2011年04月01日(金) 『ラ・ロハ捕獲大作戦(2/?):憧れの地、ラス・ロサス PART1』
#Foto_Del_Dia FOTO DEL DIA 〜Picture Of The Day〜 シド・ロウの記事に関連し、アロンソがアルビーとチョリの写真を投稿だ。ランプス、ルーニー、クラウチ、スティービー のシャツを買ったとのこと。アロンソがスティービーのシャツ着てる写真が出てきたら、世の中ひっくり返るぞ!
#La Roja 憧れの地、ラス・ロサス PART1 05:06:02, 木曜日 31, 3月 2011 初日にラ・ロハなメンバーの1/3とは遭遇することが叶いました。でも、実はこの日、私は大失敗をやらかしています。このブログでも紹介した通り、選手たちはジュエリーショップでのイベント終了後、その足でラス・ロサス入りしましたが、午後の練習は一般公開 したんですよねえ……その頃、私は生ラ・ロハに遭遇できた喜びで浮かれておりやたら元気のいい生ける屍と化してマドリー市内を無駄にほっつき歩いていました (飛び入りで入ったブッフェレストランで「ウマー!!」とかのんきにやってました)。 気を取り直し、23日。今回、ラ・ロハに関する現地情報はRFEFが発信するラジオで収集できるようになっていました。しかし、これは地元のスペイン語話者にとってはありがたいけど、聞き取りができない外国人にとってはいい迷惑 WEBで公開してくれた方が断然チェックが楽です。ただ、22、23日の二日間はRFEFが『ラ・ロハ・デー』に設定しミュージアムの入場料なども半額だということはわかってましたので、とりあえず朝から行ってみることに。ラス・ロサスへはマドリー中心部から45分 ラス・ロサスとはRFERのヘッドクォーター、Ciudad del Futbol(英訳:サッカー・シティ)がある町の名前です。フットボールのコートも2, 3面あり、スペイン代表は下部カテゴリから女子カテゴリまで、国際試合前の数日間、皆ここで練習します(詳細は公式サイト)。ラス・ロサスへの行き方は事前に調べていましたが、一番手っ取り早いのはレンタカーを借りること です。 マドリーから車で約20分の距離にあります(地図左上にラス・ロサス)。しかし、マドリーのような大都市、そのうえスペインですから狭い道を縫うように走る小型車&左ハンドル&標識はスペイン語&ロータリーもたくさんあり、ということで、二年前にバルセロナ―バレンシア間を走って苦労した私は、最初からレンタカーという手段は捨てていました。公共交通機関を使用するなら、RENFE(スペインの鉄道)で最寄駅まで行くことができますが、その駅からはタクシーもしくは徒歩ということになります。 ここで一つ押さえておきたいポイントは、Ciudad del Futbolがある場所は便宜的にラス・ロサスと言われていますが、最寄り駅は「ラス・ロサス(Las Rozas)」ではなく「ピナル・デ・ラス・ロサス(Pinar de las Rozas)」という駅だということです。赤丸の場所が、目的地Ciudad del Futbolです。 そう、元エヴァートンで今はスパーズでプレーしてる、あのピーナールと同じ名前 こうした郊外ではタクシーを拾うことが難しいので、その点だけは心配していましたが、徒歩でも15分くらいで駅からCiudad del Futbolまで行くことができるようでした。 私はソル駅に滞在していましたので、まずはRENFEの駅があるアトーチャへ移動。これもソル駅から行くなら、アトーチャ(Atocha)駅で下車してはならず、その次のアトーチャ・レンフェ(Atocha Renfe)駅 で降りなくてはなりません(世の中罠がいっぱいだぜ〜)。 アトーチャ・レンフェに着いたらエスカレーターを降りたすぐ両脇にある発券機で、Pinar de las Lozas行きのチケットを購入。料金は往復で€5〜6 だったと思います。詳しい情報を事前に押さえておきたい場合は、Cercanias Madrid(マドリー近郊列車) のHPで調べることができます。マドリー近郊の街としては比較的大きなラス・ロサス行は5分おきくらいの間隔で頻繁に出ています(ラス・ロサスはバルセロナにとってのテラーサみたいな感覚)。でも、ピナル・デ・ラス・ロサス行は15分おきくらいの間隔です。ピナル行きといっても、ピナルは終点ではありませんので、Destino(到着地)がVILLALBAになっている列車に乗る必要があります。 ここで失敗をやらかしてしまいました。案の定、ピナル行きではなくラス・ロサスまでは行くがそこから別方面に向かう列車に乗ってしまったわけです。結局、ラス・ロサスで下車しピナル行きに乗り換えなければなりませんでしたが、このためにラス・ロサスで30分ほど待たされました。 隣駅だし、もうここからタクシーで行ってしまおうかな? とも思ったのですが、タクシーなら電話で呼ぶしかないようです。 でも、実は20分も待った後で気づいたのですが、駅の外に出て国道に架かった歩道橋を渡ると道路の反対側には数軒店が並んでおり、ちょっと歩くとタクシー乗り場もありました(タクシーが並んでいるのが見えました)。 もう一つの裏技を紹介するなら、ラス・ロサスには巨大な駐車場があり、小さな駅なのにレンタカー会社が入っていました。ラス・ロサスでレンタカーを借りてピナルへ行き、練習場周辺のパーキングに停めるという手もありかもしれません。 ともかく、今度はちゃんとVILLALBAと書かれた列車に乗り、隣駅ピナルに到着。これ↓がピナルの駅。ご覧の通り小さい駅です。やっぱり、タクシーを駅前で捕まえるのは不可能(写真はgoogleMapより拝借)。 この時点で午後12時を回っていたと思います。とりあえず駅前の一本道を上がっていくと、右手に国道に面した巨大なショッピングモールが現れました。ガソリンスタンドや、バス停、銀行なども入っているようです。ここで、うまいこと駐車場に停まっているタクシーを見つけることができました。とはいえ、短時間のうちに何台も入って来る様子ではなかったので、やっぱりただ運が良かっただけのような気がします。 やっとCiudad del Futbolへ。シウダッデルフトボールと名前を告げるとすぐにわかってくれました。Ciudad del Futbolというのはわりとよくある施設名なので、Ciudad del Futbol de Las Rozasとか、en Las Rozasとか言った方がよさそうです。 滞在中に何度か話し相手に「ラス・ロサスのだよね?」と念を押されました。 この運転手が多少英語を理解してくれたので、「帰りもお願い」と伝えて彼のナンバーを聞いておきました。Ciudad del Futbolのミュージアム見学 駅から5分ほどで到着! なるほど歩ける距離ですが、この日は午後からあいにくの雨でしたので、やはりタクシーがないと厳しいところです。 施設内に入るには、警備員の詰所がある場所から入らなければなりません(写真の茶色い建物)。中に入ると左手はガラス張りで、メインコートが一望できます。上の写真の奥に見えるのが、そのメインコートです。 さらに奥にもう一面あり、そこでいつもの練習着姿で練習している選手たちが見えたためにテラスになっている建物の外まで見にいきました。そこにスーツ姿のおじさんがいて英語で尋ねてみました。「でも今あそこで練習しているのは、女子チームだよ」 え〜っそうだったんですか。遠目にはよくわかりませんでした。 多少冷静さを取り戻し ミュージアムへ。レセプションの女性は英語が苦手でしたが、とても親切に接してくれました。やっぱり、ここまで来る外国人は珍しいようです。 この時ロッタリー(くじ引き)について説明を受けました。今日はラ・ロハ・デーなので、訪問者の中から抽選で3名にプレゼントがあるそうです。その内容とは…….妊襦Ε椒好韻箸量眠 Ciudad del Futbolホテルでランチ 商品券 △砲弔い董レセプションの女性の話では、Ciudad del Futbolには専用ホテルがあり、ラ・ロハはラス・ロサスで調整する際はここに滞在するそうです。一般客も、彼らが滞在していない時期にはこのホテルに泊まれるそうです。 連絡がなかったところをみると、残念ながら抽選はハズれてしまったみたいです もう一つ、今夜の練習は見学可能かとたずねたら、イエスという返事。ほっとしました ミュージアムの料金は特別な日だったので€6. 正直、遡ること一世紀のスペインのフットボール史や、白黒の時代を経て、80〜90年に至るまでは、英語での併記は一切ないですし、「フランコの独裁時代はスポーツ局が中央集権主義的な締め付けを行ってたんだろ〜?」とひねくれた外国人の私には退屈でしたが(これがバルサの歴史なら別だけどね)90年代にも入ると知っている選手の名前にお目にかかる機会も増えてきて楽しくなります。 お土産コーナーも。ここでもユニフォームにはネームとナンバーを入れてくれるんでしょうか? 奥にフィッティングルームがあったかな? やっぱり、ミュージアムでもテンションが上がるのは08年以降の情報ですねヾ(´ε`*)ゝ 南ア大会の映像を次々に見せてくれる(Bisbalのflyin' flagやShakiraのwaka wakaに乗せて)ビデオルームも二部屋あり、思わず一巡するまで見てしまいました。ちなみにミュージアムはガラガラでしたが、南ア大会のコーナーには2、3組ビジターの姿も。 Don Balonの表紙 マノーロさんの太鼓もこちらに置かれていました。サマンタのドキュメンタリーでも「ミュージアムに寄贈するんだ」と話してましたね。 これまでに代表に呼ばれた全員分の写真(写真が残っている選手の分だけでしょうが)。 ルイス・ガルシアがあまりにもいい笑顔なんで、イニたんと一緒に笑 EUROとW杯の写真があると思わずパシャリ EUROとW杯より。GKたちは、イケルのユニフォームにサインをしたんですね。 決勝で着たイニたんのユニフォーム。彼のサインが胸にあります 決勝で笛を吹いたレフェリー、ウェブのサイン入りイエロー&レッドカードとスパイク 動画も撮りましたが、他に上げる動画がたくさんあるので面倒臭いから上げません。ミュージアムを一通り見終わったのが14時。19時の練習までまだ時間がありますし、一度マドリーに帰ることにしました。 マドリーに戻るのはスムースでした。電話するとタクシーもすぐに来てくれました。問題なければ45分ほどでマドリーのソル駅に着きます。 ((割愛)) 19時の30分ほど前にCiudad del Futbolに戻ってきました。外は本格的に雨が降り出しています。すでにゲート前には100人ほどの行列。 開門は19時の20分ほど前でしたが、この程度の人数なら、慌てなくてもスタンド一列目を確保できました。といっても、雨で前から3列目までは濡れていたので、皆奥に座っていましたが。見学中も傘を手放せず、雨さえなければ、もっと楽だったんだけどなあ 次回は、いよいよ、練習場に選手登場です(↓は22日のものだけど笑)。
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2011年03月31日(木) 『チャビ「イケルがそこにいてくれることはわかっていた」@El Pais PART2』『ラス・ロサスへ』
#La Roja #Torres トーレスは故郷へ 18:05:39, 木曜日 31, 3月 2011 フォローアップが遅くてすみません。3月22日、トーレスは生まれ故郷フエンラブラダへ戻り、W杯後初めて故郷から祝福されました。 市長は彼に金メダルをかけてあげたそうです。 トーレス「これは、世界中で出会った、私に近づいてきて『なあ、おれもフエンラ出身なんだ』と言ってくれたすべての人々のためのものです。帰郷し、私の街と近所の人々と会えることは素晴らしいことです……私はいつも、フエンラブラダの名前を誇りと共に胸に秘めています。この街と、私を愛してくれる人々のサポートなしに、(W杯優勝を)成し遂げることはできませんでした」 彼は街のスポーツ施設や、地元チーム、フエンラブラダの本拠地であるスタジアム、その名もフェルナンド・トーレス・シティ なども見学したそうです。 MARCAに語ったところによれば、彼は「W杯で優勝することなど夢にも思わなかった。ただアトレティの選手になりたいと思っていただけだったから」とのこと。また、チェコのGKチェフにグラナダがどこにあるのか尋ねられたので、トーレスは地図を指し示して教えてあげたそうです VIDEO
#La Roja #Javi ハビ「せんぱ〜い、おれ、抜いちゃ 脱いじゃいました〜」 13:49:32, 木曜日 31, 3月 2011 ハビ丸がSOY Underwearの秋冬コレクションのモデルを務めました……orz ハビ、もう私、あんたにめろめろ(死語)よ……公立大学の学生みたいな顔して……脱いだらすごいなんてアリ!?!?VIDEO あんたがその肉体でジョレ先輩を攻めまくってヒーヒー言わせているところが見たあああいっ! またさあ、自分の肉体がどんだけスゴイか、まだ気づいていないようなところがいいよねえ…… ハビジョレでスピンオフが書きたい……orz 実は昨日、チャビ&イケル、チャビ&ビジャ、ビジャ&レイナ情報にものすごく萌えていて、とてつもなくficを書きたくなりました。どうして私は、一人くらいスーツケースに詰めて連れて帰って来なかったんでしょうか?
#La Roja #Xavi チャビ「イケルがそこにいてくれることはわかっていた」@El Pais PART2 14:54:40, 水曜日 30, 3月 2011 チャビのインタビューpart2です。イケルとの関係、改めて素敵だなあ…と思いました。思わずじ〜んときてしまったほど。↑W杯時のこの素敵な未見写真、Yさんに教えていただきました。どこ指差してんだ* * * * ポルトガルでの欧州選手権でも、あなたは先発ではなかった…… バラハとアルベルダ、彼らは注目株だったけど、センセーショナルなプレーをしていたよ。シャビ・アロンソとおれは交代要員だった。 おれは素晴らしいシーズンを送ったところだった。ベルナベウでゴールを決め……イニャキはおれをもっとプレーさせたかったんだと思うが、タイミングを見つけられなかったんだ。イニャキとはとてもうまくいっていたよ。彼は素晴らしい人物だった。だが、あのレベルで勝てなければおれたちにとってはよろしくない……で、おれたちは次のラウンドに進めなかった。イニャキは「なるようになる」と言うような人物で、とても穏やかで、ごく普通の人だった。ルイス・アラゴネスのように…… 同じだな! おれはドイツ大会では絶好調とはいかなかった。ルイスはおれを待ってくれたが、完全に復調した状態に持ってはいけなかった。彼はバルセロナまで会いに来てくれて、おれの膝を心配してくれた。ルイスには大きな影響を受けた。彼ほどおれに多くの信頼を寄せてくれた人はいなかった。たくさん話したよ、彼は偉大だった。フットボールって言葉は、辞書においてはルイスの写真の横に添えてあるべきだ。彼はとてもスマートでね、練習中にやってきてこう言うんだ。「真剣にやっているようには見えないぞ。おまえはここへ練習をしに来たんだ。だがわしにはそうは見えん。気に食わんな!」そして彼は立ち去る。ルイスは小細工しない。彼は面と向かって言う。彼はスペインのフットボール史において新しい時代を築いたと思う。というのも、彼は欧州選手権で、小さな選手たちを集めてプレーすることをあえて試みたんだからな。ドイツ大会はどうだった? ややこしかったよ。何人かプレーしないベテランがいた。居心地悪さを感じちまうとても揺るぎないヒエラルキーが存在していたことが問題だった。悪いことは後でやってきた。ラウルに何が起こったのかおれにはわからない。おれは彼をとても尊敬していた。偉大な男なんだ。何が起きたにせよ、彼らは知っていた。ひどく居心地が悪かったよ。EURO08への道のりはとてもタフだった。 代表におけるルイスの貢献とは? 彼は快挙を成し遂げたと思う。 小さい連中(pequeños)に賭けたんだ。 彼は過去に線引きし、すべて新しく始めた。つまり小さな選手たち――イニエスタ、カソルラ、セスク、シルバ、ビジャ――が一緒にプレーするようになった、ルイスと共に。おれたちは革命を起こした。世界に、良いプレーをすることでも優勝できることを示したんだ。もし欧州選手権で優勝できていなければ、W杯で優勝することはなかった。そして、決定的な瞬間だったのは…… イケルがイタリア戦で歴史を変えた。ルイスに交代させられていたから、おれはベンチから見ていたよ。すごくむしゃくしゃしてたんだ! 蚊帳の外で経験するってのがどんなにひどい気分か、信じられないくらいだった。PK戦までだけどな。イケルがいてくれるとわかっていたから。おれは彼と共に育ったから、いつだって彼が現れるんだって、わかっていた。 バルサでは、ヴァルデスがいるのと同じさ。おれは彼らがピンチを救ってくれるのを見ながら長年過ごしてきた……あのウィーンの夜に、イケルがそこにいてくれることはわかっていた。そして歴史が変わることも。 la flor(=花、イケルのこと)が裏を掻かれたのは、韓国でのあの時だけだ。彼の脇をすり抜けたあのPK戦だけ? ああ、彼の脇をすり抜けた瞬間、「クソ、負けた」と思った。アイルランド戦では、彼は試合中に一本止めていたが、韓国戦では……彼は触ったけど、ボールは擦り抜け、あの瞬間おれたちの負けだとわかった。W杯中、イケルは辛い時を過ごしていたと思うか? ブシもまた辛い時を過ごしていたよ、初戦で彼は批判された。おれはイケルよりもサラの方が辛かったと思うね。というのも彼は注目の的になることには慣れているから。でも彼女は……可哀そうに。彼女は、自分のせいで皆がイケルを批判しているとわかっていたから、辛い思いをしなくちゃならなかったんだ。簡単なことじゃないよ。だがいかなる時も、試合で影響を受けることはない、ばかげたことだ。そうしたことはおれたちをチームとして結束させた。イケルとおれは何年もお互いのことを知っている、マルチェナも同じだ。おれたちはよく話す。マルチェナはな、どれほどプレーする時間が短かろうと、重要な選手の一人なんだ。彼はチームに多くをもたらすんだよ。 イケルはクリケットクラブのミーティングにいた? ああ、いた。イエロ、シャビ、マルチェナ、ラモス。 おれたちは前線に何が足りないか話し合った。これが人生に一度の機会であり、もしこのチャンスをものにできなければ、残りの人生後悔し続けるだろうということも。南アフリカ大会で、デル・ボスケが演じた役割は? 導く役目。デル・ボスケはすでに存在していたものにちょっとしたアレンジを加えたが、エゴは持ちこまずに。ここではおれが仕切る、と言うことなしに。彼はフットボールのスタイルを尊重し、リスペクトを欠くことなく改善を試みた。ほぼ一年が経ち、W杯で優勝したことについてのあなたの意見は? 何かを成し遂げたという、務めを果たしたという幸せな気分だ。もう「何かを獲得できると証明しなくては」と考えて苦悩することはない。今は自分を楽しんでる。世界王者になって以来、幸せな時を過ごしてる……そのことについてあまり多くは考えないが、そんな感じだ。ドイツでは、イタリア人たちを見て、彼らのようにはなれない、と感じた。ブラジル人たちを、まるでエイリアンのように見つめた! おれは、自分たちがどのように成し遂げたかも好きなんだ。優勝したし、ボールを大切に扱い、良いプレーをした。世界に、おれたちがどんなふうにプレーするか知らしめた。だが、アルゼンチンとポルトガルには押し潰された。競争意欲を失ってしまったのか? いや、それはそうじゃない。モチベーションは欠けていた。だが勝たなければならない時は、勝ち点を稼がなければならない時は、失敗しない。W杯での功績のために、あなたはどのスタジアムへ行っても喝采を受ける…… ああ、そんな感じだ。幸せだよ。人々がおれに愛情を抱いてくれているのはありがたい。最高だ。代表の99試合で、最も忘れられない試合は? うーん、わからない。南アでの決勝じゃないか? まあ、フットボールという意味合いでは、欧州選手権がベストだった。オーストリアでは素晴らしい試合をしたが、W杯ではとても難しかった……個人的には、おれの最高の試合はベルナベウでのイングランド戦だった。あの日はルーニーが退場になった。皆がマドリーでおれを讃えてくれた。想像してみてくれよ!そして、あなたのラ・ロハでの最高のパスは? W杯での、ビジャへのバックヒールと、ウィーンでの決勝でのトーレスへのアシスト。または、ドイツ戦でのプジへのクロス……どれも試合を決定づけたから。だけどきみはもっといいパスを知っていると思うよ。 いつまで代表でプレーし続ける? わからない。100試合以上プレーして引退、じゃないか? おれがプレーしたいうちは、彼らはおれを数に入れることができる。ありがたいことだ。今は、欧州選手権のことしか考えていないが、ブラジルまで行くのも悪くないんじゃないか、そうだろ?
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#La Roja #Xavi チャビ「ものすごくラ・ロハのファンだ」@El Pais PART1 14:54:40, 水曜日 30, 3月 2011 遅くなってしまいましたが、一週間前にEl Pais紙 に掲載された、チャビの代表100試合目を記念するインタビューです。このインタビューが掲載された時点では、彼はまだ100試合目となるチェコ戦をプレーしていませんでしたが、彼の代表における過去99試合を総括する、萌えあり感動ありの本当に素晴らしいインタビューです。チャビのインタビューにガッカリさせられることは決してありません。 * * * * 2000年11月15日、チャビエル・エルナンデス・クレウスは代表チームで最初の試合をプレーした。彼は現在、99キャップに達している。金曜日、グラナダにて、もし何も悪いことが起こらなければ、彼はスビサレータ(126)、カシージャス(117)、ラウル(102)らとともに100キャップのクラブの仲間入りを果たす。この100試合はスペインフットボールの近年の歴史を、そしてチャビのパスの軌跡に導かれ、ラ・ロハがヨハネスブルグで世界の頂点に立った道のりを振り返る機会を与えてくれる。代表での初試合を覚えている? オランダ戦だった。彼らはおれたちを1−2で打ち負かしたよ、だけどそのA代表でのデビューの前に多くの試合をプレーした。自分の人生を通して代表チームでプレーし続けてきたことにはセンセーションを覚えているよ。スペイン代表で100試合をプレーすることなんて想像できただろうか? W杯の期間中に、それまであと数試合しか残っていないことに気づいた。そしてもし監督が望むなら、到達するだろうことに。だけどその前は もちろんなかったよ。だってとんでもないことだろ? おれはいつかバルサでプレーしたいとだけ思っていたし、そんなことは不可能だという気もしてた。遠い先の話だ。つい最近まで100試合プレーするなんて予想もしていなかった。その件に関してはわくわくしてるよ。ラ・ロハの大ファンかな? ああ、すごくね……ものすごくラ・ロハのファンだ 。代表でプレーするのは好きさ、そそられることだよ。前にルイス・アラゴネスがおれにこう言った――「こいつは、感情やイデオロギーはともかく、フットボールなんだ。誰がフットボールをプレーするのが好きじゃないっていうんだ?」彼の言う通りだ。フットボールをプレーするのが好きじゃないなんてやつがいるかい? さあね、おれはバルセロナで育った。ここは家だ。だけど代表チームはおれに多くを与えてくれし、成長させてくれたんだ。初めて代表に参加した時、自分がどんなだったか覚えている。そして今のおれがどんなかもわかってるわけだけど、信じられないことだ。 初めての時のことを覚えている? 代表のって意味だよな? ←もちろん…… 16歳の時、11月のトレーニングだった。マドリーで三日間過ごしたよ。監督だったビラが連盟のテオドロ・ニエトにこう言った――「こいつを連れていけ、すごくいいぞ」彼はサンティステバンと共にチームを作った。イニャキ・サエスもいたっけ。彼に対しては多大な敬意を求められたけど、知り合えばとても素晴らしい人だとわかったよ。あと、ラ・レアル(レアル・ソシエダ)の(ジョセバ・)ジョレンテやイケル・カシージャス、ソリアーノ、アランスビア、ベティスのヴァレーラや、オルバイス、ジェステもいた…… 当時のチームの多くの選手がプリメイラ・ディビジョンでプレーした。あの三日間が基礎だったって思っていた。まるで爛侫奪肇棔璽訌手になれるかなれないか瓩辰憧兇犬如△れにとっては効果があった。その三日の間に、何度ボールを失った? いや、いいプレーができたよ、滑らかにね。うまくボールを回して、満ち足りた気分で帰った。だけど失敗ってのは忘れないもんだ……今でも覚えている。ポルトガルでのメリディアン杯に召集されたから、うまくやれたんだったに違いない。ナイジェリアが優勝した。それで、バルサはオクノオと契約したんだ。シマオが大会最優秀選手に選ばれ、おれは二番目だった……あのチームでは、グループが形成され基本が形作られた。代表の常連として呼ばれるようになり、クラブでもプラスになった [チャビ、またしても猜發フットボール事典瓩世箸いΔ海箸鮠斂世垢]なぜ? 監督はきみを違う目で見るようになり、より高く評価してくれる。チームメイトも同様だ。代表でプレーするようになると、もっと自信もつく。ライバルはきみが、代表でプレーしていることを知っているし、それはフィールド上でも伝わって来て、より多くのことを求められるようになる。そして名声もついてくる。代表になるってのは別物なんだ。ヴァルデスにきいてくれ。プロフェッショナル・レベルでは、ステータスが与えられる……それによって、自分自身により多くのことを求めるようにもなる。というのも、もしハードワークしなければ、もう戻れないと考えるようになるから。初召集後は、いつも呼ばれるように? ああ、97年の同じ年、カシージャスや、ソウサ、ウエスカのカマーチョやアルメリアのコロナらとエジプトで行われたU17世界選手権に行った……おれたちは3位に終わり、ロナウジーニョがいたブラジルが優勝したんだ。おれたちはガーナと準決勝を戦った。ブラジルにはマツサレム、ジオバニ……バルサでプレーした小さい選手、ロナウジーニョ、ローマのマンシーニがいた。 本当に勝ちたかったよ! 皆すごく血気盛んだった。チームには素晴らしいハーモニーが存在していて、おれたちは有意義な時を過ごした。下部カテゴリについてたくさん話したし多くのことを共有した。なぜなら皆、同じような不安を抱えていたし、人生はそれだけだったから。それに、恐怖によって人はしゃべっちまうんだ。代表では素晴らしい時を過ごしたよ。なぜイケルは、あなたはとても静かだっていつも言うのかな それはだって、おれがすごく礼儀正しいからだよ! 彼は危険な男なんだ。リエイダのブラスにきいてくれ。おれたちがカードをするとイケルはいつだって勝つんだ。スリーカードを持ってたってエースが出ちまえば、何だって打ち負かしちまう。で、エースはいつだってイケルのところ巡ってくるわけだ……テーブルの下からね、もちろんさ。 代表では遊ぶのが楽しいんだ。おれは大事に接してもらえるしすごくいい友達にも恵まれてるから。カタラン人であることで、問題を抱えたことは? まったく。まったく、連盟の中では。そのせいで問題を抱えたことはない。おれは人好きする人間だし、ここには素晴らしい人々がいる。いつだって居心地が良かったしリスペクトされてきた。代表はおれを買ってくれていると感じてる。それに、バルセロナはいつもおれが代表でプレーしに行くことに協力的だった。いつもだ。バルサ育ちの選手たちが代表チームにもたらすものは? おれたちはロマンティックでね。基本的に、スタイル、ボールに触ることへの愛情。カタラン人選手やバルサで育った者はボールをとても大切に扱うんだ。マドリーから来た選手は、たとえばだが、とても競争意識が高い。とてもメンタルが強く、決して諦めない。 あなたの(代表への)コミットメントは疑われたことが。あなたがカタラン人であるがゆえに そうだ、おれに関するくだらないことがたくさん言われたが、でも連盟の中でじゃない。人々はおれがソックスの国旗を隠していることを非難した。この件に関しては首を突っ込むもりはなかったよ、くだらないことだからな。代表ですでに99試合プレーしてるって時に、おれにどんなコミットメントを示して欲しいんだい? おれは16の時からこのチームのためにプレーしてきた。怪我や捻挫を抱えながら……だけどジャーナリストにこうは言えないんだよ――「なあ、聞いてくれ。おれは自分に鞭打ってプレーするんだ」 代表チームから学んだことは? いかに競争するか。バルセロナですでに経験していたが、競争レベルにおいて、代表はもうひとつ付け加えてくれる。バルサでスウェーデンのチームと対戦することは、スウェーデンの11人の最高の選手と対戦することとは違う。若い選手なら、アフリカのチームと対戦すればフィールドに出て行った瞬間、「本当にこいつら17か?」って思う。で、もちろん彼らを負かしたいと思う。そういう意味で、スペインはいつもとても競争が激しい。そういや、アフリカはおれにとって素晴らしい存在だ。 なぜ? エジプトでは3位だった。ナイジェリアでのワールドユース選手権では優勝したし、昨年は南ア大会でも。だがいつも病気になっちまう。エジプトでは急性結膜炎になったし、ナイジェリアではもう最悪だった。39度の熱が出て、スウェットシャツとブランケットに包まって眠ったんだ、ひどく寒くてね。なのに犬のように汗を掻いて。 彼らはガブリを部屋から追い出したから、彼には何も感染さずに済んだ。4kgも体重が落ちたよ。で、南アでは、コンフェデ杯の時にヘンな動物性アレルギーにかかっちまって。 だけどアフリカはいつだっておれに幸運をもたらしてくれるし、大好きだよ。休暇でケニヤとエジプトに行ったこともある。人々はスーパーナイスでね、好きだよ。ナイジェリアのワールドユース選手権では、なぜ最優秀選手賞に選ばれなかったんだろう? いろいろあったんだ。タベラスとプラティニがFIFAの代表としてやってきておれたちを祝福した。で、彼らはこう言った。おれが大会MVPに選ばれ、ガブリが二位だって……ところが授賞式になると彼らは他の選手に、ケイタに賞をやったんだ。オルバイスはおれたちのキャプテンだったわけだけど、こう言ったよ――「ま、ともかく、ディナーに行こうや」それで皆でピッツァを食いにいった。タフな大会だったよ。焼いたスパゲッティを食ったんだ。ああ〜っなんて面白いインタビュー なんだって? つまり、鍋の底にくっついちまうと、真黒になって出てくるだろ? それを食うか何も食わないかだったんだ! おれたちが泊まったホテルでは、シェフがフライパンに卵を落としてそれを手でかき混ぜていたよ。おれはガブリに言った……マーキナ、おまえ食べろよ。おれたちは帰りたかったけど、ロレンサーナが報告するぞっておれたちを脅したんだ。ありゃひどく暴力的なシチュエーションだったな。 あなたは誰とも問題を抱えたことがない。監督とも誰とも? ああ、おれはそういうタイプじゃない。大勢の監督の下でやったけど、クソ野郎とは会ったことがない。これはおれに限っての話だ。他の人は違うことを考えたかもな。でもおれは問題なかったよ。カマーチョがあなたをデビューさせた。彼好みの選手があなたと何もなかったと信じるのは容易いことだ おれを招集してくれた最初の人物はカマーチョだった。ペップが怪我をして、おれはセルジ、ルイス・エンリケ、プジョルとプレーするようになった……おれはセビージャ戦でデビューし、ハッセルバインクとフランク・デ・ブールのゴールで1−2だった。彼はおれに言ったよ、「チャバル、 おまえのことは知ってるぞ、トランキロ 」彼はおれを、初めてのW杯に呼んでくれた。おれは韓国戦の延長戦で出ていった。パラグアイ戦でもプレーしたし、それから南アとの対戦ではスタメンだった。カマーチョはモチベーターだ。彼は守備的だと考えられているけど、おれたちにはボールを大切に扱わせた。彼といるといつだって警戒していなくちゃならなかった。彼はいつも¡venga, vamos!と叫んでいたし、物事を一歩先んじていた。あの体験はすごく悲しかったな。韓国戦での敗退は本当に不当だった。おれたちはとてもいいプレーをしていたけどフィールドはとても乾いていて……ホアキンとバレロンはすべてをうまくやっていた……素晴らしい試合をしてたよ! だけど韓国の選手たちがいかに走ったか! 彼らはちっとも疲れなかった。おれは、彼らは延長で力尽きると思ってた。だけど彼らは走り続けてPK戦に突入していく中でもまだ走っていた。あの日はタフだったよ。イエロがロッカールームで泣いていた姿を決して忘れないだろう。打ちのめされたよ……あれは彼の代表での最後の試合だったんだ……おれたちはあんな結末には値しなかった。歴史を変えるチャンスだったんだ。 <続>
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