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2004年11月09日(火)
「偉人」野口英世、その栄光と挫折と狂熱と。

福島民報の記事より。

【新千円札の“顔”として話題の猪苗代町出身の細菌学者・野口英世博士が、書生として青春時代を過ごした会津若松市の会陽医院で仲間と写っている貴重な写真が西会津町で見つかった。渡部鼎(かなえ)院長のもとで書生長を務めた同町出身の長谷沼兵作(のちに票策)の子孫に当たる長谷沼勉さん(49)=農業、同町新郷冨士字井戸尻1088=宅の土蔵に、他の数枚とともに眠っていた。新札の登場に合わせたように日の目を見た博士の若き日の面影に、関係者の関心が高まっている。

[会陽医院で撮影/机の上、両手見せる]
 スナップ写真の1枚は会陽医院内の一室。書物などが積まれた机のそばで博士と書生の長谷沼兵作、斎藤根之吉の3人が写っている。野口博士は写真に写る時、手術した左手を隠しているケースが多いが、この写真では両手を机の上に見せている。写真の裏には明治27(1894)年との記述があった。
 野口博士は16歳だった前年の同26(1893)年5月から約3年間、医術開業試験受験のため、やけどをした左手の回復手術を受けた縁で渡部院長の会陽医院に住み込み、基礎医学や語学を学んだ。一方の兵作は、渡部院長の父思斎が西会津町で開いていた私塾「研幾堂」で学んだのちに会陽医院の書生となり、野口博士ら後輩の面倒を見ていた。のちに渡部院長が代議士になると一緒に上京したともいわれる。勉さんによると今の行政書士のような代書業を営んでいたという。昭和7年、東京で59歳で亡くなった。
 一緒に見つかった写真は庭でのスナップ、渡部院長のポートレートなど。野口博士の医学の道へのスタートとなった若松時代の写真はごくわずかしか残っておらず、野口英世記念館の八子弥寿男館長は「これらの写真は初めて見るもので、特に院内と建物の写真は珍しい。新千円札発行とともに、11月9日に博士の誕生日を迎えるに当たり、日の目を見たのは大変意義がある」と話した。】

記事全文+写真は、こちらからどうぞ。

参考リンク:
ひたすら一途…「狂熱」の人(野口英世博士を題材にした小説「遠き落日」を書かれた、渡辺淳一さんが野口博士を語ったインタビュー記事です)。

Doctor's Ink
『千円札の人・野口英世、その生涯について』
       
『野口英世・人類のために生き、人類のために死せり』

〜〜〜〜〜〜〜

 今日、11月9日は、新千円札でふたたび脚光を浴びている、野口英世博士の誕生日なのだそうです。父親から「家は貧しく、左手が火傷で動かないにもかかわらず、不屈の努力で当時の日本では稀有な世界的学者になった偉人・野口英世」の話をさんざん聞かされた僕からすると、大学時代に渡辺淳一さんの小説で読んだ「遠き落日」での、酒好き・女好きで、身近な人々から多額の借金をしまくり、自堕落な生活を送りつつも研究の鬼でもあったという野口英世像は、衝撃的なものでした。裏を返せば、「研究熱心なこと意外は、単なる『困った人』でしかなかったともいえるわけで。
 実際に、野口博士の業績というのは、医学の世界では「黙殺」されているに等しいもので、高校の歴史の時間に名前が出てくることはあっても、医学部の細菌学の講義で名前が出てくるということはほとんどなかったですし。
 ただ、野口博士の業績が「誤っていた」原因は、渡辺さんも仰っておられるように、野口博士が追っていた病原体が、「細菌」ではなく、当時の顕微鏡では診ることができなかった「ウイルス」であったためですから、「運が悪かった」としか言いようがない面もあるのですが。
 野口博士の一般的なイメージというのは、「左手のケガ」と教科書に載っていた「お母さんのシカさんの手紙」と「黄熱病の研究中に、アフリカで客死」というものだと思います。でも、そういう「偉人・野口博士」と「人間・野口英世」のギャップが18歳の僕には失望を与えたのは「失望」でしたが、今になって考えると、そういうコンプレックスや自堕落な面も併せ持っていて、自分の野心とか欲望に忠実な人というのは、ものすごくリアルで「人間らしい」存在だと感じられます。もちろん、実害を受けた人たちは、それどころではないとしても。
 「偉人」レベルではなくても、実際に僕たちの周りにいる「凄い人」というのが、身内からみれば「困った人」「扱いが難しい人」であることは、けっして珍しいことではありませんし。
 「偉人」というのは、「違人」であるのかもしれませんね。
 渡辺さんの「狂熱の人」という言葉は、とにかく溢れる自分のエネルギーを何かにぶつけて生きざるをえなかった野口英世という人を、よく表現した言葉だと思います。参考リンクの『野口英世・人類のために生き…』に書いたように、日本では「業績が誤っていた」ということで医学界からは「黙殺」に近い扱いを受けている野口博士ですが、海外では研究者としての姿勢そのものが評価され、尊敬されている国もあるのですから、少なくとも「間違った生涯」ではなかったと思います。

 それにしても、前にも書いたのですが、樋口一様さんとか野口さんとか、生前お金に困っていた人たちが相次いでお札のモデルになるというのは、なんだか皮肉な感じもしなくはないのです。