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2002年02月27日(水)
2002年2月27日。

中島らも著「僕にはわからない」(双葉文庫)より抜粋。

「偉人は何がエラいのか」より。

 結局、偉業をなしとげる人の人格というのは決定的にどこかおかしい。社会常識などには目もくれずに己の関心事のみを追求できる性格だから偉業もできる。人格のバランスがどこかで大きく歪んでいるのだ。偉人伝に加えられるかどうかは、その偏執事が社会的に成功したかどうか、唯一それのみにかかっている。「功成り名を遂げる」ことが人生のお手本みたいに言われると、結局プラグマティズムだけが世界の原理であるような錯覚にとらわれてしまう。

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要するに、偉い人というのは、人格としての偉さではなく、すごいことをやった人、ということなのだと思われる。
中島らも氏は、この文中で、「日本人は禁欲的な行いを見ると手放しに賞賛してしまうが、どんなストイシズムだって、人間の快楽原則にのっとって働いているのだ。」とも記している。
つまり、努力する人は、努力することが自分にとって意識・無意識にもかかわらず「快楽」であるからそうするだけのことだ、ということなのだろう。
偶然、自分にとって楽しいことが時代とマッチした人が、「偉人」となれるということなのだ。
もし、昼寝が最高の文化だったり、あやとりがオリンピックの大人気種目だったりする世の中なら、野比のび太も「偉人」にちがいない。
それでも、偉い人になるために自分を偽って世の中の役に立つことをする人はいるのですが、せいぜい「秀才」どまりになってしまうようです。

だからといって、犯罪や享楽的な人生を「好き好きだから」と認められるほどみんな広い心をもっているわけではなく、あくまでも自分に被害が及ばない範疇で、ということなのですが。

中島らも氏が、「もっと尊敬すべき人が身のまわりにウヨウヨいる」と書いているように、偉人であることと、人格のバランスがとれていることは、別問題ということなのでしょう。

「がんばらなくちゃ」と思っている時点で遠ざかる「偉人」への道。