堀井On-Line



4940,閑話小題 〜昭和33年卒の小学校の同期会

2014年09月23日(火)

   * 56年前の坂之上小学校の同期会
 一昨日は、昭和33年卒の坂の上小学校の同期会。 会場は長岡の奥座敷といわる
蓬平温泉の「よもやま館」。 前倒しの『古希』の祝いでもある。出席者が西澤先生をふくめ25名。 
前回より数人少なかったが・・ 18時から始まり、21時からは、近くの部屋に移動して二次会が
開かれ、22時に日帰りの数人と、送迎バスで長岡駅東口近くに無事帰ってきた。
その間の4時間は、タイムマシーンが昭和33年に戻って、大いに盛り上がった会であった。
南は九州、広島、佐渡などから、この会に出席のため、わざわざ帰ってきた人たちがいた。
小学、中学校の集まりは魂の故郷でもある。 10年に一回あるかなしかの会、やはり出席をして
良かった。私のクラスの担任の西澤先生は、来年の9月の27日で米寿というが、健康そのもの。
幾つかの小学校の校長を歴任し、長岡の教育長にもなられた人。奥さんを10年前に亡くされ、
独り暮らし。炊事、洗濯、掃除を全て一人でこなしている。近くに近くの川崎小学校の校長を
している長男が、住んでいるため、一人暮らしの心配は無いという。そろそろ、ガタがきている
私たちとは、出来が違うようだ。 小学校、中学校、高校、大学の同級会も、
今では同期会にぢしないと、人数が集まらなくなってきた。
  
・・・・・・
4573, 2050年の世界 ー7
2013年09月23日(月)       
       「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」〜英『エコノミスト』編集部(著)
 10年前にスマートフォン、タブレットPCが、ここまで普及すると誰が想像できただろうか。 
まして40年先、10年先の端末や、アプリの進化の姿の予測など不可能である。せめて10年先の
情報技術の成果の一端を見てみたいもの。現在でも充分に満足しているが・・・現在、コンタクトを
目の中に埋め込むのが普及しているが、情報端末の埋め込みもあるだろう。
それよりも、それぞれの持っている脳機能にパソコンが連動するような機能も出てくる。
 * 「第十八章 情報技術はどこまで進歩するか」のまとめ ーより
 インターネットはきわめて短期間に社会を変容させた。生み出され処理されるデーター量は
指数関数的な割で 増えているので、経済、社会ともに今後の変化を加速する。
・今後の開発は、ハード的なスペックそのものよりも、人間の思考、発見、知識の共有を
 拡大するものに重点が置かれていく。
・技術そのものよりも、その使われ方に開発の重点は移っていく。
・記憶媒体に記憶できる容量が、指数関数的に大きくなっている今、情報過多がわたしたちの
時代のごく本質的な現象である。情報の蓄積量は世界経済の成長率の四倍、コンピェーターの
演算能力は九倍の速さで増大している。
・電話会社を通じた国際電話の通話量は、一九九〇年以降年間一三パーセントの伸びで
成長していたが、二〇〇五年を境にネット上で通話のやりとりができるスカイプの登場で
減少に転じた。一九八○年代に民営化された電話会社が各国の通信市場を独占していたが、
技術革新によってその地位はより相対化されていく。
・マイクロチップの小型化と高性能化は、あらゆるものをネットワークコンピューター化する
ユビキタスネットワークを推進する。
・ウェブ技術の革新によって以前は集めることのできなかったデータが集められるようになり、
社会、経済ともに変容する。たとえば、すべての自動車がどの道路をどのように何時間かけて
通ってきたかを捕捉できるソフトが完成すれば、保険算定、経費精算などに応用ができる。
・企業は上意下達型から、ウェブを使った知識共有型の組織に変わっていく。
・アメリカの人口の四分の一に普及することを「大衆化」と定義すれば、それにかかる時間は
どんどん短くなっている。電話は一八七六年に導入さ れて大衆化するまでに三五年かかった。 
 一九九一年のウェブの誕生からアメリカの人口の四分の一に普及するまでは、
わずか七年を要しただけだった。
・とはいえ、コンピューターの情報量、情報処理力はまだ、生体の足元にも及ばない。
二〇一〇年の時点の世界中のコンピューターをつなぎ、処理可能な命令数で演算能力を計測
すると、人間の脳がおよそ五分間に発生させる神経インパルスの最大数ほどにしかならない。
▼ シネマなどのバーチャルの空間が情報技術で大きく変わっている。その魅力に惹かれて、
毎週、シネマのバーチャル世界を訪れている。これも情報技術の進化の現象の一つ。
TVも、スマホと連動する情報端末(スマートTV)になりつつある。大衆と一部エリートの
二極化は、ますます進み、その矛盾のため、世界が存続しているかどうか疑わしい。
・・・・・・
4198, 閑話小題 ーとある話
2012年09月23日(日)
    * ランチの席で漏れ聞こえてきた、とある話
 一昨日の長岡駅裏の居酒屋で、一人でランチを食べている時に聞こえてきた話。
 至近距離の六階にあるスポーツジムの帰りらしい6人連れの中年女性。 ある女性Aから・・・
A:「ねえ最近聞いた話だけど、都会のチョットした家には2千万も預金があるというけど、どうなの?」
B:「そんなに持っているの? うちなど遥かに及ばないわ!」
A:「Cさんは、ご主人がお医者さんだから、あるわよね?」
C:「そんなにあるわけないでしょ! 家のローンが残っていて、あれば、そっちに向けてるわよ!」
A:「Dさんはどう?」  少し考え込んでいた彼女
D:「それって一人あたりの金額のこと?」 その一言で、その場がシラーと白けてしまった。
その強力なボケをかましてしまった本人、悪気はなかったようだが横で聞いていて、その場に
飲み込まれてしまった。一年ほど前に、この随想日記で一世帯あたりの預金高について書いたが、
平均預金残高1150万を何故か鮮明に記憶している。
    ーそこでHP内検索で改めて調べてみると・・
≪・一世帯平均平均1150万。人々の実感に近い中央値(答えた世帯の中間の値)は
  前年500万より80万円少ない420万円。
 ・一億以上の預金を持つ人は108万人(総世帯4700万ですから全体の2.3%)。
ー40世帯に一世帯になる。
 ・都会サラリーマンの65歳の年金者の平均値は2500万の貯金を持ち、夫婦で月額30万円の
年金収入があり、30%を預金にまわす。貯蓄残高が1年前に比べて「減った」世帯は40%で、
「増えた」世帯(21%)の2倍近い。
 ・預金ゼロ世帯が何と28・6%と約3割近い。ローン残高を差し引いたら0の人を加えたら、
過半数を超える。 【 金融広報中央委員会が22日発表した2011年の
「家計の金融行動に関する世論調査」による】 ≫
 ▼ 実家で親と同居し、それを引き継いだサラリーマン以外なら、子供を育てあげ家の
ローンを払い続ければ、貯金と借金で、差し引きゼロだろう。 平日にスポーツセンターに行き、
ランチをするというだけで、収入が中の上以上クラス。更に言葉のニュアンスと服装からして、
地方では上クラス。推測すると三人が預金が一千万辺りで、ボケをかました奥様は5千万以上。
日替わりランチを食べながら耳を逆立て聞いている私は、シャーロックきどりの馬鹿そのもの。
ところで少ない私の知人の中で、数人は一億以上を持っている。 (本人から聞いてみた) 
それが身体全体から滲み出ている。それ以上に、使い方が実に巧い。だから金の方から
  近づいてくる。 使い方は巧いが貯め方イマイチの人なら幾らでもいる。いや逆が多い?
  あれと何は使える時に使うもの!森林から出て世界を振り返ると違ってみえてくる。
サバンナには味がある。  
・・・・
3833, 閑話小題
2011年09月23日(金)
   * 病上手の、死に下手
「病い上手に、死に下手」とは良くいったもの。 ただ長生きしても、それで良いのかどうか?
用が済んだら、さっさと消えるのも必要かもしれない。 そう言っていられるだけ、まだいいのか。
 ネット辞書で、【“よく病気をする人はなかなか死な ない”という諺で、江戸から大衆の間で
言われてきた 】病を乗り越え長生きしすぎると「死に損ない」と陰口を言われる。 
それぞれの人に、それぞれの死に時がある、「病上手」のかわりに、「生き上手の、死に下手」
に置き換える場合もある。前の「長生きの死に損ない」という意味と同時に、「人生を上手く生きて
きた人ほど死に際は良くない」ということ。身近の人の死に際は須らく苦悶の末に亡くなっていく。
これも人生のうち。 銀座のクラブのママのブログに「遊び上手の本気下手」があった。 
なるほど!言いえて妙。逆に「本気上手の、遊びベタ」と捻って考えてみると、その方が頷ける?
「料理上手の、床上手」もあるが、これはチョット違う。
   * パソコン・ゲーム
 iPadの有料のゲームソフトを先日からネットでダウンロードして使っている。 
無料のものは多く試みたが有料のものは少し違う。その一つがカーレース。 車の運転席に
座って走る設定だが、iPadそのものがハンドルになってフロントからみえる道路を疾走する。
左右に傾けると左右にハンドルが回る。 設定をしておくと、ある程度の運転をフォローもする。
(大事故にならない設定)終了後にカメラで運転した車をリプレーした映像を写し出してくれ
奇妙な気持ちになってしまう。より面白いものは幾らでもあるはず・・・ 
フリー(無料)のカーレースは元々、後ろ上から運転をしている車をハンドルとアクセルと
ブレーキでコントロール。これも面白い。他にも幾つかフリーのゲームを使っている。
とにかく始めたら止められないで2時間3時間など直ぐに経つ。ゲームに熱中している
子供をみて、心の底で羨ましくさえあった。しかし周囲を見渡してパソコン・ゲームに
熱中している知人は皆無。 ネット世界には、まだ半歩しか足を踏み入れてないが、
底知れぬ面白い渦がトグロを巻いている。 やはり節目は必要。 空即是色である。
 ・・・・・・・
3468. 閑話小題
2010年09月23日(木)
  * 検察の特捜主任検事を逮捕
 検察不信に関して何度か書いてきたが、ついに特捜主任検事が逮捕された。
ウヤムヤに葬りされなかったことが不思議なぐらい。押収資料を改ざんしたというから、
何を言わんかである。強引に逮捕され起訴された何人かの手記を読んだことがある。
彼らは自分で筋書きをつくり、その物語どおりの材料を強引に集め起訴をする。
そこには検察の手前かってな理屈が罷り通るというのが共通項である。 その一端が、
今回の事件に現われている。これまで、国家権力を使い好き勝手に事件を捻じ曲げた所業が
多くあったとが窺える。検察上層部に上るほど、出世のための手練手管の手法を持った輩に
なるから想像を絶する世界?? 今回、逮捕された検事もまさか自分が逮捕されるとは夢に
だに思ってなかっただろう。 これまで手記を書いてきた被害者?が、雑誌などで、多くの
コメントや手記を出すことになる。検察もたまったものでない。情報化で国家権力を持った者でも、
以前のように抑えることが出来なくなってきたのである。手記からすると暴力装置を持った官僚、
それが検察、末端が警察。
    * 尖閣漁船衝突問題について
  ー産経新聞の産経抄が面白い。まずは、その内容からー
 【 加瀬英明氏と「元中国人」石平氏との対談集『ここまで違う日本と中国』を読むと「目から鱗」
の話ばかりだ。 例えば「公」を大切にする日本と「私」しかない中国だ。お二人は「論語」にある
 「父親が羊を盗む話」をあげ説明する。
 ▼ある人が孔子に「友人は正直者で、父親が隣の人の羊を盗んだことを知ると、
父親を告発しました」と語る。すると孔子は怒る。「何よりも、孝が大事だ。父親がどんなに
悪いことをやっても、外に言ってはいけない」。  石平氏は「孔子は公を無視している」という。
 ▼これに対し中国とは別の儒教を作り上げた日本人は「孝」よりも「公」に尽くす「忠」を重視して
きたそうだ。何事か起きると、日本人が「相手に悪い」と思うのに対し中国人は「相手が悪い」と思う。
  明らかに「公」と「私」の精神の違いだろう。
 ▼そう考えると、沖縄・尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件での中国側の対応はよくわかる。
現場が日本領海であるとか、国際社会の秩序に従うとかいった「公」の気持ちはさらさらない。
ただ自国の船を守り、日本への恨みを晴らす「私」の基準で騒ぎ、日本を恫喝しているのである。
 ▼その漁船衝突事件で、こんどは日本の大学生ら約1千人の上海訪問まで延期になった。
温家宝首相の招待で予定されていたが、中国側が「今はふさわしくない」と断ってきたのだそうだ。
報復のつもりだろう。楽しみにしていた若者たちには気の毒だ。
 ▼容易に理解し合えそうもない精神構造の違いを覆い隠して交流してみても、あまり意味が
あるとは思えない。事件を通じ違いを知ったとすれば、その方が真の友好につながる。
断られたことを感謝してもいいぐらいだ。】
―以上だが、中国頼みの日本は、アメリカと中国の狭間にたって翻弄され、結局は資産とノウハウを
奪い去られる運命か。「第二次世界大戦で、日本が中国でしてきた所業を、今度は日本にして何が
悪い」という論も成立する。中国とアメリカの間の「独り紙相撲の日本」という様相をおびてきた。 
  ・・・・・・・・
3093,久々にジョーク −1
2009年09月23日(水)
 一時期にジョークに興味を持って100以上を収集した。どれもこれも面白いものばかり。
ところが、ある時期から、これはという面白いものが無くなってしまった。ハッキリいうと、
ジョークは聞くほうに、それなりの素養が無いと笑いが生じない。周囲には、その捻りの妙の
可笑しさが解る人は極少?で、何時の間にか、酒席でも話すのを止めてしまった。
先日、借りた「続・ジョーク世界一」に、面白いものがあった。下ネタの、聖(ひじり)ものと、
老婆もの。最後の一言で落とすのが、ブラックものの面白さである。それにしても久々にニヤリ。
  * 神の思し召し
 医師と密会していた女性、やがて妊娠することに。困り果てた二人はいろいろ対策を考えたが、
名案が浮かばない。出産がどんどん近づいてくる。丁度そのころ、一人の神父が腸の手術をする
ため入院してきた。医師はひらめいた。 「神父の手術を終えたところで、赤ん坊が誕生したと
言って神父に押しつけよう」医師に計画を打ち明けられたが、女性は懐疑的だった。
「それしか道はないんだ。やってみよう」 医師は女性の出産と神父の手術を同時におこない、
神父に向かって言った。「神父さま、こう言っても信じられないでしょうけど・・・」「何だったね、
何があったんだね?」問い返す神父に耳元に「神父様のお腹に赤ちゃんが宿ってました。
幸い赤ちゃんは元気です」「そんなバカな。ありえない」「そのありえないことが起きたんです。
わたしがこの手で取り上げたんですから、間違いありません」「奇跡だ!」「ええ、奇跡です」 
奇跡の言葉に弱い神父は`すべては神の思し召し′と、結果を受け入れ、赤ん坊を連れて
修道院へ戻った。それから十五年経ったある日、神父は息子を呼んで語り始めた。
「おまえも十五歳になったんだから、わたしは真実を語らなければならない。
実は・・わたしは、おまえの父親ではなく…」「何なんですか?」「母親なんだ」驚いた少年は
問い返した。「じゃあ、お父さんは誰なんですか?」「これは絶対に内緒だぞ。おまえの父さんは
となり町のあの大きな教会の司教さま・・・」  (字数制限のためカット 2012年9月23日)
・・・・・・・
2728,  議論に絶対負けない法 −3
 2008年09月23日(火)
  議論に絶対負けない法」−3   ー読書日記
物語になるまで、筋書きに対する準備に徹する、それも楽しんでやれるかどうかである。
以下は、この本の一番好きな部分である。成功のノウハウが、この部分に全て含まれている!と、
いってよいほど。この天才的な弁護士が百戦百勝している最大の秘訣である。
好きこそ、ものの上手けれというが、何事も好きになり、その準備を楽しまなければならない。
  Pー195
  *私が百戦百勝している最大の秘訣
 準備!そこから魔法がはじまる! だが私がそう言うと、若い弁護士は当てが外れたような顔をする。
彼らは労働と呼ばれる退屈なものを迂回できるような、楽な方法を知りたいのだ。
本当の準備は労働などではないと彼らに説明できればいいのだが…。準備とは、創造する喜びだ。 
  (字数制限のためカット 2011年9月23日)
・・・・・・・・・
2007年09月23日(日)
2364, 哲学とは何か、考えてみようか?
          Good☆Morning (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
池田晶子から、再び中島義道に戻るのも良いだろう。脳の筋肉を使わないと独りよがりの理屈の捏ね回しに
なってしまう。色いろな本を手がかりに、自分で脳の筋肉を使うしかない。その手っ取り早いのが哲学。
それも、同じことを同じように、何度も繰り返しながら、一人ブツブツと独り言を呟きながら・・・
私の場合特に、自分の経験を照らし合わせて理解することが多い。何ごとも初めは心と頭を空にして
(空即是色から始めないと)新しいことは出来ない。解ったふりとか、それまでの些細な知識や経験は、
全て邪魔になる。それが創造である。 哲学は何ごとも一度横において、原点を見つめることである。
 「狂人三歩手前」 ー中島義道著
ー夏には哲学がよく似合うー  P-51
メルローーポンティは言う。「真の哲学とは世界を見ることを学びなおすことである」脳髄の中はクルクル
思考が回っている。この「私」とは何者なのか?太陽が眩しい「いま」という時、それは何なのか?太陽から
私の身体までのこの空間とは何なのか?このごろとくに考えること。それは、「見えるもの」は「見えないもの」
に支えられて初めて見えるということだ。他人の心も見えない…膨大な数の「見えないもの」に支えられて、
特定の風景がいま眼前に広がっている。ここにメルローポンティとカントを繋ぐ線があるのではないか。
カントの言う「経験を可能にする条件」とは、「見えるもの」を見えるようにする「見えないもの」なのだ。
フムフムいいそ、いいそ…。哲学者とは夏の海岸でも、こういうことを絶えず考えている変な奴。
メルローポンテイは次のようにも言う。「哲学者とは、目覚めそして話す人間のことである」(『眼と精神』)。
「目覚めている」とは、絶えず周囲世界を見ているということである。そして「話す」とは、それを絶えず
言語化しているということ。この条件さえ満たせば、誰でも哲学者になれる。というより、すでに哲学者。
いや・もう一つの条件を加えておこう。 (以下、字数の関係でカット2013年9月23日)


4939,「あなたの家の宝物は何ですか」

2014年09月22日(月)

* 我家の宝物は私です!      〜『お金の正体』日下公人著より
 「あなたの家の宝物は何ですか?」に、「わたしです!」の答えが良い。 
何度も書いてきたが、多くの兄姉の末っ子として生まれ、両親、とりわけ父親に孫のように
扱われて、幼児の頃から、法事や外出時には、私を連れ歩くことが多かった。また、母親も、
忙しい商売の最中でも、時々だが、寝しなに、「世界で一番大好き」と抱きしめてくれていた。
その温もりが、人生の修羅場で、自分を大きな支えになっていた。
親に愛された温もりこそ、お宝になる。 ーその辺りからー
≪ 昔、伊藤忠商事の人事部長から、こんな話を聞いたことがあった。
 若い女性を採用するとき面接をするが、あらかじめ渡した質問状に
「あなたの家の宝物は何ですか」というのを入れた。そうするとたいていは
「なんでも鑑定団」に出てくるようなものを答えるが、「子供」と書いた女性がいたという。
「子供って何ですか? あなたの子供のはずはないでしょう」と聞と、彼女は「そりゃあそうです、
わたしのことです。わたしがわが家の宝です」と答えた。父親が工場で働いているので、
夜遅くまで残業して、疲れて帰ってくるが、ときどきは酒を飲んで、酔っ払ってから寝る。 
そのときはわたしの頭をなでて、『わが家の宝は子供だよなあ』と言う。
父さんがそう言ってたから、わたしは家が宝だと思っています、と答えた。
 人事部長は感激して採用したが、「はたせるかな、いい女性でした」と語っていた。
つまり、かつての日本では、家族のため、が働く動機の第一で、お金のありがたさは、
子供が育つことにあったのだが、そういう日本がなくなってきて、お金はいったい
何をするためのものですか、ということになってしまった。だがふたたび、お金の背後に
ある人間の気持ちとか社会とかを考える時代がやってきたと思う。・・・ ≫
▼ やはり基本は夫婦仲の温もり。温かい人の根っこが、そこから生まれてくる。
 その割には、温みが少ないのは何だろう? 終戦直後に生まれて、ドサクサの生活環境も
あったのか? 20〜30人に一人の割合で、その温もりが、そのまま出ている人がいる。
それが品位と重なった時、内なる優しさが熟成される。 「あなたの(家の)お宝は何?」
の質問そのものが、お宝。そして、「わたし」こそが、お宝である。 その「わたし」とは、
外界との触媒の中で、「こころざし」「行蔵」「温もり」「知識」「品性」などから成り立っている。
ということは、子供に、一流の芸術作品、一流の人物、大自然の景観などにシャワーのように
浴びさせるのが、親としての勤めになる。それ以前に、まず自分に対しての勤め。
それこそがお宝である。  とすると、やはり家系と、温もりが大事?  
・・・・・・
4572, ほめことば練習帳
2013年09月22日(日)
  * ほめることは、それだけで立派な行為!    「ほめことば練習帳」山下景子著
 これは良い本である。テクニック書でなく、幸福への玉手箱と言っていい。
 ーまずは、「はじめに」の冒頭部分からー
《「ほめる」は「秀(ほ)」を活用した「ほむ」が語源だといいます。「秀」は「穂」と同じで、
高く秀でているものや、目立つもの、優れたもののこと。古くは、祝ったり、祝福したりするという
意味で使われていた。「ほめる」というと、どうしても、よい評価を与えることと思いがちですが、
そうではなかったのですね。素晴らしいことを共に喜び合うという方が、本来の「ほめる」に近い。
古代、日本人は、言霊を信じていました。
 言葉には、魂がある。 そして言葉に出すことによって、事柄として表現する。
そういう思想もあって、素晴らしいと思ったことは、どんどん口に出して伝えようとしたのでしょう。
良いのものは、相手に良いと伝える。優れたものに感動した時は、それを周囲に伝える。・・・・
 一方、ほめられるということは、嬉しいこと。これは、ご褒美にもなります。
特に上位者や権力者からのお言葉は、ありがたいご褒美となります。
そこから次第に、高い評価を与えるという意味に使われるようになる。
 ここでは、祝福し、共感し合う、そんな「ほめ言葉」を原点に、さまざまな言葉が収集されている。
題名は、ほめことば練習帳だが、練習して上手になりましょう、といったテクニック的内容でない。
 ほめ言葉という贈り物を、6つの引き出しに分類して収集している。  それを6つステップとして
   第1歩 感動を伝えるほめ言葉    第2歩 能力に敬意を表するほめ言葉
   第3歩 潤滑油となるほめ言葉    第4歩 魅力を引き出すほめ言葉
   第5歩 人生を応援するほめ言葉   第6歩 幸せになるほめ言葉 がある。  》
▼「感動を伝え、能力に敬意し、潤滑油にすれば、相手の魅力を引き出せて、人生を応援し、
幸せにする」のがほめ言葉。訓練のステップを踏めば、ほめ言葉は、素晴らしい「贈り物」
「褒美」になる。褒美とは、美しさを褒めること。そのためには褒め言葉の語彙を多く知って
置かなければならない。人生を振り返って、もっと、褒める訓練をしておけば良かったと深く後悔。
贈り物というより、チップとして気楽に与えれば良いことは分かっているが、実践となると難しい。
それにしては、営業関係者のそれは、まずは枕言葉として自然と出てくる。
女性の職場いた頃に気づいたことは、美人ほど、「美人だね」、「可愛いいね」と言われないこと。
だから、三回、間接的表現で言うことにしていた。元気がないとき、「どうした?」に、
「色いろあって落ち込んでいるの」に対して、「美人は大変だ!周りと同じことをしても、
それだけで何か言われるからね」とか。「美人は性格が良いのが多いから、それだけで好き」とか。
「服装のセンスがいいね。姉から、女性の見分け方は、化粧を服装のセンスを見なさいと
教わったけど・・」とか。殺し文句を言ってきた割に持てなかったが。 美人でも、優秀な人でも、
直接に「認証」してもらいたいのが人間。だが、なかなか言って貰えない。
そのため、優秀な人、美人ほど、大金を払う。ブランド物を身につけるのも、そのひとつ。
母の口癖「相手を認めてあげなさい!誰もが、認めて欲しいのだから」があった。
その割に実行しなかった。「ほめること、感謝すること、それは既に行為である」が基本。
・・・・・・
4197, 呪いの時代 ー14
2012年09月22日(土)
                 「呪いの時代」内田樹著 
  * 「リスク」と「デインジャー」の二種類の危機 ー第10章 荒ぶる神を鎮めるー
東北大震災は想定を超えた千年に一度の事故。それでも東北は地震対策を最大限していたので、
最大規模の地震と津波にしては、これでも最小の被害で済んだ。 しかい太平洋沿岸で近い将来、
必ず大震災が起こるというから、大変な事態である。恐らく、日本経済を先導してきた東海地区も
工場の移転が始まることになる。
日本は、ますます疲弊することになる。
 ー以下の、「リスク」と「デインジャー」が分かりやすいー
≪ リスクレというのはコントロールしたり、ヘッジしたり、マネージしたりできる危険のこと。
「デインジャー」というのは、そういう手立てが使えない危険のことである。喩えていえば、
W杯のファイナルを戦っているときに、残り時間1分で、1点のビハインドは「リスク」である。
このリスクは監督の采配や、ファンタジックなパスによって回避できる可能性が辛うじてある。
一方、試合の最中に、ゴジラが襲ってきてスタジアムを踏みつぶすというのは「デインジャー」である。
対処法は「サッカー必勝法」のどこにも書かれていない。だが、そういう場合でも、周囲の状況を
見回して「ここは危ない、あっちへ逃げた方が安全だ」というような判断ができる人間がいる。
こういう人はパニックに陥って腰を抜かす人間よりは生き延びる確寧が高い。でも、いちばん
生き延びる確率が高いのは、「今日はなんだかスタジアムに行くと厭なことが起こりそうな
気がするから行かない」と言って、予定をキャンセルして布団をかぶって寝ていた人である。
9・11テロの日も、「なんだか『厭なこと』が起こりそうな気分がした」のでビルを離れた人が
何人もいた。彼らがなぜ危機を回避できたのかをエビデンス.ベースで示すことは誰にもできない。
 ・・・東北大震災で、助かった人は、それが単なる偶然であり、生き延びたことに『理由』を
求めるのは愚かなことである」と言うような発言をしてはならない。それは死者を二重に穢す
ことになるからである。
私たちがもし幸運にも破局的事態を生き延びることがあったとしたら、私たちはその都度
「なぜ私は生き残ったのか」と自問しなければならない。「他ならぬ私が生き残ったことには
理由がなければ済まされない」という断定は誇大妄想でもオカルトでもなく、人間的意味を
「これから」構築するための必須条件なのである。だから、WTCをテロの直前に離れた人が
「なんだか『厭なこと』が起こりそうな気がして」というふうに事後的に自分の「異能」を
発見するようになるのは当然のことなのである。そうすべきなのである。
私が生き残ったことに意味があると思わなくては、死んだ人は浮かばれないからである。
誰かがそう思わなければ、被害者たちは殺人者の恣意に全面的に屈服したことになる。
そして、その断定を基礎づけるためには、自らの責任で、長い時間をかけて、ほんとうに
「デインジャーを回避する力が人間には潜在的に備わっている」ということを身を以て証明
しなければならない。だが、私たちの社会は戦後66年間あまりに安全で豊かであったせいで、
危険をすべて「リスク」としてしか考察しない習慣が定着してしまった。「デインジャー」に対処
できる能力はどうすれば開発できるのかについての「まじめな議論」を私はかって聴いたことがない≫
▼ 去年春の事業の帰結は、9・11テロと、9・15リーマンショックと、3・11東北大震災の
「デインジャー」によるが、「リスク」レベルの要素が無かった、とはいえない。 それでも、
当初からの事業設計に万一の「デインジャー」対策を組み込んでいたので、九死に一生を
得ることができたが? 「家族経営はしない(妻子を事業に入れない)」「家内の通帳は別だて」。
「予備資金の積立」は、9・11による売上減で青くなり、始めたばかり。
これを一部でも使いざるを得なくなった時は、迷わず廃業と決めていた。御陰で事業をたたみ裏山に
辿り着いたが、下を見るとノンビリとした世界が見える。外海の超大津波が見えない!のである。
・・・・・・
3832, 毒を溜めない! 日々 ー2
2011年09月22日(木)
  * 言葉の毒は、人も自分も殺す魔物
 脳に毒が溜まる原因となる「毒のある言葉」を平気で話す人がいる。という私も、その手になるか。
怒りは感情の動物、それは仕方ない。しかし、その場限りにすればよい毒言葉を、何度も何度も繰り返す。
そのうち、その言葉がヘドロとして心に溜まり支配されたときに、「怒り」が「怨念」に変わる。それは本人に
とって猛毒になる。 怨念は相手を殺すが、自分も同時にやられる。「人を恨めば穴二つ」である。 
 9・15のリーマンショック以来、会社の売上の激減が続いてから、身近に中村天風の「箴言集」をトイレと、
書斎の机近くの本棚に置き、ことあるごとに読んでいる。状況が状況、どうしてもマイナーの気持ちになるが、
天風の言葉は、それを半減させる効用がある。何ども読み返すと、その味わいが深くなるのが天風の言葉。 
天風の本は20数年前から読んでいるが、歳を重ねるほど心に響いてくる。老化は人の心を冷やす働きがある。
人間の肉体も生(なま)もの、古くなれば傷んでくる。 長く生きた分、娑婆の家賃は高くなって当然と痛みを
受け入れるしかない。マイナス言葉が特に人間の精神を蝕んでしまう。しかし精神が傷むからマイナーの言葉に
支配される側面もある。人間で一番大事なのは健康だが、それに劣らずに大事なことは「驚く心」。 
何にでも興味をもって、その存在に驚くこと。「存在」と「認識」への原初的な問いかけである。
「あれは、こう、それは、こう」と、何を見ても分かったと思い込んでしまうのが老い。若いのに老化してしまって
いるのが大部分? 無知は老化に極似している。 家族や身近な人などの刷り込みで壁をつくりあげられている。 
それを一つ壊している間に、他の壁が、さらに立ってくる。 その壁が人間の脳には毒になる。 言葉は恐ろしい
魔物の側面がある。特に他者への侮蔑の言葉は、その人間の限界を明確に浮きだたす。 相手を傷つける数倍も
自分を傷つける。それは弱者の武器になるが、
自分自身に対して返り矢になる。 特に老醜は心しなければならない。愚痴と怨念がそれだ。それにしても毒が
底から沸々湧いて出る。それを常に浄化しておかないと顔に出る。 やはり宗教しかないのか、
人間は! 明るい天国か浄土のイメージが毒を消してくれるのか?
・・・・・・・
3467, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー11
2010年09月22日(水)
  * アフリカに魅せられて ー5
 アフリカは、ケニア・タンザニアに4回。 南アフリカ、西アフリカ、モロッコ、エジプト、それぞれ一回、
そしてイスラエルのコースでシナイ半島に立ち寄った一回を含めて9回行ったことになる。あとエチオピアか、
マダカスカル島に行きたいと思っている。アフリカの魅力は手付かずの大草原と、そこに住む野生動物と原住民。
それぞれの部落で社会形成が成されていて、彼らと我われの社会と何が違うのだろうか考えさせられる。 
父親がいて、母親がいて、子供がいて、それぞれの家庭がある。そして集落があって、酋長がいて一族を束ねている。
その視点で現在の自分が住んでいる社会と何が違うというのだろう。ポストモダン主義は、それを指摘した。
現象の背後にある構造から、これまでの欧米=先進国という思い込みを根こそぎ疑問を持ち、未開発地域の
人たちにも同じような文化が存在している事実に注目した。戦国時代、そして江戸時代の日本に日本を訪れた
宣教師や商人が、日本の文化レベルの高さに驚愕した手紙などが記録で残っている。それがアフリカのマサイ族の
部落などから感じ取ることが出来るのである。それはアフリカだけでないが。初めてアフリカに足を入れる前までは、
恐ろしく未開発で、文化程度の低い地域と思い込んでいた。しかしサバンナで出会うマサイ族の衣装と野生動物から
身を守るために持っている槍の取り合わせは、決してパリの美しい女性のセンスにひけをとらない。
サバンナの背景にピッタリで様になっている。彼らは彼らで何処かの街の市場で、自分に似合った柄の羽織?
を買い求め着ている。それを上から視線で見る輩もいるが、現地でみれば自分の無知を知ることになる。 
その視線で自分に流れている日常を見直すと、小さな自分の世界を見直すことができるのである。
 ・・・・・・・
3092,つれづれに ー閑話小題ー
2009年09月22日(火)
  * 自民党総裁選挙だと!
 民主党が政権を取り、自民党が新たに建て直しのための総裁選挙が始った。早くいえば敗戦処理のための一期だけの総裁である。
三人がTVで議論をしていたが、民主党の閣僚の斬新さと比べたら明らかに見劣りがする。勝てば官軍、負ければ賊軍で、まともなのは
河野太郎だけで、二人はボケ。派閥領袖達が談合の結果、谷垣禎一を総裁にするために西村康稔をワザワザ擁立したのはミエミエ。
その筋書きを国民が見ていることを老害連中には理解できないのである。 恐らく谷垣になるのだろうが、その方が日本にとってよい。 
それだけ自民党が嫌われ、立ち直りが遅れるからである。今のところ政権交代は現在のところ、それを選択した国民の方が、驚いているはず。
数年間は自民党の、これまでの悪臭が際立ってくる。 官僚に牛耳られてきた結果の腐りが、である。
  * 図書館にて
 昨日の午後に自宅近くの図書館に入ったところ、入口近くカウンターの7〜8人の館員が一斉に私を見ている。
それも全員が立ち上がっていて氷ついている。 一瞬何ごとか竦んでしまった。 次の瞬間、一人の男が怒鳴りだした。 私が入って来たので、
中断したようだ。 ホームレスのようで目が据わっている。何かの欝憤を晴らしているようだった。 対応が悪かったのか?館内でトラブルを
起こして追い出され悪態をついたのか? ところが「俺は長岡高校が大嫌い」だとか、要領を得ないことをいっている。二メートルほどだったが、
強盗でもないので無視をして本の返却をした。あの館員達の顔からしたら、かなりの剣幕だったのだろう。館員が受付の外で対応していたが、
ああいうのは相手との間隔をつめて身体を逆に密着すると、相手も気が飲まれる。 それにしても、銀行強盗に出くわしたような雰囲気だった。 
ホテル業は1〜2年に一度、流しのヤクザが因縁を創作してトラブルの演技で金を強請にくる。
また酒に飲まれた機嫌の悪い客が怒りをぶつけてくる。現場は、本当に大変である。 
  * 5連休か〜
 (以下、字数の関係でカット2008年09月22日)
・・・・・・・・・・
2727, ザ・オオズモウ
 2008年09月22日(月)
  *大相撲が面白い!
 ロシア人力士の麻薬事件と理事長辞任の異常事態の中で大相撲が始った。一場所を中止をする位の大事件なのに、
それ以上は騒ぎ立てなかった。ロシア人が不服を申し立て、そこに注目させた戦術が良かったようだ。 所詮は、その程度。
これからも次々に同じような問題が起こるだろう。大相撲の始まりは、神社の神事で力自慢の余興から始った。 
歌舞伎と類推すると、その本質が見えてくる。その意味では、外国人に開放したことで割り切るべきは割るきるべき。
歌舞伎に外国人開放したと同時に、それは「ザ・カブキ」に変質してしまう。柔道が「ジュウドウ」に変わってしまったのと同じである。
大相撲は、「ザ・オオズモウ」になってしまったのである。それが不可能なら、システムそのものを変えるべきである。
それと「国技」とかいう名前も返上すべきである。外国人の総量規制を一部屋一人ではなく、一国一人とし、20人以内にすべきだろう。
一年に2度位、それぞれの部屋単位でドーピング検査をするようにして、問題が発覚する前に処分するべき。
もちろん、抜き打ちは当然に徹底すべきである。日本人と外国人のマリファナに対する罪悪感が違うから、尚のこと徹底すべきである。
  *立ちあいの厳格化で、朝青龍が引退?
 最近になって気力が衰えていた朝青龍が、両手を確実についての立ちあいのため不調である。この力士の特技が立ちあいの張り手である。
下位の力士が横綱に張り手は出来ないのを逆に利用して張り手を武器にしていた。地位を利用した戦術と感心していたが、両手の手つきでは、
張り手がやりづらくなった。これで、力が半減してしまう!数場所以内の引退もあるだろう。新たな戦術をつくりだして再出発するには
気力が衰えている。しかし、ヒール役としての彼の役割は、あまりに大きい。前の理事長が擁護していたから、あれだけの不祥事の中、
引退をしないで済んでいたのだから、これまでの所業の積み重ねからして、新理事長の下では早々の引退だろう。
元もと芸能的色彩の強い業界だから、麻薬あり、リンチ殺人あり、八百長あり、それはそれで結構じゃないか! その辺が結論。 
 後記)2002年〜4年にかけて大相撲を取り上げていたが、成るほど時代は大きく変わっている。


4938,閑話小題 ー節目年齢の呼称と、厄年

2014年09月21日(日)

   * 長寿年齢の呼称と、厄年    〜還暦は満年齢、その他は数え年〜
 先年、還暦が終わったと思ったら、あと半年で古希になる。色いろあったが、アッという間である。
ここまで生きてこられたことに我ながら驚いている。 同期の男の4人に1人の割合で亡くなっている。
これが10年後には2人に1人の割りになる。もう、何時お迎えがきても、死に時と割切るしかない。
  ーそこで長寿年齢の呼称を調べると
60才 還暦(かんれき) 60年で十二支の組み合わせが一回りすることから。
70才 古稀(こき)  唐の詩人、杜甫の詩「人生七十古来稀なり」にちなんで。
77才 喜寿(きじゅ)  喜の草体が七十七と読まれるから。
80才 傘寿(さんじゅ) 傘の略字が八十と読まれるから。
88才 米寿(べいじゅ) 米の字を分解すると八、十、八。
90才 卒寿      卒の通用異体字が卆だから。
99才 白寿(はくじゅ)  百の字から一を引くと99になるから。
100才 百寿(ももじゅ) 白の字に一を足すと100になるから。
108才 茶寿    草冠を二十 その下が米に見立てて88を足すと108になる。
111才 皇寿   皇の字を白、一、十、一に分解して99を表す白にに足すと111になる。
112才 珍寿    112歳以上は珍しいため。
 ところで、人には「厄年」がある。人生の中で不幸や災難が降りかかりやすい年のこと。
厄年は、中国の陰陽道・思想からもたらされたもので、これが一般に広まったのが江戸時代のこと。
 江戸時代には、厄年は数えで男性が25歳、42歳、61歳。女性が19歳、33歳、37歳だったが、
現在では、男性が25歳、42歳、女性が、19歳、33歳とするのが一般的である。
その中で、男性は42歳、女性は33歳が「大厄」と呼び、その前後を「前厄」「後厄」といって、
恐れる風潮がある。
 自分を振り返ると、その辺りが絶頂期であると同時に、大きな落し穴があり、節目時でもあった。
家長制度のあった時代から、核家族、弧族の時代へ変化している現在、果たして長寿が幸せか
疑問である。 まずは、父の亡くなった歳まで二年が目安。 次の目安が喜寿が7年数ヶ月。
傘寿まで11年ヶ月。 健康年齢(介護を受けないで済む年齢)を3年先と想定して、人生の余白を
埋めていくことが当面の判断基準になる。老いても3S(チャレンジ、チェンジ、コンペティション)
の開発と、フラッシュで浮かんだ記憶を捉えて、遡ることにヒントがありそうだ。
 「いい年をして」の「何をするにもいい年」とプラスに解釈して、ソロで、彼方此方を
渡り歩くことが良いのは分かってはいるが、老いからくる面倒くさい!が先に立つ。
・・・・・・
4571,閑話小題 ー火事に遭遇   
2013年09月21日(土)
   * 火事に遭遇
 何時ものポタリングで、長岡大橋から川西にわたり、大手大橋から再び、長岡大橋に戻って
水道町公園前に来たとき、長岡大橋の道路を隔てた向こう側から煙が立っていた。
工場の煙のような、火事のようでもみえる。まずはカメラで写真を撮り、次に近づいて撮ったが、
まだ警察も消防もきていない。写真を撮ったのは長岡大橋のバイパスの上からで、現場まで
150m先、駆付けるか、帰ろうか迷ったが、帰ることにした。少しバイパスを走るとパトカーと
消防が追い越していった。シャッターチャンスにタイミングよく撮れたが・・・(9・19記)
  ー9・20日、追記ー 
 昨日の火事。今朝の新聞によると、72歳のご主人が亡くなったとある。
18歳の孫と老夫婦の三人暮らしで、6時40分に台所からの出火、孫と連れそいは逃げて無事。
あのまま近くまでいっていたら、修羅場に立ち会ったことになる。まさか、死者まで出ているとは! 
改めて、写真をみると凄い煙。通行人は、まさかと関心なさそうに見向きもしないし、
車も止まらずいくし・・ 死者が出た火災の写真とは!新聞社に送ろうか?いや止めておく! 
朝のポタリングには必ずカメラを持って出るが、こういう日に限って忘れることが多いが・・・
 ところで火事といえば長岡駅前の商家に住んでいた頃に、4軒ほど先の「監物ビル」の大火災が
あった。近所の二人の少年の火遊びが原因だったが、自宅のある店のビルが、その熱で熱くなった
ことと、近くで遊んでいたため、警察に呼ばれ事情聴取をされたことも記憶に残っている。
更に斜め前の丸大という衣料品店が全焼したのも見ている。
   * 来春、購入予定の自転車を前倒しで発注
 来春の三月に購入予定をしていた電動アシスト自転車を、前倒しで注文をした。
現在の電動アシストのマウンテンバイクのブレーキが前後の車輪とも不調で、やむなく注文。
ブレーキの不調を運転で逆に楽しんでいる自分が怖くなったため。我ながら変な性格である。
今度のものはパナソニックの電動アシストで、タイプはクロスバイク。来週早そうの入荷予定。
・・・・・・
4196, 呪いの時代 ー13
2012年09月21日(金)                                
    * 原発供養           「呪いの時代」内田樹著    
 この東北大震災に際し皇室一族が最大限のお見舞いをしていた。国家の元首として、
歴史的大惨事に現地に真っ先に行かれ、見舞うことが役割として最優先されることだが、
その行為に呪鎮の意味が入っているとみることができる。 ー以下も納得できるがー
≪ 一神教文化圏の人々は荒ぶる神を巨大な神殿に祀り、それを畏れ、隔離することで
 いっときの安心を買い、日本人は荒ぶる神を金儲けの道具にまで堕落させ、その在所を
ずっぽりとベニヤの書き割りで囲って、「あんなもん、怖くも何ともないよ」と言い募ることで
いっときの安心を買った。 どちらの安心が長持ちするものだったかは今回の事故があらわにした。
 福島原発のふざけた書き割りを見たヨーロッパやアメリカの原発関係者はかなり衝撃を
受けたのではないかと思う。その施設の老朽ぶりや、コストの安さや、安全設備の手抜きに
心底驚愕したのではないかと思う。どうして原子力のような危険なものを、こんなふうに「雑に」
扱ったのだろう… と海外の原子力研究者は頭を抱えたはず。そこまでして「コストカット」
したかったのか? 日本人は命より金が大事なのか? もちろんそうではない。
話は逆なのだ。 あまりに怖かったので、「原子力は所詮金儲けの道具にすぎないという嘘」
を採用した。原発の設備をあれほど粗雑に作ったのは、原子力に対する恐怖心をそうやって
ごまかそうとしたからなのである。「こんなものいくら粗雑に扱っても抵抗しやしねんだよ」
と蹴ったり、唾を吐きかけたりして、「強がって」みた、 (・・・中略)
・・原子力についても、そもそもその設営のときに、伝来の古法に則って、呪鎮の儀を執り
行うべきだったと思う。盛り土をして、原子炉を土中に置くのである。塚に草が茂り、桜が咲き、
鳥がさえずるような広々とした場の下に原発を安置する。そこに神社仏閣を勧請する。
「原発神社」。荒ぶる神がとりあえずは「よきこと」だけをなし、恐るべき力の暴発を抑制して
くれていることを感謝するのである。 そして、桜が咲く頃には地域の人を集めて、「原発祭り」
を挙行する。荒ぶる神がとりあえずは「よきこと」だけをなし、恐るべき力の暴発を抑制してくれて
いることを感謝するのである。(・・・中略)
 ・・・ 福島原発の設概工事のときにも、間違いなく地鎮祭は行われたはずである(地鎮祭を
執行しなければ、建築現場には誰も入らない)。なぜ地鎮祭の執行を禁止しなかったのか。
地鎮祭をしないと、日本人の作業員が現場に入ってくれないのなら、中国からでもフィリピン
からでも建築労働者を連れてきて断行すればよいではないか。
なぜ地鎮祭を行うのか。それは平屋の家を建てる工事においてでさえ、行われる。
「恐るべきもの」の不意の現場での警戒を怠れば、思いがけない事故が起こることを現場の
働く人は経験知として知っているからである。地鎮祭は地祇を鎮めるためのではなく、
人間の緊張を亢進させるための心的装置なのである。・・・≫
▼ 「原発供養をすべし」とは、思いもよらぬ切り口。供養すれば済む問題でもなかろうが。
ビル建設で地鎮祭を何度か経験したが、それはそれで大事な神事。しかし世界中のビル
工事で行われるかといえば、そうでもなく、日本的心的装置。施工業者と、施主と、
土地・建物を一つの魂にする儀式ということか。最後は祈るしかないという、ブラックジョークか。
 ・・・・・・
3831, 閑話小題
2011年09月21日(水)
  * 学生時代に経験した、都会人と地方出身者の差
 東京の学生時代は寮暮らしだったが、そこは地方出身者の巣窟。それに比べ大学は
ミッション系で比較的裕福な人たちが集った学校。クラブに入って驚いたことは、都会人の会話の
センス。常にジョークか駄洒落を飛ばし会話を楽しんでいる。友人も教養課程のクラスでは席が
固定されている。そこで二分されるのが、都会出身者と地方出身者。服装からセンスが違う。
しかし都会出身者は、地方人の素朴さに惹かれるが、反面、どこか田舎者と見下げている。 
地方出身者は更に言葉にコンプレックスを持つ。が、それ以前に、日常の三食の食事など
生活のハンデがある。友人を見ていてキツイそうなのがアパート生活者。地方出身者は、
孤独な都会の一人暮らしに辟易としてしまう。 入学早々に彼女をつくるなど、まだ純真な
身にとって考えられない。チャンスは幾らでもあるが、どの辺が自分に妥当かどうか判断できない。
やっと声がかかってくるのが学生生活に慣れた二年の後半から三年にかけてになる。
とはいえ、女性の方は二段階上の人が対象。(これは40歳を過ぎて初めて知ったこと) 
その中で4人の姉たちを比較し、その上というとナカナカ適正な相手が見つからない。
現在振り返ると私も1〜2ランク上の相手を求めていたということ?それからして、ギャップは、
あまりに大きい。という訳で私は学生時代に結婚相手を見つけないまま終わってしまった。
友人をみると、学生時代の相手と結婚したのは三分の一ぐらい。結婚相手を決めることは
互いに、人生を大きく左右するほどの決断。目先の熱にうなされ、一生の大惨事になる
可能性があるのが結婚。 更に驚いたのは都会人の読書の絶対量が違うこと。
25人の地方出身者の寮に入っていて、確かに何時も酒を飲み騒いでいた。 
しかし、必死に本を読んでいたことも確か。それでも、都会育ちに人たちは、その絶対量が違う。
それでも、色いろの大学の学生が入り交じっていた寮、クラブ、ゼミ、一ヶ月の欧州旅行、
アルバイトでの多種の人との接点が非常に恵まれていた。小学校から大学時代を通して、
大学が最も恵まれていた。卒業直後、就職で地方にいったこともあり、もう一皮ぬけなかった
のが、良かったのか悪かったのか。 それもこれも、同じだが・・ しかし、話が合うのは
今でも都会の人たち、というより揉まれた人たち!  
・・・・・・・・
3466, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー10
2010年09月21日(火)
 * アフリカに魅せられて ー4
  ー奇跡の自然動物園のクレーター「ンゴロンゴロ」ー
 初めて足を踏み入れたときに、自然が創り上げた自然動物園に奇跡を目の当たりに見た
ような気がした。 ここは数百万年前に出来た火山のカルデラに広がる平野である。 
もとはセレンゲティ国立公園の一部だったが、遊牧民マサイ族の生活保護のため国立公園から
分離、ンゴロンゴロ然保護区となった。ンゴロンゴロとはマサイ語で「大きな穴」。
野生保護区は、直径約16キロメートルの火口跡があり、クレーター内では多くの野生動物
(キリンやインパラ以外)の象、ライオン、バッファロー、クロサイ、カバなどが見られる。 
外輪は2,400mの高さがあり、カルデラ内部の平野(1,800m)と比べ標高が高い。
このためカルデラ内部はカルデラ外部と遮断されており、ここで生息する大型動物のほとんどは
カルデラの外にでることはない。(象とか一部は出入りの道がある)  そこは周囲と隔離された
生態系が形成されるに至った。そこでは東アフリカのサバンナに生息する動物はほぼ観察する
ことができる。植物にはじまる食物連鎖は一つの大きな生態系のシステムをつくっている。
上から下に下りて見渡すと本当に小さく感じる。僅か16×14キロの平原に2万5千頭もの
野生動物たちが暮らす「最後の楽園」。それぞれの動物のテリトリーがあり、ジープを少し
走っただけで、色いろな動物に遭遇する。
実際に地球上にアフリカ大陸がそのまま圧縮されたような自然界である。
そのこと自体が信じがたく奇跡的である。 クレーターから約50キロメートルに数百万年前の
初期人類が発見されたオルドバイ渓谷がある。ここから人類がアフリカ大陸全体に、世界に
向け進出していったと言われる。 だから、人は本能的に惹かれるのである。
 ・・・・・・・・
3091,猫背の話
 2009年09月21日(月)
 数ヶ月前に、何気なく全身鏡の自分の猫背姿をみて愕然とした。腰を痛めていたこともあるが、首が少し前に出た
猫背の初老の男の姿が、そこにあった。毎日、散歩をして軽いストレッチをしていたのだが。しかしストレッチを
一年ぐらい気を抜いていたのは事実。 意識して背筋を伸ばすように心がけてはいたが。そこで、さっそく朝起きる
直前に布団の中で全身を伸ばし、背筋を伸ばすマシーンを探して取り寄せ矯正を始めた。 朝晩に使っているが、
これでかなり矯正はした。 ところで先日、TVのワイドショーで「猫背」をテーマにしていた。
・猫背には「首猫背」と「腰猫背」がある。
 首猫背は首が前に出た猫背で、腰猫背は腰が少し引けて上半身が前に傾いている姿勢。
・壁を背に密着して立って、脚から頭までピッタリとくっ付けば猫背ではない。
 首が壁につかないのが首猫背、背中もつかないのが、腰猫背。 
・静止して立っているときに、片方に重心を置く人や、脚を開いて立つ癖のある人には、猫背の可能性がある。
・姿勢にしても、歩行にしても、座っている姿も、理想的なカタチを自覚して、常に意識すること。
・中年女性のモデルが姿勢矯正のポイントして「モデルは壁の御友達」という言葉と方法を紹介していた。
  ー以下字数の関係で中間をカットー (2010年09月21日)ー
 ・・・・・・・・・
2726, 議論に絶対負けない法 −2
 2008年09月21日(日)
ランダムに面白そうなところから選んで考えてみる。「力の議論」の十大要素が纏めてあったが、
この本の要点である。よく読むと気がつくが、議論というより人生を前向きに活き活きいきるコツでもある。
孫氏の兵法にも通じる。 この本から多くのことを教えられる。
 ー「力の議論」の十大要素ー (12章、どんな議論でも「絶対負けない」十の法則より)
1、まず十分に準備しなさい -自分が議論そのものになるまで、準備しなさい。
  -適切な準備には、ストーリーを話すことと、関係者に役を割り当てることが必要だ。
2、あなたの議論を受け取ってもらえるよう相手の心を開かせなさい
  −ただただ真実を語りなさい。自分自身になりなさい。それで十分だ。
3、ストーリーの形で議論しなさい −おとぎ話、たとえ話は皆、成功する議論に欠かせない道具だ。
4、真実を語りなさい−力の議論は、真実を語ることに始り、真実を語ることに終わる、真実は言葉だ。
5、相手に自分の望んでいることを話しなさい −人間とは、どんな種類のどんな性格の苦しみも耐えれる種なのだー
   ―ただ一つ不正という苦しみを除いては―
6、皮肉を言ったり馬鹿げたことを言うのを避けることー ユーモアを使う時に注意しなさい。
  相手を侮辱する言動に注意しなさい。皮肉屋、馬鹿にする人、卑怯な人を尊敬する人はいない。
  相手に敬意を払うことによって私達は高い次元に上がる。忘れてはならない敬意とは相互に働くものだ。
7、論理は力だ −サミュエル・バトラーが言ったように、「論理は剣に似ている。
  論理に訴える人は、論理に滅ぼされるだろう」
8、行動と勝利とは兄弟だ−もっとも緻密な防御をするより、最悪のものでも真正面から攻撃をした方がよい。
   絶対に相手に主導権を握らせてはいけない。攻撃する時には防御をしてはいけない。
9、最初に自分の議論の弱点を認めなさい
  ー自分から弱点をさらけ出した方が良いだろう、そうしないと相手は可能な限り陰険なやり方でそれを暴くだろう。
  それを先に認めれば信頼を得ることが出来るし、認めたことに何も言うべきことがなくなる。
10、自分の力を理解しなさい −自分自身に許可ー勝つ許可だけーを与えなさい。
   だが放漫と横柄と愚かさは近い親戚であることを忘れないことだ。
▼ 以上だが、物語にするための準備を積み上げること、それも真実の、ということか!
 次は、その準備について述べている部分を抜粋して考えてみる。日本の検察の手法に、これがあるという。
告訴する時に、荒筋をつくって強引に容疑者を当てはめようとする。そのストーリーを書いてしまえば、真実は二
の次になってしまう。これが、恐ろしいという。マスコミも、しかりである。それだけ物語の力があるということだ。 
共同幻想は、物語から沸いてくる。そういえば、ここで「物語のつくり方」みたいな本を取り上げたことがあった。
・・・・・・・・
2007年09月21日(金)
2362, コーヒーの由来
 ー以下字数の関係で中間をカットしました。 (2008年09月21日)ー


4937,閑話小題 ー娑婆は苦しいと思うが・・・

2014年09月20日(土)

   * つれづれに 〜厳しさを増す娑婆
 土地を含めた2億の資本で創業、30数億の箱物事業を楽しめた実感があるため、それぞれを
立ち上げ、軌道に乗せた段階で元を取っていた実感がある。これは、実際に経験しないと、理解
できないだろうが。『それにしても面白かった!』という感覚は、後味を良くする。
それと、「立つ鳥、後を濁さず」もある。傍から見れば濁していたのだろう。 最初の依頼時に
「綺麗に事業を終えたい」に対し、弁護士が言ったのが、「綺麗汚いは有得ない。あるのは、
良い倒産、悪い倒産だけ!」 終えて振返ると、まさに、そのとおり。
 前もって最悪の事態に整えていれば、目先は好調だが、備えのない事業体より、遥かに
良いと思うが?危機管理のある中小は、私の知る限りで一割もないのでは。今さら遅いのか。
としても、『事前の一策は、事後の100策より勝る』で、やれることは、しておくべきでないか。
ここで、円安になってきたのは、日本の政治体制の甘さが表立ってきた要因もある。
更なる消費税2%アップが、消費低迷で、怪しくなってきた。 以前の事業で、この3%の消費税
アップと、灯油等の値上りは、厳しいはず。 会社も、家庭も、支出を更に絞めてくるためだ。
アベノミクスで、公共事業は潤っているようだが、この不況下、甘い仕事は少なくなっている。
この三年半の間、経営に疎い家内の口癖は「事業を早々、断念して良かった!」。
SC内の店の転廃業や、スーパーの店頭に値動きから、その厳しさが分かるという。分かった
ようなことを書いているが、実際、ソフトランディング出来たのは、紙一重。 事業など、まして
創業など、すべきでない!
『元手の2億を地道に5億にするより、30数億に膨らまして楽しみ、使い果した人生も悪くない』と、
独り嘯いている私も、バカそのもの・・ そう思うしかないし、その甘塩っぱい感覚の日々。 箱物
事業には、有余ったオマケ(時間)があった! そのオマケを最大限に楽しんだ収穫が、
『ま、これでもいいか!』である。
・・・・・・
4570, 変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー5
2013年09月20日(金)         
 * 万能薬としての「語り直し」   『変えてみよう! 記憶とのつきあいかた』高橋 雅延(著)  
 実際に、その立場にならないと見えてこないことが殆どである。だから、上に立つものほど
多くの経験を要する。一線から退いてみて、事業目線からみた社会と、そのバイアスから解き
放されてみえてくる社会とは大違い。人それぞれが自分に都合の良い物語を作っている。
「盗人にも三分の理」と、最初から見切ればよい。「記憶は嘘をつく」というが、元々、記憶する
以前の事象を都合良く解釈している。その記憶を変えるためには、語り直しをするしかない。
早稲田に二部(夜間)があった学生時代に、寮の隣部屋の友人に彼女が出来たところ、
急にアルバイトを始めて苦学生に変身したのである。 彼女に二部在学の言い訳のため、
これも、語り直し?  まずは ー次の箇所から
≪ 自分が親になって初めて親の苦労がわかるとか、教える立場になって初めて教える者の
大変さがわかる、などと言われることがある。どちらも、親となり教える立場にいる私自身に
とっては、心の底から納得できることだ。つまり、その人の立ち位置によつて、同じできごとでも
ちがって解釈できるのである。そのため、過去のどんなできごとも、必ずちがってみることができる
ことを、肝に銘じておくことが必要だ。その上で、ある過去のできごとについて、その意味づけを
変えるためには、そのできごとを、それまでとは違うことばで語り直さなければならない。
 世間には「時間が癒す」という言いまわしがある。そこで、見過ごされがちなことだが、
「時間が癒す」のは、単に時間が過ぎ去るからではない。時間が過ぎ去る間に、人はそのできごと
について何度も考え、悩み、さらには新しいことをする。このことによって、元のできごとの意味づけ、
語りかたが変わるからなのだ。 私は、くも膜下出血で倒れる二年前に、アキレス腱断裂により、
ニカ月間、松葉杖の生活を送ったことがある。どこに行くにも、何をするにも、苦労ばかりの辛い
日々だった。しかし同時に、あのとき数々の苦労を重ねる中で、障害をもつ人の気持ちが少しは
実感できた。その意味で、後からは「よい経験だった」と語り直している。
もちろん、くも膜下出血の体験も同じだ。あのできごとがなければ、それ以前の私と同じように、
命や人生について深く考えることもなく、生きていただろう。そう思うことで、今となっては
「あの体験こそ、自分にとってかけがえない宝物だ」と、胸を張って語り直すことができる。 
 最後に、フランシス・マクナブという臨床心理学者の言葉を引用しておく。できれば、何度も
繰返し味わってほしい。「記憶をつくり変えたり、それを遠ざけたりするのは無理なことである。 
略)…しかし、つねに私たちは、自分の苦悩、自分自身の内的経験、自分自身の精神の経過を
処理しているわけである。それは過去とよばれる客観体ではなく、現在とよばれる主観的経験。
変える必要があるのは、誰か他の人間ではない。最も大きく影響されるのは、私たち自身。
記憶をぬぐい去ることはできないが、記憶の有りようを変えることは可能であることを、
私たちは知っている。」 》
▼ 私も色いろあって、思いもよらない結果、オセロの白が、全て黒になったようなもの。
 そこで現在、過去の要素を元に、物語を語り直しを独りしてきた。これこそ、「日々是好日」
から、「ヒビ、これ口実」の辻褄合わせ。その辺りの自分の心の浅ましさがいじましい。
それも、自覚をしていれば良いが、全く自覚なしでやるのが人間。 
・・・・・・
4195, 呪いの時代 ー12
2012年09月20日(木)                     
   * 「片づかなさ」の人間性     ー第8章 これからを生き延びる智恵
 贈り物を貰った場合、何かを返さない限り気持ちの中に、「片づかなさ」が残る。
これが人間社会とサル社会との差。私はビジネスの場面で、それを徹底してカットしてきたが、
私的場面でも何時の間に持ち込んでいたようだ。これが、つくづく間違いだったと反省していること。
結局、人との付き合いは贈り贈られで成り立っている。 それにしても「贈り物」とそれに対する
「反対給付(お返し)」が、人間たる由縁とは。 以下は ーその辺の抜粋ー
≪ 人類学者マルセル・モースはその著書『贈与論』のなかで、贈与論の主題を端的にこう
 まとめています。「受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何で
あるか。贈られた物に潜むどんな力が、受け取った人にその返礼をさせるのか」
 モースも、マリノフスキーも、レヴィ=ストロースも、「贈り物」とそれに対する「反対給付」が
人間集団を形成する本質的なカだとみなしている点では共通しています。贈り物をされると
「お返し」をしないと気持ちが片づかない。人間性とは、すべての装飾を剥ぎ取って言えば
「贈り物をもらうと、お返しをしないと『悪いこと』が起きそうな気がする」という「負積感」のこと。
いや、ほんとに。だから、この「負債感」を持たないものは人間ではない。そう言い切っていいと
思います。「贈り物」というと、僕たちはふつうお中元お歳暮のようなかたちのあるもの、価値の
あるもの、実用性のあるものを思い浮かべます。でも贈り物はそれには尽くされません。
というか、贈り物というのは「価値あるもの」を贈ることではないからです。そうではなくて、
「これは贈り物だ」と思った人がそう思った瞬間に価値は生成する。そういうふうに順逆の狂った
かたちで贈与という儀礼はつくられる。例えば、挨拶というのはある種の贈り物。
「おはよう」と誰かに呼びかけられる。僕たちはそれを聴くとこちらも「おはよう」と言わなければ
ならないという強い返礼義務を感じます。負債感と言ってもいい。同じ言葉を返さないと
気持ちが片づかない。挨拶した方もそうです。挨拶したけど返礼がないということになると、
気持ちが片づかない。片づかないどころか、心に傷を負います。どうしてでしょう。たしかに、
「おはよう」というのは「今日一日があなたにとってよき日でありますように」という
『予祝』の意味をもつ言葉です。 ≫
▼ 家のインコ、餌を与えると、取って置きの「枝の連続回転芸」をする。それも食べている
 合間に思いついたように挟んで芸をする。これも餌という贈り物に対する「お返し」に思えるが、
動物的直感ということか。 朝の恒例のサイクリングで、すれ違いざまに「おはようございます」
と言われ、返事を、しそこなった後に残る気まずさは、何時までも残る。与えるは、アンドという
意味がある。与え与えられることで、アンドという結びつきが積み重なっていく。
「負債感」が少ない人が、あまりに多いが、自分はどうだろう。
・・・・・
3830, 毒を溜めない! 日々
2011年09月20日(火)
 30年ほど前から腰痛対策のため早朝のウォーキングを始め、20年前からは平日一時間、
日祭日二時間を目標にしていた。しかし二年前に、電動アシスト自転車に切り替え、信濃川の
長岡大橋〜大手大橋一周に切り替えた。 続けていると自分の全身から毒素が抜けていくのが
実感できる。 たまに休んだ翌日に歩いた後、二日分の毒素が抜けたの分かる。 その毒は
活性酸素だろう。近年、肉体的に毒素を体内に入れない、溜めないことを目指す女性誌で
馴染みになっている「デトックス」がある。 そこで、ー「デトックス」をネット辞書でみるとー
【 デトックスは「解毒」や「浄化」という意味で、人間の体内にたまった重金属や、余分な
 ミネラルなどを取り除く健康法。体調がよくなる、肌が若返る、生活習慣病の予防となる、
などの効果があるといわれている。従来の健康法はサプリメントなどによって足りない栄養素を
補うという足し算方式だったが、これは余分なものを取り除く引き算方式。人間の体内には、
食品や水道水などを通じて鉛やアルミニウム、ヒ素などが細胞のタンパク質などとくっついて蓄積
されており、これらはわずかな量でも体に悪影響を及ぼすことが、最近の研究でわかっている。
脂肪を分解する酵素の働きを妨げるため、ダイエットがしにくくなることも指摘されており、これらを
体内にためないためには、効率よく排出する食事に心がける必要があるという。
ゴボウやコンニャクなどに含まれる食物繊維は、余分なミネラルが体内に取り込まれるのを
防ぐ働きがある。タマネギやリンゴ、コリアンダー、ニラ、ニンニクなどは、重金属をとらえて
体外に排出する。】
▼ 早朝の運動で体内に溜まった毒素を出すと、ストレスの半分は軽減する。 それとは別に
 肉体に溜まった重金属や、余分なミネラルを取り除くことも大事なことも分かる。白砂糖と
缶コーヒーは毒と聞いていたので、この10数年間は殆ど口にいれてない。それからして
缶ビールも良くないはず。半年前の転換期から一番気をつけたのが、ストレスによる精神的毒素。
一つ間違えば命取り。その為に運動量を二倍と考えて、「スポーツジム」通いで、二時間の
運動をプラスすることにした。週二日のジムの休みは、市営の施設内のジムに通い、休みは
月1〜2回にしている。 毒は精神統合失調症とか、ガン、糖尿、女性はリュウマチを誘発する。
さらに毒は老化と病を前倒しにする。 スポーツジムの八割は、未病より、既病の人の方が多い。 
むしろレジャーランドと割り切って、未病対策で来たほうがよいようだ。 人は自分では気づかない
毒が精神も肉体も歪めている。 ストレッチを続けていると、つくづく腰の(全身の重圧で)
歪みが分かる。老化は足腰から弱るようだ。 歳をとるにつれ全身が黒ずんでくるが、
これ老化? 既に毒の塊?
・・・・・・・・
3465, 純粋持続 −3
 2010年09月20日(月)
 私が行った47回の旅行は、それぞれが今だ終わってない気がする。それぞれが続いている
から、旅先をTVで放送をみる時、その延長として見ることができる。記憶の中で現在も鮮明に
残っていて、TVの旅番組で再び見る新たな記憶がプラスされていく。それはロマンチックな
感傷で語るのでない。それぞれの旅が心の奥底に「純粋持続」している実感がある。
その意味で「純粋持続」の意味がよく分かる。初めての一ヶ月間の欧州旅行の同行の友人の二人
と先日、東京で会い、43年前の思い出話になった。そして、それが昨日の出来事のように思える。 
この43年間で同じ旅行先に立ち寄ったり、旅番組の放送でみたりして、その間も私の旅は続いて
いたのである。 ほぼ毎日、これまで47回の旅先をBS/TVで放送している。それを見る度に
純粋持続の純粋記憶に、それが重なる。 それらは空間化された日常時間とは別口の
〈趣味の世界〉の引き出しに加えられる。だから、ベルクソンのいう〈純粋持続〉が実感として
受け止められるのである。純粋記憶として鮮明に残すため、写真の整理と、感想文にして
《随想日記》や、ブログに載せる。それは記憶、記録というだけでなく、
【魂に記録される純粋記憶】になる。それも余白の多い、現在も持続し書き込みをいる瞬間像の
記憶である。そこを見入ると空間化された日常が消え去り、純粋持続の時間に入ってしまう。
趣味に没頭している時間こそ純粋持続である。好きな仕事に没頭している時間も純粋持続。
だから仕事を好きになるまで追求すべし、という論がたつ。そのためには孤独を愛し、
自己の確立をしておかないと心奥の純粋持続は維持できない。
 ・・・・・・・・
3090,「官僚内閣制」が終焉
 2009年09月20日(日)
  * 明治以来の政治形態の実態は「官僚内閣制度」
「日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ」飯尾潤著に刺激の強い内容が書かれている。
菅直人のブログにも「2重の政権交代」(2009年9月15日)と題して「今の政権交代は自民党から
民主党への政権交代と官僚主導の官僚内閣から国民に選ばれた政治家主導の国会内閣への
2重の政権交代。明治時代に内閣制度が生まれて初めての大改革。この実現に全力を挙げたい。」
と書いている。これまでの実態は議院内閣制度ではなくて官僚内閣制度であった。
 9月17日の産経新聞の正論のコーナーで屋山太郎が、その辺の実態と弊害を述べている。
《 その官僚政治の元凶は財務省、その中の主計局である。官僚政治は省の中の省である
財務省に仕切られてきた。  (字数の関係でカット2012年9月20日)
  ・・・・・・・・・
2725, サブプライム・ローン販売の現場
 2008年09月20日(土)
 「金融偽装」ー米国発金融テクニックの崩壊 伊藤博敏著 
 以前にサブプライム・ローンを扱っていたNHKのドキュメントで、ローン販売していた人の
証言を映していた。以前に図書館で見つけた、この著書の以下の場面と、ほぼ同じ内容。
このように世界中に、証券会社の契約社員達により販売されたのである。
P−18
販売プロセスは、綿密に仕組まれた詐欺のようなものである。しかも米国の住宅ローンビジネスは
分業化しているから責任者不在で、詐欺を働いていても、誰も罪の意識を感じなくてすむ。例えば
住宅ローンを組む際に、購入者が接するのは住宅ローンブローカー。こうしたブローカーは歩合で
セールスを雇い複数の住宅ローン会社の商品を斡旋、セールスにはローン残高のー%を報酬として
支払う。それだけにセールスは必死だ。審査が緩いのをいいことに、自己申告で収入と仕事を
記載させ、借り手に不利な重要事項は教えず、最初の金利は安くして支払い可能なローンと
思わせて売りまくった。サブプライムローンが好調な時には、年収100万ドルのセールスがざらにいた
という。こうして、最初の2年は金利が6%で残り十数年が十数%といった無茶なローンを組ませた
住宅ローン会社は証券化で「貸し手責任」から解放され、証券化した金融機関は格付け会社や
債券保証会社の信用供与で責任を逃れる。この「負の連鎖」の特徴は、誰にも責任が及ばない
ことだった。この実体経済を揺るがす金融商品は住宅ブームを演出したいという金融当局の
思惑によって生まれていた。そこには「マエストロ(名指揮者)」とまで呼ばれて尊敬を
集めた米国FRB(連邦準備制度理事会)のアラン・グリーンスパン前議長もいたという。
P−24   (字数の関係でカット2009年9月20日)


4936,コトの本質 ー6

2014年09月19日(金)

  * 戦後、エリートが育たなかった    『コトの本質』 松井孝典著
 「戦後、エリートが育たなかった」というのは、先進各国との比率の問題をいっている。
それは秀才教育はしてきたが、天才、エリート教育はしてこなかったことになる。
≪ いまの我が国は、この意味では限りなくアマチュアの国になりつつあると思います。
ここでいうアマチュアとは、その主張の根拠がほとんどマスコミに出ている程度のことにある人の
ことです。自分の知っている範囲のことをすべてだと思い込み、あたかもそれが正論であるかの
ように、堂々としゃべる。そんな風潮が目につきすぎます。結局、そういう人たちには謙虚さがない
ということです。実際のところは―よく知りませんが、私の知っている範囲ではこうだ―という
いい方をするのが当然なのに、そうではありません。これっぽっちの経験しかないのに、
それを拡大し、人類一般な話としてどうのこうのというような議論までするわけ。
こういう状態を見ていると、この国はどうしようもない国になったなという感じがします。 
 プロフェッショナルがいないということは、いいかえれば、エリートがいなくなったという
ことかもしれません。いい大学に入って、いい会社に入って、というのがエリートという意味では
ありません。自分の頭できちっと考えることができる、しかもその座標軸は古今東西の歴史から、
芸術、哲学に通じ、科学に通じる、それがエリートです。このような広い時空スケールの中に
自分の尺度を持ち、すべてのことが判断でき、行動できるのがエリートです。
 秀才と呼ばれ、大学に残って学者になる人間はいっぱいいます。しかし、現在のいわゆ秀才と
いうのは所詮、与えられた問題が解けるだけの人間です。解くべき問題がつくれない人が、多い。
問題がつくれない人はエリートではありません。戦後教育は、あえてエリートをつくろうと
しなかったともいえます。すべての子どもに、最初から我がある、などという誤った前提に立った
ために、教育と呼べるような教育をしてこなかったのでは? だから、当然のことながらエリートは
育たなかったのです。我は初めからあるものではありません。 我の形成途上にある人間には、
我なんてないのです。しかし、いまの教育では前提として我があるかのように扱う。
それが個人の尊厳だと誤解しているーすべての間違いの元はそこにあると思います。
我とは何なのか、そもそもそれを考えたことのないような人たちが、平気で我を語り、我を
主張しています。我という概念ができる過程こそ重要だ、ということが忘れられています。
それは、他との関わりの中でなければ形成できないものです。
それなのに、我というものが最初からあると思い込んでいる・・・ ≫
 ▼「ゆとり教育」の失敗の根本が、この辺りにあったのでは? 「ゆとり教育」は、まともな
両親がいる家庭の元でこそ有効で、それがない場合はマイナスに大きくぶれるのは周辺を
見れば分かること。プロフェッショナルは、激しい競争社会の中で勝ち抜いた結果、一強多弱
から生まれ出るもの? 著者の説によれば、全ての人がアマチュアになる。問題は自分が
アマチュアと自覚できるかどうか。 キリスト教の下地がないのに、取ってつけたような戦後教育
を押し付けられた結果が、この様になった。私のレベルで40数年間、一日、2〜4時間の
独学では、広い時空スケールの尺度を持ちえるはずがない。哲学に興味を持ったのが
40歳代後半では、あまりに遅すぎた。別に、エリートになりたいとは思わないが、我とは何か? 
自分の問題とは何か? 等を、考えられる内部モデルを確立することが、まず必要ということ。
・・・・・
4569, 世界恐慌の結果、どうなる? ー2
2013年09月19日(木)
ー5年前のリーマンショック直後に書いた内容ー 
{2724、世界恐慌の結果、どうなる?ー2008年09月19日(金)ー}
《 恐慌になると過去の事例から、平均30%売り上げが減り、それに耐えられないところから
消滅を始めるという。毎日毎日、アメリカの発の金融危機のニュースが入ってくる。100年に
一度の恐慌が始った。アメリカが風邪をひくと日本は肺炎になる、という言葉が可愛らしくて
思え懐かしい。アメリカで震度6強の経済大地震が起こったのである。そして、大きなウネリが
起こってしまった。それは大津波になり日本のみならず世界中に押し寄せ始めた。 津波と違う
のは何年にもわたることである。ところが日本は政治的空白の事態で頭がないのが現状である。
これは2001年の9・11事件に匹敵するか、それ以上の出来事。100年に一度の世界恐慌が、
まず直撃するのは日本。これがアメリカの隷属国家の運命である。 次は、アメリカの証券会社
二位のモルガン・スタンレー。緊急に銀行との合併で凌ごうとしているようだが。
シティーバンクが次のターゲット。数年前まで日本を買いあさっていた米国金融機関の惨状。
そのツケは日本が払わざるを得ないからだ。他人ごとでない、果たして会社はどうなるのだろう?
逃げも隠れも出来ないが、生存に全てをかけるしかない。生き残りをかけた生存競争レベルに
なってきたということだ。 それが会社だけでなく、年金生活者も含まれるから、ことは重大である。
国家破綻の現象としては、ハイパーインフレになる。そして、次に来るのは中間層が総下層になる。
社会の不安が増大し、犯罪は増加する。ソ連の崩壊時と同じような現象になる。年末から100円
以下の株価の会社は銀行のしめつけで、次々と倒産が始る。日本型社会主義の完全崩壊である。
第二の敗戦が表面化してきたということだ。これだけ劇的な世界恐慌に「現役」で経験するとは
思ってもいなかった。 私は、2008年9月16日14時をもって「世界恐慌」と判断。
そう判断すると恐ろしい。みる目が全く違ってくる。みる目が違うと判断も違ってくる。
人生で、過って経験をしたことのない最大のイベントが展開を始めた。 それにしては、
まだ実感が少ない。茹で蛙になってしまったのだろうか。現実に信じられような大混乱が直ぐに
始るだろうから・・ ゴールドや、資源を持っている国は、それを担保になるから、立ち直りが早い。 
しかし、体力のない日本の行く末は・・・ 何度でも言う、「恐ろしいことだ!」 》
▼ これを書いた二年半後には、私の事業の売上が半減、2001年9月の9・11テロから
 三分の一まで激減し、事業断念に至った。この直後から、G20が始まり、何とか表立った
恐慌は抑えているに過ぎない。 米国の証券会社は全滅、米国のGM、クライスラーは国家管理。
EUも、中国も、これから変になっている。 ただ、何処かの株式市場からの暴落を切欠に
世界恐慌になるのは間違いない。ただ、引き伸ばしているだけ。 そこで、2020年に
「東京オリンピック」を開催するというから、他国から見たらお笑い以前だろう。
それだけ、リーマンショックの影響は大きい。でも、これで自分の事業が崩壊するとは! で、
「インフレターゲット3%目標」というから、素人の私でも、間違いは判断できる。その上に、
オリンピックとは! 大津波が襲来する直前の浜辺で酒盛りの用意である。不思議なのは、
地方の金融機関が、そのまま存続していること。時限爆弾の山だろうが・・・ 
最後はハイパーインフレで、銀行閉鎖になるのだろう。現状は、「恐ろしいことだ!
になっているはずなのに、リンゲルを無制限に射っているため??
・・・・・・
4194, 呪いの時代 ー11
2012年09月19日(水)                           
   * 交換経済から贈与経済へ     「呪いの時代」内田樹著  
 何か奇異に思える贈与経済とは、お金でも、物でも、情報・知識でも、留めないで次に回せ
ということ。情報に限って考えると納得できる。ブログなどで自分の持っているベストの情報を
公開(贈与)することで、世界中の情報を共有できるようになった。情報化社会では、贈与という
言葉がキーワードになる。銀行預金は、その正反対になる。現在の世界的不況は、一部
勝ち組が得た利益を独り占めをして回さなくなったことにある。
ボランティアは慈善の贈与と解釈出来る。 ーその辺りからー
≪ 贈与経済というのは、要するに自分のところに来たものは退蔵しないで、次に「パス」
 するということです。それだけ。「自分のところに来たもの」というのは貨幣でもいいし、
商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分のところで止めないで、次に回す。
自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣に限界がある。先ほども言いました
けれど、ある限界を超えたら、お金をいくら持っていてもそれではもう「金で金を買う」以外の
ことはできなくなる。それで「金を買う」以外に使い道のないようなお金は「なくてもいい」お金だと
僕は思います。それは周りの貧しい人たちに「パス」してあげて、彼らの身体的要求を満たす
ことに使えばいい。ご飯や服や家や学校や病院のような、直接人間の日常的欲求をみたすものに
使えばいい。タックスヘイブンの銀行口座の磁気的な数字になっているよりは、具体的に手で
触れる「もの」に姿を変える方がいい。・・・
 ・・・その人がエンドユーザーであるような人間には贈与は届かない。贈り物を受け取ったときに、
目にも止まらぬ速さで次の贈り先にそれがパスされるような人のところにしか贈り物は届かない。
そういうものです。贈与経済が成り立つための要件は、ある意味きわめてシンプル。
市民的に成熟していること。それだけです。自分より立場の弱い人たちを含む相互扶助的な
ネットワークをすでに作り上げており、その中で自分が「もっぱら持ち出し」役である
ことを愉しむようなマインドをもつ人であること。そういう人のところに選択的にリソースが
集中するシステムが贈与経済システムです。 ≫
▼ 経済は商品と情報が回り進化することで向上する。その意味では、日本が一時期そうで
あったように、国民が総中流が理想的である。しかし、情報化社会は一部の勝ち組が総取り
になってしまう。その辺が難しい。
・・・・・・
3829, 閑話小題
2011年09月19日(月)
  * 絶え間ない変化と変身
 変化のない日々が、相変わらず続いている。それはそれで一日単位では小さい事象が
次々と起こっている。人生を、あらためて振り返ってみると色々あったことに驚いている。 
それらは絶え間ない変化の連続線にある。 生まれた0〜9歳までを考えても、新生児、幼児、
児童、少年期と変わっていく。10歳から19歳でも、小学校、中学校、高校、大学と、次々に
節目がある。20歳から29歳といえば、学生から社会人、結婚、父親である。そ
の中で絶え間なく変化と変身が要求される。30歳を過ぎると、青年期から成年期、
中年期と家庭でも社会でも、大きな柱としての責任が覆いかぶさってくる。 
そうこうしている間に40,50,60歳の壮年期から老年期に移行している。
何処かで自分で、「人生は、こんなもの」と決め付けたと同時に変身のダイナミックがなくなり、
人生の要求と合わなくなって肉体と精神の変調をきたす。こうみると世界も、社会も、自分も
常に時の流れの中で、変身し、最期は「プッツン」で終わる。生き、老い、病になり、最後は
死ぬしかない。「いま、ここ」でしか、留まることは出来ないのである。
とはいえ、あまり神経質になっても結果は同じ。なら、自然体で変化を受け入れ、従うしかない。   
  * iPad 初心者の呟き
 iPadを購入をして三週間をすぎたが、御蔭で数ヶ月も過ぎたような気がする。
これは、私にとって非常にインパクトが大きい。この10年間、ネット、ネットといっている割に、
ネットを使いこなしてなかったこともある。この間に、便利で使い勝手のよいアプリと、
ネット環境が劇的に進歩していたのである。ゲームに面白そうなのを画サイトで見ていたが、
「自分には縁のないもの」と思い込んでいた。それが、このiPadのお陰で私にも使える。
ゲームとビュー専門の端末と割り切ってしまうのが良い。まず7つの画面に切り替えられ分類
出来ることで、使いかってが格段に良くなった。ゲーム・ソフトも、アプリも毎日が発見の連続。
一日一日が面白くて仕方がない。これでは新聞や雑誌、TV局などマスコミは大きな転換を
余儀なくされる。タブレットPCは、あとは軽さの問題。 これも、時間が解決するだろう。
 テレビの地デジ化と大型化、モバイル携帯、そして、タブレットPCが情報を、さらに膨大に
世界に流しこみ、政治も社会がミスマッチが拡大、収拾がきかないカオスの時代になる。 
これは中高年PC難民を救う。
 ・・・・・・・ 
3464, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー9
2010年09月19日(日)
  * アフリカに魅せられて ー3
 ータンザニア・セレンゲッティ国立公園ー
 ケニアと比べてワイルドなのがタンザニア。フランス領だったため開発が遅れていて、
その分アフリカ的である。まずセレンゲッティの広大な草原。 360度の視界が全て草原、
それ以外何も目に入らないのは、ここだである。 その広大な草原はケニアのマサイマラと
地続きであり、ケニア側をマサイマラ、タンザニア側をセレンゲッティという。 
その広大な草原をヌーとシマウマが楕円形のコースで終わることのない旅を大昔から続けている。
その群れにライオン、ハイエナなど肉食系動物がついてまわる。かってケニアはイギリス領、
タンザニアはフランス領だった。ケニアもタンザニアも、サファリが大きな観光資源になっていて、
国立公園内には現住民を除いて観光客以外に入ることができない。サバンナで時おり現地の
鮮やかな布をまとったマサイ族などが、護身用の槍を持って歩いているのを見かける。
草原に彼方此方にいるのではなく、車で20〜30分走って、時に見かける程度。
ヌーとシマウマの群れから少し間をおいてライオンや、ハイエナの群れがいる。 
群れがいないところで、ウサギやジャッカルなどの定住動物の姿を見かける。
大らかに見えるが、そこは野生動物にとって生と死をかけた緊迫した戦場。そのサバンナに
6メートル位の土の道路が何処までも続く。走行中に他のサファリカーは、ほぼ見かけない。
そこを同行のジープ数台で激走するのである。車の上は開け閉めが出来、走行中でも座席に
立って胸から上を外部に出せる。そこで外を眺めていると、たった一人でサバンナで走って
いるような錯覚になる。車に乗っているとライオンやヒョウなどは襲ってこない。
自分より強いという認識があるという。だから平気でライオンやハイエナの群れに近づける。
しかし、時おり像のボスが襲うことがある。ボツナワのサファリで、その現場を直接見たが、
乗客は恐怖で真っ青な顔をしていた。 下手をすると命に関わる。特に危ないのが、
離れバッファロー。 人を見ると追いかけまわす傾向が強い。ケニアで、早朝に10人位の
マサイ族が逃げてきたところに出くわしたことがある。我われのジープを間に入れて、
クラクションを鳴らして防いだが迫力満点である。 そういえば先日Youtubeで、白人が
ライオンの群れを撮影をしていて、つい車外に出て後ろからライオンに襲われ、群れに
生きたまま食べられる映像を見てしまった。 何でもありである。
 ・・・・・・・・
3089,つれづれに-閑話小題
 2009年09月19日(土)
・民主党政権が発足したが、問題は、公約が守られるかどうかだ。
100年以上の官僚内閣制度を打破できるかだ。  検察と国税と土建の国土省の狡猾な
宦官をコントロール出きるかどうかだ。戦略局が次官会議に取って代える ところがミソ。
自民党も政権を下りてしまえば、官僚内閣の小間使いでしかなかったのが露出したことになった。
 今度は、民主党が、彼等にどう取り込まれるのか、それとも首輪をはめられるのか?
 そのバトルが生々しく劇場化してくる。 国民による自民、官僚パージが、この選挙だったのである。
・中小企業と個人の返済3年猶予というが、実際に行われるのかどうかだ見ものである。
 徳政令ということだろうが、そうでもしないと、来年早々、日本経済は大きな転換期になる。
 中小・零細企業の倒産ラッシュである。 せざるを得ないということだ。 銀行も、反対するが、
 逆に政府も間接救済になる。 自民党政権も、大手銀行の使い走りだったので、このような
 発想そのものが出ないのだろう。自民党よりの読売新聞が「自民党よ、堂々たる与党に」
 だと、更に破壊しないと無理。
・一週間後の国体に向けて、新潟市も慌しくなってきた。 当方のホテルもである。
 宿泊は、選手よりマスコミとか、運営関係の役員とかが中心のようだが、色いろ細かいようで
 現場は大変のようだ。身障者の大会も含めると半月の間は新潟市は満杯になる。
 問題は、終了後のことだが、それは、その時に考えるしかない。 しかし、来年になると新潟に
 ある火力発電の増設工事が始るようだ。柏崎刈羽の原発が当分フル稼働が出来ないので、
 新潟の火力発電を増やすしかないとか。 景気の落ち込みで、柏崎刈羽のマイナスを吸収した
 と思っていたが、そうでもなさそうだ。いずれにしても大変である。
 どの程度か分からないしし、当てには出来ない話だが。
・・・・・・
2724、世界恐慌の結果、どうなる?
2008年09月19日(金)
・・・・・・・・・・
2007年09月19日(水)
2360, ギリシャとエーゲ海の旅 −6
  ーギリシャ旅行の総括ー (1)
この旅行で言いたかったことはホボ書きつくした。去年のケニアを除けば、北イタリア、
オーストリア、スイスと欧州が続いている。やはり何処にいっても、欧州は数千年の間に
積み重ねられた豊かさと文化の深を実感する。
 (字数制限のためカット 2014年9月19日)


4935,コトの本質 ー5

2014年09月18日(木)

  * 世間とは、リアルの社会を内部モデル化した様相   『コトの本質』 松井孝典著
 これまでの『世間』の解釈で一番、納得できた言葉が、
「社会=リアル、世間=社会を内部モデル化したバーチャル」である。
社会との関わりあいで、世間という内部モデルが、バーチャルにつくり上げられる。
たかがバーチャル、されどバーチャル。リアルとは、ほど遠いが気にかかる虚構世界である。
  ーその辺りから
≪ 社会という言葉と、世間という言葉があります。我々が人としてその集団の中で生きて
いくうえの、その集団のあるがままの外界を、たとえば社会と呼ぶとします。社会は現に
存在する外界です。社会と世間は同列ではありません。私にとって、世間とは、脳の中に
つくられる社会を投影した内部モデルです。世間というのは、したがってリアルなものではなく、
バーチャルなものです。世間をどのように見ているかは、私の内部モデルとして、社会を
どう投影して考えているかということに関わってます。世間というものは、私の言葉でいえば
人間圏そのものともいえます。それは概念化された世界です。人の営みの、しきたり化されて
いるようなところから、価値観から何から、全部ひっくるめての世間でしょう。
だから、あるがままのリアルな社会とは、少し違います。人間圏のリアルの側面としての
社会については、絶えず観察をして、世間という私の内部モデルを更新してます。・・・ 
社会と交わるたびに、人間圏の諸々の情報が膨らんでいきます。すなわち、内部モデルの細部
が、どんどんできてくるのです。社会と関わるたびに、世間というモデルが作り変えられるのです。≫
▼ 日本人、とりわけ地方の地域社会は、世間という長年積み重ねられた地域偏見が一種の
宗教のように、それぞれを縛り付けている。そして、それがバーチャルであることさえ気づかず
人生を終える。だから、ライフワークを持っていないと、自分を見失ってしまう。バーチャルの
世間に埋没すると、ライフワークの価値が見えなくなる。だから、城下町は、文化度が高い人と、
低俗の人との二極分化が明確になってしまう。一般的に、低俗の人を世間というが、誰もが、
どこかに兼備えているから始末が悪い。それが年をとるにつれ老醜として露出する。
老いることは、恐しい! さらに、老いた群れは、醜く恐しい!
・・・・・・
4568,変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー4
2013年09月18日(水)
         「変えてみよう! 記憶とのつきあいかた」高橋 雅延 (著)       
* 幸せな人生とは、本人が決めること! 幸福感は、それぞれの人の核となる魂の問題で、
他人がとやかくいう問題でない。「不幸の極みと思っていたことが、実は幸運の仮面を被っている
にすぎない」と思えば、そう思えてくる。 実際に経験してみると、そこに多くの視点が見えてくる。
本当の幸福感は不幸の真只中にこそ、現れ出てくるのは人生経験を積むほど分かるはず。 
ー以下の箇所はなかなか含蓄があるー
≪『サザエさん』の原作者の長谷川町子のマンガで、小学四年生のときに読み、今なお
覚えている作品がある。 それは、一人の男の人生をめぐる、良い神様と悪い神様の話だ。 
何の不自由もない家に、玉のような男の子が生まれた。これを知った悪い神様は、どうも
これがおもしろくなく、この男の子の人生を惨憺たるものにしようとシナリオを練る。
そして、「男の子の身に次々と不幸が起こり、紆余曲折をへて船乗りとなった挙句に猛烈な
嵐に遭遇して、最後は絶海の孤島に流れ着き、そこで人生を終える」いうシナリオをつくりあげた。 
はたして、男の子の身には次々に不幸が襲いかかる。しかし、良い神様がそれに気づいて
彼を何度も助けたために、彼は幸せな人生を送ることになる。ところがその臨終の場で
彼は自分の人生を振り返って、本当に不幸な一生だったと言い出す。そして、自分の
夢は船乗りになって、どこかの島で人生を終えることだったと述懐して息を引きとるのだ。
二人の神様は、人間 とはよくわからないと言いながら、去っていく。こんな話だ。
このマンガが私の人生の原点。幸せな人生とは、あくまでも本人が決めることであり、
まわりがとやかく言うべきものではない。もとより、記憶のさまざまな性質や、
その生かしかたを知ったからといって、幸せになれるわけではない。
ただ、何も知らないよりは、知っておいたほうが、みすみす損をしないだろうと思われるだけだ。
この本に書かれている「ヒント」をもとに、どのような人生を生きるかは、最終的には、
みなさんが決めることである。》
 ▼ 以前に取り上げた「幸福の4階建」に、当てはめると分かりやすい。
  4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。
  3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する中に幸福感が生まれる。
そこに自己実現の要素が入っている。
  2階:獲得した「快」を永続させる。 そこに時間的要素を入れ、
いかに長続きさせる中に幸せがある。
  1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。
 苦労に苦労を重ねて得た幸せこそ、その最たるものだが、得てしまった幸せより、
不幸に見えた苦労の中にこそ、真の幸福の含量が多くある。 
私のケースは、『サザエさん』の作者の物語とは真逆である。 思いもしない3つの
大津波に飲み込まれて、この結果に終わった。しかし、これこそベストでは?の、
 心の奥からの声に我ながら驚いた。この「幸福の4階建」の意味が、いやでも実感を
 せざるを得ない。現在の私は、この建物の3階辺りで、日々を過ごしているが、
 いつ何どき、4階に駆け上がり、幸福感を味わうのだろう。 その屋上のテラスからの
 景色は、どんなものか? それもこれも、生きているうち!今日一日を楽しむしかないか。
・・・・・・
4193, 呪いの時代 ー10
2012年09月18日(火)                                 
* ペルソナ(仮面)の品不足     「呪いの時代」内田樹著
 結局、人は、それぞれの場面に色いろな仮面を被ることで生きている。
ところが一つの理想的な仮面に限定すると、それに対して真逆なペルソナが現れ出る。
「弱くかわいい僕」以外のペルソナの品ぞろいがないと、危機的状況になった時に、
思いもよらない凶暴なエゴの男が顔を出してくる。人間は面白く、哀しく、弱いもの。
我が内なる他者とは、よくいったもの。秋葉原の無差別殺戮などは、その典型である。
仮面の品不足だったのである。   ーその辺の記述からー
≪ 人間の攻撃性のコントロールは容易ではありません。完全抑圧してしまうと、かえって
 思いが違ったかたちで暴発する。ひとりの人間が抱え込んでいる攻撃性の絶対量は、
変わらないあるところで抑え込めば、違うところからかたちを変えて噴き出してくる。だから、
攻撃性はいろいろなかたちで管理して、「小出し」にするしかない。小出しにしておけば
破局的事態は避けることができます。だだし、そのためには、「攻撃的なペルソナ」にしても
「防衛的なペルソナ」にしても何種類か品ぞろえしておく必要があります。そして、状況に応じて、
その場にもっともふさわしい仮面をかぶる。・・
 ・・・ 草食系男子が採用している「弱くてかわいい」ペルソナというのはたしかに多くの場合に
有効だと思います。とりわけ、今の日本のように「弱者であることの利益」がつよく意識されている
社会では。でも、当たり前ながら「弱くてかわいい」だけで対応できる状況は限られています。
対応できないとき、彼らは一気にしばしばまったく似ても似つかない別のペルソナ
(凶暴で攻撃的)に切り替わってしまう。この二極のペルソナがあまりに隔絶しているので、
人格が統合できないまま、まるで別人のようになる。卑屈なほど恋人に尽くしてきた男が、
結婚と同時にいきなり荒れ狂うDV男に変わってしまったという事例は実際に僕も知っています
けれど、このような人格解離現象はペルソナの「数不足」で起きてしまうのではないか。・・・
 ・・・「他者との共生能力の劣化」ということを問題にしたが、他者との共生の基礎となるのは、
実は「我がうちなる他者たち」との共生の経験なのだと思います。僕自身にも「さもしい私」
「邪悪な私」「卑劣な私」がいる。それらもまた僕の正規の「ペルソナ」の一つであり、
それなしでは僕は僕ではない。自分自身の中にある
さまざまな人格特性を許容できる人間は他者を許容できる。僕はそうだと思います。
世間で言われる道徳訓とは言葉がずいぶん違いますが、僕は自分を許すことのできる
人間だけが他人を許せると考えます。≫
▼ ー「他者との共生能力」をつくるには、他者を構成する複数の人格特性のうちに幾つか
 「私と同じもの」を見出して、この他者は私自身と同じであることを認めるべきである。
その共通部分をどうすれば増やせるか、とりあえずは、人格特性を「切り出す」ユニット数を
増やすしかない。ーという。要は、その切り方である。可能な限り、自分を割っていく、割れば
割るほど他者との共有部分が増えていくことになる。人生の経験とは、そんなものである。
 ・・・・・・・
3828、 もう、あれから半年
2011年09月18日(日)
 3月30日から、あと二週間足らずで半年になる。そろそろ30年、いや仕事人生の40年余りの
毒気も抜けてきた。そこで、「何だったのだろうか、これまでの日々は?」と、定石通りの思いが
浮かんでくる。「男なら、条件が揃えば事業を興すのは当然」と信じてきた。 ふと気づくと
9・11、9・15に直撃、その大波が地方経済を直撃。更に情報化の進展も加わり売り上げが激減。 
ここまで、経済状況が悪化するとは、実のところ思いもよらなかった。ここまでリアルに売上減に
なると、諦めるしかないと納得する。 で、一歩、娑婆から身をひいた半年後の実感は
「世の中で揉まれているうち、大きな歪みの塊になっていたのでは?」という疑問である。
それが気づくのは、娑婆気から抜けた時。特に家庭の柱としての働き手の男の場合、
その歪みが大きい。その断面を大きな節目になって気づくことになる。誰もが、社会や会社の
柵に捉われたくないが、競争社会では肩肘も張らないと・・ とはいえ、それだけに目がいき過ぎて、
他の大事なことに目がいかなくなり、最終章に近づいて、慌ててしまうのが大半。 
半年で、この40年の歪みを改めて振り返っている日々でもある。 もしかしたら、一生、
気づかないで終わる人もいる。それに気づいて悶々とする人もいる。 先日、近じか定年になる
友人に、この話しをしたら、全く同感という。小さな、しかし、かたい勤め先を、こともなく
48年間勤めあげた実直な男が、自分の人生の歪みを認識していたのである。
私なら自分で納得するが・・ でも、その歪みも後悔は全くない。 ここで、「良い人生、悪い
人生でなく、充実していたか、してなかったか?」という言葉で、自己納得するしかない。 
状況が状況だったので、苦悶はあるのは仕方がないが、充実感が、何とか支えになっている
というのが正直のところ。 準備、15年も含めた事業人生の45年の終わりは、三連発の
経済・自然大災害の直撃で終わってしまった。そして半年たった現在、静かな心境でいられる
のが、救いである。少なくとも、自分の人生の歪みに後悔はしていない。
この歪みが自分でもあるから。 その歪みに七転八倒しているのがいるが・・・
それも人生。 穏やか過ぎる人生より、遥かにましである。 それも歪みか。
 偶然、この内容に滞欧する文章が以下の去年の同月同日に書いてあった
   ー 面白いもの。 いや、数年分が関連している。
・・・・・・・・
3463, 9・15より二年
 2010年09月18日(土)
 リーマンショックから、二年経過し三年目に入った。100年とも、250年に一度の激震と言われる。
アメリカでは、証券大手の殆どが瞬時に消滅、シティーバンクなど幾つかが大手銀行も政府管理会社になり、
ビッグのGM、クライスラーも政府管理の事態になっている。日本のバブル崩壊で、大手銀行が20社から
三社に集約されるまで10年も要したことからみれば、迅速である。日本では今のところ目だった大手では
日本航空ぐらいなのは不思議と言えば不思議である。まだ表面化はしてないが、まずは関東・東海ベルトラインを
除いた地域経済は惨憺たるもの。悪いことに政権が民主党に移行し、人間に例えれば脳がマヒ状態で、この難局に
国の方向が定まらない無政府状態。このまま、この激震のクライマックスに入る2012年を迎えることになる。
デフレから悪性のハイパーインフレへの転換である。現在は円高だが、さらに恐ろしい円安が日本経済を襲う。
まだ表面化してないが、ある日、株と国債の暴落から始る激しい恐慌の本番は、激しく我われの生活を襲ってくる。
悲観的だが、それが事実なら認めざるをえない。
 これに情報化社会の進展によるグローバル化が、世界をフラットにしていけば、これまで東西冷戦の狭間で、
大きな恩恵を受けてきた日本が、普通の国並みに豊かさが損なわれるのは当然である。それが、現在の日本の衰退。
情報化、グローバル化、フラット化の流れは、もう止めることは不可能である。これまでの常識は根底から破壊され、
全く違った価値観が通用する時代に既に入ってしまった。情報、軍事、金融を支配しているアメリカは、当面は勢力を
保つだろうが、中期的にみれば衰退は免れない。それに対し、中国・インド・ブラジルなどに覇権の重心が移動する
のは避けれないこと。その中で、日本はアメリカの更なる植民地化が進む。毒素が脳までやられてしまったのである。
その一つの現象が、現政権のトップ達に、そのまま現出しているとみると、ニヒルな笑いが出てきざるをえない。
 ・・・・・・・・
3088,挫折を考えてみようか −3
2009年09月18日(金)
 ある人に「あなたの『挫折を考えてみようか ー1』を読んだが、貴方には挫折経験がないのでは?」と言われた。
そこで改めて考えてみた。 大学浪人は、そこで進学を断念したのなら話しは別だが、挫折ではない? 金沢時代も
挫折とは違う。目的もしっかりあったし、絶好の体験をしているという実感はあった。創業を目指して彷徨いながら
準備をしていたという明確な絵図があった。そう考えると「挫折体験はないのでは?」という指摘も正しいことになる。 
先が見えないで暗い心情になっていた時期で挫折とはいわない。そうこう考えると、挫折と軽々しく言わない方がよい!
ということ。 ネット辞書によると「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」とあった。
挫折は、それまでの自分を一度破壊して新たな自分の創造を促すチャンスになり、竹の節目に譬えることが出来る。 
そこに大きな鍵が隠されている。超越者の声に敏感になることもある。それまでが横の時間なら挫折の時節は縦の時間。
「節目を打て!」というが、そこで超越者に試されことでもある。 物語なら、そこを節目としての転換期になり、
「起承転結」の「転」の時になる。挫折の状態は、追い詰められた状況ほど芸術作品や本などを通した超越者の語り
かけに鋭敏になる。「予定挫折」という言葉がある。 挫折を意図的に入れて置いて、人生の踊り場にするのである。 
そこは枝葉を切って根を養う時節であり、超越の時節になる。「そうか〜挫折と思い込んでいただけか〜」と思ったが、
それでは、挫折が無かったかというと、勿論ある。実は見落していたのである。大学浪人や創業時の準備は勘違い? 
しかし深傷だったが。最近になって「自分は中学浪人だった」と何人かの知人から聞いて驚いたが一番傷つきやすい
時期の、それから見れば、当時の大学は半分近くが浪人経験者で、挫折でない。また私の姉夫婦と実兄夫婦の倒産劇で、
大きく挫折をしたのを間近で見たが、壮年、老年近い挫折は厳しい。最近はリストラで日常が挫折だらけになっている。 
他人事ではない。 予定挫折ともいかないし。幸福というビルの最上階の4Fならいいが、屋上から何は? 
挫折を茶化すこともないが・・・「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」か〜! 
なら日々挫折である。計画が甘いだけ?。        「日々是挫折」 =「日々是口実(好日)」
 ・・・・・・・・・・
2723, アメリカ発、金融危機の始まり!
 2008年09月18日(木)
AIGが一昨日、1ドル台まで下落したが、アメリカのFRBが昨日になって9兆円の融資を決めたことで、
当面の倒産を回避した。FRBがリーマンと同じスタンスをとれば、倒産になるところだった。世界中が一瞬、
息を呑んで見守っていた決定であった。NHK海外衛星TVで、ジョージ・ソロスにインタビューをしていた。
「これで問題が解決をしたのではなく、小さな目先の問題が先送りをされただけ、次次と同じような問題が出てくる!」
と、大恐慌の到来を匂わせていた。アメリカ政府が80?の株式を持ち、切り売りなどしてソフト・ランディングを
させる方針だ。アメリカの上位数社の壊滅と、AIGの政府の倒産の危機は9・11事件に匹敵する金融の大事件。
一つ間違えれば世界の金融は崩壊の危機に立っている。これが序曲でしかないのは、誰の目にも明らか。
ボロボロ世界中から、大問題が次々と発生してくるのだろう。恐慌が始ったようだ。ある日、手に負えないような
ハイパーインフレが発生、スタグフレーションになる。考えただけで恐ろしい日々になるのである。
メルリリンチが、もしBOAのリーマンを買収が決定すれば、次にターゲットが自社に来ることを察知。
恐らく財務関係者から救済がないことを知らされて、急遽BOAに売却を申し込んだのだろう。
メルリチンチの倒産の方が更に衝撃が大きかっただろう。 映画のような非常に緊迫したヤリトリがあったのだろう。
リーマンでも負債総額が64兆円というから。日本でも各金融機関は大きな損失を被るだろう。この混乱は、今後
大きな尾を引く。これまでとは全く違った金融環境になることは自明。 日本でもあったように、資金の貸し渋り、
貸し剥がしが、アメリカのみならず、世界中で起こる。 やはり世界恐慌が始ったのである。欧米各紙は、
「ブラック・サンデー」と命名したという。それか翌日の15日の荒れた月曜日ということで、「ワイルド・マンデー」
ともあったが、ドチラが定着をするだろうか?
  (字数制限のためカット 2014年、9月18日)


4934,コトの本質 −4

2014年09月17日(水)

   * 二十世紀の共同幻想は破綻した      『コトの本質』 松井孝典著
 二十世紀の共同幻想の一つに経済成長がある。その幻想が崩壊を始め、現在は、恐慌前夜の
様相である。この潮流は、今後とも続くことになる。何故なら、世界の中枢の脳は20世紀の共同
幻想そのもの。だから、崩壊は今後も続くのは自然の流れ。ネット社会の到来で この共同幻想は
違ったカタチになってきている。新たなネット社会の内部モデルは、瞬時に世界中に日々更新され、
進化と、深化の速度は早まった。 ーその辺りから抜粋ー
≪ 二十世紀以前からの共同幻想のひとつに、右肩上がりという共同幻想があります。
それを前提にした社会システムが非難されていますが、百年後といわず、十年後を考えても、
いまのような社会システムや、それが人間を規定するというようなことに関する共同幻想が本当に
破れないのか問題です。 現実には、どんなに大変な問題が山積していようと、ほとんどの人は
共同幻想に閉じて生きていますから、その中に埋没しているかぎりは問題が顕在化することはなく、
そのままでも生きられてしまいます。その間は、その人にとって問題は存在しないのです。
共同幻想を幻想とは考えず、人間を外から見ることができず、その中に埋没して生きている
人たちにとっては、共同幻想ではなく、それは真理であり、人間とはそのようなものだという
定義であり、そのために生きているという価値であり、すべてなのです。神しかり、宗教しかり、
愛しかりです。たとえ宗教に関わる者であっても、突き抜けた人は、その意味(共同幻想)を
きちんと理解しています。そういうレベルの人とは議論できるし、互いの意図を理解し合うことも
可能です。それぞれの分野で突き抜けた人、それをプロと呼ぶとすると、その人たちには
共同幻想ということの意味が理解できるからです。
 人間圏をその外側から見ることができなくても、共同幻想を、真理だとか、現実だとか、すべての
人はそうあらねばならないとか、その価値の正当性を主張するのは、やめることが必要です。
共同幻想というものは、正しいとか正しくないとか、わかるわからないではなくて、当人がただ
そう思い込んで納得しているにすぎないことなのです。しかし、逆説的ですが私は共同幻想を
抱いて生きることが、逆に現在生きている我々の人生を肯定すると思います。≫
▼ 己の人生を否定してでも、共同幻想を見据える視線は失いたくないもの。
リアルな外界を可能な限り見据えて内部モデルを更新し続けることしか、生きることが
出来ないのが人間である。 自分を振り返ると、終戦直後に生れ、高度経済成長の中バブル
の波に乗って流され、その崩壊が右下りのターニングポイントだった。そして、おおよそ10年後、
2001年の9・11テロ、2008年の9・15のリーマンショック、2011年の3・11震災を経て、
現在に至っている。20世紀の時代と共に、その共同幻想を疑いもなく信じ、右上りと、右下りと、
その崩壊過程を生きたことになる。21世紀の姿が見え始めたが、面白そうだが、
右上がりの明るい時代ではなさそうだ。
・・・・・・
4567, 変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー3
2013年09月17日(火)
            「変えてみよう! 記憶とのつきあいかた」高橋 雅延 (著)
 最近、老いてきたためか、「突然死は、本人にとって決して悲劇ではなく、平均10年近くの
介護にならず済むため、むしろ幸運だった」と思うようになってきた。しかし、いざ「余命半年!」
と言われれば、生きたいと思うのが人情。あと一年半で私も古希をむかえるが、気持ちは
今だ50歳半ば。そのギャップは埋めようがない。ある日、余命半年か、一年と宣言されるか、
悟り、それまでの一生分の濃厚に圧縮された時間を過ごして、消えていくのだろが、
くも膜下で一瞬、消えていく可能性もある。  
 ー以下は、くも膜下で救急車で運ばれる当事者の生々しい場面の記述であるー
   * 空白の五日間
《 くも膜下出血で私が倒れたのは二〇〇六矢月一九日のことだ。
あの日はー生涯忘れられないとともに、その後の「記憶のない」日々の始りであった。
その日は、翌日から、学生を引率してイギリスへの語学研修が予定されていた。
翌朝が早いため、私は成田空港の近くに宿泊することにした。例年とかわらぬ猛暑の中、
その日は夕方の五時頃、翌日から大阪に帰省する妻とともにホテルに、チェックインした。
その後・六時をほんの少し過ぎたとき、キーンという耳鳴りとともに、私は突然激しい頭痛に
おそわれた(妻の話によると、ごく短時間だが意識を失っていたという)。 仕事柄、少しは
脳のことを知っている私は、この異常な激痛からするとたぶん、脳の血管が切れて出血が起こった
と思った。そして同時に、右足の小指がしびれてきたから、出血は脳の左半分のどこかで起こった
のではないか、と推測した。脳は左脳と右脳に分かれ、それぞれ反対側の身体の動きを
つかさどっている。だから、身体の右側に麻痺が起こるのは、反対側の左脳にダメージを
受けたからだと考えられるのだ。左脳といえば、ことばをつかさどる部分がある。
これはへたをすると、ことばに障害が残り、二度と教壇に立てないかもしれない…
そんな不安さえ頭をよぎった。あまりの激しい痛みに、横たわったまま身動きのできない
私の姿をみて、妻が救急車を呼ぶと言い出した。私は翌日からの引率が気になっていたのだが、
とにかく医者に診てもらうべきだという妻の意見に最終的には従うことにした。
そして、壁に掛けていたズボンの後ろポケットからパスポートやクレジットカードを取り出してもらい、
ベッド脇に置いていたカバンの中にある大学の緊急連絡先に電話するように頼んだ。
そうこうしている間も、激しい頭痛は止まらない。その後ようやく、二人の救急救命士が到着し
(・・略)救急車の寝台に横たわると、身体の大きい私には思いのほか窮屈で、しかも、走行中の
振動が頭にひびいた。救急救命士は、何度も私の名前を呼ぶと同時に、血圧を測っていた。
横たわっている私からも血圧計の数字が読み取れたので、それをみていると、血圧は一五〇、
一七〇、……と、どんどん上昇していく。私はこのまま死ぬことを考え、つき添っていた妻に
かろうじて感謝のことばを言って、そのまま、意識を失ったのだった。
 これは当日のほんの一部のできごとを書いたが、おそらく多くの方は、極めて鮮明な
私の記憶に驚くのではないだろうか。実際、私は今もなお、あの場面を、まるで自分が主役の
映画を観るかのように、心の中に鮮明に思い浮かべることができる。しかし私には、その後、
つまり救急車の中で意識を失った後の、五日間の記憶がないのである。この五日間に、
月並な表現だが、私は生死分境をさまよっていた。・・ 》
▼ 二年ほど前に、知人が突然、TVの朝ドラを見ている最中に脳梗塞で倒れ、救急車で病院に
運ばれたが、意識が戻らないまま亡くなってしまった。状況は似ているが、著者は生還して状況を
こと細かく生々しく書きのこしている。 知人は長年、糖尿病に悩まされていたというが、突然、
脳溢血で死ぬとは思ってもいなかっただろう。 この年齢では、「マサカの坂」はない。
・・・・・・
4192, 呪いの時代 ー9
2012年09月17日(月)                        
  *「今、付き合っている人いる?」の意味 ー草食系男子とは何?  「呪いの時代」内田樹著  
 最近は合コンとかいうのがあり、気楽に結婚相手を探すシステムが出来ている。それと、
ネットの交流サイトで知り合い結婚に至るのも多い。何気なく「今、付き合っている人いる?」
と声をかけるのも、実は巧妙な意味がある。 
  ーその辺を抜粋ー
≪とりあえずは恋愛の局面において「傷つかないこと」があります。20年ほど前から「ロ説く」人が
少なくなりました。それどころか「口説く」という動詞自体がもう今の学生たちくらいの年齢では日常
彙に含まれてないかもしれません。じゃあ、学生諸君は、交際を求めて何というか。
「今、付き合っている人いる?」です。これは、きわめて巧妙に構築された「口説き文句」と思います。「今、付き合っている人いる?」という問いは、一見すると客観的な事態についての価値中立的な
問いのように見えます。まるで、「今、雨降ってる?」とか「今、6時過ぎた?」と訊いているように
誰でも口にできるし、誰でもイエス・ノーで即答できるように作文されている。まだ知り合った
ばかりでお互いをよく知ないもの同士が、色いろあたりさわりのないことを話しているうちに話題も
尽きてしまい、ふっと訊いてみた。そういうふうなカジュアルな問いのようにみえる。
あたかもその問いに対する相手からの返答に自分はとりわけ関心があるわでがないけど、
ちょっと聞いてみただけなんだけどと言わんばかりである。「今、付き合っている人いる?」の問いに、
仮に、「うん、いるよ」と即答されても、「ああ、そうなんだ。ふ〜ん、でさ、キミ、音楽聴く?」
というふうに、そんなことオレ的に関係ないけどさ」的に修羅場から逃走できます。「いないよ」と
いえば、「それなら自分と付き合わない?」と、いきなり具体的性行動レベルに切り替えられる。
「今、付き合っている人いる?」という問いを発する人は、その言葉が性的アプローチであるか
どうかの決定権を自分の側に留保しています。だから、「いるよ」という答られた場合は
「この問いはただの社交的問いである」と言い抜け、「いないよ」という答えが得た場合は
「この答えは私に対する性的関心の表明である」という解釈ににじり寄る。
「キミが好きだ」という告白に対しては、言われた側には無数の答え方があります。
言葉で答えてもいいし、鼻で笑ってもいいし、背中を向けて歩き去ってもいいし、何も聞えなかったふりを
してもいい(これはよくあるリアクション)。・・・ ≫
▼ スナックやキャバクラなどで日常、会話されているポピュラーな言葉だろうが、直ぐに思い
浮かぶのは、「あんた美人だね!」「最近、シネマで何か見た?」「オーラが漂っているね」
「あなたの為に、この場があるような存在だね」とかがある。以前、女性の職場にいたときは、
浅知恵で「三度褒め」を心掛けていた。意外と異性は直接褒めないためか、三度目がポイント。 
少し軽いが誰にも言っていれば変な誤解は受けない。言葉は相手を有頂天にも激怒もさせる。
最近は、褒めたことがない。 
・・・・・・
3827,  集団爆笑 ー木曜五限の地理公民ー
2011年09月17日(土)                   ( 『ザ・万歩計』万城目学著 )
 人生では思わないハプニングで爆笑の渦に巻き込まれることがある。
   以下は、ある随想にあったもの、思わず噴出した。
【 高見は一風変わった授業を進める教師だった。とにかく生徒を当てまくる。次回までに解いてこい、
 と指定した範囲の問題を徹底し当てまくる。彼は中学生の本質を、的確に見極めていた。甘い顔をして、放って
 おいたらどこまでも勉強せず、授業中、昼寝するだけ、という性悪説を信奉していた。そして、その考えは
 おおむね正しかった。・・・・答えが間違っていると床に正座。次に後ろの席の生徒が立つ。答えられない。 
 正座。はい、次、また、正座。こんな調子なので、クラスの九割が床に正座させられ、正規のイスに座る者が
 ほとんどいなかったこともある。おかげで、高見の授業は常に異様な緊張感が漂っていた。事件は、この高見の
 授業で起こった。主役は三井。三井は強度のビビリ。人前で怒られることに、極端な差恥を覚える性質の正直者。
 あの日、高見に当てられ、問題文の朗読および解答を求められた三井は、傍目にも哀れなほどビビっていた。
 斜め後ろの私の席からも、問題集を持つ手が、緊張に震えているのが、はっきり見えたほどだ。 
 三井は途中しきりに噛みながら問題文を読み上げる。「アラビア半島の一角を占める、人口二百二十万人の
 オマーンの首都マスカットはアラア海とオマーン…」問題文は「首都マスカットはアラビア海とオマーン湾に面し、
 漁業と交易の中心地となっている」という何でもないものだった。だが、三井はこのとき緊張からくる混乱の
 極みに達していた。普段から冗談も言わない、根っから真面目な奴。ただ、男なら誰もが通る、ちょっとした
 思春期の懊悩に、運悪く足元をすくわれてしまったのだ。「アラビア海とオマーン……」で途切れ、数秒の
 ブランクののち、三井はぽつりと、「湖……」と続けてしまつたのである。その瞬間、大阪の片田舎の男子校に
 笑いの爆弾が落ちた。教室に破裂した笑い声で本当に床が揺れていた。いったん笑いが収まっても、誰かが
 ふたたび笑いだすと、波となって全員をまきこんだ。 十分経っても、男どもはひたすら笑い続け、もはや授業
 どころではない。教壇の高見も笑っていた。「誰にでも間違いはある」とフォローさえしていた。あれほど些細な
 間違いを見逃さず、なべて正座を命じていた男の言葉とは思えなかった。もちろん、三井に正座命令はなし。
 三井の導いた笑いは「鬼」と陰口された教師の心すら溶かしたのである。その日より三井の名前は学校中に轟いた。
 あんなに笑った経験は、二度とない。 とことん生真面目な男が、私の人生最高のスマッシュ・ヒットを飛ばす。
 「人間には無限の可能性がある」この言葉を聞くたび、思い出すのは、あの木曜五限の地理公民と三井のこと。 
 私が笑いの偉大さについて身をもって知った、十四歳の夏の午後。】
 ▼ 以前に、ここでも書いたことがあるが、学生時代のドイツ語の授業で、誰かがドイツ語の訳をしていた。
「・・・ その時、遠くから犬の鳴声が聞こえてきた!」と、同時に遠くから、それを待っていたかのように、
「ウ〜 ワンワンワン」と犬の鳴声。その瞬間、かたい授業の最中、部屋中が爆笑の嵐。
 あれだけ集団で腹の底から笑った経験はなかった。
・・・・・・・
3462, 純粋持続 −2
2010年09月17日(金)
 * 純粋持続と自由
 ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由の源泉である。 通常、自由といえば、選択の自由を意味する。
たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか
自分の意志に基づいて選択できる。 そこに自由があるとされる。 しかし、ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を
思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想であり、生命の自由な持続に即したものではない。
 生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、現在において不断かつ連続的に
創造されるものであるからだ。したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての純粋自我による行為。
他方、物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。 物質は自らを
破壊するのに対して、生命は自らを形成する。つまり生命には、物質が降りていく坂を登ろうとする努力をみることができる。 
宇宙の万象は、この持続の種々の緊張による多様な創造的進化の展開である。そして緊張の極にあるのが、「生の躍動」である。
▼ 以上だが、まず好きなことをして我を忘れている時間が「純粋持続」である。その時は空間時間は消え、没頭している時、
 そこに「したいことを、しているという自由」がある。純心になって対象に打ち込んでいる時、時間も空間も超越している。
しかし我われは日常の煩わしい空間に縛られ、日常の反復を繰り返すだけになっている。 それらをカサブタと仮定すると、
その奥に隠れている真の時間が「純粋持続」である。 哲学は、固定、静止、実在するもの、定着したものを探究するのが常。
しかし、ベルクソンは「流動性」つまり「流れ」に注目する。一人の人間存在について考えても、その細胞は日々刻々と変化
しており、昨日と今日は、同じでない。生命の場合、同一状態が永遠に続くことはありえず、流れの只中に「ある」という
ことが保証されているに過ぎない。ベルクソンは、この「流れがある」こと、ならびに「流れの中で生きている」こと、
この両者に「自由」を見出す。あえて言えば、生命体が生きているだけで、どのような状態であっても、死んでいなければ
「自由」である。我われは、強力な束縛はないが、小さな細かい束縛の中で生きている。もう一つ、現在はある程度自由だが、
もっと多量な、もっと高貴な、深遠な自由に到達してないと考える場合である。どっちにしても、ある程度自由だが、自由
でもない、のが多くの人たちの現実。 気の持ちようである。だが、この「気」こそ、ベルクソンの呈示したものである。
 ・・・・・・
3087,挫折を考えてみようか −2
 2009年09月17日(木)
 哲学者のヤスパーの「限界状況」と「包括者」は、なかなか含蓄がある。ヤスパーは第二次世界大戦でナチへの協力を
拒否したため、大学教授を剥奪され、身の危険を感じスイスに亡命せざるを得なくなった体験がある。そこから「限界状況」
という考えが、色濃く反映している。『限界状況』とは、突き当たり、そこで挫折するしかない壁、具体的には、死、闘争、
悩み、歴史による規定などをいう。それらの乗り越え難い厳しい壁を目の前にして、逃避するなら人間は自分を失ってしまう。
反対に、その試練を真摯に受け止めることよって初めて、我われは自分の生きる姿を知ることになる。
 しかし受け止めたところで、限界状況では挫折は避けられない。しかし、この挫折が私たちを超越者(=包括者)
の世界に導いてくれる。 もちろん、ヤスパーが考えたのは、挫折(無力感)から神のような超越的なものへ目が見開かれる
という宗教的なことではない。 包括者を認知するとは、この世の中に決して合理的に理解できないものがあることを
知るということ、理性の限界を知るということである。 理性の限界を認識してこそ、私たちは理性的に思索できる。
それをヤスパーは包括者の認知と提示したのである。 20世紀から、このかた原爆、世界大戦、ナチ、毛沢東などが、
大量殺戮を繰り返してきた。 それは徹底した合理主義の下である。 理性そのものの疑問が生じるのは当然である。 
 我われの挫折も、それを逆バネにすれば自分の無力感を、超越者(作家や芸術家など)から救ってもらう切っ掛けとなる。
挫折は、それから学びプラスに出来れば、これほど効果的なことはない。 その限界状況が芸術、思想、自然、歴史などの
暗号を解いて、包括者を受け入れやすい環境として最適な状態となるのである。挫折は、自分の壁が破壊することでもある。
その壁は、自分を守ってもくれるが、反面、殻にもなってくる。養老孟は、それを馬鹿の壁と表現した。そうこう考えると、
人間にとって(特に若いときの)挫折は必要欠くべからざる経験ということになる。 ところで先日・・・・  〜つづき    
・・・・・・・・・
2722, どうも世界恐慌に入ったようだ!
2008年09月17日(水)
 * アリコが危ない?
   (字数の関係でカット、2011年09月17日)
・・・・・・・・・
2007年09月17日(月)
 2358, ギリシャとエーゲ海の旅 −4
(字数制限のためカット 2012年9月17日)


4933,コトの本質 −3

2014年09月16日(火)

   * 地球システムと、人間圏     『コトの本質』 松井孝典著
 10年ほど前、著者の本で、「地球をシステムとして捉る」の新鮮な切口は、今でも憶えている。
人間圏から宇宙、地球、自然をみるだけでなく、宇宙の彼方から逆照射で地球を見直し、
その中の一部としての人間圏、社会、文化文明を捉える考え方は、秘境ツアーから得た感覚と
似ていた。 それまで、そういう見方が、無かったことになる。仏教では、阿弥陀如来の視線が、
似ている。グーグルアースで、ネットで気楽に地球の彼方から星座や、銀河、惑星、
ブラックホールなど、宇宙の彼方まで見ることが可能である。また、彼方から太陽や
地球を見ることができる。  ーその辺りからー
≪ 地球とは何ぞやの本質はシステムにあると思ったときに、人間まで含めて考えなければ
 いけないことに気づきました。いまの地球システムを考えてみれば、人間もその構成要素の
ひとつに入るはずですから。 というわけで、この頃から、人間や文明について、学生の頃の
ように観念的にではなく、私自身の独自の視点から考えることが始まりました。
地球をシステムとして考える視点から、その中で人間をどうとらえるか発想でき、「人間圏」という
概念が生まれてきました。人間圏という概念を導入すれば、文明論から環境論から人間論まで
何でも語れるじゃないか、ということ。人間圏を思いついた時、まったく新しい人間論も語れるように
なりました。人間圏という概念は、これまで誰も指摘していません。 これも、衝突脱ガス、
水蒸気大気とかと同様、私のオリジナルなアイデアです。それは文明論や地球環境問題を語る
うえで、なくてはならない概念です。 ≫
▼ 人間圏をつくりあげ、絶対と考えてきた人類が、ここで、大きな曲り角にきている。
 20世紀まえからの右上がり経済の共同幻想や、西洋文明的進化が絶対だ、という考えである。
今だに〔新成長戦略〕など戯言を政策目標にしているアベノミクスが、その典型。しかし、アメリカの
実質的占領国の日本は、アメリカとの共同幻想を共にするしかない事情もある。 私見になるが、
人間圏には、上から? 白人圏、アラブ人圏、東洋人圏、黒人圏があって、白人が、富の多くを
支配している。それ以前に、動物圏も、同じ。それが、あからさまに残っているのがインドであり、
その根が差別を公認するカースト制。
・・・・・・
4566, 変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー2
2013年09月16日(月)
                「変えてみよう! 記憶とのつきあいかた」高橋 雅延 (著)
   * 経験も、その記憶も、受け止め方ひとつ
 どうも、家庭に引っ込むと単調な日々になる。 好きなことだけが出来るため充実感はあるが
刺激がない。 で、週一のシネマと、TVの映画、ドラマの再放送、プロ野球、録画のボクシング、
インターネットとブログの日々になる。これもいいが、平穏のため、フラッシュバックが多く出てくる。
現役なら、現実の刺激がそんな記憶を瞬時に飛ばしてしまう。が、現在はそれがないこともあって、
振り回される。それも一瞬だが。 人生の後半になるほど、思い出されてくるのが、20歳代の
フラッシュバック。封印していた記憶が次々と出てくる。そんな折、図書館で見つけたのが、この本。
「実は、私たちは不確かな記憶に振り回されている」とある。 20歳代は自立の時節で、卒業、
就職、結婚など人生の大きな決断時、そのため記憶が鮮明になる。30〜40歳代も密度は
濃厚だったが、社会的な基盤が出来ていた。それもあり不安定の20歳代の方が新鮮になる。
 「社会背景と、時代背景、そして家庭に恵まれていたこともあって、私には良い記憶が多く、
良い人生だった」と信じていた。しかし「人間は、嫌な記憶より良い記憶が残すように出来ている」
とすると「私だけが特に良い思い出、良い経験を多く積んできたわけでない」ことになる。
「良いこと一つに、嫌なこと一つ」を、「良いこと二つに、嫌なこと一つ」に、記憶を修正してきた。
これは意識をすれば可能。やけ酒を飲まないで、祝い酒や楽しい酒なら飲む習慣も、その一つ。
「悲観は感情、楽観は意志」という言葉もある。これも意志で可能である。 
それより、普段から上機嫌でいられる環境をつくっておくことである。 その点、御隠居は良い。
ご隠居の強みに、「嫌なことはしない、好きなことだけをする」がある。趣味、道楽の生活を日々
心掛けることが御隠居の勤めと割り切ればよい。しかし年齢を重ねると、病気や老人性鬱など、
過去からの色いろな返り矢が、次から次へと飛んでくる。その結果、何時の間にか、暗い捻れた
老人になっている。「ご覧の通り、そのまま結構」で、まずは自分を納得させるしかない。
・・・・・
4191, 閑話小題 ーカテゴリーキラー
2012年09月16日(日)
   * カテゴリーキラー
 自民・民主の対立軸の間に、地方の首長が平成の維新と名うって「日本維新の会」を立ててきた。
既存の党に新しい時代の改革が不可能と見た堺屋太一などの識者などが、大阪市政、大阪府政を建て直した
松井府知事、橋下市長を中央政治の改革に担ぎだしてきたもの。この良さは、既存政治のしがらみがないこと。
流通業界は、こういうのをカテゴリーキラーという。既存の流通経路とは全く違うバイパスをつくってしまう
やり方で、既存の百貨店と一般小売店という流通経路に対し、スーパー、量販店、コンビニなどを、これまでと
違った立地に新たに出店する方法。さらに最近では、その流通経路に対し全く新しいカテゴリーキラーが出現。
ネット販売である。 先日、歯ブラシを見に電器チェーン店に行ってきたが、ネットで買えば25パーは安いことを
知ってのこと。そこには若い子連れの家族がいた。私と同じで、そこで商品の品定めをしているだけ、買うのは
ネットの様子。今では、多くがスマートフォンを持ち、その場でネット価格を調べることが可能になっている。
店は現物をみるショーウインドウとして割り切っている。恐ろしい時代である。それと、酷似しているのが、
日本維新の会である。それにしても自民、民主? 
  * 近所の人の突然死
 一昨日のこと。朝の10時前に自宅の数軒先に救急車がきた。一軒おいた所は5軒の小さなフクロ小路に
なっていて、家内が言うに、「殆どが80歳以上の老人の独居暮し」とか。10年前にも誰かが救急車で運ばれて
いったことがある。「この暑さ、熱中症で誰かが倒れたのだろう」と気に留めなかった。 その直後に家内は
スポーツジムに出かけていった。今年は私の家が班長の番もあり、その家の隣家の人が、その報告に来た。
その話によると「 一人暮らしの89歳の老女で、一キロ先に娘夫婦が住んでいて、その娘が亡くなっていた
母親を見つけて救急車をよんだが、故人はTVを見ていた状況で、梗塞だった。昔からいうポックリ病死である。
静かな住宅地で比較的住みやすいところ。その中で、振り返ると、けっこう、それぞれの家庭事情が垣間見れる。 
数年前の三条の洪水で東北電力の御主人が流され亡くなったとか、病気を苦にした自殺をしたとか、
旦那が女をつくり出ていったとか、あげればキリがない。そういう私も去年の春、何で!
 ・・・・・・
3826, 閑話小題
2011年09月16日(金)
  * 血圧か〜
 スポーツジムで血圧を測りだしてから一月ほどたつ。130前後から150後半が、このとこの数値。 
以前から、この位だった。気にすれば気になるし、気にしなければ別に問題はない。 体重は、二十年、標準を
保っているし、食事も気をつけている。ただ酒量が多いことが問題。親戚で脳卒中で寝たきりだった人は少ない。 
ほぼガンか老衰で亡くなっている。でも、そろそろ血圧も、血糖値も気にしなければ! ところで、一昨日の運動
を終えた直後で158、昨日はリクライニング室のマッサージの直後のためか128。高いのか?こんなものか? 
先日、公営の小さなジムにある測定器では120だった。状況により大きく左右するようだ。脳卒中で半身不随は
辛いだろう。頭は全く変わらないというし。 大学時代の少しメタボ気味が二人、半身不随になってしまった。
  * パソコンゲーム
 これまでゲーム歴は、ソニーのPSPと、学生時代のパチンコ(数ヶ月に一度位)以外、ほぼない。
ここでiPadを購入したおかげで、さっそくフリー(無料)のゲームを幾つかダウンロードして使いだしたら、
これが面白い。午前中はスケジュールに追われているが、午後は時間がタップリある。 それでも仮眠をしたり
読書やネットで時間をとられるため、夕食後からTVを見ながらゲームに嵌っている。2〜3時間は時間がたつのを
忘れてしまうほど。止めようと思っても、もう一回、もう一回と延々と続けてしまう。これを幼児の頃から
楽しんでいたら、現実で自分をゲームの主人公にした夢の追及とか、目標のため目先の苦労をすることなど避け、
ゲームで達成感などを味わった方が遥かに楽に思えるのだろ。 なるほどバカになるわけだ。
  * ど忘れ
 数日前に、以前に一度『哲学人』を、この随想日記に書いていたことに後になって気づいたばかり。
ところ再び昨日の朝、三年前の同月同日に、全米NO1の弁護士の著書『議論に絶対負けない法』の感想文がある
のに気づいたしだい。これまでも、せっかく書き上げた後、何か書いていたような気がしブログ内検索で書いて
いたことが判明し、没にしたことは何回もあった。しかし二回もたて続きに気づくとは、やはり少し変か? 
やはり年齢のなせること? 書いたと同時に、ハッキリいって内容は一年後に、ここで再読する以外は皆無。
その分、後で読むと面白いが・・・ 
 ・・・・・・・・
3461, 純粋持続 −1
2010年09月16日(木)
 ベルクソンの「純粋持続」の考察が面白い。 まずは、ウィキペディアで、「純粋持続」を検索した。
 * 粋持続と真の時間
【たとえば、音楽の旋律にゆだねた意識内容は、それを逆向きにしたり、こま切れにしたりすることはできない。
このように概念や言葉から離れて内省に専念すると、そこに意識の直接与件として、ひとつの流れを感じる。
その流れは、計量不可能性、不可逆性、連続性、異種混交性を特徴としており、止めようなき自発、能動によるもの。
これをベルクソンは「純粋持続」と呼んだ。この純粋持続は、空間的に表現できるものではない。というのも、
空間化とは数学的な抽象であり、測定可能、可逆的、均質的、受動的なものとなって、それはもはや流れの連続
ではなく、点の継起となってしまうからだ。したがって古典物理学の(線形的)時間は、真の時間ではない。】
 〜〜 以上が、純粋時間の要点だが、
 我われのいう時間は、あくまでも決め事でしかない。日常生活でアナログ時計や、手帳やカレンダーなど空間に
時間帯が印刷され、それを見て日程をたて、お互い、そして自分自身、その約束事に従っている。それを真の時間と
勘違いしている。 しかし、人間の意識に流れる時間とは、それとは違うのは誰も直感で知っている。
日常生活の便利さに惑わされて、意識の時間が持つ性質を忘れている。人間が作った約束事の「空間的かさぶた」を
剥がしてみると、そこには本当の時間が姿を現すかのようである。その「本当の時間」を「眠った時間」の状態から
分かりやすく説明するためベルクソンは「純粋持続」と呼んだのである。 豊かさとは、そのような「純粋持続」を
如何に確保できるかにある。たしかに、私が秘・異郷旅行にはまるのは、その時間を濃度深く確保できるからである。
空間移動で、その色濃く感じる空間から感じ取ることが果たしてベルクソンの、それと「純粋持続」と言えるかだが。
 人間は定期的季節の変化から、一年という周期を経験的に知り、それを、それぞれ季節3ケ月、さらに三等分して
一月、そして一日、という単位を作っていった。農耕にとって、それが大きく役立った。しかし、それは人間が
作った約束事でしかない。人間の心の時間は、それ以前から現在に至るまであった。
その時間こそ真の時間と看破したのである。    ー つづく
  ・・・・・・・・・
3086, つれづれにー 閑話小題
 2009年09月16日(水)
  * 9・11から8年が経った
 このHPを開いて4ヶ月後に9・11テロが起こった。先日で丸8年になる。昔といえば昔だが、
8年で時代は大きく変わった。アフガン戦争、イラク戦争、そしてインドネシア沖の地震、ミャンマーの
サイクロンに、中国・深釧の大地震、地元では中越地震、柏崎・刈羽地震、去年の9・15金融恐慌と、
世界は大きく変わってしまった。直近では、衆院選挙での自民党の壊滅的敗北である。これが21世紀のようだ。
更に情報化の進展が我われの生活を根本から変えている。5〜6年前からブログが飛躍的に普及、個人がそれぞれの
情報を発信し始めた。 これに携帯電話にデジタルカメラやビデオが取り込まれ、現場から瞬時に情報発信が可能に
なったのである。 地球上にネットという別世界が新たにできて、それが現実世界に大きく影響を始めてきたのである。 
この想像を絶した情報化はSF作家の小松左京をして、「SF作家の我われさえ追いつけない事態」と言わせるほど。 
日本は冷戦終了後、それまでの冷戦の恩寵と、その結果としての世界第二位の経済大国の立場はもろくも瓦解した。
人口の本格的縮小も重なり年々、経済などのダウンサイズが始ったのが、この不況である。
  * 民主党が政権を取るとどうなる?
 民主党が鳩山政権として発足するが、どうなることか? 面白いといえば、面白い。
闘う相手は自民党ではなく官僚というから尚のこと。 検察を使おうにも、彼等こそ一番の悪巣。ここで日本も
大きく変化するのは間違いはないが危うさも出てくる。民社党も批判しているうちはよいが、今度は責任政党に
立場が変わってしまう。二大政党は、交互に政権交代すること自体がよいのだから、目先を心配することはない。
  * 9・15リーマンショックから一年
 昨日で、リーマンショックから一年が経った。見るところ三割の経済規模がダウン。緊急輸血で何とか恐慌一歩
手前で踏みとどまっているが、現場段階では上っ面な回復としか感じられない。メーカー段階では、3分に1に
ダウンしたのが、2分の1になった位でしかない。これも、何時まで続くか分からない。元に戻ることはない
という上で、経営戦略を根本から練り直さなければなるまい。超大型地震は起きてしまったのである。
津波の本体がくるのは、これからである。それが分かってないのでは? 日本は長期停滞で神経が麻痺している。
 ・・・・・・・・
2721, BOAが、メルリ・リンチを買収!
 2008年09月16日(火)
バンク・オブ・アメリカが、メリル・リンチを買収!というニュースが入ってきた。シティバンクが倒産レべルの
ニュースより大きい。(シティは倒産してないが)それも、リーマン・ブラザーズと天秤にかけて、メルリ・リンチを
買い取ったというから驚きである。しかも選択されなかったリーマンの方が倒産というから、なお衝撃が大きい。
しかし、そのツケの支払いは日本国民にも覆いかぶさってくることは明白。アメリカの、というより世界の金融の
再編成に入ったということになる。1929年の大恐慌より、深刻な事態というが、その大きなウネリが姿を現した。
ニュースで100年に一度の金融のニュースといっていたが、その通り。日本では、三菱・UFJ銀行が、野村證券を
買収したような出来事である。リーマンは野村證券の2・6倍というから、世界に及ぼす影響は計り知れない。
サブ・プライム問題の深刻度からして、おこるべくして起こったことである。 5年から10数年前まで、日本を
買い叩いていたアメリカ金融機関が、脳梗塞・脳血栓で半身不随になったと例えられる。もちろん日本の十数年前
よりも根は深い。崩壊という表現も過激ではない。アメリカの三大自動車メーカーが、ほぼ死に体状態から考えて、
世界的な混迷期に入ってしまった。先週受けた経営セミナーの先生が言うとおりである。証券会社の一位・ゴールド
マンサックス、二位・モルガン・スタンレー、三位・メルリチンチ、四位・リーマンブラザーズ、五位の
ベアーズ・スターンズ(この春にモルガンに救済合併)。この三位から五位が異変をきたしたのである。
どうなっているのだろう。今年に入って、三位から五位が消滅したということになる。ここにきてアメリカの
航空会社、自動車、そして金融と、異常事態に入ったということになる。アメリカ経済の崩壊というと、ドル安圧力が
当面は強まるだろう。その行き着く値段が60円。それが近日か3年先かは分からないが。そして一度下げておいてから、
再び回復するだろう。何故なら、ドルはアメリカが輪転機で刷っただけの偽札もどき紙切れでしかないからだ。
一番影響を受けるのは、資源のない、紙切れを掴まされた日本、中国、インドである。いずれにしても、大恐慌への
テンポが速すぎるようだ。世界中が震撼としていることは事実である。今日からの為替と株価がどうなるのだろうか。
それにしても、あの首相候補の5人の漫画的なパフォーマンス、何をしているのだろうか、この国は! 
そういえば私の学生時代の友人がBOAにいたが、どうしてだろうか。クールなハッタリの大きな男だったが。
・・・・・・・・
2007年09月16日(日)
2357, ギリシャとエーゲ海の旅 −3  Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning
  ー旅行の雑感ー
  (字数制限のためカット2014年9月16日)


4932,コトの本質 −2

2014年09月15日(月)

   * 未知の外界に接し、子供のように興奮する!    『コトの本質』 松井孝典著
現在の毎日が、まさに〔未知の外界に接し、子供のように興奮する日々〕である。45年間の事業も、
その日々だったし、秘境ツアーも同じ。 現在も、その延長にあるためか、毎日が充実をしている。
  ーその辺りからー
≪ 大学という環境で、私はいつもエネルギーが高い状態を保てます。歳をとると、普通は、
だんだんその状態から落ちていくわけです。安定した軌道上に落ちてしまって、変化がなくなってくる。
引退するときに、よく、刺激を受けなくなったとか、燃えなくなったとか、モチベーションがなくなった
とかいいますが、同じこと。
 私は、脳の内部モデルを更新していくということが、無性に楽しいわけ。毎日のように、
生命や地球、太陽系、銀河系、宇宙について、次々といろんな新しいことがわかるわけでしょう。
タイタンに探査機が軟着陸して、探査するとか、どんどん未知の現象が眼前に飛び込んできます。
それについてどう思うか、考えさせられているわけ。夢中になります。わくわくします。
子どもみたいなものです。
 未知の外界に接して、興奮する日々を送る。本当は、そのような機会をより多く与えることが
子どもの教育にとって必要なことなのです。他と接することによっておのれを知る。
これが教育の基本です。いまの教育に欠けているのは、まさにその点です。
それが欠けているから、自分を持たず自分の頭で考えられない、ろくでもない子どもが育って
しまうわけで、ほんとは、子どもというのはそういう環境下におくべきなのです。
 外界と接し、境界を拡大することによって、自らを知るわけです。それが、おのれとはなんぞや
を認識することでしょう。そのような経験を通じて自己ができてくると、初めて自分の頭で考える、
あるいは自分の意見というものがいえるようになる。さらに、どこまでこの意見は通用するのか。
それはここまでしか通用しないとか、いろいろなことを経験して、普遍性、あるいは世間を
知ったうえで、さらに深いレベルで自分の判断ができるようになるわけです。
 成長するということは、ここまではわかっているという、外側の境界を、いつでも広げ続けていく
ことですから、毎日が楽しくてしようがないはずです。新しい事象に接することで、その境界が
広がっていくわけです。ここだけの領域でしか通用しないことが、あ、ここでもそうなんだ。
さらにここでもそうなんだ。 ・・・≫
▼ 著者の本を何冊か読んで、ここでも、紹介したことがあった。宇宙の彼方から逆照射の視点で
見直し、 地球をシステムとして捉える。そして、その一つとしての人間圏を改めてみると、
気がつかなかったことが、見えてくる。まさに、地球を支配しているサルが、その自然圏の資源を
使い放題で、破壊をしている。綺麗ごとを言っている私も、その恩恵を受けているサルにすぎない。
未知の外界は漆黒だが、光を当てると?
・・・・・・
4565, 2050年の世界 ー6
2013年09月15日(日)
     「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」〜英『エコノミスト』編集部 (著)
   * 第十九章 距離が死に、位置が重要になる
《 テクノロジーが距離を葬った。通信費は限りなく無料に近づき、様々なソフトウェアーでこれまで
以上につながるようになり、‘どこにいるか’がかってない程重要になる。》 これは10年前から
現在に遡って言えること。その何処かにいるのかさえ、重要で無くなる可能性がある。
大相撲やプロ野球の観戦も、現場より居間の大型TVの方が面白くなりつつある。
その意味でグーグルアースは、ますます重要な位置を占めてくる。
   ー第十九章のまとめーより
・『エコノミスト』誌編集主任だったフランセス・ケアンクロスは一九九七年に『距離の死』という
本を書き、そのなかで通信費が技術革新で安くなり、距離は障害ではなくなると予言したが、
二〇一一年現在の時点でそれは現実になりつつある。
・一九九七年には、アメリカと欧州の電話料金は、一分あたり平均で八一セント、
 二〇一一年には、スカイプを使えば2セントですむようになった。
・国際間のテレビ電話会議とも言える「テレプレゼンス」はすでに商業化されているが、
 今後はそれが家庭に安価に進出していくだろう。
・携帯電話に搭載されるさまざまなソフトで、距離はさまざまな分野で意味をなさなくなっている。
 テキストメッセージで現金を移動させるモバイルマネーもそのひとつ。 そういうサービスで
 最も成功した一例が、二〇〇七年にケニアで始まったM-PESAだ。
〔 *(M-pesa、エムペサ)とは、ケニアにおいて人口の約3割(1,300万人)が登録
 するほど普及しており、銀行口座を持たない貧困層の金融システムへのアクセスを可能
 にしたとして名高いSafaricom社のモバイルバンキング〕
・典型的な発展途上国で百人あたりの携帯電話台数が一〇台増えれば、
 GDP成長率を○・八ポイント押し上げる効果がある。
・ウェブ空間上で、人の集えるソフトは、専制的な政府が集会の自由を圧迫しているときも、
 それを迂回できる道を提供した。
・距離が意味をなさなくなったことを利用し、各地域、各文化圏の労働力、技術力の特長を生かした
 国際分業がやりやすくなった。そのぶん、どこで何をする、という位置が重要になってきた。
 開発の得意なシリコンバレー、スペックをもとにプログラミングをするのが得意なインドの
 バンガロール、厳格な運用システムを創ることが得意なドイツ、といった具合である。
・常時接続の世界により人々は互いに話すことに興味を失ったように見える。市場調査会社
 二ールセンによると、アメリカでは携帯電話の加入者が自分の端末で話す時間は、
 二〇〇七年からの四年間で、一カ月あたり一〇〇分以上短縮され、七〇〇分になった。
▼ネット社会が世界を覆い尽くし、それが全てを変え始めているが、その行方は誰も知る由がない。
 それが距離より、それぞれの立ち位置を重要にさせていく。家族や隣人より、ネットで継った
 友人の方が優先されるネット社会が現にきている。 そうこう考えると、「自分」「私」の
 哲学的問題も出てくる。  「ネットで継った私は何者だろうか?」「ネット社会とは何?」
・・・・・・
4190, 呪いの時代 ー8
2012年09月15日(土)                   
   * 草食系男子とは何だったのか 「呪いの時代」内田樹著
 団塊世代の下の年代に草食系男子が多くなったようだ。今に限らず、私たちの年代にも
肉食系と草食系男子は別れていた。しかし中流階層が下流階層に移行している現在、
その比率が高くなってきた。この暗い世相の中では、男子も下を向いて草を食べているしか
ないのだろう。50歳以下の男たちをみると、本当に多い。しかし自分が、この世代にいたら、
草食系になりざるをえないのも確か。長期的右下がりは、いかんともしようがない。 
 ー 以下の部分が面白い! ー
≪ 僕のゼミで、このところ年に二回も「草食系男子」を自由研究発表のテーマが取り上げる。
 学生たちは、草食系男子と現にかかわり深い当事者のみなさんですから、その報告には
「現場を見抜いたもの」にしか語れない生々しいリアリティがある。ー以下、僕が彼女たちから
聴き取った情報の一部を開示したいと思います。
 草食系男子の特徴は、とにかく「弱い」ということです。きわだった特徴は「すぐ泣く」、それから
物を決めるのが苦手。「どこに行く?」とか。「何を食べる?」とか訊いても答えられない。
できることなら女の子に全部決めてもらいたがる。身体的には細身・お洒落で・髪の毛の手入れと
美肌に関心が高い。かわいいしぐさ(胸の前で両手を組んで、口をとがらすとか、外見的には
哺乳類の幼生、なかんずくげっ歯類に通じる風貌をしている。 
 では、このような「草食的ふるまい」がもたらす生存戦略上の利点とは何でしょうか。
ある特異な社会的態度が集団的に採用される場合に、それは「生存戦略上有利である」という
無意識的な判断が下されたためと考えるのが合理的です。実際に有利であるかどうかはともかく、
有利であるという判断は下された。とりあえず誰でも思いつくのは、それが「弱い立場」にあることを
強くアピールすることによって、これ以上攻撃されることを抑止する機能を持つという仮説です。
僕も、この仮説には妥当性があると思います。 弱い犬が股間に尻尾を挟むのと同じように、
あるいはマウンティングをされるのを尻を向けて待つ弱いサルのように、「弱い」ポーズを
取ることで、これ以上の攻撃を予防することが出来ます。一種の「安全保障」として機能する。・・・
こういうことが可能になったのは、公的な「強いシステム」と、それに収奪され抑圧され管理
されている「弱い個人」という二元的な対立図式に置いて、常に「弱い個人」の個に正義があると
いうチープでシンプルな物語を国民が選好したからである。草食系男子は、おもに性的関係の
局面で発揮されるが、とにかく傷つくことを恐れる。・・・≫
▼ バラエテー・ショーに出てくる若いタレントを、ほぼ、こんなのばかり。私たちの年代から見れば
 「女の腐ったような男」「人畜無害のヤサ男」。 疑似ホモ化である。逆に司会とか、キャスターは
 肉食系を思わせる逞しそうな女が目立っている。これもグローバル化・情報化によるのだろう。
・・・・・・
3825, 生命保険について
2011年09月15日(木)
 一昨日のNHKの連続ドラマで「生命保険」をテーマにした連続ドラマが始った。後で録画を見るつもりだが
シビアな内容だろう。生命保険は名前のとおり命をかけた博打。 当たった時には、当人は娑婆にいないが、
残された人に保険金が支払われる。そのため胡散臭さが漂う。母親が生前、「自分には八百万の保険がかけてあり、
死ねば支払われる」と遺言書にあった。しかし、契約書では80歳で切れていた。母の勘違いというより、
保険屋が、そのことを言ってなかったようだ。私は「保険は体の良い組織的詐欺の要素を持ったシステム」
という持論があり、保険などかけたことはない。  ーある本に、その辺のことが分かりやすい説明があった。
【 生命保険の保険料は、男性の場合、十万人が一斉に生まれ、順次死亡して、百七歳で全員が死亡するという
前提で、毎年の死亡確率を出し、これを元に算出される。 四十歳の男性の場合、生き残っている九万七千
三百九十人中、年間に死亡するのは百四十四人。つまり、九万七千三百九十一人が払った死亡保障の保険料は、
不幸にも亡くなった百四十四人がもらい、その年は終わりということになります。十万人生まれた男性が、
半分の五万人を切るのは八十二歳。死なない限り払った保険料の元は取れない。】
「自分が死んだ後の身内のことを考え、保険に入っておく」という理屈は分からないでもないが、それをネタに
利益を得ようとする保険の仕組まれたシステムは、契約書に業者に有利に作られているのは、当然のこと。 
火災保険は、万一を考えると必要だが、それで「も利益団体の言いなり」ということを考えておくべきである。 
古来から金融の本質は、保険のあるという。だから、そこは、専門家でさえ知りえないほどの騙しが隠されている。
私が保険嫌いのため、家内は心配で、家内名義の給料を38年間預金をしていたことを、一年前に知った。
それが、この事態(倒産)の命綱になっている。 保険は、生々しい世界だが、この情報化のため、保険のオバサンの
多くが淘汰されつつあるという。 それと零細の業者も、ほぼ大手によって淘汰。 再編成もすざましいという。
 何処も同じということだ。 
 ・・・・・・・
3460, つれづれにー政治談議  −2
2010年09月15日(水)
 * 管首相の大勝利
 民主党党首選挙、ここまでの大差で管首相が勝利するとは驚いた。これは日本経済にとって深刻な問題。
ある意味で致命的である。目先は分裂することはないが、半年、一年スパンでは再編に動きざるをえなくなる。
この結果、景気は円高、株安にシビアにふれてくる。 管内閣三ヶ月間で、彼が経済、外交音痴であることが判明。
当分の間、政権を担うとなると考えただけで鬱々たる気分になる。まず雪崩をうって景気が悪化、二番底、三番底
に向けて容赦なくふれてくる。円は80円、株は8千円割れが、当面の目安になる。我われに商売は直接、景気が
直接反映するから敏感になる。結果からみれば小沢の政界再編は現職与党の国会議員にとって、何時、解散があるか
分からないし、次の選挙の資金確保という大問題に直面する。 この歴史的危機でも国家天下より、御身大事を
優先するしかないのか。地方議員や、サポーターなどの票は、どうしても世論に左右されるのは仕方がないのか。
一番、怖いのは、小沢が政界から引退すること。しかし、直ぐに自分の出番が来ることを彼が一番知っている。
二人の演説を聞いていて、管首相の内容が国家のトップとして内容が乏しいのが渦中にいると分からないようだ。
過去と内側のことばかりで、方向性が乏しい。あれで、大きく小沢に振れないのだから、民主党の議員レベルの
質を問われて然るべきである。 無政府状態が当分続く。そして景気はますます悪化する。
 これでは瀕死の日本経済のリンゲルも効かなくなる?
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3085,時間リッチと時間貧乏
 2009年09月15日(火)
 新聞広告の雑誌の見出しに「時間リッチと時間貧乏」があった。
図書館で立ち読みをしたら、「TodoリストよりNotTodoリストつくり」。
「何をするかより、何をしないかをリストアップして実行せよ 云々」である。私事になるが、時間リッチを
自認している。月に数回の飲み会以外は一切の付き合いが無いに等しい。自分を育ててくれた学校の同級会、同期会
以外は、商工会、町内会、ライオンズなど、誘いもないし、行く気も無い。都合の良いことに、職場と住宅が新潟と
長岡に分かれているので新幹線の乗れば、そこで遮断できる。おまけに事業が装置産業ときているので、目先の判断は
人任せでも大きな支障がない。そのために20年あまりで、40回近い秘境ツアーに参加することも出来た。
おまけに早朝5時に起床、散歩や、読書、そして、この随想日記を書いたりもできた。 
「戦略とは、何々をすることを決めるのではない! 何々をしないかを決めること」という言葉を著名な
コンサルタントの先生の講義で、30歳そこそこで聴いたこともあり、時間に関してはリッチであった。
「で、時間リッチというわりに全然、人間的にリッチじゃないじゃないかい」と言われれば、返す言葉が無い。
しかし可能な限り世界の果てを見てきたという満足感はある。 そこで検索に「時間リッチ」と入れたら
面白いリストがあった。 その幾つかを抜粋してみた。
 〜 時間リッチになる 〜
・一週間は金曜日から。 金曜日に翌週の準備、月火水でmustを済ませ、木に検証反省。
・やる気が出ないときはとりあえず動く! 動くからやる気が出る!
・楽する方法を考える       ・自分の時間価値を意識する。「2735円」
・スタートから完璧を目指さない。走りながら完璧を目指す。挑戦すると案外簡単、成果が出るもの。
・失敗しても経験が残る。「武器を手に入れてから走るのでは遅い。走りながら武器を拾え」
・今動かないとそのチャンスを他の人に持って行かれると考える。 ・時間はお金で買える。(セミナーは有料を)
・お金を殖やすため、モチベーションを維持するための先行投資を恐れるな
・時間をケチらない。「ながら作業」は「ケチ」。 一つの行為に2つ以上の意味を見いだす、
 一つの行為をいくつかの目的のために利用するのが時間密度を濃くするということ。
・忙しいときこそ勉強する。自分のために時間を使うという行為が安心感を生む。
・仕事のできる人は仕事に遊びを取り入れ余裕がある。・そうねではなく魅力的ねと言われるように。
・かきくけこ(簡単・興味・グレー時間・決断・行動)・嫌なことは朝一で片付ける ・隙間時間にやることリスト  
・捜し物は時間の無駄              ・携帯時計よりアナログ腕時計。時間の量的感覚を身につける。
  ー 以下は字数制限の関係でカット(2007年9月15日)
・・・・・・・
2720,議論に絶対負けない法 −1
 2008年09月15日(月)
「議論に絶対負けない法」
  ―全米ナンバーワン弁護士が書いた人生勝ち抜きのセオリー    ゲーリー スペンス 著
 ある知人が訪ねてきて話しをしていたら、現在、トラブルに巻き込まれて裁判中という。
「500万〜1000万規模か、億単位なのか?」と聞くと「億単位」という。その人は30年来の付き合いがあって、
地元では大手クラスのトップ。大きな分岐点の経営判断のときは必ず相談に来て、何気ない応答にヒントを
得るようだ。その場ではヒントを得たふりを見せないが、後年になってヒントになったという。
 今回は、裁判の係争の真っ只中、具体的な生々しい相談。「議論に絶対負けない法」という本を紹介した。
アメリカのナンバーワンの弁護士が書いた本で、拗れたトラブルであるほど、彼の一言一言が全て、問題を
ヒント与えてくれるはずと、助言をした。私が、この本を読んだのは十年以上前。 問題を抱えていた時で、
本そのものがコンサルタントの先生のような役割を与えてくれ、非常に参考になった。
詳細は憶えてなかったが、スラスラ出てきた言葉は
・準備、準備、準備、それが全てである。 準備以外の秘訣など何もない。
・それと構えである。 構えの構築を一つずつしていくこと。それが準備。
・問題の中心点に向かって、自分の心を無にして集中すること。
 そのためには、心の底から正しい!と信念が持てるかどうか自分の心に問うこと、そこが一番重要。
・戦いを始めたからには、絶対に強気、攻撃的で攻めること。等々、それを言えるのは、10年前に貪り
 読んだため。「その知人の相談は、再び目を通せ」というメッセージだろうと本を探したが無い、誰かに
 貸したのだ。そこで早速アマゾンで中古本を買った。 10円+送料340円=350円。新書なら750円である。
そして再び目を通すと、なかなか内容があり、味がある。著者が魂を込めて書いてあるのが解る。
 ー 次回から、面白そうな所を書いてみる。ー
十年前は、どうなった?かですか。構えを知ってか、相手が手を引いてきました!   −つづく
 ・・・・・・
2007年09月15日(土)
 2356, ギリシャとエーゲ海の旅 −2               o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ


4931,コトの本質 −1

2014年09月14日(日)

   * 喜びの根源とは  ー魂の響き!      『コトの本質』 松井孝典著
〈 我を絶えず外界と衝突照合させ、そこで内部モデルが一新されるときの快感はたとえようもない 〉
という著者の切り口が新鮮である。それが人生では、挫折とか転進などの節目に生じる
アップスケール(脱皮)の時に生じる喜びになる。それと、壮大な自然の出会いの感動や、
芸術の強振の感激も同じである。
「この感動は人生の大きな節目になる!」という感動が、まさに新しい内部モデルである。    
秘境先のリアルな光景に感動して、魂に刻みつけ、バーチャルになる一連が、私のライフワークの
秘境ツアー。 そのバーチャルと、TV番組の行先のバーチャルが重なって感動が蘇える。 
ーその辺りからー
≪ リアルとバーチャルとか言いますが、とりあえずリアルと呼んでいるものが外界と考えて
いいでしょう。 意識に拘らず在るもの、といってもいいでしょう。 内部モデル的に整理され
ものが、バーチャルです。それは、リアルとは違います。それはモデルですから。 
リアルというものをどう整理するか、というのは、内部モデルの在り方に関わります。
すっきり整理された内部モデルでは、背後にあるものがすべて見えます。
「ことが見える」という表現の中に、内部モデルのすっきり感があるわけです。
外界を投影した内部モデルの中で、めいりようで、リアルな外界の構造が、明瞭に位置
づけられるということです。
 生きていくということは、交わるということです。我というもの、これは大脳皮質の中に
内部モデルとしてつくられるのですが、それは、外界と関わることによってつくられることになります。
外界と関わることで、内部モデルがつくられるわけですから、我という概念すらも他と交わらなければ
つくられません。我、あるいは自分というものは、最初からあるものではないのです。 
人間の生においては「我とはなんぞや」というところの我の概念が生まれてこなければ、
何も始まりません。外界、他と交わって、最初に生まれるのが、我という概念です。
他という認識があり、我という認識が生まれる。他と我。これはペアになっている概念です。
 三歳くらいの幼児の脳の中で、外界という他を認識することが起きる、と考えられています。
他を認識したその瞬間に、それを認識している自分というものができます。
そういう段階から、絶えず外界を認識する作業を経て、その瞬時、瞬時につくられているのが、
脳の中にできている内部モデルなのです。我ができたあとは、まさに他と時々刻々関わる
ことによって、内部モデルを構築していく作業が、生きるということになります。その瞬間、
その瞬間は、それまでに構築された内部モデルとその瞬間毎に入力される情報を照合させ、
修正したりしながら、内部モデルを変えているわけです。 そうやって内部モデルができ、
変容していく過程すべてが、生きるということです。私は、考えることを仕事としたいと思い
それを続けているようなものですから、学生時代からずっと考えるということとは何なのか、
それを考え続けています。自分という対象を、外から見て分析すると、これまでに構築された
内部モデル、それが私の人生だと考えています。私というものをいいかえると、私の内部
モデルがそれであり、あなたというものをいいかえると、あなたの内部モデルがそれです。≫
▼「外界がリアルで、それが、内部モデルに整理されたものがバーチャル」は、分かりやすい!
 毎日書いている、この随想日記は、リアルをバーチャルにかえていることになる。 
過去の文章を振り返ると、実感として納得する。リアルは消えるが、バーチャルは映像、
言葉としてリアルの一端を残す。だから、バーチャルを侮ってはいけない。
リアルとバーチャルは裏表。そのバーチャルは、書換え可能ときているから複雑になる。
  ー偶然だが、以下の文章に続くー
・・・・・・
4564,変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー1
2013年09月14日(土) 『変えてみよう! 記憶とのつきあいかた』高橋 雅延 (著)
 * 豊富な知識、旺盛な好奇心の必要性   
‘無意味なものを意味づけるために必要なものは何か。それは知識だ’が納得出来る。
≪意味づけこそが記憶の秘訣であるということは、並外れた「記憶力」を示す工夫からも
うかがい知ることができる。たとえば、どこかできいたことがあるかもしれないが、円周率を
何万桁も覚えているという日本人がいる。円周率は、小数点以下、無限に続く意味のない
数字の羅列だ。この円周率を一〇万桁以上も暗記しているのが、原口謹さんだ。 
かつて私は、この原口さんと、五四歳のときに円周率四万桁の暗唱記録を打ち立てた
友寄英哲さんの記憶能力について調べたことがある。その結果、二人の基本的な記憶能力は、
同年代の人たちとそれほどちがいはなく、特殊な才能は何一つみられないことがわかった。
しかし、その代わり二人とも、日本人にはおなじみの、「語呂合わせ」を使う技能に長けていた。
つまり、何万桁もの円周率も語呂合わせで覚えていたのだ。語呂合わせは、端的に言えば、
数字の羅列のような意味のないものに意味づけすることだ。原口さんも友寄さんも、けっして
若いとは言えない年齢であるにもかかわらず、並外れた「記憶力」を示すのは、
二人が意味づけという記憶の秘訣を使っているからにほかならないのだ。
もちろん、何万桁もの数字の語呂合わせをつくり、それを完壁に覚えるまで繰り返した
努力を忘れてはならないのだが。では、無意味なものを意味づけるために必要なものは何だろう。
それは知識だ。知識が貧弱だと、深い理解はできない。逆に豊富な知識をもっていると、
まったく理解できないような事柄であっても、自分の知っていることとの類似点をみつけるなどして、
意味づけが可能になる。たとえば、難解小説を読むときに、作者の生育環境や交友関係などを
知っているとよく理解できることがあるが、これが知識による意味づけの一例だ・・
 ここで重要なことは、知識が増えれば、その後新しい事柄に出くわしてもその意味づけが
可能となり、記憶に残る。ひいては、新たな知識として頭の中に加わるということだ。
つまり知識が増えるほど、新たな事柄の意味づけがより多面的にできるようになり、
知識に加わりやすくなる。よい循環が生まれるわけだ。逆に知識が乏しければ、新しい
事柄も記憶に残らず、いつまでも知識は貧弱なままという悪循環に陥ってしまう。
一六世紀から一七世紀にかけて活躍したベーコンは「知は力なり」と言ったが、まさに記憶に
とって、知識は力なり」なのだ。原口さんも友寄さんも、会って話をしたときに一番強く感じたのは、
もっと新しいことを知って、知識を増やしたいという、旺盛な好奇心をもち続けているということだった。
つまるところ、彼らの記憶力の秘訣である多面的な「意味づけ」は、旺盛な好奇心あっての
ものだということなのだろう。 》
▼ 12年以上も随想日記を書き続けて、これにエネルギーを費やしていることに疑問を
持たないことはない。反面、この御陰で人一倍の旺盛な好奇心を持ち続けている利点がある。
さらに記憶媒体になる上に、公開することで、情報と知識のギブ・エンド・ギブにもなる。
印象に残った読書内容を感想と共に「起承転結」でパックにすることで、自分の知識として
残すことが出来る。 知識が増えた分、新しい事柄や知識に出くわした時、その意味づけが
深くなり、記憶に残る。少しキツイが、私にとってベストの習慣になっている。
続ければ続けるほど、自分の底の浅さに愕然とする。
 ・・・・・
4189, 呪いの時代 ー7
2012年09月14日(金)
               「呪いの時代」内田樹著
  * 婚活も、「適職イデオロギーの刷り込み」の一種  ー第5章「婚活」と他者との共生ー
 ここで著者は、「ほぼ全ての結婚は、最後は『失敗だったな』と思うもの!」と断言する。
家庭内離婚を含め過半数が破綻しているのは知っていたが、ここで殆んど全部というから驚きである。
知人などから、こっそりと、『失敗だった』という愚痴を聞くと、禁断の秘密を知ってしまったと思ったが、
全部が、そういうことなら話は別。 実際に暮らして分かる相性もある・・  ーその辺からー 
≪ 婚活もイデオロギー的洗脳によってエンドレスの願客を作り出すというビジネスモデるにおいては就活と同じ。
 就活における「適職イヂオロギー」にあたるのが、「運命の赤い糸で結ばれた宿命の配偶者幻想」です。世界の
どこかに私だけに宿命づけられた一人の配遇者がいる。その人に出会わなければならない。出会いさえすれば
永遠の幸福が約束される… この赤い糸イデオロギーは幼児期からさまざまな物語を経由して、子どもたちに
植え付けられます。この幻想から自由であることはきわめて難しい。そのイデオロギーに悼さすかたちで
結婚情報産業が呼びかけます。
≪「この世の中に、あなたにだけ約束された人がいます。あなたはまだその人に出会っていません。何故でしょう? 
 それは『出会い』が足りないからです。私たちが、その出会いを提供しましょう。もちろん有償」・・・ ≫
「あらゆる結婚は(と申してよいでしょう)「これは失敗だったな」という後悔を当事者たちにもたらします。必ず。
 だから、ご心配には及びません。 僕たちは配属者の選択において、必ず間違いを犯します。
 そして、後になって「なんで、こんな人と結婚しちゃうたんだろう……」と空を仰ぐことになる。・・・ 
 そうですよね。頭に血が上ると「この人こそ世界でたった一人の私だけのための人だ」というような夢想に酔うが、
 普通はあまり継続しない。「では、結婚しましょう」ということになり、両家の親族に挨拶に行き、新居の家具を
 買いに行き、式の段取りをしているうち、「ほんとにこの人でいいのかなあ」という懐疑の念が兆してくる。 
「赤い糸イデオロギー」は平たく言えばただの夢想ですから、現実の「やすり」でこすられるとポロポロと
 剥落してくることは避けがたい。何となく「マリッジ・プルー」になっているうちに新婚旅行に行き、そこで
 いびきをかいて寝る夫や、トラブルが起きるたび「あなた、なんとかしてよ」ときいきい叫ぶ妻にうんざりし、
 婦りの飛行機の中では口もきかないというようなことが起こる。 いや、これは「あなたの場合」じゃなくて、
 ほとんど全て(95%くらいの)夫婦についてなさていることなんですから、ほんとうは少しも心配するには及ぱない≫
▼ これを読むと、社会の見方と人生観が一変する人もいるはず。とはいえ、やはり夫婦というシステムは、
 一部動物と人類が作りあげてきたもの。やはり、結婚と、その後の我慢はしておくべき。 
 身も蓋も無い話だが、そういうこと。
 ・・・・・・
3824, 閑話小題
2011年09月14日(水)
   * スポーツジムに通って半年、その効果は?
 月に一〜二度位しか休むだけで半年間ほぼ皆勤でスポーツジムに通っている。スポーツジムの休日の金曜日と
日曜日は市の公民館の中のスポーツ施設に行くが、変化があって、これはこれでよい。お陰で体調は、非常に
良くなった。足腰が、この数年来、重くなってきたが半分以上は元に戻ってきた。健康ジムの「イージーライン」
というプログラムに参加しているのが良い。12人一チームで、若い女性のインストラクターの掛け声で、
全員が互いを意識しながらやるため、手抜きは最小になる。特に初めと終わりのストレッチが、非常に良い。
ここが要と、入念に足腰の関節部分に気持ちを入れる。このストレッチを早朝のミニ・サイクリングの途中の
土手のベンチの横で休憩の合間にもやるが、いま一つ気合が入らない。 あの場でやるから良いのである。
 二年前に、酷い腰痛になってから、居間や書斎の椅子に、低反発クッションを、寝床には低反発枕と低反発
クッション、居間には腰痛用の健康機器を入れたため、腰痛は最小に収まっていた。そこに更に、健康ジム通い、
体には良いはずである。また健康ジムそのものが持つ明るい雰囲気が良い。ここで痛感したことは、足腰に大きな
重圧がかかっていること。それを一日に数度、丹念に揉み解す習慣は最重要事項になる。 歳を重ねると
足腰の弱体化から自然に猫背になっていく。これが、良くない。前かがみの老人は不健康に見える。
「老化すると、人は老人になる」というが、老齢期に人生のそれまでのツケが一挙に老い被さってくる。
そこで、まずは足腰と、頭の老化は人一倍、気をつけないと・・・  成るほど、老いるとは、辛いことだ。
  * 老老介護
 先日、近くのチャンコ鍋チェーン店に久々に食事に行ったところ、案内された小座敷の隣に80歳過ぎの
老夫婦の先客がいた。少し妙な直感がしたが、別に気にはとめてなかった。 しかし私たちが入店した時には
食事が終わっていたのに、私たちが帰る直前まで、そのまま御茶を飲みながら周りの客の話を聞いている
雰囲気が伝わってきた。それは別に問題ないが、家内がセルフ・サービスのコーヒーを取りに行ったところ、
帰りかけで入り口にいた御婆さんが、家内に「足が痛くて歩けないんだけど、どうしたらよいですか?」
と話しかけてきたので、家内は戸惑い「私には、どうにもならないんで、店の人に御願いしたらどうですか」と、
少し冷たく答えたという。連れもいるのに見知らずの人に訴えること自体が変で、明らかに痴呆症が半分
入っている風とか。私も腰痛を持っているので、その酷いときの辛さは痛感するので(痴呆が入ってなくとも)
誰彼なく言いたいのも分かる・・・ 長生きは有難いが、そこに精神的、肉体的苦痛の代償を自然は与える。 
老いただけ、無念が増す、ということか。 本気で「来年は存在ない」という思いで、一日一日を生きる
時節になってきた。 あの人は誰かに愚痴を聞いて欲しかった?のか。長生きはしたいが、老いたくはない。 
この矛盾が老いの問題になってくる。
・・・・・・
3459, 今日の民主党党首選は?
2010年09月14日(火)
昨日のヤフーの私のブログに
《小沢と管の民主党党首選が明日に行われるが、順当なら小沢だろう。選挙は水物だが、連中が真っ当ならでの話。 
真っ当でないのが、衆院選で当選している可能性があるから、外れるかもしれないが・・ そこまで程度が低くない?
政治には、それほど期待してないが、この数年間は無政府状態。 国しか我われの身を守ってくれない。
だから恐慌の現在、特に注目せざるを得ない。 小沢も、確かに変である。当選したら、バッシングの嵐。 
短命でも良いから、政界再編成を早く実現し、出来たら病気で倒れた方がよい。》 と書いた。
 今日、その民主党の党首選が行われる。小沢からみたら、むしろ負けた方が良い。
その方が首相の立場で再編するより、やりやすいはず。 だから党首選に立候補して、接戦をすること自体が目的。
その圧力が選挙後の力関係にも影響してくる。そうこう考えると勝敗に関係なく、接戦に持ち込んだことで既に
勝負があったことになる。 それより民主党の代議士が真っ当かどうかの方に興味がある。 何でマスコミが、
その予測で管首相に一方的に傾くのか?不思議である。アメリカの間接的圧力がある?と、穿った見方もある。
ネットでは8割が小沢を支持しているというが、その乖離は何故起きるのか。 
(字数の関係上、カット11年09月14日)
・・・・・・
3084,挫折を考えてみようか
 2009年09月14日(月)
 「挫折」については誰かが考えているはず、と調べたら、ヤスパーがいた。
ヤスパーは、挫折を「自己に目覚めるきっかけ」として捉え、自分自身を乗り越える機会とみる。
人間は日常の生活に明け暮れで生きているが、それでは真に生きていることにはならない。
なぜ己が世界に生きているかを問い、自分のあり方を求めることが生きる出発点になる。ところが、それを
真正直に守ると最後には挫折が待っている。人は最期は死ぬ。 それを考えると生きている根拠がなくなり、
行き着く先の挫折を「限界状況」とヤスパーはいう。色いろの挫折を重ね、最後に「死」が厳然と待っているのは、
身近な死が我われに教えてくれる。 しかし死を含めた多くの苦悩を通して、人間は真の自己である実存を自覚し、
そこから苦悩を乗り越える「超越」への基盤となる。しかし人間は死の戦いや苦悩を、実存の最終的なあり方と
受けとめることが出来ない。 本来は、愛、永遠、無垢に惹かれる存在だからである。  
 ヤスパーは、《 実存は苦悩のうちに挫折しつつ、指し示す絶対者=包括者へと超越することが要求される。
その超越が促すのが「暗号解読」である。それは一種の象徴で、有限な現実の存在が自らを越えて絶対なる超越を
指し示すのである。芸術、思想、自然、歴史など、そうした暗号によって、それを包括者へと超越せよ、という
指示として受け取るのが暗号解読である。》と、挫折=限界状況の先のアップスケールとして、
自己に目覚めるきっかけとする。人間が生まれ存在しているから挫折をする。そして最後の挫折としての死を受け
入れるプロセスが超越だったり、真に生きることであると指摘する。人間は誰かに人生を代ってもらうことはできない。
 限界状況をひとりで背負う、本質的に孤独な存在である。だからこそ独りに閉じこもらず、自分の実存を他者に
開示すべきとヤスパーはいう。他者との交わりを通して、自分を振り返ることが、更に自分に近づくことになる。
実存に目覚めた人間同士の交わりを、「愛しながらの戦い」と呼んでいる。人生を振り返ると、挫折から多くの
ことを得た。その時に、新約聖書や、大本教の本に救われた経験がある。超越者から救われていたのである。
40,50歳代の峠越えは秘境旅行で大自然に出会うことで超越していた。私にとって、大自然の懐が「暗号解読」
の場所であった。 更に、多くの都市の美術館の名画などの作品がである。「限界状況」の中に、そして、
その向うの「超越」こそ、人間の生きている意味が隠されている。挫折、そして苦悩こそ、人間を超越に運んでくれる。 
そこで出会う感激・感動こそ超越状態である。
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2719, 嘘について
 2008年09月14日(日)
社会に生きていくうえで、嘘をつかなければならない場面も往々にしてある。その場その場で、ころころ変化する人物は
直ぐに見抜かれて信用を失う。「約束の時間を守るかどうか」で、まず評価されるのは、そこに言い訳と嘘が鮮明に出やすい。
後ろ向きの人は、言い訳から始る。そして小さな嘘を重ねる。過去に何人かの長年行き来していた人と断交をしてきた。 
その共通点が嘘が多い人である。開いた口が塞がらないというほど、純朴に嘘をつく。純朴を表面に見せて、次から次へと嘘を重ねる。
ある人を例に取ると「本人は嘘を言っていることに気づいてないだけ。 三歩ほど歩いたら全てを忘れる、嘘など更々言っていない」
のが真実。「私を信じて下さい」が、ある人物の口癖だが、そのことさえ自覚をしてない。 話を都合のよいように変えるのも、
嘘の一歩手前の行為である。営業口で、きれいごとを並び立てているうちに嘘の構築のプロセスを踏んでいることになる。考えてみたら、
誰もが大同小異ではないか。
     (字数の関係でカット2014年9月14日)
 

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