一人で生きて行く、のだろうか? そして補償ということ。 - 2003年08月16日(土) この前帰省した時から、妹に「エッグegg」と呼ばれている。 今日は、「エッグや」と呼び掛けるメールが何通も来て可笑しかった。 ++ 予備校の個別指導をしていて、生徒がいうには、自分は絶対手に職をつけて一人でも暮らしていけるようにするのだという。医学部を目指している生徒だ。その他の道も探ろうとしているが、弁護士という職名が登場した。 手に職をつけるというとき、分かりやすいのは医師と弁護士かもしれないが、決してそれだけではない。美容師、看護師、職人、などなど、枚挙に暇がない。医師と弁護士は合格すれば、養成過程がわかりやすいかたちで見え、さらに、私自身がブンガクブの大学院でうまく(正確には満足が行くように)やらなかったのをあたかも今思えば補償するかのように医学部に入り直したように、他の道で自分の思うように行かず失敗と感じた人間が、補償するのに良い面を持っている、ということだ(勿論、方向転換してこれらの職業を選ぶ人間の全員、あるいは過半数が、補償しようと入ってくるとは思わない。ドライだったり、ウエットだったりするにしても、補償だけが方向転換の動機ではないからである)。 私も心当たりがあるし、周りにもサンプルがあるが、「一人で生きていけるように手に職をつける」ということで、得てして自立を先延ばしにしたり、自立へのプロセスを長いものを選んだりすることがあるのではないか、と思う例がたまにある。一人で生きていけるように、生きていけるように、といいながら、決して、中学校や高等学校、あるいは大学や短期大学を卒業してすぐに彼女や彼がいうように「一人で生きて行く」ことをしないのである。「一人で生きて行く」ための準備期感が周到に選ばれ用意される。 それは一体なんなのだろう。 実際には、「自分で食べて行く」という意味で「一人で生きて行く」のはもうちょっと簡単にできることであり(時給800円のアルバイトだとしても、家賃を抑えて贅沢をせず週5日働けば一人暮らしの生活費は稼げるのである)、同時に、「一人で生きて行く」のは、自らに起こることに対して他の人の助けを必要な場合は借りながらも生きて行くことなのかもしれないし、広げて究極的に考えれば、人間は社会的動物であり、「一人では生きて行けない」ことになる。 自立を促そうとする親の意識が逆に子に足枷になっているのだろうか? 或いは、それは親と子の共犯関係なのだろうか? ふと、思ったことである。 -
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