月の輪通信 日々の想い
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最近になって遅ればせながら、某動画配信サイトの使い方を覚えた。 嬉しくなって、名簿入力などのPC仕事の傍ら、昔好きだったロックバンドの古い映像などをあれこれ拾ってきては、BGM代わりに流し続けていた。 少女コミックのヒーローのような異形のステージ衣装。 脳天に突き抜けるような激しいシャウト。 何度も何度も繰り返す怒りのメッセージ。 もはや40過ぎのおばさんの私には、ボーカリストの煽りに応えてこぶしを振り上げるエネルギーはないが、若き日の胸の疼くような熱い憧れの思いのかけらを思い出し、懐かしい気持ちになる。
昔、このバンドのライブツアー前のメンバー達の日常を描いたドキュメンタリー番組を見たことがある。 ボーカリストが新しい曲作りに苦心し不眠不休で悶々とのたうつ姿や、演奏のスタイルをめぐってのメンバー同士の激しい言葉の応酬。衣装合わせやリハーサルの様子など、華やかなステージの裏側で見せるメンバー達の素顔が描かれていた。 音楽を楽しむというよりは、頑固な職人達のモノづくりの現場を思わせる地味で着実な作業の積み重ね。憧れのボーカリストの憔悴した素顔を見ながら、できることならお傍によって熱いコーヒーの一杯でも入れて差し上げたいと、夢見る少女は一人妄想を膨らませたものだった。
工房では今、父さんが今月末から始まる大きな展示会に向けて、不休の制作の日々を送っている。 制作のアイディアが浮かぶまでの鬱々としたジレンマの時期をようやく乗り越え、あとは時間と疲労との戦いあるのみ。 その鬼気迫る緊迫感に、工房へ足を踏み入れることすら怖くなるときもある。下手に声をかけると、集中力が途切れると噛み付かれそうな空気がピリピリと痛い。出来るだけ刺激しないように足音をしのばせ、使い終わった刷毛を洗い、新しい釉薬を溶き、土屑を片付ける。 制作意欲の波に乗りかかった父さんは、一人別世界に迷い込んでしまったかのように振り向きもしない。背中を丸め、一心に土を削り、繊細な釉薬掛けに瞳を凝らし、黙々と窯詰めを行う。
何も言わずに放っておけばこの人は、食べることも、眠ることも、しばし横になることすらも忘れてしまうのではないだろうか。 仕事の切れ目を見計らって、ストーブのお湯でコーヒーを入れる。 釉薬の容器や道具類で散らかったテーブルに父さんの大きなマグを置いて、「置いとくよ」とだけ声をかけて、静かに工房から退散する。 「少し、休んだほうがいいよ。」と言う言葉を、なるたけこぼさぬ様に唇を固くつぐんで。
もしかしたら今、私は少女の頃強く憧れた「誰かのためにコーヒーを入れる私」という淡く幼い夢を現実のものとして味わっているのかもしれない。 その「誰か」は、ステージの上で野獣の如くシャウトするボーカリストでもなければ、華やかなスポットライトを受ける美形のギタリストでもない。 けれど、その人の手は、なんでもない土塊の中から美しい形を生み出し、鮮やかな色彩を紡ぎだすことのできる魔法の手だ。 明るい展覧会場にずらりと並ぶ色鮮やかな作品の陰には、ただただ自分の身を削るように一心に土と向き合う作家の厳しい日常がある。 そのことを間近に見守り、おろおろと遠慮しいしい世話を焼き、作品の完成を一緒に喜ぶことの出来る今の私は幸せだ。 そんなことを思う。
お正月の里帰りから戻って、数日振りに我が家での台所仕事。 ピリピリと刺す様に冷たい水を洗い桶に張り、野菜を洗う。
濃い緑の葉っぱつきの大根は、実家の家庭菜園での収穫物。 都会育ちの幼い孫娘たちに収穫の楽しさを味わわせてやろうと父が丹精した大根だ。小学校の学級園で農作業はたっぷり経験済のアプコも、お姉さんぶってお相伴でぬかせてもらった。 土のついたままの立派な大根を新聞紙でくるみ、紐で縛って持ち帰ってきた。
たわしで泥を落とし、葉っぱを切り落として、まな板に載せる。 包丁を入れるとピリピリと亀裂の走りそうな張り詰めた大根を、薄く刻んで千六本にする。柔らかそうな大根葉も細かく刻んで、一緒に塩もみにする。 軽い重石を載せてしばらく置けば、簡単お漬物の出来上がり。 冬の大根が美味しい時期になると、実家のおばあちゃんがよく作ってくれた懐かしい味。確かおばあちゃんはこのお漬物を「もみぬき」と呼んでいた。 生の大根の適度なからみとシャリシャリと心地よい歯ごたえが大好きだった。気がつけば、「新鮮で立派な大根に行き当たったら、まずは刻んでもみぬきに。」というのが我が家の冬の台所の定番となっている気がする。
とうに会社を定年退職した父。 自作の立派な大根を前に 「もう、お前たちのために稼いでくる物と言ったら、こんなものくらいやな」 と笑う。 そうか。 「サラリーマンの定年退職後の生活」というのはそういうものなのかと改めて思う。 定年のない自営業の我が家では、高齢の義父母やひいばあちゃんも「ここから先は無職」というポイントがない。だから、何歳になっても窯元の仕事の一端を担っているような感覚が自他共に抜けない。 実際、年齢相応の衰えにしたがって仕事の量や質は落ちてはくるものの、健康の続く限りこまごまとした雑用や簡単な軽作業の「手」として何らかの役割が用意される。 それは、有難い事なんだろうか、それとも苦しいことなんだろうか。 くだらないことを考えてみたりする。
新年の挨拶にと、今年も父さんが干支の置物やお茶碗、香合などを実家に贈ってくれた。 毎年、あちこちにお配りしたり販売したりするために、年末ギリギリまで窯も乾燥機もフル回転で何十個も焼き上げる干支作品。家族従業員が総動員でようやく年内にすべてが納まった。 実家へ持ち込んだのは昨年最後の窯から出た、最終の作品。やっとのことで年が明けてから包装したものだ。
「一年の仕事の成果を、こんな風に作品という形にして持ってこられるというのはええ仕事やなぁ。」 と父が言う。 同じく帰省してきている弟達も働き盛り。それぞれの職場で責任ある仕事を任されて、精力的に働いている。 でも、その仕事の成果を直接的な物という形で故郷の父母の手の上に広げて見せることは出来ない。 「ものつくり」の仕事は、そういう意味でも幸せな仕事なのかもしれないなぁと思う。 父母は毎年、新年に私達が持ってくる干支作品をその場で開け、玄関の一番良く見える下駄箱の上や、和室の棚に飾ってくれる。 父さんや私の1年間の仕事の成果をこうしてみてもらえることを嬉しく思う。
怒涛のような年末仕事を終え、ゆるゆると穏やかなお正月をすごして、さぁ、今年も一年が始まる。 短い里帰りから戻った父さんは、さっそく工房で遣り残した仕事を始めた。工房の初出は来週からだけれど、父さんの仕事はもう元旦の翌日から始まっている。今月末の個展に向けて、新作の制作にも火がついてきたようだ。 また忙しくなる。 暖かい汁物の鍋をストーブにかけ、煮物や青菜を鉢に盛る。 夕食前の茶の間から子どもらの賑やかな声。 これも私達の仕事の成果。
朝、子どもたちを送り出して、工房へ。 父さんの夜なべ仕事で使った釉薬の刷毛や筆をまとめて洗い、義母の洗濯機のスイッチを押して2階へあがる。
今日は週に2回のひいばあちゃんのデイサービスの日。 朝食を終えたひいばあちゃんの着換えを手伝い、髪を結い直して、着換え用の荷物をそろえる。 「おばあちゃん、着替えようか」 耳の遠いひいばあちゃんの耳元で声をかけ、カーディガンのボタンを解く。暖房をガンガン焚いた部屋なのに、上着を取ると 「さっぶい(寒い)、さっぶい」とひいばあちゃんがキュッと背を丸める。 「寒いねぇ。ちょっと待ってね」 大急ぎで代わりの上着を着せ掛ける。
カーディガンと一緒に巻き上がってしまったブラウスをの袖を直そうと、ひいばあちゃんの袖口に手を入れようとしたら、 「ひゃあ、つっべたい(冷たい)手!」 と思いがけない大きな声が出た。 ついさっき、階下で水仕事をしてきた私の手。よく拭いて暖めてきたつもりだけれど、暖かい部屋で過ごしておられたひいばあちゃんにはとても冷たく感じられたのだろう。 「わぁ、御免御免。そんなに冷たかった?さっき、洗い物してきたからね。」 と思わず手を引っ込める。
いつも半目を閉じ、うつらうつらと居眠っておられることの増えたひいばあちゃん。 私たちのこと、どのくらい、判っておられるのかなぁ。 もう、お耳はほとんど聞こえていないのではないかしら。 普段は、老いと言う小さな殻の中にどんどん閉じこもっていってしまわれそうに見えるひいばあちゃんだけれど、それでも今日のように、なんでもないちょっとしたきっかけではっきりした声を出したり、昔の思い出話を始めたりなさることがある。 ああ、今日はご機嫌がいいのだな。 ちゃんと判ってらっしゃるんだな。 そのお声にこもる力強さに、うれしい気持ちがわいてくる。
下着を替えて靴下を履かせ、薄くなった白髪を小さなお団子に結う。 「ええきもち・・・」 ブラシで髪を梳くと、またひいばあちゃんの声が出た。 若い頃から一度も変わらずキュッと固く結いあげていた白髪をくるりと巻いた小さなお団子を留めるには、一番小さなUピンでも大きすぎて、刺しても刺しても頼りない。 それでも櫛をいれ新しく結いなおすと、明治の女の気概がよみがえるのか、一瞬しゃんと背がのびて、うなじの辺りの後れ毛を気にするように自然と手がのびて来る。 「はい、できました。べっぴんさん。」
デイサービスの迎えの時間が迫る。 ひいばあちゃんを階下の玄関のソファーに導いて、一緒に座って待つ。 外は木枯らし。 山の木の葉が雪のように降り注ぐ。 ガラス戸の向こうの風を眺めながら、「寒うなったなぁ」とひいばあちゃんがつぶやく。 ふと気がつくと、ひいばあちゃんの手をさすって暖めていた私の手が、いつの間にか反対にひいばあちゃんの両手に包まれていた。幼い子や孫の手をぬくめるかのように、無意識のうちに私の手をさすって温めてくださっていたのだった。
年寄りの介護といえば、老いて衰えていく人、だんだん判らなくなっていく人のお世話をする仕事だと思っていた。 日々の成長の発見が嬉しい子育ての仕事に比べれば、親しく暮らしてきた人の老いや衰えを日々確認していく介護の仕事は、切なく、先の喜びの見出し難い仕事だと思っていた。 けれども、老いの人との生活にも、確かにこんな驚きや嬉しさはある。 こちらはお世話しているつもりでも、知らぬ間にいろんなことを学ばせてもらったり、そっと励まされ暖めていただいているときもある。 そんなことを思う。
来週、ひいばあちゃんは満100歳のお誕生日を迎える。 お誕生祝いには、寒がりのひいばあちゃんのため、新しい肌着と電気敷毛布を用意した。 少しでも暖かい冬をすごしていただけますように。
地元の小学校での陶芸教室の日。 5年生2クラスの子どもたちと一緒に抹茶茶碗を作る。 私も父さんの助手のおばちゃん先生として朝から出動。 毎年この時期の恒例になったこの教室、オニイが5年生だった年の数年前から始まったのでもう10年近くになるのだろうか。 今日とあさっての二日間で成型し、年が明けてから近くのレクレーション施設にある陶芸窯で素焼きと本焼きを行う。
父さんが見せる水引きロクロのデモンストレーションに、わぁっと歓声を上げる子どもたちの中に、見覚えのある苗字のゼッケンをつけた体操服の男の子を見つけた。一読では読めない変わった読みの苗字は、アユコの同級生Aさんとおんなじだった。 うちへ帰って、アユコに 「Aさんの下の子って、もう、5年生になったんだね。もっとちっちゃい子だと思ってたのに・・・。」 と言ったら、 「そだよ。だって、Aさんの弟はなるちゃんとおんなじ歳だもん。」 と答えが返ってきた。
アユコの口から、「なるちゃん」という名前がふっとこぼれて、一瞬ふっと不意打ちを喰らったように胸を衝かれた。 なるちゃんは、生まれて3ヶ月足らずで逝った私の次女の名。 10月半ばに生まれて、翌年のお正月明けには天に戻った。 生まれつき心臓に障害があり産院から専門の病院に転院し、ほかの兄弟たちとはほとんど手を触れ合うこともなく逝った、縁の薄い赤ちゃんだった。 あの子が亡くなった時、アユコは4歳。 小さな遺影にお花や水をあげる時ぐらいにしか家族の話題に上ることも少なくなった亡き妹の名を、アユコは友達の弟の年齢を数えるときに当たり前のように使った。 そのことが、毎日あわただしく走り回る私の胸に、ぐいと痛く突き刺さった。
たった3ヶ月しか生きられなかったあの子には、秋の終わりから冬、クリスマス大晦日、そしてお正月のたった10日あまりの日々の思い出しか残っていない。春の日差しの中のあの子、夏のきらめきの中のあの子の姿を私は思い描くことができない。 それどころか、何本もの点滴のチューブや最新の医療機器に傅かれ、お姫様のように病院の白い新生児用のコッドにちんまり横たわっていたあの子の顔立ちすら、記憶の中でおぼろげになって立ち消えそうになっている。 「わが子の顔を忘れるなんて」と母としての自分の記憶の儚さを責める気持ちが、「なるちゃん」という名を久々に耳にしたときの鋭い胸の痛みとしてかろうじてまだ残っているのだろう。
もしあの子が生きていたなら、もう5年生。 どんな女の子に成長していたのだろうか。 そんな夢想すらすることが無くなった今の私。 私の手の中には、元気に成長するオニイ、アユコ、ゲンがいて、あの子の生まれ変わりのように生まれてきたアプコがいる。 一年のうち、秋から冬へのたった3ヶ月の間だけ、あの子は今日のような鋭い胸の痛みとともに、私のところに戻ってくる。
ああ、今年も、帰ってきたのだな。 今年は、やさしいアユ姉ちゃんの言葉を借りて「わたしを思い出して」と降りてきたらしい。 さあ、今年もそろそろあの子の為のクリスマスプレゼントを探しに行こう。 脆く儚いガラス細工の天使やツリー。 暖かくも鋭い痛みを抱いて・・・。
アユコとアプコを車にのせて地域の文化祭へ。 アプコは小学校の合同制作の作品を、アユコはクラブの華道の先生の作品を見に。
華展の一角で、子どもたちにいけばな体験をさせてくれるコーナーがあって、アプコは毎年それを楽しみに出かけている。近所のいろんな流派の華道教室の先生方(ほとんどがかなり高齢)が、一人ずつついてフラワーアレンジの真似事をさせてくださる。
今日、最初にアプコについてくださった先生は、たまたまその中では一番偉い先生だったらしい。途中からそばにいた別のおばあさん先生を呼びつけて、「この子はあなたが見てあげなさい」と交代を命じられた。 おばあさん先生は恐縮して「私なんかより先生が見て差し上げたほうが・・・」と言われたのだけれど、偉い先生は「私は顧問ですから、やりません」と言い放って、どこかへ行ってしまわれた。 そのくせ、おばあさん先生がアプコに教え始めると戻ってきて、「茎は斜めに切っておいてあげなさい」とか、「あなたが活けるんじゃなくて、子どもさんにやらせてあげなければ」とか、横からいちいち茶々を入れる。 そのたび、おばあさん先生が縮み上がって謝っておられるのが痛々しかった。
横で見ていたアユコ。 「あの先生、こわ。」とそっと耳打ち。 デモね、お茶やお花のお教室では、ああいう物言いをする人も結構居るよ。長幼の序とか、師弟関係の上下とか、そういうことをとても重要視する世界だからね。 」 「お茶やお花は好きだけど、そういうのは嫌だな」 というアユコ。
その後、ゲンを迎えに剣道の道場へ ちょうど稽古が終わって、ゲンは先生方に順番に挨拶に回っているところだった。 アユコはゲンの道場での稽古姿を見るのは久しぶり。 体格のいい大人の剣士たちに混じって、くるくると独楽鼠のように走り回っているゲンの姿を目で追う。
「見てごらん。剣道にも、段位の高い先生とか年長の先生とか、暗黙の序列があって、ご挨拶するにも手合わせを願い出るにも、ちゃんと決まりごとがあるんだよ。 ゲンは大人稽古では、入りたてのペーペーだから、あちこち雑用に走り回って、たくさんお辞儀をして大変だけど、でもある意味そういう上下関係を重んじることで道場内の秩序は守られていくんだろうねぇ。」 アユコにそんなことを話した。 「ふうん」と頷くアユコ。 あちこちにぺこぺこ頭を下げて回る剣道着姿のゲンを見て、何か思うところがあったようだ。
数日前、義母、入院。 骨粗しょう症による骨折。 工房仕事も立て込んでいて、父さんも義兄も不眠不休の毎日。 老人宅の家事や介護に、義母の入院先への面会の仕事も増え、毎日ギリギリいっぱいの日々。
朝、オニイやゲンはそれぞれ剣道の稽古。 車でゲンを道場まで送って、とんぼ返りでデイサービスに出るひいばあちゃんの身支度の手伝い。 たまたま地域の公園清掃の時間が重なっていて、そちらのほうはアユコとアプコが母に代わって出動してくれた。 頼りになる娘たち。
公園清掃のときにアユコが大人たちの話を小耳に挟んで帰ってきた。 数日前、同じ校区の古い神社で火災があったようだ。そういえば珍しく遠くでサイレンがなり続けていた夜があった。
この神社は校区のはずれの山の中にある古い神社で、ゲンが獅子舞を務める若宮神社もこの神社の宮司さんの管轄内。宮司さんちの長男はアユコと同級生だ。 宮司の奥さんは、子どもたちの小中学校への登下校を毎日車で送り迎えしておられる。「山奥住まい」同士のよしみで、しょっちゅう「私たち主婦は、誰かの送り迎えばかりで人生の時間を費やしていくのね」と愚痴を言い合って笑う仲。 舅姑を抱え、跡継ぎとなる息子たちを育て、伝統を継承する夫の仕事を支えて、町から離れた不便な生活環境を笑って楽しむ。そんな自分とよく境遇に、お互いなんとなく親密な気持ちをもってお付き合いしてきた。
火事は社務所を全焼したが、住まいやご神体などはなんとか無事だったとか。うちの子どもたちがお宮参りした本殿は、焼け残ったのだろうか。 うわさでは、いつも焚いていたお灯明のろうそくの火が原因らしいという。古くから代々お守りしてきた伝統ある社殿を、自分たちの不注意で焼失させてしまった宮司さんたち御家族やご高齢のお母様の心中の痛みはどれほどのものだろう。
そういえば我が家だって、工房の2階は3人の老人たちの生活の場として大方「養老院」状態だけれど、もしも何かの不注意で火災でも起こったとしたら、命の心配はもとより、住まいや仕事場とともに、窯元としての歴史や信用も一瞬に失ってしまうことになる。 昔から「陶器屋は、火事を出したら終わり」といわれるそうだ。多分花火職人や鍛冶屋など、火を扱う仕事場はどこでもそんなふうに言われてきているのだろう。 他人事ではない。気を引き締めてあたらなければと思う。
アユコと同級生の長男君は、小学校の卒業文集で「将来宮司の勉強をして、父の後を継ぐ」と立派に宣言したしっかり者。これから、お父さんと一緒に社殿の復興という大きな重責を担っていくのだろうか。 「おかあさん、大丈夫やろうか」と同級生を気遣うアユコに、応えてやるすべがない。 一日も早い御復興をお祈りする。
朝、子どもたちをあわただしく送り出して、洗濯機をまわして、朝食を片付けて、ほっと一息ついたところで義父からの電話。 「ひいばあちゃんがデイサービスに出るので、着替えを手伝いに来てほしい。」 義母は相変わらず激しい痛みで起きられず、義兄もまだ出勤してきていない。ひいばあちゃんの着替えや髪結い、朝食の支度は毎朝の私の仕事となりつつある。 昼間は義兄も出勤してきて、老人宅の家事を手伝ってくれるがあくまでも忙しくお仕事に立ち回ってもらわなければならない人。 家事や介護の多くは私が駆けずり回ることになる。
2件分の家事の合間を縫って、中学校へ。 アユコたちの中学は学校公開期間。 ゲンの学活とアユコの国語の参観をしてきた。 アユコの国語は楽しいK先生の万葉集の授業。 なかなか上手な先生で、表情豊かに芝居っけたっぷりにしゃべられるので、子どもたちに混じってノートをとりながら、楽しく授業を受けてきた。 それにしても、どのクラスも落ち着いて静かに授業が進められている感じ。去年の今頃は学校全体が荒れてて、ざわざわうるさかったり始業時間になっても教室に入らない子がいたりして、とても心配したものだったけど。
いま、来月の合唱コンクールに向けてどのクラスも練習中。 学活の時間にはどのクラスも合唱の練習をしていた。校舎のあちこちから、子どもたちの熱心な歌声が聞こえてきて、ほのぼのといいなぁと思う。 帰りに運動場を見たら、一クラスだけ外で練習しているクラスがあった。 担任の先生らしい人がグラウンド端に立って、もう一方の端っこで生徒たちが横2列に並んで歌っている。先生が子どもたちの歌声を聞いて、頭の上で大きな丸を描いたり、手を振ってバツを描いたりして、合図を送っている。 きっと、遠くまで聞こえる大きな声を出すための特訓なのだろう。
暖かい日差しの中、遠くで宙に大きな丸を描く若い先生のジャージの白がまぶしくて、ウルウルと涙がこぼれそうになった。 このところ、ちょっとお疲れモードのせいだろう。 涙腺がもろくていけない。
夕方、おばあちゃんちへいってたアプコが慌てて帰ってきて、 「おばあちゃんがたいへん。助けに来て」という。
義母のリウマチ。ここの所冷えたせいか、再発しつつあるらしい。 居間で横になっていたが、痛くて起き上がれなくなったらしい。 義父が手を貸そうとしたが、痛い痛いと大きな声で言うばかりで埒が明かないので、アプコを使ってSOSを出したようだ。
慌てて飛んでいって義父と二人で起こそうとしたが、うまくいかない。 あれこれやってみたが、義父にちょっと退いててもらって、義母に私の肩に手をかけて抱きつくようにしてもらって、一人で体を持ち上げるようにしたら意外にあっけなく簡単に起こすことができた。 TVやなんかで見たことのある介護術を思い出して、真似してみたんだけど、さすがに理にかなっているらしい。 介助するほうにとっても少ない力で腰を痛めることなく、介助されるほうにとっても楽な方法がきっとあるのだろう。 おそらくは、たくさんの人たちのたくさんの経験の中から確立されたのであろう介護の技術。こんなことなら、こういう介護の理論をどこかでちゃんと習っておけばよかったと、いまさらながら思う。
いよいよ、我が家も家族で3人の年寄りを支える介護生活に突入の気配。 じわじわと覚悟を決めつつ、ため息をつく。
アプコと習字に行った帰り、近所のスーパーに立ち寄る。 アプコ、駄菓子屋で来週の遠足のおやつを買い込んで、ご機嫌。 鼻歌など歌いながら、車に乗り込む。 駐車場のゲートを抜けようとしたところで、助手席のアプコが「うわぁっ!」と大きな声を上げた。びっくりして急ブレーキを踏んだら、アプコ、窓のそとを指差して、 「ほら、見てみて!すっごい夕日!まん丸だよ!でっかいねぇ!」 見ると、民家の屋根の向こうに、まさに今沈もうとしている見事な夕日。 「すごいねぇ、おかあさん。オレンジのシール、貼ったみたい。」 判った、判った。 夕日に感動したのはわかったけれど、頼むから運転中に、横から大きな声で叫ばないで頂戴。 近頃とってもハイテンションなアプコ。
「おかあさん、あのね。」 夕日の興奮から醒めたアプコが、ポツリポツリとしゃべり始めた。 「このごろね、ちょっと嫌なことがあるの。」 アプコのクラスには、自閉症傾向のある女の子Hちゃんがいる。 一年生の頃からHちゃんと同じクラスのアプコは、ほかのお友達と一緒に何かとHちゃんの手助けをしたり遊んだりしてきた。幸い、担任のベテラン先生の上手な導きのおかげで、アプコたちクラスメートはHちゃんのことを「障害のある子だからお世話する」のではなく、「時々お手伝いの要るお友達」として、特別な隔てなく仲良くすごしていたようだった。
「あのね、このごろ、Hちゃんと一緒に遊んだりしてるとね、ほかのお友達と遊べなかったり、置いてきぼりにされたりすることがあるの。 前はそんなことなかったんだけど・・・。」 Hちゃんの事が大好きなアプコは、困った顔で訴える。 3年生になって担任の先生も変わって、クラスの子達とHちゃんの関わり方も変わってきたのだろう。一年のときから同じクラスで、Hちゃんが比較的心を許してくれているアプコが、なんとなく「Hちゃん担当」ということで固定されてきているようだ。 そういえば、先日の運動会の時も、どの競技もアプコはHちゃんと一緒。ダンスもかけっこもアプコが要所要所でHちゃんの手を引いて導いていた。
アプコたちの担任は、新米のお姉さん先生。 こどもたちにもとても好かれていていつも一生懸命な先生だけれど、まだ障害のあるHちゃんを上手にクラスに溶け込ませる指導をする余裕まではないらしい。成り行きとして、いつもHちゃんのそばにいてニコニコ手伝いをしているアプコに「Hちゃん係」を任せておく形になってしまうのだろう。
「前はみんなHちゃんのこと、とりあいっこするくらい、仲良しだったのにね。どうしてかなぁ。」と首をかしげるアプコ。 「で、アプコはどうなの?Hちゃんと一緒に遊ぶの嫌だなぁと思ったりしてる?」 「ううん。でも、ほかのお友達とも、もっといっぱい遊びたい。」 「そだね、いろんな友達と遊びたいよね。」 難しいなぁ。 すぐにはアプコの悩みにうまく応えてやることができなくて、夕日のまぶしいフロントガラスにサンバイザーを下ろした。
学年に一人障害を持った子がいると、その子の「お世話係」の役割を負う子どもが必ず存在する。 いつの間にかその役割は一人の子どもに固定化されていて、クラス替えがあってもなぜだかいつもずっと同じクラス。 遠足の班分けも、運動会のダンスの並び順も、修学旅行の部屋割りも、当然のように同じ組。 そんなふうに、普通校での障害児の学校生活をサポートするシステムが昔から暗黙の了解のうちに存在しているらしい。 私自身、幼稚園から中学卒業までの10年間、知的障害のあるTちゃんと言う女の子とずっと同じクラスだったし、アユコも同じような経験を続けている。 多分アプコも、いつの間にかそういう役割を担うことになりつつあるのだろう。 そのことがなんとなく推測できるだけに、「なんで、Hちゃんといっしょだと、ほかのお友達と遊べないんだろう」というアプコの素朴な疑問に明確な答えを与えてやることができない。
「あのね、Hちゃんね、このごろ一人で紙芝居を作ってるん。 Hちゃん、お話はできないけど、絵はすっごい上手やからね。 だから、文章は私が読むねん。」 ちょっと私が考え込んでいるうちに、アプコの話題はあっという間に別の方向へ飛ぶ。 小さな悩み事はちょっと脇に置いといて、楽しい話題にくるくるめまぐるしく転換していく気散じがアプコのすごいところ。 いちいち考え考えアプコの話に付いていく母は、時々こんな風に置いてけぼりを喰らって、うろたえる。
「わぁ、おかあさん、みてみて! 今度はおつきさん。まん丸ででっかいねぇ。」 信号を曲がると、目前の山並の稜線に、薄い輪切りにしそこなった大根のような少し端の欠けた白い月。 「さっきの夕日とあわせたら、ほんまに『コラボレーションや〜』やねぇ。」 と、アプコは言い馴れないカタカナ言葉を何度も繰り返し叫んで笑う。 こらこら、運転中の車の助手席では騒ぐなというに・・・。 やっぱり、すぐにハイテンションに戻るアプコ。 その幼さがありがたい。
父さん、取材のため比叡山へ。 この間、外国からのお客様に渡すお土産用の花器の注文があって、その宿泊先である比叡山の風景を作品に入れてほしいとのこと。 何でも実際に自分の目で見て、取材してからでないと制作に取り掛かれない父さん。工房仕事の合間を縫って写真を撮りに出かけるという。 夏からずっと工房仕事に追われていて、あまり夫婦で遊びに行くこともなかったので、ドライブをかねてわたしも便乗。 助手席でナビを務める。
ナビゲーターといっても、私はからきし地図が読めないので、ロードマップの所定ページをしっかり開いて持ってて、信号待ちのたびに父さんに渡して、信号が変わると「変わったよ!」とアクセルを促す。 あとは、お茶のペットボトルの蓋を開けたり、料金所で小銭を探したり。 まったく半人前のナビゲーターだ。
途中父さんは何度も車を止め、山の遠景を写真にとったり、さらさらとデッサンしたり。 私は後ろにくっついて、荷物を持ったり、カメラ渡したり、水彩用の水を確保してきたり。 取材モードに入ると父さんはカメラ片手に遠くの山のほうしか見ないもんだから、「危ないよ、自転車来るよ」とか、「カメラのキャップ、ちゃんとポケットに入れといてね」とか、くだらないことに世話を焼く。 あとはぼーっと、スケッチする父さんの背中を見てるだけ。 取材旅行のお供はいつもこんな感じ。
比叡山の山頂のミュージアムガーデンでたくさんの花を見て、お土産にローズティーとチョコレートを買って、展望台の下にあるカフェでランチ。テラスの日差しが気持ちよかったので、父さんはそこでもしばらくスケッチ。 私は、自分では絵は描けないのだけれど、人が絵を描いてるのを横で見てるのは大好き。 父さんは小さなスケッチブックに筆ペンで遠い山並や樹木の輪郭を写し取り、携帯用の固形絵具でさっと色付けをする。 多分父さんには、もう、その風景をどんな風に作品に取り込むか、具体的なアイデアが出来上がっているのだろう。 私はこれから、このスケッチが作品に仕上がっていく過程をずっとそばで見ていくことができる。 これもまた楽しい。。
帰りに、いつも立ち寄る材料屋で定番の釉薬を何種類か買い足す。 山並の青や木々の緑を描くための青や黄色。これを何種類もあわせて調合するのは、帰ってからの私の仕事。
もう一件寄り道。 道路沿いの小さなお肉屋さんで揚げたてのコロッケお買い上げ。 このお店は、父さんが高校生の頃、放課後よく立ち寄ってコロッケを買って食べたという思い出の店。 父さんの懐かしの味をハフハフ食べながら、うちへ帰った。
穏やかな、楽しい一日。
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