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2009年12月22日(火) バルセロナ建築の旅(その6)最終偏

 いよいよ旅の最後はハイライト、サグラダ・ファミリアを見にいくことになった。

サグラダ・ファミリアは貧しい宗教団体サン・ホセ協会のための教会として1882年に着工された。初代建築家ビリャールは翌年辞任。その後を引き継いだのがまだ無名だったガウデイだった。ビリャールの案はどこにでもあるありふれたものだったが、キリスト教に対する理解を深めるにしたがって、プランが練り直され独創的な教会堂になったのだった。ガウデイの構想によればラテン十字形のバシリカ式の教会で「生誕の門」「受難の門」「栄光の門」という3つの正面を持ち、そこには聖書のシーンを描いた彫刻が施される。教会そのものが石に刻んだ聖書なのだとするものだった。
しかし、ガウデイの生前に誕生したのはわずかに「生誕の門」の塔だけ。ガウデイの死後もスペイン内戦時を除き、工事が続けられている。完成は200年後とも言われている。


新しく作られているものはガウデイの時代のものとはどこか違うようで古いものと新しいものを無理やりくっつけているようでなじめない。味わいがまるで異なる。




とうもろこしの部分をエレベーターに乗って上がっていった。そして帰りは歩いて降りるのだが狭いなかをくろうして降りただけで何の感想も感動もなかった。
がっかり。

汗をたっぷりかいてサグラダ・ファミリアを降りて、次に向かったのはガウデイのライバルといわれたモンタネールが設計したサン・パウ病院へと急ぐ。
モンタネールは前のところで写真を載せたカタルーニャ音楽堂を設計した人である。
さて、サン・パウ病院は銀行家パウ・ジルの遺言によりその遺産をもとに建てられた。


美しく繊細なデザインはガウデイとはまったく異なる趣である。中に入って写真をとろうとしたら病院だけに時間が決められていて入ることができなかった。もう明日には帰国しなければならないと残念がっていると一人の女性が声をかけてきた。「ねえ、あなたたち、中に入りたいの?」「はい。でも時間が決められていて今日はもう入れないのです」というと女性は「こっちへいらっしゃい。教会ならいつでもあいているわよ」と手を引いて案内してくれた。教会のほうへいきがてら、女性はバルセロナの主だった建築物について説明してくれて、その詳しさに驚いた。それも流暢な英語を話すなかなかのインテリ。年は60歳は越えていそうだが美しい人。夫とその女性が建築について話している間に教会についたが、閉まっていた。その横にはまだモンタネールの設計した建物があるのでそちらのほうへ回ることにして女性にお礼を言うと彼女はイタリア人でマリアと言う名だと自己紹介してくれた。
旅で出会った二人目の親切な人だった。
見ず知らずの日本人の手を引いて案内してくれようとするその心意気が嬉しい。


マリアさん、ご親切をありがとう!グラツイエ、タント!アリヴェデルチ!


ガウデイのライヴァルといわれたモンタネールのサン・パウ病院を背にくるりと振り返ると反対側にライバルのガウデイのサグラダ・ファミリアが見えた。

旅の最後の日も、とうとう日が暮れてきた。
街はクリスマス前の週末と言うことで賑わっていた。





蚤の市


旅の最後の夜は思いっきり楽しもうとタブラオへフラメンコを見にでかけた。









こうして短くも楽しいバルセロナ建築の旅はフィナーレである。

この旅の間アクシデントが二度あった。

一つは地下鉄の中で若い女性グループのスリにあったことだ。
地下鉄に飛び乗ろうとして夫が先に乗り、後ろを私が乗ろうとすると若い女性が夫と私の間に入ってきて地下鉄に乗ったが前になかなか行こうとしない。ドアはもう閉まる寸前。私の後ろにもう一人の若い女性がぴたりとくっついてきた。右わき腹がもぞもぞするので「きゃーなにするの」と声をあげると夫が「どうしたんだ!」とふりかえり、車内の男性もみんな私のほうを見た瞬間前の女性と後ろの女性が閉まる寸前の地下鉄から飛び降りた。
乗ったと思ったら降りるのはおかしい。
ハンドバッグをたしかめるが盗られた物はない。
「スリだった」と思った。
大声を上げたので飛び降りたのだろう。危ういところだった。
そしてもう一つのアクシデントは帰る日の三日前にレストランで肉料理をたらふく食べ、食後に濃いエスプレッソを飲んだら胃をやられてしまったらしく、胃痛に七転八倒。帰りの飛行機の機内食はとうとう一回も食べずに帰ってきた。
帰宅してしばらくしたら治ってしまったが、医者に行って薬をもらったというしだいだ。食べすぎは禁物ということらしい。

今回の旅は見るものがいっぱいあってまだまだ足りないぐらいだった。
今までシンプルなコルビエジェの建築物がが好きだったが、この旅ですっかりガウディの信奉者になってしまった。
当時も現代になってもガウデイのあの独創的なデザインを越えることはできない。ガウデイは奇抜でいてコロニアル・グエル教会堂の建設では10年もの歳月をかけて構造的実験を重ねている所を見ると念入りに構造計算を積み重ね、実験をし模型を作って研究する建築家であることがうかがえる。。この実験はサグラダ・ファミリアの設計に生かされている。銅版機具職人の息子に生まれただけに鋳鉄のデザインや扱いは卓越したものがありグエル別邸でみたあの「ドラゴンの門」の大きな口をあけたドラゴンの迫力は強烈な印象として残っている。コロニアル・グエル教会堂のひなびた味わいとステンドグラスのあたたかみは心にしみる。
カサ・バトリョの一階部分は海中深く沈んでそこに住んだらこんな風だろうとかおもうほど幻想的なものであり、二階部分の広間の曲線の美しさ、家具、暖炉、取っ手にいたるまでガウデイが設計した最高傑作。涙があふれてきそうで困ったほど感動した。

ガウデイの素晴らしさを堪能した旅だった。そして世界建築遺産にお住まいの男性からはおもいがけなく親切にしてもらい、中には住人以外は誰も入れないのに、ご好意でいれてもらい、感動。イタリア人女性は手を引いて案内してもらったりと見知らぬ旅人への親切とやさしさに本当に深く感謝する。
 夫が好きなガウデイの作品群を見て周り、また、ライバルといわれたモンタネールの優美な作品もみることができ、一方、近代建築の巨匠といわれるミースのバルセロナ・パヴィリオンも見ることができて目が拓かれた。
 写真は700枚ぐらい撮っただろうか。ブログにはどれを載せようか迷いながらの作業だった。

というわけで、バルセロナの旅はこれにて完。

※参考資料からの引用は『world guide』(JTB パブリッシング)より)

主たる建築作品:

グエル公園(世界遺産)、カサ・ミラ(世界遺産)、カサ・バトリョ(世界遺産)、レイアール広場の外灯、グエル邸(世界遺産)、カタルーニャ音楽堂(世界遺産)(モンタネール作、)、建築士会会館(ピカソのデザイン画壁画)、ピカソ美術館、ミース・ファン・デル・ローエ記念館(バルセロナ・パヴィリオン)、グエル別邸(「ドラゴンの門」)、カサ・ビセンス(世界遺産)、コロニアル・グエル教会堂(世界遺産)、サグラダ・ファミリア(世界遺産)、サン・パウ病院(世界遺産)

利用した交通機関:
地下鉄、カタルーニャ鉄道、ブス・ツリステイック

(完)


2009年04月30日(木) ベトナム・カンボジアの旅(3日目)

ベトナム・カンボジア(アンコールワット)6日間の旅 三日目は:

早朝ホテルの周辺を歩いて朝のベトナム風景をスナップすることにした。

ホテルの窓から前の家の様子を写したのがこれ↑
地震がないのでレンガを積み上げた建物にモルタルを塗った建物が多い。カビがはえて黒くなっている。
あとはトタンばり。


写真手前の後姿の女性は天秤棒で売り物を運んでいる。
アオザイを着ている人は少なく、ホテルの従業員などばかりだった。
日本人が着物を着ている人が少ないのと似ている。

道端にこうして天秤棒でかついできた荷物(たべもの)を広げて商売している。

パジャマ姿の女性が品物をのぞいている。野菜は豊富。ゴーヤ料理が苦味があっておいしかった。とうがらしがどの料理にも入っていてぴりっとからい。


ちまきを売っている。画面右端の女性は朝ごはんを売っている。こうした露天で売られているごはんを食べている人がおおくびっくり。

この人は魚を売っている。
見ているとドラマが展開された。
とおりを一台の車が通りかかったときそれはおきた。
しゃこやえびを売っていたこのおばさんは車を見た瞬間、ざるを三つ一気に抱えて逃げようとした。魚の料金をもらったまま。料金を払っている客は少しも騒ぐ様子がない。
逃げようとしたおばさんは車が警察の取り締まりでないとわかったとたん、何事もなかったように、また、ざるをひろげて魚を売り始めた。
これを車が来るたびに繰り返されてみていた私も今度の車は警察じゃなさそうよなどとおばさんにおしえてあげたりした。
いつでも逃げられるようにして売っているおばさんたちと庶民のたくましさはここベトナムの朝の風景の中に当たり前のようにとけこんでいた。

日本のキャノンの看板の下で繰り広げられる天秤棒姿のベトナム風景。

ベトナムは間口の広さで税金をとられるので上へ上へと伸びていく建物。

見たこともない筒状のきせる(?)で煙草を吸う人。珍しそうに見ていたら、すうか?とキセルを差し出された。すってみようかと「思ったけれどやめておいた。

朝ごはんを売る女性。綺麗な人だったけれど恥ずかしがって横を向いてしまった。
右の天秤棒のなかに蒸したご飯がはいっていて、左側におかずがはいっている。
この朝ごはんを庶民は喜んで道端で食べていた。

道端で売られる朝食を食べる庶民。


はすの葉を広げてそこに蒸したご飯(黄色い)を広げ、そこにトッピングのおかず少々とココナッツを削ったものをたべていた。これを包んでお弁当にもっていくひともいた。


ベトナムへきて一番驚いたものはこれ!↑蛇のとぐろのような電線。
何十とある電線が上空に垂れていて、もう落ちそうになった電線はこうして無造作に束ねられてむきだしのままくくりつけられている。
感電する人はいないのだろうか?台風のときはさすがにこの電線でしぬひともいるとか。デンキをひいていない家もあり、敷設された電線を勝手に失敬して自宅に引いているひとがいたり、お金持ちがひいたデンキに料金を払って自宅にひいているひともいるという。戦後の日本もこんなだったのだろうか?


ベトナムで黄色の建物は国の建物だとか。
この美しい建物はフランス統治時代に建てられたものだろうか?美しいアールヌーボーの建物だったので思わずみとれた。

早朝からジルバを踊っているひたち。

パジャマ姿で露天で朝食を食べているところをぱちり。

ここまではベトナムハノイでの朝の風景だ。
昨夜の水上人形劇場まで歩きながらの朝のスナップ。
ここまで約40分あるいた。
朝の集合時間に間に合うように、ここから輪タクを拾ってホテルまで帰ろうとチャレンジ。年配の輪タクおじさんを見つけてホテルまでの地図を見せると、地図の見方がわからないらしい。英語も分からない。
そこへ英語が分かるらしい別のりんタクがきて、ホテルの道なら分かるから自分の輪タクに乗れという。いくら?と聴くと一人5ドルだとふっかけてきた。バカ言っちゃいけないよ。この「ろこ姐さん」をしらねーな?と言ってすたすた歩くと、後ろから追いかけてきて4ドルにするという。「あんたね。味噌汁で顔洗ってでなおしておいで!」と「ろこ姐さん」は言ってまた歩き出すとまた追いかけてくる。
そこで「ろこ姐さん」はおもむろに着物の裾をまくって(?)こういった。
「1ドルなら乗ってやらないことはないよ!」と。
すると剣幕に負けた輪タクの兄ちゃん、じゃあしようがない。1ドルにするから乗ってくれと云う。
そこでまた「ろこ姐さん」は言う。「あんたじゃなくてあの年寄りの輪タクじいさんのに乗るならいいよ」と。
するとさすがにベトナム。年寄りを尊重する国。
先の地理の分からないじいさまに道を譲った兄ちゃん。「あんたいいところあるじゃないか!」とほめて年寄りの爺さんの輪タクに乗った。
爺さんはホテルまでの道が分からないので日本人の私が、ベトナムの現地人に道を教えながらホテルまで輪タクに乗って無事帰った。

ホテルへ着いて現地ガイドさんにそのいきさつを言うと「1ドル」とまけさせたなんて聞いたことがない。すごいなあとほめられた。
なにしろ週末の市場のおばさんとのやりとりで鍛えられた腕。

楽しい朝のベトナム取材(?)を終えて一行と共にホーチミン廟へ見学に。
4月30日はベトナム解放の記念日。
ベトナムは休日。
ホーチミン廟は1969年亡くなったホー・チミン氏の遺体が安置されている。
なんとホー・チミン氏の遺体は冷凍保存されていて、4月30日の独立記念日にはその遺体に実際お参りできるというのでベトナム各地からたくさんの人が参拝に来る。
ちょうどその日にあたって、ものすごい行列を目撃。私たちは参拝せず外観だけを見学。

参拝客の行列。赤い旗は鎌と鍬でロシア共産党の旗印。

こちらの赤い旗。星のある旗がベトナム国旗。

ベトナムのお坊さん。

一柱寺
一柱寺は11世紀、李朝時代に建立された仏教寺院。はすの花を模してつくられており、その名のとおり、本道が一本の柱で支えられている。

バスに揺られて森のようなレストランへ行き昼食。



美しい南国の花が咲き乱れる森のようなレストラン。



レストラン内部と男性従業員

お腹がくちくなったあとは、ベトナムともお別れ。
ベトナム航空にのり、一路カンボジアへ。

カンボジア・シェムリアップ空港到着。


2009年04月29日(水) ベトナム・カンボジアの旅(2日目)

2日目はホテルを9時に出発して雨の中、ハノイ近郊にあるハロン湾クルーズに。
ホテルの朝食は豪華。

「フォー」という麺類がものすごくおいしかった!!!
熱々を一人一人、目の前で作ってくれる。

湯葉のようにお湯の中に浮き上がってくるものすくいあげてその湯葉に野菜類を包んで食べる。


ホテルの前庭になっていたバナナの木。
いたるところバナナの木があって、食後のデザートもバナナ。青くても熟していてねばりけのある赤みのある黄色いバナナはおいしかった。


ハロン湾クルーズに。
ハロン湾は青い海面から大小幾千もの奇岩がそそり立つ世界遺産の湾。
ハロンとは「龍が降りる地」と云う意味。
風光明媚さは素晴らしくかすんで見える大小の奇岩は”海の桂林”と呼ばれる。
ハロン湾クルーズの醍醐味はその奇岩の間をぬうようにめぐるところにある。




漁船。
へさきに網をはって魚を捕る漁。



忠犬ハチ公に似た岩



ハロン湾にある大きな島に上陸して鍾乳洞を見る。
日本の鍾乳洞と違って山の上を登って444階の階段を昇リ降りをしてついたところが鍾乳洞。日本のように寒い風穴などなく、蒸し暑い洞のなかは石の塊がカーテンのようになっている。

ライトアップされた鍾乳洞。


鍾乳洞をでたところで店を開いている人がいた。

ここで危なさそう(不潔)だったけれど、(きたないなたで椰子の実を切っていたので)椰子の実を買って飲んでみることにした。二つで3ドル。
甘くて飲みやすかった。


また船に乗ってハロン湾をクルーズしていると、突然海賊船が近づいてきた。
あれ〜!自衛隊の船はどこ?などと言っている場合ではない。
小船にのった海賊船!海賊は勝手に我々の船の船べりの窓を開けてものを売ろうとする。
海賊と云うほどでもない。ただの物売りだ。ほっ!!




しばらくして水上生活者が営むいけすの船に寄ってみることにした。
赤いシャツの男性はベトナムのガイドさん、TIENさん、日本名を進さん。私は彼をしんちゃんと呼ぶことに。

かぶとがにとシャコ。
ここの生簀で魚を買って船で料理してもらうことが出来るが、なにしろ生簀の水が汚くてとても買う気がしなかったが、韓国や中国の人はじゃんじゃんここで買っていた。

生簀を離れてまた船にのり、船の中で海鮮料理の昼食を食べることにした。


二つの奇岩はハロン湾のシンボル。雄鶏と雌鳥の形をしている。
小雨が降る中をハロン湾クルーズは終了。


今度はベトナムが誇るバッチャン焼きの陶磁器村を訪問。
秀吉の頃、このベトナムの陶器は「安南焼き」と珍重された美しいブルーが好まれた。
絵付けをしている人。

バッチャン焼きの陶磁器店が並ぶ道。



バスにのり、またハノイへ。

ハノイ市内はものすごい数のバイクがひしめいていて、信号はあってもなくても同じ。青でも赤でも突っ走るバイクや人で危険!危険!
事故は20万円の罰金。人を轢いても20万円。轢かれ損。気をつけないと。

ハノイ市内、ホアン木エム湖に近いレストランで夕食。

あたたかい蟹のスープ






デザート。

レストランをでてから「水上人形劇」を鑑賞。
「水上人形劇」は水面をステージにして農村の生活や伝承などを操り人形で演じる伝統芸能。
水が張った舞台のすだれの後ろ人間がいてそこから長い棒の先につけられた人形を水に浮かべてあやつりながら人形劇が演じられる。

桃太郎のようなストーリー。

フィナーレはすだれの後ろの人間が出てきて拍手喝采をあびて終わり。
人形劇にかかせない音楽は生演奏でベトナム独特の胡弓のようなものや独自の楽器と笛が東南アジアの音曲を奏でていて素晴らしかった。西洋の音階とは異なった音が体の中を心地よく流れ同じアジア人として懐かしい音だった。

水上人形劇が終了してホテルで就寝。ホテルは窓がなく国営のみじめな宿だった。
部屋に入るとすぐ蚊に刺された。
ここの蚊はデング熱をおこす元といわれていて慌てて薬を塗った。


2009年04月28日(火) ベトナム・カンボジアの旅(1日目)

今までの旅といえば、欧米を中心に40回以上、20カ国をめぐってきた。
しかし、アジアを知らないで過ぎるわけには行かない。
そこで憧れのベトナム、カンボジア(アンコールワット)の旅を決行。
いつもはひとり旅、二人旅を楽しんできたが、ツアー旅行を楽しむことにした。
ツアー客20名(名古屋、静岡の客)の旅。

中部国際空港を午前11時半にベトナム航空にのり出発。ハノイ到着14時20分ちゃく。時差は2時間。運航時間5時間半。

ベトナム・カンボジアは雨季に入ったばかり。思ったほど暑くなく気温27度
。長袖シャツを着て充分。
豚インフルエンザの為、空港で健康カードを提出させられた。

空港からバスに乗って約3時間揺られてハロン湾へと向かう。

空港からの景色は50年〜60年前の(?)日本の風景と言った感じのひなびた光景が広がっていた。



田んぼと牛と人。田んぼには牛が鍬を背中にくくりつけられて引き、田んぼは機械はいっさいなく、人手で耕され、苗を植えるという農業。
ベトナム戦争による戦死者が多かったベトナムは9000万人の人口の60パーセントが35歳以下だという
93パーセント農業国だったベトナムも今は60パーセントに減少。
3ちゃん農業に変化。かあちゃん、ばあちゃん、ジイチャン。父ちゃんは出稼ぎに。
18歳から28歳まで徴兵制。
猫や犬を食べると聞いてぎょっとなった。
たがめや昆虫もから揚げにしてたべるという。
よその国の食文化について自国を基準にどうとかこうとか判断したり批判することは出来ない。
日本も戦後は犬を食べていたのだから。

人件費は安く中国が一人3万円のところ、ベトナムはその半額だという。

空港を出ると直ぐに道端に牛があるいていた。

ベトナム戦争で枯葉剤による奇形として生まれた「ベトちゃんドクちゃん」についてはベトナムではあまり話題にならないという。なぜかというと彼らはベトナムではほんのわずかの存在でそれ以上に枯葉剤による被害者が多いということだった。
それをきいて胸が痛んだ。
傷痍軍人も国は何の保障もしていない現実。
一番悲しいことは、彼らのような傷痍軍人は国の為に働いたのに、障害者になった今、疎まれて働く場がないということだった。
そこでベトナム楽器を習って観光客相手に施しを得ることでしか生きる糧がないことだった。
戦争って何だ?!


バスに揺られて3時間。レストランに着き夕食。
早速ベトナムビールを頼む。ハノイビール3ドル


料理は海鮮鍋。


牛肉をテーブル中央の丸いおせんべいのようなものに「包んで食べる。



しゃこのからあげ。
シャコの味がせず、からが口の中でごそごそしておいしくなかった。


海鮮鍋は魚介類(いか、魚、はまぐり、香草、キャベツ、白菜)をいれ、残ったスープにメンをいれ、さらに残ったスープにご飯を入れておじやに。


まあまあの味に全員ほっとする。
水はホテルの水でもどこでも決して飲んではいけないとくれぐれも言われて全員注意。歯を磨くのもミネラルウオーターで磨いた。


いよいよハロン湾に着き、ホテルの前は墨絵のようなハロン湾が広がり、彼方には巨岩がかすんで見えた。ホテルの部屋は全部屋オーシャンビュー。
素晴らしく豪華なホテル。

ホテル。



ホテルの前には公園があり、入場は有料だが、4月30日はベトナム解放の記念日のため、お祭りが開かれる。綺麗なテントが広げられて色々な店がでて、ショーの準備があった。ここで夜、マンゴーをネギって買った。1ドルでおいしいマンゴーが4つ。



テントの中で繰り広げられているショー


ベトナム少数民族の民族衣装を着た老婦人。まだ着ていなかったのに、カメラを向けた私の為に衣装を着てくれてポーズをとってくれた。ありがとう!(カムオン)

夜疲れたのでマッサージを頼むことにした。
マッサージ専門店で70分2千円(送迎つき)。全身マッサージをしてもらった。
名古屋の女性親子連れの方とつれだってでかけた。
大きな部屋にはソファーが並んでいて、熱い湯ににおいの良い花が浮かべられて足湯に入り。足のマッサージから。顔はきゅうりパックをしてくれ、念入りに全身まサージ。最高に気持ちよかった。
若い男性の力強いマッサージで全身揉み解してもらって3人とも快適な時間をすごした。
ホテルにもどって入浴してばたんきゅー!
ベトナム一日目は終わり。


2007年09月24日(月) 文化フォーラム「なごや歴史漫歩」(大須周辺散策)

今日は文化フォーラム 第二回なごや歴史漫歩(大須散策)の会が開催され曇り空の下参加してきた。

総勢27名の参加。

名古屋は日本の三英傑(信長、秀吉、家康)を輩出した土地であり、日本の歴史を飾った様々な建造物、史跡がある歴史の街である。

今回の大須の地は名古屋のど真ん中。
今名古屋で最も活気に満ちた土地でも或る。

先ず散策開始の場所は「大須観音」


大須観音はもともとは長岡庄大須郷(現岐阜県羽島市)にあった。

しかし、戦乱や木曽川の氾濫などのため1612年に家康は成瀬正成(なるせまさなり)に命じて洪水の恐れのない現在地に移した。
以後、尾張藩の保護のもと、城下町の繁栄で境内には芝居、物まね、相撲などが盛んになり客足をよびにぎわったのである。




これは真福寺(真言宗)で、創建の地名を取って『大須観音』と俗称で呼ばれ親しまれている。



この大須文庫にはすごい宝物があり仰天!

開山の能信上人によって収集されたもので、蔵書は仏書、史籍など一万五千点に及び京都の醍醐寺、和歌山の根来寺とともに古くから天下の三教蔵の一つに数えられているという。

その蔵書の内訳を聞いてびっくり!
『古事記』(賢諭筆)をはじめとして国宝、4点と40点近くの国の重要文化財がある。
前もって予約しておいたので特別にそれらを見せていただいた。
もっとも、本物はただいま名古屋博物館で公開中。写本をみせてもらった。


次にやってきたのが大須観音から南東に100mのところにある『七寺(ななつでら)』


735年行基により開創。787年、河内権守紀是広(きのこれひろ)がわがこの菩提のため、七区の仏閣と12の僧坊を建てたことから「七寺」とよばれるようになったもの。
繊細により焼けてしまったが、木造観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像(国重文)の2像は戦災をまぬがれた。
玉眼が入っているめずらしい菩薩様。他に平安時代末期の唐櫃入一切経(国重文)もあった。

日本でも貴重な重要文化財がここにはあって驚いた。
こんな名古屋のど真ん中にある小さな寺に世界でも珍しい経文が残っている重文があるなんてと驚いた。


次に来たのが那古野山古墳。




那古野山古墳は前方後円墳と推定されるもの。
現在は高さ6m、径17mの後円墳のみが残されている

こんなににぎやかな場所に古墳がのこっているなんて珍しいなあと驚いた。



冨士浅間神社






仏足跡




最後にやってきたのが『万松寺』(ばんしょうじ)
『万松寺』(ばんしょうじ)(曹洞宗)は天文9年(1540年)開基は織田信秀信長のお父さんである。


織田信秀のお墓である。


織田信秀の墓。

織田信秀は織田信長の父である。
信長の陰に隠れてしまっているが優れた武将であった。
信長が生まれたとたんに名古屋城を信長に譲り城主とした。
戦国武将のように子どもに教義を押し付けることはせず、信長が興味を持った好きなことだけをさせるようなことをしたのだった。それで信長が「おおうつけ」など呼ばれるようになっても一貫して信長を支持しつづけたのであるから、父信秀の器量は大きく、先見の明があったともいえよう。

さて信秀が死に葬儀はこの万松寺で行われたのである。
弟信行をはじめとして、近親、重臣が居並ぶ中、700名の家臣が参列。喪主の信長の姿はない。

焼香のとき、信長が現れ腰にあら縄を巻き、太刀と脇差をさし、袴もつけずの姿。
信長はつかつかと前に出たかとおもうと、いきなり抹香をわしずかみにし、位牌に向かって投げつけた。
これは小説の中のお話。

その信秀のお墓がこれである。

こんな繁華街のど真ん中、若者でにぎわう大須の真ん中にありながら、万松寺の裏手に回ると信長塀に囲まれたひっそり静かなところにこの廟所があった。
不思議な空間であった。
こんな歴史の逸話が残っている廟所は静かにひっそりと眠っているようであった。

今日の文化フォーラムは歴史的なお寺をめぐった。世界でも貴重な経典が収められていたり、あの「古事記」があったり、信長が位牌めがけて灰をかけたといわれた父信秀のお墓があったりと今一番名古屋でにぎわっている場所にそれらが存在するという史蹟の妙を見る思いであった。

日本の歴史の中でも欠かすことができない三英傑(信長、秀吉、家康)を輩出した名古屋の地は今、日本でもっと熱いばしょと言われている。
ファッション、文化が今熱い。

そんな熱い「現代」のど真ん中にひっそりと佇む「歴史の場所」を巡った文化フォーラムであった。

みなさんも、名古屋へお越しの節は、ひつまぶしや、みそかつに舌鼓を打つ一方、こうした「歴史」の宝庫でも或る場所をめぐってみては如何でしょうか?


2007年09月21日(金) 奈良県橿原市(かしはらし)今井町への旅

今日はかねてから行って見たいと思っていた奈良県橿原市今井町へ小さな旅をしてきた。

朝はやく電車に飛び乗り、名古屋からは近鉄特急で大和八木で降車。

奈良県橿原市(かしはらし)今井町は天文年間(1532〜1554)に今井兵部が称年寺を開いたのが始まりで各地から商人を集め行政機能を整備し商業地として隆盛を極めた地である。

この今井町をご存知の方はどれぐらいいるだろうか?
大方の人は今井を通り過ぎ、飛鳥へ行ってしまう。
ところがどっこい!
この今井町は穴場中の穴場。
町全体が江戸時代のままそっくり残っている貴重な土地なのである。

城壁都市ならぬ掘割都市として繁栄した地であり、「大和の金は今井に七分」といわれるぐらい大和の冨はほとんどこの今井に集まったのである。
400年もの期間、火災にあわなかったっため、室町時代からの町割りや江戸時代の豪商による贅の限りの建物がそっくり残っている貴重な町。

行ってみてびっくり!
本当に江戸時代がそのままの街並みで、その規模も広くて驚いた。

ではその様子を写真で紹介しよう。


町の広さは東西に600m。南北に310m。





内部にある台所では「まがたまかまど」と呼ばれるまがたまの形をした「おくどさん」があった。
たった一人でこれら多くのかまどを全部管理できるというすぐれもの。


電柱も電線もないので町人姿の番頭さんでも出てきたら江戸時代にタイムスリップしたような風情である。

さて、次に揚げる写真を見て「あれ?どこかで見たことがある」と思う人が多いのでは?




そう大和ハウスのコマーシャルにでてくる御宅である。

江戸時代の豪商の御宅で、お醤油屋さん。

土間を通しておくまで吹き通しがきく素晴らしい設計とその風情。
コマーシャルに使われたのもうなずける。

江戸時代には年貢を納める蔵もあったというからここら一帯を治める豪商であったのだろう。
この辺一帯の土地を多く所有していた当主も時代の風は厳しく全てとられてしまったとか。
しかし、この建物は江戸時代のまま。
瓦は江戸時代のままで「まる瓦」。屋根には「屋根神様」が鎮座していた。
ご当主がでてこられてお話を聞くことができた。





この辺の家の間取りは
だいたいが似ているそうで、細かい格子や「六間取り」の座敷が特徴。
つまりたたみの部屋が三間、二列になっている間取り。
ふすまをはずすと四部屋が一つの大部屋になる。


当主の部屋は敷居が一段高くなっている。
つまり当主がいるへやは格式高くなって段差がつけられているのである。
後に「敷居が高い」という言葉はここから来たのだろう。

さて、次に揚げる写真はいったい何だろうか?分かる人?

これは何と保育園。

表に回ってみるとさらにびっくり!


こ〜んなに立派な門まであった。



豪商の家には駕籠まであった。



今井まちなみセンター

この近くでお昼を食べた。
お昼はこのブログにいつもコメントを書いてくださっている酒徒善人さんのお奨めの「横田すし」へ。

おいしゅうございました。

お昼を食べて満腹のお腹をかかえながら、次は飛鳥へ。

飛鳥ではレンタルサイクルをかりて飛鳥古墳などをみてまわったけれど、時間切れとなって途中で引き返して帰途につくことにした。
また別の機会に飛鳥へ行くことにする。

今日は残暑が厳しくて汗をかきかき、歩いて歩いての旅。

ずっと行きたいと思っていた今井町。
江戸時代がそくりそのまま残っている貴重な街並みを見て感激した旅だった。

観光客があまりたちよらない穴場中の穴場の土地。

400年もの間、火災にもあわず、営々と町の人たちがここ今井町を大切にしてきたのはすごい心意気である。

さらに驚くのはその江戸時代のままの家屋が空き家でなく今現在もその子孫の方々が住んでいることである。

何でもかんでも欧米化して日本家屋がすたれている昨今、不便なことものあるだろうけれど、こうして大切に「日本」を残している町の人全体に敬意を表したい。

奈良は日本人の心の、歴史のふるさとである。

街並み保存というスローガンをかかげるというそんな大仰なことでなく、心底先祖の心をその風情のまま遺すその心意気が「町全体からただよってくるのを感じて感動した旅だった。

皆様も一度この江戸時代がそっくりそのまま残っている今井町へ旅してみませんか?


2007年09月01日(土) 「青春18きっぷ」の夏バージョン京都篇

夏休み最後の土曜日。

「青春18きっぷ」の最後の一枚を使って京都へ行ってきました。

朝6時15分に家を出発し、電車に。
早朝なのにすごい混みようでびっくり!

みんなリュックを背負ったり、ザックをかついだり。
みんな「青春18きっぷ」を利用している様子。

名古屋から東海道線に乗り米原まで。
米原から東海道本線に乗り換えて「姫路行き」に乗る。
やはりすごい混みようでびっくり。
席をやっととって座った。
東海道本線の車窓はさながら日本の歴史をふりかえるような旅で楽しい。

米原へ行く途中、金華山の頂きには斉藤道三の城(岐阜城)が見えた。
岐阜(ぎふ)城は、斉藤道三、織田信長の居城として有名。

そして米原から姫路行きの東海道本線に乗り換えると関が原があり、安土城があったあたりの山が車窓からながめられる。

京都駅に着いたのが9時15分ぐらい。

そこからローカル線に乗りかえて嵯峨嵐山で下車。

嵯峨野の竹林を通ると涼しい風が通り抜けていった。


落柿舎(らくししゃ)


江戸期の俳人向井去来の閑居跡。[落柿舎(らくししゃ)]



嵯峨天皇皇女・有智子 (うちこ)内親王のお墓



向井去来のお墓

西行の井戸跡


さて、今日のお目当ての場所『祇王寺』へやってきた。


京都でも最も美しくわびしいまでに静寂な場所『祇王寺』
何度きても美しく心が落ち着いて日本の美を感じる場所。




こけむした庭。


紅葉のこだちごしに見える庵の詫びた風情は絶景。

このこけに秋になると真っ赤な紅葉がおちてじゅうたんをしきつけたようになる。


「控えの間の吉野窓」

祇王もこの円窓から庭をながめたであろうと思うと趣がいっそうます。


祇王、清盛、祇女の像

平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれるもの久しからず、唯、春の夜の夢のごとし」とあるが、その続きに祇王祇女のことが出てくる。

これは平清盛と二人の女性の哀れな物語。
平清盛は白拍子の祇王を寵愛する。
そこに別の白拍子仏御前が現れ寵愛はそちらに変わってしまう。
昨日までの寵愛はどこへやら、館を追い出された祇王。

せめてもの形見にと

・萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いずれか秋にあわではつべき

と障子に書き残して去っていく。
後に追い出した仏御前もあとをおってこの祇王寺にやってきて一緒に尼になる。

一人の横暴な権力者に翻弄された女3人。
この嵯峨野のわびしい庵で読経三昧の生涯を送ったかと思うと感慨深い。

喧騒の現実とはかけ離れたようなこの庵は訪れる人も少なく残暑が厳しい今日でも涼しい風が吹き、苔むした庭はほのぐらく心が落ち着く。

もうここへ来ただけで、他は見なくても良いぐらいの場所。

京都へ来たらここへ是非足をのばしてみることをお奨めしたい。

さて、この静寂の世界をすぎてみれば現実に戻って時はまさに正午。

またローカル線に揺られて東山へ。

ここ京都で洋食を?とびっくりされるかもしれないけれど、絶品の店があるというので来てみたのが「みしな」
こじんまりした店にシェフとママさん、お母さんの三人がやっている店。
ここはリピーター客が多い絶品の洋食屋さん。

エビフライとかにクリームコロッケ、ビーフシチューが美味。



これにお茶漬けがついている。



これがまたおいしい。
それから祇園へ。


四十七士の大石蔵之助がいつづけをした、あの「一力茶屋」




格子が美しい御茶屋さんが軒をつらねている。


お茶屋さんからでてきた日本髪のお姐さん。



べんがら格子などの格子が美しく粋なお茶屋さんが軒を連ねる京都の街並み。


一時週刊誌をにぎわせた佳つ乃さんのお店

こうして京都の町をあちこち歩いているうちにもう帰る時間がせまってきた。
日差しは暑いのに風が爽やかになってきた。
もう秋がそこまでやってきているのね。

帰りの電車も超満員。
夏休み最後の土曜日を小旅行に遊びにと繰り出した人が大勢。

「青春18きっぷ」の夏バージョンはもうこれでおしまい。

9月の半ばごろ、今度は近鉄で奈良の今井へ行く予定。

京都は何度行っても日本を再発見する場所。

みんな、いい旅しようね。


2007年07月26日(木) 「青春18きっぷ」神戸篇

今日は「青春18きっぷ」を利用して神戸へ行って来ました。


青春18きっぷとは:

日本全国のJRの普通列車に乗り放題の切符です。
1枚で1日有効×5回分 11500円〜
こども用はありません。おとなと同じで1人1日で1回となります。
年齢制限 なし。
乗り降り自由 。
使い方次第で格安に旅行することができます。

何度も乗り継ぎが発生しますので鉄道で遠出した経験のない方は
まず近距離で経験してからでないと大変です。

発売期間と利用期間について
春(JR発足20周年・青春18きっぷ)
発売期間 2007年2月20日から2007年3月31日
利用期間 2007年3月1日から2007年4月10日


夏(青春18きっぷ)
発売期間 2007年7月1日から2007年8月31日
利用期間 2007年7月20日から2007年9月10日

冬(青春18きっぷ)
発売期間 2007年12月1日から2008年1月10日
利用期間 2007年12月10日から2008年1月20日

毎年2月下旬に春、夏、冬の発売が正式決定になります。
発売期間、利用期間は毎年同じ傾向です。

使い方
当日、1日ずつ改札で日付を入れてもらいます。
夜行など利用で日付が変わってから使いたい場合は日付の変わる駅まできっぷを買って乗り、
車内か下車する駅で日付を入れてもらいます。
利用日が連続しなくても大丈夫です。
複数人で使う場合は同一行程で人数分の日付を入れれば1枚で使うことができます。

というわけで、朝6時半の電車に乗り出発。
金山(名古屋)から米原まで東海道線で、米原で乗り換えて姫路行きに乗り神戸三宮で下車。

神戸JR三宮(さんのみや)駅に着いたのが11時半。

うす曇の今日、むっとする暑さ。

三の宮は、旧生田区、太平洋戦争後における神戸市の中心的市街地(繁華街)。 多くの鉄道路線が集中する三宮駅(JRは三ノ宮駅)を中心に商業施設が集まり、神戸市役所にも近い。

神戸は1995年(平成7年)、阪神・淡路大震災により甚大な被害をこうむった。

随分前に一度車で来たことがあったけれど、その後大震災で神戸も様子が変わったようだった。
そこで今回復興した三宮界隈を見ようときたわけだ。

先ずはお昼ご飯を食べに中華街へ。


ウイークデーなのに中華街は人で一杯。


この中華街でも有名な店「民生」でお昼を食べた。

えびのチリソース、空心のいためもの、麻婆豆腐の冷製、焼き豚のチャーハンを頼んだ。
評判よりも塩っ辛く、以前来てたべたときより味が落ちていてがっかり。

気を取り直して食後の口直しに西村珈琲でおいしいコーヒーとケーキをたべることに。







インテリアがアールヌーボー様式で素敵。


ファブリックは英国のリバテイの生地だったのでパチリと写してみた。



おいしいコーヒーを飲んで機嫌を直して元町へ。
元町の高架下は長いアーケード街になっている。


元町高架下をぬけでて生田神社へ。

生田神社は先日 藤原紀香と陣内智則が結婚式をあげたところ。



以前ブログでとりあげた神戸のパン屋さん「フロインどリーブ」の以前あった場所。
淡路阪神大地震で被害があったもとの店。



異人館がある北野地域に出てきた。


お洒落な建築物があったので。レンガと打ちっぱなしの組み合わせが洗練されている。

この辺は安藤忠雄設計の家がたくさんあった。



ここで異人館周辺を巡るバスに乗って観光することに。

一周し終わった頃雨がふってきたので予定を変更して帰ることにした。

家についたのが7時。

青春18きっぷはまだ残っているので次は8月に奈良へ行く予定にしている。

蒸し暑い神戸だったけれど地震後の復興の姿を見ることができてよかった。

※実は先日(六月九日付け日記)で書いた旧神戸ユニオン教会(兵庫県神戸市中央区にある歴史的建造物。国登録有形文化財。)を見に行くのが目的だった。

雨がふってきたのと時間的余裕がなくなってしまったので断念。


2007年05月26日(土) 富山(小矢部市)・金沢(長町・武家屋敷・茶屋町)の旅

昨日の雨が嘘のように出張先の富山は快晴。

気温は29度にまであがる見込みとの朝の天気予報どおり。

車に乗って出張先の富山県は砺波をでて帰路へ着くことに。

帰りも行きと同じようにのんびり休み休み、金沢や近県を見物しながら帰ることにした。

先ずは砺波から小矢部市へと移動。

小矢部市(おやべし)は、富山県の市。国内外の代表的な洋風建築物をモデルにしたメルヘン建築物が数多く建てられていることで有名。

故 松本 前市長が「これから育つ子らに夢を」と保育所や小学校、中学校などを中心に公共の建物をヨーロッパの有名建造物に似せて作るなど、次々とメルヘンチックな建物に建て替えた。

当初は、「こんな田舎に不似合いな建物を」と反対の声もありましたが、その数が増えるに連れて市民自慢の「メルヘンの街」が出来上がり、訪れる人が年々増えている。


   東蟹谷保育所
本体は、金沢旧制第四高等学校、玄関、塔屋は、東大安田講堂、塔上部はドイツのハイデンベルグの古城の塔を模して造られたもの。

      蟹谷小学校

校舎と時計台は、東大教養学部、体育館は
一橋大学の兼松講堂を模して造られている。

こんな風に「子どもたちに夢を」と言う言葉だけでなく実践してしまった前市長はたいした人だ。
そして今や名物になって観光にもしてしまったのだからすごい。
夢がある人だったのだなあと感心。


小矢部は田んぼの風景が美しいところだ。


小矢部を後にして一路車は金沢へ




尾山神社(おやまじんじゃ)は、石川県金沢市に所在する神社。
主祭神は、加賀藩の藩祖前田利家で、創建は1873年。


       
    神門(国の重要文化財)
最上部の窓はステンドグラス
津田吉之助によって建てられたもので、重要文化財に指定されている。

ここを出てから車は金沢市内にある長町へ。
金沢の中心商店街香林坊から裏道へ入っていくとタイムスリップした空間に迷い込んでしまったように思える長町の武家屋敷へ出た。



近代的なビルの並んでいる目と鼻の先に江戸時代の武家屋敷の様子が残る長町武家屋敷がありま時代劇の劇中にいるような錯覚が。

長町は前田八家の1つ長氏の屋敷があったことから名付けられた。廃藩置県により、金沢県ができ、その県庁が長氏の屋敷に置かれた。現在の長町武家屋敷一体は長氏、村井氏をはじめ上級武士から中級、下級武士などが住んでいた。
現在では、当時の武家屋敷は殆ど残っていないけれど、中級武士だった野村家邸は当時の武士の邸宅の様子を伺うことができる。


この武家屋敷とはがらりとかわって今度はお茶屋町へと移動。



東山ひがし(ひがしやまひがし)は、石川県金沢市にある伝統的建造物群保存地区の名称で、 南北約130m、東西約180m、約1.8haの地区のこと。 保存地区内の建築物140のうち約3分の2が伝統的建造物であり、茶屋町創設時から明治初期に建築された茶屋様式の町家が多く残る。


美しい格子戸がはまっている茶屋様式の町屋は日本家屋の粋で洗練されていて独特の美しさがある。



金沢の名菓「森八」の店。

この「森八」の裏手に泉鏡花の生家があったとのこと。



粋な風情のお風呂屋さん


裏手の路地に入るとこんな風景も




美容院などと野暮なことはいいっこなしよ!
言うなら「髪結いどころ」

よく使いこなされあめ色になったつげ櫛が飾ってあった。



これがお米屋さんだというのだからなんと粋ですてきなんざんしょねえ!


2007年05月25日(金) 富山・五箇山・世界遺産菅沼合掌集落

大雨の中、いよいよ出張先の富山へ車は進むことができた。

先ずは小さな世界遺産の村、五箇山へ



国指定の重要文化財で、最も大きな合掌造り家屋として有名なのが「岩瀬家」。

岩瀬家は「塩硝役宅」とされ、五箇山で作った塩硝を上納する役目を果たしていました。加賀の役人の宿舎にもなっていたので、居間は書院造りとなっており、材質にはけやきを使用することを許されていました。囲炉裏では合掌造りについてのお話が聞け、天井裏へ登ることもできます。

普通の合掌造りの家は三階建て。
この岩瀬家は五階建て。

三階以上の部屋はお蚕を飼っていた。
これはお蚕の部屋

さて車はさらに北上し、世界遺産菅沼合掌集落へ





ここから先は出張先であり会議があるホテルへと急ぐことにした。
4時から会議があり、以後懇親会、そして就寝と長い一日は終了したのだった。


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