物に振り回されている私 - 2003年07月30日(水) 今日は物に振り回されているなぁと反省。 そもそも昨日、クレジットカード会社の明細を見て、予想以上に使っていて衝撃を受けたのだ。私がお小遣いとすべき額の、甘く見ても3倍、実際は4、5倍は使ってるんじゃなかろうか。 という訳で、出費を差し控えようと思ったのに、昼間ショッピングセンターに行き、インテリア用品を見て、可愛い柄のクッションカバーが安くなっていルのを見て友人のお祝がそういえばまだだったからと購入。さらにカバーだけではと中身のクッションも購入。かなりのボリュームだ。 さらに、気にいった柄のファブリックがもう売り切れていたので、同チェーン店を求めて京都駅の地下街へ。そこでも雑貨屋さんがバーゲンをしているのを見て、おっとコレはあの子の誕生日に、コレはあの子に、などと買ってしまう。 帰り道、満足感を越えて私はみじめな気持ちになっていた。またこんなに物を買って、またこんなに物を増やして、と。 ++ 買い物依存症というより、足りないと困るという飢餓感が強く、すぐ充足させようという傾向と、自由に物を買うことで、高校生まで、物を自由に買えなかったことへの補償をしているんだと思う。 一番下の妹の時には親たちは気が効くようになって月々お小遣いを与えていたが、上二人の時には、そもそもお小遣いなんか渡そうとしなかった。十分必要なものは与えている、と思ったのかもしれないし、或いは、父も母もそれぞれに自分のことで忙しく、子どもに与える小銭のことなんかに気が回らなかったのかもしれない。 小学校の高学年から中学生と言えば育ち盛りである。 服もどんどん小さくなったりする。ぱつんぱつんやつんつるてんは避けたい。 流行も、追う気はなくても少しは気になる。 そういった娘心は完全にムシされ、妹も私も、時々機嫌の良い時に服を買ってもらうか、或いは、欲しい服を自分でデザインするか、どちらかにだった。そう、その頃私は、家庭科で身につけた技術を引っさげて、生地を買って(確かにそのお金は母がくれた)、フレアースカート(結構簡単だった)やジャンパースカート、セーター、カーディガン、ブラウス、ワンピースを作った。ギンガムチェックの半袖ブラウスは今もあって、2、3年前に、さすがに母がいい加減そろそろ処分しようか(!!!!)などと言い出したが、私がまだまだ大丈夫だからとっておくといって止めた。今も、ある。 妹の方は、大学に入ってからせっせと良い生地を買って来てははじめの頃、スカートなど作っていたらしい。挙げ句、大学を卒業してから服飾の専門学校にも入ったが、その頃になるともう、自分の着るものを作って、ということはしていなかったんじゃないのかなぁ。。 だから、経済的に早く自立したかった。高校生の時、妹の前で母親に「早くひも付き財源は卒業したい」と食卓での会話で言ったし、母も笑って「じゃあそうしなさい」と答えた。 ところが、また不思議なもので、母は若い頃の靴で未だに玄関の靴いれを一杯にしているし・・以前妹と全部だしてみた時、30足くらいはまだまだはけるのがあって、びっくりした・・家を立てた時、2畳くらいの広さの両親専用のクロゼットもつくったのだが、そこもまた服や帽子やスカーフで溢れている。もう一生着ないのではという服も何十着とあるに違いない。若い頃の服が上質でまだあるというのに加え、しょっちゅう母の姉が要らない服を送って来るので、増える一方なのだ。 そして、それは私も同様で、山のように服があり(それがセンスよく揃えられているかとか、着こなしがイイかとかは別にして)、そういう風景を子どもの頃から見なれて来た。 おまけに、文学部時代、ゆっくりゆっくり自分好みの服を揃え、センス良いというお誉めの言葉を一部の固定ファン(!??)から頂くようになっていたのだが、院生の時に火事に遭い、それらを一瞬にして無くしてしまった。私が読みためた本も一瞬にして灰に帰した。阪神大震災や、遡れば戦災、関東大震災、あるいは個別の火災、それらに遭遇するとこうなるのだ、ということが身にしみて分かった。ただし、震災や戦災と違ったのは、あくまで個別だったため、周りの人から有形無形の援助を受けられたことである。家電、家具、洋服、居候先、楽しい企画、、、どれだけ助けられ、励まされたことだろう。 そして、また私は少しずつ集め始めた。時に昔の思い出の服を再び手に入れることを望むように。 話が横にそれるが、この時、大学生協の火災保険を全額支給して頂き、これは、決してマンションの購入資金の頭金にしてはならず、自分の力を世に還元するために使うべきだ、と強く思った。そして、大学院を出る時、これを新たに学ぶ学費に当てようと思った。 それはともあれ、モノに振り回されていてどうするのだ? 変な飢餓感と、あるのが当たり前という既視感が入り乱れている。 おそらく、飢餓感や焦燥と関係なく、必要なものの量はある程度決まっているのだろう。自分が卒論で大切にされるモノが芸術作品であり、モノを振り回してはならないのだ、とハイデガーを読んで書いたのが・・そしてそれは、詳しいポイントは忘れたが、良い着眼点だと評価されたのは・・皮肉である。 モノに、振り回されない自制心が必要なのだろう。 -
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