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2003年07月17日(木) ■ |
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「駿ちゃん、ごめんな」って言われても… |
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共同通信の記事より。
【「今まで僕らは、何を教えてきたつもりだったのだろう。駿ちゃん、ごめんな」。長崎市の種元駿ちゃん(4つ)が殺害された同市万才町の立体駐車場脇に16日、「中学教諭」を名乗る匿名の人物からこんなメッセージが置かれていた。「中学の教師として本当に申し訳ない」。ワープロ打ちの文章の行間に、責任感と無力感があふれていた。 「大人がこんだけまわりにいて、助けてあげられなくて本当にごめんね。前の長崎はみんなの顔が、お互いに見えとった」と教諭は悲しむ。 「駿くんのことを、生徒と一緒に語り合いました。命を命と思わない心、自分自身の中にもあるかもしれない邪悪な心と対決していく誓いを交わしました」とし「教師である限り、それを続けます」と天国の駿ちゃんに誓っている。 現場の駐車場脇の歩道には、事件発生直後の2日夕から花束やジュース類が供えられはじめ、2週間で長さ約20メートルに及んだ。】
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僕は最初、この記事の見出しを読んで、加害者の中学校の先生かと思ったのですが、違うみたいですね。 ああ、立派な先生だなあ、と思う一方、正直、ちょっと違和感を感じるところもあるんですが。 それは、「この先生が、そんなに責任を感じるべきことなのか?」ということ。 例えば、僕の仕事である医療でいえば、地元の病院で医療ミスが起こって、患者さんが亡くなられたとしましょうか。そのときに、僕は「同じ医者として本当に申し訳ない、亡くなられた患者さん、ごめんなさい」なんて思わないでしょう。 ヒドイことをやる医者がいるもんだ、とか、自分も気をつけなければ、と感じるのではないかなあ。 24時間テレビで、飢えに苦しむアフリカの人々を観たときに、僕たちの多くは「かわいそうだなあ」と思うし、「なんとかしなければ」とも感じるはずです。 そして、いくばくかのお金を募金するのですが、だいたいは、そこで終わってしまいます。 「アフリカの飢餓は、自分の責任だ」なんて思って、全財産を寄付するような人は(ほとんど)いないわけで。
僕は、子供の頃は、食卓の魚を見れば「魚がカワイソウ」だと思うし、肉を見れば、「牛さんがカワイソウ」と悲しくなるような子供でした(本当だってば)。 ずっとそのままの人生を送ってきたら、きっと何も(というのはオオゲサですが)食べられなかった。 もちろん、「ゴメン」という気持ちが完全に消えてしまったわけではないけれど、今ではそれをマヒさせて生きていけるようになりました。 言葉は悪いけど、最低限は「非情」になれないと、この世界というのは、とてもとても生きていくには難しい場所なのです。 何でも「自分の責任」と考え始めても仕方がない。 たまに、全然その人に関係ないことを「ごめんね、私が悪かった」とひたすら謝る人っていますけど、「それは、単なる自意識過剰なんじゃない?」としか思えないし。
駿くんの事件は、もちろん、この先生のせいじゃありません。 たぶん、加害者の中学生の担任の先生にすら、あまり責任はないと思います。偶然、この事件を起こしたときに担任になっていただけ、なのではないでしょうか。 この事件をきっかけに、命の大切さを考え、教えるのは大事でしょうし、そういう一人一人の先生の努力の積み重ねが、将来的には悲劇を防いでいくのだと思います。 でも、「ごめん」っていうのは、ちょっと違うような… まあ、こういう「美談」を意図的に作り上げようという報道姿勢にも問題があるんでしょうけど。
だいたい、「命の大切さを教えられる先生」よりも、「教え子1000人に1人くらいヘンな奴が出てくるかもしれないけれど、生徒の偏差値を上げられる先生」のほうが、世間や親の評価は遥かに高い、というのが、現実なわけですから。 情操教育に力を入れるヒマがあったら、勉強させてくれ、っていうのが本音の親って、けっこう多いと思いますよ。
実際は、「お互いの顔が見える長崎」なんて、若者たちは、ほとんど誰も望んでいなかったりもするわけですし。
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