入学し、雑誌「婦人の友」に出て来るような、上品さや女性らしさ、人間性を失わない知的職業婦人を目指したに違いなく、同時に、それゆえに家族の反対を押し切って「家柄」の懸け離れた父と結婚したに違いない。 そして、結婚してみて、自身が否定したかった、あるいは乗り越えたかった古い「家柄」という秩序を肯定するにいたったこと(どれだけ我々姉妹は幼い頃から「家柄が離れている相手と結婚すると苦労する」と聞かされて来た事だろう。そしてそれは同時に、大したモノでもない我が身を棚に挙げて、友人を選んだり、異性を見る目つきを厳しくし、ガードの堅い人間とする一因であった)。 同時に、私は決して父を軽んじているのではない。趣味をまねしたいとは思わないが、それでも父が学生の頃は、政治運動をしない限り娯楽はごく限られたものであり、その大部分を読書が占めていたので>映画「バルザック」、父も小説や歴史書を好んでいたようで、私が小さい頃、狭い住まいは本で溢れ帰っていたし、その影響を受けているに違いないし、さらに、当時の日本人の一つのモチーフであった違いないのだが、「努力して立身出世する」ということを父は文字どおり体現しており、中途で聴覚障害をえながら(現在でさえサポートが十分になされていないことが多いのだから、ましてや当時は障害者手帳と補聴器で御の字だったのだろう)、浪人時代からアルバイトと勉強に励み、さらに大学院まで奨学金3つとアルバイトで修了し、成績表には「優」(彼の出た大学においてはこれが最高の評定)しかなかった、論文で博士号を取りさらにアメリカに客員研究員として派遣されるまでは正月も帰らず(母には寂しかったと思うが)努力し、誇らしい父であった。現在のわたくしが、長々と学生生活を続けているのは時代もあるし家族の理解もある。同時に、その長さゆえに生活費を両親に頼りたいと決して思わないのは、やはり、時代が違うとはいえ、父のなして来た事への敬意による事が大きい。 だからこそ、私は腹が立つのであろう。上流上流、それを聞く私は一体何なのよ、そういう腹立ちは、私自身の、お上品な上流の暮らしをするでもなく、父のド根性を受け継ぐ私のねじれた感覚が引き起こすのだろう。 果たして、私は何をもがいているのだろう。何をしているのだろう。 -
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