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2004年09月21日(火) ■ |
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それは、まぎれもなく「凶器」なのに。 |
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読売新聞の記事より。
【乗用車とカーチェイスをした末、タクシー運転手(当時60歳)ら2人を死傷させたとして、危険運転致死傷罪に問われたタンクローリー運転手の平井悦夫被告(54)に対し、最高裁第1小法廷(島田仁郎裁判長)は、上告を棄却する決定をした。
決定は17日付。懲役6年とした1、2審判決が確定する。カーチェイス行為に危険運転致死傷罪が適用され、有罪判決が確定するのは異例。
1、2審判決によると、平井被告は2002年5月29日午前4時ごろ、東京・神田の都道で、乗用車に追い越されたことに腹を立て、同車と時速90キロ近くであおり合った末、衝突のはずみで反対車線に飛び出して、対向してきたトラックと正面衝突。トラックは横転し、道路脇に客待ちで立っていたタクシー運転手の男性をはねて死亡させた。トラック運転手も2週間のけがを負った。】
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まあ、これでも懲役6年でしかないわけで、亡くなった方や遺族はいたたまれないだろうなあ、と僕は思うのです。 僕の経験上、世の中には「車を運転していると人格が変わる」という人は、けっして少なくないので、この「カーチェイス運転手」が、普段どんな人かはわからないし、そもそも、カーチェイスの相手をした乗用車の運転手には責任はないのか?とも考えてしまうのですが。 しかしながら、僕も運転していて、トラックとかの大型車のマナーの悪い運転手の多さには、本当に辟易することが多いのです。彼らも仕事はキツイのだろうし、時間制限などもあってイライラしているのでしょうが、だからといって、ああいう大きな車で煽ったり幅寄せされたりすると、被害者側には加害者側が意識している以上の心理的圧迫感があるものです。だいたい、大きな車のほうは、どうせ自分はぶつかっても死なないとか考えているのではないかなあ、とか。 そういう「荒っぽい運転」を「男らしい」とか勘違いしているような風潮もありますしね。
僕は先日事故にあったこともあって、どうも最近車の運転をすることが怖くて仕方がありません。 「ボウリング・フォー・コロンバイン」という映画を観て、「銃が氾濫しているアメリカ社会」というものについて考えさせられたのですが、それなかで、アメリカで銃によって亡くなられた人の数は、年間1万1千人、という数字が挙げられていました(ちなみに、日本は39人だそうです)。 日本での交通事故による年間の死傷者数は、平成15年度で7700人(ただし、これは事故後24時間以内に亡くなられた人の数で、それ以降に事故が原因で亡くなられた人の数は、もっと多くなります)。車というのは、ひとつ間違えば強力な「凶器」となりうるものですし、銃のように「悪意を持って使用」しなくても、自分や他人を傷つけてしまう可能性を十分に持っているのです。 「自動車」というのは「銃」よりもはるかに大きな産業になってしまっているため、「車の危険性」についてメディアで大きく取り上げられる機会というのは、その危険性に比べたらはるかに少ないのですけど。 確かに、車という移動手段は便利で、一度使い始めたら手放せないところがありますし、今の社会自体が「車があること」を前提に動いていますから、もはや、車ナシの時代には戻れない、というのが現実なのでしょう。 車の事故には、正直言って「自分が運転していても、同じような事故を起こしていただろうなあ…」というような「不可抗力」と思われるものもけっこう多いのですが、それにしても「避けられる事故は避けたい」とは思うのです。 こういう「カーチェイス」とかは、まさにその冠たるもので。 「名誉を傷つけられた」と思うのかもしれないけれど、人間にとって「命がけで自分の勇気を示す機会」なんていうのは、そんなくだらない状況以外に、もっともっとたくさんあるはずなのに。 この「ちょっとカッとしてしまって、カーチェイスをしてしまった」というだけのことで、少なくとも被害者と運転手の2人の人生が大きく捻じ曲げられてしまいました。 もちろん、運転していたらイライラすることだってありますが、「カーチェイスをする勇気」よりも「そんな自分のカッとする気持ちを抑える勇気」を持てなくては、車に乗る資格はありません。 車の力を自分の力だと過信して乱暴な運転をする人は、銃を持っているおかげで気が大きくなる人間と同類なのだから。
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