堀井On-Line



5520,閑話小題 〜寺院消滅が止まらない!

2016年04月26日(火)

   * 寺院消滅が止まらない!
 葬式といえば、今では節約対象の一番の対象で、地味葬が求められる。
葬式業者に頼んで、坊様への謝礼は、一番、削る対象になる。これまで
続いてきた葬式に対する習慣が一変し始めた。 あるレポートに、
「寺院消滅が止まらない!」があった。〜その概要とは〜
≪ 団塊世代も死期に入り、葬式、法要が増えてきたが、以前ほど、49日法要、
一周忌法要、三回忌法要、七回忌法要など言わなくなった。大都会に集中し、
地方の過疎化と、家制度の崩壊が背景にある。あと10数年もしないうちに、
寺院の三分の一が住職不在になるという。 江戸時代に、戸籍管理を委託され、
それを良いことに、好き放題に搾取してきたことに檀家が、気づき、離れて
いった歴史がある。で、今では半数近く住職の収入が300万前後。
2040年までに人口に占める若年女性人口(20歳〜39)の割合が、
現在よりも50%減少する自治体を「消滅可能とし」として全国の自治体の
将来人口を推計した。人口が減れば当然、寺も減る。
 日本の寺院の役割は大きく二つある。「寺=信仰」、「墓=供養」である。
鹿児島県では、明治初期に、全国で吹荒れた廃仏毀釈により1066の寺院が
すべて消滅、現在では490まで戻した。それでも寺院が少ないのが目立つが、
寺院の存在意義を、団塊世代以下の人たちが、見出さなくなったことが大きい。≫
▼ 寺院が食べていける「檀家」数が、最低で200軒。これでは、地方の寺院
 が消滅化は当然の流れ。何ゆえ死を恐れるかといえば、人生を充分に生きて
こなかった結果、やり残したことへの無念と、死んだら、生臭い永遠の中に、
消え去る不安からくる恐怖。更に、身近な人の葬式で、彼岸に見送る儀式をし、
重油で焼かれた骨を墓に収めて終わり!とする共同幻想の儀式。で、後は、
法要で、生きている人たちが、世間向けに亡き人の思い出話。これは形を
変えた昔のレジャー、それはそれで、残された人たちの魂の慰めになる上に、
当人の慰霊になっていた。でも、これは、別に法要をしなくとも、仏壇の前で、
心を篭めれば、毎朝、出来る習慣。お墓は、死後の世界を信じる人の祖先様の
共同住宅という幻想の場。そう思えば、心が休まる。
 後記)書き終えた後、以前、似たテーマで書いたのではと、ブログ内検索で
調べてみると、二回も書いていた。で、「没にしようか」迷ったが、これは
これで載せることにした。戦前までは大方を占めた、情報不足の人にとって、
その法話は、有難たい心の洗濯、人生を考えさせられる内容だったが、今では
TV、ネットで一般人の方が数多の知識がある。法難は、寺院に吹き荒れる。

・・・・・・
2015/10/09
寺院経営の惨状とは
  * 貧困は寺院経営に顕著に現れ出る
 寺院の年間収入50万円以下が2割、100万円以下が3割の数字に目を疑った。
その3割の大方(9割)が生活困窮状態?という。 一年ほど前に親戚の
法事に参列したが、その宴席の隣席が午前様。 何気ない会話の中で、
『由緒ありそうなお寺のようですが、墓は幾つあるのですか?』と若い跡継ぎ
の午前様に聞くと、顔色がサッと変わり、『それは、言えません!』と答えた。
後で、「寺院経営の窮状を悟られたくないためか」と、気づいた・・ 
葬式や法事で聞く法話も、情報化の中で、『成るほど!』と心に残る内容は
今では皆無。 ネットで調べた内容は、衝撃的でさえある。
≪ 今年4月、『生活困窮者自立支援法』が施行。生活保護に至る前の自立
 支援が狙いだ。背景には、深刻な生活困窮者の増加がある。6月、厚生労働省
は「今年3月時点での生活保護受給者が217万4331人と過去最高を更新」と発表。
受給世帯数も、前月比3773世帯増の162万2458世帯と、こちらも過去最高。
増加に転じた平成7年時の受給者数は88万2229人。この20年で約2.4倍増えた。
増加の要因は、就労に依る自立困難な高齢者世帯の増加、更にリーマン
ショックや経済低迷の影響となれば、今後も増加傾向は容易に変わらない。
日本の高齢化は進む一方であり、6月19日に衆譲院を通過した労慟者派遣法
改正案は、労働者側からすれば生活を一層不安定にすると懸念されているから。
 ところで、この生活保護を受けられる最低ラインの生活扶助基準とは、
どれくらいか? 世帯数や地域でも変わるが、両親と就学前児童1人の3人家族
の場合では、最も高い東京23区で凡そ月16万円という。年収約200万円だ。
これに住宅扶助等の諸々が加えられる。
 では、この額に比してお寺の現状はどうなのか? 曹洞宗が10年に1度
おこなっている宗勢総合調査(平成17年)の寺院の年間収入は如何だろう? 
 先ず、年間収入50万円以下が何と2割を占め、100万円以下が3割。
確実に最低生活水準を満たしていない寺院が3割もあるのだ。平成21年に
浄土真宗本願寺派が行った宗勢調査の結果だが、こちらも2割近くが年収
100万円未満なのだ。当然、この年収では、いや、全体の半数を占める
300万円未満でも生活は厳しい。現に、本願寺派では300万円未満の寺院の
9割が「全く生活できない」「かなり切り詰めないと生活が成り立たない」
と回答。一般家庭と異なり、寺院には様々な維持管理費が必要。
布教の為の教化費もいる。収入の全てを生活費に充てる訳にはいかない。
実際、同派で300万円未満の寺院の7割が「兼業収入を寺院護持に使っている」
と答えている。 (略)・・・
 過疎や高齢化・家制度の揺らぎ・仏事に対する意識の薄れ等、お寺を取り巻く
環境の変化に依る今後の見通しは極めて厳しい。どの地域にあっても他人事では
ないことは明らかだ。そんな中、檀家の少ないお寺を継ぐことは極論すれば、
将来に“負債”を抱えるようなものという見方もあろう。現に、過疎地寺院の
後継者難が、どの宗派においても深刻な問題になっている。しかし、それでも
実は寺院数が激減していないのは、檀家は勿論、住職や寺族が物心両面で
お寺を支えているからに違いない。・・・ ≫
▼ お寺でも、その規模などによる経営格差がしているようだ。
 大都市一極化、少子化、家制度の激変の中で、仏事に対する考えも変化。
それに伴い収入も激減し、寺院経営は大きな岐路に立たされている。
「長い歴史で、情報基地の役割を果たしてきた寺院のシステムが、情報化
社会の変化に立ち遅れた結果」ということになる。特に過疎地は酷いようだ。

・・・・・・
2011/03/04
3630, 岐路に立つお寺
 3月1日のNHKのクローズアップ現代の「岐路に立つお寺」に驚かされた。
恐らく全国の寺の多くが追い詰められていると思ってはいたが、ここまで葬式
仏教への反感が強いとは! 法話も今さら何をという内容ばかり、その程度の
話はTVで聞く仏教学者の二番煎じでしかない。聞く方が、人生と死をより
深く知っている逆転現象もある。 NHKのHPより、概要を見てみよう。
≪  〜問われる宗教の役割〜
「葬式仏教」と批判されて久しい日本の寺が追い詰められている。都市への
人口流出と檀家の減少、「直葬」に代表される宗教離れよって、衰退してきた
寺が経営難に陥り、数億円の負債を抱えるケースも出てきている。
原因は“墓ビジネス”の失敗だ。葬儀会社に「葬式」さえも奪わつつある寺が、
存続をかけてビル型納骨堂や巨大霊園を建設したものの売れ残ってしまった。
一方、危機的状況のなかで、信者の心の苦しみに寄り添う宗教の本分に立ち
返ろうと、自殺や高齢者の孤立の問題に向き合う僧侶も現れている。岐路に
立たされるお寺の現状を見つめ、宗教の役割と可能性について改めて考える。≫

 以上だが、番組中、仏教に対して良いイメージを持っている人90%、
お寺には25%、僧侶に対してはなんと10%、とあった。いかに、坊様に対する
不信感が強いかが出ている数字である。 現在の私の気持ちが、そのまま、
数字に出ていたのに驚かされた。私が厳しいのかと思っていたが、この数字を
知ってホッとした。 まとも?な坊様なら愕然としただろう。葬式時の御経代
の高さに、心の底では怒り心頭ということが見えないのである。霊園に墓を
移す流れは、もう止められない。江戸時代から特権階級の立場を利用して庶民
から貪りとってきたシステムに若い人たちは気づいてきたのが、この隠れテーマ。
コンビニの二倍も寺院があるというから、いかに庶民から搾取してきたかが、
窺い知れる。

・・・・・・
5155,理性と感性と悟性
2015年04月26日(日)
   * 理性とは何か
 学生時代のゼミで何気なく私が発した言葉が。「理性とは何ですか?」
あまりに唐突だったので、誰もがポカンとしていたが、それを簡潔に解釈した
内容を47年後にネットで見つけた! ネットと暇な時間は便利である・・
≪ カントやヘーゲルによって展開された「ドイツ観念論」を理解するためには、
 まず、感性と悟性と理性という三つの能力を区別する必要がある。
 主体としての人間が対象に働きかける仕方である。
・「感性」は「直観」の能力であり、時間と空間という形式を持つ。
(「直観」とは、カントの場合、見たり、聞いたりする感性的(=感覚的)
な直接知を意味する。)我々が何かを見たり聞いたりする際には常に、その条件
として、時間と空間という形式が先行しているはずである。我々は物(あるいは
何かのイメージ)を空間(および時間)なしに考えることは出来ないのだから。
・「悟性」と訳される「フェアシュタント(Verstand)」というドイツ語は、
「解る」「理解する」という意味の動詞(verstehen)から来ていて、
「理解する力」「常識」(英訳は、"understanding")を意味する。
その純粋な形式が、カントが「カテゴリー」と呼ぶ、判断の論理的形式である。
(これには、肯定や否定という判断の「質」、存在や全称という判断の「量」、
実体や因果性という判断の「関係」、必然や可能という判断の「様相」がある。)
・これに対して、「理性」は、より高次の、悟性の判断を総合的に関係づける、
推理の能力である。例えば、「人間は死ぬ」という命題は、「生物」という
媒概念を介して、「人間は生物である」「生物は死ぬ」という二つの判断を
総合したものである。英語でいうと、リーズン。つまり、「理由」「根拠」
「道理」を意味するのが「理性」である。なぜ?と問いかけたとき、
「なぜなら〜だからだ」と答える力が理性になる。≫
▼ 「感性」は直感能力、「悟性」は理解能力、「理性」は「高次の推理能力」、
 つまり高次の理由づけ、根拠づけになる。世間の噂話レベルは、身近な世界
の空間・時間が先行するため、一般的には「あの世界」に埋没する。
理性の真逆の世界。理性を高めるには、「ぼんやり時間」を意識的に持たねば
ならない。「ぼんやり」とは、闇の世界で迷子になっている状態。その5文字は
1、「闇」―蛍と星とダークマター
2、「独」―独りでいること
3、「閑」―逆茂木に囲まれて
4、「怠」―「1日4時間労働」の夢
5、「懶」―心の余白 である。
 いっけん、理性の世界とは真逆のようだが、この状況から、感性も、
 悟性も、理性も研ぎ澄まされる。高次の道理の追求ということ!
・・・・・・・
4790,閑話小題 ー父親のこと
2014年04月26日(土)
   * 父親のこと
 これまで母親について語ってきたが、父親について殆ど書いてなかった。
父親が42歳時の時に8人の末っ子として生まれた為、父親が孫のように特別扱い
され育った。それもあって、直ぐ上の兄に陰湿に虐められてもいた。 御陰で、
気が強く、常に自分の身を守ることに、人一倍の知恵が身についていた。
今回の一連も含めた危機管理などの用心深い性格は、この辺りからきている。
 大家族の中、父親が絶対的存在で、母親も、兄姉たちも、常に緊張の中で
父の顔色を伺っていた家庭環境であった。父親は骨董商の二代目。祖母が
婿取りで、母が結婚した時には、当時の資産で七万ほどあったと、母の晩年に
なって語っていた。母が結婚当時、父に「うちは金持ちなの?」と、聞いた
ところ、「金持の目安が10万で、どうだろう?」と答えたというが、その後、
数倍に増やしたというから、資産家の部類だったようだ。プチブルレベル?
 太平洋戦争前まで、当時のトップセールスを思い立ち、津上製作所社長や、
野本互尊など上客を持って、年に数回の取引で、かなりの利益を上げていた。
そして、大戦の勃発で、骨董は売れなくなり、地元からも多くの戦死者が
出ていた。その中、仏壇販売で戦中の生活を凌いでいた。それも終戦を向え、
次に考えたのが古着販売。食えなくなった人の古着を他より高い値で買取り、
欲しい人に、安い値で販売することを思いつく。それが拡大したのが、
衣料量販店である。これも、問屋からの仕入れでは安く売れないため、岐阜、
名古屋、岡山、広島などの生産地に直接行き、仕入れることを考えついて、
繁盛店として、全国的に知られるようになった。商売人の基礎の質実剛健を
モットーに、明治気質の、真面目な人であった。顔つきも、性格も、私が、
そのまま、受け継いだが、酒は、殆ど飲まないところが、私とは違う。 
趣味は、旅行と、骨董収集と、茶道と、住宅の建設。自宅や、姉たちの新築
建設に金も口も出して、そのプロセスを楽しんでいた。家も、店でも、チリ一つ
でも落ちているのを嫌い、徹底的に掃除をさせていた。学歴コンプレックスが
強く、自然に娘婿には高学歴の人がなっていた。 友人の持てない人で、
株屋や、保険屋の営業などしか、傍には寄せ付けなかった。兄姉も、怖れて
近づかない中、末っ子の私だけが何時も父の傍にいて、何かペットのような
存在であった。法事などは、何時も私だけが出席をしていた。父親は、太平洋
戦争を挟んだ激動期を、乗り切ったが、私は、結局は、飲み込まれてしまった
甘い三代目になる。 この随想日記も〈売り家と唐様で書く三代目〉の
‘唐様で書いた’で、しかないのか。 ゙(。ノω<。)ァチャ- (-_-)ウツタ
【(後記)これを書いて、分類の<堀井誠作・シマ ワールド>を開いた
 ところ、父親の命日などに、多く取り上げていた。今さら、我ながら
 驚いてしまった! 結局、父親は私の大きな後楯の人だった、ということ。
 それにしても! 呆けか 】


閑話小題 〜馬の腹中で一夜を過ごす

2016年04月25日(月)

   * 馬の腹中で一夜を過ごす
 先週のシネマ、『レヴェナント』の中で、追手に追詰められて、断崖から馬
もろ共、落ちた主人公のデイカプリオが、林の木と馬がクッションになって、
何とか助かるが、その前に熊に襲われた重症の身で、激寒の中で、一晩を
過ごすが、その時、死んだ馬の内臓を抉り出し、素っ裸になって腹の中に
潜りこむ。息子の復讐のための執念が、一瞬、それをさせたが、朝、腹の中
から血だらけで出てくる姿は圧巻。これでデイカプリオはアカデミー賞の主演
男優賞を貰ったが、さもありなん。
 以前、読んだ慧海の『チベット旅行記』で、ヒマラヤ超えの山中で、雪の中
で、連れていた二匹の羊の間で何とか一晩を過ごす場面に驚いたが、これは
馬の生肉の腹の中! こういう話は実際に、あるのだろう!
 とこで、40数年前に、居酒屋・養老の滝のFCを、建てたばかりの飲食
ビルで始めた数ヵ月後に、近くの肉屋の人が来て、「朝、潰したばかりの豚肉
のツナギのルートがある」というので、見せてもらったのが、舌から大腸まで
繋がった内臓一式。思わず吐きそうになるほど生々しい。これを自ら捌いて、
串に刺して焼いて売ったのが、戦後、何もなかった下町の飲食店と屋台。
 必死さが、それも平気で捌いてしまう。事業の出だしとして、私にはベスト
の経験になった。それと飲食店のカウンターの内側と外側の大きな段差の違い。
要は、腹を括れば何でもできる。時にサラリーマンが、「屋台をひいても、
自分で商売をしたい」とか言うが、腹を本当に括れるかどうか。 括れない
人が、腹を括った結果を痛烈に批判する。気持ちは分らないでもないが・・

・・・・・・
5154,知の逆転 〜⑪
2015年04月25日(土)
           ー知の逆転ー 対談相手〜マービン・ミンスキー
   * ユングとフロイト
 ユングとフロイトについてミンスキーはフロイト寄りの論だが、説得力がある。
私自身、ユングのいう、「意味ある偶然の一致」=シンクロニシティ(共時性)
の体質?が少しあるので、ユングに傾倒していたが、違う論も面白い。 
  ーその辺りを抜粋 〜P195
≪ ーあなたは人工知能に関連して心理学の分野も研究されるわけですが、
 以前「カール・ユングの人気は全くおかしい」とおっしやっておられました。
 なぜそのように考えておられるのでしょうかー
ミンスキー: カール・ユングは科学分野からとうの昔に消え去ってるでしょう。
  ーそれに異論がありませんが、フロイトはどうでしょうー
ミンスキー: ジークムント・フロイトはなかなか興味深い人物です。
 たくさんの新しいアイディアを持っていましたが、あまりに時代に先駆ていた。
たとえば、神経系の中をいかに情報が伝わっていくかについての理論を、早く
から論文にしていたけれども、一九五〇年になるまで活字にならなかった。
神経細胞がどのように情報を伝達するか、それが経験によっていかに変わって
いくかなど、さまざまなアイディアが入っていたのですが、あまりにも当時の
他の理論と異なっていたために、なかなか出版されなかったのです。
フロイトの学生だったユングは、面白い理論を構築し始めます。その過程で、
異なるいろいろな文化が実は同じようなアイディアを持っていたことに気づく
わけです。たとえば、それぞれの文化の伝説や神話がやたら似ているとー。
 悪い行いをすると神様が出てきてその行いをこらしめるといった話ですね。
だからユングは、全ての人々の心は、何かテレパシーのような神秘的な方法で
コミュニケートしているんじゃないか、と考えたわけです。これに対して
フロイトが怒って、以来、二人は二度と口も利かないようになった。
互い相手の主張がばかげていると思ったんですね。ばかげていたのは明らかに
ユングのほうでしょう。でも、いまだに多くの人々が、彼の説を良しとして、
意味のある心理学だと思っているようです。・・・ ≫
▼ 改めて、フロイトとユングの違いをダイジェスト的に論じているが、
 色いろ相まって人間の心は構成されているため、フロイトの考えだけでは
限界があるし、ユング的霊性も限界がある。ネット社会で、共時性が如何に
意味を成していくか、失っていくのか? 対談者とインタビュアーは、後者
のようだ。ネットが共時性そのものに、なったため、それが如何した?
レベルになった? 生物、人間が進化してきた過程で膨大な経験がある。
・・・・・・
4789,葬式は、要らない ー2
2014年04月25日(金)
           「葬式は、要らない」島田裕己著
   ーアマゾンのレビューよりー
《 過激なタイトルだが、葬式が「要らない」のではなく、そんなに
 金をかけるものでは無い、と言いたいのだ。「高い高い」と言われても、
何もお寺が強要してる訳でもなく、また業者も商売なので多少の出費は仕方ない。
人が嫌がる、または面倒な事をお願いするのだから。また諸外国と(金額の)
比較をし、日本が異様に高いというが、国柄や文化がそれぞれ違うのであまり
参考にはならない。要は個人個人が思うようにすればいいだけの話。
 でも日本人はそれができない。冠婚葬祭に関しては世間体やら周りの目を
気にする体質ですから。ある意味、日本に住んでる以上葬式にお金がかかるのは
仕方の無い事かも。日本人は世間体を絶ず気にする。それがあらわれるのが葬式。
布施や香典は行う側の気持ちによるとされてはいるものの重視されるのは、自分
がいくら出したい・出せるかではなく、他人がいくら出しているのか、である。
こうした感覚が日本人のなかに育まれる上で重要な働きをしたのが村落共同体の
成立である。江戸時代に入って寺請制度が導入されたのは大きな意味をもった。
すべての村人は村内にある寺の檀家になることを強制された。よって村人は
必ず仏教式の葬式をしなければならなくなり、戒名も授けられた。
 仏典は膨大な数が存在するが戒名についての説明はない。仏教が広まった
地域のなかで戒名という制度が存在するのは日本だけ。初期の仏教はインドで
生まれ主に東南アジアの国々に広がった。その後生まれた大乗仏教はインドから
中国に伝わった後、朝鮮半島や日本に伝えられた。最後に生まれた後期密教は
チベットに伝わった。 出家した僧侶がその証に戒名を授かる点は日本も他の
仏教国と同じだが、一般の在家の信者でも死後に戒名を授かるのは日本にしか
ない制度だ。しかも日本は出家であるはずの僧侶が妻帯し戒律を蔑ろにしている。
破戒の道をたどっている僧侶が授戒を行い矛盾している。多くの宗教にも出家の
制度は存在しない。あるのは仏教とキリスト教のカトリック、東方教会だけ。
仏教でも本来、出家した人間に僧侶としての名前が与えられるのであって、
俗人にそれが与えられることはない。が、日本では禅宗で在家の信者の葬式の
作法が確立され、その際、いったん出家のかたちをとらせたため戒名が授け
られることになった。寺にとって財政を支えてくれる檀信徒の存在は不可欠で、
寄進された土地や田畑は寺領として寺の維持に貢献した。が、明治に入り寺請
制度は廃止され、寺領は召し上げられた。奈良の寺々は葬式仏教の前の時代に
創建されており境内に墓地を持たず檀家も存在しない。寺領没収後は他の収入の
道を確保せねばならなかった。境内に墓地を持ち地域の住民を檀家として
かかえる一般の寺院は葬式仏教の道を歩むことで生き延びることができた。
寺は檀家の布施がなければ寺は成立しない。戒名料が高騰するのは戒名の本質
死後の勲章だからであり、立派な戒名が葬式を贅沢なものにしていく。
が、戒名のあり方や戒名料への批判はあっても改革が行われないのは寺院経営
の問題が深くかかわっているからである。寺は宗教法人であり、檀家は法人を
構成するメンバー、つまりは信者である。・・・ 》
▼ 上記の内容は、この情報化では一般的に周知のこと。ますます、お寺は
 衰退し、墓参り仏教も、変化する。戒名など、いらないし、年内に自分で
つけた戒名の位牌をネットで注文しようか、そんな必要もないか?
私の場合、家族葬で20人ぐらいで、葬儀社の指定した僧侶にお経をあげて
もらって、それで御終い! それを、むしろ願っている。死んでしまえば、
それまでよ! である。 墓は、このブログで充分!
・・・・・
4422, 糞袋の内と外
2013年04月25日(木)
              「糞袋の内と外」石黒 浩 (著)
「世界の中の自分は時に不自由であるが、世界を飲み飲んだ自分は自由
なのである」という新聞広告にひかれて、アマゾンで、この本の内容紹介を
読んでみた。まだ発刊して間もないこともあり、レビューも何もない。
パソコンとネットの機能から、逆に人間の脳の機能を逆照射した哲学を読んだ
ことがある。 ロボット工学者が、人間の形を持ったロボットの視点から人間
を見つめると、また違った何が見えてくる。 まずは ー内容紹介ーより
≪ 人間は感覚器が集まった糞袋。しかしその糞袋は、自分が自分である
 ということを確認する手段を持たない。CNNの「世界を変える8人の天才」
のひとりに選出されたロボット工学者、石黒浩。最先端のテクノロジー開発
を通し人間の本質を見つめる中で、「生きるとはどういうことか?」
「人間とは何か?」という問題を常に問い続けている。【人間を「糞袋」
と捉えることで、どのような答えが浮かび上がるのだろうか? 】約2年間に
わたって発信してきたツイートをもとに考察を深め、いま本当に伝えたい
メッセージを丁寧に綴った、渾身のエッセイ。≫
▼「人間は感覚器が集まった糞袋」と「世界を飲込んだ自分は自由なのである」
 という意味について考えてみる。まず「人間は感覚器が集まった糞袋」を、
「人間は考える製糞器」であると言い替えると、動物とロボットと際立って
違うところは、動くエネルギーが動植物系と電気かガソリンの違いになる。
人間の燃えカスは、一度、糞袋に溜められて排出される。人間は世界を飲み
込んで(環境を直感して主体的に)動くところが違う。それも自由度が高い
ほど人間度が高い、ことになる。自由こそ人間たる要素である。
世界を知り、そこで方向を探し出し、常に環境の変化に対応し、殻を破り
 続ける糞袋が人間の本来の姿。だから、身近に飛行機、自動車、自転車、
パソコンなどの身に合ったツールやシステムを使いこなし、自由度を高める
ことが必要。優秀なロボットを創ることで逆照射をして、人間の本質を探る
切り口は新鮮。人間の肉体を内と外面をシビアに捉え完成に近づける過程
から見えてくる姿は、哲学でいうところの「他者」と「自分」の関係を
考える上で面白い。この工学者は、自分の姿のロボットをつくり、生身の
自分から見つめている。第三者が触ったり、殴ったりした時に何かを感じる
はず。これは自己承認や、他者承認の問題に似ている。ロボットから見たら
糞袋に過ぎない人間の肉体。ロボットのように、第三者からの指示や
プログラムでしか動けない哀れな糞袋が、あまりに多い。そういう私の貧弱な
プログラムこそ最も稚拙!後悔先に立たず。自分を腹から笑えるだけ、
まだましか。
 ・・・・・・・
4048, 一時停止 ー6
2012年04月25日(水)
  * 人間は大文字で書かれた矛盾     
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 唐突なようだが・シモーヌ・ヴェイユのことばを孫引きさせてもらう。
(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在するものであり、
実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。矛盾とは必然性の
如何を試すものである)(存在の奥深くまで体験された矛盾、それは我々の
身も心も引き裂く。それが十字架である)自己弁護のためにひくにしては、
これらのことばがあまりに痛切であることは感じてもらえるだろう。
私は十字架にまで到達できる人間ではないけれども、せめて矛盾をかいま
見る地点にまでは行きたいと思う。矛盾の一方に身を置けば、たしかに
そこにも悲劇は待っていよう。作家の自殺のいくつかはそうした場所で
行われたのではないかと私は想像する。だが矛盾そのものを生きることは
―それは私には想像もつかない。ヴエイユの言う矛盾は、いわば大文字で
書かれた矛盾であり、人間そのものと言っていいと思うが、そのことが、
つまり究極には矛盾しかないのだということが、私に勇気を与える。
私の出会うもろもろの小さな矛盾も、最終的な矛盾と構造的に結ばれている
に違いない。ひとつの矛盾を解決し得たと思うとき、それがすでにもう
ひとつの矛盾のはじまりになっている。その無限地獄にこそあるいは
書くことに第一原因がひそんでいるのかもしれない。―その辺でやめておけ。
おまえにはそんなことまで論ずる資格はありはしない。どうしてそんなに
大仰でこわばった口しかきけないのだ。 おまえの内なる自然の荒廃は
その口のききかたからもあきらかだよ。見栄をはって、もっともらしい
愚痴を人に聞かせる暇はもうないそ。 (一九七二年) ≫
▼【 ヴェイユの(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在
であり、実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。矛盾とは
必然性の如何を試すものである)】が良い。人生を総括すると矛盾の塊である。
しかし、その矛盾こそ実在であると知れば、人生を、そのまま受け取ることが
出来る。「矛盾は人間そのもの」とすれば、自分だけでなく他人を受け入れる
ことも出来よう。激しく生きるほど矛盾は大きくり、その重圧に潰されながら
生きていくことこそ人生の味わいを深くする。人間は矛盾だらけか〜
 ・・・・・・
3682, 節目どきに ー10
2011年04月25日(月)
  * スポーツジムなど行ってみるまでは別世界だったが!
スポーツジムに通いだして三週間になる。行くまでは別世界と思っていたが、
今では生活に組まれた日常になってしまった。ジムのシステムで、色々な
プログラムがあって自分にあったものに参加出来る。 その一つに
「イージーライン」がある。6つの機器を円座になって12人のメンバーが
参加、輪の真ん中にインストラクターが音楽に合わせて全員を誘導していく。 
一つ置きにステップ台があって、大手を振って上がったり降りたりして息抜き
をする。25分間一コースだが、これをベースにして、ランニングマシーンや、
他の機器を使う。最後は小さな暗い部屋に6台ある電動マッサージの一つで
30分ぐらい疲れをとる。 他にもプールや風呂もある。 私の場合は滞在
時間は90分である。 そこに行ってきただけで、気晴らしになる。
私が選択したのは「金曜日が休日、日祭日は参加できないコースで、
時間帯は10〜17時。その時間帯なら、何時間もいてもよい。30坪位の
サロンもある。 金曜と日祭日は、車で5分ほどの近くの市営スポーツ施設
に行っている。ここは三ヶ月で1800円。昼時には数人しかいないのがよい。
とにかく健全な日常を維持しないと! 
  * ウォーカーの数が激減
 晴れている日には早朝、毎日、信濃川の土手にサイクリングに行っているが、
散歩の数が激減している。初めは気のせいかと思っていたが、そうでもない。 
原発事故による放射能に対する警戒のためだろうか。ウォーキングでこれだから、
行楽が大打撃になるのは仕方がない。ホテルは、どの業態も惨憺たるで、私も
早々見切って倒産した。特に温泉街が酷いとTVで騒いでいる。あの草津温泉
では95パーセントがキャンセルで、死活問題になっているとか・・
「新潟の月岡温泉の一番大きいホテルは二棟のうち一棟が休館。
オープンしている棟も、一番上の階しか電気がついてない」とか、
「長岡の奥座敷の蓬平温泉街は、客がほぼゼロ」、という噂が漏れ聞こえてくる。
日本国家始って以来の危機の一現象である。まだピンときてないのが日本の
平和ボケした大部分の人だけ。まだ、他人事としてしか受け取ってない?


5518,閑話小題 〜‘つれづれに’哲学について ー①

2016年04月24日(日)

世界を席捲してきた米国もピークを過ぎようとしているが、まだまだ
その力は侮れない。その文化風土の中で生まれた実用主義たるプラグマティズム
とは、如何なるものか、改めて調べてみた。{参考:「山川哲学」小寺聡編集}
   * プラグマティズムの成立
《 プラグマティズム(実用主義・有用主義)は「行為」「行動」を意味する
 ギリシア語pragmaに由来する。19世紀後半から20世紀にかけて,資本主義を
確立し,工業生産力を急速に増大させつつあった米国の文化風土のもとに
形成されしべんた哲学。
 従来の形而上学的・思弁的哲学に反対し,思想と日常生活とを密接に関連
させる経験論の伝統を受け継いだ米国的な哲学である。この立場は,具体的
経験の中に科学的方法を生かし,知識や観念を行動のもたらす結果によって
絶えず検証しようとする点に特徴がある。当時の発展するアメリカ社会の
雰囲気を反映して,人間生活の未来への楽天的信頼感を基礎にもつ。
この思想の代表者は,米国のデューイ,イギリスのシラーなどである。
パースは,すべての観念の源泉は行動にあるとして,その立場をプラグマ
ティズムと名づけた。》
  まずはでデューイの根本思想から
:道具主義: デューイの哲学の根本思想。学問や知識は,人間が行動する時
 にその行動に役立つ道具である,という考え方。デューイによれば,知識・
 概念・理論は,人間の生活実践から離れて実在する永遠不変のものではなく,
 生活過程での矛盾や困難を解決するための「道具」にほかならない。
 したがって,知識や理論などは使用することを通じて絶えず改善されるべき
「仮説」としての性格をもつ。ある知識・理論の価値は,他の道具と同様,それ
 自体の中にあるのではなく,実際に使用された場合の結果の有用性にあるという。
:創造的知性: (実験的知性)デューイの重視した知性のあり方。
 人間が日常生活の中で様々な困難にぶつかる場合,はっきりとした見通しを
 たて問題解決を図り,未来を展望する能力。人間は,この知性の働きによって,
 過去の習慣の修正を遂行し,新たな人間性を発展させていく,とされている。
:デューイの言葉: 概念・理論・思想体系は,道具である。すべての道具の
 場合と同じように,その価値はそれ自身の内にあるのではなく,それを使用
 した結果にあらわれる作業能力の内、にある。『哲学の改造』 
▼「概念・思想・思想体系は道具」とは、プラグマティズムを一言で言い
 表している。創造的知性の背景に、実用主義があったとは。 日本人が、
プラグマティズムに大きく影響されていたことを改めて知った。経済、
経営とは、そもそも、そういうものだとしても。ドラッガーの思想は、その
典型。デューイの課題は、個人の自由・平等・幸福を最高の価値とする
自由民主主義を、時代の要請に合わせて立直すことにあった。その点は、
日本国内の政党も同じだが。問題は、それを実現する能力の格差。
 米国大統領選のトランプ候補の発言を聞いていて、プラグマティズムの
限界が、そのまま現われ出ているようだ。 面白には面白いが・・

・・・・・・
5153,知の逆転 〜⑩
2015年04月24日(金)
           ー知の逆転ー 対談相手〜マービン・ミンスキー
   * 感情とは思考の単純形だ ー感情機械としての人間
 感情で動く多くの人からみたら、元もと感情が単純形と思うのは当然。
逆に、心理学者や哲学者からみれば、感情は複雑で底がしれない泥沼の
ようなものと考えているため、改めて考えることになる。考えつくした
末の感情であれば、決して単純形ではないが・・ 〜その辺り〜より
≪ ミンスキー: 何干年もの間、人々は、「思考」すなわち理性的で論理的
 で機械的なものと、「感情」すなわち自然で論理的でないもの、というふう
に区別してきたわけです。従来の心理学は、自然な行動というものは二種類に
分けられるという考え方に基づいていました。 ちなみに私に言わせれば、
何にせよ世界や物事を二つに分けようとする試みは、大きな間違いです。
そうすると、全てを「これ」か「あれ」であると言わなければならず、両者の
間に位置するものに対して、橋をかけられない。私の発見の大半は、少なく
とも三つの事柄があるという考え方に基づいたものです。ですから、「ここ」
から「あそこ」へ行うとしたときに、障害(三つ目のことがら)があれば、
それを迂回するという考えが出てくる。 
 本来「思考」と「感情」を分けて考えるべきではないと思います。「思考」
というのは非常に複雑で、われわれは実に多様な物事の理解の仕方をする。
一方、わずか10〜20くらいの別のやり方でも物事を理解していて、これらを
「感情」と呼んでいるわけです。従来、「思考」というのはシンプルで論理的
であるのに対し、感情は非常に複雑で強力で神秘的だと考えられてきたわけ
ですが、これが大間違いなんですね。
 「感情」というのは非常に単純な動物でも持っている。ある状態では
とてもお腹がすいているから、食物がほしいと思ってそれが行動を独占する。
別の状態では危険を感じる、だから即逃げる。そしてまた別の状態では――
というふうに、単純な動物は、こういった反応の仕方をするわけです。
 これに対して、哺乳類や鳥類の一部、タコなどの複雑な動物は、状況に応じて
実にさまざまな反応の仕方をするわけで、これらを「思考」と呼んでいるのです。
従来の考え方とは逆に、「感情」というのは単純かつ機械的であり、「思考」は
実にさまざまな状況の判断や反応の仕方をするものだというふうに、見方を変える
必要があると思います。・・・(略) P194 ≫
 ▼ 「思考」が単純で論理的プロセスであると考えるのは全くの間違えで、
単純で、機械的なのは、怒っているとか、恋をしているとか、腹が減っている
とかの「感情」の方であるという。感情的になって事業停止をしたのではなく、
考えつくした上で、決断する。あくまで、感情は思考の単純形というのは、
自分の経験からみて至極当たり前のこと。一時的恋愛感情だけで結婚、その結果、
冷静に互いを見つめて、考えた結果の離婚の多さが、それを物語る。 熱病に
でもなければ結婚など出来ないが! まずは一息、入れろ!さらに、もう一息!
・・・・・・
4788,「道徳」を疑え! 〜2
2014年04月24日(木)
       「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜        
 * 自分の頭で考えるための哲学講義 ー大抵のことは嘘を見抜くこと
   ーまずは、その辺りを抜粋ー
《 哲学の第一歩は疑うことである。なぜ本質や真理に到達するために疑う
 ことが必要かというと、本当のことは常に隠れているからです。私たちは
ついつい人から聞いたことや、実際に見たものをそのまま本当のことと信じ
込んでしまいがちです。でも、たいてい、それは嘘なのです。これには人間の
弱さや未熟さが関係しています。イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、
それを「イドラ」と呼びました。本当のことを隠してしまう臆見(おっけん)
のことです。 彼によると、人間には四つのイドラがあるといいます。
・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、
 感情や感覚によって知性が惑わされることによって生じます。人間は自分が
 主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できないのです。
・二つ目は「洞窟のイドラ」です。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んで
 しまったかのように、個人の狭い事情により生じる思い込みです。
 その人の受けた教育、影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い
 考えに入り込んでしまう。
・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込み。
 あたかも市場で聞いたうわさ話を信じてしまうがごとく、人は言葉のもつ力に
 弱いもの。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因になる?
・四つ目は「劇場のイドラ」です。あたかも劇場で観たものに強い影響を受ける
 ように、すでに完成した塊のストーリーを目の前に提示されると、人は容易に
 信じてしまうものです。バトルゲームに影響されて犯罪に走る若者がいるように。
 このように、人間は弱い存在であることから、なかなか本当のことが見えなく
 なってしまっているのです。したがって、本当のことを知るにはあえて
 見たまま、聞いたままのものを疑うことが必要になってきます。
 しかもそれを根源にまでさかのぼって徹底してやらなければなりません。
 そうして初めて、答えに到達することができるというわけです。批判的・
 根源的に考える哲学という学問が、出来合いの「正しさ」を植えつけよう
 とする現行の「道徳」とは正反対の営みだということが、これでご理解
 いただけましたでしょうか。・・・ 》
▼ 私が40歳過ぎから還暦まで年に二回以上、秘境・異郷を中心にした
 ツアーに参加して気づいたのが、逆照射の視線である。極北のアイスランド
の地から見れば、日本は極東である。アフリカの最南端のケープタウンから
みても同じで、日本で思いつくのは、空手、忍者、侍、ソニーぐらい。
そこからみた、常識とか、道徳を分解すると、上記の四つのイドラになる。
地球を象に例えると、我々は、その皮膚のヒダに棲むダニかシラミになる。
その視線が行く回数を重ねる度に、強くなっていった。装置産業もあって、
あまり人と接する必要もなかったため、強固な小さな視線しか持ち得ない人
との接点を最小に保つことが出来たことが、人生最良の環境と思っている。
 他人からみたら、変人そのものだろう。それも、人間関係工学(造語?)
を40年以上も独学を続けているのだから、やはりオカシな人間だろう。
おまけに、創業を20歳の時点で決心したため、視線が現状、現象の先を
見つめることが優先となれば、言動は誰から見ても変? それでも変な
創業事業者という隠れ蓑があったが、それが無くなった今!?
・・・・・・
4421, さっさと不況を終わらせろ
2013年04月24日(水)         
 * アベノミックスの理論的背景は、こんなもの!  
    「さっさと不況を終わらせろ」ポール・クルーグマン (著)
 安部政権の経済政策の大元が、この本ではないか? しかし非常に危険と
思うのは私だけでないはず。国力が無い国が、これを実行したらハイパー
インフレになり国家破綻になってしまう。強者の手法ならよいが。
そこで、日本は強者か、弱者なのか? 腐っても鯛(資源、軍事、金融、
世界共通言語、農業などが出揃っている)のアメリカとは立ち居地が違うと
懸念するが。まあ、ジャブジャブの結果、どうなるか見物である。
   ーアマゾン内容紹介ー
 いま最も信頼できるノーベル賞経済学者がついに叩きつけた不況打破への
最終解答!  リーマンショック以降、いまだに好転の兆しを見せない世界経済。
では、各国政府と中央銀行、そしてわれわれが本当になすべきこととは――? 
いま最も信頼できるノーベル賞経済学者が、ついに叩きつけた最終解答。
(本書「訳者解説」より)ー日経「エコノミストが選ぶ」2012年経済図書第2位
≪ 本書の主張はきわめて単純明快。いま(2012年)はまだ、りーマンショック
 以後の不景気が続いていて回復していない。そして失業者の技能や労働市場で
の価値の低下から、その害が一時的なものではなく、長期的被害になりつつある。
だから景気回復策をきちんとやろうということだ。そしてその手法も明快。
【 前書きよりー 昔ながらのケインズ的な財政出動をやろう。
 赤字国債を出して、大ものを一気にやるべきだ。そして中央銀行はそれを
金融緩和で徹底的に支援すべきだ。それに伴う財政破綻だの金利上昇だのは、
悪しき固定為替制度の下にある、ユーロ圏のスペインやイタリアのような
かわいそうな国以外は、全く心配する必要はない。以上のきわめてシンプル
な主張をまとめたのが本書となる。】 ・・・(略)
【 あとがきよりー 本書を読んで、一人でも多くの人が現状の各種政策の
 愚かさに気づけばとは思う。財政出動しようよ。かなり手遅れとはいえ、
復興まともにやって、教育やインフラ補修にどんどん予算だそうよ。そして
予算つけるだけでなく、ちゃんと消化しようよ。必要なら予算執行の細かい
基準とか緩めようよ。日銀は、すでにやっている国債引き受けをもっと
認められた枠いっぱいにやろうよ。それ以外にも、自分たちの保身だけでなく、
日本の人々のことももっと考えてよ。そして増税なんて今やることじゃない
でしょうに! そういうことを理解してくれる人が、少しでも増えてくれれば─ 
 こう書きながらも、それがどれほどはかない望みかは、知らないわけじゃない。
それでも、一人でもそうしたごく基本的な部分を理解できる人が増えることで、
日本経済の未来はすこしはよくなるはずだ、とぼくは信じている。報われない
信仰かもしれないけど…そのために、本書がごくわずかでも役立つことが
あれば、大いなる幸せだ。―山形浩生(訳者) ≫
▼ これで不況が終わるのだろうか?本当に!ハイパーインフレになった時、
 銀行閉鎖かデノミを実施すればよいのは分かっている。現状がすでに待った
なしの事態からみれば、それでよいのか? PIIGSとは違い、自国通貨で
インフレを起すから大丈夫とかは、このグローバルの金融の世界で果たして
通用するのか? そのツケは、社会的弱者にまわってくるので、現在の
選挙システムでは、政権そのものが持たない一年内閣が、続く。
ということは、ハイパーによる自滅が4^5年先と見るのが道理だが。
顔色だけは良い麻薬漬患者?あっそう、アベグロ劇場の始まり!
・・・・・・・
4047, 一時停止 ー5
2012年04月24日(火)
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 魂という言葉
≪ フランスのアランという哲学者は、「一つの身体の運命に結びつけられた
 精神が魂(AME)というものである」と定義した。同じフランスの現代の
前衛的文学者たちの中には、魂などという語はもう使えないと言っている人たち
もいるらしい。彼とって人間は魂という言葉ではとらえることが不可能なほど、
細分化され抽象化された存在なのだろうか、だがぼくにとっては、魂という言葉
はまだ或る現実的な手ごたえをもってる。 肉体なしでも成立するかのように
使われる精神という言葉とちがって、魂には人間の肌のぬくみが感じられるんだ。
精神はたしかに個人の肉体を離れて、その死後もかずかずの書物や芸術によって
伝えられてゆく。だが魂は、個人の肉体の死後むしろゆきどころを失って
宙にただようもののように思える。「詩人の魂」という歌があったっけ。
たしか歌の歌詞は忘れられても、そのメロディは人々に口ずさまれて残ってゆく
というような歌だった。自分はいったいどこから来て、どこへゆくのか、自分が
たかだか百年に満たぬ人生を、この無限の宇宙の中の地球と呼ばれる星の上で
過すことに、どんな意味があるのか、そんな疑問にとらえられたことのない人間
はいないだろうか、そして決して本当の答を得ることができないそんな疑問に、
精神は或る仮の答えを出すことが出来る。たとえば、いまのぼくは、自分に
こだわるより、むしろ我を忘れて自分を超えた他人の世界にかかわってゆく
ことに、あるべき生きがいを見出そうとしていると言えるかもしれない。・・≫
▼ アランの魂について、「一つの身体の運命に結びつけられた精神が魂」
 という定義が分かりやすい。 キリスト教徒は、「魂は人間の不滅の本質
であり、魂は死後に 報酬か懲罰を受ける」と信じている。 私の魂の解釈は、
「心は毎日変わるが、魂は、その心を支えている生まれてから死ぬまで一貫した
幹である。感激は心の響きだが、感動は魂の振動」である。秘境の大自然の中で
何度も魂の振動を経験した。それが感動である。全身全霊で何かに没頭した
ときに魂が現れ出てくる。
・・・・・
3681, 逆説を考える
2011年04月24日(日)
 考えるときの一つに、正反対の説を立てる方法がある。「逆も真である」
を試してみると、考え方の幅が広がってくる。とはいえ、逆説を正面から
考えたことはなかったので、その意味を取り上げてみる。学生時代のゼミの
教授が、中根千恵の「日本社会は縦社会=蛸壺社会」という説に対し、
「横社会=資格社会」という説を立てられた。「日本社会には武家社会の
影響が残っており、殿様、家老、家臣、家では家長、嫁、婿、長男、末っ子、
という資格社会ではないか。蛸壺というが、どの世界でも、その資格で評価
されるではないか?」という逆説に驚いてしまった。それを切欠に、
逆照射の見方を常に持つようになった。
   ーYahoo辞書によると、 ー逆説とはー  
1 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を
 言い表している表現。「急がば回れ」など。
2 ある命題から正しい推論によって導き出されているようにみえながら、
 結論で矛盾をはらむ命題。 逆理。 パラドックス。
3 事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、
 その結論に反対する論拠を容易に示しがたい論法。ゼノンの逆説が有名。
 逆理。パラドックス。  ー広辞苑」によると
「衆人の予想に反した、一般に真理と認められる説。また、真理に反している
 ように見えるがよく吟味すれば真理である説」。逆説といえばマックス
 ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
 資本主義といえば「自分の利益の為に利益を追求する」ことだが、
 マックスウェーバーは資本主義は「プロテスタント」は「禁欲」「勤勉」の
 基本理念から出発したと主張。「禁欲」を目的とした「プロテスタンティズム」
 は「勤勉さ」を旨とする「合理的」生活態度を形成した結果、
「計画的・合理的」に企業経営を行おうとする精神が形成されたという、
 逆説は資本主義社会の大きな精神的支柱になった。
▼ 「逆も真なり」という諺が昔から日本にあったが、両者とも成立する
 確信で考える入口になればよい。考えるための一番の近道だが、正論を
 把握した後でないと単なる歪みになってしまう。 
 


5517,閑話小題 〜「ここはロドスだ、ここで跳べ」

2016年04月23日(土)

   * 「ここはロドスだ、ここで跳べ!」
 ロジックだけで、論理を実行のプロセスに移せない人に対する言葉が、これ。
時どき面白い男を紹介されるのが、「夢や構想は立派だが、何故か手順に落と
せず、どの社会でも浮いている一人」。よくよく話を聞くと、他者の影の批判
から出発した夢でしかない。要するに熟成された構想でない。そこまでは、
誰もが考えるが、問題は熟成。「ほら」も、時として必要としても・・
  〜ネット検索より〜
≪ イソップ寓話に収められた「ほら吹き男」の話に出てくる言葉。
 古代競技のある選手が、遠征先から帰ってきて自慢話をし、
「おれはロドス島では、五輪選手も及ばないような大跳躍をした。
皆がロドス島へ行くことがあれば、その大跳躍を見た観客が快く証言して
くれるだろう」、と言ったところ、それを聞いていた一人が、
「そんな証言は要らない。君が大跳躍をしたと言うなら、ここがロドスだ、
ここで跳べ」と言った、という逸話。 この寓話からどんな教訓を読みとるか
についてはさまざまな解釈があるようで、最も素直な読み方は、「手っ取り早い
方法で証明できることについてくどくどと論じる必要はない」ということで、
「論より証拠」に近い意味になるでしょうか。また、「実力を出さなければ
ならない場面で出せないのは、真の実力ではない」といった教訓を読みとる
のも一般的なようです。ヘーゲルやマルクスは、それぞれの自著の中で
上記のイソップ寓話からこの言葉を引用しています。 ≫
▼ 「私に任せてくれたら、機会に恵まれたら、と目を他に向ける前に、
 まず現在、取組んでいることに専念すること」を示している。何処かに
理想郷を求めるのではなく、実現された仕組みを足場に、自分の能力を発揮
すべしということ。「今、ここで、私」が跳ばないで何時、跳べるのか。
で、跳ばないまま、留まり、初老性鬱病になった挙句、流離うゾンビの群れに
加わり毒を吐く。これも、立派な人生だが、遅くない、そこから跳びなさい!
「エッ、それ、誰のこと?」「いや、全ての人です! 安心してください?」

・・・・・・
5152,閑話小題 〜常識とは
2015年04月23日(木)
  * 常識とは何か
 アインシュタインの言葉に、『常識とは、18歳までに仕入れたもろもろの
先入観のコレクションである』がある。人生を振返ってみると、まさに先入観
の破壊の連続。 地方の田舎から上京をして、右も左も分からず、多くの壁に
ぶつかり、その都度、先入観の壁が一つずつ叩き壊れていった。
 あれだけ必死に挑んだにもかかわらず失敗と挫折の連続。 何故だろう?
そこで考えたのが、己のの無知、無能の自覚である。実際に多くの挫折を経験
をすれば、認めるしかない。その底から立上り、一歩を踏出すためには膨大な
エネルギーを使った末の知恵を絞り出すしかない。バカの壁の認識と、破壊
である。挫折とは創造前の破壊になる。21歳の夏の‘欧州一ヶ月間の旅行’で、
自分を取囲んでいた壁が粉々に崩壊された。そこで見たのは、西欧文化の深さ。
その西欧からみえた「極東の黄色人種の私」という存在。日本すら知らない、
自分すら知らない私の自覚。あの経験はプラス・マイナス両面で大きな節目。
経験と知識と、それから捻り出す知恵が、人生にとって、最も大事な要素で
あることを実感した。それぞれの国と地域には、そこの常識がある。
それは、そこの常識だが、一歩、二歩離れると、それは非常識でしかない。
常識が悪いというのではない。常識は必要条件であって、絶対条件ではない
ことの自覚を常に持ち続けることが必要ということ。
18歳までに仕入れたもろもろの先入観のコレクションこそが、人生の壁に
なっていることを、早々、気づく必要があるということ。そういう常識の
持ち主の人たちの中で、一生を終えるのも人生。鳥瞰するのも人生である。
・・・・・・
4787,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜�
2014年04月23日(水)
    * 綺麗に止めたい、のですが! 
 実際に自分が当事者になって感じたことは、自分もそうだったが、
他人の卑下の視線と、いい加減さ。地場の中で単一価値観しか持ち得ぬ人の
「上から目線」が、漫画的で面白いといえば面白いが、経験する前の自分は、
こんなもの。倒産といえば、【夜逃げ、自殺、家庭不和による離婚、計画倒産、
連鎖倒産、社会的抹殺】などが思い当たる。娑婆からみれば、良い倒産、
悪い倒産など関係なく、差別対象で、成るほど!と、実感する日々!
弁護士に依頼したことは「30年間、会社取引は綺麗にしてきたので
『立つ鳥跡を濁さずで』終えたい!」に対し、「倒産に綺麗も汚いもない。
あるのは、良い倒産と悪い倒産だけ。今の状態は、それは可能。点数でいえば、
100点はあり得ない。せいぜいで70点!その手伝いをするのが弁護士の役割」と。
「ならば、その70点でお願いします!」で、方針が決まった。 結果は概ね
70〜80点と自己評価。弁護士も、その方針とおり動いてくれ、事業物件の、
全ての買い手がついた。 自宅も、家内が購入を希望し、名義が家内に移って、
現在に至って、今では使用人扱い! 抵当などのの弁済平均が全国平均11%に
対して、40%弱の弁済で、無事終了。一般債権も、労働債権もほぼゼロ。
役員と社員の退職金も規定の7〜8割は支払うことが出来た。  
 中小企業は、万一に備えて事業主の連れ合いに給与を支払い、厚生年金と
健康保険をかけて、残りを本人名義の預金にする。これが「間接保険」になる。 
特に、長期の設備投資には必要条件というより絶対条件になるが、これが
装置事業でないと、その備えをしていない。それと妻など家族に、連帯保証人
にしないのも長年の知恵。 私の場合、40年近く、給与の一割を目安に家内の
給与にしていた。これが、今では、命綱になっている。孫子の攻守の鶴翼の
構えである。 思わぬ震災クラスの社会変動を、家系として経験してきたから
こそ出来たこと。更に保険に入る代わりに、家内名義の預金を40年近く続けて
いたが、塵も積もれば(小)山。 ケセラセラでは、生きられないが、これを
もって計画倒産と巷の噂! 弁護士に、「私の場合でも計画倒産?」と聞いた
ところ、「倒産には、計画倒産と計画的倒産があり、長年にわたり備えるのは、
それ以前の体質の話。『金持父さん、貧乏父さん』という本があったが、
もじって『良い父さん(倒産)、悪い父さん』が基準の言葉。 世間的には、
それを同じに見ているが、似て、非なるもの」との解りやすい回答。 
それを前提に、あの卑しい目線の底の浅さが見え、それが気持ちを大きく支える。 
成るほど、人間は自分の範囲でしか事象を解釈できない。そういう自分自身も
同じことだが。日頃から教養、特に哲学、歴史を学んでいないと、こうなる。

・・・・・・
4420, 暴走老人!  −3
2013年04月23日(火)
   * 孤立化する空間      「暴走老人! 」藤原 智美 (著)
 近所をみても一人住まい老人の家が目立っている。去年には孤独死の老婆が
死後発見された。二年前には、その隣の老夫婦の奥さんが自死。独り住まいの
弧族が目立って多い。そういう我家も何時、いずれ弧族になる? 近くに
スーパーや、コンビ二があるので、不便はないのだろうが・・ スマート
フォンの普及は便利な反面、人と人との係わりを最小にする。また、年寄りは
情報機器を使いこなせるかどうかで二分される。使いこなせない人の疎外感は、
より大きく膨らむ。とはいえ、孤立した老人が不幸か?というと、これだけは
当人しか分からない。大家族の中の孤立の方が不幸のケースもある。
現在、毎日、書斎に4ー5時間はパソコンか読書をしている。それを孤立とは
言わない。問題は、孤立した空間で楽しめるか。≪ かつて農漁村、都市の
商店街のような場所には、仕事や土地(地域)を通じた共同性が存在した。
一方、郊外住宅地に仕事を基盤とした共同性を求めることは不可能だ。
そこは仕事場とは切り離された、文字通り「ペツドタウン」である。
しかも長い時聞をかけて発展した町ではない。そのほとんどが、計画的に一気
に造られたきわめて人工的な町である。当然、造成地という白いキャンバスには、
地域社会の秩序となる規範など存在しなかった。数世代、数十世代にわたって
造られていった町のように、受け渡される土地に根ざした約束事もない。
郊外に暮らし始めた人々は、同質性(家族構成、年齢、収入は似たり寄ったりの
ある家をそなえていた。 彼ら核家族は、古い家父長制や地域共同体の縛りから
自由な新しい家族像、核家族を中心としたマイホーム主義を実践した。
だがそれは一方で、地域社会の力を極端に弱める結果になった。それぞれの
核家族が均質な力をもった存在として、新たな土地で生活をスタートさせる。
彼らを束ねる地域の「権威」もなく、関係の秩序が成立していないその時点で、
互いが強い主張を始める生活はきわめて不安定化する。住みにくい、ストレス
な場所になるだろう。その状況で新住人たちが選択したのは、なるだけ隣人と
かかわらないことだった。互い干渉しないことで、新興住宅地はかろうじで
暮らしの場所となったのだ。(略)・・ 鳥瞰してみると、そこにあるのは
各戸に孤立して存在する家庭群落だった。群れていても、関係しないという
どこか矛盾した場所が郊外である。やがて明らかになったのは、孤立する家が
内部では個室によっでさらに分節化され、家族もまた個人として孤立している
という像だった。新興住宅地は二重に分節化され、最後は個人に行き着く。
それが「孤独な郊外」の本質。だが地域社会が衰弱、家族が孤立する構図は
郊外だけにあるのでない。都市近郊の団地からスタートした「孤独な郊外」は、
都心部の集合住宅にもおよび、今では農村地帯も孤独な郊外化は進んでいる。
こうして日本中の住宅地から地域社会はしだいに姿を消していった。
そして非地域社会化をいち早くスタートさせた郊外住宅地は、現在著しい
疲弊の姿をさらしている。多くは「ふるさと化」が失敗し、二代、三代と
住みつづけ、新しい規範を生みだすこともなかった。最近では大都市圏で、
都心回帰がさらに郊外住宅地の疲弊を早めている。住まいから次世代が
消えた老人世帯は、家そのものが個室化した。・・・≫
▼ 平櫛田中の言葉「子供しかるな来た道じゃ、年より笑うな行く道じゃ・
 行く道・来る道一人道・これから通る今日の道。今やれねば誰がやる・
わしがやらねば誰が やる」がある。これは【「子供叱るな来た道だもの、
年寄り笑うな行く道だもの、来た道行く道二人旅、これから通る今日の道、
通り直しのできぬ道」作者不詳。妙好人(=浄土宗の信徒の誰か)】を、 
言い換えたものと思われる。この位の意志がなければ、生きてはいけない。
そういう私も何時の間に、その年寄りの仲間入り。年齢に気持ちが
追いついていけない日々を孤立化した書斎で、過ごしている! 
・・・・・・ 
4046, 閑話小題 ー癲癇について
2012年04月23日(月)
  * 癲癇とは
 先日、京都で癲癇持病の交通事故で多くの死傷者が出た。発作時には
気を失うというから恐ろしい。 以前も似た事故があった。持病を持った人
にとって働く範囲が決まってくるため本人にとって大変な病。 国内に
120に一人、100万人が患者というから、身近にもいたはずだが何故か
具体的に知らない。10年ほど前のこと。突然、バスの後部座席で後ろの人に
両手で全力で肩を掴まれた。 その時に何が起きたか理解できず、前屈みに
立ち上がり、その手を払いのけた。そして振り返り怒ろうとしたが硬直している。
何かの発作が起きたと判断して騒ぎにはしなかった。次のバスステーションで、
その中年女性が何事もなかったように降りていった。それが癲癇ではないか?
と、思うに数日ほどかかった。今回、100万人も存在していることに驚いた。
100人万といえば、リウマチ患者と同じ。患者本人は人前に出ず可能の限り
隠すので表面化していないという。 
  * 悲しきかな、人生は!
 先日、連帯保証をしている関係で自宅は家内の物件になり、私は宿六に。
弁護士曰く、「爪を切らた貰われてきた飼い猫のように大人しく従順に生き
延びるしかない!」と辛辣。 無理? とすると!
  * フランス大統領が交代?
 フランス大統領選挙でサルコジが落選の様相である。5月6日で決選投票で
交代にでもなったら、ユーロ危機が大きく再燃する。世界経済は毎日がスリル
とサスペンスの日々である。 時の権力者がギリシャ、イタリア、スペイン
などPIIGSを救いざるを得ないのは解る!日米欧の、どこもかしこも際どい状況。 
中国も首脳交代で怪しげな権力闘争が表面化してきた。年末の韓国とアメリカ
の大統領選挙もある。
・・・・・・
3680, 節目どきに ー9
2011年04月23日(土)
  * ふと、思うこと
 まだ何が自分に起きていることが、分かってないのかもしれない。 
廃業、倒産と慌しく現象だけは移り変わっていくが、何か他人様から
「奇妙なもの」に見られているような、これまでの視線とは全く違うような・・ 
それはそれで仕方がない。経済震災・自然震災としても、倒産は倒産。 
それでも、新潟・長岡と職・住が別だったので半分は助かってはいるが。
これから起こる経済動乱を考えると、一年だろう。銀行債権以外の一般債権
などは、ほぼ迷惑をかけないで済んだが、一般の人は、そのことを知らない。 
家内も含め、二人とも厚生年金に40年以上入っていたので、今日明日の生活
の心配はない。弁護士がいうに、「現時点で3割が終了、債権の9割9分以上が
銀行債権で、一般債権を、ほぼ完済しているので、これまでは順調。手続きから
して二年が目安。」 それにしても私自身に、自分の立場に何の疚しさと、
暗さがないのが問題。「これだけは、経済震災と自然震災で、私の力の及ぶ
ことでない」という思いがあるし、実際に、そうだ。 あんまりケロッとして
いるので、30年来の税理事務所の担当に「貴方は、自分の置かれた立場が
全く分かってない!」と注意された。それも分かるが、「じゃあ、どうすれば
良かったのですか?」という内語が、何処かで沸いてくる。 それらしく、
していろ! ということか。しかし時間の経過と同時に、気持ちがジワジワと
追い詰められていくのが分かる。自然災害も含め、それぞれ全国民の問題だが。
・・・・・・・
3315, アポリアと空とぼけ
2010年04月23日(金)
「プラトンー哲学者とは何か」 納富信留著
 *アポリアと空とぼけ  P−36
対話によって突き落とされるこの困惑の状態は<アポリア>と呼ばれる。
それは、どこにも進むことができない行き詰まり、途(アポロ)のないあり様を
意味する。ソクラテスの吟味にさらされ、アポリアに落いった者は、対話相手
メノンが告白するよるように、あたかも「痺れエイ」に刺されたように感ずる。 
対話相手は心も口もしびれて何も言えなくなってしまう。このような対話に
おいてソクラテスは、問いかけ、議論を導く主導者の役割をはたす。しかし
ソクラテスは、対話をかわしながら、自らはその事柄について「知らない」、
つまり、自らもアポリアにあると主張する。その一方で、対話によってアポリア
へと追いやられ、無知を突きつけられた人は、言葉によって鋭く矛盾をついて
論駁するソクラテスが、その問いの答えを実ははじめから知っているのでは
ないかと推測する。さもなかったら、どうしてこれほど鮮やかに、相手の無知を
あばき出すことができるのであろう? しかし、そうしたなかであくまで
「自分もあなたと同じように、知らない」と言いはるソクラテスに、やりこめ
られた相手は、しばしば怒りをぶつける。 ソクラテスは本当は知って質問
しているのに、しらばくれてわざと知らないふりをし、意地悪にも人々の無知を
あばき立てよろこんでいるのであると。 人々はこうして、ソクラテスを
「空とぼけ」の人と呼んだ。「空とぼけ」が、対話するソクラテスの謎を
あらわす言葉となったのである。 だが、ソクラテスの対話を空とぼけ、つまり、
本当は知っているのに知らないふりをしているとみなすのは、対話する相手や
対話を見ている人であり、ソクラテス自身は空とぼけているわけではない。
▼ 学生時代の卒業の年に人事関連のゼミと出会い、そこでの学びの中で、
 自分は何にも知らないという事実を突きつけられ、呆然自失状態。
「学生時代にモット知識を得ておくべきだった!」と、頭がグチャグチャ状態。 
その結果、悩み苦しんだ結論として、死ぬまで学び続けること。 
何があっても、一日ニ時間の読書を自分に課せることだった。しかし、
最近気づいたことだが、「グチャグチャと、学び続ける決心」そのことが学生
時代の一番の学習効果だったこと。ゼミの教授の方針に乗ってしまった
ことになる。「自分は何も知らない」という思い込みが「アポリア」として
プラトン、いやソクラテスが2500年も前に看破していたのである。
15人のゼミの人たちの議論から、「何も知らない自分を一年かけ知った
ことになった。」  本当に有難いことである。 で、このザマ? 
人は人、我は我。 「全て人生は無知の馬鹿踊り」と思えば、楽なもの。 
自分は違う? 貴方だけはね!
・・・・・・・
2940,レーシック専門眼科医院 ー2
 2009年04月23日(木)
視力の矯正方法には、メガネ、コンタクトレンズ、の他に、
レザー手術、有水晶体眼内レンズ、オルソケラトロジーがある。
・レザー手術は、レザーで角膜の形を変えてしまうもの
・有水晶体眼内レンズは、角膜と水晶体の間に、コンタクト・レンズ
 を入れて矯正する方法。
・オルソケラトロジーは、寝ている間にハードコンタクトを入れ角膜に
 クセをつけてしまう方法である。レザーや、有水晶眼内レンズを入れたり
 すると、ドライアイになりやすい欠点もあるという。
 今回の短い先生との会話を再現してみよう。
・私の質問、  レザーや、有水晶体眼内レンズの失敗確率は?
  先生の答え、 数千分の一
・質問、 失敗したり、上手くいかなかった時は、どうなるんですか?
  答え  出血をしたり、レンズがずれたり、黴菌が入って炎症が
     起きたりするケースがあります。
・質問  もしも初期の白内障を取ってもらって、レザーで矯正をしたときの
     中期的なマイナスは何ですか。
  答え  早ければ早いほど、次の段階、緑内障に移行する時期が
     早まることになります。
・質問  私の今の段階での手術は、先生は勧めますか?
  答え  私は元々、手術は最後の手段で、本来はすべきでないというのが
     持論です。今回の場合は、手術は勧めません!何を選ぶかは本人次第。
・質問  もし、手術をしたときに眼の度数が進んだり、
     白内障が再度出るのですか。
  答え  もちろん、度数は同じく進み、白内障も出てきます。
     更に緑内障になる可能性も早くなります。
・質問  近視の進行を止める薬が開発されたと聞きましたが、実際に、どう?
  答え  あれは、過大評価で、殆ど効きません。出しても良いですが、
     効かないものを出すこともないでしょう。
▼ 以上であったが、それにしても良心的な先生であった。身近な二人の経験者
 が同じような忠告をしてくれていたが、「緑内障への移行が早くなる」と、
「貴方の体質は極力、手術をしない方がよい」が、今回の断念の決め手である。


5516,閑話小題 〜トランプ・マニヤ

2016年04月22日(金)

   * 道化師の泡沫候補の鼻息
 「トランプの暴言集」とネット検索をした結果の一つに以下の内容があった。
典型的な泡沫候補が、共和党候補になる勢いだが、保守白人の本音がこれ!
共和党内の支持者の91%が白人、「移民が米国民の雇用や医療保険を
剥奪している」と考える人が83%、「黒人が貧しいのは本人の責任だ」と
考える人が93%だった。男性のトランプ支持が女性の倍。つまり、弱者への
優遇に不満を持つ白人がトランプの暴言に溜飲を下げている。末恐ろしが、
これがアメリカ白人の本音。 〜「トランプの暴言」で検索すると〜
【 1年前は“道化師”とからかわれたドナルド・トランプ候補(69)だが、
 今や大衆に強く支持されて共和党候補のトップを走っている。
 その理由は全身をポピュリズムで武装しているからだ。
・「ポピュリズム、いわゆる大衆迎合主義というのは支持基盤がもろいので、
 トランプブームは一過性というシナリオも描いておく必要がある。ただ、
8年前にオバマ大統領が『チェンジ』を掲げ、彗星のごとく登場したときの
ように、既存の政治と政治家に対する不満を一手に引き受け、国民に夢を
抱かせるような候補者がトランプ氏以外に見当たらないのも事実です」
(在米日本人ジャーナリスト)
 トランプ候補は、いわば民衆の“怒り”のはけ口となっているのだ。
しかし、陣営には政策担当者がいない。それもあって、誰もトランプ氏の
暴言・失言を止められないでいる。暴言を幾つか拾うと、
・まずは【移民、難民、イスラム教徒、女性蔑視】について。
「メキシコ人は強姦犯だ」
「(不法移民を締め出すために)国境に万里の長城を築く。
 ただし費用はメキシコ持ちだ」「移民なんかクソくらえ」
高卒の保守層労働者にとって、メキシコ移民は自分たちの仕事を横取り
する存在だ。暴言には違いないが、労働者は怨念を晴らしてくれたと
拍手喝采を送った。とはいえ難民、不法移民は米国に1400万人もいる。
彼らはすでに既得権益化し、強力なロビー活動を頻繁に行っており、
簡単には解決できない。
「すべてのイスラム教徒の入国を拒否すべきだ」
 この発言には与野党一体となっての非難の大合唱。イスラム教徒や
メキシコ人排撃は、ポピュリズムの極端なアピールだが、そもそも移民の
連邦国家がアメリカであって、WASP主流(白人エリート支配)という考え方が
成り立つはずもない。
 また、女性蔑視発言は大の得意技。特に強烈な2つを紹介しよう。
まずは同じ共和党唯一の女性候補だったフィオリーナ氏について。
「あの顔を見てみろよ。誰があんな顔の奴に投票するってんだ?」
 民主党ヒラリー・クリントン候補にはこんな一言。
「夫を満足させられないヒラリーが、アメリカを満足させられると思うか?」】
▼ まあ、いくら本音といえ、こういう人物が、共和党候補になること自体が
 アメリカのジレンマが現れ出ている。これはモンロー主義そのものになる。
世界にとって他山の石でない。それだけ、世界は動乱期に入ったということ。

・・・・・・
5151,知の逆転 〜⑨
2015年04月22日(水)
           ー知の逆転ー  対談相手 オリバー・サックス
   * 人間特有の能力とは
 人間特有の能力とは、「文法」と「読む能力」という説。これは50年近くの
読書習慣と、一日一文章の作成から実感するが、少年期に読書週間がなかった
ことがハンデになって現在に至っている。それでも、読書習慣で助けられた。
文法こそが、多くの意味をもたらすが、技量をつけるには量をこなすしかない。
≪ ・多くの動物や猿が、40もの異なる危険を知らせる音を持っていること
 が知られていますが、これらはどちらかというと記号のようなものです。
人間の言語では、チョムスキーの言うような意味での「文法」というものが
不可欠になります。文法こそが言語に限りなく多くの意味というものを生み出す
ことを可能にし、言語をクリエイティブなものにします。単に情報交換を目的と
したコミュニケーションのためだけでなく、われわれ自身そのものを表現する
手段としての言語というのは、人間に特有のものでしょう。
音楽もそうです。録音機を持って50万年前に戻れたらいいのですが。
・言語の一側面である「読む能力」というものは、強力で人間に特有なもの。
しかしこの能力は進化の直接の産物ではありません。環境の視覚認識のために
使われていた能力を利用したものです。類人猿では個々の記号を認識するところ
まではできても、テキストを読むというのは無理で、これは人類に固有の能力で
あろうと思います。この能力は、限られた知能しかない場合も含め、おしなべて
人類に共通する能力なのです。 〜p153 ≫
▼ これを人間の能力にも言えること。その力量に比例して「文法」と
「読む能力」が身についていく。「文法」は、話す能力、書く能力。
「読む能力」は、相手の、社会の発信する知識・情報を受止める能力になる。
14年間、これを続けてきたのは、この努力の効果と、その蓄積からくる醗酵の
効果が実感できるため。 ネットによる「文法」の意味とは、<広義の文法は
言語能力であると考え、音声や意味から独立した自律的 な構造を想定し、
それを特に文法と呼んでいる。> 言語能力こそ人間たる思考能力になる。
読め読め読め、聞け聞け聞け、書け書け書け、そして黙れ!ということか。
・・・・・・
4786,自分の頭で考えるための哲学講義
2014年04月22日(火)
         「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜
  * 価値教育とは?
 20歳から30歳までは、変化の連続になる。社会人、結婚、早ければ父親、
と、色いろと変化をしていく。そして、年々、就職先、結婚相手の選定など、
人生を大きく左右する決断が突きつけられる。その中で、大きは危機が
体質の変化時の24歳頃にやってくる。それが人生の大きな分岐点になる。
ここで悩み、基礎を固めておかないと、長い実社会の中で、大きな落とし穴
に落ち込んでしまう。精神的には鬱病、分裂症など。社会的には突然の失業
とか大病とか・・ そこで直面するのが、人生の意味と、価値感である。
その辺りを「アメリカ道徳教育からわかること」の小項目で取り上げている。
   ーまずは、その辺りを抜粋するー
《 価値教育とは、子どもの全人的尊重と、その自主的な全人的な働きによる
 価値の明確化を援助する方式をとる。従って確定した知識を権威として教師
中心に教え込む指導方式とは根本的に違う。・・ アメリカの教育学には、
二つの大きな流れとして本質主義と進歩主義がある。
・前者は、歴史の試練に耐えてきた文化遺産の教育的価値を重視し、学校には
それを次世代に伝達するという、社会から依託された任務があることを強調
するのに対して、
・後者は、子どもの興味・関心・成長欲求を受けとめ、自発性・主体性を尊重
して活動意欲を引き出すことを重視する」と。 そして、本質主義に基づき
価値の伝達に主眼を置く教育が、価値の押しつけにすぎないとして批判される
につれ、進歩主義に基づいて子どもの価値表現や価値判断を重視する教育が
主張されるようになったといいます。そして現在では、両者の統合が課題に
なっているそうです。私が注目したいのは、もちろん後者です。
つまり、子どもたちの価値判断を重視する進歩主義的な教育です。たとえば、
ラス、ハーミン、サイモンらが『道徳教育の革新』のなかで主張した
「価値の明確化」という概念があります。彼らは、すべての人が同じ価値観
をもつことはないという前提のもと、それぞれの人が自分なりの価値観を
確立する手法を明確化しようとしました。 それが次の7つのステップです。
選択すること:①自由に選択する ②複数の選択肢の中から選択する、
     ③各々の選択肢の結果についての十分な考慮の後で選択すること
尊重すること:④尊重し、大切にする、⑤肯定すること、
行為すること:⑥選択に基づいて行為すること、⑦繰り返すこと。
 これらの七つを満たしたものを「価値」と呼ぶそうです。 》
▼ アメリカ的価値観が、そのまま現れ出ている。「神の前で、それぞれが
 経典に従い、自主独立で、前向きに生きなさい」という事だが、更にマトメル
と、【自由に、複数の選択肢の中で、充分考慮した上に、大切に、肯定的に、
選択した行為を、繰り返すこと、を満たしたのが『価値』】ということになる。 
価値観は、それぞれの年齢で変転していくため、人生は、何時も学び続け
なければならないことになる。まずは両親など家族からの価値観から脱皮する
には、この7つのステップは有効にはたらくだろう! そのためには、教養が
必要条件になる!三年前の【3679, 自己を見つめる−6 2011年04月22日
「自己を見つめる 」渡邊二郎 (著) 】が、続きになる!
・・・・・・
4419, この結果に感謝している!
2013年04月22日(月)
 一昨年の倒産劇から数ヶ月あたりから、
「この結末が私の人生にとってベスト?」という思いが心の片隅に生じていた。
他人に言うべきことでもないし、失業させてしまった社員や役員に対しても、
こんなことは口が裂けてもいえないこと。2001年の9・11テロ以来、10年間、
右下がり傾向が続き、リーマンショックで売上げが三分の一まで落ち込んでいた。
経営は死に体に近づき、真剣に止め時を探っていた矢先の東北大震災。もう駄目!
と早めの決断をした。その事業物件の買手が直ぐに見つかり、同じホテル名で
新経営者の下で現在、営業が続いている。一般債権もほぼゼロで、金融債権以外
は思惑通りの清算ができた。会社借り入れの個人保証もあって普通なら個人破産
しかないが、物件の処分が順調だったこともあり、何とか破産なしの無傷で
済ますつもり。担保に入っていた自宅も、家内が買い取ることで確保。 何とか
今までとおり生活をしている。 順調に誰かに経営を渡すのと、この結果の
どちらが良かったか、勿論、前者と思うが、こと私の人生という面からみると、
この方が良かったとも考えられる。 全てがベストに動いてきたから、人類も、
自分もいる。 先日の高校の同級会で、半年前に老舗の会社を倒産させた人が
隣でシミジミと、「この結果で終わったことに感謝している。こんな気持ちに
なるとは思ってなかった」と、現在の私の心情と同じことを、そのまま語り
かけてきた。 これは実際に経験した者でしか言えない言葉。無念で、情けない
自分と、周囲の好奇の視線の中、独りで日々、悶えた結果、この現実をそのまま
受け入れるしかない中で、実はこれがベストの結果だと気づく。「この苦しみを
与えているのは、神(自然)が、何かの意味を気づかせようとしているのでは
ないか」という、フランクルの問いかけである。その時に自然に出てきたのは、
「この経験で私は、やっと半人前になったが、貴方は以前の不幸分を加えると、
半人前から一人前になった」で、ある。互いの心奥の葛藤と、その思いは同じ。
過去を振り返ると、何度かのどん底の青春期の日々にこそ、人生の味があった。
思い出すのは絶頂の浮かれていた日々でなく、瀬戸際で呆然と過ごしていた
日々である。あの時、何かが変わろうとしていた。それと同じ心情が、
「この結果(状況)に感謝!」の言葉に集約されている。底に下りてしまえば、
不安感など消滅。結果を素直に受け入れれば、そのまま安心立命の境地に到達
できるのが人生。実際に倒れ、孤立し、そこで人生を俯瞰すると、全く違う
目線を得ることが出来る。その視線から、これまでの人生を振り返ると、
何とつまらない自分が見えてくる。だから、「この結果に感謝している!」
の言葉になる。なかなか人生は味があり、面白い。
それを味わうのが、これからの人生。 
・・・・・・
4045, 末っ子はつらい ー3
2012年04月22日(日)
 私は10人家族の末っ子。 家が商家だったので誰も自分のことで手一杯、
互いのプライベートを見せないのが暗黙のルール。4〜10歳までは1Fが店舗、
2Fが倉庫と事務所、3Fが住居、4Fには住込みの女子従業員7〜8人が住む。 
食事は、何時も従業員と一緒。 小学校5年になって、7〜8分離れたところに
住居部分が移動した。雑然とした商家では独りで遊ぶしかなかった。末っ子は
親の目が行き届かない分、姉や兄の虐めから自らを守らなければならなく、常に
周囲の顔色を窺がう性格になっていた。特に父親が店と家族と親戚を束ねていた
絶対的存在で、父に媚びるのが効果的であるのを知っていた。そのため?末っ子
の私に甘かった。数年前、新幹線の乗客の会話で、「私は多人数兄弟の末っ子で、
常に親や兄弟から許されてきた。それが今でも直らず、失敗をしても許される
だろうという思い込みの性格が身について、大きな壁になっている」というのを
聞いて、「まさに自分そのもの!」と、驚いたことがあった。家族間では絶対に
互いの陰口はタブーで、兄や姉が他人の噂話をしたのを殆んど聞いたことがない。 
児童心理学では、家族は5人以上が必要という。一人っ子は同年代の心の内を知る
機会が少なく、孤独になりがちになる。 さらに親のかまい過ぎと、兄弟がいない
ため自己中心になってしまう。 家族の立ち位置で、性格が形成されるのは自然
の摂理。数年先が、それぞれの姉、兄の姿から見え、学ぶことが多い。
7歳年上の姉が勉強の仕方とか、自分の夢をイメージ化する重要性などを、
節目ごとに教えてくれた。ある意味で、一番、世話になった人である。末っ子は、
末っ子の欠点と利点がある。冷静にみて、やはり大家族は利点が多い。  
両親の要素もあるが。
  * 末っ子はつらい ー2 2002/05/08
 末っ子は辛いと、姉が聞いたら、「なにをいっているか!」と怒鳴られそうだ。
「両親に、兄姉にみんなに可愛がられて!」と。確かにそうだ。特に両親にとって、
ペットみたいな存在で、亡くなる時もしかり、傍にいた。そして遺言も財産に
関しても、不利にならないようにして亡くなった。 家は両親が死ぬまで常に
お手伝いがいて何時もチヤホヤされてきた。末っ子の特権を充分享受した。 
それと大家族は逆に孤独に強くなる。一人でいつも遊んでいた。後年になって
長姉がいうには、いつも一人で三輪車で遊んでいたとか。今も一人遊びが好きだ。
ノイローゼになる人は一人遊びの出来ない人。 幼児期・少年期は事業の立ち
上げ時で非常に刺激的な環境。 そういう意味で「三つ子の魂百までも」である。
それぞれの性格はその時代の背景と、血液型と家族関係と両親の年齢などによって、
微妙に変わってくる。 長男には長男の立場、末娘ならその立場で決まってくる。 
すぐ上の兄は、私の影的存在で?大人しい性格。「積み木崩し」というタレント
手記があった。長女、次女の次に男が生まれると、その次女がひねて非行に走る
ケースが多いという。  兄妹の立ち位置で、性格が決められる。
  * 末っ子はつらい ー1 2002/05/07
 8人兄弟の末っ子である立場の自分を書いてみる。少年期まで、末っ子は
上からの虐めがきつい。特にすぐ上の兄のそれがきつい。常に気を張って
いなくてはならないのがその宿命。食事も早く食べないと食べ分がなくなる為、
早食いが癖になっていた。多くの兄弟で育った末っ子は社長に向いているそうだ。 
他人の気持ちを読む習性が、それに向くのだろう。それと結婚の相手は長女が
いいとも最近聞いた。たまたま家内がそうだった。そういえば過去に惹かれた
女性は長女で、A 型で、おっとりタイプが多かった。また末っ子は口が堅くなく
てはならない。立場上、それぞれの兄姉の秘密を知る機会が多い。しかし万一
告げ口をしたら、袋たたきにあってしまう。家族はまず出会う初めての社会。
・・・・・
3679, 自己を見つめる −6
2011年04月22日(金)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
自己を見つめる、その自己とは? そもそも何だろうか? その自己は、
「少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って輝いた」のである。 
この世に表れでたのは、その存在理由があったのである。
  ー 第五章 自己 ー
【 およそ、あらゆる芸術家、学者、政治家、実業家などの、人類社会に
 貢献した人々はみな、その生涯において、自己決定の稀な瞬間を生きとおして、
 それぞれ個性ある一生を築いて、この世を去った。もちろん、際立った、選り
抜きの人々以外でも、考え直してみれば、あらゆる人間がみな、それぞれなりに、
自己の人生と運命を生き抜き、そのかけがえのない人生の軌跡を描いて、
自己の人生を全うしようとして、一生を走りとおしたと見なければならない。
 むろん、この世の人生においては、不運や事故、挫折や失敗が付き物であり、
多くの人々は、志半ばで、不幸のうちで倒れ、意に満たない、悲運のなかで
一生を終えた。けれども、人間はすべて、最後には、自分らしい生き方を、
運命として肯定しながら、この世に別れを告る覚悟で人生を生きるものである。
そこに、ほかならぬ、掛け替えない当の自己自身の人生が一回限りの形で生起し、
代りの不可能な、それなりの個性と必然性をもったものとして刻まれ、こうして、
永遠の闇から闇へかき消え、あるいは不減の魂のなかに久遠の記憶として残され、
少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って輝いたのである。 】
【 大切なのは、人間の存在の必要条件と十分条件とを峻別することにある、と。 
 人間が生物としての機能を果たして生きるということは、人間の存在の必要
条件を満たして生きるということにほかならない。また、人間が社会的存在と
して、なんらかの環境や境遇のなかに置かれて生存を営むということも、人間
の存在の必要条件を満たして生きるということのうちに入る。けれども、それだけ
では、真に人間的な自己自身として生きるということの十分条件が 満たされた
ということにはならない。衣食住の欲求を満たし、胃腸や呼吸が正常に機能し、
なんらかの社会的環境のなかに置かれて生きるということならば、誰もがやって
いることである。むろん、そこに、胃腸の丈夫な人とそうでない人、あるいは
比較的恵まれた環境に生きる人とそうでない人との差異はあるであろう。
けれども、そうした所与の心身の資質や社会的環境のなかにただ置き入れられて、
それにまったく受動的となり、なんら奮起することがないのならば、その人は、
ほんとうには、まだ自己自身に目覚めてはいないと言わなければならない。 】
 ― 自己の存在の十分条件を満たしたかどうか、それも充分かどうか、
   それぞれあろう。それは個性を発揮できたか、どうか。


5515,閑話小題 〜「はてな」のブログ、100万人超え

2016年04月21日(木)

    * 「はてな」のブログ、100万人を超えた!
「はてな」ブログのビュアーの数が、昨日で延べで100万人を超えた。
開設以来、9年4ヶ月、一日あたり300弱になる。現在も、月当たり
を均すと、同じ300人になる。 月の4分の3が、250前後だが、
月に一週間ほど、その2〜5倍のウネリがある。なぜか、内容に力が入った
ときにビュアーが増える。
 当初からの個人HP「えんぴつ」が、ちょうど丸15年。この「えんぴつ」
のブログは一日40人前後。当初から増えも減りもしない。旧来からの知人を
中心にしたビュアーが見ているようだ。 内容が「はてな」と同じため、二つ
とも見る人もいないから、合計で一日330人が見ていることになる。
 一つにしないのは、万一の炎上したときのリスク分散のため。 
それにしても100万人とは驚き。それと15年と、9年4ヶ月も。
  * ああ、お金ですか
 誰かの言葉に、『 人々は、お金では貴いものは買えないという。
そういうきまり文句こそ、貧乏を経験したことのない何よりの証拠なのだ 』
がある。学生時代から社会に出だしの頃、自分のお金が手元になかった。
誰ものことだが、金が無いと、希望も夢も、遥か彼方にしか見えてこない。
そして10年、20年経ち、それなりの金額が、資本として見えてきた時、
自分の言葉と、目の前の具体的な夢と自信が見えてきた。貴いものも、貴く
ないものも、具体的な自由を現前に現してくれるのが、お金。問題は、それを
生き金か、死に金にするかである。 それもこれも妄想でしかないなら、
持った上で妄想をみたいもの。

・・・・・・
5150,知の逆転 〜⑧
2015年04月21日(火)
         ー知の逆転ー 対談相手 オリバー・サックス
   * 没頭している「平和の時間」こそが
 午前中、4〜5時間、仏間にある書斎コーナーで、本を読んだり、パソコン
に向かっているが、その時間はアットという間に過ぎてしまう。集中している
ためだろう。ネガティブになりがちな身の上?に、老齢化が重なっているため、
落込みへの解毒剤になっている。冬場を除いて、朝方の自転車散歩も加えて、
何とかポジティブ3にネガティブ1の比率を維持している。
 ここで、<没頭している「平和の時間」が、最も望ましい>というが・・
この随想日記の習慣の効用である。没頭には、長年の継続が必要である。
 ーその箇所を抜粋ー p149 
≪ ・・私自身も、書き物をしたり考えたりすることに没頭しているとき、
 あるいはピアノを弾ひたいたり音楽に浸っているとき、神経症やうつ病が
消えて、時間というものを意識しないで平和な時を過ごすことができます。
われわれは誰もがそういう時間を必要としているのです。フロイトの精神分析
では、楽しいことに没頭しているときの平和な時間という部分が看過されて
いると思います。彼の精神分析では、生は緊張として捉えられ、緊張が解ける
と何もない状態になると解釈されているわけです。しかし、ポジティブな
平和な時間というものは芸術や科学の基盤であり、最も望ましい状態では
ないでしょうか。≫
▼ 「平和の時間」は、外界の喧騒から隔絶出来て、気持ちが集中、脳も、
 心もシンプルでいられる。週一のシネマも、ポタリング(自転車散歩)も
「平和の時間」。リタイア直後に立てたプログラムは、まず、ストレスによる
自己崩壊を避けるためだったが、結果として「平和の時間」の維持の効用に
なっていた。今までは会社の維持に向けられたエネルギーが、「平和の時間」
に向けられるから、悪いわけがないが、だがストレスは生半端ではない。
それが当り前だが! 知恵を使って、見方、支点を変えれば、逆境さま様!
ものは考えよう、面白いもの。 偶然だが、以下の内容が、丁度良く続く。
・・・・・・
4785,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜②
2014年04月21日(月)
   * 倒産よもやま話(三年目の実感) 〜②
「その直後、気持ちを落ち着かせるため、東京周辺に一週間ほど出たい」と、
弁護士に相談すると、「一番、大事な時。それは問題に対し後ろ向きになる。
苦しいが今は、直面し続けるしかない!」と一喝。そのことは以前から体感して
いた為、納得。問題の中心点を凝視し、立ち向かい続ければ、時間が解決する。
この経験で、身近の経験者のことが、解っているようで実は何も解ってなかった
ことに気づいた。実は、「犯罪者が捕まり、ホッとした気分は、こんなもの?」
という風な、変な安堵感もあった。 現時点では、『人が死ぬって悪いこと?』
と、ほぼ重なる。 バブル崩壊、9・11、9・15、3・11で、時代が根こそぎ
変わってしまった。現在時点の、良い悪いは、表面的な現象。
10年前から、現在に至るまで何が起こった? 身近の天変事変では、中越地震、
柏崎沖地震、東北震災。 世界では、数万規模の死者が出た、幾つかの大地震。 
経済では200年に一度といわれるリーマンショック。そして、今後10年で、
その数倍規模?の自然災害、経済災害が、間違いなく起こる可能性が高い現在、
「倒産、廃業が悪」の図式・考えを捨てるべきではないか?というのも、
排除してはならない。その辺は、自分の自頭で考え、判断すべきである。
 その上に、飛躍的なパソコンの携帯の進化で、これまでの現実社会をネット
社会が覆ってしまった。そしてアメリカのルールに習え、のグローバル化。
これが、良くいえば創造的破壊という美名の元に始まっている。
その最たるものがTPPである。経済的な日本併合である。それにしても、
国家戦略ゼロの日本の思考能力に暗澹たる気持ちになる。この節目は、やはり
明治維新、太平洋戦争の敗戦に匹敵するか、それ以上の事態。それに、呆気無く、
飲み込まれてしまったのが、この一連から、鮮明に見えている。私のケースは、
事業からの私自身のリストラであり、経済社会からの完全リタイア、排除である。
で、近く避難先で、町を見下ろしている。  
・・・・・・
4418, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー7
2013年04月21日(日)                
 * 幸福とは何か ー大富豪とマサイ族   
        「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著
 幸福とお金の関係は、なかなか難しい。幸福の必要条件の一つにお金があるが、
十分条件では決してない。その辺りを、以下で大富豪とマサイ族を比較して
分かりやすく説明している。
≪ アメリカでは一九八○年代から、幸福を心理学的に計測するという試みが
 行なわれている。これは厳密に科学的なものではないが、様々な調査によって、
統計的にほぼ同一の傾向を確認できる(大石繁宏著『幸せを科学する』)。 
ある調査によれば、人生の満足度を七点満点とすると、アメリカのビジネス誌
『フォーブス』に載った大富豪たちの満足度の平均は五・八だった。彼らは
資本主義社会の頂点に立つ成功者で、豪邸やプライベートジェットなど望む
ものはなんでも手に入れることのできるひとたちだ。 アフリカのマサイ族は、
ケニアとタンザニアに住む半遊牧民で、必要最小限のものしかない貧しい暮し
をしている。同じ調査で、彼らの人生の満足度は五・四だった。目の眩むような
大金は、ひとをたった○・四ポイントしか幸福にはしてくれないのだ。
もちろんこれには様々な解釈が可能だが、大富豪がマサイ族の村に行ったと
したら幸福だと思うだろう。マサイ族の若者がニューヨークを訪れれば、
極貧と不幸に打ちのめされるかもしれない。幸福感は相対的なものだからだ。
マサイ族が幸福なのは、家族や仲間との強い絆(愛情空間と友情空間)のなかで
暮らしているからだ。それに対して貨幣空間の成功者である大富豪は、
その成功ゆえに愛情や友情から切り離されて幸福を感じられなくなる。 
 でも彼の人生は、まだマシな方だ。この調査によれば、世界でもっとも
不幸なのはロサンゼルスなどの大都市で生きているホームレスだ。
彼ら貨幣空間の敗残者は富も人間関係もすべて失ってしまい、自分たちより
過酷な生活をしているインドのスラム街の人たちよりはるかに幸福度が低い。
もっともこれは、それほど奇異な結果ではないだろう。お金が幸福の必要条件
ではあっても、十分条件でないことは誰だって知っている。ぼくたちがお金に
こだわるのは、それが「安心」「安全」という大切な価値と結びついているから。
ヒトはずっと不安のなかで生きてきたから、安心を得ることは幸福の大事な条件
のひとつだ。そして市場経済においては、この安心はお金で買うしかない。
日本国の財政が未曾有の赤字に陥り、少子高齢化で年金制度が破綻必至になった
ことで、この国を重苦しい不安が覆っている。老後を国家からの年金に頼って
いたひとが、安心を奪われてしまったのだ。 でも単純な経済問題だから、
お金により解決できる。財政破綻で年金の大幅減が実行されても、宝くじで
一億円当たったら、どうだってよいと思うだろう。(当たらないと思うが) 
幸福のためにお金を求めるのは、きわめて合理的な行動。ところが皮肉なこと
に、宝くじの当せん者を追跡調査をすると、実はあまり幸福のなっていない。
買物や豪遊で賞金を使い果たすころには、自分には何も残ってないことに
気づくのだ。 ・・・ ≫
▼ ー我われがお金に拘るのは、「安心」「安全」という価値に結びついて
 いるためーというのは分かる。ならば、日本は世界一の「安全」で、「安心」
して暮らせる国で、万一のことがあっても、生活保護がある。しかし自殺は
先進国の中でトップクラスにあるし、国民は幸せそうでない。何故なら国の
先行きが見えないためである。先行きなど、かつても見えなかった。
中途半端な幸せを長年続けてきた結果、激変の最中、動揺しているのである。
東北大震災から数ヶ月後、アフリカの難民をよびよせ、被災民の状況を見て
もらったが、殆どコメントをしないで帰った。彼らにしたら何をか言わんである。
豊かさの中の極貧生活が不幸の最たる状態であるのは、大都市のホームレスを
見れば分かる。今や夫婦間資産格差が出来た私など、不幸の最たるもの?
でも不幸感はない。「不安感」が最小に縮んだからだ。先行きの不安感は、
今が不安定だと生じ、蓄積していく。着地をした現在、今さら「不安」
など感じようもない。
・・・・・・
4044, 一時停止 ー4
2012年04月21日(土)
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 他人との出会い
≪ 肉体的な成長だけで子どもがおとなになれるわけではない。肉体的な成長
に精神的成長が伴わなければ、人間はおとなになれない。その精神的成長とは
どういうものか、知識が増えること、感情が豊かになること、経験を積むこと、
考える力が増すことーいろいろな面から考えることが可能だろうが、そのどれも
が結局は<個>の自分の確立ということにむすびついていることに気づく。
 群棲動物である人間は、ひとりで生きてゆくことができない。そこから
私たちは複雑な社会的構造を生み出し、〈個〉は常に自分と同等な〈個〉、
すなわち〈他〉との関係において生きてゆく。〈個〉の確立とは自我の拡張と
同時にその制限をも意味している。言葉をかえると、他人と出会ことによって、
子どもはおとなへと成長してゆくと言うこともできるのではないだろうか。
もしそんなふうに言えるとしたら、私にとって初めての他人との出会いは、
いったいいつのことだつたのだろうと考えることがある。もちろん人間にとって
最初の他人とは母親であると言うこともできるかもしれない。しかし、ほとんど
の子どもにおいては、母親は自分自身の延長のような存在であり、母親を他人
として意識しはじめるのは、むしろ彼がおとなになってからだろうと思う。
似たようなことは他の身内・家族などについても程度の差はあるが、おおむね
あてはまるだろう。 ≫
▼ 学校時代は、進学する度に変わる同級生が、他者を考える上に分かりやすい。
 その時の面々が、その時の自らの分である。それは、自分の広がりでもある。
それが他人との出会いである。その範囲が広がれば広がるほど、その冷たさと
暖かさの差が大きくなる。その段差が、人間を成長させるのである。逆に言えば、
その段差が少ないと、成長が逆行していくことになる。自分を意識する前に
見知らぬものとの出会いがある。その境目が増えるにしたがって、己との枠が
でき、それが自分になる。それぞれの時代の相手の中に、自分の姿が合わせ鏡
となり、自分の姿の一部を垣間見ることになる。
 ・・・・・・
3678, 自己を見つめる −5
2011年04月21日(木)
  「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  ー 境遇 ー
【人生においては、私たちは、それぞれの境遇で、様々な経験をしながら、
 自己自身の人生の有意義性を目指して、日々努力を重ね、永い人生行路の
 過程を踏み、自己の歴史が築かれてゆく。人生とは、そうした各自の時間的
 歴史的な行程であり、多様な諸経験を重ねてゆく遍歴の旅路である。
 人生は、しばしば、旅だと言われ、西洋でも、人間とは「ホモ・ヴィアトール
 (旅する人)」だと語られる。しかし、そのような遍歴の旅とは、いったい何で
 あろうか。とりわけ、多様な諸経験を経巡ってゆくということのなかに
 籠められている大事な眼目は、いったいどこにあるのだろうか。・・
  遍歴の労苦を通じてのみ、私たちの人格の花は、大きく咲き出るのである。
 格言に言われるように、可愛い子供には旅をさせねばならず、異境に出て、
 他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ初めて、
 私たちの人格は、大きく実るのである。そうした切磋琢磨と、人格的遍歴の
 過程を、すべての人が、互いに、愛の思いと暖かい心とを込めて見守らねば。
 こうして、人間的振幅や試行錯誤のすべてを受け容れ、また赦すところの、
 裏切ることのない、誠実な追憶の魂もしくは心のなかに、それらの歩みの
 すべてを銘記し、それらを、過ぎ去りゆくことのない、不滅で、貴重な人間的
 経験の全体として、共同でいたわり、保持しようとすることこそが、あらゆる
 人間にとっての、最も崇高な、道徳的かつ人格的な相互的責務であると思う。】
▼ 神話は、まさに異境に出て行って、辛苦の中で勝利し帰還する物語が原型
 である。それは、自分の魂にとっても同じこと。異質なものとの出会い、
そして邂逅のプロセスを通して自己が深まり、広がっていく。ここでも「異境に
出て、他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ
初めて、私たちの人格は、大きく実る」現実の世間的価値観の中では、人格は
大きく実らないことは周辺を見れば良く分かること。更にいえば、自己とは
異質なものとの出会いと邂逅の中にこそ存在する。
  ・・・・・・・・
3313, 対話について
2010年04月21日(水)
  「プラトンー哲学者とは何か」 納富信留著
 * 対話について
 プラトンの「対話篇」を分かりやすく噛み砕いてある内容である。
以下は、そのエッセンスの部分である。プラトンと、ソクラテスの立場を
簡潔に分かりやすく述べている。 ーまずは、その部分から (p28)
ソクラテスはつねに「対話」において人々と語り、プラトンはそれを「対話篇」
として書いた。ソクラテスとプラトンとの出会いは、また、言葉を語ることと
書くことのへだたりと「対」として現れる。ここに、哲学成立の秘密がある。 
対話とは、人と人との出会い、言葉をつうじて何かを追求し明らかにしていく
営みである。それは、顔をもつ生きたひとりの人間と人間のあいだにかわされる、
一度かぎりのやりとりである。 対話は、それがかわされる特定の生きた状況、
時と場を離れてはありえない。会うのは心と心であり、ぶつかりあう言葉と
言葉が吟味により明るみに出し対話する人の生そのものである。そして、人と
状況は、その対話を通じて変化していく。対話を交わした人のあり方は、もはや
以前のものではありえない。 人が形つくる対話の言葉は、また、その人を
形作るものである。そして、対話は、二度とくりかえさることはない。 
これに対してブラトンは、語られる言葉を書かれた言葉にして残した一度しか
起こりえない対話を書き物に結晶させた時、それは時を越えて反復可能なものと
なった。書かれた対話は、うつろいゆく言葉を文字に留め、それを読むことが
対話を反復させる。私たちの心には、思りという新たな対話が生み出される。 
そうして書かれた対話篇において、対話は対話者たち、さらに、著者プラトンの
手を離れて、私たち読み手のものとなる。 一時の対話を永遠へとつなぎとめる
著者と、それを再び時間においてくり返す対話者。対話篇を読む私とは、
そのようなもうひとりの対話者なのである。しかし、ソクラテズが従事する
生きた対話と、それを書きあらわした対話篇とのあいだに根源的な隔たりがある。
このギャップは、「パイドロス」で、エジプトの神々の対話という形をかりて
語られる、「書かれた言葉」への批判に現れる。文字が記憶と知恵のための
すぐれた発明であると自慢するテウトに対して、王神クムゥスけこう批判しる。
書かれたものを信頼することは記像力の訓練をなおざりにする想起の秘けつに
すぎず、それが与えるものは真の知ではなくその見かけにすざないと。 
書かれた言葉は、問いかけても何答えない。
 〜〜
 対話について、これだけ分かりやすく書かれているのものも珍しい。 
学生時代にプラトンの「ソクラテスの弁明」を読んでいたが、何を理解して
いたのだろうか。 字づらだけを見て、知ったつもりでいただけではないか?。
 反面、学生時代に寮にいたことや、ゼミや、クラブの人たちなど色いろな人と
一度限りの対話があった。その蓄積が人生の大きな基盤になっていた。そして
自分の壁を破壊してくれていた。現在、ツイッターが爆発的に広まっているが、
あれは会話?でしかないのか。それとも、人によっては対話になりえるのか? 
ブログでは対話が成立していると思うが!議論すること、書き留めること! 
その青さを持ち続けること!  チロリチロリだけでは、だめか?


5514,恐竜と人類どっちが凄いか ー②

2016年04月20日(水)

 「人間の人生は豊かとは」を何をもって言うのか? の問題が残るが、
私が生きてきた実感は、人間は、他の動物から比べ豊かといえる。
それは、人間は雑食者で、利己主義に加えて利他的であり、人生に意義を求め、
豊かさを実現しようとする言語手段と、その記録方法を早くから身につけて
いたからである。その人生を楽しまなくて、何のための人生ぞや。
  * 人間の人生は豊か
≪ 人類の中でも人間とはいかなる存在か、人類ばいつどのように人間に
 なったのかを、探るのが、人類学の重要なミッション。〜主な事項を拾うと〜
・まず人間は、驚異的な雑食者。霊長類は基本的に植物食だがが、人間は各種
植物に加え、鳥獣肉から魚介類まで手を出す。人類進化史でそのような選択を
迫られるきっかけがあったらしいのだが、ここまでメニューを広げられたのは、
陸.海.空の資源を利用する技術発達があってのこと。不安定な自然環境下では、
雑食者は偏食者より有利である。その利点に加えて、高い食料調達技術を持つ
ようになった人類が結果的に成功したのは、理解しやすい。
・人間にも、他の動物と同様に利己的な側面がある。しかし仲間を思いやり、
仲間と通じ合いたいとする感情が一段と強いのも、人間である。血縁のない相手
とも積極的に食物を分け合ったり、他人に教えてあげたりする行動が、人間に
独特であることをご存知だろうか? 例えば集まって会食している人間以外の
動物など、見たことはないだろう。野生動物界ではふつう、採食=争奪である。
外敵から隠れてひっそりしている、あるいは暇があったら寝ているというような
通常の野生動物たちに比べ、人生は楽しみに溢れている。前出の会食のみならず、
スポーツや音楽や芸術があるし、旅行や読書や勉強だって楽しい。他の生物の
生き方を否定しようとは思わないし、恐竜の生き方に至っては実態がよく
わからないが、「人生に意義を見出そう」という発想があること自体が、
何とも素晴らしいではないか。人間は、生きるということを豊かにした
生き物なのであると私は思う。 ≫
   * 人間の共通の祖先は既に凄かった
≪ 一昔前には進化は漸進的に生じると考えられていたので、例えば3万年前の
祖先ともなれば現代人よりかなり知的に劣っていると、決めつけられていた。
しかし世界各地の現代人が共有している種々の能力は、言語力にせよ芸術を
生み出す創造性にせよ、アフリカにいた現代人の共通祖先に既に備わっていた
可能性が高い。4万年前頃に日本列島にやってきた人々も、その例外ではない。
例えば種子島や富士・箱根地域には、3万年以上前から、狩りのための落し穴が
作られていた。これは、罠という動物行動を先読みした高度な狩猟法の、世界
最古の直接的証拠として、たいへん貴重。新石器時代になって世界に普及する
磨製石器の技術も、日本とオーストラリアには2万5000年も前からあった。 
さらに面白いことに、琉球列島や伊豆諸島においても、相当にチャレンジング
な海洋渡航が太古の昔から行われていたらしく、さらなる探求の価値がある。
人類学とは人間の凄さ・面白さを知れる学問なのだと、研究を20年積み重ねた
最近になって、ようやくわかってきた。 ≫
▼ 人類は、言語手段と記録方法を身に付け、探求し、生きることを楽しむ
ことが、人類の人生を豊かにしてきた。これを、そのまま、個人に当てはめる
と、人間、如何に生きるべきか、「良く遊び、良く働き、良く学ぶ」を、実践
して積み上げた分、豊かな人生を過ごしたことになる。問題は「良く」!「欲」
に何時の間に変質するから困ったもの。で、このザマ! お後が宜しいようで
・・・・・・
5149,閑話小題 〜家族という病
2015年04月20日(月)
  * 家族という病
 NHKアナウンサーだった下重暁子が『家族という病』という本を出した。
家族も、国家同様、共同幻想とみることも出来るが、「欺瞞を信じること」
が問題と、いう。 〜アマゾンの内容紹介から〜
≪ 日本人の多くが「一家団欒」という言葉にあこがれ、そうあらねばならない
 という呪縛にとらわれている。しかし、そもそも「家族」とは、それほど
すばらしいものなのか。実際には、家族がらみの事件やトラブルを挙げれば
キリがない。なのになぜ、日本で「家族」は美化されるのか。 一方で、
「家族」という幻想に取り憑かれ、口を開けば家族の話しかしない人もいる。
そんな人達を著者は「家族のことしか話題がない人はつまらない」「家族写真
入りの年賀状は幸せの押し売り」と一刀両断。家族の実態をえぐりつつ、
「家族とは何か」を提起する一冊。≫
  〜ビュアーからの投稿より(アマゾン)
【 世の中には口にすること自体タブーとされる領域がいくつかある。
 出生、能力、死、犯罪歴、宗教、遺伝、国籍などである。
本書は「家族はすばらしい」は欺瞞である、という斬新な切り口から
家族観における1つのタブーに挑んでいる。これまでにないテーマだけに
読後感は様々だろう。本書の主旨、提言などと全く無縁なまま一生を終える人は
ある意味安泰で幸福な人生かもしれない。しかし家族の中にも修復不能となる
アクシデントがなかなかの頻度で発生するものだ。配偶者との離別は無論、
血縁者間でも家族内崩壊は起きる時には簡単に起きてしまう。
 一家団欒を無邪気に肯定するのも悪くないが、ある種の読後感の悪さを
犠牲にしても筆者の視点に一度触れておく効用もあろう。読み進むと上記の
保険的効用だけでなく筆者のより普遍的な家族観を垣間見ることができる。
いかに生きるかは正しい死生観が前提となるように正しい家族観には
本書の主旨の理解が前提になるのかもしれない】
▼ 家族のあり方は、時代により変化していく。TVのインタビューや、
上記の内容を見る限り、納得する部分と、違和感を感じる部分がある。
国家幻想論を、その構成要素の一つの家族に当てはめると、これまた共同幻想
でしかないことが分かる。その家族の形態が情報化の時代の中で、大きく変化
を始めてきた現在、そのあり方を根こそぎ否定してみる必要がある。
 殺人事件の過半数以上が家族内殺人という現実がある。 商家の大家族の
末っ子の環境で、下目目線で家族を見てきた経験から、また両親から孫の
ように扱われたため、その温みが今でも残っている。それもあって、著者の論
は、あくまで一面でしかないことも見て取れる。 私の家族は、戦前、戦中、
戦後と、生き抜く中で、全員が病というより、戦傷の深い痛手を受けていた。
誰一人として、家族が素晴らしい!など思ったことはなかった。ただ自分ひとり
を守り、生きていくだけで精一杯。 この時代は誰もそうだったのだろう。
家族は素晴らしくあらねばは、占領国アメリカの洗脳の一つでしかない。
確かに家族は病であるが、魂の故郷でもある!家族が病と割切って良いものか?
・・・・・・
4784,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜①
2014年04月20日(日)
  * 倒産よもやま話(三年後に思うこと)
 倒産など滅多にできない経験である。姉夫婦、兄夫婦の倒産劇を身近にみて、
相談にのっていたのが予備知識になっていた。お陰で、右往左往することなく
比較的冷静に対処できた。「人助けは、結果として自分のため」になる。
幼馴染が10年前に訪ねてきて、倒産の生々しい話をしていたが、姉・兄と共通
する点が、弁護士などの代理人をたてること。そのための資金を必ず確保する
ことを強調していた。それもあって、迷わず弁護士に依頼した。30年来の経理
事務所の合同センター内の弁護士に依頼することになった。兄の倒産も手がけて
いたので、内情を知っていたこともあり、順調に手順が進んでいった。 
無我夢中の渦中、何もかもが新鮮な体験で、ドラマの主人公のような気分。 
過酷というより、「痛・面白い日々」という感覚で、惨めとか、恥ずかしいなど、
思う余裕などなし。動物的本能が自らをつき動かしていた。 2011年3月30日
午後5時に、担当弁護士の主導のもと、弁護士二人と、女子事務員と、私たち
三人の役員が起立をして礼をした後、「これで会社は消滅しました!」と宣言。
その後、経理総務は全てが弁護事務所に引き継がれた。その時から、二人の役員
は弁護事務所の引継ぎと、資産処分の補佐になる。と同時に、私は倒産会社の
前社長。翌日の午前、弁護士と二人で、地元銀行に報告を兼ねた御詫びまわり。
午後からは、従業員への事情説明と解雇の宣言。その後は、取引先からの問い
合わせは一切なく、私個人の身の回りの整理だけ。そのため、40年近い事業
人生の緊張感が切れて、浮いたような軽い気持ちになる。数日間は、町内と、
取引先しか情報は流れてないため、普段通りだったが、一週間経ってから、
マスコミが騒ぎ出す。どのチャネルを回しても、倒産騒ぎ。それも、震災絡み
もあってか、日テレ「真相報道バンキシャ!」(毎週日曜18:00〜放送)から
自宅に取材依頼の電話。尾ひれ羽ひれが流される位は解っていたので、迷わず
断る。東北震災絡みで、数軒のホテルなどが廃業・倒産をしていたが、規模
から見て、当方が最大規模の為、あわや全国版ニュースになるところ。 
振返ると、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、「痛・面白い」など、とんでも
ない事態ではあった。時間が経つにつれ、記憶の書き換えをするしかない
典型的事例か! ーつづく
・・・・・
4417, 閑話小題 ー昨夜は高校の同級会
2013年04月20日(土)
  * 審判のミスジャッジ
 一昨日の巨人対阪神戦で、一塁審判が明らかにセーフのジャッジをアウト
にした。残酷なのは、走者の足が一歩先に塁に着いているのをビデオで何度も
流していること。後で注意勧告されるのだろうが。目から火が出る思いだろう。
恐らく、ビデオで流されているのだろうと気が気でないはず。甲子園の高校
野球で審判のミスジャッジを見かけるが、これも純真な子供の心を傷つける
ことになる。審判もミスをするが、致し方がないと割り切るしかない。
ビデオの方が人間の目より明らかに優れている。その結果の現象だが・・試合が
流れているため、ミスとしても後に戻せない矛盾がある。これと同じことが、
政治にもある。誰が見てもミスジャッジの政治判断としても、変えることが
出来ない。私利私欲や党略で、正当な判断が出来なくなり方向を誤ってしまう。
  * 昨夜は高校の同級会。
 昨夜は高校の同級会。幹事は気をゆるして酒が飲めない役回り。このところ
二回に一度は、私と幹事相棒Mの役目。別に好きでやっているわけでないが、
大学の寮とか、会社経営をしていた頃の宴会を含めると、間接を含めて二百回
以上は仕切りをしてきた。いや、もっと多いか。まずは盛り上げに役回りに
徹すること。酒を飲むのも一期一会。人生を振り返ると、いつも、「宴会ととも
にあった」。 気の合う相手であれば二人でも宴会。
 ネットの「日本大百科全書」によると、
≪ 酒や歌舞などを伴う高揚した心の触れ合う機会。宴とも饗宴ともいう。
また宴会の性格によって祭宴、祝宴、招宴、酒宴、狂宴などとよばれる。
一般に宴会は季節ごとの折り目や人生の節目に行われ、忘年会や新年会が年末、
年始という折り目に行われる宴会とすれば、子供の誕生祝いや結婚の披露宴は、
人生の節目に行われる宴会ということになろう。≫ 
とあった。以前は、各家ごとに料理をつくって御客を招待したり、料理屋で
宴会を開いたが、今では居酒屋の大部屋で開くケースが多いという。小・中学校、
高校、大学の同級・同期会だけは、最優先に出席にしてきた。同級会は魂の世界。
心の故郷が魂とすると、年々「遠き日は 年とるごとに 近くなり」というのが
実感できる。結局、家に帰ったのが一時過ぎ。
・・・・・・
4043, 一時停止 ー3
2012年04月20日(金)         
  * 出会い ーフェルメール 1967年     
「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 私がほんとうにフェルメールを見たのは、その本物を見たときである。
本物を見たから、フェルメールが見たくなったのだし、旅に出ずに複製しか
見る機会がなかったら、もしかすると一生私はフェルメールに気づかなかった
かもしれない。現代の進歩した印刷技術は、複製と本物との差をだんだんに
小さなものにしてゆきつつある。複製で見ても本物で見てもそんなに変わりは
ないという絵画もあるだろう。複製を見ることが、本物を見ることにつながる
絵画もあるだろう。だがフェルメールはちがう。複製と本物との間に、越え
がたい断絶がある。 あたかもヴィニールの花と、野の自然の花とのように。 
あるいはこう言いかえてもいいかもしれない。本物を見ても、複製を見たのと
同じ感動しかなければ、私はその絵にほんとうに感動してはいないのだと。
そういう形で感動した絵は実は私にはまことに少ないのだが。 はじめて見た
フェルメールに感じた気持ちを、そのときの状態のままにことばにすりとしたら、
それは「ああきれいだなあ、ほんとになんてきれいなんだろう」ということに
しかならない。 美は人を沈黙させるという。その通りである。その沈黙の中に、
無数のことばにならぬことばがひしめいているのではないかと言う人もあるが、
少なくとも私の場合、そう言えば嘘になる。沈黙はもっと深く、ことばにならぬ
ことばなどといった不純なものはない。しんとした純正の沈黙なのである。 
ことばはずっとあとになってから、やっと重い腰をあげる。その時でもことばは
謙虚だ、ただいちばんふさわしいオマージュを捧げ、絵の美しさにほんの
少しでもあやかりたいと思うだけなのだ。≫
▼ 本物の絵画や美術品を数多く見てきた。TPOもあるが、その前で
立ちすくし、身動きが出来なくなる。ダビンチのモナリザ、サンピエトロの
ミケランジェロ作ピエタの像、ゴッホのヒマワリなどを目の当たりにした感動。
対象が浮き出てくるようなエネルギーが満ち溢れていた。 特にゴッホの
ヒマワリは、周囲に誰もいなかったこともあり、10分間ほど、釘つけになって
しまった。出会いである。そういえば、近じかフェルメール展が日本で開催される。
・・・・・・・
3677, 自己を見つめる −4
2011年04月20日(水)
    「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 節目どきは、境遇の節目でもある。特に乗り越えることが不可能と思える壁に
直面した状況を「限界状況」と、ヤスパーが指摘している。 その限界状況に
「人生の不条理」に突き当たる。その時、それまで隠されていた真実が現れ出る。
節目を打つとは、人生の不条理を受け入れ目を背けないことである。
正中心一点無になり、変化を受け入れること。
  ー 第三章 境遇 ーから、抜粋
【 現在、変えることのできない定めを帯びた宿命的な境遇のなかへと投げ
出され、置き入れられて、人生の途上にある。その私たちの無に貫通された
現世における存在のうちには、宿命的な境遇のもつ変えることのできない定めが
刻印されている。ヤスパースが指摘するように、私たちの生存のうちには、
どうしようもない「限界状況」が巣くっていると言える。限界状況とは、
それに突き当たっては、私たちは挫折し、崩れ去る崩れ去るような、乗り越る
ことの不可能な壁に直面した状況を言う。そうした限界状況に面座して、
私たちは途方に暮れた困惑のなかで、解決しようのない自己の人生の不条理の
根源的事実に突き当たる。しかし、そのときにこそ、私たち自身の、ほんとう
の「実存」が目覚めてくる。実存とは、私たち各自の生存の、赤裸々な真実、
その拒否できない現実のあり方のことである。自己の実存を自覚し、それにも
とついて生きるよりほかに、この世を生きる生の根拠を、私たちはもたない。】
【 ハイデッガーが述べた通り、私たちは、それぞれ何らかの世の中に投げ
出されと「被投的」存在である。その「現事実性」を引き受けて生きて
いかなければならない存在である。その存在としての自己を生きていかなければ
ならない辛い気分を取り払い、重みや憂いを取り払い、それらを忘却させよう
という気晴らしや、慰めを求めて、無邪気な明るい朗かさ愉悦を、好んで受け
入れようとする傾向にある。しかし、そうした気晴らしが、瞬時の儚いもの
ということを骨身で知っている。その人生の底を見つめ、底知れぬ深遠を
予感し戦慄をする。その深遠が、「限界状況」の時に直面する実在である。】
  自己を見つめるとは、節目の境遇の人生の底を見つめ直すことと、
言われると、挫折体験を振り返ることになる。その意味で、挫折体験の中には
  多くの教えがある。 が、時間がたつにつれ、それを忘れてしまうのが
 人間の性である。そう人間、皆、馬鹿!
 ・・・・・・・
3312, ゴールドマンを訴追
2010年04月20日(火)
 1929年から始った世界恐慌では、その直接の仕掛け人達が多くが逮捕された。
しかし、これまで逮捕までされたという話は聞いてない。何か不思議な感がして
いたが、やっとSEC(証券取引委員会)が訴追に動き出した。アメリカは金融
マフィアが仕切る国でも、歴史に残る犯罪を、見逃すことは歴史が許さない。
以下は、毎日新聞の数日前の社説だが、毒入り債権を欠陥車に例えるとは、
トヨタの喚問もあったこともあり比較するに分かりやすい。
例え話は本質をより分かりやすく整理してくれる。
  〜まずは、その部分から〜
  = 毎日新聞社説: 「ゴールドマン訴追 金融危機解明の弾みに」 =
(字数制限のためカット 2011年4月20日)
・・・・・・
2937,レーシック専門眼科医院
 2009年04月20日(月)
姉三人が私と同じく強度の近視。その姉三人とも「矯正手術をうけて良かった」
という。知人の何人かが経験者、聞いてみると「白内障の手術時にレンズを
入れたが、出来たらやらない方がよい」と真剣にいう。 迷いに迷っていたが、
去年の半ばに、春先になったら決断しようかと決めていた。そして春は過ぎよう
としているので、 検索に「新潟 レーシック」といれたところ、何と自宅から
数分のところの所在地に「長岡眼科医院」が、あった。三年前ぐらいに出来た
(眼科らしくない)ミニ結婚式場みたいな医院があったが、まさか、そこが気に
していたレーシック専門眼科とは思ってもみなかった。本気にならないと
見えてこないものである。(字数制限のためカット 2012年4月20日)


5513,閑話小題 〜老人漂流の闇

2016年04月19日(火)

    * 団塊世代の老人漂流問題
  先日の、放送のNHKTVの、シリーズの
「老人漂流社会」の【団塊世代に忍び寄る老後破産】の内容が、シリアス。
このシリーズは毎回、見ているが、続いているのは、誰にとっても他人事では
ないため。「毎月の家計の赤字が10万。2百万の預金が無くなる2年後、
どうなるのか」の真剣な悲痛などが、次々と映し出される。家内が、「駅前の
ヨーカ堂は、年寄りばっかし!」と帰って早々、愚痴るが、そういう当人も、
団塊世代で、あと一月あまりで66歳。当人、年金支給日の銀行の窓口の年寄り
の殺気立つ、あの空気を知らない。それでも、まだ貧困者に向けた炊出しの行列
がないだけ、良しとしなければ。  〜NHKのHPによると、 
< 超高齢社会の課題を伝えてきたシリーズ「老人漂流社会」。
今回は日本の屋台骨を支えてきた「団塊世代」に忍び寄る老後破産の現実を
伝える。終身雇用制に守られ、経済的に余裕があると思われてきた世代だが、
長寿化した親の介護負担が重くのしかかる上に、不安定就労の割合が高い団塊
ジュニアを支えていることが分かった。番組では、親も子も支える「板挟み」
に直面する団塊世代のリスクを密着ルポとデータ分析で明らかにする >とある。
▼ 私も現役と比較すると決して楽ではないが、夫婦して厚生年金と、家内名義
 の預金の取崩しで、何とか人並みの生活が出来ている。 同級会で、真剣な
眼差しで、『こういう会費を、そのつど、奥さんから貰っているの?』と、
聞かれた時、『そのたび、土下座してもらっている』とのジョーク?の替りに、
思わず、『桁の違うお金ぐらいは持っているよ!』と見栄をきっていた。
で、後で、「桁の違う金とは、幾らだろう?10万、百万、一千万、一億?」と、
想定してみたが・・ ここまで来れば、一桁二桁の違いは同じ? 「老いたら、
金が無くとも、有るふりをしろ!」と、聞いていたが、「なるほど!」。
「落ちぶれて 袖に涙のかかる時 人の心の奥ぞ知らるる」を捩って、
「老いてきて 腰の痛みに涙して 人の心の奥ぞ知らるる」となる。

・・・・・・
5148,閑話小題 〜原監督の休養
2015年04月19日(日)
   〜つれづれに ー原監督の休養
 巨人の原監督がインフルエンザで休んでから、俄然、巨人が負けなくなった。
これを知ったとき、「少し休ませろ!」と球団から命令があったと直感したが・・
監督本人に挫折経験が少ないため、中途半端な負けが、開き直りが出来ない、
そのことが選手の動揺を抑えることができないため。 捩れの要素として、
・安部を一塁専任し、キャッチに戻すことはないと断言したことが、彼にとって
 負担になったこと。その動揺が、他の選手にも大きく影響をしてしまった。
 またキューバの有名選手の不振も、これに呼応した。
・問題は原監督の耐用年数を超えてしまったことにある。元に戻って、
 監督を続けることになるが、これで今期で退くことになるのが決定的? 
・さらに毎年、各球団の良い選手を次々と入団してくるため、既存の選手が萎縮、
 監督。コーチに対し異常なほど神経質になるのは自然の理。特に負けが込むと、
 「二軍に落とされるのでは?」と、萎縮の連鎖が全体を覆うパターンである。
 村田、片岡、井畑、今年は金城、相川という名だたる選手が、次々と入団
 すれば、既存選手の出場機会が、それだけ減っていく。大田、矢野、中井など
 他球団に行けば間違いなく、即、レギュラーになれる選手が燻る病である。
とはいえ、この現象は、巨人の例年のパターン。交流戦を終えた頃には、何事も
なかったように、その地力が表立ってくる。病も時には必要である。
 さて、悠久山の花見でもいってきますか!
・・・・・・
4783,葬式は、要らない ー1
2014年04月19日(土)
          「葬式は、要らない」島田裕己著  
 葬式の希望を書きおく時期になってきた。現時点での希望の大枠は、
《 会場が3百メートル先のセレモニーホールで、直葬に近い家族葬。
 ごく身近な人たちだけにし、遺骨は実家の墓に。戒名は自作のものを
 仏壇の引き出しに。その後は、「墓参り仏教」に従うことなく、命日に
 それぞれが仏壇に手を合わせてくれれば充分。》 これだけ!
  内容(アマゾンより)
{ 日本人の葬儀費用は平均231万円。これはイギリスの12万円、韓国の37万円
 と比較して格段に高い。浪費の国アメリカでさえ44万円だ。実際、欧米の映画
等で見る葬式はシンプルで、金をかけているように見えない。対して我が国と
いえば巨大な祭壇、生花、高額の戒名だが、いつからかくも豪華になったのか。
どんな意味があるのか。古代から現代に至る葬儀様式を鑑みて日本人の死生観の
変遷をたどりつつ、いま激しく変わる最新事情から、葬式無用の効用までを考察。
葬式に金をかけられない時代の画期的な1冊。
  ーアマゾン読者のレビューよりー
・日本の法律で葬式が義務となっているわけではない。医師に死亡診断書を
 書いてもらい、役所に行って死亡届を提出、埋葬許可をもらう。決まって
 いるのはそこまで。遺体の処理については墓埋法で、
1.死亡後、24時間経たなければ、埋葬も火葬も行ってはならない、
2.火葬は火葬場以外で行ってはならない、
3.埋葬は墓地以外で行ってはならない、とされるのみだ。
 焼いた遺骨をどこかに撒くのなら、葬式もいらなければ、墓もいらない。
 宇宙葬の費用ですら100万円である。もっとも現実には葬式を行わない
 ケースは少ない。人は誰かかかわりあった人が亡くなれば、その死を確認して
 けじめをつけたい。葬式への参列ほど明確なけじめの機会はない。ただし
 葬式を出すことと、葬式に多額の費用をかけることとは直結しない。
・家族葬は近親者だけで行う規模の小さい葬式全般を指す。以前は密葬と
 呼ばれていた。通常なら通夜と葬儀・告別式で二日かかるところを、一日に
 まとめたワンデーセレモニーという形式も生まれている。もともと通夜は
 近親者だけで営むものという感覚があり、一般の会葬者が参列するのは葬儀・
 告別式のほうだった。結婚同様に、葬式も組織の儀式から個人儀式へと変化
 してきた。昔は商家も農家も家は生産や経済活動の単位であり継続が不可欠
 だったが、サラリーマン化が進むことで、養子をとったり婚外子を作って
 まで家を存続させる必要がなくなった。 自営業の場合なら家の存続が重要で、
 伝統的な祖先崇拝の信仰を取り入れる傾向が強く、喪主になるのは後継者
 であり、葬式は後継者を披露する場ともなる。 が、サラリーマン家庭の場合
 は家は生活の場でしかない。永代供養墓は跡継ぎのない家が増えたことで
 生まれた供養形態。墓を求める際に永代供養料として一定金額を払うことで、
 墓守となる跡継ぎがいなくても、寺が命日に読経するなど供養を続けてくれる。
・直葬は密葬、家族葬の一番簡略化された形態だ。現在、東京では20%が直葬。
 直葬では、故人の遺体を寝台車に乗せ、自宅や葬儀社が用意する一時的な安置
 場所に搬送し、とりあえずそこに安置。そこで納棺し近親者だけで通夜をする。
 会葬者は呼ばない。翌日、霊柩車で火葬場へ出棺する。そして、やはり近親者
 だけで故人に別れを告げ、遺体は荼毘に付す。最後に、収骨、骨あげをして
 葬式は終わる。直葬の費用は多くとも30万円ほどで、僧侶に読経を頼んでも
 50万円以内でできる。もっとも簡素な形式を選んで近親者だけが集い、
 会食もしなければ10万円程度で済む。
▼ ますます直葬、家族葬が増えることになるが、長く続いてきた家族中心から
 個人中心主義になる御時世では当然の流れ。これが不景気になるほど、簡易な
葬式が増えてくる。直葬、密葬を宣言してしまえば、残された者は楽。
私の墓は、このブログ。閲覧は墓参りのようなもの。 
時どきの墓参り、本当に有難うございます。
・・・・・・
4416, ふしぎなお金
2013年04月19日(金)
                 「ふしぎなお金」 赤瀬川原平著
 子供用の絵本だが、人は当たり前のように使っているお金について、あまり
考えない。お金は自由の、エネルギーの、塊。日本人は金を不浄なものと考え
がちだが、お金は血液のようなもので、人間にとって非常に大事である。 
人を生かし、また殺してしまう力を持っている。 子供に諭しながら、実は
大人に語りかけている。 ーまずは、印象的な部分を抜粋ー
≪ *「冬のバーやレストランで、席につく前に、「コートお預かりします」 と
 いわれて、なんなドッキリとしないだろうか。だってコートの内ポケットには
 拳銃が入っている。それをそのまま預けて大丈夫なのか。というほど錯覚を持つ
 ほど財布は拳銃に似ている。だから「貴重品はよろしいですか」といわれると、
 何だかもっていかれるかと思って、その護身用の拳銃みたいな財布を、身近な
 ポケットに移し替える。でも移し替えながら、どことなく後ろめたい、とうより、
 どことなく情けない気になる。「お前はそんなに相手が信用できないのか。
 そんなに拳銃なしで丸腰に、なるのが怖いのか、という`声が追いかけてくる。 
 そういえぱ、昔の西部劇映画には、ガンペルトそのものを外す場面があった。
 宿について、あるいは自分の家に戻って、外敵なし、大丈夫、という状態で
 はじめてガンペルトを外して椅子の背に掛ける。ガンマンがくつろぐ一瞬。
 ところであのガンペルトとは、実はむき出しの現金を装着したベルトなのだと、
 そんな感じがしないだろうか。ガンマンはその現金でいつも勝負している。
*「日本の場合は刀の大小だ。明治以前、武士はみんな刀を差していた。
 男子、一歩外に出れば七人の敵、といわれるくらいで、刀の大小を肌身離さず
 持ち歩いていた。刀は護身用であり、権威でもあるところは、やはりいまの
 お金に似ている。武士の世界の文化の一つに茶の湯があった。招かれて行く
 お茶室には、小さな躍り口が設けてある。あそこを入るには腰の大小を外して、
 外の刀がけに欠けねばならない。武士はみな一瞬、躊躇したのではないか。
 財布は刀やピストルと違って、人を殺める道具ではないのではあるが、人は
 金のために人を殺したり、金のために自分の首を吊ったりして、金はやはり
 隠然たる凶器の光を忍ばせている。拳銃も財布も、緊張の物件である。
 いざとなると拳銃をぶっ放すように、札びらを切る。でも「いざ」とならない
 ときは、それはそっとボケットに仕舞われている。昔よりも落ち着いた現代
 社会では、さらに奥深くの内ポケットに移行している。」
*「足元にお札が落ちている。それを見たとたんにハッとする。千円札の四つ
 折りにしたわずかな面が見えているだけでも、何か異様にハッとするのは何故
 だろうか。足元に血が垂れている。それを見たとたんにハッとする。ちょっと
 した赤い液体なのに、何か異様にハッとする。見てはいけないような、
 一歩踏み込んだ秘密を見てしまったような、緊張感が走る。」
*「人間の血はだいたいみんなと同じで、成分にほとんど違いはないが、
 自分の血は自分のもので、自分の体内に密閉されている。でも場合によっては
 人助けで献血をする。場合によっては寄付したり、プレゼントしたり、投資で
 失くしたりする。」 
*「お金も血も、命にかかわるエネルギーの源である。流体である。
 生臭いものである。でも、輝いている。いきなり見せられるとドキリとする。
 プライベートでありながら、共有のものでもあるところが不思議な関係。」 
▼ 財布を拳銃に、そして刀に喩える切り口がよい。撃たれ、切られたとき、
 血が吹き出る。それからみて金はエネルギーと同じ。一万は一万の、一千万は
 一千万、一億は一億のエネルギーがある。無駄を廃し、使うべきときは使う、
 それが金の効用。
・・・・・・
4042, 世界の旅行記101 ー3
2012年04月19日(木)
   * 旅行記は、旅人により再構築された言説
≪ 旅行という行為や、そこでえられた環境や状況についての情報は、言説
 として再構成されている。おもいもかけない発見や探索、あるいはそれに
出会った旅人の心象や思考は、旅行記という形態に定着させられるときに、
一定の文スタイルやデザインを採用する。 文章のかたちをとるという点から
みれば、「文体」といいかえてもよい。見聞され体験された隔遠の地における
非日常の事実は、旅人の言語に変換され、日常の世界に発話される。著者と
読者とが共有する表現と読解のルールにもとづいて旅行記は書きおろされる
「言説」といったのはそうした意味においてである。 旅行記は、旅の事件記録
性を検証するよりもまえに、言説そのものの解読作業がほどこされねばならない。
旅程のすべてを記載できるわけではない。見聞された事象すべてが、偏りなく
叙述説うるわけでもない。しかも、だれにとってもひとしく共有される述法の
ルールにしたがって。 そうではなくて、旅行記は、旅人が旅先について投射
した特定の視線が、対象のうちに読みとった文脈にかんする言説である。 
使用される語彙もシンタックスも、そしていますこしふみこんでいうならば
価値感覚も、言説として独自の完結を実現している。別のいいかたをすれば、
中世ヨーロッパ人と近代アメリカ人、古代中国人と現代日本人は、それぞれに
採用する言説の方式はことなっている。いや、著作者の身分、出自、性別、教養
のちがいによって、同一物にいての言説は別個のものになりうる。 ≫
▼ 旅先の情報を言説として再構築したのを旅行記とすると、書き手の特定の
 視点こそ注目すべきである。それが旅行記の特性であり、面白さになる。
だから、この101の旅行記は、101人の特異体験を記した事件簿として垣間
見ると分かりやすい。それぞれのクロス・エンカウンター(因縁)が現れ出る
から面白い。人生の記録も、それぞれの特異点の旅行記に酷似している。
 ・・・・・・・
3676, 自己を見つめる −3
2011年04月19日(火)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 「時間」は簡単のようで、難しい。心の中は、時空をこえた多くの思いで
満ちている。特に多くを経験した熟年期に差し掛かると、思いは過去に向かう。  
そこには現在の知覚と直感で彩られた抽象画としてたち現れてくる。
豊かな経験なら豊かに、逆なら逆として! 生きてきたとおり、人生は自分に、
その姿を突きつけてくる。  ー 第二章 時間 ーより
【(p45) 私たちの心は、アウグスティヌスが言ったように、たえず
 なんらかの出来事を記憶し、知覚し、期待するという働きを、本質的に
具有している。記憶は、過去の出来事に関わり、知覚は、現在の出来事に関係し、
期待は将来の出来事に向けられ、しかも、それら三つが別々にあるのではなく、
むしろ、私たちの心のなかに、それら三つのものがすべて取り集められる。
 したがって、「過去のものの現在が、記憶であり、現在のものの現在が、
直観であり、将来のものの現在が、期待である」とアウグスティヌスは言った。 
いわば心という大きな現在のなかに、過去の追憶と、現在の印象と、将来の
予期とが、すべて取り集められているわけである。たえず現存し続ける
その大きな心が、うしろを振り返って追憶に浸るときに、過去が浮かび上がり、
いま周囲を注意深く見回すときに、現在が印象深く迫ってき、行く末を思って
期待や予期に心を震わせるとき、将来が思い描かれるのである。 時間とは、
このように、振り返ったり、見回したり、行く末を思ったりする心の働き、
 すなわち記憶や追憶、知覚や直観、期待や予期といった心の作用に由来する
わけである。逆に言えば、大きく静かで揺らぐことない「立ち止まる今」と
いう現在の心の場、いわばそうした明鏡止水の心眼という現在の鏡のなかに、
さまざまな過去と現在と将来の出来事が映し出されてきて、それらが追憶され、
知覚され、予期されるとき、そこに、それらの出来事が、過ぎ去り、現れ、
到来する時間の諸相において意識されてくると言えるであろう。】
▼ 現在置かれている、この節目どきに、これまでの記憶と追憶と、現在立た
 たれている分岐点、そして、これから予期されること、その三つが、心の中で
濁流のように渦巻いている。この自分の中に、多くの節目があって、それが
現在という幅のある時間の中で自分という確かな存在が見えてくる。これは
晩年期に差し掛かった人間に共通しているが、心が、これほど激しいものと。
人は生きてきた、そのままに老いるとは、その意味である。 現在は、
その「立ち止まる今」である。 それでも時間は止まらない。
・・・・・・・
3311, 笑われ力  −3
2010年04月19日(月)
「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
  ー次に、なるほどと合点した箇所を抜粋し考えてみる!ー
*「笑われ上手」に「背伸び」禁物
 ・まずは「私は凡人」とみとめる。
 ・「みんなをリスペクト(敬う)する。
  そう思えば、自分の中の良い部分も見えてくる。
 ・笑ってもらえたら「笑ってくれてありがとう」という気持ちを
  持つこと。この一歩下がった気持ちが必要となる。
*「笑われ上手」の下ごしらえ、をつくっておく
 ・「ダメな自分物語」を多くつくっておく。出来るだけ短くまとめておく。
  失敗したその場でつくる。
 ・もったいぶらないで、いきなりクライマックスの話を話題に出す。
 ・キーワードを決めておく
 ・一度、物語を用意したら、あとは白紙の状態にしておく
▼ 20年前から10年前にかけて、かなり遊び人の不動産屋の社長と古町を、
 飲み歩いたことがあった。小料理屋や、スナックなどで、話術の巧さに驚き、
花柳の世界を垣間見た。芸者を相手の粋な遊びは今では夢のようである。
あれから10年も経ってしまった。彼には、ここに書いてあることは、ほぼ
身につけていた。決して他人の悪口や話題をしないのは、当たり前。
自分の昔話も成功談が一割、失敗談が九割。芸者に三味線を弾かせて
都都逸など一ひねりなど、粋な遊び方等など。話術も自分を嫌味なく下座に
おき笑わせておいて、実は笑わせている妙は場数のなせる技(業)こういう
時代になればこそ、「やれる時にやれる事をやっておいて、良かった」と実感!
(逆に遊び過ぎ?もあったか)「ダメな自分は、嫌な自分ではない」、これが
笑われ上手のポイントと著者がいう。 笑われ力は、自分の中のダメな部分や
矛盾を笑ってもらう力であり、相手のタイミングで「笑われネタを」提供する。
それが受けたからと言って、もっと笑わせてやろうとか背伸びするのは厳禁。 
あくまで相手と場のタイミングに合わせるのだ。
  その「笑われ力」のきほんステップとは
1、「ダメな自分」を見つける 2、「笑える部分」を特定する 
3、自分で笑い飛ばしてみる 4、笑顔で他人に話す     
5、その結果「心地良い笑い」が生まれる 
 落語の「まくら」では、名人の域に達した人ほど、上手い。
「駄目な私」のネタなら膨大な蓄積がある! ったく。カミサンに耳にたこが
出来るほど指摘されている。 大きな経営者大会で講演者が「女房は亭主をバカ
にする動物である」と言った時、会場が異常な爆笑があった。大きな会社の立場
の人ほど家ではバカにされているのだろう!良いように出来ている。


5512,人類史上最大のバブルが弾ける時 〜②

2016年04月18日(月)

      〜【中国とどう付き合うか】人類史上最大のバブルが弾ける時
               熊谷亮丸『大和総研』チーフエコノミスト
   * 中国の成長モデルは賞味期限切れ
 隣りの中国は、今や世界恐慌をもたらすかもしれない火薬庫でもある。
経済の失敗を覆い隠すために、戦争を仕掛ける可能性もあり、その時期が、
3〜5年先かもしれないというから、尋常の話でない。日本は、大地震と
大噴火、そして異常な国債過剰などを抱え、中国経済の問題は、他山の石
ではない。現役だったら、その危機感は想像を超えたものだろう。特に、
地方は、激流の波の被害を一番早く受けることになる。問題は、その後の、
日本への難民の処遇問題になる。 グローバル化とは、こういうこと!
≪ 中国の成長モデルは最早、賞味期限切れが近付いている。
 構造問題が山積しており、経済的・社会的な矛盾が臨界点を超えつつある。
経済面では、政府との癒着が続く中、国有企業の改革は遅々として進まず、
労働生産性が低迷している。 国有企業は利益を配当として政府に還元する
ことなく、非効率な事業への再投資を続けている。経済の牽引役は依然として
“箱物”中心のインフラ投資で、経済のサービス化も遅れている。
結果として民業は圧迫され、規制緩和等を通じた民間企業のイノベーションは
進展していない。社会構造の面では格差が拡大・固定化し、低賃金労働者の不満
が溜まっている。社会保障・教育・医療等のセーフティーネットの整備が不十分
であることも、消費低迷を助長している。
 中国には“ネズミ族”という、地下の明かりの無いところで共同生活を送る
貧困層が100万人以上存在すると言われる。その多くが地方からの出稼ぎ労働者
(農民工)だ。彼らの部屋に窓は無い。その暮らし振りは、宛ら洞窟で生活する
ような印象だ。 これらの構造問題を根本的に解決しない限り、中国がどれだけ
公共投資等のカンフル剤を打っても、それは問題の先送りに過ぎない。
将来的には、より一層膨張した“バブル”が弾けるという最悪のシナリオが
不可避となるだろう。
 ここで、中国で“バブル”が崩壊した場合の潜在的なマグニチュードを定量化
しておきたい。 筆者のシミュレーションに依れば、
〔資本ストック調整が本格化する“メルトダウンシナリオ”では、中国の潜在
成長率は1.6%まで低下し、実際の経済成長率は大幅なマイナスに陥る。〕 
 勿論、一般論として言えば、世界経済のドライバーは依然としてアメリカで
あり、決して中国ではない。仮に中国経済が少々減速した場合でも、日本経済に
与える影響は軽微なものに留まろう。しかし、中国経済が“メルトダウン”する
場合には、全く別次元の話となる。その影響は、〔世界経済を奈落の底に叩き
落とす程の強烈なインパクトを持つ〕ことになりかねない。中国の政策当局には、
自らが置かれた状況を的確に認識した上で、中長期的な構造改革と、短期的な
カンフル剤に依る景気刺激策をバランスよく講じて、何とか中国経済を
“ソフトランディング”に導くことを切に期待したい。尚、中国での“バブル”
崩壊に伴う日本への悪影響は、主に中国向け輸出の低迷と、消去法的な
円高進行を受けた他地域向けの輸出低迷という2つのルートから生じる。
中国人に依る“爆買い”の消失を懸念する向きもあるが、2014年のデータでは、
日本の対中輸出は13.3兆円程度と、訪日中国人の日本での消費額(5600億円程度)
の24倍に達する。つまり、中国向けの輸出は中国人に依る爆買いよりも、日本
経済に与えるインパクトが遥かに大きい。中国経済の減速に備えて、我が国の
政策当局は何をなすべきか? “Do your homework.(自分の宿題をやれ)”と
いう言葉があるが、日本政府は自らの積残した課題に粛々と取り組むべきだ。
現時点では、当初のアべノミクスの3本の矢の中で、“第1の矢”(金融政策)
に過度な負担が集中しており、構造改革は若干遅れ気味である。今後は、
①農業・医療・介護といった分野における所謂“岩盤規制”の緩和
②社会保障制度の抜本的な改革を通じた財政規律の維持等の国民にとって
 耳の痛い構造改革を断行することが、最大の課題となるだろう。≫
▼ 今回の熊本地震、まさか九州の中部で大地震が起こるとは思っても
 いなかったようだ。そして、いざ災害になると、その準備態勢が如何に
甘いか知ることになる。これは、中国のメルトダウンに対しても言えること。
問題は、弱者ほど、その対応が不十分ということ。「弱者だから準備ができ
なかったからではなく、準備をしてないから弱者」 とも言えることになる。
「南海トラフト地震が本陣とすると、その一部の部隊が動いた一現象」か!
東北大震災が本陣とすると、中越地震、刈羽沖地震、一連の東北地区の地震が、
熊本大地震にあたる。 直近でないとしても、本陣が控えていることは事実。

・・・・・・
5147,1%による1%のための勝利戦略 ー②
2015年04月18日(土)
      【金持ちが確実に世界を支配する方法】スーザン・ジョージ著   
 ー内容紹介ー 
   〜ネットにあった概要の後編より
≪・本書の前半では、「第1回報告」(これも架空)を振り返り、社会、経済、
 環境問題の展開を検証する。後半では、「階級闘争必勝戦略」の提言を行う。
「階級闘争必勝戦略」は、投資家で世界第三位の大富豪ウォーレン・バフェット
の2006年の発言、「階級闘争があると言いたいなら、そう言ってもいい。しかし
戦いを仕掛けているのはわれわれの階級、金持ち階級のほうで、勝利は目前だ」
から取られたものであり、1%の野望をはずかしげなく洩らしている。
・本書によれば、リーマンショックにもかかわらず、1%への富の集中は進んで
いるので、彼らが仕掛けた階級闘争は順調。彼らの「必勝戦略」は、ひたすら
99%を洗脳する事と、言い変えると「文化的乗っ取り」あるいは「メディア戦略」。
「民主主義をお払い箱に」にし、人権を縮小し、自由競争や自己責任の言葉の
連発で、新自由主義に洗脳することが、1%層の宿願である。
・本書の架空の作業部会が、日本の採点をするとしたら、世界の優等生として
褒めてもらえそうである。福祉(医療、年金、生活保護)の切り下げ、消費税に
よる99%層への収奪、一方では大企業への減税の大盤振る舞い、経済格差の進展、
実所得の低下、子どもの貧困率のさらなる悪化、東電福島原発事故の発生と
その被害者の切捨て、秘密保護法の制定、集団的自衛権行使への動きとそれに
伴う軍需産業の動き、国民を犠牲にしても自由貿易を拡大しようとするTPP推進、
ますます政府の広報機関と化している新聞・テレビなど、日本で進行中の動きは、
本書が暴き出した「1%による99%支配の強化」の日本版と読替えれば、すべて
納得がいく。本書は、日本での動きが、世界を席巻するグローバリズム
(新自由主義化)の一環であることを改めて教える。
・本書の性格上、99%による1%への対抗戦略は書かれていない。1%が何を考え、
そのためにどのような手段を使っているか、を寓話形式で知らしめることが
目的だからである。99%が明日からでも実行可能な、1%への対抗戦略については、
ジーン・シャープ著『独裁体制から民主主義へ』がある。≫
▼ この政策を実行するに、3つのS戦略が重要としている。 スピード
(すばやく)、セクレシイ(知らせず)、ステルス(水面下)である。これに
サプライズも加えることができるという。中国は、彼らと同じ体質を持っている。
この傾向は、短期間で達成している。地中海クラブに住む劣等国民には、憎悪
すら感じている。彼らは身に合わない生活をしてきたため、債権は、他の国が
払うべきと信じて疑わないが、これも時間の問題。アフリカ、中近東は、彼ら
の手先の一部王族が、天然資源を独占、営利を貪っている。それがIS国として
大きなウネリとして支持を得ている。世界は、1%の人たちのためにあるようだ。
・・・・・・
4782,大不況には本を読む
2014年04月18日(金)
  * 「本書のまとめ」      「大不況には本を読む」橋本治著
 今さらだが、時代を鳥瞰するにクリアーで解りやすい。 ー(P183)
《【十八世紀の後半に起こった産業革命は、それまでの世界のあり方を変えて
しまった。その新しくなった"世界秩序"が日本にやって来て、日本は150年前に
開国した。開国した日本は、その時の世界秩序にのっかって、見事に成功した。
成功して行き過ぎて、第二次世界大戦とバブル経済という二度の破綻を経験した。
成績トップになった優等生の日本は、それゆえに"見事な破綻"を経験するが、
その他の国はまだそこまで行っていないので、相変わらず"産業革命以後の体制"
は健在だったが、今度はアメリカが新たな破綻にぶつかった。産業革命以降の
体制は、アクセル全開の自由貿易主義だったが、そのこと自体にブレーキが
かかってしまった以上、改め"ブレーキをかけることの意味"を理解した方がいい。
 そんな世界的なあり方は、″会社の仕事に追い回されて、自分及び自分の家族
やその周辺のあり方を省みない゜という日本人のあり方にシンクロする。自分の
あり方を省みるために、もう一度‘本を読む’というところに立ち戻ったらいい】
 この考え方をエコノミスト的に裁断すると、私は「保護主義のイデオローグ」
ということにもなるが、私はエコノミストではない「人間のあり方に立脚する」
文芸関係者なので、「そりゃお門違いだろう」ということにしかなりません。
 バブル経済へ向かって進行する中で、いくつもの誤解は生まれましたが、
「経済が分からないのはバカだ。物事は経済的見地’にのっとって見なければ
ならない」ということになってしまったのも、その一つです。 経済の方で
「保護主義的」と言われるものは、「人間のあり方に立脚する」立場からすれば、
「人が生きて行くために押さえておかなければならない基本」でもあって、
だからこそ私は、経済の方では「保護主義的」と言われるものを「自立」と
関連づけるのです。「金儲け」のことをあまり考えない、その能力があるとも
思えない文学や思想、哲学といったもの ーつまり「文学」「その他」は、
「働いて金を稼ぐ」に代表される現実生活のことを、ともすれば忘却しがちです。
 ・・・ 2008年秋以降の・金融危機・経済危機はそれで、「破綻してよかった」
でもあります。しかし、でありながらも「世界」の方は「豊かさの達成は進行中」
という前提に立って、相変わらずの「富の均質化」を求めます。だから、輸出量
や輸入量の調整は求められるのですが、この「調整」の向う方向は、一つです。
「豊かである国の、既に達成された豊かさを目標にして、世界中を均す」です。
既に経済危機で「豊かな国の豊かさの基準」はぐらついているのですが、世界が
「豊かさの達成はなおも進行中のはず」という前提に立っている以上、目標と
される基準値は「豊かな国の豊かさ」です。そしてこれは、「工業に追い抜かれ、
工業にすがりついて追いつこうとする農業の哀れさ」と同じ質のものなのです。》
▼ 大きな節目時に、読書をして行間を読むしかない、ということ。
 特に、アメリカの露ばらいをさせられた日本こそ、新たな解決をしなければ
ならない。「経済の自立=保護主義的になりざるをえない、という基本を押さえて
おくこと」には、考えさせられる。日本は明らかに衰退の道を歩き始めた。
しかし、現実をみると、誰も直視しない。そのツケは、株価と国債の暴落という
突然の崩壊で生じることになる。日本は近い将来、豊かさとは、かけ離れた国の
悲哀を味わうことになる。150年の間の政治経済のマクロの流れを振り返り、
今後の方向性を見つけることは至難の業だが、それでも見つけ出すしかない。
「普通の国」が、キーポイントだが、地政学的に見て、日本は中国とアメリカ
の間にある海洋国家。その辺りが鍵になる。今後10年間は、これまでの10年間
より遥かに厳しい事態になる。この20年間の変化が、10年間に圧縮して襲い
かかるとしたら、考えただけでも身震いがするが、興味もそそられる。
気の毒なのは、若い人たちである。
・・・・・・
4415, 余生を過ごす場所は?
2013年04月18日(木)
  * 今の場所で快適に過ごす工夫を!  「知的余生の方法」渡部昇一
 余生を過ごす場所は、生れ故郷か、はたまた別荘地か、海外か、そのまま現在
住んでいる場所か、迷うところ。著者は、現在住んでいる場所こそ「ふるさと」
と思い、別荘地など考えずクーラーでも入れ快適にするなど工夫すべきという。
「住めば都」で、心地よく住んでいるところが、いなかと諭す。ーその辺りよりー
≪ P・94 英語では一般的に「ふるさと」は単にホームという。イギリス民謡の
『埴生の宿』の原題は‘Home,SweetHome’だが、このホームがそうだ。ホームは
単なる「住み家」「生まれた場所」という意味に過ぎない。そこから懐かしさを
伴って、「ふるさと」をあらわすようになり、「家庭」を意味するようになった。
だから、「ふるさと」と「家庭」が相通じ、切り離せない関係にあるといえる。
そこには父や母がいて、昔の日本の田舎でいえば、囲炉裏を囲んで話をする風景。
そのホームも、今では崩れつつあるようだ。 ローマ時代からの諺に
「自分がうまく生活しているところ、そこがホーム、つまり自分の「ふるさと」
「故国」という意味である。これは言い得て妙で、都会暮らしの生活者にとって、
救いになる言葉である。田舎から東京に出てこようが、海外に移住しようが、
そこで成功し、そこで良い暮らしをしていれば、その土地こそ「ふるさと」である。
都会でうまく生活しているなら、都会こそ自分の「ふるさと」と腹をくくるべき。≫
▼ 思い切り移住するのも悪くないが、そのまま居座るのが自然。私のように、
 ブラックスワンの御蔭で、肩身が狭くても、「平気で死ぬのが悟りでなく、
平気で生きてこそ悟り」と、自分に言い聞かせ、割り切れば別に何とことはない。
 ソフト・ランディングだったこともある。しかし、5億、10億の現金があれば、
軽井沢のマンションか、ハワイを考える。としても、現在と大して変わりはない。
いや、違うか! 天使の様に、肩に羽をつけ、浮いたように生きればよいだけ。
 フワフワ生活するのはお手の物。いずれにしても死んでしまうのだから、
今を楽しむしかない。場所は二の次? 改善でよい。
・・・・・・
4041, 世界の旅行記101 ー2
2012年04月18日(水)
  * 旅行記は事件簿でもある
 はじめにー旅行記を読むということーの冒頭が、旅行記の本質をついている
≪ 古今東西、旅をする人たち、旅を愛する人たちは無数に存在した。そして
 無数の旅行記、紀行文が書かれた。どうも旅という非日常の行動は、文章の
起草をはげしくうながすものらしい。いろいろの旅行記がある。任務をもって
旅したものであれば、復命書を。さだめなき漂泊の旅にでたものであれば、遍歴
の跡をしるす随筆を。どれも当の本人にとっては、記録としての重みは、ひとしい
だろう。だが、旅行記を読む側からすれば、自から興趣には軽重の差がある。
「読み甲斐」のある旅行記とはどんなものであろうか。まず考えられるのは、
旅そのものが、冒険や危険にみちている場合。 安穏として、ほとんど日常の
域を出ない旅とはちがい、未知の領域や未踏の領野をゆく旅は、つねに発見と
遊遁にみちている。ドキドキ、ワクワクの連続は、旅する本人とともに読者をも、
不安と興奮にまきこむ。探検記、踏査記が長らく愛読されてきた由縁である。
 旅は始点と終点とがある事件であるとすれば、旅行記は事件簿でもある。
そこにふくまれる小事件のつながりが、どれだけ起伏にみち、意外性にあふれて
いるかによって読者へのアピールはことなる。実際には、みずからその事件に
参画することは困難だが、そのアピールをうけいれ、旅行記とともに旅という
事件を追体験する。おそらくは、なにがしかの潤色がほどこされるではあろうが、
旅は現実に存在した事件であるだけに、迫真の体験が身にしみる。アームチェア
で葉巻をくゆらせながら読むものも、通勤の電車内で文庫本に読みふけるものも、
旅行記から、かの体験をうけとるだろう。ときには、身にうずきを感じ誘われる
かのように、みずから旅への計画にむかうこともあろう。
旅行記の効用は、じつに広く深い。≫
▼ この事件簿は大事件の膨大な資料が詰まった代物。それぞれのダイジェスト
 は50数人が書いたのを編集したもので、紀元前から近代まで至っている。
2〜3ページに纏められているので、軽く読めるし飛ばし読みもできる。
2千数百年にわたる時代の世界各地を、それぞれの目線を通したフィールドワーク
を編集しているから、面白いはず。とはいえ、ダイジェストはダイジェストだから、
これを手引書として各書を読むと良い。旅という非日常から、旅先の日常を垣間
見るのも面白い。 私たちの生きている世界が、いかに極小で、特異ということ
にも気づかされる。 私たちは最高の特異の時代に生きてきた!のである。
・・・・・・・
3675, 節目どきに ー8
2011年04月18日(月)
  * 体重が減り始めてきた!
 毎朝のウォーキング(サイクリング)を20数年間続けてきたためか
体重は標準である。ところが、ここでスポーツジムに通いだしたため? 
半月で学生時代の体重まで落ちてきた。心労もあるかもしれないが、これは
明らかに運動効果である。入会時にジムの人に計ってもらった肉体年齢が私の
肉体年齢より11歳も若かったのに驚いた(54歳)。長年の早朝のウォーキング
の蓄積が肉体年齢を若くしていたようだ。 肉体的には健康的な日々だが、
精神的には、どうだろう。
  * CTスキャンは大量の放射能を?
 CTスキャンの被爆量が胸部レントゲン写真300倍に匹敵し、数十年後に
がん発症リスクは被爆で高くなるという。私など毎年の検診で20年近く
CT検査をしているので、大量の被爆をしていることになる。そろそろ被爆の
結果が出てくる頃。知らないことは恐ろしいことである。チャンとした説明を
受けていれば、三年に一度位に減らしていた。 しかし適当な被爆なら、
細胞が活性化して、むしろ健康によいとも言うが。
  * 今でも、私にとって3月11日が止まっている
 TVの画面で、被災地の中年女性の言葉が印象的だった。 
「私にとって3月11日がそのまま止まっている。毎日が、そのまま3月11日の
繰り返しで続いている」と。 そうだろう、被災者にとっては、あまりにも、
その日の出来事は大変事で、その日をもって生活環境が一変してしまった。 
被災者の一人が、「ここにいる殆どの人たちには、生死の境目にいて、九死に
一生を得たドラマがある」と朴訥とした言葉で話していた。現在進行中の原発
事故が、今だに、この災害が終わってないことを告げている。我々が自覚して
いるより、遥かに危険な状態の置かれているが、まだ、序曲。 
そういう私も、震災ショックによる何の被害者である。


5511,閑話小題 〜二年で円の通貨量が二倍になったが 〜②

2016年04月17日(日)

 去年の[2015年04月12日(日)}に以下のテーマで書いた文章が、数日前、
目にとまった。そういえば一ヶ月前、「通貨量が三倍になった」との
ニュースが流れたから、この一年で、1・5倍の通貨量になったことになる。 
問題は、通貨量を三年で三倍にしても、デフレも景気も浮上しないこと。
預金総額が1700兆円に増加したが、それは平均であって、一般大衆の預金が
増加したのではなく、あくまで一部の富裕層だけ。
 〜まず、去年のコピーから〜
【  * 二年間で円の通貨量が二倍に!
 二年前、日銀の黒田総裁が、「2012年末に138兆円だった資金供給量を14年末
には約2倍の270兆円に拡大。長期国債の購入量も2年で190兆円と2倍強にして、
上場投資信託などリスク性資産の購入も増やす。インフレターゲットは2%。」
と発表した。ところが、先日のニュースで、「2年間で円の通貨量が2倍に
なったが、インフレ目標の2%はゼロのままと、日銀が公表」と報じた。
 リーマンショック後、米国は数ヶ月で二倍、現在は三倍以上にドルを増刷、
為替相場が3分の1になったかといえば、7年前と同じ。 
日本の供給量は2年で二倍。しかし為替相場は3分の2。株価は安倍首相が
就任した2012年12月26日の終値は1万0230円36銭だから、2倍になった。
日本も米国も通貨量を2倍にしたにも関わらず、インフレにならないところが
摩訶不思議。アベノミクスは中長期的にみて明らかな失政が見てとれるが、
保守本流の頭脳は膨張以外、考えが至らない。「後は野となれ山となれ」である。
 現在は太平洋戦争突入の数年前の様相と似ている。家内を見ていると、物価の
値上げに対する反応に敏感だが、これは一般主婦の趨勢。スタグフレーションの
様相を示している。保守本流は、アメリカの忠実なポチ。強者に優しく、弱者に
厳しい。先日、図書館で借りてきた、『金持ちが確実に世界を支配する方法』
の「1%による1%のための勝利戦略」が、まさに現在の政権と酷似している。
とって付けの、政策など、直ぐに、その正体を現れ出るが、その前に衆議院選挙
を昨年末に断行した安部も、強かである。この国民をして、この政府。
とはいえ、激動期には保守本流で中心を固めないと、学芸会のような政治
ごっこの政党に、国は荒らされる! まだ、マシ? 】
▼「通貨量が三倍に増加」のニュースが何故か消えてしまった。聞き違いの 
 可能性があるため、この文章を書くのを控えようか迷ったが、記憶を辿って
みても、間違いない? そこでネット検索でやっと見つけたのが、
【マネタリーベースは12年末の138兆円から昨年末は365兆円と2.6倍
に膨らんだものの、15年平均の全国消費者物価指数(生鮮食品を除く)は2%
目標には程遠い前年比0.5%増。誰が見ても「黒田バズーカ」は失敗】
があった。 とすると現在の三倍のニュースは、間違いない。これからみても、
アベノミクスは間違っており、この失敗は、次世代の弱者に更なる負になる。
その札束は、そのまま富裕層に移動する。〜で、これも偶然で、以下につづく。
・・・・・・
5146,1%による1%のための勝利戦略 ー①
2015年04月17日(金)
      【金持ちが確実に世界を支配する方法】スーザン・ジョージ著
  まずは〜内容紹介〜より
< 世界中の富裕層のみなさん、お喜びください。完全勝利は目前です。
 ただ少々、問題がございます――。世界金融危機で痛手を被ったかに
見えた1%の富裕層。再び立ち上がり、さらなる富を手にした彼らは、
一体どのような手段を取ったのか。『なぜ世界の半分が飢えるのか』の著者
が「報告書」という形をとって、グローバル化された収奪のシステムを暴く。>
 ネットに、概要を簡潔にまとめた内容があった。
≪ ・ 多国籍企業が国境を越えて自由貿易および市場主義経済を拡大させる、
 グローバリズムの動きがますます急である。これに伴い、世界中で上位1%
への富の集中が著しい。最近は1%どころか、さらに最上位0.1%へ富が集中して、
アメリカの場合には2012年で、純資産が2000万ドル(約20億円)を超える富裕
層上位0.1%の人々の家計に、米国全体の富の23.5%が集中したという。
各国の福祉は切り詰められ、99%の窮乏化は進む一方。誰が一体、
このような事態を引き起こしているのか。
・ 本書は、反グローバリズムの旗手である著者が、1%が委託した、ある架空
の作業部会が作成した架空報告書(今回は2回目の報告書)という寓話形式で、
鋭い皮肉と風刺を用いて、支配している権力者の思考方法と支配メカニズムを
暴き出したもの。架空とはいっても、支配者の論理を知り尽くした著者が、
実証データを駆使し書き上げたものであり、「陰謀論」の批判は全く当たらない。
「スイスの某リゾート地で毎年開かれる1%層のための経済フォーラムが、
秘密部会を設けて世界情勢を分析した内容」とでも想定すればイメージが
ピッタリである。・・ 〜つづく ≫
▼ ここで、「階級闘争があると言いたいなら、そういっていい。しかし戦い
 を仕掛けているのは我々の階級、金持ち階級のほうで、勝利は目前だ。」と、
ウォーレン・パフェット(世界三位の大富豪)が述べている。たとえば、世界
の85人の手に、世界人口の半数、約35億人分と同じ富が握られている。
仮説の委嘱委員のような人たちは、自分には今もっているものを持つ権利が
あり、他人に恩義を感じる必要がない、貧乏人は事業自得だ、民間セクターは、
公的サービスより常に望ましいと考えているようだ。著者が、「本書は、
事実に基づくフィクションで、信頼おける確実な情報源によるが、実際の
『作業部会』は、存在しない。だから、綺麗ごとを並びたてる必要がないため、
内容は辛らつで、核心をついている。何度も書くが、自民の保守本流はポチ!
・・・・・・
4781,閑話小題 ー怒りの取り扱い方
2014年04月17日(木)
   * 怒りの取り扱い方
 一昨日こと。家内に「同級会の席や二次会などで、誰かに見られているかも
しれないから気をつけて!」と言われて出かけたが、案の定、二次会のスナック
でハイになっている中、銀行OBと思われる男に「誰かに見られているぞ!」と、
通りすがりに声をかけられた。「うるさい、人のことより自分をみてろ」と、
言えないし。軽さが、そのまま出ていたが。他人ごとではないか?スポーツジム
でも、露骨なイヤミな視線を数ヶ月に一度は感じる。で、悟りが深くなる。
ー悟りとは、平気で死ぬのではなく、平気で生きることーというが、何事も慣れ。 
最近、腹が立つとすることがあるが、書くのはやめておく。
 ヒト指先で人をさすとき、親指は上(道理)、他の三本は、自分を指している。
哲学でいう認識である。他人の指摘は自分の世界観を言っているに過ぎない、
という自覚がない。ネズミ集団=世間の戯言ネタに、一々怒ってもいられない! 
世間教の下世話ネタが、ネズミたちの集団念仏。気の毒といえば、気の毒だが、
こんな??のことを書いている私こそ遥かに気の毒? そのために、ぼんやりの
時間を持たなければ、せっかくの人生は台無しになってしまう。それにしても、
バカなことを書いている、自分に驚いているが。で、ぼんやりする時間が必要。
[・現実の背景にある膨大な漆黒の闇を意識する。・その為に独りの世界を大切
にする。・その時空をつくる為に、閑居の世界を身近に持つ。・働いてばかり
いないで、怠けること。・その中での心の余白を良しとする懶惰の気持ちが鍵] 。
ぼんやり時間のエネルギーこそ、己を包み込む。 怒りは、エネルギーの源。
大事に扱うべきだが、因われないことも重要。・・人生は、面白い玩具で一杯。 
老いも、喜怒哀楽も、楽しか! 目を本質から逸らさなければだが。
長岡という出生の地に飲み込まれない知恵こそ、今こそ必要だが、老いは、
その知恵を弱らせる。私の人生は、50歳辺りから二毛作目と思っていたが、
二期作でしかない?(二期作は、同じ農作物。二毛作は、違った作物) 
それとも、50歳から三年前まで、二期作目で、その後が、二毛作目?
・・・・・
4414, ボストン爆弾テロについて
2013年04月17日(水)
  * この結末は、どうなる? 
 ボストン爆発テロ、北朝鮮の関与を誰もが思い浮かべただろう。
アメリカの反政府の団体という仮説も立つが、平城でマラソンが行われた直後、
ボストンのゴールのカメラの多い中で、二つも爆発させたのは脅しの効果として
抜群。他に二つの爆弾が発見されたというから、明らかに何かの警告。
 刑事ドラマのシリーズ「相棒」で、東京マラソンを狙った爆弾テロを阻止する
ストーリーがあったが、手口は同じ。とすると近くの国の??と連想するのは
私だけでないはず。 ボストンマラソンといえば、世界で有数の権威ある大会。
そのゴールを狙うとは大胆。それもケリー国務大臣の因縁あるボストンで・・ 
ミサイル実験の前のデモンストレーション、としては危険すぎる? 
今のところ、誰も北の関与を口に出さない。だから恐ろしい。タイミングから
して確率は高い。アメリカが黙って見過ごすか、全面戦争の切り口になるか? 
関与していなければ、北朝鮮は震え上がっているはず。これだけ全面戦争と
騒いでいた最中、タイミングが合いすぎ。 覚悟があってだろうがまずは、
この数日が境目だが、数ヶ月後には、全面戦争?が現実味を帯びてきた。
まさかと思っていたが、やはり! その最中、ミサイル発射実験、やるか、
やらないか、見もの。 これで軍事的に一触即発になった。しかしアメリカも
軍事産業立国の要素が強く、得体の知れない国家。さらにシリアもイランも、
アメリカの矛先を北に向けたい思惑もある。またCIAが北の仕業にした先制攻撃
の口実作りも考えられるし、アルカイダがビンラディン殺害の復讐のため、
北朝鮮と見せかけ、全面戦争の‘けしかけ’の可能性もある。どの切り口も
前面戦争の方向。その最中のシナリオ、あの坊やの考えそうなこと。危ない!
アメリカは金がない、中国も新体制が整ってない、欧州危機は深刻だし、
日本は衰弱。 最初のブラックスワンは何から?
・・・・・・
4040, 汚れつちまつた悲しみに ー3
2012年04月17日(火)
 7年前の同月同日に若い時分の挫折体験について、次のような文章が書いて
あった。傍からみた現在の私は、このようだろう。ところが今回の挫折体験の
心の傷は、これほどでもない。逆にいえば、茫然自失まで至ってないためか、
若さを失ったためか。青年期の幾度の挫折体験で、よくぞ狂わなかったものと
思うほど心の傷は深かったが、今回は、魂まで切っ先が届いてない。
長年の読書と、経験、人間関係の構築のベースがあったためである。 
特に若い時分の挫折体験と、長年の読書の蓄積が大きい。それとも悲しみを
遥かに超えた多くの体験のためだろうか。それにしても、真似た文体としても、
血だらけの挫折体験が、そのまま出ている。書くということ、書き残した自分
の文章を改めて読み返すことの意味(価値)を、この文章で知らされた。 
【 1475, 汚れつちまつた悲しみに ー2  2005年04月17日(日) 】
 「汚れつちまつた悲しみに」の「汚れ」を「倒れ(挫折)」にして、
「倒れてしまった悲しみに」という詩を書いてみた。昔の何度かの挫折を
 思い出しながら。 ー作成時、2005年4月16日 20時20分
ー倒れてしまった悲しみにー
倒れてしまった悲しみに 今日も涙の雨が降りかかる
倒れてしまった悲しみに 今日も嵐が吹き荒れる
倒れたしまった悲しみは たとえば樹氷のように突き刺さる
倒れてしまった悲しみは たとえば黒い血海のよう
倒れてしまった悲しみは たとえば虚空の空飛ぶ蜻蛉よ
倒れてしまった悲しみは あなたの愛に気づくとき
倒れてしまった悲しみは 夢みた昔を懐かしみ
倒れたしまった悲しみは 倒した人を思いだす
倒れてしまった悲しみは 光りの日々が走馬灯
倒れてしまった悲しみは 独りの自分に出会うとき
倒れてしまった悲しみは 悲しい悲しい悲しみよ 悲しい悲しい悲しみよ
倒れてしまった悲しみは 倒れてしまった悲しみは 倒れてしまった悲しみは
▼ 悲しむべき時には、悲しむが良い。 本当の悲しみが出てくるのは、
 数年先になるのだろう。まだ、悲しむだけの余裕がないのかもしれない。
 ・・・・・・・
3674, 自己を見つめる −2
2011年04月17日(日)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 私たちは人生の現実を経験を介して初めて知られてくる、経験をして
みなければ分からないのである。人生は、経験を通してその深みと広さを増す。 
自分とは、経験してきた全てである。人生は様々な過去の追憶を返し、暖め
なおすことしか、事実上何処にも存在をしない。良質な経験の積み重ねこそ、
人生を豊かに、実りあるものにする。
   ー 第一章 経験 の中より ー
  哲学者・ダガマーは経験について3つの点をしてきした。
・まず第一に、それが誰も予見できず、見通せない仕方で生じてくる点である。
 したがって、経験は常に新しさを含んでおり、経験がもたらす内実を、
 まったく予測することができない。
・次に第二に、そうした経験の過程は、いつも否定的過程であって、実際に経験
 するまでは、当の事柄を知ってなかったことを痛感させられるわけである。
 つまり私たちは徹底的に、浅見や独断を捨て去らねばならないことを教えられる、
 とガダマーは断じる。
・さらに第三に、それゆえに経験とは、本質的に、辛い不快なもの、期待の
 幻滅を伴うものである。かつてギリシアの悲劇作家アイスキュロスが語った
 ように、人間は、「苦しみをとおして学ぶ」のである。それが経験ということ
 であり、こうして初めて人間は、真の洞察と自己認識を獲得するのだ、という。 
  要するに、経験をとおして、私たちは、あらゆる予見の限界と、すべての
 計画の不確かさと、人間の非力さと有限性を、徹底的に思い知らされるわけ。 
 実際、こうした労苦にみちた経験を介して、私たちは、ほかならぬ自己自身の
 人生の実相のただなかに立つことになる。そしてそれ以外に、どこにも人生
 というものはない。私たちは、経験において初めて、自己自身と宿命的に向き
 合うことになる。 経験のなかにこそ、自己自身があると言いうるゆえんである。
▼ 人生を振りかってみて、経験の中こそ、自分があると、つくづくと思い知る。 
 その境界が自分の限界であった。だから迷ったら、とにかく、一歩踏み出して
行動することが、自分を広く深くする。「自分を見つめる」とは、自分の経験を
見つめることと同じである。 経験して初めて、知るが、それは否定的過程を
踏む事であり幻滅を伴なう。 とはいえ、落語の与太郎では? 
 ・・・・・・・
3309, 笑われ力  −1
2010年04月17日(土)
   「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
 図書館で、この本を見つけた時に、「面白い!」と、直ぐに借りた。
「自分の失敗や欠点を笑い飛ばしなさい。それで既に自分を客観的に見下ろして
いることになる。」とは癒しの真髄であり、これまで「フン、この程度モノさ!」
と自分を笑い飛ばしてきた。 しかし、それを一冊の本として真正面から取組む
とは。お笑いのサンマやタモリが、この名人である。 実に上手に自分の失敗談
を取上げて、周囲の共感と笑いをとる。タモリが「電車で、もようして? 
有名人なのでトイレに入りづらく、失禁直前に家にたどりついて、ホッとして、
ところが大爆音のガス一発だけ! あの1時間の苦労はなんだった? 」で、
場内、爆笑だったが、「笑われ」の典型的事例。誰も一度や二度は経験のある?。
私の知人でも、「笑われ力」を駆使して世渡りをしている人が何人かいる。
実に自分の欠点、失敗を披瀝をし、周囲の苦笑と共感を誘っている。自分より
知識や、経験の少ない人の前では可能だだろうが、同じレベル?の人の前では、
躊躇をしてしまう。 素の自分を曝け出し、相手を笑わせようというのだから、
基盤がないと出来るものでない。
  まずは、アマゾンの ー内容紹介よりー ≪石原壮一郎≫
≪「心地良い人間関係」に「笑い」が不可欠なのは言うまでもないでしょう。
 しかし、ウケを狙えば狙うほど、スベりやすくなるものです。まして、
人をバカにして笑っても「心地良い人間関係」は生まれません。そこで
「笑われ力」の登場です。 笑わせようとするのではなく、笑われる意識、
人をネタにするのではなく、自分をネタにするスタンスです。 お笑い芸人
のような爆発的な「笑い」が、笑わせることを目的にしているのに対し、
「笑われ力」が生む自然な「笑い」は「心地良い人間関係」を築くための
プロセスに過ぎません。大爆笑は不要です。 自然で心地良い「笑い」を
プロデュースする方法をゆる?く紹介します。≫
▼ 「まえがき」の冒頭に、「いきなりですが、おめでとうございまう!
 あなたが、こうして『笑われ力』に出会ったことは、あなたの人生にとって、
大きな意味を持つでしょう。きっと日ごろの行いがいい方に違いありません」
とあり、最後の方には「大人力の77パーセントは「笑われ力」でできています。
残り23パーは、さほど気にしていただく必要はありません。」とある。
この随想日記やブログも早くいえば「笑い」というより自嘲の披瀝。そうでも
思わないと、毎日、アクセクして書いていられない。ある意味、癒しになって
いる。 読み続けている人はご存知のとおり、最後の一行に捻りを入れるよう
にしている。それも共感を得るような自嘲気味の捻りで締めるように。決して、
この本を読んだぞ!でなく、やっと読みおえた!でないと続かない。
この本の内容は簡単明瞭。 嫌味なく自分をダシに笑いをとれれば、悩みや、
怒り、悲しみの絶対量は激減する、ということ。 そういえばオカマバーの方々、
実にオカマの世界を自嘲気味に話し笑いをとっている。笑われてナンボの世界か、
珍獣?の世界は。10年以上は行ってないが、歳のせいか気持ち悪いが先にたつ。

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