月の輪通信 日々の想い
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土曜参観の代休でぶらぶらしているオニイとアユコを習字に送っていく。 先生のTさんとマンツーマンに近い贅沢な稽古の時間。 アユコは4月から習い始めた仮名の稽古。 オニイも初めて6文字の漢字の臨書に時間をたっぷりとる。 基本からこつこつ学んで少しずつ生真面目に上達していったアユコと、中学に入ってから急に習字を習いたいと言い出して、気まぐれに時々出かけて行っては好きな文字を自己流に書きなぐってくるオニイ。書道に対するアプローチの仕方がずいぶん違う。 先生から貰った手本を眺め、最初の印象で大まかな形を捉えて作品に仕上るオニイの書道は、どちらかというと絵画的だなぁと思う。基本の学習も押さえずに感覚だけで入っていった型破りのオニイだが、いつの間にか書道らしい趣も見えるようになってきた。これはこれでいいのだろう。
早くに今日の分を書き終えたオニイにTさんが高校受験や進路の事について話をする。 ○○をちゃんと勉強しておかなアカンよ。○○しておかないと××が困るよ。 受験のノウハウやら試験勉強のやり方など事細かに教えて、挙句にはYちゃんの数学の教科書を持ち出して、数学の乗法公式を教え始めた。オニイ、突然のスパルタ教師出現に面食らっている。Tさんにも中三生の娘があるので同じ感じでお説教してくれるのだ。 「ウチのYちゃんは、試験が近いというのに、○○の公式もあまり理解していなかった。昨夜遅くまで私が教えたんだけど、なかなか××が出来るようにならないのよ。オニイ君はこれちゃんとわかってるよね。」Tさんは元高校教師なので、中学生の数学くらいなら家庭教師代わりが務まるのらしい。 元来ウチでは、母親の私が子どもの教科書をいちいちチェックしたり、試験勉強の内容をにあれこれ口を出したりという事はあまり無い。 ふ〜ん、よその親はこんなに子ども達の学習内容を把握して、試験勉強を手伝ったりしているのかと私も感心してしまう。 Tさんちは、一人っ子。過保護にならないように気をつけているといいながら、子どもの学習内容から体調、友だち関係まで、いろんなことを母親が把握して口出ししているのに驚く。受験生とはいえ、親は15歳にもなる子どもの生活のこんなに細かなことまで把握して、いろいろ助言しておかなければならないのか・・・。 あたしには無理だ。
今朝、奇しくもアプコが私に訊いた。 「ウチのお母さんは悪い点数をとっても叱らないの?なんで?」 アプコにとっては母親は、ドラえもんに出てくるのびた君のママのように子どもが悪い点を取ってくるとガミガミとお説教をする物だというイメージがあるらしい。 「そういえばそうだねぇ、100点取ってもあんまり『凄いっ!』て褒めてくれる事も無いけど・・・。」とオニイも言う。 「別に・・・。悪かったものは悪かったで仕方がないでしょ。お母さん、ん、テストの点数の良し悪しにはあんまり興味が無いのよ。子どもに関しては学校の成績以外のことで気に掛かる事がいっぱいあるからね。」とはぐらかしておく。
この間から、オニイの進路の事について、父さんとも話をする事が増えた。 オニイの希望通り近隣の普通高校へ行くのがよいのか、父さんの母校でもある陶芸科のある学校を受験したほうがいいのか・・・。 オニイの気持ちや適性、経済的条件や家族の将来の生活設計まで、あれこれ考えていくとドンドン泥沼にはまっていくばかりで、何が最善の選択なのか誰にもわからなくなってくる。 長男であるオニイに家業の窯元の継承の可能性を探る我が家では、オニイの進路計画は家業の将来にもリンクする。 子ども達の未来だけでなく、窯元の存続を同時に考えている父さんにとっては、先の見えぬ息子の将来の進路決定は普通の父親以上に気に掛かるものなのだろう。
個展前の制作のイライラや工房の仕事の多忙によれよれに煮詰まっている父さんは、息子の進路の悩みもまた我が事のように抱え込む。 それはそれで、親として立派な事だけれど、なんだか息が詰まりそうな気がしてくる。 「ま、ね。いろいろ考えたって、結局の所、それはオニイの人生の問題よ。選択するのはオニイだし、その事で後悔するのも喜ぶのもそれはオニイの人生よ。」 私は投げるように言って、父さんの重い荷物を一つ下ろしてもらう。。 親が子のために良かれと思って勧めてやる進路決定、最善と思われる準備、自分の経験に基づく助言やお小言も、結果としてその子のためになるかどうかは誰にもわからない。 ならば子ども自身が自分の出来る範囲の中で充分に悩んで、自分で選んだ人生を生きてもらうより仕方がない。 私はそう思う。
「試験勉強を頑張るのも、勉強そっちのけで本を読むのも、結局それは君の選択だしね。だけど、その結果はよくても悪くても自分で引き受けな。」 と投げ出す母は、試験前に子どもに乗法公式を教えノートの取り方までチェックするTさんより、0点のテストにガミガミお小言を言うのびた君の母よりある意味たちが悪い。 「どっちがやりにくいかは微妙な所・・・」とオニイは思っているに違いない。 それで結構。 現実の世の中には、『どこでもドア』や『タケコプター』をいつでもポケットから出して与えてくれる気のいいドラえもんはいないんだから。
「おかあさん、これ、どのくらい切ればいいの?」 付け合せのキャベツを刻んでいるアユコが私に訊く。 自分で見当をつけて剥がしたキャベツが、もうちゃんと洗って籠にあげてあるというのに、その分量にいまいち自信がなくて、必ず母に念を押す。 「このブラウス、ちょっとだけしか着てないから、明日もう一回着ていいかな。」 お気に入りのブラウスをもう一日続けて着たくて、アユコが私に訊く。洗濯籠にいれずに丸めて自分の部屋へ持って上がればいいだけのことなのに、やっぱり母に一言たずねる。 自分で「これでいい」とか「こうしよう」とかだいたいの見当はついているくせに、いちいち母に確認を取るのはアユコの癖。 そこそこ器用で、なんだってやればできてしまう筈なのに、なんだかちょっと念押ししてみたくなる。そういう優柔不断は、アユコには内緒だけれど実は母譲り。
「さあね、知らないよ。自分で決断してね。」と答える母は意地が悪い。 「それでいいよ。」とか「こうしたほうがいいよ」とか、あと押しする言葉を言わない事にしようと決めた。 母が何にも言わなければ、アユコはしばらく逡巡して、そして自分で決断する。ちゃんと自分で決める力は持っているのだ。自分で決めたことをちゃんと最後までやる力も・・・。
今日、アユコは初めて一人で美容院へ行った。 プールの授業が始まる前の年中行事。冬の間、長く伸ばして束ねていた髪をばっさり惜しげなくカットして、ショートヘアに変身する。いつもなら母の美容院行きに便乗して、隣のいすに座って一緒にカットしてもらっていたのだけれど、もうそろそろ一人美容院デビューをしてもいい頃だろう。 「美容師さんにどんな風に髪型を説明していいんだか、わかんないよ。」 「前髪を短くして、変になったらどうしよう」 例によって、アユコは出かける前に散々悩む。 「ねえねえ、お母さん。なんていったらいいと思う? 肩より短くしたほうがいい? それとも髪ゴムで結えるくらい長めにしておいたほうがいい?」 いい加減母も面倒くさくなって、「何でもいいけど、早く行かないと雨降ってくるよ。自転車で行くんでしょ?」と思わずさっさと切り上げてしまう。 あ、しまった。 背中、おしちゃった。
思い切ったショートヘアをさらっと揺らして、アユコの自転車が軽快に帰ってきた。重たい束ね髪がなくなって、頭が小さくなったとアユ子が笑う。 白いTシャツには、さっぱりショートヘアがよく似合う。
「おかあさん、あたし、生徒会、立候補する事になったよ」 それはアユコが自分で決めたんだね。
久しぶりに用事で小学校の職員室に行ったら、W先生が大ぶりの花器に奔放にのびた紫のセージをたっぷり活けておられるのに居合わせた。一年生の教室の前の花壇にたくさん咲いているのだという。 近頃あちこちの花壇で見かけるセージの類は、適地を見つけるとドンドン株を太らせ、種子を撒き散らし、勢力範囲をぐいぐい広げていく。 「この紫のセージはラベンダーセージ。」 もてあまさんばかりの豊かな葉っぱと惜しげもなく散り急ぐ紫の花弁をなんとか花瓶に収めて、W先生が笑う。W先生は、以前にストレプトカーパスの鉢植えを下さった園芸のお好きな先生だ。 「アプコちゃんに、今日、花の名前を教えといたんだけどなあ、きっと忘れちゃってるね。」 一年生の教室の近くには、赤い花の咲くパイナップルセージの株もあって、その葉っぱからはパイナップルに似た甘いにおいがする。その葉っぱをアプコに見せて「パイナップルセージ」という名前を教えてくださったのだという。みずみずしい緑の葉っぱを手渡されて、小首をかしげながらくんくんとその匂いを嗅ぐアプコの姿が思い浮かんで、何とも微笑ましくなった。
帰宅するとアプコがさっそく頂いてきたセージの一枝を見せてくれた。 途中お友だちのKちゃんの家に寄り道したアプコは、Kちゃんのお母さんにも見せ、しなびてしまわないようにコップの水に浸してもらっていたのだという。 「ねぇねぇ、いい匂いがするよ」アプコは家族全員の所を回って、みんなにくんくんさせてくれた。 まだ花もつぼみもない一枝を、大事に大事に持ち帰ってくる一年生の愛らしさ。 「なんていう名前だったっけ?」と聞いてみると 「パイナップル・・・なんだっけ」と自分の好きな果物の名前だけを記憶しているのがご愛嬌。
「アプコ、お花を花瓶に挿すときには、下のほうの葉っぱはとってね、水に葉っぱが浸からないようにしないといけないよ。葉っぱが腐って水が汚くなるからね。」 この春から学校のクラブで生け花を習い始めたばかりのアユコが教える。 ガラスのコップに挿したアプコのセージの下葉をきれいに取り除いて、活けなおす。 「ほぉ、いいこと知ってるんやねぇ。」 母が教えようとも気づかなかった事を、学校で習ってきたばかりのアユコが幼い妹にさりげなく教える。 これもまた、なんだかちょっといいなぁと思う。
「ところでアユコ、この間あなたがいけてくれたお花、そろそろ片付けておいてね。なでしこのつぼみももう咲かないみたいだし。」 週に一度、クラブの稽古で頂いてくるお花はアユコが工房の玄関や自宅におさらいを兼ねていけなおしてくれる。日が経ってしおれたり、散ったりしたお花を始末するのもアユコの役目だ。 気温が高くなり、いけた花の持ちもだんだん悪くなり、油断をすると花弁を落として軸だけになった百合や開花を見ずに固く萎んだカーネーションがいつまでも醜態を曝すことになってしまう。
「一番きれいなときを過ぎてしまった切花は早く片付けてやらないと可哀想。しおれた花なら飾らないほうがまし。」 実家の母は昔、そういって盛りを過ぎた花瓶の花を長く放置しておくのを嫌った。 なるほどなぁと思いつつ、でもまだもしかしたら咲くかもしれない小さなつぼみや散りゆく間際の美醜の狭間すれすれの彩りを残した花弁を捨て去るには忍びなくて、花首を折る手元が逡巡したのを思い出す。 「花は盛りの一番美しいときを愛でる。老いさらばえた姿を人目に曝さない。」という心使い。 儚げな草花ばかりを好む母の美意識。 最後の一輪が息絶えるまで、見守ってやりたいという私の躊躇。 年齢を重ね、女としての一番美しい季節を既に見送った母は、そして私は、いつから迷うことなく盛りを過ぎた切花を手折ることが出来るようになったのだろうか。
そんな思いを打ち消すように、アユコに枯れたお花の処分を促す。 若く、美しく、これから花開かんとする青いつぼみの年齢を生きるアユコには、花弁を落とし終焉を待つばかりの百合の心情は理解できない。 ましてや、赤い花とも白い花とも見当のつかない幼いアプコには、美味しいフルーツの香りのセージの小枝が似つかわしい。 ガラスコップに近づくとほのかに甘い果実の香り。 食いしん坊の鼻がぴくぴく動く。
冷蔵庫の野菜室が空っぽになったので、買出しに出かける。 いつも大盛り格安の八百屋さんでキャベツや玉ねぎなど重くてカサのはる野菜をドンドンレジ籠に入れて、グルッと一回りしてから目に付いたのが籠いっぱいのキュウリ。 ざっと見ただけでも20本以上。それがたったの190円。 「なんだか笑っちゃいますね。」と傍らで品定めをしているご夫人と笑う。 「キュウリばっかりこんなにあっても困るけど・・・」といいながらもう彼女は買う気満々。ご主人に目配せしてもう一つレジ籠を調達している。 なんだか変なところで負けん気出しちゃって、私も一盛お買い上げ。 まだ、買い物を始めたばかりだというのに、両手にいっぱい野菜の入ったレジ袋を抱え込む羽目になって、うんこら言いながらいったん駐車場まで荷物を置きに戻った。
「見てみて、笑っちゃうでしょ。このキュウリ。」 レジ袋にずっしり重い大盛りキュウリは数えてみれば25本。 一本、十円しないのね。 一本のキュウリの株から、一日に一体何本のキュウリが収穫出来るのだろう。つやつや輝くまっすぐな上物のキュウリを10円足らずで買われたんでは、農家の人たちは「笑っちゃうね」では済まないだろう。 得した気持ちと、なんだか誰かに悪いなぁと言う気持ちで買ってきたキュウリを机の上に並べてみる。
とりあえず、だし醤油で我が家定番の簡単浅漬けをと、父さんの好きなミョウガを一パック。 こちらはまだまだ出始めの少々お高い値札がついていた。 キュウリを買い叩いたお詫びにと、高値を承知で買って来た。 トントンと荒く切ったキュウリにミョウガの細切りを添えてジャブジャブとだし醤油をかけて冷蔵庫で一晩。 我が家の夏の味が食卓に戻ってきた。 おばあちゃんちへのおすそ分けのあとに残ったきゅうりは15本。 セロリと一緒に甘酢でつけたり、酢の物にしたり、毎食毎食、食卓に上ることになりそうだ。。
高校生の頃、家庭科の授業でキュウリの輪切りのテストがあったなぁなんて昔のことを思い出した。 いかにも「家庭科の教師!」っていうタイプの老先生がストップウォッチを持って女生徒たちの輪切りの実技を厳しく採点する。お手手つないだ連結キュウリや半円型の欠陥キュウリは減点対象。一枚1ミリ以下と基準が決まっていて、結構大変なテストだった。 テスト前に何度か自宅の台所で輪切りキュウリの特訓をしたのも懐かしい。 あれはちょうど高校一年の今頃の季節だったか。 あのときに今のような大盛り格安キュウリがあったら、きっと私の包丁さばきもぐんと上達したに違いない。 ちょうどいい、キュウリがたっぷりある間に、アユコに「キュウリ輪切り」の自主練習でもさせてやろう。几帳面なアユコはきっと完璧な満月キュウリを刻む事が出来るようになるだろう。
・・・・と、相変わらず自分は「お手ェ手ェ〜、つ〜ないで〜♪」と鼻歌を歌いながら、減点キュウリを刻む。 きっとあのオールドミスの先生がごらんになったら「ンまあ!」と呆れて目を丸くなさるだろう。そうそう、尖った眼鏡の奥の小さな目をまん丸にして、唇をとんがらせて連発なさる「ンまぁ!」というあの口癖。影でみんなでモノマネしたっけ。 懐かしい。 なんだか笑っちゃう。
「おはよう、お母さん。今日僕はついに天才を超えたで!」 とにぎやかにゲンが起きてきた。普段からすっきりと寝起きのいいゲンが今日はことさら上機嫌で降りてくる。 6月6日、今日はゲンの11歳の誕生日。 「天才=10才」のダジャレらしい。
今年も何日も前から自分の誕生日を楽しみにしていたゲン。 誕生プレゼントは、前々から一度飼ってみたかった「ダイオウクワガタ」のペアと飼育用品。 誕生日の夕食は、母手製のクリームコロッケ。 ケーキは、一緒に下見に行ってひと目で惚れこんだメロンムースのホールケーキ。「メロン好きにはたまらない!」というキャッチコピーにコロリと魅せられてしまった 学校では、クラスの友だちから書いてもらったたくさんのメッセージカード。 「年に一度の誕生日なんだからさ。」と、自分であれこれ考えてリクエストした誕生日メニューに、ゲンの顔がほころぶ。 「嬉しくてたまらない」という気持ちが、隠しても隠してもニヤーッと頬の緩みで露呈してしまう。 そういうゲンの単純さというか素直さというか、なんとも愛すべきキャラクターがゲンの最大の才能だと母は思う。
「もう、そろそろ『ろうそくフゥッ』は卒業かなぁ」 と問う私に照れくさそうに「いやぁ、やっぱり誕生日にはアレがなくちゃ・・・」と答えるゲン。 いいんだよいいんだよ。 いくつになってもデパートの風船を欲しがってもいいように、 まだまだ「ろうそくフゥッ」が嬉しいという気持ちを隠さなくていいんだ。 中学生になっても高校生になっても、もっとおじさんになっても、嬉しいときには「嬉しい!」と、欲しくてたまらない時には「欲しい!」と言ってみていい。 嬉しい気持ちをストレートに人に伝えられる素直さは、きっとゲンの人生の大きな戦力になるに違いない。 君は喜ぶことの天才だ。
去年の誕生日には「今年の抱負は?」と聞かれて、「メロン丸ごと一個喰い!」と即答したゲン。あちこちで公言していたら、今年の正月、ゲンはメロン王になった。 今年の抱負はと訊ねたら、 「クワガタムシをドンドン繁殖させる事!」 だそうで・・・。 どうも、少々欲深いのが気にはなるけれど、公言してしまえば夢はかなうかも。 こういう欲張り加減もゲンにはちょうどいい。
昨日の事。 夕方ゲンが一泊二日の宿泊学習から帰ってくる。 うちへ遊びに来ていたKちゃんを迎えにきたKちゃん母が、 「いま、小学校のほうで大型バスの音がしていたよ」 と教えてくれたので、 「わ、予定よりずいぶん早く着いたんだなぁ」と慌ててトッポで迎えに出た。 通学路の一本道では小学生の姿をみる事も無くて、あらら?と思っていたら、小学校には既に人っ子一人子どもが居ない。知り合いのお母さんが、 「もう、とっくに帰ったんだってさ。」と聞いてきてくれた。 一本道で、入れ違いになる事はないはずなのになぁと家へ急ぐと、途中の畑のところで近所のI さんのおじさんが飛び出してきて、大きく手を振っている。 「いやぁ、すんません。お兄ちゃんここに、いたはります。私が呼び止めてちょっと寄り道させてしまいました。」と言われる。 見ると、首からタオルを掛け、リュックを背負ったままのゲンが、ニコニコ笑って手を振っている。 「さっきお母さんの車が前を走っていかれるのが判ったんやけど、呼び止めるのが間に合わなくて・・・。実はね、ゆすら梅がたくさん実ってね、息子さんにちょっと食べてみんかと思って・・・」 畑の奥にある2本の木に真っ赤な小粒の実がたくさんなっている。実った枝を重そうにしなって、なんだかとっても美味しそうだ。 「うちのモンじゃ、とてもたべきれないんでね、よかったら摘みにきてくださいよ。さくらんぼほど甘くはないけど・・・」 既にゲンはナイロン袋を貰って、たくさん摘ませてもらっていたらしい。 「おかあさん、いいお土産ができたよ」 とへらへら得意そうに笑っている。 「あらら、それはそれはすみません。」 I さんにお礼を言って、ゲンを車に乗せる。 ゲンから貰ったゆすら梅は、本当によく熟したさくらんぼのような赤色で、食べると酸味の利いたさわやかな甘さが美味しかった。
で、今日の事。 父さんの車で I さんの畑の前を通りかかったら、今度は I さん、小さいお孫さんたちと一緒に畑仕事をしておられた。 「昨日はどうも。ゲンが珍しいもの頂きまして・・・」とお礼を言ったら、「やぁ、ちょっと車を停めて、皆で摘んでおいきなさいよ。」といってくださる。同乗していたアプコは大喜び。たまたま自転車で通りかかったアユコも便乗して摘ませていただく事にした。
I さんの話によると、その昔、戦争前には私市の駅の近くには大きなゆすら梅農園があったのだという。 季節になると、お客にカゴを持たせて自由に摘ませる観光農園のようなことをしていたのだそうだ。 戦争になって、食糧事情が悪くなったときに、いっぱいあったゆすら梅の樹は除けられて、畑にされてしまったけれど、その時抜いたゆすら梅のうちの2本が今もこの畑でたくさんの実を実らせているのだという。 「あの時は、村の旧家の何軒かが同じようにゆすら梅の木を貰って引き取ったんですよ。だから、きっと私市のあちこちにこれと同じ木がまだ残っている筈なんです。」 と I さんが教えてくれた。 今はぎっしりと住宅が立ち並ぶ駅前辺りの一体どこにゆすら梅農園があったのだろう。 由緒正しいゆすら梅の老木には、枝いっぱいに赤いルビーの粒がひしめくように実って、子ども達はナイロン袋に集めるのももどかしく、木から口に直接運んでは嬉しそうに笑う。 まだ2歳くらいの小さいほうのお孫さんが、種を取ってもらった果実を何度も何度もせがんで、口を尖らせる。 「この子、何ぼでも食べよるわ。」 と根気よく種を取っては孫の口元に運ぶ I さんもまた、なんだかとても嬉しそうだ。
実のなる木がうちにあるっていいなぁと思う。 その木の下に集って来る人がいるから。 うちの「猫の額」にもまた何か植えようかしらん。 日当たりがわるいもんだから、以前に植えたブルーべリーのようにビックリするくらいすっぱい果実が出来ても困るんだけどね。
アプコのお友だちのKちゃんのお母さんから、大輪の透かし百合を貰った。 Kちゃん宅の庭で今朝最初のつぼみが開いたばかりだという。 がっしりと立派な花茎に10個近くのつぼみがついていて、切花にしても順々に開花していくそうだ。 「あらら、わるいわねぇ、ありがとう。でもせっかく咲いたばかりなのに、気前よく切ってくれちゃって、ホントにいいの?」 と聞くと、 「いいのいいの、庭に植えてても、家の者しか見ないし、花を切っても球根は残るからまた来年咲くしね。」という。
Kちゃん母の庭のポリシーはすっきりしている。 植えるのは四季咲きのバラと百合だけ。 たまにKちゃんむけにプランター植のいちご苗とか近所のおじさんが気まぐれにくれたかぼちゃ苗を居候させたりする事はあるが、そのほかの植物はほとんど植えない。地植のバラの肥料分を横取りするからといって、パンジーやペチュニアなどのポピュラーな草花も植えない。 バラが開花の時期を迎えると、余分のつぼみはどんどん摘心してしまい、残したつぼみが膨らみかけた所で、惜しげもなくパチンパチンと切ってしまって、近所の友だちや通りかかった知り合いに、「持って帰って」とあげてしまう。たくさんの種類をそろえた百合も、最初のつぼみがほころびかけると、パチンと切って「ほいよっ」と誰かに上げてしまう。 誠に気前がいい。 だから、Kちゃんちの庭自体にはいつもほとんど花の色が無い。 「ホントに貰っちゃっていいの?お庭が寂しくならない?」と何度も何度も聞くのだけれど、どうやら開花が始まったらパチンと惜しげなく切ってしまうのがKさんの庭作りの習性らしい。 長く開花させないほうが元の株や球根を疲弊させなくてよいのかもしれないけれど。
工房の茶道の稽古日になると、義母がパチンパチンと花バサミを鳴らしながら我が家の庭へ訪れる事がある。 「なんか、お茶花にいいお花、ないかしらん?」 茶室の掛け花入れに毎回飾っておく茶花は、ほんの数輪でよいのだけれど、洋花はダメだったり、茶室周りの目に付く所にある花はダメだったり、なかなか選択が難しい。特に庭に花が途切れる冬場などには結構茶花の調達には苦心をする。 たった一輪ようやく咲いたばかりの水仙とか、季節の終わりに咲き残った名残の小菊だとか、ちょっぴり愛しい思いでめでている花も義母の所望にあうと泣く泣く摘み取って献上しなくてはならないときがある。 実際、義母はあまり自分のうちの庭仕事には熱心ではない。季節の変わり目ごとに「なんか植える花を買いに行かなくっちゃねぇ。」と、玄関のからっぽのプランターを指して言われるけれど、差し迫って自分に買いに出かけようとはなさらない。他所から頂いた珍しい植物も、最初の花を見ると後は興味を失っているようだ。 宿根の植物も一年草も区別無く、花がなくなると雑草と一緒に抜いてしまったりするので、なかなか育たない。 どうやら義母の思う花壇とは、お茶花調達用の冷蔵庫のようなもので、花つきで買ってきた宿根草も、一回分のお茶花に花を切って使ったら、後の株には来年の花はあまり期待していないように思われる節がある。 それはそれ。 その人の庭作りの習性。
春の終わり頃から、パラパラといろいろな種類の花の苗を買った。 マリーゴールド6株、サルビア4株、トレニア5株、アメリカンブルー1株、フクシア1株、カンパニュラ2株、バーベナ4株、ブルーサルビア2株、ペチュニア3株、星咲きフロックス4株。 今年の春は種まきに失敗が多かったので、夏から秋に向かい、庭が寂しくなりそうな気配だったので、あちこちの園芸店で数株ずつ、自分の好きな定番の草花をいろいろ買い込んだ。 そのうちの半分以上は、園芸店の片隅で開花の盛りを過ぎたり、切り戻しをサボって徒長したりした「お買い得見切り品」だ。 私はこういう落ちこぼれ株を格安で買って帰って、挿し芽をして殖やしたり、結実を待って来年用の種子を取ったりするのが好きである。 新しい株を買うときにも、「こぼれ種でよく増える」とか、「挿し芽で殖やせる」とか「植えっぱなしでも毎年花をつける」とかそういうキャッチフレーズにめっぽう弱い。 庭の草引きに出ても、こぼれ種で発芽したビオラの幼株やランナーでやたらと増えるワイルドストロベリーの子株も、抜きかねて残してしまうので、なんともまとまりの無い雑然とした混植ガーデンが出来上がる。 誠に貧乏性のガーデニングである。
自分の好きな花、頂き物の株、どこからか紛れ込んできた名も知らぬ草花。 行き当たりばったりに植えた脈絡の無い花たちが奔放に生きている。 野放しの様相の我が家の花壇。 今年はどこぞやでみた花壇と雰囲気がにてきたぞ・・・とつらつら考えてみて思い出した。 私が小学生の頃、実家の母が社宅の庭で細々と楽しんでいた小さな花壇。 マリーゴールドもサルビアも、そして近頃ではあまり見かけなくなった星咲きフロックスも、あの頃どこの庭でもよく見かけたちょっと懐かしいにおいのする懐メロフラワーだ。 どうやら歳を食うと庭の好みも幼い頃を回帰しがちになるらしい。
ゲン、淡路島への宿泊学習に出かけた。 天候はあいにくの曇り空。これから雨が降るという。 地引網体験やキャンプファイヤー、ちゃんとできるといいのになぁ。 昼前からしっかり雨降り。 久しぶりにお洗濯物は部屋干しだ。うっとおしい。
午後、アプコの下校時間を見計らって、歩いて迎えに出る。 久しぶりに歩く雨の山道はしんと静かで、木々のこずえを打つ雨の音と傘に当たる水滴の音、そして砂利道を歩く自分の足音が耳に静かに染み込んで来る。 時折、ホトトギスの鳴く声がする。 雨もいいなぁと思ったりする。
坂をぐんぐん下っていったら、向こうのほうから小さい子どもの声が聞こえてくる。 妙な節がついてるなぁと思っていたら、やっぱりアプコの歌声だった。 赤い傘をくるくる回しながら、大きな声で鼻歌を歌いながら歩いてくる。 友だちとさよならして、ひと気のない坂道を歩きながら、一人で楽しげに歌っているのだ。普段は照れ屋で、「歌ってよ」と乞われると大概笑って隠れてしまうアプコなのに、一人ぼっちだとこんなに大きな声で歌っているんだな。 アプコはまだ、カーブのこちら側で立ち止まっている母の姿に気がつかなくて、上機嫌で調子っぱずれの裏声で楽しげに歌っている。 かわいいなぁ。 歌っている歌は小学校の校歌だった。
母の姿を遠くに視とめて、ぴゅーっと駆け出してくるアプコ。 ランドセルがカタカタ鳴って、横にぶら下げた給食袋が大きくゆれる。 「おかあさん、あのね、今日は音楽があったよ」という。 「あ、そう。じゃ、今日は小学校の校歌、習ったでしょ?」 「へ?何で知ってんの?」 アプコは自分がついさっきまで習ったばかりの校歌を大きな声で歌っていた事をすっかり忘れている。 「さぁねぇ、なんでかねぇ。」 と誤魔化すと 「皆が歌ってるの、お家まで聞こえた?ね、大きな声だったでしょ?上手やった?」 と繰り返し聞いてくる。 「うんうん、上手やった。」 と調子を合わす。
母の知らないところで、友だちと歌を歌い、大きな声で本読みをし、のぼり棒に挑戦するアプコ。 学校に居る子どもの行動の全てを家に居る母にはわかるわけがないのに、アプコはどこかで、自分の歌う歌や本読みの声や校庭での汗の全てを母が見聞きして知っているように思い込んでいる。 幼いアプコのささやかな思い込みが本当は私には嬉しかったりする。 まだまだ、私とこの子のへその緒のつながりが消滅していないような気がして・・・。
毎日。好天気が続く。 「ただいま」と帰ってきた子ども達が冷蔵庫へ直行する事が多くなった。牛乳と冷やしたお茶の消費量がぐぐんと増える。 また夏がくるんだな。
「おかあさん、今日の宿題、本読みぃー!」とアプコが飛んでくる。 一年生の宿題といえば、ノート1ページ分のひらがなの練習と簡単な一ケタの足し算のプリント、そして国語の教科書の本読みだ。 ほんの数行の文章を音読みしては「本読み表」に読んだ回数と保護者のサインを記入する。 本読みとはいいながら、授業や宿題で何度も何度も繰り返し読む文章はほとんど暗記していて、教科書がなくても暗誦できるくらいになっている。 ちゃらちゃらと教科書を片手でぶら下げて、歌うように節をつけて教科書の文章を繰り返し読む。
「おかあさん、この文章ちょっと嫌いなんだよ」アプコが浮かない顔で教科書を見せる。 「ともだち いるよ/いっぱい いるよ/いちねんせいだよ/みんな みんな/あっはっはっは/いっぱい いっぱい」という単元。「ちっちゃい『つ』」といわれる促音を始めて習うページらしい。 「『いっぱい いっぱい』でお話が終わるのって、なんか変だなぁ。ここじゃなくて、どこかほかのところに入れたほうが読みやすいのに・・・」 と不満そうに言う。 「それにね、『あっはっはっは』っていうのもね、『は』が一回多いんじゃないかな、なんか変なんだ。」 どうやら繰り返し本読みを繰り返すうちに、読みにくい発音や言葉のリズムの合わないところが出てきて、それが気になって仕方がないらしい。 確かに普段アプコが音読するのを聞いていると、なんだかいつも同じところで微妙な違和感を感じたり、微妙にリズムが外れたりして気にかかる箇所がある。 ようやく五十音を学んだばかりの一年生にも、文章のリズムの心地よさや、素直に書かれた文章の面白さを味わう力は確かに育っているのだなと改めて驚く。
「国語の本ってね、他にもへんなところがいっぱいあるよ」 と、さらにアプコが教えてくれた。 「さるの だいじな/かぎの たば。/げんかん うらぐち/まど とだな/どれが どれだか/わからない」 これは、濁点のつく文字を習う「かきとかぎ」という単元。 「なんでこのお話には『かき』は出てこないのに、『かきとかぎ』っていう題なんだろう。『さるのかぎ』でいいのに・・・。」 確かに隣のページには、「猿とザル」などとともに、濁点のあるなしで意味のかわる言葉として「柿と鍵」の挿絵も載せられている。 大人の視点からすれば、「かきとかぎ」は挿絵も含めたその単元の名前であって、お猿のお話の題名ではないので、なんの矛盾もない。 けれども、「かきとかぎ」という題名をふくめて何度も何度も音読する子どもにとっては、なんだか余分のものがくっついたへんてこりんな題名と感じられるらしかった。
アプコの指摘にしたがって、久しぶりに一年生の国語の教科書を初めからじっくりと読んでみる。 特に新入学当初の単元は、文字の数そのものも少なくて、一ページにほんの数行。きれいな挿絵はあるものの文章の内容そのものには、あまり面白みも驚きもなくて、なんだかなぁと思ったりする。 子ども達が普段手にする絵本や赤ちゃん向けの絵本などの中には、同じくらいの文字数でも、もっともっと文章そのもののリズムや音読の楽しさに配慮された文章がたくさんあるのになぁ。
えらい先生たちがたくさん集まってお決めになる天下の教科書だ。 これはこれなりに、いろいろと教育的な配慮がたくさん盛り込まれた優秀な教科書なのだろうとは思うけれど・・・。 初めて文字を習う子ども達と同じ目線で、同じくらいたくさん音読して、同じくらい新鮮な思いで評価、改良された教科書であってほしいなぁと思う。
「ひらがな、ぜーんぶならったよ!」と新しいことを学んできた事を嬉々として母に語ってくれるアプコ。 「へんな教科書」に躓くことなく、学ぶ楽しさをいつまでも持ち続けていて欲しいと心から願う。
日曜日のお茶会の準備に忙しい。茶室の庭や工房の玄関の掃除に精を出す。 「若葉茂れる」のこの季節になっても、茶室の垣根の根元や植え込みの中には落ち葉がいっぱい溜まっている。小型の熊手やブロワーで掻きだして集めて谷へ捨てる。秋の落ち葉かきは、木の葉の量も大量で大掛かりな作業だけれど、この時期の落ち葉かきは量は少ないけれど入り組んだ枝の間や石組みの中に入り込んでいて、手間と根気が必要だ。 地面に膝をついて几帳面に小さな落ち葉まで拾い集める義母と違って、何かと大雑把な私に春の落ち葉かきはあまり向いていないように思う。 この時期の落ち葉はほとんどが常緑の木の落ち葉。秋に色づいてワッと葉を落とす落葉樹と違って、常緑の木は新しい若葉が出揃った頃に静かにハラハラと古い葉を落とす。 後進の成長を見届けて人知れずハラハラと地に落ち朽ちていく。常緑の樹のその静かなたたずまいが、私はなんとなく好きだ。お掃除するのは苦手だけれど・・・。
5月27日(金)ゲンの自転車 前編 ゲンの自転車はオニイのお古のマウンテンバイク。ボディも錆さびだし、前カゴもひん曲がっている。おまけにサイズもそろそろ小さくなってきそうだ。「新しい、自転車が欲しいなぁ」といいながら、どうせ買うなら次は中学の通学にも使える大人用のシティサイクルを・・・とサイズが合うようになるのを待って、なんとか乗っている。 小学生の男の子にとって、マイちゃりんこは結構大事なアイテムだ。特に我が家は友だちの家や学校などから少し離れた山の中にあるので、遊びに行ったり習い事に出かけたりするのに自転車は重要な「足」でもある。
今日、ゲンの自転車が壊れた。 友だちの家に行く途中でチェーンが外れ、おまけに外れたチェーンを噛んで変速機の金具が捻じ曲がり、後ろのタイヤが全く回転しなくなった。 困ったゲンを見かねて近所のオニイの友だちのMくんちのおじいちゃんが故障の具合を見てくださったのだけれど、どうにも直せない。ふだんの整備不良のせいでチェーン付近の錆もひどく、がっちり食い込んでしまったチェーンはなかなか外れもしない。 「これはダメかも知れんなぁ。」との宣告を受けて、ゲンはそのままMくんちに自転車を置かせてもらい、後ろ髪を惹かれる思いで友だちとの約束の場所に歩いて向かったのだという。 後で聞くと、Mくんのおじいちゃんは若い頃自転車屋さんを営んでおられたそうで、元プロフェッショナルのご託宣とあらば、本当にゲンの自転車は再起不能となるのかもしれない。
炎天下に動かなくなった自転車をずるずると引きずって歩き友達の家まで走ってたどり着いたお疲れのせいか、愛車を失った喪失感のせいか、ゲンは意気消沈してしまい、とうとう夜の剣道を休んでしまった。 後で自転車を引き取りに言ったMくんのうちで、帰り際におじいちゃんから「こんなになるまでに時々油でも差して手入れしてやらにゃぁ。」とお小言を言われたのも胸にズシンと堪えたようだ。 あまりの落ち込みように、「しょうがないなぁ、ちょうど誕生日も近いことだし、新しいのを買うか?」と提案してみたりもするのだけれど、ゲンは愛車を壊してしまった自分を責めるばかりで、なかなか表情が晴れない。 取り合えず来週、ダメもとで自転車屋さんに修理に出す事にする。
5月30日(月)ゲンの自転車 後編 昼間ゲンが学校に言っている間に父さんがゲンの自転車を車に積んで、近所の自転車屋へ持って行ってくれた。 自転車屋のおじさんの口ぶりでは変速機の部品が一つダメになっているので、新しい部品を取り寄せる事になる。直せない事はないけれど、すぐに成長して乗れなくなる事を考えれば、部品代をかけるよりは新しい自転車を買ったほうがよくはないかという話だった。そのお店にはおじさんが修理整備したピカピカの中古の自転車も安く売られていて、金額だけ考えればおじさんの言う事ももっともだと思われる。 「新車を買う」 「新しい部品を購入して修理する。」 「変速機を外してしまって『変速機なし』で間に合わせる」 3つの選択肢が示されたが、どれも最善とも言い切れず、ゲンの帰宅を待って自分で決めさせる事にして、持ち帰ってきた。
あんなに新しい自転車を欲しがっていたゲンのことだから、新車購入の話に二つ返事で飛びつくかと思っていたけれど、結局ゲンが選んだのは代替部品を取り寄せて、古い自転車を修理してもらう事だった。 「やっぱり新しい自転車を買うのは、大人用の自転車に乗れるようになってからにしたいんだ。」 小さい頃からオニイのお古ばかりでおニューの自転車を買ってもらった事のなかったゲン。ぶつぶつ文句を言う事も多かったけれど、彼なりにおんぼろになった自転車への愛着もあるのだろう。 廃車寸前の古い自転車に高価な代替部品はもったいないかなぁとも思いつつ、ゲンの意見を尊重して再び自転車屋さんに持ち込むことにする。
夕方、自転車屋さんからの電話。 明日は定休日だから、今日のうちに取りにきてくれないかという。 部品を取り寄せると聞いていたのでもっと日数が掛かるかと思っていたので、あわててゲンと一緒に直行する。 「ありあわせの部品でなおしてみたんやけどなぁ、これで勘弁してくれるかなぁ。」 自転車屋のおじさんは、新しい部品を取り寄せる前に手持ちの中古の部品でなんとか修理を試みてくれたらしかった。てっきり廃車の運命かと諦めかけていたゲンにとっては、部品が中古だろうが新品だろうが、贅沢はいえない。 おじさんがからからとペダルを回すと、軽やかにタイヤが回り、変速機がカタンカタンと動き出す。 「わ、直ってる!」と大喜びのゲン。 「こんなもんでええかなぁ、部品は中古やけど・・・」と気にするおじさんに、「いいよ、いいよ」と二つ返事。 「あー、この子はなかなか融通の利く子やなぁ。」 とおじさんの方もあっさり大喜びするゲンに感嘆しておられる。 「あと1年半、頑張って乗ろうと思ってた自転車でね、直していただいてとっても嬉しいんですよ。よく直してくださいました。 と重ね重ねお礼を言う。
「お代は1000円、貰っていいかな。」 あらかじめ聞いていた新品の部品代の数分の一。 何度も汚れた自転車のタイヤをはずして、あれこれ整備に時間を割いてくださったはずなのに、手間賃も含めてたったそれだけしか請求されなかった。 そればかりか、「中古なのに部品代貰って悪いね。」というような口ぶりにただただ恐縮して頭を下げる。 さっそく乗って帰りたいというゲンに「気ぃつけて乗りや」と笑って自転車を引き渡すおじさんは、最後まで「今度新車を買う時には・・・」という言葉を言わなかった。 商売っ気のないおじさんだなぁ。
「快調!快調!」 ビューンと自転車を飛ばして帰ってきたゲンの晴れやかな笑顔。 「よかったねぇ、あの自転車屋のおじさん、ただもんじゃないね」 自転車を直してもらった嬉しさとともに、ありあわせの材料で鮮やかに古い自転車を再生させる確かな職人技に心温まる思いをさせていただいた。
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