月の輪通信 日々の想い
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2005年02月09日(水) いつかくるその日

ここ数日の雨で、室内に生乾きのまま溜まった洗濯物。
今日は久しぶりの晴天でぽかぽか陽気だと天気予報が言うので、張り切って戸外に干すつもりで洗濯機を回してから、子ども達を送りに出た。
父さんは義兄と一緒に信州へ日帰り出張で、昼間は帰ってこないので「今日はしっかり家事をやっつけるぞ。」と思っていたら、父さんの携帯から電話。
「ひいばあちゃんの調子が悪いらしい。
何度呼んでも起きてこないというから、急いで様子を見に行って来て。
状況によっては救急車を呼ぶように。」
出先の車中から工房に電話して、義母から訴えを聞いたが、どうも様子がわからないらしい。あわてて、掃除機を投げ出して工房へ向かう。
いつも元気なひいばあちゃんも御年97歳。
普段達者なだけに、何かあって呼ばれると胸がドキドキする。
「いつかは必ず、その日が突然にやってくる。」
考えないようにしているその事が、いやでも頭に浮かんで苦しくなる。

結局ひいばあちゃんの不調は先日来の風邪で、義母が呼んでも熟睡していてなかなか目覚めなかったという事だったらしい。
義父がすすめた吸い口のお茶を一口二口飲み、ちゃんと受け答えもはっきりしていらしたので、まずは一安心。
「大丈夫そうよ。ちゃんとお話してはるし、お義父さんが何度も様子を見に行って下さるから。」と、折り返し父さんに電話して、へなへなと力が抜けた。
父さんや義兄のいない時には、従業員の人たちがいてくださるとは言うものの、実質義父、義母、ひいばあちゃんの老人世帯になる。三人とも日頃は元気に立ち働いておられるので、何と言う事はないのだけれど、ひとたび誰かが不調になると、心配の種は尽きない。
家事の合間にたびたび工房の様子を見にはいくものの、今日のようなことがあると、私だけでは判断のつかないことや、どう対処していいのかわからないことばかりで、うろたえてしまう。
高齢の人とともに暮らすということは、いつもそういう不安を心のどこかに潜ませて過ごすという事だ。
今は健在な義父と義母が、一手に抱えてくださっているけれど、徐々に、義兄が父さんがそして私が、その不安を引き受けていかなければならないときが来る。
着実にその日は近づいているのだという事を、改めて実に染みて感じる事件だった。

「さてさて、洗濯物を・・・」
と、洗濯機の蓋を開けたら、また工房から電話。
月参りのお寺さんが見えたという。
あわてて、我が家のお位牌をかかえて、工房へとんぼ返り。
お経を挙げてくださっているお坊さんの脇から、「遅刻しました!」とささやいて、次女の小さなお位牌をお仏壇の隅に加えさせていただく。
義母は、「お仏花をあげてなかった。」とあわてて、冬枯れで花のない庭へ花鋏を持って出て行ってしまう。
義父は、いつもお渡しする御回向料のお包み用のお札の算段をなさる。
黙々とお経を読まれるお寺さんの後ろで、バタバタとお茶の用意をしたり、お懐紙を探したり。
月に一度決まった日においでになる月参りなのに、いつでも「ありゃ、大変!」とお寺さんの姿を見てからあわてて支度をする事も多くて、笑ってしまう。いつもなら皆が右往左往している時にも、ひいばあちゃんがおっとりとお寺さんの後ろに座っていてくださって、お仏壇周りの支度も何かと指示して下さるので、こんなにバタバタすることはないのだなぁと思う。
いつもちんまりとテレビの近くの席に座り、仕事の合間にうつらうつら居眠っておられるひいばあちゃんの存在が、まだまだこのうちの中では大事な柱の一つになっているのだなぁと改めて思う。

お寺さんを見送って、ふたたびうちへ帰ってくるともうお昼前。
いつのまにか、朝のうちの濃い霧が引いて、天気予報の予言どおりぽかぽか陽気になっている。
ホントならこんな好天気に溜まった洗濯物を干し損ねたら、なんだかとっても大損をした気分になって、慌てて干し物を始めるのだけれど、朝から2連チャンの大騒ぎにホッとしてついつい作業の手が止まる。
雨上がりのキラキラ光る木々の梢を眺め、暖かな日差しに胸を張る。
再び戻ってきた穏やかな日常の一こま。
「いつかくるその日」の不安を晴らすように、パンパンと洗い立てのジーンズの膝を叩いた。


2005年02月08日(火) 水溜り

朝から雨。
赤い傘をさして、アプコがピョンピョンと水溜りを飛び越えていく。
まだ、片手で自分の傘を支える事は出来なくて、両方の手で優勝旗を掲げ持つように傘をさす。
足元の水溜りに気が散ると傘をさす手の方がお留守になって、いつの間にかフェルトの帽子が霧のような雨に濡れる。
「アプコ―、濡れてるよ。」
今日は珍しく、ゲンがついつい遅れがちになるアプコを促す。
この春、班長さんのアユコが卒業したら、今度は5年生のゲンが班長さんになって新入生のアプコの手を引いてこの坂道を登校していくことになる。
いつもは些細な事でアプコを怒らせたり、本気で口げんかをしたりするゲンだけれど、彼なりに幼い妹の危なっかしい歩みを気遣う兄らしい所もあるのだなぁと気付く。

「昨日ね、ここの水路に落ち葉がいっぱい溜まってね、うちの前の道路に大雨の時みたいにざーざー、水が流れて大変だったんだよ。」
アプコとゲンに昨日の昼間の大騒ぎの話をする。
うちの前を流れる小さな水路は、山から下の田畑に水を引き込む、大切な用水路。いつも綺麗な水がさわさわと途切れることなく流れているが、この季節になると山の落ち葉や風で折れた木々の枝が詰まって時々、流れが止まる。
昨日は、うちより少し上手のTさんのおうちの前で木の葉の堰が出来て、そこから道路にあふれ出た水の流れが我が家の前の谷側の排水溝に向かって滝の様に流れ出していたのだ。
「水利組合の人たちに来てもらわなくっちゃね。」
と文句を言いながら、近所の方たちと一緒に水路の落ち葉や木の枝を掬い上げ、なんとか流れを元にもどしたものの、一緒に流れ出た土砂や木の葉で道路は汚れたままだった。
Tさんは一人暮らしのお年寄り。
昨年秋から施設に入られて、ずっとお留守だ。いつもふらふらと近所を歩き回り、よそお庭をのぞいているだのどこかの飼い犬に石を投げただの、いろいろ問題があっての施設入所だった。
日がな一日、話し相手も無くぶらぶら時間つぶしをしていたTさんが、時には慰みに水路に留まった木の葉のよどみを突付いたり、流れのそばの木の枝を拾って傍らに寄せておいたりすることもあったのだろう。
もしかしたら、そんな老人のたわいない手慰みが、山の水路の穏やかな弛みない流れを支えている事もあったのかもしれないなぁと思ったりもする。
「水がいっぱい流れてきて、トッポちゃん大丈夫だった?」
アプコが思い出したように我が家の愛車トッポの心配をする。
「水がざーざーといっぱい流れてきて大変だったよ。」という私の言葉をきいて、アプコの頭の中に浮かんだのはもしかしたら、TVで最近よく目にする津波や洪水の映像だったのかもしれない。
小さな水路からあふれ出た水の流れと大災害の濁流を重ねてしまうのは、幼いアプコの豊かな想像力のなせる業だなぁと思う。

「おかあさん、怖い!」
バス停のすぐそばの通りに出て、急にアプコが立ち止まった。
雨が小降りになって傘を閉じると、鏡のように静かになった水溜りの表面に木々の梢や電線の影がくっきりと映る。
さっきまでピョンピョンと飛び越して遊んでいた水溜りに写る空に気が付いて、急に怖くなったのだという。
「だって、落ちそうなんだもん!」
水面にゆらゆらゆれるまやかしの空に、ぴょーんと飛び込んだら一体どこへ落ちていくのかな。
なんでもない水溜りが急に怖くなった自分が可笑しくて、アプコはケラケラ笑い出すけれど、そのくせその手はいつもよりぎゅっと強く私の手を握っていたりする。
小さいその手のぬくもりが、いつもよりひときわ愛しくて、なんだかとても嬉しかった。


2005年02月03日(木) 豆を煮る

節分。
アプコは幼稚園で福豆の小袋と鬼のお面、そしてなぜか例年さくらんぼの味のキャンデーをもらってくる。
「今年は誰が鬼になってくれるのかなぁ。お父さん、おうちにいる?今年はおにいちゃんがやってくれるのかなぁ?」
幼いアプコはまだまだ豆まきが楽しみなお年頃。
家でも福豆の包みと丸かぶり用の巻き寿司をしっかり買い揃えて、準備万端整えてある。
あらかじめそれぞれの家族の数え年分の豆を、新しい懐紙に一人分ずつ包んでお供えする。子ども達がはしゃいで投げる分の豆もたくさん要るけれど、最初にとっておく数え年分の豆の数も結構な量になる。ことに、おじいちゃんおばあちゃんひいばあちゃん、3人分だけでも小さな小袋一つ分だけでは足りなくなったりする。
福豆はおばあちゃんちの分も含めると、全部で5袋も買った。
「ひいばあちゃん、いっぱい豆が食べられていいねぇ。」
アプコは普段いり豆なんて見向きもしないくせに、小さな懐紙からこぼれんばかりのひいばあちゃんの福豆の数をうらやむ。
「すごいね、父さんの豆と母さんの豆、二つ合わせたよりひいばあちゃんの豆の方が多いよ。ひいばあちゃん、長生きだね。」
ほんとにほんとに嬉しい事。

節分だからというわけではないけれど、食品庫の奥で眠っていた一握りの大豆を圧力鍋で煮る。
以前「もらい物だけど、料理したことないから・・・」という友達から貰い受けて来たものの、私自身も普段は水煮の大豆を愛用していて乾豆を煮た経験はほとんどない。なんとなく億劫な気がしていたのだけれど、この間から玄米ご飯を炊くようになって圧力鍋が少し身近になったこともあって、思い立って大豆をたっぷりの水につけた。
にんじん椎茸こんにゃくを細かく刻み、細切りの昆布とともに甘めに煮る。
ぱらぱらと硬い大豆が、見る間にふっくらと水を含み、こっくりと甘い煮豆に仕上がっていく過程がなんともふしぎで楽しい。
この間の玄米といい、今日の大豆といい、硬くて小さな穀物の粒の中に豊かな滋養と自然の甘みがひっそり眠っている、昔ながらの常備食のもつひそかなパワーに感嘆する。

夕餉の頃、ここ数日体調を崩した義母の為に煮あがった豆を小鉢によそってアプコとゲンに届けさせる。
「ひいばあちゃんに渡したらかえっておいで。うちもすぐに晩御飯だからね。」といったのに、なんだかなかなか帰ってこない。しばらくして息を弾ませて走って帰ってきたアプコに聞くと、「お豆の数を数えていたの」という。
煮豆の受け取ったひいばあちゃんが、「今年の節分の数え年の豆は、やわらかい煮豆にするわ。」といって、煮豆の鉢から99個の煮豆を数えて小鉢に取り分けて下さったのだそうだ。
子ども達の目の前で、一粒一粒箸でつまんで煮豆の数を数えてくださったひいばあちゃんの心遣いが、ほこほことやわらかく暖かい。

「鬼は外!」「鬼は外!」
アプコとゲンが鬼の面をつけた父さんを追う。
きゃぁきゃあと騒ぐ弟妹達を、オニイとアユコが余裕の表情で見守っている。
「『鬼は外』ばっかり言わないで、ちゃんと『福は内』もやっといてね。」
用意した福豆はあっという間に空になった。
家族揃って暖かな食卓を囲む。
我が家の福は確かにここにある。
沈黙の掟を守って、皆でくすくす笑いながら巻き寿司をかじった。


2005年02月02日(水) 寝言

夜中一人でPCに向かっていると、傍らで眠っている父さんが寝言を言う。
昨日に続いて。二日連続だ。
昨晩はやけにはっきりした声で、「おかあさん、おかあさん」と私を呼んだ。母親を呼んでいるのではない。確かに私のことを呼んでいるはっきりした口調だった。寝言に応えてはいけないと聞くので、黙って聞き流してはいたけれど、あんまりはっきりと大きな声で呼ぶので、ビックリした。
今夜はなんだかお経でも読むような、長い長い呟きが続いた。
意味のある言葉は聞き取れないが、何かとってもイライラと怒っているらしい。途中で起こそうかとも思ったけれど、そのうち大きな寝返りを一つして、呟きは急におしまいになった。
後から父さんにきいてみると、一日目はどんな夢を見ていたのか全く思い出さない。二日目は確かに、教室の仕事をしていて思わぬトラブルが発生して困っている夢を見ていたのだという。
夢の中でまでお仕事をしているなんて、本当に仕事熱心なことと呆れ半分で父さんと笑う。
仕事のこと、家族のこと、作品のこと。
毎日毎日、タイマー片手にあちこち奔走する父さんは51歳。 「働き盛りの中高年」という奴だなぁ。いろいろしんどい事や悩み事を抱えて頑張っている父さんの丸まった背中がやけにいとおしく感じたりする。

そういえば昔、父の寝言を聞いた事がある。
大学生の頃、父の単身赴任先の東京のマンションに遊びに行った夜のこと。ワンルームの部屋で隣に寝ていた父が、明け方突然「うぉーっ!うぉーっ!」となんどもなんども吠えたのだ。それもとても父の声とは思えない獣のような甲高い声で。
横にいた私が怖くなって父を揺り起こすまで、父の遠吠えは続いた。
後できくと、猿がいっぱいやって来るので、それを威嚇して追い払うために大きな声を出している夢を見ていたのだという。
どうやら父がその夢を見るのはそのときが初めてではなくて、母に訊くと「うん、それ、何度か聞いたことあるよ。そのときも猿が来たって言ってたわ。」という。
厳格でいつも自信満々に人生を歩んでいるふうに見えていた父の隠れた一面を垣間見たようで、ショックを受けたのを思い出す。
思えばあの頃、父はちょうど今の夫と同じ年頃ではなかったか。
家族を守り、忙しく仕事に奔走し、単身赴任先での不自由な生活にもささやかな楽しみを見つけ、健康を保つためにジョギングを欠かさなかった。勢力的な壮年期を過ごしているように見えた父にも、ひたひたと迫ってくる猿の群れのような、不安やイライラや逼迫感があったのだろうか。
「夜中に突然、お父さんが『うぉーっ!うおーっ!』って吠えるんだもん。ホント、怖かったよ」と若い私は父の寝言をいつまでも笑い話のように弟達に話したけれど、母はいつも「お父さんにもいろいろ想うことがあるのよ」とそのことはあまり話題にしたがらなかった。
働き盛りの坂道をスピードも緩めずに駆け上っていこうとする夫の姿を、なかば頼もしく、なかば心配しながら、母は見つめていたのだろう。
わが夫の寝言をすぐかたわらで聞くこの年になって、初めてあの日の母の心持の一端に触れた気がする。

近頃父さんは独り言も多い。
二人でたわいもない話をしている最中に、突然独り言モードになって何か考え込んでいたりする。仕事の段取り、明日の予定、作品のアイディア。父さんの頭の中には、いつもいつも、たくさんの懸案事項がぐるぐると巡っている。
「そこからは独り言?アタシは返事しなくてもいいんよね?」
と断って、父さんを独り言の世界へ解放する。「ああ、悪い悪い。」と言いながら、父さんの意識は自らの内へ向かう。さっきまで下らない談笑をしていた私の存在が、ぐっとかすんで父さんの視界の外に遠くなっているのがよくわかる。
いつもいつもそばにいて、空気のようになじんだ存在になっている父さんの中に、私の知らない「男」がいる。
父さんの寝言に黙って耳を澄ます私には、そのことが少しまぶしくもあり、少し怖かったりもする。わが身の半身のようでありながら、たくさんの謎を抱く夫の寝顔を、時々じっと眺めてみる。


2005年02月01日(火) 機関銃トーク

久しぶりに七宝の教室へ出かける。
お昼前に京阪の駅を出て、地下鉄一駅分を歩く。ランチタイムのオフィス街にはあちこちに小さなワゴンやピクニックテーブルで安価なお弁当を売る出店が出ていて、OLさんやサラリーマンのおじさんたちが忙しくお手軽なランチの包みを買っていく。
都会のOL経験のない田舎の専業主婦も、月に一、二度、先生のお宅へ伺うたび、物珍しさでオフィスランチのお相伴をする。
から揚げやハンバーグなどのお弁当定番メニューのほかに、煮物や和え物など家庭のお惣菜っぽいおかずも目に付く。ふりかけや味噌汁などのおまけがつく店もあれば、暖かい缶のお茶をサービスしてくれる店もあったりする。
今日はいつも立ち寄るなじみの角のワゴンのおばさんの店が、顔色の悪い青年のワゴンに変わっていて、立ち寄ってみるとお店の名前も違うようだ。ランチタイムの数時間が勝負のお弁当屋さんたちも、これだけ店が多いと競争も激しいのだろう。
「ご飯は、かやくごはんか、玄米ご飯にも出来ますが・・・」
私の前に値段の安いほうのお弁当を選んだサラリーマンのおじさんは、迷わず「玄米!」とだけ答えて、小銭を払って去っていった。健康が気になるお年頃なんだろうなぁ。
冷たい風に背中を丸めて店番をする青年は、物憂げな動作で顔色が悪い。
ねぇねぇ、若いんだから、もうちょっと元気な声だしな。君こそ、玄米ご飯、食べた方が良いよ。

先生のお宅にはいつも4,5人の生徒が、思い思いの時間にやってくる。
いつも朝から昼過ぎまで精勤に通ってくるのがYさん。昼前にたどり着くのが私。午後から、ぱらぱらやってくる方が2,3人。
Yさんは、70代のおばあさん。
以前は足の悪いご主人の手を引いて、バスと電車を乗り継いで通ってきておられたが、最近ではご主人の老化が進み、歩行もどんどん困難になってきたので、地域のデイサービスにご主人を預けてこられるようになった。
「おとうちゃんの迎えがあるから、3時にはここを出にゃいかんのですわ。」
と、終始あたふたしながら怒涛のように作品を仕上げていかれる。
ちょうど幼稚園の迎えの時間を気にする私と急ぎ方が一緒なので、笑ってしまう。

Yさんは10歳違いのご主人と二人暮し。
昔は結構厳格な気難しい旦那さんだったのだという。
「いまじゃ、まだらボケって言うんですかねぇ。時々思いがけん変なことを言い出しおるんですよ。今朝なんかね、起き抜けに『じんりょく・・・』ですよ。何に尽力しとるんですかねぇ。何べん聞いても『じんりょく』って呟いて、『それ、なんね?』と聞いても応えよらんのです。そのくせ、『今の総理大臣の名前はなんじゃったっけね』なんて聞くと、『小泉・・・』って応えよるんです。判ってるんだか判ってないんだか・・・。」
Yさんは夫の衰え振りを愚痴るときにもケラケラとよく笑う。
そしてお稽古の数時間の間、何かしらひっきりなしにお喋りをなさる。
ご近所の放蕩息子の話、デイサービスで出会った老人の愚痴話、訪問販売に来て3時間も話し込んでいった若者の話・・・。
なんだか追い立てられるように次から次から新しい話題が飛び出す。
私も含め、他の生徒さん達は仕事の手を動かしながら、Yさんの機関銃のように繰り出す話題に耳を傾け、一緒に笑う。
「Yさんはね、おうちじゃ、お話し相手はだんな様だけですからね、ここへ来たときくらいたくさんおしゃべりがしたいのでしょう。」
Yさんのいないところで、先生は穏やかに笑って言われる。
長年患ったお姑さんを看取られ、十年ほど前にご主人を亡くされたご高齢の先生は、老い衰えていく夫を老老介護でお世話するYさんの姿をどんな風に感じておられるのだろう。
「みんなそうやって年取っていくんですから、手がかかるのもしょうがないですよ。あんなボケたおとうちゃんでもいなくなりゃ、アタシは一人ですから・・・。」とYさんは言う。
老いというのはさびしい。
わが身の老いも辛いけれど、長年連れ添った伴侶が少しづつ老い衰え、子どもに戻って行くのを黙ってお世話していくのも辛かろう。
それでも、互いの老いをからりと笑い話にして、たくましく今日を生きている老人達の静かな底力に心打たれる。

「尽力」
この言葉を、ボケとも達観ともつかぬ目覚めの一言に呟く老人の若き日の生き様に想いをめぐらすと、今の私の生活と老いの日の私を思って、しゃんと背筋を伸ばさねばならぬ気がする。


2005年01月31日(月) かあさん、かあさん

夕方、一番最後に帰宅したオニイが私を呼ぶ。
「かあさん!かあさん!」
息せき切っているので何事かと思ったら、
「そのうちにでいいから、カレー、食べようや。
帰り道、自転車で走ってたら、どこかでカレーのめっちゃくちゃ、いい匂いがしてん。あー、カレーが食いたいな。」
とのこと。

体調もいいのだな。
気力も充実しているのだな。
日に日に男臭くなっていく中学生のオニイが、小学生のようなくしゃくしゃの笑顔でカレーをねだる。
時々「どうしたの?」と訝るほどに、突然食欲魔人と化す少年の旺盛な生命力のまぶしさにになんとなく頬が緩む。

「いいね、そのうちね。」
次の休みには、大きなお鍋でたっぷりのカレーを炊こう。
ところでオニイは、いつから母のことを「おかあさん」ではなくて「かあさん」と呼ぶようになったのだろう。


2005年01月30日(日) 子育てのごほうび

PTAで動員のかかった講演会に出かける。
「次世代育成支援対策セミナー」
要するにこれからの少子高齢化社会の問題をどうするかというお役所の事業計画の説明会。
「○年にはこれだけ子どもが減りますよ。」
「○年には子どもと老人の比率がこうなりますよ。」
「少子化の原因は、こんな事ですよ。」
「○年後の日本はこんなふうになりますよ。」
といろいろご説明くださいますが、うちではもう子どもは作れませんです。
もっと年若い、「結婚しない若者」や「DINK」の皆さんを前にして「子どもを作れー」とおっしゃってください。
一緒に行ったPTA友達とともに、お役人のありがたいお話にツッコミを入れる。
これまで子育て支援の時代といいながら、特別おいしい思いをさせていただいた記憶のない専業母としては、なんだか歯の浮くような「次世代育成支援」というお役所言葉に、白々しい冷ややかさを感じる。

昨日、アプコのランドセル購入に際して、
「この春は、アユコとアプコが入学。
来春はオニイの高校入学かぁ。」
とぼんやり考えていたら、なんとその翌年はゲンの中学入学、その翌年はアユコの高校入学と、これから7,8年、毎年誰かの入学卒業の年が続くという事に気がついた。
「うわぁ、これは大変なことになるぞ。」
別に今に始まった一大事でもなく、子ども達の生まれ年から換算すれば前々からわかっていたことだけれど、改めて紙の上に帯グラフのように書きあらわしてみて愕然とする。
卒業、入学のたびに、ボンと大きな負担となる教育費。
どう切り抜けるよ。
誰か我が家の次世代育成に支援の手をさしのべてくれ。

一緒に講演会に出かけたUさんは、アユコとゲンの同級生のお母さん。
地域の旧家に嫁いで家庭を守り、しっかり子育てをする三児の母だ。
「アタシは多分、おばあさんになってもこの土地の人よ。」
村のしがらみや、子ども達の教育の悩み、母親同士の人間関係のもつれをカラリと愚痴りあって気持ちよく笑うことの出来る彼女は、昨年PTAの役員仲間になって初めて親しくお喋りがするようになった友人だ。
普段、自宅と工房の行き来と買い物だけで生活のほとんどの用が足りてしまう専業主婦の私にとって、親しい友人といえばほとんどが、子どもたちを通してのご縁でお付き合いするようになった人たちだ。
4人の子どもがいれば、4学年分。たくさんの育児仲間に出会う機会が増えてくる。ありがたい事だなぁと思う。
親世代の介護や地域の活動に奔走する人、しっかり資格を取得して子離れ後の就職にトライする人、こころ穏やかに子ども達の成長を見守り暖かな家庭を守る人。
見回せば、私の周りにはイキイキと明日の自分を模索する同世代の元気なお母さんたちがいる。

「久しぶりに喫茶店で飲むコーヒーは美味しいわ。」
「人に入れてもらったコーヒーの味って格別よね。」
学校帰りの小娘のように、一杯のコーヒーで友人とたわいもないおしゃべりをする。
そんな当たり前のひと時が、実は子育てを通じて得た気持ちの良い友人との出会いあればこそ、いわば「子育てのこほうび」ともいえるひと時である事に、気付けた事が嬉しい。


2005年01月28日(金) 窯だし

小学校、5年生の陶芸教室、窯だしの日。
二クラス、60人あまりの子ども達とともに手びねりのお抹茶茶碗を制作する。
昨年末、2日がかりで「てびねり」と「仕上げ」
約一ヶ月の「乾燥」の工程を経て、先週金曜に素焼き、月曜に釉薬掛け、水曜日に本焼きを済ませた。
素焼き本焼きの工程では、有志のお母さんたちに窯の番を交代で手伝っていただき、ようやく無事窯出しの運びとなった。

水曜日の本焼きにかかった時間は、約10時間。
本焼きのためには、少しづつ時間をかけて窯の温度を1230度まで上げる。日が暮れて、真っ暗になった窯場で窯の火を落として丸二晩、窯の蓋を開けずに今度はじわじわと窯の温度が下がるのを待つ。
今朝の窯出しでは、二晩の外気の冷たさにもかかわらず、窯の中の温度はまだ95度。
子ども達に一点ずつ自分で窯出しさせる予定が、高温で危険なため、軍手をつけた大人がまとめて窯出しすることに変更。
素手ではもてないほどの余熱を含んだ作品が、外気に触れてピンピンと微かな貫入の音を響かせる。
焼き上げた陶器の産声ともいえる貫入の音を聴き、窯の熱の名残のぬくもりを感じることの出来た子ども達は、長い時間かけて焼きあがった作品の誕生の瞬間をいくらかでも実感してくれたものと思う。
 
アユコやオニイが小学校に入学した頃に始まった「総合学習」の授業の見直しが始まっている。
子ども達の自主的な活動や実体験に基づく教科を越えた新しい学習形態として導入された「総合学習」だが、週休二日制の導入などともあいまって、いわゆる「読み書きそろばん」に当たる基礎学力の低下がみられるのだという。
そもそも総合学習という教科が導入された当初の、現場の先生方の手探りの奮闘振りを見ているだけに、「やっぱり駄目だったかもね。」と手のひらを返したように教科学習重視の声が上るのもなんとも情けない気もする。
「米作り」だの「リサイクル活動」だの「もの作り」だの、教科書だけでは学ぶ事の出来ない実地の体験をたくさんさせてもらい、実感を伴う知識や感動を味あわせていただいた子ども達は、この何年かで何を学んだのだろう
書き取りテストや計算ドリルでははかれない、確かな知恵と力をどこかで身につけてくれていればいいなぁと願う。


2005年01月27日(木) 素足の伝統

寒い朝。
あいも変わらず「遅れるぞーッ!」と狭い玄関からあふれ出る子ども達。
靴のつま先をトントンしながら、走り出すアプコ。
いつもいつもランドセルの留め金をカチャカチャ閉め忘れているゲン。
通学帽をうるさそうに振り回すアユコ。
そのあとを、パタパタと追いたてながら、冷え冷えと凍った空気の中に私も飛び出す。
寒さが厳しくなると、どの子もだんだん朝の寝起きが悪くなって、登校の下り坂はいつも転がるような早足で駆け下っていく羽目になる。
ゆっくりウォーキングのおばさんたちを次々に追い越して、たったかたったか坂を下る。

「アプコ、寒そうやねぇ。タイツ、履けばいいのに。」
アユコが、短い制服のスカートからニューッと延びたアプコの素足を指さす。指先が凍えて動かなくなりそうな寒さの中、アプコは短いソックス一枚履いただけで、決してタイツを履こうとしない。
「だってね、タイツ履くと、急いでトイレに行ったとき、困るんだもん。」
ホントはとっても寒いのが苦手なはずなのに、この冬もアプコは頑固にタイツを拒む。
「それは判るんだけどね、見てるほうが寒くなっちゃうよ。」
アユコが笑う。
「あ〜らら、そんな事言ってるけど、アユコも確か、幼稚園の頃にはタイツを嫌がって、寒そうなソックスで冬を越したんじゃなかったっけ。」
「うん、そうなんだけど・・・。」

寒さが厳しくなっても、半そで半ズボンで登校していく男の子達。
タイツや毛糸のパンツを何度言っても履こうとしない女の子達。
冬の子ども達の意地のような我慢比べにもう何年もお付き合いしてきた。
「見てるほうが寒くなるから、せめてもう一枚着ていきなさい。」
何度も何度も口をすっぱくして繰り返す言葉は、実は私自身が幼い日に母やおばあちゃんから言われてきたのと同じ言葉。
あの日小さな子どもだった私は、本当にタイツや毛糸のパンツを履かなくても寒いと思わなかったのかなぁ。
はるか昔のことだから、もはやあのときの北風の冷たさや幼稚園の板張りの廊下の冷たさを思い起こす事も出来ないのだけれど、今、ピンクの頬で白い息をほっほっと吐いて笑うアプコには、寒さなんてものともしない楽しい驚きやドキドキが毎日満ち溢れているものらしい。
「ぴゅーっと走ると寒くないモン!」
冬のアプコはことさらに走るのがすき。
何度も何度も後ろを振り返りながら坂道を駆け下っていくアプコの素足。
すっかり小さくなった幼稚園の制服もあと二ヵ月足らずで卒業だ。


2005年01月26日(水) 人は生き返るか

ここ一週間あわただしく過ぎていった。
突然の厄介な頼まれ事のお断りに苦慮したり、数年ぶりに夜の飲み会に参加したり、京都の展示会会場へ家族で出かけたり、アプコの園の参観に行ったり、小学校の陶芸教室の後半戦が始まったり・・・。
日記のネタも満載で、アレもこれも書かなくっちゃと思っていたのだけれど、一昨日の晩、突然の発熱。
いわゆる「おなかの風邪」という奴らしい。
昨日一日、同じ種類の風邪で学校を休んだオニイとともに、ぼーっとコタツでまどろんでいたら、一週間分の日記ネタ、燃え尽きてしまった。
ということで、本日、ひさしぶりに更新。
燃え尽きたネタは後日、さかのぼってUPするかも・・・という事で・・・。




昨日、熱でボーっとした頭で何かのワイドショーを聞くともなく聞いていた。
どこやらのアンケートで中学生の15パーセントが「死者は生き返る」と答えたという。その数字がどうしてでてきたものなんだか、私には判断がつきにくいが、「死んでしまったらおしまいさぁ」と言う自明とも思える事柄を中学生にもなって理解していない子ども15パーセントもいるとは、どうしても信じがたい。
コタツの反対側で、同じく体温計とにらめっこしているオニイに、「ねえねえどう思うよ?アンタのクラス40人として、『死んでも生き返る』と信じてる子が6人もいると思う?」
「さあ、わからんなぁ。」
相変わらず、大儀そうな返答。
「でもなぁ、信じてるかどうかは別として、『生き返る』と書く奴はいるかもしれんなぁ。」

考えてみれば理屈をこねるのが商売のような生意気盛りの中学生だ。
「死んだ人は生き返ると思う?」と聞かれて、物理的な肉体の死ではなく「永遠の魂」やら「輪廻転生」やら、聞きかじりの死のイメージを答える子もいるだろう。
「愛する人が死んでしまってもいつか生きて戻ってくると思いたい」という希望や信仰上の信念から「生き返る」と答える子もいるだろう。
昔の子どもに比べて、今の子ども達が肉親や知人の臨終や葬儀に立ち会ったり、ペットや身近な動物の死を直視する機会が減った事を嘆く人もいるが、それも今に始まった事ではない。
「人が死んだらどうなるか」という、本当は誰も答えを知らない、個人の人生観や宗教観にも関わる繊細なテーマを、漠然と子ども達の前に投げたアンケートの限界が、15パーセントという微妙な数字の上に現れているような気もしてくる。

私自身が初めて肉親の臨終の場面に立ち会ったのは、生後3ヶ月に満たない次女の最期を病院で看取った時のことだ。
目の前で少しずつ生気を失っていくわが娘の肉体を見守りつつ、「この子はもう、ここにはいない。とうに壊れた肉体をおいてどこかへ羽ばたいていったに違いない。」と、妙にさめたまなざしで計器が脈打つ弱弱しい最期の鼓動を数えていたのを思い出す。娘の死という過酷な現実を、「肉体の死」と「魂の再生」とに分けることによって、何とか受け入れようとしていたのだろう。
小さな妹の死を幼い子ども達に告げるときにも、頑なに「死」という言葉は使わなかった。「お空に旅行に行ったよ。」とか、「いつかきっと、もう一回、生まれなおしてくるよ」とか、再生をイメージさせるような言葉で妹との別れを伝えた。
あの時、オニイはちょうど今のアプコと同じくらい。妹の誕生を心待ちにしていたアユコは3歳半ぐらいだったか。
母が必死な想いで綴るおとぎ話のような「死」のイメージにこっくりこっくり頷きながらも、急に「かわいそう」と大きな声でわぁわぁと泣き出したアユコ。幼いながらも、失われてもう戻ってこない命である事を悟っているのが分かり、胸を衝かれたのを思い出す。

2年後にアプコが生まれた。
私たち家族は新しい赤ちゃんを「お帰りなさい」という言葉で迎えた。
あの日、私や子ども達が「死者は生き返るか」と訊かれたら、迷いもなく「生き返る」と答えていただろう。
「死」という受け入れがたい、けれども必ずやってくる過酷な別れの運命を、人がなんとか受け入れるためには、時にはファンタジーの助けが必要になることもある。
「いつまでも心の中に生きているよ。」
「お星様になって君を見てるよ。」
「きっとあなたのそばに生まれ変わって帰ってくるよ。」
そういう、人の死を希望に変えるファンタジーの言葉が、陰惨な事件や大災害のニュースの溢れる現代の子ども達の中にも、15パーセントという数字の中に幾分かは含まれているということに、私自身は少し安堵を覚えたりもする。


熱のある頭で考え流した思考の羅列。
失敗失敗。

今朝になって、頭すっきり、目覚めばっちり。
昨日の事が嘘のように、忙しく動き回ってます。
立ち直り、早っ!


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