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2004年05月02日(日) ■ |
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温泉で「のんびり」なんてできるものではない。 |
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「まだふみもみず」(檀ふみ著・幻冬舎文庫)より。
【「温泉」と「のんびり」は、どうやら一対の言葉となっているらしい。 「年寄りは、のんびりと温泉につかって、昼寝でもするのが一番さ」 映画『東京物語』(小津安二郎監督)の老夫婦も、子供たちにそう言われて、熱海へと送り出される。しかし、二人はなかなかのんびりできない。宿に溢れる酔客のさんざめき、夜通し聞こえる麻雀の音……。 私も温泉に行くたびに、老夫婦と同じ居心地の悪さを味わう。忙しく廊下を駆け回る仲居さんたちのスリッパの音、かん高い声。どこやらから聞こえてくる、カラオケの音。 せめて朝ぐらいゆっくりさせてほしいと思うのだが、小心者の悲しさ、寝起きを襲われたくない一心で、起こされる前に起き出し、ついぞ食べたこともないような早い時間に、朝ご飯などを食べている。 はっきり言おう。温泉で「のんびり」なんてできるものではない。「のんびり」できるとしたら、その人はよっぽど豪胆か、よっぽど横着なのである。広い湯船で思い切り手足を伸ばす。小心者の「のんびり」は、そのほんの一瞬で消えていってしまうのだ。 それでもなお、「ああ、のんびりしたい」と温泉を求めてやまないのはなぜだろう。】
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たぶん、こういうのって個人差がけっこう大きくて、「温泉でのんびりできないなんて、とんでもない!」という人もけっこういるのではないかと思うのです。でも、僕は環境が変わると落ち着かないほうですし、檀さんが書かれていることって、よくわかるような気がします。 だいたい、不眠症の人が「眠らなきゃ!」と思うとかえって眼がさえてしまうように「せっかく温泉に来たんだから、のんびりしなくちゃ!」とか考えてしまう時点で、すでに「のんびりの負け組」であるわけで。 もっとも、日頃家事に追われている女性などは、それから解放されるだけでもかなり物理的にだけでも「のんびり」できるものなんでしょうけど。
僕も「のんびりしたい」というような欲求はあるのですが、どうも「温泉でのんびり」というのは難しいんですよね。その理由としては、一緒に来ている誰かに対して気を遣ったり、遣われたりということもあるし、「どうしたら、のんびりしていることになるんだろう?」とか考えてしまう、ということもあるのだと思います。 温泉があれば「せっかく来たんだから、2回くらいは入らないと勿体ない」とか、もうちょっと長湯しないと損だよなあ、とかついつい貧乏性にもなってしまいますしね。 普段はコーヒー1杯で済ます朝ごはんをおかわりして、胃が激烈にもたれてしまうようなこともあるしなあ。 湯船につかりながら、「帰ったら仕事だなあ…」とか憂鬱になったりもするし。
たぶん、「温泉でのんびりできる人」というのは、「温泉じゃなくても、のんびりできる人」なのだと思うのです。そういうのはもう、すでに「性分」なのかもしれないけど。
とはいえ、環境を変えるというのは良い刺激にもなりますし、僕も田舎の温泉で川のせせらぎとかを聞くのはキライじゃないんですけどね。 とりあえず、仕事場を離れてしまえば、「どうせここにいる限り、仕事はできないし」なんて開き直れる面もあります。
ところで今、ふと思いついたのですが、こういう「のんびりできない症候群」って、ひょっとしたら、子供の頃の親の影響が大きいのかもしれませんね。 僕の父親は、旅館に着くなり「ほら、風呂入りにいくぞ!」出たら「散歩に行くぞ!」という感じで、まったく落ち着かない人間だったものなあ…
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