月の輪通信 日々の想い
目次|過去|未来
朝、子供たちを送り出して、大慌てで朝の家事を片づける。 2件分のゴミ出しを終えて、工房へ向かう。 本日、梅田の百貨店の展示会の搬入日。 夕方までに、今朝、最後の窯から出た作品を梱包して積み込まなければならない。今回も締切ぎりぎりまで窯場の仕事がずれ込んだ。いつも数日前から始める作品選定や梱包の作業のほとんどは、義兄や義母にお任せ状態だった。 はたして、間に合うんだろうかと焦る気持ちで、洗いたての仕事着に腕を通す。
自宅から工房までの短い距離。 足もとのアスファルトに、つぃーっと跳ねるものがいる。 「道教え」 ハンミョウという名の昆虫だ。人が近づくと、その足もとを先へ先へと道案内するように跳んで逃げるので、俗名がいたのだという。 青緑のまだら模様が美しく、そのままブローチにして閉じ込めてしまいたくなる愛らしさだ。 毎年、夏休み明けの今ごろ、仕事場に向う私の足元にふいと現れる。 2.3歩先へ飛び跳ねては止まり、近づくとまた2,3歩先についーと跳ねる。 その繰り返しが面白くて、ついつい目で追い、青い宝石の行方をたどってしまう。 今朝もまた、律儀な案内人の後をたどって仕事場についた。
早朝、窯から出たばかりの作品に残った、やんわりとしたぬくもりを抱く。 展覧会の度、「まだ足りない」「まだ作れない」と、絞り出すように父さんが焼き上げる数々の作品たち。 結果的にはいつだって、出品予定数の枠内に収まりきれないほどの追加の新作を焼き上げてしまうというのに、それでも父さんは「まだ足りない」ともどかしそうに言う。 この人の中には、まだ形にならない風景、まだ定まってこない形、まだしっかりと混じり合わない色彩がたくさんたくさん渦巻いているのだろう。 「今度こそ」「次はきっと」とどんどん自分を追い詰めていくこの人の呻き声をもう何度聴いたことか。 その声を聴いたからと言って、私には何もできない。 ただ、窯から出てくる魔術のような色彩と暖かな形を、そっと手と目に覚えさせることだけだ。
明け方、肌寒さで目が覚めた。 暑い暑いと、うだうだしていたら、突然に秋の気配。 今日は地蔵盆。 明日からは中高生達が例年より一足早い新学期。 駆け足で夏が終わる。
ゲン、剣道の稽古。 受験生であるにもかかわらず、ほとんど休みなくフルバージョンの稽古に出席するゲン。 最近ゲンの通う道場には中高生がたった二人。 そのほかは幼稚園児や小学校低学年の幼い初心者剣士が大勢増えた。 前半の子ども稽古では、ちょろちょろ走り回る幼い後輩達に素振りや足運びを教え、長身の腰をかがめて太刀筋のまだまだ定まらない面を何度も何度も辛抱強く受けてやる。 後半の大人稽古では、錚々たる高段者の先生方に次から次へと稽古を挑み、打たれ、倒され、立ち上がる。稽古の汗で、さんざん洗い晒して色褪せた剣道着の背中が濃い藍に染まる。 稽古が終ると、稽古をつけて下さった先生方にたくさんたくさん頭を下げ、いちいち小さく頷きながらその日の稽古の寸評を聴く。
背筋をしゃんと伸ばし、軽く握った拳を膝に置き、型どおりの正座の姿勢で、まっすぐに先生の顔を見上げる若い眼差しに、なぜだかいつも「誠実」という古風な言葉が思い浮かぶ。
帰り際、馴染みの先生がゲンのいないところで私に、 「今日は思いがけず、ゲンに2本も取られたよ。」 と笑いながら教えて下さった。 最近、ゲンは「いつも偉い先生たちばかりが相手で、同年輩の子と稽古することがないから、自分が本当に強くなっているのかどうか、ちっともわからない」と迷う言葉をこぼすことも多かった。 そのことを先生に告げると、 「アイツは今、確実に伸びてる。 でも、そのことに本人はちっとも気付いていない。だから、良いのだ。」 というような意味のことを言われた。
それが「誠実」ということか。
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日記「月の輪通信 日々の想い」は、現在のまま http://www.enpitu.ne.jp/usr5/56450/diary.html で、続けていきます。
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熱がでた。 先週の金曜日のこと。 一晩、寝たら下がるだろうと、グダグダゴロゴロしていたら、結局三日三晩、39度の熱の海を漂っていた。 夏風邪だそうである。 膀胱炎でも腎盂炎でも新型インフルエンザでもなかったらしい。
講習や部活で外出の多いアユコやゲンに替わって、アプコが実によく働いてくれた。 学校のサマースクールやプール通いの合間に、洗濯物を干し、みんなのお昼ご飯を用意し、米を研ぎ、皿を洗った。 ドロドロと眠ってばかりの母のところへやってきては、「お水、いる?」「アイス、食べる?」と、世話を焼く。 買い物に行けば、「あっちのお店の方が安かった。」としっかり値段もチェック。 これまで一人では取ったことのない外からの電話にも、きちんと応対できた。 挙句の果てには、疲れて帰ってきた父さんの靴下を脱がして洗濯機に入れる徹底した主婦ぶり。 天晴れであった。
いつまでたっても「末っ子姫」と呼ばれ、しっかり者のアユコの補佐役という居心地のいい役割に甘んじてきたアプコ。 いつの間にか一人前に、母の不在を補うことが出来るようになっていた。 子どもの成長というのは、思いがけなく速い。 有難い事だなぁと思う。
さて、 「自然治癒力」というものを盲目的に信奉している私は、少々発熱したくらいでは、なかなか医者にかからない。 寝て、寝て、寝倒して、次に目覚めればきっと熱は下がっているはずと、悶々と熱と闘う。 心優しい父さんは、そんな私の強情を知っているから、「医者、行ったほうがいいよ。」と何度も言うものの、強引に私を医者に連れて行くことは出来ないでいる。 子ども達ももちろん、心配はしているものの、しゃあないなあと頑固な病人を呆れて見守る。 実家の父母には、「アンタもエエ歳なんやし、ちゃん診てもらわなあかんで」と叱られた。それでも、愚かモンの娘は「ま、熱も下がったことだし、今度はちゃんと診て貰うかも・・・」と、あいまいに頭を掻く。 たまに寝込むことがあっても、数年に一度。 大きな怪我も持病もなく、頑強な体。 そんな風にして、私は40ン年、この肉体と付き合ってきた。
今回の母の霍乱の知らせを聞いて、京都のオニイが二晩続きで電話をかけてきたらしい。 こちらからのメールの返事すら気まぐれにしか帰ってこないオニイにしては殊勝なこと。 熱の下がった朝に「今朝からほぼ復活。ご心配かけました。」と短いメールを打ったら、こんな返事が返ってきた。
「調子悪くなったらすぐ病院行ってくれ みんな心配しとる 余り肝冷やさせんといて欲しい」
お、怒られてもうた! オニイに! 息子に!
ちょっとビックリして、 ちょっと嬉しかった。
多分、将来、私が年をとって、強情で頑固ないじわるばあさんになったとき、 「こら、たまには若いモンの言うことに従え」 と、私を叱ることが出来るのは、心優しい父さんではなく、ぶっきらぼうで理屈屋のオニイなんだろうなぁと思う。 多分、アイツに怒られるのが、年老いた私には一番こたえるに違いない。 悔しいけれど、そんな気がする。
最終的には、オニイに叱られたからというわけではなく、近所の医者にかかった。 その診断の結果が、心配していた膀胱炎でも腎盂炎でもなく、ましてや新型インフルエンザでもなく、ただの夏風邪だったいう、なんの面白いオチもない結末。 「ほら、みてみ、なんともなかったやん。」 と、得意気に「自然治癒力」を鼻先にぶら下げて、快復をアピールする愚か者が一名。
馬鹿も風邪を引くらしい。
暑い日が続く。 仙台での展示会の搬入日が近い。 相変わらず、窯も乾燥機もフル回転。 工房は、仕事場だけでなく、荷造り場も階段も窯の熱気を含んで、ジワジワと熱い。 年寄り達の居室とPCのある事務所とお客様を迎える玄関の展示室は、クーラーで強制冷却。 あちこちパタパタと移動しながら仕事をしていると、だんだん体が温度変化に追いつかなくなってくる。 おまけに昨夜、自宅の押入れで面倒な探し物をしたものだから、例によって埃のアレルギーが出て朝から鼻水くしゃみが留まらない。 どうにも冴えない1日。 それでも、怒涛のように荷造り仕事。 嗚呼!
面倒な探し物というのは、他でもない。 アユコとアプコ、二人分の浴衣。 今夜、父さんが二人を京都の祇園祭に連れて行くという。 去年特訓して、一人で浴衣が着られるようになったアユコと、兵児帯ではない「オトナの結び帯」が嬉しくてたまらないアプコ。 二人分の浴衣にアイロンを当て、小物類揃えて、夕刻を待つ。
毎年毎年、忙しくて、「どうしようかなぁ」と首をひねりながらも、必ず祇園祭に出かけていく父さん。 去年まではアユコ一人だったが、今年はアプコも京都デビュー。 両手に花の賑わいだ。 「仕事を兼ねて」とは言いながら、きりりと浴衣を着付けた娘らを連れて、京都の夜をそぞろ歩く事が、嬉しいのに違いない。 仕事のときとは違う、明らかに緩んだ笑顔の父さんが嬉しい。 「はいはい、せいぜい楽しんでいらっしゃい。」 ワクワクドキドキの娘らとともに、軽自動車に詰め込んで、駅へと向かう。
アユコ、この17日で17歳。 花開くように娘らしくなり、大人びた物言いが多くなった。 あと何年、父さんと行く祇園祭を「嬉しい」といってくれるのだろう。 「今年はちょっと」と別の男性のエスコートで出かけていくようになるのは、いつなんだろう。 カラコロとなれぬ下駄の音を気にしながら、小走りに父さんの背を追う姿はまだまだ少女の初々しさ。 もう少し、時間はあると、思いたい。
父さんの個展4日目。 アプコ、ゲンを連れて会場へ。 お昼をはさんで、父さんの級友や陶芸教室の生徒さんたち、長年お付き合いの常連さんなど、たくさんのお客様が入れ替わり立ち代りおいでくださった。
「あれもこれも作りたいのに、時間が足りない!」 「間に合わない!」 「もう、あかん。」 制限時間ギリギリまで、焦ったり呻いたりしていた父さん。 結果的には、個展会場の展示スペースが足りなくなるほど沢山の点数の作品を作り上げたというのに、それでもまだ 「あんなものを作って置けばよかった。」 「あれが仕上がってたらよかったのに」 と不満そうに呻く。 大きな個展のたび、毎度毎度のことだけれど、この人は自分の成し遂げた仕事に対して「満足」ということを知らない。 「まだまだ、次の個展もあるんだから・・・。今、100%出し切っちゃったら、次に続かないよ。」 と何度慰めても、父さんは不満そうに首をひねる。 この「飽くなき探究心」がこの人の最大の力なのだと私は思う。
十分に会場を見て回って、お留守番のアユコにお土産を買って帰ろうと地下の食料品売り場へ降りたところで、携帯電話のベルが鳴った。 オニイが会場へやってきたという。慌てて買い物を済ませて画廊へ戻る。 画廊には、オニイのひょろりとした姿。アプコが嬉しそうに久しぶりに会うオニイに擦り寄っていく。 「忙しかったら、来れなくてもいいよ。」といいながら、案内状だけは渡しておいたのだが、都合をつけて出て来てくれたのだろう。 何日か前、オニイは何かちょっと気掛かりな電話をかけてきていて、心配していたので、顔を見られて嬉しい。
オニイはその前の帰省の折にも、珍しく父さんご指名でなにやら夜遅くまで話し込んで帰っていった。何か思い悩み始めていることがあるようだ。 一人暮らしをはじめて数ヶ月。 衣食住の慌しさに慣れ、生活そのものがある程度落ち着いて、学校で学んでいることや将来の仕事について、ようやく想う余裕が出てきたということか。 それでもまあ、とりあえず、見る限りでは元気そうだ。 よかった。
会場には、ちょうど私の大学時代の友人Yさんが同僚のお友だちを誘って訪ねてきてくれたところだった。Yさんとは数年前、やはり父さんの個展の会場で慌しくお会いして以来の久々の再会だ。展示してある作品を一点一点丁寧に見て、感じたことなど率直に話してくださる。 有難いこと。
話の途中に、学生時代読んでいた本の話や共通の友人の近況などを交えて楽しい時間を過ごした。ン十年の時の隔たりを越えて、若いひよっ子だった頃の気分がよみがえってくる。 思えば、私がYさんと出会ったのは、ちょうど今のオニイの年頃。学科は違ったが、サークル活動や趣味のお寺めぐりなどを一緒に楽しんでいた。楽しい学生生活だった。
その頃の私は、将来の進路について一応の希望は抱いてはいたものの、具体的な未来を思い描くことが出来ないでいた。 果たして自分がどんな道を歩んでいくのか。 いったい何が成せるのか。 どんな人とともに、家庭を築いていくのか。 「先が見えない」ということの不安にいつも苛立っていたような気がする。
今思えば、先の見えない真っ白な未来があるということは、青春時代のもっとも贅沢な特権だったはずなのに、何故あんなに不安になったり苛立ったりしていたのだろう。 一生の仕事を持ち、家庭を育み、当たり前の人生をがっちり築いているように見える「オトナ」達の「安定」を、何故あんなに羨んだりしていたのだろう。 毎日、自分のことだけ考えて生きていて許されていたのに、何がそんなに苦しく重かったのだろう。
40台半ばの「オトナ」になってしまったおばさんには、あの日の不安、あの日の苛立ちの意味は、もう判らない。 かといって、自分の仕事を持ち、子ども達を産み育て、人生の後半戦を生き始めた現在を「安定」とも思えない。 抱えていくもの、担がなければならないものは増えたけれど、やっぱりそれほど「先」が見えたわけじゃない。 あの頃に比べて、少しお利巧にになったことはといえば、 「先はみえなくてもいい」 「先はみえないからいい」 と思うことが出来るようになったことくらいか。
帰り際、父さんのいないところでオニイがそっとささやいた。 「かあさん、あの作品、どうなったん?」 オニイは私の先日の日記を読んで、焼成中に破損した父さんの作品のことを気にかけていたらしい。 「どうもならへんよ。窯場の隅に置いてある。」 「ふうん、そっか。」
思えば、家にいる頃、オニイは父さんの仕事について訊くことはあっても、作品そのものの出来についてはほとんど尋ねたことはなかった。 陶芸の学校に進んで、自分の手で土を捏ね、物作りを学ぶようになってはじめて、作家としての父さんの仕事に関心を持ち始めたということなのだろうか。
失敗しても、呻きながら立ち直り、再び作り始める。。 作っても作っても、「まだ足りない」と首をひねり、新しい土に向かう。 そんな父の背中。 オニイ、よく、見て置いてな。 それはきっと、いつか君の力になるはず。
父さんの個展が近い。 搬入日まであと数日。 不眠不休の修羅場が続く。 毎度のことながら、今回も父さんの消耗振りは激しい。 「あと○日!」「あと、もう一つ!」と、自分自身を追い込みながら、イライラしたり、凹んだり。 作業場から乾燥室、窯場から吹付け場へと何百回も往復するので、狭い工房の中だけでも、万歩計の数字は簡単に5桁を刻む。 朝、私が工房に入ると、洗い桶には使い終わった筆や刷毛が何十本も浸かっていて、テーブルの上には無数の釉薬の容器がドリンク剤の空き瓶とともに散乱している。
今朝、素焼きの窯を開けたら、今回一番力を入れて制作していた大作が破損していた。焼成中に何らかの原因で破裂したのだろう。 「何故・・・?」 悪夢としか言いようがない。そばにいる私も、かける言葉がない。 行き詰る沈黙が流れた。
こんな事故はいままで見たこともない。 時間がなくて焦ったか。疲れが出てミスったか。 父さんは何度も何度も自分を責める言葉をつぶやく。 ドロドロと苦悶の海に沈んでしまいそうになる父さんを救出すべく、私も必死に言葉を捜す。
タイムリミットは近い。 乾燥室には、焼成を待つ作品がまだまだたくさん残っている。 救いようのない失敗作をぐずぐず惜しんでいる暇はない。 とりあえず事故作品を窯から出し、父さんの目に触れないところに片付ける。 父さんにペットボトルの冷たい水を渡して、 「30分でいいから、ここを離れよ?気持ちを切り替えて、ね?」と、仕事場から追い出す。 肩を落として工房を出て行く父さんの背中が切なくて、こちらまで胸がぎゅっと苦しくなる。
父さんのいない間に、作業台の下に積もった削り土をきれいに掃き集めて、使いかけの釉薬の容器をきれいにそろえた。 大丈夫。 父さんは、たった30分でも仕事を放棄できない。 すぐに這いずるようにして帰って来る。 失敗しても、凹んでも、作りかけの作品を放って置けないのが作家の業だ。 そして、その息詰まるような苦悶の背中をそっとささえつづけるのが、私の仕事だ。
駄目にした作品は、屋久島の杉の大木を刻んだ大作だった。 樹齢数千年とも言われる老木を、大地から来た土に刻み、窯の火で描く。 父さんがこの数年、大事に暖めて追求してきたテーマだ。 「なかなか、おいそれと造らせてはくれんなぁ。」 気を取り直し仕事場に戻ってきた父さんが、遠い目でつぶやく。 「そりゃそうよ。あちらはなんと言っても2000年だもの。」 父さんの疲れた笑顔を推し量りながら、おそるおそると軽口をこぼす。
さあ、仕事に戻ろう。 繰り返し、繰り返し。 何度でも。
朝、洗濯物を干しに出て、久々に山の木々の上を走る風の音を聞いた。 新緑の木の葉を揺らして、遠くの方からざわざわと緑の波が押し寄せてくる。 満艦飾に干しあげた洗濯物もそれに呼応するようにハタハタと揺れる。 真っ白なTシャツが風を含んで、揚々と走るヨットの帆のようだ。
今週末に行うお茶会のために、アプコに白いシャツを買った。 裾に幅広レースのついた、長めのカットソー。 襟ぐりが少し広めに開いたデザインは、普段アプコが着ているイラスト入りのTシャツよりちょっと大人っぽくて、近頃とみにおませになってきたアプコのお姉さん心を刺激したらしい。 「見て、見て!」 と早速試着して、くるりと回る。 「なかなか、いいじゃん。」 短めのスパッツとあわせればいい感じだ。サイズもちょうどいい。
ふと見ると、アプコの白い胸元に小さなぽっちりが二つ。 一見して布地の汚れかなと思ったのだけれど、そうじゃない。 ああそうか。 華奢でちびっこだから、まだまだと思っていたけれど、もうそういうお年頃になってきたんだな。 5年生。 アユコも初めてブラをつけたのは、5年生だった。 学校でも、宿泊学習を前にして「女の子だけのお話」があったようだし、クラスの子の中には少しずつ少女の体型になりつつある子もいる。 アプコの胸の小さなぽっちりも、健やかな少女の成長の証。 「アプコのおっぱい、見っけ!」と、ふざけて言ったら、キュッと胸を隠して恥ずかしがるしぐさも、ちゃんと少女の振る舞いだ。
「そろそろ、下に何か着けた方がよくなってきたんだねぇ。」 通販のカタログなどを持ちだして、ジュニア向けの下着を探してみる。まだまだ、本格的なブラジャーはいらないけれど、ジュニア向けのタンクトップくらいは必要だろう。 アユ姉は、初めてのブラをつけるとき、ストラップのついたブラはなかなか着けたがらなかった。Tシャツ越しに透けて見えるストラップが恥ずかしいというのだ。だから、長いことタンクトップタイプの「プレブラジャー」で通していた。 「もしかして、アプコも?」と思い訊いて見ると、アプコは今アユ姉が着けているみたいな普通のブラが欲しいのだという。 アユ姉がすることは何でもかっこいいと思えるアプコには、大人の女性の匂いのするブラジャーにも何の抵抗感もないのだろう。 憧れと羨望に押されて、大人へのハードルを易々と飛び越えて行ってしまえる末っ子姫の爛漫がまぶしい。
とはいえ、やせっぽちで脹らみのないアプコの幼い胸には、ブラジャーはまだ無理だ。 アプコの乙女心を満足させるために、とりあえずストラップのような肩紐のついたタンクトップを購入することにする。 ついでに、そろそろ「女の子の日」に備えた下着類もそろえておいたほうがいいのかもしれない。 家の中では、いつまでたっても「チビちゃん」のアプコも、いつの間にやらそんなお年頃。 髪型や洋服を気にする様子にも、大好きな父さんに甘えてしなだれかかるしぐさにも、だんだん、花開く前の少女の淡い香りが感じられるようになって来た。 早いもんだなぁと感慨しきり。
京都で寮生活に入ったオニイ。 連休には「こっちじゃ、休みにこれといってする事がないから」と、帰省してきた。 帰宅して来た日のオニイは妙にハイテンションで、いつも電話で聞くくぐもった声も数トーン高くて弾んでいた。 たった数週間の不在にも関わらず、喜んで兄を迎えた弟妹達が密かに顔を見合わせたりした。
「毎日、なんとか食べてる。料理もそこそこしてるし。 同室の先輩達が料理上手なんで、時々ご馳走してもらってる。 んで、『200円』とか『300円』とか、その場のノリで先輩がつけた値段を払うねん。 結構ごちそう、食べてるねんで。」 なんだか、楽しそうだなぁ。 男の子の寮生活って、なんだか長い長い合宿生活のようでいい。 親元を離れての新生活の不安も、ぐちゃぐちゃ、わさわさの日常に紛れて、感じる暇もないのかもしれない。
「なんだか、君の話は食事のことばっかりやなぁ。 なんか、陶芸の学校へやったのか、お料理学校へ行かせたんだか、判らなくなるわ。」 と揶揄ったら、 「だって、おかあさんに土練りのことなんか、話してもわからんやろ。 陶芸もちゃんとやってるよ。」 と切り捨てられた。 はぁ、そうですね。 何せ、母は陶芸、素人ですから。 あれこれ心配しながら自分を送り出した母に、「とりあえず、うまいもん喰ってる。」という言葉で安心をくれようとする息子。 おうおう、オトナになったねえ。 連休明け、私は毎朝オニイに定時に送っていた目覚まし代わりのメールをやめた。
少しのインターバルがあって、今日、オニイが送ってきたメール。 前日に私が送った銀行の口座の事務のメールの礼にそえて一言。
「すんませんなあ 画像は努力の賜物」
暗い画面にアンモナイトの化石。
・・・・ではなくて、土練りを終えた粘土の写真。
陶芸修行の第一歩は土練り。 大きな粘土の塊を全身の力を込めて捏ね上げ、リズミカルに練っていくと、手の中の粘土塊の表面に規則正しい練り跡が美しい螺旋を描く。 その螺旋が折り重なる菊の花弁に似ていることから、「菊練り」という雅な名で呼ぶ。 普段父さんが土練りをすると、その手の中で重い土塊は軽やかに弾んで、まるで魔法のようにあっという間に渦を巻く。 これまでにオニイも、何度か工房で父さんに習って土練りの稽古をしたことはあったが、なかなかきれいな菊文を見るには至っていなかった。
繰り返し繰り返しの訓練の賜物なのだろう。 陶芸修行の門をくぐったばかりのオニイの胸に、誇らしい菊花の開花。 「やったぁ!」という瞬間をそのままに画像に納めて父母に送る、オニイの気持ちが愛しい。 ちょっとだけ、胸が熱くなった。
Nさんがいなくなった荷造り場で、さっそく包装の仕事。 久々に包装紙やら薄様紙やら、紙の感触を味わう。 何事にも几帳面だったNさんは、裁断した紙のはぎれや使用済みの梱包材、他所から発送されてきた再利用可能なダンボールまで、きれいに仕分けしてそろえておいてくれた。当面の仕事は、彼女が整えておいてくれたシステムにそのまましがみついていれば、なんとか滑り出すことが出来るだろう。
昔、義母とともに荷造り作業をしていた頃と比べると、道具の置き場所や作業場の使い勝手が微妙に違う。Nさんが在職中、荷造り場の仕事はほとんどNさんにお任せ状態だったので、作業場自体、Nさん仕様に変化して行ったのだろう。 正直なところ、Nさんがいるときには、そのことがちょっと窮屈に感じたりしたこともあった。けれども、実際彼女がいなくなって見ると、窯場からも事務所からも毎日とめどなく「お仕事のタネ」がなだれ込んでくるバックヤードでもある荷造り場を、果たして私一人で切り回していけるのだろうかと不安になってくる。
ちょっとした備忘のメモを取ろうとして、手元にまともに書けるボールペンが一本もないことに気がついた。 いろんな人が出入りするバックヤードでは、手近においてある筆記具や小さな文房具類がしょっちゅう消える。「ちょっと拝借」がそのまま誰かの胸ポケットに収まったり、他の場所のペン立てに紛れ込んだりしてしまうからだ。 そういえばNさんも自分の仕事場のセロテープ台や鋏などが「ちょっと拝借」で移動して戻ってこないことを時々愚痴っていた。自分が定位置と定めた場所に置かれた手に合う道具が、使いたいと思ったときにそこに置かれていないということは、ごくごく小さなものにすぎないが確かに軽いストレスではある。 新しい鉛筆を数本削り、新品の事務用ボールペンを下ろして、その1本1本に小学生のように自分の名前を書いたシールを巻いた。 新しい住処の玄関に表札を上げたような気分だった。
ミレーの有名な絵に「落穂ひろい」というのがある。 セピア色の農場風景。数人の女性が収穫後の畑に落ちた麦の穂を拾っている。 初めてこの絵を見たとき、それは収穫を喜び、刈り残した小さな落穂を拾う農婦たちの勤勉を描いたものだと思っていた。 けれども実際には、この絵に描かれた女性たちは農婦ではなく、自分の労働だけでは食べていけない寡婦や貧農たちなのだという。 当時の慣例で、収穫後の畑に残された落穂を拾い集めて糧とすることは、彼らの権利として認められていて、畑の持ち主が落穂を残さず回収することは戒められていたのだという。 私はそのことを、時々自宅のポストに布教誌を入れていくある婦人の手書きのメモから教えられた。
畑の持ち主が、どの程度落穂を畑に刈り残しておくかは、各個の裁量に任されていたのだという。 施しのための落穂の量は、等しく定められたものでもなく、誰かに強制されたものでもない。言わば、自分で決めた量だ。 自分の持っているもののなかから、どれだけのものを畑に残すか。どれだけのものを施しにまわすか。それは、自ら選んで決めることである。 そんな緩やかで厳しい律法で、人としての生き方を縛った古い基督教の教義の柔軟さに驚く。
結局のところ、私が抱え込んでいく仕事や役割というのは、私が収穫後の畑に残しておく施しのための落穂の量なのだろうと思う。 誰から強制されたものでもない。 どこから割り当てられたものでもない。 私がやらなければならないと思っている仕事は全て、私の持っている力の範囲内で最大限克服していかなければならない課題でもある。 なぜならそれは多分、どこかで私自身が選び、私自身が決めた仕事だからだ。
いつも長いスカートを揺らしながらやってきて愛想よく布教誌を投函していくその婦人は、いったいどのような趣旨でもって私にこの短い落穂拾いの挿話を書き記してくれたのだろう。 急に自分に割り当てられた新しい役割の重さに戸惑ったり、愚痴ったり。 まだ手をつけてもいない仕事の山にいじけたり、挫けたり。 「なんで私ばかりが・・・」と思う気持ちと、「本当に私に出来るのだろうか」と惑う気持ちと。 そんな私の意気地のない逡巡を、見知らぬ彼女が知る由もない。 それでも慌しい荷造り場の作業の合間に、彼女の几帳面な文字で書かれた落穂拾いの挿話が思い浮かぶのは、私が新しい仕事を自分自身の役割として受け入れつつあるからなのだろう。
今度もまた、やっていける。 きっとなんとか、やっていける。 真っ白な薄用紙の束に包丁をいれ、裁断する。 紙を切る涼やかな音は、愚かしい右往左往を鮮やかに斬ってゆく。
10年来、工房に勤めてくれていた二人の従業員さんたちが、同時に退職することになった。 作品の包装や梱包、発送などの業務を一手に引き受けてくれていたNさんと、土づくりと型の仕事を黙々とこなしてくれていたHくん。 窯元としての仕事の重要な部分を担ってくれた二人の不在は痛い。 幸い、H君の仕事を受け継いでくれる新しい職人さんは、ひょんな偶然からすぐに見つかった。この春からオニイが通っている学校の卒業生だと言う。 今週初めから出勤していて、Hくんから土作りや型仕事の引継ぎをしてくれている。 一方、Nさんのやってくれていた包装や梱包の仕事は、当面のところ私が引き受ける事になった。以前には義母と一緒にやっていた仕事なので出来ない事ではないとは思うが、釉薬掛けや調合の仕事と並行して果たして務まるのだろうか。 来月末には窯元主催の大きな茶会を控え、これからはその準備に最もあわただしい時期に入る。 漠然とした不安がわらわらと沸いて来たりする。
いつもどおり、淡々と通常の業務を終えて、Nさん、Hくんは帰って行った。長い間置かれていた二人の私物や道具類が片付けられ、それぞれの仕事場が何となくそこだけガランと空いたような気がする。 従業員である彼らは、何か事情が出来たり、辞めたい気持ちになったりすれば、早々に自分の仕事場を片付けて新しい職場に渡っていくことも出来る。 それに比べて、窯元の嫁である私は、おそらくは生涯この職場を離れることはない。 夫である父さんがここで仕事をし、成長した子ども達がこの仕事を受け継いでいく限り、私もまたこの場所で、黙々と釉掛けをし、汚れ物を洗い、梱包や包装の仕事をちまちまと片付けながら老いていくのだろう。 家族で家業を継いでいくということは、そういうことなのだろうなと、しみじみと思う。
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