山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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中学3年になると私も受験生になった。一家の収入を40歳を過ぎてから働きに出た母に頼る我が家では、進学も諦めなければならないかと真剣に考えたが、高専を受けろと父が勧めた。当時八戸市が県内での誘致合戦を制して、すぐ隣の地区に国立八戸工業高等専門学校が立地していた。私は自分でも理系が向いていると思っていた。小学生のころからラジオの組み立てをいじっていたし、卓球部の先輩も高専の電気工学科に進学していた。ところが父は土木を勧めた。なぜ土木?これからは開発の時代、土木建築が花形になるというのだ。
我が家の周りはリンゴ畑、ナシ畑だった。もちろんよその農地である。実が熟すことになるとその果実を目指して小鳥が集まってくる。つつかれると商品にならなくなる。ある時、隣のナシ畑の主が一斗缶を叩いて大騒音を立てながら鳥を追い立て始めた。初めは効果絶大であったが鳥たちも慣れてくると直ぐに戻ってくる。それはイタチゴッコになった。いたたまれないのは父である。日中在宅の父は毎日騒音に悩まされることになった。 ある日学校から帰ると父が一枚の官製はがきと原稿を用意して待っていた。 「この通り書いてポストに出してこい。筆跡は分からないように。」 それは 「私は受験生ですが、早く帰って勉強しようと思っても日中は騒音で身が入らず困っています。」というような内容だった。指示に従い投函してきた。数日後学校から帰宅すると、その農家の主が来ていて父とお茶を飲んでいた。話の流れら父はずっと白を切り通しているようだった。こんどは農家の主は葉書を私に見せながら矛先をこっちに向けてきた。 「これは、あんだが書いで出したのだがい?」 当然私も父の歩調をわせ、知らぬ存ぜぬを通した。そかし心臓は早鐘を打っていたので既に顔色に出ていたに違いない。でも主はそれ以上は言わずに帰って行った。 きっとバレたんだろうけれど、その後騒音は止んだ。そのおかげかどうか、私は八戸高専の土木工学科(現:建設環境工学科)に無事合格することができた。
入学試験の面接での出来事である。土木工学科の志望動機を訊かれた。橋梁やダムなどの土木構造物を造ることに希望と憧れを感じると話したところまでは良かったが、調子に乗って一言多かった。できれば「建築士」になりたい。すかさず土木の主任教授に「うちの科には建築士になるコースはありません。よその学校へ行った方がいいのではないですか。」私は焦った。しかしそこで父の言葉を思い出した。「困ったら測量士になりたいと言ってみろ。」この一言で再逆転。「それならうちの学校でも大丈夫ですね。」 合格発表までは気が気ではなかった。面接で父のアドバイスが効いたのかもしれない。
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