| 2006年06月09日(金) |
裁判官は、最高裁判例の批判はしない傾向にある |
日経(H18.6.9)社会面で、交通事故で妊婦を負傷させ、緊急出産で生まれた胎児を死亡させた事件について、静岡地裁浜松支部は業務上過失致死傷罪の成立を認め、加害者に禁固1年8月の実刑を言い渡したと報じていた。
「胎児はいつから人となるのか」という問題は、殺人罪の成否と絡んで古くから議論がある。
判例は、一部露出したときから「人」となるという見解である。
この一部露出説からすれば、胎児に対する業務上過失致死罪は成立しないという考えもあり得る。
ところが、最高裁は、水俣病裁判で、胎児に病変を発生させることは、人である母胎の一部に病変を発生させたものであり、胎児が出生し人となった後、右病変に起因して死亡するに至った場合は、結局、人に病変を発生させて人に死の結果をもたらしたことになるとして、業務上過失致死罪の成立を認めた。
かつて司法修習生のときに、裁判官と一緒にこの最高裁判例の勉強会をしたことがある。
修習生のほとんどは、業務上過失致死罪を認めた結論は妥当であるにしても、最高裁の理論構成は不合理であるという見解であった。
というのは、最高裁は「人に病変を発生させて人に死の結果をもたらしたことになる」というが、「人に病変を発生させ」という「人」は母親であり、「人に死の結果をもたらした」という「人」は出生した胎児であるから、整合性がないのではないかという疑問があるからである。
これに対し、裁判官は全員一致で最高裁判例の理論構成を支持して平行線のままで終わった。
もちろん、裁判官の見解が間違いというわけではないが、もう少しいろんな意見が出てもいいではないかという気はした。
裁判官は本能的に最高裁判例の批判はしないものかも知れない。
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