月の輪通信 日々の想い
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父さんが午後から神戸方面で、友達の個展を見に出かけるという。 お天気のいい日曜日。 おうちでうだうだもいいけれど、せっかくのお休みだし、「行こう行こう」とおにぎり弁当を作ってぞろぞろと車に乗り込む。 朝から剣道の稽古の男の子達を道場でひろって、びゅんびゅんと高速を目指す。 わぁい、久しぶりの遠出だ。 神戸へ行くのも久しぶり。
幼い頃、「街へ行く」というと、たいてい神戸だった。 震災前のバリバリ元気のよかった三宮。 母とよく行った老舗のサンドイッチパーラー。 いく度にワクワクした大きな手芸屋さん。 いつも豚まんをお土産に買った中華料理店。 英語がぺらぺらの矍鑠とした老婦人が切り盛りする服地やさん。 甘栗の大袋を買って、オーバーのポケットの中で殻を剥いて食べながら歩いた元町商店街。 父と、母と、弟達と楽しく歩いた神戸の町。 震災後はずいぶん雰囲気は変わったけれど、やはり何か楽しいことに出会えそうなワクワクがいっぱい残る街。
以前と大きく変わった場所といえば、南京町。 テイクアウトの屋台が所狭しと立ち並び、観光客がひしめきう現在のこの街は、子供達をつれてあちこち少しずつつまみ食いして歩くのには楽しい街になった。 即席おにぎり弁当で物足りない分をさっそく小さなカップのラーメンで補う。 お行儀が悪いのを承知で、広場の地べたに座り込み、子供達がそれぞれに厚いラーメンをすする。早く食べ終わった子を連れて、揚げシューマイだの胡麻ダンゴだの新たなおいしいものを買い出しにいく。 人ごみの苦手なおのぼりさんツアーには、ちょっと過酷な混雑ではあったけれど、それぞれに好きな物を食べ、珍しい食材や中国の雑貨に触れ、ちょっとだけ「異文化交流」を経験して、楽しく過ごした。
帰りに夕食用にと冷凍の水餃子や細麺の生ラーメン、父さんの好物の焼豚などを買う。 そして、子供達が興味深々だったピータンを二つ。 これまでにもどこかで食べさせたことがあるとは思っていたのだけれど、殻つきの土をかぶったままのピータンを見るのはどの子も初めて。 「何事も経験」とさっそく購入。 帰宅後、遅い夕食の準備をする傍らで、父さんが子供達と一緒にピータンの殻を剥いた。 土に中から現れる卵に唖然。 殻を剥くと現れる真っ黒な白身に呆然。 なかなか面白いお土産だった。 「まあまあ、食べられるな。」 普段好き嫌いの多いオニイが珍しく一口。 「何だか気持ち悪いけど・・・」 食材に対する探究心旺盛なアユコも一口。 はじめから食べ物と認知しないアプコは当然パス。 「大しておいしいものでもないんだけどね」 と、突っつく父母の影で、一人しり込みしているゲン。 珍しい食べ物はたいがい一番に食べたがるゲンなのに、ピータンに関しては食わず嫌いを貫くようだ。 「こういうの、苦手かも・・・」 珍しく弱気の発言。意外だった。
わが子には、知らない食材にも果敢に挑戦できる大胆さを育てたいと予ねてより考えている母としては、今後の課題が一つ増えた。
春休みに入って、朝から晩まで子供達が家にいる。 朝ごはんが済んだばっかりというのに、「お母さん、お昼何食べるの?」 そんなことは昼になってから考えてくれ。 「それよりさっさと宿題済ませちゃいなさい!」 といえないのが辛い。
「お昼ご飯が済んだら、オニイにちょっと手伝ってもらおうかな」 仕事場でなにやら新しい仕事に取り掛かる気配の父さんが言った。 「暇そうにしているからちょうどいいわ。」 さっそくオニイにその旨を告げる。 なんだろうなぁ、写真のことかな、パソコンのことかな。 最近ではめったに仕事場に出入りすることがなくなったオニイが、いぶかりながらもいそいそと父さんの所へ行く。
しばらくして仕事場へ行くと、がらんとした教室で仕事をする父さんの傍らで、オニイが熱心に土練をしていた。 制作に取り掛かる前に、材料となる土をしっかりと練り直し、中に含まれる空気を抜いて準備をする。 その一番基礎となる作業を父さんはオニイに教えているようだった。
腰を落とし、リズミカルに力を込めて土を練る父さんの手つきは鮮やかで、何度みてもふっと吸い込まれるように見入ってしまう。 何度も練り上げるうちに、生地に規則正しい練りこみのあとが重なり、くっきりと菊の花弁の文様となって浮かび上がる。 この作業を「菊練り」というゆえんだ。 父さんの手元は、少しも留まることなく、土くれを滑らかな砲弾型にまとめ上げる。 この間数分。 プロの技だなぁと思う。
さて、初めて土練りに挑戦するオニイ。 リズムだけは父さんを真似て調子がよいが、まだまだ非力でずっしり重い土塊を十分に転がすことが出来ない。 力を込める場所が定まらないので、作業台の上で土塊があちこちに移動する。 そして何より、スタミナ不足で何度も続けて練り続けることが出来ない。 父さんの見せた鮮やかな菊の文様を出したくて、あれこれ練り方を変えてみるが、うまくいかない。 「しっかり空気を抜くのが目的だよ、菊の花じゃなくて・・・。」 ようやくオニイが練り上げた土塊を、父さんがスパッと切り糸で半分に切る。 その断面には小さな空気の層がいくつも残っていて、オニイの土練りがまだまだ使い物にならないのがよくわかる。 父さんが短時間にこねた土塊の断面は均一で、しっかり空気も抜けている。
「うまいこといかんわぁ」 首をかしげるオニイは、なんだかちょっと悔しそう。 「昔は『土練り3年』といって、職人さんたちはこの作業だけを習得するために長い修行をしたものなんだ。」 父さんが胸を張って答える。 父さんは高校時代から陶芸の基礎を学び、もう何年も当たり前の作業として土練りをする。 手が覚えた技は、毎日毎日使われることによって、軽快でリズミカルな美しい所作になる。
将来の進路に父の歩んだ道を意識しつつあるオニイの目に、父さんの手の凄さは強烈な印象を残したようだ。 「母さん、なんつーか、陶芸って・・・。陶芸って、あのな・・・」 夕餉の支度をする私のそばへきて、オニイが何か言いたそうにして、言葉を選ぶ。 「なんつーかな、あのな。陶芸ってな、・・・」 あとの言葉は聴かなくっても判るよ。 ちょっと興奮したオニイの笑顔がまぶしい。 「『しんどいから、やってられへん』でしょ?」 意地悪く聞き返す母に、オニイがぶんぶんと首を横に振った。
父さんって凄いな。 陶芸って、奥が深いな。 その言葉は自分で見つけなさい。
(昨日分より続き) 「○○ちゃんのお母さん」で一生を終えるのはいや。 一人の人間として評価される仕事がしたい。 主婦が仕事を始める理由の一つに、こんな言い草がある。 資格を身に付け、仕事のスキルをアップして、自分のやりたかった仕事を再開する。 エプロンをはずし、家事を手早くかたづけて、カツカツ踵の鳴る靴で、仕事場へ向かう。 ちょっとかっこいいじゃん。私もそう思う。
最近、最終回を迎えた人気のドラマ。 仕事一筋の夫に愛想をつかして、娘を置いて自分のやりたかったことを実現するために旅立っていく。夫は娘と二人っきりになってはじめて、子供と向き合う毎日の大変さと喜びを知る。 心温まるとてもよいドラマだったと思うけど、唯一つ不満に思うことがある。 自分のやりたいことを見つけて、子供とともに新しい土地で新生活を始める妻。新しい仕事に面白さを見つけ、新しい彼女さえ見つけて、穏やかな生活を取り戻そうとしている夫。 前向きに新しい人生を切り開いていこうとする親達の心は明るい。 それに比べて、母親に一度は放置され、ようやくこっちを向いてくれた父親とは引き離され、転校や改名のストレスを背負わされた娘はどこまでもけなげで痛々しい。 みんなが自分の生きる道を見つけてよかったね。 でもそこに、自分を犠牲にしても子供の気持ちを優先するという選択がほとんどなされていなかった気がする。
「自分が自分らしく生きられる生き方」 それが今ある家族や仕事で満たされないと思ったとき、どんな犠牲を払ってもそこに手を伸ばして求めていく姿はかっこいい。 「自分に正直に」「ありのままの気持ちで・・・」 自分の欲しいものを追い求めるとき、自分の気持ちをなりふりかまわず発信するのが素敵な女の条件のように言われる。 少し前なら「夫と別れたいけど、子供たちのことを考えると・・・」と躊躇した人も、「子供達のためにも別れた方がいい。」と決断する。 少し前なら「小さい子を置いて母親が働きに出るのはかわいそう」といわれた人たちも「いきいきと働く母親の姿を子供達にみせてやりたい」と働きに出る。 「子供達のことを考えると・・・」とウジウジ新生活への切り替えをためらうのは、愚かな女のお手本のように言われる。 だけどなぁ。 本当にわが子のために何かを犠牲にする生き方は愚かなんだろうか。 「自分らしく」を振りかざして生きる女だけが偉いのだろうか。
昨日の日記に書いた5人目の子の母親。 私と顔をあわせると二言目には「仕事が忙しくて」と口にする。 夜にも不在のことが多く、子供達は母親のいない家で勝手に生息している。 学校や子ども会の役も「仕事」を理由にたびたび穴を開け、迷惑をかける。 会うたびに言外に「専業主婦は暇でいいわね」のにおいがするので、アタマにくる。 それでもそれは「価値観の違いね。」と聞き流そうと思う。 ただ、彼女が自分の子の前でたびたび「子供のことより仕事が優先」という言動を繰り返すのはどうかと思う。
「俺は仕事が忙しいんだ。子供のことはお前に任せてある。しっかり子育てしなきゃ駄目じゃないか。」 よくドラマで出てくる企業戦士はこんな暴言を吐いたものだ。 「あたしだって、子育てなんかより仕事がしたい。」 そういって働きに出る母親も少なくない。 残った子供は誰に育てられるのだろう。 学校や塾で知識はたくさん得てきても、自分を最優先にはしてくれない親のもとで、子供は何を学ぶのだろう。
仕事をする母親が悪いというわけではない。 専業主婦が偉いというつもりもない。 ただ、親となった以上、「子供が最優先」「子供の気持ちを大事にする」というタイミングを見失ってはいけない。 子供達は自分たちの優先順位がどこにあるか、 大人以上に敏感に感じているに違いない。
2004年03月24日(水) |
「ごめん!」のタイミング |
誤って誰かの足を踏む。 「あ痛っ!」と言われる前に「ごめん!」といえること、大事だなぁと思う。
先日のアユコのメール事件。 問題発覚からすでに2週間。 校長教頭、担任の先生、5人の子供の親たちまで巻き込んで、すったもんだの末、一応の解決をみた。クラスでも話し合いが持たれ、修了式前の数日はクラスの気分を切り替えるためにたくさんの楽しい行事がもたれた。 「とりあえず、これでおしまいにしようね。」 アユコも心の整理をつけ、すっきりと言い放った。 そのほうがよいと私も思う。
ところが、なかなか終わりにしてくれない人たちがいる。 先週、話し合いが終わってから5人の子供達の両親がぱらぱらと謝罪にみえる。 最初に飛んでこられた数組はいい。 今日、最後の一組が親子3人でやってきた。 話し合いからすでに10日。 何をいまさらという思いしか残らない。
今日、謝罪に来た子供の母親は、私と顔を合わすと二言目には「仕事が忙しくて」という。 表向き専業主婦である私への優越からか、ことさらに「気の抜けない仕事だから・・・」と繰り返す。 今回子供達の非行に気づかなかったのも、謝罪がぐんと遅くなったのも、「私が仕事で不在だったから」「主人の仕事が大変な時期だから」と、いちいち同じ言い訳をする。 仕事を持つ主婦は忙しい。 子供とともに過ごせる時間の多くを仕事のために費やしている。 だからといって、自分の子供の非行を見抜けなかったことや、その後の対応が遅くなったことの言い訳にいちいち「仕事」を持ち出すのは、どこか勘違いしていないか。
日々だらだらと続く子育ての日々にも、ここははずせないというタイミングがある。 仕事の片手間の育児にも、ここだけは子供優先にしなくてはならないときもある。 子供が「しまった!」と思っているときにガツンと叱る。 「悪いことをした」と気づいたときに謝罪をさせる。 両親が本気で息子の非行を恥じる姿を見せる。 そんな基本的な作業が出来ないまま「仕事優先」に逃げる親の姿勢を、子供達はきっと見ている。きっと学んでいる。
足を踏まれた者は痛い。 相手が故意に踏んだとしても、押されてふらついてやむなく踏んだとしても。 「ごめん!」 のあとの言い訳はいらない。 それより即座に「ごめん!」と声に出して言ってくれ。 欠陥自動車と知りながら販売を止めなかった社長さんが、事故死した方の墓前で謝罪していた。 「2年も経ってからですよ。」 被害者の家族の方が悔し涙にくれていた。 「ごめん!」のタイミングは難しい。 でもその人の価値観や心の有り様をつぶさに表す試験紙でもある。
実家の母からの小包が届いた。 大きな菓子箱にいっぱいのいかなごの釘煮。 箱のまま、食卓の上に置いておくと、誰彼ともなく指でつまんで味見していく。 そばに白飯も一緒に置いてやろうかしらん。
この季節、実家のあたりではどの家も競うようにいかなごを煮る。 体長3センチばかりの小魚を近所の魚屋でキロ単位で買ってきて、大きななべで、生姜とともに甘辛く煮る。 各家庭で炊き方や使用する調味料が微妙に違っていて、どこのおかあちゃんも、密かに「うちのが一番」と思っているに違いない。 シーズン中何度も炊いて、あちこちへ配る。 あちらの郵便局では「いかなごパック」といって、密封容器と郵送料をセットにした発送サービスもあるそうだ。 ごたぶんにもれず、我が家にも毎年、母からのどっしりと重い釘煮の宅急便が届く。 我が家からまた、義父母のところへおすそ分けし、父さんの恩師やらお世話になった方やらへ定例どおりにお送りする。 「毎度同じ品で恐縮ですが、春の便りでございます。ご賞味ください。」 包みに添える手紙の文章も定例どおり。 「いま、届いた。さっそく一杯やっとるぞ、ありがとう。」 到着と同時にご機嫌よくお電話を下さるM先生。 毎年変わらぬ習慣が、今年もつつがなくおさめていける今日の幸せ。
近頃では我が家の近所の魚屋でも、生のいかなごが店頭に並ぶようになった。 水揚げされたその日のうちに、さっさと煮上げてしまわないと質が落ちる地域限定の郷土料理であったはずだが、ここ数年、流通の範囲が広がったのか、明石から100キロ離れたわが町にも昼網の時間に合わせて袋詰めされ、商われるようになった。 郷里のスーパーと同じように、いかなごのそばにはしょうゆやザラメ、密封容器まで同じコーナーに集めて、レシピを添えて売られている。 「そろそろ私も一人で炊いてみようかしらん」 ここ数年、出始めのいかなごを目にするたびに思い立つのだけれど、ぐずぐずと引き伸ばしているうちに、実家からどっしりと宅急便が届き、ついつい機を逸する羽目になる。 「いかなごをちゃんと炊けて一人前」という播州の花嫁の条件を今年も満たさぬまま、母の釘煮をまたつまむ。 母が今年もたくさんのいかなごを煮て、あちこちへ発送することが出来るのは、母の身の回りが穏やかで健やかに動いているという証。 だから、今年も母の釘煮に甘えて過ごす。 ありがたく甘い母の味。 感謝、感謝。
「いかなご、ついたよ。ありがとう。」 母に電話したら、珍しく父が受話器を替わった。 何かしらと思ったら、いつも聞きなれない改まった言葉で、父が私をほめてくれた。 実家の両親は、この日記も欠かさず読んでくれており、子供達の成長や父さんの仕事のことなどをしょっちゅう気に掛けてくれている。 父母の手元を離れ、4児の母、窯元の奥さんをばたばたつとめる娘の日常を「よしよし」とうなづいて見守ってくださったか。 一人で猛然と髪振り乱して走り回っているつもりでいたここ数日の私の後ろに、暖かい父母の見守りがあったということ。 春の便りとともに、気づいた父母のありがたさ。
「まだまだ、いかなごは一人では炊けない。」 「母」であると同時に、自分がまだ誰かさんの「娘」であることの嬉しさを十分に味わって春を迎える。
先週から大騒ぎしていたアユコの「いたずらメール事件」が一段落した。 友達のメールのパスワードを盗み出し、その子の名をかたって偽のラブレターを書き、そのやり取りの内容を公開して嫌がらせをするという、犯罪まがいの要素を含んだいやな事件だった。 担任の先生から校長、教頭、相手の5人の男の子達の親たちまで交えての抗議、話し合い、謝罪・・・。 クラスでのほかのいじめ問題から、家庭での子供のパソコンの使い方の管理まで、色々な要素を含んだ今回の問題は、だんだん判らなくなってくる子供達の日常を親や教師がどこまで把握していかなくてはならないのかという基本的な問いに戻って、ため息を生む。 結局のところ、「自分ちの子は自分で守らなければ」という結論に達せざるを得ないことがむなしく悔しい。 5人のうちの主謀者格の男の子は10人の大人に囲まれて数時間に渡って問い詰められても、ついに涙の一粒も見せず、どこか冷え切った目でしぶしぶ謝罪の言葉を述べた。多分、彼の心には大人たちの危機感は伝わっていない。 彼の父親にも、息子の心の闇は感じられていない。 それでも、「二度とするなよ、ちゃんと見てるぞ」と念を押すよりほかにすべはない。
弱いものいじめを許せない、自分の理屈を絶対に曲げたくない。 生真面目なアユコのまっすぐな正義感が5人の卑劣ないたずらの標的になった。アユコは傷つき、怒り、泣き叫んで、一人で戦いを続けた。 「男の子達にはっきりものをいえるのは私だけだから。」と、心無いいじめの盾になって踏ん張っていたらしい。 繊細で、傷つきやすい女の子と思っていたアユコが、そんな激しい、強い使命感を持っていたということが母である私にも驚きだった。 「お母さん、本気で怒ってきた。けんかしてきてやる。」 激しい怒りをあらわにして、学校へたびたび出かけていく母の姿を見て、とりあえずアユコは自分のために怒り狂ってくれる親や先生達がいるということで、心の傷をすこしずつ癒してくれているように思う。 強い子に育ってくれたと思う。 アユコの賢さに親も先生達も救われたと思う。 不甲斐ないことだけれど。
卒業式に出席した午後、アユコは久しぶりに仲良しのAちゃんをうちに呼んで、クラスのお楽しみ会の賞品を作る作業をしていた。 本来アユコが、「私が用意するわ。」と引き受けてきて、一人で作業を進めていた賞品作り。 「アユコ一人でやらないで、友達に『手伝って』と声を掛けて、一緒にやったほうが楽しいんじゃないの。」 と私が提案して、アユコはAちゃんを呼んでくることに決めた。 「アユコは何でもできるから、賞品作りも一人でささっと片付けちゃえばいいと思うけど、『一緒にやろうよ』と誰かに声をかけることで、仲間ができるよ。 『一人でこんなに用意してくれて、ありがとう』といわれるのも嬉しいけれど、二人でやって『Aちゃんが一緒にやってくれたよ』といえば、Aちゃんも嬉しくなれるよ。 一人で戦えるアユコは強いけれど、強いアユコだからこそ誰かを仲間にして戦うことを学ぼうよ。」
クラスの子達がいじめの現場を目撃しても何もいえないと悔しがっていたアユコ。 一人で盾になってがんばっていたようだけれど、たった一人の抗戦ではきっとまた今度のような無理がでる。 「今度からね、『いじめちゃ駄目!』というときには、近くにいる友達に『ねえ、そう思うでしょ、○○ちゃん』と声を掛けてごらん。 自分では『いじめちゃ駄目』と言えない子でも『そうだそうだ』とはいえるかもしれないよ。 そうしたら、アユコの味方が一人増える。一緒に戦う仲間が増えるということだよ。」 一人で折れそうになるまで頑張ってしまう生真面目に、母は新たに厳しい課題を与える。 「あ、そうか。わかったよ。」 明るい笑顔で、母の提案の意味を一度で呑み込むアユコは賢い。 わが子が優しく強く、そして賢く育ってくれたことに、改めて頭を下げる。 子供の思いがけない成長に親のほうが勇気付けられる。 「子育ては宝」と改めて思う。
アプコは朝ごはんを食べるのがとても遅い。 席に着くのも皆より遅くなることが多いので、あわただしい朝はアプコが最初の一口を食べる頃にはオニイ達は「ごちそーさん!」と席を立つ。 それでもアプコは慌てない。 鼻歌を歌い、念入りにふりかけを選び、おもむろに自分でお茶をいれてから、静々とお姫様のように朝食を召し上がる。
「おかあさん、おかあさん。あれ、見て!」 「なぁに。早く食べなさいよ。」 「あのね、お外のあの大きい木、見えるでしょ。」 アプコが窓の向こうの山の雑木を指差す。 珍しい鳥でもいるのかな。 「どれよ。」 「あの三角みたいな大きな木。あそこにびゅ〜んと伸びた枝があるでしょ。 「うんうん」 「あの枝の先の、今、小鳥が飛んでいったあのはっぱの下の地面にね。」 「どこどこ。」 「あの、ちょっと白くなってるところよ。」 「ふむふむ」 「あのね、あそこにね、『の』の形の枝が落ちてる。」 「はぁー・・・・。早くご飯食べてね。」
「あ、お母さんみてみて!」 こんどアプコが指差したのは自分の取り皿の中。 変なものでも入っていたかと覗き込むと、いかなごの釘煮が2本。 「ほら、『り』の形。」 「はいはい。」 「この形なんかの形に似てるよね。あ。羽だ。鳥の羽の形だよ。何の鳥か判る?」 「わかんないよ!(そろそろ怒りモード)」 「ほら、鶴だよ、鶴。くちばしが細くて、足が長くて・・・」 「鶴なら知ってるから説明しなくて良いよ。早くご飯食べて。」 「あ、お母さん、さけぱっぱ(ふりかけのなまえ)の反対って何か知ってる?」 「知ってるから、ももういいよ。ふりかけご飯食べちゃいな。」 「でも面白いよ。 『ぱっぱけさ』だよ。 ぱっ・ぱ・け・さ。うわぁ、おかしい!(本人バカ受け)」 「こらぁ!さっさと食べなさい!!」
幼稚園のお友達とのお手紙交換で急速にひらがなの読み書きを覚えたアプコ。 文字を読むのがとりあえず楽しい。 看板の文字、車のナンバーの文字、先生の連絡帳の文字。 知ってる字をとにかく片端から声に出して読んで見る。 粒チョコを文字の形に並べる。 おうどんで「の」の字を作って、一人で受けまくる。 お絵かき帳にもたくさんの鏡文字交じりの説明文が書いてある。 アプコの頭の中には、たくさんのひらがなが渦巻いている。 「文字」というものの意味を始めて発見した幼児の感性のみずみずしさ。 人が文字を学ぶということのはじめの一歩は、本来こんなにも嬉しさに満ちた楽しい遊びから始まるのだな。
小中学生になって、漢字テストのまえにいやいや漢字ドリルを埋めるようになる前に、どの子にもこんな嬉しい文字との出会いがあったのだろうか。 新しいことを知る。 初めて得た知識を自分で活用する。 「見てみて!」と誰かに自分の発見を披露する。 そんな基本的な「学ぶ喜び」をたっぷり味わってから、大きくなってもらいたい。
・・・といいつつ、アプコの朝食は半時間たっても、まだほとんど手がつけられていない。 「さっさと、食べてくれ!」 アプコの取り皿の上に、新しいいかなごの文字。 「へ」 ・・・へ、じゃないよ、まったく。
朝、お寝坊して大慌てご飯だったので、朝ごはんのメニューは「ぽっかり卵」とお味噌汁。 ゲンは、甘辛いしょうゆ味のおだしでぽっかりと煮た「ぽっかり卵」がちょっと苦手。 朝の忙しい時間には卵のお鉢を気乗りしない様子でつんつんつつき、時間切れになるとこれ幸いと黄身だけぽつんと残して逃げる。 今日もまた、あわただしさにまぎれて、ごまかして席を立とうとしているので、すんでのところで呼び戻した。 「ちょっと待て。黄身まで、しっかり食べていきなさい。」 ばれたかと、しぶしぶ戻ってくるゲン。
「誰かに喰われて、誰かの血や肉になろうと思って生まれてきた命じゃないんだから、こんな残し方をしたら卵に申し訳ない。」 私が、忙しついでに説教をしたら、横からオニイが、 「その言い方、うまいな。 僕も大きくなったら子供にそういって叱ろう。」 と茶々を入れた。 「真似させてやっても良いけど、そのときまでちゃんと覚えておきなよ。 まだまだ先の話だよ。」 といったら、 「そやな。もし、忘れてたら、そのときはお母さん、思い出させてな。」 「え〜っ、あんたがこどもの親になっても、まだお母さんがあんたの忘れ物を思い出させてあげるの?とんでもない、まっぴらよ。」 「ありゃりゃ、そうでした。」 分が悪くなったオニイもこそこそと逃げ出す。 食卓の上には、空っぽになった卵のお鉢。 しっかり食べたら、行ってらっしゃい。
こんな日常の何気ない会話の中から、子供達は親の価値観や生き方のかけらを学ぶ。 そして、いつか自分が親になったとき、思わず知らず同じ言葉で子供を叱る。 私の親としての毎日の言動が、未来の子供達の言葉になる。 しっかり考えて、ちゃんと「おかあさん」しなくちゃなぁ。 まだまだ大変だなぁ。
アプコといつものように園バスへの道を下っていた。 春めいた日差しが気持ちよくて、足元にくっきりとまとわりつく影をお互いに踏みあいっこしながら駆け下りる。 小さいアプコともつれるように絡み合って走るのは楽しくて、年甲斐もなくきゃあきゃあ言いながらアプコの影を追った。 後ろから車の近づく気配がしたので、アプコの手を引き寄せ、道の端による。 後ろから来たのはご近所のNさんのご主人の車。 すれ違うときにゆっくりとスピードを落とし、窓を開けてNさんがにこにこ顔を出した。 「楽しそうやねぇ。」 しまった。 誰も見ていないと思っていたのに、珍しくはじけた私のふざけっぷりをNさんに目撃されてしまった。 ひゃっ、恥ずかし・・・と思ったけれど、バイバイと手を振って再びスピードを上げていったNさんの表情はとても優しくて、アプコと私が遊ぶ様を微笑ましく見守ってくださっていたことがよくわかる。 自分ではそのとき気づいていない、母であることを喜んでいる私をNさんはほんの通りすがりの一こまの中で感じ取って、私にほめてくださったのではないかと思われた。
昨日、私の実家へひいばあちゃんの法事に出かけて、日ごろお会いすることのない親戚の人たちと久しぶりにお会いした。 どの人も、私が4人の子供達を何とかここまで育ててきて、倦む事もなく子育てを続けていることをそれぞれにほめてくださった。 アユコがお客様へのお茶出しを進んで自信を持ってつとめたこと。 アプコが自分より小さい従姉妹のAちゃんと仲良くおとなしく遊べること。子供達の小さな行為の一つ一つを「よく、ここまで育てたね。」と人生の先輩達にほめていただくということは、これからまだまだ続く長い子育ての日常に嬉しい花の冠をいただくことだ。 大事に育てた子供達のことを、誰かにほめていただく、これまでの労をねぎらっていただくのは嬉しい。 もうひとがんばりしなければと思う。 「ええカッコさせてくれてありがとね。」 子供達にも感謝、感謝。 誰かが私の子育てをどこかで見守ってくださっている。 それを知ることは明日の育児の力となる。
私の子育ては果たして周りからよく評価されているだろうか。 そんな気持ちを常に持ちつつ子供と接することは、とてもしんどいことだろう。 でも、思いがけない場面で思いがけない人から、「楽しそうだね。」「よくがんばって育てているね。」と声を掛けてもらうということはとてもとても嬉しいことだ。 そんな場面を見つけたときには、私も声に出してその人をほめよう。 「がんばってるね。」 「いい子に育ったね。」 それはきっと誰かの明日の力になるはずだ。 誰かからいただいた嬉しいお褒めの一言を、今度は私が誰かにお返ししたい。 自分のことでめいっぱいの私にできるささやかな子育て支援。 このくらいならできるかもしれない。
女の子2人を連れて実家のひいばあちゃんの一周忌に出かけた。 大きな荷物を抱えて帰宅の電車を降りると、迎えに来てくれた父さんの車の中にほのかなカレーの匂い。 「帰りが遅くなるかもしれないから、夜は男の子軍団でカレーを作ってね。ご飯も忘れず炊いておいてよ。」と材料を買い揃えて言い残しておいた。 奮闘の様がうかがわれますな。 よしよしと、期待十分でうちに入る。
男の子カレーは絶品だった。 頼んでおいた洗濯物も、とりあえず物干しにはぶら下げて、夕方には取り込んでおいてくれた模様。 汚れ放題で投げ出されたざるやおなべ、丸めてしわくちゃのまま生乾きで取り込まれたトランクスを考慮しても、男達の家事能力はそこそこ及第点といえるだろう。 外から帰って、暖かい夕餉の香りがするということだけでも、主婦の日常には嬉しい楽しい出来事なのだということを、父さんと子供達に伝えておきたいと思う。
「あれ?コタツ、どうしたの?」 居間においてあるいつもの長方形のコタツが壁際に立てかけられ、新婚時代に父さんと使っていた小さな正方形のコタツが置いてある。 「こわれたみたいやねん。ちっとも暖かくならないねん」 以前からコードの接触が悪かったりサーモスタットが不調だったりして、あやしかったコタツではある。 冷蔵庫、洗濯機、電子レンジと来て我が家の家電買い替えラッシュも終盤かと思われてきた今、この春も間近というこの時期にコタツが昇天されるとは予想外だった。 「ま、しょうがないね、」と90センチ角の小さなコタツに6人がごそごそと足を入れる。 法事のお下がりのお菓子でもいただこうと、机の上に広げると子供らがわっと顔を寄せる。 「うわぁ、人口密度めちゃくちゃ高いわぁ!」 いつもと違う家族の距離感が驚きだった。 コタツが小さくなったというだけで、誰かと誰かの息遣いの触れ合う距離感が違う。 なんだかちょっと嬉しくて、いつもより余計に暖かかった。
家が狭くて、子供達に自分だけの空間を与えることができない。 小学生(中学生)になったら、子供がひとりになれる空間を確保してやりたい。 家の空間を考えるとき、必ず話題となるこの言葉。 確かに、子供達は大きくなると誰かに邪魔されない自分のスペース、一人で閉じこもってしまえる個室のドアを欲しがる。 それはそれで当たり前のこと。 大人だって、ひとりになれる書斎が欲しい、趣味を楽しめる個室が欲しい。 家族の中で自分が個になれるスペースはいつも家族の憧れだ。 けれども今日の小さなコタツのように、いやおうなく家族が寄り添える空間、いやでも誰かのため息や空腹のおなかの音を捉えることのできる空間を求めることはめったにない。 でも、特に子育て中のうちには時にはこんなおしくら饅頭のような窮屈な憩いって必要だったのだなと気がつく。
子育てが一段落したので働きに出て、妻でも母でもない自分を生きられる場所を確保したい。 父さん母さんに干渉されない、プライベートな空間に閉じこもりたい。 大人不在の時間の長い友達のうちがうらやましい。 大人も子供も自分が「個」「孤」になれる時間を切望する。
でも、家族というのはそれだけではないのだ。 プライベートな部分にずかずか踏み込んで、間違いを正す言葉。 互いのプライドをかなぐり捨てて、自分の激しい想いや訴えを吐き出す時間。 誰かの息遣いに自分の呼吸を合わせてみられる密着した距離感。 一見うっとおしく感じるような密着感が、まだまだ家族には必要なのだ。 子供が身の回りにいることの幸せの一つは、このうっとおしくも暖かい異常な密着感にもあるのだということを、改めてもう一度考えてみたいと思う。
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