てらさき雄介の日記
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私は原理主義者ではない。軍事的な抑止力は一定理解している。また日本の防衛は日米同盟に頼らざるを得ない。今や世界中の国が緊張状態にあるのだから。
しかしその上で、憲法9条を守りたい。近いうちに改正の議論が俎上に上ってくる。そこに至る前に阻止することが基本だが、仮に国民投票にかけられれば否決しかない。
政治家として全力を尽くしたい。仮に政界再編というものがあるのならば、その是非が規準になるのかもしれない。多くの同志に期待する。
●今日一日
終日所用
| 2024年08月14日(水) |
座してその日を迎えることなかれ |
岸田総理が自民党総裁選挙の不出馬を表明した。一昨年に参議院選挙に挑戦して、岸田総理と「対決」した割には、この方に深い感想を持てない。多くの国民も同様ではないかと思う。
しかしそれでも3年が経った。総理がコロコロと変わる日本では、歴史上短い任期でもない。また不具合による途中の退陣でもない。今後に一定の影響力は残るかもしれない。
さて9月末までは次の総理が誰かに焦点が及ぶ。そして決定後は早々に衆議院選挙だろう。このスケジュールがわかっているのだから、野党も出来る準備はあるはずだ。座して迎えれば前回と同じ結果になる。
●今日一日
【午前】 所用
【午後】 事務作業/事務所
| 2024年08月13日(火) |
立憲と私、��「そして参議院選挙」 |
このシリーズの最終日は、参議院選挙について書きたいと思う。
旧国民との合流によって、立憲は別の政党になった。それでも私が候補者になることが出来たのは、「立憲と私」の歴史を、多くの同僚たちが見ていたくれたからだろう。
参議院選挙の準備と期間中の3か月間は、一生忘れることのない経験と感動を得ることが出来た。「寺崎は立憲を恨んでいる」と、一部から心配する声も聞く。しかし断言する。全くない。選挙の経過と結果は自己責任。そして何より主権者の判断である。
私が恋した立憲をつくった枝野幸男さんは、旧国民との合流の際に「政治とは時間の関数」と言った。台湾の李登輝総統の言を引用したと思われる。時の経過によって、何が正しいかの価値が変わるということか。
私はこの意見に反対だ。選挙を得て権力を持つ民主主義社会の政治家は、変わることよりも変わらないことが求められる。
●今日一日
終日所用
| 2024年08月12日(月) |
立憲と私、�─崕圧脹仝�補予定者に」 |
衆議院選挙に出るために、立憲に入ったと、今でも言われる。しかしそれは違う。私が立憲を指向した段階で、本村さんは市長選挙の表明をしていなかった。その後、枠が空いたので、活動を始めただけだ。衆議院候補予定者になる段取りも、かなりの時間がかかった。約半年がかかった。
多くの地元市民と新しく出会ったスタッフの協力を得たが、私は結果として候補者になれなかった。まさに力不足である。
立憲は旧国民との合流を決断した。その時点で別の政党になった。時計に張りを戻ることにしたのだ。過去を上書きして生きてきたので、その感覚が理解出来なかった。
●今日一日
【午前】 所用
【午後】 所用
【夜】 会合/町田市
| 2024年08月11日(日) |
立憲と私、�А崚淦�は拡大した」 |
党の県連では、役員兼選挙対策委員になった。役員の方はまだしも、選対は嫌だった。候補者を立てるのが役目だから、旧民進党の同僚の選挙区も対象になる。
1人でもいいと思って入党した。勢力拡大は正直どうでも良かった。しかしこれも自分が起こした騒動の責任と受け入れた。
今でも、この一年間のことをよく覚えている。誰が何を言って、その場でどうしたのか。修羅場こそ人間性が出る。政治家は人間性が問われる仕事だ。「敵味方」に限らず信頼できる人はいたし、その逆もまた。
その後に迎えた県議選は勝てる確信があった。しかし結果として無投票になった。自分が起こした騒動で、自分が評価を受けられないことが残念だった。
一方で立憲県議は、全県で27名が当選した。投票日の夜はテレビに見入った。一人ひとりが当選するたびに、声をあげて喜んだ。良い会派にしたいと意欲に溢れた。
●今日一日
【午前】 所用
【午後】 団体イベント/町田市
| 2024年08月10日(土) |
立憲と私、�Α峺�議会会派分裂」 |
1人で立憲の会派をつくるつもりだった。それでしょうがないと割り切っていた。しかし「かながわ民進党」をどうするかの協議になった。立憲に行く議員、行きたいが当面見送る議員、民進党に残る議員、それぞれだった。
ちょうどこの時期に高校時代からの深い友人が亡くなったこともあり、具合が悪くなってしまった。肩と首がしびれて、気持ち悪くなるという症状だ。昨日まで机を並べていた同僚と、まさに真剣にケンカをするのは辛かった。
「かながわ民進党県議団」は分裂し、その名称を変更して「立憲民主党・民権クラブ県議団」が誕生した。17名の所属議員だ。立憲ではなく、無所属や民進党、その後の国民民主党の議員もいたことを、ここに残しておきたい。
●今日一日
【午前】 所用
【午後】 明大八王子高校校友会会議/八王子市
【夜】 星が丘連合盆踊り大会/中央区星が丘 夏祭り/中央区内 支援者訪問/中央区上溝
| 2024年08月09日(金) |
立憲と私、�ァ峺�連結成大会」 |
地元の理解は得られたので、残る問題は2つだった。県議会会派「かながわ民進党」と、お世話になっていた自動車総連だ。後者は先方のこともあるので、墓場まで持っていくことにする。
さて会派の方。私が立憲指向であることは、信頼する同僚議員は気付いていた。陰ながらサポートして頂いた。一方で、初期の段階から具体的な協力を得ることは困難だし、私自身もそれは望んでいなかった。
立憲県連の結成集会が設定された。私は1人で行くつもりだった。その後をどこまでしシュミレーションしていたのか、今思えば反省もある。しかしその時点では強い決意だった。
当日会場に、複数の相模原市議がいた。また県議会からも、「浦道健一」「中村武人」の両氏が参加していた。とても嬉しかった。私よりも軋轢は強かったのかもしれない。
1人ではなく3人いたことが、その後の拡大に繋がった。
●今日一日
【午前】 地域まわり/中央区内
【午後】 事務作業/事務所
| 2024年08月08日(木) |
立憲と私、�ぁ崙�党」 |
立憲の入党には、少しだけ時間を要した。何よりも地元相模原の皆様がどう思うかだ。民主党が既に無くなったとはいえ、前回の選挙はその公認候補である。党を移るということは、市民に対する裏切りになりかねない。
そこで年末年始に、それとなく話を聞いた。真面目に聞くと「寺崎は立憲に行く」と風評が広がるので、適当な感じで、市民が私をどのようにイメージしているかとを聞いた。
結果として、コアな支援者から自民党や共産党の支持者まで、ほぼ全員が「寺崎さんは立憲だよね」と言った。これが地元における自分の存在価値と確信した。地元の心配はクリアした。
年明けに、当時の立憲県連幹部を訪ねた。そして入党したいと申し述べた。私は周りに言わなかったが、政治の世界は、まさに筒抜けだ。翌日にはそのことが広まってしまった。
●今日一日
【午前】 地域まわり/南区内
【午後】 地域まわり/中央区内
【夜】 相模原シティラインズクラブ例会/中央区中央
| 2024年08月07日(水) |
立憲と私、��「選んだ理由」 |
何故私が立憲を選んだのか。枝野氏の姿勢に感銘したことは、確かにある。一方で特定の個人を崇拝するようなことはしない。
安保法制に関連する立憲主義の確立、多様性を尊重するリベラル思想。そして日本人としての思いやりを「堂々と」掲げたからだ。
民主党はその勢力を拡大する過程で、色々な要素を加え過ぎて、結果として軸を失ってしまった。
自分たちが何物なのか語ることが出来ない、情けない状況が続いていた。それは民進党になってより酷くなった。欧米の左派政党を模索していた私はかなり失望していた。
●今日一日
終日所用
| 2024年08月06日(火) |
立憲と私、�◆崚�時の状況」 |
立憲に恋した私だったが、直面する衆議院選挙では本村さんを応援していた。色々な経緯があり、希望の党からの立候補だった。私は希望の党をつくった小池百合子氏を支持できなかったので、ここは小選挙区は本村さん、比例は立憲と決めた。
かつ本村さんのマイナスにならないよう、この時点では自分の中に秘めていた。本村さんの選挙事務所は古淵にあった。一度だけ立憲の街宣車が目の前を通過したことがあった。周りの目を気にしながら、大きく手を振ったのを覚えている。
その衆議院選挙で立憲は野党第一党になった。しかし立憲の地方議員は神奈川でゼロ。それぞれが行く先について判断を求められていた。私はあえて早く立憲行きを早く表明した。
●今日一日
【午前】 地域まわり/緑区内
【午後】 地域イベント/中央区横山 行政相談対応(教育)/相模原市役所 行政相談対応(防災)/同
【夜】 会合/中央区矢部
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