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2003年05月07日(水) ■ |
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永遠の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 |
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「ダ・ヴィンチ」2003年5月号の記事より。
(村上春樹さんによって新たに訳された永遠の青春小説「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の魅力を探るための、巽孝之さんへのインタビューより)
【巽「物語の中で青春を完結させるには主人公が大人に成長するか、または殺してしまうのが一番簡単な方法ですが、サリンジャーはホールデンの行く末を留保する。つまり読者に向けて物語を解放したわけです。たとえば、マルコム・クラークの最新映画『ライ麦畑をさがして』などもロマンティックな解決を提供している。こうした空想の余地を残しているところが最大の魅力かもしれません」 とは言え、大人になって体制に順応する「その後」のホールデンは想像したくない。そもそもそんな無様な姿を見せるくらいなら、彼は永遠の16歳であり続けることを自ら志願しただろう。】
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「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、1951年にJ.D.サリンジャーによって執筆され、邦題「ライ麦畑で捕まえて」として、長く日本人にも親しまれてきた作品です。 最近、村上春樹さんによる新訳が出版され、また話題になっています。 「青春の完結」は、主人公が大人になるか死んでしまうか、というのは、確かに事実だと思います。「永遠の青春」なんて言っている人もいるけれど、口説き文句でなければアダルトチルドレン、とうことになってしまいます。 僕たちが「青春」の代名詞として思い浮かべるような、ランボー(スタローンのじゃなくて、詩人のほうです)とか、ジェームス・ディーンとか、日本で言えば、尾崎豊といった人たちは、みんな若くして命を落としています。 やっぱり「青春のメロディー」なんて番組に出て、口に糊するために「あのころは若かった」とか言いながら、「この支配からの、卒業」と歌っている50歳くらいの尾崎を見たら、多くの信者たちは幻滅するでしょうし。 でも、人間生きていれば年もとるし、いつまでも若くはいられない。 「年の割には若い」と言われることは可能だとしても。 それにしても、「青春」っていうのは、そんなにいいものなんでしょうか? 僕の10代後半なんて、つまんないことに悩んでばっかりで、そのくせ、何かをやる力は情けないほどなくって、辛い時代だったような記憶しかありません。 前述したランボーとか尾崎豊にしても、客観的にみて、彼らがその時代に幸せだったような気がしないのです。もちろん、世間には「すばらしい青春時代」を送った人がたくさんいるでしょうけれど。
サリンジャーは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を30代前半に書きました。 僕は、高校生の書く青春小説って、どこにも行き場のないような話が多くって、老大家が書く青春小説って、無防備なまでの青春賛歌が多いような印象を持っています。 人は、昔のことはどんどん濾過されて、甘美な記憶にしていく傾向があるみたい。 そう、映画「タイタニック」の年老いたローズのように。 30代前半、というのは、その2つの過渡期にあって、「青春」とやらを語るにはちょうど良い時期なのかもしれません。 だいたい「永遠の16歳」なんてことが許されるのは、空想の世界の特権なんだよなあ。 一生懸命現実に適応して生きる人間だって、僕は美しいと思うんだけど。
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