初日 最新 目次 MAIL HOME


活字中毒R。
じっぽ
MAIL
HOME

My追加

2008年10月11日(土)
花束を贈ってくれた小さな女の子への、某総理の「信じられないお返し」

『総理の辞め方』(本田雅俊著・PHP新書)より。

(この本の中で紹介されている、4人の総理大臣のエピソード)

【幼年時代から苦労を重ねたこともあり、Aは人情家であった。若い者が訪ねてくると、Aは決まって「メシを食ったか」と尋ねる習慣があった。少年・青年時代、満腹感を抱くことが少なかったAだからこその、温もりのある言葉である。Aが人望を集め、高い人気を誇ったのは、その根拠に血の通った人間臭さがあったからであろう。
 Aの人身掌握術は天性のものだったかもしれないが、苦労によって磨きもかけられた。一方、Aの官僚操縦術は、昭和20年代に数々の議員立法を手がけたことによって習得されたものだといえる。昭和30年の国会法改正前までは、議員は1人でも法案を提出することができ、その数はきわめて多かったが、実際に成立したものは少ない。しかし、Aはみずから政策の勉強を重ねて低学歴のハンディキャップを克服し、先輩・同僚議員や官僚への根回しを行いながら、道路三法など実に30本以上の法律を成立させている。
 もちろん、人心を掌握するため、人一倍、カネも使った。正確にいえば、苦労人のAにとり、カネこそみずからの気持ちを表現する数少ない手段のひとつだったのかもしれない。首相に就任したとき、ある祝賀会で小さな女の子から花束を贈呈されて感激したAは、すぐにその場で財布から一万円札を取り出して渡したという。周囲は驚いたが、それが「A」であった。「政治は数であり、数は力、数はカネ」との台詞からも、「A」が透けて見える。】


【その反面、Bは人望を欠いたともいわれている。竹下は、「怒る、威張る、すねるがなければ、とっくに総理になっている」と分析したことがある。年上の議員であろうが、人前で一喝することもあった。頭脳が明晰であることは誰もが認めたが、鋭利すぎたことが玉に瑕で災いしたのかもしれない。
 しばしばBには、孤高や孤独の形容が用いられた。確かに大勢の宴席は好まなかったし、群れをなして行動することも苦手とした。登山やプラモデル製作、写真撮影を趣味としたのも、独りが好きだったからかもしれない。さらに、記者の質問に対する答えでも、嫌みの一つや二つが入り、相手を閉口させることが珍しくなかった。
 しかし、見かけとは裏腹に、Bはシャイな人情家でもあった。突っ張ったり、強がったりする反面、寂しがり屋で涙もろかった。生後間もなく実母を亡くし、継母に育てられたからかもしれない。首相になってからも、執務室の扉を閉めることを嫌い、頻繁に秘書官室に顔を見せたのも、実は寂しがり屋の一面を持っていたからである。同僚議員の母親の葬儀に際し、気持ちを込めた直筆の弔辞を送ることなどは、テレビ画面に映し出される姿からは想像しがたかった。】


【しばしばCは永田町で「変人」といわれてきたし、人付き合いの悪さでは定評もあった。宴会にはほとんど顔を出さず、自宅でオペラなどを鑑賞することを好んだ。贈答文化の永田町にいながら、中元や歳暮、土産はすべて拒絶し、みずから人に贈ることもなかった。外遊の土産どころか、同僚の女性議員からのバレンタイン・チョコレートでさえ謝絶した。若干度を越していたかもしれないが、感覚からいえば、「永田町の常識」からかけ離れていた。さらにいえば、「感性が鈍る」との理由で、他人との議論も嫌った。記者からの質問にも、前置きを抜きにした答えばかりで、血液型がA型とは思えない言動が目立った。】


【そもそもDは首相を目指してこなかったし、その準備も皆無であった。首相就任を求められたときも、「どこの国の話じゃ」と一笑に付した。首相になると聞いたとき、病身のヨシヱ夫人は同情したという。
 Dがようやく政界から引退するのは平成12年のことである。平成17年には大分市内で交通事故を起こすが、元首相がみずから運転していることを知った国民は驚いた。首相になる前も、そしてなってからも、Dは紛れもなく市井の人なのである。ちなみに、阪神・淡路大震災のとき、ヨシヱ夫人はDにも内緒で被災地に赴き、一般の人たちに交じって黙々とボランティア活動に従事していたという。ある意味では似たもの夫婦なのかもしれない。】

〜〜〜〜〜〜〜

 さて、このA〜Dは、いったい誰でしょう?

 この本のなかでは、太平洋戦争後に総理大臣となった29人の人生、そして「辞めかた」が描かれています。福田康夫・前総理の辞任前に出版されているので、あの「私はあなたとは違うんです」については残念ながら触れられていないのですけど。

 このなかで、いちばん正解率が高いと思われるのが、まだ記憶に新しい、Cの元総理。
 Cは、つい先日、次の衆議院選挙には出馬しないことを発表した、小泉純一郎・元総理です。
 このエピソードを読んでいると、いかにも小泉さんらしいな、と感じる一方で、こんな協調性のなさそうな人が、よく総理になって、しかもあれだけの長期政権を乗り切ってこられたものだなあ、と不思議な気分にもなるのです。こういう人が会社の同僚だったら、絶対に「付き合いにくい人」だし、「みんなのリーダーになるタイプ」だとも思えないのに。

 次に(ある年齢以上の人にとっては)記憶に残る「総理」であったのは、おそらくAの田中角栄さんでしょう。
 僕が物心ついたときには、「ロッキード事件で捕まった、カネまみれの政治家」「陰で自民党を操るキングメーカー」という存在だったのですが、田中角栄という人の生きざまを辿ってみると、当時の国会議員の多くが「名家出身のサラブレッド」というなかで、「成り上がり者」としてのし上がっていくのは、さぞつらかっただろうなあ、とも思うのです。
【首相に就任したとき、ある祝賀会で小さな女の子から花束を贈呈されて感激したAは、すぐにその場で財布から一万円札を取り出して渡したという。】
このエピソードを「カネ至上主義の傲慢な男」の話だと考えるのは簡単だけれど、「自分の気持ちをこういう形でしか表現できない男」の話だと思うと、なんだかとても寂しくなってしまうんですよね。

 Bの元総理は、このエピソードだけを読むとちょっと小泉さんに似たキャラクターのようにも思われますが、橋本龍太郎・元総理です。橋本さんはすごい「切れ者」だったのだけれども、他人への気配りが欠けてしまう面があったようです。
 当たり前のことなんだけど、総理というのは、「自分の能力」だけではうまくやっていけない仕事なんだよなあ。

 そして、Dは、あの「眉毛のトンちゃん」こと、村山富市・元総理。見た目はあんな好々爺でも、実際はけっこう派手な生活をしたんじゃないか、なんといっても「元総理」だし……と思いきや、これほど「見かけどおり」の人も珍しいし、こんな人が日本の総理大臣になったことがあるのだ、ということに驚かされます。
 僕はこの村山元総理の奥様・ヨシヱさんのエピソードを読んで、すごく感動してしまったんですよね。ああ、こんな「ファーストレディー」が日本にもいたんだなあ、と。
 しかしながら、この「阪神淡路大震災に対する対応の拙さ」が、村山総理の危機管理能力不足を露呈し、辞任につながったのですから、歴史というのは本当に皮肉なものだなあ、と考えずにはいられません。

 こうして、「日本の総理大臣」たちについて考えてみると、「理想のリーダー」っていうのは「頭のよさ」とか「人柄」だけではないし、「リーダーとして求められるもの」は、時代によって違っているのだ、ということがよくわかります。
 「どうあがいても短命政権に終わるしかなかった」という厳しい状況で「登板」してしまったために、何もできなかった人も多いのですよね。
 そういう意味では、小泉さんって、「強運の人」であり、「その強運を維持することの天才」だったのでしょう。総裁になるまでは、「勝ち目のない総裁選に出馬し続ける変人」だとみなされていたのだから。