堀井On-Line



5540,ドーキングスのセックス機械論

2016年05月16日(月)

カントを頂点とした欧米の哲学の世で、< 生物の身体は遺伝子(DNA)を
運ぶ箱である>などと主張すれば、袋叩きになって当然の事。人は神様が
おつくりになったと信じて疑わない国柄の米国だから顰蹙をかって当然だが、
ドーキングは、「セックス機械同士が交わった結果、子供が生まれ、子々孫々、
遺伝子が生き繋いでいく」と言い切る。この論からすると、死後の世界とか、
生まれ変わりや、「自己存在とは何だろう?」など、考えることが馬鹿くさく
なる。 たまたま、やばい我々?の身体に、遺伝子が取りついただけ?
         ーエピソードで読む西欧哲学史:堀川哲著ー より
≪  ☆ 利己的遺伝子
1976年、オックスフォード大学の動物行動学の教師、リチャード・ドーキンス
(1941〜)が『利己的な遺伝子』という本を出した。ドーキンス、35歳であった。
この本は現代のダーウィン主義を要約したものであるが、ドーキンスの文才も
あって、センセーショナルな反響を呼び起こした。
 彼は、「神も仏もあるもんか、生物はセックス機械にすぎない」という。
ドーキンスは特に宗教を攻撃して罵倒するものだから、特にアメリカでは
超顰蹙であった。ドーキンスがアメリカで講演しようとすると大変である。
硬派のキリスト教徒たちが「くたばれドーキンス!」と叫んで押し寄せる。
彼の理論自体は単純・明快である。「この本の主張するところは、われわれ
および、その他のあらゆる動物が遺伝子によって創り出された機械にほかなら
ないというものである」。 こうドーキンスは書いている。
生物の身体は遺伝子(DNA)を運ぶ箱である。よーく考えてみよう。
人間は、最初は一個の細胞である。お母さんのお腹の中に、微小な卵として
誕生するのである。 学校の生物の時間に教わったでしょう。
 細胞の核にはDNAという二本鎖がある。DNAは四種の塩基物質で構成される。
四つの記号でプログラムが書かれていると考えればいい。コンピユータ時代
にはそのほうがわかりやすい。DNAはA、T、G、C(塩基物質の名前の頭文字)と
いう四種の記号でプログラムが書かれるのである。
 人間には人間のプログラムがあり、ブタやダニにはそれなりのプログラムが
ある。私が何ものであるかは、このプログラムによって決定されるわけである。
 DNAのプログラムは自分が生き延びるように動く、そういうようにできている。
サバイバルの方法はといえば、それは自己の複製(コピ!)を作り出すこと。
私たち人間は有性生殖の生き物であるから、コピーの作業は異性との性交と
いう行為を通じて実現される。できるだけ多くのコピーを製造すること、これが
DNAの基本的機能である。DNAはそうするように作られている。雨が降るのと同じ。
 そのために、DNAのプログラムは私たちの身体を適当なときに発情させ、複製の
行為と駆り立てるのである。こうしで私たちは異性を追いかけ回すようになる。
人間誰でも年頃になれば、発情するようにプログラムされているということになる。
 ☆ 遺伝子は永遠だ
間違いなくいえることだが、私はいつか死ぬ。私の身体はやがて滅び去る。
しかし、私が子どもを製造する限り、私を製造しているDNAプログラムは
少し書き換えられて、子どもにコピー(複製)される。個体としての私は死ぬが、
私のDNAプログラムは、私の子どもがまた複製を作れば、永遠である。
私にとってはうれしくも悲しくもないけれど、そういうことになっている。
遺伝子DNAは利己的である。だから「利己的遺伝子」である。その意味は、
DNAは自己の複製を極大化するように行為する、そういうようにプログラム
されているということである。≫
▼ 30数年前になるが、犬のブリーダーが、生まれたばかり犬の子、7〜8匹の
 写真を見せてもらった時、それぞれの個性的な顔と姿を見た瞬間、「この子犬
たちは、以前存在した犬の遺伝子が、改めて、この世に現れ出てきた」と、
直感したことを憶えている。 もしかして、分霊の正体は遺伝子? たまたま、
自分とは、それに触媒の積み重ねでカタチつくられた存在に過ぎないのだ。
これを知っておくと、死に際の絶対孤独が和らぐのではなかろうか。同じか?

・・・・・・
5175,人生相談という気晴らし! 〜⑥
2015年05月16日(土)
           『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
  * 老いた人の絶対的孤独との向き合い方は
 ここで、自分のしたいことを誠実に熱心に追及している限り、理解者は
出てくるというが、どうだろう? 今では、ブログなど、ネットで繋がることが
可能なので、ある程度の他者と繋がることが可能だが。
≪ Q: 〜年齢とともに肥大する孤独との向き合い方〜
 六十五歳の男性です。人間、歳を取るとだんだん孤独になるものだとつくづく
実感しています。若い頃は学才に恵まれていた男が、いつのまにか「俺は文化
なんてものには興味はねえ」と野卑な口調で本性をあらわしたり、デリカシーに
欠けていた男の品性がますますひどくなったり。さらには盟友が亡くなったり…。
そんなこんなで、私はこの七〜八年ほどの間に若い頃からの友人をあらかた
失くしてしまいました。孤独であることにもそれなりの味わいはありますが、
しかし、人生、いや歳を取るということは、かくも無漸なものなのでしょうか。
歳を取ることによって生じる、どうしようもない孤独にどう対応したらいいのか?
適切なるご教示をお願いします。
  A: 〜わずかでも心の通じ合える人がいれば絶対的孤独は避けられる〜
 私は「孤独」がそれほど嫌いではなく、「それなりの味わいがある」と思って
いますので、「どう対応したらいいか」に対する直接のお答えにはならないかも
しれません。あなたの問題にされているのは、主に「他人との関係」でしょう。
それにも二つあって、1つは、人間、歳を取ると「品性」がますますひどくなる
こと、そしてもう1つは、親しい他人や愛する他人が次第に自分より先に死んで
いって、だんだん心細くなること。前者については、私も同じ印象を持ってます。
私が同年齢の男女との付き合いをかなり切っているのは、―自分はともかく―
一般的に言って中高年の「醜さ」に耐え難いからかもしれません。それに加えて、
私は「哲学」なんぞに首を突っ込んでしまったので、50や60の「普通に出来
あがった」男たちと話すことは何もないと確信しているせいでしょう。
 この歳で、妙に哲学に擦り寄ってくる老人も嫌いです。大学の教師や研究者、
あるいは物書きをしていて気が晴れることは、若い学生たちや若い研究者たちや
若い編集者たちや若い読者たちとの「交流」が、適当にあることです。
もちろん、彼らの中にも「心の醜い」輩はいますが、私の周りには総じて
「心のきれいな」人が集まります。そう自分が厳選しているからなのですが。
このことは、第二の孤独にも通底しています。私の場合、特殊とも思いますが、
自分と同世代の男女との付き合いをほとんど完全に絶っていますから、という
ことは、小学校から大学までの同級生などとの交際はないので、誰が生き残って
いるのか、誰が死んでいるかさえ(連絡がないので)わかりません。それに、
私は目上の人との付き合いは(どんな恩人でも)苦手で、これもほぼ完全に切り
捨てていますので、目下、誰が死んでもいっさい葬式に行く義務はないのです。
別に老後の孤独に備えてこう準備したわけではありませんが、私はその時々で
一緒にいて心の通じ合える人がわずかにいればそれでいい、という「刹那主義」
に徹しています。どんなに歳を取っても、自分のしたいことを誠実にかつ熱心に
追求している限り、理解者は出てきますし、その限り絶対的孤独は避けられると
思いますが……。≫
▼ 著者から肩書をとったら、「醜悪なクレーマー」と思われる。
 これまでの著書を読んでいると、クレーマーとしての信じがたい内容が
リアルに書いてある。それはそれは・・ 特に街中や電車などの騒音に敏感。
それと、著書を出し、思いを表現していると、孤独感は半減する。中島の口癖、
「いずれ直ぐ死んでしまう!」は、亡くなった友人を自分に置換えると分かる。
『死んでしまえば、それまでよ! そんなことなど死んで3日も経てば・・』
・・・・・・
4810,Quirt <内向型人間の時代> ー1
2014年05月16日(金)
              <内向型人間の時代> スーザン・ケイン著
   * 内向型人間かどうかのチェックリスト
 私は、あまり外交的ではない。だから、事業創業の人生を選んだのである。
この書の冒頭にあった内向型リストで、○✖▽で、チェックしてみた結果、
20のうち、13が○、✖が3、どうだろう?▽が4で、明らかに内向的
人間である。家内は明らかに外交的人間と思っていたが、○が15に、✖が3、
▽が2で内向的人間には驚いた。専業主婦ということもあるが、驚きである。  
 ー以下、左が私、( )が私から見た家内である。
  ーまずはチェックリストからー 
           日本人、特に地方、北国は8〜9割は内向的人間? 
○グループよりも一対一の会話を好む      ○  (▽)
○文章のほうが自分を表現しやすい       ○  (✖)
○ひとりでいる時間を楽しめる         ○  (○)
○周りの人にくらべて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味がないほうだ
                       ○  (○)
○内容のない世間話は好きではないが、関心のある話題について深く話合う
 のが好きだ。                ○ (○)
○聞き上手だと言われる            ○   (▽)
○大きなリスクは冒さない           ✖   (○)
○邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ   ○   (○)
○誕生日はごく親しい友人一人か二人や、家族だけで祝いたい ○(○)
○物静かだ」「落ち着いている」と言われる       ○ (○)

○仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めない。▽(○)
○他人と衝突するのは嫌いだ              ▽  (○)
○独力での作業で最大限の実力を発揮する        ○  (○)
○考えてから話す傾向がある              ○  (○)
○外出して活動したあとは、たとえそれが楽しい体験であっても消耗したと
 感じる。                      ✖ (✖)
○かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。  ✖ (✖)
○忙しすぎる週末よりも、なにもすることがない週末を選ぶ ○ (○)
○一度に複数のことをするのは楽しめない         ▽ (○)
○集中するのは簡単だ。                 ○ (○)
○授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式の方が好きだ。▽ (○)
▼ 意外なことに、アメリカ人でさえ、2〜3人に1人は、内向的人間という。
 事業人生を30年以上、たずさわり、人との接触が多い仕事もあって、外交的
部分も多かった?反面、嫌な場面へ行かないで済む、自由もあった。逆に仕事上、
内向的姿勢も求められたこともあった。家内の友人に、極度の内向型人間がいて、
その話を度々、聞くことがあった。内向的にも、暗いのと、明るいのがいる。
冷たいのも、温みがあるのもいる。携帯パソコンが一般に普及した中、情報選択
と決断が重要になっているが、この時代だからこそ内向型人間の時代というのも、
説得力がある。ヨガブームというが、週二回、26ヶ月、参加して、成るほど、
内向き、精神性の時代が、実感できる。 高齢者は、どうであれ、内向きに
なりざるをえない。 ーつづく
・・・・・・
4443, ヨガと座禅の違い
2013年05月16日(木)
 毎週二回、スポーツジムの「ヨガ」に参加して14ヶ月、百回はゆうに
超えているが、回数を重ねるたび、身体も、気持ちも解れていく。学生時代に
野狐禅だが、六日町の雲頓庵で持ち込んだ卒論の種本を読みながら、合間に
広い禅室で独り座禅を組んだことがあった。ただシーンとした中、
「直ぐにでも止めようか」という気持ちと戦いながらのたった独りの座禅は、
永平寺での一瞬気持ちを緩めれば、禅僧に叩かれる状況より辛い。誰もいない
ため、直ぐ止めたい誘惑との闘いになる。ヨガで仰向けになり全身を弛緩する
「死者のポーズ」があるが、これは座禅の禅定に似ている。飛行機内の座席で、
耳栓をして姿勢を正し、次々出てくる思いを泡のように流していると、何かの
ゾーンに入ってしまい、10時間以上の時間がアッという間に過ぎてしまう。
ヨガは、瞑想で心を解すのが目的で、禅は、その状況から仏の悟りに近づく
ことにある。
ーヨガと座禅の違いをネットで調ベた、納得した3つをコピーしてみるー
《 人は疲れたときに目をつぶる事がある。そこで何かを思い浮かべながら
 瞑想にふける。この繰返しがヨガという。 このヨガはもともと
「軛(くびき)」ということで、牛に車を曳かせる腕木を指した。これが
次第に神の力に人間を結びつけることを意味するようになり、その修行法と
して智慧、愛、行、瞑想が重視された。一般にヨガと呼んでいるのは、
このうちの瞑想による神人合一の方法である。このヨガは紀元5世紀ごろ
には「ヨーガ・スートラ」を根本経典としたヨーガ派が独立してさかえ、
完全性をそなえたひとつの霊魂を最高神としてあがめた。このヨガの修行法
が仏教にも広く取り入れられてきた。それが坐禅につながっていく。 》
《 ヨガと坐禅は、まず姿勢を正して、呼吸や五感(眼、耳、鼻、舌、身)
 を整え、誘惑をさけ、精神統一するのはどちらも同じ。ヨガは、これに
よって初めて超自然的な力が得られ、対して禅は「禅定」に深くかかわり、
静けさを求める。禅とは(ジャーナ、禅那)という梵語の音写で、釈尊の
悟りを追体験して”身心脱落”し仏の境地になりきり坐禅をすること。
禅は「無」を標誘し功徳や利益を求めない。ひたすら足を組んで坐禅をする。
ヨガは神人合一して身心の健康を増進させる。 》
《 ヨガは、インドに古くからあり、ウパニシャッドと言われる古代インドの
 哲学書にも出てくるもので、瞑想や呼吸法、座法などによって心身を鍛える
事で、心の動きを抑制する方法として古くから用いられた。後に、ヨーガ学派
という哲学集団によって、解脱への実践方法として体系化されていったと
言われています。そして仏教においても、このヨガは悟りへの実践方法として
用いられ、釈尊も、瞑想によって真理を悟ったと言われますし、「瑜伽行」
という修行法として確立されました。現代のヨガも、もともとはそのインド
独特の修行法をアレンジしたものですから、仏教の修行とヨガとは、出発点は
同じであると言えるでしょう。違いと言えば、仏教における修行は、さとりを
目指す為の方法であり、現代のヨガは、心身の健康維持のためのもの、という
点でしょうか。座禅とヨガとの関係についてですが、ヨガは、座法や呼吸法を
盛り込んだ、精神統一の方法でありますし、「禅」といいますのは、「禅定」
つまり精神統一をし、真理を観察することであって、「座禅」は座法や呼吸法を
用いた「禅定」一つの方法ですから、根本的な部分で同じ要素を持つ。 》
▼ ヨガは座禅と出発点が同じ「座法」「呼吸」を盛り込んだ精神統一の方法に
 対し、座禅は精神統一を通して真理を観察するもので、少し意味合いが違う。
腰痛持ちの私にとって、週二回のヨガは腰痛緩和の自己マッサージ治療。
私の腰痛は完治はないが、仲良くするのは可能。その方法がヨガに多くある。
手軽なベストの場が見つかったもの。たまたまー「早朝座禅」山折哲雄著ー
を見つけ読んでいるが、数日前から、30分早く起き、早朝座禅を取り始めたが、
これが良い。4時から7時までは、正にゴールデンタイム。
60年以上溜まった毒出し、矯正の時間でもある。
・・・・・
4069, お金と神 ー2
2012年05月16日(水)
   * 「お金=信用」と、「神=信仰」は同じようなもの  〜�    
           ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より
 お金の本質に関して多くの本を読んで考え続けてきた。ここで、お金と神
の本質を同定し分かりやすく書いている。なるほど、人は心情的に多くの金を
持ちたがるはずである。とはいえ、それは心情である。傍に迷惑をかけない
範囲で、自分の好きなことに時間をかけて使うべきである。通帳にあるのは
単なる数字の羅列。その辺りの知識がないと必ず後悔する、それが人生である。 
 ーまずは抜粋ー
≪ 一方、お金はどうか。人は物やサービスという実体を消費し、生活している。
経済は、それらを効率よく手に入れるため発達してきた。多種多様な物欲と技能
を持つ人びとが、それぞれの能力を最大限発揮して、生活を物的に豊かにする
ためには、自分の得意な物を作って、他人が得意とする生産物と交換すればよい。
それによって、自給自足では望めなかった生活永準を実現することができる。
そのための交換の場が市場であり、お金は交換手段として生まれ発達してきた。 
物々交換では自分の欲しい物を相手が持っているとともに、自分も相手の
欲しい物を持っていなければならない。経済学で言う、交換における「欲望の
二重の一致」である。このとき、誰でも普遍的に欲しがる物があれば、交換手段
として最適である。二重の一致が一重で済むようになり、いつでも自分の欲しい
物と交換できるからである。そのため、宗教が雷や山から始まったように、
お金もはじめは、それ自体が安定した実用価値を持つ米や金銀などであった。
しかし、交換機能だけを考えれば実用価値などいらず、信用だけで十分である。
持ち運びや保管には、かえって実体として機能は邪魔になる。 そのため、
金銀の代わりに大銀行の金銀預り証が紙幣としての役割を持ち始め、20世紀
に入ってからは金銀との交換性とも切り離されて、純粋に交換手段の不換紙幣が
定着した。しかし何の価値のない紙幣を流通させるのに、信じ込ませることが
必要である。それが信用である。≫
▼ 金も、社会的価値として信用出来るから流通するのである。
 それ(交換手段としていた金)が、いつの間にか、将来の不安を解消する
手段にすり替わってしまっていることに人は気づかない。金は使うべき時に
使うのが道理ということ。 何で人は、お金を残して死ぬのだろう?
死後に残された金は、あくまで死の不安の遺物。しかし交換手段の額が
大きいほど、自由になる幅が広くなることは確か。が、それも幻想。
 やりたいことをするのが自由である。何がしたのかをハッキリさせて使って
こそ金(自由)の効用が生きてくる。 貯めたは貯めたで、金に未練を持った
まま死んでいく。つくづく、人間は頭が変である。自分の好きなことをして
行蔵として残せばよいものを。100億円遺した人と、100億円使い果た
した人と、どちらが面白かったかをみれば分かること。
人間両手に持てるのは2千万まで!


5539,閑話小題 〜消防士の収入

2016年05月15日(日)

   * 地に足が着いた人生 ー2
 先日の小テーマで、「地に足が着いた人生」を書いた。
そこで地方公務員資格試験は、如何なるものかと、「地方公務員資格試験」と、
「消防士」の二つで検索したところ、消防士の平均収入が700万以上とあった。
 危険な仕事としても? あまりに・・  〜その辺りから〜
≪ 消防士は718万円が平均年収!(地方公務員給与実態調査結果の概要調べ)
 消防士に支払われる給料の平均は36万円が基本で諸手当が65万円で、
民間企業と比較すると非常に高くなっています。 民間企業平均の平均年収は
409万円となっており、消防士はその300万円以上高い年収を得ている事になる。
消防士に割り当てられる諸手当を調べたところ、特殊勤務手当てがあり、
(1) 危険作業手当(2) 不快作業手当(3) 重勤務作業手当
(4) 非常災害業務手当 (6) 消防業務手当などの手当てがつきます。
 現在全国の消防職の職員は15万8000名。
30代の平均年収は600万円、40代になると720万円といわれており、50代では
800万円以上と民間の平均よりも非常に高くなっています。民間の場合は50代
になると年収が減少する傾向が多いのですが、消防士は着実に上昇する。≫
 とあった。成るほど、自信に満ちた彼の受け応えも、こういう背景があった。
   * 「道」という漢字は、「生首」に由来する
 ある本に、「道」という漢字は、「生首」に由来するとあった。
道は「導く」の意味もある。道は血生臭いのである。人生を道に例えると、
納得する。道には血と汗と涙が詰まっている。
≪ ・古代中国では、自分の領地をへいで取り囲み、そこから外へ抜ける道
 には敵の首を埋めて、攻め込まれないように「まじない」をしたとする説。
・敵から討ち取った生首をちょうちんのようにぶら下げ、「まじない」がわり
 にして外に通じる道を進んだとする説。
いずれの説も討ち取った敵方の生首を魔よけや、まじないがわりに使ったこと
が道の漢字の成り立ちに含まれています。
・「行が変化→辶(みち)」、と、「首(シユ/シウ→チウ疇=長く通っている
意味)」。 長く通じている「みち」→「道を行く」「みちびく」の意味。≫
▼ 人生の道を切り開くとは、戦い、血だらけで進み、途中で行倒れて・・
 と解っていても、進むしかない。急ぐのも、ゆっくり行くのも、人生。
 とすると、ゆっくり急ぐのがベストということか。 人によるが。

・・・・・・
5174,人生相談という気晴らし! 〜⑤
2015年05月15日(金)
           『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 個人主義者の覚悟
 自分を、「アウトサイダー」「ソリスト」「個人主義者」と自認している。
老いるということは、孤独の重圧に押し潰されていく過程でもある。だから、
そのスタンスを取ってきたが、それでも、弱気になることがある。
今さら、「世間びと」になれないし、なる気は一切ないが、彼らの破壊兵器も
ただならぬものがある。だから、「自分とは何だろう」と考えるに丁度よい
エネルギーになる。どの道、永遠の彼方に消滅していく。老いは厳しいのです。
≪ Q: 〜個人主義者にとっての老後を生きるヒントは?〜
 現在、53歳既婚、フリーランスで仕事をしている男です。
私は元来、めんどうくさがり屋でわがままで、人付き合いも苦手です。
特に冠婚葬祭、歓迎会、忘年会など、あらゆる会合や行事に出席を拒否。
こんな利己的性格ですから当然、会社組織に馴染めるはずもなく、こうして
一人で事業をし、近隣との人間関係の希薄なマンション生活をしています。
しかし、現在、老後の問題など何となく将来に一抹の不安を感じています
(目の前にある離婚の危機による自信喪失でしょうか)。自分本位な生き方
をしてきたため、義理を欠くことも多く、自ら世間を狭くしているように
感じています。いずれしっぺ返しがくるように思います。
個人主義生活者に「老後を生きるヒント」を教えてください。
 A: 〜「自分とは何か?」という問いを突き詰めて生きることです〜
「個人主義生活者」にと、その「老後を生きるヒント」とい言葉によって、
あなたが何を期待されているのかよくわかりません(そもそも「個人主義」
とう言葉の意味がはっきりしない)。もし、長く世間に背いて自分本位を
貫いてきたが、老境に至り身体もガタが来ているし、このまま一人で生きて
いくのも寂しいし不安だから、どうにかしたい、というのなら、あなたの言う
ところの「個人主義」をきっぱり捨ててしまえぱいいのです。前後左右の
他人の思惑に常に媚び、自分勝手な考えはぐいと抑え込み、厭なことも率先
してなし、「和」を大切にし、これから必死になって「もちつもたれつ」の
人間関係を復元するのです。それはイヤだ、やはり「個人主義」を貫いた
まま安全な老後を迎えたい、と言いたいのなら、そんなムシのいい話はない
と答えましょう。「いずれしっぺ返しが来る」ことを予見もせずに、よくも
「個人主義」などに乗ってきましたねえ。失礼ながら、おめでたいとしか
言いようがありません。わが国民が、「個人主義」を蛇蝎のように嫌っている
ことを知らなかったとは! 漢然と知っていたとしても、その大量破壊兵器級
の威力に対する自覚がなかったとは!あきれ果てます。しかし、もはや手遅れ
ですから、残された老後は、先に言ったように、「個人主義」をできるだけ
「緩和」して、世間との和解策に奔走するか、あるいは潔く居直って、暗く
寂しい老後を迎えるか、のどちらかしかないように思います。そして、ここ
までがんばってきたのですから、できれば「転向」せずに「個人主義」を
貫くことをお勧めします。それには、自分ひとりでできる仕事を見出すことが
絶対に必要です。単なる趣味ではなく、あなたの実存の中核に届く仕事。
例えば、「自分はなんでこうまで人付き合いが苦手なのか、利己的なのか、
自分本位なのか」という問いを、つまり「自分とは何だろう?」という問いを
突き詰めることです。そのためには、絶えず思索しなければならず、これまで
の体験を微細に至るまで想い起こさねばならず、多方面にわたる読書も
しなければならない。つまり、孤独かもしれませんが、ずいぶん充実した
老後をエンジョイできるのではないでしょうか。≫
▼ ほぼ大部分の人の心には、相談者のような恐れを抱えている。老いて、
 弱って、病気になって、疎んじられ、永遠の絶対無に吸取られ消滅するのが
人生である。個人主義を我が国民は蛇蝎のように嫌っているのは、一連の中で、
多いに実感したが、それ自体も幻想でしかない。
・・・・・・
4809,ある明治女性の世界一周日記
2014年05月15日(木)
   「ある明治女性の世界一周日記―日本初の海外団体旅行」野村みち(著)
 何気なく、図書館内を彷徨っていたら、この本が目につき借りてきたが、
現在の朝のNHKの連ドラの「花子とアン」の、出身校の東洋英和女学校出身と
あったことも借りる動機にもなった。そして、読んでみて、面白いこと。
ランダムに、どのページを開いても、その日その日の、本人の視線が、
そのまま直に伝わる。  ーAmazonの内容紹介よりー
「母親からの厳しい「良妻賢母」教育と共に、東洋英和女学校でキリスト教と
英語という新しい教育を受けた明治の女性、野村みち。豊かな感性と柔軟性で、
真摯に、率直な心情を綴った世界旅行記。」 ーレビューよりー
《 元横浜YWCA会長を務めた野村みちの「世界一周日記」。若い頃から洋行に
 憧れを持っていたことが書かれていた。その「世界一周」は、1908年3月18日
から96日間にかけて行われた。冒頭に旅のルートが掲載してあり、米太平洋郵船
会社のモンゴリア号で横浜港を出港し、ハワイを経由し、サンフランシスコ、
ソルトレークシティ、シカゴ、ボストン、ワシントン、ニューヨーク、英国
ホワイトスターライン社のセドリック号で大西洋を渡り、ロンドン、パリ、
ローマ、ナポリ、ヴェネチア、ベルリン、サンクトペテルブルク、モスクワ、
シベリア鉄道を利用してウラジオストック、敦賀に帰ってくる世界一周旅行。
一行54名、女性3人。筆者の夫は、横浜の実業家・野村洋三氏で、外国人相手の
古美術商のサムライ商会を営んでいました。本町通りにあったサムライ商会は
横浜の古い写真集を見ていると必ず登場するようなエキゾチックでユニークな
外観をしています。258ページに写真が掲載してありますので。筆者の家族の
写真や世界一周時の集合写真も掲載してあり、文章だけでなく当時のイメージ
が理解できるようになっていました。旅行中の装いも和装で通す意味合いも
書いてあり、このあたりに聡明さが伺えます。アメリカのルーズベルト大統領
との謁見や、パリで名バイオリニストのサラサーテの演奏を聞いたことも記され
ています。 巻末に番外編として「野村みちとは」と題する生涯を、北川原美乃
さんが25ページにわたって紹介していました。戦後すぐマッカーサーが占領下の
日本で初めて接した民間人が野村夫妻だったことも書いてあります。
そのような生き方を貫いた女性であることが分かる書でした。》
▼ 100年前の96日間の世界一周日記、そこに女性が3人、加わっての旅行、
 それは大変だっと思われるが、幕末、明治初期の一女性の目で見た当時の、
外国への視線が面白い。長年にわたり、多くの人が様ざまな経験をして記録に
残されているのに、改めて感心する。情報端末がノートしかない時代に、その
人の記録が逆に、生々しさとして、後世の者の心に訴える。横浜で外国人相手
の古物商をしていたため、カルチャーショックは、さほど無かったようだが、
そうでなかったら、その参加自体してなかっただろう。ところで、居間の座椅子
の横に、二年以上も「世界の旅行記101」が置いてあり、毎日、数分間、読む。
2〜3ページに要約した101の旅行記が、それぞれ何人かが分担して書いてある。
ところが、どれもこれも、重いため、せいぜい、一日、数分しか読めないが、
それでも門前の小僧で、少しずつ、階段を下りるように、何とか読んでいる。 
それらから比べれば、ツアーで内容が軽いが、それ故に、親近感がわいてくる。 
世界は広く、それぞれ深い!
・・・・・・
4442, 閑話小題 ーリタイア後の幸せ度
2013年05月15日(水)
  * リタイア後の幸せ度
 退職後の幸せ度は、一番高いのは創業者、二番目は違う会社で勤めている人、
三番目が、そのまま再雇用している人、最後は、そのままリタイアした人、
という調査結果がある。一番高いのが創業者は自分が、そうだから分かる。
それも、私のように会社を倒産させた人がいうと、強がりにように聞こえる
だろうが、複雑な実感である。挫折感より遥かに達成感が強いことは確か。 
自己完結してキレイサッパリするから。意外なのは、完全リタイア組の幸福度
が一番低いこと。長年かけたライフワークを持ってないためだろう。
「自分が、まだ有用の存在でいたい」のか。後は、解釈になる。収入の関係も
あるのだろう。幸せの感じ方は様ざま。 鼻歌でスキップしていくしかない?
そのためには、少々のお金と、知恵と、意欲が必要である。一番の問題は、
やはりお金に行き当たるのか。
  * 節目を超えたようだ!
 昨日、もう一つのブログ《バードウォッチ》に。「一月ほど前か、現在の自分
と娑婆に対し、底知れぬ可笑しさを感じて、知らずに独り腹から笑っていた。
これで節目を乗り越えたようだ。こういうのをアップスケール(脱皮)という。
独り万歳! あとは、心置きなく流しの遊びの世界で我を忘れればよい。
割り切るのに、やはり二年。節目としての4分割の最後のシリーズ。 
心の還暦になる」と書いた。50歳になった時が、これかと思ったが・・、
もう一破壊が必要だったようだ。そして少し楽しめ!ということになる。
まだまだ重いし、最近、何事にも面倒が先に立つ。ただ、バイアスが日ごと
取れて好奇心が強くなっている。遊びに対して、まだまだ修行が足りない。 
「節目を打て」というが、なるほどである。
(後記)ところで偶然だが、去年の以下の文章が、これに連動していた。
    面白いもの。決して傷は浅くないということか!


5538,哲学者は、世間人を、「世人(せじん)」という

2016年05月14日(土)

   * 日常性と非本来的な生き方
 人間は一般的に、規格人間の生き方を良しとし、平均的に、責任を持つこと
なく、生きようとする。世間とは、こういう生き方を良しとし、人と違った
生き方を蛇蝎のごとく嫌う。人生は非日常の中から、新しい世界が広がる。
しかし、人は日常の繰り返しを好しとする。ハイデッガーは、人間の持った、
その習性を真正面に取上げている。 〜ネットで、「世人」を検索すると〜
≪ ハイデガーによると、我々は、常に自分の存在を考えて生きているわけでは
 ない。我々は、仕事やその他の関心事に気を取られ、自分がなぜ存在するのか
を真剣には考えない。我々は、自分が存在することを当然のこととし、その日
その日を他人や物(道具)との関わりの中で生きている。
 ハイデガーは、このような人間の日常的なあり方を「非本来的なあり方」と
呼び、人は自分の存在の意味を問うことなく日常性の中に埋没して生きている
とする。人間は、普段この日常性の中で、他人と同じように行動し他人と同じ
ように物事を考える個性のない平均的な生き方をする。
 ハイデガーは、このように他の人と同じように物事を考え、同じように振る
舞う人を、世人(das Man)を名づけている。世人という語は、固有名詞ではなく、
不特定多数の人々を表す普通名詞として使われている。 世人は、いわば流行を
追っている人である。世人は、皆と同じ服装をし、皆と同じように振る舞う個性
のない人である。このことは、サラリーマンや制服姿の人たちによく当てはまる。
彼らは、ほとんど同じ服を着、いつものように決まった仕事をし、一日を、いや
一生を終えていく。世人は、人並みの人生を生きる。このような世人のあり方は、
ハイデガーの生きていた頃ばかりでなく、今日の社会にも見られよう。
我々は、社会の定めた規格に沿い、同じ言葉を喋り、人並みの着こなしをし、
人並みに振る舞い、人並みの生活をする没個性的な規格人間である。
 世人の特徴は次の二つにまとめられる:
① 平均性 Durchschnittlichkeit
② 免責 Entlastung:この語には、責任免除、責任回避という
 二つの意味が含まれている。
  この二つの特徴をもう少し詳しく述べていよう。
・平均性は、いま述べた通り、皆と同じように考え、同じように振る舞う
 規格人間の状態を指す。
・免責とは、皆が同じことを考え、同じことを行なっているのだから、
 特定の行為に対し、一個人が責任を取る必要はないということを意味する。
 この免責の好例は、おそらく、地球温暖化防止のための自動車の運転の自粛。
 それは一向にはかどらない。その理由は明らか。私ひとりがやめても、どう
 にもならない。皆がやっているから。人は、平均的な考え(偏見)に責任を
 転嫁し、自分の行為に目をつぶる。 ≫
▼ 知性とは、教養とは、規格人間に埋没した己に気づく知識の質量のこと。
 決して、同調するための情報ではない。常々、「世間」を取上げ、埋没して
いる自分を何とか救い上げてはいるが、平均性を求め、責任回避をしている。
『和同の精神』という、長岡高校の精神がある。和すれど、同じない心がけ。
「世人」にも、その属している質もあろうが。情報化社会が、「情報世人」
(いま、私が創った言葉)たる、何も考えられない俗人を生み出している。
しかし、最も格差を生む、情報の質量の格差は大幅に改善されることも事実。
「世間の、どこが悪い」「世人のどこが悪い」というと、小さい世界の中に
閉じ込められている自分に気づかないこと。いや気づかない方が良いのかも。
 で、また偶然だが、丁度よく、以下の内容に続く。

・・・・・・
5173,人生相談という気晴らし! 〜④
2015年05月14日(木)
           『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
  * 周りと同じ「普通」であることが、果たして善か?
「世間びと」の典型事例が<普通の人>である。普通であることが善と信じる
大部分の一人が、この質問者。少し外れた弟を勝手に見下す普通の人である。
無知だから仕方がないとしても、私の姉4人を見る限り、同じような思考範囲。
で、私は最たる愚弟であり、自認している。身辺からしても、当然、異物である。
≪ Q: 〜41歳になる弟が稼げません。将来が心配でなりません〜
 私は53歳の主婦です。私の41歳になる弟のことで相談があります。
弟は大学卒業後、証券会社に入社し、バブルの絶頂期に社内結婚、しかし
バブル崩壊と同時期に離婚、そしてリストラされています。子供はいません。
それ以来、何か気が抜けてしまつたようで、40代になっても独身生活。
社会保険労務士、ファイナンシャル・プランナーなど資格取得にチャレンジし、
その資格を活かして働いているようですが、所得はアルバイト程度で(国民
年金も払えていません)、父親からの援助なしでは暮らしていけないようです。
身内の私が見た限りですが、弟の性格は悪くなく、独身女性にもモテるように
見えるのですが、このままでは弟の未来が心配です。
弟を一人前にするにはどうしたらよいでしょうか。
  A: 〜まず、あなた自身が弟さんを見下す姿勢をやめなさい〜
 回答を裁判の判決形式にしますと「主文、放っておきなさい」となります。
あと判決ではぐだぐだ「判決理由」が続くのですが、今回の場合、何と理由
づけようと(たぶん)五体満足で精神病に陥っているわけでもない41歳の男を
一人前にするために姉が(いや、ほかの誰でも)口を挟むことはありません。
ご相談の内容を仔細に見ても、別に弟さんに何の問題もないじゃありませんか?
むしろ、私はこういう相談をもちかけるあなたのほうに問題があると思います。
世の中には、周りの者(とくに家族)が「普通」でないと、きわめて居心地が悪い
「善人」という名の一群の人々がいますが、あなたもその一人のような気がして
なりません。その「普通」の中心に仕事と結婚がデンと居座っている。
あなたも、弟さんがしっかりした職業についてしっかり金を稼ぎ、しっかりした
家庭を築けば、それでいいのでしょう? しかしーあえて原則論を言いますがー
さまざまな生き方があっていいのではないですか? 現代日本、組織に入らなく
ても食っていける道はいろいろありますし(弟さんはいまそれを模索している
のではないですか?)、結婚しなければならないという規則はありません。
というわけで、自分の弟であっても自分とはまったく別の人格であることを
尊重して、今後弟さんの人生に対してあれこれ干渉するのをいっさいやめる
ことをお勧めします。なお、親が彼を援助するのは勝手です。・・・ ≫
▼ 私が何時も非難する『世間びと』で、世の中の大部分が、善人で普通を
 求める方々で占められている。そういう私も、いざ息子になると、似たような
思考形態から抜けてないことも事実。振返ってみると、弟思いの善人の姉たちに、
いつも、「普通であれ!」と洗脳されていたようだ。見下している世間は、実は
普通の人たちで、普通になれない悪人たる自分が作りあげた幻想でしかない。
逆に、普通こそ据わりが悪いのも確か。「われ、普通を笑う」も、「目くそ鼻くそ
を笑う」の類のこと、ということ!「大変な人」と「普通人」、どうでもよいか!
・・・・・・
 4808,閑話小題 ー年寄りの愚痴
2014年05月14日(水)
   * 年寄りの愚痴
 親戚の法事で、いつも愚痴を言っている一回り少し年上の人がいる。
今回も、前回同様に酒が入ると愚痴が始まった。今回は「昔は良かった!」から
始まり、山本五十六の家系の話から、掛軸の絵の知識の披露と、講釈が続いた。
年を重ねると知らぬ間にクドくなるのは、自分も同じ? 長く生きてきたため
だろうが、これは合せ鏡で、自身を思いやるしかない。酒もまわっていたため、
私も二度「本当に昔が良かったですか?」と、クドく話に割り込んでいた。
 愚痴は、老人性うつ症の特徴の一つの現れ。 そこでネットで検索してみると、
《 65歳以上の高齢者が全人口の23.1%(平成22年)を占める高齢社会になって、
 当然ながら老人性うつ病も増えてきた。高齢者のうつ病には若年層で発症する
のと比べると、いくつか特徴があります。若年期、壮年期に発症する場合には
患者の口数は少なくなり、行動はむしろ不活発にみえますが、高齢者の場合では
逆によくしゃべり落着きのない印象を与える。若年期のうつ病では身体的な症状
を強く訴える場合は、仮面うつ病と診断されますが、同じように老人性うつ病
でも身体の不調を訴える傾向があります。うつ病を発症していなくても老年期
には、個人差はあるにしろ変化を嫌い、意欲を失い、適応力の低下、周囲への
関心の喪失という行動的、心理的な面でいろいろな変化が起きやすい時期です。
特に注意したいのは、老化に伴って性格が変わっていく点です。
一般的傾向をまとめてみますと、
①自己中心的になる  ②疑い深くなる  ③何にでも口や手を出したがる  
④保守的になる ⑤自分の健康を必要以上に心配する  ⑥愚痴が多くなる  
⑦感動しなくなる  ⑧気分や気持ちの切り換えがスムーズにできなくなる 
⑨ストレスにうまく対応できなくなる ・・・》
▼ 肉体的衰えが、精神の衰えを加速し、それがウツ症状をきたす要因になる。
 週に5日は運動ジムに通い、1〜2時間のミニサイクリングをしているので、
何とか落ちこみそうな気持ちを保っているが、この楽しみと、週一の映画館通い
と、自宅のドラマや映画の鑑賞と、この随想日記を書上げる面白味が無ければ、
おそらく、ウツ症になっているはず。先ほどの9つの老人の傾向、どれも
これも、日々、強くなっている現象である。これが連れ合いにも起こり、
その矛先が自分に向かってくるため、二重三重苦になる。で、愚痴が深くなる。
しかし、老いてからの連れ合いの喪失は、それより遥かに厳しくなる。
そして、攻撃先を探し出し・・ 意地悪ばあさん、じんさんになっていく。 
「転がる石には苔がつかない」で、転げまわるしかないのか?
・・・・・・
4441, 四つの時間
2013年05月14日(火)              
 * 四分割の時間割 〜「早朝坐禅―凛とした生活のすすめ 」山折 哲雄(著)
  宗教学者の著者が、この本で勧めている生活が奇しくも私の時間割と酷似
  していて驚いた。
 �デカルトの時間、�イエスの時間、�ブッダの時間、�涅槃の時間、の四分割
だが命名がユニークでよい。( )は、私。�のデカルトの時間は、早朝座禅と
読書や執筆などに充てる時間。(4時半〜6時にブログに掲載する文の添削と
完成、そしてアップ。6時過ぎから7時20分がミニ・サイクリングになる。
そして朝食、新聞、風呂で9時になる)
�のイエスの時間。著者が会社勤めをしていた時は、仕事に集中。
 あたかもゴルゴタの丘を十字架を背負い歩くような時間。
(9時過ぎから12時近くは書斎で、読書か、翌日のブログに掲載する文章の
下書きなど音楽を聴きながら、独り沈潜する)
�のブッダの時間。午前中に集中した緊張から解放された時間。
 (一時間ほどTVを見ながら昼飯した後、スポーツジムへ。正午から15時が
  目安になる。帰りに図書館かスーパーか蔦屋に立ち寄り15時半位に帰宅)
�の涅槃の時間。仕事も終わり、疲れきってしまい、後は晩酌をしたり野球中継
 をみたり。そして、熟睡。(私の涅槃の時間は16時から21時になるが、
 TVの前で、野球、大相撲、録画のドラマか、書斎で読書、そして晩酌)
早朝、午前、午後、夕刻・夜の四分割になるが、書き出してみると価値の高い
順に坂を下りるように世俗化するのが見てとれる。この四分割、人生にも当て
はめることが出来る。0〜19、20〜39、40〜59、60歳以上の、20年一区切り。 
か、25年一区切り。こうみると、どうも私は��が混同していたようだ。
ゴルゴダの丘も大変だったが。そして、涅槃の時節に御隠居で、納得。
 4分割を更に8分割すると「時間割」になるので、曖昧に二つ分けて
おくと良い。成るほど、老後への長期間の準備が必要だ。
・・・・・・
4067, つれづれに ー悲観的すぎるのか
2012年05月14日(月)
 先日、一年半ぶりに木鶏クラブの会に出席した。この会の何人かは、
私のブログを見てくれているが、自分でも気にしていた、「最近の世界と
日本経済の私の見方が悲観的過ぎるのでは」と指摘をされた。読者の多くは、
「一年前に会社を潰したため、悲観的になっているだろう」と予感をしていたが、
案の定。その指摘に対して、「自分の事業の資産デフレと価格デフレの実情を
実際に見て、右下がりの移動年計グラフを10年間にわたって見てきた裏ずけ
がある。世界の株価の総額が4千兆円というが、その十数倍=6京円の不良債権
が銀行、企業、政府の金庫の中に隠されている。これは、何かのキッカケで現れ
出る日がくる。私の事業に早めに来たので、会社をたたんだが、これから世界
恐慌というカタチで、大荒れになるのは当然の理。決して、悲観的過ぎないと・・
日本政府の財政を見れば分かるはず、この有様をみて、悲観的に思わないほうが
変である。」等々、の話になった。フランスも、ギリシャも、今回の選挙で、
国民は緊縮政策に「ノー」の答えを出した。 綺麗事をいい国民におもねいた
野党の毒入りの饅頭の政策に傾いてしまった。それと現在の民主党と自民党の
一部の連中の、囁きは同じ。10年前、5年前に、現在の事態を予測して、
警告を発した人は、当時は変人扱いをされていた。5年先から現在に戻ってきて、
警告を発したら、私が言い続けてきたことなど、大甘の論になると確信している。
5年後は世界恐慌の渦中にあり、銀行閉鎖とか、食料の配給もありえる話。
5年前、リーマンショックや、東北大震災と原発事故を想像できただろうか。
両者とも、500年とも千年に一度の大事件である。目先の応急処理で平静を
保っているが、株式の大暴落やハイパーインフレなど大クラッシュが起て当然。 
リーマンショックという大地震は起きてしまったのである。その後の津波は
1〜2年以内に押し寄せてくる。ただ、時間の問題でしかない。地方経済は
半値八掛が現実。現場は沈黙しているが。ところで移動統計グラフとは、月単位
とすると、毎月、去年の翌月から今月までの年間の売上合計をとりグラフ化した
もの。それをみると、一年単位の趨勢が見えてくる。この右下がり傾向が10年
以上も続いているのが地方の現状。 それで6〜7割減といえば・・ 
一番先に現れるのが駅周辺のホテル、居酒屋、タクシー業界。 さらに携帯、
パソコンなどの情報化が、消費者のシビアな選択を加速、競争を激化させる。
その結果としてデフレが拍車。この中で供給サイドの体力は大きく削ぎ落と
されている。 悲観的になるわ〜
 ・・・・・・・
3701, ジャズについて −2
2011年05月14日(土)
            ー 三枝成彰著「音楽の本」より
【 * スピリチュアル、ブルース、ラクタイム…ジャズのルーツは黒人音楽。 
 ニューオリンズのブラスバンドだけがジャズの母体となったわけではない。
二百年にわたるアメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から自然に沸き起こってきた
‘魂の歌’の営々たる蓄積が、今世紀初頭にジャズという人種の垣根を超えた
新しい大衆音楽として花開いた、ともいえるだろう。そうした‘魂の歌’が、
ワーク・ソング(労働歌)であり、スピリチュアル(黒人霊歌)であり、ブルース。
ワーク・ソングとは、その名の通り、長く単純な肉体労働の最中、少しでも気を
紛らせるために、あるいは仲間主体となってその苦行を乗り切るために歌った
歌のことである。リーダーが即興で一声うなると、それ応じて全員がコーラスで
応じるスタイルだった。これは、たとえばかって日本の酒つくりで、極寒の
酒造りの中で杜氏たちが作業中に歌った‘元摺り歌"などにも通じるものがある。
 ワーク・ソングはなにも黒人特有のものではなく、世界のいたるところで
かつては見られた労働者の風習だったといえるだろう。スピリチュアルは、
西洋キリスト教の賛美歌などに影響を受けた黒人独特の宗教歌で、これは教会
音楽を経由し、ゴスペルという形で現代に継承されている。
 ブルースについては、他のページでも融れるが、奴蒙の身分から解放された
黒人ひとりひとりが、差別や貧困に苦しむ私生活の哀歓を個人的な感情を込めて
歌ったものといっていいだろう。そして、そのブルースが持っていたミとシの
音撰半音下がる「ブルーノート」と呼ばれる音階構造は、とりわけジャズの
発生に大きな影響を及ぼした。また、黒人とクレオールの融合は、ラグタイム
というリズミカルな音楽を生んだ。ラグクイムはクラシックと同じように楽譜
遍りに演奏されるピアノ音楽で、即興性を大切な要素とするジャズとは直接の
共通点はないが、十九憧紀後半から二十世紀初頭にかけて流行した音楽で、
これもまたジャズの源流となった音楽の一スタイルであることは間達いない。
いずれにせよ、一方には黒人の魂の歌やリズムがあり、他方には、クレオール
からもたらされたといってよいラグタイムとブラスバンドがあった。】
▼ ジャズのルーツはブルースやワーク・ソングなどの二百年にわたる
 アメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から沸き起こってきた‘魂の歌’の営々
たる蓄積が背景にあると知って聞くと、また違って聞こえてくる。特にブルース
が、ジャズの発生に大きな影響を及ぼしていると、この本で知った。ジャズに
奥底には、黒人の差別と貧困の長年の哀歓がある。その辺を捉えて聴くと、
今まで何気なく聴いていたリズムの奥にあるスピリットを少しは感じる。


5537,閑話小題 〜閑なるままに・・

2016年05月13日(金)

   * 思いのままに
☆ 先日、一年ぶりに弁護士と会ってきた。ということは、一年、債権に関し、
 何も動きが無かったことになる。ところが、債権買取機構の一つが、債権の
買取請求をしてきた。これが終わると、残りは政府系の2つになる。それも、
私が死ねば、それで清算になる。銀行以外に債権は、ほぼゼロのため、債権
処理のトラブルは無いのが当然。弁護士一任の瞬間、問題終了ということ。
☆ 5年前に、『キレイに止めたい!』という弁護士への私の要請に、
『会社整理に、キレイも汚いもない。良くて70点ならオンの字』の答え。
そこで、『その70点で、お願いします!』 と言い換えて、手順を踏んだが、
抵当物件の全てが、呆気なく、一年以内に売却終了。 弁護士いわく、
『今回は見切り千両というより、見切り万両の結果!』と総括。私の実感は、
『70点というより、80点!』。「20日締めの月末払い」の実質現金決済
の体質もあるが・・ 『生きてきたとおり、死ぬ』の言葉とおりに終了。
実際、小さなトラブルも無かった。 だから、拍子抜けのところもある。
そこで見えた誹謗中傷は、それぞれが、その知識経験の中で、思いつきの推測
をした化物話、それもほぼ嘘で固められた、妄想! でしかない。
 固定化された社会には、ガスが蓄積し、まず自分の毒で、自分を殺す。
☆ 数日前のTVレポートで、最近の「冷凍食品の高質化」を取り上げていた。
 ファミリー・レストランと、味が変わらない冷凍食品が、自宅でレンジに
かければ、美味しく食べれる。 数ヶ月前、この随想日記で、その美味さに
ついて取り上げた。 不景気の中、家計が苦しくなる昨今、ファミレス、
専門レストランの料理を自宅で、安く、手軽に食べる時代に変ろうとしている。
 最近、酒と摘みを買うついでに、冷凍食品のコーナーで、スパゲッテーとか、
焼きソバを買って、昼の食事を家内と分けると、これが丁度良い量。週一回の、
酒とツマミと、冷凍食品などの買い物が、ストレス解消にもなっている? 
それと、百均ショップの買物。値段に関わらず、購買は何かの欲求達成になる。
『日々、是、好日』ということか。 時々、傷口が傷まないこともないが・・

・・・・・・
5172,人生相談という気晴らし! 〜③
2015年05月13日(水)
        『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 人生の意味とは何ですか?
 人生の意味は、それぞれあるが、確たる意味など、ある訳が
ないことなど、少し考えれば分かるはずだが。質問者が言うとおり、
この手の本を読み込んでいなかったということか。ニーチェがキリスト教的
偽善を根こそぎ否定してニヒリストと言われたのも、大衆は、実は神など存在
しないと思っているのに、信じたふりをいていただけと看破をしたため。
≪ Q: 人生の意味とは何か? 極楽を説く宗教とは?
 62歳、自営業、仕事はまあまあ、家庭も平穏、健康、毎晩酒を呑み、
週一でゴルフをする典型的な中年オヤジです。しかし、少しは本を読みます。
最近の小説のつまらなさに、学生の頃に夢中で読んだサマセット・モームを
ひっばり出して読みました。そしてガキの時には読み飛ばしていた
「人生に意味などない」(『人間の絆』)という言葉に出会ったのです。
 それ以来、この言葉が頭の中に鳴り続けています。
古今東西の英雄たちの人生さえ無意味だというなら、小生の人生は一体何か?
死がまったく「無」であるなら、天国を云い、極楽を説く宗教とは何か?
哲学書を一冊も読んだことがない小生にも分かるようにご教示ください。」
  A: 人生が無意味であることを実感するには覚悟が必要です。
 私は普通の人生相談の回答者と異なり、嘘をついて励ます(慰める)ことは
したくないので、相談者が多少傷ついたとしても、思っていることをそのまま
お話しします。まず「哲学書を一冊も読んだことがない小生にも分かるように
ご教示ください」という要求にあきれ果てています。 お答えは「できません」
というものです。ここで相談を終えてもいいのですが、(私は優しいので)
あえて続けますと、「人生に意味があ るか?」という問いに対して真摯な答えを
与えるのは、とにかく難しい。それは,こう問う多くの人が、人生に意味がない
はずがない、だから何でもいいから都合よく納得できる「意味」を提示して
ほしい、と願っているからです(あなたもその一人?)。モームは哲学者ではない
のですが、多分この問題を一番考え抜いた哲学者は「ニーチェ」でしょう。
 彼は、キリスト教の教えはすべて嘘であり、坊主たちがグルになって二千年間
われわれを騙してきたとみなしました。この世で報われなかった人があの世で
報われるわけでもなく、この世の幸不幸は永遠に清算(最後の審判)されない。
高速道路で飲酒運転のトラックに追突され幼児が焼き殺されたのも、電車が脱線
してビルに激突し、ぐちゃぐちゃになった車体の中で多くの乗客が死んだのも、
その人たちがただ「そこにいた」からです。こうしたとき、われわれは「なぜ、
罪もない幼児が? なぜ、親孝行の息子が?」と問います。古来人々はこう問い、
「われわれには測りしれない目的によって、神が災いを意志したのだ」と解釈
して、心を慰めてきましたが、ニーチェはきっぱりこれを否定する。すべては
ただそうなっただけ。その奥に隠された意味(意志)などまったくないのです。
彼はこの真理を伝えるのに全人生をかけ、ついに発狂しました。人生に何の
意味もないことを全身全霊で実感するのは、それほどきついことなのです。
あなたも、そんなに「人生の意味」を知りたいのなら、あと統計的に死ぬまで
十年ちょっとあるのですから、残りの人生、それを探究することに費やして
みてはいかがでしょうか? それが厭なら、謙虚にただ「わからない」と
眩いて死ぬことをお勧めします。 ・・・≫
▼ 中島の面目躍如の内容である。この20の人生相談の回答に、ことごとく
 私自身の曖昧さが指摘されているようでもある。それと私が忌み嫌っている
我が内なる世間びとへの批判に徹してようである。それだけ、世間という共同
幻想は、人々を縛りつけている。欧米では、その共同幻想がアッラ〜の神。
その名のもとで、互いが殺戮を行っている。ところで、『人生の意味』の意味
を価値に置換えると糸口が見えてくる。 人生に価値がありや、なしや? と。
・・・・・・
4807,閑話小題 ーボケの始まり?
2014年05月13日(火)
   * ボケか?
 先週の土曜日、親戚の法事で駅まで歩いた後、タクシーに乗って寺まで
行ったが、誰もいない。そこで住職の自宅玄関で聞いたところ、翌日の間違い。
その前日、もしかと思い、案内を見直して日曜日と確認したが、その勘違いを
確認したことも忘れてしまっていた。 こういうのが呆けの初期症状? 
家内に厳しい冗談?で、「施設に入れなくては!」と、馬鹿にされ
「他人に言わない方が良いよ」とまで、言われる始末。 それにしても、
ハガキを見直しても、間違えてしまう迂闊さに、我ながら信じられない思い。
帰り道、履き慣れない靴のため靴擦れの脚を引きずりながら、反省のため
30分の道のりを歩いて帰ってきた。 休憩のため駅東のマックに入って
ハンバーガーを食べたが、それが何ともいえない味。緊張感欠如だろうが、
後々考えたとき、これが、ボケの始まりだった、でなければよいが。
   * カラオケは、森の生活だからこそ?
 スナックに行っても、カラオケをほとんど歌わなくなった。
店内に客が連れと二人だけでも、歌う気がしないのである。やはり仕事の
憂さとか、張り合いの中でこそ、歌に張りも気持ちが入るというもの。
ゴルフはやらないが、現役時代のプレーが、定年後より遥かに面白いとか。 
年齢もあるが、秘境ツアーも以前ほど行きたいと思わない。これも、仕事の
合間に何とか都合をつけて、浮世のストレスを秘境旅行のストレスで消す
からこそ張り合いがある。 今は今の楽しみがあるのだから、
それは、それで良いとしなくては。
   * カラスの糞かけ
 またまた偶然の一致だが、法事から帰ってきた玄関で、カラスの糞が、
目の前50センチ前に落ちてきた。これまで、一度は命中、あと一度が、
以下の前年の同月同日に書いたのを含めて、三度目になる。それより、
よりにもよって一年前に書いていたとは面白い偶然である。私には、この
手合いの偶然があまりに多い。その瞬間、「今回は、カラスに狙われた」
と直感したが・・。 最近、一羽のカラスがペットのインコの鳴き声に
惹かれて、自宅の周辺に屯している。何か、法事とか、葬式に、よく起きる
不思議な現象の一つ?だろうか。 ー以下をご覧あれ!ー
・・・・・・
4440, 閑話小題 ーカラスの糞かけ
2013年05月13日(月)
* カラスの糞かけ
 数年前になるが、自宅近くを自転車に乗っていた時、カラスが低空で
私の二mほど先に糞を落としていった。問題は、これは果たして私を狙ったのか
偶然か、毎朝近くを通る度に考えたことがあった。ところが、一昨日の朝日新聞
の朝刊のコラムで、四コマ漫画の「ののチャン」が、専門家に質問する形式で、
「カラスの糞かけは、意図したものかどうか」を取り扱っていた。よくあること
だから、取り上げたのだろう。 答え手は、「あくまで偶然で、カラスにとって
何ら利益にならない」と、ゲーム説や、カラカイ説には否定的だった。
専門家といっても、私のように三十年以上、毎朝、散歩やミニサイクリングで
カラスを観察していた訳でない。で、私はゲーム説である。長岡大橋の手すりで、
カラスが5羽並んで私が自転車の通りすがりで至近距離に近づいても逃げない
「度胸ためしゲーム」をしていたことを、ここで書いたことがあった。
また散歩中の小型犬を、至近距離で、威嚇して遊んでいるのを見たことがある。
犬の飼主も、それを面白がって見ていたが、明らかにバカにして遊んでいた。
 話は変わるが、昨日の午後、帰宅をすると、隣の空地で5羽のカラスが入り
乱れて空中戦をしていた。よくあることだが、昨日は違っていた。その二組が
同時に地上で激しい乱闘を始めたのである。初めは車内で見ていたが、決着が
つかないので、車庫に車を入れてから門の角から隠れてみていたが、その間
7〜8分。鳴き声を聞きつけた他のカラスが数羽が駆けつけ、騒然とした中での
激しい乱闘はなかなか見もの。上下に体勢が入替わり互いの身体をワシヅカミ
してツツキ合っていた。よく再び飛びたてたもの。身体からみて若いカラス同士
の縄張り争い。最近、一羽が我家の庭に度々来ているが、その中の一羽だろう。
・・・・・・
4066, つれづれに ースポーツジム、その後
2012年05月13日(日)
   * スローヨガ
 このところ、スポーツジムのスローヨガに参加している。連続参加が勘違い
で14回で途切れたが、これまで18回参加した。ヨガのポーズは腰と背骨の
矯正に絶好である。大よそ40人が参加しており、火・木曜日の午後の週二日。
平日の午後、これだけの人数が一同、暗闇の教室でヨガをするのも奇妙な感覚
である。慣れるのに7〜8回はかかったが、慣れてしまえばしめたもの。
60×120センチのマットの上で色々のポーズをとるが、ヨガの先生曰く、
「ヨガでは、このシートが全宇宙と思って、自分独りと思って下さい!」  
一回、50分だが、あっという間に、時間が過ぎてしまう。始まると周囲の人が
意識から消えてしまうのがよい。シートの中の自分と先生の世界が、それぞれ
出来てしまう。 ところで、専門のヨガ教室だったら幾ら?と値踏みをしたが、
一回、千円の価値は充分ある。 週二日、月に6回(二回、休む?)として
6千円になる。 これだけでSJの会費の元が取れることになる。
時間帯もあるが、9割が中年女性である。
   * 昨夜は、新潟で飲み会
 あれから一年以上経ち、そろそろ蟄居閉門も明けつつある。とはいえ新潟駅前
で事業をしていた手前、会場は敷居が高い地区。一般債権が無いが、気分的には
近寄り難いことは確か。「あの野郎、沼垂で赤ら顔をして飲んでいた」と、
言われそうだが・・ 27〜8年前に、月刊雑誌「到知」に惚れ込み、新潟市
周辺の愛読者の同好会「木鶏クラブ・新潟支部」を立ち上げた。私自身は12年
ほど前から、会から遠ざかっていたが、現在でも続いているが、有難いことである。
最後に行ったのが一昨年の忘年会、去年は時が時だけに一年の喪?が明けた今回、
参加した。その前に、新潟駅構内にある家電のジョーシンと、ビックカメラに
寄ったが、土曜日もあって客で溢れていた。長岡と新潟の勢いの差は駅に出るが、
あまりに大きい。泊まろうと思ったが、22時半の最終新幹線で帰ってきた。 
昔の仲間との邂逅は良いものだ。
   * 自転車専門大店
 昨日、新潟駅近くのイオン直営の自転車大店に行ってみた。100坪位の
店舗にビッシリ自転車が並んでいたが、やはり電動アシスト自転車が主流。
開店直後で、まだ軌道に乗ってないようだが、時代から見て時間をかければ
良くなるはず。まだ価格帯が10万円あたりだが、4〜5万円が爆発的に売れる
分岐点だろう。店長曰く「電気代が月に20〜30円」。一回分なら分かるが、
こんなに安いとは知らなかった。電動アシスト自転車に乗って二年半になるが、
本当に良いと実感している。道具一つで、自分の生活圏の広さが全く変わって
しまう一事例である。ヨガもそうだが、ポタリングを習慣にしてしまえばよい。
  ・・・・・・・
3700, ジャズについて −1
2011年05月13日(金)
 ジャズ1000曲がパソコンに入ったため、常にBGMとしてジャズが聴こえる。
これに慣れると、もう無しにはいられないから不思議。そこで、ジャズとは、
そもそも何?と知りたくなって本棚をみると、たまたま三枝成彰著「音楽の本」
があった。 そこに丁度、私が知りたいことが、そのまま書いてあった。
【「黒人の民族音楽と白人のヨーロッパ音楽とが融合し、その結果、黒人を
 中心としたブラスバンドから生まれたポピュラーミュージック」
  「遅れて拍子を打つ黒人独特のバック・ビート(四拍子の一拍目、三拍目に
おくアクセントを二拍目・四拍子目にずらして演奏する)をリズムに持ち、即興
演奏を生命とする音楽」 ジャズという音楽を簡単に説明すれば、こういう
ことになるであろう。さて、そのジャズは二十世紀の初頭、アメリカ南部の港町
ニューオリンズで生まれるのだが、ここは十九世紀はじめにアメリカが購入する
まで、スペインとフランスが交互に統治していた地域だ。そこには、フランスや
スペインの白人と、西アフリカをルーツとする奴隷として連れてこられた黒人、
そして、その混血である「クレオール」が生活していた。クレオールはおし
なべて教育水準が高く、ヨーロッパに留学をしたり、ビジネスで成功するなど、
ニューオリンズではエリート層に入っていた。ところが南北戦争を受けて奴隷を
解放せざるを得なくなった南部白人層の不満は、黒人ばかりかクレオ一ルへも
向けられ、クレオールも人種差別の対象となる。
 一方、ニューオリンズの黒人たちは、奴隷解放後、主に音楽に仕事を求めた。
南北戦争に敗れた南軍軍楽隊の楽器を古道具屋で安く手に入れた彼らは、祝祭
パレードや葬儀の行進などで演奏するブラスバンドとして活躍。とりわけ、
葬儀の際のブラスバンド行進は、ニューオリンズ名物として伝説化されている。
埋葬へ向かうときには悲しげな曲を、墓地から戻るときには死者の魂が天国に
迎えられるように明るい曲を。ジャズ史上最も有名な曲の一つ「聖者の行進」は、
そんな時代に生まれた曲だ。こうしたブラスバンドには、どのグループにも
何人かのクレオールがいた。白人社会から締め出された彼らは、同じ被差別層
 黒人たちと一緒に仕事を始めたのである。音楽の素養があるクレオールは、
楽譜の読めない黒人に西洋音楽の技法の手ほどきをする。黒人はアフリカの
祖先から脈々と受け継がれている生来のリズム感覚を持っていた。
それが融合し、ジャズの生まれる下地ができあがったのである。
「ニューオリンズ(ディキシーランド)−>スウィングー>ビパップー>
クールー>ハード・バップー>フリー」 これがクラシックの歴史を振り返ると
「バロックー>古典ー>ロマンー>近・現代」といった流れで見るように、誕生
から百年を経過したジャズのスタイルの変遷も、こうした流れで見るのは一般だ。】
▼「ニューオリオンズ」という地域と「黒人」、そして「クレオール」という
 人種に行き着くのである。20世紀の初めの頃、怪しげな下町の酒場で、即興
として、古道具屋から安く手にいれた黒人たちがバック・ビートのリズムで始った。  
  あのアルカポネの時代に全米に、それが瞬く間に広がっていった。
やはり、その背景を知っているといないとでは・・
 


5536,閑話小題 〜地に足が着いた人生

2016年05月12日(木)


   * ある地に足が着いた人生
 幼児の頃から、両親の勤勉さと仕事と人生に対する飽くなき姿勢をみて、
人生の何たるかを教えられ育ってきた。それは、「凡人だけには陥らないこと、
学び続ける必要性」である。戦前、戦中、戦後の激しい時代の変遷の中で、
10人の家族が生き抜くための生存本能が働いたのだろう。 
 無我夢中で15年間も、この随想日記も書続けてきたのも、50年以上も、
早朝の読書習慣を続いているのも、その幼児体験があったため。
その卑小な自分を、ある人物の人生の合せ鏡でハッとさせられた。
ある酒席で、同年齢位の隣人に、『職業は何やってこられましたか?』と問い
かけると、少し考えた後に語った人生とは、『当時の中卒は、金の卵といわれ、
集団就職で、ある大手メーカーに勤めた。殆どの同期は、仕事の後から、
夜間高校に通い、高卒の資格をとってから地方公務員を目指していた。
自分も同様、夜間高校に通い、地方公務員試験の勉強をして合格、消防士
になって、無事、定年退職し現在に至っている。消防だけでなく、救急も経験、
多くの人生を垣間見ることが出来た・・ 』と言う。
 昭和30年代半ばは、クラスの二割位が中卒で就職をしていったが、
夜間高校から地方公務員になったケースを身近に聞いたのは初めて知った。
「夜間高校出の消防士の平凡な人生が、どうした?」といえば、そうだが。
 その人生から、恵まれた家庭環境に育った自分の境遇に気づかされた次第。 
中学の同級の訃報の半分は中卒の人たち。学歴が上がるにつれて訃報数が
減るのは何故か? その目線から見た私の人生は、大甘もいいところ。当時は
中卒で働かなければならない家庭境遇の生徒が、同級に多くいた。振返りみて、
恵まれていた人生だったと痛感する。 私の一生は、恵まれた列車で、少々、
汗をかいた人生でしかない。 それからして、最後の思いもしなかった挫折は、
私にとって幸運だったといえる? いや、誰にでも最期は死という挫折が待つ。
それぞれに、それぞれの因縁があり、それを如何に楽しむか、志を貫けるか。 
娑婆世界は、面白可笑しく、哀しく、甘塩っぱい味がする! せっかくだから、
もっともっと楽しんで、味わい尽くしてから生前に戻りたいもの! 
 幸せな人は、何があっても幸せであり、不幸の人は、何があっても不幸!
心の奥で、どう折り合いをつけるかどうかだ。 そういうこと!

・・・・・・
5171,閑話小題 〜ボ〜ッとしたデカルトの時間
2015年05月12日(火)
   * ボ〜ッとしたデカルトの時間
 御隠居の生活に入って、早朝からスケジュールとおりに時間を過ごしている。
その時間の中で一番大事なのがボ〜ッとした時間。だが、それが過ごせてない。
ひとつ終わると直ぐ、次のスケジュールに移行するため。 以前もふれた事が
あるが、宗教学者の山折哲雄が、早朝30年続けてきた座禅で、無念無想を諦め、
この時間帯は、デカルトの「ものを考えている」と思いつき、全身が解放された、
という話にハッと何かを感じとった。 最近、パソコンや読書の合間に、何を
するでなし、意識的に弛緩した状態でボ〜ッとしている。考えてみたら、現役
時代は何時もしていたことだが、問題は意識してボ〜ッとすることだった。
 〜その辺りの記述を抜粋〜
≪ 朝3時か4時に起きて、毎朝一時間ぐらい座る。毎日香っている線香一本
 燃えるのにだいたい50分前後。その一本を闇の中でつける。その明りを
見ながら座る。道元が言っている「無念無想」なんてのになれるものならなって
みるか、なんてやっていたけど、ぜんぜん無の境地にはならなかったですね。
雑念、妄想とズ〜ッと戯れている。30年近くこれをやって、「俺はもうダメだ」
と思ったのが50代の終わりぐらい。でも、もう癖になっているからとにかく
朝は座るんです。で、あるときハッと思った。「無念無想になろう」と思うから
いけないのであって、「ものを考えている」と思えばいいじゃないかと。
あっという間に全身が解放されたような気分になってね。「俺は今デカルトを
やっているんだ」と。道元の時間と思っていたからできないのであって、
デカルトの時間と思えばいいと。すると、何を考えてもいいわけです、金、
女性、喧嘩したこと…。「我考える、ゆえに我あり」。道元だって大部分
の時間は無念無想じゃなくて妄想と戯れていたんじゃないかと思ったのね。
それで瞬間的にパッと無の瞬間が訪れる。逆にデカルトだって、考えづめに
考えていて、ときには無念無想の時間に恵まれたことがあるんじゃないかと。
そうすると、道元とデカルトはぜんぜん違う世界の人間じゃなくて、彼らは
同じ時間を共有していたのかもしれない、そう思ったときはうれしかったね。
座禅が終わって五時ぐらい。それから本を読んだりものを書いたり。以前は
夜型だったんだけど、朝一時間は夜の3〜4時間に匹敵する、それがわかって
から夜は仕事をしないことにした。朝2〜3時間仕事をすることが、だいたい
自分のノルマになったかな。 ・・・。 ≫
▼ 数ヶ月前から、ブログを書上げネットにアップした後、それまでは、
 次のプログラムを直ぐに移行するが、その時、ただボ〜ッと全身を弛緩し、
ただ座ることにした。これが意外と難しい。要するに雑念が次々と思い浮ぶが、
その中に思いもよらぬ砂金が含まれていることがある。「我考える」とはいえ、
どうせ、碌なことしか考えてない。それなら、この随想日記のように、まず
禄でもないことから、考えればよい。元もと『禄でない』だから!
早朝の散歩も、ポタリングも、ある瞬間、『無念無想』の瞬間がある。
『エッ!俺、何時もボ〜ッとしている』って? それってバカじゃないか。

それってバカじゃない。
・・・・・・
4806,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー3
2014年05月12日(月)
          「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
  * 自分も、人生も、記憶がつくりあげる
 記憶は、その痕跡として、自分でアレンジすることが出来るため、その蓄積
としての記憶は、その人自身が作り上げた要素が大きく加わっている。その時点
での、自己対話としての内的世界が重要になる。そして、その記憶もである。
時間の経過とともに、その記憶も修正されていく。
《 記憶は自己の同一性の基礎となっており、私たちの性格や生きかたに
 大きな影響を与えている。しかし、たとえそうだとしても大多数の人は、
記憶など自分の過去に起こったできごとの痕跡にすぎないと言うだろう。 
これから未来へ向かって生きていこうというのに、今さらどうしようもない
過去の痕跡にかかずらっている時間はない、と。しかし本当にそうだろうか。
 先ほどのTさんの話の中には、未来に向かって生きるためにもやはり、
記憶が重要なことを示唆する一幕がある。記憶喪失のために八年間の記憶を
すべて失ったTさんは、当初、何とかしてその記憶を取り戻そうと焦っていた。
母親はそんなTさんに、誰もが365日すべての記憶があるわけではないのだから、
過去にこだわるよりは、今から何かを始めればよいと言ったそうだ。しかし、
それに対してTさんは、「今まで何をしようとしていたのかを知らなければ、
前に進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」
と言ったという。 このことに関連して私が思い起こすのは、戦後40年目に
おこなわれた当時の西ドイッのヴァイツゼッカー大統領の演説だ。
ヴァイツゼッカー大統領はこの演説の中で、第二次世界大戦のナチスドイツに
よるユダヤ人虐殺について深く謝罪すると同時に、「過去は神でも変えられぬ」
という台詞で、過去を変えることができないことを強調した。しかし、だから
といって過去を封印しようというのではなく、彼は「過去に亡目になる者は
現在に目を閉じることになる」と続け、過去を知り、それを現在に生かすこと
の大切さを訴えかけたのだ。基本的には、私たちの記憶もこれと同じではない
だろうか。自分の記憶をみつめることで、それを現在に生かすことができ、
記憶は未来への航海へと漕ぎ出す原動力となるのではないだろうか。》
▼ 記憶といえば、日記に書かれていたかどうかで、大きく違ってくる。
 だから、ネットや、日記帳に、書き込んでいる。そして、毎年の同月同日分を
読み返しているが、なるほど、自分の加工が大きく入っている。それが「自分」
ということになる。ということは、それぞれが自分史を生きているのである。
今さら書く事もないが、より足取りを確かにするためには、書いておいた方が良い
のだろう。改めて、何気なく繰り返し思い出している記憶が、実は、自分が大きく
加工したものでしかないとすると、やはり共同幻想、幻覚の中で生きているだけ
ということが、少しは自覚できる。最近、ブログで過って行った先の写真を
ネットからコピーし、ブログに載せているが、これが、当時の記憶を彷彿させる。
 これも、当時の記憶の再生と、再体験になる。行ってなければ、注目もしない
だろうし、どんな写真より、当時の感動の方がはるかに良い。過去の再生と
体験と同時に、新たなる未来のためにも、常に、記憶の手入れが必要になる。
・・・・・・
4439, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー9
2013年05月12日(日)
      ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
 ーこれまでの7つの登山道を更に簡略すると、次になる(後書きより)ー
・ ルート1は、心は幻想だと理解する道。
 脳神経科学の知見から考えると、意識される今は幻想だ。
 今とは、未来や過去が調整されて今だと思わされているに過ぎない。
 自分が主体的に行っているとリアルに感じる意思決定も、そうしていると 
 思い込んでいるだけだ。
 僕たちは「生きていると錯覚しているだけだ」と考えざるを得ない。
・ ルート2は、すぐ死ぬことと、あとで死ぬことの違いを考える道
 所詮はいつか死んでしまう、ということから人生を考えると、今死んでも
 あとで死んでも同じよなものだ。人生は死刑のようなもの。だが、それは、
 悲観的なものではない。生まれてきた奇跡を、この宇宙的ラッキーを、
 ポジティブに捉えようではないか。死ぬことが悲劇なのではなく、
 生きていること自体がすばらしい奇跡なのだ、と。、
・ ルート3は、宇宙サイズの視点に立って、自分の小ささを客観視する道。
 138億年前にできて、直径276億光年のサイズを持つ巨大な宇宙。この宇宙
 スケールから見ると、何て人間は小さいことか。しかも、地球上に70億人も
 うごめいている人間。あなたはその中のたったの一人に過ぎない。全体から
 見ると、あなたが自分の死にこだわることは、極めて部分的些細なこと。
・ ルート4は、主観時間は幻想だと理解する道。
 客観的な時間は、138億年にわたって、一秒ずつ確実に時を刻んできた
 かもしれないが、主観的な時間は、それとは異なる。過去と未来は圧縮され、
 生死のところで長さがゼロになる。しかも、それは幻想だ。あなたの過去は
 記憶にしかないし、あなたの未来は想像上の産物。あなたには今しかない。
 あなたは、今しか感じられないのだ。時間などない。だから、あなたの主観
 時間に、死の入り込む余地はない。
・ ルート5は、自己とは定義の結果だと理解する道。
 自分がいて、生きていて、考え、行動し、いずれは死んでいく。
 そう考えるのは、近代西洋流に、自と他、生と死、主体と客体、能動と受動
 といった二項対立図式でものごとを捉えているからに過ぎない。それが正解
 ではなく、ものごとを考えやすいように、そのように定義しているだけだ。
「自分」を定義するから自分があるかのような認知が行われ、「死」を定義する
 から死を恐れている気がするに過ぎない。もともと、世界は単に全体として
 世界であるだけであって、自分も死もないのだ。
・ ルート6は、幸福学研究からのアプローチ。
 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の
 目を気にしない傾向。これらを満たすのは、自己を捨て、無我・無私を実践
 できる達人の生きかた。・・ここに到達した人は、持続的な至福を感じる
 ことができる。逆に、持続的な至福を感じられる人は、達人の域に
 到着することができる。・
・ ルート7は、リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ。
 そこには、リラクゼーションからでも座禅からでも、念仏からでも達する
 ことができる。いや、ルート6のいずれからでも到達することができると言う
 べきだ。 何しろ、もともと同じ山を登っていたのだ。 登頂した先は、
 同じところ。死を恐れない境地。それはそのまま、生を満喫出来るところ。
 昔の人は、科学技術の知見がなかったから、仏教哲学によってしかそこに
 到達できなかったのかもしれない。しかし、現代人には科学技術がある。
 脳科学の知見は意識が幻想だという事実を僕たちに突きつける。
▼ <私たちの心は幻想でしかない。137億年の時空の自分は小さな存在、
 そこでの主観時間は幻想。それを感じている己も定義でしかない。そこでは、
他の人との比較に目を奪われることなく、深くリラックスをしていれば良い>
が活きるコツ。ひたすら今を活き活き、楽しめばよい。背中に羽をつけた
天使のようになるに、まだ重い。せっかくサバンナに出てきたのに。
・・・・・・
4065, お金と神 ー1
2012年05月12日(土)
 * 「お金=信用」と「神=信仰」は似ている 〜�      
        ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より
金とは何だろう?と長年考え続けてきたが、金と神との同定の視点が面白い。
両者ともバーチャルの信頼で成り立っている。一部の支配者が神の信託に、
紙幣の信託の類似性をみて発明したのが金で、両者とも共同幻想の最たるもの。 
 ーまずは、抜粋から。
≪ 金と神は似ている。一般に、金とは汚いもの、神とは聖なるものと言われる。
いずれ実体のないバーチャルなものなのに、人びとの行動に大きな影響を与える。
適度に使えぱ人々に安心と幸せをもたらすが、行きすぎれば人生を狂わせる。
宗教が狂信者を生んで世界を恐怖に陥れるように、現代における金への強い執着
は、人々に購入を控えさせ、不況を生み自分たち自身を失業に追い込んでいる。
◎ 宗教とは、リアルな物欲が生む煩悩から逃れるために、人間が頭の中に
 作ったバーチャルな世界である。それはときとしてリアルな物より人間行動に
強い影響を与える。純粋にバーチャルな神という概念をそこまで高めるのに、
人間は多くの過程を経てきた。はじめ神は嵐や雷、山や川など、自然物や自然
現象と結びつき、それらのリアルな脅威や恵みが、直接の畏敬の対象だった。
その後、徐々に抽象化されていく過程では、多くの装置を必要とした。装置とは、
大伽藍であり、宗教画や彫刻であり、神話や経典である。それらを使って
人びとに極楽浄土や天国を信じさせ、信仰に導いた。この段階ではまだ、
宝石や黄金、美しい花や天女など、極めて世俗的な妄想を抱かせている。
しかし、宗教の抽象化はこれに留まらい。禅宗に至っては、脳内での世俗的な
快楽や美しさへの想像さえ否定する。すべては無であるという禅宗の経典、
般若心経では、直接的な物欲だけでなく物への妄想さえ捨て去ることにより、
心の平安を得ようとする。これによって宗教は完全にリアルから切り離され、
バーチャルな観念へと昇華きれる。 
◎一方、お金はどうか。ーつづく ≫
▼ お金の亡者は、金を神のように崇める人をいう。世の中の9割方の問題が
 金で解決出来る代物なら神様より頼れる紙切れである。神が共同幻想なら、
それを信じている世界では通用するが、通用しない世界では、紙切れの存在で
しかない。信じばこそ、そこに価値が出るもの。その価値を生み出すための装置
の重積で、妄想から信仰に昇華させていく。資本主義における神こそ、金である。
アメリカのドルと国債こそ、神に近い存在であった。それも今や、そのカラクリ
(欧米の資本主義)が崩壊しつつある。
 ・・・・・・・
3699, 自己を見つめる −20
2011年05月12日(木)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 * 死について ー�       ーP・283
【 死の壁に突き当たって打ち砕かれ、この世での自己の赤裸々な実存の現実
 へと跳ね返されて、そこで、みずからの過去を背負い、あるべき将来を目指し、
現在の状況のなかに立って、熟慮し、行為し、人生の道を切り開いていって、
自己と他者と世界と存在のすべての意味ある本質充実を達成すべく格闘して
生きるよりほかにないが、それが人間が生きるということである。それはまた、
人間が生きつつ死ぬということであり、さらには死につつ生きるということ。
したがって、この世で生きる自己の存在の根底には、こうした死の存在論的
概念が深く食い入っている。死を抜きにして、自己はなく、人生はなく、
この世の生存はない。無にさらされたものとしてのこうした人間的自己という
その必然的運命の自覚の上に初めて、具体的な医学的現象としての死の諸相も、
位置づけられうる。 自分が、癌で死ぬのか、事故で死ぬのか、成人病の悪化で
死ぬのか、老衰によって天寿を全うするのか、それは誰にも分からない。
しかし誰もが、この世に生まれてきた以上は、医学的な具体化を伴って出現する
死に早晩さらされることを自覚し、自己の無化を心得つつ、終わりある自己の
人生を深く銘記し、心の奥底でその覚悟を整え、その孤独な最期を密かに見つめ
ながら、いままさにこの世のさまざまな営為に携わって生存の努力を重ねている。 
こうした意味で、明るい現実の根底には、穴が穿たれ、虚無の風が吹き上げて
いると言ってよい。そこには、暗い無の深淵が、底なしの無気味さを湛えながら
広がっている。自己の存在の根底には、無が潜んでいる。考えてみれば、自己が
この世に存在する以前に、元来、自己は、どこにもなく、無であった。 
いま、自己は現世のなかの活動に浸って、一見確固たる実在感を覚えている。
しかし、無常のこの世は、うたかたのように過ぎてゆき、再び自己は、存在の
無のなかに沈み込む。無としての存在の大海のなかに、ひととき浮かび上がって、
浮き草のように漂い、必死にもがいて、確固たる存在を築きえたかに思った
自己存在は、やがてまた、無の大海に呑み込まれてゆく。ハイデッガーが言った
ように、死は、無の枢である。そこには、人間には窺い知れない存在の秘密が
隠されているとも言える。誰もその奥を覗き込んだ者はいない。さりながら、
かつて、エジプトのザイスの神殿に、帳で隠された女神が祀られていたが、
その帳を取り除けることに成功したある人物がそこに見たものは、不思議な
ことに、当の自分自身だったという。へーゲルやノヴァーリスが語るこの意味
深い言い伝えに従えば、存在の深淵を覗き込んで見出されるものは、実は、
当の自分自身である。・・その意味でも、死を含んだ、無としての存在が、
人間の真実であり、それ以外にどこにも存在の真理はないと言わねばならない。】
▼ 最後の章は死である。死は、ドーナツの穴と類推すると、面白い。
 穴はあって、ない。ドーナツの形状が穴を形づくっている。永六輔が
「色即是空の色がドーナツで、真ん中の穴が、空」といみじくも言っていたが、
人間存在を色とすると、自己の存在の根底に潜みこんでいる死は、その穴の
ようなもの。ドーナツを食べてしまえば、その穴も無くなってしまう。
 また、ハイデッガーの「死は、無の柩」も考えさせられる。
無など元もとないのに、それを敢えて柩という著者のセンスが面白い。


5535,魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思

2016年05月11日(水)

    * 魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思
 魂とは何かについて、様ざまな諸説を学んできたが、
<魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思>の説の切口は新鮮。 
そこで思い出したのが、中村天風の言葉。 ソクラテスは、2500年前に、
魂の進化こそ人間の目的という。
  〜天風の哲学から〜
≪ カリアッパ師は遠くの空の彼方を見つめ、誰に言うともなく、つぶやいた。
【お前には人生観らしいものが何もない。その場、その場を生きているだけだと
言われても返す言葉もない。アメリカで医学とやらを勉強したらしいが、逆に
その知識が災いして、ちょっと咳をしても恐れ、不衛生だといっては神経をすり
減らし、オドオドばかりしてる。枝葉末節の学問ばかりして、一番肝心の、
『私は何をするために、この世に生まれてきたのか!』ということを考えてない。
本末転倒もいいところだ!それだったら、死でも仕方がないな。そこから立て
直さなければダメだな!】 カリアッパ師は言った。
【何をするためにお前は遣わされてきた!そのことを考えたことは あるのか!】
 これは、<私たちが生きている意味は宇宙の進化に 同調すること>であると。
教義の最終目的はアートマン(自分)がブラフマン(宇宙)に合 一すること。≫
▼ マルクス・アウレリウス、<人間の心で行う思考が、人生の一切を創る。>と、
 中村天風は、<私たち は自分が考えた通りのものになる。 そのすべてが、
この宇宙を動かしているのと同じエネルギーの力を得ている。> と、いう。
この宇宙の意思が魂ということ。善なる方向に向かおうとする意思こそ、
最も大切なことである。毎朝、仏前で、「この世の全ての人が、善くあります
ように!」と、祈ってはいるが、世人の例外があまりに多すぎて・・
〜これもまた、以下の内容に丁度よくつづく!「良い人」を止めると楽になる。
ハイデッガーのいう、「世人」相手でなく、己の良心に従えば、「ろくでなし、
結構」になる。「世人」の無知はよくない。善い方向(知識)を知らなくては。

・・・・・・
5170,人生相談という気晴らし! 〜②
2015年05月11日(月)
              『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 「いい人」やめて、「ろくでない」になれ
 母親の痴呆症と5年半の間、付合ったこともあり、相談者の切実な気持ちが
手にとるように分かる。兄弟の微妙な関係もあって、そう簡単に事は進まない。
ただ「いい人」を止めてしまうことには大賛成だが、「いい人」は簡単に止め
ようがないもの。介護は、それなりの強さと覚悟が必要になる。「ろくでなし」
にも、覚悟が必要。 正常と非正常の間を彷徨う肉親との同居は重く疲れる。
≪ Q: 〜母親の介護で、自分自身が壊れてしまいそうです!〜
 私は四十五歳で、現在母親の介護をしております。母の介護をするために
仕事を辞め、現在無職です。私には、父、兄、弟がいるのですが、まったく
母の面倒をみようとしないので、男一人で母の介護をしております。
 その母も痴呆が進み、モノの判断ができなくなり、外でゴミを拾ったり、
真夜中に叫んだり、私もその対応に、やり場のない疲れが溜まっております。
もういっそのこと、私も介護を放棄し、母親に早く死んでほしい気さえします。
同時に私まで気がおかしくなりそうなのです。しかし、これまで母親に世話に
なったことを考えると、それも出来ません。このように思う私はやはり
「できていない」人間なのでしょうか?
A: 〜「いい人」をやめて、「ろくでなし」になりなさい!〜
 これも失礼ながら、いらいらする相談ですね。あなたは、私の嫌いな
「いい人」なんですね。これまた細かい事情はわからないのですが、真剣に
考えれば社会的にはいろいろ道は開けると思います。お母さんには息子が三人も
いるのですから、三人でお金を出し合って、介護士を雇う、老人ホームに預ける
等々。(お父さんはともかく)ご兄弟がそれに協力しないのなら、あなたが介護を
続ける代わりに、彼らにあなたの心的・肉体的負担相応のお金を請求してもいい
でしょう。お二人がそれさえ拒否するなら、その原因は二つ考えられます。
一つは、あなたのご兄弟が「ろくでなし」だということ、もう一つは、あなたが
「いい人」という名の「困った人」だということ。「ろくでなし」と「いい人」
が共存すると、だいたいいまのあなたのような状況に陥ります。「ろくでなし」
は、「いい人」を骨の髄まで利用し続け、「いい人」は全身不満の塊になって
恨み続けるというわけです。一般に、人がある限度を超えて耐えるとき、碌な
結果を呼ばない。だから、なるべく避けたほうがいいのです。・・(略)
 あなたがお母さんを(間接的にでも)殺さないうちに、あるいはあなた自身が
「気がおかしく」ならないうちに、あなたは大変身する必要がある。つまり、
「いい人」をやめて、ご兄弟と同じように「ろくでなし」になることです。
そこで、私の提言はただ一つ。一度みんなを集めて、「俺だけおふくろの面倒を
見るのはおかしい!」と大声で叫んでみてはどうでしょう。「もう介護はやめる!」
ときっぱり宣言してはどうでしょう。つべこべ理由を言う必要はない。ことの
おかしさは、どんな「ろくでなし」にもわかるはずですから。一度、そういう
修羅場を経由しなければ、そしてみんなが全身ひりひりするほどの痛みを覚え
なくては、何も変わらない。もっとも、あなたがどうしてもそうしたくない、
そういう勇気がないというのなら、仕方ないですね。お母さんが死ぬまで、
あなたは介護を続けるしかないでしょう。お母さんを恨み、ご兄弟を憎み、
そして自分を責めて生きるしかないでしょう。≫
▼ 介護には、周囲の無理解がついて回る。「まだらボケ」が、その一つ。
 第三者が居るときには、緊張が入った正常状態に近いため、痴呆症の人との
同居経験がないと、「聞くと見ると大違い」と、勘違いをしてしまう。
で、「ろくでなし」と決め付けられる。 当人は今さら何をか!
私自身を振り返ると、見えてくるのが、「ろくでない」「いやなやつ」の影。
・・・・・・
4805,閑話小題 ー倒産よもやま話 ー⑥
2014年05月11日(日)
   * 当事者の隠れた心理とは
 其の辺の視線から度々、思うことは、当事者の心理まで解ってないこと。
ホテル建設の準備と立上げほど面白い仕事はないのでは? 実感として、その
トータルと、軌道にのせた時に、その金額分の元を既にとった実感がある。
これは事業創業と同じであるが。クルーズが好きで、趣味が興じて、その設計
から建設まで、造船会社と打ち合わせをし、造りあげた船が10年、20年後に
難破して命からがら助かったとする。その時、誰かが、「惜しかったですね!」
と言われた気持ち?が、こんなもの。「いや、これだけ楽しんだから、未練も
悔しさもない!海から引退する身にとって、下手に中古品で残っているより、
この方が危険な遊びより解放されて、むしろ良かった」が本音。 第三者は、
難破して命からがら救われた、姿しかみてない。しかし、当事者は、その辺り
が周辺の視線とは全く違う。これも、救命用具と救命舟を用意して、命からがら
助かった?からこそ、言えるのだが。 で、ボートしか乗ったことがない人ほど、
その時に勝手な揶揄をすることになるが、その面白さが、何ものにも代え難い
ことは知る由もない。人は、それぞれ、頑固な岩場の小さな洞窟内のことしか、
知りえない。それは、あくまで、大小の大きさの差でしかないが。
 私の身近な人の心理が、こんな心理もあった?ということを、自分が経験して
初めて知ったこと。両親の生き様の後ろ姿から、「人生には、何が起こるかも
しれない、だから、その時々の楽しみは、その時に、味わうことを、子供ながら
学んだ。それにしても、9割以上の何も考えない人たち、何をしているのだろう。
年金生活に入っても、収入の二割は漠然たる目先に不安のため、預金をして、
死期が迫ってから、この世に、したいことをし得なかった無念と、預金を残して
死んでいくのだから、恐れ入る。 で、「そのお金もない、したいこともない、
無念もない!で、どうした!」 これはこれで、おめでたいこと。これも、
目くそ鼻くそを笑う範疇でしかないが! 王陽明もあるが、論語もあるか?
 
・・・・・
4438, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー8
2013年05月11日(土)
    ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
 * ルート7 リラクゼーションと東洋的思想からのアプローチ(思想の道)
「いい湯だな」と「悟り」は同じこと。両者とも「リラックスの極致=悟り
ということ。 笑いは緊張とリラックス(弛緩)の間に生まれ出る。喜劇や
お笑い番組の束の間に悟りがあるのか? お笑い芸人が果たして悟りをひらいて
いるのか? という疑問が出てくる。しかし「深いリラックス」が、悟りと
笑いにある。早朝のミニサイクリングで信濃川の土手を音楽を聴きながら、
深呼吸をしている時の気持ちは悟りの心境。深くリラックスをしてないと、
自分が壊れてしまう恐れもある。逆に悟りに近い心境は自ずから
リラックスの状況を求める。
 −その辺りを抜粋ー
≪ 先ほどの達人の境地や禅僧の姿はこれに通じるものがある。自分を磨く
ことによって至ることのできる境地。 これに対し、リラックスの境地は、
「世界を貫く原理原則を知った」状態とは異なるように思えるかもしれない。
しかし、そうだろうか。リラックスの境地は、我欲や悩みやその根源である
身体の不自由さから解放された境地だ。心が無であること、あるいは、幻想で
あることを、体で理解した境地だ。「ああ、世界での幸福なあり方とはこう
いうものか」と体で理解した境地だ。そう考えれば、リラックスの境地は、
「世界を貫く原理原則を知った」ことと等価ではないだろうか。「体で理解」
する点が、禅宗の「不立文字」とも関係している。先ほど述べたように、
禅宗では、悟りの境地は言葉では言い表せないものだと考える。右で述べた、
体で理解した境地とは、まさにこのことだ。 頭で理解したのではない。
体で理解したのだ。体で、世界を貫く原理原則がわかった、と実感したのだ。
よって、リラックスの境地は禅宗の悟りの境地と同じものだ、と体で理解
しさえすれば、同じものなのだ。ただ、古代仏教では、禅宗とは違って、
悟りの境地を論理として理解しようと考える。これはどう捉えるべきなのか。
僕はここにも矛盾はないと考える。矛盾か矛盾でないか、自己か他者か、
実在か幻想か、論理か感性か、頭か体か、という対立図式を超えるのが
仏教哲学の論理だ。・・・ 〜(略)湯船につかって「あ〜あ、きもちいい〜」
と思う瞬間。これは大金持ちでも、貧乏人でも同じ。育ちも実績も関係ない。
欲も悩みもない。何も考えない。ただ、「あ〜あ、きもちいい〜」に集中
している。実は、あっけないことに、これが「リラックスの極限」=「悟り」。 
あらゆる欲を超越し、過去も未来も超越し、静かで満ち足りていて、心の
安らぎと平和を享受している。悟りや涅槃の定義にぴったり一致する。
 そうはいっても、リラックスの境地と悟りが同じとは ーしかも、
よりによって、風呂の「あ〜あ、きもちいい〜」と悟りを同一視するとはー 
あまりに突飛で不謹慎な考えだ。そう思われる方も少なくないかもしれない。
が、そんなことはない。期せずして、あるチベット仏教のアメリカ人僧侶は、
悟りとは深いリラックスだと述べていた。≫
▼ 起業を決意してから45年間。三つのブラックスワンで、この結末。
 オセロで、白石が全て黒に変わったようなもの。しかし、人生にとって
ベストと数ヵ月後に気づいた。50歳の節目時に、「還暦までに、それまでの
人生を圧縮して生きる」と決意して、その通り実行してきた。しかし、
まだ何かが足りなかった。そこで気づいたのが、悟りが全く足りなったこと!
・・・・・・・
4064, 思想とは
2012年05月11日(金)                   
  * その人の思想とは一つの行為である    
           ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
 ≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。
   心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を
   ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。
   今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、
   他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、
   掻き集めた灰のなかから 貧弱な火を吹き起したりするのでは、
   子どもや猿どもには感心してもらえるかも知れん――
   それがきみらのお望みならばだ。しかし、真実、良心から出たもの
   でなければ、けっして心に達するものではない。(ゲーテ「ファウスト」)
  そういう声を聞くと、心を打たれると同時に、なるほどこの人はそういう
  人かと、そこにたしかな一個の存在を認めるだろう。この人物には思想が
  ある、と。すなわち思想とは、つまりその人が断乎としてそのように考え、
  そのように生きる、その生き方の言葉や行動にあらわれたもの、という
  ことになる。自分の生き方の全部を賭けた言動だけが、思想の名に値する。
  そこから小林秀雄の、次のようなはげしい断定も出てくる。≫
 ≪ ――精神の状態に関していかに精しくても、それは思想とは言へぬ、
  思想とは一つの行為である。 (小林秀雄『私の人生観』より)
  口で言うのならどうにでもなる、とよく人はいい、これはとくにわが国では
  支配的で、政治家の言口葉などはその標本のようなものだが、そんなふうに
  言葉=意見を弄んでいる者は、ついに真の自己に達することはできないだろう、
  というのである。なぜなら、ひとは自分がしんから正しいと考えたこと
  (それはその人の生き方から出た必然の思想である)を口にする時、己れの
  全存在を賭けてそれを言うのであり、それが周囲に認められ、あるいは
  否認されることで、己というものを知るのだから。≫
▼ 11年間、ここで書き続けてきた効用は、この実感がないことは逆に、
 書けないということ。だから出来事に直面したときの実感を、その場で文章化
して頭に残して置いて、記憶に残す習慣が出来てしまった。写真家は、シャッター
チャンスを待つが、その間、頭の中で、その場の光景の実感を文章化している。
写真に添えられている文章は、だから写真を引き立てる薬味になる。思想とは、
真実、良心から出たものでなければ、心に達しないのである。心にとどくのは、
自分だけの頭で考え、経験し、感じた実感である。読書日記より、書くネタが
なく仕方なく捻り出した「閑話小題」、「つれづれに」のテーマの方が面白いと
言われるゆえんである。
   ・・・・・・・
3698, 自己を見つめる −19
2011年05月11日(水)
              「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 人生は、難しい。老いの時期に、それまで生きてきた過程で問題処理を
誤って置き去りにしてきた過去が吹き出てくる。これは万人に言えることだが、
肉体の衰弱と、精神の衰弱が、それに加速させていく。特に、現在、これまでの
家制度が崩壊、老後は、親子が支えあうシステムは消えようとしている。その中に
あって、自分(の世界)を長年かけて作っておくしかない。しかし、
「こんなはずではなかった、まさか!」が、人生である。 
誰の身にも形を変えて、突然現れ出る。 
  * 老いについて ー�    ーP272
【 こうして不動の英知を得た、落ち着いた老年は、死を覚悟しながら、
自分なりの人生のまとめを試み、知恵を磨いて、認識を深め、 哲学的知性を
研ぎ澄ます恰好の時期となる。キケロが言ったように、無分別は青春につきもの
であり、反対に、分別こそは、老熟に伴ってようやく熟成する。およそ、知性を
錬磨して、労作や仕事に励む老年には、老化は寄りつかないのである。老年に
なって恵まれた晴耕雨読の田園生活こそは、人間に幸福をもたらす。自然のなか
で草木を慈しみ、書籍を読んで知性を鍛える田園生活は、人間に精神の安らぎを
叶えさせる。あらかじめ美徳善行の想い出を蓄えることに努力を傾注して、
精神的に満ち足りた円熟した老年にとっては、こうして、時きたってこの世を
去るのは望ましいことである。自然の摂理に従い、生命に定められた限界に
従って、従容と死に赴くのは、人の使命だからである。セネカの説いたように
自然の定めに従い、それに即して自己を形成することが、何よりも大切であろう。
心身を健全に保ち、見識を蓄え、運命の贈り物は活用しながら、しかしその奴隷
にはならずに、乱されない自由な心と剛毅な精神において、不屈の力をもって、
公正に生き、道義を守り、克己心強く、高潔に、そして調和をもって優美に、
善行に励むことのうちに、人生態度の基本が据え置かれねばならないと、
セネカは捉えた。 人間は、老境においてこそ、いよいよ、こうした人間の
あり方に熟慮を傾けて、人生の実りを念頭に置きながら、自己自身に相応しい
生き方の拡充努め、最期の時に、備えなければならないであろう。】
▼ 長生きはしたいが、老醜は曝したくない。この溝が老年の大問題になる。
 他人のドブ沼は垣間見ることはできても、自分になると!「生まれ活き、老い、
その結果、長く生きている分、多くの病を経験し、死んでいく。これが人生。」
そう、綺麗には人生を終わることはできようがない。事業も同じ。綺麗に引きたい
は妄想。これからが、本番、長い日々が待っている。 清く、正しく、美しい
人生もあるのだろうが?これほど詰まらない人生もないだろう。それは私の偏見?


5534,若者よ、外に出よ! ー⑬ 19世紀の芸術に触れろ 〜B

2016年05月10日(火)


               『人生の教科書』なかにし礼著
 ここで、若者に、<海外に出て、自然と、芸術作品に触れ、読書などで
教養を積み、恋愛をしろ>と勧める。これは若者だけでなく、壮年、老年に
も言えること。情報化社会の中で、クラシックをジックリと聴く余裕は少ない。
しかし、今ではアイフォンがあり、何千、何万の音楽を入れておくことが可能。
更に今では、定額のネット配信で好きな音楽を好きな時間に聴くことができる。
そのベースとなる19世紀クラシック音楽鑑賞を趣味にすることを勧める。
  * なぜクラシックを聴くべきなのか
≪ 芸術を学ぶ際、音楽なら、黙ってクラシックを聴くこと。いまだに
クラシックは不滅の音楽なのだから、それを聴くことが趣味になれば最高だ。
たとえ趣味となり得なくても聴くべきである。
 特に、やはり19世紀の音楽。18世紀にはモーツァルトがいるけど、彼の死後、
すぐベートーヴェンへ、19世紀の音楽へと繋がっていく。ベートーヴェンから
始まって、シューベルト・ショパン、ブラームス、ワーグナー、マーラー、
ブルックナー、ベルリオーズ……とにかく19世紀だ。
 ロマン派の時代である19世紀は、前世紀の革命時代が終わり、
「人間は進化する」ことを人類が知った時代である。愛によって人間は死ぬ
こともできるし、愛によって罪を犯すこともできる。そして「人間は進化して
神にもなれる」という思想を、芸術家たちが作品の中に叩き込んだ。
19世紀は人間の可能性のすべてを歌いきった時代なのである。
 文学の世界でも、トルストイ、ドストエフスキー、バルザック・ユーゴ、
アレクサンドル・デュマ、スタンダール、ゲーテ、バイロン、シラー、ボード
レール・ベルレーヌ、ランボー、オスカー・ワイルドなど、大作家が生きた
時代はすべて19世紀である。
 19世紀という時代を常に自分の心の中に持っていようとするには、音楽を聴く
ことを日常の習慣にしてしまうことだ。この頃の作品は、今や不滅の作品群だ。
20世紀になるとそれらはすべて別の音楽になっていってしまうし、言うなれば
19世紀の残骸のようなものだ。19世紀の音楽を楽しめなかったら、その人間の
精神生活はすごく貧弱なものになると思う。 ≫
▼ それでは、絵画はどうだった調べてみると、
【19世紀はもっとも絵画が進化した時代と言っても過言ではない。現代絵画の
巨匠ピカソやマティス、ムンク、シャガールなど全員がその影響を受けている。
16世紀まではイタリアが、18世紀はフランスが芸術の最先端。ゴッホは19世紀
終わりの画家である。・・】とある。その背景には、国力の成熟もあるようだ。
学生時代に、安いステレオを買って、世界の民謡、ジャズ、アメリカン
ポップス、クラシックを独りコーヒーを飲みながら聴くのが楽しみだった。
 大都会の中の孤独は、音楽と読書でまぎらわすのが一番だったが、後から
考えてみると、大都会の中の孤独こそ、一番の環境だったことになる。
早稲田大学近くの寮、今でいう「シェアハウス」の25人の地方出の共同生活
から垣間見た人間観察と、クラブ、ゼミ、世界旅行と、恵まれた経験だった。

・・・・・・
5169,閑話小題 〜どっちに失礼?
2015年05月10日(日)
    * どっちに失礼?
 猿の赤ちゃんの「シャーロット」の名問題で、家内が『私も失礼だと思う!』
と言った時、思わず出たジョークが、『どっちが?』だが、反応はゼロ。
そのジョークを即座に理解出来る玉?ではないらしい。直ぐにブログに取上げ
ようとしたが、その辺の世間びとに配慮して自重した。 獣を軽くみるのは、
人間のエゴの思い上がりである。 朝日の天声人語が、上手い解説である。
≪ イギリス人はユーモアが好きだ。苦しいときほど必要だと考えるらしい。
 第2次大戦中、ロンドンはドイツ軍の空襲を受けた。動物園に爆弾が落ちた
ときは、タイムズ紙が「しかし、猿たちの士気はいささかも衰えていない」
と書いたそうだ ●考えてみると、これは「猿たち」が利いている。
猿山を眺めれば、彼らがわれわれに最も近い動物であるとよく分かる。
ゾウやキリンではあまり面白くない●古びた話を、大分市の高崎山自然動物園の
赤ちゃん猿の命名騒動に思い出した。英王室に誕生した王女と同じシャーロット
と名づけたら、「失礼だ」という批判が山と届いた。これも猿ゆえだろう
●ウサギやカピバラなら、騒動にはならなかったと思われる。ではカバはどうか
と問われると困るけれど、ユーモラスではある。英王室の広報は鷹揚に
「赤ちゃん猿の命名は動物園の自由」と語る。結局、名前はそのままと決まった。
「失礼」を案じた人たちも、先方の対応に少し気が楽になっただろうか
●ロンドン空襲に話を戻せば、半壊したある百貨店は「本日より入り口を
拡張しました」という看板を出したそうだ。やせ我慢で繰り出した泣き笑いの
ユーモアに、お国柄を見る思いがする。そういえばきのうは、英国にとって
対独戦の勝利から70年の日だった●健やかなプリンセスの誕生から世界注視の
総選挙と、英国発のニュースが続く。日本の皇室ともゆかりの深い王室である。
美しい5月の慶事を、遠くより祝福申し上げる。≫
▲ 今回の騒動について、文化人類学者は「人々の深層にある獣に対する
 差別意識が表れた」という。 また「一部の人たちが英王室の王女の名前に
日本の皇室を重ね、敏感に反応したのだろう」と。「(失礼なのは)どっちが?」
のジョークも、我ながら人類への皮肉である。 同じ島国でも歴史が違うと・・
   * 連休での渋滞原因とは
 連休での観光地の車の渋滞原因は、意外なところにある。高速道のトンネルを
抜けたときの陽光に、直ぐに眼が馴染めずスピードを落とす。その小さな積み
かさねが、数百、数千台が積み重なって渋滞になってしまう。その上、登り坂で、
少しスピードが落ちてしまうが、それに気づかないことの積重ねも渋滞原因に
なっている。要は、それぞれの小さな減速の重なりが、原因とか。 
それと、普段、遠出をしたことがないドライバーの不慣れが重なるため。
・・・・・・
4804,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー2
2014年05月10日(土)
       「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
  * ある逸話
   ー‘あとがき’に、以下のような逸話があった。まず、その抜粋からー
《「サザエさん」の原作者の長谷川町子のマンガで、小学一四年生のときに読み、
 今なお覚えている作品がある。それは、一人の男の人生をめぐる、良い神様と
悪い神様の話だ。何の不自由もない家に、玉のような男の子が生まれた。
これを知った悪い神様は、どうもこれがおもしろくなく、この男の子の人生を
惨たん憺たるものにしようとシナリオを練る。そして、「男の子の身には次々と
不幸が起こり、紆余曲折をへて船乗りとなった挙句に猛烈な嵐に遭遇して、
最後は絶海の孤島に流れ着き、そこで人生を終える」というシナリオをつくり
あげた。はたして、男の子の身に次々に不幸が襲いかかる。しかし、良い神様が
それに気づいて彼を何度も助けたために、彼は幸せな人生を送ることになる。
ところがその臨終の場で、彼は自分の人生を振り返って、本当に不幸な一生
だったと言い出すのである。そして、自分の夢は船乗りになって、どこかの島で
人生を終えることだった、と述懐して息を引きとるのだ。二人の神様は、人間
とはよく分からないものと言って去っていく。これが私の人生の原点である。
幸せな人生とはあくまで本人が決めることであり、まわりがとやかく言う問題
ではない。もとより、記憶のざまざまな性質や、生かしかたを知ったからと
いって、幸せになれるわけではない。もとより、記憶の様々な性質や、その
生かし方を知ったからといって、幸せにはなれない。ただ、知らないよりは、
知っておいたほうが、みすみす損をしないだろうと思われるだけだ。・・ 》
▼ 何か、現在の複雑な気持ちの解釈に、大きなヒントになる内容である。 
 3年前の節目の数ヶ月前までは考えられない、「まさか、自分が!」が、
正直な気持ち。しかし、現在に至って、これが私の物語の終わりには、丁度
良いのでは?とか、こういうのも面白い?とか、何でまた?等、色いろ複雑な
気持ちが入り組んでいる。 絶海の孤島ではないが、結末がハッピーエンド
より、せっかく創業をしたのだから、倒産の終わりの方が、この筋書きとして
面白い?とか、この物語の解釈がある。これが私らしいというか、何だろう? 
要は、30年間、転身しなかった結果でしかないが。ストーリーの面白さは、
これで充分。「ああ、面白かった!」と、言えるだけでも有難い。 
神様は、丁度良いオチをつけたようだ。
・・・・・・
4437, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー7 
2013年05月10日(金)
     ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
  * ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
《 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人
の目を気にしない生き方。それを満たすのは、自己を捨て、無我、無私を実現
する達人の生き方。欲にも、生死にも、他人との争いごとに拘らず、達観して
静かに生きる姿勢。ここに達成した人は、持続的至福に達することが出来る》 
これが、幸福学の結論。 現在の状況を冷静にみると、
「これが人生、で、もう一度同じ人生を歩みたい」という現在の心境と同じ。
  ー他人と比較しないことによる幸せこそ、人生の要諦。 その辺りよりー
≪ 幸福学とは、要するに、幸せに効く主観的な要因は何かを明らかにする研究。
 その結果、僕たちの行ったアンケートの範囲では、幸福の要因は大きく
 四つの因子に分けられることがわかった。
・一つ目は、自己実現や自己能力に関する因子。目標を持っているか、直近の目標
  と将来の目標に一貫性があるか、自己統制感が高いか、自尊心が高いか、など。
・二つ目は、つながりに関する因子。他人に対して親切か、様々な出来事に
  感謝しているか、多様な知人がいるか、など。
・三つ目は、楽観因子。楽観的か、ポジティブか。
・四つ目は、他人と自分を比べない因子。他人と自分を比較しない傾向が高いか。
 ここでは、四つ目の因子に注目しよう。 すなわち、「他人と自分を比べない
  ことによる幸福」について。 自分を他人と比較しない人には、長続きする
 幸福が訪れると考えられる。千五百人への調査結果も、それを表している。
つまり、千五百人の回答者のうち、他人と自分を比較しない傾向が強い人は
幸福である比率が高く、他人と自分を比較する
傾向が強い人は不幸である比率が高かったのだ。
 自分と他人を比較しない人々には二つのタイプがあると考えられる。
他人を見ないタイプと、自分を見ないタイプだ。前者は、自分だけを見て他人
を見ないタイプ。周りのことを気にしないマイペースタイプだ。 我が道を
行くから、周りなど関係ない。場合によっては、独りよがりだったり、わがまま
だったりするかもしれない。自分は幸せでも、他人には迷惑をかけている
「自分勝手」タイプかもしれない。後者の自分を見ないタイプは、逆に、
世界は見るが自分を見ないタイプ。何が欲しい、こうなりたい、などの自我の
欲求があまり強くないから、他人と自分を比べることにそもそも興味がない。
悪くいえば向上心や競争心がない。なすがまま、自然のまま、だ。
 たとえば、武道の達人をイメージしてみていただきたい。茶道、華道、座禅
などでもいい。 凛として、姿勢がよい。何かあっても、動じない。静を以て
動を制す。普段は静かだが、実は相手を倒す力を秘めている。無駄に力んだり
せず、相手の力をすっと利用して、自分の思いどおりに世界を動かす。しかし、
私利私欲はない。判断は大局的。全体が見えている緊張感のある空気を醸し
出すが、自分のためには怒らない。思考の対象は常に世界だ。世界のために
行動する包容力。名声を得ていたり、人望が厚かったりするが、決して自慢など
しない。 もちろん、他人と自分の比較などしない。≫
▼ どうも世の中、嫉妬と苛めの糸で哀れなほど。私住む城下町は長年の柵
 で、雁字搦めの蛸壺社会。8割以上が地元出身者で占められ、それが全社会。
学校関係者以外は殆ど付き合いがないが、垣間見えてくる世界は箱庭のようで
面白い。知識を持たない人の無意識の科学は、身近の人との比較しかない。
不幸になって当然。それも私の主観による思い込み。「横を見ないで、縦
(今、ここ、自分)を見て生きる」と割切ってしまえば、良いが。
・・・・・・
4063, 本当は怖い抗うつ剤 ー2
2012年05月10日(木)
  * うつ病になったら、どうしたらいいのか。      
              { 浜松医科大名誉教授 高田明和 }
 倒産の惨劇を身近で見ていたので、二年間は落ち込むのは避けられないと判断。 
最小にするためスポーツジム通いと、打ち込める対象を加えることを考えた。
一つ間違えると欝に伴う暴発か、破滅になっていく。それがiPadとシネマと
 蔵書の再読と、世界の潮流の鳥瞰などを、逆に徹底的に楽しむことであった。
それと、中村天風の「積極一貫」の思想書を、身近に置いて何度も読み返した。
二年にまだ一年あるが、一息ついた後半の方が危ないのかもしれない。
 その私が予防策でとった方法がそのまま、治療法として研究されていた。
運動と、考え方、受け止め方をプラスにすることだ。
≪ うつ病の治療法として確立しているのが「運動」である。体を動かすことが
精神によい影響を与えることは様々な研究で示されている。第二は「ものの考え方」
である。私たちは競争社会に生きている。競争とは相手に勝つことを目的とする。
もし負ければ落伍者になる。一度敗北すると、将来がないように思うのだ。
さらに大事なことは、どのような分野でも自分より勝れた人がいるという事実。
 例えば野球にイチローがいて、ゴルフには石川遼がいるのと同じようなものだ。
努力は大事だが、自分が及ぼないからといって自分を責めていたら人は決して
心の幸せは得られない。・・・堀口大學は自身の『座右の銘』という詩で
「暮らしは分が大事です。気楽が何より薬です そねむ心は自分より 以外の
ものは傷つけぬ」と詠んでいる。自分以外とは社会的ランクのことである。
今の自分のランクを受け入れ、それでよいのだとする以外に心は楽にならない。
禅では「不思善 不思悪」といって、思い出さないことをもって最も尊いとする。
といって、無理のことなら、思い浮かんだら、しばらく放っておいて手を出すな、
必ずその思いは消えると、禅では教えている。 実際に、どのような思いも
5秒で消える。・・・ ≫
▼ 「どんな思いも5秒で消える」は、言いえて妙である。出るのは仕方が
 ないが、なるべく、そこで切るように心がければよい。全ては二年で落着くし、
目先は五秒のフラッシュで出てきた思いの延長を考えないこと。特に寝付けない
布団の中での苦悩の嵐は、訓練で最小にすることが可能。 そのためにiPod
を枕元に置いている。最近は、ほとんど夜半、使うことはないが、音楽は効く。
・・・・・・・
3697, 自己を見つめる −18
2011年05月10日(火)
  * 老いについて ー�    
            〜P270「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
【ショーペンハウアーが言ったように、そうした老年の実りが熟するためには、
 まず何よりも、人は、健康と生計の維持に、早くから留意して、みずからの
人生設計を築き上げる努力を怠ってはならない。生計もままならない病気がちの
老年は悲惨の一語に尽きるから。そうではなしに、比較的健康に恵まれ、また、
なにほどかの金銭を蓄えた老年は、少なくとも社会生活全体の安寧が保たれた
条件下では、むしろ静かで、平穏な人生の実りの時期になるであろうと、
ショーペンハゥアーとともに人は言うことができるかもしれない。生の本能の
激しい渇望も静まり、社会的責務もいちおう果たし終えた、比較的自由な老年は、
自己を振り返り、世界を見つめ、知性の働きを純化させて、洞察と実りを結び
うる最良の時期だと、たしかに言えるであろう。しかし、そのためには、人生に
対する過剰な期待や野心に惑乱された、思い込みの激しい混乱した想念から解き
放たれて、冷静にこの世の営為をその真相において見つめる知恵の魂が熟成して
こねぽならない。ショーペンハウアーが言ったように、人生の表側だけでなく、
裏側もすっかりよく眼のなかに入った老境においてこそ、初めて、人生の虚妄と
空しさが会得され、所詮はいかなる人生も五十歩百歩であるという事態が得心
されてくる。 そうした人生の有限性への徹底した悟りが、老境の平静さを
築く基底とならねぼならない。実際、誰しも、老年とともに、そうした悲愁に
みちた諦念を学び取るものであろう。
 老年になって、やっと人は、自分の人生を変えた大きな出来事が、そっと
気づかないうちに自分に忍寄ってきて、自分を支配するに至ったことを理解する。 
自分の周りの人々が、ほんとうは何者であったかが、ようやく分かるのは、
老年になってからである。 老境に至って、ようやく、自分の歩いてきた人生が、
その意味と射程において、誇張も、卑下もなく、ありのままに見つめられ、
自己の人生の限界と特性、その意味と無意味とが、過不足なく凝視される萌芽
が生い育ってくる。この世の中の名誉や名声や栄誉などが当てにならず、他者
の身勝手な憶測に依存した評価に過ぎないことも、すべて見抜かれている。】
▼ 新潟で事業を事業を立ち上げた時、近隣の土地のオーナーの老人に建築確認
 の判を貰うため交渉をしたときに、心底、驚いた。優位の立場を利用して、
自分の人生の鬱憤を晴らしている姿が老醜そのものに思えた。これは沼垂界隈の
特性と当時は思ったが、最近分かったのは、実は老人全般が持っている性癖と
いうことである。内面を見つめる力のない人は、その鬱憤を外に向けるしかない。
それを長年かけて培ってきたため、心の底には、怒りと憤りが底なしの泥沼の
ように深く蓄積され毒ガスのように湧き出ている。そのガスの対象を次々と
探し出し、他虐、そして自虐として爆発を始める。それが老醜である。 
老年は、その道を一歩ずつ歩いていると割り切った方が良い。そうすると、
長生きは、ほどほどということになる。それにしても老醜という奴は、である。


5533,若者よ、外に出よ! ー⑫ 19世紀の芸術に触れろ〜A

2016年05月09日(月)

               『人生の教科書』なかにし礼著
    * 19世紀の芸術に触れろ!〜A
 長年の読書の対象がノンフェクションが中心のため、古典小説は、あまり
読んでなかった。特に欧州の古典的名著は数少ない。数年前から読もうと思って
はいたが、これを機会に19世紀に書かれた名著を中心に読むことにした。
 改めて19世紀の芸術をみると、音楽、小説、画家などに卓越した芸術家が
そろっている。近代から現代への節目のためだろう。19世紀の切口で、芸術群
をみる視点を今になって知るとは、恥ずかしい限り。日本では明治維新があり、
多くの維新の獅子が現れていた。 <死ぬまで勉強>とは、こういうこと。
あまりに固い馬鹿の壁に取囲まれていた。それでも、学生時代に基礎教養の
絶対的値が少ないことに気づき、半世紀以上、学び続けて、このあり様。   
 〜その辺りを抜粋〜              
≪ ★ 『カラマーゾフの兄弟』を読め
・ドストエフスキーの傑作『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがあるか?
 未読の人には声を大にして言いたい。「とにかく今すぐに読み始めろ!」
「そうすれば人生が開けるから」と。・・・(略)
 言わずと知れた世界文学史上に燦然と輝く大作家、ドストエフスキー。
彼は帝政ロシア時代の革新派で、逮捕されて死刑宣告を受けたあと、シベリアへ
流刑となった。結局獄中で殺されることはなかったが、銃殺刑寸前まで追いつめ
られたこともあるという。そんな彼の処刑を前にした心の動きというのはもの
凄いものがあって、思想を、神を、人生の矛盾を、愛を、世界のことを考え
抜いた大作家の知見がつまった本を2週間かけて読むと、ドストエフスキーが
一生かけて学んだ膨大な知識と、喜怒哀楽など、彼の人生の追体験ができること
になる。そうすれば、今自分が悩んでいることがいかに小さいか、人生とは
なんと深いものかということが理解できる。
ドストエフスキーに限らず、本を読むなら19世紀の作品をおすすめする。
なぜ19世紀の本を読むべきかというと、現代の本はそのどれもが真の価値が
定まっていないからだ。どんなにベストセラーになっていても、それはつい
最近書かれたものであり、真の価値はわからない。人々がただそのブームの
中にいるだけにすぎない。しかし、19世紀の芸術には100年経ってもなお人類の
宝として珍重されている作品、時の試練を乗り越えた名作がある。
・読書はまさに人生の勉強であり、作家という人間の勉強でもある。
一人で自己鍛錬をするには読書しか方法がない映画を見てもダメ。
映画は「観るものであり」放っておいても勝手に終わる、いわば受動的なもの。
逆に読書は能動的なものである。自分から積極的に本の中に入っていく努力が
強いられるため、大変な意思力がいる。映画や音楽や絵画も人生を豊かにして
くれるものではあるが、それよりもまず読書である。
 いろいろなことが読書することからスタートする。
ちょっと噛み付いても歯が立たないような、咀囎しても胃にもたれるような、
消化しきれないようなものに挑戦し、乗り越えたという経験が成長するための
起爆剤になる。それをせずに花開くということはあり得ない。大作を読むことは
人生の通過儀礼なのだ。
 物を読んで何かを理解する、そういった根本的なものが育っていないまま、
人生をスタートさせてはならない。そして読み終わって本を閉じたときの快感。
これは悦惚だから味わったほうがいい。≫
▼ 10年位前に読もうと一度、思いたったが読まずしまい。残された人生の
 課題は、19世紀芸術に触れて人生を見直すことなのか。図書館から借りて
読むのではなく、自前で買って読む習慣のなさの甘さの結果が、こうさせた?
米国の統計だが、社会に出てから読書を続ける人の比率が10%という。
思いの外、少ないのは生活におわれて読書習慣が持てないため。で、リタイア後
の有余る時間に読書をしようとしても、受動的生活の習性が、それを許さない。
 仕方がないので、昔の名作映画シリーズをDVDで観ることで良しとしようと
するが、受動の映画鑑賞と、能動の読書の差は、あまりに大きい。で、以下に続く。
・・・・・・
5168,人生相談という気晴らし! 〜①
2015年05月09日(土)
             『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 哲学者への人生相談 
 以前、週刊プレーボーイの人生相談の特集本を読んだが、中でも、今東光の
解答が面白かったが、これに勝るとも劣らない面白い内容。哲学者の中島義道が、
ここで、「人生相談を持ちかける人は、たぶん常識の範囲を超えないかぎりで、
つまりあまり苦労なく実行できる範囲で、何らかのポジティヴな回答を、
あるいはちょっと考え方を変えれば楽になる、そんな妙薬を求めている」と、
人生相談の「質問の甘さ」を一刀両断。いや、甘いから、相談するのか?
  ー世間人の末路ー
≪ Qー まず、定年後、何をしたらよいのか?
 今年退職した62歳の男です。経済面でゆとりがあるので、家にいます。
妻から『趣味を持て』『友だちはいないのか』など言われるが今さら、趣味も、
友だちもありません、もう何を考え、したらよいかよいか分かりません。
 まず何を考え、何をすべきなのでしょうか?
Aー こういう相談を受けるといらいらします。あなたは多分これまでの人生
 で「安全」を後生大事に守ってこられたのでしょう。とにかく無難にとにかく
失敗のないように、生きてこられたような気がしてなりません。結婚もした、
子供も独立した、仕事も定年で区切りがついた…と、ふとわれに返ってみれば、
あとは「無事」死ぬだけというわけ。その虚しさは腹の底まで知っているのに、
どうしていいかわからない。「私はまず、何を考え、何をすべきなのでしょう」
という問いかけは、失礼ながら、いささか滑稽です。しかし(見方を変えると)、
あなたがいま、こうしてぐだぐだ悩んでいるのは、とてもいい機会と思います。
もっともっと徹底的に悩めばいいと思います。あなたは、趣味を見つけても、
友人を見つけても、散歩をしても、社会に興味を持っても、満足しないでしょう。
もしあなたが、いままで通り自分をごまかし続け、そのつど「気晴らし」を
見つけ、そして「これでいいんだ」と呟いて死んでいくのでない限り。といって、
私は何か人のために有益なことをせよとか、何か情熱をかけることを見つけよ、
と言うつもりは毛頭ない。そんなことをしたって、どうせ、じきに死んで
しまうんですから。むしろ、あとわずかな人生(統計的にはたった15年)
をかけて、ほんとうに自分がしたいこと(したかったこと)を見つけることです。
どんなに反社会的なことでもかまわないから、一度は洗いざらい自分を点検して
みること。そのためには、これまで営々と築き上げてきた「うそ」で固めた城を
崩さねばなりません。恐ろしいから自分の中に見出しても握りつぶしてきたこと、
排除されるのが怖いから、いやいや皆に合わせてきたことを徹底的に崩さねば
ならない。そして、徐々に「自由」になることです。これって、老後の生き方
としてはうってつけですよ。あなたは、会社から定年と、つまり「役立たず」
と公認されたのですから、そしてもうじき死んでしまい、二度と生きることは
ないのですから、最後の最後くらい「自由に」生きてもいいのではないで
しょうか? その自由の中身は、あなた自身が見つけるほかありません。・・≫
▼ 機会あるごとに、心の中で呟いている「いい人」の末路そのままが、
 この20の質問。いずれも少し切り口が変わっているだけ。噂話、世間話を、
そのまま信じ、その枠の中で何も考えずに、他人の揚足をとってきた群れの
人たち(世間人)の末路である。でも、気づいただけ充分マシ。気づかないで
御めでたく、そのまま逝くのが大部分。こういうのが集まったのが「烏合の衆」。
・・・・・・
4803,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー1
2014年05月09日(金)
        「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
  * 自分も人生も、記憶がつくりあげる
 この本の感想文を書いていた昨日、9年前〈2005年05月08日(日)
1496, いま・現在について−4 〉に、記憶について書いたことに気づいた。 
よくある偶然の一致だが、ーまずは、その内容からー
《「記憶のない男」ーDVDレンタル 
レンタルDVD ノ「記憶のない男」が、「いま」と「私」を考える上で面白い。
ー知らない街に仕事を捜しに来て、暴漢に襲われて記憶を失った中年男の物語ー
 それぞれの人の「いま」は、それぞれの過去を背景を持っている。
過去が記憶喪失で失われた場合、その人の「いま」は無いに等しい。
ストーリーでは、そこまでは表現しつくしてはいなかったが。しかし、
その空白を「いま・現在」という現実の中で、必死になって埋めようとする
主人公の心を、静かに淡々と映し出していた。過去の想起がなければ、[私]は
存在しないに等しい。動物に[私]はない。それは想起ができないため。
もし自分が過去の記憶を無くしたら、「いま」という感覚は希薄になる。 
青年時代の日記を偶然倉庫で発見。それを悪趣味的に、この随想日記で
露わにした。その過去の「いま」を、思い出すほど、現在の「いま」との
重なりが見えてくる。そして現在の「いま」がより濃く深くなっていく。
それは現在が過去より成立しているためである。過去や、未来より、「いま」
が全てだと考えがちだが、過去も未来も重要であることを教えてくれた映画。
 {「いま」を人間の手とすると、過去と未来は人間の身体}と例えると解り
やすい。手は手としては存在し得ない。手はあくまで身体の一部でしかない。
記憶喪失とは、「手そのものしか自分を感じ得ない」ということ。
身体全体が失われた感覚は想像しただけで恐ろしい。そこ(いま)には、
「私」は無いに等しい。[いま]に集中するということは、過去と未来に対して
「楔」を打つことである。楔を打つことは最も重要な行為である。しかし
全体の構造を考えて打たなくてはならないのである。今上の人生、来世の
ことは考えない方がよいのか? それとも、来世のために今生を生きるか?
「いま」に全てを傾けるべきである!?「どうせ死んでしまう」のだから。》
▼ 人の記憶は、そのまま、その人の過去になる。その記憶がスッポリと
 無くなれば、その箇所の過去が消えたのと同じ。リタイア後は、過去と
向き合う時間が多くなる。それは自分と向き合うことである。問題は、
その過去の解釈、受け止め方になる。それを、ここで延々と書いているが、
その受け止め方は、過去の蓄積の上の知識と経験のベースで決まる。
その記憶との付き合い方を、この書が変えようというのだから、
面白くないはずがない。  ーつづく
・・・・・・
4436, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −6
2013年05月09日(木)
       ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート5: 自己とは定義の結果だと理解する道(自他不分離の道)
≪ ー自己という概念を取り去ってみるとー 意識は身体をコントロールする
 主体ではなく、世界を観測し世界と相互作用する身体Aという媒介の動作を
モニターする装置に過ぎない。僕たちの心は、そもそも、どの身体に宿っても
いいのではない。一つの身体に、一つの「こころという幻想」がセットになって
いるだけ。ただそれだけのことだ。どんな人間にも、心は一つ。あなたの心は、
よくSFにあるようにコンピューターに乗り移ったり、オカルトのように身体を
抜け出したりできるものではなく、脳の計算によって作られた単なる擬似体験
劇場に過ぎないのだ。そう考えれば、特に身体Aを「自分の身体」と捉える必要
はない。 ・・ 本書を読んでいる「クオリアA」は「あなたの心」ではない。
何かを感じているだけの存在だ。たまたま、これまでは「あなたの身体」と
呼んでいた「身体A」と接続されていて、「身体A」が世界と相互作用した結果を
観劇しているだけだ。つまりクオリアAから見ると、身体Aもそれ以外の世界も
同じくクオリアAの観劇対象なのであって、所有物ではない。もはや身体と外界、
自己と他者、主体と客体、という分け方は意味を持たない。意味としてつながり
合って相互作用しているのみ。クオリアAが観劇できる範囲は、身体Aの五感が
情報取得する範囲まで。つまり、身体Aは移動式観測装置だ。これまでの世界で、
あなたと他人の同意とか共感とか呼んでいたものは、身体Aを介した他者の
自己化だ。いや、自己の他者化と言うべきか。自己という概念はないので、
主客合一、自他非分離と言うべきである。≫
≪ ー私とは、仮構された「自己」というシステムでしかないー 
 もちろん、この楽しく生き生きした世界を観劇できなくなることはとても
残念だが、それだけ。「私の死」ではなく「一つの観劇システムの終了」だ。
つまり、仮構された「自己」という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」
という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という
幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。比喩的に言えば、身体Aとは
窓だ。一つの窓を通して世界を見る装置だ。世界は、いろいろな身体を通して
見られていた。また、世界では、それらの身体によるインタラクションも行われ
ていた。これからも今までと同じように、行われていく。おびただしい数の
身体たちによつて。違いは、おびただしい数の身体の中のたった一つである
ところの身体Aが機能を停止した、ということだけだ。それに伴い、役目を
終えた、身体Aを介した世界観測者であるクオリアAもまた役目を終えた。
ただそれだけ。  もう「つ、強調しておくと、身体Aと世界は一体だ。
身体Aは、世界とつながっている。世界は、身体Aとつながっている。つまり、
元来「自分」と呼んでいたものは世界である、世界は「自分」だ。
本来、自己と他者の境界はない。境界を定義するからあるように見えるだけだ。
したがって身体Aの喪失は、世界の一部の喪失に過ぎず、世界から見ると
髪の毛や爪を切るようなものだ。≫
▼ 自己は定義の結果とすると、精一杯生きてきたこと自体が何だった
のだろう?そこで立ち現れた世界が自分になる。ご隠居の身になった現在、
私など死のうが生きていようが、どうでもよいこと。今まで「自分」と呼んで
いたのが実は世界だったということ。入江の洞窟と外海が繋がっていて、洞窟
の周辺を自分と思っていたが、外界を含めた世界が自分と考えると納得する。
己の行蔵を振り返ってみれば、そのことがよく分かる。今の自分も世界という
ことも。そうこう考えると、何?この俺は! になる。ただ気楽に死ねば
よいだけ、プシュと。 ボチボチ気楽にいけばよい。
・・・・・・
4062, 本当は怖い抗うつ剤 ー1
2012年05月09日(水)
 数ヶ月前に抗うつ剤(ハッピードラッグ)の恐ろしさについて書いたが、
ある雑誌に浜松医科大元教授の抗うつ剤からの脱却のレポートがあった。
親戚・縁者にも鬱病に苦しんでいる人を多くいる。青年期に何度か挫折体験を
したが、宗教系や精神論の本で、独りで克服してきた。去年の挫折?は、
早朝のミニサイクリングとスポーツジム通いで運動量を増やし、毒が溜まらない
ようして乗り越えた。iPadにエネルギーを集中したことと、シネマ通いも
効果があった。 また身近な縁者の倒産劇を手助けしたことで、情報を得ていた
こともある。節目は可能な限り綺麗に?を、心がけたことも毒を最小にした。 
私の知人に気楽に精神科の通院を勧めたが、大丈夫だろうか。 抗うつ剤が
多く使われ出した頃から、自殺者が激増し始めた統計がある。要はドラッグ
患者に仕立てられているのでは? という疑問が出ていた矢先の、医学者の
実体験の内容である。 恐ろしい限りである。
  ー 大まかにまとめると ー   {浜松医科大名誉教授 高田明和}
≪ 厚生労省は2013年から、今まで4大疾病として扱われてきた、脳卒中、
 急性心筋梗塞、がん、糖尿病に精神疾患を加えることを決定した。厚労省が
08年に実施した調査によると、精神疾患の患者は323万人と糖尿病の患者数
237万人を上回っている。 自殺者の数は13年運続で3万人を越えている。 
私たち家族は米国における9年の生活を切り上げて、1975年に浜松に帰ってきた。
子どもたちは日本語を話せず、家族ともども激しいカルチャーショックを経験。
それは強度のうつ状態を引き起こした。 その時の体験は、『本当に「うつ」
が治ったマニュアル』に書いた。薬は便わなかったが1年後に、私が言霊療法と
呼んでいる言葉を使い考えを変える方法と、坐禅で劇的にうつから脱却できた。
その後30年くらい何の問題もなかったが、70歳のころ、何度か海外出張後に
時差ボケが治らず、医師に相談すると、睡眠薬と抗うつ剤を処方された。 
最初は眠れたが次第に寝付が悪くなり、これは睡眠薬の依存かと思って中断
したところ、ひどい不安と不眠を体験した。パキシルで不安が解消されたので、
自分がうつ病になり、パキシルが効いたのかなと不安になった。しばらくして
パキシルを中断すると、再度不安と不眠に襲われた。そのころ、欧米でパキシル
の離脱症状(車酔いのような気持ち悪さ、顔の発汗、血の気を引いたような症状)
が問題になっていたので、抗うつ剤から逃れようと、二週間薬なしで済ませた。
自分は病気でないと繰り返して、何とか頑張った。 抗鬱剤は効果より
副作用の方が大きいのではないかと、疑問が生じたのである。 実際には
抗うつ剤の効果はブラシポ効果(暗示)が多いこと、抗うつ剤を一度服用して
しまったら、止めるのが至難である。・・≫ 
▼ 抗うつ剤の恐ろしさは、それは麻薬そのものであること。一度、依存を
 してしまうと、切れると禁断症状が起こることだ。そして服用をしている
うちに段々、強い抗うつ剤でないと効果がなくなる麻薬の禁断症状と同じである。 
初めは、気楽に医者の処方薬を飲んでいるうちに麻薬中毒になってしまうことだ。 
薬のため、精神のバランスを崩した男をみたことがある。狂ったような怒り方は、
狂人そのもの。長年積み重なった鬱憤が麻薬で爆発するから、知らない人は、
呆然となる!  ーつづく


5532,若者よ、外に出よ! ー⑪ 天空のショー

2016年05月08日(日)

               『人生の教科書』なかにし礼著
   * 天空のショー
 人間わざ、大自然、そして宇宙へと、対象が一つずつ、ランクアップする。
自然現象、宇宙のテーマは、『人生の教科書』にはない、私の経験の話題になる。
 オーロラは太陽系の天空のショーで、地球上の自然現象ではない。だから、
その神秘な輝きに何か得体の知れない現象が感動を呼ぶ。テーマが、
「地球は」から、「宇宙は」に変る。 〜ネット検索によると〜
《 天体の無数の星星の間に輝くオーロラは、太陽から大気圏内へ、光や熱
 だけでなく、太陽風を降り注いでいる現象。この太陽風は、太陽の表面の
爆発によって放出されるプラズマ状の電気を帯びた小さな粒でできている。
この太陽風の粒は、地球の磁場を横切ることができない特性を持っていて、
地球の側面からは入ってくることはできない。それに対し、地球の北極や南極
の辺りの磁力線は地球に対して垂直になっているため、太陽風の粒は、地球に
入ることができる。こうして地球に入ってきた太陽風の粒が、オーロラを発生
させることになる。この極地方から入ってきた太陽風の粒が、地球から100〜
400Kmのところで、酸素原子や窒素分子などと衝突すると、光を出す。
これがオーロラの正体である。》 
 北極近くの天空をキャンパスにした神秘的な光のウネリは、気ままに姿を
現したり、消えたりする。その魅力は、映像では知ることは出来ない。
外に出続けた結果、出会えたのが、これである。〜10数年前の文章をコピー
――――
2003/10/14
923, アイスランド旅行記ー3
   2003年10月14日(火)
ーオーロラハントー
 数年前に、ノルウエーのトロムソにオーロラハントに行ったことがあった。
その時は「何だこんなものか」という程度で、期待とは全く違うものであった。
薄い雲がスジ状に光っているだけであった。だだ行きの飛行機から見たオーロラ
がカーテン状に広く光っていたが。今回も5日間で一日しか見えるチャンスが
無かった。夜になると寒くなる為か曇ってしまうのだ。
感動するような大きなオーロラのはそうそう見ることができないのだ。

 そしてたった一回だけの私にとって一生もののオーロラが出たのだ。
天空に展開した時の感激は、想像をしていたより遙かに神秘的かつ荘厳であった。
写真など撮っている余裕など無く、ただ呆然と見とれるだけであった。
これをどう言葉で表現したらよいのだろうかと考えていた。
 天空の黒をキャンパスに、滝が降るように頭上の両側に壁になり揺らぐ青白光の
波がこの世のものと思えない、神秘的なものであった。。
あとは「 ・・・・・  」である。

 取材できていた共同通信社のカメラマンが、
「このオーロラをどう東京の友人に説明したらよいか解らない」話しかけてきた。
「これは実際、この目で見るしか理解はできないでしょうね」と答えるしかなかった。
その時、涙が出そうになっていた。
 以前ツアー仲間から、この体験談を聞いたことが何回もあったが。
「もういつ死んでもよいと思った!」
「聞くと見ると大違い、実際見なくては!言葉で表現できない」
――――
H1201自然の神秘
−オーロラ−
旅行に行く度にツアー仲間よりオーロラのすばらしさを聞いて、機会を待って
いた。「この冬が十一年に一回のあたり年で五泊六日・三食付、十四万九千円」
の新聞広告に引きつけられ、ノルウェーのトロムソのオーロラ・ツアーに参加。
スカンジナビア半島の北極圏に位置した、北海道を思わせる質素だが、
豊かな上品な街というのが第一印象であった。丁度クリスマスのシーズンに入り、
それぞれの家が電飾で飾られておりお伽噺に出てくるような街並みであった。
トナカイにソリとサンタクロースがぴったりマッチするような絵画的景色であった。
帰りに一泊二日でデンマークのコペンハーゲンに立ち寄ったが、街中がネオンで
飾りたてられており、ディズニーランドを思わせるこの世とは思われない
“夢の国”という印象であった。特にチボリ公園の電飾が印象的であった。

トロムソに近づいた機中より見た、天空を背景にしたカーテン状の白いオーロラが
一番初めに見たそれであった。最終日の夜半三時よりみたオーロラも青色、ミカン色
と自然がおりなす天空色彩ショーであった。オーロラも必ず見れるという訳にいかず、
3〜4回来ても見れない人もいるという。一生に一回は見ておくべき自然のパノラマ
であった。             (H11.12.10〜12.15)

・・・・・・
写真
https://retrip.jp/articles/10962/
http://keiki-porori.com/archives/7892
http://4travel.jp/travelogue/10633722

録画
https://www.youtube.com/watch?v=lBiB6a9ERa0

・・・・・・
5167,閑話小題 〜心は科学者か弁護士か 〜�
2015年05月08日(金)
  * 私たちの心は「判事」や「科学者」ではなく「弁護士」を雇っている
 ネット検索で、「科学者」「弁護士」と入力したら、以下の内容が出てきた。
心の内なる弁護士は、時にご主人様のため、盲目になってしまい暴走、歯止め
がきかなくなる。そこで、科学者や判事も同じ力量を置かないと、極端の個人
主義者になってしまう。 〜まずは、その辺りを抜粋〜
≪ この世に産れ落ちるあなたに、神様から
「二つの人生のどちらかを選択しなさい」と言われる。どちらを選ぶ?
 �生涯究極の正直者を貫き通すが、ならず者だと思われる。
 �常習的な嘘つきなのに、模範的な人物と見なされる。
「徳が高く見えるか?」「実際そうであるか?」は、このように大きな違いだ。
現実として、皆、どちらを選んで生まれただろう? 哲学者グラウコンのように、
大抵「人々は現実よりも見かけや評判に、より大きな注意を払う」 これは長い
歴史の中で、私たち先祖が生存競争に勝利するにあたり、真実と名声のどちら
が重要だったと考えたかを表している。人は人の見えないところでは、正直
とは言えない。少数の腐ったリンゴが倫理社会をダメにしているわけではなく、
人々の大多数がほんの少しずつズルをするからこそ、この世界は危いと言える。
おまけに、始末が悪いというか、ほとんどの人が自分の誠実さを疑わない。
つまり、自分がした行為の正当化に恐ろしく長けているのだ。
 私たちは心に「判事」や「科学者」を雇っているのではない。
 私たちは心に「弁護士」を雇っているというのが、本当のところだ。
だからこそ、グラウゴンは言う。倫理的な社会を築くためには何が重要か? 
「あらゆる人々の評判がつねに皆の目に入るようにし、不正な行為がつねに
悪い結果を生むようにすることだ」と。心の「弁護士」とは「思考」のこと。
思考の中心的な役割は、他人に対して説得的な理由や、いい訳を提示するための
準備を整え、振る舞えるようにすることだ。事実自分がした選択を正当化しよう
とするプロセスはきわめて強力なので、意思決定者は、何かを決めるに際して、
他人の説得のみならず、正しい選択をしたと自分を納得させるためにも有力な
理由を探そうとする。つまり私たちの中の優秀な弁護士は「自分自身をも説得
しようとする」のだ。道徳的な思考は科学者のような真理の探究より、政治家
の票集めにはるかに近いと言える。たとえば、人は論争になると、ほとんど
考えを変えようとしなくなる。心は論争相手から遠ざかろうとし、挑戦を
むきになって論駁しとうとするのだ。とは言え、心は絶対的な独裁者でもない。
もし相手に愛情や敬意を抱いていれば、心はその相手に歩み寄るし、理性は
相手の主張に真理を見いだそうと務めるだろう。・・ ≫
▼ ここで、弁護士とは「思考」というが、判事、科学者、弁護士との
 裁判のやり取りが「思考」だろう。それと、傍聴席の視線の想定も重要。
日本では、�の人を極端に嫌う。尻尾を出していても、�の人を好む。
一神教なら、規範が明示されているが、訳の分からない世間教徒の日本人は、
あいまいな�になるしかない。で、殆どは? 人生の最終晩年に我にかえる。
人生の節目に常習的嘘が暴発し、「まさか、あの人が!」と、正体を現す。
・・・・・・
4802,年金破綻報道の罠 ー�
2014年05月08日(木)
  <世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> 
              ー細野真紘(2014年の論点100)
  * 年金は安心!を、まとめると
 年金は、あくまでも老後生活の補助金。あまり知られてないが、現役世代が
圧倒的に多かった数十年間で、積立金が120兆円もあり、それを取り崩せばよい。 
現在の年金の支払いは、現役世代の年金収入以外にも、税金からも支払われる。
巷で言われている、1970年の20〜65歳年齢対65歳年齢が8・5人対1で、2050年に
1・2人対1としても、今まで計画的に積み立てられてきた年金基金と、税金を
加えればよいことになる。楽観的だが、一理はある。正社員の比率が減る中で、
厚生年金に加入できる人が減っていることが大問題。今後、高度成長も望めず、
国家の体力が弱っていく中で、楽観視は出来ない。しかし、この年金制度が
無かったとしたら、10年、20年先の若者は、大変。最悪の想定で、両親2人と、
その両親の親4人、合計6人の面倒を見るケースも、ありえる。多くの紆余屈折
を経て、それなりのカタチになっていくが、悲観だけをしても何も得ることは
出来ない。ここで取り上げてきた基本的知識を、国民は、あまり知られていない
ようで、より丁寧な教えが必要のようだ。40年以上の厚生年金を夫婦してかけて
きて、手取り25万では、何か釈然としないが、それでも大きは生活の柱である。
逆に、夫婦二人で、国民年金だけの収入で手取り11〜2万では、生活保護にも
満たない。 核家族化の中で、子供からの援助も当にできず、ハイパーインフレ
にでもなれば、アメリカの貧困層のように救済センターに食事のための行列も
現実になりかねない。私も、半年前までは、倒産など、思いもよらなかった。
家内も、私の実家も、堅実な家柄だったので、厚生年金や、万一の備えをして
いたので、何とか生活の質を落とさないでいるが、一つ間違えれば、大変の事態
になるところ。生きていく上で、お金は健康とともに大切である。それから
自由になるには、長年の時間をかけての準備と、蓄積が必要。老いれば尚の事、
たかが年金、されど年金。たかがお金、されどお金。それ以前の知識も・・
 で、120兆の年金基金も、日本国債とアメリカ国債に化けているとしたら、
どうなる? 国家あってこその個人である。
・・・・・・
4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −5
2013年05月08日(水)
 * ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道    
      ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
   ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー
≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が
 一定速度で進むという前提に基づいている。 時間を秒、分、時間、日、月、
年、10年、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。
客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。
しかし、主観時間は、そのように捉えるべきものでない。主観的時間を考えるに、
「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。
客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持ってたら、
それは今でなく、過去と未来になってしまう。今とは、それが千分の一秒前と、
千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思い
がちだが、数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは
時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。「クオリアとして知情意を
感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持って
いると考えるべきだ。ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ
主観的今。両者の定義は異なる・・ 私たちの心は、「今」しか考えられない。
過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。
私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。過去を思い出せるが、
エピソード記憶に残っていることを思い出しているに過ぎない。過去はクオリア
ではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。
人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。
今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、あなたにとってのすべての
時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、
もはや主観的な「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは
死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は主観的には生まれて
いなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は
過去にさかのぼるほど圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全に
つぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。
物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか
死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・ つまり自分が死んだ後の無限の
時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。そんなのは無いのである。≫
▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。
 過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。「自分が死んだ
後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去
も未来も、ゼロに潰れる。「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は
奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば可能な
限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを
考えること。所詮、未来も、過去もない。それで良いのだと。亡くなった両親を
考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。
クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、
この「今」を生きるべきである。主観的時間が幻想としてもである。今しか
活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。
・・・・・・
4061, 我事に於て後悔せず
2012年05月08日(火)
 * 我事に於て後悔せず。  宮本武蔵「五輪書』より   
         ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。
一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。 後悔するのは腐った?
のような人物がするもの。 ー以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。
≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。 小林秀雄は「わが事に
於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、「その日その日が自己
批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。
別な道が吃度あるのだ、自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。後悔などといふ
お目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は
語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。自分の過去の
行動についてあとから、あれは間違っていた、などとそのたびに後悔するよう
では、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことは
できぬ、というのだ。 小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いた
かったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる。
◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロ
だと、どうして思うのか。』スタンダール「パルムの僧院」これぞ言葉の中の
言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくは
ほかに知らない。武蔵の箴言はいささか道学者くさいが、ここには自己であること
の純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたる言葉。
◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。
 公爵夫人の性格には二つの特徴があった。彼女は一度欲したことは
 あくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。
◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。
 しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。あとで冷静に
 返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己に
 たいする忠誠とはかくのごときものであるかと若い日に讃嘆させられて以来、
 これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、
 ぼくを導いてきた小説の主人公ではないか、とバカにしてはいけない。 ≫ 
▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人
 と思いがちだが、実は無私の人である。彼は無私に徹しなければ物事は成就
しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。そこで自分を
押し殺し、己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。  
後悔は、実践の中では後々、害になることもである。


5531,閑話小題 〜たかがプライド、されどプライド

2016年05月07日(土)

   * たかがプライド、されどプライド
 誰も心の奥底にプライドを持っている。それも中途半端な誇り。
それは中途半端に傷ついた経験しかないため。しかし何度も傷つき、立上がる
中で、中途半端な誇りの底が抜けて、虚無に通じていく中で、本物の誇りに
鍛えられる。若い時の誇りは、まだ柔でしかない。
 〜まず、「プライドとは何か?」を格言から考えてみる。
 ―――
☆ 「プライド」と「お金」だけは、何があっても守り抜くのよ
                ー朱子(ベニス)『君が主で執事が俺で』
☆ プライドだとか恥ずかしいとか、そんなつまらないことにこだわらないで、
 仕事も恋愛も、自分からどんどん扉を叩くの。そうすれば、もっともっと
 新しい扉が、開いてくるわよ  ー加賀まりこ
☆ 親はなぜ学校に行け、というかと言うと、行かないと子供の将来に
 かかわると思うから。しかしそういう親には、子供は学校でいじめられて
 死ぬほどつらい気持ちを正直に言えない。子供には、かわいそうなくらい
 プライドがあるから、土壇場になるまで言わない。子供が恥ずかしさを
 忍んで訴えたときは、ほんとうに追い詰められたときです。
 場合によっては、休学、転校してもいいんですよ  ー里中満智
☆ 女の想像をこえて、男はプライドに命をかけるものなの。
 むしろプライドに命をかけられない男は、男じゃないわ 
                   ービアンキ『REBORN!(リボーン)』
☆ 些細なことであっても、オーバーに感動してあげましょう。たった、
 それだけのことでも、相手のプライドや自尊心にかかわる一番の欲求を
 満たすことになるのです       ージョセフ・マーフィー
☆ 自信のない人ほど中途半端なプライドにしがみついて、謝ることができない。
 ここで謝ったら、自分の人格が全部否定されると思込んでいるのですー中谷彰宏
☆ 仕事へのプライドほど貴重な財産はない ーメアリー・パーカー・フォレット
☆ 僕は人の質を決定するのは、その人が自分にプライドを持っているかどうか
 だと考えている。他人に見せるプライドではない。自分自身への誇りである
                    ー連城三紀彦
☆ プライドを捨てるプライドを持て   ー作者不明(格言)
☆ 人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ
 事があります、と言い切れる自覚ではないか    ー太宰治
☆ 女の喜びは、男のプライドを傷つけることである ーバーナード・ショー
☆ 物事は万事「必死に打ち込んだ」経験が必要なんだよ。
 それが人間の誇りを支えてくれるんだ      ーいしぜきひでゆき
☆ 失敗は誇り。それだけリスクを冒したということだから 
                       ーベンジャミン・ローゼン
☆ 人生は決して後戻りできません。進めるのは前だけです。
 人生は一方通行なのですよ         ーアガサ・クリスティ
――
▼ 5年前の会社整理で深く実感したことは、リスクを冒さない人ほど、他者の
 失敗に辛辣になる。特に組織人ほど、それが強い。思いの外、平気だったのは
その大きさに比例した必死な打ち込みをしてきた実感があるため。 だから、
目先の心が折れても?魂までは折れなかったようだ。プラモデルと同じ。
創りあげ、軌道に乗せただけで、元がとれた実感がある。批判者のそれは、
その経験がないから、上っ面の批判になる。成るほど、「失敗は誇り」である。
挫折を重るほど、芯のプライドが強くなるのは、リスクへの恐怖を乗越えたため。
 ところで、軟弱なプライドも、最後の砦の中の拠りどころで必要ではないか!
  で、偶然だが、以下につづく。 成るほど・・
――――
5166,閑話小題 〜心は科学者か弁護士か 〜①
2015年05月07日(木)
   * 心は科学者か弁護士か
 心理学者いわく、《 真理にたどり着く方法は二つある。科学者の方法と、
弁護士の方法だ。科学者は証拠を集め、規則性を探し観察結果を説明できる理論
をつくって、それを検証する。弁護士は、ほかの人たちに納得させたい結論から
スタートし、それを裏づける証拠を探すとともに、それに反する証拠を斥けよう
とする。人間の心は、科学者と弁護士の両方で協力するようにつくられている。
つまり、客観的真理を意識的に探し求める存在であるとともに、信じたい事柄を
無意識に熱を込めて主張する存在でもある。これらの二つの方法論が競い合う
ことで、わたしたちの世界観は形づくられている。》
▼ 科学者が帰納法、弁護士が演繹法、と解りやすい事例で説明したもの。
これから引出されるキーワードが、判事。正・反・合の合である。居酒屋など
での誹謗中傷は、ヤリ玉の対象を酒の肴に、内なる科学者、弁護士、判事が、
掛けあいで肴に談義すること。心の中では、自分を正当化する弁護士が有利だが、
誹謗中傷では、判事が絶対優位に立つ。他愛のないものだが、それが、その連中
のレベルの内容で、そこの子狐の役回りが仕入れたネタに尾ひれはひれをつける。
それらをヘドロという。その意味では、城下町はドブ沼そのもので、そのガスは、
強力な破壊力を持つ。だから、近寄らないで、ここまできた。実は、そのガスで、
自分自身が殺されていることさえ分からないため、断絶の時代の中で、烏合の衆
として生きるしかない。その老いた醜悪が増長し、周囲を悩ます材料になる。
 そういう人たちの初老性鬱病(良い人仮面病)ほど哀れなことはない。何せ、
一生をかけて偽善の仮面を被り生きてきたのだから! 露悪でいくか、偽善か?
・・・・・・
4801,閑話小題 ー朝日新聞デジタル
2014年05月07日(水)
  * 朝日新聞デジタル版
 以前から、迷っていた朝日新聞のデジタルに加入。
現在のキャンペーン中に、申し込めば新聞代プラス500円の追加料金で済む
(平常は、千円)。別にパソコンで見る必要もないと思ったが気になっていた。
最低期間が半年で、月初めなら、その月が無料で7ヶ月間なら、試してみる
価値があると判断した。で、三日経ったが、これが正解。記事の一つを
クリックすると、そこだけがクローズアップする。更にテキスト記事に転換
可能で、スクラップも出来る。間違いなく、新聞紙を手にとって見るより便利。 
これがプラス500円ならお勧め。朝食前後に、一度、全体のページに目を通し、
昼飯か、夕食時に、印象に残ったところを、いま一度、目を通していたが、
スクラップは、ほぼすることはなかったが、これからはする!また、一日単位
でタブレットなどにダウンロード出来るので、ネット環境が無くても、持ち
運び見ることが出来る。 また家庭内の他のパソコンからも、手軽に記事に
目を通すことが可能である。現在の私は、書斎と寝室にいる時間が多いため、
何度も、気楽に、記事に目が通せるところが良い。実感で、読む時間が
今のところ、二倍になっているが、数ヶ月後には3〜4倍にはなるのでは? 
ページ一覧も可能で、一面、社会、政治、経済・マネー、国際、スポーツ、
カルチャー、オピニオン、などから、記事を拾うことが出来る。紙面が、
そのまま、ビジュアル化して見ることも出来る。 その文字の大小も選択
できるところも良い。紙の新聞を見た後に気楽に読むのに最適ということ。
これまで30分読むか読まないかだった、iPadか卓上なら、プラス30分ぐらいは、
読むのでは! 日中、居間と書斎と寝室のTVとパソコンの間を流離う身に
とって、紙聞紙の持ち運びから解放されるのは、大きい。加入を家内に告げると
、まず大きく拒否反応を示したが、これは何時ものコース。一番、これを
読むのは間違いなく、本人になるが、それが分かってない、何時ものコース。
今まで読まなかった、連載小説や、読者の声の、コーナーを早速、読み始めて
いる。新聞社も、紙面+デジタル版のカタチで生き延びようとするのでは。
月刊誌も、店売りの他に、宅配にして、デジタル版を100円+すればよい。
それなら「新潮45」か、「文藝春秋」を購入するだろう。 それにしても
デジタル版は良い! 他に、雑誌の幾つかが読み放題の「ビューン」に
入っているが、これも良い!
・・・・・・
4434, サードマン現象とは
2013年05月07日(火)
 母親が晩年になってから、たびたび「私には守護霊がいる。それは子供の頃
に亡くなった父親。何時も私を見守ってくれ、いざ何かあると、私を良い方向
に導いてくれる」といっていたが、気持ちの問題だろうと聞き流していた。
また先日亡くなった将棋の米長邦雄が講演で、「何時も父親の位牌を布団に
持ち込み、父に話かけていた」というのを聞いたことがある。 
 先日のNHK教育(PM7:00〜7:40地球ドラマチック)で、サードマン現象を
再放映していた 。これはジョン・ガイガー著「奇跡の生還へ導く人ー極限状況
のサードマン現象)をインタビューなどで編集したもの。で、その概要とは・・
◎ 9・11の世界同時多発テロで、ニューヨークのワールドトレードセンター
ビルに旅客機が二機衝突した事故で、最後に脱出した1人は、煙が立ちこめ
瓦礫に阻まれた階段を下りられず、もうダメだと諦めかけた時、どこからとも
なく聞こえた声に従い、突き進んで命を救われたとか。
◎ 多くの登山者を飲み込んできたヒマラヤのナンガパルバットに初めて
 登頂したヘルマン・ブールを危機の中、励ました声。
◎ アメリカ大陸からヨーロッパ大陸へ、人類初めての単独飛行をした
 リンドバーグを支えた声。
◎ アメリカの宇宙士が極度の緊張の合間の休みに神のような何かの存在
 を感じたとか。生命の危険にさらされた苛烈な環境の時、自分を奮い立たせる
 声を聞く能力が備わっているというのが「サードマン現象」といわれ、その
「第三の人物」は、その極限状況を克服するために精神的な助けをしてくれる。 
 この現象は、かつて神や守護天使とか守護霊として受け止められることも
 多かったが、現在、それを人間の生理的・心理的機構が生み出した幻だとも
 いわれる。過酷な極限状態において発動する右脳の原始的?スイッチの感じ。
 知らない誰かや父親、自分自身、守護天使、などがそこに存在する感覚という。
 脳は危機的な状態や生命の危機が起きたり、体験すると「潜在的脳力」が働く。
 私たち人類の先祖は過酷な自然の中で、獲物を狩ったり果実を採取してきた。
 20万年前の人類の先祖は「サバイバル」の極限の中で、恒に「サードマン現象」
 が起きていて、これらの遺伝子が先祖代々受け繋がられ、現代人にも存在して
 いると、考えられる。以前は450年前の先祖の堀井宗親という仮身を、現在は
「地球の中心点」を擬人化した「球芯様」と、両親の霊を話し相手にしている。
 それは自分の魂の仮身である。 この「球芯様」、最近は、ヨガの最中とか、
 夜半のベッドで囁きかけてくる。それが、思いもよらない問いかけをするから、
 面白い。 また、幾つかの創業の時など、極限の状態に自分を置くと、何故か
 異常な力が湧き出てくる。火事場の馬鹿力というか、底知れない力が自分の
 中心から立ち現れくる。原始的、動物的知恵と力で身体も心も浮いたように
 勝手に動き出す。誰にも経験があるはずだ。 以前、家内が世田谷と同じ面積
 のある、ポンペイの遺跡で、迷子になってしまった。それも日が暮れる直前。
 警察は来るは、遺跡のスタッフが総出で捜索に当たるは、現地ガイドと添乗員
 は、青くなって駈けずりまわった中、色々あって本人は一時間先にあるホテル
 に何とか帰りついていた。何かの折に書くが、いざとなると、異常な力が
 湧き出るということ。 サードマンを創って話相手も面白い、是非お勧め!
・・・・・・・
4060, 要は、受け止め方である!
2012年05月07日(月)
 人生、色いろ経験を積み重ねた後に過去を俯瞰すると、その行蔵はどうにでも
解釈できる。 ついてなかった人生としても、視点を変えれば、ついていた人生と
脚色出来る。受止め方次第で過去も現在も、そして未来も変わってくる。 
 中村天風は「全ての受け止め方を『積極一貫』にし、肯定的であれ!」と説く。 
人生は問題の山、その中心点が何か考えつくし無心に立ち向かうしかない。 
これからは、自分の人生を、どのように受け止めるかが人生の問題になってくる。
受け止め方を変えることは、行蔵の中の要素を仕分け直すことになる。それで、
これからの人生の方向を変えることになる。そのために記憶さえ変えるのが
人間の業。 それは行蔵の要素をどのように解釈するかになる。そこでも知識の
絶対量が必要になる。分別ない人間の身勝手な解釈では、ますます歪になろう
というもの。「運」があるか、ないかは、「運は自ら運ぶこと」と解釈すれば、
運そのものが意志の問題になる。運がない人は意志が弱いと解釈出来るというもの。 
「人生に起こったことは無駄のものなし」と、信じていれば、最悪のことも結果
としてプラス材料になる。 そうこう考えると無知は、それだけで罪の原因になる。 
知らなかっただけで、どれほど多くの失敗を重ねてきたことか。人類も私もである。
初めから自分のミッションを明文化しておけば、それが信念になり、途中経過の
失敗も成功も、受け止め方がハッキリしているので、ブレが小さく済む。 
おい方一つで、荷物も軽くなると、同じ。これからの日本は坂を転げ落ちる
ように衰退する。そこで何が必要か? 教育制度の再構築と、憲法改正。無理?
 ・・・・・・・
3694, 自己を見つめる −16
2011年05月07日(土)
  * 幸福について (不幸について) ー3  
            「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)  
【 加えて、そうした無事安全な生活の場の確保に立脚して、更に誰もが、
この世に生まれた以上、自分の生きがいがある。・・略 しかし、そのために、
人は、その自己拡充を念頭において、たえず日夜、精励しなければならないで
あろう。というのも生き甲斐の達成は、いろいろな面で課題や試練や困難や
障碍に出会って、これを克服する努力の連続に置き換えられてゆくから。 
格闘することなしに、人生の実りは結ばないというのが、この世の鉄則である。 
実際、存分に生き抜いたという生き甲斐にみちた幸福感は、それなりの自己
集中や犠牲や断念や労苦の代償のもとでのみ、初めて獲得されるのである。 
けれども、いかに精進したとしても、非力で有限な人間には、完全な意味での
幸福感はけっして与えられえないであろう。考えてみれば、生きているという
ことは、まだなすべきことを残しているということと同義である。
なすべきことがなくなった人生は、死と同義である。生きるということは、
欠如の意識にもとづき、それを充足させるという運動と情熱において成立する。 
その情熱は、充実に向けられている点では、たしかに、憧れにみち、その実現
状態を夢見ていて、幸福感に浸っているであろう。けれども、その意識が、
目下は自分にその充実がいまだ与えられておらず、また、あらゆる意味での
完全な充実が人間には不可能であるという自覚に伴なわれたとき、それは、
そのまま、不幸な意識に転じるであろう。したがって、人間には、生きている
かぎり、終息した絶対的安寧としての幸福感は、与えられず、叶えられず、
許されず、その意味で、人間は、終生、不幸であろう。・・・ 】
▼ 不幸論という本もあるほど、人間の本質は不幸である。最後は死ぬことを、
 二人称の死の経験をして、洗脳されているためである。その人によって大かれ
少なかれ、不平不満、神経質、我執、理屈を言い張る部分を持っている。
それが膨張すると、周辺に諍いをぶつけていくことになる。それが不幸の大きな
要因になる。 そうこう考えると、不幸は体質もある。それは血筋、家系にも
関係してくる。どっちみち、一生の間には谷あり、嵐が襲ってくる。 
それを乗り越えるのが、人生。そのプロセスこそ人生である。そう割り切って
しまわないと、冷静に立ち向かうことができなり、破滅が待っている。  
 ・・・・・・・
3329, 草食系で何が悪い!
2010年05月07日(金)
 昨夜のNHKのゴールデンタイムに「草食系で何が悪い」というテーマで
激論を交わしていた。現代の若者と、社会の一線にたっている人たちの議論。 
見ていて食い違いがあまりに大きい。我が家も含めて、何処の家庭の親子の
食い違いも、こんなものだろう。 現実世界の将来を見出せない若者、現代の
若者にはネットという別世界があり、自己実現がネットの中に存在している
のである。なぜ現実世界の中の価値観に縛られなければならないのか? 
そこでは、明るい未来が抱けない、という彼らの立場もある。とはいえ、
彼らの相手は外国の同じ世代である。 それが現実世界の中で闘っている
人たちには見えている。 アメリカの間接占領による「日本の植民地化政策
による無能化の完成が、彼らの姿」である。 その自覚があるのかないのか。 
アメリカの補佐が実は日教組であり、更にいえば自民党であり、官僚。 
偏差値による選別教育の結果である。 
 ーまずは、NHKのHPから、この番組の紹介をコピーしてみるー
 * 日本の、これから「草食系で何が悪い 若者と語るニッポンの未来」
ー内容ー 車やブランド品、酒、海外旅行離れが進み、大人しくなった、
  内向きになったと言われる最近の若者たち。
  彼らの本音は? 日本の進むべき未来について語り合う市民討論番組。
ー詳細ー かつての若者のあこがれ、車・ブランド品・海外旅行に、興味を
  示さない20代の若者たち。「おとなしくなった」「内向き」
  「草食化した」などといわれ、欲がないように見えることから「悟り世代」
  といわれる。一方でブランドものに頼らない、環境や社会問題に関心が
  深い、地元に愛着を持って昔からの友人と長くつきあうなど、日本が
 「成熟」した証という見方もある。若者たちの本音は? 
  日本の未来について語り合う討論番組。
  ――
 長年かかって完成した現代の草食系若者、そう簡単に動物系には変えることは
不可能である。韓国、中国、ベトナム、インドなどの若者の目の輝きと、日本の
若者の目の輝きの差は、あまりに大きい。彼らは、日本が一番豊かな絶頂期に
生まれたが、大人に育つ過程が失われた20年といわれる時代背景の中で、
希望を持てと言われても、無理なのは分かる。 この数日、大前研一著の 
<「知の衰退」からいかに脱出するか?>の読書日記を書いているが、まさに、
大前研一と若者、の図式が、この番組に出ていた。10年、20年後の日本は暗い!

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