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2003年04月12日(土) ■ |
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「まっとうに生きる」ということの意味。 |
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「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」(井上ひさし他、文学の蔵編・新潮文庫)より。
(井上ひさしさんの「作文教室」の一節から)
【井上「中学生のころ、一関(いちのせき・岩手県の地名)にご厄介になったことは昨日、お話ししました。その当時、目抜き通りに大きな本屋さんがありました。ある日、僕が覗きに行くと、おばあさんが店番しているだけなんですね。当時は生意気盛りでしたから、冒険というか、いたずらというか、おばあさんの目を盗んで国語の辞書を持ち出そうとしたんです。 そしたら、見つかってしまった。 僕はおばあさんに店の裏手に連れていかれました。そして、こう言われたのです。 『あのね、そういうことばかりされると、わたしたち本屋はね、食べていけなくなるんですよ』 そして僕は、その場で薪割りをさせられたんです。 僕はてっきり薪割りは罰だと思っていました。ところが、それだけではなかったのです。 薪割りが終わると、おばあさんが裏庭に出て来て、その国語辞書を僕にくれたんです。それどころか、『働けば、こうして買えるのよ』と言って、薪割りした労賃から辞書代を引いた残りだというお金までくれた。 おばあさんは僕に、まっとうに生きることの意味を教えてくれたんですね。 そういう思い出がこの一関にはあるんです。僕の『長期記憶』に、今でもしっかり残っているんですね…。」】
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もう、僕は何も言う必要がないくらい素晴らしい話なんですが。 たぶん大部分の人は、なるべくラクして生活していきたいし、多少のズルイことでも、慣れてしまえば、そんなに抵抗感は無くなってしまうんじゃないかと思うのです。 よく、「悪いことをした子供は、ちゃんと大人が注意しなくてはいけない」と言いますよね。自分で実行できるかどうかはともかく、僕は、その意見には賛成です。 それにしても、このおばあさんの凄いところは、叱るだけじゃなくて(いや、叱ってすらいないのか…)、「働いて何かを買う」という行為が人間に与える満足感を井上さんに教えてあげたことにあると思います。 もちろん、こういうのは年寄りの子供への甘さだととれなくもないのですが。 たぶん、子供が薪割りをした代金としては、その辞書と労賃は過分なものだったと思われますし。 でも、きっと井上さんにとって、この体験は「まっとうに生きる」ということの充実感を知る大きなキッカケになったのでしょうね。
僕も、ラクして、要領よく生きていけたらいいなあ、といつも思いながら働いています。 でも、こういう話を聞くと、普通の人が普通に働いてお金を稼いで、それで生きてくってことは、とても立派なことなのではないかなあ、という気がしてくるのです。 本当にカッコいい生き方っていうのは、意外と平凡に見えるものなのかもしれませんね。
それにしても、本屋さんの生活っていうのは、昔からそんなにラクじゃなかったんだなあ。
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