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2003年01月19日(日) ■ |
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「2ちゃんねるは自由なメディアである」という幻想。 |
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「2ちゃんねる宣言〜挑発するメディア」(井上トシユキ+神宮前.org著・文藝春秋社)より。
【情報を知りたい人がいて、情報を言いたい人がいる。そこに場所さえあれば情報の流通が始まり、コミュニケーションがスタートする。 元来、メディアの姿とは、そのようなものだったのではないだろうか? 武田信玄についての逸話がある。 信玄が、甲斐の領内にいくつもの防御のための石垣や壁をつくったことは良く知られた事実だ。 ところが、領民や領内を通行する人々が、次第にその石垣や壁に信玄についての上方や他領での評判、領民による告発や戯れ話など、さまざまなことを書き記すようになった。 これを知った家臣たちは、けしからんと怒り、落書きするものは捕え、書き込みは消してしまえと命じた。だが信玄は、その落書き自体が貴重なインフォメーションであると気付いていたので、そのままにさせたという。 つまり、信玄は情報と情報を自由に流通させるメディアの重要性を知っていた。 もって学ぶべし、という話である。 どうだろう、現在の「2ちゃんねる」の姿にそっくりではないか。】
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情報を自由に流通させるメディアの重要性、という話なのですが、まあ、若干持ち上げすぎの感もあるような気がしますけど。 確かに、既成のメディアというのは、どうしても「伝える側の都合」によって、フィルターがかけられてしまう部分があると思います。 朝日新聞の拉致事件に対する対応でも、たぶん、内部の記者の中には「これはおかしい」と思っていた人もいるはずなのですが、結局、それは、伝える側の都合で押しつぶされてしまったわけで。 信玄は、領民の自由な落書きを100%信じていたとは考えられません。 それこそ、誹謗中傷レベルのものもたくさん存在していたでしょうから。 でも、その中には取り上げるべきものがたくさん含まれていたんでしょうね。下から上への自由な情報伝達なんて、到底考えられなかった時代のことですし。 それに、当時の大名としては、「そういう落書きに対しても寛容である」という評判は、プラスになっていたはずで。
ただ、最近のインターネットについて僕が思うのは「知識が容量オーバーしつつある」ということなのです。「2ちゃんねる」などはとくに、あまりにその情報量が多すぎて、読み手が処理しきれなくなっている部分があるかもしれません。 たとえば、今日のニュースを知りたいときには、ニュースサイトを見れば、その概略はつかめますし、学校や職場での会話にはついていけるでしょう。 その一方、本を読んだり、他人に聞いたりすることが減って、系統的な理解が乏しくなったり、対人コミュニケーション能力が低下していくのではないか?ということを最近ちょっと危惧しているのです。 インターネットでは、さまざまなことが簡潔にまとめられており、それはすごく便利なことなんだけれど、「歴史年表を覚えただけで、歴史がわかったような気になっているのではないか?」と。 歴史というのは、むしろ「どうしてそうなったのか?」という流れを知ることに意義があるのではないでしょうか。 このまま本や新聞を読む人が減っていって、ネットで仕入れた情報をただそのまま吐き出すだけの情報操作されやすい人間が、かえって増えていきそうです。
「2ちゃんねる宣言」が出されてから、もう1年余りが経っているのですが、インターネットは自由なメディアである、という幻想を持っている人は、確実に減ってきていると思います。ニュースサイトにだって、取り上げる人の好みもあれば、立場の違いや戦略がありますし。 結局は、受け手がいかに賢く情報を取捨していくか、そして騙されないために自分を磨いていくか、ということに尽きるのです。
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