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2006年04月28日(金) ■ |
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木村拓哉、松たか子、『HERO』を語る |
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「松のひとりごと」(松たか子著・朝日新聞社)より。
(TVドラマ『HERO』の収録時を振り返って)
【「貴方にとってのヒーロー像は?」 ドラマの収録中に受けた取材で、何度となく尋ねられた質問である。 私は答えた。自分の夢や目的に向かっていく努力やその過程を楽しめる人ではないか、と。辛いこともすべて楽しめる心が、人を豊かにするような気がする。「ヒーロー」というのは、限られた人間にしか与えられない称号ではなく、誰もが生まれながらにして持ち合わせている資質のようなものではないだろうか。男女問わず、すべての人がなれるもの、形に残るだけではない志のようなものではないだろうか。 共演者同士、同じ取材を受けることが多かった木村さんは、彼らしい簡潔な答え方をしていた。 「熱くて、本気で、スケベな人」 それが答え。「本気」という言葉が私の心にひっかかった。本気でやれば本気で疲れる、本気でやればその分必ず自分に返ってくる、本気で……。 そう言えば、『HERO』のテーマが、我々作り手を”本気”にさせてくれたのかもしれない。
(中略)
思い出したことがある。 以前、『天涯の花』という芝居を演ったとき、一連の宣伝の中で、原作者の宮尾登美子先生とお話をさせていただいたことがあった。そのとき、宮尾先生は、こんなことを言われた。 「思うように生きなさい。それがどんなに辛くても、思うままに生きなさい」 思うようにする、一見自分勝手にも聞こえるが、それは相当のエネルギーが要ることだと思う。自分の意思、かなり強力なバイタリティがないと、自分で自分にのみ込まれてしまいそうな話だ。 しかし、もしかしたら、「思うように生きる」ことが、現代を象徴する、そして、現代は必要とするヒーロー像なのかもしれない。】
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7月にスペシャルが放送されることになった、人気ドラマ『HERO』なのですが、出演されていた松たか子さんは、こんなふうに、「自分のヒーロー像」を語っておられます。これを読みながら、僕も自分にとっての「ヒーロー像」をずっと考えていました。 僕は典型的なヒーローに対して、「ケッ、格好つけやがって!」なんて斜に構えてしまういけすかない子供だったのですが、思い返してみると、タイガーマスクとか、アントニオ猪木、歴史上の人物では、諸葛孔明、ああそうだ、海賊コブラは僕にとっては「ヒーロー」だったなあ、とか、いろいろ出てくるものですね。怪傑ズバットとか、まさに「熱くて、本気で、スケベな人」でしたし。それにしても、キムタク、けっこう良い事言うなあ、とか、思わず感動してしまいました。ただ、考えてみると、孔明とかは「憧れの人」ではあっても、「ヒーロー」ではないかもしれません。やっぱり「ヒーロー」っていうのは、「どんな苦境でも前向き!」じゃないといけませんから、あんまり深刻な表情が似合ってはいけないんですよね。それこそ、周りが「コイツ本当は何も考えていないんじゃないか?」と思うくらいの明るさがなければ。 そういう意味では、長嶋さんというのは「ヒーロー」だし、新庄選手も「ヒーロー的」な人ですよね。僕は巨人は嫌いだけれども、今になって、あの長嶋さんに自分の親の世代が惹かれていた理由がわかるような気がしてきました。
もちろん、「ヒーロー像」というのは人それぞれなのだとは思いますが、いつの時代にも、きっと「ヒーロー」は存在するのです。 ある高名な歴史家は、「英雄がいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代は、もっと不幸だ」なんて言葉を遺しているのですが、やっぱり、いつでも、誰の人生にも、「心の中のヒーロー」はいるのですよね。
うーん、僕に真似できそうなのは、せいぜい、「スケベ」くらいか……
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