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2005年01月03日(月)
「被災者への配慮」と手拍子のない音楽会

共同通信の記事より。

【初春のウィーンの恒例行事、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートが一日行われ、スマトラ沖地震の被災者への配慮からクライマックスの「ラデツキー行進曲」を演奏しないなど、例年よりも祝賀色を抑えた演奏会となった。
 ラデツキー行進曲はヨハン・シュトラウスの作品。軽快で楽しい曲のため、コンサートでは毎回最後に演奏され、聴衆が手拍子で新年を祝う。しかし今年は指揮者のロリン・マゼール氏らから「被災者が苦しんでいる中でそぐわない」との声が出たため、ワルツ「美しく青きドナウ」でしめくくった。
 コンサートにはドイツのシュレーダー首相が招かれていたが、地震の対応のためキャンセル。約三十枚の空席チケットはオークションで完売し、売り上げ約八百七十万円は被災者支援に寄付された。】

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 こういう「自粛」というものに対しては、「当然のこと」と感じる人と「偽善」だと感じる人がいるのだろうな、と思います。「苦しんでいる人がいる中、明るい曲で自分たちだけ新年を祝うなんて!」というのも、「そういう時だからこそ、むしろ明るく新年を祝うことに意義がある。被災者の人たちだって、暗い気分でばかりはいられないだろうし」というのもわかりますし。
 日本では、紅白歌合戦の一番最後に歌った小林幸子さんが、「中越地震の被害者に配慮して」恒例になっていた豪華衣装を封印したことも話題になりました。そのことに対しても、「衣装を地味にすれば、それでいいのか?」「むしろ、あの豪華衣装を楽しみにしている人だって多いのではないのか?」という意見も出ましたよね。意地の悪い見方をすれば、小林さんにとっては、あの地震というのは、自分をアピールする機会にもなったわけだし。もしあの災害がなければ、小林さんが「大トリ」ということもなかったでしょう。もちろんその一方で、「小林さんの歌で励まされた」という人も少なくないのも事実。

 こうしている間にも、世界各地では飢餓で苦しんでいたり、犯罪に巻き込まれて命を落としている人たちがたくさんいます。極端な話、24時間、365日ずっと「自粛期間」であってもおかしくないくらいに。そういう意味では、こういう「自粛」なんていうのは、「直接被害を受けていない人間の欺瞞」でしかないのです。こういう「自粛」というのは、単に「幸運な人間であること」への後ろめたさを表に出して、自己満足に浸っているだけなのかもしれません。

 そういえば、テレビで、被災者たちがいちばん励まされた曲は、平原綾香さんの「ジュピター」だという話を聞きましたが、実際に自分が被災したらと考えると、普段と違う落ち着いた音楽ばかり聴いてもいないだろうし、明るい曲や楽しい曲だって、同じように聴くのではないかと思うんですよね。「マツケンサンバ」に励まされる人だっているのだろうし。もちろん、被災直後は明るい曲に、かえって暗い気分になったとしても、「生き続ける」というのは、いろんなものをバランス良く取り入れていくことなのではないかなあ、と。

 もっとも、こうやって「自分が被害者でないことへの後ろめたさ」を感じるというのは、「ざまーみろ」とか思うよりは、はるかに健全であるような気もするのですが。
 いずれにしても、「自粛する側」であるというのは幸福なことなのでしょうし、「自粛」から一歩踏み出して、形のある支援をしていくことが大事なのだろうけど。