堀井On-Line



5160,知の逆転 〜⑫

2015年05月01日(金)

         ー知の逆転ー  対談相手: ジェームズ・ワトソン
   * 人間は、ロジックより感情に支配される
 人間は考えることが重要である。ところが、人は考えずに、そのまま受け
入れてしまう。そして忙しくしていたいだけ。考えるためには知識と判断力
を身に付けなければならない。それらは個人の中で熟成するしかない。
  〜その辺りが説得力を持って語られている
≪・「より良く知っていれば、より良い決断を下せる」。あることを学ぶという
 ことは、ある別のことを捨てる可能性がある。とすると、何を学ぶことが一番
良いことか。これらの問いかけは、「あなたの文化とはいったい何か」という
問いに繋がります。宗教社会では、聖書だけで十分だということになるが、
新約聖書の多くの部分はパウロによって作られた完全なるおとぎ話ということを
我々は既に知っているにかかわらずです。一般の人も、それを知る必要がある。
それは当然のことだが、でも、人は以前教えられたことを、教えたがるもの。
・ほとんどの人は単に物事を「受け入れ」てしまう。「これが小学校で教える
事柄である」と言っておしまい。常に、「これが最良の方法だろうか」と、
問いかける必要がある。考えることが重要なのです。この能力は記憶を主体
とする教育からは生まれない。
・多くの人はただ「忙しくしていたい」だけ。・・(略)
ある時点で、いまやっている実験は果たして思考を変えることが出来るのか、
と問う必要がある。解きたいと思っている問題の解決になるのかと。
単にできるという理由だけでこれをやっているのであって、それが決定的な
結果をもたらすものではないのではないかと。・・(略)
私が成功したのは、よく考え、よく読み、よく知っていたからだと思います。
ビジネスでも同じことが言えるでしょう。他の人が知らないことを知っていて、
それがいいとわかっているので、利益に繋がる。私の大学院でのモットーは、
「知識と判断をもって勝つ」でした。
・革新的なアイディアは押しなべて個人から出てくる。個人を大事にされる
組織や社会でないと発展は望めない。個人の違いを認め合おうと。そして、
何をするにしても、知識や知性よりも情熱が大事。そして、16歳位までに
人生の方向は大方わかっているはずと。≫
▼ 確かに、多くの人は考えないで、ただ忙しくしているだけ。よく考え、
 よく読み、よく知っていることの重要性は、成るほど実感すること。
その結果、教養がつくのである。考えずに現象を、そのまま受け入れている
人たちの薄っぺらさが、何よりも、その恐ろしさを示している。
・・・・・・
4795,「消費される物語」 ー4
2014年05月01日(木)
             朝日新聞(4月22日) 耕論「消費される物語」
  * 二つの大震災は「自然と文明」の大きな物語に開かれる機会だった!
 人生のテーマは、「創業と事業を遊ぶ」だったが、それもブラック・スワン
(思いもよらない震災クラスの事象)の何羽かの出現で終りを遂げたが、結果に
対して挫折感は殆どない。むしろ、自分の手で息の根を止めることが出来て、
良かったと手前勝手に思っている。で、これも、物語。物語とは手前勝手の
筋書きでしかない。無事にリタイアをして、事業を次に送ったとしたら、
閉じられた一つの物語だが、私の結末は、破壊により開かれた物語になる。
ものは考えよう。しかし、物語には節操が必要である。 ーその辺りからー
《 ー忘れられる節操ー  将来への不安がのしかかってなかで、私たちは
 小さく閉じたきな物語の方向に開かれる身近な物語に癒やされているわけ。
最近は作曲家を話題にするときに、作品と関係のない事柄が全面に出てくる。
女性の研究者の話題でも、メディアは研究の内容関係ないファッションや趣味
などを大きく取り上げる。それが節操のないことだという了解がなくなっている。 
STAP細胞を発見したのが、30歳女性ではなく、さえない中年の男性ならこれほど
社会的な関心を持たれることはなかった。本筋と関係ない過剰物語がつくられる
ことで、スタップ細胞について、よりよく理解できたかというと、そうではない。
 物語は自ら完結する性質があります。つまり物語の外を遮断して閉じている
ということですが、この閉じた物語をあえて開いて、外にまなざしを向けるのが
人間の進歩というものだったと思います。けれども、物語を外に向けて開くこと
なく、心地よい物語を作っては消費して、飽きたら捨ててまた新しい物語を作る。
その繰り返しでは社会の進歩はありません。阪神と東日本の大震災は、
「喪失と癒やし」といった小さな物語として消費されてしまいがちですが、
本来「自然と文明」という大きな物語の方向に開かれるいい機会でした。
人間の文明など、自然の力で一瞬にして押し流されることがある。そう気づいた
以上、「私たちとは何者か」と語りなおすことによって、内向きの物語が外に
向かって開かれる可能性があったのですが。結局、「復興」という美名を冠した
あまたの物語にのみ込まれてしまっています。 私が小説家として目指している
のは「閉じない物語」。いろいろな人間、価値観が混じりあって混然一体となった
空間。いたるところに破れ目や出口がある。あえて完結はしない、
大団円やオチがない物語が理想ですね。》
▼ 地元の城下町・長岡に戻ってきたとき、「アッ危ない!」と思った。
『閉じられた孤島の世界があって、この価値体系に飲み込まれると自分の一生
が潰されてしまう。とにもかくにも、距離を置くこと。自分の世界をつくり、
第三者をいれないこと!』であった。こう割り切ると、これほど面白い世界は
ない。で、今回も、その距離のおかげで、比較的、冷静にいられる。
「目くそ、鼻くそを笑う」というが、そんなもの、「ドくそ、目くそ、鼻くそ
(を)、笑う」でしかない。逆に「ドくそ、目くそ、鼻くそに笑われる」と、
割り切ればよい。所詮は、共同幻想でしかないのだから。挫折を個人にとっての
大震災と喩えると、その人を取り囲んでいる地球の、そして身近な「自然と文明」
に、気づき、開かれる機会になる。この東北大震災も、リーマンショックも、
日本人に、いや、人類にとって、「文明の行方の方向性を、根本から考え直せ」
になる。私も、この結果を含めて人生の意味を考えると、森の生活から、
サバンナの生活に移行し、早く馴染め! ということか。 これからして、
{『東京オリンピック』は、明らかに愚行そのもの!}いや、{オリンピックは
文明の象徴、これで良い!}と意見が分かれるが、私は、せっかくの再生の
チャンスを潰す象徴!の方が、正しいと思うが・・
・・・・・・
4428, 前期高齢者になって、気づいたこと!
2013年05月01日(水)
  * 老人教育の必要性
 前期高齢者になって丸二年になる。丁度、会社も無くなり、年金暮らしに入り、
丸裸の自分に直面、そこで改めて自分の年齢に驚いている。まず気持ちが年齢に
ついていけない。まだ50歳半ばというところ。数年前に親戚の法事に出たが、
宴席で80歳位の人の愚痴が始まった。「後期高齢者という命名が人を馬鹿にした
ようで気に入らない」「免許書換えで、返納を考えるように暗にいわれた」とか。
そこで、年寄りの愚痴ほど周囲を不愉快にすることを教わった。私の両親の愚痴を
殆ど聞いたことはない。 肉体の衰えが精神に転化し顕れるのが愚痴。
スポーツジムに毎日通って腰痛は軽くなったが、何かしらイライラする頻度が
多くなった。さしあたった心配事がないこともある。「前期高齢者」
「後期高齢者」という命名は確かに失敗。例えば前期を「グリーン高齢者」、
後期を「プラチナ高齢者」ぐらいにする心遣いも必要である。歳を重ねるたび
身体は重く、気持ちは暗くなり、身内や身辺の悪口、あら探しの度合いが強く
なるのが老化のようだ。 他人をみると分かるが、自分になると自覚できない。
それもあるから年寄りは意識して明るくなければならない。それと自立が出来て
なかった人ほど老人の甘えが強い。 政府が音頭をとって、地域自治体に
「お年寄りの心得」とかいうセミナーの聴講を義務づければよい。 私など
最も手のつけられない偏屈老人になりそうだが・・ 日本は世界の名だたる
長寿国になったが、それに備える知識教育はされてない。 その以前に、自立と
教養の問題に行き着く。御隠居学とか、余生の過ごし方のようなノウハウ本には、
長年かけた準備が必要とあるが、今日明日、そう簡単に良い老人への変身など
土台無理の話。そこで、せめて「明るく自立した生き方を目指すべき。
老人になると、人生で培ってきた要素の格差が大きく出てくる。老いていく
自分を自虐的に鳥瞰するのも面白いもの!
  ー たまたまだが、以下の内容が、丁度つながる。
・・・・・・
4054, 吹き来る風が私に云う
2012年05月01日(火)
  ー 帰郷 ー   中原中也
柱も庭も乾いてゐる 今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が 心細さうに揺れてゐる

山では枯木も息を吐く あゝ今日は好い天気だ
路傍の草陰が あどけない愁しみをする

これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと 年増婦の低い声もする

あゝ おまえはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に云う
  ーー
 この最後の二行が、現在の自分の心?でもある。 
自分だけでない、晩年の人間から湧き出る言葉。
「あゝ、おまえは何をしてきたのだと・・・吹き来る風が云う」 
ったく!お前という奴は!と、まともに人生を生きてくれば、
この言葉が出るのが自然。 秘境ツアーで、平々凡々に生きてきた人が
病気で突然、死に直面し慌てて人生の余白を埋めに来た人に出会ったこと。 
死線を彷徨った手術の後、壮大な景色に感動して夫婦して肩を抱き合い
泣いている姿も見た。ネパールで遠景のヒマラヤ連峰が一望できる丘だった。 
パタゴニアでは初老の婦人が何気なく、「親のいう通り生きてきたが、
ハッと気づくと、先が無い。私の人生で何もしてこなかった。このままでは
死にきれない。この旅行で、その穴埋めにきた」と、道すがら語りかけてきた。
「・・吹き来る風が云う」声で追われるように旅立ってきて、そこで何を
感じたのだろう。実は、この矛盾こそ実在。 生きてきた証である。 
エッ 証文が束になっている? 誰? ただ飄々と風がふく。
 ・・・・・・・・
3688, 自己を見つめる −11
2011年05月01日(日)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  愛の不在の人=肉親の愛情に恵まれなかった人を見抜くことは難しい。
 両親の仲が悪い子供には往々に多いが。愛の不在の人は普段は分からないが、
節目時に、それが表面化する。 人への憎悪と呪いが、そこで爆発する。
これは誰々という訳でなく、全ての人の心の奥に巣くっている。 節目時は、
傷ついている場合が多い。そのマイナーのエネルギーをプラスに転換するには、
そのまま流される数倍のエネルギーを要する。しかし流される人は意志が弱い
ため、そのエネルギーが空回りをしてしまう。そして自爆になっていく。 
  以下の箇所も、充分、肯ける部分である。
  ー愛の不在ー
【 小さいときから、肉親の愛情に恵まれず、誰からも優しい扱いを少しも
受けなかった人があったとすれば、多分その人は、心の奥底に深い傷を抱いて、
その後ずっと人生を恨みとおし、表面は穏かであっても、おそらく心の底では、
一生を通じてずっと、他者に対して暖かい心をもつことができず、絶対に他人を
許そうとはしないであろう。 小さい頃に親の愛情に恵まれなかった人、また、
周囲の人たちから嫌われ、いじめられ、除け者にされたと思っている人、さらに、
長じてからも憂き世の労苦と意地悪な世間にもみくちゃにされて、何の優しい
愛の絆をも構築することができなかった人、そうした人は、その原因が何であれ、
その隠された心のなかで、人生を憎悪し、呪うことになるであろう。そうした
人は、自虐や他虐のふるまい方をする以外に、人生への仕方をすることができ
なくなるであろう。 そのすさんだ心には、辛い人生に復讐する怨恨構の爆発
だけが、この世の慰めとなるであろう。 これは、ひとごとではない人生の
最重要問題である。 こういう否定的な感情は多れ少なかれ、誰のうちにも
巣くっている心の病だからである。なぜなら人間は、どこにおいても、厳しい
人間関係のなかに置かれ、大なり小なり、この世の荒波にもまれ傷つ経験を
免れがたいからである。】
▼ 無条件に親の愛をうけた人は、それが温もりとして性格を形成する。 
 逆の人は否定的感情に支配され、深く自分を傷つける。それは誰も持って
いるが人により強弱がある。 普通の流れでは、それは出てこないが、
節目時に暴風となる。それも家族全体が。
 ・・・・・・・
3323, 「なぜ・なぜならば」の極限としての自由
2010年05月01日(土)
 『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』石川文康著−3
「理性の極限として自由に行き着く」とは、驚きだが納得できる。 
そしてカントも自由が「創造的能力」と看破。自由は第一原因であることから、
当然の帰結である。  自分の真にしたいことを人生を通して貫き、創造性を
発揮することが自由であり、それが理念であり、そこに理性が働くことになる。
 *「なぜ・なぜならば」の極限としての自由  ーP・205 から
≪ 自由は第一原因である。原因は理由であり根拠であり、「なぜ」
「なぜならば」であったから、第一原因としての自由は、意外に思われるかも
しれないが、「なぜ」および「なぜならば」の極限である。日常のことばの
使用法からすれば、「なぜ」は単なる疑問詞であり、「なぜなら」も単なる
接続詞にすぎず、これらが自由とじかに結びつくことはない。
それを思えばよくよく意外な地点に到達したものである。しかし、
「なぜ」「なぜならば」「理由」「根拠」「原因」、そして「第一原因」と、
一連の鎖を極限までたどってくると、おのずと「自由」に逢着せざるを
えなかったのである。これらの鎖の項は、いずれも理性のメタモルフォーゼ
(変容・化体)である。理性は自由の最終的メタモルフォーゼである。
そして、自由はあの「なぜ存在するものがあって、むしろ無ではないのか」
というライプニッツ以来の問いに対する、考えられうる「なぜならば」
の中で究極のものである。 その意味で、先にアプリオリな判断が、
ライプニッツによる十分な理由の法則の成長形態であることを確認したが
自由はその成長の極致と言ってよい。われわれ独自の定式で言えば、
「なぜ『なぜ』なのか」という問いに対する究極の「なぜならば」でもある。
この背後に関しては、哲学はソクラテス以来の率直な「無知の知」をもって
答える以外にない。究極の「なぜならば」であるかぎり、そのさらに
「なぜ」は少なくとも理性にとっては無意味である。カント自身も、
「なぜ」自由が可能なのかは、答えることが出来ないとした。自由が「なぜ」
(理由=理性)の極限であれば、理性にとってそれ以上の「なぜ」は
あるはずがない。あえてその背後に踏み込もうとすると、理性の限界外に越権
を犯すことになり言葉が空転する。そこには、理性を満足させうる答えはない。
というのは、理性を満足させうるのは再び理性のみであり、理性の限界外には
「非理性」があるだけだからである。 ちょうど、鏡に万物が映し出されるが、
しかしその中には何も実在していないように。非理性によって満足するものが
あるとすれば、それはさしずめ「構想力」(イマージネーション)であろうが、
それを満足させることができるのも、やはり逞しい構想力であって理性ではない。
・・(略)たしかに自由は無からの創造に類似する。超時間から時間への作用
である自由は、どこか神による無からの創造を思わせる。カントも自由が
「創造的能力」であることを、はっきり認めていた。 しかし、理性的存在者と
しての人間は、その自由ゆえ自己の行為の創造者でありえても、世界の創造者
ではない。≫
〜「よく遊び、よく学び、よく遊ぶ」これが創造的能力を発揮する! 
この「よく」が理性? 親、社会の刷り込みからの自由?
・・・・・・・・・
2948, 報道されないニュース
2009年05月01日(金)  
 ネットで「商業販売、過去最大24.0%減に」をみて驚いた。 
大手の新聞記事を探したが見当たらない。報道管制をしているのである? 
メーカーが40〜50パーセント減、流通・サービスが30〜40パー減、
と言われているが、あまり表面だった報道はされていない。ところが、共同
通信社のHPに、この記事があった。スーパー、百貨店などが24パー減とは、
マスコミは間違っても報道はしないが、実際は、そんなところか?
日本は、とんでもない領域にあるということだ。 時間の経過と共に
ツルベオトシになっている。これに豚インフルエンザときたら、5〜6月は
大荒れになってしまう。即死の企業が多出するのは必然である。
*3月商業販売、過去最大24.0%減=卸の全業種マイナスに 
   4月28日11時1分 配信 時事通信
  経済産業省が28日発表した3月の商業販売統計によると、卸売りと小売りを
  合計した商業販売額は前年同月比24.0%減の45兆0650億円となり、4カ月
  連続で過去最大の減少幅を記録した。自動車や半導体の輸出が不振で、卸売
  業販売額が29.2%減の33兆3420億円と急減したことが響いた。  
  卸売りは全業種でマイナス。 
*2月商業販売、過去最大21.5%減=卸、小売りの全業種がマイナス 
  (2009/03/27-10:20)
  ≪字数制限のためカット 2011年5月1日≫
・・・・・・・・・・
2584, ただ、生命だけが‘びくびく’と生きている
2008年05月01日(木)
 ー「人生の答え」の出し方ー  柳田邦夫著 ー2
この本の「魂を揺さぶる言葉」という項目の中でー「いのちの初夜」北條民雄著ー
を取り上げていた。ハンセン病のために隔離され疎外され、23歳で夭折した小説家
・北条民雄の代表作「いのちの初夜」で、古株の患者が新入患者である主人公に
語る言葉の一部がある。 まず、その部分を書き写してみる。
 ーー
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち そのものなんです。
僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。 あの人たちの『人間』はもう
死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけが‘びくびく’と生きているのです。
 なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那(せつな)に、その人の人間
は亡びるのです。 死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。
そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。
けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、
全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復(かえ)るのです。
復活そう復活です。 びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。
新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。
死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それが
どこから来るか、考えてみてください。ひとたび死んだ過去の人間を捜し求めて
いるからではないでしょうか」・・?   「いのちの初夜」より
 ここからは、ー「人生の答えの出し方ーより??
(字数制限によりカット 2015年5月01日)


5159,閑話小題 〜夜の世界も世代交代に入った

2015年04月30日(木)

  * つれづれに 〜夜の世界も世代交代に入った
 一昨夜の飲み会の一軒目は、最近、長岡駅、新潟駅、そしてイオン長岡店に
できた、上越出身の寿司チェーンの長岡駅前店に入ってみた。明るい居酒屋の
雰囲気で、値段は中。ネタが良いのと、各テーブルにあるタブレットで、直接、
オーダーが出来ることが特徴。客単価は4〜5千円? 何とか残存している
老舗の寿司屋は脅威になる。一言で言えば、「寿司を売りにした居酒屋」。

 二軒目は、39年続いたカラオケスナックが、4月で廃業というので、
お別れの挨拶で行くことにした。80歳過ぎの大ママと、50代のチイママと、
スタッフ二人の比較的大きな店で、けっこう、繁盛していたが、今年が契約の
更新のタイミングに廃業を決めたという。しかし急遽、アルバイトの若い女性が
引き継いで、同じ店名で継続するとか。要するに代替わり。夜の巷も世代交代か。

 団塊の世代が、本格的にリタイアをし、年金生活に入いり、また、景気も
悪化が深刻化している現在、個人が体を張った飲食店は深刻な事態のようだ。
スナックが4〜5千円とすると、シネマなら4〜5回行けるし、スポーツジム
の平日会員は6千円。それからみると、居酒屋もスナックも高過ぎ。
滞在時間から値段をみると、スナック、居酒屋は一時間、2千円。
シネマは4〜5百円で3〜4分の1。刺激と面白さが3倍とすると、
10倍の価値の差になる。夜の商売の敵は、御多聞に漏れず、テレビや
ネット、シネマ館ではないか。時代は、何れの世界でも、大きく動いている。
・・・・・・
2014年04月30日(水)
4794,閑話小題 ーつれづれに〜4月29日
  * 4月29日の午後は、寝室でTV三昧
 4月29日の祝日は、毎年、全日本柔道選手権のTV観戦をしているが、昨日の
午後は、これに加えて、巨人・ヤクルト戦、サッカーの新潟アレビレックス戦、
映画のアーカイブを、寝室にこもり一人で同時に見ていた。どれもこれも面白く、
伯仲した思わぬ展開が続いていた。特に残念だったのが、巨・ヤ戦。九回の表、
エース菅野が完投勝利直前の三対一から、思いもよらぬ選手から逆転スリーラン
を打たれてしまった。このところ、負け続けのヤクルトが気の毒に思い、急遽、
ホームランを願ったところ、それが通じてか、逆転をして、会場は騒然。
ところが、その時、「逆転サヨナラホームラン」と、勘違いをしてしまい、
チャンネルを全日本柔道に変えてしまたが、そこでも熱戦が繰り広げられ、
決勝で21歳の無名の伏兵が、優勝候補を破って優勝をした。その思わぬ結果に、
本人は何と「優勝候補に自分の名前が一切、取上げられなかったのが悔しくて、
それを晴らそうと優勝を狙ったいた」と。「優勝など思っていませんでした」
と、答えると思っていたため、耳を疑ったが、本人には、「優勝できる手応えが
元もとあった」と、言いたかったようだ。アーカイブの映画も、いずれの試合も
面白かった。しかし、夕方のニュースで、巨人が9回裏に更に逆転サヨナラで
勝利したと知り、一番面白い場面の観戦が出来なかった勘違いに、我ながら
驚いた始末。 我ながら、平凡な、ありきたりの、軽い御隠居になったものだが、
それは、それで、気に入っている。見方によれば、TVで頭をやられたバカな
ヤツになる。 それでも、朝、4時に起きて、随想日記を書き上げ、信濃川の
大橋と土手を一周し、午前中は、読書とパソコンに向かった上だから、と自分
に言い聞かせているのだから、真面目というか、硬いというか・・
 で、今朝は小雨で、ポタリングは無理?かどうかと、空を見上げ、
ため息をついている。
・・・・・・
2013年04月30日(火)
4427, 閑話小題ー 「人生−仕事=?」の質問
  * 「人生−仕事=?」の質問
 「貴方の人生から仕事を差し引いた何が残る?」という問いかけ。 
さしずめ私は屁理屈と、秘境ツアーの思い出と、酒癖の悪さ、随想日記の辺り。
そして幾つかの建物。ところで人生の中で仕事はどれほど重要な位置を占める
のだろう? 知らない人に出会ったとき、まず知りたいのは職業で、趣味は後
になる。都会のセミナーや何かの同好会で、初対面の素性を知りたいとしたら、
まず職業と肩書きである。その後、学歴、出身地、趣味になっていく。
それだけ職業は大きな要素である。人生とは生まれて死ぬまでの生きた道筋。
そこで職業は生活をしていくベースで、まずは、その確保が必要になる。
とすると、「人生=仕事+?」になる。「?」を思いついた順に書いてみると、
金、教養、趣味、愛、夢、家族、仁、神、自分の世界、情熱、世間体、などが
出てくる。仕事の中に、それら集約されたものが含まれる。私の場合、挫折を
入れ、「人生ー仕事=挫折」とし、置き換えると「人生=仕事+挫折」。
人生から見れば「成功」と変わらない? 実際は上記の全て。
   * どうも人は、長期的思考が苦手のよう
 事業が長期的設備投資のため、常に長期的、中期的、短期的に分けて
考える習慣が身についているが、一般的には、長期的思考が苦手のようだ。
大家族の商家の末っ子で、姉兄が自分の3、5、7、9、12歳上のため、
自分の将来が垣間見れる位置にいた。商家は家庭が日常戦場の現場で、不安の
真只中に置かれていた。そして一年一年、家族が同時に歳を重ねながら変化して
いくのが刺激的であった。変化は残酷にも現状を破壊する。その中で、親の目が
届かないため、まず自分の身を守らなければならない。そうこうあり、全神経を
身近な周囲に向ける癖がついてしまった。特に商売の先行きが幼児ながら心配で、
時代の成り行きには敏感であった。それが、そのまま現在まで続いている。
では長期思考が得意かというと、そうでない。そうならば、この結末に至らない。
9・11テロの地方経済に及ぼす影響と、リーマンショックで、売上が三分の一まで
落ち込むとは想定外で、これである。過去10年の想定外の出来事を、これから10年
先に想定したら、誰もが竦むはず。楽観的だから人間は生きていけるが、対策は
とって置くべき。特に、このアベノミクスには注意すべき。この10年の延長上の
大地震の頻発と、火山の噴火、更なる経済変動(恐慌)、北朝鮮の暴発、国境紛争
を切欠とした戦争、などなど、いつ何が起きても不思議でない。大変動を冷静に
受け入れるしかないが、刺激的で、面白い時代でもある。
・・・・・・
2012年04月30日(月)
4053, 閑話小題
  * 自分の傷口の血で、他人の傷口の血を洗うな!
 その辺のシラミというより、人間というものは、他人の血の臭いを嗅ぎ付ける
と本能的に食いついてくる。自分の傷口の血を相手の傷口に擦りつけたくなるのは
本能のなせる業。結局、それは自分の傷を化膿させる。他人の不幸は密の味で、
シタリ顔をして評価が始まる。 その家系や過去の出来事をあたかも知り尽くした
気になり、人物鑑定から始まり最後は嘲笑で終わる。それが共同幻想化をしていき
化け物のように変異していく。しかし実際の化け物は、それをつくり上げている
シロアリ集団そのもの。地方に痴呆が多いのも変化が少ないため。如何に何も
しなかった、いや、出来なかった自分がマトモと言いたいのである。
逆に、それに縛られてしまっている自分たちの姿が見えなくなっている。
老齢化社会とは、こういうことだ。
  * 4月29日といえば
 例年楽しみにしている天皇賞と日本柔道選手権も、ダークホースが優勝をした。
それがGWの連休が始まりである。 梅も桜も散り、鯉のぼりの時節になる。
この数年来、信濃川沿岸近くの公園で鯉のぼりが多く上る。初夏の到来である。 
また季節の変わり目で、軽い腰痛が出るが、トレーニングの為か何とか軽く
収まっている。 積雪のため休んでいた早朝のミニサイクリングも、慣れてきた。
日本と世界経済も、何時、暴発するかどうかの緊迫の中、どうしてもマイナス
思考になりがち。しかし、情報化の御陰で面白いことに近づける。こういう時代、
「よく見れば、なずな花咲、垣根かな」で、身近な楽しみを味わうこと。
TVの昔のドラマの再放送も、ジックリ見るとけっこう面白いのが多い。だんだん、
この生活に慣れてくると、味わい深くなっていく。御隠居とは、よく言ったもの。 
・・・・・
2011年04月30日(土)
3687, 節目どきに ー11
  * 今年の桜
 今年の桜も、悠久山もほぼ散ってしまった。私の主観でいうと、「福島江の
桜は例年並み、悠久山は、数年に一度の咲き具合。」だったが、丁度みた時間帯
などにもよる。しかし去年の写真を見ると同じようなものだから、主観的な要素が
強いということか。大震災で花見という雰囲気ではない。ボンボリも殆どなく、
人影も普段の散歩程度しか見かけられなかった。やはり、何かが変ってしまった。
  * 居間を追われ
 数日前、家内に「居間を昼間、占拠されていると自分のいる場所がないので、
仏間の一角の書斎コーナーに行くように」と強く言われ憮然とした。が、考えて
みれば、その通り。そこで事務所から引き上げてきたパソコンの荷をほどき、
机に移動、ネットに結んだ。パソコンの設定が違っているため、SEをしている
知人にお願いをして苦労惨澹の末、結ぶことができた。そうなってしまうと、
そこが最適の居場所になり、家内からのシェルター?にもなっている。 
中古でも良いから以前より、ここにパソコンを、もう一台置いておけばという、
欲目が出てきている。 それにしてもパソコンの存在は大きい。
「酒に、タバコに、そしてiphne」と言われる位に、スマートフォンの
影響は大きいというが、納得できる。
  * 生活保護者受給者数が200万
 生活保護受給者が200万人となり、10年前に比べ8割も多くなって
いるという。さらに、この震災で大幅に増えるのは明らか。震災・原発事故の
問題で景気は一段と悪化、生活保護受給者が数十万は増加するのは必至。 
現在の生活保護費は3兆円を超えており、今後4兆円になっていくのだろうが、
予算の一割が生活保護費とは! この大震災の経済における影響は底しれぬ
影響を今後、もたらすことになる。それにしても、現在おかれている状況から
みる日本は、あまりに楽観的である。
・・・・・・・
2010年04月30日(金)   
 3322、iPadについて
 iPadについて、「ウェブ進化論」著者の梅田望夫が、どのように見ている
のか知りたかったが、4月26日(月曜の産経新聞・一面)のコラムで以下の
ような感想を述べていた。雑誌や、週刊誌の記者が実際に使ってみた感想と同じ
だが、同じことをいっても専門家の言うことは重みが違ってくる。 
私も使ってはいないが、ネットでデモの画面の内容をみて、「これは現在ある紙を
媒体とした情報手段を叩き壊すだけでなく、携帯電話や、iPodや、パソコンが
生活様式を変えたより、大きなインパクトを与える革命的な存在」の予感がした。
iPodやiPoneのソフトの下地にあるから相乗効果を出すはず。 
書籍だけでなく新聞を、これを媒体として、見るようになる。5年から7年で、
本や雑誌の出版が1〜2割まで落ち込む可能性があるという。
 ■ 全てを“本”にするiPad   梅田望夫 (産経新聞)■
4月3日、米アップルがタブレット型コンピューター「iPad」を発売した。
事前にネット注文していた私は3日は外出の予定を入れず、自宅でiPadの
配達を待った。そして、アップルストア開店から4時間遅れて中国からiPad
が届いた。iPadは電子書籍端末としての期待も大きい商品だが、使ってみて
私が直感したのは、これは創業者ジョブズが昔から作りたかった「理想のマルチ
メディア・コンピューター」の姿そのものだ、ということだった。アップルの
社名はもともとアップルコンピューターだった。しかし90年代に経営危機に
陥り、携帯音楽プレーヤー「iPod」の大ヒットなどで復活したあと、業態と
合わせるために社名からコンピューターがはずれた。しかしジョブズは執拗に
コンピューターを構想し続けていて、いまiPadという製品に結実させた。
使い始めてしばらくして私は、ぜんぜん想像していなかった不思議な感覚を
味わうことになった。「あれっ、本と雑誌と新聞とウェブサイトの区別が
つかなくなってきたぞ」と。昨年アマゾンが電子書籍端末「Kindle」を
世に出したとき、人々は「本がまるで本であるかのように読める」ことに驚いた。
しかしiPadは、本や雑誌といった出版商品だけでなく、ウェブコンテンツ
であれ書類であれ、何でも読めるコンピューター。しかも形状は電子書籍端末に
近く、カラー画面上に指を滑らせるだけで、ウェブコンテンツにつきものの
夾雑物をも取り除ける。その結果、利用者に「本以外のすべてのコンテンツを、
あたかも本を読んでいるかのように錯覚させてしまう」効果をもたらす。
「本がまるで本であるかのように読める」というのとは全く違うのである。 
本も雑誌も新聞も、紙と印刷技術を前提にしたパッケージ商品である。 
電子書籍とはこれまで、その「本という概念」を変えることなく電子化する
ことを意味していた。雑誌や新聞の電子化も右に同じ。Kindleはその
方向性に忠実な端末だ。しかしiPadの登場は、逆に「本と本以外のあらゆる
コンテンツの境界が揺らぐ感覚」を私たちに味わわせる。そしてその揺らいだ
ところに新しい技術が注入されれば、越境により新しいジャンルが創出できそうな
予感に満ちている。いまiPadにいちばん興奮しているのは、初期の利用者
以上に、世界中の開発者やクリエーターたちだと言っていいだろう。 
iPadとは、ジョブズが仕掛けた「メディア産業全体に創造的破壊をもたらす
時限爆弾」なのだ。iPadの米国での販売台数は発売から1週間で50万台
以上と、事前予測を超える大ヒットとなった。供給がまったく追い付かず、米国
でもなかなか手に入らない。日本を含む米国以外での発売時期は1カ月延期
されて5月末。
・・・・・
2009年04月30日(木)
2947,全日本柔道選手権  ー2009年
 毎年、全日本柔道選手権は(壮絶の試合になるので)必ず見ている。
そして毎年4月30日は(一昨年を除いて)前日の試合の感想を書いてきた。
それを読むと、それぞれの時代の有力選手の姿などが見えてくる。
今年は24歳の若手の穴井が優勝をしたが、決勝戦の棟田との試合は極限の中
での勝負であった。最後に若さの力を振り絞った穴井が逆転勝ちをしたが、
見ていて感動的だった。 去年までの数年間は、井上、鈴木、棟田、石井が
準々決勝の常連だったが、今年は井上と、石井が引退、鈴木も準々決勝で
敗退してしまった。 時代の変化が、そのまま現れていた。この試合は体重別
でないのが良いし、日本人柔道家にとって思い入れの深い選手権。次の主役が
穴井と準決勝まで勝ち進んだ高井が浮き上がった。 毎年のことだが死力を
尽くしきった試合は心を打つ。また、今年勝った、穴井が優勝をして男泣き
していた姿が何ともいえない純粋さが現われていた。石井が去年のオリンピック
の金メダルを取った後の引退騒動。彼に柔道そのものが汚されてしまった。
それが柔道界全体に後をひいたように感じたが。石井の醜態は、柔道そのものを
汚した反面、世界は柔道から「ジュウドウ」への流れを、石井は適応して
オリンピックで優勝をした実績は実績である。ところで毎年書き続けてきた
文章を一切に目にしないで見たままを書いているが、自分自身を試合を通して
合せ鏡をみているようで面白い。 大相撲もそうだが、一つのことを書き
続けることも、何か自分の心を見つめる良い機会になる。
 ー
この文章を書いた後で、これまでのものを読み返すと、「毎年書き続けた
文章を目にしないで書いている」など、同じ文言が書いてあったが、
決まった言葉を疑問を持たずに繰り返す自分の枠を見せつけらる。
・・・・・・・・
2008年04月30日(水)
2583, 全日本柔道選手権
毎年、この大会を楽しみにしている。特に、オリンピックの年のこの大会は、
異常な熱気に包まれる。日本の柔道家は、オリンピックより、この選手権に
勝つことを重要視している。今年も、準々決勝から放送されたが、どの試合も
熱気に満ちた劇的な試合が続いた。特に、準々決勝の棟田・生田戦と、井上
康生と高井戦が劇的な戦いであった。それまでの全てをかけた男同士の極限
の戦いということ。結果として石井と鈴木の三年連続決勝戦になった。
普通の人なら、この試合は凡試合で、後味の悪い幕切れと見るだろうが、
私は違う。 (以上、字数制限のためカット 2010年4月30日)
・・・・・・・・・
2007年04月30日(月)
2218, 団塊格差は、かくもついたり  (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァ♪    
              『団塊格差』三浦展著   ー読書日記ー
2005年12月に、この著者の『下流社会』について書いたことがあった。
今度は『団塊格差』という本が書店に並んでいた。丁度、団塊の世代が今年
から定年を向かえるのでタイミングがよい。これもまた買うほどでないので、
ネットで概要を調べてみた。時代背景が良かったので、格差がついたとしても、
それぞれの立場で納得しているところが、見かけられる。総中流時代の中で、
結果として格差がついても、時代の恩恵は受けていた年代である。歴史的に
みても、団塊の世代は日本の黄金時代の背景があった。格差がついたとしても、
それが如何した!でしかない。格差は、その子供たちに直接影響を受けるから、
問題は子供である。それが大きい!が、しかし、どれが如何した!と言えば、
それまでのこと。
 ーまずは、ネットで調べた内容からー
月刊誌『文藝春秋』との共同調査で、2000人の男女から得られた様々な
数字を基に、「団塊たち」の人生60年とこれからを考える
*貯蓄:   300万円未満ー29%、 2000万円以上ー19% 
*退職金:    なしー35%   2000万円以上ー28%
人生60年の棚卸しをしてみたら、実は団塊の世代にも大きな階層間格差が!
月刊『文藝春秋』との共同調査をもとに、所得、資産、仕事、結婚、定年、
子育ての視点から現状を分析。
・女性にはもてたい43%、・不倫したことがある28%なども含まれている。
『下流社会』の著者が、団塊世代の格差をとらえている。
 ー団塊格差ー
1.リッチ・シニア層
  退職金は2000万円以上、充分な年金、ある程度の資産を保有。
  職業を持つ場合、実業家であれ、再雇用で会社従業員になるにしろ、収入の
  ためより、社会貢献の一環として、好きで働く層。職業を卒業した場合は、
  ボランティア活動をしたり、趣味に生きたり、学問や研究をしたり、自分の
  好きなように、自由に、有意義にセカンド・ライフを送ることができる階層。
2.アクティブ・シニア層
  金銭的に不安があるため働かざるを得ないが、法制度の改正にうまく乗って、
  シニアになっても職業を得ている階層。例えば、労働基準法の改正による、
  会社の雇用延長制度や再雇用制度を上手に利用して就職できている人々。
  健康で元気なうちは良いが、病気やケガで働けなくなると心配。
3.ワーキングプア・シニア層
  金銭的に不安があるのに、アクティブ・シニア層のように収入を得る
  職業に就くことも難しい層。
 ▼ 調査が浮き彫りになった団塊世代こととは何か。著者があとがきに
  記している次の一文が、それを端的に表している。
  (字数制限のためカット 2011年4月30日)


5158,不幸不利の7つの法則 〜②

2015年04月29日(水)

 そこで、幸福優位の7つの法則の真逆の言葉を書いてみる
  〜不幸不利の7つの法則〜
法則1: 不幸感の強い人は、周囲に人に違和感と、悲哀感と、絶望感を与える
  2: 心のマイナスへのレバレッジ化が強くなり、ドブ沼にはまりこみ、
     その毒を周囲にマイナスを振りまく
  3: 何事にもマイナス要素に対し敏感になり、何事もマイナスに考え、
     粗探しを求めて彷徨う、あの人たち
  4: 下降の勢いを他人に向けて、結果として傷口の血を周囲に塗りつけ周る
  5: ゾロ・サークルの円が、日々、小さく、固くなり、自分の首を絞める
  6: 20秒ルールが、悪く働き、下降曲線が身につき、悪い習慣が増強される
  7: ソーシャルに毒を撒き続けることで、その毒が返り矢で降りかかる
 多くは、四苦八苦に打ちのめされ、「貧すれば鈍する」の負の連鎖で、恨みを
買う劣者のスパイラルに入っていく。「順境には枝を、逆境には根を張れ」の
とおり、ただ、ジッと下を向いていれば良いものを。傍からみれば、私の現状は、
まさに、上記の法則のように見えているのだろが、何とか『不幸不利の法則』の
スパイラルから逃れている。 子供の頃から現在に至るまで、様々な『不幸不利」
の事例を見てきたが、それはそれは残酷なもの。とにかく、不幸不利の状況に
立たないことだが。 備えを普段からつくり上げておくしかない。
とはいえ、全ての人には、死という挫折が待っている。死ぬまでは生きている
のだから、死を悟る瞬間までは、幸せに生きなくては! 
ところで、毎年、小、中、高、大学と同級会に出席しているが、上に進むにつれ、
不幸不利の人の割合が、少なくなる。 これだけは、仕方がないことだが。
 『泣いても、笑っても、同じ空!』である。
 〜参考〜 「幸福優位の7つの法則」
法則1 ハピネス・アドバンテージ〜幸福感は人間の脳と組織に競争優位をもたらす
法則2 心のレバレッジ化〜マインドセットを変えて仕事の成果を上げる
法則3 テトリス効果〜可能性を最大化するために脳を鍛える
法則4 再起力〜下降への勢いを利用して上昇に転じる
法則5 ゾロ・サークル〜小さなゴールに的を絞って少しずつ達成範囲を広げる
法則6 20秒ルール〜変化へバリアを最小化して悪い習慣をよい習慣に変える
法則7 ソーシャルへの投資〜周囲からの支えを唯一最高の資産とする
・・・・・・
4793,「消費される物語」 ー3
2014年04月29日(火)
           朝日新聞(4月22日) 耕論「消費される物語」
  * 自己完結せず外へまなざしを        作家・高村薫
 毎日、一文章を書き終える自己完結に精一杯で、内々に凝り固まっている
現状を批判するに、丁度良い内容のようだ。 それも、13年間にわたって、
束縛されてしまっている自分にである。 ーその辺りからー  
《 ■「我々の社会」という物語が揺らいでいるため、物語は過剰な作られ方
 をしているー人間の社会があるところには必ず物語が誕生します。原始時代
でも自分たちの集落とその外を分ける物語があったはず。日本で「古事記」や
「日本書紀」が編纂されたのも、律令国家が確立して自らの国史を欲したから。
つまり、物語は人間が生きていくうえで必要なものなのです。私たちの国、
私たちの王、家族、これらはすべて物語です。物語の特徴は、自分たちが見たい
もの、好ましいものを取り入れる一方で、見たくないもの、不都合なものは排除
することができるところにある。つまり虚構です。私たちは物語という虚構を
消費しながら生き、社会は虚構に支えられて維持されている。ですから、今日
さまざまな物語が次々と作られているのはそれほど不思議なことではありません。
 ただここへきて、その物語の作られ方が年々過剰になっているのは
「私たちの社会」という物語が揺らいでいるからです。例えはグローバル世界
では、人やモノの自由な往来が国境をなくしてゆくだろうと予想されていたのに、
実際には世界のあちこちで「私たちの国」という物語が不安定になって、その
穴埋めのために過剰な物語が生まれています。ナショナリズムの台頭もその一つ。
社会不安が増したり、経済状況が悪化したりして、人ぴとが自信や幸福感を
失うとアイデンティティーも揺らぎます。それを補うために、ことさら物語を
増幅させているのが今の世界です。これまでと大きく方向性の異なる安倍政権が
誕生したのは、新しい物語を語ってくれそうだという朋待が有権者にあるからで、
それが高い支持率の正体かもしれません。
 日本では、戦後続いた経済的な繁栄という物語が崩れた後、社会をまとめる
物語がなかなかできません。1990年代以降は、心の余裕がなくなつて、物語が
より内向きになっています。人は誰でも、より心地よい物語の方に惹かれます。
社会にはかって、本筋を外れてはならない暗黙の了解というか、節操があった
と思います。明るい未来が見えているときには、外に向かって積極的に開いて
いくことができたのですが、それが出来なくなってしまった。》
▼ 13年間で、5千近い文章、物語を書き続けてきたが、これが私を、更に
 内向けにしていた。これで、都合の良いように物語化して、都合の悪いことを
排除していたのである。混沌とするほど、それが大きくなっていくのを、冷笑
して、改めて読み返すのも、また、都合の良い物語である。小さく、小さく、
自己完結をしていただけだったのである。その知識を加えて、これからの文章を
書いていくしか、現在の私には術がないが。自己完結するから、次に進むことが
出来るともいえる。そういえば、単調な自己完結した日々を繰り返している
現状を、改めて考えてみようか? 読者の一部には、これが見えていたのだろう。 
今さら、自分は自分でしかない!と、思わなくては、ボキッと折れる。
・・・・・・
4426, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー9
2013年04月29日(月)
        「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著
  * 日本人は実は会社が大嫌い
 これまで年功序列と終身雇用の日本的システムこそが人々を幸福にすると
信じて疑わなかった。が、実はサラリーマンは昔から会社が大嫌いでガマン
して働いていただけ。それが出来たのは高度成長でパイが拡大していたため。 
バブル崩壊で景気が落ち込むと、日本的雇用制度が虚構の上で成り立っている
のが露呈してきた。 著者は、ここで、
《 大卒内定率が50%を下回るのも、3人に1人が非正規雇用になるのも、
 中高年のサラリーマンにうつ病が急増するのも、日本人がアメリカ人の2倍
(イギリス人の4倍)の割合で自殺するのも、すべて、機能不全を起こした
日本的システムから生じる同根の現象》という。誰が好きこのんで年功序列の
終身雇用のラインにいるのではない。それなりの理由があるため。
  ーその辺りを抜粋してみるー
≪ バブル最盛期の1980年代後半に行なわれた、仕事の満足度に関する
 日米比較調査がある。おそらくほとんどのひとは、日本と米国のデータが
すべて逆になっていると思うだろう。この調査結果は衝撃的で、私たちの「常識」
を根底から覆す。カリブォルニア大学と南カロライナ大学によるこの調査は、
日本の厚木と米中西部イソディアナポリス地区の製造業七業種の労働者それぞれ
4千人あまりを対象とした大規模なものだ。彼らは日本と米国の仕事観に際立った
違いを明らかにした。
* 結局のところ「いまの仕事にどれほど満足ですか」との質問に対し、
 満足との回答は米で34%、日本はその半分の17・8%。不満は米では
 わずか4・5%に対し、日本はその三倍の15・9%にのぼる。
*「あなにの友人にこの会社であなたのような仕事を希望したら、あなたは
 勧めますか」の質問には、米では63・4%が友人に勧めると答えたのに対し、
 日本はわずか18・5%だけだ。逆に勧めないと答えたのは、米が11・3、
 日本が27・6%だ。
*「いまあなたが知っていることを入職時に知っているとしてこの会社の
 いま一度、この仕事につきますか」の質問では、「もう一度やりたい」
 との回答は米ではじつに69・1%、日本は23・3%と三分の一にすぎない。
 二度とやりたくない」は米ではわずか8%、日本は39・6%と回答者の
 四割にものぼる。
*「いまの仕事は、入職時の希望と比較して合格点をつけますか」に対しては、
 合格点は米33・6%に対し日本はわずか5・2%にすぎない。否定にいたって
 は米の14・0%に対し、日本は62・5%と過半数を超える。もういちど
 繰り返すけれど、これは雇用崩壊が騒がれるようになった最近の調査結果
 ではない。80年代は日本企業が世界に君臨し"ジャパン・アズ、ナンバーワン"
 と呼ばれた時代であり、一方のアメリカでは、家族経営を信条としていたIBMや
 コダック、AT&Tなどの大企業が次々と大規模なリストラに追い込まれていた。
 それにもかかわらず、アメリカの労働者のほうが日本のサラリーマンよりも
 はるかに仕事に充実感を持ち、会社を愛し、貢献したいと思っていたのだ。≫
▼ アメリカの平均的家庭はプロテスタントで、働くことの価値の宗教的
 裏づけがある。日本にあるのは、儒教と朱子学の勤勉と、藩への滅私奉公の
意識ぐらい。それもアメリカの占領政策により、骨抜き。特に私は従属が大嫌い。
そのため会社に入らないで済ませるため、自分で会社を作る道を選んだ。
振り返ると、それが正解? 調査結果の内容は、国民の民度の問題でもある。
これでは経済の荒波が来れば、ヘチャルわけ。使われるのも大変だが、
使う方はモット大変。 * これらの質問の逆を考えて、何人肯定出来る? 
日本人と同じ比率? 肯定肯定、絶対肯定!と、感謝の言葉を繰り返す日々。
・・・・・・
4052, 閑話小題 
2012年04月29日(日)
   * ゴールデンウィーク
 ゴールデンウィークといっても、現在の私には関係ないし、敢えて人混み
の中に外出をすることもない。一般社会では、まとまった休暇は、この時期
しかないのが世の習い。大多数が行楽地に出かけたりするのを見ると、似た
ように動きたくなるのが人情。 ところで、現在通っているスポーツジムが、
この期間にオール・オープンのサービスを打ち出してきた。年中休みの私に
とって有難いことである。例年、ゴールデン・ウィークは昼か夜、隔日ごとに
外食するのが慣い。今年も何の予定も無し、サンデー毎日と同じ感覚である。 
5月の連休をゴールデンウィークとは、良い命名である。
  * 見切り千両
 撤収の決断のキーワードは、「見切り千両」である。 以前より節目では
「見切り千両」をキーワードにしてきた。見切りこそ生物的本能が生かされる。
攻撃の判断と、撤退の判断、この二つが決断の要。 そのためには経験と知識
の蓄積が必要。攻撃の決断より、撤退の決断は遥かに難しい。 
遅かったきらいもあるが、この時しかなかったのも事実。
  * 秘境の写真集とドキュメント
 趣味に、秘境・異郷の写真集とTVドキュメントを楽しむことがある。
(最近、秘・異郷ツアーに行ってないので写真で我慢もあるが)最近は、
もっぱらiPadで写真集にアクセスして見ている。 やはり一度、訪れた
ところが主になる。 一度行ったところは、それぞれの目線により対象が
違って見え新たな発見があり、その延長の旅を続けているような気持ちになる。
その点でiPadは便利。常に身近において置けるのでチョッとした豆時間
(隙間時間)に、開き見ることが出来る。質も大事だが、量をこなすことも必要。
多いほど、より対象により近づいていける。 現地で全身で情報を吸収すれば、
その後、情報は磁石のように吸い寄せられてくる。今ではネットから簡単に入手
出来る。 世界は面白いことで満ち溢れている。 やはり行動しなければ、
そして知識を満たさなければ!
 ・・・・・・・
3686, 自己を見つめる −10
2011年04月29日(金)
  * 孤独と愛について、    「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
【 ー孤独の深さー 二ーチェによれば、落ち着いた人間の心のうちには
 「深い泉」があって、そこに石が投げ込まれても、その底に達するには時間
がかかるという。そうした人は、端から見れば,反応の遅い、退屈な人と見える
のだが、そうした人こそは、外からの刺激を深く受け止めて、よく考える人
なのである。 そうした人は、孤独のなかで熟慮する。
 西田幾多郎は、かつて、こう歌った。
ー わが心 深き底あり 喜も憂の波も とどかじと思ふ ーと。 
心の深い奥底は、そこに、すべての知情意の作用も、憂き世のあらゆる出来事も、
みんな呑み込まれて、沈殿してゆき、いわば底知れぬ深淵のまま、自己を支える
存在の根底としてどよめいている生命の大海、ないしはその尽きることのない
源泉なのである。その心の奥底を孤独のなかで見つめつつ、自己を照らす
根源的なものと面座する自己意識の極限こそは、 自己の知を越えて、自己の
存在そのものと融け合うであろう。】
【 ひたすら、いのちを慈しみ、優しく幼子をかき抱き、愛情の限りを尽くして、
子らのために献身する母性というものの記憶が、 人間における愛の心の象徴的
原点を形成することは否定できないように思われる。なぜなら、そうしたものが
あったからこそ、人類はこれまで、そのいのちの営為を継続して、存続することが
できたからである。おそらく、愛の根源は、象徴的には、そうした母性を介して
人間に植えつけられるところの、無償の贈与、そのひたすらな献身のうちにある
であろう。いのちあるものに恵みを与え、それを慈しみ、見守り、育て、その
無垢の胎動を大切にし、その侵すことのできない尊厳を守護しようとする、
いのちへの優しい気遣い、その存在の絶対的肯定、それが愛であると言ってよい。
 そうしたいのちの見守りの働きが、さらに拡大されて生きとし生けるすべての
ものに及ぼされて、あらゆるものをその存在意義において許し、承認し、助け、
生かし、守護し、見守り、育て、養い、その存在の至福を祈念する働きのすべてが、
 愛という語によって含意されることになろう。そこに、万物を生かすところの
神の愛といった観念も成り立つ。もちろん、そうした愛に、さらに厳しさも
加えられてこそ、万物の生成が初めて可能になるという観念も、やがて成立する。
シェリングの世界観などはその典型である。】
▼ 孤独と、そこに潜む愛の問題は人間の本質に根ざしている。 
「母の愛を介して人間に植えつけられる無償の贈与は、その献身の中にあり、
それが心底で象徴的原点を形成する」ことは、誰もが体験的に知っている。
その量と質が、人間性を決めてしまう。特に幼児期の両親の絶対愛が、人生の
原点になる。絶対量の少ない人は多い人の温みの起因を知ることがない。
 ・・・・・・・
3321, 「知の衰退」からいかに脱出するか?  −1
2010年04月29日(木)
 ー「『知の衰退』からいかに脱出するか? 」 ー大前研一 (著)
大前研一は、図書館や書店で手に何度か手に取るが、何か読む気がしなかった。
しかし現在の日本の行き詰まりなどをみるにつけ、「日本が変、それも異常な
ほど変である!」と思っていた矢先に、グローバルの世界の中で「茹で蛙の日本」
を徹底的に非難している内容をみて、読んでみることにした。保守的な人から
みたら、眼を剥いて怒るような内容が次から次へと出てくるが、現実に中国や
韓国の若者たちは、眼を輝かせて必死に勉強している割合が日本の若者に比べて
圧倒的に多い現実がある。 高度成長期の時代なら、解るが、低成長の時代に
生まれ育ちデジタルの時代の中で、情報だけは豊富にあり、偏差値でランク付け
を子どもの頃からされた若者の立場もわからないでもない。しかし、だから
ダメと諦めてかかっては、どうもこうもならない。これからのビジネスマンに
必要な三種の神器は、「IT」「英語」「ファイナンス」というのも、初めは?
と思ったが、21世紀には、当たり前といえば当たり前のこと。特に、
ファイナンスを挙げているのは良い。最後は、この辺である。日本の若者の相手
はネットの先の、世界の高IQ化した若者である。だから、日本の低IQ化した
相手を無視して、自分の得意とする分野でユニークなスキルを磨くことを勧める
ことこそ、若者の道筋である。「現在の日本の低IQ社会の一員になっては
ならない」ということ。 だから、私の知人の子弟が数人、高校から外国に留学
をさせているのをみかける。「寂しくないか?」と聞くと、毎日ネット電話で
顔を見て話しているので、全く感じないという返事。 それと、外国に行って
いると金銭感覚が、鋭くなるという。そうこう考えると、著者のいう三種の神器
を身に付けさせるために行かせているようだ。
・・・・・・・・
2946,タレント知事をどうみるか? ー2
2009年04月29日(水)
  佐高信は、タレント知事を完全に否定している。 
ー反対する理由はー
「タレント、つまり人気商売は常に多数に寄っていく宿命だ。だから知事に
 一番向かないのではないか。多数の人気に自分を預けていて、自分の意見が
 ありそうで、ない。例えば、東国原知事の国政への転出騒ぎがその象徴だ。
『みなさんが許すなら』という言い方だった。 自分に信念があって不人気
 でもやるということではなく、人気に寄りかかっている。橋下知事も反発を
受けることを断行しているように見えるが、常に多数に乗っかっている。
 政治家や行政マンに必要な信念があるようで、実はない」
ー知事に必要な条件とは何かー
「弱者の痛みが分かること。過疎を切り捨てない人。この逆をやった政治家が
 小泉純一郎氏だ。全体的に政治家の『小泉純一郎化』が進んでいる。タレント
 知事も同じ人気者路線に乗っかっている。喝采(かっさい)を浴びた小泉氏
 のまねをして県民に受けている。 政治や行政の本来の使命である『公共』
 という概念が忘れられるというか“殺される”と思う」 タレント知事は
 人気を利用した発言力が役立ってはいないかーPR係として雇えばいいだけー  

・・・・・・・・・
2582, 柳田邦夫の2.5人称の視点
 2008年04月29日(火)
 ー「人生の答え」の出し方ー柳田邦夫著 ー1
柳田邦夫著ー「人生の答え」の出し方ーに「2・5人称の視点」という言葉
があった。その意味を噛締めてみると、成程と合点がゆく良い言葉である。
学生時代のゼミで、色いろな人間関係の実例を取り上げ、それぞれ原因を探り、
解決策を討論する事例研究を一年にわたり徹底的に鍛えられたことがあった。
この本を読みながら気がついたことがある。それは事例研究から学んだことは、
一人称、二人称、三人称、そして一・五人称、二・五人称の視点の訓練を
させられたこと。 ーその二・五人称とは何か?を大筋書いてみる
一人称は、自分、 
二人称は、あなた、家族など身近な人、
三人称は、専門家、役人、ジャーナリスト等、客観的に。他人事とみる視点。
三人称は「事態を客観的に見る良さがあるが、悩んでいる、落ち込んでいる
     一人称、二人称からは冷たく見えてしまう」
  (以下、字数の関係でカット2015年4月29日)


5157,不幸不利の7つの法則 〜①

2015年04月28日(火)

 去年の暮れ、幸福優位についての以下の書籍の批評文を書いた。
そこで、真逆の『不幸不利性の法則』のテーマを思いついた。あらためて、
幸・不幸を考えるに手軽である。ひとつ歯車が狂えば他人事の話でない。
≪2014/12/02 〜幸福優位7つの法則 −2
 【幸福優位7つの法則ー幸福と成功の意外な関係】ショーン・エイカー著
   * 幸福の概念と、幸せな人
 それぞれの内容一つ一つに含蓄があり、納得させられる。その法則とは・・ 
法則1 ハピネス・アドバンテージ〜幸福感は人間の脳と組織に競争優位をもたらす
法則2 心のレバレッジ化〜マインドセットを変えて仕事の成果を上げる
法則3 テトリス効果〜可能性を最大化するために脳を鍛える
法則4 再起力〜下降への勢いを利用して上昇に転じる
法則5 ゾロ・サークル〜小さなゴールに的を絞って少しずつ達成範囲を広げる
法則6 20秒ルール〜変化へバリアを最小化して悪い習慣をよい習慣に変える
法則7 ソーシャルへの投資〜周囲からの支えを唯一最高の資産とする
  ー以上だが、再起力、20秒ルールには特に新鮮な驚きを感じる。】
▼ 幸福度からみた、下位の二割の人たちのところに八割の不幸が集まり、
 上位二割の人たちのところに、八割の幸福が集まる傾向にある。幸福感も
長期スパンでつくることが可能。人間である限り、孝不幸はついてまわる。
特に不幸?の四苦八苦は、避けることが出来ないが、その三倍の幸福状態を、
中長期の習慣化で身につけることは可能である。第二の天性といわれる習慣を
身に付け、幸福状況を三倍にすればよい。周囲には実に不幸の人が多くいるが、
彼らは、上記の幸福優位の法則の真逆をしているため。  〜つづく
・・・・・・
4792,「消費される物語」 ー2
2014年04月28日(月)
           ー耕論「消費される物語」朝日新聞(4月22日)
  *「消費される物語」 〜希薄化する挫折      
 物語といえば、劇場で演じられ、それぞれの役割がある。その物語が、
右下がりで、大した意味のない役割としたら、生きている張り合いがない。
そこには、夢も挫折もない、節のない竹のようなもの。挫折には価値がある
のである。今回の節目で、気づいたことが、これ! その挫折さえ持てないと
したら・・ 挫折感は、人を絶望に到達させる。その虚無を背景に、人生が
新たな出発点になる。その以前に夢が持てないとなると、どうするのだろう。
  ーその辺りから
《 ◆ 希薄化する挫折
 一方、現代を生きる人々にとって、恋愛はもはや、それほど非日常的な
体験ではないし、社会への高い理想を持つこともない。欲望が「恋愛」や
「理想」という形で結晶化しないため、我々の世代では当たり前だった
「若い時に挫折し、自らの欲望をかみ殺す」という重大な経験が起こりにくく
なっている。 挫折が希薄化したことで、多くの人々が「いつかはみんなから
認められる」「夢はかなう」というナイーブなロマンチシズムを、年齢を
重ねても引きずり続けているのではないか。 あくまでも仮説ですが、
佐村河内さんや小保方さんの成功物語が大きな支持を集めたのも、そうした
ことが影響しているのかもしれません。「夢はかなうかも」と思い続けたい
上に、うさんくさそうな話を疑うリアリズムを身につけていない。
だから物語をあっさりと信じてしまい、裏切られると本気で憤る。私自身は
この仮説を「真実だ」と結論づけるだけの証拠は持っていませんが、貴重な
示唆を与えてくれると思います。 いずれにせよ、挫折がない、それゆえに
自らの欲望と現実社会の折り合いをどうつけるかという筋道がはっきりしない
という問題は、現代に固有の危機だと思います。それぞれの時代で、常に
本質的な危機がある。若い世代が中心になってその筋道をつかみ、しっかりと
表現することが、文化の大きな役割だと考えています。》
▼ 私たちの高度成長期の頃の「夢はかなう」は、当然のことであった。
 しかし、国家が衰退し始めた現在、大多数の者にとって夢の実現が考え
られなくなった反面、挫折も希薄になっている。 小保方氏や、佐村河内氏の
成功物語の崩壊も、また新たなる物語になる。私たちは、高度成長の経験と、
バブルの破裂、右下がりの経験をしてきたが、団塊世代の子息以下の世代は、
高度成長やバブルを知らない。だから、夢も挫折も、おのずから小さくなる。
また、物語もミニになる。青年期から成年期の間には、夢と挫折が、大きは
節目をつくる。 それが希薄化するのだから、気の毒といえば気の毒。
 私の事業の最後は、倒産という挫折?で終わったが、傷は少ない。準備期間
15年を含めた45年の物語が、行蔵として、心の底に残っているため、諦めと
同時に達成感がある。だから、毎日を、淡々と過ごすことが出来ている。
実際のところ、「希望が持てないほど辛いことはない」のだろう。現代の若者
は、その意味で、非常に辛いのである。で、仲間内の闘いの中で、相手を倒し、
馬乗りになることで満足をするしかない、きめ細かい差別化の時代の到来!
・・・・・・
4425, 閑話小題 ー今時のプレハブ住宅は二ヶ月で建つ
2013年04月28日(日)
   * 今時のプレハブ住宅は二ヶ月で建つ
 5年程前に裏隣の古い貸家が壊され二軒の住宅が建った。そして三軒目の
プレハブの着工が、この4月10日に始まった。その知らせに、完成が二ヶ月
後のの6月10日とあった。以前は、住宅は最短で半年から一年だったが、
今時のプレハブは工期が二ヶ月とは驚き。 まず基礎工事に二週間。次に外壁
工事で、周囲に足場をつくり、柱を建てていく。この連休が終わるころまでに
外壁まで完成し、内装に一ヶ月かけて完成のようだ。 最初の二軒は貸家で、
その借り手は両方とも既に居なくなり、一軒は空いたまま。表通りの方は
小さな小物雑貨店だったが、夜逃げ。その後、ファッション衣料店だが、私の
感覚では、この入り込んだ立地で商売が成り立つのかさっぱり分からない。
で、三軒目の住宅の着工。子供の頃近くに建前があると父に手を繋がれ見に
行ったもの。それより、2〜3歳にかけて実家の店兼住宅のビル建設の最中に
あった。住んでいる家を近くにあった300m先の公会堂の前に曳いていき、
空いたところにビルを建設をしたが、幼児ながら、毎日、父と建設現場に
行ったときのトキメキが、今でも忘れられない。その幼児体験が、ビル建設
マニアになったのだろう。 新築は夢があってよい。
  * 目的に合わせて人集めをするのではなく
 もう十数年経つが、ドキッとした言葉があった。《起業では、何かを
しようと適材を集めるのでなくて、優秀な人材を確保してから、何をするか、
どうするかを考えるべし》 まず有志が集まって、何の事業を始めるところから
考えるのが理想なのだろうが。 創業というと、一人の強力な個性が必要になる。 
黒澤監督の「7人の侍」は、盗賊から村を守るため、かき集められた浪人が、
圧倒的多数の盗賊と闘う。これは目的に合わせた人集めの典型。このことは、
教養についてもいえる。何かのために知識を得るのではなく、知識のための
知識のベースが、まず必要。それが教養である。大学も4年のうちの二年間が
一般教養、あとの二年間が専門課程になっている。人生を振り返ると、本当に
必要な知識は、哲学、文学、倫理とか、経済の基礎知識であった。教養課程は、
その導入知識を広く教えてくれる。大都会と地方の差は、そういう人材が
身近にいるか、いないか。40数年の独学では限界があった。 
「限界は誰でも到達するが、問題は、その先!」の意味を実感する日々。
・・・・・・
4051, シングルイン、31年間の総括 ー10
2012年04月28日(土)
   * つれづれに ー あれから一年
 去年の3月30日17時に会社を閉鎖して一年余りになる。激しく落ち込むと
覚悟はしていたが、思いのほか平静の日々を過ごすせた。会社経営から開放され
現在でも宙に浮いたようで、長年、重荷を背負っていたことに改めて気づいた
次第。日が経つにつれて、前倒しの決断をして本当に良かったと実感している。 
しかし世界も日本も国債と株価も何とか持ち堪えている。 早ければ、去年の
11月、遅くとも今年末と思っていた 辛うじて4月末現在、何とか維持し現在
に至っている。 世界の銀行と政府、企業の金庫の中に六千兆円の十倍の6京円
の不良債権が塩漬けになっている。何時、それが表面化するか時間の問題。
 一番早く表面化しそうなのが欧州だが、日本も、中国も、何が起こっても
不思議でない。日本は福島原発事故も解決したわけでなし、かつ原子炉54基
すべてが、止まったままである。更に政変含みの状態。 年末の米国と韓国の
大統領選挙まで持ちこたえるのか。会社名義のホテルと駐車場抵当物件の処分が
終わり、個人住宅も家内が買い取って全て終了した。ホテルも今までのホテル名で
再稼働を始めたという。有難いことである。 普段の生活が、もう少し手持ち
無沙汰で暇を持て余すと思いきや、全く、それはない。反面、倒産は倒産、
犯罪者に近い目で蔑視される事実に驚いた。一般債権は、ほぼゼロ。社員への
退職金の満額支払いは出来なかったが、国の一部たて替えを含めると平均八割
近く支払ったが、残債は残った。 一般債務分で補填すべきだったか? 
30年間、経理事務所の担当が言うには、「本当にキツイのはこれから」という。 
その意味が、まだ分からないが、差別?蔑視からくる世間様の何なのだろうが・・ 
今のところ「シラミ!」の10回の呪文で、気持ちの処理が可能。 自分を含め
シラミはシラミ。 スポーツジムと、iPad、シネマ通いと、図書館の御蔭で
何とか精神を保っている。好きなことだけが出来るからである。アウトサイダー
に徹してきたのも、結果として良かった。小さな襞(地域)の中で、煩わしい
因縁社会に組み込まれない生き方が、ここにくると楽。一歩、年金生活に入ると
景気とか社会に対する温感が鈍くなる。景気は最悪の筈だが、悲鳴が聞こえない。
・・・・・・
3685、 自己を見つめる −9
2011年04月28日(木)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 孤独については、これまで何度も書いてきた。結局、人間は独りでは
生きられないのである。しかし孤独は、世間とかいうのがある限り必要である。
私の出身校の「長岡高校」の校是が「和同」の精神である。 和して同ぜず。 
和せ、同じになるな!である。これは、それぞれが孤独を守る中から生じる。
ここで孤独について、ニーチェの体験を指摘している。 孤独の素晴らしさを
「私の故郷」の良さに譬えているのは言いえて妙。
  ーまずは、その部分をー
【 ー孤独の大切さー ニーチェはかつて、孤独を「私の故郷」と呼んで、
 その至福にみちた優しさを讃えた。孤独が終わるところ、そこに「市場」
が始まり、世間の大人物や大俳優たちの騒々しさが耳を圧し、毒をもった
蝿たちのうなりが聞こえ、小人物たちの刺が私たちを突き刺す。そうした
騒がしい市場を離れ、海辺に出て、高い品位をもって沈黙し、岩陰にそびえ
立つ大きな樹木を見よう、とニーチェは誘う。その樹木のように、静かに耳を
澄ましながら、存在の声を聞こう、とニーチェは促す。そのとき、ニーチェは、
「孤独」の素晴らしさを、「私の故郷」と呼んで、その声が、なんと優しく、
また至福にみちて、自分に語りかけてくるか、ということを打ち明ける。
ニーチェは、そのとき、あらゆる「存在」が、「言葉」となって自分に開かれ
てくると言い、存在の内奥の秘密を宿した言葉の小箱が、一気に開かれ、
ありとあらゆる生々流転が、その秘儀を語り始めようととするかのようだ。 
このニーチェの体験は、すべての人間の体験だと言ってよい。言い換えれば、
孤独とは、そこで私たちが本当の自分を取り戻し、改めて純粋に、自分自身と
世界の人間のすべてを見直し、存在の真相に触れ直す瞬間なのである。実際、
私たちは、物事のほんとうの姿が何であるのかをよく熟慮しようとするときは、
世間や俗事の雑音を一旦は遮断しなければならないことをよく心得ている。
たとえば、他の人々と大勢で、がやがやわいわい騒いでいるときには、
私たちは、ほんとうに自分らしく純粋に物事を見直し、考え直し、正しく
事態を把握する余裕や冷静さを持つことができない。 人間は、それほど
までに非力なのである。 】
▼ 世間や俗事の雑音を一旦、遮断するため孤独になるために、古典などの
 世界に浸ることが最も手短である。それか、一度自分の住んでいるところ
から外に出て、純粋に物事を考え直し、冷静さを保つことが必要である。
宇宙の塵でしかない己を自覚すること、しかし、その塵の素晴らしい存在
である一度だけの人生を自覚するためにも。 
 ・・・・・・・
2010年04月28日(水)
  『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』石川文康著 −2 
* 理性は絶対を求め、「理念」を生みだす  
 学生時代の問い「理念の意味は何か?そして、その理の意味は?」が、40年
以上経った現在、その答えを見つけたのである。 何か微妙な感覚である。 
理念が理性の「何故?何故?」を徹底した問いの極限というから、眼から鱗。
  ーまずは、その部分を抜粋して考えてみる   P−24
≪ 理性的とは、「なぜ?ーなぜならば」という仕方で物事に筋道をつける
 能力である。それも、どこまでも道筋をつける能力である。というのは、
「何故?ーなぜならば」の関係は原則的に一組でほ終わらないからである。
一つの「なぜ?.」にいったん「なぜならば」と答えても、その答えに対して再び
「なぜ?」と問いうるし、そのまた「なぜ?」へとさかのぼりうる。理由のそのまた
理由……、原因のそのまた原因……、という具合にである。そのようにして、
「どこまでも」ということは、「徹底的に」という意味になる。そして
「徹底的に」ということは、究極に迫るということ、すなわち、最後には「極限」
にいたるということである。それは、理性が推理の能力であるということと表裏
一体である。 ある物事(結果)の理由や原因には、そのまた理由や原因がある。 
すなわち、いったん「なぜ? なぜならば」の推理が開始されるや、その鎖は
原理的にどこまでもさかのぼる。ということは、理性は原因のそのまた原因、
そのまた原因のさらにそのまた原因、等々の果てに、必然的に究極原因を求め
ざるをえなくなる。要するに、理性は極限に迫らざるをえないのである。 
いわゆる「理を通す」とは、そういうことである。・・
・・(中略) 冷めた言い方をすれば、理念は理性固有の本性や関心から
理性自身によって生みだされ、現実社会に合理的な脈絡をつけるために、現実社会
のかなたに「投影」された像に他ならない。 それは現実社会を合理的に読みとく
ためには、はなはだ有効であり、それどころか不可欠でさえある。 ところが、
ひとたび投影され現実世界と融合した像は、いつしか現実世界の一部はおろか、
その全体として実在するかのように、うっかりと思われてしまう。ちょうど、熱心
な観客が映画のスクリーンの中に、あたかも実在の世界があるように思い込んで、
感動したり憤慨したりするように。このように、理念は「功」と「罪」の両面性
を持っている。この両刀論法、すなわちパラドックスの原因とオーバーラップする。
この理性の両面性事態がまさしくパラドックスである。 このパラドックスこそ、
アンチノミー(二律背反)に他ならない。その理性が意志をコントロールし、
決定をする。 ≫
 ー以上だが、我が社の理念とか、私の理念とかで、使うが、まずは理性から
考えていかなければならない。そうすると、やはり何故、自分は目指すのか、
そして、何を目指すのか、その根拠(理性=理由)を明確にし、それを突き詰めた
のが会社理念となっていく。 それが個人としての私の行動指標なら、その根拠
の明示が必要になる。
 ・・・・・・・・・
2945,タレント知事をどうみるか? ー1
2009年04月28日(火)
 最近、一時なりを潜めていたタレント知事がマスコミで注目を浴びている。
青島幸男、横山ノックなどで選挙民は、その正体を見てあきれたはずだったが、
再び田中康夫、東国原、大阪の橋元知事、直近では森田健作が千葉県知事になった。
田中にしろ、橋元、東国原知事も、現在見るところ、最大限にタレントの経験を
生かしているようだ。産経新聞のオピニオンというコーナーで、その功罪を
浅野志郎と佐高信が論じていた。浅野は、タレント議員を肯定する立場で、佐高
は否定する立場である。まず浅野は「知名度で圧倒的有利なのは言うまでもない。
外に対する発言力に長けている。マスコミに面白がられて目立つことも悪くない。
また政治的未経験について、「ほとんどの知事は政治未経験者だ。これは決して
マイナスでなく、むしろメリット。僕は国家公務員を23年7カ月間務めたので、
知事になったとき行政についてはお手のものだったが、大きな改革や新しい発想
をする時はマイナスになる。『センス・オブ・ワンダー』、つまり驚きを感じる
心が必要だ。東国原知事や橋下知事は県(府)庁に入って驚きの連続だったと思う。
 (字数制限のためカット2011年4月28日)


5156,閑話小題 〜地球規模で、天変地異が

2015年04月27日(月)

   * つれづれに 〜地球規模で天変地異が
・ネパールで大地震があったが、太平洋岸で次々と起きている 大地震の一連? 
 それと、イルカが最近、太平洋岸に迷い込んだのも関連しているのか。 
 それとチリの大噴火も、先年の大地震の関連。そうこうみると、三陸沖地震が、
 そう遠くない時期に起きても不思議ではない。
 ――
・自宅の極近くのSC内にある喫茶店チェーンのコメダコーヒー。今月になって
 二度行ったが、一人客が意外と多い。数ヶ月前、9枚綴りの回数券を買ったが、
 あと一枚残っている。近所のため、一人で行きづらいが、気分転換に良さそうだ。
 ――
・首相官邸の屋上に、ヘリコプターのクローンが着陸し、発見されたのが二週間後
 というから国辱もの。ハッキリいえば、テロから逃れること自体が不可能。
 ネット上で、一気に100人が打ち合わせをして飛ばしたら、どうなる? 
 「原子炉の上空をクローンが飛んでいるのを何度か見た」と報じていたが、
 恐ろしい時代に入った。人類は22世紀を無事迎えられないという説がある。
 ――
・小学生の頃から超大物といわれた高1の野球選手が注目を浴びてきた。
 ラグビー元日本代表の清宮克幸の息子。成るほど、それだけの器のようだ。
 少年相撲にも、それクラスのがいるというが。
 ――
・幸福優位7つの法則ー幸福と成功の意外な関係】ショーン・エイカー著―
 の感想文を、書いたが、フト、真逆の「不幸不利7つの法則〜不幸と失敗の
 意外な感想」をテーマに思いついて、数日前から下書きを書き始めた。
 幸福優位と、不幸不利性が、あい絡まっているのが人生。その二つを意識して
 コントロールするしかないが・・ 傍から見たら、私など不幸不利の典型に
 思われているのだろう。不幸不利に思える人を多く見かけるが、両親から
 引継がれているとしか思えない。 身近な人をみていると、連合いとの
 相性もある。神様は、一番相性の悪いのをわざわざお選びになった?
・・・・・・
4791,「消費される物語」 ー1
2014年04月27日(日)
          ー耕論「消費される物語」朝日新聞(4月22日)よりー
 * 「消費される物語」 ー憧れをかみ殺す  
  ー「夢はかなう」を引きずるロマン 竹田青嗣ーより
 毎日、随想日記をネットに載せてから、まる13年になる。これも、ミニ物語
になるが、先日の朝日新聞の耕論「消費される物語」が考えさせられる。 
 ーまずは、竹田青ほぼ全文を抜粋ー
《 「どんな物語が杜会で受け入れられるか」ということは、「人々の間で
 広く共有されて一般化している欲望とは何か」ということに強く影響されます。
近代社会のかっての一般的な欲望は「自由」でした。職業選択の自由、思想信条
の自由、そして自由恋愛。だが、これらの自由への欲望は、先進諸国では20世紀
半ばまでに実現してしまった。それに代わり、現代社会で一般化しているのが
「承認」への欲望です。 そもそも人間の欲望には、それが他者から承認され
ないと実現できない、という特質があります。赤ちゃんがお乳を吸おうとする
ことさえ、母親の「あなたは私の子ども」という承認がなければ実現できない。
人間社会では、どんな欲望も承認を経て初めて実現する以上、快楽への欲望が
「みんなから認められたい」「祝福されたい」という承認への欲望へと移行して
いくのは、自然なことです。佐村河内さんの物語も、小保方一さんの物語も、
「不幸な境遇にある人や一見平凡に見える人が、がんばって成功し、多くの
人々から承認を得る」という基本的な枠組みは共通している。最近公闘された
英国の映画「ワンチャンス」も、携帯電話の販売員がテレビ(オーディション
番組で優勝し、塒界的なオペラ歌手になる、とり実話を描いた作品でした。
   □ 憧れをかみ殺す
 だが、ここで問題になるのは資本主義社会における「承認を巡る競争」
はゼロサムゲームで、勝者は常に少数派、です。「そこそこ満足」という人まで
勝者に含めても、6〜7割の人は最終的に挫折感や敗北感を抱くのではないか。
実現不可能な一般的な欲望に縛られ続けると、人間は不幸になるだけです。
(略)・・・ 挫折自体は決して悪いことではない。実現不能な欲望や憧れを
かみ殺し、強い忍耐で現実世との調停を試み、自らの生き方を確立する契機に
なるからです。・・欲望をすべて実現したいという「極端なロマン主義」、理想
がかなうことなど決してあり得ないという泥のようなリアズム、そのどちらかに
真理があるではない。両方の引き合いので、より深く生きられる「微妙な場所」
を探し当てることこそが必要なのです。私にとっては井上陽水の歌や、
フッサール、へーゲルの哲学が、そうした場所を見いたすための道しるべ
となってくれました。 ・・ ーつづく  》
▼ 現実にぶつかり、破壊された挫折経験の中で、「微妙な場所、そして立場」
 で、生きている我身にとって、自分にとって、都合の良い「物語」をつくる
しかない。それが、珍妙で、哀しく、痛面白いのである。逆に言えば、イドラ
(真実を覆っている嘘)世界にドップリ浸かっている人たちが鮮明に見えてくる。 
だから、この結果も悪くはないのである。イドラの言葉から、世間を読み解くと
面白い! 其の辺の、市場で聞いた噂を、信じて、小さな殻の中で、情念で
生きているのが一般である。ほぼ、世の中は、嘘と妄想で出来ているのが、
気づかない人たちの総称を「世間」。日本人の大多数にとっての宗教が、
この「世間教」。で、信者の群れが数多、屯する。それを、学生時代のゼミの
「ケース・スタディ」で、徹底的に議論の中で教わった。現象の中に隠された
真理、道理を冷静に捉える知識の必要性である。釈尊の遺言に「すべてのものは
移り変わる、怠らず努め励めよ」とある。変化する時代の中で、ロマン主義と、
泥のようなリアリズムの引き合いの中でこそ、怠り務めることだ!(-ノ-)/Ωチーン
・・・・・・
4424, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー8
2013年04月27日(土)
      「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」橘玲著
  * 私たちが何故不幸か、進化心理学が教えてくれる
 チンパンジーからして、実は平等も格差も遺伝子に刻印されている。
この矛盾が、人間を不幸にしている。能力も、女性の容姿も、生まれながら
大きな差がある。それを克服するには、一生を要するが、それを失うには数年、
いや、数ヶ月で済む。女性が連れ合いの選択にシビアになるのは当然、それで
人生の大半が決まってしまうため。だから二段階上の相手を必死に探す。
それをシンデレラコンプレックスという。しかし殆どが夢幻の幻想で終わる。
だから神様は、男の性欲を過剰に与えて、仮装の相手に惑わさせるようにした。
で、男は一生、その付けを払わされる。平等欲求と格差の遺伝子を同時に与え、
不幸になるように創られたのは、神様の仕業。だから幸福など気の迷い。
「不幸なのは人類の宿命で、私や貴方だけでない!」と割り切るしかない。
 ーその辺りから抜粋ー 
≪ 二頭のチンパンジを真中をゴフス窓で仕切った部屋に入れ、片方にキュウリ
を与えるとすごくおいしそうに食べる。ところがもう一方のチンパンジーに
バナナが与えられると、いきなり怒り出し、手にしていたキュウリを壁に投げ
つける。さっきまであんなにうれしそろだったのに。霊長類学者ドゥ・ヴァール
は、こうした観察結果から極めて重要な発見をした。平等はチンパンジーに
とって、けっして譲ることのできない「基本的猿権」なのだ。 ぼくたち人間も、
「平等」に強いこだわりをもっている、人種差別で沢山の血が流れるのも、
バックパッカーがぼったくられたことに延々と文句をいうのも、同じ人間として
平等に扱われていないと感じるからだ。でも平等が遺伝子に刻み込まれた生得的
な価値観でなぜ世の中は格差社会になるのだろうそれは、「格差」もまたぼく
たちの遺伝子に刻印されているからだ。 初対面の二頭のチンパンジを四角い
机に座らせ、どちらにも手が届くところにリンゴを置くと先へと互い取り合う。
負けけがつづと威嚇の表情を見せるが、喧嘩にはならない。互いに先取者に
所有権があることを認めているからだ。ところが同じことを何度も繰り返すうち、
どちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。からだの大きさなどさまざまな特徴
から二頭の間で自然に序列が生まれ、いちど階層が決まると、下位のチンパンジー
は上位者にエサを譲るようになる。保育園や幼稚園でも、子どもたちを集団で
遊ばせるとごく自然に階層が生まれ、リーダーが決まる(とくに男の子の場合、
この傾向は明瞭だ)。サルやヒトには、相手と自分の関係を測り、無意識のうちに
支配したり従ったりする強力なちからが働く。 人間の耳には、五〇〇ヘルツ
より低い周波数は意味のないハミング音としか聴こえない。ところがぼくたちが
会話をすると、最初はハミング音の高さがひとによってまちまちだが、そのうち
全員が同じ高さにそろう。ひとは無意識のうちに、支配する側にハミング音を
合わせるのだ。 声の周波数分析は、アメリカ大統領選挙のテレビ討論でも
行なわれている。一九六〇年から二〇〇〇年までの大統領選挙では、有権者は
一貫してハミング音を変えなかった(すなわち相手を支配した)候補者を常に選んで
きた。わざわざ選挙などやらなくても、討論のハミング音を計測するだけでどちら
が勝つかはわかってしまうのだ(ドゥ・ヴァール『あなたのなかのサル』) ≫
▼ 誰もが不幸になるよう設計されていると思えば、少々の怒りや悩みは解消
 される。だいたい幸・不幸は一時的感情。だから格差を容認するため「公平」
という考え方を作り上げた。ここでチンパンジーに平等の意識が「基本的猿権」
 としてあるのに驚いた。数十、数百万年かけてつくられたのだろう。小・中・
高校、大学に進学する度に選択されていく。上に進むたびに格差された自分の上下
左右が鮮明に見えてくる。平等、自由、博愛、これは理念、現実は逆ということも!
・・・・・・
4050, 一時停止 ー8
2012年04月27日(金)                
 * 「好き」という言葉が好きだ     
          「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ ・・ぼくは生きる上でいちばん大切なのは、好きになる気持ちだと思って
 いるんだ。好きになるのに理由はない。「好き」はじぶんのからだとこころ
のもっとも深いところからわいてくる。 むりして好きになるわけじゃない、自然
に好きになる。好きになる気持ちは人間に、そしてほかの生きものにも、はじめ
からそなわったすばらしい能力だと思う。何かを、誰かを好きになること、じぶん
が生きているこの世界を(それがときにどんなに苦しく悲しいものであれ)好きに
なること、そしてこれがけっこうむずかしいんだけど、じぶんじしんを好きに
なること。じぶんがきらいじゃ、ほかの人を好きになれないし、生きているのが
つらくなる。はじめきらいだと思っていたものや人が、知っていくにつれて
だんだん好きになるってことだってある。ぼくは「好き」ということばが好きだ。    
                  (母のひろば482号一 二〇〇四年) ≫
▼ 人生の早い段階で好きなことを見つけ、続けることは大事なことだが、
 それぞれの年代ごとに、蛇の脱皮のように、好きなことを変えることも必要。
それは男女の出会いに対していえること。節目ごとに好きな対象が変化するものと、
一貫して好きを貫くか、である。「好きと嫌いじゃ どれほど違う 命ただやる 
ほど違う」という都々逸があるが、それほど好みは根源から湧き出るもの。 
反面、「好きになるまで取り組んだことを突き詰めれば、奥底好きになれる」
こともある。好きという言葉は、人生の鍵を握っているようだ。現在の自分が
好きになれるか?特に人生の晩秋に差し掛かった時期の自分が、どうだろうか?
 「日々、面白い!」と思えるかどうかが目安。ここまでくれば、
「突き抜けた自分を好きと思うしかないか!」自嘲的自己肯定か、最期は。
   ・・・・・・・
3684, 自己を見つめる −8
2011年04月27日(水)          
  * 仕事について     「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 第二の人生に入って一ヶ月足らずになる。 今月から仕事・事業人生から
無職のリタイアの人生に入った。人生の大部分を仕事を通して幸福・不幸の
波の中で泳いできた。仕事は人生の核であることは間違いない。社会の中の存在
意義が仕事を通して証明される。そこで表現した中に自分が見えてくる。仕事、
趣味、そして学びは人生の三本柱。人生のプロセスで、その重心が変わって
くるが、男は家族を作り、養っていかなければならない。だから仕事の比重は
のしかかってくる。とはいえ、三本柱の一つだが・・・
  ーこの本の中の仕事に関する部分を抜粋して考えてみるー
【 したがって、社会に応えてなんらかの役割を果たし、世間に寄与することが
 できるということは、人間の自己意識にとっては、自己の存在の意味を確認
することのできる最も直接的な答えであり、また喜びであることは、疑いようの
ないことだからである。もちろん、そうした仕事における労苦のうちには、
失敗や挫折、困難や事故、予期せぬ妨害や災害、さらには競争や不運など、
実にさまざまな心労の種が含まれていて、人生の現実が容易ならぬものである
ことが、誰にでも、ひしひしと実感されてくる。人生における懐疑や煩悶、
疑心暗鬼や気欝は、多くの場合、仕事をめぐるトラブルや、そこに絡んでくる
陰湿な人間関係に起因するものであることは、否定することができない。
けれども、そうした暗欝な影にもめげずに、自分の関与する仕事の有意義性を
確信して、少しでも前進し、実りある人生行路を切り開こうとする人にとって、
やはり、仕事を措いて、人生の実質上の道程は考えられないことになるであろう。
そして、もしもその人が、強い信念の持ち主として、どんな障害にも屈服せずに、
この世界では善が勝ち、道徳的な世界秩序が実現してゆくはずだと確信する
ことができるならば、たしかにヒルティも述べたように、その人にとっては、
仕事を通じた人生の意味と幸福が、力強く確認され、労働の喜びが増すであろう。】
▼ 「人生における懐疑や煩悶、疑心暗鬼は、仕事をめぐるトラブルや、
 それに絡んでくる陰湿な人間関係に起因する。」 しかし、それを乗り越えて
仕事を成し遂げることこそ、その醍醐味がある。とはいえ、経済震災や、自然震災
は、その全てを飲み込んでしまう。これほど大激震だと諦めがつくが。
これも人生。人生の多くを事業を通して多く学び、楽しんだことも確か。
 まあ、面白かった! 
 ・・・・・・・・
3319, 理性の「理」は、理由の「理」
2010年04月27日(火)
   『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著
 学生時代に理念、理性の「理」の意味は何だろうと疑問に思い、ゼミの人たち
に聞いてみたが、納得する答えがなかった。そこで字づらから、王の里で、真理
の大元と一人合点をした。ところが、先日図書館で借りてきた『カントはこう
考えたー人はなぜ「なぜ」と問うのか』石川文康著に、カントの
「純粋理性批判」中の「理」が解りやすい。
《 理性の「理」は、実は理由の「理」にほかならない、と述べている。 
 欧州の古典語であるラテン語で「理性」を意味する「ラテオ」は、同時に
「理由」を意味する。理由とは、「なぜならば〜」と表現されるもので、物事の
「根拠」、物事を「根拠付ける」働きを意味する。さしずめ「なぜならば」と
答える能力が理性であると言ってよい。20世紀のハイデッガーは、理性と理由、
理性と根拠が同一であることを際だたせて、次のように述べている。
「理性とはラチオのことであり、すなわち根拠の能力。理性は物事を基礎づける
根拠である。根拠は純粋理性の理性的根拠以外にない」 ところで、この
「なぜならば」といきなり、切り出すものはいない。それを誘導するものがある。
それは「なぜ?」という問いである。「なぜ?」と問われて、はじめて
「なぜならば」が発せらるのである。・・・ 》
▼ 以上だが、理性的とは「なぜならば」と答える能力である。と同時に
「なぜ?」と、問う能力である。分かっているようで、分かってなかったようだ。
そうすると、常に「なぜならば」と「なぜ?」を、考えている人が理性的という
ことになる。人は「なぜ『なぜ』と問うのか?の答えは、「人は根拠となる
物事の基礎を把握したいため」である。「なぜ?」「なぜならば」と、言っている
限りは、理性を使っていることになる。 ということは、根拠=原因を知りたくなる
根本的な探究心のため何か驚いたり、知らない現象に出会うと、その背後にある
原因を探したくなり、「なぜ」と問うのである。認識に経験論と合理論があるが、
合理の理性から物ごとを認識をするという場合、経験が直接的に認識するのに対し、
 合理の理性で把握するのは間接的に認識する、ということになる。 −つづく
 ・・・・・・・
2944,ブラックアウト
2009年04月27日(月)
 ーブラックアウトについてネットで検索をしたら、以下のようにあったー
blackoutは、飲酒中やその直後に自分の行ったできごとについて、翌日に一部の
記憶がなくなるアルコール性記憶喪失をいう。例えば、飲んでタクシーで帰ったが、
友人に乗せられたまでは覚えているが、その後はまったく記憶がないなどである。
社交飲酒家でも認められるが、アルコール依存症者ではしばしば認められる。
ブラックアウトの出現はアルコール依存症の入門切符。
▼ 「元スマップの草薙剛が、ブラックアウト?で逮捕された」と報道された。
 深夜三時ごろに全裸で騒いでいるところを逮捕されたもので、何と猥褻罪という。
深夜に素っ裸で公園にいたところで誰に見られた訳でなし、やりすぎではないかと
思うのは私だけではないはず。有名人でなければ、これだけ騒ぎになるわけでなし、
酔っ払い保護センターもあるし、騒ぐほうも騒ぐほう。
(字数制限のためカット2012年4月27日)
・・・・・・・・・
2580, 閑話小題
2008年04月27日(日)       \(⌒∇⌒)/おはよ?!
 ー哲学と思想の違いー
池田晶子著の「暮らしの哲学」で 「哲学」と「思想」の違いについて
次のように書いている。
『「哲学」と「思想」の違いは「哲学」とは考えることであり「行為」である。
それによって導き出された言葉なり文章なりの結果が「思想」である。だから
「哲学する」とは言うけれど「思想する」とは言わない』と。解りやすい説明。
「哲学は考えること。思想は思いこむこと」 というと、何か違うような気がする。
 人の考え、思い込んだことを言語化したもので、貼り付けることが出来るのが
思想で、考える行為が哲学ということ。一般的には、哲学も思想も同じように
論じられているから、話がややこしくなる。ここの差異をハッキリさせおくと、
哲学・思想書関連の本を読んでも整理がつく。
 ー何でも半分ー
 (字数制限のためカット2010年4月27日)


5155,理性と感性と悟性

2015年04月26日(日)

   * 理性とは何か
 学生時代のゼミで何気なく私が発した言葉が。「理性とは何ですか?」
あまりに唐突だったので、誰もがポカンとしていたが、それを簡潔に解釈した
内容を47年後にネットで見つけた! ネットと暇な時間は便利である・・
≪ カントやヘーゲルによって展開された「ドイツ観念論」を理解するためには、
 まず、感性と悟性と理性という三つの能力を区別する必要がある。
 主体としての人間が対象に働きかける仕方である。
・「感性」は「直観」の能力であり、時間と空間という形式を持つ。
(「直観」とは、カントの場合、見たり、聞いたりする感性的(=感覚的)
な直接知を意味する。)我々が何かを見たり聞いたりする際には常に、その条件
として、時間と空間という形式が先行しているはずである。我々は物(あるいは
何かのイメージ)を空間(および時間)なしに考えることは出来ないのだから。
・「悟性」と訳される「フェアシュタント(Verstand)」というドイツ語は、
「解る」「理解する」という意味の動詞(verstehen)から来ていて、
「理解する力」「常識」(英訳は、"understanding")を意味する。
その純粋な形式が、カントが「カテゴリー」と呼ぶ、判断の論理的形式である。
(これには、肯定や否定という判断の「質」、存在や全称という判断の「量」、
実体や因果性という判断の「関係」、必然や可能という判断の「様相」がある。)
・これに対して、「理性」は、より高次の、悟性の判断を総合的に関係づける、
推理の能力である。例えば、「人間は死ぬ」という命題は、「生物」という
媒概念を介して、「人間は生物である」「生物は死ぬ」という二つの判断を
総合したものである。英語でいうと、リーズン。つまり、「理由」「根拠」
「道理」を意味するのが「理性」である。なぜ?と問いかけたとき、
「なぜなら〜だからだ」と答える力が理性になる。≫
▼ 「感性」は直感能力、「悟性」は理解能力、「理性」は「高次の推理能力」、
 つまり高次の理由づけ、根拠づけになる。世間の噂話レベルは、身近な世界
の空間・時間が先行するため、一般的には「あの世界」に埋没する。
理性の真逆の世界。理性を高めるには、「ぼんやり時間」を意識的に持たねば
ならない。「ぼんやり」とは、闇の世界で迷子になっている状態。その5文字は
1、「闇」―蛍と星とダークマター
2、「独」―独りでいること
3、「閑」―逆茂木に囲まれて
4、「怠」―「1日4時間労働」の夢
5、「懶」―心の余白 である。
 いっけん、理性の世界とは真逆のようだが、この状況から、感性も、
 悟性も、理性も研ぎ澄まされる。高次の道理の追求ということ!
・・・・・・・
4790,閑話小題 ー父親のこと
2014年04月26日(土)
   * 父親のこと
 これまで母親について語ってきたが、父親について殆ど書いてなかった。
父親が42歳時の時に8人の末っ子として生まれた為、父親が孫のように特別扱い
され育った。それもあって、直ぐ上の兄に陰湿に虐められてもいた。 御陰で、
気が強く、常に自分の身を守ることに、人一倍の知恵が身についていた。
今回の一連も含めた危機管理などの用心深い性格は、この辺りからきている。
 大家族の中、父親が絶対的存在で、母親も、兄姉たちも、常に緊張の中で
父の顔色を伺っていた家庭環境であった。父親は骨董商の二代目。祖母が
婿取りで、母が結婚した時には、当時の資産で七万ほどあったと、母の晩年に
なって、語っていた。母が結婚当時、父に「うちは金持ちなの?」と、聞いた
ところ、「金持の目安が10万で、どうだろう?」と答えたというが、その後、
数倍に増やしたというから、資産家の部類だったようだ。プチブルレベル?
 太平洋戦争前まで、当時のトップセールスを思い立ち、津上製作所社長や、
野本互尊など上客を持って、年に数回の取引で、かなりの利益を上げていた。
そして、大戦の勃発で、骨董は売れなくなり、地元からも多くの戦死者が
出ていた。その中、仏壇販売で戦中の生活を凌いでいた。それも終戦を向え、
次に考えたのが古着販売。食えなくなった人の古着を他より高い値で買取り、
欲しい人に、安い値で販売することを思いつく。それが拡大したのが、
衣料量販店である。これも、問屋からの仕入れでは安く売れないため、岐阜、
名古屋、岡山、広島などの生産地に直接行き、仕入れることを考えついて、
繁盛店として、全国的に知られるようになった。商売人の基礎の質実剛健を
モットーに、明治気質の、真面目な人であった。顔つきも、性格も、私が、
そのまま、受け継いだが、酒は、殆ど飲まないところが、私とは違う。 
趣味は、旅行と、骨董収集と、茶道と、住宅の建設。自宅や、姉たちの新築
建設に金も口も出して、そのプロセスを楽しんでいた。家も、店でも、チリ一つ
でも落ちているのを嫌い、徹底的に掃除をさせていた。学歴コンプレックスが
強く、自然に娘婿には高学歴の人がなっていた。 友人の持てない人で、
株屋や、保険屋の営業などしか、傍には寄せ付けなかった。兄姉も、怖れて
近づかない中、末っ子の私だけが何時も父の傍にいて、何かペットのような
存在であった。法事などは、何時も私だけが出席をしていた。父親は、太平洋
戦争を挟んだ激動期を、乗り切ったが、私は、結局は、飲み込まれてしまった
甘い三代目になる。 この随想日記も〈売り家と唐様で書く三代目〉の
‘唐様で書いた’で、しかないのか。 ゙(。ノω<。)ァチャ- (-_-)ウツタ
【(後記)これを書いて、分類の<堀井誠作・シマ ワールド>を開いた
 ところ、父親の命日などに、多く取り上げていた。今さら、我ながら
 驚いてしまった! 結局、父親は私の大きな後楯の人だった、ということ。
 それにしても! 呆けか 】
・・・・・・
4423, 老後の不安で天引き預金、の良し悪し 
2013年04月26日(金)                     
 両親を近くでみて、お金について多く学ぶことができた。そして、このザマ? 
で、まあ、聞いて!額は小さいとしても、三十年近く給与の範囲で使い切ってきた。
また増築も含めてビル建設八棟と古ビル購入で35〜6億はつかった。土地仕入れを
含めたビル建設の面白さは何にも変えがたい。これらを現在も所有していれば
オーナーだが、手から離れれば、使い果たしたことになる。大金持ちがヨットに、
車に、別荘に、買物に35億使ったのと、35億のビル建設の道楽?と大して違わない。
それらを所有していようがいまいが車と同じ。ある期間を過ぎれば下手に所有して
ない方が良い。 父が死ぬ直前いっていた言葉が今でもハッキリ残っている。
『数千万の貯金通帳の数字と、この紙に書いた数字と何処が違う。何にも違わない。
買い集めた骨董が倉庫にあるが、これも同じ。二度と箱を出さないものばかり。
あるのは持っているという満足感だけ。だから、使える時に使っておくべき。 
金は商売を楽しんだ後のカス。カスを目的にするから失敗をする。そのカスで
自分を飾り立てたりしないこと。』と。
 それでも、茶道を楽しむため新たに自宅を建て、茶道具を中心にした骨董品
集め楽しんでいた。しかし無駄と、見栄のための出費はしてなかった。その家を
建てること自体、見栄でもあったが。それを見ていたこともあり、40歳過ぎから
収入は家内への給与分以外の全額は、使うようにしていた。酒、海外旅行、投資
の失敗位だが。しかし秘境旅行などは10年、20年続けると、なかなか良い思い出
が蓄積されていく。それもあって現在、あまりしたいことはないし、金もさほ
欲しいと思わないし、買いたいものもないし、遣り残した思いも少ない。 
 で、仮りに徹底した節約をして年に400万ずつ30年、毎年積み立てをして
いたとする。30×400=1億2千万。投資で二倍として2億4千が残る。
しかし長期的事業の個人保障で万一のことが発生すれば、この程度は数年でゼロ。
ということは、その範囲で、その時節に使っておいて正解だったことなる。
人間は収入減に比例し支出を落とせないのは、現在の日本国家を見ればわかる。
そこで「別名義で一割程度は積み立てをしておくべき」ということになる。
 その長年かけて積み上げた金も信用も、失うのは一瞬。これは事業と同じ。
あの世に持っていけるのは行蔵だけ。こつこつ貯めるのと、こつこつ使って
楽しむことの両立は難しい。何と金は使えるうち。後悔先に立たず、である。 
その辺を巧妙に仕掛けてくるのが保険屋と株屋。長年のスパンで積み上げた金を、
彼らは狙ってくる。都会の年金暮らしのリタイア組みは、収入の7〜8割しか
使わず、残りを預金しているとか。その殆どが亡くなった後、子供に相続される。
老後の不安で使うことが出来ないため。彼らは理詰めで考えないで、ただ不安に
流されているだけ。その不安は、「今・ここ・私」が確立されてないため
生じている。まず、それに気づくこと。直ぐに泣く時が来るなら、今、笑うしか
ない!腹から笑えるのは訓練で出来る。笑うから可笑しい。人生、笑って何ぼ!
・・・・・・
4049, 一時停止 ー7
2012年04月26日(木)                  
 * 公共広告「あなたが大切だ」について  (ふくろう通信一2008年春) 
            「一時停止」谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 命は、たいせつだ。命を、たいせつに。そんなこと、何千何万回言われる
 より、「あなたが、大切だ」 誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きて
行ける。不思議ですね。このコピーは不特定多数に向けられた言葉なのに、
まるで誰かが私に向かって言っているかのように感じられる。この短い文章の
中で「命は大切とい一般論が、「あなた」という、ただ一人の人間に向けられた
言葉に変換されたからでしょうか。コピーに添えられた写真の少女は、もう
何かを訴えかける元気もなく、孤独で病的な表情でこっちを見つめています。
この少女にとっては、一対一で自分と向き合ってくれて、自分のことを本気で
気に向けてくれる誰かが言う「あなたが大切だ」という言葉が、「魔法の言葉」
なのではないでしょうか。「元気になる魔法の言葉」は、もしかすると本や
雑誌やテレビ番組の中にも見つかるかもしれませんが、何よりも身近な人の
言ってくれたこと、書いてくれたことにひそんでいるのではないかと思います。
たとえば大切な人と別れなければならないとき、別れの悲しみと苦しみが
深ければ深いほど、どんな言葉も自分を元気づけてはくれないし、慰めても
くれないと思いがちです。でも、もう言葉が何の役にも立たないと感じられた
ときにも、私たちのこころとからだの奥底で言葉はもがきながら生きています。
だから言葉にならない自分の悲しみ、苦しみが言葉になったとき、私たちは
元気になるきっかけをつかむことができる。同じように、誰かが苦しみ、
悲しんでいるとき、私たちはその人のこころとからだにひそんでいる言葉と
共振する言葉を探します。それはとても微妙で繊細な作業ですから、場合に
よっては言葉を探さずにただ黙ってその人のそばにいて、その人を抱きしめる
だけのほうがいいこともあるでしょう。辞書には載っていない「魔法の言葉」
は、変幻自在ですから。   ≫
▼ 本を読むということは、書き手の意図を、自らに対する言葉に切り替える
 作業でもある。一人も「あなたが大切だ」と、言ってくれなくても、著書を
通して書き手から、私にとって自分自身が最も大切だと受け止められれば良い
のではないか。とはいえ、それが出来る人は僅かとすると、やはり直接、
誰かに言われたいもの。幼児期に両親から愛情を多くそそがれた人は、
「あなたが、大切だ」という気持ちがシッカリと根付いて、その人の人生の
土壌になる。 両親の愛情は大切である。
 ・・・・・・・
3683, 自己を見つめる −7
2011年04月26日(火)
                 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 昔ほど生甲斐という言葉を言わなくなったが、そのかわり、「好きなことを
見出し楽しめ」というようになった。生き甲斐は、それなりの覚悟と追求の
エネルギーを要するが、「好きなことはを楽しむ」には、それほどの重さはない。
 生き甲斐について、著者は以下のように納得できる説明をしている。
  * 生き甲斐の探究
【 私たちは、この世の中を生きるとき、なんらかの形で、生き甲斐を
 求めている。生き甲斐のない人生を好んで求める人は、考えることができない。 
生きるということは、みずからが、そこに意味を見出し、なんらかの有意義性
の成り立つことを信じることのできる道程を発見して、そこに自分の人生の基盤
を据えて、自己の時間的な生成過程と、振幅を含んだ多様な遍歴の道を、辛苦や
労苦を越えて、歩み進もうとする覚悟にもとづいて初めて成立する。それを可能
ならしめるものが、生き甲斐にほかならない。むろん、その生き甲斐という問題
は、さまざまな局面を含んでいて、けっして単純ではない。けれども、生きる意味
を信じ、自分の人生を肯定できる道程を発見し、そこで自分の人生の充実を図って
生きる、という構造を含まないような人生設計や人間活動というものは、人間の
生き方として、考えることができない。意味や有意義性は、ディルタイがすでに
指摘したように、私たちの生を構成する最も基本的なカテゴリーなのである。 
そうした生き甲斐とは、それを最も強い形で言い表せば、自分の死に場所を発見
することと同じだと言えるであろう。 その道を突き進んで、その果てに自分は
もう死んでもよいと言えるような生き方とその内実を発見したときに、その人は
自分で自分の人生の充実を図って生きる、こういう構造を含まないような人生
設計や的活動というものは、泰然自若、自己であることに安らうはずである。 
たしかに、「人生、いたるところに青山あり」である。 しかし、ほんとうに
死んでもよいと思える場所と生き方を、最終的に見出すことは、けっして容易
ではない。何人も迷いを免れがたいもの。けれども、人間は、最後には、自分
を捨て、そこに自分を埋めてもよいと覚悟できる人生の住処を求めている。】
▼「生き甲斐とは、自分の死に場所を発見することと同じ。その道を突き
 進んで、自分はもう死んでもよいといえる生き方と、その内実を発見したとき、
泰然自若、自己であることに安らう」は、納得する。本当に自分の好きなことを
見つけ、全霊を傾けて自分のエネルギーを叩きつける時に、生甲斐が生じる。 
それがない人生は、空虚な喪失感が付きまとう。しかし生甲斐は、そう簡単に
得ることはできない。極限の中にこそ、生じてくる。生甲斐を感じているときが、
自分の心の芯にいる時であり、自分である時である。家族の為に我を忘れて
必死に働いている時、振り返ってみた時に、生き甲斐を見出すのである。
そこには、意味も意義も充分にある。 全身全霊をかけて対象に取り組んで
いる中に生き甲斐が生まれてくる。
・・・・・・・・
3318, 悲しみ、苦しみは人生の花
2010年04月26日(月)
 「悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花咲かせ、楽しむ
ことの発見、これはあるいは近代の発見と称してもよろしいかも知れぬ。」
これ坂口安吾の言葉である。それなら喜び、楽しみは果実というところか? 
60数年の人生を振り返り肯定的に眺めれば、そうかもしれない。 
私の実感は、悲しみ、苦しみ人生のレッスン=学びである。近代の発見とは、
目標の発見と解釈できる。また花咲かせるとは、目的、目標の達成である。 
目的達成のプロセスこそ人生の花というのも肯ける。「花も嵐も踏み越えて」
という歌の文句があるが、人生とは挫折を乗り越えてこそ、その先の喜びも
大きくなるもの。「悲しみ、苦しみは人生の花!」は、なかなかいえない
言葉だからこそ、心に響くのである。自分の子供に先だたれた親に、この言葉が
当てはまるのだろうか。それも運命と割り切って受けとめることも人生だろうか。
「災い転じて福と成す」これが人生の真髄というが。 大きな時代のウネリの
中でこそ、味わいたい言葉である。過去を振り返ると、一番のどん底の時ほど、
周囲の人の苦しみや悲しみに対して鋭敏になり、優しい言葉をかけていた。 
その時ほど多くの人と心が通いあっていた。言い換えると「どん底の時期は
人生の花の時期」。「一番苦しかったけれど、一番楽しい時だった」と、
気づくかどうかである。 私の場合は「人生、面白かった〜!」が実感だが。
「喉ぼと過ぎれば熱さを忘れる」で、それなりに人生、色いろある。
 「人生、当たり!」と自己暗示するしかないか〜 
「悲しみ、苦しみは人生の花」と、心の底から思えたら、
それは一種の悟りだろう。 あれが花?
 ・・・・・・・・
2943電動式ステッパー
2009年04月26日(日)
 スーパーやホームセンターで、「自力式のステッパー」を見ていたが、
知人が毎日使っているが、非常に良いとは聞いていた。ところが電動式
ステッパーを家電店でみつけたので売り場で使ってみたが、なかなか良い。 
足の部分が勝手に動くものだが、しかし13万円もする。数ヶ月前に電気
ウエーブ・マッサージを見つけたが、12万円もする。そこでネットで廉く
小さいのを探したら1万4千円のものがあった。さっそく買って使っているが、
これが大当たり。 朝晩使っているが腰と胃腸と血流に非常に良い。 
それなら電動ステッパーも廉い簡易式のがあるはずと「電動ステッパー」
と検索を入れたら、アマゾンやビックカメラのネットで、29800円のものが
あった。さらに価格ドット・コムで調べたら最低価格が7665円(送料別)
があったので、さっそく注文した。
(字数制限のためカット 2011年4月26日)
・・・・・・・・
2579, 連鎖する大暴落 -2
2008年04月26日(土)      (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
 サブプライム問題は、予測できることであった。だから、逆張りも出来た
はずだが、それも振り返ってみればの話。オバマが大統領になると断じている
ところが面白い。民主党は(クリントンは新鮮味がないので)オバマとしても、
共和党のマケインとは互角だろう。しかし民主、共和党が10年ごとに交代する
ことに話がついている、というのも肯けること。この本の通り、日本がアメリカ
の属国と割り切ってみると、日米関係が改めてシビアに見えてくる。世界中の
物資を、ドル、アメリカ国債などの偽札モドキで交換しているに過ぎない。
特に日本などは、それで高い兵器を言値ねで買わされているのだから哀れなもの。
この本を読むと、ドルが60円台、株が3000ドルも、なんら不思議ではない。
ー前著同様に、この目次だけでも内容が充分に要約されている。
[目次]
第1章 私の予言はなぜピタリと的中したか
 ・サブプライムローンの破綻はすでに2007年の5月にははっきりしていた
 ・アラン・グリーンスパンFRB議長は2005年に警告を発していた 
 ・ニューヨークもこれから三ヶ月ごとに大暴落していく
 ・返せそうもない人々に無理矢理お金を貸し付けたのがサブプライム  
第2章 大暴落がこれから3カ月ごとに襲い来る
 ・専門家と称する詐欺師たちが金融の八百長をやってきた
  (字数制限のためカット 2011年4月26日)
 


5154,知の逆転 〜⑪

2015年04月25日(土)

           ー知の逆転ー 対談相手〜マービン・ミンスキー
   * ユングとフロイト
 ユングとフロイトについてミンスキーはフロイト寄りの論だが、説得力がある。
私自身、ユングのいう、「意味ある偶然の一致」=シンクロニシティ(共時性)
の体質?が少しあるので、ユングに傾倒していたが、違う論も面白い。 
  ーその辺りを抜粋 〜P195
≪ ーあなたは人工知能に関連して心理学の分野も研究されるわけですが、
 以前「カール・ユングの人気は全くおかしい」とおっしやっておられました。
 なぜそのように考えておられるのでしょうかー
ミンスキー: カール・ユングは科学分野からとうの昔に消え去ってるでしょう。
  ーそれに異論がありませんが、フロイトはどうでしょうー
ミンスキー: ジークムント・フロイトはなかなか興味深い人物です。
 たくさんの新しいアイディアを持っていましたが、あまりに時代に先駆ていた。
たとえば、神経系の中をいかに情報が伝わっていくかについての理論を、早く
から論文にしていたけれども、一九五〇年になるまで活字にならなかった。
神経細胞がどのように情報を伝達するか、それが経験によっていかに変わって
いくかなど、さまざまなアイディアが入っていたのですが、あまりにも当時の
他の理論と異なっていたために、なかなか出版されなかったのです。
フロイトの学生だったユングは、面白い理論を構築し始めます。その過程で、
異なるいろいろな文化が実は同じようなアイディアを持っていたことに気づく
わけです。たとえば、それぞれの文化の伝説や神話がやたら似ているとー。
 悪い行いをすると神様が出てきてその行いをこらしめるといった話ですね。
だからユングは、全ての人々の心は、何かテレパシーのような神秘的な方法で
コミュニケートしているんじゃないか、と考えたわけです。これに対して
フロイトが怒って、以来、二人は二度と口も利かないようになった。
互い相手の主張がばかげていると思ったんですね。ばかげていたのは明らかに
ユングのほうでしょう。でも、いまだに多くの人々が、彼の説を良しとして、
意味のある心理学だと思っているようです。・・・ ≫
▼ 改めて、フロイトとユングの違いをダイジェスト的に論じているが、
 色いろ相まって人間の心は構成されているため、フロイトの考えだけでは
限界があるし、ユング的霊性も限界がある。ネット社会で、共時性が如何に
意味を成していくか、失っていくのか? 対談者とインタビュアーは、後者
のようだ。ネットが共時性そのものに、なったため、それが如何した?
レベルになった? 生物、人間が進化してきた過程で膨大な経験がある。
・・・・・・
4789,葬式は、要らない ー2
2014年04月25日(金)
           「葬式は、要らない」島田裕己著
   ーアマゾンのレビューよりー
《 過激なタイトルだが、葬式が「要らない」のではなく、そんなに
 金をかけるものでは無い、と言いたいのだ。「高い高い」と言われても、
何もお寺が強要してる訳でもなく、また業者も商売なので多少の出費は仕方ない。
人が嫌がる、または面倒な事をお願いするのだから。また諸外国と(金額の)
比較をし、日本が異様に高いというが、国柄や文化がそれぞれ違うのであまり
参考にはならない。要は個人個人が思うようにすればいいだけの話。
 でも日本人はそれができない。冠婚葬祭に関しては世間体やら周りの目を
気にする体質ですから。ある意味、日本に住んでる以上葬式にお金がかかるのは
仕方の無い事かも。日本人は世間体を絶ず気にする。それがあらわれるのが葬式。
布施や香典は行う側の気持ちによるとされてはいるものの重視されるのは、自分
がいくら出したい・出せるかではなく、他人がいくら出しているのか、である。
こうした感覚が日本人のなかに育まれる上で重要な働きをしたのが村落共同体の
成立である。江戸時代に入って寺請制度が導入されたのは大きな意味をもった。
すべての村人は村内にある寺の檀家になることを強制された。よって村人は
必ず仏教式の葬式をしなければならなくなり、戒名も授けられた。
 仏典は膨大な数が存在するが戒名についての説明はない。仏教が広まった
地域のなかで戒名という制度が存在するのは日本だけ。初期の仏教はインドで
生まれ主に東南アジアの国々に広がった。その後生まれた大乗仏教はインドから
中国に伝わった後、朝鮮半島や日本に伝えられた。最後に生まれた後期密教は
チベットに伝わった。 出家した僧侶がその証に戒名を授かる点は日本も他の
仏教国と同じだが、一般の在家の信者でも死後に戒名を授かるのは日本にしか
ない制度だ。しかも日本は出家であるはずの僧侶が妻帯し戒律を蔑ろにしている。
破戒の道をたどっている僧侶が授戒を行い矛盾している。多くの宗教にも出家の
制度は存在しない。あるのは仏教とキリスト教のカトリック、東方教会だけ。
仏教でも本来、出家した人間に僧侶としての名前が与えられるのであって、
俗人にそれが与えられることはない。が、日本では禅宗で在家の信者の葬式の
作法が確立され、その際、いったん出家のかたちをとらせたため戒名が授け
られることになった。寺にとって財政を支えてくれる檀信徒の存在は不可欠で、
寄進された土地や田畑は寺領として寺の維持に貢献した。が、明治に入り寺請
制度は廃止され、寺領は召し上げられた。奈良の寺々は葬式仏教の前の時代に
創建されており境内に墓地を持たず檀家も存在しない。寺領没収後は他の収入の
道を確保せねばならなかった。境内に墓地を持ち地域の住民を檀家として
かかえる一般の寺院は葬式仏教の道を歩むことで生き延びることができた。
寺は檀家の布施がなければ寺は成立しない。戒名料が高騰するのは戒名の本質
死後の勲章だからであり、立派な戒名が葬式を贅沢なものにしていく。
が、戒名のあり方や戒名料への批判はあっても改革が行われないのは寺院経営
の問題が深くかかわっているからである。寺は宗教法人であり、檀家は法人を
構成するメンバー、つまりは信者である。・・・ 》
▼ 上記の内容は、この情報化では一般的に周知のこと。ますます、お寺は
 衰退し、墓参り仏教も、変化する。戒名など、いらないし、年内に自分で
つけた戒名の位牌をネットで注文しようか、そんな必要もないか?
私の場合、家族葬で20人ぐらいで、葬儀社の指定した僧侶にお経をあげて
もらって、それで御終い! それを、むしろ願っている。死んでしまえば、
それまでよ! である。 墓は、このブログで充分!
・・・・・
4422, 糞袋の内と外
2013年04月25日(木)
              「糞袋の内と外」石黒 浩 (著)
「世界の中の自分は時に不自由であるが、世界を飲み飲んだ自分は自由
なのである」という新聞広告にひかれて、アマゾンで、この本の内容紹介を
読んでみた。まだ発刊して間もないこともあり、レビューも何もない。
パソコンとネットの機能から、逆に人間の脳の機能を逆照射した哲学を読んだ
ことがある。 ロボット工学者が、人間の形を持ったロボットの視点から人間
を見つめると、また違った何が見えてくる。 まずは ー内容紹介ーより
≪ 人間は感覚器が集まった糞袋。しかしその糞袋は、自分が自分である
 ということを確認する手段を持たない。CNNの「世界を変える8人の天才」
のひとりに選出されたロボット工学者、石黒浩。最先端のテクノロジー開発
を通し人間の本質を見つめる中で、「生きるとはどういうことか?」
「人間とは何か?」という問題を常に問い続けている。【人間を「糞袋」
と捉えることで、どのような答えが浮かび上がるのだろうか? 】約2年間に
わたって発信してきたツイートをもとに考察を深め、いま本当に伝えたい
メッセージを丁寧に綴った、渾身のエッセイ。≫
▼「人間は感覚器が集まった糞袋」と「世界を飲込んだ自分は自由なのである」
 という意味について考えてみる。まず「人間は感覚器が集まった糞袋」を、
「人間は考える製糞器」であると言い替えると、動物とロボットと際立って
違うところは、動くエネルギーが動植物系と電気かガソリンの違いになる。
人間の燃えカスは、一度、糞袋に溜められて排出される。人間は世界を飲み
込んで(環境を直感して主体的に)動くところが違う。それも自由度が高い
ほど人間度が高い、ことになる。自由こそ人間たる要素である。
世界を知り、そこで方向を探し出し、常に環境の変化に対応し、殻を破り
 続ける糞袋が人間の本来の姿。だから、身近に飛行機、自動車、自転車、
パソコンなどの身に合ったツールやシステムを使いこなし、自由度を高める
ことが必要。優秀なロボットを創ることで逆照射をして、人間の本質を探る
切り口は新鮮。人間の肉体を内と外面をシビアに捉え完成に近づける過程
から見えてくる姿は、哲学でいうところの「他者」と「自分」の関係を
考える上で面白い。この工学者は、自分の姿のロボットをつくり、生身の
自分から見つめている。第三者が触ったり、殴ったりした時に何かを感じる
はず。これは自己承認や、他者承認の問題に似ている。ロボットから見たら
糞袋に過ぎない人間の肉体。ロボットのように、第三者からの指示や
プログラムでしか動けない哀れな糞袋が、あまりに多い。そういう私の貧弱な
プログラムこそ最も稚拙!後悔先に立たず。自分を腹から笑えるだけ、
まだましか。
 ・・・・・・・
4048, 一時停止 ー6
2012年04月25日(水)
  * 人間は大文字で書かれた矛盾     
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 唐突なようだが・シモーヌ・ヴェイユのことばを孫引きさせてもらう。
(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在するものであり、
実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。矛盾とは必然性の
如何を試すものである)(存在の奥深くまで体験された矛盾、それは我々の
身も心も引き裂く。それが十字架である)自己弁護のためにひくにしては、
これらのことばがあまりに痛切であることは感じてもらえるだろう。
私は十字架にまで到達できる人間ではないけれども、せめて矛盾をかいま
見る地点にまでは行きたいと思う。矛盾の一方に身を置けば、たしかに
そこにも悲劇は待っていよう。作家の自殺のいくつかはそうした場所で
行われたのではないかと私は想像する。だが矛盾そのものを生きることは
―それは私には想像もつかない。ヴエイユの言う矛盾は、いわば大文字で
書かれた矛盾であり、人間そのものと言っていいと思うが、そのことが、
つまり究極には矛盾しかないのだということが、私に勇気を与える。
私の出会うもろもろの小さな矛盾も、最終的な矛盾と構造的に結ばれている
に違いない。ひとつの矛盾を解決し得たと思うとき、それがすでにもう
ひとつの矛盾のはじまりになっている。その無限地獄にこそあるいは
書くことに第一原因がひそんでいるのかもしれない。―その辺でやめておけ。
おまえにはそんなことまで論ずる資格はありはしない。どうしてそんなに
大仰でこわばった口しかきけないのだ。 おまえの内なる自然の荒廃は
その口のききかたからもあきらかだよ。見栄をはって、もっともらしい
愚痴を人に聞かせる暇はもうないそ。 (一九七二年) ≫
▼【 ヴェイユの(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在
であり、実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。矛盾とは
必然性の如何を試すものである)】が良い。人生を総括すると矛盾の塊である。
しかし、その矛盾こそ実在であると知れば、人生を、そのまま受け取ることが
出来る。「矛盾は人間そのもの」とすれば、自分だけでなく他人を受け入れる
ことも出来よう。激しく生きるほど矛盾は大きくり、その重圧に潰されながら
生きていくことこそ人生の味わいを深くする。人間は矛盾だらけか〜
 ・・・・・・
3682, 節目どきに ー10
2011年04月25日(月)
  * スポーツジムなど行ってみるまでは別世界だったが!
スポーツジムに通いだして三週間になる。行くまでは別世界と思っていたが、
今では生活に組まれた日常になってしまった。ジムのシステムで、色々な
プログラムがあって自分にあったものに参加出来る。 その一つに
「イージーライン」がある。6つの機器を円座になって12人のメンバーが
参加、輪の真ん中にインストラクターが音楽に合わせて全員を誘導していく。 
一つ置きにステップ台があって、大手を振って上がったり降りたりして息抜き
をする。25分間一コースだが、これをベースにして、ランニングマシーンや、
他の機器を使う。最後は小さな暗い部屋に6台ある電動マッサージの一つで
30分ぐらい疲れをとる。 他にもプールや風呂もある。 私の場合は滞在
時間は90分である。 そこに行ってきただけで、気晴らしになる。
私が選択したのは「金曜日が休日、日祭日は参加できないコースで、
時間帯は10〜17時。その時間帯なら、何時間もいてもよい。30坪位の
サロンもある。 金曜と日祭日は、車で5分ほどの近くの市営スポーツ施設
に行っている。ここは三ヶ月で1800円。昼時には数人しかいないのがよい。
とにかく健全な日常を維持しないと! 
  * ウォーカーの数が激減
 晴れている日には早朝、毎日、信濃川の土手にサイクリングに行っているが、
散歩の数が激減している。初めは気のせいかと思っていたが、そうでもない。 
原発事故による放射能に対する警戒のためだろうか。ウォーキングでこれだから、
行楽が大打撃になるのは仕方がない。ホテルは、どの業態も惨憺たるで、私も
早々見切って倒産した。特に温泉街が酷いとTVで騒いでいる。あの草津温泉
では95パーセントがキャンセルで、死活問題になっているとか・・
「新潟の月岡温泉の一番大きいホテルは二棟のうち一棟が休館。
オープンしている棟も、一番上の階しか電気がついてない」とか、
「長岡の奥座敷の蓬平温泉街は、客がほぼゼロ」、という噂が漏れ聞こえてくる。
日本国家始って以来の危機の一現象である。まだピンときてないのが日本の
平和ボケした大部分の人だけ。まだ、他人事としてしか受け取ってない?
 ・・・・・・・
3317, つれづれに ー閑話小題
2010年04月25日(日)
  * 無理をするな、素直であれ! か〜
「無理をするな、素直であれ。すべてがこの語句に尽きる。この心がまへさえ
失わなければ、人は人として十分に生きていける」は、種田山頭火の言葉である。 
この年になってこそ、その意味の深さが理解できること。それが許されない事態
が次から次へと起こるのが人生である。で、最後に落ちついた時に、この言葉が
出てきて、そして一人納得する。これを真正直にして生きればホームレスか、
引きこもりになる可能性が高い。現に山頭火は放浪の乞食。私なら「自然体で、
力まず、目を逸らさず、真正面に向き合うこと、それも正直に」と言うところか。
  * 人生は放浪
 山下洋輔がいみじくも言った「旅とは帰ってくるものだ。だから、人生は旅だ、
などという言葉がぼくには分からない。どこに帰っていくというのだろう。むしろ、
人生は放浪だ、といってくれたほうがよい。帰るあてがなく、行きっぱなしだ。」
 還暦を過ぎると、この言葉が身に沁みる。 自分に植え付けられている死の
イメージが虚空に帰すからだ。 死んでしまえば、それまでよ」と口癖だった
父の言葉を思い出す。 引越し先で、全てを忘れる当てのない渡り。
  * 人間原理とは ーウィキペディアによると
《 人間原理とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の
 存在に求める考え方。"宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は
宇宙を観測し得ないから"という論理を用いる。 これをどの範囲まで適用する
かによって、幾つかの種類を見つけることができる。人間原理を用いると、
宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈できるが、これを自然科学的な
説明に用いることについては混乱と論争があり、未だ多数には認められていない。》
 何か無理があるように思える考えである。人間原理の人間を自分に置き換えて
みると分かりやすい。もっとも、優秀な奴は、これに近い自分原理を持っている。
それが自分のステートメントだが、人類が、自分に当てはめると一神教みたいに
なってしまう。


5153,知の逆転 〜⑩

2015年04月24日(金)

           ー知の逆転ー 対談相手〜マービン・ミンスキー
   * 感情とは思考の単純形だ ー感情機械としての人間
 感情で動く多くの人からみたら、元もと感情が単純形と思うのは当然。
逆に、心理学者や哲学者からみれば、感情は複雑で底がしれない泥沼の
ようなものと考えているため、改めて考えることになる。考えつくした
末の感情であれば、決して単純形ではないが・・ 〜その辺り〜より
≪ ミンスキー: 何干年もの間、人々は、「思考」すなわち理性的で論理的
 で機械的なものと、「感情」すなわち自然で論理的でないもの、というふう
に区別してきたわけです。従来の心理学は、自然な行動というものは二種類に
分けられるという考え方に基づいていました。 ちなみに私に言わせれば、
何にせよ世界や物事を二つに分けようとする試みは、大きな間違いです。
そうすると、全てを「これ」か「あれ」であると言わなければならず、両者の
間に位置するものに対して、橋をかけられない。私の発見の大半は、少なく
とも三つの事柄があるという考え方に基づいたものです。ですから、「ここ」
から「あそこ」へ行うとしたときに、障害(三つ目のことがら)があれば、
それを迂回するという考えが出てくる。 
 本来「思考」と「感情」を分けて考えるべきではないと思います。「思考」
というのは非常に複雑で、われわれは実に多様な物事の理解の仕方をする。
一方、わずか10〜20くらいの別のやり方でも物事を理解していて、これらを
「感情」と呼んでいるわけです。従来、「思考」というのはシンプルで論理的
であるのに対し、感情は非常に複雑で強力で神秘的だと考えられてきたわけ
ですが、これが大間違いなんですね。
 「感情」というのは非常に単純な動物でも持っている。ある状態では
とてもお腹がすいているから、食物がほしいと思ってそれが行動を独占する。
別の状態では危険を感じる、だから即逃げる。そしてまた別の状態では――
というふうに、単純な動物は、こういった反応の仕方をするわけです。
 これに対して、哺乳類や鳥類の一部、タコなどの複雑な動物は、状況に応じて
実にさまざまな反応の仕方をするわけで、これらを「思考」と呼んでいるのです。
従来の考え方とは逆に、「感情」というのは単純かつ機械的であり、「思考」は
実にさまざまな状況の判断や反応の仕方をするものだというふうに、見方を変える
必要があると思います。・・・(略) P194 ≫
 ▼ 「思考」が単純で論理的プロセスであると考えるのは全くの間違えで、
単純で、機械的なのは、怒っているとか、恋をしているとか、腹が減っている
とかの「感情」の方であるという。感情的になって事業停止をしたのではなく、
考えつくした上で、決断する。あくまで、感情は思考の単純形というのは、
自分の経験からみて至極当たり前のこと。一時的恋愛感情だけで結婚、その結果、
冷静に互いを見つめて、考えた結果の離婚の多さが、それを物語る。 熱病に
でもなければ結婚など出来ないが! まずは一息、入れろ!さらに、もう一息!
・・・・・・
4788,「道徳」を疑え! 〜2
2014年04月24日(木)
       「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜        
 * 自分の頭で考えるための哲学講義 ー大抵のことは嘘を見抜くこと
   ーまずは、その辺りを抜粋ー
《 哲学の第一歩は疑うことである。なぜ本質や真理に到達するために疑う
 ことが必要かというと、本当のことは常に隠れているからです。私たちは
ついつい人から聞いたことや、実際に見たものをそのまま本当のことと信じ
込んでしまいがちです。でも、たいてい、それは嘘なのです。これには人間の
弱さや未熟さが関係しています。イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、
それを「イドラ」と呼びました。本当のことを隠してしまう臆見(おっけん)
のことです。 彼によると、人間には四つのイドラがあるといいます。
・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、
 感情や感覚によって知性が惑わされることによって生じます。人間は自分が
 主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できないのです。
・二つ目は「洞窟のイドラ」です。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んで
 しまったかのように、個人の狭い事情により生じる思い込みです。
 その人の受けた教育、影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い
 考えに入り込んでしまう。
・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込み。
 あたかも市場で聞いたうわさ話を信じてしまうがごとく、人は言葉のもつ力に
 弱いもの。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因になる?
・四つ目は「劇場のイドラ」です。あたかも劇場で観たものに強い影響を受ける
 ように、すでに完成した塊のストーリーを目の前に提示されると、人は容易に
 信じてしまうものです。バトルゲームに影響されて犯罪に走る若者がいるように。
 このように、人間は弱い存在であることから、なかなか本当のことが見えなく
 なってしまっているのです。したがって、本当のことを知るにはあえて
 見たまま、聞いたままのものを疑うことが必要になってきます。
 しかもそれを根源にまでさかのぼって徹底してやらなければなりません。
 そうして初めて、答えに到達することができるというわけです。批判的・
 根源的に考える哲学という学問が、出来合いの「正しさ」を植えつけよう
 とする現行の「道徳」とは正反対の営みだということが、これでご理解
 いただけましたでしょうか。・・・ 》
▼ 私が40歳過ぎから還暦まで年に二回以上、秘境・異郷を中心にした
 ツアーに参加して気づいたのが、逆照射の視線である。極北のアイスランド
の地から見れば、日本は極東である。アフリカの最南端のケープタウンから
みても同じで、日本で思いつくのは、空手、忍者、侍、ソニーぐらい。
そこからみた、常識とか、道徳を分解すると、上記の四つのイドラになる。
地球を象に例えると、我々は、その皮膚のヒダに棲むダニかシラミになる。
その視線が行く回数を重ねる度に、強くなっていった。装置産業もあって、
あまり人と接する必要もなかったため、強固な小さな視線しか持ち得ない人
との接点を最小に保つことが出来たことが、人生最良の環境と思っている。
 他人からみたら、変人そのものだろう。それも、人間関係工学(造語?)
を40年以上も独学を続けているのだから、やはりオカシな人間だろう。
おまけに、創業を20歳の時点で決心したため、視線が現状、現象の先を
見つめることが優先となれば、言動は誰から見ても変? それでも変な
創業事業者という隠れ蓑があったが、それが無くなった今!?
・・・・・・
4421, さっさと不況を終わらせろ
2013年04月24日(水)         
 * アベノミックスの理論的背景は、こんなもの!  
    「さっさと不況を終わらせろ」ポール・クルーグマン (著)
 安部政権の経済政策の大元が、この本ではないか? しかし非常に危険と
思うのは私だけでないはず。国力が無い国が、これを実行したらハイパー
インフレになり国家破綻になってしまう。強者の手法ならよいが。
そこで、日本は強者か、弱者なのか? 腐っても鯛(資源、軍事、金融、
世界共通言語、農業などが出揃っている)のアメリカとは立ち居地が違うと
懸念するが。まあ、ジャブジャブの結果、どうなるか見物である。
   ーアマゾン内容紹介ー
 いま最も信頼できるノーベル賞経済学者がついに叩きつけた不況打破への
最終解答!  リーマンショック以降、いまだに好転の兆しを見せない世界経済。
では、各国政府と中央銀行、そしてわれわれが本当になすべきこととは――? 
いま最も信頼できるノーベル賞経済学者が、ついに叩きつけた最終解答。
(本書「訳者解説」より)ー日経「エコノミストが選ぶ」2012年経済図書第2位
≪ 本書の主張はきわめて単純明快。いま(2012年)はまだ、りーマンショック
 以後の不景気が続いていて回復していない。そして失業者の技能や労働市場で
の価値の低下から、その害が一時的なものではなく、長期的被害になりつつある。
だから景気回復策をきちんとやろうということだ。そしてその手法も明快。
【 前書きよりー 昔ながらのケインズ的な財政出動をやろう。
 赤字国債を出して、大ものを一気にやるべきだ。そして中央銀行はそれを
金融緩和で徹底的に支援すべきだ。それに伴う財政破綻だの金利上昇だのは、
悪しき固定為替制度の下にある、ユーロ圏のスペインやイタリアのような
かわいそうな国以外は、全く心配する必要はない。以上のきわめてシンプル
な主張をまとめたのが本書となる。】 ・・・(略)
【 あとがきよりー 本書を読んで、一人でも多くの人が現状の各種政策の
 愚かさに気づけばとは思う。財政出動しようよ。かなり手遅れとはいえ、
復興まともにやって、教育やインフラ補修にどんどん予算だそうよ。そして
予算つけるだけでなく、ちゃんと消化しようよ。必要なら予算執行の細かい
基準とか緩めようよ。日銀は、すでにやっている国債引き受けをもっと
認められた枠いっぱいにやろうよ。それ以外にも、自分たちの保身だけでなく、
日本の人々のことももっと考えてよ。そして増税なんて今やることじゃない
でしょうに! そういうことを理解してくれる人が、少しでも増えてくれれば─ 
 こう書きながらも、それがどれほどはかない望みかは、知らないわけじゃない。
それでも、一人でもそうしたごく基本的な部分を理解できる人が増えることで、
日本経済の未来はすこしはよくなるはずだ、とぼくは信じている。報われない
信仰かもしれないけど…そのために、本書がごくわずかでも役立つことが
あれば、大いなる幸せだ。―山形浩生(訳者) ≫
▼ これで不況が終わるのだろうか?本当に!ハイパーインフレになった時、
 銀行閉鎖かデノミを実施すればよいのは分かっている。現状がすでに待った
なしの事態からみれば、それでよいのか? PIIGSとは違い、自国通貨で
インフレを起すから大丈夫とかは、このグローバルの金融の世界で果たして
通用するのか? そのツケは、社会的弱者にまわってくるので、現在の
選挙システムでは、政権そのものが持たない一年内閣が、続く。ということは、
  ハイパーによる自滅が4^5年先と見るのが道理。
顔色だけは良い麻薬漬患者?あっそう、アベグロ劇場の始まり!
・・・・・・・
4047, 一時停止 ー5
2012年04月24日(火)
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 魂という言葉
≪ フランスのアランという哲学者は、「一つの身体の運命に結びつけられた
 精神が魂(AME)というものである」と定義した。同じフランスの現代の
前衛的文学者たちの中には、魂などという語はもう使えないと言っている人たち
もいるらしい。彼とって人間は魂という言葉ではとらえることが不可能なほど、
細分化され抽象化された存在なのだろうか、だがぼくにとっては、魂という言葉
はまだ或る現実的な手ごたえをもってる。 肉体なしでも成立するかのように
使われる精神という言葉とちがって、魂には人間の肌のぬくみが感じられるんだ。
精神はたしかに個人の肉体を離れて、その死後もかずかずの書物や芸術によって
伝えられてゆく。だが魂は、個人の肉体の死後むしろゆきどころを失って
宙にただようもののように思える。「詩人の魂」という歌があったっけ。
たしか歌の歌詞は忘れられても、そのメロディは人々に口ずさまれて残ってゆく
というような歌だった。自分はいったいどこから来て、どこへゆくのか、自分が
たかだか百年に満たぬ人生を、この無限の宇宙の中の地球と呼ばれる星の上で
過すことに、どんな意味があるのか、そんな疑問にとらえられたことのない人間
はいないだろうか、そして決して本当の答を得ることができないそんな疑問に、
精神は或る仮の答えを出すことが出来る。たとえば、いまのぼくは、自分に
こだわるより、むしろ我を忘れて自分を超えた他人の世界にかかわってゆく
ことに、あるべき生きがいを見出そうとしていると言えるかもしれない。・・≫
▼ アランの魂について、「一つの身体の運命に結びつけられた精神が魂」
 という定義が分かりやすい。 キリスト教徒は、「魂は人間の不滅の本質
であり、魂は死後に 報酬か懲罰を受ける」と信じている。 私の魂の解釈は、
「心は毎日変わるが、魂は、その心を支えている生まれてから死ぬまで一貫した
幹である。感激は心の響きだが、感動は魂の振動」である。秘境の大自然の中で
何度も魂の振動を経験した。それが感動である。全身全霊で何かに没頭した
ときに魂が現れ出てくる。
・・・・・
3681, 逆説を考える
2011年04月24日(日)
 考えるときの一つに、正反対の説を立てる方法がある。「逆も真である」
を試してみると、考え方の幅が広がってくる。とはいえ、逆説を正面から
考えたことはなかったので、その意味を取り上げてみる。学生時代のゼミの
教授が、中根千恵の「日本社会は縦社会=蛸壺社会」という説に対し、
「横社会=資格社会」という説を立てられた。「日本社会には武家社会の
影響が残っており、殿様、家老、家臣、家では家長、嫁、婿、長男、末っ子、
という資格社会ではないか。蛸壺というが、どの世界でも、その資格で評価
されるではないか?」という逆説に驚いてしまった。それを切欠に、
逆照射の見方を常に持つようになった。
   ーYahoo辞書によると、 ー逆説とはー  
1 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を
 言い表している表現。「急がば回れ」など。
2 ある命題から正しい推論によって導き出されているようにみえながら、
 結論で矛盾をはらむ命題。 逆理。 パラドックス。
3 事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、
 その結論に反対する論拠を容易に示しがたい論法。ゼノンの逆説が有名。
 逆理。パラドックス。  ー広辞苑」によると
「衆人の予想に反した、一般に真理と認められる説。また、真理に反している
 ように見えるがよく吟味すれば真理である説」。逆説といえばマックス
 ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
 資本主義といえば「自分の利益の為に利益を追求する」ことだが、
 マックスウェーバーは資本主義は「プロテスタント」は「禁欲」「勤勉」の
 基本理念から出発したと主張。「禁欲」を目的とした「プロテスタンティズム」
 は「勤勉さ」を旨とする「合理的」生活態度を形成した結果、
「計画的・合理的」に企業経営を行おうとする精神が形成されたという、
 逆説は資本主義社会の大きな精神的支柱になった。
▼ 「逆も真なり」という諺が昔から日本にあったが、両者とも成立する
 確信で考える入口になればよい。考えるための一番の近道だが、正論を
 把握した後でないと単なる歪みになってしまう。 
 ・・・・・・・
3316, 人みな骨になるならば ー11
2010年04月24日(土)
 * 神とは ?
 虚無主義の著者の宗教観がシビア。 この辺が、明るい乾いた虚無主義者の
真骨頂である。大方の人は、以下の論に近いのだろう。 アブラハムがつくり
あげた超越的存在の神、そしてユダヤ教、キリスト教、イスラム教の内輪もめ。 
これが、現在の世界の宗教戦争を引き起こしている。
  ーまずは、その部分を抜粋してみるー
 神という言葉を使うと近代以後の知識人は懐疑的になったり警戒したりする
ものだが、それは「神」という概念の内包(意味)に関して伝統的なイメージを
ひきずっているためである。もともと「神」などという超越的観念は、それを
思っている人によって勝手にイメージされてきた。 中世の農夫にとっては
雲の上にいる白髭の老人であり、現代的な信者にとっては、「宇宙に偏在する、
形のあいまいな意志そのもの」である。 どこかの原住民にとっては自分と
同じような腰蓑をつけているオッサンかもしれない。このように、信者たちが
各自勝手に想像しているのが絶対者なのだ。ある意味で、このような多義的に
なんとでも解釈できる教義を備えていない宗教は、レベルもニーズも様々な
多数の信者を引き寄せることができないらしい。だから近代以降のインテリ
たちは、神を否定したがる。確かに、そんなシロモノは実在しそうもない。 
ただ、そうした多様なイメージのむこうに共通項として「それ以上の審級が
存在しないような超越的かつ絶対の存在にして運命の決定者」を想定すること
はできるだろう。それが人間臭い愛や怒りや嫉妬や気まぐれをもつかどうかは、
各信者の想像力の限界を示すだけである。むしろ、その人間の程度を知りた
ければ、その人物が信じている神の特徴を教えてもらえばよい。
神のイメージは、たいていその信者の願望と恐れを投影したものだからである。 
そこで、ここにいう「神」とは「宇宙を統べるなにか」以上のものではない。
そんなものが実在するかはひとまず措く。もしそうしたものが存在するならば、
それとの相談なしに将来を誓うことは人間の分際を越えていることになる。
そして、そうしたものが存在しないなら、ますますわれわれの生や将来には
なんの保証もない。
 〜〜
「その人の程度を知りたければ、その信じている神の特徴を知ればよい。
神のイメージは、その信者の願望と恐れを投影したものである」は、言いえて
妙である。人間が言葉を持ったが故の不安と不幸をカバーするため、未知の
存在の畏敬としての神は、必要である。しかし、それでしかない。
「その人物の程度といえば、連れ添いを知ればよい!」というが、これは
当たっているか?これとは関係ない。神については黙するしかない、
ということか。最後は、神様助けて、というしかないのが人間である。
 ・・・・・・・・
2941,ナチが愛した二重スパイ
2009年04月24日(金)
 「ナチが愛した二重スパイ」  ベン マッキンタイアー著
 新幹線通勤の往き帰りの車中で一ヶ月かけて読んだが、これが何とも面白い。
第二次大戦末期、ロンドン暗黒街のチャップマンは、ナチのスパイとなる。
しかし「二重スパイ」として、ベルリンに偽情報を送っていた実録もの。
ロンドンの当時の札付きの泥棒、ジゴロの生々しい犯罪と、監獄暮らしなどが
詳細に書かれている。現在の犯罪者も似たようなものだろうから、我われ小市民
とは全く異質の存在である。肯定的にみれば「何もしないで一生終わるより、
よほど思いのまま生きることも必要では?とさえ思わせるほどである。 
札付きの犯罪者がその経験を生かして二重スパイになって国家のために大きな
働きをすることになるから、皮肉といえば皮肉。
pー234に 著者は、二重スパイのチャップマンを次のように分析している。
 【 二重スパイのチャップマンの話は、地味なスパイの話とは違う。
スパイ小説なら、あり得ないこととして拒否される内容である。主人公は
悪党であるが、悪党としては決して敗残者ではない。彼の犯罪歴は、軍隊脱走
から猥褻行為へ、女から脅迫へ、強盗から金庫爆破へと段階的に進んだ。
あとになると彼の報酬は多くなり、最初はつまらぬことに手を染めたのを恥じて
いるのは疑いない。この男の本質は己惚れで、自ら評価するところでは大物で、
暗黒街のプリンスのような存在である。 (字数の関係でカット09年4月24日) 
・・・・・・・・・
2577, フロー体験 ー2
 2008年04月24日(木)
 ー まずは、要点を書き写してみる。ー


5152,閑話小題 〜常識とは

2015年04月23日(木)

* 常識とは何か
 アインシュタインの言葉に、『常識とは、18歳までに仕入れたもろもろの
先入観のコレクションである』がある。人生を振返ってみると、まさに先入観
の破壊の連続。 地方の田舎から上京をして、右も左も分からず、多くの壁に
ぶつかり、その都度、先入観の壁が一つずつ叩き壊れていった。
 あれだけ必死に挑んだにもかかわらず失敗と挫折の連続。 何故だろう?
そこで考えたのが、己のの無知、無能の自覚である。実際に多くの挫折を経験
をすれば、認めるしかない。その底から立上り、一歩を踏出すためには膨大な
エネルギーを使った末の知恵を絞り出すしかない。バカの壁の認識と、破壊
である。挫折とは創造前の破壊になる。21歳の夏の‘欧州一ヶ月間の旅行’で、
自分を取囲んでいた壁が粉々に崩壊された。そこで見たのは、西欧文化の深さ。
その西欧からみえた「極東の黄色人種の私」という存在。日本すら知らない、
自分すら知らない私の自覚。あの経験はプラス・マイナス両面で大きな節目。
経験と知識と、それから捻り出す知恵が、人生にとって、最も大事な要素で
あることを実感した。それぞれの国と地域には、そこの常識がある。
それは、そこの常識だが、一歩、二歩離れると、それは非常識でしかない。
常識が悪いというのではない。常識は必要条件であって、絶対条件ではない
ことの自覚を常に持ち続けることが必要ということ。
18歳までに仕入れたもろもろの先入観のコレクションこそが、人生の壁に
なっていることを、早々、気づく必要があるということ。そういう常識の
持ち主の人たちの中で、一生を終えるのも人生。鳥瞰するのも人生である。
・・・・・・
4787,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜�
2014年04月23日(水)
    * 綺麗に止めたい、のですが! 
 実際に自分が当事者になって感じたことは、自分もそうだったが、
他人の卑下の視線と、いい加減さ。地場の中で単一価値観しか持ち得ぬ人の
「上から目線」が、漫画的で面白いといえば面白いが、経験する前の自分は、
こんなもの。倒産といえば、【夜逃げ、自殺、家庭不和による離婚、計画倒産、
連鎖倒産、社会的抹殺】などが思い当たる。娑婆からみれば、良い倒産、
悪い倒産など関係なく、差別対象で、成るほど!と、実感する日々!
弁護士に依頼したことは「30年間、会社取引は綺麗にしてきたので
『立つ鳥跡を濁さずで』終えたい!」に対し、「倒産に綺麗も汚いもない。
あるのは、良い倒産と悪い倒産だけ。今の状態は、それは可能。点数でいえば、
100点はあり得ない。せいぜいで70点!その手伝いをするのが弁護士の役割」と。
「ならば、その70点でお願いします!」で、方針が決まった。 結果は概ね
70〜80点と自己評価。弁護士も、その方針とおり動いてくれ、事業物件の、
全ての買い手がついた。 自宅も、家内が購入を希望し、名義が家内に移って、
現在に至って、今では使用人扱い! 抵当などのの弁済平均が全国平均11%に
対して、40%弱の弁済で、無事終了。一般債権も、労働債権もほぼゼロ。
役員と社員の退職金も規定の7〜8割は支払うことが出来た。  
 中小企業は、万一に備えて事業主の連れ合いに給与を支払い、厚生年金と
健康保険をかけて、残りを本人名義の預金にする。これが「間接保険」になる。 
特に、長期の設備投資には必要条件というより絶対条件になるが、これが
装置事業でないと、その備えをしていない。それと妻など家族に、連帯保証人
にしないのも長年の知恵。 私の場合、40年近く、給与の一割を目安に家内の
給与にしていた。これが、今では、命綱になっている。孫子の攻守の鶴翼の
構えである。 思わぬ震災クラスの社会変動を、家系として経験してきたから
こそ出来たこと。更に保険に入る代わりに、家内名義の預金を40年近く続けて
いたが、塵も積もれば(小)山。 ケセラセラでは、生きられないが、これを
もって計画倒産と巷の噂! 弁護士に、「私の場合でも計画倒産?」と聞いた
ところ、「倒産には、計画倒産と計画的倒産があり、長年にわたり備えるのは、
それ以前の体質の話。『金持父さん、貧乏父さん』という本があったが、
もじって『良い父さん(倒産)、悪い父さん』が基準の言葉。 世間的には、
それを同じに見ているが、似て、非なるもの」との解りやすい回答。 
それを前提に、あの卑しい目線の底の浅さが見え、それが気持ちを大きく支える。 
成るほど、人間は自分の範囲でしか事象を解釈できない。そういう自分自身も
同じことだが。日頃から教養、特に哲学、歴史を学んでいないと、こうなる。

・・・・・・
4420, 暴走老人!  −3
2013年04月23日(火)
   * 孤立化する空間      「暴走老人! 」藤原 智美 (著)
 近所をみても一人住まい老人の家が目立っている。去年には孤独死の老婆が
死後発見された。二年前には、その隣の老夫婦の奥さんが自死。独り住まいの
弧族が目立って多い。そういう我家も何時、いずれ弧族になる? 近くに
スーパーや、コンビ二があるので、不便はないのだろうが・・ スマート
フォンの普及は便利な反面、人と人との係わりを最小にする。また、年寄りは
情報機器を使いこなせるかどうかで二分される。使いこなせない人の疎外感は、
より大きく膨らむ。とはいえ、孤立した老人が不幸か?というと、これだけは
当人しか分からない。大家族の中の孤立の方が不幸のケースもある。
現在、毎日、書斎に4ー5時間はパソコンか読書をしている。それを孤立とは
言わない。問題は、孤立した空間で楽しめるか。≪ かつて農漁村、都市の
商店街のような場所には、仕事や土地(地域)を通じた共同性が存在した。
一方、郊外住宅地に仕事を基盤とした共同性を求めることは不可能だ。
そこは仕事場とは切り離された、文字通り「ペツドタウン」である。
しかも長い時聞をかけて発展した町ではない。そのほとんどが、計画的に一気
に造られたきわめて人工的な町である。当然、造成地という白いキャンバスには、
地域社会の秩序となる規範など存在しなかった。数世代、数十世代にわたって
造られていった町のように、受け渡される土地に根ざした約束事もない。
郊外に暮らし始めた人々は、同質性(家族構成、年齢、収入は似たり寄ったりの
ある家をそなえていた。 彼ら核家族は、古い家父長制や地域共同体の縛りから
自由な新しい家族像、核家族を中心としたマイホーム主義を実践した。
だがそれは一方で、地域社会の力を極端に弱める結果になった。それぞれの
核家族が均質な力をもった存在として、新たな土地で生活をスタートさせる。
彼らを束ねる地域の「権威」もなく、関係の秩序が成立していないその時点で、
互いが強い主張を始める生活はきわめて不安定化する。住みにくい、ストレス
な場所になるだろう。その状況で新住人たちが選択したのは、なるだけ隣人と
かかわらないことだった。互い干渉しないことで、新興住宅地はかろうじで
暮らしの場所となったのだ。(略)・・ 鳥瞰してみると、そこにあるのは
各戸に孤立して存在する家庭群落だった。群れていても、関係しないという
どこか矛盾した場所が郊外である。やがて明らかになったのは、孤立する家が
内部では個室によっでさらに分節化され、家族もまた個人として孤立している
という像だった。新興住宅地は二重に分節化され、最後は個人に行き着く。
それが「孤独な郊外」の本質。だが地域社会が衰弱、家族が孤立する構図は
郊外だけにあるのでない。都市近郊の団地からスタートした「孤独な郊外」は、
都心部の集合住宅にもおよび、今では農村地帯も孤独な郊外化は進んでいる。
こうして日本中の住宅地から地域社会はしだいに姿を消していった。
そして非地域社会化をいち早くスタートさせた郊外住宅地は、現在著しい
疲弊の姿をさらしている。多くは「ふるさと化」が失敗し、二代、三代と
住みつづけ、新しい規範を生みだすこともなかった。最近では大都市圏で、
都心回帰がさらに郊外住宅地の疲弊を早めている。住まいから次世代が
消えた老人世帯は、家そのものが個室化した。・・・≫
▼ 平櫛田中の言葉「子供しかるな来た道じゃ、年より笑うな行く道じゃ・
 行く道・来る道一人道・これから通る今日の道。今やれねば誰がやる・
わしがやらねば誰が やる」がある。これは【「子供叱るな来た道だもの、
年寄り笑うな行く道だもの、来た道行く道二人旅、これから通る今日の道、
通り直しのできぬ道」作者不詳。妙好人(=浄土宗の信徒の誰か)】を、 
言い換えたものと思われる。この位の意志がなければ、生きてはいけない。
そういう私も何時の間に、その年寄りの仲間入り。年齢に気持ちが
追いついていけない日々を孤立化した書斎で、過ごしている! 
・・・・・・ 
4046, 閑話小題 ー癲癇について
2012年04月23日(月)
  * 癲癇とは
 先日、京都で癲癇持病の交通事故で多くの死傷者が出た。発作時には
気を失うというから恐ろしい。 以前も似た事故があった。持病を持った人
にとって働く範囲が決まってくるため本人にとって大変な病。 国内に
120に一人、100万人が患者というから、身近にもいたはずだが何故か
具体的に知らない。10年ほど前のこと。突然、バスの後部座席で後ろの人に
両手で全力で肩を掴まれた。 その時に何が起きたか理解できず、前屈みに
立ち上がり、その手を払いのけた。そして振り返り怒ろうとしたが硬直している。
何かの発作が起きたと判断して騒ぎにはしなかった。次のバスステーションで、
その中年女性が何事もなかったように降りていった。それが癲癇ではないか?
と、思うに数日ほどかかった。今回、100万人も存在していることに驚いた。
100人万といえば、リウマチ患者と同じ。患者本人は人前に出ず可能の限り
隠すので表面化していないという。 
  * 悲しきかな、人生は!
 先日、連帯保証をしている関係で自宅は家内の物件になり、私は宿六に。
弁護士曰く、「爪を切らた貰われてきた飼い猫のように大人しく従順に生き
延びるしかない!」と辛辣。 無理? とすると!
  * フランス大統領が交代?
 フランス大統領選挙でサルコジが落選の様相である。5月6日で決選投票で
交代にでもなったら、ユーロ危機が大きく再燃する。世界経済は毎日がスリル
とサスペンスの日々である。 時の権力者がギリシャ、イタリア、スペイン
などPIIGSを救いざるを得ないのは解る!日米欧の、どこもかしこも際どい状況。 
中国も首脳交代で怪しげな権力闘争が表面化してきた。年末の韓国とアメリカ
の大統領選挙もある。
・・・・・・
3680, 節目どきに ー9
2011年04月23日(土)
  * ふと、思うこと
 まだ何が自分に起きていることが、分かってないのかもしれない。 
廃業、倒産と慌しく現象だけは移り変わっていくが、何か他人様から
「奇妙なもの」に見られているような、これまでの視線とは全く違うような・・ 
それはそれで仕方がない。経済震災・自然震災としても、倒産は倒産。 
それでも、新潟・長岡と職・住が別だったので半分は助かってはいるが。
これから起こる経済動乱を考えると、一年だろう。銀行債権以外の一般債権
などは、ほぼ迷惑をかけないで済んだが、一般の人は、そのことを知らない。 
家内も含め、二人とも厚生年金に40年以上入っていたので、今日明日の生活
の心配はない。弁護士がいうに、「現時点で3割が終了、債権の9割9分以上が
銀行債権で、一般債権を、ほぼ完済しているので、これまでは順調。手続きから
して二年が目安。」 それにしても私自身に、自分の立場に何の疚しさと、
暗さがないのが問題。「これだけは、経済震災と自然震災で、私の力の及ぶ
ことでない」という思いがあるし、実際に、そうだ。 あんまりケロッとして
いるので、30年来の税理事務所の担当に「貴方は、自分の置かれた立場が
全く分かってない!」と注意された。それも分かるが、「じゃあ、どうすれば
良かったのですか?」という内語が、何処かで沸いてくる。 それらしく、
していろ! ということか。しかし時間の経過と同時に、気持ちがジワジワと
追い詰められていくのが分かる。自然災害も含め、それぞれ全国民の問題だが。
・・・・・・・
3315, アポリアと空とぼけ
2010年04月23日(金)
「プラトンー哲学者とは何か」 納富信留著
 *アポリアと空とぼけ  P−36
対話によって突き落とされるこの困惑の状態は<アポリア>と呼ばれる。
それは、どこにも進むことができない行き詰まり、途(アポロ)のないあり様を
意味する。ソクラテスの吟味にさらされ、アポリアに落いった者は、対話相手
メノンが告白するよるように、あたかも「痺れエイ」に刺されたように感ずる。 
対話相手は心も口もしびれて何も言えなくなってしまう。このような対話に
おいてソクラテスは、問いかけ、議論を導く主導者の役割をはたす。しかし
ソクラテスは、対話をかわしながら、自らはその事柄について「知らない」、
つまり、自らもアポリアにあると主張する。その一方で、対話によってアポリア
へと追いやられ、無知を突きつけられた人は、言葉によって鋭く矛盾をついて
論駁するソクラテスが、その問いの答えを実ははじめから知っているのでは
ないかと推測する。さもなかったら、どうしてこれほど鮮やかに、相手の無知を
あばき出すことができるのであろう? しかし、そうしたなかであくまで
「自分もあなたと同じように、知らない」と言いはるソクラテスに、やりこめ
られた相手は、しばしば怒りをぶつける。 ソクラテスは本当は知って質問
しているのに、しらばくれてわざと知らないふりをし、意地悪にも人々の無知を
あばき立てよろこんでいるのであると。 人々はこうして、ソクラテスを
「空とぼけ」の人と呼んだ。「空とぼけ」が、対話するソクラテスの謎を
あらわす言葉となったのである。 だが、ソクラテスの対話を空とぼけ、つまり、
本当は知っているのに知らないふりをしているとみなすのは、対話する相手や
対話を見ている人であり、ソクラテス自身は空とぼけているわけではない。
▼ 学生時代の卒業の年に人事関連のゼミと出会い、そこでの学びの中で、
 自分は何にも知らないという事実を突きつけられ、呆然自失状態。
「学生時代にモット知識を得ておくべきだった!」と、頭がグチャグチャ状態。 
その結果、悩み苦しんだ結論として、死ぬまで学び続けること。 
何があっても、一日ニ時間の読書を自分に課せることだった。しかし、
最近気づいたことだが、「グチャグチャと、学び続ける決心」そのことが学生
時代の一番の学習効果だったこと。ゼミの教授の方針に乗ってしまった
ことになる。「自分は何も知らない」という思い込みが「アポリア」として
プラトン、いやソクラテスが2500年も前に看破していたのである。
15人のゼミの人たちの議論から、「何も知らない自分を一年かけ知った
ことになった。」  本当に有難いことである。 で、このザマ? 
人は人、我は我。 「全て人生は無知の馬鹿踊り」と思えば、楽なもの。 
自分は違う? 貴方だけはね!
・・・・・・・
2940,レーシック専門眼科医院 ー2
 2009年04月23日(木)
視力の矯正方法には、メガネ、コンタクトレンズ、の他に、
レザー手術、有水晶体眼内レンズ、オルソケラトロジーがある。
・レザー手術は、レザーで角膜の形を変えてしまうもの
・有水晶体眼内レンズは、角膜と水晶体の間に、コンタクト・レンズ
 を入れて矯正する方法。
・オルソケラトロジーは、寝ている間にハードコンタクトを入れ角膜に
 クセをつけてしまう方法である。レザーや、有水晶眼内レンズを入れたり
 すると、ドライアイになりやすい欠点もあるという。
 今回の短い先生との会話を再現してみよう。
・私の質問、  レザーや、有水晶体眼内レンズの失敗確率は?
  先生の答え、 数千分の一
・質問、 失敗したり、上手くいかなかった時は、どうなるんですか?
  答え  出血をしたり、レンズがずれたり、黴菌が入って炎症が
     起きたりするケースがあります。
・質問  もしも初期の白内障を取ってもらって、レザーで矯正をしたときの
     中期的なマイナスは何ですか。
  答え  早ければ早いほど、次の段階、緑内障に移行する時期が
     早まることになります。
・質問  私の今の段階での手術は、先生は勧めますか?
  答え  私は元々、手術は最後の手段で、本来はすべきでないというのが
     持論です。今回の場合は、手術は勧めません!何を選ぶかは本人次第。
・質問  もし、手術をしたときに眼の度数が進んだり、
     白内障が再度出るのですか。
  答え  もちろん、度数は同じく進み、白内障も出てきます。
     更に緑内障になる可能性も早くなります。
・質問  近視の進行を止める薬が開発されたと聞きましたが、実際に、どう?
  答え  あれは、過大評価で、殆ど効きません。出しても良いですが、
     効かないものを出すこともないでしょう。
▼ 以上であったが、それにしても良心的な先生であった。身近な二人の経験者
 が同じような忠告をしてくれていたが、「緑内障への移行が早くなる」と、
「貴方の体質は極力、手術をしない方がよい」が、今回の断念の決め手である。
 ・・・・・・・・・
2576, ドル覇権の崩壊 ー6
2008年04月23日(水)           \(⌒∇⌒)/おはよ?!!!
 *アメリカの住宅バブルとは?  P-55
アメリカの住宅バブルを分かりやすく話すと、例えば「10年前に50万ドル
(約6千万円)で買った家が、今は100万ドル(約1億2千万)になっている。
これがアメリカのミドルクラスー中産階級の家である。中産階級というのは
それほど貧乏ではない。日本語の中流という意味ではなくて、もう少し豊かな、
専門職業をもっている小金持ち層のことである。このミドルクラスが自分の家を
最初、一軒目を住宅ローンで買っていたのだが、家の時価(市場価格)が100万ドル
になってしまっているので、残っているローンの残高の3千万円を除いた残り
9千万円分を更に目一杯までお金を借りられる。また銀行も担保力があるかぎり、
家の価値、価格がある限りは、いくらでもお金を貸すのがアメリヵの流儀である。
すなわち一般庶民層までぎりぎりまでお金を借りて、二軒目の投資用の家、
あるいはアパート(コンドミニアムと言う)を買って利殖する。あるいはその
余剰資金を株式市場や債券市場での運用に回す。もともと返済能力があまり
ない人たちまでが、この含み資産であるところの不動産資産を担保にして、
ぎりぎりまでお金を借りている。 そして、これが逆回転(リワインド)するのが
いちばん怖いのである。このことをグリーンスパンFRB前議長が警告を鳴らしていた。
▼ これを読んでいると、まさしく日本のバブル期に土地投資に走った会社と、
目端のきいたサラリーマン達がしてきたことと同じではないか。
(字数の関係でカット12年04月23日)


5151,知の逆転 〜⑨

2015年04月22日(水)

           ー知の逆転ー  対談相手 オリバー・サックス
   * 人間特有の能力とは
 人間特有の能力とは、「文法」と「読む能力」という説。これは50年近くの
読書習慣と、一日一文章の作成から実感するが、少年期に読書週間がなかった
ことがハンデになって現在に至っている。それでも、この習慣で助けられた。
文法こそが、多くの意味をもたらすが、技量をつけるには量をこなすしかない。
≪ ・多くの動物や猿が、40もの異なる危険を知らせる音を持っていること
 が知られていますが、これらはどちらかというと記号のようなものです。
人間の言語では、チョムスキーの言うような意味での「文法」というものが
不可欠になります。文法こそが言語に限りなく多くの意味というものを生み出す
ことを可能にし、言語をクリエイティブなものにします。単に情報交換を目的と
したコミュニケーションのためだけでなく、われわれ自身そのものを表現する
手段としての言語というのは、人間に特有のものでしょう。
音楽もそうです。録音機を持って50万年前に戻れたらいいのですが。
・言語の一側面である「読む能力」というものは、強力で人間に特有なもの。
しかしこの能力は進化の直接の産物ではありません。環境の視覚認識のために
使われていた能力を利用したものです。類人猿では個々の記号を認識するところ
まではできても、テキストを読むというのは無理で、これは人類に固有の能力で
あろうと思います。この能力は、限られた知能しかない場合も含め、おしなべて
人類に共通する能力なのです。 〜p153 ≫
▼ これを人間の能力にも言えること。その力量に比例して「文法」と
「読む能力」が身についていく。「文法」は、話す能力、書く能力。
「読む能力」は、相手の、社会の発信する知識・情報を受止める能力になる。
14年間、これを続けてきたのは、この努力の効果と、その蓄積からくる醗酵の
効果が実感できるため。 ネットによる「文法」の意味とは、<広義の文法は
言語能力であると考え、音声や意味から独立した自律的 な構造を想定し、
それを特に文法と呼んでいる。> 言語能力こそ人間たる思考能力になる。
読め読め読め、聞け聞け聞け、書け書け書け、そして黙れ!ということか。
・・・・・・
4786,自分の頭で考えるための哲学講義
2014年04月22日(火)
         「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜
  * 価値教育とは?
 20歳から30歳までは、変化の連続になる。社会人、結婚、早ければ父親、
と、色いろと変化をしていく。そして、年々、就職先、結婚相手の選定など、
人生を大きく左右する決断が突きつけられる。その中で、大きは危機が
体質の変化時の24歳頃にやってくる。それが人生の大きな分岐点になる。
ここで悩み、基礎を固めておかないと、長い実社会の中で、大きな落とし穴
に落ち込んでしまう。精神的には鬱病、分裂症など。社会的には突然の失業
とか大病とか・・ そこで直面するのが、人生の意味と、価値感である。
その辺りを「アメリカ道徳教育からわかること」の小項目で取り上げている。
   ーまずは、その辺りを抜粋するー
《 価値教育とは、子どもの全人的尊重と、その自主的な全人的な働きによる
 価値の明確化を援助する方式をとる。従って確定した知識を権威として教師
中心に教え込む指導方式とは根本的に違う。・・ アメリカの教育学には、
二つの大きな流れとして本質主義と進歩主義がある。
・前者は、歴史の試練に耐えてきた文化遺産の教育的価値を重視し、学校には
それを次世代に伝達するという、社会から依託された任務があることを強調
するのに対して、
・後者は、子どもの興味・関心・成長欲求を受けとめ、自発性・主体性を尊重
して活動意欲を引き出すことを重視する」と。 そして、本質主義に基づき
価値の伝達に主眼を置く教育が、価値の押しつけにすぎないとして批判される
につれ、進歩主義に基づいて子どもの価値表現や価値判断を重視する教育が
主張されるようになったといいます。そして現在では、両者の統合が課題に
なっているそうです。私が注目したいのは、もちろん後者です。
つまり、子どもたちの価値判断を重視する進歩主義的な教育です。たとえば、
ラス、ハーミン、サイモンらが『道徳教育の革新』のなかで主張した
「価値の明確化」という概念があります。彼らは、すべての人が同じ価値観
をもつことはないという前提のもと、それぞれの人が自分なりの価値観を
確立する手法を明確化しようとしました。 それが次の7つのステップです。
選択すること:①自由に選択する ②複数の選択肢の中から選択する、
     ③各々の選択肢の結果についての十分な考慮の後で選択すること
尊重すること:④尊重し、大切にする、⑤肯定すること、
行為すること:⑥選択に基づいて行為すること、⑦繰り返すこと。
 これらの七つを満たしたものを「価値」と呼ぶそうです。 》
▼ アメリカ的価値観が、そのまま現れ出ている。「神の前で、それぞれが
 経典に従い、自主独立で、前向きに生きなさい」という事だが、更にマトメル
と、【自由に、複数の選択肢の中で、充分考慮した上に、大切に、肯定的に、
選択した行為を、繰り返すこと、を満たしたのが『価値』】ということになる。 
価値観は、それぞれの年齢で変転していくため、人生は、何時も学び続け
なければならないことになる。まずは両親など家族からの価値観から脱皮する
には、この7つのステップは有効にはたらくだろう! そのためには、教養が
必要条件になる!三年前の【3679, 自己を見つめる−6 2011年04月22日
「自己を見つめる 」渡邊二郎 (著) 】が、続きになる!
・・・・・・
4419, この結果に感謝している!
2013年04月22日(月)
 一昨年の倒産劇から数ヶ月あたりから、
「この結末が私の人生にとってベスト?」という思いが心の片隅に生じていた。
他人に言うべきことでもないし、失業させてしまった社員や役員に対しても、
こんなことは口が裂けてもいえないこと。2001年の9・11テロ以来、10年間、
右下がり傾向が続き、リーマンショックで売上げが三分の一まで落ち込んでいた。
経営は死に体に近づき、真剣に止め時を探っていた矢先の東北大震災。もう駄目!
と早めの決断をした。その事業物件の買手が直ぐに見つかり、同じホテル名で
新経営者の下で現在、営業が続いている。一般債権もほぼゼロで、金融債権以外
は思惑通りの清算ができた。会社借り入れの個人保証もあって普通なら個人破産
しかないが、物件の処分が順調だったこともあり、何とか破産なしの無傷で
済ますつもり。担保に入っていた自宅も、家内が買い取ることで確保。 何とか
今までとおり生活をしている。 順調に誰かに経営を渡すのと、この結果の
どちらが良かったか、勿論、前者と思うが、こと私の人生という面からみると、
この方が良かったとも考えられる。 全てがベストに動いてきたから、人類も、
自分もいる。 先日の高校の同級会で、半年前に老舗の会社を倒産させた人が
隣でシミジミと、「この結果で終わったことに感謝している。こんな気持ちに
なるとは思ってなかった」と、現在の私の心情と同じことを、そのまま語り
かけてきた。 これは実際に経験した者でしか言えない言葉。無念で、情けない
自分と、周囲の好奇の視線の中、独りで日々、悶えた結果、この現実をそのまま
受け入れるしかない中で、実はこれがベストの結果だと気づく。「この苦しみを
与えているのは、神(自然)が、何かの意味を気づかせようとしているのでは
ないか」という、フランクルの問いかけである。その時に自然に出てきたのは、
「この経験で私は、やっと半人前になったが、貴方は以前の不幸分を加えると、
半人前から一人前になった」で、ある。互いの心奥の葛藤と、その思いは同じ。
過去を振り返ると、何度かのどん底の青春期の日々にこそ、人生の味があった。
思い出すのは絶頂の浮かれていた日々でなく、瀬戸際で呆然と過ごしていた
日々である。あの時、何かが変わろうとしていた。それと同じ心情が、
「この結果(状況)に感謝!」の言葉に集約されている。底に下りてしまえば、
不安感など消滅。結果を素直に受け入れれば、そのまま安心立命の境地に到達
できるのが人生。実際に倒れ、孤立し、そこで人生を俯瞰すると、全く違う
目線を得ることが出来る。その視線から、これまでの人生を振り返ると、
何とつまらない自分が見えてくる。だから、「この結果に感謝している!」
の言葉になる。なかなか人生は味があり、面白い。
それを味わうのが、これからの人生。 
・・・・・・
4045, 末っ子はつらい ー3
2012年04月22日(日)
 私は10人家族の末っ子。 家が商家だったので誰も自分のことで手一杯、
互いのプライベートを見せないのが暗黙のルール。4〜10歳までは1Fが店舗、
2Fが倉庫と事務所、3Fが住居、4Fには住込みの女子従業員7〜8人が住む。 
食事は、何時も従業員と一緒。 小学校5年になって、7〜8分離れたところに
住居部分が移動した。雑然とした商家では独りで遊ぶしかなかった。末っ子は
親の目が行き届かない分、姉や兄の虐めから自らを守らなければならなく、常に
周囲の顔色を窺がう性格になっていた。特に父親が店と家族と親戚を束ねていた
絶対的存在で、父に媚びるのが効果的であるのを知っていた。そのため?末っ子
の私に甘かった。数年前、新幹線の乗客の会話で、「私は多人数兄弟の末っ子で、
常に親や兄弟から許されてきた。それが今でも直らず、失敗をしても許される
だろうという思い込みの性格が身について、大きな壁になっている」というのを
聞いて、「まさに自分そのもの!」と、驚いたことがあった。家族間では絶対に
互いの陰口はタブーで、兄や姉が他人の噂話をしたのを殆んど聞いたことがない。 
児童心理学では、家族は5人以上が必要という。一人っ子は同年代の心の内を知る
機会が少なく、孤独になりがちになる。 さらに親のかまい過ぎと、兄弟がいない
ため自己中心になってしまう。 家族の立ち位置で、性格が形成されるのは自然
の摂理。数年先が、それぞれの姉、兄の姿から見え、学ぶことが多い。
7歳年上の姉が勉強の仕方とか、自分の夢をイメージ化する重要性などを、
節目ごとに教えてくれた。ある意味で、一番、世話になった人である。末っ子は、
末っ子の欠点と利点がある。冷静にみて、やはり大家族は利点が多い。  
両親の要素もあるが。
  * 末っ子はつらい ー2 2002/05/08
 末っ子は辛いと、姉が聞いたら、「なにをいっているか!」と怒鳴られそうだ。
「両親に、兄姉にみんなに可愛がられて!」と。確かにそうだ。特に両親にとって、
ペットみたいな存在で、亡くなる時もしかり、傍にいた。そして遺言も財産に
関しても、不利にならないようにして亡くなった。 家は両親が死ぬまで常に
お手伝いがいて何時もチヤホヤされてきた。末っ子の特権を充分享受した。 
それと大家族は逆に孤独に強くなる。一人でいつも遊んでいた。後年になって
長姉がいうには、いつも一人で三輪車で遊んでいたとか。今も一人遊びが好きだ。
ノイローゼになる人は一人遊びの出来ない人。 幼児期・少年期は事業の立ち
上げ時で非常に刺激的な環境。 そういう意味で「三つ子の魂百までも」である。
それぞれの性格はその時代の背景と、血液型と家族関係と両親の年齢などによって、
微妙に変わってくる。 長男には長男の立場、末娘ならその立場で決まってくる。 
すぐ上の兄は、私の影的存在で?大人しい性格。「積み木崩し」というタレント
手記があった。長女、次女の次に男が生まれると、その次女がひねて非行に走る
ケースが多いという。  兄妹の立ち位置で、性格が決められる。
  * 末っ子はつらい ー1 2002/05/07
 8人兄弟の末っ子である立場の自分を書いてみる。少年期まで、末っ子は
上からの虐めがきつい。特にすぐ上の兄のそれがきつい。常に気を張って
いなくてはならないのがその宿命。食事も早く食べないと食べ分がなくなる為、
早食いが癖になっていた。多くの兄弟で育った末っ子は社長に向いているそうだ。 
他人の気持ちを読む習性が、それに向くのだろう。それと結婚の相手は長女が
いいとも最近聞いた。たまたま家内がそうだった。そういえば過去に惹かれた
女性は長女で、A 型で、おっとりタイプが多かった。また末っ子は口が堅くなく
てはならない。立場上、それぞれの兄姉の秘密を知る機会が多い。しかし万一
告げ口をしたら、袋たたきにあってしまう。家族はまず出会う初めての社会。
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3679, 自己を見つめる −6
2011年04月22日(金)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
自己を見つめる、その自己とは? そもそも何だろうか? その自己は、
「少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って輝いた」のである。 
この世に表れでたのは、その存在理由があったのである。
  ー 第五章 自己 ー
【 およそ、あらゆる芸術家、学者、政治家、実業家などの、人類社会に
 貢献した人々はみな、その生涯において、自己決定の稀な瞬間を生きとおして、
 それぞれ個性ある一生を築いて、この世を去った。もちろん、際立った、選り
抜きの人々以外でも、考え直してみれば、あらゆる人間がみな、それぞれなりに、
自己の人生と運命を生き抜き、そのかけがえのない人生の軌跡を描いて、
自己の人生を全うしようとして、一生を走りとおしたと見なければならない。
 むろん、この世の人生においては、不運や事故、挫折や失敗が付き物であり、
多くの人々は、志半ばで、不幸のうちで倒れ、意に満たない、悲運のなかで
一生を終えた。けれども、人間はすべて、最後には、自分らしい生き方を、
運命として肯定しながら、この世に別れを告る覚悟で人生を生きるものである。
そこに、ほかならぬ、掛け替えない当の自己自身の人生が一回限りの形で生起し、
代りの不可能な、それなりの個性と必然性をもったものとして刻まれ、こうして、
永遠の闇から闇へかき消え、あるいは不減の魂のなかに久遠の記憶として残され、
少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って輝いたのである。 】
【 大切なのは、人間の存在の必要条件と十分条件とを峻別することにある、と。 
 人間が生物としての機能を果たして生きるということは、人間の存在の必要
条件を満たして生きるということにほかならない。また、人間が社会的存在と
して、なんらかの環境や境遇のなかに置かれて生存を営むということも、人間
の存在の必要条件を満たして生きるということのうちに入る。けれども、それだけ
では、真に人間的な自己自身として生きるということの十分条件が 満たされた
ということにはならない。衣食住の欲求を満たし、胃腸や呼吸が正常に機能し、
なんらかの社会的環境のなかに置かれて生きるということならば、誰もがやって
いることである。むろん、そこに、胃腸の丈夫な人とそうでない人、あるいは
比較的恵まれた環境に生きる人とそうでない人との差異はあるであろう。
けれども、そうした所与の心身の資質や社会的環境のなかにただ置き入れられて、
それにまったく受動的となり、なんら奮起することがないのならば、その人は、
ほんとうには、まだ自己自身に目覚めてはいないと言わなければならない。 】
 ― 自己の存在の十分条件を満たしたかどうか、それも充分かどうか、
   それぞれあろう。それは個性を発揮できたか、どうか。
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3314, 聞きしに勝る3D/TV
2010年04月22日(木)
 最近、昼飯は外食を週一にして、サンドイッチを通勤途中に買ってきて
食べているが、昨日は、新潟駅の中華店でランチ。その後、ジュンク堂書店に
向かう途中、ビックカメラの前を歩いていると、話題の3DTVが店頭にあった。 
昨日の新聞で一部の店舗でデモ展示を始めた記事を読んだ直後だった。
ところで、現在のTVは7年半になるパイオニアの50インチのプラズマ。
当たり外れの、当たり。しかし、地デジには特殊のマシーンを入れなければ
ならないので、替えときにきている。 先週の土・日に家電を見て周り、一度
頭を冷やした今週末に、シャープの60インチのLED・TVを発注と決めたが、
「3D/TVが700万台の新規需要の創造」とかいう週刊誌の広告が気に
なっていた。そこで早速、見たところ、その決心を覆すほどの画面。
映画のアバターを3Dでみて驚いたが、TVは大したことはないと思っていた。 
ところが実際は映画より良い。映画もそうだが、画面と自分の間に空間ができ、
更に画面の奥行きができたイメージで立体感を出している。デモ用の3D/
TVはメガネが固定してあるので、メガネをした時と、しないで見たときの
差が比べることが容易。そこで、比べた結果は格段の違いである。これで
大相撲や野球を見たら、迫力は数倍は違ってくる。デモ用のソフトは石川遼の
ゴルフだった。なるほど週刊誌の見出しの「新規700万台の市場の創造」
の意味が分かった。十数年前に初めてハイビジョンが店頭に出たとき、ソニー
の画像を見たときの驚きと同じである。その時は、暗い舞台にバレリーナーが
白鳥の湖を踊っていたが、立体的な画面に感動したことを憶えている。
それまでのTVとハイビジョンTVの格差と、3Dの映像の差は同じ位はある。
数年後には多くの3D番組が出るだろう。急遽、買い替えは数ヶ月待ってから、
3D/TVにすることにした。 ますます、お宅か! 21世紀とは、
ツイッター、3D/TVにしろ、iPadにしろ、こういう時代だったのか! 
驚きの連続である。「明治は遠くなりにけり」から「昭和は遠くなりにけり」。
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2939,マネー資本主義“暴走
2009年04月22日(水)
 4月19日(日)の 午後9時00分から 総合テレビで
「マネー資本主義 第1回“暴走”はなぜ止められなかったのか
           ーアメリカ投資銀行の興亡ー」が面白い。
  *まずはーNHKのHPの番組紹介からー
【金融危機はなぜ起きたのか。巨大マネーはどのように膨張していったのか。
 マネー資本主義の主役として批判の的となっているのが、リーマンショック
 を起こした当事者でもある「投資銀行」。
     (中間カット 字数の関係で 2011年4月22日)

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