堀井On-Line



5290,起業こそ、自分を超えていく道 〜『自分を超える法』ー②

2015年09月08日(火)

        ー『自分を超える法』ピーター・セイジ著ー
   * 起業こそ、自分を超えていく道
 ここで、「自分を超える5つの方法」を提示しているが、
キーワードは『起業』。実績あるの起業家が書いているだけに説得力がある。
   〜アマゾンの内容より〜
〔考え方さえ変えればお金は必要ない。世界No.1コーチのアンソニー・ロビンズ
 の「史上最年少トレーナー」として活躍するピーター・セージ。22社の会社を
経営し、1兆円ビジネスを手がけるビジネス界の若き天才。
その「世界初の著書」で語られる、自分を超える「5つの法則」とは。〕
 【著者プロフィール】からして面白い!
イギリス若手No.1起業家。お金を使わずに、ビジネスを作り出すプロ。
世界No.1マーケッター、ジェイ・エイブラハムのビジネスパートナー。
資金なしから22社の企業を成功に導き、そのビジネス手腕は世界的に高い。
 過去に二度、ビジネスパートナーを選び間違えて無一文になったものの、
2回とも再起してすぐに億万長者に戻った。また、3カ月間で、資産ゼロから
5億円の不動産を買うなど、極めて短期間で大きな結果を出したことで知られる。
 最近では、起業家精神の分野で、世界のトップビジネススクールの1つである、
INSEAD(欧州経営大学院)の顧問委員会(パリ)に招聘されたり、学生企業家
協会の世界大使としてCEOに任命されるなど、経営のかたわら、講演家や
コンサルタントとしても活動中。 また、ピーターは年に約1カ月間、自発的
にボランティアとして世界中を旅をしており、チャリティとして世界中から
のべ数千万円もの金額を集めた。現在は「スペース・エナジー」という
事業に携わり、宇宙空間で太陽エネルギーを発電し、地球に供給する
「1兆円プロジェクト」に取り組んでいる。
▼ プロフィールだけでも面白い。起業を勧めると同時に指導者でもある。
 規模が桁違いだが、起業原理は納得する部分が多い。何かを決めるとき、
「安定感」を基準にすることより、「居心地のよい不安定」を優先せよ、
とは、成長過程では当然のこと。チャレンジ、チェンジ、コンペティション
の成長サイクルでは不安定感がつきもの。20歳代に、この本が傍らに
あったら、また違った人生になっていたはず。世界が大きく変化する中、
適応した新システムを提供することで、基盤を拡大するには起業しかない。
その点で、まったく力不足だった自分を思い知らされる内容である。
「優秀な起業家に、優秀な指導者あり」ということか。今さらだが・・
・・・・・・
4925,パワレルな知性 ー3
2014年09月08日(月)
   * カフェという集い −②     『パワレルな知性』鷲田清一著
 カフェといえば、30年も経つが、『致知』という月刊雑誌を知って購読
するうちに、全国に愛読者の同好会があるのを知り、新潟支部を立ち上げた。
今では年に一回参加しているが、30年も続くとは驚き。全く知らない新潟で、
肩書きを横にした同年代の人たちとの出会いの場、一種のカフェのような集い
の場を求めたため。とはいえ、当初は営業ネタを探して参加する人が過半数は
いたが、それも良しだった。ところで、学生時代の寮がまさにカフェの
ようなものであった。今でいうシェアハウス。大きな屋敷の一角に、平屋で、
4畳半と6畳の和室が25室、「く」の字に並んでいて、角が炊事場と洗濯場
で、両端がトイレ。廊下は土間で、あたかも馬小屋のようだった。
各部屋には鍵が付いているが、私生活があってないような。それが寮という
ものだが。炊事場やトイレの行き帰りなどに、どこかの部屋の前にサンダルが
幾つか並んでいると、つい顔を出し、お茶などを飲んでいる輪に入る。
そこでは、読んだ本や、政治経済、現在進行形の恋愛の話題が中心になる。
寮生は全国各地の出身者で、早大の学生が半数を占めていた。 雰囲気は、
まるで「住込みカフェ」のようで、なにもかも参考になることばかり! 
その上に、それぞれの大学の親友が遊びにくるため、その輪は更に大きくなる。
そこで、軽井沢の山荘でのアルバイトとか、留学や、海外旅行の情報が、
ごく当り前に交されていた。それに加えて、大学では、クラブ、ゼミ、欧州
旅行の仲間と、クラスの友人の網目が出来ていて、広いコモンルームや、
中庭、学食で誰かと話をしているかであった。学生だからこそ、自由に様々の
人と邂逅しえたのである。 現実社会に入ると、組織や、地域の社会の、
それぞれの立場があって、自ずと人間関係に制約があるが、学生時代は、
思惑は最小で済む。それと、高度成長期真っ只中の恵まれた環境があった。
『カフェの集い』の視点で、人生を振返ると、やはり最終の学生時代が最も
良かったことになる。プライベートの時間が持てなかった『青雲寮』に、当時、
不満もあったが、この環境が最良だったことに、これを書いていて気づいた。 
この寮生活で、それぞれの私生活で垣間見た姿から、<人間には、教養とは別に、
想像を超えた、善良と邪悪が混在する人が存在する>ということを、知ること
になる。そして、実社会に出てから、その多くを己の中で見ることになる。 
 秘境ツアーなども、これに似たところがある。全国から集まった見も知らない
人たちと1〜2週間、親密な時空を共有する。その多くは、ツアー慣れをして
いるので、直ぐ胸襟を開くが、それぞれが様々な情報の宝庫のため、そこは
ツアー・カフェそのもの。かって長屋の御隠居は、横丁カフェの主。
 私の友人に、喫茶店に入浸って?半世紀以上、その人自身が、カフェみたいな
人がいる。いや、居酒屋? 問題は、そこが教養ある知的会話?であるかどうか! 
共通した価値観と、それぞれの全く違った価値観を備えた人との出会いこそ、
カフェの集いの面白さになる。 とすると、このブログ、『居間の一人カフェ』
になる。 時々、塩昆布茶も出るが。
・・・・・・
4558, 東京が、2020年の開催地に決定!
2013年09月08日(日)
 5時20分に、次次回のオリンピック開催地が発表された。
その2時間前の3時に何時ものように目が醒めたため、布団の中で瞑想モード
に意識を持っていき、「私が神としたら、3都市の何処を選ぶだろうか?」と
考えた。その結果はイスタンブール。5時からのTVの特別番組の選定会場で、
まずマドリッドの落選。あとの残ったイスタンブールと東京の二者択一の中で、
東京が決定された。 「そんなことをしている場合じゃないだろう!」が、
気持ちにあったが、いざ発表となると「東京」と願うのが人情。以前から、
「2020年の75歳が死に時」と思っていた。その年が、これで東京
オリンピック開催の年になったのである。一回目は昭和39年、18歳の年。
二回目は生きていれば75歳。現実は、世界も日本も2020年までは、
大きな試練が山のように待ち構えている。福島第一原発の汚染処理、世界恐慌
の対応、国家財政の破綻、国境問題等々がある。トルコか日本?の二者択一
というと、選ぶ方は、原発汚染への不安より、中東の政治的不安定と、欧州危機
を考えると、安全、安定面から、今回は極東の安定した都市の「東京」を選んだ。 
これで、「2020」と「東京オリンピック」が、キーワードとして浮上、国家
として明るい目標が出来た。オバマがシリア攻撃を示唆したのもトルコにとって
マイナスになった。タイミングをみていた? 日本のような島国では、一つ明確
な目標があれば元気が出るが、大きな問題が残っている。南海トラフ地震と、
東京直下地震、富士山噴火の可能性である。 福島第一の汚染に目を向けさせた
のは戦術としては良かった。実際問題は、これらを考えると二つの都市の危険さ
と遜色はない。 国内の政治面では、予想される混乱の中で、国民の目を
オリンピックに向けさせることが出来る。今日を境に大きく空気が変わる。
今日は目出度い日になる!
 ・・・・・・
4183, 呪いの時代 ー3
2012年09月08日(土)
                    「呪いの時代」内田樹著
  * 記号の過剰化    ー第2章 「祝福」の言葉についてーより
 呪いは怒りや羨望、嫉妬などの要素が相まって内面に作りあげられた一種
の記号と著者が指摘している。しかし怒りの感情を言葉にし繰り返すうちに、
その毒が己の脳を侵してしまう。鬱である。そこで医者から貰ったハッピー
ドラッグで目先、散らしている内はよいが、いつの間に、呪いの感情を更に
強く苛んでいく。呪文は記号のため、反復するうち、その人そのものになって
しまい、自滅の道をひた走ることになる。 次の箇所は、悲劇と喜劇の境い目
としてみると、うなずける。
≪ なぜ、このようなニヒリズムが社会を覆うようになったのか。
 それについて考えてみようと思います。僕はそれを「記号の過剰」あるいは
「過記号化」という枠組みで説明できるのではないかと思っています。
「呪い」は、その本質からして、記号的なものです。藁人形に五寸釘を打ち込む
「丑の刻参 り」という古典的な呪いの儀式がありますが、これ自体、きわめて
記号的な行為です。生身の人間の心臓にではなく、代替物の藁人形に五寸釘を
打ち込むわけですから。メタファーとして行われる殺人が生身の人間の生き死に
影響を与えるという信憑が共有されていないとこの種の類感呪術は有効性を持ち
ません。つまり、藁人形が生身の人聞でないように、殺意や嫉妬、羨望や憎悪も
記号化されない限り呪いとして機能しない。忘れられやすいことですが、呪いが
機能するのは、それが記号的に媒介された抽象物だからです。具体的、個別的、
一回的な呪いというようなものは存在しません。あらゆる呪いは、抽象的で、
一般的で、反復的です。それが記号的ということです。
なまの現実が記号化されて、「情報」になるプロセスを「情報化」と呼びます。
情報とは「なまもの」が加工され、分類され、ラベリングされ、パッケージ
されたもののことです。「高度情報化社会」とは情報だけが行き交い、
「なまもの」に触る機会が失われた社会のことです。生きた動物が殺され、
皮を剥がれ、血を抜かれれ、骨が切り離されて、細切れになってパッケージ
されるという工程については誰も考えず、清潔な商品だけが売り買いされている。
医療でも過情報化の問題は深刻なもの。当今の医師たちは、なまものとしての
身体ではなく、「記号としての身体」を診療している。『医療崩壊』の著者
である小松秀樹さんが指摘されていましたが、今の診療室では、机上のパソコン
のディスプレィに患者のカルテや検査数値が表示されます。患者が診察室に
入ってくると、医師は患者を診るより先に、まずディスプレイに表示された
さまざまの数値を見る。うっかりすると診療時間のうち、患者の顔を見ている
時間よりもディスプレイを見ている時間の方が長いのです。 ≫
▼ TVのワイドショーは情報を提供するところ、情報化は「なまもの」とは
 違うため、それを扱う解説者は、記号としての言葉にして発信するするため、
呪詛的な言葉になっていく。それを受け止める視聴者は、いつの間に、呪いと
して、なまものを呪ってしまう。これが端的に出のが政治であり、政治家は手軽
な呪いの対象になる。だから、島国日本の首相は、一年しかもたないのは、
何ら不思議ではない。そして、その行き先は? 
 ・・・・・・
3818, 哲学人 ー�
2011年09月08日(木)                     
 * 精神と肉体ー 二元論  ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 
 ーまずは二元論についてのデカルトの誤りを、ライルが指摘している部分ー
【 ライルは二元論について『心の概念』で、私たちの誤用に的を絞って
 書いている。ライルの攻撃対象はデカルトである。・・ 二元論の生みの親
をデカルトと特定したが、実際には二元論、もしくはそれに似たものは、原始
時代から人間についての通説となっていた。常にと言っていいほど、人は自分を、
肉体と、肉体に宿る非肉体的な要素から出来ているとみなしてきた。そして常に
時代によって霊、魂、心と様々な呼ばれ方をしてきた、この非肉体的要素を、
ある程度独立した存在として、また、そうなる可能性があると見てきたと言って
いい。私がかつて、この事実を挙げて異議を申し立てると、ライルはこう答えた。
「この間違いを最初に犯したのがデカルトだと思っている人はいないでしょう。
要はデカルトがこの考え方をとても明確に打ち出したので、デカルト時代以降、
これが教義もしくは定説なったということです。シェイクスピアも聖書も言って
いませんが、デカルトは実際にこう言いました。『私の心はひとつの実体であり、
私の身体はそれとは別の実体である』と、それが事実であるかのような言い方
なら、それまでもされたことはありました。が、デカルトは確かに事実である
と言ったのです」 実を言うと私はそうは思わないのだが、それはさておき、
精神という実体などないのだから二元論は誤りというのがライルの主旨。
  その著書で述べられている詳細な分析をもとに、ライルはこう書ている。 
≪ われわれ人間が行なっているのは、自分の行動と経験のある部分を精神的な
 ものとして分類し、その他の部分とは異なる、主体に帰属させること、そして
その主体を精神として物象化することである。精神に関連する概念の使用法を
入念に調査すれば、そのようなことをする正当な理由はないということがわかり、
さらには人間は単一の存在であり、行動と経験のただひとつの主体で、アイデン
ティティも歴史もひとつしかないことが明かになる。 われわれはふたつの実体
が神秘的に結びついたものではない。これまでわれわれは、「カテゴリー錯誤」
(ライルが哲学の世界に広く普及させた用語)を犯してきた。
われわれは精神という概念を一種類のものを意味するとみなしているが、実際は
多種多様なものを意味している。精神とは、独立して存在する実体であって、
なんらかのことをして経験をもつものと考えているが、通常はさまざまな行動
形式のうちのいくつか(行為、気分、経験など)を総括する言葉にすぎず、また
こうした行動様式はどれも、正しくはひとつの主体に帰属させるべきなのだ。
このカテゴリー錯誤がもととなって、われわれが自分自身を想定する上で、
そして考えたり語ったりする上で数多くの誤りが生まれている。これは哲学的
誤謬の好例であり、我われの思考の広大な領域はこの誤謬に犯されている。≫
ライルの本は、いかにして言語分析派がこうした問題を解決するかを示す
範例である。P・106 】
▼「肉体が消滅した後、私(精神)はどうなるのだろう」という疑問
 そのものが、二元論である。デカルトが言わなくとも、大昔から天国か
地獄に召されると言われている。肉体と精神と、改めてデカルトが述べただけ。
肉体が無くなれば、当然、精神とやらも消滅するのは、当たり前である。
精神を指している一つに『言葉』がある。「生きているときに発した言葉。
それは現在でも生きている」というが、それは、生前に発した言葉。
死んだ後に、言葉は発せられない。
 ・・・・・・・
3453,, ニューカレドニアの休暇 −3
 2010年09月08日(水)
 夕飯でいったフランス料理、ベトナム料理、中華料理が、それぞれ美味しい。
フランス領のためだろう。特に天使の贈りものといわれる「海老」が美味い。 
ベトナム料理、中華料理は日本的味付け。それより新鮮な貝魚がふんだんに
入っているからである。値段も、日本の居酒屋に少しプラスした程度である。
 ところで、オプションツアーで行った「天国にもっとも近い島」のニック
ネームで親しまれているイル・デ・バン島が良かった。日本では、その称号は
森村桂の著『天国にいちばん近い島』から、ロワイヨテ諸島のウベア島がそう
呼ばれているが、実際はここ。数多くの種類の熱帯魚や珊瑚礁を、透明度の高い
海水の中に見ることができた。この島は南北15キロ、東西13キロの大きさで、
島人口は約2,000人である。珠玉のような島で、ニューカレドニアで是非とも
行ってみたかったところ。双発のプロペラ機で首都ヌメアから30分ほどの
ところにある。 行く先々の小さな湾の海岸線と海と空が美しい。
いまだ観光づれしてないハワイと考えればよい。ここに宿泊するツアー
もあるが、値段は非常に高くなる。ニューカレドニアは日本人に特に好まれて
いるようで、親しみやすい。中国、韓国人の姿は、ここで一人も見かけなかった。
まずはハワイ、東京、欧州、オーストラリアなのだろう。この島を通して、
日本の現状を現地のポリネシア人を通してみてしまう。小さな島国で、フランス
の占領に甘んじているが、日本も同じ被占領国。ドルとアメリカ国債という紙切れ
と小麦・大豆と、汗水たらして作った商品と交換。 その紙切れは、20年〜30年
単位で価値を数分の一に一方的に下げさせられている。アメリカ、豪州も、
欧州人が現地人を虐殺して建国したところ。現在も、その構図は同じである。
マスコミを背後で操り、教育システムで骨抜きにし、官僚を洗脳、コントロール
することで、間接占領をしている。フランス領の観光地で、気楽に避暑。
それだけで、深く考えることもないが・・
・・・・・
3078,富豪と金の使い道
 2009年09月08日(火)
 (字数制限のためカット 2015年9月8日) 


5289, ー「原因」と「結果」の法則 ー  〜②

2015年09月07日(月)

ー「原因」と「結果」の法則 ージェームズアレン(著)
   〜まえがき〜より
《 私がこの本で行っていることは説明というより提案であり、その目的は、
 出来るだけ多くの人たちが、みずからの手で、「自分こそが自分の人生の
創り手である」という真実に気づくことにあります。
 私たちは、自分自身が選び、めぐらしている思いによって、自分の人生を創り
上げています。心は、人格という内側の衣と、環境という外側の衣の双方の、
熟練した織り手です。そして、それらの衣は、これまでは暗闇と苦悩の中で
織られてきたかもしれません。でも、それらは、そもそも光と幸せのなかで
織られてしかるべきものなのです。》
   〜思いと人格〜
《 行いは思いの花であり、喜びは悲しみはその果実です。思いによって私たち
 人間は、自分自身を育てる、甘い、あるいは苦い果実を収穫し続けるのです。
「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」
・・私たちは、自分の人生に深く思いをめぐらし、それを創り上げている法則を
自らの手で発見したときから、自分自身の賢い主人となり、自分自身を知的に
管理しながら、豊かな実りへとつづく思いを次々とめぐらすようになります。
そのときから私たちは、自分自身の意識的な主人となります。・・ 》
▼「念じれば花開く」である。「因果応報」という仏語がある。
 その意味は、【行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では
悪いほうに用いられることが多い。 「因」は因縁の意で、原因のこと。
「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと】
 仏教的考えを、西洋的に説いているともみれるが、思いが、如何に大切か。
人の心は9割がマイナーの思いに捉われているというが。意図的にプラスに
することは可能。 己を導くのは、誰でもない、自身だけ!
・・・・・・
4924,パワレルな知性 ー2
2014年09月07日(日)
   * カフェという集い −①   『パワレルな知性』鷲田清一著
 『カフェ』について、が面白い!
   ー 学生時代の効用は、このフリーの立場での交わりが良い!
≪ このところ市中では「カフェ」という催しが盛んである。
「カフェ」と いっても喫茶店のことではない。「サイエンス・カフェ」とか
「アート・カフェ」といった類の、小人数でおこなうディスカッションの会。
市民が三々五々集まり世情について自由に論議し、その議諭を活字化するあの
ジャーナリズムの原型ともいうべきものを生んだ、英国の「コーヒーハウス」
にちなんで、そう名づけられたらしい。じつはわたしも15年ほど前から
「哲学カフェ」なるものを、町なかの集会所で、あるいはお寺の一室を借りて、
そしてときにじっさいに喫茶店でもやってきた。何について議論するかは、
集まった顔ぶれでその場で決める。そしてテーマに即して、だれかがまず
じぶんの経験を、そしてその解釈を語りだしたあとは、それを糸口に延々
三時間から五時間、あれこれ話しあう。 ルールはかんたんで、
:たがいに名を名乗るだけで所属も居住地も明らかにしない、
:人の話は最初から最後まできちんと聴く、
:他人の著書や意見を引きあいに出して長々と演説をしない、この3つである。
わたしはもう籍を離れているが、大阪大学の臨床哲学研究室では、かつての
同僚や大学院生たちが個々にそれを拡げ、通算すると、もう数百回になると聞く。
ある日、もっとも年配の参加者が最後にぽつりと話したことばが忘れられない。
司会をしていた大学院生がまとめに窮しているときに、その、老人が口を
はさんだ。「まとめんでいい、知り合いでもない孫のような歳の子とこんなに
『家族とは何か』ということをまともに話しあったというだけで満足や」。 ≫
▼ 人生を振り返ると、20歳代の経験がベースになっている。視点が固まる、
 それまでが分かれ目! それに10歳までの実家の店舗での生活もある。 
今から考えると、様々な人間が集まり、その生態が、あからさまに露出していた。
『花子とアン』の主人公ではないが、「朱に交われば赤くなる」である。
そこで、如何にオープン状態で、書籍と、様々な人と触れ合うか、その質量で、
人生は決まってくる。そこで大きな知的劣等感を得たのが、私にとって、
最大の収穫。以来、半世紀近く独学をしてきたが、私には器の大きさが
足りなかった。更に『酒量』『一言』が多過ぎた!
・・・・・・
4557, グレートジャーニーから見えてきたことは ?  ー2
2013年09月07日(土)
 * 携帯電話が、世界を変えている  
       「新潮45ー6月号」 ーたけしvs・関野吉晴の対談ーより
 旅番組などで、ケニアなどの僻地でマサイなどが携帯電話をしているのを
見かけて驚いたことが何度かあった。携帯電話の電波環境が出来ているためだが、
さほどインフラに資金がかからないのだろう。考えてみれば、僻地ほど濃密な
繋がりと日々の生活情報が必要である。苦労して僻地についた先で、携帯電話
をしている姿を見たらガックとするはず。ーその辺りが具体的に書かれているー
【 たけし〕ところで、そういう極限の地域で暮らしている人たちの生活って
 今も昔と変わっていないのですか。関野〕昔は自分たちが食べていくために
自給的生活とか狩猟採集で暮らしていた人々が、換金可能な作物を作っている。 
現金収入を得ないと生活ができなくなっている。最近はグローバリゼーション
がアマゾン、シペリア、 アフリカとか、どこまでも進行しています。
特にすごいのは携帯電話ですね。携帯で全てが変わります。
 たけし〕 それはどういう意味でですか。
関野〕携帯電話は世界を変えていますよ。アマゾンには、僕が四十年前から
 つき合っている先住民の部族がいます。 最初会った時は、大人たちは腰巻
だけつけて、子どもは素っ裸でした。そんな村でも三十年前に学校ができた。 
それは小学佼しかないから、中学校に行くようになると町の寄宿舎に人る。
高校生になると、皆な携帯を持ってる。村に帰ってくると電波は通ってません
が、携帯でダウンロードした音楽は聴ける。そうなると若者は伝統音楽ではなく、 
ロックを携帯で聴くようになる。文明人に近いほうがステータスが高いと
思うと伝統音楽に目を向けなくなり、どんどん文化が変わっていく。
アマゾンの奥地でさえそうなるのですよ。」
たけし〕 あっという間の変化ですね。
関野〕 ここ数年、フィリピン、マレーシア、インドネシアの海域で淘賊が
 いっばい出るところがあるんですけど、 そこにパジョという家船生活をして
いる漁民がいるんです。
たけし〕 確か百万人ぐらいいるとか。
関野〕それは海岸縁に杭を打ち込んで家屋をつくって住んでいる人たちも
 含めての数字です。わずかに家船で陸に家を持たない人たちがいて、その人
たちのところに僕は「泊めてください」と言って、一緒に暮らしていた。
ちょうど僕が訪ねた頃に彼らの生活にも携帯電話が入ってきたんです。
たけし〕 2004年から、日本人の祖先が日本列島に到達するルートを辿る
「新グレートジャーニー」(〜2011年)を始めていますが、それに挑戦していた
時のことですね。
関野〕 はい。南方から船で海上を渡ってきた日本人の祖先のルートを辿ろう
 としたんです。風の関係で航海で暫なくなると、パジョの人たちのところに
通っていました。彼らにとっても携帯はすごい役に立っている。家船が十数隻
あって、夜は集まってくるんですが、昼間は別々に魚を穫りに行ったりして
行動している。その時に、海賊がいるかいないか、携帯があれば安全かどうか
確認できたりするわけです。
たけし〕 海の上で電波が届くわけですか。
関野〕 沿岸から五キロまではアンテナがあれば届きます。
たけし〕海の漂流民がそうならば、砂漠のペドウィンはどうなんだろうね。】
▼ これは、僻地だけでない。都会の社会的弱者にも携帯が普及。
 弱者が結びつけば、強者に変身する。中国など多くの社会的矛盾を抱えた
国家は、ある日突然、この矛盾への暴発が起こることになる。そこにパソコン
機能が入ったスマートフォンの普及は、世界を根底から変えようとしている。
貧富の格差は、情報の格差から生じるが、それが均質化されていくとしたら、
格差は一部を除いて是正されていく。ただし、それは世界平準に近づくため、
G8は、G20の国々の平均値に、G20は、世界200ヶ国の平均レベル
になっていく。日本にとって、それは貧乏への茨道!
・・・・・・・
4182, 呪いの時代 ー2
2012年09月07日(金)
          「呪いの時代」内田樹著
 呪いに対する言葉は祝福。含めて世の中が右上がりの時は、何事もハッピー。
しかし、世の中全体が右下がりになり、暗い世相の中では一部の勝ち組を傍で
祝福する人は少ない。羨望と嫉妬が、そこに生じてくる。特にこの情報化で、
そのの事態が生で伝わるから呪いが社会全体を覆ってくる。その中でハッピー
にいるには、「にもかかわらず祝う」しかない。現に生きている、そのことを
祝う諦念である。最後は生きている感謝しかないのである。
今さら世を呪っても致し方がない。
  * 「このようなもの」でしかない自己の承認   
     ー第2章 「祝福」の言葉についてーより
≪「生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりパッとしない
 この「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持することです。
「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け入れ、
承認し、けなげに生きている姿を可憐と思い、一掬の涙をそそぐこと。
それが「祝福する」ということの本義だと思います。呪いを解除する方法は
祝福しかありません。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け容れ、
自分をだきしめ、自分を愛すること。多くの人が誤解していることですが、
私たちの時代にこれほど攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が「自分をあまり
に愛している」からではありません。逆です。自分を愛することがどういうことか
を忘れてしまったせいです。私たちはまず「自分を愛する」というのがどういう
ことかを思い出すことから、もう一度始めるしかない思います。≫
▼ 第二次大戦後、経済成長という僥倖に恵まれ「自由」が容易く転がり込んで
 来て、安手の「近代」を掴んだ。しかし、それが崩壊する中で、「全て他人が
悪い、自分は悪くない」という他責的で未成熟な言説がメディアにより拡がった。
豊かさが急速に萎み、大多数がプアーになりつつある中、呪いの時代と思われる
ほど惨めな社会になってきた。「このようなものでしかない」自分を受け入れず、
承認せず、祝福せず、自分探しという自分でない突っかい棒を求めて彷徨って
いる社会。わが国は平城平安の時代から呪いを基軸にして変転してきた。
ここで急に「呪いの時代」がキーワードになったのではない。呪いがあればこそ
古事記、日本書紀、源氏物語、平家物語、太平記、法隆寺、北野天満宮も正史に
登場しなかった。日本の文化文明の本源は、この呪いにある。だから一時でも
よいから祝うしかない。お祭りは、そのためにあったといえる。
社会に出てからの読書習慣がなかったら、現在、世を呪い、過去を後悔し、
人生そのものを否定しているはず。 娑婆娑婆!
 ・・・・・・
3817, 松下政経塾の野田が首相に
2011年09月07日(水)
   まずは松下政経とは何か? −知恵蔵2011ーによると
【 松下電器産業(パナソニック)の創業者・松下幸之助が、1979年に約70億円の
 私財を投じ、政治家育成塾として設立した財団法人。神奈川県茅ヶ崎市の6千
353坪の敷地には、寮棟・食堂・体育館の他、茶室やテニスコートも付設され、
入塾の応募資格は22〜35歳。全寮制で3年の研修を原則としているが、期間中に
選挙に出馬することは半ば容認。ただし、最低2年間を修了しないと退塾扱いになる。
授業料などの費用はゼロで、逆に研修資金・活動資金が提供される。
研修は人間学・哲学・近代政治学などの講座と茶道・書道・剣道などによる
精神修練が中心。また、現地現場主義の下、自治体訪問、松下関連工場での
実地作業、自衛隊体験入隊といったカリキュラムも用意されている。
過去30年間の卒塾生は237人で、このうち69人が政治家の道を歩んでいる。
開塾後の10年間で当選した国会議員は、1期生の逢沢一郎(自民党)だけだったが、
新党ブームが吹き荒れた93年の衆議院選挙で、一気に15名の当選を果たした。
政経塾出身議員の評価は分かれるが、世襲議員が増える中、選挙に必要な3バン
「地盤(地元支援組織)・看板(知名度)・カバン(資金)」を持たない若者に政治家
への道を開いている点で、政経塾の存在は評価されている。 
現職の松下政経塾出身の国会議員は、衆議院議員が27名、参議院議員が3名。
*自民党では前述の逢沢一郎の他、元金融担当大臣の伊藤達也(5期生)、
高市早苗(5期生)ら、*民主党では元代表の前原誠司(8期生)や野田佳彦(1期生)、
原口一博(4期生)ら、次代のリーダー候補が名を連ねる。この他、神奈川県知事
の松沢成文や横浜市長の中田宏など、自治体の長も輩出している(2009年7月時点)】
▼ 現在の日本に丁度良さそうな人物が、首相に選出された。
 それも、松下幸之助が憂国にかられ、つくりあげた人材育成機関出身。
存在そのものは知っていたが、まさか34名も国会議員になっていたとは驚き。
巷では、「人工栽培の頭でっかちのエリートの育成機関と」批判的だが、それでも
公明党に次ぐ出身母体になっている。どうも、二、三代目が目に付く中で、
こういう機関も必要?卒塾生の43%が、政治の道を歩いているという。
政治家は、一国を未来に導く仕事。「クールな頭脳と、暖かい心」を必要とする。
それを3年か、4年の期間でベースをつくり上げることが良いことかどうか? 
二代目政治家と、どちらが良いというと考えてしまう。 
やはり二代目より、まだましレベルか。現在議員は、貴族院化している。
 ・・・・・・・
3452, ニューカレドニアの休暇 −2
2010年09月07日(火)
 * ホェール・ウォッチング 
 オプション・ツアーの「ホェール・ウォッチング」に参加してみた。
家内はヨットに12時間も無理ということで、私一人の参加。20人乗りの
2Fのヨット(1Fにトイレとベッド)に、日本人が私の他に中年ペアー。
他は白人系15人を加えた18人。もう少し大きなヨットのつもりだったが
意外と小さい。外海に出たと同時に、船は二Mの波で大ゆれ。 
案の定、気分が悪くなってきたが後の祭り。乗員も分っていて海水を
入れたのを持ってきて、「あげろ!」という。そして胃を空にした。
その直後に睡魔が襲ってくる。 ロビーの椅子に座ったまま二時間ほど寝たら
気分は元に戻る。船酔いを心配していたが、その時はその時と覚悟はしていた
が、何とかなるものである。そうこうして鯨の出産場に三時間後に到着。
そこを40分ほどかけて通過している間に、5分位の間隔で、鯨が空気を
吸うために海面に出てくる姿をウォッチングすることができた。
そこでTV撮影を過って見たことを思い出した。今回は10匹近くを見ることが
できた。 鯨は、まず潮を噴き上げるので見逃すことはないが、潮を吹いて
7〜8秒しか浮いてないので、目を凝らしてないと見逃す。海も天気で大きく
左右するが、天候に恵まれたこともあり今回のウォッチングは大当たり。
また12時間も小型ヨットに乗船するのもワイルドな感覚で、南太平洋を堪能
することができた。甲板から海に向かって足を突き出して座って海を眺め
ボットするのも、気分は爽快である。また10秒ぐらいだったがイルカが二頭、
ボートと同じスピードで泳いでいったのも印象的。さらに帰港前の20分ほど、
タイミングよくサンセットにゆきあったが、南太平洋に浮かぶヨットと、
赤い色合いのマッチが印象に残った。一期一会、直感を信じ躊躇をしないこと。
・・・・・・・
3077,SCが工期半年で完成とは、驚き
2009年09月07日(月)
 長岡の自宅から500m先に、オープンモールの25店舗のSCが9月1日
に着工、来年の3月8日にオープンと現場の立て看板にあった。それにしても
半年とは驚いた。これから冬場の中で駐車場も含めてである。新造成地の更地で
全てが平屋だから可能なのだろう。突貫工事になるのだろうが、見ものである。
先月、近くで説明会があった。折込の通知によると、大和ハウスの総合企画で、
三菱東京銀行系が資金調達とあった。住宅地も数ヶ所売り出されているが、
坪27〜8万円、少し高いが環境からして悪くはない。 場所は長岡駅裏から
直線道路一キロほど、自宅からは5分の場所。自宅の100m先にSCがある
上に、長岡駅(12分)には一万坪の専門店街があるので生活環境は、
ますます良くなる。そのSCから車で数分(一キロ)のところに家具のニトリ、
家電のジョウシン、ホームセンターのコメリ、ディスカウント、紳士服のアオキ
など20店舗近い川崎のオープンモールのSCがある。店舗構成をみると
バッテングをさけて補完してある。店舗が重なるのは、原信と、蔦や。
業種では中古ショップである。二つのSCを買い回ると丁度良い店舗構成。
これまでは長岡の信濃川の西に比べて、川崎のSCだけでは魅力が薄かったが、
この二つを合わせて対抗拠点として、周辺に店舗が自然発生的に出来ていく
過程をみることになる。長岡駅中専門店街は、年々、弱体化していくが、
駅前再開発も含めて大きく一変する。これも見もの。
間違いなく大きく縮小していく市場の中で、再開発だけは止まらない。 


5288,「毎日を一生懸命すごすこと」の価値 〜『自分を超える法』

2015年09月06日(日)

         ー『自分を超える法』ピーター・セイジ著ー
  * ミツバチが教えてくれた「毎日を一生懸命すごすこと」の価値 
‘考え方さえ変えれば、お金は必要ない’と、自分を超える「5つの法則」
を提示する面白い本である。その中の、色いろな寓話が良い。
ランダムだが、ミツバチの寓話がよい! 
  〜ハチミツをつくることが、ミツバチの真の仕事ではない〜
≪ ここで寓話を1つ紹介します。
 起業家のキース・カニングハムから聞いた、ミツバチの話です。
ミツバチの生きる目的を知っているかい? もしミツバチに
「何のために生きているのですか?」と尋ねたら、きっとこう答えるだろう。
「ハチミツをつくることが仕事よ。せっせと蜜をつくるの。
なぜなら私たちはミツバチだから。」 キースが続けます。
「でも、その答えは必ずしも正しくない。ミツバチには、ハチミツをつくる
ことなどよりも、はるかに重要な役割があるんだよ。その役割とは、花の
『花粉』を運び受粉の手伝いをすること。それにより花は咲くことができ、
生命が循環している。仮にその営みを取り去ったとしたら、すべての生態系
が崩壊してしまうほど、もっとも根本的、かつ絶対不可欠な役割を担っている」
 当のミツバチは、おそらくそのことを知らないでしょう。もし、今全世界の
ミツバチが自意識に目覚め、次のように言い始めたらどうでしょう?
  〜無意識でやっていることが、貢献につながる〜
「ねぇ、私。生きる目的を知りたくなってきたの。仕事を放りだして山で
瞑想するわ。生きる意味の答えが見つかるまで、山頂のバラの茂みに
しばらく引きこもるの。使命が見つかれば、充実感と情熱に満たされて、
また仕事に戻ることができるから、しばらく休むね。」
 全世界のミツバチが突如そう言い出したら、花が咲かなくなり、
生態系の循環が停止してしまいます。
 当のミツバチは気づいてないかもしれないが、
「毎日の仕事を精一杯こなすこと」で、彼らの「真の使命」がまっとう
されているのです。 私が言いたいのはこういうことです。
〈あなたが日々無意識に自然体でできていることの中には、
   実は世界に大きく貢献しているようなことがあるのです。〉 ≫
▼ 人間は、言葉を持ったお陰で、「毎日を一生懸命すごすこと」の価値を
 理解できる。とはいえ、目の前の問題に集中し続けてこそ、その先にある
「真の役割」が理解できる。人生を振り返ると、節目に大きな機会がある。
表面的には挫折というカタチを装うが、実は、生き方を変える節目時を
運命が提示をしてくれている。4年前の節目は、〔余白はさほど残されてない、
余裕を持って死に準備を始めなさい。まず手始めに、会社の整理から!〕




・・・・・・
4923,パワレルな知性 ー1
2014年09月06日(土)
   * 価値の遠近法      『パワレルな知性』鷲田清一著
 鷲田清一の「価値の遠近法」が面白い!
  ーネットによるとー
≪ 「価値の遠近法」は、あらゆる事象・物事を次の四つに分けること。
 ① 絶対に必要なもの、失ってはならぬもの
 ② あってもいいけどなくてもいいもの
 ③ なくてもいいもの
 ④ 絶対に不要なもの、あってはならないもの
彼は、これが上手に仕分けられる能力を「教養」と呼び、その重要性を
 いろいろ示す。
「価値の遠近法」は、それぞれ自身の価値観を明示的にする効果がある。
四つに仕分けることで、「何を大切にしたいのか」を自らに問い掛けることに
なるからだ。自らの価値観を知ることは、自己理解の最も重要な要素。
当然、人によって仕分け方は違うため、自らの仕分け方と他者のそれを比較し、
違いが起きた理由を探ることで、他者を理解するきっかけになる。
「価値の遠近法」を実践していくと、ある「真理」に気づくという。
「大事なものほど、仕分けづらい」「重要なものほど、答えがない」という真理。
いま大きな社会問題になっている原発推進の是非を問う論争が、まさにこれ。
推進派と即時廃止派、さらには漸減派、一旦凍結派等々、議論が百出する。
「何を大切にしたいのか」を巡る論争には、唯一絶対の正解などない。
さらにこの問題を突き詰めてみると、わたしたちは、正解が見えないものに、
とりあえずの解を出さないと前に進めないことにも気づく。 私たちは、
不確定要素に満ち、偶然に左右され、先行き不透明な問題に囲まれ生きている。
わからないものに取り囲まれ、わからないままベストの解を出すことを迫られる。
国の経済政策も、企業の経営戦略も、個人のキャリアも、構造は同じなのだ。 
こういう問題に直面して、「価値の遠近法」を使って、よくわからない問題を
仕分けていく時に必要なポイントについて、「ようわからんけども大事!という
勘がはたらくか」「わからんことに囲まれていても、なんとか切り抜けていく」
野性的な思考が必要という。≫
▼ <「右下がりの時代」は、社会が‘まとも’になっていくためには
 悪いことではない。右上がりの時代には次に何を手に入れようかと考えて
いたわけだが、下がっていく時代には「何をまずあきらめるか」を考えざるを
えない。「価値の遠近法」を、嫌でも頭に入れておかなければならない>
とあるが、老いていくことは、不要なものを捨てていくこと。
「価値の遠近法」の④、③、②と、一つずつ捨てて、①に絞ること。
そのために教養が必要になる。今さら遅いかどうかは、その人によるが・・ 
「お金は、②、いや、①?」
――――
4556, グレートジャーニーから見えてきたことは ? ー1
2013年09月06日(金)           
 * 追われ追われて南米最南端 
        「新潮45ー6月号」ーたけしvs・関野吉晴の対談ーより
 冒険家が人類の移動の跡を辿って見えてきたのは、
「人類の弱者が、より悪い環境の地に追い込まれて、その繰り返しの究極の地が
南米最南端パタゴニアであった」ということ。アフリカから追われ、その移動先
で落ち着くと、その中の弱者はまた弾き出される。その積み重ねが、アフリカ
から南米の最南端までの人類の軌跡であった。その過程で生き延びる知恵こそ、
弱者の知恵になる。その過程で彼らは進化したかというと、そうではない。
北アフリカと欧州に留まり闘い続けた人間が、文明の基礎を作りあげていった。
逆に、エスキモーとか、南米インディアンは、逃げることで生き延びていった。
弱者には逃げるしかない。この切り口で人類の歴史を鳥瞰してみると面白い! 
僻地の人間は、そのためか優しい。  ーその辺りから抜粋ー
《 たけし〕しかし、六万年前に人類がアフリカから移動していって、
 世界中に広がったルートを逆に辿る発想は面白いけど、ずいぶん無茶なことを
しましたね(笑)。
関野〕 確かに逆ルートは無理があります。やっぱり人類は逆ルートで移動しない
 ことが、やってみると分かります。全部、逆風なんですよ。例えばべーリング
 海峡を渡るときに、風速5〜10Mのいい風というのは西から吹く。 
 僕はアラスカからシベリアに行くわけですから、東風が欲しい。しかし、
 東風は風速15M以上になることが多い。  
たけし〕どうしてアフリカで生まれた人類が全世界に移動したと
 言われているんですか?
関野〕研究者によって意見が違っていて、僕は最初、「あの山を越えたら
 何かあるんだろうか」という好奇心、あるいは「あの山を越えたらもっと獲物
 がいて、いい暮らしが出来るんじゃないか」という向上心で心で動いていたと
 思っていました。もしそういう好奇心とか向上心とか、いわゆる
 進取の気性に富んでいたなら、一番遠くまで行った人たちの末裔のはずです。
たけし〕そういうことになります。
関野〕ところが行ってみたら逆でした。南米最先端に行った人は一番弱い人です。
 そこでは狩猟生活もできない。ホタテとかカニをとって生活をせざるを得ない。
 どうしてそんなところに移住してきたのだろうと考えてみると、弱いから。
 例えば、あるところが住みよいとなれば人ロが増えていきますよね。
たけし〕 そうなると誰かがふき飛ばされる人が出てくる。
関野〕ええ、誰が出ていくかが問題になる。強い人出ていきません。
 そこで、はじき出された人がフロンテアに行くわけです。滅びてしまう人も
 多いと思いますが、そこでバイオニアになれた人が生き残れる。
 創意工夫を働かせて適応した人が「住めば都」に変えてしまう。
 そこでも人口が増えると、また弾き出される人たらが出てくる。
 だから、日本は弱い人の吹だまり。それ以上、東に行けないわけですから。
たけし〕日本人がもともと弱い人間の吹だまりだというのは面白いね。
関野〕それはイギリスも同じですね。もっと西に行けない。ところが、いいか
 悪いかけ別にして、日本はアジアを制圧しようとしたし、イギリスは世界を
 制覇しようとした。だから、弱いといって、いつまでも弱いわけでない。
 弱いから逆にいろんな知恵を使うわけです。元もと人類はその誕生のとき
 から、弱いから知恵を使って生きてきた。 》
▼ 強みは、弱者の苦労から湧き出る知恵から生まれる。決して野心を持って
 挑んだ訳ではない。弱者の知恵こそ、力になる。弾き出した方はといえば、
変化適応能力が無くなり弱者になっていく。 何処かの国か、地域そのもの。
脱皮できない蛇は死ぬ。
・・・・・・
4181, 呪いの時代 ー1
2012年09月06日(木)
              「呪いの時代」内田樹著
 なかなか時代の特質を捉えた面白い本である。バブルと、バブル崩壊後、
日本は20年以上も下降曲線をたどっている。経済大国と言われたのも遠い
過去になりつつある中、人々は、その環境の中で互いに呪い、怒りをぶつけ
あっている。そして中流社会が崩壊を始め、総下流化社会になりつつある。
そこでは互いに呪い、一部勝ち組を呪う時代になっている。
呪いは人間としての悪い意志、否定的な情動であるが、その核心部分には
他者の全面否定と破壊と殺意が内蔵されている。自己崩壊は他者への憎悪と
なり自他とも傷つけるだけでない、未来へ希望と友愛を損傷する。
「呪いの時代」は、言い得て妙である。
  * まずは、第一章 呪いの時代より
≪「呪い」は今や僕たちの社会で批評的な言葉づかいをするときの公用語に
 なりつつあります。「弱者」たちは救済を求めて呪いの言葉を吐き、
「被害者」たちは償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義の人」たちは公正な
社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。けれども彼らはそれらの言葉が他者
のみならず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまりに
無自覚のように思われます。20年ほど前、まだ僕が学会というところに顔を
出していた頃までは、学会発表後の質疑応答で、「あなたは…の論文を読んで
いないのではないか」とか「周知の…についての言及がないのはなぜか」
といった、「そこで論じられていないこと」を持ち出して、「こんなことも
知らない人間に、この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る
学者が沢山いました。僕はそういう「突っ込み」を見るたびに、どうして
彼らは「自分の知っている情報」の価値を高く格付けする一方、
「自分の知らない情報」が知るに値しないものだとあれほど無邪気に信じて
いられるのか、その理由がよくわかりませんでした。僕たちは誰でも自分の
知っていることの価値を過大評価し、自分の知らないことの価値を過小評価
する傾向にあります。だから、学者にとっていちばん最初の仕事は、自分の
所有する学術情報を適切に評価することであるはずです。でも、
「君は『こんなこと』も知らんのか」と気色ばむ学者たちは「こんんなこと」
が議論の始点でなければならない理由について、ほとんど説明責任を持てない
ようでした。・・・・ 学者というのは「知識を持つ人間」ではなく、
「自分のもつ知識についての知識を持っている人間」のことだと思います。
ですから自分の知っていることは「知るに値すること」であり、自分が知ら
ないことは「知るに値しないこと」だと無反省的に信じ込める学者のことを
僕は端的に「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいました。しかし、
学界だけの固有種であったこのタイプの人々が今ネット上では異常増殖して
いるように僕には思われます。ディスプレイに向かって、グーグルで
キーワード検索をしながら、個別的なトピックについてのトリヴィアルな
情報を入手することそれ自体は愉快なことですし、誰の迷惑になるわけでも
ありません(僕だって大好きです)。けれども、そうやって自分が仕入れた
知識の価値を「知識についての知識」というメタレベルから吟味する習慣を
持たない人にとっては、どれほどトリヴィアルな情報を収集しても、
それは学的には無価値だということは忘れない方がいいと思います。≫
▼「呪い」が、恐ろしい結果をもたらす事例を、あまりに多くみてきた。
特に、人生に恵まれてない人のそれは酷い。起こった現象しか見えないため、
その背後の原因を突き詰める能力が無いのである。呪いは、羨望が含まれている。
そのため周囲の全ての人が対象になるから始末が悪い。国会の有様は、正に
呪いの政争である。 呪いの政治は破壊しかない。
・・・・・・
3816, iPadを買った ー3
2011年09月06日(火)
 手元にきてから二週間、iPadにますます虜。パソコンが大好きだが、
イマイチ使いこなせかった。このお陰で?アプリを比較的簡単にダウン
ロードして気楽に使えるようになったことが大きい。更にゲームをパソコン
で遊んだ経験が殆どなかった。そこで、まず無料のゲームで子供心に立ち
返って遊んでいる。「自分の人生がゲームそのもの、敢えてする必要もない」
と決めつけ、受け付けなかったこともある。このところ一日2時間は熱中。
まずは無料の小学校低学年?レベルのもの数種類だが、始めると止まらない。 
まあ、いい歳をして幸せなことだが、面白いのは面白い! 先日、初めて
デジタル雑誌をAplleから購入をしてみた。『最新iPadアプリ 特選700』。
「成るほどiPadを買ったことで、iBookが購入出来た」と一人感心。 
そこで気づいたのは、目次から一瞬で項目のトップに切り替わること。
それとitunesの音楽とは逆に、ページの下に次々と、各ページのイメージが
スクロールをすると現れてくる。 雑誌をパラパラと捲るのと同じことが可能。 
また、最後に読んだところが、次回にiBookを開いた時に自動的に開く。 
最近の録画は、最後にみたビデオの部分が自動的出てくるのと同じ。 
さらに字の大きさが親指と人差し指二本で拡大・縮小できるのも便利である。
 何よりも何時でも、何処でも、気楽に見れるのがよい。Podに数千曲入力して
ある感覚と同じ。「アプリあってのiPad」が、この本の副題にあるが、
PCでアプリを充分に活用できない者にとって、「iPadあってのアプリ」になる。
それぞれの有り難さは違って当然。 私には「iPad 様様」のよう。 
初めて携帯電話を手にしたのに匹敵する。 問題は自分にピッタリのアプリを
如何に探し出し活用できるかである。 無線で、平面で、本の大きさのため、
画面にピアノや太鼓の画面を表示し、作曲したり、演奏をしたり、
車の運転席で道路を疾走するする画面のゲームも現れている。
それもネット上で誰かと競技も可能。
・・・・・・・
3451, ニューカレドニアの休暇 −1
2010年09月06日(月)
 去年はブタインフルエンザ騒ぎで予約をしていたクロアチア・ツアーを
急遽キャンセルをした。その後、あの騒ぎは薬品メーカー(WHOに入り
こませた役員)が薬品を売るための詐欺紛いの扇動と後になって気づいたが
後の祭り。恐慌二年目も加わり、25年間、毎年行き続けた海外旅行が途切れた。
そして今年は恐慌三年目、経済的状況は二番底に向け動き出した。
さて、どうするか迷った。毎年9月以降に大きな事件が起こる傾向があるので、
最終タイムリミットは9月初旬まで。 近くで、安く、目だないツアーを
絞って盆明けになって探した。グァム島はありきたり、バリ島は家内が嫌。 
オーストラリアはイマイチ。そうこう調べてると南太平洋の中で
「7日間で8万弱のニューカレドニア」を探しあてた。ワンフライト8時間で、
滞在型で、エネルギーが最小で済むところとあいなった。しかしホテルの
一ランク上に上げたり、現地で4回のオプションツアーに参加したりで、
二倍近くになってしまった。それでも15万である。 振り返ってみて、
オプションは2回で十分で、あとはホテル近くの海岸線の木陰で日干しを
したりして、のんびりするのが正解。 二度と来ないと思うと可能な限り
動きたい気持ちに勝てなかったのである。 私の基準の採点では80点。 
フィジーが90〜95点とすると少し低いが、私の避暑的時間の
過ごし方になれてなかったこともある。フィジーと違って、ここはフランス領
ニューカレドニア。 四国ほどの面積に25万弱の人口が住んでおり、小さな
多くの島が点在している。ニッケルを主とした鉱山資源が豊富。
フィジー、タヒチなど年中、常夏な気候に対し、5度ほど寒い冬がある。
この時期は丁度冬と夏の境目。冬で20度、夏でも25度というから、やはり常夏。 
大まかにポリネシア系の現地人が4割、フランスなど白人系が3割、アジアの
移民が3割の比率で、フランス支配感が強い国で、地中海のフランス領の
小島にいるようである。その点、フィジーは小さいながらもポリネシアの
独立国でありポリネシアの人間的特性が前面に出ている。料金はフィジーが
5割高くなる。 南太平洋に行くなら、何処の国の領地か、独立国か調べた
方がよい。 植民地は白人支配が前面に出ている。現在、世界は一部の白人が
支配している厳然たる事実がある。 インドのカースト制度は、三千年かけた
アーリア人による身分制度で、裏づけにヒンズー教で心まで支配する
システムになっている。一神教のユダヤ、キリスト教も、ほぼ同じ手法で、
侵略の尖兵として、キリスト教で洗脳しながら乗り込んでいく。そして世界を
牛耳っている。ここで、日本がアメリカの金融被支配国が表面化してきた。
それだけでない、軍事も支配されている現実がある。 
バカではないかというほどの人の良さが小さな島国の運命である。
・・・・・・・・
3076,120年の物指し
2009年09月06日(日)
 週刊朝日の記事ー 平成維新「次の100年が始った」が面白い。


5287,閑話小題 〜子どもたちの世界に何が〜大阪中1遺体遺棄事件〜

2015年09月05日(土)

   * 子どもたちの世界に何が 〜大阪中1遺体遺棄事件〜
 普通の中一の男女二人が、夏休みとはいえ、夜半に街中を彷徨う姿が何とも
不思議で、奇妙に感じられた。その疑問の一つが、出会い系のアプリと、
TVの‘クローズアップ現代’で紹介していた。 そこで、ー出会い ご近所ー 
で検索したところ『ダレログ』などのチャットが出てきた。ご近所の友達との
出会いをサポートするサイトで、例えば「12歳、今から夜どうし遊びたい、」
という絞込みのキーワードを入れると、近くの条件にヒットする人が、写真付で
画面に羅列して出てきて応答する? 「合コン、居酒屋名、性別、年齢」を
発信すると、ある場に見知らずの人が、目的に応じて出会うことが出来る。
危険だが、居酒屋位ならと、集まってくるという。
≪ 〜9月2日(水)放送のNHKの「クローズアップ現代」に関するブログより〜
・8月13日に大阪府高槻市の運送会社の駐車場で中学1年生の平田奈津美さん
の遺体が見つかった事件。平田さんと行動をともにしていたと見られる同級生の
星野凌斗くんの遺体も大阪府柏原市内で見つかり事件は最悪の結末を迎えた。
 近年、全国で子どもを巻き込んだ殺人事件や連れ去り事件が相次ぐ中、
今回の事件は各地の教育委員会が子どもの安全を重点政策に掲げる中で起きた。
少年と少女は、夜に自宅を出て、朝まで街中で過ごし、事件に巻き込まれた。
番組では、インタビューやアプリでの直接対話などを通じて、数多くの子ども
たちの肉声をあつめ、子どもたちの“リアル”をひもといていく。
 謎が多い事件の深層を最新情報とともに伝えるとともに、大人からは
見えなくなった子どもたちの心を描き出していく。≫ 
▼〈「そういう趣味?」の前科8犯の変態男が、12年の刑期を終えて出所。
 そして、ことに及んだ〉。たまたま、あどけない12歳の男女が、わけも
分からないで、繁華街で彷徨っているうちに獲物になったという事件。今では、
携帯に位置情報があるため、普通の子供同士が、気楽に出会うことが出来る。
その対応は、本人同士の同意のため、コントロールは、非常に難しくなる。
子供だけでなく、大人の世界は、こんなものではないのだろう。情報化が
投げかける問題は、イスラム国の宗教の世界だけでなく、全ての分野で
根底から大きく変化を始めている。思いもよらない子供、若者の実態の
話を、身近から聞こえてくるが、これでは、仕方がない!ということか。
・・・・・・
4922,音楽を愛でるサル
2014年09月05日(金)
   『音楽を愛でるサルーなぜヒトだけが愉しめるのか』正高 信男 (著)
  * 「孤人」の誕生  
 これは「ウォークマンやiPodが、グーテンベルグの印刷に匹敵する
インパクトを世界に与えた」という説。読書は目からの視覚情報手段になるが、
ウォークマンは手軽な音楽の手段になった。それまでは、ラジオ、レコードや、
公共の場で集団で聞いていた音楽を、コンパクトな情報端末として個々が持ち
運び可能になった。それが一般大衆の「孤人」化の傾向を劇的に進むことになる。
それが今ではPCの携帯化とネット化である。  
  ー内容をまとめると、以下のようになる。
≪:何気なく音楽を聴いているが、実は音楽に喜びを見出せるのは人類だけ。
他の霊長類には音楽への感性が備わってない。なぜこのような違いが生じたか。
人類出現とともに社会的なコミュニのツールとして誕生した音楽が、言語と
分化し、ウォークマンやiPod、「ひとりカラオケ」など個人で愉しむものに
変わるまでの音楽の起源と歴史、機能から、人類の進化の謎を解明かしている。
 :グーテンベルク以前は、書物という代物はたいへん重いもので、移動する
のはほとんど困難。手書きのオリジナル版が僧院や図書館に保管されていて、
読むためにはそこに出かけるしかない。借り出すことはできないので、気になる
記述に遭遇すると筆写するのが常だったが、活版印刷で状況は一変する。
薄い紙にぎっしりと文字をつめ込み、大量に製作することで、安価でハンディ
な活字本ができあがった。時期を同じくして、ヨーロヅパ世界では英国を
皮切りにして(乗り合い馬車という世界初の公共交通機関が出現。 乗客たちが、
この使い慣れないシステムを活用するにあたり、活字本を持参して移動中の
所在ない時間をつぶすという行為を思いつき、それが普及したとき読書という
習慣が社会に流布した。 まず最初は貴族が始めた。
彼らがとりたてて知的欲求が高かったと考えるのは、やや早計だろう。
乗合い馬車のなかの狭い空間で、身分の異なる見知らぬ者同士が顔をつき合わす、
その気まずさに平民よりも貴族が耐えられなかったことが、大きく影響した
のかもしれない。しかし本を持ち込んで、読書をすれば(または読んでいるふり
をすれば)、良い。
 :グーテンベルクに遅れることと五百年で、かつて中世で起こったのと同じ
ことが音楽でも見られるようになった。 ポータブル・オーディ・プレーヤー
の最大の特徴は、いつでもどこでも、セットをすれば一人で音楽と向き合える
という点に尽きるだろう。なるほど当人の視線は拘束を受けていない。だが
本人の注意が視線の先にないことは、誰にも見てとれる。耳から伝わってくる、
その源に行っているのだ。結果として「私の今の関心は、目の前にはありません。
文字通り、「心ここに在らず」の状態ですよ」というメッセージを強烈に発信
する機能を果たす。しかも機能的には書籍より格段にすぐれている。
手をふさぐこともないし、電車に乗っているときばかりか、通りを歩いて
いようと、あるいは走っているときでさ、彼らは公共の場にいないことに
されてしまうのである・・ ≫
▼ 視覚だけでなく、音楽を手軽に楽しめる視覚活用に、大衆がウォークマン
で気づく。数年前から、更にパソコンが手の平サイズの携帯に収まって世界的に
普及を始めた。それで、ネットで孤人が結ばれたのだから、孤人は、それまでと
違った「?人」に変わろうとしている。「?」は「弧」「拠」「壺」?
 現実世界の上にネット社会が出来て、世界を激変させている。
グローバル・ネット社会の住人の呼称は?孤独の群集、孤独の流離い
人が、気楽に、それぞれ結ばれる面白い社会になってきた。
・・・・・・
4555,横尾 忠則の老人論 ー2
2013年09月05日(木)                    
  * 人生の目的 ―バルザックの場合   
              「猫背の目線」横尾 忠則 (著)  
ー良く遊び、良く学び、良く働く。その他に「空白=虚」の領域を持つことー 
これが私の人生の目的。その虚の領域が、バルザックの人生の目的の「休息」
になるのか? 生前、死後に取り囲まれた『自分』の外(虚空)を常に意識を
するため、休息が必要ということか? 欧州のバカンスで1〜2ヶ月も休暇を
とり、生活圏から離れ、ただボッとする。それが彼らの休息。
日本にも湯治というシステムが昔からあった。軽井沢や那須などの別荘地は、
娑婆から隠れるためにある。  ーまずは、その部分からー
《 彼は「芸術家にとって暇が労働なのだ」と言う。つまり芸術家は常に規則
 に従うことを拒絶し、自らが自らの規則に生きることを本懐としている。
世の中の潮流や流行は意に介さず、無頓着でいなければならない。社会や他人の
支配に従うのではなく、その時の気分(そう、この気分が大事である)に従う
のを第一義にしなければならない。バルザックも「芸術家は自分の好きなように、
またはやれるように生きる」と語っている。「人生の日的は休息にある」という
バルザックは、芸術家は例外としてもこの彼の目的は万人に通じる。先に彼は
「芸術家にとって閑暇が労働であり、労働が休息なのだ」と言ったが芸術家は
何もしないでボーッしている瞬間にも、作品の構想を頭の中で練っている。
 だか休息中でも働いているのだと言っているのである。働くといえど肉体労働
ではない。知的というか創造的労働を体を休ませると同時に行っている。
「芸術家は休む時がないですね」と言われそうだが、確かにそうだ。
でも画家の立場からすれば描いている時は結構休んでいる。考ているようで
考えてない状態、三昧世界に入っているのである。
バルザックが「人生の目的は睡眠にある」と言ったらヤバイが「休息」と言う
ところがさすがである。つまり休息こそわれわれが無意識になれる最もベスト
の状感だからである。またこの無意識の状態こそ最も健康な状態といえるのでは
ないだろうか。常に頭を使ったり過度な肉体労働をすることは健康を害すること
に結ぴつくことがある。バルザックが人生の目的を「休息」と言ってのけた
ところには人間の究極の幸せがあるように思う。大半の日本人は人生の目的を
手に入れるためには多忙を極めなければならないと考えているのではないか。
「休息」を目的にしたらきっと落ちつかないに決まっている。「休息」の
背後には芸術家バルザックの優雅な生活というのが存在しているのである。
貴族趣味で家中を金目の物で飾り付けるという優雅さでなく、自由に心の向く
ままに生きることこそ優雅な人生の目的であるということを「休息」を通して
学び直す必要があるとぽくは思うのです。》
▼「休息は死後にすればよい」というが「激しく生きた後の死こそ人生の目的」
 と言いたいのか? 先日、新しいCDを出すと、ツアーで同行した
ミュージシャンから販促を兼ねた手紙がきた。西アフリカのバスツアーで
ひたすら海岸線を南下する日程だったが、そこで「この旅行は、私にとって仕事。
異国のツアーが私に創造を喚起する。税務署は、これを経費と認めてくれない」
と言っていた。芸術家にとって休んでいる時が、創造状態にあり、それをカタチ
に移行する状態が、むしろ休んでいる、遊んでいる状態というのは、納得できる。
・・・・・・・
4180, 復讐するは我にあり
2012年09月05日(水)
『復讐するは我にあり』は、キリスト教の言葉で、‘我’というのが神様
(イエス)のこと。復讐はまた新たな復讐を呼び”憎悪の連鎖”が生まれてしまう、
それを断ち切るために復讐は神に預けて神の裁きにまかせると言う意味。
この言葉を知らしめたのは、第74回直木賞を受賞した佐木隆三の小説で、
5人を殺害した西口彰事件を題材にした作品【復讐するは我にあり】。
1979年に映画化したストーリーとは、≪ 昭和38年。当時の日本はたった
一人の男、榎津巌に恐怖していた。 敬虔なクリスチャンでありながら
「俺は千一屋だ。千に一つしか本当のことは言わない」と豪語する詐欺師
にして、女性や老人を含む5人の人間を殺した連続殺人犯。延べ12万人に及ぶ
警察の捜査網をかいくぐり、78日間逃亡したが、昭和39年に熊本で逮捕され、
43歳で処刑された。≫ である。
 この「復讐は神に預けて神の裁きにまかせること」の意味を知って以来、
怒り心頭になると、この言葉を呪文のように唱え、気持ちを収めてきた。
逆に、私の逆鱗で多くの人の心を傷をつけてきたが、それ故に何倍も返り矢で
傷ついてきた。その時も、この言葉の意味を痛いほど実感した。年齢を重ねる
につれ、この言葉の重みを感じている。 要は因果応報で、報いは一番、
当人が受けているから、あえて怒りの感情に支配されることもない。
怒りの感情は、相手を毒する以上に自分を害する。復讐となれば更に毒が
自分に向かう。とはいえ、家族が殺されたり、致命的な裏切りの怒りは
癒しのしようがない。この言葉を唱えるしかないことになる。逆に祝福を
積み続けた人に神は幸運を与える。「積善の家に福来る」である。
しかし、この言葉こそ、ニーチェは弱者の怨念の原因となるという。
領土を奪われた国民が『復讐するは我にあり』と信じ、他力に頼ろうとしたら、
国は滅びる。人を恨めば穴二つ、という格言があるが、復讐は長期的潮漬け
にするしかない。「江戸の仇を長崎で討つ」ということ。
グローバル化は弱肉強食の世界になっていく。怨念が世界に満ちることになる。
 ・・・・・・
3815, 哲学人 ー�
2011年09月05日(月)
               ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
* ー経験の裏側には、常識ではまったく感知できない真理と現実が数多くあるー
 人生の比較的前半で、経験、そして現象の裏側に一般では感知できない真理と
現実があることを、垣間見てきたつもり。私たちは表側の一部だけの事象を見て
判断している。知りえる範囲でしか見えない。旧約聖書の世界の創世の物語は
7千~8千年前。当時は、そこまでしか想像が出来なかったのである。
それも我々が住む地球が球形で、宇宙に無限に近い星があることも分るはずない。
現在の我々は、現象の中にある真実を知ろうともしないで日常を流れている。 
その範囲のイメージ内でしか生きるしかないのである。 
  ー以下の部分が、その辺のことを明快に表現している。
【 現代科学によって明らかにされつつあるように、日常の世界における、
 そのときどきの経験の裏側には、常識ではまったく感知できない真理と現実が
数多くある。それはしばしば人を愕然とさせるうえに、直観に反したものである
ことが少なくなく、真実であるとわかったところで、納得できない場合もある。  
 ー例を挙げると、
・私たちの周囲にあるどの物体も、分子と原子から成立しており、その原子を
 構成する素粒子の一部は不規則に運動している。これらはすべてエネルギーに
 変換可能なのだが(あらゆる物体は力に満ちた空間である)、こうしたことは
 常識的なものの見方とは全く相容れない。
・私たちのまわりの空気は、テレビやラジオの微量の電波など、情報を運ぷ
 見えない波動に溢れており、そのほかにも数々の分析可能の属性を
 有している、という事実にしても同様である。 
・私たちは巨大な球体の表面で暮らしており、その球が表面上では時速千六百
 キロで自転していると同時に、空間を驀進しているといった、ごく基本的な
 事柄でさえ、(私としてはどうしても言っておきたいのだが、猛烈に)直観に
 反しており、真理であるとわかっていても見たり触れたりすることはできない。
 この事実はあまりに常識はずれであるため、これを最初に発表した人々は、
 いまからほんの数百年前のことだというのに、ふざけた空想家か危険な嘘つき
 として糾弾され、そんな途方もない嘘を人々が信じたとしたら、あらゆる真の
 宗教と(それゆえ)真の道徳にとって害になると非難されたほどである。
 このように、常識は私たちの置かれている状況を適切に解き明かすどころか
 忠実に説明してくれそうもないということを、私たちは事実として知っている。
 さらに、特殊および一般相対性理論によって明らかになったもろもろのことや、
 量子物理学によって明らかになったもろもろのことが示しているように、
 私たちがじかに触れている物理的環境は、近年まで人間には想像もつかな
 かったほど奇怪であり、あまりに常識とかけ離れているため、どれだけ聡明な
 研究者だろうと、こうした問題を理解するのは至難のわざ。このような状況の
 なかで常識的な世界観の擁護を試みても、やる前から結果はわかっている。
 この試みはきわめて想像力を欠いたアナクロニズムと蒙昧主義にほかならない。
 それは最も粗悪な時代錯誤なのである。 なるべく失礼にならないよう控えめ
 に述べるなら、常識的な世界観は思慮の浅い人々の形而上学にはなりうるだろう。
 ラッセルは、それを「野蛮人の形而上学」と呼んだ。ラッセルの言葉で私が
 何よりも頻繁に引用してきたものは、つぎに挙げる『哲学の諸問題』
 (『哲学入門』社会思想社)の一節の最後の文である。
 「・・そうなると常識はも、もう役に立たなくなり、私たちは物理的対象の
 本性について、五里霧中におちいりざるをえない。そこで物理的対象を正当な
 理由で心的なものとみなせるとしたら、ただ奇妙に思われるというだけでそう
 いう説を否定することは正しいはずがない。物理的対象に関する真理は、
 奇妙であらざるをえない」 】
▼ 歳を重ねると、軽くなっていくか、重くなっていくかである。
 私の知る限り、教養を積んできた人ほど軽くなっていく。生きてきた月日の
 出来事が所詮は粟粒、チリの様に消え去っていく事象でしかなかったことを
 知っているからである。
 ・・・・・・・
3450 秘・異郷の旅、よもやま話 -7
2010年09月05日(日)
 * アフリカに魅せられて
 私がアフリカに興味を持ったのは、私の高校の友人がケニアのサファリ
から帰ってきて、その写真を見せてもらったことに始る。100枚以上の、
ライオンや象、ヌー、そしてチーターの写真が数多くあった。それだけの
写真が、その男が実際に写真に撮ってきた事実が受け止められないのである。
そこには、バルーンから動物を撮った写真もあった。なんで一回のツアーで、
これだけ多くの写真が撮れるのだろか? 実際に彼が撮った写真だろうか? 
狐に摘まれる感覚であった。 どれもこれも、これまで見たことのない
活き活きした野生動物のエネルギーが写真から溢れ出ていた。
丁度、カナダのロッキーに行って、大自然に魅せられたばかり。なら、
アフリカの大地と、野生動物が次のターゲットとして良いだろうと考えた。 
しかし、17〜8年前にケニアのサファリというと、大きな抵抗感がある。
とはいえ、あの写真を見せられた上には、行かない訳にはいかない。
そして、初めてケニアのマサイマラの平原にサファリカーで乗入れたのである。
平原をしばらく走っていると、遥か彼方に動物が走っているのが見えてきた。
事前知識は全くないので、期間中にせいぜい数匹のライオンか、シマウマを
見れれば儲けもので、テレビで撮影された動物は、普通は見れないものと、
信じきっていた。それが、シマウマが走っているのである。 そして、
その後は、次々と、ヌー、ガゼルの姿を見ることができるのである。
現地のドライバーが、無線とか、行きあう仲間同士で、何処にライオンの群れ
がいるとか、チーターがいるかを連絡しあっている。そして、夕刻に象の
20頭位の群れが一列になり寝ぐらに帰っていくのに出くわした。夕陽の中に、
黙々と隊列を組んで進む姿が何とも絵になっている。そして、翌朝は、早朝
サファリである。この時の参加者が4名に添乗員が一人。我われ夫婦に40歳
ぐらいの中年の男の一人参加が、二人のため、ペースは我われ夫婦になる。 
これほど、都合の良いサファリのツアーは今だかってない。どの場面も、
強烈な印象が残っている。最初のサファリは、誰にとっても、そうらしい。


5286,閑話小題 〜老人漂流社会「親子共倒れを防げ」

2015年09月04日(金)

   * NHKスペシャル 老人漂流社会「親子共倒れを防げ」
 ーNHKスペシャル 老人漂流社会「親子共倒れを防げ」ーを、
この日曜日のゴールデンタイムに放送していた。 以前にー老人漂流
「老後破産の現実」ーを取上げ、話題になったが、団塊の世代が老後を
むかえた現在、大部分の老人にとって深刻な問題だ。 想定外の9・11テロ、
リーマンショック、3・11震災で、あっけなく事業整理に終わってから4年、
何とか、今までの生活を維持はしているが、目先には大恐慌が待っている。
老人世帯の9割は、他人事ではない。 〜NHKの内容紹介のブログより〜
≪ 中高年の子どもがリストラや親の介護をきっかけに、高齢の親を頼って
 同居するケースが急増している。こうした親子は、子の失業や親の病気などを
きっかけに「親子共倒れ」に追いつめられていくケースが少なくない。
密着取材とアンケート調査で「親子共倒れ」が広がっている実態を明らかにし、
どうすれば未然に防ぐことができるのか、専門家を交えて考えていく。≫
▼ 放送の翌日、見ていた家内が青くなって、録画をみるよう勧められた。
 蓄えがなく、癌と分かっていても、病院にいくことも出来ないケース。
親の窮状を、みるに見かねて退職し、面倒をみているため、二人の生活を維持
できる収入もなく窮地に陥るケース。息子と同居するようになって、年金が
打切られて生活が成り立たなくなったケースなどが痛ましい。退職時に、
ある程度の蓄えがあっても、癌などで高額の治療費を払い続けるうちに、
蓄えが底をつくケースもあり、その可能性は、誰にも起こりうること。
 国民の3割の預金が300万以下で、全世帯の収入額の中間点の人が600万。
全体平均は1000万円。上位2割の平均が3000万という。
とすると、貯蓄が1千万以下の人が三分の二となると、誰もが老人漂流社会
の当事者になる可能性を大きく持つことになる。近未来を考えると末恐ろしい。
 世界は、何とか大恐慌の一歩手前で平成を保っているが、いつ何時、火の手
があがる可能性を膨らんでいる。やはり心せねばならないが、一歩先に、
事業清算をした我が身、毎日、賑わせている「東京オリンピック」バカ騒ぎが、
何とも面白く、哀しく、痛ましく思える日々。少し考えろ、何がアベノミクス! 
 成るほど、尻尾だけでなく、頭も、やられている!
・・・・・・
4921,一度、死んでみましたが −3
2014年09月04日(木)
     * 死の淵からのルポの凄み 〜②
 ー淡々とした文章だが、内容が内容だけに凄みがあるー
  ● 細やかな喜び ーp48
 いま寝ているベッドは、"オリ"のようだ。 気を緩めて、身体を狭めると、
柵の範囲がすかさず小さくなってくる。 一度、詰められると、迫ってきた柵は、
もう動かない。身体全体が、不自由な位置で止まる。あらゆる方向へ、もう一回、
自分の手足を伸ばす必要がある。右手で左の柵を持って、右半身を持ち上げる。
または、その逆。目の前に、柵が迫る。 柵のなかで、のたうちまわる。 
トドみたいだなあ、といつも思う。思うようになかなか動けないのだが、
ベッドの柵を持って、バタンバタン、ドタンドタン。ほんの少し、右に寄れた。
それでも、‘身体’を感じて、ボクは嬉しいのだ、自分で、自分の身体を、
動かせたことを。 だけど、いつもできるわけでもない。≫
  ● 書くことが、生きること ーp222
 自動体位交換機能付きのエア蓄ベッド。それに助けられて、ボクは寝ている。
1時間おきにガーガーと音をさせて、エアーが入る。そして、ボクの身体は右に
傾いた緊左に傾いたりする家族が1〜2時間おきに椅子に座らぜてくれたりもする。
自分では動けないからだ。 こんなに身体が変わってしまったのが、いまでも
信じられない。つらかった。けれど、どうだろう? そうなってしまった身体を
嘆いていても、しかたがないじゃないか!
 このつたない文章が、いまのボクにできることなのだ。
どうしても書かなくてはならなかった。ボクには唯一、書くという機能を神さま
が残してくれていた。書くことが生きていてよいと唯一、言ってくれている気が
するから、ボクは書き続ける。脳のほうはさっぱりだけど、書くことができる。
その機会を与えてくれた友人や仕事仲間に、感謝しても感謝しても、足りない
くらいだ。本当に、ありがとう。これからもボクはつまらなくても、忘れても、
書き続けると思う。これからもずいぶん、面白い人生を送ることができそうだ。
迷惑をかけてしまうかもしれないが、これからが楽しみだ。書くことが、生きる
ことなのだ。 書いて、書いて、書きまくるぞ。  ー2013年12月 神足裕司
▼ 著者は、家族が身近に世話をしてくれているが、介護重度5の老人は
 生きていること自体が拷問。これは、病院の利益、家族の無知のため、拷問の
ため生かしておくのと同じようなもの。安楽死も最近になって正面から取り
上げられるようになったが、まだまだである。 現在の私は、「知ること、
書くこと、何気ない日常を味わい楽しむこと」が、生きることになっている。
そうこう考えると、まだまだ日常生活を色濃く、その間の「ぼんやり」時間を
大事にすべきだが・・
――――
4554, 横尾忠則の老人論
2013年09月04日(水)
               「猫背の目線」横尾 忠則 (著)
 横尾の戒老録だからこそ、風がわりで面白い。「猫背の目線」とは
「老人のものの見方」という意味である。私より10歳年上で3年前の初版で、
古希越えの経験が書いてある。 再来年に古希越えの私に丁度良い老人論。   
   ーアマゾン内容紹介ーより
 ☆ 体の声を無視した結果がストレスを起こす。老年を迎えた猫好きの
アーティストは、嫌なことはせず、好きなことだけをして生きる。少し日常の
目線をずらしてみれば、あなたも今日からできること。最新エッセイ集!
 ☆ 古稀を迎えた猫好きの芸術家は考えた。
「忙しいのは他人の時間に振り回されるから」「病気自慢が体を浄化する」
「努力は運命の付録のようなもの」―老年が人生を仕上げる時期ならば、
ひとつ人生を遊んでやろう、遅ればせながら隠居を実行しよう。自然に、
創造的に生きたい老若男女必読。
 ー アマゾンのレビューの内容がよい! 
出版社か、筆者自身?の書き込みと疑いたくなるほど、である。
《「今まで芸術と生活を二つに分けて、芸術に集中さえしていれば生活を
疎かにしたってどうってことないと考え、全てを芸術論でかためてしまう
人生観を送ってしまったところがあった。芸術は芸術の中でのみ完結する
という錯覚は、完全に幻想だったことが理解できた気がする」
 この言葉が核心といっていいだろう。 若い頃から、ナルシシストで
自意識過剰の横尾は、75歳になる今年も、そこから抜けるために未だ苦労して
いる。自意識過剰から抜けるための試みの一つが、全国あちこちでやっている
公開制作である。 公開制作について横尾は「(公開制作を行っていると)
無私になる。不思議なことに雑念が去来しなくなる。『私』の意識が薄れる」
と語る。この公開制作時のテーマは「T字路」である。なぜT字路なのか?
それは62〜63歳の頃に10年ぶりに帰った故郷の西脇で、子供の頃に良く通った、
T字路に建つ模型屋が奥の壁を残して、あとは見る影もなくなっている姿に、
膝が崩れ落ちるような衝撃を感じ、そのT字路を描くことでノスタルジーを
もった「個人」から自由になり「普遍的な個」と感じるからだ。
横尾は幼児の頃に叔父の家に養子に入り、溺愛され育った。彼にとって
過去の記憶はすべてよきものと言っていいだろう。決して忘れたい過去に苦しむ
人間ではないのである。芸術と生活は別、と考えて60代にまで至ったこと
自体にに驚くが、同じくナルシシストで、「芸術と日常生活は別」と同じこと
を言っていた三島由紀夫に傾倒し多大な感化を受けていたことを考えると、
不思議ではないのかも知れない。》
▼ 横尾は「隠居は、嫌なことをしない、好きなことだけをする生き方らしい」
 と、述べている。それからすれば、昔から隠居ということになる。目先、
不自由でない位の金と、有り余る時間が人生を通してあった。
足らなかったのは、それを使うほどの能力。 事業人生の結果は、自己精算に
近い事業整理で終わったが、充実感が残った。それは、有り余る自由な時間に
恵まれていて、事業も生活も趣味も楽しんだ手応えが残っているから。
そう思うしかないが・・
・・・・・・
4179, プライドと自尊心と虚栄心
2012年09月04日(火)
 * 「プライドが高い」「誇り高い」「自尊心が高い」の違いは?
言葉のイメージとしては良い順に・自尊心がある・誇り高い・プライドが高い
 ー 哲学者の池田昌子は、このへんのことを解りやすく説いている。 
                    (ー14歳からの哲学ーより)
≪「自尊心がある」はプラスを含んだ言葉で、「プライドが高い」は自分の
弱さをカバーするための防御する気持ち。自分がしていることを自覚できるのは、
それについて考えられる精神を所有している人間だけ。精神は自分を自覚する。
精神としての自分を自覚する。そこで精神にとって精神よりも大事なものは
ないと知る。なぜなら、精神としての自分にとって何が大事かを考えることを
知ることができるのが、まさに精神だからだ。自分を大事にするとは、
つまり精神を大事にすることである。「自尊心」とは、自分を尊ぶ、自分を
愛するということの、本当の意味がこれだ。自尊心を持つことと、プライドが
あるということは、間違いやすい。誰も自分が大事で、プライドがあると思って
いれば、他人に侮辱されても腹が立たないはずだ。なぜなら自分で自分の価値を
知っているなら、他人の評価は気にならないはず。もし腹が立つなら、
自分の価値より他人評価を価値としているからだ。それは自尊心でなく、
虚栄心ということになる。≫
▼ 自尊心は『本当に自分を尊く思える心』。プライドとは全く違う。
人から否定的な事を言われたり、弱い自分がさらけ出されても自尊心が高ければ、
心は揺らがない。自尊心が低いと、他人の評価を気にしてプライドと言う虚勢で
弱い自分をカバーする。プライドの高さは虚勢の高さに他ならない。
自分を尊び、価値ある存在と信じる自尊心とは違う。そのため自尊心の低い人
ほどプライドが高くなる。年齢をかさねるにつれ、それが小さくはなるが、
女子と小人は、その壁がますます高くなっていく。誇り高いというのは
プライドと意味は似ているが、虚勢の高さはプライドほど高くはない。
自尊心とは自分に自信があって生まれる。プライドは、自信がないための防御
の柵をいう。無知蒙昧のカラ元気。 居るよ、こういう人!地頭が悪いというか、
底がない? 何か、自分のこと?と思い知る。プライドも自尊心もズタズタ?
が現在の私だが、ことの本質(世界恐慌)をみれば極当然のこと??
と、プライドの心が囁き出す。そして、そのプライドの壁の上から、
そこに来ている恐慌の大津波を眺めている日々。 
 ・・・・・・
3814, リタイヤの生活は退屈か?
2011年09月04日(日)
 良かったのか悪かったのか、10代半ばから常に受験、就職、事業などで、
常に追い立てられて生きてきた。しかし思いもよらずに?ここで追い立てられて
きた人生から50数年ぶりに解放された! のが、現在である。その前のイメージ
は、本音でいえば味も素っ気もないのでは? と思っていた。しかし、
その立場になって分かったことは、「それはそれなりに充実している」こと。
10年かけてネットに重心を移動していたこともあって、気持ちに余裕が
なければ、こうはいかないのだろう。事業の結果がこうとしても、これだけ世界
規模の経済震災や自然災害が次々と生じれば、諦めもつくもの。現在の状態を
抵抗なく受け入れている自分に驚いている。逆に何だったのか、この10年は?
と、疑問も生じる。止めようもない右下がりの落ち込みに、対処療法しか
手の打ちようがない日々も辛いもの。6年前に銀行からの会社売却の話が
あったが、これは「生きたまま銀行系列のホテルに、ただ同然に持っていかれる
レベル」の案件。あれから6年間も持続した分、実質な回収とも解釈ができる。 
反面、倒産は避けられたかもしれない。それに関しても後悔は全くない。 
目先の資金繰りの綱渡りは、事業人生で一度も経験したことはなかった。 
半年後には給料、退職金の大部分も、取引先の支払いも、(資金繰表から
逆算して)不能になるのが明確であった。そのため目先資金の余裕のあるうち
にと、会計事務所、弁護士、私と役員で相談の上に、少し早目の整理に入った。
それが打撃を最小限で終わらせたことになる。 そうはいっても会社の死は、
そう生易しくはない。 当分はiPadに集中。 最適なアプリを画面上に
配置することと、新しい何かにチャレンジすることである。10数年前に
亡くなった母親の老後の様々なチャレンジを身近にみていた。その辺にヒント
が隠されているようだ。「良い人生、悪い人生ではなく、充実している人生」
がキーワードになる。
 ・・・・・・・・
3449 秘・異郷の旅、よもやま話 -6
2010年09月04日(土)
  *初めて経験した大自然の懐
 広大な大自然に初めて唖然としたのが、カナダのロッキーの懐に入って時。
トロントと、ナイアガラの滝をみた後にロッキーを巡るコースのため、その途上
のバスの中で寝入ってしまった。そして目を開けると、何かこれまで見たことの
ない山々と渓谷が続いている。「これは、まだ夢の中。それにしても、リアルな
夢じゃないか」と思っていた。しばらくし、これが夢ではない現実に気づいた。
これは何処かの星の異次元の世界としか考えられなった。(その後、これと
同じような異次元の世界を数多く見ることになった) そして、次から次へと
想像を遥かに超えた光景が、これでもか、というほど現われてきたのである。 
「これまでの人生と、これからの人生という境になるほど、この感動は大きい」
という言葉が、溢れ出てきた。これをキッカケに大自然に魅せられ、世界の秘境・
異郷の大自然の世界に引き寄せられるようになった。 大自然には、
・「山脈」「湖」「滝」「川」「氷河」「密林」といった山脈系
・「海・海岸線・島」「クルージング」という海系
・そして「平原・草原」「サファリ」「砂漠」の平原系がある。
 目的別に分けると、リゾート、探検、遺跡探索などの知識収集、
そして祭りなど、分かれる。どれが一番というのは一概にはいえない。
どれもこれも、素晴らしいとしかいえない。
 ・・・・・・・
3074,立花隆の緊急寄稿ー「自民党の破滅」
2009年09月04日(金)
 週刊誌は図書館か昼飯時の喫茶店以外は読まないが、週刊文春の新聞広告が
面白そうなので買って読んでみた。特に立花隆の緊急寄稿「自民党の破滅」
に興味があった。副題が「小選挙区制度の罠」で、民主308議席、自民党
119議席の結果について書いている。  ーその概要といえばー
「日本はいつから「政権交代」を叫ぶだけのドブ板選挙で大勝できる、貧しい
政治文化の国になったのか。ぶっ壊されつつあるのは自民党だけでない。
日本国そのものなのだ。」というのが主旨である。小選挙区制度にしたことと、
派閥を無くしたことが大きい。そのために都(県)議会並みの小さな選挙区では
ドブ板選挙活動を基礎にするかどうかで勝負が決まる。その結果、そこで育つ
政治家のスケールが小さくなってしまう。小選挙区制度になってから出てくる
国会議員の人間的スケールが都議会議員並み。 国会議員レベルで、国政を
安心して任せる人格識見の持ち主が殆ど見られない。これまでの中選挙区制度
では、派閥があり、そこで政治家を大きく育てるパドックの役割があった。 
そこで政策力、リーダーシップ、そして政治家としての日常のふるまい方を
学んだ。自民党の中で、派閥の領袖は自派には総理総裁候補が多い自慢できた。
それが自民だけでなく民主党も、人材が払拭してしまった。
 自民党が「責任力」をスローガンにしたのは呆れるしかない。 せっかく
総理大臣になったのに、その職責を充分に果たせずに任期途中で政権を放り
出すことを二度三度も続けた政党は、無責任の極地にあるというべきだ。
こういう中で、GDPの170パーセントの長期債務をいったいどうするのか。 
両党とも、これをどうするか、一回も真剣な議論が聞こえてこない。 
小泉は「自民党をぶっこわす」と宣言して、伝統的な集票システムなど様々な
システムを壊したが、それが遠因で自民党の大敗につながった。
選挙の当座だけ尤もらしいことを並べ立てて、あとはTVを通じてプロパガンス
を並び立ててしまえば、大勝を博すことが可能というのを05年の小泉郵政選挙
が示した。今回の選挙も大して変わらないのではないか。最大の心配なことは、
自民党の「ぶっこわれる過程」に巻き込まれる形で、「日本のぶっこわれ過程」
がはじまってしまったのではないか、ということだ。民主党を含む日本の野党は、
口先だけの尤もらしいことの経験があっても、責任政党として国政を担った
ことはない。その経験が無いことを自覚して、一歩一歩を薄氷を踏む思いで
いかないと、日本を本当に破滅させてしまう可能性がある。
−−
以上だが、自民党も一度政権を離れてしまえば「何で、こんな党に政権を
預けていた愚かさ」に国民は心底から気づくことになった。そうこう考えると、
政界再編成は近い将来必ず起こる。もちろん自民党は解党をしてだが。
民主が政権を取ったところで、800兆の借金が消えるわけでない。ますます、
借金が増えるのではなかろうか!
(字数制限のためカット 2013年9月4日)


5285, ー「原因」と「結果」の法則 ー  〜①

2015年09月03日(木)

ー「原因」と「結果」の法則 ージェームズアレン(著)
 学生時代に読んだカーネギーや、最近では「7つの習慣」のコヴィー博士など
の啓発本のハシリの本。森の生活(現役)から、サバンナの生活(御隠居)に
移行したこともあり、純粋に、こういう考え方を受け入れることが出来る立場に
なった。良い原因をつり続ければ、良い結果が現れることは分かってはいるが・・ 
そこが生身の人間。 四苦八苦は、人間に生まれてきたからにはついて回るが、
その三倍の楽を常に心がければ、何事も上手くいく!ことになる。
三倍を楽しむことは、日常生活の細部を楽しむ習慣化すれば決して無理ではない。
ピュアーな心根を持って、日々の細事を楽しめばよいだけ。
  ーまず、アマゾンの商品内容の説明文より
・< デール・カーネギー、オグ・マンディーノなど、現代成功哲学の祖たちが、
 もっとも影響を受けた伝説のバイブル『AS A MAN THINKETH』。聖書に次いで
一世紀以上ものあいだ読まれつづけている、驚異的な超ロング・ベストセラー! 
「私たちの人生は、ある確かな法則にしたがって創られている。
 私たちがどんな策略をもちいようと、その法則を変えることはできません。
『原因と結果の法則』は、目に見える物質の世界においても、目に見えない
 心の世界においても、つねに絶対で、ゆらぐことがないのです」(本文より)>
  ー次に、あるビュアーより
・《「私たちがこれまで考えてきたこと(原因)が、私たちを、いまの環境
(結果)に運んできた」ということになります。つまり、自分の「思い」が
自分の「人生」を創り上げているということです。人の幸不幸は、その人の
環境と、その環境をどう思うか、その人の人格によって決まります。
環境が幸せなものならそれだけ幸せになりやすい、また、幸せになれる
人格をもつ人はそれだけ幸せになりやすい、ということです。
 幸せになるためには、自分の環境を(幸せなものに)変えるアプローチと、
自分の人格を(幸せになれるべく)変えるアプローチがあるわけです。
 自分の環境を変えるためには、自分が幸せになれるような目標をもって
努力すればいいのでしょう。 自分(の人格)を変えるためには、自分
(の心)を育てる努力をすればいいのではないでしょうか。》
・《 何かにつまずいた時や心が弱った時、頼りたくなるのが啓発書。
本書は1902年に英国の作家によって記されたもので、世界に数多くある啓発書
のルーツとも言われている。意外なことに、日本語版は今回が初出となる。
現実がままならないのは、すべて悪しき思いによるもので、環境のせいではない
と説く。結果としての成功も失敗も、その原因は必ず人間の心の奥底にある
支配的な思いにあると言う。「人間は身勝手な欲望を放棄しているとき、
搾取する側、される側のどちらにも属さない」という記述からは、当時の
英国社会に蔓延していた閉塞感を宗教以外の論理で解消したいという狙いが
うかがえる。「自己制御は熟練技能」という啓発書の基本が、1世紀前に存在
していたことは興味深い。》
▼ この年齢になっても、いや、なったからこそ、この原因と結果の法則には、
 考えさせられる。 「いま、ここ、わたし」は、これまでの、自分の
「おもい」の結果である。 自然に任せておけば、大方は、いいこと、
わるいことは、五分五分になるが、意識して、いいことにアプローチをすれば、
わるいこと1、よいこと3にすることが出来る。それを対象、環境にも応用が
出来る。嫌なことがあったら、よいところを3つ探せば、確かに、そこにある。
自分の人生でも、同じことがいえる。老いると自己嫌悪に陥りやすくなり、
過去の全てをマイナスの視点で照射してしまいがちになる。
しかし、その視点で凝視すると、三倍、十倍のプラスの経験がある。
・・・・・・
4920,閑話小題 ー女社会のカースト制度
2014年09月03日(水)
   * お笑い、女社会のカースト制度
 以前、目白の高級?住宅街の住人の「渡り僧侶」の奥さんが、
このカースト制度社会で虐められて、相手の子供を殺してしまう痛ましい
事件があった。 今朝のTVで、そのカーストの実態を放送していた。
「巷の社会学」を40数年、独学を続けてきたため、その扱いが面白おかしく
一人ニヤニヤしながら見ていた。それによると、階層が、セレブ、中間層、
最下層の三階層あって、大部分を占める中間層が、セレブもどきの小金持と、
普通のサラリーマンに分かれている。そして最下層は、その中に入れずに
除外されている人たち。 その色分けは、セレブは高級マンションから
アパートの住まいと、子供の学校のレベルと、夫の年収と社会的地位などで
される。セレブもどきは、中級のマンションか一般住宅の住人で、一億前後の
資産? 最下層はアパートか、中間層から排除された人。それをわきまえ
ないと、露骨な嫌がらせか、村八分にあうという。高層マンション住民にも、
上層階ほど値段が高いので、自然と上ほどランクが高くなるとか。
男社会の仕事の現場も似ている。 それは面白いが、一切に触れないように、
アウトサイダーに徹し、ガードを張って生きてきたが、この事態に、差別?
の露骨な嫌がらせに何度か受けたが、20年近く前から、森の住人から、
サバンナに軸足を移動していたため、動揺は少なかった? というより、
コミカルな蔑視の対象にしてきた。
 ところで数年前、家内のところに、見知らぬ人から一枚の手紙が来た。 
その内容が「近くの高齢者向マンションの住人で、人伝に貴女が共立女子大
出身と聞きました、何かの御縁、お茶でも飲みませんか」の誘い。断る理由も
ないので、早速、ホテルのレストランでコーヒーを飲んできたが、時々、
同窓の集まりがあるので、参加しませんかの誘いであった。
 あとで知ったが、この会の新潟支部長の長男と、私の長男が高校の同級生で、
その人からの指示があったのでは?と推測された。で、何時の間にか、
その世界にドップリ浸かり、今では支部長の妹分?のようだ。 
人から見たら、カースト制のセレブ?か、セレブもどきの世界。
その顔ぶれは?? 慶応出の女子部会も、あると聞いたことがある。
この視点でみれば、家内はセレブ社会の住人に入り込んだ「セレブもどき」で、
私は最下層の住人になる。いや、最下層からも弾けだされた人非人。
元もと触れなければ、一切関係ない世界。これに拘り視界狭さくをしている
のが世間様。娑婆娑婆である。
 ーまた偶然だが、以下の文章は、子供時代の目線の中に、
  その存在が、モロに現れ出ている。
・・・・・・
4553, 51年前の小学校の写真にタイムスリップ ー2
2013年09月03日(火)
 写真を見ながら、当時の20人の男子同級生のフルネームと実家が何をして
いたか思い出してみた。私を除いた男19人中15人の8割近くのフルネームと、
各々の実家の職業は全員、憶えていた。半分以上は幼稚園から同窓で何処かで
同クラスだったためだろう。 焼鳥屋、自転車屋、ペンキ屋、乾物雑貨屋、
美容院、衣料卸、床屋2人、和装店、電気店、青果卸業など、駅前もあって
商店主の子供が多い。実家を継いだのは3人。 青果卸業(兄が継いで現在、
社長をしている)と土田塗装以外は、消滅?している。51年も経てば当然。
中学校は全員、東中学校に進み、2、3年時での同クラスは男は私を含め7人。
女は3人。その後の人生をみると、高校と、大学に進むにつれ分別され、
そこで大部分が決まってしまう。それ以前から血筋で決まっていた? 
当時、4Fの鉄筋の商店ビル3Fの住居を、この頃に駅裏に引っ越していた。
やっと商店内の生活から解放された。 と同時に、勉強に遅ばせながら目覚め
始めていた。目の前のライバルがハッキリしたこともある。実家の力関係と、
相撲の強さと、学業の成績で、微妙な力関係が出来ようとしていた。
その頃、ある姉に成績の良くなるコツを教わった。「一つでも良いから一度、
テストで百点をとってみな! そうすると、他も自然に良くなるから!」
その時、「これだ!」と思い、実践したのが勉強の目覚めの第一歩。
他に店から自宅と生活環境が変わったことが成績に大きく左右をした。 
また中学二年時に兄と同室だが、勉強部屋と机を与えられたこともある。
勉強の出来不出来は勉強空間の親の配慮が大きく影響するもの。 
当時は隣家に遊び好きな一歳年上の子と遊びまくっていた。その上、居間に
TVが入って夢中になっていた中ニの後半に、それをみた同じ姉に、
「慶応高校に挑戦してみな!」と言われた。そこでガムシャラな勉強を始めた。
一年の即席では無理だったが、その挑戦がなかったら地元の受験校さえ
入れたかどうか? そのことから具体的に目標を定め無我夢中になる重要性を
学んだ。大した玉でないことは確か。だから水面下の独学は必要だった。
 話は逸れたが、写真を通し当時にタイムスリップすると、同級生と自分が
ディズニーのキャラのように見える。頭でっかちで、親が、そのまま縮小した
ような姿で、未来の人生に向かって精一杯生きていた。 この切り口は、
人生の全ての場面に当てはめることが可能。自分とは過去の積み重ねから
成り立っている。記憶を失うとは、自分を失うことになる。この文章を書いて
いて気づいたことだが、80歳まで、あと12年の現在、生から生前(無)
に逆照射すれば、同年代になる。その意味で、団塊の世代にとって、
昭和三十年前半は意味がある。里帰りということか。
 やはり「人生は生きているうち」。
・・・・・・・
4178, 事実と真実と真理について
2012年09月03日(月)
  * 「真実」と「事実」の違い
 事実の中にある真実とは、そもそも何かという素朴な問いかけがある。 
以前、自宅に電話の苦情があった。「さっき、お宅の犬に突然に飛びかかられた。
子供のヒモが外れたのは分かるが、危険過ぎないか。腹の虫が収まらないので、
電話をした」と御立腹の様子。ところが家には子供も犬もいないので、
「何かの間違いではないですか?」というと、「御宅の前のアパートに住人で、
駐車場から突然、飛びつかれた」という。そこで「電話番号を間違えたのでは?」
というと「間違いない」と、押し問答。後で分かったことだが、自宅奧の貸家の
住人が、何時の間に犬を飼っていたのである。それなら勘違いは分かる。
アパートの住人は裏に、もう一軒、家が存在しているなど知るよしがない。
事実は、我家の駐車場から飛び出してきた犬が突然、飛びかかったのである。
その現象の事実は、そうだが、真実はこうである。今回の倒産劇で、B層、
C層レベルの創作話が多く流れたようだが、誰も好意的解釈などするはずがない。
 ー 以下は、、ネットで、「事実と真実」を検索してみた内容である ー
≪●「実際に起こった事象『事実』に対して、それを個人、または集団の心理、
  または理解を通して視られるものが『真実』である」
 ● 事実と真実の違いは、5Wのうち「いつ、どこで、だれが、何を」に
  ついて言うのが事実です。表面には現れない「なぜ?」を見つけるのが
  真実を見つけるということ。真実を追求するというのは、 事件や問題の
  背後にある何故そうなのか、を見つけること。
 ● 真実・・・嘘のないこと、本当のこと
   事実・・・現実に起きたこと 本来なら「真実」=「事実」に
   ならなければならないが、うはならないことが多く「多くの人間は見たい
   現実しか見ない」。 
 真実とは「見た人が見たい現実をみているもの」、事実は一つだが真実は
人の数ほどある。 真実はそれを口にする人の価値観と切っても切り離せない。 
「事実」は人間の外部にあるものだが、「真実」は人間の内部にあるもの。
「客観的事実」という言葉はあっても「客観的真実」という言葉を聞かない。
問題は、人の認識がそういうものである以上、はたして、「事実」を「事実」
として認識できるのか?という問題が生じる。そうなると、「真実」という
のは本当にあるのか?という疑問も生じる。≫
▼ 寺山修司の言葉に「真実の最大の敵は事実である」がある。真実は、
 事実の中にある、それぞれの解釈でしかない場合が多いからである。世間では
「事実の最大の敵はウワサである」になる。それがウワサがB級層では事実に
なってしまう。教養とは、そのへんを見分ける知識の蓄積をいうが、とにも
かくにも考えない人が多い。ひと事ではないが。そういえば、学生時代のゼミで、
ケーススタディを一年間してみた。次回分のケースのプリントを渡された内容を
10人ずつ二グループに分かれて議論して、それを持寄り20人の円座を組んで
再び議論する。提出された問題の中の答えとの誤差を、更に議論する。
半年も月4回もしているうち、その誤差が無くなっている。
事実=現象の中の真実、真理を見通す能力の訓練だった。
 ・・・・・・
3813, 無知の涙
2011年09月03日(土)
 * 問題は悪意より無知から生じる――ハンロンの剃刀
  ー「ハンロンの剃刀」とはー
「無能で説明できる現象に悪意を見出すな(愚かさによって充分に説明できる
ことを悪意のせいにすな。)」頭にきた行為が愚かさで説明できれば、必要以上
に悪意を想定するな!ということ。この定理を知ると、不満やトラブルに遭遇
した時に、相手が本当に悪意に基づくものか、無知や愚かさからくるものか、
を間をもって判断できる。そうすれば、その大部分が無知から生じていること
を知る。しかし現実に厄介なのは、悪意より無知からくる方で、無知の自覚が
ないから始末が悪い。「知らぬが仏の恐ろしさ」を、他者に、多く見てきた。
いや、それ以上に過っての自分を振り返ると無知の涙を経験してきた。今もか。 
人生は無知から生じる問題を解決するプロセス。大体のことが、この法則で
(少なくとも他人への)怒りをなだめることができる。それで問題は半減。 
「本来、人を理解するのは至難のわざ」である。 自分さえ分からないのに、
他人のことなど分かるわけがない。その他者に悪意を見出しても何にもならない、
という道理は納得できる。一番怖いのは、無知の善意。あとで、悪意がつく。
  ー「ハンロンの剃刀」をネット検索で調べるとー
【 ハンロンの剃刀とは、オッカムの剃刀の代用品である。あくまで代用品
 なので、切れ味はそれなりである。しかし、その切れ味の悪さは単に研磨屋
の腕が悪かったり、粗悪な鋼を使ったりしているためであって、別に悪気が
あった訳ではない。もちろん穿った見方をすれば「腕を磨いておかないのは
研磨屋の怠慢すなわち悪意である」とか「素材に良質な鋼を用いないのは商業
倫理に悖る卑劣な行為」とか言えないこともないが、そう何でもかんでも
バッサリ切り捨てないのが優しさと言うもの。
要するに「無能な(≒悪意はない)んだから、許してよ」という言い訳。
「無能で説明できるなら、それに悪意は存在しない。】
 何かドッキとする言葉。 無知蒙昧を、一々取り合わない、
腹を立てるだけロスということ。出来たら、孤高でありたいが・・無理。
  ・・・・・・・
3448・秘・異郷の旅、よもやま話・・5
2010年09月03日(金)
 * ツアーあれこれ ー4
・パック・ツアーに参加するか。・旅行代理店に行って窓口の担当に旅行の
 目的をいい、行程を組んでホテルや飛行機の手配をしてもらうか。
・旅行先の現地のパックを探してもらい飛行機の搭乗券と組み合わせるか。
・それらをネット上で、全て予約を組むか。
・それとも、飛行機だけを予約して、現地に行って出たとこ勝負で、ホテル
 とか行き先を決めるとか、旅行にも色いろな方法がある。 
人見知りをする私にとって、パック旅行は最適なシステムである。 
旅行パックシステムは欧米から発展してきたもの。全国から同じ目的を
持った者がチームを組んで旅の目的を達成する。その最適パッケージを代理店
が企画販売するのがパックツアー。激しい競争の中で、パッケージの商品は
年々、改良されていく。 その進化したシステムを如何に合理的に使うか。
インテリと称す何?が時々、パッケージ・ツアーを罵倒している文章に
出くわすが、彼等はそのシステムの合理性を知らない。これがなければ
「ケニアでヌーの河渡り」や、タンザニアのセレンゲッティー草原で、
チーターの狩りなど見れる訳がない。それを可能にするには、10倍近い
金額と期間が必要になる。それ以前に、そんな気持ちになれない。
南米のべネゼイラのテーブルマウンテンに、地元のインディアンが先導する
ボートに乗って奥地にいき、キャンプをし、飛行機で上空を旋回し、
エンゼルフォールの滝の下から1千Mの滝を見上げることなど出来るわけがない。 
南アフリカで、ボツナワとザンビアの国境の橋の上から100mの高さからの
バンジージャンプなど出きようがない。代理店は普通のパック商品では
生き残れないから、各種のパッケージを開発する。特に中小は、自社の強みが
何かを探し出して、それを売りにする。ケニア・タンザニアを専門にしたり、
イスラエルだったり、アマゾンだったり。それをパッケージにして、可能な限り
格安に売りに出してくる。面白いところでは、ツアーのベテランを狙って、
秘境・異郷のツアーに、かなり厳しい教育の入った自前社員を組み合わせた
一ランク値段の高いパッケージを売っている代理店もある。それも、ランクが
あって特Aの客層狙いだったり、A狙いだった。特Aの団体を時どき見かけるが、
人相からして違う?一度、パタゴニアのツアーで参加したことがあるが、
成程である。
 ・・・・・・・・・
3073,飲み屋横丁考
 2009年09月03日(木)
 このところ重い内容が続いたので、飲み屋横丁考でも・・・
飲食街は幾つかの飲み屋横丁と、飲食ビルの組み合わせから構成されている。
飲食街そのものは50年〜60年の長年の歴史の上に成り立つ。その飲食街も、
この不景気と生活様式の変化で存続そのものが揺らいでいる。東京は銀座、
新橋、六本木、新宿など地区で、客層が分けられるが、一般的には、年齢、
客単価、一次会、二次会など目的などで大まかに分かれている。この数年は
地元・長岡で飲む時は、殿町の一角にある3メートル通路両側に8軒が並んでる
横丁の二軒で飲む機会が多い。 ところが先日、行きつけの隣の店に新たに
入ってみた。 これで8軒のうちに6軒目に入ったことになる。
・先日開拓した「笑いキャラ」の店である。30〜40歳代の客層の店という。
(そこで、その横丁の各店の話題をしていたら、5軒の店が年代別の客層で
 分かれているのに気づいた)
・私が通っている店は、50代から60代後半のカラオケを売りにした名物店。
・もう一軒の行きつけは医者や夫婦が何組が常連の店で50〜65歳前後の店。 
・極めつけは70歳後半から80歳代の店がある。 ママは当然80歳前後。
 知らない人が入ったら驚く。
・それにフィリッピン人と、韓国人がママの店が一軒ずつある。
・残りの二軒は入ってないが、何かの違いがあるのだろう。
自然に店舗構成がそうなったところが絶妙である。基本として高い店は
行かないので少し離れた横丁である。そこだけで店を替えていれば十年間は
持つことになる。 吉田類の「酒場放浪記」という番組があるが、店の中より、
最寄駅から周辺の商店街などを歩くことから始る。背景から客を知るのである。
大きな飲食店ビルは、オーナーが意識的にテンポ構成をするのだろう。
そういえば数年前に、地元で最高級?のスナックビルが倒産した。 
この御時勢、そうだろう。


5284,閑話小題 〜高齢者運転の講習と適性検査

2015年09月02日(水)

   * 高齢者運転講習と適性検査
 一昨日、70歳の免許証の書換えを前にした、法定の『高齢者運転講習と
適性検査』を受けてきた。参加者が10名(その中に、田中真紀子もいた)、
時間は14〜17時までの三時間。講義、ビデオ、目の検査、適性検査、実際
の運転検査など、かなり真剣な内容。 どうも目が不適正で、このままだと
不合格になりそうである。書換えまで5ヶ月あるので、近々に病院で検査に行く
しかないが、最悪は免許返済もありうる?
 10数年前から、長いトンネルや、夕方の薄暮や暗くなると、視界が悪く
なってはいたが、どうだろう? 講師曰く、『人によるが、歳と共に、年々、
極端に運転の適正が落ちていく』と。これも、「悲しい老い」の一現象。
気持ちは若いが、肉体は、年齢そのままに老いている。 講習の中で、
《地元で去年の交通事故の死者が、加害者・被害者を含め8人だったが、
そのいずれも65歳以上の高齢者。 以前は圧倒的に若者が多かったが、
都会を中心に若者の車離れの傾向が強いため。 都会では、地下鉄網が
キメ細かく張巡らされていて、何処にも歩いていけるし、買物はコンビニや、
スーパーがあり、ネット販売がある。 スーパーや大型店での大きな物は、
宅配便で、送ってもらえるし、スーパーがネットによる宅配まで開始をした。
そこに都会では駐車場などの経費がかかるため、若者は、当初から関心がない。
それもあって、運転教習所は深刻な経営難で、市内に二つあった教習所の
一つが数年前に廃校になった。》と。 若者の正規雇用が減り、収入から
みて、都会では親がかりでない限り、車を持つのは不可能に近いのが現実。
 ところで、来年早々の、免許の書換え、視力の具合からみて、返済も
真剣に考えてみなければ。タクシーを頻繁に使っても、維持費からしても
格安になるが・・ これが、老いの現実か。まずは、医者にいってから!
 マイナスに考えすぎないで、出たとこ勝負になるが。そういう年齢だ!
そして、偶然だが、以下に丁度よくつながる。
・・・・・・
・・・・・・・・・
2006年09月02日(土)
1978, クルマが売れない!  
              Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning   
ある新聞の経済欄で「クルマが売れない!という記事が出ていた。
景気回復に比例して車が売れ出すという業界常識が崩れてしまった。
車そのものの魅力が低下、車が日用品化してきたからだ。これまでの車は
30年から40年前までの時計みたいなもの。ロンジンとか、ローレックスとか、
持っているだけで偉そうな錯覚をさせるイメージを加えて売っていた。
ステータスシンボルの要素が大きかった。ところが現在は、どんなよい車に
乗っていても何の価値も感じなくなった。むしろ頭の軽さが目立つだけだ。
この情報化でモノ、コトへの価値が見え始めてきたのだ。7月の新車販売
台数が(軽自動車を除いて)13ヶ月連続で前年実績を下回ったという。
軽自動車を除くと、13ヶ月も前年を下回ったのは1968年以来という。
 (軽自動車を含めると4ヶ月連続の下落)
あれだけ騒がれて登場したトヨタのセルシオの国内販売が、当初予定して
いた計画を遥かに下回ったという。この背景には日用品化した以外に、
消費の多様化がある。車に振り向けられた消費者のお金が、デジタル
携帯音楽プレーヤーや、薄型TVなどの家電製品や、携帯電話の通話料に
向けられているためだ。確実に消費者の欲しいものの中の、順位が
下がっている。かって本田宗一郎が「ライバルは同業者だけではない!」
といって言葉が、さらにシビアに聞こえてくる。車購入の中心だった団塊の
世代の、車への興味も確実に下がってきている。
年功序列の賃金制度がホボ崩壊し、「いつかはクラウン」という購入パターン
は過去のものになったこともある上に、その年代が実質定年を迎えつつある。
「クルマが売れない」というキーワードで検索をかけたら、日産と三菱自動車
の販売不振の内容が出てきた。かなり深刻のようだ。日産のゴーンの戦略も
尽きてきたようだし、鼻持ちのならない「三菱のブランド」が大衆に嫌悪感を
持たれてしまった。フルラインのトヨタ、若者・スポーツ感のあるホンダと、
軽自動車のメーカーと、それぞれの特化が顕著になってきている。 
ところで私自身14年近くトヨタのソアラに乗っている。前の型のソアラに
4年半乗った後、新中古のソアラに乗り換えた。 現在もエンジンもしっかり
しているし、車自体14年以上乗った車という古さを全く感じない。  
まだ8万キロしか乗ってないが・・・ また十年前より、高速自動車の長い
トンネルに入ると、閉所恐怖症みたいな感覚になってから遠乗りをしなくなった。
そのため「近くの移動の手段であれば何でもよい!」という気分になった。
おまけに前の型のソアラがあまり出回ってないので、古車を乗っている感じがない。
60歳になったら最後の車を買おうと思ったが、そんな気分にもなれない。
それなら海外旅行に、もっと行ったほうがよい。その気持ちは、一般の団塊の
世代と同じなのだろう。売れない理由は、流行語でいうと、社会の比重が
中流社会から下流社会へと変化していることもある。 それが一番の理由。
・・・・・・
4919,一度、死んでみましたが −2
2014年09月02日(火)
              『一度、死んでみましたが』神足 裕司著
  * 死の淵からのルポの凄み 〜①    
 介護度5の筆者の、たどたどしい文から、その日常と心情が直に伝わる。
それでも生きなければならない、そして、書き残さなければ直ぐに忘れてしまう
恐ろしさ、そして、ベッドで、のたうちまわる日常を淡々と、たどたどしく、
生々しく書いている。 倒産の葛藤の日々に似てないこともない?が、
状況のレベルが違う。 ーその辺りからー
≪ ● 死の入り口 ーp21
忘れていたが、思い出したことがあった。また忘れるので、書いておく。
 たぶん、意識がなかったときのことだと思う。 ボクはのんびりとした毎日を
過ごしていた。あたたかい、やわらかい空間で、取材をしたり、原稿を書いたり
していた。「そうだ、家に帰らないといけない」「心配しているかもしれない」 
そう思っていると、遠くから息子や娘の声が聞こえてくる。「そろそろ帰ろう」 
そう思っていたが、何度も原稿の締め切りがあって、たくさん原稿を書いていた。
そして、もう一回書かないと、とゆっくり書いていた。死の入り口の人間は
痛みもない、あのあたたかい、やわらかい空間にいるのだと思う。
死の入り口は、痛くも怖くもないのだ。”
  ● 忘れていた ーp25
 思い出したことがあった。眠っているとき、白い服を着た白い鳥のような
ものがボクの頭の上あたりをぐるぐる回って飛んでいる。僕は仕事で忙しかった
ので、その白いものを見て見ぬふりをして、仕事を続けていた。忙しい、
忙しいと、締め切りに間に合いそうもないと、原稿を一生懸命書いている。
気分は良好。そこで娘の叫び声がする。「パパ!」僕は娘のところ行かなくては
とふと顔を上げると、白いそれは消えてなくなった。喉が渇いていた。そうだ
これは喉が乾き過ぎたからだ。だが僕は何を知らせたいのか、わからなかった。
「パパ、お茶飲む?」そう娘に聞かれて、喉が渇いたのをはじめて思い出した。
本当に喉はからからで、お茶をごくごく飲んだ。もっと、もっと、飲みたい…。
だが、僕は喉が乾いていたのを、忘れていた。 ≫
 ▼ 何気ない文章だが、死の淵の意識は、こういうものだろう。
  なまあたたかい、やわらかい空間にいて、痛くも怖くもないようだ。 
 それぞれの章ごとに、介護度5の筆者の写真があるが、その虚ろな表情が、
そのまま、その状況を伝えている。 介護度5の重症患者の自分を、そのまま
ルポをしているのだから、これ以上のルポはない。 誰もが、訪れる『死』の
前での凄惨な日々は避けられない。「死んでしまえば、それまでよ」だが、
その直前の凄惨な格闘、その時は、その時に受け入れ闘うしかないが!

・・・・・・
4552, 2050年の世界 ー3
2013年09月02日(月)
  「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 
                  英『エコノミスト』編集部 (著) 
 * 米国の衰退の予感と、勝ち組になる国の姿は?  
 日米欧のうちG7の中で残るのは米国だけと予測。人口衰退の国に明日は
ないことになる。その中で、日本の影は一層、薄くなるのは、現在の日本を
見ていても分る。米国の実質支配下の隷属国家、親が転ければ子も転ける。
    〜まずは、その辺りから抜粋〜
《 米国民は、つねに競争、解雇、収奪、殺害のリスクにさらされている故に
 脆弱感を持ち続けている、だから宗教にすがる、と分析する。 
次に・高齢化に伴う医療費・年金の財政圧迫であり、投票率も高く献金も多い
高齢者の仕様の老害政治である。高齢者に有利な財政・優遇策ではなく、
若者の勤労意欲を引き出し、結果として高齢者をよりよく支えさせる賢明な
政治に切り替えよ、と主張する。エコノミスト誌の予測を読んで、私なりに
導いた結論は、次の点である。これからの「国々の興亡」は、中産階級を育て、
維持し、大いに嫁がぜる中産階級大国と、若年層の勤労意故、社会・政治参加、
高齢者を支えるコミットメントを上手に引き出すスマート・カントリーが
勝ち組になる。それはグローバル化を活用しながら、可能にしなければならない。
グローバル化の波頭でサーフィンするのではなく、海面からは見えない潮流を
とらえ帆を張ること。それには黒潮をつかまえることだ。そのひとつは、
シュンペーター的起業家精神。  ローレンス・サマーズは「21Cは、
シューペンターがもっとも重要なエコノミストになるだろう」と看破したが、
グローバル化により創造的破壊がグローバルに解き放たれている。
その怒涛に渦から湧き上げるプランクトンを貧ること。
もう一つはグローバル・リテラシーである。いま、それは英語である
  * 二〇五〇年の日本の影は一層、薄い。
 2010年に1億2600万人を打った人口は減少し続ける。人口減少は毎年1%GDPを
押し下げる。GDPは世界全体の1.9%、(2010年は5・8%)。人口一人あたりの
GDPも、米国を100とすると、韓国の105に比べて日本は58へと沈んでいく。
しかし、日本の真の問題は人口とGDPではない。 日本の科学関係のノーベル賞
受賞者は15人しかいない、オーストリアは日本の人口の7%に過ざないが、
受賞者は14人と日本より一人少ないだけだ。なぜなのか。エコノミスト誌は、
権威に挑戦することを目己規制するからだ、と見る。「欧米に追いつき追い越せ」
の後に何を生み出すのか、それが見えない点では日本も中国も同じである、
というのである。向こう40年間、日本にとっての最大の挑戦は、シュンペーター
と英語ということかもしれない。
{ *参考 20世紀の経済学者ヨーゼフ・シュンペーター(1883〜1950年)は、
 イノベーションと改善を求める起業家の意欲が、いかに大きな変動と変革を
もたらすか注目し、起業家精神を「創造的破壊」をもたらす力と考えた。
彼によれば、起業家は「新結合」を遂行し、古い産業の衰退を促す。
確立されたビジネス手法が、より優れた新たな手法により破壊される。}》
▼ 現在の日本がシューペンター的起業家精神を持って創造的破壊が可能
 だろうか?といえば、疑問である。それより国家の概念が、情報端末とネット
の進化で破壊される可能性が高い。ますます個人化が進み、個人が国家や、
地域社会の垣根を超えて行き来する。10年前、誰がPCが、タブレット、
スマートフォンの大きさになると想像した?
・・・・・・
4177, 哲学で自分をつくる ー6 (デカルトー②)
2012年09月02日(日)            
 第二章 まだ自分をさがしているのか?(ーデカルト―②)
               「哲学で自分をつくる」瀧本往人 (著)  
   * まずは、「感覚」「現実」「数学」を疑うことから
 確かに間違いなくある五感と、現実。デカルトは、まず、それを疑った。
現実と思っているのが実は夢でないかと。確かに感覚で捉えても、錯覚という
こともある。 まず、感覚と現実をデカルトは疑った。なる程、デカルトは
近代哲学の祖。ここから、まず疑うのが知性、理性の出発点。膨大の情報化の
真っただ中で、このへんの事を、よく分かってないと、その洪水に流される。
いわゆるB層の人々になってしまう。割り切ってしまえば、それも良いが。
哲学で自分をつくろうとしているのだから、現実も、感覚も、まず疑うこと
から出発しないと・・ あの人たち?のようになる。ーその辺を抜粋ー
≪ ◎ 最初に疑ったのは、「感覚」である。一般的には、自分が見たもの
感じとったものは絶対に正しいと考えたくなるが、デカルトはこれに依存して
はならないとした。なぜなら、見えているもの、感じているものは、しばしば
「錯覚」を起こすからである。 ・・・要するに自分からの確信は世界を正確に
とらえているとはかぎらない、ということである。逆に、この錯覚にさえ気を
つければ自分の感覚もあてになる、とも言えるが、デカルトは、どんな場合も
間違いなく依拠できるもの、条件なしのものを追求しているので、感覚には
依拠できないとする。
 ◎ 次に疑いにかけたのは「現実」である。実は第一の疑いである「感覚」と
この「現実」とは重複した部分がある。実際に見ているものは、「感覚」でも
あり、「現実」でもあるからだ。だが、自分が今、経験していること、つまり
感覚も含めて把握していることが「リアル」だ、というイメージならば「現実」
を疑うデカルトの意図は少し明確になる。この「現実」に対してデカルトは、
もしかすると、今現実と自分が思っているものも夢ではないか、と疑ってみた。 
夢なのか現実なのか、その見定めができない、ということである。こでもやはり、
自分が夢を見ていないということが証明されれば問題はなくなるのだが、むしろ
デカルトは、その根拠を必要としているので、確かなことではないとみなした。
 ◎ そして第三に、デカルトは数学を疑う。彼は最も擁護したいものを一度
懐疑にさらしたことになる。数学的な真理は確かに、その体系においては真理が
成立しているかのように見えるが、新たな真理が発見されてしまうと、今まで
信じてきたものもあっけなく崩れることがある。デカルトはここで、数学を
特権視せず世の中に多々ある約束事と同様のものとして、不確かなものとみなす。
このようにしてデカルトは、用心く、私たちが最も依拠するであろう「感覚」
「現実」「数学」にそれぞれ落し穴があると強調する。つまり、特に確からしい
と思われているものさえ不確かなのだから、「すべてのものごとは不確かなもの
なのだ」ど判断するのだ。≫
▼ 般若心経の「色即是空」の、色が現象であり、受想行織が感覚になる。
 それらの全てが、即、空であり、あてにならないとデカルトは看破した。
まず常識を疑うことが第一歩だが、それを疑っている自分の感覚を疑って
かかることこそ必要である。緑の原野からサバンナに出てみて、
「あの原野での出来事は何だったのだろう?」と、振り返ると、何も疑問を
持たないで同じ行動パターンを繰り返していた自分が見えてくる。
そして、現在も同じようなことをしている。根こそぎ、否定出来ない。
 それをするには常に死を意識しなくてはならない。
しかし、目を背けている弱い自分が、ここにいる。
 ・・・・・・
3812, 世の中、すべからく代理・代行  −2
2011年09月02日(金)
 国会議員、地方議員も間接民主主義による、国民や地域社会の代理・代行業。
・セブンイレブンなどのコンビニは、車や徒歩で10分以内の住民が、買って
 10分以内に消費するニーズを満たす代行の店。土地持ちのオーナーに
 全国区レベルの情報とシステムの提供で、互いの利点を生かしあっている。
・配送業が供給過剰のため熾烈な競争に入ったが、その中で一部業者は逆に
 成績を伸ばしていった。家電なら、TVやDVD、冷蔵庫、洗濯機などの配達先の
 取り付け作業を家電店に代わって請負うのである。パソコンもしかり。
 運送業者が電器の取り扱い経験者を運転手として雇えばよいのである。
・スーパーの流通センターから各店の配達も、最終店出し直前まで請負う。
・先日、寿司の宅配専門で伸びている業者が、東京の山の手の有名店の宅配
 だけを専門に請負う会社運営をTVで放映していた。売り上げの4割を店から
 分けぶんとして貰う。 それでも有名店の店舗運営の経費からみても、
 採算がとれるという。
・代理出産もあるが、ここではやめておこう。
・その中で面白いのが結婚相談所。これは昔からあったが、ネット時代。
 一番、微妙な部分を考慮に入れた仕組みづくりがポイントのようだ。
 料亭などが、最近では料理教室をつくり、そこに男女を集めて出会いの
 機会を提供する。中高年や、エリートだけに絞り込んだコースとか、
 外国人との結婚を求めている男女とか
・面白いのでは、ゴーストライターがある。有名人や成功した社長に代わり
 一代記や、人生訓などを書く。ケネディ、オバマ大統領にも名ライター
 がいたが、あくまで影の身である。
・戦国時代、江戸時代の大名にも名筆の書き手がいた。それは、それで専門職
 は必要である。激しく時代が変わる中で、一人で何もかもは不可能。
 その中で、いち早く、変化のニーズを察知して、その代理・代行のシステム
 を提供する必要性がある。デジタル化とネットによる情報化が別世界を
 新たに出来つつある中で、代理・代行がキーワードになる。
・・・・・・・
3447.秘・異郷の旅、よもやま話・・4
2010年09月02日(木)
  * 初めての21歳の欧州旅行 ー3
 初回の欧州旅行で、帰国して半年間は自失呆然状態であった。 
自分の心が粉々に粉砕されてしまったようだ。カルチャーショックである。
今から思うと、これが良かった。両親から受け継がれていた小さな世界の
価値観が根こそぎ壊れたのである。それと「自分は東洋の小さな島国・日本の
黄色人種」という目線を得たことである。これをキッカケとして、根こそぎ
自分を変えなければ学生の4年の自由時間を与えられた価値がないと気づいた。
それと社会、世界は不平等で格差であること。世界には豊かな人種と国家があり、
逆に貧しい人種と国が満ちている。その中で生きていく自分を作る基礎を学生
時代に培わなければと、気づいた。とにかく世界は広く、深い一端をみた。
 話は戻るが、ロマンチック街道から見た、川添に展開するお城と、景色。
それと、早朝にスイスに霧の中から見えたレマン湖とスイスの渓谷の美しさに
言葉を失ったことを思い出す。 毎日にように、これまで、想像すらできない
光景を、これでもか、と見せられるのだから・・ 当時、中高年の人で、
あまりのカルチャーショックで精神の異常をきたす人が多いと聞いた。
現在のように、写真、テレビ旅番組、ニュースに、映画の背景として過剰に
入る時代ではない。私のように、中高校の白黒の小さな写真でしか見たことが
ないものを、次から次へと見れば、感動の蓄積で、脳が変になって当然である。 
幕末の獅子たちで、当時、欧米渡航経験があるかないかで、動乱の中で大きく、
その後を左右したというが、当時の彼らは欧米の社会を驚愕の目で見てきて
近代国家の絵図を描いたのである。時代も、スケールも、全く違うが、
それでも21歳での経験として、大きな財産になっている。
 ・・・・・・・・・
3072,コカコーラのビン
 2009年09月02日(水)
 ー字数のため、カット 2015年9月2日ー


5283,「読書の腕前」〜 「歩く」ことは「読書」に似ている

2015年09月01日(火)

「読書の腕前」 ー④

           〜「読書の腕前」岡崎武志著 ー読書日記 〜
   * 「歩く」ことは「読書」に似ている
 シンプルで、非常に分かりやすい例えである。7年前から早朝の散歩が、
ポタリング(自転車散歩)にとって代ったが、30年、冬期間を除いて、
近くの土手を毎朝、一時間前後、歩いてきた。 初めは腰痛対策だったが、
いつの間にか、「ストレス解消の癒し」の効用に気づいた。以下に指摘して
ある、「じぶんがじぶんからぬけだしてきた感じ」が、程よいのである。
その間の、自由な孤独感と、開放感は何とも素晴らしくミニ・リゾートの
ような時間になっていた。それと、「読む」という行為を重ね合わせて同定
するとは、言いえて妙である。  〜その辺りから
≪「読む」という行為が、「歩く」ことと非常に似通っているのを知ったのは、
 詩人の長田弘のこんな文章によってだ(『読書のデモクラシー』岩波書店)。
・「歩くということは、じぶんがじぶんからぬけだしてきた感じをもって、
 いろいろなキズナからときはなたれた感じをもって、一人の自由な孤独な
 人間となって歩くということだ」 
この文章の「歩く」を「読む」に置き換えてみたとき、読書の本質をあまりに
見事に言い当てている。特に「じぶんがじぶんからぬけだしてきた感じ」
という表現には、「感電した」ようなショックを受ける。
そう、まさに「読書」ってそういうものなんだ、と。
 自尊心や劣等感、出生地や職業、年齢や日々のスケジュール、家族や友人、
好きな食べ物や嫌いな歌手など、じつにさまざまな属性をぶらさげて生きている、
この「自分」というもの。考え込んだり、ため息をついたり、「自分」という
やっかいな気ぐるみを着て、生きているようなものだ。
 本を読むときに、これらから完全に自由になれるかというとそうでもない。
しかし、物語の時間に慣れて、あるいは著者の思想の渦に呑まれて、本に流れる
血液が手を通して自分の体内を流れはじめる頃、まさに「じぶんはじぶんから
ぬけだして」ゆくのだ。いつの間にかさまざまな属性をぶらさげた「自分」
という着ぐるみを足元に脱ぎ捨て、ほんとうの意味で「裸の自分」がそこにいる。
夢中になると、裸になっていることさえ気づかない。
 これこそ、読書の大きな功徳ではないか。長田はこうも書く。
・「歩くことは、あなたが見知らぬ人びとや見知らぬものや自然を見ながら、
 その人たちやものや自然から、言葉や形や色でもって語りかけられるということ。
 つぎに、あなたのほうでもそれらに語りかけないわけにはゆかないということだ」
・「日々に歩いて心をひらくことができて、はじめて私たちはいま、ここの中身を
 ほんとうにゆたかに深く複雑なものにすることができるのだ」と。
いずれも表向きは「歩く」ことを語りながら、読書の本質を言い当てている
ことがわかるだろう。「歩く」というのは、ほかの移動手段にくらべればはるかに
不便だ。自転車、バイク・自動車、電車、あるいは飛行機…時間と距離の効率に
おいて、「歩く」ことは、そのどれにも及ぱない、また「ながら」も利かない。
音楽を聴きながら、ぐらいはできても、歩きながらのの読書や、またノート
パソコンを使っての原稿書きもまず無理。 折り鶴だってできないだろう。
「歩く」ときは、「歩く」ことに集中するしかない。このこともまた、
読書と似ているのではないだろうか。 ≫
▼ 読書の功徳を、「歩くこと」を語ることで、シンプル化して掘下げる。
 私の心の財産に、秘境ツアーがある。40歳頃から、ストレス解消として
始めたシリーズも、読書に似ている。「歩く」かわりに、手軽に、秘境旅行
パックのツアーに参加する。そして、大自然の景観に圧倒され、日常の着ぐるみ
を剥ぎ落としてくる。20年間、年に2〜3度だったが、何ものにも換えがたい
経験だった。読書も、半世紀にわたり、2〜5時間は続けてきたが、これも
トリップには最適である。トリップをしすぎて、現実世界に適応出来なかった
ことが、良かったのか悪かったのか? 
・・・・・・
3446.秘・異郷の旅、よもやま話・・3
2010年09月01日(水)
   *初めての21歳の欧州旅行 ー2
 デンマークの初めての夜はレストランのバイキング料理である。
当時の日本にはセルフ形式は全くなかった。それより、自分が食べたいだけ
皿にとってよい、とうのが珍しく、不思議な感覚であった。
 そして、スウェーデン。夏のせいか、金髪の若い女性が裸足で、
超ミニスカートで、街を闊歩している。その美しさが街並みにマッチして
いるのに驚いた。 また郊外にある古城の絵に出てくるようは美しさ。
それと高台からみた高原の輝く景色。それが次々と続いて出てくるのである。
 そしてロンドンに。中学校の教科書の小さな写真でしか見たことのない
バッキンガム宮殿、ロンドン市内には、シルクハットをかぶって歩く風格ある
紳士。パブに入って飲んだビールの美味さ。重厚なパブの雰囲気も異次元世界へ
タイムスリップをしたような感覚であった。そこで仲間数人酔ってしまい、
子供時代以来、腹の底から笑った経験をしてみた。こんな楽しく高揚をした
ことは今だかってなかった。もう、その世界に入ってしまったのである。
これを何度か経験すると、チョッとしたキッカケで同じ気分になれる。
これが人生を楽しさの面で非常に豊かにした。元もと実家で商売をしていて、
年に一回、家族、従業員、取引先など5〜60人が、年末に飲めや歌えやの
ドンチャン騒ぎをしていた回路があったが、ロンドンで仲間と騒げば面白みが
格段と上がる。それで酒席が好きになり、ハメがきかなくなってなっていった?
 パリのシャンゼリゼ通りと、凱旋門、エッフェル塔。歴史的な積み重ねが、
そのまま、街並みに出ている。そのシャンゼリゼを、独りで歩いたことが
今でも記憶に鮮明に残っている。歩行者の、ほぼ全員が白人。
その中で、東洋人の自分に違和感を初めて覚えたということ。
・・・・・・
4918,閑話小題 〜ドルの不思議
2014年09月01日(月)
   * ドルの供給量が三倍
 リーマンショック以来、ドルが三倍、ユーロが二倍の資金供給量の増加に
なったが、円は二割の増加。それからして、ドルは40円になって然るべきだが、
不思議なことに100円辺りにとどまっている。米国債を発行したりしてドルを
回収しているが、そこにシェールガスの供給量が爆発的増加の要素が加わる。 
やはりドルが全世界の基軸通貨の絶対的強みがあるが、マジックがあるような。
で、安部・黒田コンビが、過ってなかったほど、無制限に円の資金供給量を増やし、
それが株式にまわり株価を上げる。その崩壊も、時間の問題で、ある日、突然・・
   * つれづれに 
 先日、TVで「幽霊や、虫の知らせ」について、色いろなケースを取上げていた。
そして、学者が「それら全てを、勝手な物語化しているに過ぎないだけ!」と
否定をしていた。これは各自の感覚の問題であり、断定出来る問題でない。
私も、ある時期、変な感覚が身についたことがあった。今は全く無くなったが、
これは経験してみないと理解できない。「激怒した相手は、本人か家族が数年
以内に病気か不幸が起こる」と信じている。家庭内は何こも多くの問題を抱えて
いて、数年以内に必ずトラブルは起こる。特に熟年家庭には・・ 
自分より年上には「いずれ直ぐ死ぬ!」で済む! そういう年齢になった
ということ! 死んで三日もたてば、三百年前と死んだと同じこと!
で、日々暮らすしかない。
   * 「LUCY/ルーシー」〜シネマ評
 まあ面白い! 95点である。ここでは、人間は脳の10%しか機能してない
というが、3〜5%も使ってないのが大部分だろう。私自身の過去を振り返って
みた実感は5%である。 ーレビューよりー
≪ 脳が100パーセント機能してしまったヒロインの戦いを描くアクション
「LUCY/ルーシー」。ごく平凡なルーシーは、台北で、マフィアの闇取引に
巻き込まれ、密輸のため新種ドラッグを体内に埋め込まれる。だが、袋に入った
そのドラッグが体内で漏れ出し、ルーシーの脳はみるみる覚醒。
驚異的スピードで変化する彼女は、脳科学者ノーマン博士が見守る中で、
人知を超えた能力に目覚めていく…。 しかし一方で次第に人間性を失って
いく彼女は、 自分自身でさえも制御不能な状態へと陥っていく。果たして
100%に覚醒したルーシーは、人類を救う存在なのか? それとも破滅へ導いて
しまうのか? 通常は10パーセントしか機能していない脳が100パーセント機能
してしまったら? わずか数分で外国語をマスターし、傷みも感じない身体は
スーパーパワーを身につけ、肉体的な格闘を超越して超能力の域に達する。
気弱な女の子から、人間性を失いつつも超人に激変を楽しみたいファンには
おすすめだ。≫
▼ 火事場の馬鹿力は確かに存在するが、それを薬物を使って引出すのは、
 アスリートや音楽家の世界では広く応用?されている。これを拡大した
アイデア一発だけで勝負をした内容が、何とも面白い!
・・・・・・
4551, 2050年の世界 ー2
2013年09月01日(日)
 「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 
                   英『エコノミスト』編集部 (著) 
  * 船橋洋一の解説 〜1
 最後の船橋洋一の解説が簡潔に大筋をまとめてあり、これだけでも読み
ごたえがある。四十年間の最も意外の黒鳥はインターネットには全く同調する。
まずは、その辺りを抜粋してみる。  ーその部分を抜粋してみるー
≪ 四十年先の世界を予測しようと言うメガチェンジならぬメガチャレンジを
 エコノミクス誌が試みた。これがいかに無謀かは、過去四十年間に世界で
起こったことがどれほど不可測的であったかを振り返れば足りる。 例えば、
一九七二年の時点で、次のような地政学的新世界を誰が予測しただろうか。
○ ソ連が崩壊する。 
○ 中国が世界第二の経済大国にのし上がる。
○ 新興国パワーのインド、ブラジル、南アフリカがサミットを開催する。
○ 日本が二十年間の「失なわれた時代」の揚句、没落する。
○ 米国と欧州連合)が深刻な債務危機に喘いでいる。
○ インターネットが世界を覆い、フェイスブックが、インド、中国に次ぐ
 十億人の大国になると誰が予測しただろうか。過去四十年間の最も意外の
黒鳥は、インターネッ卜だったかもしれない。これ一つとっても未来予測に
謙虚であるべき。もっとも、英エコノミスト誌は、この種のメガチェンジの
調査予測をこれまでたびたび特集してきた。有名な例の一つが、一九六二年、
ノーマン・マクレー副編集長が執筆した「驚くべき日本」の大特集である。
日本が戦後の復活の過程を終了、世界の経済大国へとのし上がっていくだろう
との日本像を鮮明に打ち出し、世界の日本観を一変させた記事だった。
同記者の日本調査予測モノは、その後、一九六五、一九六七、一九八一年と続いた。 
今回のエコノミスト誌の予測は世界をまるごと予側している。さらに野心的。
○ 絶滅種が再生技術で復活するだろう。マンモスが一番乗りするかもしれない。
 (恐竜は雛しいのだろうか?)
○ イエメンでは、二〇一五年までに自然水が完全になくなる。
○ インドは、文盲人口と大学卒人口がほぼ同数という世界で最初の国になる。
○ インドとパキスタンが競争の可能性がある。それが起これば、核保有国
 同士の最初の戦争となり、もしか核戦争?。
○ 中国の繁栄は長続きしない。最大の要因は、人口減のの重圧である。
 中国の出生率は2.1に落ちる。四十年後、日本、欧州と並んで最大の人口
負け組となるだろう。二〇五〇年。最大の人ロを擁する国は17億人のインド。
中国がそれに次ぎ、米国を抜いて、ナイジェリアがその後を追う。
インドネシアも向こう四十年間、人ロポーナス国である。二〇五〇年、
アジアは世界経済の半分の規模。この時点でのG7は、インド・ブラジル・
ロシア、インドネシア、メキシコ。現在のG7で残るのは米国だけになる。・・≫
▼ 過去40年より、今後40年の方が遥かに大きな変化が次々と生じてくる。
 理由は簡単、スマートフォンなどの情報端末が止まることなく進化し、世界中の
人たちが瞬時に繋がる流れが加速し、それが一部の特権階級の富、 情報、権力の
独占を破壊することになるからだ。未来学者が、現在の事態は自分たちの予測を
遥かに超えていると述べていた。こと知識、情報、娯楽面で充分に恩恵を
受けている実感がする。
・・・・・・
4176, グローバル化の真実
2012年09月01日(土)
『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』水野和夫(著)
  なかなか面白い本である。ーアマゾンの書評をコピーしてみたー
≪「自由とはドルとエネルギーの消費である」と言われたアメリカが覇権国
 である時代はもう終わった。しかるにアメリカはグローバリゼイションと
いう名の〈米による世界経済征服計画)方策で、その命を永らえさせている。
(そこには様々なきしみとともに大きな亀裂も生じる)成長を至上命題とする
近代資本主義は限界に来ている。今行われようとしている景気回復は誰のための
景気回復か立ち止まって考える必要がある。それはいわゆる株主〈言い換えれば
上位1%の富裕層)のための景気回復ではないのか。働くものを幸福にはしない。
このままでは景気は回復しても労働者の賃金は下落する。
(一億総中流というほんの少しの間の日本のキラメキは戻ってこない)
アメリカは金融化で世界経済を支配しようとしている。しかしそれがうまく
いかないことはもう証明されている。≫
≪ 水野氏の議論の核心は昨今の世界経済危機が、16世紀以降近代資本主義
 の構造を前提に反復された景気循環の一環ではなく、こうした構造自体の終焉
を示すより根源的事態であるという視点に他ならない。これに匹敵する歴史の
根源的危機として水野氏が参照するのが、中世封建制経済から近世資本主義経済
への過渡期に当たる16世紀である。16世紀と21世紀は、氏によれば、
数々の点で相似的関係に立つ時代である。 こうした相似性は
1.それぞれの構造において経済が極限を迎えてしまった結果、投資効率が
 極端に落ち類を見ない低金利に陥ってしまったこと、
2.こうした危機的状況の打開のため前者においては「陸から海へ」、
 後者においては「海から陸へ」という世界軸の大転換が生じたこと、
3.かかる転換の途上で前者においては地理的空間の拡張、後者においては
 仮想的空間の拡張とそれに伴う超法規的収奪が、それぞれスペイン/
 アメリカという旧体制維持の世界帝国建設のため実行されること、
4.こうした世界帝国はその反動制故に解体を余儀なくされ、その残骸の上に
 新世界が現出されること等々に確認されるという。21世紀における
 '1.から'3.への過程は天然資源の希少化に由来する大量生産/大量消費型
 経済モデルの失速とそれに代わる情報・金融革命に基づく仮想空間への
 資本主義の突出により可能となるが、帝国を支えるかかる空間上の高収益は
 人件費の流動化、即ち〈搾取〉により初めて実現する。だがこのことこそ、
 近代という時代を構成した資本主義と民主主義の幸福なる結婚という神話の
 おわりを明らかにする。
「ルールを破ることを許される者と、それが許されない者との徹底的不平等」に
 基づく新自由主義を通じ国家は、前者の後者に対する「搾取」を「規制緩和」
 を通じ実現する手段に過ぎなくなった。「労働は、資本にすり寄った国家に
 裏切られたのである」。グローバリゼーションの本質を、16世紀に起きた
 同質の変化と 対比させることによって明らかにしようとする。≫
▼ ここで著者は、「グローバル化の真実を、「アメリカ金融帝国システムを
 中心と、その周辺を結びつけるイディオロギー」と、看破している。グローバリ
ゼーションの事実とは「ヒト、モノ、カネの国境を越える自由な移動」である。
そして、帝国主義国=アメリカ金融帝国は世界中の従者から「規制緩和」を強要し、
「搾取」をする、これが実態であると。その手始めが1985年のプラザ合意である。
日本は、ここからバブルとバブル崩壊のプロセスを歩み、アメリカに搾取された。
・・・・・・
3811, 閑話小題 ー老いと病について −1
2011年09月01日(木)
   ▼ 血圧について
 酒好きの私が、これまで血圧を意識したことは全くなかった。
年に一度の半日検査では、「少し高めで高血圧の入り口にある。
出来たら酒は止めた方がよい」と、いわれ続けてきた。それでも、
「毎日の運動を意識的にして続けているので大丈夫」と、判断していた。 
最近、二箇所の運動ジムに通いだしたが、両方とも血圧測定器が置いてある
ので自然に、毎日のように検査をしている。だいたい145〜155である。
そこでネットで調べてみたところ140からが高血圧の三段階の初段階とあった。
医者にいわれ続けてきた通り。両親とも高血圧で数値をいつも気にしていたので、
年齢プラス80〜90が高血圧の境目、という記憶がある。 65歳として、
やはり145〜155が境目になる。ということは年齢からして、少しは
考えなければならない。晩酌で少し飲みすぎが原因は分かっている。 
食事は20年以上前から、肉食を避け魚料理にし、御菓子など甘いものは、
ほぼ口にしない。また塩分も最小と心がけてた。運動も30年近く、早朝に
散歩か、最近はサイクリング。 5ヶ月前からは、ほぼ毎日のように運動ジム
に通っている。 反面、晩酌に酒一合から二合と、350mlのノンアルコール
の缶ビール1本を欠かさず飲んでいる。死ぬならガンと思っていたので、血圧に
対して少し認識が甘かったようだ。 昨夜のNHK番組の「ためして合点」で、
高血圧と認知症対策のマッサージを紹介していたが、そろそろ一歩踏み込んだ
血圧対策をしなくてはならない時期にきた。今さら遅いか?まだ遅くないか? 
ネットや、社会、世界の断層の狭間を目の当たりにし、健康で長生きをしたい
欲が出てきている。 まだ娑婆に未練? が残っているか。 
やはり、振り返ると、60歳までが人生の良いところ。 
 ーべき時に、べき事を、べく、すべきーとは、良くいったもの。
「 若気のいたり、とは若気のいたりが、むしろ無かったこと!」
 と今東光が、いみじくも言ったが、その通り。
「チョット、あの老人、現実に溺れすぎて、恋もしたことが無いんだって! 」
というのも、ある。血圧と何の脈絡がある? かというと、血圧など気にする
時節に「人生を充実して活きてこなかったことに、後悔する」からからだ。 
チロリ・チロリ・チンチロリか〜

2008年09月01日(月)


5282,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー⑤

2015年08月31日(月)

       ーその時、言葉は私の「神」となるー(新潮45/6月号)
              〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
   * 言葉は自意識の申し子
 著者の自我そのままの言葉が、直接、私の心に届いているのは、魂から発した
言葉だからである。 会社断念をして、何か後ろめたさを持つようになってから、
私の書く、随想日記の文章が、「自意識の私」より、「自我の私」へ、言葉の
比重が変わったためだろう?  ネット上に公開すること自体が、実は、
「自意識の私」に縛られていることになる。「自我の私」がまる見えだが。
≪ 我々はもはや引き返せない。他者の中で己を形作る「客体としての私」が、
「私」の大半を占めている以上、我々は自意識の地獄から抜出すことができない。
そして我々は、他者の中で生きるために「言葉」を発明した。
「言葉」は「自意識」の申し子である。他者を理解したい、他者に理解されたい、
他者と繋がりたいという必死の想いが「言葉」を生んだ。
「あなたに私の気持ちを届けたい」その祈りにも似た強い想いは言霊、となって
言葉に宿り、相手の心を揺り動かす。言葉とは本釆、そういうものであったのだ
と思う。だからこそ言葉は神であった(ヨハネによる福音・第一章第一節)」のだ。
他者の中で生きていく時、私は言葉以外の武器を持てない。「空気を読む」という
コミュニケーションも苦手だし、心にもないお世辞や社交辞令といった口先コミュ
ニケも得意じゃない。言葉がなければ、私は人の世で生きていけないだろう。
 だが、それは武器であるだけに、凶器にもなり得る。人の心に届けようとして
相手の心を突き刺してしまうことも多々あるのだ。が、そんな体当たり
コミュニケーションも、そこに相手に対する好意や信頼があれば、より深い
人間関係を築くことができる。お互いに血を流しながら、まっしぐらに相手の
心の奥へと突き進んでいく。それが本気の言葉であればあるほど、我々は互いの
魂に触れ合うことができるのである。そこには嘘も悪意も存在しない。
だからこそ安心して胸襟を開くことができるのだ。そして本気の言葉が届き合い、
剥き出しの魂が触れ合った瞬間、我々は互いに対する深い理解と共感に満たされ、
以前よりももっと相手のことを好きになる。この人になら何を言っても大丈夫、
どんな自分を見せても受け容れてくれると、心の底から信じられる。
それが、私のコミュニケーションだった。もちろん、これが通用する相手は
限られる。だから私は友人が少ない。しかし真の友人なんてものは少数精鋭で
いいと思っている。これからも私は本気の言葉を投げ続けるだろう。
 私は、そのために生きると決めたのだ。私は自分が何のため生きているのか
ずっと知りたかった。特に死に損なってからは、自分は何故生きているのかと
繰り返し自問した。答はまったく見つからず、生きているのが苦痛で、
「どうしてあの時に死なせてくれなかったのだ」と医者に当違いの恨みを
抱いたりもした。ところがそんな時に、思いも寄らぬ人の計報が入って、
私は激しく動揺した。自分は生きる理由もなく生きているというのに、
死んで欲しくない人が亡くなりてしまうという、この理不尽。人の生死には
道理も必然性もないのだ、と、つくづく思った。私は何者かに連れ戻された
わけでもなければ、正当な理由のもとに生かされているわけでもない。 
生きる理由なんかないのだ。それが耐えられないというのなら、理由は自分で
見つけるしかないではないか。諸君、こうして私は、自分の言葉のために
生きようと決めたのだった。何故なら私は、成り行きとはいえ、何十年も
言葉を生業としてきたからだ。もはや私には言葉しか残ってないからだ。 
私にしか語れない私だけの言葉を、私はこれからも探し続ける誰かに届きます
ようにと祈りながら言葉を綴る。その時、言葉は私の「神」、となるのだ。 ≫
▼ 著者の「自我の私」の言葉である。成るほど、これなら万人の 心まで
 届くだろう。それと、死線から戻ってきたが故の心の苦しみは、想像を
絶するほど厳しいから、その言葉そのものが、本人にとっても「神」になる。
・・・・・・
2014年08月31日(日)
4917,「個人から分人へ」 ですか!
   * 永遠の問い、「私とは何か」
  平野啓一郎「私とは何か ―個人から分人へ」の久垣啓一氏の書評が解りやすい!
≪ この本の主張は、人間の単位を考え直すことだ。個人という意味で使っているindividualは、
これ以上分けられないという意味であるが、本当にそうか。そして本当の自分なるものがあるという
考え方が間違いのもとではないか、というのがこの本の問題意識である。平野は、人間は分けること
が可能な存在であり、人間は対人関係ごとに複数の顔を持っており、一人の人間は複数の分人の
ネットワークによって成り立っているという。
そして個性とは、その複数の分人の構成比率によって決定されるというのだ。
・誰とどうつきあっているかで、分人の構成比率は変化する。その総体が個性となる。
・自己の変化とは、分人の構成比率を変えるしかない。それはつきあう人間を変えることだ。
・自分という人間は、複数の分人の同時進行のプロジェクトと考えよう。
・自分探しの旅とは、欠落している新しい分人を手に入れて、新たな個性を創出しようとする行為だ。
・私たちは、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。
・自分が気に入る分人を少しづつ増やしていくことができれば、自分に肯定的になっていける。
・片思いとは、お互いの分人の構成比率が、非対称な状態である。
それが許せずに自分向けの分人を大きくしようと、異常な行動にでるのがストーカーだ。
・分人主義は、人間を個々に分断させず、単位を小さくすることで、きめ細かなつながりを
発見させる思想である。
・帰属するコミュニティが一つであることがアイデンティティであったが、今後重要なのは
複数の分人を使って複数のコミュニティに参加することだ。むしろ矛盾する複数のコミュイティに
参加することが大事なのだ。個人を複数の分人のネットワークとしてとらえると新しい視界が
開けてくる気もする。分けるというより複数のレイヤー(層)によって重層的に個人が形成されている
と考えることもできる。ヨコに分けられているのではなく、タテにつながっているのではないか。≫
▼ 「わたし」は、わ(我)の最小単位が、たし(足し)で加わって私になっている。だから、
人生を振り返ると、その時々の出会いとか、経験で、分人を増やしている自分が存在する。
創業には、その分人たる主体たる自分が、厳然と、そこに存在している。秘境旅行で、各地に
旅をしている自分も、旅行先に溶け込んでいる分人である。旅行を続けることは、旅先に溶け込んで
いる分人を増やす行為である。個性とは、過去の経験の総体の構成比率とは、言いえて妙である。
自己の変化とは、付き合う人間を入替えることだ。それも、森の生活のうちである。
・・・・・・
2007年08月31日(金)
2341, 「私」とは何か?        〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●)
  「狂人三歩手前」−中島 義道 (著)       −読書日記
   ー「私」とは何か?ー
「私」について、その構造について、過ってこの読書日記で書いたことがある。成る程と合点が
いったが・・ 常に考える時、「私」は何々・・と一日、数百回も自問自答しているのに、その「私」とは
何ぞや?と考えたことがない。それを知っていると、いないとでは、思考の根本が違ってくる。
 ー「私」が無になることーのコーナーの「私」についての説明が解りやすい。
  ある哲学書で「私」についての説明があった。
{「いま・ここ」の主観を私とは言わない。 土手を歩いていて振り返った時、さっきの橋を歩いていた
主観が「私」として飛び出してくる。云々}と。成る程と思いつつ、解ったようで理解できない
モヤモヤが残っていた。過去を振り返った時に「私」が初めて発生するということ?垂直に縦にある
「いま・ここ」の主観は、まだ私になってないということ? ところが彼は、この本の中で、その「私」を
み砕いて解りやすく説明をしている。
  −p.86
「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。だが、そうであろうか? 
いま両肩から下に頭部を欠いた独特の身体が広がっているが、なぜこれが「私の」身体なのだろうか?
そこに独特の感じがするから? だが、なぜその独特の感じが「私の」感じなのだろうか? 
こう問いつめていくと、この方向に答えは見いだせないことがわかる。「私」とは知覚とは別の独特の
作用によって端的にとらえられるものではないか? いや、そんな独特の作用など見いだせない。
「私」とは知覚しているときに、同時にそこに感じられるものではないか? いや、胃がきりきり痛い時に
それと並んで独特の「私」という感じなどない。そもそも「私」とは作用の対象ではなく、作用の絶対的
主体なのではないのか?多くの哲学者はそう考えた。そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」
とか名付けた。だが人間としての「私」がそんな抽象的な発光点のようなものであるはずがない。
あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。ここで、別の視点から反省してみるに、
「私」とははじめから異なった時間における同一なものと了解されている。「私」とは過去のあの時も
同一の「私であった」者である。しかも、その同一性は二つの対象を見比べて判定するのではなく、
現在の側から一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。
「私」は、過去と現在との関係において登場してくるのだから、現在の世界を隈なく探しても
見いだせないのは当然。過去自体はすでに消えている。過去の記憶だけが残っている。
現在の知覚される世界ではなく、過去の想起される世界を探究することによってはじめて
「私」は身を現わす。ここにきわめて重要なことは、過去のあの時に私が不在であっても
「私」の同一性は保たれるということだ。夢の場合で考えてみよう。夢を見ているあいだ「私」は
自覚されていない。「私」は、夢から覚め「私は夢を見た」と過去形で語る時にはじめて自覚される。
まさにその時、あれが「私の」夢であったことが忽然と了解され、遡ってあの時「私が」夢を
見ていたことになるのである。夢ばかりではない。この構造は広く普遍化できる。
「私」は仕事に没頭している時や、夢中でボールを追いかけている時や、ぼんやりもの思いに
耽っている時など、いわば消えている。しかし、あとから「私は〜していた」と語れる限り、
その時「私」は存在していたことになるのだ。夢中で小説を読んでいた。
ふと気がつくとあたりが薄暗く、電気をつけてみるともう三時間も経っている。
私は小説の内容を細部に至るまでありありと覚えている。
一体誰が読んでいたのか?ほかならぬこの「私」である。
ーーー
夢を例にした説明が、理解しやすい。夢見ているうちは「私」は成立してない。
じゃあ、夢の中で私は何々、云々といっているのは何だろうか?ただ夢の中で過去のことを
考えただけで何の問題は無いか!まだ夢の中で成立してない純粋何とかいう未成立の?が、
夢の中で成立した「私」として過去からの流れの何かを考えていた!
 ということになる、ただそれだけだ。 そういえば、また夜半にリアルな夢をみた  
・・・・・
2013年08月31日(土)
550, 51年前の小学校の写真にタイムスリップ
  『長岡市の昭和』という写真集の広告の折り込みが、今月だけで二度も朝刊に入っていた。
それも、一枚目は表面トップに実家の商店ビルの写真で、二度目は、裏側に、何故か小学校五年時の
クラスの集合写真。出版社に誰か同級生でもいるのかとネットで調べてみたが??7名の小さな
長岡市内の出版会社で、県内だけでなく全国の各市の昭和の街の写真集を出している会社。
団塊の世代以上を狙ったものだが、旧長岡市内の人たちに限定2000冊としても9990円で
売れるのだろうか?その方が心配になる。しかし他は、HPを見ると完売となっていた。
その小・中・高校時のアルバムが、引越しなどで紛失、同級会などで誰かが持ち込んだのを
見るしかなかった。で、51年の時空を超え、このチラシの集合写真を何度か見ているうちに、
当時のことが、次次と思い出してきた。
 11〜12歳は、人間としての最終の熾烈な闘いがあって、そこで、ほぼ性格も能力も決まるという。
クラス内の力関係などで、誰かが常にターゲットにされる、あまり気持ちの良くない年頃。そのため
心の傷は深く残るもの。その最たるのが、まあ、書くのは止めておく・・ 自分も似たようなもの
だったろう。手取り早く学歴からみると、慶応一人に、立教三人、あとは大学名は不明だが、数名、
卒業しているから、街中の小学校として並みというところ。学校の先生の子弟は新大付属小学校が
ある。ここで目立つのは長岡青果市場の社長の息子で慶応と明治の教授をしたが既に故人に
なっている人とか、土田塗装とか、何処かの中学校の先生とか、多種多彩。
女性の方は皆目分からないが、少し目立っていた三人が三人とも離婚? 
死亡数は男20人中に4人。女性は分からない。 
 主任は非常に厳しいので有名な西沢先生。その後、多くの小学校校長を歴任し、
最後は何処か教育長をされた人で、定年時に400人が祝いに集まったという。20年近く前に、
私が経営していた新潟駅前ホテルに泊まって、古町を数軒、飲み歩いたことがあった。
せっかくなので、この数日、当時の記憶をたどっているが、51年の時空を超えて嫌な記憶を
中心だが幾らでも出てくる。太平洋戦争と長岡空襲の影響も色濃く残っていて、口に出さなかったが、
戦争孤児とか様々な問題を各家庭が抱えていたようだ。 そうこう振り返ってみると、子供の頃の
記憶から、繁華街で、父親の大きな影響下で、負けん気が強い遊び好きの生意気な子供だった。
今だ続いているが・・ 当時、家庭内で多くの問題があり、母親が倒れてしまい、住居が商業ビル
3Fから、歩いて7分ほどの駅裏に移転していた。その辺りから、やっと学業に目覚め始めてきた。
生活環境は本当に大事である。
・・・・・・
2012年08月31日(金 
4175, 閑話小題 ー恐ろしい近未来がまっている
   * 恐ろしい近未来
 南海トラフ地震の最悪の死者予測が32万人と政府が発表、マスコミが騒ぎ出したが、
もう一年以上も前から週刊誌で騒がれた記事と同じ内容。政府発表となれば違ってくる。
大手ゼネコンの含み笑いが聞こえてきそうだ。これは太平洋沿岸沿いには住めないということになる。
その地区の住宅地や商業地が暴落というより、ほぼゼロになってしまったことになる。 
当事者は、まだピンとこないはず。 千年前の大地震の後に二回、17年内周期で大地震と大津波が
起こっている痕跡があるという。活断層が不自然に捩れていて、何らか次の大地震が起きる可能性が
大きい。決して非現実的予測ではない。これに関東直下型地震の可能性がある。
更に世界恐慌も遅かれ早かれ起こる。いや、すでに起きている? これでは、夢も希望も持てやしない。
この数年来、大卒の正規社員就職率が63パーセントで、三分の二も就職ができてない。
これが恐慌が吹き荒れる前で、この有様。数年先は、こんなものでないはず。 
40数年前の私の卒業の時とはえらく違う。金の卵で、会社は選び放題。私の同期の男たちは、
殆どが一部上場の有名企業で、ハッピーリタイアをした。時代は大きく変わった。
  * 田中真紀子が民主党党首に立候補 ?
 久々に面白い話に驚いた。途中で立ち消えになるかどうか?だが、真紀子様が民主党党首の
候補の可能性が出たという。思わず失笑したが、それほど民主党は困っているということになる。
 あの外相時の相応しくない姿を忘れてしまったのか。あの人物から誠意の何も感じられない。
一国を束ねる力量があるとは到底思えない。何が今さらだが立場が野党なら、最適の逸材か。
あの辛辣な口撃は溜まったガス抜きになる。国が衰えると、こうなる。 政治は、何でもありである。
床屋レベルの政治談義からみると、この世界的危機の中での、日本、米国、韓国、中国のトップ
交代による政治変動は非常に興味をそそられる。なるほど2012年問題は危ない要素に満ちている。
安倍自民党総裁、田中真紀子民主党党首、それに安倍に担がれた橋元首相。面白いがどうだろう? 
それと何時起こるかしれない南海トラフ地震と、関東直下型地震。
それと世界恐慌の可能性がある。20世紀前半に世界恐慌を挟んで二つの世界大戦があった。
このドサクサで一億以上の人たちが犠牲になった。それより大きな変動が、始まってしまった。 
これから壮大なシネマのような世界が展開される。
・・・・・・
3810, 世の中の商売、すべからく代理・代行 
2011年08月31日(水)
 旅行代理店、保険代理店、会計事務所などのサービス業があるが、すべからく世の多くは
代理サービスの変形。家電商品も、その多くの製品は代理システム品。洗濯機、炊飯器、扇風機、
暖房機も、人間の労働の代理品である。20年前に「一世代前の人が、現在の生活をするには
200人の従者を必要とする」と聞いたことがあった。現在では数万人でも無理だろう。 
車は馬車の代行であり、カメラは専属カメラマンの代行。 夕食の宅配は、主婦の仕事の
一部代行である。旅行代理店のパック・ツアー。その大ファンにとって、その恩恵は大きい。
アフリカのタンザニアや、ケニアのヌーの河渡りなど素人では絶対に無理だが、ツアーに参加
すれば誰にでも気楽にいける。スナックや、居酒屋も家庭内で満たされない料理や、お愛想、
気などの代行である。 この事業整理の一連も、弁護士事務所が会社が300万プラス個人が
50万、合計350万で、一括業務?委託。 一連の委託契約をすると、全ては弁護士の管理下に
入り、良くいえば債権者から守られる。逆に、一切の社会的信用はゼロ、前科者に近い後ろ指、
陰口の絶好の対象になる。また、最近通いだしたスポーツジムも、各種のエアロビがあり、運動の
指導をパッケージにしてある。それに従っていれば体質改善が合理的に出来る。その指導を多くの
会員を集めることで、パックにして、場の提供をしている。これも各自で行っていた個別運動の
パッケージ化。
 ところで、これまでの蔵書ベストの100〜200冊をデジタル化して、iPadに気楽に入れられたら、
よいだろうにと思っていたら、一万冊を入力してiPadに入れて持ち歩いているという人の本があった。
それは面倒と思っていたら、一冊100円で入力をしてくれるサービスがあった。とりあえず100冊を?
と考えているが・・。 また、アマゾンに注文した本を、そのまま業者に本が直送し、スキャン
してくれるサービス業者もあるという。デジタル本が、まだまだ普及してない中、これは良い
代行システムになる。情報化とデジタル化の時代、代理・代行システムは重要なキーワードになる。
それにしても、面白い時代である。各種代理システムをiPadを端末として、
如何に使いこなせるかが、これからのポイントのようだ。
 ・・・・・・・
2010年08月31日(火)
 3445・秘・異郷の旅、よもやま話・・2
  *初めての21歳の欧州旅行 ー1


5281,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー④

2015年08月30日(日)

      ーその時、言葉は私の「神」となるー   (新潮45/6月号)
             〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
   * 言葉は原罪から生まれた
 他人からみた私を意識する「自意識」過剰が果たして罪なのか。
二つの私、「自意識の私」と「自我の私」の両者が頭の中で、常に問答をする。
老齢期では、「私の人生、果たして、これで良かっただろうか?」と。
 良かったのだろうか? 人間は生きている限り、原罪を犯すもの。
老いて、その原罪を見つめて悔悟する。知識を持つことは原罪なのか?
知恵を持つことが原罪なのか。他者=世間の目を神のごとく信じるのは、
プラ・マイの両面を持つ。 最後は、自分の自意識で、どう受け止めるか?
 死線を漂い、社会復帰をする中で思った心の奥底は深いもの。〜その辺りから
≪ ああ、諸君。「自我の私」として唯我独尊で生きるのと(もちろん、孤独は
 感じない。もとより孤独という概念がないからね)、「自意識の私」として
他者と繋がりながら傷つけ合いながら生きるのと、どちらが幸福なのだろうか?
少なくとも心肺停止前の「自我の私」で生きていた私は、多幸感に満ち満ちて
いた、他者のいないたったひとり楽園に住んでいて、寂しさも不安も感じず、
その中でぬくぬくと微笑んでいた。周りの人々から見たら、それは呆けた抜げ殻
であったようだが、本人はそんなことちっとも気にかけず、ふわふわと漂い
幸せに生ぎていた。・・心肺停止の後に生ぎ返って、目覚めた私は自意識も取り
戻していた。肉体が回復すればするほど、自意識も回復し、他者との関係に
悩まされるようになった。特に例のMXTVの降板以降は、人と会うのが嫌になって
完壁に引きこもった。社会に拒絶された気分になってひどい孤独感に苛まれ、
誰にも必要とされない自分にはもはや何の価値もないと苦しんだ。
おそらく「自我の私」であったなら、そのような苦しみは味わわなかっただろう。
「孤独」も「自分の価値」も、他者との比較や承認から生じる相対的な概念である。
他者を通して自己を確認するから、他者から拒絶されることが自分の存在まで
脅かすのだ。自己の存在の絶対性を疑いもしない「自我の私」は、仕事を失って
経済的な不安を感じることはあっても、それを己の存在意義の問題とは捉えまい。
そうやって考えると、我々の苦しみの原因は、ほぼ「自意識」に起因している
ように思える。 我々は「自意識」を持つべきではなかったのか。エデンの園で
幸福に暮らしていたイヴに蛇が勧めた「知恵の実」は、やはり禁断の木の実で
あったのか。「自意識」を持つことで我々は他者の目に裁かれ続け、他者に
見捨てられる不安に怯え、大きな苦しみを背負うこととなった。だから聖書は
それを「原罪」と呼んだのか。「自意識」は「罪」であったのか。
犬や猫は鏡に映った自分の姿を「私」だと認識しない。鳥にいたっては、鏡の中の
自分に向かって求愛のダンスを踊るらしい。彼らには己を客体視する能力がない。
彼らにとっての「私」は、ほぼ百%「自我の私」である。彼らは幸せなのだろうか。
他者にとっての客体ではなく、「私」という主体としてのみ生きていくことは、
どんな苦しみも生じさせないのだろうか。いや、待て。「苦しみがない」ことを
「幸せ」と考えていいのだろうか? 苦しみば確かに幸福感とは程運いものでは
あるが、我々は「甘美な苦しみの自意識」というものも知っているではないか。≫
▼「起こってしまったことは変えられなくとも、受止めかたは変えられる」と
 いうが、これも、「自意識の私」を「自我の私」への変換ということ。
「他者を通した自己の確認」を超越して、己の原罪を見つめることが必要である。
そこまで自分を追詰めないと、内なる二つの問答が、蒟蒻問答になる。
・・・・・・
2704、共同幻想を抱いていただけ?
2008年08月30日(土)
 松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」である。
一万年前に農耕牧畜を始めて、「人間圏」を作り上げてきた。そして右肩上がり
人間圏の拡大が共同幻想だったことを、人類は宇宙に出て地球を俯瞰して初めて
知った。資源が有限であり、農耕以来、環境破壊を続けてきたことも、これ以上
の人間の欲望を拡大できないことも知った。
 ー著者の松井孝典は、次のように人間圏の危機を述べている。
≪ 欲望のカタチは所有であり、人間は地球という大地を「所有」すると、
 錯覚していたのである。これが人類の「共同幻想」というのである。
共同幻想は、これだけでなく、貨幣は未来永劫に交換可能とか、神様の存在とか、
人間の命は地球より重いとか、民主主義、市場主義経済とか、自由平等とか、
人間を規定する概念すべてといってよい。21世紀の人間圏にとって、その崩壊
の引き金になる最も高いシナリオは、これらの共同幻想が多くの人に幻想と認識
されたときである。 その一つがインターネット。インターネット社会は、
個々人を主体化し、情報が個人に拡散する。 情報が拡散するということは、
社会が均質化していくことになるが、共同幻想という面で理想的かも
しれないが、宇宙からの視点から見れば、人間圏のビッグバンになる。
それは秩序も構造も、情報もあってない、混沌とした社会になる。》
 そこで、共同幻想とは何かを知るためにネットで調べてみた。
 ー以下は共同幻想についてのウィキペディアのコピーであるー
共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。
日本の思想家である吉本隆明が用い、有名になった言葉。吉本は、自分の
共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、ただ手垢が
ついているから使いたくなかったと述べている。 吉本隆明は、著書
「共同幻想論」で人間関係は3種類に分類されると提唱。
▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。
 他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。
▼ 対幻想  = 個人と他者とのプライベートな関係。 
        〜家族・友人・恋人がこれに当たる。
▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合が
 これに当たる。宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、
教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。 この分類は効果的であり、
世界を正しく見るうえでこの3つの幻想領域を混乱、混同させないことが大事
であると主張する。これらはそれぞれ独自の法則で動いているのである。  
例えば、吉本は心理学者のフロイトはリビドーと言う対幻想性を、社会領域まで
無条件に拡大して採用しようとしたところに誤りがあると批判する。
また、1人の人間もこの3つの領域でそれぞれ違う顔を持っている。
* 職場にいる顔と、* 家庭にいる顔、* 1人でいるときの顔や行動は、
それぞれ違うのである。外弁慶、内弁慶という言葉があるように、冷酷な
独裁者や軍人が家庭内では優しいよき父親であったり、逆に職場では物静かな
男が家庭内では暴力的な暴君として振舞うなどということは、充分ありえる。
吉本隆明は、共同幻想の世界では、個人が幽霊としてしか存在できないと主張。
 例えば、「今は企業の危機だから、粉骨砕身働け」との企業幹部の檄は、
労働力を売りに来ているに過ぎない個人としての労働者の立場と矛盾する。 
 〜〜〜 以上だが、
 松井孝典の二冊の本は、大きな衝撃であった。
地球学という視点で、自分を振り返ると、大いなる共同幻想の中で蠢いていた
小さな生命でしかないことだ。 太陽の惑星の一つの地球、その大気圏の中の、
物質圏の、生物圏の、人間圏の、極東圏?の中の小さな島国の、北陸圏の、
新潟圏の中の、何でしかない私。地球の外から俯瞰すれば、そういうことである。
そして共同幻想を何の疑問を持たないで抱いていた存在である自分を振り返り、
「何?何だったのか?」と根こそぎ、人生観がぐらついている。
恐らく身近に死を感じ取った時に、直感的に感じる恐怖心の向こうに見える
宇宙的な俯瞰の視線は、織田信長が舞ったという敦盛の「人生50年、下天の
内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」
を彷彿させる。

・・・・・・
4916,一度、死んでみましたが
2014年08月30日(土)
             『一度、死んでみましたが』神足 裕司著
   * 重介護5のスーパー闘病記
 平々凡々の日々を当たり前のように過ごしているが、実は、これが最上で
あることに気づくのは、失ってから! あと一年余りで、平均すると同年齢
の男の過半数は介護生活、5年後には寝たきりに、10年は死んでしまう。 
TVや、西原の漫画に度たび出ていた神足裕司を、この数年見かけなかった。
実は三年前にくも膜下出血で倒れ、重介護度5でリハビリ生活の中、
去年12月に、不自由なベッドで書いた『一度、死んでみましたが』という
スーパー闘病エッセーを出していた。コラムニスト復帰の第一弾の本を、
偶然、図書館で見つけ、借りてきた。脳の大手術で、現在も殆ど動くことが
できず、寝たきり。ここで、介護、寝たきりとか、言っているが、この書を
読むと、さほど遠くない未来に似たような事態になる可能性が十分にある。
50歳半ばから還暦辺りにかけて、友人、知人が次々と、半身不随になったり、
癌で死んでいるが、どれもこれも、最期は壮絶な状態。これは、その実況
中継のような闘病エッセーで、ベッドの中の苦闘が、そのまま伝わってくる。 
本の題名が『スーパー闘病エッセー! 一度、死んで見ましたが』 
HONZ http://honz.jp/36901 の書評が、要点の7〜8割は押さえている。
「その時から、それまで生きてきた一生分を生きることになる」と言うが、
そう信じさせられる内容。 ーアマゾンのレビューの、息子のレビューより
≪ はじめに、家族という立場にあるものからのレビューであることをお許し
 いただきたい。本が手元に届いてからも、私はなかなか本を開く気に
なれなかった。怖かったのだ。父の、つまりはこの本の筆者の状態はもちろん
百%ではない。ページを繰っていけば、彼がこれまで積み上げてきたものが、
私の前に立ちはだかる者としての彼が、崩れ去ってしまうのではないか、
そんな恐れを抱いていた。杞憂だった。そこにあったのは、私にはとても
紡ぎ出せない「凄み」のある言葉の数々。いや、もしかしたらこれは、
以前の筆者にも書けなかったのかもしれない。薀蓄をちりばめ、変幻自在の
修飾語を用いながら、ページを埋め尽くすのが豊穣な表現だとするならば、
この本はそれには当たらないかもしれない。むしろ、そのような表現は
全てが余白へと沈み、筆者にとっての瞬間の全てがこめられている。
少なくとも筆者の生きる「世界」において、その瞬間、それ以外の表現は
あり得なかったのだろう。切り詰められた音の数。他の人が弾いたら、
ミスタッチだと思われかねないフレーズ。彼の憧れたジャズピアニストを
思い出す、なんていったら笑われるだろうか。
・・ 病気は誰にでも訪れうることだ。「病気」とはなんなのか、「家族」
とは「友人」とは、そして「生きること」とは何か。誰しも考えたことのある
テーマについて、文章を書いているその瞬間の筆者にとっての虚飾のない、
研ぎ澄まされた言葉が胸に迫ってくる。深刻なテーマに思われながら、
どこかにおかしみを含んでいるのは筆者のコラムニスト魂だろうか。
くも膜下出血、高次脳機能障害の患者・家族の方はもちろん、今立ち
止まって「これから」について考えたい方には、ぜひお勧めしたい一冊です。≫
▼ こうなるか、癌で壮絶死をむかえるか、今の私に出来ることは、日々を
 味わうしかない。どのみち、少し早いか遅いだけ。それでも奥さんが優しい
人のようだが・・ 本人は、このスーパー闘病記を、自分の愛読者に読んで
もらうことが、慰めのようだ。私のエッセイ『事業人生を決心して・・』
の続編として「その後、脳溢血で倒れてと、この事態になった」と
吾が身に例えて読むと、他人事でない内容である。
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4549, 六韜三略
2013年08月30日(金)
 学生時代に、守屋 洋著『六韜三略』と海音寺潮五郎著『孫子』を読んだ時
の面白さと驚きは今でも憶えている。純朴で、欲と欲の争いに立たされる前の
学生時代に読んでいたため、社会に出てから丁度良い手引き書になっていた。
この思想を通して人間をみると、その心底が透き通って見えるようで、
世俗が幼稚に思えてくる。 ー当時の感想はー
《人間は欲で動いているが、それを隠して綺麗ごとを並びたてる社会的動物。
それを前提に一切を無にして諸現象を一度、疑ってみること。そして冷静に
本質を捉えること。利害対立の場に立った場合は、よりシリアスに徹すべし》。
そう割り切ると、誠意の外面の奧に隠された心底が手に取るように見て取れた。 
これに学生時代のゼミの(現象の)事例研究が叩き込まれていれば、アウト
サイダーになるのは自然。人生に戦略的である必要性を、この書で実感。
人生への鳥瞰の視線でもある。 ーネットで、『六韜三略』を検索するとー
《「六韜」は文韜、武韜、竜韜、虎韜、豹韜、犬韜の六篇からなることによる。
「韜」は弓袋( 秘訣)。「略」は機略の意味。「三略」は、上略、中略、
下略の三篇からなることによる。 二つとも「太公望の兵法」であるから、
主張を統一して判断すべしというスタンス。もう一 つは内容である。
『六韜』が兵法のうち戦略・謀略を担っているのに対し、『三略』が政治思想、
軍事思想を担っている。『三略』はリーダー、『六韜』はマネージャー の書 ..》
《 劉邦の軍師となって漢の国の柱石となる張良が、若い頃、行きずりの老人
 から「明朝5時、ここに来い」と命じられた。言われたとおりその場所に
行くと老人はもう来ていて、「年寄りを待たせおって。また明日だ」と言って
去った。 翌朝、今度は3時に行ってみると、また老人は待っていて
「まだまだだ」と同じように去る。 張良は意地になって「今度は絶対に
待たせない」と徹夜して老人を待った。すると老人はニコニコと笑って六冊の
書物を渡し、「よく勉強して世のためになれ」と肩を叩いた。
『六韜』は「虎」「竜」を始めとした六巻の兵法書で、「虎の巻」の語源。
『三略』は、前・中・後の三巻からなる兵法書で、『六韜三略』は
中国はもちろん日本の戦国大名の兵法書としても親しまれた。》
《 中国の兵書、六韜と三略の2書。前者は太公望呂尚、後者は黄石公の
 撰述と伝え、併称して韜略の書という。 いずれも後世の偽書であるが、
宋代、『武経七書』のうちに組み入れられ、中国古兵法の教科書として広く
読まれてきた。・六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民の術、
富国強兵の策を説くもの 》
▼ これを参考に黙し対処したら、これほど難しい相手はいない・・ 
 この書を通すと、面白いように物事が透けてくる。心静かに、これを読み
続ければ、その中の原理原則が己を導いてくれる・・ 学生時代に、
この二書を読んでいたので、いざこざの真只中で、対峙した人の言葉を一度、
突き放し、疑い、静かに自問自答する余裕が出来ていた。問題は、その都度
「正中心一点無の心境で道理は何かを考える」しか解決は出来ない。
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4174, 閑話小題 ー電機メーカーの苦境
2012年08月30日(木)
   * 電機メーカーの苦境
 日本の電機各社が苦境に陥っていると、マスコミを騒ぎ出している。
この原因が、あのエコポイント。電機メーカーにとって、神風になり大きな
利益を確保したが、その間に韓国などのメーカーが主力商品に力をつけ日本が
太刀打ち出来なくなっていた。数年前まで、薄型TVで勝ち組だったシャープ
が死に体で倒産の危機になり、同じく恩恵を受けたソニーとパナソニック、
東芝、日立の各社が数千億の赤字というから尋常ではない。世界に名立たる
日本のブランドが、今や苦境に立っている。耳を疑うが、これが現実である。
 現在、同じことが自動車で行われている。 どうしたというのだろうか。 
中小企業救済法も今となれば、良かったのか悪かったのか? しかし、産業の
不振は日本に限ったことでない世界的な流れ。スマートフォンとタブレットPC、
この中に、電話、テレビ、パソコン、デジカメ、ビデオ、全ての機能が入って
同じ位の値段なら電子機器が売れなくなるのは当然。日本のメーカーが、
専用機種に目を奪われている間に、マックや韓国メーカーが、ここに集中
していたのである。日本のメーカーは決定的なミスを犯してしまった。
10年前、5年前なら考えられない事態が、目の前に起こっている。 
   * 地元経済は、ますます悪化
 先日、3ヶ月ぶりに自宅に送付されてきた一連の書類を持って弁護事務所に
行き弁護士と30分位、世情話になった。中越地区の景気状況は、来春の
「中小企業特別救済立法」の打ち切りに向けての動きが顕著になっており、
その上に刈羽原発の休止にともない関連の5千人の従業者のうち3千人が、
この秋に整理される。更に小千谷にある大手の工場も雲行きが怪しい。
それらから景気は一段と悪化しているという。一線から退くと生の情報は
殆んど入ってこなくなる。必要がないからもあるが。この9月から12月にかけ、
リーマンショック並みの一大イベントが発生する可能性が大と見ているが、
その前兆の波か、それとも思い過しなのか? 景気は一段と悪化の道を
たどっているようだ。
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3809, つれづれに
2011年08月30日(火)
 ▼ 収まる所に収まった民主党党首
最後の最後まで、誰が民主党党首に選出されるのか分からないギリギリの選挙。
しかし、海江田と野田の二人の決戦となれば、どちらが相応しいかはTV画面が
正直に語っている。しかし小沢一郎と鳩山が後盾の海江田が勝つのではと予測
されたが、党員も、その歴然とした差に、野田に雪崩をうっていったようだ
(立候補者の一人が最後の最後に野田支持に回ったのが勝因ともいうが)。
その前にも、彼の立候補の政策を聞いたが、至極自然なもので、他が悪すぎた
こともあり、一人光っていた。 
【 二年前に政権についたが、国民からは期待はずれの結果しか出せなかった。
次の選挙まで残された期間は二年。それまでに捨て身で、この国難とマニフェスト
を達成しなくてはならない。大震災の国難を乗り切るためには、 野党との
大連合を考え、かつ党内融和も必要。また赤字の国家財政と、大震災を乗り切る
ためには増税もやむをえない】 
 この当たり前のことを当たり前に述べているに過ぎないが、現在の与野党も
含めて、これをいうと世論受けしないとか何とかのジレンマに陥っていた。 
小泉も含めて、この数代の首相の中で、一番真っ当であってほしいものである。 
菅首相の直後では、やりやすいだろうが、この日本の政治と経済の惨状下では、
それもどうか?まさか、海江田とか、あれ、ではね。これで当分は、少しは
政治不信は小さくなるだろうが(いつも最初は期待感でそうだが)・・ 
 この国の体質は、この20年で、あまりに劣化した。
  ▼ あれから5ヶ月
 あれから5ヶ月になる。 事業期間三十年のうち、初めの10年が登り。
次の10年間はバブル崩壊の日本経済の混乱の最中、逆に積極策に出て客室を
増やした(これが、今回の倒産の間接原因になる)。最後の10年の始まりが
9・11で、二度の中越大地震、三年前のリーマンショックの直撃、とどめが
半年前の東北大地震。その中で一番の打撃が、リーマンショック。
この影響は、まだまだ序盤で本格的津波=大恐慌は、この秋口からアメリカから
世界、そして日本に吹き荒れること必定。この二十年、日本の政治は混乱を極め
国家の態をなさないほど疲弊してした。それと比例して、この今回の倒産。
(字数制限のためカット 2015年8月30日)

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