月の輪通信 日々の想い
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PTAの広報紙の仕事がほぼ一段落。 案の定、原稿提出から校正、写真のチェック、印刷代交渉と最後の最後までバタバタと駆けずり回ったが、今日、ようやく最終稿を印刷所へ持ち込み。 後はゲラチェックが通れば、本印刷、配布の運びとなる。 まずはめでたしめでたし。
印刷所の帰り、晴れ晴れとした気分でいつもと違うスーパーに寄った。 「お買い得品」の山の中に、とてもきれいなイチゴが格安値段で並んでいたので、きっとアプコが喜ぶなと2パック、カゴに入れる。いつもなら、冬のイチゴなんてめったに買わないのに、やっぱり大仕事を終えて、気持ちが緩んでいるのだなと確かに自覚する。 夜を徹してのパソコン仕事や、昼食時間も惜しんでの編集作業。 ここ10日ほどは、広報紙のことが四六時中頭から抜けなくて、家事もずいぶん手抜き気味。買い物にも十分心を掛ける事が出来なかったので、冷蔵庫の食材も少々品薄だ。今夜こそはちゃんとした晩御飯を作るぞと野菜や魚を次々とカゴに入れていく。 レジの列に並んで長いレシートとともにジャラジャラとつり銭を受け取ろうとした時、レジの人の手からぱらりと数枚の硬貨がこぼれ落ちた。 「あ、ごめん」 とっさにこぼれ出た謝罪の言葉。 「いえ」 と、レジの人。 硬貨を取り落としたのはレジの人で、私は受け取る手すら出していないので、別に私が謝る理由はかけらも無いのに、なんで先に「ごめん」の言葉が出てしまったのだろう。反射的にかえってきた「いえ」の返事も考えてみれば変だ。「すみません」をいうのは、取り落とした彼女のほうだ。 なんだか「ごめん」を一回分、損した気分。 かといって、改めて正すほどの事でもないので、なにごともなくつり銭を受け取ってレジを出た。
ほんの些細な一こまだけれど、後からつらつら考えてみると、近頃私は何度も無駄に謝ってきたような気がする。 広報の仕事が押し迫ってきて、原稿の編集や校正をめぐって、「お手数かけて悪いけど、書き直してくださる?」「せっかくやってくれたのにごめんね。なおさせてね。」と各委員さんたちとのメールのやり取りが続いた。 「悪いけどアプコの迎えに間に合わないんだ。行ってくれる?」「急な用件が出来て買い物が出来なかったよ。ばんごはん、ショボくてごめんね。」と家族に言い訳する事も多かった。 「こうして欲しい」と面と向かって言う代わりに、「悪いけど・・・」「ごめんね・・・」を枕詞にして、やわらかくお願いしているつもりになっている自分に気付いてちょっとイヤになる。 その言葉の裏側には、「こんなに頑張っている私」とか「こんなに回りに気遣っている私」の意識があるようで、当然相手が「イエス」といってくれることを期待しているような気持ち悪さがある。 そこには、「ごめんね」の言葉が持つ本来の謝罪の気持ちや心遣いの気持ちが見えなくなっていたのではないだろうか。
たとえば「すみません」という言葉を、本来の謝罪の意味ではなく、「ちょっと、○○さん」というような呼びかけの意味で使うことがある。 時には「ごめんなさい」や「ありがとう」の代わりに使うこともある。 相手の名前や行為、自分の気持ち等に直接的に触れることなく思いを伝える便利な言葉としての「すみません」という語を使う。その曖昧さがなんとなくイヤになって、「すみません」という言葉を避けた事があった。 嬉しかったときには「ありがとう」と、申し訳ないと思ったら「ごめんなさい」と、はっきりと気持ちを表す言葉を選んで使うようにしたいと思ったのだ。 それなのに今、忙しさに甘え、人間関係のトラブルを慎重に避けるためだけに、必要以上に乱発して「いい人」になった気になって使う「ごめんね・・・」「悪いけど・・・」という枕詞のイヤラシさはどうだ。 自分では触れてすらいない硬貨の散乱に何のためらいも無く、習慣のようにとりあえず「ごめんね」という言葉を使っておく安直さが、ますます鼻について自分がいやになる。 本当に「ごめんね」といわなければならなくなった時、使い古されてぺらぺらになった「ごめんね」に本当に心を表す深い意味をこめる事が出来るだろうか。 大量生産でばら撒かれた「ごめんね」の中から、本当に心を込めた真実の「ごめんね」を誰かに見つけてもらうことは出来るだろうか。 そして何よりも、本当に「ごめんね」といわなければならないタイミングを、私自身が見失ったり取りそこなったりする事は無いだろうか。
「無駄に謝る」という変なフレーズが頭に浮かぶ。 それは時には円滑な人間関係を維持するために必要不可欠な処世術でもあるのだけれど、無意識のうちに「とりあえず謝っておく」という安直な逃げ道を選ぶ愚鈍さがイヤだ。 自戒を込めて、改めて心に決める。 意味の無い「ごめん」を乱用しない。 伝えるべき気持ちは、曖昧に濁さない言葉で述べる。 「ごめんね」に甘えない。
園バスから降りてきたアプコがプンプン怒る。 「今日、お弁当にお箸が入ってなかったよ!」 わぁ、ごめん、ごめん。 これはほんとにホントの「ごめん」 お買い得イチゴで御勘弁を・・・。
父さん、年末仕事が立込んできて家へも香合の仕事を持ち帰ってくるようになった。 コタツに入って背中を丸めて、細かい仕上げの仕事を続ける父さんにアプコが甘えてしなだれかかり、ちょっかいを出す。 「こら、アプコ、父さんは大事な仕事中や。邪魔したらあかんで。」 説教ジジイのオニイがアプコを叱る。 「人間にとって仕事っちゅうもんはな、『誇り』っていうかなぁ、人生の『目標』っちゅうかなぁ・・・・」 なんだか難しい言葉をいっぱい引っ張り出して、大真面目に説教を垂れはじめる。 「へぇ、オニイ。君にとっては仕事が人生の究極の目標なの?」 オニイのまじめをからかって、母、さっそく、ちゃちゃを入れる。 「うん。そうちゃうのん?このあいだ、『しごと館』の人がそう言ってたで。」 「ふうん、そんなもんかなぁ。」
先日、オニイは校外学習で「わたしのしごと館」という施設に出かけ、簡単な職場体験実習をさせてもらってきた。オニイが参加した漆塗りなどの伝統工芸の他にも、精密機械の組み立てやTV番組の制作現場など多種多様な職業のさわりの部分を体験させてもらう事の出来る人気の施設だという。 フリーターやNEETと呼ばれる若者が増え、働くという事に対する意欲を小中学生の頃から職業教育として経験させておきたいという試みなのだろう。 近頃の職業教育は誠に至れり付くせりだなぁと感嘆するばかり。 オニイ、事前の職業適性検査では「芸術家向き」と判定されて、ひそかに心地よくなってかえってきたらしい。 多分そこでのレクチャーの中で、「人間にとって、働くという事は大事な事だ。」「自分でそれを誇りと思えるような職業を見つけなさい」というようなことをいわれてきたのだろう。生真面目なオニイは、真正面から受け取って感化されてかえってきたようだ。
「父さんにとって作品を作るということは、大事なことやろ。だから、仕事中はふざけたり、べたべたくっついたりしたら、あかんねんで。」 オニイ、今度はアプコにもわかるようにかんたんな言葉でアプコを諭しはじめる。その口調がなんとも真面目で、誰かさんの口調にそっくりなものだから、母もますます面白がって、更にツッコミをいれる。 「でもなぁ、オニイ。父さんは仕事も好きだけど、アプコとへらへら戯れるのも好きなんとちゃう?なぁ、おとうさん?」 父さん、母の意地悪を察してへらへら笑っている。 「仕事も大事だけどさ、家族だって大事じゃないのさ。君は仕事と家族とどっちを優先するの?」 オニイも母が面白がってわざと混乱させようとしているのに気付いて、ムキになってくる。 「だってさ、男にとって仕事ってのはさ、だってさ・・・」 男にとって・・・だってさ。
「仕事か家庭か」はさておいて、中2になったオニイの中になんだか生真面目な職業観が育ちつつあるという事が頼もしく思えた。 父さんの仕事の大変さも、働くという事の大切さもしっかり理解してくれるようのなってきたのだということが、父さんも母さんもホントはとっても嬉しいんだ。 そのこともきっと君は気付いているんだよね。
急遽、予定変更で朝から行うことになった焼き芋大会。 子ども14人、大人4人が三々五々集まってきて工房周りやお茶室の落ち葉かき。 かき集めた落ち葉を子ども達がえっさほっさと運んで大きな落ち葉の山を作る。傍らでは女の子達が洗ったお芋を新聞紙で包み、びしゃっと水に漬けてアルミホイルで包む。 火をつける前に、小学生の男の子達が出来上がった落ち葉の山にダイビングし、頭の先まで葉っぱにもぐりこんでひとしきり遊ぶ。
皆を集めて、落ち葉に点火。去年は全員にマッチで火をつけさせてみたが、今年は100円ライターでの点火をやらせてみた。 家庭の中で実際に火を扱う事が少なくなり、中学生のオニイたちですら慣れた手つきで一発点火と言うわけには行かなくて、父さんがライターの持ち方からレクチャーして、何度も火を点けさせてみる。 さすがにお父さんが愛煙家という女の子だけは何のためらいもなく点火する事が出来て、面白かった。
焚き火が始まってからは、小学生の男の子達は火の番を大人に任せて、裏山に登ったり、地べたの上に車座になってカードゲームをしたり、おやつを食べたり・・・。 残った中学生と女の子達は、「鍋奉行」ならぬ「焚き火奉行」の大人たちの指導の下、ああでもないこうでもないと突付いたり扇いだり、落ち葉を足したりして、焼き芋の火加減を見る。 子ども達のお付き合いと言いながら、大人たちにとっても年に一度の火遊びは楽しい。 毎年毎年、効率よくこんがりと芋を焼く手順を研究しながら火の番をするのだけれど、翌年集まったときには前回の研究成果はあまり生かされていなくて、「来年こそは・・・」と課題を残すのも面白い。 ちょこちょこと手慰みに焚き火の世話を焼きながら、おしゃべりに花を咲かせる穏やかな時間。 山の緑が最後に運んでくれる冬の楽しみ。 ありがたく味わう。
天気予報の言うとおり、ポツリポツリと最初の雨粒が落ちてきた頃、ホクホクのお芋でおなかいっぱいになった子ども達はめでたく散会。 洋服にしみこんだ煙の匂いと新聞紙に包んだ焼き芋をお土産にそれぞれのうちへとかえっていく。 後に残ったのは、ほんの小さな一山の灰。 あんなにたくさんの落ち葉を燃やしたというのに、結局いつも後に残るのはあっけないほど少量の灰の山。 夜、雨足が強くなった。 みんなできれいに掃き清めた歩道や庭にまたひとしきり木の葉が降る。 山の営みは休まず続き、本格的な冬への歩みをとどめる事はない。
気がかりな事をいくつも同時に抱えていて、心がざわざわ騒ぐ。 PTAのこと、広報紙の仕上がりのこと。 父さんの忙しい年末仕事の事。 やりたいのに滞っている家事のこと。 家族の健康の事。エトセトラエトセトラ・・・・。 一つ心が揺れ始めるとそれに連動して、気がかりや難儀な事が次々と頭に浮かぶ。 ざわざわは、勝手に自己増殖を繰り返すらしい。 そして目下のところ差し迫っているのは、明日の焼き芋大会。 子ども達がそれぞれの友達を呼んで、工房の庭の落ち葉をかき集め、焚き火で焼き芋をする。 天気予報は午後から雨。 当初、午後から集まってはじめるつもりだったが、急遽午前中に予定を変更。降り出すまえにちゃっちゃとはじめないと、いったん落ち葉が雨にぬれてしまうと厄介だ。 あちこちに予定変更の連絡を入れる。 あとはテルテル坊主に願をかけるのみ。 ざわざわ、ざわざわ・・・。
エンドレスで続く忙しさや、いつも心のどこかに引っかかっている気がかり、やらなくてはならないのに放置してある案件。 そんなものがいくつもいくつも重なってくると、時々ざわざわ心が騒いで苦しくなってくる事がある。 「次々にやらなければならない仕事があるってことは幸せな事よ。」 いつも、忙しさを愚痴る父さんをそういって慰めるけれど、ほんとに参ってくるとそういうポジティブな考え方を支えきれなくなって、凹んでしまいそうになる。 「あれもこれも投げ出して、いっそ無人島へでも逃げ出したい。」 私の場合、しょうもない愚痴の合間に「無人島」と言う言葉が出ると要注意らしい。「無人島」の赤ランプが点灯すると、いかんいかんと気持ちの切り替えをはかる。
とりあえず、今夜はテルテル坊主の効果に期待して、ふて寝を決め込む。 そして明日雨が降る前に、山積みの落ち葉と一緒に、ぱーっと騒いでもやもやざわざわも燃やしてしまおうと思う。 明日天気になぁれ。
ストーブの前に寝そべって鼻歌を歌いながらお絵かきをしているアプコに、期末試験2日目のオニイがぼやく。 「気楽でいいよなぁ、アプコは。毎日、好きなことをして、遊ぶのが仕事なんだから・・・」 なんだかおっさんくさい物言いだなぁ。
「それをいうならね。」 忙しく夕餉の支度をしながら、ちょっとオニイをからかってみる。 「毎日、誰かが稼いでくれたお金で学校へ行って、誰かが作ってくれたご飯を食べて、自分のための勉強をして大きくなるのが仕事の君だって、十分気楽な身分じゃないの?」 オニイ、「やられたぁ」とへらへら笑っている。 若いって事はね、自分のために、時間が使えるって事。 試験勉強をするのも、剣道の稽古に行くのも、いろんな経験をするのも、みんな自分のための時間じゃないの。 そして君達の前には、まだまだたくさんのまっさらな道がある。
ついでにもうちょっと、踏み込んで考えてみる。 毎日忙しい忙しいと走り回っている私達。 老いの道の先輩達に言わせれば、 「毎日、自分の足で行きたいところへ出かけ、自分の耳で誰かの言葉を聞くことが出来、自分の歯で食べたいものを食べる事が出来る。誰かのために忙しく走り回る事も出来るあんたこそ、いいご身分だねぇ。」 と言われるのかもしれないなぁ。 子ども達の送り迎えやPTA,工房の手伝いや家事の繰り返し。 なんだか嫌んなっちゃう事もあるけれど、それだけ走り回れるだけの体力と誰かに頼りされてるお仕事と「もうちょっとがんばろう!」と自分に気合をかける気力がまだまだ私にはいっぱいあるということ。 そして、こんなおばさんになっても、まだ私には先の見えない白紙の画用紙の持ち合わせが何枚もある。
明日からは12月。 PTAの仕事も最後の追い込み。 工房の仕事もしっかり年末体制だ。 もう一息、もう一息。
アプコと買い物の帰り、スーパーの前の出店で食器や箸を売っていた。 ちょうどオニイの箸が薄汚れてきたので、買い換えてやろうと思い立つ。 一番小さいアプコサイズのお箸から、お菜箸用の長い箸まできれいに並べられたのを見ていると、普段オニイが使っていたお箸の長さは、はて?どのくらいだったっけと分からなくなる。 今使っているお箸はちょっと小さくなったようだからと、少し長めの箸を手にとって見ると、なんだか父さんの箸のようで納まりが悪い。 だからと言って、もっと短い箸になると、この間ゲンに買ったお箸と同じ長さになってしまう。 私自身が使っているお箸より長いのを買うのもなんだかなぁ・・・・。 いろいろ悩んだ末、ま、この辺で少し長めのお箸を選んで、買って帰った。
かえって比べてみると案の定、選んだ箸は父さんのよりは少し短め、そして私の赤い箸よりはほんの少し長めだった。背丈や腕力だけでなく、お箸の長さも息子に負けちゃう年齢になったのだなぁ。 「オニイ、ちょっと、手、見せて。」 と、自分の手のひらをオニイの手のひらに合わせてみる。 子どもの手のように短い私の指と、少年らしい節の立つ大きくなったオニイの手。 確かにオニイの方が一節分ずつ指も長い。 母より長い箸でご飯を食べるのもあたりまえなんだよなぁ。
久しぶりに、あわせたオニイの手のひらは意外にごつくて大きかった。 そういえば、この子にも小さな赤いもみじのような手の時代もあったのに・・・。 こうして男の手になっていくのだなぁ。 この手がこれから生み出していくものはなんだろう。 この手がこれから掴みとってくるものはなんだろう。 そして、この手は、どんな人とつながれるのだろう。 なんだか嬉しい、ちょっとさびしい。
インターホンが壊れたらしい。 2,3日前から、誰も押していないのに2,3分おきに「ポーン・・・・ポーン」と音がする。 送話器をガチャガチャやってみたり、外のスイッチを何度も押しなおしてみたりもするが音は止まらない。 仕方がないので音量を一番小さくしてみたのだけれど、一定の間を置いて静かに「ポーン・・・ポーン」と繰り返す音は、なんとなくやけに耳に付いて離れない。 別に不快な音でもないので、家事や用事に熱中しているときには気にも留めないのだけれど、気が付くと台所の隅で「ポーン・・・ポーン」はひそかに続いている。
なんとなく四六時中、ストップウォッチをもって日々の動作を計られているようでそこはかとなく気にかかる。 「あ、三つもポーンとなる間、アタシってばボーっとしていたな」とか、「アプコの面倒な質問攻めに、まともに答えてやったのはたったの5つ分」とか、自分の時間の無駄な部分や足りない部分を知らず知らずのうちに「ポーン」で計っている自分に気付く。 「あと5つ鳴ったら、ぐうたらやめて晩御飯の支度にかかろう」とか、「もう3つ分くらいしっかり火を通して置こう」とか、目覚ましやキッチンタイマーの替りにしてたりする。 修理やさんが来てくれるまで、しょうがないから気にしないで無視して過ごそうと思うのに、ふと気が付くとまた耳が勝手に「ポーン」の音を数えている。
気になっているのは実はアタシだけではなくて、父さんやオニイも次第に「ポーン」の音が耳障りになってきているのだと言う事がわかった。 「かあさん、あの音、気にしたってしょうがないんだけど、なんか腹立ってくるよな。」とオニイが愚痴る。 「なんだか急かされてるような気がするのはなんでだろ。年末仕事も溜まってきたから、余計気が急くんだよね。」と父さん。 会話がふっと途切れたときにお互いの耳が「ポーン」の音を確認しているのに気付いて、顔を見合わせて苦笑したりする。 そっか、イライラするのはアタシだけじゃなかったのねと妙な連帯感が沸いたりする。
よく死の淵を逃れて生還した人が、「生きている時間の一瞬一瞬を無駄にしないように、その大切さを意識して生きて行きたい」というようなことを言われるのを聞く。 一日の大半を無為なおしゃべりやらぐうたらやら、とても有意義とは言いがたい時間で費やしやしてしまう凡人にとって、「一瞬一瞬を大切に生きる」と言う言葉は輝かしく重い。 けれどもどうだろう。たかが無意味なインターホンの「ポーン」の繰り返しに、自分の時間がさらさらと無駄に流れていってしまうような、勝手に誰かに自分の人生を『刻まれてる』いるかのような、言葉に出来ない苛立ちを覚えるのはなぜなんだろう。 とどまることなく流れ去っていく時間を、常に意識して生活していくと言う事は、思っている以上に精神的な苦痛をも伴う困難な営みなのかもしれない。
かちゃかちゃとお茶碗を洗っているときも、友達と長電話でおしゃべりを楽しんでいるときも、そして今、しんと静まった深夜、一人でPCに向かっているときも、勝手口の方からは「ポーン・・・ポーン」と音がする。 「今のその一瞬は、有意義だったの?無駄な一瞬だったの?」と問うているのは実は「ポーン」の音ではなく、自分自身の内の声なのだ。 そして、本当に意味があるのは、ごしごしおなべの底をこすったり、われを忘れておしゃべりに熱中している、「ポーン」を意識しないで過ごす時間なのかも知れない。
「ポーン」の音は次第に家族のいつもの生活の中に埋もれ始めている。 家族の皆に聞いてみたら、おもしろいことに「ポーン」と言う音にイライラしているのは父さんとアタシとオニイまで。 アユコはさほど気にならないというし、ゲンは「ポーン」の感覚をストップウォッチで計ってみたりして遊んでいる。アプコにいたっては、インターフォンの異常自体を言われて初めて気付いた様子。 そうか。 毎日、目覚めて食べて遊んで眠る。 いちいち自分の過ごした時間の意味を問い返す事もなくシンプルな日常を生きる子ども達にとっては、もしかしたら誰かが勝手にカウントしている人生の時間なんて、大して気にするまでもないたわいないことなのか。
小学校、マラソン大会。 いつも寝起きのいいゲンがなかなか起きてこない。 先に起きてきたアプコが「ゲンにいちゃん、起こしてくる。」と飛んでいってしばし。どよ〜んと鬱陶しい顔をしたゲンがコンコン咳をしながらのろのろと降りてきた。 「どした〜? どよ〜んとした顔してるなぁ。マラソン大会なのに元気出せよ!」 走るのが苦手な我が家の子ども達。先に起きてきたアユコもなんとな〜く「いやだなぁ」の顔をしているのがよくわかる。マラソン大会って、ヤだよね、うんうん分かる分かる。
ゲンの咳がしつこく続く。 うそ臭いほど、しつこく続く。 「おかあさん、今日のマラソンはちょっと・・・」 ほら、やっぱり。 「え〜、走らないの〜?せっかく応援にいくのに。」 「う〜ん、ちょっと・・・・」 ことさらにコンコンと咳をして、でもやっぱり「休みたい」と言う言葉はあやふやに濁す。 はは〜ん、と思う。 オニイや父さんも「さては?」という顔で、目配せを送っている。 すったもんだの末、マラソンカードには「参加」にしっかり印を押して、「頑張っていって来い」と追い立てる。
「あれはきっとズルだよね。」 子ども達が登校した後、父さんと話をしていたら、保健の先生からの電話。 「マラソンカードでは『参加』になってますけど、ずいぶん咳がひどいようです。どうしましょう。」 電話口の後ろでゲンの激しい咳の音が聞こえる。 「う〜ん、やっぱり行きましたか。微妙なトコなんですよね。確かに風邪は引いてるんですが・・・。」 と朝の顛末を説明する。保健の先生も「そういわれてみると確かにちょっとね。」とことさら大げさなゲンのコンコンに首を傾げていらっしゃる様子。 「いいです、先生。スタートぎりぎりになって、本人に決断させてください。周りからは『休んどいた方がいいね』なんていわないでくださいね、自分で『休む』と言わせてください。」 と念を押して電話を切る。 「あはは、やっぱりな。」 横で聞いていた父さんが笑っている。
スタート時間に間に合うように小学校へ駆けつけると、果たしてゲンは日当たりのいい校庭の花壇のふちに友達と二人で座っていた。足をぶらぶらさせて、なんだか楽しそうにスタートラインの級友達を指差して話をしている。 「あ、やっぱり、さぼったな。」 物陰からそっと見ていると、朝にはあんなに体をよじ曲げて咳をしていたのに、ぜんぜん咳き込む様子もなくて、穏やかなひなたぼっこを楽しんでいるみたい。 そ〜っと近づいていって、「アレレ、やっぱり走らなかったの? 咳してないじゃん。」と意地悪くゲンにささやいてみた。 ビクンと飛び上がったゲン、思い出したようにまたゴホンゴホンと咳をする。 怪しい、怪しい。
「おばちゃん、そんな事言わん方がいいで。」 隣で一緒に座っていた仲良しのUくんが、妙に大人びた口調で私に言ったので面喰った。。 う〜ん、どういう意味なのかなぁ。 「ほんとにしんどくて休んでる子に、『さぼったな』というのはよくないよ」ということなのか。 「せっかく一生懸命仮病を使っているんだから、武士の情けで見逃してやれよ」ということなのか。 「僕は喘息なんだけどね。」 と、言葉を継いだUくんの口調に真意を量りかねて、あやふやに答える。 「いやぁ、ゲンの咳はちょっと怪しいんだよ。マラソン嫌いだからね。」としなくてもいい言い訳をしてみる。 傍らでゲンは再び、大げさな咳をはじめた。
なんだかなぁ。ま、ちょっと間は抜けているけど、先生方に首を傾げさせる程度の演技力と知恵がついた分だけ成長したと言う事なんだかなぁ。 最後尾を走りながらもへらへらとわらって手を振ったオニイ、「いやだなぁ」と言いながら渋々全力を尽くすアユコ、我が家のマラソン大会はいつも苦渋に満ちている。 ゲンも数日前から「僕、マラソンは遅いんや。」と気にしていたようだったからきっととっても嫌だったんだろう。 「サボりたいなぁ、風邪ひきたいなぁ」と念じて空咳をしていたら、いつの間にか自分でも仮病なんだか、ホントの病気なんだかわかんなくなっちゃう ことだって確かにある。 何とか「いやだなぁ」に負けないで頑張る我が子も見たいけれど、周囲の疑惑の目を押し切ってちょっとズルの気分を経験する事もきっとゲンにはいるのだろう。
先頭を切って、晴れ晴れとゴールしていくクラスメートの姿を見て、Uくんがぼそぼそとつぶやいた。 「あんなに速く走れるんだったら、ぼくだって、マラソン大会は楽しみなんだろうけどな。」 「そだね。でも、それが君の人生だ。頑張って生きていけ。大人になったらマラソンなんてしなくていいんだからね。」 と、U君にはちょっとふざけて答えたけれど、彼の気持ちはよくわかる。 マラソンをしなくてもいい年になった今だって、 「一生に一回くらい、我が子が一番でゴールテープを切るシーンをみてみたいよね。」 なんて、思ってしまう事がある。 でもね、かけっこの遅い僕も、仮病でする休みしちゃった僕も、それからいつも最後尾でみんなから遅れてゴールする僕も、み〜んな大事な「僕」なんだ。 そのことをちゃんと分かって、見ててくれてる人がいるよ。 二人ともそのこと、気付いてね。
アユコとゲンが珍しく二人そろって帰ってきた。 ちょうど習字に出かけようと車を出したところで、フロントガラスのむこうにゲンの丸っこい笑顔と大人びたアユコのひょろりとした姿が仲良く絡まりながら坂を上ってくるのが見えた。 二人は車を見つけるとニコニコ笑いながら、駆け寄ってくる。 その手には立派な葉付きの大根と丸大根が一本ずつ。 「学級園の野菜、もらってきたよー!」 ゆっさゆっさと手にした野菜を振り回してゲンが笑う。 いい顔してるなぁ。 二人の通う小学校には立派な農園があって、時々こんなふうにびっくりするほど立派なお野菜のおすそ分けを頂いてくる事がある。 自分達が育てた野菜を持ち帰ってくる子ども達の笑顔はとても得意げで、幼いながらも「収穫の喜び」というものを十分に味わわせていただいているのだなぁと、ありがたく思う。 無農薬で育った大根は今にもパチンとはちきれそうなみずみずしさで、ずっしりと重い。 アユコとゲンが頂いた野菜を袋にもいれずにむき出しで抱えて帰ってくるのは、収穫物の立派な作柄が嬉しくてたまらないからかもしれない。
頂いた野菜のみずみずしさを余すことなく味わいたくて、ひとまず大根と丸大根の葉をきれいに洗って、とんとんと刻む。ボールいっぱいの刻んだ青菜をフライパンで炒め、甘辛く煮詰めてゴマを振る。 大根は葉に近いほうを細かく千切りにして塩でもみ、葉っぱも加え重石を乗せて浅漬けにする。 どちらも私が幼い頃、同居していた祖母がよく拵えてくれたお惣菜。 台所でとんとんと青菜を刻んでいた祖母の丸い背中を思い出す。
とんとんと青菜を刻みながら、なぜだか急に祖母の「おくもじ」という言葉を思い出した。 細かく刻んだお漬物の事を祖母は時々「おくもじ」と呼んだ。 漬け物好きの父はそれを「鳥のえさみたい」と笑ったけれど、祖母はいつも刻んだお漬物を白いご飯にぱらぱらまぶして食べるようにと私達に勧めた。 パリッと新鮮な旬の野菜の滋養を残さず孫達に味わわせたいと、細かく刻んでおいてくれたのだろう。 子どもの頃にはさほどありがたいと思うことのなかった「おくもじ」の心遣いを、母となった今、鮮やかに思い出す。 子ども達の持ち帰った大根を、無駄なく美味しく食べさせてやりたいと思うとき、迷わず葉っぱをトントンと刻み始めるのはあの日の祖母の丸い背中の記憶が確かに私の中に根付いているからなのだなぁと思う。
今日、夕食に予定していたのはドライカレー。 外出先から帰って、手早く出来るお急ぎメニュー。 ありゃりゃ、なんだかちぐはぐだねと言いながら、大根葉の炒め物も鉢に移して食卓に上げてみた。 たまねぎにんじん合挽きミンチの甘口ドライカレーに、ためしに大根葉を添えてみる。 ・・・意外に合うかも。 とっても邪道な味わい方だけれども・・・。
朝、珍しくいつもお寝坊のアプコが一番に起きてきて台所のストーブの前に座った。 「あのね、おかあさん、出来たよ!」 なんだか嬉しそうなのでよく聞いてみると、ここ2,3日続いていたおねしょ、今朝はしてなかったんだそうだ。 「そう、よかったね。」と忙しく朝食の準備に戻る。 「あのね、おねしょしない方法、秘密の方法がわかってん。」 はぁ、秘密の方法ですか。 「あのな、あのな、寝るときにな、こうやってこうやって、おしりを押さえて寝るねん。」 とアプコ、体をよじらせ、手で前と後ろをしっかり押さえて、あられもない格好をやって見せてくれた。 「うふふ、それって、ホントに効くの?」 爆笑を噛み潰して、まじめに訊いて見る。 「うん、絶対! だって、今日はおねしょ、しなかったもん!」
幼稚園から帰ってきたアプコ、体操服の洗濯物と一緒に、ナイロン袋に入ったぬれたパンツと体操ズボンを出してきた。 「ありゃりゃ、今日はお土産つきかぁ、おしっこ漏れちゃったの?」 「うん、ピアニカの練習してるときに、しゃーって出ちゃったの。だからほら、幼稚園のキティちゃんパンツ借りた。」 なんだか、アプコは借りてきた可愛いイラストつきのパンツがうれしそう。 まだまだ、お漏らししても屈託がない。 「そうか、しゃーっと出ちゃったのか。じゃ、しょうがないね。」 といっては見たけれど、ちょっと意地悪ついでに訊いてみた。 「あれれ、アプコ、今朝、おもらししない秘密の方法、見つけたんじゃなかったんだっけ?あれ、やってなかったの?」
アプコ、平然と答えました。 「だって、ピアニカやってたんだもん。両方とも、手、使ってたからできなかったよ。」 はぁ、なるほど。 ・・・・じゃなくて!!
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