堀井On-Line



5536,閑話小題 〜地に足が着いた人生

2016年05月12日(木)


   * ある地に足が着いた人生
 幼児の頃から、両親の勤勉さと仕事と人生に対する飽くなき姿勢をみて、
人生の何たるかを教えられ育ってきた。それは、「凡人だけには陥らないこと、
学び続ける必要性」である。戦前、戦中、戦後の激しい時代の変遷の中で、
10人の家族が生き抜くための生存本能が働いたのだろう。 
 無我夢中で15年間も、この随想日記も書続けてきたのも、50年以上も、
早朝の読書習慣を続いているのも、その幼児体験があったため。
その卑小な自分を、ある人物の人生の合せ鏡でハッとさせられた。
ある酒席で、同年齢位の隣人に、『職業は何やってこられましたか?』と問い
かけると、少し考えた後に語った人生とは、『当時の中卒は、金の卵といわれ、
集団就職で、ある大手メーカーに勤めた。殆どの同期は、仕事の後から、
夜間高校に通い、高卒の資格をとってから地方公務員を目指していた。
自分も同様、夜間高校に通い、地方公務員試験の勉強をして合格、消防士
になって、無事、定年退職し現在に至っている。消防だけでなく、救急も経験、
多くの人生を垣間見ることが出来た・・ 』と言う。
 昭和30年代半ばは、クラスの二割位が中卒で就職をしていったが、
夜間高校から地方公務員になったケースを身近に聞いたのは初めて知った。
「夜間高校出の消防士の平凡な人生が、どうした?」といえば、そうだが。
 その人生から、恵まれた家庭環境に育った自分の境遇に気づかされた次第。 
中学の同級の訃報の半分は中卒の人たち。学歴が上がるにつれて訃報数が
減るのは何故か? その目線から見た私の人生は、大甘もいいところ。当時は
中卒で働かなければならない家庭境遇の生徒が、同級に多くいた。振返りみて、
恵まれていた人生だったと痛感する。 私の一生は、恵まれた列車で、少々、
汗をかいた人生でしかない。 それからして、最後の思いもしなかった挫折は、
私にとって幸運だったといえる? いや、誰にでも最期は死という挫折が待つ。
それぞれに、それぞれの因縁があり、それを如何に楽しむか、志を貫けるか。 
娑婆世界は、面白可笑しく、哀しく、甘塩っぱい味がする! せっかくだから、
もっともっと楽しんで、味わい尽くしてから生前に戻りたいもの! 
 幸せな人は、何があっても幸せであり、不幸の人は、何があっても不幸!
心の奥で、どう折り合いをつけるかどうかだ。 そういうこと!

・・・・・・
5171,閑話小題 〜ボ〜ッとしたデカルトの時間
2015年05月12日(火)
   * ボ〜ッとしたデカルトの時間
 御隠居の生活に入って、早朝からスケジュールとおりに時間を過ごしている。
その時間の中で一番大事なのがボ〜ッとした時間。だが、それが過ごせてない。
ひとつ終わると直ぐ、次のスケジュールに移行するため。 以前もふれた事が
あるが、宗教学者の山折哲雄が、早朝30年続けてきた座禅で、無念無想を諦め、
この時間帯は、デカルトの「ものを考えている」と思いつき、全身が解放された、
という話にハッと何かを感じとった。 最近、パソコンや読書の合間に、何を
するでなし、意識的に弛緩した状態でボ〜ッとしている。考えてみたら、現役
時代は何時もしていたことだが、問題は意識してボ〜ッとすることだった。
 〜その辺りの記述を抜粋〜
≪ 朝3時か4時に起きて、毎朝一時間ぐらい座る。毎日香っている線香一本
 燃えるのにだいたい50分前後。その一本を闇の中でつける。その明りを
見ながら座る。道元が言っている「無念無想」なんてのになれるものならなって
みるか、なんてやっていたけど、ぜんぜん無の境地にはならなかったですね。
雑念、妄想とズ〜ッと戯れている。30年近くこれをやって、「俺はもうダメだ」
と思ったのが50代の終わりぐらい。でも、もう癖になっているからとにかく
朝は座るんです。で、あるときハッと思った。「無念無想になろう」と思うから
いけないのであって、「ものを考えている」と思えばいいじゃないかと。
あっという間に全身が解放されたような気分になってね。「俺は今デカルトを
やっているんだ」と。道元の時間と思っていたからできないのであって、
デカルトの時間と思えばいいと。すると、何を考えてもいいわけです、金、
女性、喧嘩したこと…。「我考える、ゆえに我あり」。道元だって大部分
の時間は無念無想じゃなくて妄想と戯れていたんじゃないかと思ったのね。
それで瞬間的にパッと無の瞬間が訪れる。逆にデカルトだって、考えづめに
考えていて、ときには無念無想の時間に恵まれたことがあるんじゃないかと。
そうすると、道元とデカルトはぜんぜん違う世界の人間じゃなくて、彼らは
同じ時間を共有していたのかもしれない、そう思ったときはうれしかったね。
座禅が終わって五時ぐらい。それから本を読んだりものを書いたり。以前は
夜型だったんだけど、朝一時間は夜の3〜4時間に匹敵する、それがわかって
から夜は仕事をしないことにした。朝2〜3時間仕事をすることが、だいたい
自分のノルマになったかな。 ・・・。 ≫
▼ 数ヶ月前から、ブログを書上げネットにアップした後、それまでは、
 次のプログラムを直ぐに移行するが、その時、ただボ〜ッと全身を弛緩し、
ただ座ることにした。これが意外と難しい。要するに雑念が次々と思い浮ぶが、
その中に思いもよらぬ砂金が含まれていることがある。「我考える」とはいえ、
どうせ、碌なことしか考えてない。それなら、この随想日記のように、まず
禄でもないことから、考えればよい。元もと『禄でない』だから!
早朝の散歩も、ポタリングも、ある瞬間、『無念無想』の瞬間がある。
『エッ!俺、何時もボ〜ッとしている』って? それってバカじゃないか。

それってバカじゃない。
・・・・・・
4806,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー3
2014年05月12日(月)
          「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
  * 自分も、人生も、記憶がつくりあげる
 記憶は、その痕跡として、自分でアレンジすることが出来るため、その蓄積
としての記憶は、その人自身が作り上げた要素が大きく加わっている。その時点
での、自己対話としての内的世界が重要になる。そして、その記憶もである。
時間の経過とともに、その記憶も修正されていく。
《 記憶は自己の同一性の基礎となっており、私たちの性格や生きかたに
 大きな影響を与えている。しかし、たとえそうだとしても大多数の人は、
記憶など自分の過去に起こったできごとの痕跡にすぎないと言うだろう。 
これから未来へ向かって生きていこうというのに、今さらどうしようもない
過去の痕跡にかかずらっている時間はない、と。しかし本当にそうだろうか。
 先ほどのTさんの話の中には、未来に向かって生きるためにもやはり、
記憶が重要なことを示唆する一幕がある。記憶喪失のために八年間の記憶を
すべて失ったTさんは、当初、何とかしてその記憶を取り戻そうと焦っていた。
母親はそんなTさんに、誰もが365日すべての記憶があるわけではないのだから、
過去にこだわるよりは、今から何かを始めればよいと言ったそうだ。しかし、
それに対してTさんは、「今まで何をしようとしていたのかを知らなければ、
前に進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」
と言ったという。 このことに関連して私が思い起こすのは、戦後40年目に
おこなわれた当時の西ドイッのヴァイツゼッカー大統領の演説だ。
ヴァイツゼッカー大統領はこの演説の中で、第二次世界大戦のナチスドイツに
よるユダヤ人虐殺について深く謝罪すると同時に、「過去は神でも変えられぬ」
という台詞で、過去を変えることができないことを強調した。しかし、だから
といって過去を封印しようというのではなく、彼は「過去に亡目になる者は
現在に目を閉じることになる」と続け、過去を知り、それを現在に生かすこと
の大切さを訴えかけたのだ。基本的には、私たちの記憶もこれと同じではない
だろうか。自分の記憶をみつめることで、それを現在に生かすことができ、
記憶は未来への航海へと漕ぎ出す原動力となるのではないだろうか。》
▼ 記憶といえば、日記に書かれていたかどうかで、大きく違ってくる。
 だから、ネットや、日記帳に、書き込んでいる。そして、毎年の同月同日分を
読み返しているが、なるほど、自分の加工が大きく入っている。それが「自分」
ということになる。ということは、それぞれが自分史を生きているのである。
今さら書く事もないが、より足取りを確かにするためには、書いておいた方が良い
のだろう。改めて、何気なく繰り返し思い出している記憶が、実は、自分が大きく
加工したものでしかないとすると、やはり共同幻想、幻覚の中で生きているだけ
ということが、少しは自覚できる。最近、ブログで過って行った先の写真を
ネットからコピーし、ブログに載せているが、これが、当時の記憶を彷彿させる。
 これも、当時の記憶の再生と、再体験になる。行ってなければ、注目もしない
だろうし、どんな写真より、当時の感動の方がはるかに良い。過去の再生と
体験と同時に、新たなる未来のためにも、常に、記憶の手入れが必要になる。
・・・・・・
4439, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー9
2013年05月12日(日)
      ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
 ーこれまでの7つの登山道を更に簡略すると、次になる(後書きより)ー
・ ルート1は、心は幻想だと理解する道。
 脳神経科学の知見から考えると、意識される今は幻想だ。
 今とは、未来や過去が調整されて今だと思わされているに過ぎない。
 自分が主体的に行っているとリアルに感じる意思決定も、そうしていると 
 思い込んでいるだけだ。
 僕たちは「生きていると錯覚しているだけだ」と考えざるを得ない。
・ ルート2は、すぐ死ぬことと、あとで死ぬことの違いを考える道
 所詮はいつか死んでしまう、ということから人生を考えると、今死んでも
 あとで死んでも同じよなものだ。人生は死刑のようなもの。だが、それは、
 悲観的なものではない。生まれてきた奇跡を、この宇宙的ラッキーを、
 ポジティブに捉えようではないか。死ぬことが悲劇なのではなく、
 生きていること自体がすばらしい奇跡なのだ、と。、
・ ルート3は、宇宙サイズの視点に立って、自分の小ささを客観視する道。
 138億年前にできて、直径276億光年のサイズを持つ巨大な宇宙。この宇宙
 スケールから見ると、何て人間は小さいことか。しかも、地球上に70億人も
 うごめいている人間。あなたはその中のたったの一人に過ぎない。全体から
 見ると、あなたが自分の死にこだわることは、極めて部分的些細なこと。
・ ルート4は、主観時間は幻想だと理解する道。
 客観的な時間は、138億年にわたって、一秒ずつ確実に時を刻んできた
 かもしれないが、主観的な時間は、それとは異なる。過去と未来は圧縮され、
 生死のところで長さがゼロになる。しかも、それは幻想だ。あなたの過去は
 記憶にしかないし、あなたの未来は想像上の産物。あなたには今しかない。
 あなたは、今しか感じられないのだ。時間などない。だから、あなたの主観
 時間に、死の入り込む余地はない。
・ ルート5は、自己とは定義の結果だと理解する道。
 自分がいて、生きていて、考え、行動し、いずれは死んでいく。
 そう考えるのは、近代西洋流に、自と他、生と死、主体と客体、能動と受動
 といった二項対立図式でものごとを捉えているからに過ぎない。それが正解
 ではなく、ものごとを考えやすいように、そのように定義しているだけだ。
「自分」を定義するから自分があるかのような認知が行われ、「死」を定義する
 から死を恐れている気がするに過ぎない。もともと、世界は単に全体として
 世界であるだけであって、自分も死もないのだ。
・ ルート6は、幸福学研究からのアプローチ。
 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の
 目を気にしない傾向。これらを満たすのは、自己を捨て、無我・無私を実践
 できる達人の生きかた。・・ここに到達した人は、持続的な至福を感じる
 ことができる。逆に、持続的な至福を感じられる人は、達人の域に
 到着することができる。・
・ ルート7は、リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ。
 そこには、リラクゼーションからでも座禅からでも、念仏からでも達する
 ことができる。いや、ルート6のいずれからでも到達することができると言う
 べきだ。 何しろ、もともと同じ山を登っていたのだ。 登頂した先は、
 同じところ。死を恐れない境地。それはそのまま、生を満喫出来るところ。
 昔の人は、科学技術の知見がなかったから、仏教哲学によってしかそこに
 到達できなかったのかもしれない。しかし、現代人には科学技術がある。
 脳科学の知見は意識が幻想だという事実を僕たちに突きつける。
▼ <私たちの心は幻想でしかない。137億年の時空の自分は小さな存在、
 そこでの主観時間は幻想。それを感じている己も定義でしかない。そこでは、
他の人との比較に目を奪われることなく、深くリラックスをしていれば良い>
が活きるコツ。ひたすら今を活き活き、楽しめばよい。背中に羽をつけた
天使のようになるに、まだ重い。せっかくサバンナに出てきたのに。
・・・・・・
4065, お金と神 ー1
2012年05月12日(土)
 * 「お金=信用」と「神=信仰」は似ている 〜�      
        ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より
金とは何だろう?と長年考え続けてきたが、金と神との同定の視点が面白い。
両者ともバーチャルの信頼で成り立っている。一部の支配者が神の信託に、
紙幣の信託の類似性をみて発明したのが金で、両者とも共同幻想の最たるもの。 
 ーまずは、抜粋から。
≪ 金と神は似ている。一般に、金とは汚いもの、神とは聖なるものと言われる。
いずれ実体のないバーチャルなものなのに、人びとの行動に大きな影響を与える。
適度に使えぱ人々に安心と幸せをもたらすが、行きすぎれば人生を狂わせる。
宗教が狂信者を生んで世界を恐怖に陥れるように、現代における金への強い執着
は、人々に購入を控えさせ、不況を生み自分たち自身を失業に追い込んでいる。
◎ 宗教とは、リアルな物欲が生む煩悩から逃れるために、人間が頭の中に
 作ったバーチャルな世界である。それはときとしてリアルな物より人間行動に
強い影響を与える。純粋にバーチャルな神という概念をそこまで高めるのに、
人間は多くの過程を経てきた。はじめ神は嵐や雷、山や川など、自然物や自然
現象と結びつき、それらのリアルな脅威や恵みが、直接の畏敬の対象だった。
その後、徐々に抽象化されていく過程では、多くの装置を必要とした。装置とは、
大伽藍であり、宗教画や彫刻であり、神話や経典である。それらを使って
人びとに極楽浄土や天国を信じさせ、信仰に導いた。この段階ではまだ、
宝石や黄金、美しい花や天女など、極めて世俗的な妄想を抱かせている。
しかし、宗教の抽象化はこれに留まらい。禅宗に至っては、脳内での世俗的な
快楽や美しさへの想像さえ否定する。すべては無であるという禅宗の経典、
般若心経では、直接的な物欲だけでなく物への妄想さえ捨て去ることにより、
心の平安を得ようとする。これによって宗教は完全にリアルから切り離され、
バーチャルな観念へと昇華きれる。 
◎一方、お金はどうか。ーつづく ≫
▼ お金の亡者は、金を神のように崇める人をいう。世の中の9割方の問題が
 金で解決出来る代物なら神様より頼れる紙切れである。神が共同幻想なら、
それを信じている世界では通用するが、通用しない世界では、紙切れの存在で
しかない。信じばこそ、そこに価値が出るもの。その価値を生み出すための装置
の重積で、妄想から信仰に昇華させていく。資本主義における神こそ、金である。
アメリカのドルと国債こそ、神に近い存在であった。それも今や、そのカラクリ
(欧米の資本主義)が崩壊しつつある。
 ・・・・・・・
3699, 自己を見つめる −20
2011年05月12日(木)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 * 死について ー�       ーP・283
【 死の壁に突き当たって打ち砕かれ、この世での自己の赤裸々な実存の現実
 へと跳ね返されて、そこで、みずからの過去を背負い、あるべき将来を目指し、
現在の状況のなかに立って、熟慮し、行為し、人生の道を切り開いていって、
自己と他者と世界と存在のすべての意味ある本質充実を達成すべく格闘して
生きるよりほかにないが、それが人間が生きるということである。それはまた、
人間が生きつつ死ぬということであり、さらには死につつ生きるということ。
したがって、この世で生きる自己の存在の根底には、こうした死の存在論的
概念が深く食い入っている。死を抜きにして、自己はなく、人生はなく、
この世の生存はない。無にさらされたものとしてのこうした人間的自己という
その必然的運命の自覚の上に初めて、具体的な医学的現象としての死の諸相も、
位置づけられうる。 自分が、癌で死ぬのか、事故で死ぬのか、成人病の悪化で
死ぬのか、老衰によって天寿を全うするのか、それは誰にも分からない。
しかし誰もが、この世に生まれてきた以上は、医学的な具体化を伴って出現する
死に早晩さらされることを自覚し、自己の無化を心得つつ、終わりある自己の
人生を深く銘記し、心の奥底でその覚悟を整え、その孤独な最期を密かに見つめ
ながら、いままさにこの世のさまざまな営為に携わって生存の努力を重ねている。 
こうした意味で、明るい現実の根底には、穴が穿たれ、虚無の風が吹き上げて
いると言ってよい。そこには、暗い無の深淵が、底なしの無気味さを湛えながら
広がっている。自己の存在の根底には、無が潜んでいる。考えてみれば、自己が
この世に存在する以前に、元来、自己は、どこにもなく、無であった。 
いま、自己は現世のなかの活動に浸って、一見確固たる実在感を覚えている。
しかし、無常のこの世は、うたかたのように過ぎてゆき、再び自己は、存在の
無のなかに沈み込む。無としての存在の大海のなかに、ひととき浮かび上がって、
浮き草のように漂い、必死にもがいて、確固たる存在を築きえたかに思った
自己存在は、やがてまた、無の大海に呑み込まれてゆく。ハイデッガーが言った
ように、死は、無の枢である。そこには、人間には窺い知れない存在の秘密が
隠されているとも言える。誰もその奥を覗き込んだ者はいない。さりながら、
かつて、エジプトのザイスの神殿に、帳で隠された女神が祀られていたが、
その帳を取り除けることに成功したある人物がそこに見たものは、不思議な
ことに、当の自分自身だったという。へーゲルやノヴァーリスが語るこの意味
深い言い伝えに従えば、存在の深淵を覗き込んで見出されるものは、実は、
当の自分自身である。・・その意味でも、死を含んだ、無としての存在が、
人間の真実であり、それ以外にどこにも存在の真理はないと言わねばならない。】
▼ 最後の章は死である。死は、ドーナツの穴と類推すると、面白い。
 穴はあって、ない。ドーナツの形状が穴を形づくっている。永六輔が
「色即是空の色がドーナツで、真ん中の穴が、空」といみじくも言っていたが、
人間存在を色とすると、自己の存在の根底に潜みこんでいる死は、その穴の
ようなもの。ドーナツを食べてしまえば、その穴も無くなってしまう。
 また、ハイデッガーの「死は、無の柩」も考えさせられる。
無など元もとないのに、それを敢えて柩という著者のセンスが面白い。


5535,魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思

2016年05月11日(水)

    * 魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思
 魂とは何かについて、様ざまな諸説を学んできたが、
<魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思>の説の切口は新鮮。 
そこで思い出したのが、中村天風の言葉。 ソクラテスは、2500年前に、
魂の進化こそ人間の目的という。
  〜天風の哲学から〜
≪ カリアッパ師は遠くの空の彼方を見つめ、誰に言うともなく、つぶやいた。
【お前には人生観らしいものが何もない。その場、その場を生きているだけだと
言われても返す言葉もない。アメリカで医学とやらを勉強したらしいが、逆に
その知識が災いして、ちょっと咳をしても恐れ、不衛生だといっては神経をすり
減らし、オドオドばかりしてる。枝葉末節の学問ばかりして、一番肝心の、
『私は何をするために、この世に生まれてきたのか!』ということを考えてない。
本末転倒もいいところだ!それだったら、死でも仕方がないな。そこから立て
直さなければダメだな!】 カリアッパ師は言った。
【何をするためにお前は遣わされてきた!そのことを考えたことは あるのか!】
 これは、<私たちが生きている意味は宇宙の進化に 同調すること>であると。
教義の最終目的はアートマン(自分)がブラフマン(宇宙)に合 一すること。≫
▼ マルクス・アウレリウス、<人間の心で行う思考が、人生の一切を創る。>と、
 中村天風は、<私たち は自分が考えた通りのものになる。 そのすべてが、
この宇宙を動かしているのと同じエネルギーの力を得ている。> と、いう。
この宇宙の意思が魂ということ。善なる方向に向かおうとする意思こそ、
最も大切なことである。毎朝、仏前で、「この世の全ての人が、善くあります
ように!」と、祈ってはいるが、世人の例外があまりに多すぎて・・
〜これもまた、以下の内容に丁度よくつづく!「良い人」を止めると楽になる。
ハイデッガーのいう、「世人」相手でなく、己の良心に従えば、「ろくでなし、
結構」になる。「世人」の無知はよくない。善い方向(知識)を知らなくては。

・・・・・・
5170,人生相談という気晴らし! 〜②
2015年05月11日(月)
              『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 「いい人」やめて、「ろくでない」になれ
 母親の痴呆症と5年半の間、付合ったこともあり、相談者の切実な気持ちが
手にとるように分かる。兄弟の微妙な関係もあって、そう簡単に事は進まない。
ただ「いい人」を止めてしまうことには大賛成だが、「いい人」は簡単に止め
ようがないもの。介護は、それなりの強さと覚悟が必要になる。「ろくでなし」
にも、覚悟が必要。 正常と非正常の間を彷徨う肉親との同居は重く疲れる。
≪ Q: 〜母親の介護で、自分自身が壊れてしまいそうです!〜
 私は四十五歳で、現在母親の介護をしております。母の介護をするために
仕事を辞め、現在無職です。私には、父、兄、弟がいるのですが、まったく
母の面倒をみようとしないので、男一人で母の介護をしております。
 その母も痴呆が進み、モノの判断ができなくなり、外でゴミを拾ったり、
真夜中に叫んだり、私もその対応に、やり場のない疲れが溜まっております。
もういっそのこと、私も介護を放棄し、母親に早く死んでほしい気さえします。
同時に私まで気がおかしくなりそうなのです。しかし、これまで母親に世話に
なったことを考えると、それも出来ません。このように思う私はやはり
「できていない」人間なのでしょうか?
A: 〜「いい人」をやめて、「ろくでなし」になりなさい!〜
 これも失礼ながら、いらいらする相談ですね。あなたは、私の嫌いな
「いい人」なんですね。これまた細かい事情はわからないのですが、真剣に
考えれば社会的にはいろいろ道は開けると思います。お母さんには息子が三人も
いるのですから、三人でお金を出し合って、介護士を雇う、老人ホームに預ける
等々。(お父さんはともかく)ご兄弟がそれに協力しないのなら、あなたが介護を
続ける代わりに、彼らにあなたの心的・肉体的負担相応のお金を請求してもいい
でしょう。お二人がそれさえ拒否するなら、その原因は二つ考えられます。
一つは、あなたのご兄弟が「ろくでなし」だということ、もう一つは、あなたが
「いい人」という名の「困った人」だということ。「ろくでなし」と「いい人」
が共存すると、だいたいいまのあなたのような状況に陥ります。「ろくでなし」
は、「いい人」を骨の髄まで利用し続け、「いい人」は全身不満の塊になって
恨み続けるというわけです。一般に、人がある限度を超えて耐えるとき、碌な
結果を呼ばない。だから、なるべく避けたほうがいいのです。・・(略)
 あなたがお母さんを(間接的にでも)殺さないうちに、あるいはあなた自身が
「気がおかしく」ならないうちに、あなたは大変身する必要がある。つまり、
「いい人」をやめて、ご兄弟と同じように「ろくでなし」になることです。
そこで、私の提言はただ一つ。一度みんなを集めて、「俺だけおふくろの面倒を
見るのはおかしい!」と大声で叫んでみてはどうでしょう。「もう介護はやめる!」
ときっぱり宣言してはどうでしょう。つべこべ理由を言う必要はない。ことの
おかしさは、どんな「ろくでなし」にもわかるはずですから。一度、そういう
修羅場を経由しなければ、そしてみんなが全身ひりひりするほどの痛みを覚え
なくては、何も変わらない。もっとも、あなたがどうしてもそうしたくない、
そういう勇気がないというのなら、仕方ないですね。お母さんが死ぬまで、
あなたは介護を続けるしかないでしょう。お母さんを恨み、ご兄弟を憎み、
そして自分を責めて生きるしかないでしょう。≫
▼ 介護には、周囲の無理解がついて回る。「まだらボケ」が、その一つ。
 第三者が居るときには、緊張が入った正常状態に近いため、痴呆症の人との
同居経験がないと、「聞くと見ると大違い」と、勘違いをしてしまう。
で、「ろくでなし」と決め付けられる。 当人は今さら何をか!
私自身を振り返ると、見えてくるのが、「ろくでない」「いやなやつ」の影。
・・・・・・
4805,閑話小題 ー倒産よもやま話 ー⑥
2014年05月11日(日)
   * 当事者の隠れた心理とは
 其の辺の視線から度々、思うことは、当事者の心理まで解ってないこと。
ホテル建設の準備と立上げほど面白い仕事はないのでは? 実感として、その
トータルと、軌道にのせた時に、その金額分の元を既にとった実感がある。
これは事業創業と同じであるが。クルーズが好きで、趣味が興じて、その設計
から建設まで、造船会社と打ち合わせをし、造りあげた船が10年、20年後に
難破して命からがら助かったとする。その時、誰かが、「惜しかったですね!」
と言われた気持ち?が、こんなもの。「いや、これだけ楽しんだから、未練も
悔しさもない!海から引退する身にとって、下手に中古品で残っているより、
この方が危険な遊びより解放されて、むしろ良かった」が本音。 第三者は、
難破して命からがら救われた、姿しかみてない。しかし、当事者は、その辺り
が周辺の視線とは全く違う。これも、救命用具と救命舟を用意して、命からがら
助かった?からこそ、言えるのだが。 で、ボートしか乗ったことがない人ほど、
その時に勝手な揶揄をすることになるが、その面白さが、何ものにも代え難い
ことは知る由もない。人は、それぞれ、頑固な岩場の小さな洞窟内のことしか、
知りえない。それは、あくまで、大小の大きさの差でしかないが。
 私の身近な人の心理が、こんな心理もあった?ということを、自分が経験して
初めて知ったこと。両親の生き様の後ろ姿から、「人生には、何が起こるかも
しれない、だから、その時々の楽しみは、その時に、味わうことを、子供ながら
学んだ。それにしても、9割以上の何も考えない人たち、何をしているのだろう。
年金生活に入っても、収入の二割は漠然たる目先に不安のため、預金をして、
死期が迫ってから、この世に、したいことをし得なかった無念と、預金を残して
死んでいくのだから、恐れ入る。 で、「そのお金もない、したいこともない、
無念もない!で、どうした!」 これはこれで、おめでたいこと。これも、
目くそ鼻くそを笑う範疇でしかないが! 王陽明もあるが、論語もあるか?
 
・・・・・
4438, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー8
2013年05月11日(土)
    ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
 * ルート7 リラクゼーションと東洋的思想からのアプローチ(思想の道)
「いい湯だな」と「悟り」は同じこと。両者とも「リラックスの極致=悟り
ということ。 笑いは緊張とリラックス(弛緩)の間に生まれ出る。喜劇や
お笑い番組の束の間に悟りがあるのか? お笑い芸人が果たして悟りをひらいて
いるのか? という疑問が出てくる。しかし「深いリラックス」が、悟りと
笑いにある。早朝のミニサイクリングで信濃川の土手を音楽を聴きながら、
深呼吸をしている時の気持ちは悟りの心境。深くリラックスをしてないと、
自分が壊れてしまう恐れもある。逆に悟りに近い心境は自ずから
リラックスの状況を求める。
 −その辺りを抜粋ー
≪ 先ほどの達人の境地や禅僧の姿はこれに通じるものがある。自分を磨く
ことによって至ることのできる境地。 これに対し、リラックスの境地は、
「世界を貫く原理原則を知った」状態とは異なるように思えるかもしれない。
しかし、そうだろうか。リラックスの境地は、我欲や悩みやその根源である
身体の不自由さから解放された境地だ。心が無であること、あるいは、幻想で
あることを、体で理解した境地だ。「ああ、世界での幸福なあり方とはこう
いうものか」と体で理解した境地だ。そう考えれば、リラックスの境地は、
「世界を貫く原理原則を知った」ことと等価ではないだろうか。「体で理解」
する点が、禅宗の「不立文字」とも関係している。先ほど述べたように、
禅宗では、悟りの境地は言葉では言い表せないものだと考える。右で述べた、
体で理解した境地とは、まさにこのことだ。 頭で理解したのではない。
体で理解したのだ。体で、世界を貫く原理原則がわかった、と実感したのだ。
よって、リラックスの境地は禅宗の悟りの境地と同じものだ、と体で理解
しさえすれば、同じものなのだ。ただ、古代仏教では、禅宗とは違って、
悟りの境地を論理として理解しようと考える。これはどう捉えるべきなのか。
僕はここにも矛盾はないと考える。矛盾か矛盾でないか、自己か他者か、
実在か幻想か、論理か感性か、頭か体か、という対立図式を超えるのが
仏教哲学の論理だ。・・・ 〜(略)湯船につかって「あ〜あ、きもちいい〜」
と思う瞬間。これは大金持ちでも、貧乏人でも同じ。育ちも実績も関係ない。
欲も悩みもない。何も考えない。ただ、「あ〜あ、きもちいい〜」に集中
している。実は、あっけないことに、これが「リラックスの極限」=「悟り」。 
あらゆる欲を超越し、過去も未来も超越し、静かで満ち足りていて、心の
安らぎと平和を享受している。悟りや涅槃の定義にぴったり一致する。
 そうはいっても、リラックスの境地と悟りが同じとは ーしかも、
よりによって、風呂の「あ〜あ、きもちいい〜」と悟りを同一視するとはー 
あまりに突飛で不謹慎な考えだ。そう思われる方も少なくないかもしれない。
が、そんなことはない。期せずして、あるチベット仏教のアメリカ人僧侶は、
悟りとは深いリラックスだと述べていた。≫
▼ 起業を決意してから45年間。三つのブラックスワンで、この結末。
 オセロで、白石が全て黒に変わったようなもの。しかし、人生にとって
ベストと数ヵ月後に気づいた。50歳の節目時に、「還暦までに、それまでの
人生を圧縮して生きる」と決意して、その通り実行してきた。しかし、
まだ何かが足りなかった。そこで気づいたのが、悟りが全く足りなったこと!
・・・・・・・
4064, 思想とは
2012年05月11日(金)                   
  * その人の思想とは一つの行為である    
           ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
 ≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。
   心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を
   ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。
   今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、
   他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、
   掻き集めた灰のなかから 貧弱な火を吹き起したりするのでは、
   子どもや猿どもには感心してもらえるかも知れん――
   それがきみらのお望みならばだ。しかし、真実、良心から出たもの
   でなければ、けっして心に達するものではない。(ゲーテ「ファウスト」)
  そういう声を聞くと、心を打たれると同時に、なるほどこの人はそういう
  人かと、そこにたしかな一個の存在を認めるだろう。この人物には思想が
  ある、と。すなわち思想とは、つまりその人が断乎としてそのように考え、
  そのように生きる、その生き方の言葉や行動にあらわれたもの、という
  ことになる。自分の生き方の全部を賭けた言動だけが、思想の名に値する。
  そこから小林秀雄の、次のようなはげしい断定も出てくる。≫
 ≪ ――精神の状態に関していかに精しくても、それは思想とは言へぬ、
  思想とは一つの行為である。 (小林秀雄『私の人生観』より)
  口で言うのならどうにでもなる、とよく人はいい、これはとくにわが国では
  支配的で、政治家の言口葉などはその標本のようなものだが、そんなふうに
  言葉=意見を弄んでいる者は、ついに真の自己に達することはできないだろう、
  というのである。なぜなら、ひとは自分がしんから正しいと考えたこと
  (それはその人の生き方から出た必然の思想である)を口にする時、己れの
  全存在を賭けてそれを言うのであり、それが周囲に認められ、あるいは
  否認されることで、己というものを知るのだから。≫
▼ 11年間、ここで書き続けてきた効用は、この実感がないことは逆に、
 書けないということ。だから出来事に直面したときの実感を、その場で文章化
して頭に残して置いて、記憶に残す習慣が出来てしまった。写真家は、シャッター
チャンスを待つが、その間、頭の中で、その場の光景の実感を文章化している。
写真に添えられている文章は、だから写真を引き立てる薬味になる。思想とは、
真実、良心から出たものでなければ、心に達しないのである。心にとどくのは、
自分だけの頭で考え、経験し、感じた実感である。読書日記より、書くネタが
なく仕方なく捻り出した「閑話小題」、「つれづれに」のテーマの方が面白いと
言われるゆえんである。
   ・・・・・・・
3698, 自己を見つめる −19
2011年05月11日(水)
              「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 人生は、難しい。老いの時期に、それまで生きてきた過程で問題処理を
誤って置き去りにしてきた過去が吹き出てくる。これは万人に言えることだが、
肉体の衰弱と、精神の衰弱が、それに加速させていく。特に、現在、これまでの
家制度が崩壊、老後は、親子が支えあうシステムは消えようとしている。その中に
あって、自分(の世界)を長年かけて作っておくしかない。しかし、
「こんなはずではなかった、まさか!」が、人生である。 
誰の身にも形を変えて、突然現れ出る。 
  * 老いについて ー�    ーP272
【 こうして不動の英知を得た、落ち着いた老年は、死を覚悟しながら、
自分なりの人生のまとめを試み、知恵を磨いて、認識を深め、 哲学的知性を
研ぎ澄ます恰好の時期となる。キケロが言ったように、無分別は青春につきもの
であり、反対に、分別こそは、老熟に伴ってようやく熟成する。およそ、知性を
錬磨して、労作や仕事に励む老年には、老化は寄りつかないのである。老年に
なって恵まれた晴耕雨読の田園生活こそは、人間に幸福をもたらす。自然のなか
で草木を慈しみ、書籍を読んで知性を鍛える田園生活は、人間に精神の安らぎを
叶えさせる。あらかじめ美徳善行の想い出を蓄えることに努力を傾注して、
精神的に満ち足りた円熟した老年にとっては、こうして、時きたってこの世を
去るのは望ましいことである。自然の摂理に従い、生命に定められた限界に
従って、従容と死に赴くのは、人の使命だからである。セネカの説いたように
自然の定めに従い、それに即して自己を形成することが、何よりも大切であろう。
心身を健全に保ち、見識を蓄え、運命の贈り物は活用しながら、しかしその奴隷
にはならずに、乱されない自由な心と剛毅な精神において、不屈の力をもって、
公正に生き、道義を守り、克己心強く、高潔に、そして調和をもって優美に、
善行に励むことのうちに、人生態度の基本が据え置かれねばならないと、
セネカは捉えた。 人間は、老境においてこそ、いよいよ、こうした人間の
あり方に熟慮を傾けて、人生の実りを念頭に置きながら、自己自身に相応しい
生き方の拡充努め、最期の時に、備えなければならないであろう。】
▼ 長生きはしたいが、老醜は曝したくない。この溝が老年の大問題になる。
 他人のドブ沼は垣間見ることはできても、自分になると!「生まれ活き、老い、
その結果、長く生きている分、多くの病を経験し、死んでいく。これが人生。」
そう、綺麗には人生を終わることはできようがない。事業も同じ。綺麗に引きたい
は妄想。これからが、本番、長い日々が待っている。 清く、正しく、美しい
人生もあるのだろうが?これほど詰まらない人生もないだろう。それは私の偏見?


5534,若者よ、外に出よ! ー⑬ 19世紀の芸術に触れろ 〜B

2016年05月10日(火)


               『人生の教科書』なかにし礼著
 ここで、若者に、<海外に出て、自然と、芸術作品に触れ、読書などで
教養を積み、恋愛をしろ>と勧める。これは若者だけでなく、壮年、老年に
も言えること。情報化社会の中で、クラシックをジックリと聴く余裕は少ない。
しかし、今ではアイフォンがあり、何千、何万の音楽を入れておくことが可能。
更に今では、定額のネット配信で好きな音楽を好きな時間に聴くことができる。
そのベースとなる19世紀クラシック音楽鑑賞を趣味にすることを勧める。
  * なぜクラシックを聴くべきなのか
≪ 芸術を学ぶ際、音楽なら、黙ってクラシックを聴くこと。いまだに
クラシックは不滅の音楽なのだから、それを聴くことが趣味になれば最高だ。
たとえ趣味となり得なくても聴くべきである。
 特に、やはり19世紀の音楽。18世紀にはモーツァルトがいるけど、彼の死後、
すぐベートーヴェンへ、19世紀の音楽へと繋がっていく。ベートーヴェンから
始まって、シューベルト・ショパン、ブラームス、ワーグナー、マーラー、
ブルックナー、ベルリオーズ……とにかく19世紀だ。
 ロマン派の時代である19世紀は、前世紀の革命時代が終わり、
「人間は進化する」ことを人類が知った時代である。愛によって人間は死ぬ
こともできるし、愛によって罪を犯すこともできる。そして「人間は進化して
神にもなれる」という思想を、芸術家たちが作品の中に叩き込んだ。
19世紀は人間の可能性のすべてを歌いきった時代なのである。
 文学の世界でも、トルストイ、ドストエフスキー、バルザック・ユーゴ、
アレクサンドル・デュマ、スタンダール、ゲーテ、バイロン、シラー、ボード
レール・ベルレーヌ、ランボー、オスカー・ワイルドなど、大作家が生きた
時代はすべて19世紀である。
 19世紀という時代を常に自分の心の中に持っていようとするには、音楽を聴く
ことを日常の習慣にしてしまうことだ。この頃の作品は、今や不滅の作品群だ。
20世紀になるとそれらはすべて別の音楽になっていってしまうし、言うなれば
19世紀の残骸のようなものだ。19世紀の音楽を楽しめなかったら、その人間の
精神生活はすごく貧弱なものになると思う。 ≫
▼ それでは、絵画はどうだった調べてみると、
【19世紀はもっとも絵画が進化した時代と言っても過言ではない。現代絵画の
巨匠ピカソやマティス、ムンク、シャガールなど全員がその影響を受けている。
16世紀まではイタリアが、18世紀はフランスが芸術の最先端。ゴッホは19世紀
終わりの画家である。・・】とある。その背景には、国力の成熟もあるようだ。
学生時代に、安いステレオを買って、世界の民謡、ジャズ、アメリカン
ポップス、クラシックを独りコーヒーを飲みながら聴くのが楽しみだった。
 大都会の中の孤独は、音楽と読書でまぎらわすのが一番だったが、後から
考えてみると、大都会の中の孤独こそ、一番の環境だったことになる。
早稲田大学近くの寮、今でいう「シェアハウス」の25人の地方出の共同生活
から垣間見た人間観察と、クラブ、ゼミ、世界旅行と、恵まれた経験だった。

・・・・・・
5169,閑話小題 〜どっちに失礼?
2015年05月10日(日)
    * どっちに失礼?
 猿の赤ちゃんの「シャーロット」の名問題で、家内が『私も失礼だと思う!』
と言った時、思わず出たジョークが、『どっちが?』だが、反応はゼロ。
そのジョークを即座に理解出来る玉?ではないらしい。直ぐにブログに取上げ
ようとしたが、その辺の世間びとに配慮して自重した。 獣を軽くみるのは、
人間のエゴの思い上がりである。 朝日の天声人語が、上手い解説である。
≪ イギリス人はユーモアが好きだ。苦しいときほど必要だと考えるらしい。
 第2次大戦中、ロンドンはドイツ軍の空襲を受けた。動物園に爆弾が落ちた
ときは、タイムズ紙が「しかし、猿たちの士気はいささかも衰えていない」
と書いたそうだ ●考えてみると、これは「猿たち」が利いている。
猿山を眺めれば、彼らがわれわれに最も近い動物であるとよく分かる。
ゾウやキリンではあまり面白くない●古びた話を、大分市の高崎山自然動物園の
赤ちゃん猿の命名騒動に思い出した。英王室に誕生した王女と同じシャーロット
と名づけたら、「失礼だ」という批判が山と届いた。これも猿ゆえだろう
●ウサギやカピバラなら、騒動にはならなかったと思われる。ではカバはどうか
と問われると困るけれど、ユーモラスではある。英王室の広報は鷹揚に
「赤ちゃん猿の命名は動物園の自由」と語る。結局、名前はそのままと決まった。
「失礼」を案じた人たちも、先方の対応に少し気が楽になっただろうか
●ロンドン空襲に話を戻せば、半壊したある百貨店は「本日より入り口を
拡張しました」という看板を出したそうだ。やせ我慢で繰り出した泣き笑いの
ユーモアに、お国柄を見る思いがする。そういえばきのうは、英国にとって
対独戦の勝利から70年の日だった●健やかなプリンセスの誕生から世界注視の
総選挙と、英国発のニュースが続く。日本の皇室ともゆかりの深い王室である。
美しい5月の慶事を、遠くより祝福申し上げる。≫
▲ 今回の騒動について、文化人類学者は「人々の深層にある獣に対する
 差別意識が表れた」という。 また「一部の人たちが英王室の王女の名前に
日本の皇室を重ね、敏感に反応したのだろう」と。「(失礼なのは)どっちが?」
のジョークも、我ながら人類への皮肉である。 同じ島国でも歴史が違うと・・
   * 連休での渋滞原因とは
 連休での観光地の車の渋滞原因は、意外なところにある。高速道のトンネルを
抜けたときの陽光に、直ぐに眼が馴染めずスピードを落とす。その小さな積み
かさねが、数百、数千台が積み重なって渋滞になってしまう。その上、登り坂で、
少しスピードが落ちてしまうが、それに気づかないことの積重ねも渋滞原因に
なっている。要は、それぞれの小さな減速の重なりが、原因とか。 
それと、普段、遠出をしたことがないドライバーの不慣れが重なるため。
・・・・・・
4804,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー2
2014年05月10日(土)
       「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
  * ある逸話
   ー‘あとがき’に、以下のような逸話があった。まず、その抜粋からー
《「サザエさん」の原作者の長谷川町子のマンガで、小学一四年生のときに読み、
 今なお覚えている作品がある。それは、一人の男の人生をめぐる、良い神様と
悪い神様の話だ。何の不自由もない家に、玉のような男の子が生まれた。
これを知った悪い神様は、どうもこれがおもしろくなく、この男の子の人生を
惨たん憺たるものにしようとシナリオを練る。そして、「男の子の身には次々と
不幸が起こり、紆余曲折をへて船乗りとなった挙句に猛烈な嵐に遭遇して、
最後は絶海の孤島に流れ着き、そこで人生を終える」というシナリオをつくり
あげた。はたして、男の子の身に次々に不幸が襲いかかる。しかし、良い神様が
それに気づいて彼を何度も助けたために、彼は幸せな人生を送ることになる。
ところがその臨終の場で、彼は自分の人生を振り返って、本当に不幸な一生
だったと言い出すのである。そして、自分の夢は船乗りになって、どこかの島で
人生を終えることだった、と述懐して息を引きとるのだ。二人の神様は、人間
とはよく分からないものと言って去っていく。これが私の人生の原点である。
幸せな人生とはあくまで本人が決めることであり、まわりがとやかく言う問題
ではない。もとより、記憶のざまざまな性質や、生かしかたを知ったからと
いって、幸せになれるわけではない。もとより、記憶の様々な性質や、その
生かし方を知ったからといって、幸せにはなれない。ただ、知らないよりは、
知っておいたほうが、みすみす損をしないだろうと思われるだけだ。・・ 》
▼ 何か、現在の複雑な気持ちの解釈に、大きなヒントになる内容である。 
 3年前の節目の数ヶ月前までは考えられない、「まさか、自分が!」が、
正直な気持ち。しかし、現在に至って、これが私の物語の終わりには、丁度
良いのでは?とか、こういうのも面白い?とか、何でまた?等、色いろ複雑な
気持ちが入り組んでいる。 絶海の孤島ではないが、結末がハッピーエンド
より、せっかく創業をしたのだから、倒産の終わりの方が、この筋書きとして
面白い?とか、この物語の解釈がある。これが私らしいというか、何だろう? 
要は、30年間、転身しなかった結果でしかないが。ストーリーの面白さは、
これで充分。「ああ、面白かった!」と、言えるだけでも有難い。 
神様は、丁度良いオチをつけたようだ。
・・・・・・
4437, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー7 
2013年05月10日(金)
     ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
  * ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
《 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人
の目を気にしない生き方。それを満たすのは、自己を捨て、無我、無私を実現
する達人の生き方。欲にも、生死にも、他人との争いごとに拘らず、達観して
静かに生きる姿勢。ここに達成した人は、持続的至福に達することが出来る》 
これが、幸福学の結論。 現在の状況を冷静にみると、
「これが人生、で、もう一度同じ人生を歩みたい」という現在の心境と同じ。
  ー他人と比較しないことによる幸せこそ、人生の要諦。 その辺りよりー
≪ 幸福学とは、要するに、幸せに効く主観的な要因は何かを明らかにする研究。
 その結果、僕たちの行ったアンケートの範囲では、幸福の要因は大きく
 四つの因子に分けられることがわかった。
・一つ目は、自己実現や自己能力に関する因子。目標を持っているか、直近の目標
  と将来の目標に一貫性があるか、自己統制感が高いか、自尊心が高いか、など。
・二つ目は、つながりに関する因子。他人に対して親切か、様々な出来事に
  感謝しているか、多様な知人がいるか、など。
・三つ目は、楽観因子。楽観的か、ポジティブか。
・四つ目は、他人と自分を比べない因子。他人と自分を比較しない傾向が高いか。
 ここでは、四つ目の因子に注目しよう。 すなわち、「他人と自分を比べない
  ことによる幸福」について。 自分を他人と比較しない人には、長続きする
 幸福が訪れると考えられる。千五百人への調査結果も、それを表している。
つまり、千五百人の回答者のうち、他人と自分を比較しない傾向が強い人は
幸福である比率が高く、他人と自分を比較する
傾向が強い人は不幸である比率が高かったのだ。
 自分と他人を比較しない人々には二つのタイプがあると考えられる。
他人を見ないタイプと、自分を見ないタイプだ。前者は、自分だけを見て他人
を見ないタイプ。周りのことを気にしないマイペースタイプだ。 我が道を
行くから、周りなど関係ない。場合によっては、独りよがりだったり、わがまま
だったりするかもしれない。自分は幸せでも、他人には迷惑をかけている
「自分勝手」タイプかもしれない。後者の自分を見ないタイプは、逆に、
世界は見るが自分を見ないタイプ。何が欲しい、こうなりたい、などの自我の
欲求があまり強くないから、他人と自分を比べることにそもそも興味がない。
悪くいえば向上心や競争心がない。なすがまま、自然のまま、だ。
 たとえば、武道の達人をイメージしてみていただきたい。茶道、華道、座禅
などでもいい。 凛として、姿勢がよい。何かあっても、動じない。静を以て
動を制す。普段は静かだが、実は相手を倒す力を秘めている。無駄に力んだり
せず、相手の力をすっと利用して、自分の思いどおりに世界を動かす。しかし、
私利私欲はない。判断は大局的。全体が見えている緊張感のある空気を醸し
出すが、自分のためには怒らない。思考の対象は常に世界だ。世界のために
行動する包容力。名声を得ていたり、人望が厚かったりするが、決して自慢など
しない。 もちろん、他人と自分の比較などしない。≫
▼ どうも世の中、嫉妬と苛めの糸で哀れなほど。私住む城下町は長年の柵
 で、雁字搦めの蛸壺社会。8割以上が地元出身者で占められ、それが全社会。
学校関係者以外は殆ど付き合いがないが、垣間見えてくる世界は箱庭のようで
面白い。知識を持たない人の無意識の科学は、身近の人との比較しかない。
不幸になって当然。それも私の主観による思い込み。「横を見ないで、縦
(今、ここ、自分)を見て生きる」と割切ってしまえば、良いが。
・・・・・・
4063, 本当は怖い抗うつ剤 ー2
2012年05月10日(木)
  * うつ病になったら、どうしたらいいのか。      
              { 浜松医科大名誉教授 高田明和 }
 倒産の惨劇を身近で見ていたので、二年間は落ち込むのは避けられないと判断。 
最小にするためスポーツジム通いと、打ち込める対象を加えることを考えた。
一つ間違えると欝に伴う暴発か、破滅になっていく。それがiPadとシネマと
 蔵書の再読と、世界の潮流の鳥瞰などを、逆に徹底的に楽しむことであった。
それと、中村天風の「積極一貫」の思想書を、身近に置いて何度も読み返した。
二年にまだ一年あるが、一息ついた後半の方が危ないのかもしれない。
 その私が予防策でとった方法がそのまま、治療法として研究されていた。
運動と、考え方、受け止め方をプラスにすることだ。
≪ うつ病の治療法として確立しているのが「運動」である。体を動かすことが
精神によい影響を与えることは様々な研究で示されている。第二は「ものの考え方」
である。私たちは競争社会に生きている。競争とは相手に勝つことを目的とする。
もし負ければ落伍者になる。一度敗北すると、将来がないように思うのだ。
さらに大事なことは、どのような分野でも自分より勝れた人がいるという事実。
 例えば野球にイチローがいて、ゴルフには石川遼がいるのと同じようなものだ。
努力は大事だが、自分が及ぼないからといって自分を責めていたら人は決して
心の幸せは得られない。・・・堀口大學は自身の『座右の銘』という詩で
「暮らしは分が大事です。気楽が何より薬です そねむ心は自分より 以外の
ものは傷つけぬ」と詠んでいる。自分以外とは社会的ランクのことである。
今の自分のランクを受け入れ、それでよいのだとする以外に心は楽にならない。
禅では「不思善 不思悪」といって、思い出さないことをもって最も尊いとする。
といって、無理のことなら、思い浮かんだら、しばらく放っておいて手を出すな、
必ずその思いは消えると、禅では教えている。 実際に、どのような思いも
5秒で消える。・・・ ≫
▼ 「どんな思いも5秒で消える」は、言いえて妙である。出るのは仕方が
 ないが、なるべく、そこで切るように心がければよい。全ては二年で落着くし、
目先は五秒のフラッシュで出てきた思いの延長を考えないこと。特に寝付けない
布団の中での苦悩の嵐は、訓練で最小にすることが可能。 そのためにiPod
を枕元に置いている。最近は、ほとんど夜半、使うことはないが、音楽は効く。
・・・・・・・
3697, 自己を見つめる −18
2011年05月10日(火)
  * 老いについて ー�    
            〜P270「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
【ショーペンハウアーが言ったように、そうした老年の実りが熟するためには、
 まず何よりも、人は、健康と生計の維持に、早くから留意して、みずからの
人生設計を築き上げる努力を怠ってはならない。生計もままならない病気がちの
老年は悲惨の一語に尽きるから。そうではなしに、比較的健康に恵まれ、また、
なにほどかの金銭を蓄えた老年は、少なくとも社会生活全体の安寧が保たれた
条件下では、むしろ静かで、平穏な人生の実りの時期になるであろうと、
ショーペンハゥアーとともに人は言うことができるかもしれない。生の本能の
激しい渇望も静まり、社会的責務もいちおう果たし終えた、比較的自由な老年は、
自己を振り返り、世界を見つめ、知性の働きを純化させて、洞察と実りを結び
うる最良の時期だと、たしかに言えるであろう。しかし、そのためには、人生に
対する過剰な期待や野心に惑乱された、思い込みの激しい混乱した想念から解き
放たれて、冷静にこの世の営為をその真相において見つめる知恵の魂が熟成して
こねぽならない。ショーペンハウアーが言ったように、人生の表側だけでなく、
裏側もすっかりよく眼のなかに入った老境においてこそ、初めて、人生の虚妄と
空しさが会得され、所詮はいかなる人生も五十歩百歩であるという事態が得心
されてくる。 そうした人生の有限性への徹底した悟りが、老境の平静さを
築く基底とならねぼならない。実際、誰しも、老年とともに、そうした悲愁に
みちた諦念を学び取るものであろう。
 老年になって、やっと人は、自分の人生を変えた大きな出来事が、そっと
気づかないうちに自分に忍寄ってきて、自分を支配するに至ったことを理解する。 
自分の周りの人々が、ほんとうは何者であったかが、ようやく分かるのは、
老年になってからである。 老境に至って、ようやく、自分の歩いてきた人生が、
その意味と射程において、誇張も、卑下もなく、ありのままに見つめられ、
自己の人生の限界と特性、その意味と無意味とが、過不足なく凝視される萌芽
が生い育ってくる。この世の中の名誉や名声や栄誉などが当てにならず、他者
の身勝手な憶測に依存した評価に過ぎないことも、すべて見抜かれている。】
▼ 新潟で事業を事業を立ち上げた時、近隣の土地のオーナーの老人に建築確認
 の判を貰うため交渉をしたときに、心底、驚いた。優位の立場を利用して、
自分の人生の鬱憤を晴らしている姿が老醜そのものに思えた。これは沼垂界隈の
特性と当時は思ったが、最近分かったのは、実は老人全般が持っている性癖と
いうことである。内面を見つめる力のない人は、その鬱憤を外に向けるしかない。
それを長年かけて培ってきたため、心の底には、怒りと憤りが底なしの泥沼の
ように深く蓄積され毒ガスのように湧き出ている。そのガスの対象を次々と
探し出し、他虐、そして自虐として爆発を始める。それが老醜である。 
老年は、その道を一歩ずつ歩いていると割り切った方が良い。そうすると、
長生きは、ほどほどということになる。それにしても老醜という奴は、である。


5533,若者よ、外に出よ! ー⑫ 19世紀の芸術に触れろ〜A

2016年05月09日(月)

               『人生の教科書』なかにし礼著
    * 19世紀の芸術に触れろ!〜A
 長年の読書の対象がノンフェクションが中心のため、古典小説は、あまり
読んでなかった。特に欧州の古典的名著は数少ない。数年前から読もうと思って
はいたが、これを機会に19世紀に書かれた名著を中心に読むことにした。
 改めて19世紀の芸術をみると、音楽、小説、画家などに卓越した芸術家が
そろっている。近代から現代への節目のためだろう。19世紀の切口で、芸術群
をみる視点を今になって知るとは、恥ずかしい限り。日本では明治維新があり、
多くの維新の獅子が現れていた。 <死ぬまで勉強>とは、こういうこと。
あまりに固い馬鹿の壁に取囲まれていた。それでも、学生時代に基礎教養の
絶対的値が少ないことに気づき、半世紀以上、学び続けて、このあり様。   
 〜その辺りを抜粋〜              
≪ ★ 『カラマーゾフの兄弟』を読め
・ドストエフスキーの傑作『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがあるか?
 未読の人には声を大にして言いたい。「とにかく今すぐに読み始めろ!」
「そうすれば人生が開けるから」と。・・・(略)
 言わずと知れた世界文学史上に燦然と輝く大作家、ドストエフスキー。
彼は帝政ロシア時代の革新派で、逮捕されて死刑宣告を受けたあと、シベリアへ
流刑となった。結局獄中で殺されることはなかったが、銃殺刑寸前まで追いつめ
られたこともあるという。そんな彼の処刑を前にした心の動きというのはもの
凄いものがあって、思想を、神を、人生の矛盾を、愛を、世界のことを考え
抜いた大作家の知見がつまった本を2週間かけて読むと、ドストエフスキーが
一生かけて学んだ膨大な知識と、喜怒哀楽など、彼の人生の追体験ができること
になる。そうすれば、今自分が悩んでいることがいかに小さいか、人生とは
なんと深いものかということが理解できる。
ドストエフスキーに限らず、本を読むなら19世紀の作品をおすすめする。
なぜ19世紀の本を読むべきかというと、現代の本はそのどれもが真の価値が
定まっていないからだ。どんなにベストセラーになっていても、それはつい
最近書かれたものであり、真の価値はわからない。人々がただそのブームの
中にいるだけにすぎない。しかし、19世紀の芸術には100年経ってもなお人類の
宝として珍重されている作品、時の試練を乗り越えた名作がある。
・読書はまさに人生の勉強であり、作家という人間の勉強でもある。
一人で自己鍛錬をするには読書しか方法がない映画を見てもダメ。
映画は「観るものであり」放っておいても勝手に終わる、いわば受動的なもの。
逆に読書は能動的なものである。自分から積極的に本の中に入っていく努力が
強いられるため、大変な意思力がいる。映画や音楽や絵画も人生を豊かにして
くれるものではあるが、それよりもまず読書である。
 いろいろなことが読書することからスタートする。
ちょっと噛み付いても歯が立たないような、咀囎しても胃にもたれるような、
消化しきれないようなものに挑戦し、乗り越えたという経験が成長するための
起爆剤になる。それをせずに花開くということはあり得ない。大作を読むことは
人生の通過儀礼なのだ。
 物を読んで何かを理解する、そういった根本的なものが育っていないまま、
人生をスタートさせてはならない。そして読み終わって本を閉じたときの快感。
これは悦惚だから味わったほうがいい。≫
▼ 10年位前に読もうと一度、思いたったが読まずしまい。残された人生の
 課題は、19世紀芸術に触れて人生を見直すことなのか。図書館から借りて
読むのではなく、自前で買って読む習慣のなさの甘さの結果が、こうさせた?
米国の統計だが、社会に出てから読書を続ける人の比率が10%という。
思いの外、少ないのは生活におわれて読書習慣が持てないため。で、リタイア後
の有余る時間に読書をしようとしても、受動的生活の習性が、それを許さない。
 仕方がないので、昔の名作映画シリーズをDVDで観ることで良しとしようと
するが、受動の映画鑑賞と、能動の読書の差は、あまりに大きい。で、以下に続く。
・・・・・・
5168,人生相談という気晴らし! 〜①
2015年05月09日(土)
             『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 哲学者への人生相談 
 以前、週刊プレーボーイの人生相談の特集本を読んだが、中でも、今東光の
解答が面白かったが、これに勝るとも劣らない面白い内容。哲学者の中島義道が、
ここで、「人生相談を持ちかける人は、たぶん常識の範囲を超えないかぎりで、
つまりあまり苦労なく実行できる範囲で、何らかのポジティヴな回答を、
あるいはちょっと考え方を変えれば楽になる、そんな妙薬を求めている」と、
人生相談の「質問の甘さ」を一刀両断。いや、甘いから、相談するのか?
  ー世間人の末路ー
≪ Qー まず、定年後、何をしたらよいのか?
 今年退職した62歳の男です。経済面でゆとりがあるので、家にいます。
妻から『趣味を持て』『友だちはいないのか』など言われるが今さら、趣味も、
友だちもありません、もう何を考え、したらよいかよいか分かりません。
 まず何を考え、何をすべきなのでしょうか?
Aー こういう相談を受けるといらいらします。あなたは多分これまでの人生
 で「安全」を後生大事に守ってこられたのでしょう。とにかく無難にとにかく
失敗のないように、生きてこられたような気がしてなりません。結婚もした、
子供も独立した、仕事も定年で区切りがついた…と、ふとわれに返ってみれば、
あとは「無事」死ぬだけというわけ。その虚しさは腹の底まで知っているのに、
どうしていいかわからない。「私はまず、何を考え、何をすべきなのでしょう」
という問いかけは、失礼ながら、いささか滑稽です。しかし(見方を変えると)、
あなたがいま、こうしてぐだぐだ悩んでいるのは、とてもいい機会と思います。
もっともっと徹底的に悩めばいいと思います。あなたは、趣味を見つけても、
友人を見つけても、散歩をしても、社会に興味を持っても、満足しないでしょう。
もしあなたが、いままで通り自分をごまかし続け、そのつど「気晴らし」を
見つけ、そして「これでいいんだ」と呟いて死んでいくのでない限り。といって、
私は何か人のために有益なことをせよとか、何か情熱をかけることを見つけよ、
と言うつもりは毛頭ない。そんなことをしたって、どうせ、じきに死んで
しまうんですから。むしろ、あとわずかな人生(統計的にはたった15年)
をかけて、ほんとうに自分がしたいこと(したかったこと)を見つけることです。
どんなに反社会的なことでもかまわないから、一度は洗いざらい自分を点検して
みること。そのためには、これまで営々と築き上げてきた「うそ」で固めた城を
崩さねばなりません。恐ろしいから自分の中に見出しても握りつぶしてきたこと、
排除されるのが怖いから、いやいや皆に合わせてきたことを徹底的に崩さねば
ならない。そして、徐々に「自由」になることです。これって、老後の生き方
としてはうってつけですよ。あなたは、会社から定年と、つまり「役立たず」
と公認されたのですから、そしてもうじき死んでしまい、二度と生きることは
ないのですから、最後の最後くらい「自由に」生きてもいいのではないで
しょうか? その自由の中身は、あなた自身が見つけるほかありません。・・≫
▼ 機会あるごとに、心の中で呟いている「いい人」の末路そのままが、
 この20の質問。いずれも少し切り口が変わっているだけ。噂話、世間話を、
そのまま信じ、その枠の中で何も考えずに、他人の揚足をとってきた群れの
人たち(世間人)の末路である。でも、気づいただけ充分マシ。気づかないで
御めでたく、そのまま逝くのが大部分。こういうのが集まったのが「烏合の衆」。
・・・・・・
4803,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー1
2014年05月09日(金)
        「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
  * 自分も人生も、記憶がつくりあげる
 この本の感想文を書いていた昨日、9年前〈2005年05月08日(日)
1496, いま・現在について−4 〉に、記憶について書いたことに気づいた。 
よくある偶然の一致だが、ーまずは、その内容からー
《「記憶のない男」ーDVDレンタル 
レンタルDVD ノ「記憶のない男」が、「いま」と「私」を考える上で面白い。
ー知らない街に仕事を捜しに来て、暴漢に襲われて記憶を失った中年男の物語ー
 それぞれの人の「いま」は、それぞれの過去を背景を持っている。
過去が記憶喪失で失われた場合、その人の「いま」は無いに等しい。
ストーリーでは、そこまでは表現しつくしてはいなかったが。しかし、
その空白を「いま・現在」という現実の中で、必死になって埋めようとする
主人公の心を、静かに淡々と映し出していた。過去の想起がなければ、[私]は
存在しないに等しい。動物に[私]はない。それは想起ができないため。
もし自分が過去の記憶を無くしたら、「いま」という感覚は希薄になる。 
青年時代の日記を偶然倉庫で発見。それを悪趣味的に、この随想日記で
露わにした。その過去の「いま」を、思い出すほど、現在の「いま」との
重なりが見えてくる。そして現在の「いま」がより濃く深くなっていく。
それは現在が過去より成立しているためである。過去や、未来より、「いま」
が全てだと考えがちだが、過去も未来も重要であることを教えてくれた映画。
 {「いま」を人間の手とすると、過去と未来は人間の身体}と例えると解り
やすい。手は手としては存在し得ない。手はあくまで身体の一部でしかない。
記憶喪失とは、「手そのものしか自分を感じ得ない」ということ。
身体全体が失われた感覚は想像しただけで恐ろしい。そこ(いま)には、
「私」は無いに等しい。[いま]に集中するということは、過去と未来に対して
「楔」を打つことである。楔を打つことは最も重要な行為である。しかし
全体の構造を考えて打たなくてはならないのである。今上の人生、来世の
ことは考えない方がよいのか? それとも、来世のために今生を生きるか?
「いま」に全てを傾けるべきである!?「どうせ死んでしまう」のだから。》
▼ 人の記憶は、そのまま、その人の過去になる。その記憶がスッポリと
 無くなれば、その箇所の過去が消えたのと同じ。リタイア後は、過去と
向き合う時間が多くなる。それは自分と向き合うことである。問題は、
その過去の解釈、受け止め方になる。それを、ここで延々と書いているが、
その受け止め方は、過去の蓄積の上の知識と経験のベースで決まる。
その記憶との付き合い方を、この書が変えようというのだから、
面白くないはずがない。  ーつづく
・・・・・・
4436, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −6
2013年05月09日(木)
       ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート5: 自己とは定義の結果だと理解する道(自他不分離の道)
≪ ー自己という概念を取り去ってみるとー 意識は身体をコントロールする
 主体ではなく、世界を観測し世界と相互作用する身体Aという媒介の動作を
モニターする装置に過ぎない。僕たちの心は、そもそも、どの身体に宿っても
いいのではない。一つの身体に、一つの「こころという幻想」がセットになって
いるだけ。ただそれだけのことだ。どんな人間にも、心は一つ。あなたの心は、
よくSFにあるようにコンピューターに乗り移ったり、オカルトのように身体を
抜け出したりできるものではなく、脳の計算によって作られた単なる擬似体験
劇場に過ぎないのだ。そう考えれば、特に身体Aを「自分の身体」と捉える必要
はない。 ・・ 本書を読んでいる「クオリアA」は「あなたの心」ではない。
何かを感じているだけの存在だ。たまたま、これまでは「あなたの身体」と
呼んでいた「身体A」と接続されていて、「身体A」が世界と相互作用した結果を
観劇しているだけだ。つまりクオリアAから見ると、身体Aもそれ以外の世界も
同じくクオリアAの観劇対象なのであって、所有物ではない。もはや身体と外界、
自己と他者、主体と客体、という分け方は意味を持たない。意味としてつながり
合って相互作用しているのみ。クオリアAが観劇できる範囲は、身体Aの五感が
情報取得する範囲まで。つまり、身体Aは移動式観測装置だ。これまでの世界で、
あなたと他人の同意とか共感とか呼んでいたものは、身体Aを介した他者の
自己化だ。いや、自己の他者化と言うべきか。自己という概念はないので、
主客合一、自他非分離と言うべきである。≫
≪ ー私とは、仮構された「自己」というシステムでしかないー 
 もちろん、この楽しく生き生きした世界を観劇できなくなることはとても
残念だが、それだけ。「私の死」ではなく「一つの観劇システムの終了」だ。
つまり、仮構された「自己」という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」
という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という
幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。比喩的に言えば、身体Aとは
窓だ。一つの窓を通して世界を見る装置だ。世界は、いろいろな身体を通して
見られていた。また、世界では、それらの身体によるインタラクションも行われ
ていた。これからも今までと同じように、行われていく。おびただしい数の
身体たちによつて。違いは、おびただしい数の身体の中のたった一つである
ところの身体Aが機能を停止した、ということだけだ。それに伴い、役目を
終えた、身体Aを介した世界観測者であるクオリアAもまた役目を終えた。
ただそれだけ。  もう「つ、強調しておくと、身体Aと世界は一体だ。
身体Aは、世界とつながっている。世界は、身体Aとつながっている。つまり、
元来「自分」と呼んでいたものは世界である、世界は「自分」だ。
本来、自己と他者の境界はない。境界を定義するからあるように見えるだけだ。
したがって身体Aの喪失は、世界の一部の喪失に過ぎず、世界から見ると
髪の毛や爪を切るようなものだ。≫
▼ 自己は定義の結果とすると、精一杯生きてきたこと自体が何だった
のだろう?そこで立ち現れた世界が自分になる。ご隠居の身になった現在、
私など死のうが生きていようが、どうでもよいこと。今まで「自分」と呼んで
いたのが実は世界だったということ。入江の洞窟と外海が繋がっていて、洞窟
の周辺を自分と思っていたが、外界を含めた世界が自分と考えると納得する。
己の行蔵を振り返ってみれば、そのことがよく分かる。今の自分も世界という
ことも。そうこう考えると、何?この俺は! になる。ただ気楽に死ねば
よいだけ、プシュと。 ボチボチ気楽にいけばよい。
・・・・・・
4062, 本当は怖い抗うつ剤 ー1
2012年05月09日(水)
 数ヶ月前に抗うつ剤(ハッピードラッグ)の恐ろしさについて書いたが、
ある雑誌に浜松医科大元教授の抗うつ剤からの脱却のレポートがあった。
親戚・縁者にも鬱病に苦しんでいる人を多くいる。青年期に何度か挫折体験を
したが、宗教系や精神論の本で、独りで克服してきた。去年の挫折?は、
早朝のミニサイクリングとスポーツジム通いで運動量を増やし、毒が溜まらない
ようして乗り越えた。iPadにエネルギーを集中したことと、シネマ通いも
効果があった。 また身近な縁者の倒産劇を手助けしたことで、情報を得ていた
こともある。節目は可能な限り綺麗に?を、心がけたことも毒を最小にした。 
私の知人に気楽に精神科の通院を勧めたが、大丈夫だろうか。 抗うつ剤が
多く使われ出した頃から、自殺者が激増し始めた統計がある。要はドラッグ
患者に仕立てられているのでは? という疑問が出ていた矢先の、医学者の
実体験の内容である。 恐ろしい限りである。
  ー 大まかにまとめると ー   {浜松医科大名誉教授 高田明和}
≪ 厚生労省は2013年から、今まで4大疾病として扱われてきた、脳卒中、
 急性心筋梗塞、がん、糖尿病に精神疾患を加えることを決定した。厚労省が
08年に実施した調査によると、精神疾患の患者は323万人と糖尿病の患者数
237万人を上回っている。 自殺者の数は13年運続で3万人を越えている。 
私たち家族は米国における9年の生活を切り上げて、1975年に浜松に帰ってきた。
子どもたちは日本語を話せず、家族ともども激しいカルチャーショックを経験。
それは強度のうつ状態を引き起こした。 その時の体験は、『本当に「うつ」
が治ったマニュアル』に書いた。薬は便わなかったが1年後に、私が言霊療法と
呼んでいる言葉を使い考えを変える方法と、坐禅で劇的にうつから脱却できた。
その後30年くらい何の問題もなかったが、70歳のころ、何度か海外出張後に
時差ボケが治らず、医師に相談すると、睡眠薬と抗うつ剤を処方された。 
最初は眠れたが次第に寝付が悪くなり、これは睡眠薬の依存かと思って中断
したところ、ひどい不安と不眠を体験した。パキシルで不安が解消されたので、
自分がうつ病になり、パキシルが効いたのかなと不安になった。しばらくして
パキシルを中断すると、再度不安と不眠に襲われた。そのころ、欧米でパキシル
の離脱症状(車酔いのような気持ち悪さ、顔の発汗、血の気を引いたような症状)
が問題になっていたので、抗うつ剤から逃れようと、二週間薬なしで済ませた。
自分は病気でないと繰り返して、何とか頑張った。 抗鬱剤は効果より
副作用の方が大きいのではないかと、疑問が生じたのである。 実際には
抗うつ剤の効果はブラシポ効果(暗示)が多いこと、抗うつ剤を一度服用して
しまったら、止めるのが至難である。・・≫ 
▼ 抗うつ剤の恐ろしさは、それは麻薬そのものであること。一度、依存を
 してしまうと、切れると禁断症状が起こることだ。そして服用をしている
うちに段々、強い抗うつ剤でないと効果がなくなる麻薬の禁断症状と同じである。 
初めは、気楽に医者の処方薬を飲んでいるうちに麻薬中毒になってしまうことだ。 
薬のため、精神のバランスを崩した男をみたことがある。狂ったような怒り方は、
狂人そのもの。長年積み重なった鬱憤が麻薬で爆発するから、知らない人は、
呆然となる!  ーつづく


5532,若者よ、外に出よ! ー⑪ 天空のショー

2016年05月08日(日)

               『人生の教科書』なかにし礼著
   * 天空のショー
 人間わざ、大自然、そして宇宙へと、対象が一つずつ、ランクアップする。
自然現象、宇宙のテーマは、『人生の教科書』にはない、私の経験の話題になる。
 オーロラは太陽系の天空のショーで、地球上の自然現象ではない。だから、
その神秘な輝きに何か得体の知れない現象が感動を呼ぶ。テーマが、
「地球は」から、「宇宙は」に変る。 〜ネット検索によると〜
《 天体の無数の星星の間に輝くオーロラは、太陽から大気圏内へ、光や熱
 だけでなく、太陽風を降り注いでいる現象。この太陽風は、太陽の表面の
爆発によって放出されるプラズマ状の電気を帯びた小さな粒でできている。
この太陽風の粒は、地球の磁場を横切ることができない特性を持っていて、
地球の側面からは入ってくることはできない。それに対し、地球の北極や南極
の辺りの磁力線は地球に対して垂直になっているため、太陽風の粒は、地球に
入ることができる。こうして地球に入ってきた太陽風の粒が、オーロラを発生
させることになる。この極地方から入ってきた太陽風の粒が、地球から100〜
400Kmのところで、酸素原子や窒素分子などと衝突すると、光を出す。
これがオーロラの正体である。》 
 北極近くの天空をキャンパスにした神秘的な光のウネリは、気ままに姿を
現したり、消えたりする。その魅力は、映像では知ることは出来ない。
外に出続けた結果、出会えたのが、これである。〜10数年前の文章をコピー
――――
2003/10/14
923, アイスランド旅行記ー3
   2003年10月14日(火)
ーオーロラハントー
 数年前に、ノルウエーのトロムソにオーロラハントに行ったことがあった。
その時は「何だこんなものか」という程度で、期待とは全く違うものであった。
薄い雲がスジ状に光っているだけであった。だだ行きの飛行機から見たオーロラ
がカーテン状に広く光っていたが。今回も5日間で一日しか見えるチャンスが
無かった。夜になると寒くなる為か曇ってしまうのだ。
感動するような大きなオーロラのはそうそう見ることができないのだ。

 そしてたった一回だけの私にとって一生もののオーロラが出たのだ。
天空に展開した時の感激は、想像をしていたより遙かに神秘的かつ荘厳であった。
写真など撮っている余裕など無く、ただ呆然と見とれるだけであった。
これをどう言葉で表現したらよいのだろうかと考えていた。
 天空の黒をキャンパスに、滝が降るように頭上の両側に壁になり揺らぐ青白光の
波がこの世のものと思えない、神秘的なものであった。。
あとは「 ・・・・・  」である。

 取材できていた共同通信社のカメラマンが、
「このオーロラをどう東京の友人に説明したらよいか解らない」話しかけてきた。
「これは実際、この目で見るしか理解はできないでしょうね」と答えるしかなかった。
その時、涙が出そうになっていた。
 以前ツアー仲間から、この体験談を聞いたことが何回もあったが。
「もういつ死んでもよいと思った!」
「聞くと見ると大違い、実際見なくては!言葉で表現できない」
――――
H1201自然の神秘
−オーロラ−
旅行に行く度にツアー仲間よりオーロラのすばらしさを聞いて、機会を待って
いた。「この冬が十一年に一回のあたり年で五泊六日・三食付、十四万九千円」
の新聞広告に引きつけられ、ノルウェーのトロムソのオーロラ・ツアーに参加。
スカンジナビア半島の北極圏に位置した、北海道を思わせる質素だが、
豊かな上品な街というのが第一印象であった。丁度クリスマスのシーズンに入り、
それぞれの家が電飾で飾られておりお伽噺に出てくるような街並みであった。
トナカイにソリとサンタクロースがぴったりマッチするような絵画的景色であった。
帰りに一泊二日でデンマークのコペンハーゲンに立ち寄ったが、街中がネオンで
飾りたてられており、ディズニーランドを思わせるこの世とは思われない
“夢の国”という印象であった。特にチボリ公園の電飾が印象的であった。

トロムソに近づいた機中より見た、天空を背景にしたカーテン状の白いオーロラが
一番初めに見たそれであった。最終日の夜半三時よりみたオーロラも青色、ミカン色
と自然がおりなす天空色彩ショーであった。オーロラも必ず見れるという訳にいかず、
3〜4回来ても見れない人もいるという。一生に一回は見ておくべき自然のパノラマ
であった。             (H11.12.10〜12.15)

・・・・・・
写真
https://retrip.jp/articles/10962/
http://keiki-porori.com/archives/7892
http://4travel.jp/travelogue/10633722

録画
https://www.youtube.com/watch?v=lBiB6a9ERa0

・・・・・・
5167,閑話小題 〜心は科学者か弁護士か 〜�
2015年05月08日(金)
  * 私たちの心は「判事」や「科学者」ではなく「弁護士」を雇っている
 ネット検索で、「科学者」「弁護士」と入力したら、以下の内容が出てきた。
心の内なる弁護士は、時にご主人様のため、盲目になってしまい暴走、歯止め
がきかなくなる。そこで、科学者や判事も同じ力量を置かないと、極端の個人
主義者になってしまう。 〜まずは、その辺りを抜粋〜
≪ この世に産れ落ちるあなたに、神様から
「二つの人生のどちらかを選択しなさい」と言われる。どちらを選ぶ?
 �生涯究極の正直者を貫き通すが、ならず者だと思われる。
 �常習的な嘘つきなのに、模範的な人物と見なされる。
「徳が高く見えるか?」「実際そうであるか?」は、このように大きな違いだ。
現実として、皆、どちらを選んで生まれただろう? 哲学者グラウコンのように、
大抵「人々は現実よりも見かけや評判に、より大きな注意を払う」 これは長い
歴史の中で、私たち先祖が生存競争に勝利するにあたり、真実と名声のどちら
が重要だったと考えたかを表している。人は人の見えないところでは、正直
とは言えない。少数の腐ったリンゴが倫理社会をダメにしているわけではなく、
人々の大多数がほんの少しずつズルをするからこそ、この世界は危いと言える。
おまけに、始末が悪いというか、ほとんどの人が自分の誠実さを疑わない。
つまり、自分がした行為の正当化に恐ろしく長けているのだ。
 私たちは心に「判事」や「科学者」を雇っているのではない。
 私たちは心に「弁護士」を雇っているというのが、本当のところだ。
だからこそ、グラウゴンは言う。倫理的な社会を築くためには何が重要か? 
「あらゆる人々の評判がつねに皆の目に入るようにし、不正な行為がつねに
悪い結果を生むようにすることだ」と。心の「弁護士」とは「思考」のこと。
思考の中心的な役割は、他人に対して説得的な理由や、いい訳を提示するための
準備を整え、振る舞えるようにすることだ。事実自分がした選択を正当化しよう
とするプロセスはきわめて強力なので、意思決定者は、何かを決めるに際して、
他人の説得のみならず、正しい選択をしたと自分を納得させるためにも有力な
理由を探そうとする。つまり私たちの中の優秀な弁護士は「自分自身をも説得
しようとする」のだ。道徳的な思考は科学者のような真理の探究より、政治家
の票集めにはるかに近いと言える。たとえば、人は論争になると、ほとんど
考えを変えようとしなくなる。心は論争相手から遠ざかろうとし、挑戦を
むきになって論駁しとうとするのだ。とは言え、心は絶対的な独裁者でもない。
もし相手に愛情や敬意を抱いていれば、心はその相手に歩み寄るし、理性は
相手の主張に真理を見いだそうと務めるだろう。・・ ≫
▼ ここで、弁護士とは「思考」というが、判事、科学者、弁護士との
 裁判のやり取りが「思考」だろう。それと、傍聴席の視線の想定も重要。
日本では、�の人を極端に嫌う。尻尾を出していても、�の人を好む。
一神教なら、規範が明示されているが、訳の分からない世間教徒の日本人は、
あいまいな�になるしかない。で、殆どは? 人生の最終晩年に我にかえる。
人生の節目に常習的嘘が暴発し、「まさか、あの人が!」と、正体を現す。
・・・・・・
4802,年金破綻報道の罠 ー�
2014年05月08日(木)
  <世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> 
              ー細野真紘(2014年の論点100)
  * 年金は安心!を、まとめると
 年金は、あくまでも老後生活の補助金。あまり知られてないが、現役世代が
圧倒的に多かった数十年間で、積立金が120兆円もあり、それを取り崩せばよい。 
現在の年金の支払いは、現役世代の年金収入以外にも、税金からも支払われる。
巷で言われている、1970年の20〜65歳年齢対65歳年齢が8・5人対1で、2050年に
1・2人対1としても、今まで計画的に積み立てられてきた年金基金と、税金を
加えればよいことになる。楽観的だが、一理はある。正社員の比率が減る中で、
厚生年金に加入できる人が減っていることが大問題。今後、高度成長も望めず、
国家の体力が弱っていく中で、楽観視は出来ない。しかし、この年金制度が
無かったとしたら、10年、20年先の若者は、大変。最悪の想定で、両親2人と、
その両親の親4人、合計6人の面倒を見るケースも、ありえる。多くの紆余屈折
を経て、それなりのカタチになっていくが、悲観だけをしても何も得ることは
出来ない。ここで取り上げてきた基本的知識を、国民は、あまり知られていない
ようで、より丁寧な教えが必要のようだ。40年以上の厚生年金を夫婦してかけて
きて、手取り25万では、何か釈然としないが、それでも大きは生活の柱である。
逆に、夫婦二人で、国民年金だけの収入で手取り11〜2万では、生活保護にも
満たない。 核家族化の中で、子供からの援助も当にできず、ハイパーインフレ
にでもなれば、アメリカの貧困層のように救済センターに食事のための行列も
現実になりかねない。私も、半年前までは、倒産など、思いもよらなかった。
家内も、私の実家も、堅実な家柄だったので、厚生年金や、万一の備えをして
いたので、何とか生活の質を落とさないでいるが、一つ間違えれば、大変の事態
になるところ。生きていく上で、お金は健康とともに大切である。それから
自由になるには、長年の時間をかけての準備と、蓄積が必要。老いれば尚の事、
たかが年金、されど年金。たかがお金、されどお金。それ以前の知識も・・
 で、120兆の年金基金も、日本国債とアメリカ国債に化けているとしたら、
どうなる? 国家あってこその個人である。
・・・・・・
4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −5
2013年05月08日(水)
 * ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道    
      ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
   ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー
≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が
 一定速度で進むという前提に基づいている。 時間を秒、分、時間、日、月、
年、10年、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。
客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。
しかし、主観時間は、そのように捉えるべきものでない。主観的時間を考えるに、
「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。
客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持ってたら、
それは今でなく、過去と未来になってしまう。今とは、それが千分の一秒前と、
千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思い
がちだが、数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは
時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。「クオリアとして知情意を
感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持って
いると考えるべきだ。ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ
主観的今。両者の定義は異なる・・ 私たちの心は、「今」しか考えられない。
過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。
私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。過去を思い出せるが、
エピソード記憶に残っていることを思い出しているに過ぎない。過去はクオリア
ではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。
人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。
今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、あなたにとってのすべての
時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、
もはや主観的な「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは
死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は主観的には生まれて
いなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は
過去にさかのぼるほど圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全に
つぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。
物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか
死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・ つまり自分が死んだ後の無限の
時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。そんなのは無いのである。≫
▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。
 過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。「自分が死んだ
後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去
も未来も、ゼロに潰れる。「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は
奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば可能な
限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを
考えること。所詮、未来も、過去もない。それで良いのだと。亡くなった両親を
考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。
クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、
この「今」を生きるべきである。主観的時間が幻想としてもである。今しか
活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。
・・・・・・
4061, 我事に於て後悔せず
2012年05月08日(火)
 * 我事に於て後悔せず。  宮本武蔵「五輪書』より   
         ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。
一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。 後悔するのは腐った?
のような人物がするもの。 ー以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。
≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。 小林秀雄は「わが事に
於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、「その日その日が自己
批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。
別な道が吃度あるのだ、自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。後悔などといふ
お目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は
語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。自分の過去の
行動についてあとから、あれは間違っていた、などとそのたびに後悔するよう
では、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことは
できぬ、というのだ。 小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いた
かったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる。
◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロ
だと、どうして思うのか。』スタンダール「パルムの僧院」これぞ言葉の中の
言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくは
ほかに知らない。武蔵の箴言はいささか道学者くさいが、ここには自己であること
の純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたる言葉。
◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。
 公爵夫人の性格には二つの特徴があった。彼女は一度欲したことは
 あくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。
◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。
 しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。あとで冷静に
 返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己に
 たいする忠誠とはかくのごときものであるかと若い日に讃嘆させられて以来、
 これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、
 ぼくを導いてきた小説の主人公ではないか、とバカにしてはいけない。 ≫ 
▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人
 と思いがちだが、実は無私の人である。彼は無私に徹しなければ物事は成就
しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。そこで自分を
押し殺し、己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。  
後悔は、実践の中では後々、害になることもである。


5531,閑話小題 〜たかがプライド、されどプライド

2016年05月07日(土)

   * たかがプライド、されどプライド
 誰も心の奥底にプライドを持っている。それも中途半端な誇り。
それは中途半端に傷ついた経験しかないため。しかし何度も傷つき、立上がる
中で、中途半端な誇りの底が抜けて、虚無に通じていく中で、本物の誇りに
鍛えられる。若い時の誇りは、まだ柔でしかない。
 〜まず、「プライドとは何か?」を格言から考えてみる。
 ―――
☆ 「プライド」と「お金」だけは、何があっても守り抜くのよ
                ー朱子(ベニス)『君が主で執事が俺で』
☆ プライドだとか恥ずかしいとか、そんなつまらないことにこだわらないで、
 仕事も恋愛も、自分からどんどん扉を叩くの。そうすれば、もっともっと
 新しい扉が、開いてくるわよ  ー加賀まりこ
☆ 親はなぜ学校に行け、というかと言うと、行かないと子供の将来に
 かかわると思うから。しかしそういう親には、子供は学校でいじめられて
 死ぬほどつらい気持ちを正直に言えない。子供には、かわいそうなくらい
 プライドがあるから、土壇場になるまで言わない。子供が恥ずかしさを
 忍んで訴えたときは、ほんとうに追い詰められたときです。
 場合によっては、休学、転校してもいいんですよ  ー里中満智
☆ 女の想像をこえて、男はプライドに命をかけるものなの。
 むしろプライドに命をかけられない男は、男じゃないわ 
                   ービアンキ『REBORN!(リボーン)』
☆ 些細なことであっても、オーバーに感動してあげましょう。たった、
 それだけのことでも、相手のプライドや自尊心にかかわる一番の欲求を
 満たすことになるのです       ージョセフ・マーフィー
☆ 自信のない人ほど中途半端なプライドにしがみついて、謝ることができない。
 ここで謝ったら、自分の人格が全部否定されると思込んでいるのですー中谷彰宏
☆ 仕事へのプライドほど貴重な財産はない ーメアリー・パーカー・フォレット
☆ 僕は人の質を決定するのは、その人が自分にプライドを持っているかどうか
 だと考えている。他人に見せるプライドではない。自分自身への誇りである
                    ー連城三紀彦
☆ プライドを捨てるプライドを持て   ー作者不明(格言)
☆ 人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ
 事があります、と言い切れる自覚ではないか    ー太宰治
☆ 女の喜びは、男のプライドを傷つけることである ーバーナード・ショー
☆ 物事は万事「必死に打ち込んだ」経験が必要なんだよ。
 それが人間の誇りを支えてくれるんだ      ーいしぜきひでゆき
☆ 失敗は誇り。それだけリスクを冒したということだから 
                       ーベンジャミン・ローゼン
☆ 人生は決して後戻りできません。進めるのは前だけです。
 人生は一方通行なのですよ         ーアガサ・クリスティ
――
▼ 5年前の会社整理で深く実感したことは、リスクを冒さない人ほど、他者の
 失敗に辛辣になる。特に組織人ほど、それが強い。思いの外、平気だったのは
その大きさに比例した必死な打ち込みをしてきた実感があるため。 だから、
目先の心が折れても?魂までは折れなかったようだ。プラモデルと同じ。
創りあげ、軌道に乗せただけで、元がとれた実感がある。批判者のそれは、
その経験がないから、上っ面の批判になる。成るほど、「失敗は誇り」である。
挫折を重るほど、芯のプライドが強くなるのは、リスクへの恐怖を乗越えたため。
 ところで、軟弱なプライドも、最後の砦の中の拠りどころで必要ではないか!
  で、偶然だが、以下につづく。 成るほど・・
――――
5166,閑話小題 〜心は科学者か弁護士か 〜①
2015年05月07日(木)
   * 心は科学者か弁護士か
 心理学者いわく、《 真理にたどり着く方法は二つある。科学者の方法と、
弁護士の方法だ。科学者は証拠を集め、規則性を探し観察結果を説明できる理論
をつくって、それを検証する。弁護士は、ほかの人たちに納得させたい結論から
スタートし、それを裏づける証拠を探すとともに、それに反する証拠を斥けよう
とする。人間の心は、科学者と弁護士の両方で協力するようにつくられている。
つまり、客観的真理を意識的に探し求める存在であるとともに、信じたい事柄を
無意識に熱を込めて主張する存在でもある。これらの二つの方法論が競い合う
ことで、わたしたちの世界観は形づくられている。》
▼ 科学者が帰納法、弁護士が演繹法、と解りやすい事例で説明したもの。
これから引出されるキーワードが、判事。正・反・合の合である。居酒屋など
での誹謗中傷は、ヤリ玉の対象を酒の肴に、内なる科学者、弁護士、判事が、
掛けあいで肴に談義すること。心の中では、自分を正当化する弁護士が有利だが、
誹謗中傷では、判事が絶対優位に立つ。他愛のないものだが、それが、その連中
のレベルの内容で、そこの子狐の役回りが仕入れたネタに尾ひれはひれをつける。
それらをヘドロという。その意味では、城下町はドブ沼そのもので、そのガスは、
強力な破壊力を持つ。だから、近寄らないで、ここまできた。実は、そのガスで、
自分自身が殺されていることさえ分からないため、断絶の時代の中で、烏合の衆
として生きるしかない。その老いた醜悪が増長し、周囲を悩ます材料になる。
 そういう人たちの初老性鬱病(良い人仮面病)ほど哀れなことはない。何せ、
一生をかけて偽善の仮面を被り生きてきたのだから! 露悪でいくか、偽善か?
・・・・・・
4801,閑話小題 ー朝日新聞デジタル
2014年05月07日(水)
  * 朝日新聞デジタル版
 以前から、迷っていた朝日新聞のデジタルに加入。
現在のキャンペーン中に、申し込めば新聞代プラス500円の追加料金で済む
(平常は、千円)。別にパソコンで見る必要もないと思ったが気になっていた。
最低期間が半年で、月初めなら、その月が無料で7ヶ月間なら、試してみる
価値があると判断した。で、三日経ったが、これが正解。記事の一つを
クリックすると、そこだけがクローズアップする。更にテキスト記事に転換
可能で、スクラップも出来る。間違いなく、新聞紙を手にとって見るより便利。 
これがプラス500円ならお勧め。朝食前後に、一度、全体のページに目を通し、
昼飯か、夕食時に、印象に残ったところを、いま一度、目を通していたが、
スクラップは、ほぼすることはなかったが、これからはする!また、一日単位
でタブレットなどにダウンロード出来るので、ネット環境が無くても、持ち
運び見ることが出来る。 また家庭内の他のパソコンからも、手軽に記事に
目を通すことが可能である。現在の私は、書斎と寝室にいる時間が多いため、
何度も、気楽に、記事に目が通せるところが良い。実感で、読む時間が
今のところ、二倍になっているが、数ヶ月後には3〜4倍にはなるのでは? 
ページ一覧も可能で、一面、社会、政治、経済・マネー、国際、スポーツ、
カルチャー、オピニオン、などから、記事を拾うことが出来る。紙面が、
そのまま、ビジュアル化して見ることも出来る。 その文字の大小も選択
できるところも良い。紙の新聞を見た後に気楽に読むのに最適ということ。
これまで30分読むか読まないかだった、iPadか卓上なら、プラス30分ぐらいは、
読むのでは! 日中、居間と書斎と寝室のTVとパソコンの間を流離う身に
とって、紙聞紙の持ち運びから解放されるのは、大きい。加入を家内に告げると
、まず大きく拒否反応を示したが、これは何時ものコース。一番、これを
読むのは間違いなく、本人になるが、それが分かってない、何時ものコース。
今まで読まなかった、連載小説や、読者の声の、コーナーを早速、読み始めて
いる。新聞社も、紙面+デジタル版のカタチで生き延びようとするのでは。
月刊誌も、店売りの他に、宅配にして、デジタル版を100円+すればよい。
それなら「新潮45」か、「文藝春秋」を購入するだろう。 それにしても
デジタル版は良い! 他に、雑誌の幾つかが読み放題の「ビューン」に
入っているが、これも良い!
・・・・・・
4434, サードマン現象とは
2013年05月07日(火)
 母親が晩年になってから、たびたび「私には守護霊がいる。それは子供の頃
に亡くなった父親。何時も私を見守ってくれ、いざ何かあると、私を良い方向
に導いてくれる」といっていたが、気持ちの問題だろうと聞き流していた。
また先日亡くなった将棋の米長邦雄が講演で、「何時も父親の位牌を布団に
持ち込み、父に話かけていた」というのを聞いたことがある。 
 先日のNHK教育(PM7:00〜7:40地球ドラマチック)で、サードマン現象を
再放映していた 。これはジョン・ガイガー著「奇跡の生還へ導く人ー極限状況
のサードマン現象)をインタビューなどで編集したもの。で、その概要とは・・
◎ 9・11の世界同時多発テロで、ニューヨークのワールドトレードセンター
ビルに旅客機が二機衝突した事故で、最後に脱出した1人は、煙が立ちこめ
瓦礫に阻まれた階段を下りられず、もうダメだと諦めかけた時、どこからとも
なく聞こえた声に従い、突き進んで命を救われたとか。
◎ 多くの登山者を飲み込んできたヒマラヤのナンガパルバットに初めて
 登頂したヘルマン・ブールを危機の中、励ました声。
◎ アメリカ大陸からヨーロッパ大陸へ、人類初めての単独飛行をした
 リンドバーグを支えた声。
◎ アメリカの宇宙士が極度の緊張の合間の休みに神のような何かの存在
 を感じたとか。生命の危険にさらされた苛烈な環境の時、自分を奮い立たせる
 声を聞く能力が備わっているというのが「サードマン現象」といわれ、その
「第三の人物」は、その極限状況を克服するために精神的な助けをしてくれる。 
 この現象は、かつて神や守護天使とか守護霊として受け止められることも
 多かったが、現在、それを人間の生理的・心理的機構が生み出した幻だとも
 いわれる。過酷な極限状態において発動する右脳の原始的?スイッチの感じ。
 知らない誰かや父親、自分自身、守護天使、などがそこに存在する感覚という。
 脳は危機的な状態や生命の危機が起きたり、体験すると「潜在的脳力」が働く。
 私たち人類の先祖は過酷な自然の中で、獲物を狩ったり果実を採取してきた。
 20万年前の人類の先祖は「サバイバル」の極限の中で、恒に「サードマン現象」
 が起きていて、これらの遺伝子が先祖代々受け繋がられ、現代人にも存在して
 いると、考えられる。以前は450年前の先祖の堀井宗親という仮身を、現在は
「地球の中心点」を擬人化した「球芯様」と、両親の霊を話し相手にしている。
 それは自分の魂の仮身である。 この「球芯様」、最近は、ヨガの最中とか、
 夜半のベッドで囁きかけてくる。それが、思いもよらない問いかけをするから、
 面白い。 また、幾つかの創業の時など、極限の状態に自分を置くと、何故か
 異常な力が湧き出てくる。火事場の馬鹿力というか、底知れない力が自分の
 中心から立ち現れくる。原始的、動物的知恵と力で身体も心も浮いたように
 勝手に動き出す。誰にも経験があるはずだ。 以前、家内が世田谷と同じ面積
 のある、ポンペイの遺跡で、迷子になってしまった。それも日が暮れる直前。
 警察は来るは、遺跡のスタッフが総出で捜索に当たるは、現地ガイドと添乗員
 は、青くなって駈けずりまわった中、色々あって本人は一時間先にあるホテル
 に何とか帰りついていた。何かの折に書くが、いざとなると、異常な力が
 湧き出るということ。 サードマンを創って話相手も面白い、是非お勧め!
・・・・・・・
4060, 要は、受け止め方である!
2012年05月07日(月)
 人生、色いろ経験を積み重ねた後に過去を俯瞰すると、その行蔵はどうにでも
解釈できる。 ついてなかった人生としても、視点を変えれば、ついていた人生と
脚色出来る。受止め方次第で過去も現在も、そして未来も変わってくる。 
 中村天風は「全ての受け止め方を『積極一貫』にし、肯定的であれ!」と説く。 
人生は問題の山、その中心点が何か考えつくし無心に立ち向かうしかない。 
これからは、自分の人生を、どのように受け止めるかが人生の問題になってくる。
受け止め方を変えることは、行蔵の中の要素を仕分け直すことになる。それで、
これからの人生の方向を変えることになる。そのために記憶さえ変えるのが
人間の業。 それは行蔵の要素をどのように解釈するかになる。そこでも知識の
絶対量が必要になる。分別ない人間の身勝手な解釈では、ますます歪になろう
というもの。「運」があるか、ないかは、「運は自ら運ぶこと」と解釈すれば、
運そのものが意志の問題になる。運がない人は意志が弱いと解釈出来るというもの。 
「人生に起こったことは無駄のものなし」と、信じていれば、最悪のことも結果
としてプラス材料になる。 そうこう考えると無知は、それだけで罪の原因になる。 
知らなかっただけで、どれほど多くの失敗を重ねてきたことか。人類も私もである。
初めから自分のミッションを明文化しておけば、それが信念になり、途中経過の
失敗も成功も、受け止め方がハッキリしているので、ブレが小さく済む。 
おい方一つで、荷物も軽くなると、同じ。これからの日本は坂を転げ落ちる
ように衰退する。そこで何が必要か? 教育制度の再構築と、憲法改正。無理?
 ・・・・・・・
3694, 自己を見つめる −16
2011年05月07日(土)
  * 幸福について (不幸について) ー3  
            「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)  
【 加えて、そうした無事安全な生活の場の確保に立脚して、更に誰もが、
この世に生まれた以上、自分の生きがいがある。・・略 しかし、そのために、
人は、その自己拡充を念頭において、たえず日夜、精励しなければならないで
あろう。というのも生き甲斐の達成は、いろいろな面で課題や試練や困難や
障碍に出会って、これを克服する努力の連続に置き換えられてゆくから。 
格闘することなしに、人生の実りは結ばないというのが、この世の鉄則である。 
実際、存分に生き抜いたという生き甲斐にみちた幸福感は、それなりの自己
集中や犠牲や断念や労苦の代償のもとでのみ、初めて獲得されるのである。 
けれども、いかに精進したとしても、非力で有限な人間には、完全な意味での
幸福感はけっして与えられえないであろう。考えてみれば、生きているという
ことは、まだなすべきことを残しているということと同義である。
なすべきことがなくなった人生は、死と同義である。生きるということは、
欠如の意識にもとづき、それを充足させるという運動と情熱において成立する。 
その情熱は、充実に向けられている点では、たしかに、憧れにみち、その実現
状態を夢見ていて、幸福感に浸っているであろう。けれども、その意識が、
目下は自分にその充実がいまだ与えられておらず、また、あらゆる意味での
完全な充実が人間には不可能であるという自覚に伴なわれたとき、それは、
そのまま、不幸な意識に転じるであろう。したがって、人間には、生きている
かぎり、終息した絶対的安寧としての幸福感は、与えられず、叶えられず、
許されず、その意味で、人間は、終生、不幸であろう。・・・ 】
▼ 不幸論という本もあるほど、人間の本質は不幸である。最後は死ぬことを、
 二人称の死の経験をして、洗脳されているためである。その人によって大かれ
少なかれ、不平不満、神経質、我執、理屈を言い張る部分を持っている。
それが膨張すると、周辺に諍いをぶつけていくことになる。それが不幸の大きな
要因になる。 そうこう考えると、不幸は体質もある。それは血筋、家系にも
関係してくる。どっちみち、一生の間には谷あり、嵐が襲ってくる。 
それを乗り越えるのが、人生。そのプロセスこそ人生である。そう割り切って
しまわないと、冷静に立ち向かうことができなり、破滅が待っている。  
 ・・・・・・・
3329, 草食系で何が悪い!
2010年05月07日(金)
 昨夜のNHKのゴールデンタイムに「草食系で何が悪い」というテーマで
激論を交わしていた。現代の若者と、社会の一線にたっている人たちの議論。 
見ていて食い違いがあまりに大きい。我が家も含めて、何処の家庭の親子の
食い違いも、こんなものだろう。 現実世界の将来を見出せない若者、現代の
若者にはネットという別世界があり、自己実現がネットの中に存在している
のである。なぜ現実世界の中の価値観に縛られなければならないのか? 
そこでは、明るい未来が抱けない、という彼らの立場もある。とはいえ、
彼らの相手は外国の同じ世代である。 それが現実世界の中で闘っている
人たちには見えている。 アメリカの間接占領による「日本の植民地化政策
による無能化の完成が、彼らの姿」である。 その自覚があるのかないのか。 
アメリカの補佐が実は日教組であり、更にいえば自民党であり、官僚。 
偏差値による選別教育の結果である。 
 ーまずは、NHKのHPから、この番組の紹介をコピーしてみるー
 * 日本の、これから「草食系で何が悪い 若者と語るニッポンの未来」
ー内容ー 車やブランド品、酒、海外旅行離れが進み、大人しくなった、
  内向きになったと言われる最近の若者たち。
  彼らの本音は? 日本の進むべき未来について語り合う市民討論番組。
ー詳細ー かつての若者のあこがれ、車・ブランド品・海外旅行に、興味を
  示さない20代の若者たち。「おとなしくなった」「内向き」
  「草食化した」などといわれ、欲がないように見えることから「悟り世代」
  といわれる。一方でブランドものに頼らない、環境や社会問題に関心が
  深い、地元に愛着を持って昔からの友人と長くつきあうなど、日本が
 「成熟」した証という見方もある。若者たちの本音は? 
  日本の未来について語り合う討論番組。
  ――
 長年かかって完成した現代の草食系若者、そう簡単に動物系には変えることは
不可能である。韓国、中国、ベトナム、インドなどの若者の目の輝きと、日本の
若者の目の輝きの差は、あまりに大きい。彼らは、日本が一番豊かな絶頂期に
生まれたが、大人に育つ過程が失われた20年といわれる時代背景の中で、
希望を持てと言われても、無理なのは分かる。 この数日、大前研一著の 
<「知の衰退」からいかに脱出するか?>の読書日記を書いているが、まさに、
大前研一と若者、の図式が、この番組に出ていた。10年、20年後の日本は暗い!


5530,若者よ、外に出よ! ー⑩ 日本には限界がある

2016年05月06日(金)

               『人生の教科書』なかにし礼著
  * 日本だけでは限界がある
 40歳前半までは、自宅に中・高の二人の息子がいた。そこで、行くところ
といえば国内の自動車旅行が中心だった。その二人が学園生活のため、上京
していったのを機会に、海外ツアー切替わっていた。その非日常の面白さに
惹かれたのが家内もである。一人では躊躇する秘境・異郷でも、家内と一緒だと
何とか行ける。また、非日常の中に家庭の日常を持ち込むのも慣れてしまえば
悪くはない。 夫婦してのホテルのレストランの朝食が何とも豊かな気持ちになる。
 学生時代の昭和42年に、大学の「海外旅行研究会」というクラブが企画した
『世界・30日の旅』の存在を知り、行ってはや、49年になる。当時の海外旅行者
は20万人。信じられない数だが、これがツアー観光の愛好者になる切欠となる。
何もかもが新鮮で、ただただ面白い経験だった。人生観が一変した経験である。
 なかにし礼の、以下の内容には大いに賛同するが、自分では書けない。
書けば上から目線が、露出する。 しかし、事実は事実である。
≪ 旅に出るならば1日でも早いほうがいい。自分の感受性が全部そこで
 晒されて、カメラにたとえるならいろんな映像を受け止めていることになる。
そのインプットは大きいものだ。そのインプットは日本にいてもできない類
のものなのだ。これは賭けてもいい。日本という国には限界がある。
刺激の限界だ。食べものだけ見ても、なんの刺激もない。それが日本の料理
だといえば、それは確かにそうだ。だが世の中の料理はそれだけではない。
「肉じゃがを作れる女性がいい」、とか言う男がいる。こういう人も旅行を
していない男と思う。世界の味を知らないからこうした面白くない発言になる。
 北アイルランドのジャイアンツ・コーズウェイにも肉じゃがはある。
それはスープという形で出てくる。肉じゃがの原型はビーフシチューだが、
これはさらにその原型だと言える。牛肉と芋が入ったこの肉じゃがの原型を、
現地の黒いビールを飲みながら食べる。これがうまい。明らかに元祖の味。
日本の肉じゃがよりも断然おいしい。だから日本は食事にしても、もっと研究
しなければいけないと思う。日本の文化は確かに素晴らしいものがあるが、
そこに踏みとどまって進化をストップしていい理由にはならない。・・(略) 
日本人のいいところはいっぱいある。創意工夫とか、細かいことに関する
こだわりとか・・ しかし、一方では何かにつけて「疑いを持つ」ことが
非常に罪悪視される環境になっている。それで画一的な価値観を植付け
られて、「肉じゃがを作れる女性がいい」などという頭になってしまう。
これではもったいない。
 だから若者よ、疑いを持つために旅をしなさい。
 そしていろんなものを自分にインプットする。
 インプットしたらさらに視野を広げて守備範囲を広げる。
 そうしないとインプットする内容も尽きてしまう。
だから何度も言うように、限りない欲望と探究心、好奇心を持ち続けないと
いけない。それは、夢という非日常の世界を見続けるためである。
寝たときにだけ夢を見るのでは寂しい。目醒めて、そこで夢を見るべきだ。≫
▼ 何度か書いたが、成田へのスカイライナーに乗って暫くすると、
「あ〜帰ってきた!」という妙な感覚になる。そこから非日常の刺激の強い
時空になるため、その蓄積が、磁石となって、旅を誘い、その非日常の世界が、
真なる時空、真実の自己であるような錯覚をもたらす。だから、別腹の
世界を自分の中に持っていて、暇な時間にトリップすることが出来る。
この現実世界に、世間の常識に対し、疑問を持ち続けることが出来る。
<目醒めて、夢をみることができる> 

・・・・・・
5165,閑話小題 〜一昨日で、まる14年になる
2015年05月06日(水)
  * 一昨日で、まる14年になる
 この随想日記を書きはじめて満14年目になる。その頃、通勤途中の長岡駅裏
近くにパソコン教室がオープン、渡りに舟で通うことにした。予め、「私の希望
は個人のHPを開設し、続けることと、ネットサーフィンを楽しみたいこと」
と、ハッキリしていた。丁度、ブログなるものが普及を始めた頃でもあった。
満14年となると、2001年5月で、9・11テロの4ヶ月前である。この頃から、
ブログが普及を始め、携帯電話の高度化も含めて世界が一変を始めた。
毎日毎日、傍からすれば、どうでもよいことを、飽きもせず、書き続けた
ものだが、あれだけ文章化が苦手だったのが、日を追うごとに面白くなって
いった。人間は、誰もが自分の話を聞いてほしいもの。書き始めると、周辺の
人が、毎日のように見てくれるようになった。そのため、力が抜けなくなる、
それが最大の効果と気づいた。それならと、読書日記などを中心としたHPと、
何気ない思いを書連ねるブログに、分けることにした。書き続けていると、
その積み重ねの効果が実感できるのが良い。それと習慣の力を実感する。
月に1〜2度、この数日もそうだが、書くテーマが思い浮かばなくなる。
しかし、習慣の力で、14年も続けていると、その乗り越えかたが、身に
ついていて、馬鹿力が湧き出てきて、普段より面白い文章が書ける。
次の目標は、あと6年の、まる20年間になるが、生きているかどうか?
とすると、まず来年のゴールデンウィークが目標になる。
 毎年、この時期には同じような文章を書いてあるのだろうが!
・・・・・・
4800,年金破綻報道の罠 ー②
2014年05月06日(火)
        <世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論>
                 ー細野真紘 (2014年の論点100)
  * 基礎年金と、厚生年金と、老後の預金
 あくまで年金は老後生活の資金補助の位置づけ、とは知らなかった。
まず、老後の預金に、基礎(国民)年金が加わり、最後に厚生年金が加わる。
これを40年にわたって、かけてきたかどうかで、既に老後格差が、ついて
しまっている。父親の代から、連れ合いに別立てで給与を与え、健康保険と
厚生年金をかけるのが当然のようにいっていた。それは私の知識・知恵ではない。
 ー以下の部分は、年金を分かりやすく要約してあるー
《 ◎ まず国の年金は、大きく2種類があるのです。 1つ目が「自営業者」の
 「国民年金」です。中小業者は定年がないため、60歳以降も収入を得ることが
 できます。そのため、年金をもらうための保険料は(会社員などと比べると)
 安くなっていて、給料を預貯金に回せる割合が多くなっています。その老後
 にもらえる「国民年金」は満額で月6万6千円程度。つまり「自営業者」の
 ための「国民年金」は、「弁当」でいうと保険料を安くして、老後は最低限の
 「お米」だけもらえる位置づけで、「おかず」については60歳以降に働いた
 お金で買ったり、それまでの貯蓄で買ったりできる。
◎ その一方、「会社員」の場合は定年退職のため、定年以降は、収入を得る
 ことが難しくなってしまいます。そのため、会社員の場合は、現役時に(自営
 業者よりは多めに保険料を払うことで、国から「厚生年金」を死亡するまで
 受けとれることになっているわけです。これは「弁当」でいうと、会社員は
 定年があるので、現役時に(自営業者より)多めに保険料を払い、引退後に
 死亡するまで、国から「おかず付の弁当」をもらえるようにするものなのです。
 その「厚生年金」は月16万円程度となっています。合計で22〜3万になる。
 ちなみに、公務員の場合も会社員と同じ定年制になっているため、「共済年金」
 は「厚生年金」と同様に「おかず付の弁当」となっています(厚生年金と共済
 年金は分ける必要性が乏しいため、一元化する方向に向かっています)。
◎ 今では日本は「世界一の高齢化率」で、世界で最も65歳以上の割合が多い国
 となっています。そして、国の年金制度は仕送り方式なので、「将来は年金が
 もらえなくなる」という声がよく聞かれます。そこで、「現在の少子高齢化で、
 年金は破綻する」という論を考えてみましょう。まず、日本も含めて世界の
 先進国では、基本的に国の年金は、個人が自分のため蓄える「積立方式」
 ではなく、現役世代が高齢世代を支える「仕送り方式」です。そのため、
 テレビなどでは図表を使い、もっともらしく"年金破綻論"が展開されている。
 「今の年金制度は仕送り方式で、2010年現在では現役世代2・6人で高齢者1人を
 支えている騎馬戦型が、高齢化のピークの40年後には現役世代1・2人で
 高齢者1人を支える肩車型になる。こんな仕組は破綻する!」 これは一見、
 もっともらしく思えますが、実は単純な「ひっかけ問題」にひっかかってしまう。
 まず、国の年金制度は「仕送り方武」ではあるのですが、この「仕送り方式」
 にも「ひっかけ問題」が潜んでいて、多くの人は「これまでの保険料が、
 すべて高齢者の年金に支払われている」と錯覚している。ただ、現実に、
 そんなことになってなく、かっての現役世代が多かった時の保険料については、
 きちんと今後の年金の支払いに備えて国が「年金積立金」として保有してある
 わけです。そして、なぜ日本ではこのように極端な人ロ構成になっているのか、
 というと、「団塊の世代」の存在などの特殊要因があるためで、そのため
 「年金積立金」も世界一の水準にまでなっているのです。さらに年金の財源は、
 保険料だけではなく、あくまで「国の保険の仕組み」なので、財源として
 「税金」も入っているのです。 》
▼ ネットで積立残高を調べてみると120兆円あったが、問題は多くが日本国債に
 ばけていること。また、年金支払に税金も含まれていることは全く知らなかった。
だから、さほど心配する必要がない? 私の場合、家内も厚生年金に40年近く
入れていたので、合計で税込で350万(税抜きで300万余り)。持出しが
家内の預金から年間で??万になるが、地方もあって生活には不自由はない。
欲しいものや、旅行も、外食も、現役時代に十分、楽しんだため、TV番組で
追体験をしながら見ていれば充分。 中小企業者や個人営業の場合は、別立て
預金は当然のことで、敢えて言うことでもはない!でも、周辺で、してない人が
多い? また、保険屋と証券屋に騙されていたことすら気付いていない? 
他人事ではないが。今さら年金の話題に熱中するようじゃ、B層もいいところ? 
まあ、面白いが!
・・・・・・
4433, 閑話小題ー次のグーグルの新製品が面白い
2013年05月06日(月)
   * 次のグーグルの新製品が面白い
 ニュースでグーグルの次世代端末「グーグルグラス」を紹介していたのを
Youtubeでみたが、これは面白い。メガネのフレームの上部だけの柄に
超小型カメラがつけ、視線が、そのままネットの生中継で世界に配信される。
見知らずの人の視線が、そのままリアルで見れる面白さは格別。これは視覚の
ツイッター。「カメラ、ビデオ」と発音すると、その機能が立ち上がり自動撮影
するという。これをグーグル・アースに繋げると、アフリカや南米のある地域を
クリックし、見たいシーンを打ち込むと、誰かの目線が現れ出てくるのだろう。
ジンバブエのバンジージャンプが見たいといえば、飛び降りる画面を生で見る
ことも可能に? 日本橋三越本店の客か、店員の目線のアクセスも可能になるはず。
日本で売り出されるのは来年辺りだろうが、これが当たり前になるとしたら、
まさにSF世界。 いや現在もそうか。他のメーカーも、こういう類の情報端末
が出してくるはず。情報端末の進化は止まることはない! 良いのか悪いのか?
   * 何歳まで生きたいですか?の質問に
 ある調査で、「あなたは何歳まで生きたいですか?」の質問に、60歳未満が
8・5%、70歳未満が15・1%、80歳未満が31・1%、90歳未満が54・1%、100歳
未満が60・9%、百歳以上が僅かに9・3%という。更に150歳以上は6・5%。
私なら、90歳未満と答えるが、酒の飲み過ぎで無理。それにしても意外な結果。
神様がいたとして、「幾つまで生きたいのですか?希望を重視しますから」と
問われたら、やはり90歳と答える。「寝たきりでも良いですか?」と問われれば、
躊躇する。元気が前提、いや絶対条件になる。死ぬまで10年間は、何らかの形の
介護を要するというから、80半ば?これだけ面白い情報が手軽に入手できる時代、
出来るだけ長生きしたいが、「生老病死」の苦痛を考えるとどうだろう? 
不摂生もあり、せいぜい7〜8年か。
・・・・・・
4059, つれづれに ーネット社会の現在
2012年05月06日(日)
  * 飲食店の漫画の棚 ーデジタル本の世界
 喫茶店や中華料理店のランチの楽しみの一つに、本棚の週刊誌か月刊誌を
読むことがある。 最近、店内に入ると、iPhoneかiPadで、その店が
契約したネット上の本棚にアクセスして色いろの雑誌を読むことが出来るという。
店は一月7000円を業者に支払えば店内のネットで雑誌が見放題になるとか。
よく考えるものである。前回、70冊の蔵書をデジタル化にするため業者に
依頼したが、先日、久々に、そのHPを見たところ、デジタル化した本を
月980円で見放題のサービスを始めていた。 漫画が中心とあったので、
契約はしなかったが、これも面白い企画である。現在、私が契約しているのは、
朝日新聞のデジタル版と、朝日、毎日の週刊誌など数十冊が読めるビューン。
朝日のデジタル版は月1000円の加算。ビューンは月480円。 もちろん
有料でアクセス出来るブログがあるが、写真集のデジタル本に有料でアクセス
出来るのがある。幾つか買ってあるが、次々に更新されているのが良い。
  * スマートフォンと、タブレット
 現在、スマートフォンが爆発的に売れているという。iPhoneが初めて
売り出された時に買ったが、画面が小さすぎて、インプットに戸惑って使いこなす
ことが出来なかった。そこで学んだことは、二代目以降の機種変更になってから
購入すること。それもあってiPadは、二代目のiPad2になってから買う
ことにした。スマートフォンが爆発的普及は、携帯電話が世の中を変えたように、
世の中を更に大きく変えるだろう。 それはゲームや、ブログ、ツイッターなど
書き込みや閲覧の端末にも使える。小ささが逆に便利な場面で有効になる。
電車や、車の移動とか、昼休みに何処にでも持ち歩けるからだ。何ども書いて
いるが、現在、普通の携帯電話とiPadを使い分けている。PCは居間の
TVの前と、仏間の書斎コーナーにiMac一台ずつ、とiPad、合計三台
を使っているが、その使い分けのバランスは非常によい。これに読書とTVと、
ペットのインコとくれば、お宅そのもの。図書館と、スポーツジムと、早朝の
ポタリングと、週二日の近くの店のランチで息抜きをしているのが日課。 
これまでのスリルとサスペンスのストレスが少ないのが、逆にストレスである。 
 ・・・・・・・
3693, 自己を見つめる −15
2011年05月06日(金)
  * 幸福について (不幸について) ー2  
                「 自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
【 不幸は、その出来事の客観的説明の当否のいかんを越え、また、その人の
 主観的資質の鋭敏さの度合いのいかんを越えて、その人に、いやおうなく襲い
かかる絶対的事実である。 不幸は、その人の時間的歴史的な人生遍歴の過程の
なかに突如、痛苦を与える刑罰として立ち現れる、不可抗的な不倶戴天の敵。
不幸とは、その人を根底から震憾させる苦悩の化身である。そうした不幸は、
この世の中のいたるところで、不運、事故、災難、災害、病気、心痛、貧困、
労苦、不遇、虐待、軋礫、失敗、挫折、対立、不和、紛争、戦争などの種々
様々な姿において、たえず出現の隙を窺っている悪夢である。したがって、
不幸は、ものの見方を変えることによって、消去したり、転換したりすることの
できるような、たんに主観的な事柄では断じてない。それは、深刻な苦難として、
この世の中に、乗り越えがたい障壁の姿で、厳然と存在する。それゆえに、
こうした不幸においては、何よりも、その出来事が、その人にとって、この上
なく不当で、許し難いものとして感受されるという点が大切である。
なぜ、自分は、このように、辛く、苦しい、耐えがたい悲惨や屈辱や困難を
課せられねばならないのか、どうして、自分は、このように、見捨てられ、
罵倒され、除け者にされ、迫害される憂めに会ねばならないのか、と、いくら
自問しても、その理由が分からず、ただひたすら、苦悶し、絶望するところに、
不幸と苦悩の本質があるのである。そのことは、旧約聖書のヨブ記のなかに
典型的に示されているとおりである。善人のヨブは、あるとき、理由もなく、
身の毛もよだつような苦難と不幸のすべてに襲われ、ついに、ヨブは、神を呪う
ほどの絶望と絶叫のなかに陥ってしまう。こうしたヨブの心境こそは、この世の
不幸と苦難に逢着したすべての人間が抱く感懐であり、苦悶であろう。・・・】
▼人の間で生きている人間は、他者と自分とを比較し、色々憶測する傾向を持つ。 
従って、大小種種の、不平不満、卑下慢心、確執や争いが、あらゆるところに、
絶え間なく起こる。 それは絶えず、出現を窺っている悪夢であるが、一度、
檻から出たら、本人とて抑えることが出来ない猛獣として暴れまわる。それが
他虐になり、次に自虐として、深手を負うことになる。ニーチェが度々引用した
ように「難破しながらも、よく航海したものだ」と授戒することが出来た人なら、
直ぐに次の新たな取り組みをすることができる。 しかし、意志薄弱者は、
ただ恨む対象を探し、そこに執着し前進が出来なくなる。その辺のことが理解
できないのは、それまで生きてきた中で経験を消化してこなかったことに
由来する。不幸は自分で招くこともある。


5529,若者よ、外に出よ! ー⑨ 会話は、プチ礼賛から

2016年05月05日(木)

               『人生の教科書』なかにし礼著
  * 対話ならいいが、どうも会話が苦手で
 リタイア後、、新しい出会いの場が極く稀になった。スポーツジムとか、
数少ない飲み会の場で、話したことがない人との会話が出来ない。
学生時代に、カーネギーの『人を動かす』の <人を動かす三原則>や、
<人に好かれる六原則>などを読み、実践してみたことがあったが、
効果は抜群だった(後でコピー)。年齢とともに、これらを忘れていた。
 その一つが「プチ礼賛」の勧め。これに「ありがとう」の口癖を
加えれば会話導入は効果抜群のはずだが、何時の間にか脱落していた。
 早速、兄弟の49日法要で、久々に会った親戚との会話に「プチ礼賛」を、
応用したところ、会話が捗っていた。要するにリタイア後に、何もかも
メンテをすべきだったのである。 <会話は「プチ礼賛」でうまくいく>を、
ほぼ全文、コピペし、考える。会話は真実より礼賛に重きをおくべし。
対話は真実の交換、掘り下げということ。男は対話、女は会話が似合うが。
≪ 日常会話で必要な会話術とは、自己紹介に始まる。自分のことを、嘘を
 交えてもいいから、面白く話せるかどうか。自己紹介イコール自己表現だし、
相手に自分を理解してもらうのは一番大事なことだと思う。そうすると相手も
自己表現するから、お互いが理解し合える。そしてプチ礼賛をすること。
 パッと会ったときに必ず相手を褒める。これは、日本ではなく、外国の流儀。
外国では当たり前の常識になっている。周りがゴマをすっていると思ったと
しても、そんなことはかまう必要はない。たとえば、服を褒めるとその服を
選んだその人を褒めていることになるわけだから、「素敵ね、これ、いくら?」、
「1900円」、うわ1最高」と褒める。しかし、うわべだけの礼賛だと底が割れて
しまう。真実そう思うように自ら努力することだ。そうすれば顔に嘘は出ない。
なぜかというと、相手を喜ばせなければ話は始まらないから。
中には「服を褒めないで私自身を褒めて」って言う人がいるけど、よっぽど
ヘソ曲がりなんだ、そういう人は。さて、人を褒めるときにほかに何を褒めれば
いいのか。実はなんでも褒められる。背が低ければ低いことを褒めればいいし、
背が高ければ高いことを褒めればいい。出身地を聞いたら、「あそこは大好き
なんですよ」と言えばいい。最初は嘘が混じっていてもいいが、次第にその
気持ちが本当になっていくものだ。だから人に会ったら、なんとなく褒め、
逆に褒められたら褒め返す。これはゴマすりではなくて、会話の糸口なのだ。
会話の小ネタといってもいい。そこから本題に入っていくときに、お互いに
気持ちのいいスタートを切るための潤滑剤だと思えばいい。≫
▼ 褒めるだけでは、ありきたり。そこで、「プチ礼賛」まで、心から褒め
 ないと相手の心は開かない。礼賛すると、みるみる、顔つきが変わっていく。
そうは礼賛されないため、心の奥から褒めると、それが礼賛になっていく。
好かれる前に、まずは人好きにならないと! それにしても、オバちゃんの、
あのフレンドリーは見上げたもの。 まずは褒める、その手際の良さ。
 ――――
  =人に好かれる六原則=
1.誠実な関心を寄せる
2.笑顔を忘れない
3.名前を覚える(名前は、当人にとって、最も快い、
 最も大切な響きを持つ言葉であることを忘れない。)
4.聞き手にまわる
5.関心のありかを見抜く(相手の関心を見抜いて話題にする。)
6.心からほめる(重要感を与える――誠意を込めて。)
 
・・・・・・
5164,パレーシア 〜真実を語ること
2015年05月05日(火)
  * ソクラテスのパレーシア 
            〜『哲学で自分を創る』瀧本往人著より
 危険を冒しながら真実をかたること。これがパレーシアだが、とはいえ、
社会において、その実行となると難しい。このブログを書き続けていると、
己の程度を曝け出し、多くの人を揶揄し傷つけてきた。気遣っていてもである。
想定の対話の相手を、数年先の自分にしているが、後で読み返し、第三者の
目を想うと冷や汗が出ることしばし。しかし、飾っていたら、長続きをしない
ことを自分が一番知っている。 〜以下の箇所は、哲学の本質を述べている。
≪ ソクラテスにとって最も大事なのは、相手をやりこめることではなく、
 自分の魂を磨くことであった。そのために命懸けで対話を行った。
この営みは「パレーシア」(真実を語ること)と呼ばれている。パレーシアとは、
危険を冒しながら真理を語るという実践を意味するギリシア語。ソグラテスが
裁判の際に立ち向かったやり方が、まさしくこのパレーシアである。
 たとえ心の中で真理が発見されたとしても、「私が思う」だけでは、それは
パレーシアとは無縁なのだ。パレーシアを通じた魂の鍛錬こそ、命のあるかぎり
やめてはならず、見返りを求めることなく、純粋な熱意に発した無償の責務で
あり、かつ、個人の内面的な人生訓にとどまるものではなく、結果的には他者や
共同体にとっても有益なものである、と考えられた。それゆえ、政治家になり、
ポリスを統治し他者の魂を気遣いたい者は、まず自分の魂を気遣うべきである、
とソクラテスは強調する。自分を気遣わない者は統治者としては不適格なのである。
ここには、身の魂の鍛錬に専心することが、他者や共同体を気導つことよりも
優先されるいという揺ぎのない確信が表明されている。 ・・(略)
ソクラテスの対話術は、自らの主張を他者に受け入れてもらうための(もしくは
認めさせるための)技術ではなく、相手に「問いかけること」、相手の主張を
「聞くこと」に主眼があった。そもそもこの「無知の知」の重要性は、この
「聞くこと」のための手法という点にあったのである。何かを「知っている」
から語るのではなく、何も知らないか、もしくは何ごともよく分かっていない
からこそ相手から何かを引きだそうとする。パレーシアの原点はここにある。
それゆえパレーシアとは「実直に語ること」ではあっても、単に一方的に
「包み隠さず語る」ということではない。ソクラテスのパレーシアは、政治家の
ように多数者に向かって語るものではなく、密接な一対一の関係が必要である。
またこの対話は、自分が主役としてふるまうのではなく、相手の話を引きだす
ようなやり方で行われる。それゆえ相手はソクラテスに導かれながら自分自身に
ついて語ることになる。 ここで、注意しなければならないことがある。
率直に語ること、もしくは相手の言葉に耳を傾けることは、後にキリスト教文化
ならびに精神分析においては、「告白」という形態をとって展開され、あたかも
地続きのもののように理解されることがある。だが、この両者は異なる。
パレーシアにとつて重要なのは、自分が語ることができる「ロゴス」(つまり
論法と言葉)が、自分の生き方と確固たるつながりがあることなのである。≫
▼ 成るほど、飽きもせず、連日、書き続けているのは、いまここの私が、
 数年先の、いまここの私に向け話している実感があるため。そして、近未来
の自分の感想を想定することで、私自身を見つめることになる。これを公開
するのは、あまりに危険だが。また、公開しないと続かない弱さもある。
・・・・・・
4799,よくもここまで騙したな
2014年05月05日(月)
   「よくもここまで騙したな これが[人殺し医療サギ]の実態だ!
       ーいのちを奪いながら金を奪うワンワールド支配者」
            船瀬 俊介 , ベンジャミン・フルフォード (著)
 以下の内容紹介だけでも、この書の半分は言い尽くしている?
あのベンジャミン。これぐらいでないと、面白くないが、医者の世界では、
今さらのこと? こういう視点も知っておいたほうがよい。ー内容紹介ー  
〜医療を殺人ビジネス化した者たちよ! 化けの皮はすでに剥がれている!
◎ がん患者1000人殺して一人前!
◎ 日本の内科医は1人平均1000人のがん患者を殺している
◎ 命を奪う、カネを奪う!  医者は完璧に白衣の殺人鬼、白衣の詐欺師!
◎ 日本の近代医学はどこをほじくり返しても詐欺とペテンと強盗と殺人だらけ
◎ 欧米医療というのは基本的に軍隊の医療
◎ 足を切断や伝染病の治療には欧米医療はいいが、糖尿病とがんといった
  慢性病のときは絶対に関わらない方がいい
◎ 漢方も鍼灸も食事療法や整体療法も弾圧された
◎ マッサージ、カイロプラクティック、サイコセラピー、
  ホメオパシーも弾圧された
◎ 自然治癒力をサポートして病気を治す伝統的なテクノロジーは
  全部弾圧され、薬物療法だけが生き残った
◎ 伝統療法は、金融マフィアによって保険対象外にされた
◎ 強制的に保険料を取って、自分たちの息のかかった殺戮医療マフィア
  にだけおカネを回すシステム
◎ 医療の問題は上に行くとラムズフェルド、ブッシュ、ロックフェラー
  らに行き当たる
◎ 医者に金も命も投げ出す崖っぷち日本人よ! 今こそ、自分の脳を疑いなさい
◎ 薬漬け、検査漬けの放射線大量照射に生物兵器の毒物注入まで
◎ 抗がん剤は元々は廃棄に困った化学兵器の原料
◎ 失敗する医者ほど儲かる /治す医者は失業  
◎ 医療は世にも不思議な失敗報酬の世界!
◎ 一番高い抗がん剤ペグイントロンは1グラム3億3170万円する
◎ マイクログラムまで薄めて使っても1回当たり何十万円、
  利益率は何万%にもなる
◎ 白血病はがんではない。 団十郎を殺した!?マイロターグという
  白血病の治療薬は、1グラム4800万円
◎ マイロターグは投与した患者の90・5%が死ぬ!  
◎ 輸血は人命を助けていない、むしろ殺している!?
◎ お年寄りが死ぬとわかるとここぞとばかりに点滴、投薬をやる香典医療
 というのがある。稼ぎどきならぬ殺しどき!
◎ 「現代医学の神は、唯一人しかいない、それは死神である」と
 ベストセラー書籍『医者が患者をだますとき』の著者ロバート・メンデルソン
 はいっている!  だから病院が営業停止中には死人が減る!?
▼ 少し?過激に思えるが、何度か目を通すと決して過激ではなく、こんな
 ものと気づくはず。医者にすれば、見送りの手助けだが、患者からすれば殺人? 
更に言えば、人間ドックや、健康診断が一般的に行われているのは世界で日本だけ。
先日、週刊ポストの広告見出しに、ー「血圧147は健康値」の怪奇ーがあった。
《人間ドック学会が健康診断の基準値を大幅に緩和。他に「総コレストロール
199ー>254」「悪玉コレストロール119ー>178」「中性脂肪149ー>196」など、》 
「これを元に、それまで飲んできた薬は何なんだ?」の疑問が起きて当然。
この変更だけをみても「健康人」を「病人」にして、薬漬けにする利権の闇が
見えてくる。医療行政と製薬会社の利益のため、一般国民が弄ばれている図式が
透けてくる。昔、父親が高血圧で何時も気にしていたが、当時、年齢プラス90が
目安と言う。ところが、5年前に医師から聞かされたのが130。
『これも、いい加減なので』と、言葉を加えていたが・・ で、健康センター
で測ってみると125〜160の間で、平均すると140辺り。父から聞いていた数値から
すると、私は158が目安。140は少し高めだが、これで良しと思っていたが正解。
これからして、医者は偉そうにしているが、詐欺、たかり、殺人集団?
・・・・・・
4432,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −4
2013年05月05日(日)
       ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート3:自分の小ささを客観視する道ー「1億7125分の1と、70億分の1」
今度は、時間――宇宙と生命の歴史1についてである。世界の人口からみれば、
私は70億分に1。宇宙年齢からすると、人の一生は1億7125分の1の存在。そう
考えれば、深刻に自分の生き様など考えることはない。その自分の枠組も
勝手な定義でしかない。自分など何ということはない。 やっと、それが
理解できるのが最期の最期とくる。そのことが分からないから、
「死ぬのが怖い」のである。 ー まずは、その辺りを抜粋してみるー
≪ すざまじく荒れ狂うひずんだ宇宙の中の、オァシスのような地球。
 光速で拡大することこそが普通である宇宙の中で、あたかも静かに見える
特殊で局所的な世界。そこに偶然生まれた人の命。なんとはかなく小さく特殊
な現象であることか。生命の誕生は、今から40億年前といわれている。 
地球誕生から6億年経った頃。霊長類が誕生したのは、6千5百年前。
現生人類であるホモ・サピエンスが出現七たのは25万年前。中国その他で
文明が誕生たのが今から6千年前(から9千年前)。そういわれても、どれも
大きな数字すぎて実感がわかない。そこで試しに、137億年前のビヅグバン
を、1月1日の午前零時、現在を一年後の12月31日の24時にたとえると。
つまり、宇宙の歴史を137億分の1に短縮してみると―― 
・ビッグバンは、1月1日午前零時 ・地球誕生は、8月30日 
・生命の誕生は、9月15日 ・霊長類が誕生したのは12月30日午前
 6時26六分(新年まであと1日と約18時簡) 
・原生人類のホモ.サピエンスが出現したのは12月31日午後11時50分 
・中国などで文明が生じたのが新年まで14秒前 
・人間の命は、80歳まで生きるとして、0・18秒。宇宙の年齢の、1億
 7125分の1。ちなみに、宇宙の直径が274億光年、人間の身長が
 170センチだとすると、人間の大きさは、宇宙の大きさの1・44×10
 の25乗分の一というとてつもない小ささだ。それに比べ人間の一生は、
 宇宙が経た時の1億7125分の1。時間の差は、空間の差よりもはるかに
 小さい。これは意外な気もする。1億7125分の1とは途方もなく小さい
 とお思いかもしれないが、地球の人口は70億人。あなたの心は、地球上に
 ある人間の心の70億分の1に過ぎない。一億7125分の1はそれよりも
 約四十倍も大きい。意外と宇宙の中での人間の一生も長いという気がしないでも
 ない。とはいえ、宇宙の年齢を一年にたどえると、人間の一生は0・18秒。≫
▼ 前にも書いたが、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している
 可能性があると知って世界観が変わった。上記のことすら、問題にならない。
ケセラセラだが、当面、死ぬまでの生活もある。一日一回、このような壮大な
宇宙と、その中の自分を考えればよい。象を世界に、その皮膚の間に住む寄生虫、
70億分の1の自分。その象も、この宇宙からみれば、10の500乗の宇宙
からみれば、チリですらない微細の存在。だからこそ、生きているうち!
・・・・・・
4058, B層の暴走と価値の錯乱
2012年05月05日(土)
 二年前の5月2日にー3324, 「B層」という「IQ]が低い人々ー 
という文章を書いていた。(3日前の、ここにある)
 ところが昨日の産経新聞の一面の【賢者に学ぶ】「素人の暴走と価値の錯乱」
で、このB層の人たちを取り上げていた。選挙対策として、この層を的にして狙い
打つには問題がない。しかし、彼らB層の価値観を押し付けようとする機運が、
全体を導き始めたため、社会が混乱を始めてきている。その危険な状況を
理路整然と論じた問題提起が以下である。
【賢者に学ぶ】ー素人の暴走と価値の錯乱ー(哲学者・適菜収)産経新聞5月4日
≪ ・・19世紀ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言った。その意味は、
 西欧において 価値の根拠とされてきた《神の視点=普遍的真理》を設定する
ことが理論上不可能になったということだ。にもかかわらず、《神》は平等主義や
民主主義といった近代イデオロギーに姿を変えて私たちを支配している。その根底
にあるのは「神との距離において人間は等価」という信仰だ。近代大衆社会は
こうしたキリスト教本能をもつがゆえに、あらゆる格差、階層的なものを破壊する。 
また、《本当に価値があるもの》《偉大なもの》《美しいもの》は貶められ、
《つまらないもの》《新奇なもの》《卑小なもの》が評価されるようになる。
その結果、芸術家気取りのゲテモノ、半可通、あらゆる領域における素人が権力
をもつようになってしまった。テレビの音楽番組では、芸術の対極にあるジャリ
タレが「アーティスト」と呼ばれ、ワイドショーでは有象無象の評論家が専門外
のトピックについて無責任なコメントを垂れ流している。こうした価値の錯乱の
上に成立するのが《B層文化》だ。前回も述べたように《B層》とは平成17年の
郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で「マスメディアに
踊らされやすい知的弱者、ひいては「近代的諸価値を妄信する層」を指す。 
この《B層》が現在消費者の主流になっている。そこでは大企業のエリートが
マーケティングを駆使し、大量の資本を投入することで《B層》の琴線に触れる
コンテンツを量産している。 ・・ニーチェは言う。「畜群人間は、例外人間や
超人がいだくのとは異なった事物のところで美の価値感情をいだくであろう」  
畜群はまさに《B層》である。真っ当な価値判断ができない人々だ。彼ら《B層》
は、圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を社会に押し付けようとする。
そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ。
ありとあらゆるプロの領域、職人の領域が侵食され、しまいには素人が社会を
導こうと決心する。これこそニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的姿。 
与党政府も素人に陥落されつつある。前防衛相の一川保夫は「(自分は)安全
保障の素人」と誇らしげに語り、続いて防衛相になった田中直紀は素人以前の
「ド素人」だった。 閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に
進んだ背景には、《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という
問題が潜んでいる。
▼ 恐ろしい末期現象に日本は置かれている。その一つにマスコミが流す
 世論調査がある。世論の大方を占めているのがB層の人たち。彼らは質問で、
どのようにも誘導可能。政治のトップ判断の重要事案に、それを使い権力を
駆使する。その背後に、アメリカの巧妙な誘導が見え隠れする。B層が
「近代的諸価値を妄信する層」なら、過っての?私も当然、その層。
この10年、哲学に目覚め少しは盲信から抜けてはきた、しかし森林は
面白かったが・・で、サバンナでは?この蓄群が屯する。


5528,若者よ、外に出よ! ー⑦ 大自然との邂逅の衝撃を体験しろ

2016年05月04日(水)

               『人生の教科書』なかにし礼著 
   * 大自然との邂逅の衝撃を体験しろ  
 ーピラミッドという衝撃を体験しろー のテーマから、さらに世界を広めた
ー大自然の神秘の衝撃を体験しろー のテーマが浮かんだ。ピラミッドは人間の
創造物だが、自然の神秘と美しさは、大自然自ら創った作品。その神秘の衝撃は、
魂まで振動が直撃する。 大自然には、山脈、大平原、滝、氷河、大海原、天空
のオーロラなどがある。 世界的遺跡など人間の創造物に驚愕するが、手つかず
の大自然の創造物にも驚かされる。『大自然は、自らの創造物を見たいため、
記録したいため、人間を創られた』というが、成るほど、納得することしばしば。
その幾つかの内の一つがギアナ高地。 〜ネット検索によると〜
【ギアナ高地を形成している岩石は、主に20億年から14億年前の先カンブリア
時代に堆積した砂岩や珪岩からなり、擬似カルストを呈し、巨大な縦穴の存在が
知られている。現在の形になったのは6億年前】とある。生物としての何かの記憶
が蘇るような懐かしい不思議な感覚。それは、現地まで汗し、辿り着いたから
こそ、味わうことが出来る感動である。己は宇宙の微細な地球の、小さな存在で
しかない実感が、その時、現れ出てくる。「現象界」と、「理想界」が、そこで
だぶって存在しているような世界である。「生きてきて良かった!」の実感が、
感動の後に、訪れる瞬間である。山は動かない、自ら汗して山にいけばよい。
――
H0909
ギアナ旅行記

 この数年、秘境の旅に凝っている!
そしてそれが深いほど新しい感激・感慨が大きくなる。
南米大陸の一番上に位置するベネズエラの首都カラカス。
そこより目指すギニア高地の基地、カナイマへ。更にそこから
オリノコ川の最大の支流カロニ川の上流に、秘境ギニア高地が
広がっていた。インディオの操縦で四日間にわたった
「エンゼルフォールを目指すアドベンチャー・ツアー」であった。
コナン・ドイルの“ロスト・ワールド”の空想小説の舞台となった
テーブル・マウンテンは、一〇〇〇m〜三〇〇〇mの垂直に切り立った
絶壁に囲まれた台地がいくつもそびえ立っていた。
そこより落ちる滝は多いときで二〇〇〜三〇〇にもなり、その中で
一番有名なのが、世界最長の落差のエンゼルフォールである。
その長さは一〇〇〇m、山道を一時間以上かけ登り、麓より見上げた
滝の雄大さ、神秘性は言い知れぬ迫力があった。
ここでは生物の生存がほとんど不可能であるという。
ボートでそのテーブルマウンティンの勇姿を見た時、魂を電流がつき抜けて
いったような感動で自然と腰骨がピンと立ち、ただ茫然としていた。
そして涙が自然と流れ出てきていた。
二十億年の大自然の時空を直感できた感動であった。
「これで人生の感動の分岐点を充分越える事ができた!」という言葉が、
フッと脳をよぎった。 原始人が自然に対して“神”を直感するとは、
このような二十億年の時空の中の一瞬の何かを観たのだ!。
この旅行はただテーブル・マウンテンと密林とそこを流れる川、
そして滝だけであった。
ただ高地の間に流れる川をのぼっていくボートツアーでしかない!。
でもそれだけがすばらしいのだ。
そのトレッキングの真髄を初めて経験でき、
新しい世界をかい間見た十日間であった。
(H9.8/23〜9/)

・・・・・・
5163,「現象界」「理想界」とは何
2015年05月04日(月)

   * 「現象界」「理想界」とは何のことだろうか。
              〜『哲学で自分を創る』瀧本往人著より
 日常にある「現象界」と、頭に浮かぶ「理想界」とは、そもそも何だろう。
その辺りを、『哲学で自分を創る』瀧本行人著に、分かりやすい内容があった。
青年期の理想に燃えた時、現象界そのものが、輝いて見えていたが、現在では
自ずから大きく違って見えている。人生を振り返ると、現実世界は、まんざら
悪くもなかったし、幻滅するほどでもなかった。 〜まずその部分を抜粋
≪・当たり前だが、世界は、ある人間の意のままにはならない。しかし私たちは
 そのような世界を想像することができる。この想像した世界が「理想界」。
 そしてそれを可能にしているのが理性。
・「現象界」とは単純に、日常的に把握できるありようだ。普段見えている
 この世界、感じとり生きている日常、である。
一方、「理想界」は、むしろ日常から離れて空想したり想像したりする。
もう少しカッコよくいえば思索したりする中で現われる想念とでも言おうか。
現象界においては、人それぞれの経験によって認識対象が異なって把握される、
ということは、人種や民族、大人と子ども、男と女によっても、私とあなたに
よっても、それぞれ異なって立ち現われるということである。更には時代も
異なればまた別の様相を持つことになる。だが実際人は、言葉を使って、
いろいろなものを一つにまとめあげ説明することができる。それが経験である。
現象界には直接存在しないものを、言葉、概念、用語、カテゴリーによって
まとめあげることによって、それらはこの世に登場してくる。
カントのこのような認識論は、理想界への言及と平行に走る両輪であった。
実際彼の大学での講義内容は人文地理学や「実用的な見地からの人間学」が主で
あったが、彼は現在ロシア領となっている一商業都市であるケーニヒスベルク
から一歩も外に出ることなく世界の諸現象を語ることができた。そしてカントは、
このとき「理想界」という抽象的なものを打ちたてることによって、人類共通の
普遍道徳のようなものがありうる、という議論をも可能にした。この点が重要な
意味を持ってくる。 いずれにせよ、デカルトやベーコンが人間の理性は
無際限に活用しうると考えていたのと比べると、理性に対するこのようなカント
の線の引き方は、まさしく「批判」であった。つまり、「非難」ではなく、
「限界づけ」なのである。そう考えると、私たちが「敵」と認識する対象は、
それが「敵」であると思うかぎりは、「敵」でしかない。敵という概念にある
人物やあるイメージをあなたが付与した時点で、その敵は、現実にそこにある
対象となると同時に、あなたの想像の産物にもなる。・・ ≫
▼ 「現象世界を、言葉を使って、一つにまとめあがることが、経験」とは、
 分かりやすい。体験を時間の経過をして言葉とイメージを記憶として、残った
のが経験ということ。我われは、どうも現象界と理想界を、混同してしまい
がちになる。しかし、現象界の中での理想界を思い浮かべる視線も必要である。
世界は想像の産物の幻想・幻覚なら、「幻滅界」もあって然るべき。
ところで、秘境ツアーなどで世界の観光でみた光は、これまで経験した、
「理想界」や「現象界」を遥かに超えたものだった。理想世界は、想定内で
しかない。そのことを、まずは実感してみないと!理性、感性より至高体験。

・・・・・
4798,年金破綻報道の罠 ー①
2014年05月04日(日)
<世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論>ー細野真紘(2014年の論点100)
   * 年金の根本的誤解
 これを読むまで、年金を根本的誤解をしていた。<「それで老後の生活は十分」
というものではなく、あくまで「老後の最低限の 補助」という位置づけ>という。 
そうすると、我われ国民が、ほぼ誤解していることになる。我家も、家内の預金
を取崩し、年金に加えて生活しているが、この根本の考えが間違いだった!
 ーその辺りからー
《 年金について、TVで次のような街頭インタビェーが出てきます。記者:
「あなたの年金で生活は十分ですか?」年金受給者の主婦「いや、月5、6万円じゃ
全然足りない。だから、仕方なく預金を取り崩さないといけない状態だ」
 このようなやりとりが、何の疑いもなく放送され続けているが、これに基本的な
「誤解」があると気付いている人はどれほどいるのでしょう? まず、この記者の
質問自体がおかしいが、そもそも年金は、「それだけで老後の生活は十分」と
いうものではなく、あくまで「老後の最低限の補助」という位置づけ。
だからこそ昔から人は、自分自身で貯金をするわけです。これは、特に、日本
のような「低負担」の国では必然的な行動の結果です。 さらに言うと、
インタビェーでコメントしている入も、誘導尋問に乗っかっておかしな発言を
しています。それは、そもそも貯蓄は「老後の備え」として貯めていたわけで
「老後に取り崩す」というのは、極めて当然の行動のはず。それなのに
「国に感情をぶつける」ように答えてしまっているのです。なぜこの「矛盾
だらけのテレビ報道」に対して、これまで誰も疑問を抱かなかったのでしょうか? 
これは、一言でいうと「社会保障に関する教育の欠如」に尽きます。つまり、
教育が全く機能しでいないので、視聴者が判断できなくなってしまっているわけ。
 では、どのように「国の年金」を捉えておけばいいのでしょうか。これは、
日本の年金とは「老後に国から死亡するまでもらえるお弁当」だと捉えて
おくとイメージもしやすいし、根本的な誤解も減っていきます。・・・ 》
▼ 弁当の飯とおかずの例えが,解りやすい。ということは、大部分の人たちは、
 老後は飯だけの生活が待っていることになる。ネットで中小企業の数を調べて
みると、【2006年で、420万社で我が国の企業数の99.7%を占め、中小企業の
従業者数は2,784万人で我が国の雇用の約7割を占めている。また、国民総生産の
約2割を占める製造業においても、2008年には、中小企業は48.4兆円と製造業
付加価値額の約5割を占めている】とある。そうすると、国民の多くの老後に、
決して楽ではない生活が待っているのが現実。それから考えると、少ない
給与の中で2割は別途積立など蓄財が必要になる。消費税の3%値上げや、
インフレターゲットなど、国民にとって、実際には、聞捨てにならないこと! 

・・・・・・
4431, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −3
2013年05月04日(土)
       ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート2:直ぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道
                       (時間的俯瞰思考の道)
 人はいずれ死んでしまう。直ぐか、そのチョッと先かの差でしかない。 
で、悲観的になるか、楽観的になるか。誰もが楽観的の方が良いと思うが、
悲観も時に必要。ブラック・スワンが80年の人生に、必ず何羽かが舞い降りる。
思いもよらないことだらけ、これが人生。だからハリケーンや地震多発地帯
の住宅ではシェルターが必要。それを人生にも組込む必要性がある。
そのためにも悲観は必要。悲観のレールに楽観の列車で走れば良い。 
  ー次の箇所が面白い!ー
≪ 人生は絶望か、希望か?では、本質的には意味のない人生を、
 どう生きればいいのだろうか。 以下の二つの方向性がある。
(1)どうせ人生は無意味なんだから、はかなく悲しい、と絶望に向かう生き方。
(2)人生には定められた意味などないから、人生の足かせを取り去り、むしろ
 自由に人生をデザインし軽やかに生きていこう、とう希望に向かう生き方。 
 (1)と捉えるか、(2)と捉えるか・・ 
あなたはもともとお金を持っていなかったとしよう。ところが何らかの理由
で今は一万円をもっている。しかし何らかの理由で、そのお金はなくなる。
これをどう捉える? どうせお金はなくなるんだから、はかなく悲しい、と
絶望するか、たまたま一万円持っていると希望を持つか。これと同じ。あなた
はもともと生きてなどいなかった。ところが、何らかの理由で今は生きている。
しかし、いずれまた無に戻る。中島義道だったら「この世に自分の意志では
なく生まれさせられ、苦しみあえいで生きねばならないから、はかなく悲しい」
と絶望するかもしれない。 (1)型の捉え方だ。 
 しかし、見方を変えれば「なんと幸運なことに、何の因果か、たまたま、
生きているかのような幻想を一時的に手に入れた。なんてラッキーなことか」 
これが(2)だ。 つまり、人生とはあぶく銭。生まれる前には何もなかった。
ところが、何の因果か、宇宙ができ、有機物の塊が生物になり、それが進化
して、人間になった。その中の一人として、何の偶然か、あなたが生まれた。
生まれたての時は、何も考えなかったが、脳が成長・学習して今に至った。
これがラッキーでなくて何? あなたにとって、宇宙史上最大のラッキー
の一つ。死刑というより、恵みだ。信じられない、鮮烈な奇跡である。
そんな奇跡を楽しまずして、この奇跡が再び失われてしまうことにフォーカス
を当て続けるなんて、もったいない。それよりも、この刹那の偶然を、大いに
楽しもうではないかが、それが、(2)だ。
 一万円を得たこの奇跡的な現在を喜ぶか、その一万円を失う未来を憂うか。
その違いが(1)と(2)の違いだ。(1)は、いま一万円を持っていることから出発
しようとするから、失うことの絶望に向かう。それって近視眼的ではないか。
一万円を得たという既得権は、既得権。それは当然としておいておき、一万円の
維持にフォーカスしている。それよりも、人生をその始まりから俯瞰する視点に
立ち、もともとゼロだったものが一万円になったこの人生のあぶく銭を楽しもう
ではないか、というのが(2)だ。 視野が広い。 ルートと関連付けるなら、
今一万円を持っていると思っているのは、幻想だ。本当は持っていないのだ。
誰かが「自由に使っていいよ」と言い、そっと貸してくれたのだ。
このラッキーな一万円を、幻想だと知りながら、ぱーっと使おうではないか。 
そして、なくなったら、なくなったとき。くよくよしたって仕方がない。
もともと持っていなかったのだ。・・・ ≫ 
▼「要は生のラッキーを楽しみ、死の恐怖を超越すべし」からすると、
 この辺りを理解してないと人生を誤る。それを教えるのが親の務めである。
必要なのが教養。生まれたときからの環境などが備わっているかどうかもある。
幸せな家系は幸せに、不幸な家系は幸せになる傾向が強い。26歳で千葉で、
34歳で新潟駅前で創業を決意をした時、特に新潟駅前の時は、500%の成功する
だろうという確信があったが、兎にも角にも、何にも知らない業種。土地の時価
を含めて当時の私の能力からして、やはり博打。魂が震える思いである。
で、自然考えたのが、上記のこと。「せっかく与えられたチャンス。もし失敗
しても、全てを失っても後悔はしない」と!だから現在、さばさばしている。
  万一の備えはしていたこともあるが・・ 人生も、「ご覧のとおり、
そのまま結構!」と、開き直りか。 日々是口実!

・・・・・・
4057, 随想日記も12周年
2012年05月04日(金)
 11年前の5月4日にHPを開設してから連日、ほぼ休まずに掲載してきた。
旅行時は知人に頼んで書きだめしたのを当日ごとにアップしていた。12周年
を期に気楽に休むつもりである。休み癖をつけると続かなくなる心配が逆に、
ここまで続けることが出来た。内容はともかく、「自分に納得できる文章に
すること」を心掛けてきた。毎日、同月同日分の10年分を読み返しているが、
手を抜いた文は少ない。 大相撲、全日本柔道選手権、新年とか殆んど欠かさず
同日に、同テーマの感想を読むと不思議な奇妙な感覚になる。読んでいると、
変わらない自分と、変わってしまった自分に気づくことがある。ここまで書き
ためると自分自身の墓場そのもの。飾ろうにも飾ろうとしている自分が現れ出る。
従って正直に書くことになるが、それが人を大きく傷を付けてしまう。
言葉の力は大きい。大まかに、「読書日記」「過去の思い出」「現在の社会現象
と分析」「つれづれに」「箴言」「新たに知った言葉」などに分けられる。
「書くということは、書き続ける自分を維持するための行為」ということに
気づいている。思いを、印象を、書き出すということは一度、脳から文として出し、
吟味することになる。書く行為そのものが考えることになる。毎日、読み返し
11年分の自分に出会っているが、そこに自分の小さな歴史をみている。 
もし書いてなく、完全忘却をしたら、元々、何も無かったのと同じでは?と思う
ことさえある。 実家の事業を5年足らず携わった時、気持ちの余裕が無かった
こともあり、写真も、日記も殆んど残っていない。書き残していたら面白い断片が
数限りなくあった。大変だったが自分の力が十二分に発揮できた時期だった。
このシリーズは心底では自分に120点。だから逆に書き残さなかったのが
良かったとも言える。 おいおい、その時のことを書くつもりだが・・
また人を傷をつけるのか? 毎日、書き出す習慣も慣れるとゲーム感覚になる。 
ネタ切れの際(きわ)に常に立っているスリルと苦痛が逆に面白味を増す。

・・・・・・
3691, 自己を見つめる −13
2011年05月04日(水)
         「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  * 運命について  ーp226
【 ハイデッガーの言い方に従えば、私たちは存在の真理の「呼び求める促し」
 の中に立たされていることになる。私たち人間は、そうした運命的なものの
呼びかけに聴従せざるをえない、あり方を、根底に宿し、それに聴従することに
よって初めて、真に生きることを果たしうるものというように捉えていった。
 ・・ 自己と歴史の由来を、その根源から聴き取って、それをその将来と結び
つけることによって初めて、人間は、自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り
当てることができるようになると説かれたわけである。ここに、現代における
 優れた運命思想の一つがあると言っても過言ではない。ハイデッガーによれば、
私たちは、この世の中に生きるときに、予期しえない形で「降りかかってくる」、
さまざまな「偶然」の出来事にさらされているのである。ということは、
人間は、出来事の出現をすべて見通し、それを支配することのできる神ではない
ということである。人間は、非力で、無力なのである。 しかし、それでいて、
人間は、自分なりの情熱と威力において、自己の本来的存在の証を立て、それを
刻み残そうとする。そうした覚悟のうちで初めて、立ちはだかる宿命的な困難と
格闘しながら、人間は、真の存在の呼びかけを、運命の声として聞き取りつつ、
それに聴従して本来的に実存しようとするのである。ここに、優れた運命思想が
あることはたしかである。 】
ー 
「運命」について、考えさせられる内容である。(存在の真理の「呼び求める促し」
に立たされ、運命的なものの呼びかけに聴従せざるを得ない、あり方を、根底に
宿し、それに聴従することによって、真にいきることを果たしえる」
これが運命に従って生きるということである。これが本来的に実存しようとする
ことである。それぞれ天命、宿命、運命がある。その中で、運命は自分で切り
開いていくもの。 自分で真の存在の呼びかけを聞き取り、聴従し、実存しようと
することである。そうこう考えると、運命に対する見方が変わってくる。 
自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当て、前に進むことが運命に従うこと
になる。それとて、下記のような虚無的見方からすれば、些細なことでしかないが。


5527,若者よ、外に出よ! 〜⑥ カースト制のインドを知る

2016年05月03日(火)

 学生時代からインドのカースト制の露骨な差別社会を聞いていた。
で、あまり行きたくない国だったが、ペルーの山中で、軽い高山病になって、
三人が途中でダウン、一時間ほど仲間の帰りを待つ間に、互いに行ってない
旅行先の情報の交換をしたが、その人のお勧めが、インドだった。
『あまり気がすすまない』という私に、『もし、旅行道という言葉があると
すれば、インドだけは欠かしてはならない!』の言葉が、妙に説得力があった。
 当時の会社の取引先に‘一人旅’が好きな人が二人いたが、そろって、
インドの素晴らしさを話していた。「学生時代にガンジス川の日の出をみて
人生観が一変してしまった」話が、妙に頭に残っていたこともあり、インド行き
を決めたが、成るほど、そのとおりだった。妙に懐かしさは仏教国の為だが、
湧き出るような群集と、牛と乞食などが、街中で屯した雑然とした社会の
真っ只中に投げ出された感覚が、これまで経験したことがない世界だった。
 ー まずは、帰国直後の旅行記の幾つかをコピーする。
http://news.sina.com.cn/s/p/2010-08-23/074820954155.shtml
――――
2002/10/30
ある逸話ーインドで見たこと

インドの空港で帰国の時である。修行僧のいでたちの男、杖一本を
つきながらやって来た。素足で身に付けているののはパンツ一枚である。
それで飛行機に乗ろうというらしい。急を聞きつけた警察が数十名が周りを
取り囲んだが誰も手を出せない。空港の制服の女の人が間に立って説明をして
いるが、どうしても折り合わないのだ。パスポートも持たないでパンツ一枚で
国際線に乗ろうとしているのだ。

恐らくカースト制で身分が高いのだろう、素裸の男の態度がでかい。
大声で入国査察官を怒鳴りつけているのだ。状況から、恐らく「神の指示で
乗れといわれたのに何故乗せぬ!」と言って、強引に搭乗しようとしている
ようであった。最後の結末をみないで飛行機に乗ったが、インドの社会を
最後まで見せ付けられた出来事であった。

インドは普通の感覚では考えられない身分社会なのだ。牛が堂々と
街を我が物顔で歩いているのだ。宗教上で神聖な生き物なのだ。

以前にも書いたが、20%のある階級は餞民で人間とみなされない。
交通事故死でも警察が取り合わないという、牛なら騒ぎになるが。
実際その経験談を読んだ事がある。同乗した車が餞民を轢き逃げしたが、
その後新聞でも何も載ってなかったとか。轢いた本人も犬を引いた程度
としか思ってなかったのに驚いた、と書いていた。まあ凄い社会である。
一度はこういう社会を見てみるのも必要な事だ。

*4年前に書いた文章をコピー。
――――
 H1011 インド旅行記 ー私のみた北インド 

“インドとは...”など滞在一週間のツア−では表現できない。
面白いほど多様な国である。まず印象を列記してみよう。
� 汚く、臭く、多種多様な人種、動物が“ごった煮”されている国であった。
映画の“深い河”や二本のTVドキュメント、本は五冊読んで実際行ってみて、
ここまで貧しく、奇異に感じるとは!

� 大部分がバスの異動であったため、点というより線でインドを見れた。
“街の生活”や“田舎の街道”よりみた地域ごとの暮らしが印象に残った。
小さな節穴より垣間見た程度であったとしても沢山の事を見て、
感じ取ることができた。

� ヒンドゥ−教の聖地ベナレス。生まれて初めて見た“美しい日の出”
その日の出がガンジスに反射する陽光!そこでの聖なる沐浴の光景!
三千年前とほぼ変わらぬ宗教的行事という。その岸辺での火葬の情景!
帰りの道すがらの物乞いの一団。ふと気づくとライ病の集団に一人囲まれていた。

� インドの2/3が最下層に属し、ほぼ乞食に近い生活をしているといって
オ−バ−でない。野良犬、野良牛、野羊と全く同じ感覚で一緒に生活している。
日本の80%が中流意識とは対極にあるといってよい。
帰ってきて今でも日本が逆に奇異にさえ見えてきた。
−完璧すぎる平等と潔癖症。そして豊かさが。

� インドはヒンドゥ−教とカ−スト制を抜きでは理解できない。
おおよそ4階級に身分制があり、皮膚の色により白系(一億人)、
赤系(一億人)、黄色(一億人)、黒色(四億人)に分類されている。
我々が街で目にするのは最下層の人たちが主で、動物並みにしか上層の人より
見られておらず、本人達もそう思いこんでいる!
(ヒンドゥ−教の教えがその裏付けされている)。
白色ほど身なりがキチッとしているのは私達でさえ判断できた。
レストラン、ホテルなどそれぞれ決まっており、決して違う層は入れない。

・・・・・・
2007/08/15
2325, ベナレス −1               
                  ー読書日記ー
図書館から何げなく借りてきた本だが、一時間もしないうちに読んでしまった。
写真が半分以上だったこともあるが、死の世界が剥き出しになっている。
この本はTVの放送内容を本にしたもので、TVの映像を切り取った写真と
文章を中心に構成されている。実は数年前に、この番組をみていたのである。
本を読み終わってから思い出したのだから自分でも呆れてしまった。
早く読めたのも、その下地があったからである。
 ーー
著書もTVも、「NHKスペシャル アジア古都物語」
 ―ベナレス 生と死の聖地 ーである。
<その内容の一部を抜粋してみる>
 −−−
インド各地から遺体が運ばれてくるガンジス河中流域、
ヒンドゥーの聖都ベナレスのレポートである。
その中で、ガンジス川で沐浴をする誰もが言う。
「ベナレスで荼毘に付されれば必ず天界に行ける…」と。

全国から車やトラクターで運ばれてきた遺体は、路地を抜けるために
屋根から降ろされ、人びとの手によって担がれ火葬場へと向かう。
「ラーム・ナーム・サティヤ・へー、ラーム・ナーム・サティヤ・ヘー」
(神様だけが真実である、神様だけが真実である…)
担ぎ手たちはこの言葉を繰り返し口にする。こうして冥福を祈られながら、
やがて遺体はマニカルニカー・ガートと呼ばれる火葬場に到着する。

聖地ベナレスでもっとも聖なる場所の一つであるマニカルニカー・ガートは
ガンジス河をのぞみ、街の中心部に位置する。その歴史は数千年におよぶと
伝えられている。河に面して横長に伸び、その広さは五十mx二十mほどで
あろうか。焼き場は何もないスペースがあるだけで、多い時にはここで
十数体の遺体がいちどきに焼かれる。

ベナレスには二つの有名な火葬場があり、
・一つは街の南にあるハリシュチャンドラ・ガートという火葬場で、
・もう一つが、ガートが連なる河岸のちょうど真中あたりに位置する、
 このマニカルニカー・ガートである。
運び込まれてきた遺体は、まず、火葬場の中ほどにあるガンジス河へと
つながる階段を下り、ガンジスの水に浸される。そして組み上げられた
薪の上に安置され、そのたび油が注がれる。茶毘は伝統的な方法で行われる。
亡くなった人にもっとも近い親族の男性が喪主を務め、基本的に女性は
火葬場に立ち入ることはできない。喪主は、マニカルニカー・ガートに
ある床屋で髪の毛やひげをそり、白い装束を身に付け身を清めた後、
自分の父親や母親の亡骸に最初の火を自らの手で灯すのだ。

遺体が燃え尽きるまでの時間は、おおよそ二時間。
その間遺族は、焼かれて行く遺体から五、六メートルほど離れた場所で
肉体が消滅して行く姿をじっと見守り続ける。目の前にはガンジス河が流れ、
煙は何物にも遮られることなく空へと昇って行く。
聞こえてくるのは薪がはぜる音、人びとのささやかな声、
そして、遺体がまた運び込まれたことを告げる
「ラーム・ナーム・サティヤ・へーレ」という声である。

しかし、なぜこの街には、インド各地から遺体が運び込まれてくるのだろうか。
この疑問に対して誰もが"何故、そんなわかりきったことを聞くのだという
ような顔をして「この街で茶毘に付されれば必ず天界にゆける。そう信じて
いるからだ」とこたえてくれた。
ヒンドゥー教では、人生は「生老病死」といった苦しみに満ちていると
考えられ、そして生まれ変わるたびに、その苦しみを味わわなければならない
とされている。この考え方は、仏教にも影響を与えた「輪廻」という思想。
この「輪廻」の輪から抜け出ない限り魂の平安は未来永劫に訪れない。
こうした考えを信じる人びとにとって、ベナレスは生きることの苦しみ
から抜け出させてくれる救いの場所なのである。
遺体が焼かれた後、遺灰は目の前のガンジス河に流される。
最後に喪主の手で残された遺灰にガンジス河の水がかけられる。
こうして死者との別れの儀式は終わる。
ーー
以上のような文章と、写真が半々位で本が成り立っている。
しかし、読んでいても暗さがない。
いや、あるが、その先に明るさを感じるのである。
本の写真に死ぬ直前の人や、死んだ人の顔が次から次と出てきても、
何故か静かに見ることができるのである。
死を、ことさら大げさに見ることの方が寧ろおかしいのである。
                        つづく
・・・・・・
2007/08/17
2327, ベナレス −2
           。っω-)..。oо○(゜+。ぉレ£∋ぅ゜+。)
インドは強烈な印象の国であった。帰路の飛行場に着いたとき、実のところ
ホッとした。聞きしに勝るインドという国の文化に、良きにつけ、悪きにつけ
ショックであった。ヒンズー教とカースト制度、貧しさと豊かさ、タージ・
マハールなどの霊廟や城、ガンジス川とベナレス、そして古代から現代
までが入り混じった社会。日本の日常とは全てちがっていた。

その中でもべナレスの街とガンジス川の沐浴と、舟からみた二ヶ所の火葬場。
ガンジス川からみた日の出。ガンジスの火葬場周辺にいる修行僧の顔と眼。
そして我が物顔で歩いている牛。そしてライ病の集団の物乞い。幼女の乞食。

この本ではベナレスの「死を待つ館」の数家族がありのままを映しだしている。
生死、貧しさも豊かさ、差別も、その全てがリアルにそのまま露出されている。
それが日本とは対照的なのである。
人生の折り返し地点を越えベナレスに引っ越してきた老夫婦や、老齢になった
ことで自らべナレスの僧院などにやってきた人びとなど、死期を間近に感じる
前に移り住む人もいる。

この街は「死を受け入れる街」として永年をかけて奥行きを広げ、
深さを増している。インド各地から運ばれてくる死体は多い時で100体。
また家族や、死者の灰をガンジスに流すために訪れる人も毎日数千人もいる。
なかには郵便で灰が送られてくるケースさえあるという。
ここは死者の為の街であり、その準備の為の街である。

ここの「死を待つ館」の人に、「死ぬのは恐くないですか」と聞いても、
「どうして怖いことがあるのか。ここは寺院もあり、ガンジス川もある。
この街が私を呼んだのだ」と答えて、平然としている。彼らにとって、
ここでの死は誇らしいものであり、ここに連れてこられること、
その家族にとっては、連れてくることが喜びなのである。
 死が喜びとは!素晴らしいではないか!
                   ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
・・・・・・
2007年09月08日
ベナレス−5
  ー多様なるインド世界ー
インドは日本のおよそ九倍にあたる三二九万平方キロメートルの面積を持つ。
これは西ヨーロッパの面積にほぽ等しい広さである。
そこに現在十億を超す人びとが暮らしている。
多言藷・多民族の国家であることは言うを待たないが、宗教もまた多様である。
古代から育まれてきたヒンドウー教のほかに、仏教やジャイナ教が紀元前五世紀
頃に相次いで生まれた。紀元後ほどなくしてキリスト教が伝わり、ハ世紀には
唯神アッラーを信仰するイスラーム教が本格的に到来した。
またヒンドウー教とイスラーム教双方の教義を批判的に融合したスィク教も
十五世紀に興起する。
ヒンドゥー教と仏教は輪廻や解脱の思想を共有する、いわば兄弟のような
ものである。兄たるヒンドゥー教は古来からの儀礼やしきたりを守つてきたが、
そのためさまざまな迷信や俗信をも抱え込むことになった。一方、弟の仏教は
そういう兄を理詰めで批判し、外の世界に広がっていったが、インドでは
十三世紀にイスラーム教徒の仏教僧院破壊を機に、すたれてしまった。
仏教がインドで復活するのは二十世紀半ばのことである。インド亜大陸では
現在でも宗教問の争いが絶えないが、それは主として政治的不安定に起因する。
庶民は心の底から平和を祈っているのである。
ーーーーー
解)それにしても、3千年前にアーリア人がインドを征服した時に、地元民
との混血が、自分達の存在を脅かすと考え創った物語が三千年の時間をかけて
白・赤・黄色・黒の人種の垣根をつくり、それぞれ交わることなく現在に至って
いる。そして、今でも露骨な人種差別ーカースト制度ーが社会を支配している。
人間は平等です? そんなことは有りえない!それはあくまで奇麗事というを、
インドの社会が正直に露出している。考えてみれば平等などあるわけがない。
それを実現しようとした社会主義こそ、そのウソ、建前を知らなかったのである。
優勝劣敗は哀しいことに、世の習いである。

・・・・・・
2007/04/16
2204, ベトナムとインドの「交通戦争」
          おはよう!♪〜 ヽ(´π`)ノ
ーインドの追い越しー
外国に行くと、思わない文化の違いを見ることがある。その一つが交通事情。
インドの都市間をバス移動の時、対向車線の車が追い越しのため、進路から
正面に向かってギリギリのところまで迫ってくるあわや正面衝突!と、
思わず目をそむけてしまうほど危ない。彼らにとってそれが日常のため、
国道沿いには数キロごとに衝突の車を見かける。

慣れていない日本人は見ていて気分が悪くなり、町から町への移動の国道では、
誰も前の席に座りたがらない。沢木耕太郎の「深夜特急」という本の中で、
インドからパキスタンへの移動の高速バスで、その恐怖を書いていた。
実際に自分が体験をしてみて、これほど恐ろしいとは知らなかった。
それと中国のウィグル地区からパキスタンへのカラコルム・ハイウェーの
断崖の砂利道の暴走運転の恐怖を思い出した。
明らかに我われ日本人をカラカッタ運転だった。
その手の話題はいくらでも話題は出てくる。
ーベトナム交通戦争ー       (略)

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2006/08/30
1975, 写真家はインドをめざす
              ー読書日記 \(^▽^*)おは!                     
インドを精通する写真家14人が描いたフォトエッセイが、
この1冊に凝縮してあり、読んでいて魂まで吸い込まれるようだ。
この本、この数年で5〜6回は図書館で借りてきては返している。
読めば読むほどに何とも魅力のある本である。いや本が魅力がある
というより、インドの地と、そこに住む人々の混在した多様性にひかれる。

カルカッタのマザー・テレサの建てた「死を待つ家」。
路傍でまるでゴミのように死んでいく身よりの無い人々が、せめて屋根の
ある家で死んでいけるように建てた家の死を待っている老人達の写真を
冷静に撮ってあるもの。
 ・物乞いのライ病患者や、駅の隅で転がっている少女の死体?
 ・河の辺で焼かれている燃え上がっている死体。

インドをドック・アイの視線でカメラマンの目は鋭く一瞬を抉り撮っている。
白黒の写真が、むしろピッタリである。一人当たり7〜8頁の文章と、
10枚位の白黒写真がその文章の後にある。画家や写真家のエッセイは何故、
ここまで優しく鋭く人の心を捉えるのだろうか? 恐らく、一瞬の被写体
の中にある本質を見抜く感性が私たちの心の奥の共感を呼び起こすからだろう。
この本のトップの日比野宏の出だしの文章から、対象を鮮明に表現する。

チャイ屋で一服するのが、インドの楽しみである。
土蔵のような店の天井に吊り下げられた扇風機が、
湿気の無いヒンヤリした風を送ってくる。何げなく帳場をみると、
ゴキブリが油で揚げた菓子の上を通過し、ネズミが茶碗の周りを這いずり回る。
隣の男が茶碗にハエが入っていると怒ったら、店の主人が平然とした態度で、
スプーンで取り除いた。ハエや蚊は空気の成分と同じだという感覚が、
この土地で生活する条件の一つかも知れない。インドに入国してから
一週間も経ってない私だが、その状況に少しずつ慣れていった。
 −
という具合で、もう自分がインドの茶屋で、
お茶を飲んでいるような錯覚に陥ってしまう。

また7人目の「インドに想う」−鎌澤久也の写真も、文も素晴らしい。

カルカッタといわずインドは楽しかった。人と動物が一体となり、
平等な姿で共存するインド、大通りに牛が寝そべり、交通の妨げに
なっても、決して文句を言わないインド人、ヒンドゥー教においては、
牛は神聖視されているからなのだろう。

しかし、乞食に堂々とした態度で、お金をくれといわれたのには
ビックリ。いまだに残っているカースト制度に起因をしているのだろうが、
君はお金を持っているのだから、持っていない自分にお金をくれる義務
があり、自分は貰う権利がある。確かに理は通っているが、いまひとつ
納得がいかない。・・・それはそうと、ある夜、デリーの安宿で、屋上
から街灯で浮かび上がる街並みや、華やかな通りを眺めていると、
見るからに長期旅行者といった、20代後半の男性から、
「人生とは何でしょうか?」と、突然話しかけられた。
ウ〜ンと私はうなってしまった。
  ーーーー
「写真家はインドをめざす」
         青弓社(共同 著書)
なぜインドを撮るのか。混沌、喧騒、氾濫――。
人々は渦を巻き、聖なる河はすべてのものを飲み込む。
写真家というフィルターを通して切り取った凝縮のインド、悠々の営み。
(カバーのコピーより)
 ▼目次
1 インド合掌  日比野宏
2 旅と写真とその理由  青柳健二
3 インドへ、その向こうへ  富張佳子
4 サドゥ  石川梵
5 マルチサーカス  三浦麻旅子
6 ドッグズ・アイの旅  小野寺誠
7 インドに想う  鎌澤久也
8 ブッダロードに微光を求めて  永橋和雄
9 サドゥとともに  栗脇直子
10 死を待つ家  松本栄一
11 幕のない劇場  武藤滋生
12 「水に祈り、水になる」  伊東恭介
13 インドの宗教空間のなかで  田村仁
14 インドで写真を撮る  山田和
▼著者プロフィール
日比野 宏(ヒビノ ヒロシ)
 ●著…1955年、東京都生まれ。
 最初はファッション写真をめざしていたが、80年代後半より、
 アジアを中心とした旅が始まり、写真と文章の本を出していく。
 ー出版物に
『アジア亜細亜――無限回廊』『同――夢のあとさき』(講談社文庫)、
『エイジアン・ガール』『快!撮!アジア旅の写真術』(新評論)、

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