補 / 生活費・言葉、アメリカで(つづき) - 2002年12月13日(金) 今朝、未明から起き出して生化学の勉強の予定が・・洗濯物を手洗いして干すのに結構時間がかかり、大してはかどらず。おまけに、お弁当を作ったのに、電車で眠ってしまい、慌てて降りた時にお弁当とお茶を置き去りにして来てしまった(汗)。あーあ。。お財布落とすよりはいっか。。 ++ とある読者の方より、ワタクシが話しているのは、NHK的標準語というより、イントネーションやスピードなどの点で島根的標準語ではないか、方言より標準語を好むくせに英語は嫌いだったというのは権力という観点から矛盾する態度ではないか、という御指摘を受けた。しまね的標準語..そうかもしれない。一度だけ広島出身の人に「近い」とずばり「松江か津和野か」と当てられたことがある。聞く人が聞けば、イントネーションから判別可能らしい。我が姉妹はあまりカツゼツがよくなくて、くぐもったような声と話し方をしてるのもあるし。あと権力についていえば、おそらく私は権力、というか権威に弱い人間である。学歴とか、社会的立場とか、そういうことに対してすがるところのある、弱い、いささか自助努力と判断を怠るところのある人間なんだと思う。そしてまた、母の価値判断の態度に非常に似ていると思う。 英語についていえば、下に書いたようなこと・・権力を感じて小学生のアメリカ滞在中に英語を話そうとしなかったというのは、まず何よりも権力を感じたから、というより、間違えることを恐れたという方が実は近い。学校への登校初日、美術室に鉛筆を置き忘れた私は、日本でならったとばかり「ペンシル」と級友にいった(忘れるforgetは知らなかった)。が、それは通じなかった。描くまねでもすれば良かったのかもしれないが、それはキムという名の級友には「ペンシボー」と聞こえ、彼女は怪訝な顔で「ペンシボー?」と尋ね返した。「ペンシル、ペンシル」と私は繰りかえした。が、通じなかった。 そこで私は、それ以上日本でならっていったことばを話そうとするのがいやになった(新しく学ぼうという態度に欠けていた)。そして、同時に、日本でアメリカからお客さんが来た時、日本語を一切交えず父と母が自宅にて接待を卑屈なまでに一所懸命していた姿が思い出され、どうしてアメリカ人の人は日本に来たら英語で接してもらえるのに、日本人がアメリカに来てもそうはいかないのか、と子どもっぽい真直ぐさで腹が立ち、それ以上英語で話さないことに決めたのだった・・ これが私が小学生の時アメリカで英語を話そうとしなかったいきさつである。 ++ 先日書いたことの補足。 なぜ生活費を親から出してもらうと妹(上の妹)から文句が出るのか。 それは、妹が大学の被服学科を卒業したあと、パタンナーへの夢を実現すべく、服飾デザインの専門学校に入学した際、学費の100万だかを自分のバイト代で払ったことによる(親に文句いわれたくなかったんだろう)。そのくせ、私はのうのうと修士に入ってからも学費など親に当然のようには出してもらってたし、さらに留年したりしてたから、妹にしてみればだらしない姉だったことだろう(留年に関していえば、ノーベル賞を受賞した田中耕一さんが、やる気が出なくて大学2年の時留年を経験したということを今日テレビで始めて知った。人生、紆余曲折あっていいんだな、なんて思った)。 まぁ、そんな妹も卒業してから昨年までは服飾関連で働いていたけれど、観念したのか、昨年の11月から公務員を経て現在は半官半民みたいな会社で一般事務職員をやっている。 その他にも、一応私が今の学校に入り直すにあたって親が目くじらを立てなかったことの一つに、私が相応の貯金をしていて(入学時で500万円程度ありました。勤務年数の割に多い額と思います。放漫経営(?)により、現在は約半分になってるはず。ちなみに、6年間完全に自宅外で自弁しようと思えば、1000万円ほど必要と聞きますし、実際そうでしょう)もちろん、それはそれで親に生活費や学費を出してもらう大学院生をしながら、その間働いていた分は自分用にためていた、という、親の経済力に立脚したものではあるが)、生活費は自分で出すと言ったし実際少なくとも今は、自活していることが大きい。独立している、と親はみなしていて、安心しているし、それを少しは周りに対して誇りにしていると思う。 ++ ことば、出雲弁に対してアレルギーのあった私は、当然関西弁も何年も苦手だった。今は、うまく使えてはないけど、ツールの一つかなって思ってるけど。 そして、英語教員をやってたけど、アメリカに滞在していた小学生の時の私は英語嫌いだった。詳細はまた後日に書くことがあるかもしれないが、とにかく、英語がアメリカ合衆国という国の権力(政治的、経済的)を感じさせていやだったのだ。小学校2年にして、鋭い(?)子どもだったのかもしれない。 いや、一応、日本でアンビック(現イーオン)なる英語学校の子ども教室に通っていたし、登校初日には勇んで英語で話そうとしたのだけれど。 ともあれ、当然そのような子どもは学校で問題視され(特にアメリカでは、沈黙は美徳ではなかったので)、耳が聞こえないのか、から始まり、知能が低いのではないか、問題がある子どもではないか、と通っていた公立小学校の校長先生から両親宛に手紙が来たりもした。それでも子どもの我々にはおとがめが特になかったのだから、母はどうやって返事したのだろう。 あとになって、つまり、大学生になってから、少数言語を学ぶ旅行好きの友人が出来てからそのことを話したことがあった。彼女は、今までの友人と違う反応を示した。それは庇護されていて、話さなくても安全に生活できたからだ、言った。その通りだった。英語はパワーを感じさせて嫌いだと口を聞かなくてもスクールバスは朝になると私を連れて学校まで行ってくれたし、行けば午前中は英語を母語としないクラスでの授業が保障され、人種差別は特にない落ちついた学校であった。貿易黒字が問題視され、ジャパンバッシングが始まる以前で、それでもニューヨーク州の地方都市にもごくふつうにスーパーにはキッコーマンの現地工場のお醤油と、日清のカップラーメンが並び、サンリオのキティーちゃんのキャラクター商品がひっそりと流通していた。中国人か日本人かとしょっちゅう尋ねられたが、それを理由に子どもの世界で私は不快な思いをしたことはなかった。英語を母語としないこどものための教室には、世界地図がかかげられ、生徒の出身地にはその国旗がピンで止めてあった。バングラディッシュ、ベネズエラ、ナイジェリア、イエメン、韓国、その他数十ヶ国の国旗が踊っていた。日本人の少ない町だったので、お米は韓国人の経営する小さな食料品店でカリフォルニア米を買っていた。乾物の独特のにおいがした。お味噌は手に入らなかったので日本から送ってもらっていた(同じ時期に、日本人の多い大都市に行くと、お豆腐でも油揚げでもスーパーで手に入れることが出来たのは衝撃だった)。韓国の人の顔を見ると、どことなく黒い髪とモンゴリアンの風貌が懐かしかった。日本語の新聞は、1週間遅れで送られて来て、幾つかの日本人家庭の間で回し読みしていた。私も、日本語の新聞が来るのが待ち遠しかった。ニューヨークだとか、サンフランシスコだとか、大都市みたいに日本語の本を売っている紀伊国屋がなかったから、持っていった岩波少年文庫を、繰り返し繰り返し読んだ。現地に住んでいる日系2世のお兄さんは、日本語は流暢だったけど、読むのは骨が折れるといって、私が小難しい本を読んでいると驚いた。 そして、英語を話さなくても、子どもは、話したいという欲求を学校にいる間ちょっとおさえていれば済み、校長先生から両親が注意の手紙を貰うだけのことで、生活は安泰だった。週2日休みがあって、週末旅行にしょっちゅう出かけ、しょっちゅうホームパーティーがあった。輸入牛肉など日本ではまだ流通していなかった頃で、お肉が安くてど〜んと食べられるのは、食べ盛りの私には嬉しかった。美しい(そして人と調和した)自然に囲まれていた。 その点、少数言語を話す者は、往々にして経済的、社会的、政治的に弱い立場に置かれ、世の中によく流通している言葉を話さないと生活ができないことがままある。日本語を母語とする者が、日本語だけで生活できることは、幸せなのだ。 ことば、言葉。 -
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