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堀井On-Line
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2014年05月22日(木)
◆ 深く悩み納得するのが先 ―② <映画監督・周防正行> ー朝日新聞 オピニオン〜耕論ーより 尊厳死を一律認めてない法律は改正し、ファジーの部分を持たせるのは当然である。私たちの老後に待っているのは、 男性ー介護9年、寝たきり6年の厳然たる近い将来。寝たきりの老後の心配のため、老後資金の準備も、オカシな話。 尊厳死したくても出来ない当人は、弱者の最たる者。それを解放してやるのが残された者の役割である。ー抜粋の続きー 《 法って、社会秩序を維持するためのものですが、私たちはいちいち、法律を考えて行動はしません。 「人としてどうあるべきか」という倫理によって動きます。 一方で法律ができると、要件がそろったから、と深く考えずにスパッと物事が決まってしまう恐れがある。 治療をやめる結論が簡単に得られ、議論の質も量も薄まってしまう。極めて個人的な「死」についての考えが、 法律に引っ張られる怖さもあります。だから医療に司法は介入しないほうがいいと思うようになりました。 法律ができたら争いはなくなるんですかね? これとこれを満たしているから、絶対罪に問われませんと進めても、 患者の家族から「おかしかったのでは」と問われることは、出てくると思います。逆に、この患者にとって何が ベストなのかを話し合うことができれば、法律に頼らないですむ。 尊厳死法案に障害者の団体が反対していると聞きます。「受けたい治療が受けられず、切り捨てられるんじゃないか」 といった不安の声に耳を傾け、その思いを反映させないといけない。そういう声をきちんと聞けない社会は、良い社会とは 言えないでしょう。 一方で多くの人は、死の迎え方について、深くは話し合っていないですよね。 僕も「無理な治療はやらないでいい」と妻には言ったつもりでいたんです。ある会見で「彼女はわかっていると思います」 と言うと 彼女は「えっ。聞いてない」と言い、周囲は大爆笑。 「そっか。やっぱり文書にしないとだめなんだな」と 思いましたね。でも今も、文書は書けていません。 彼女がそうなったらどうするか。追い詰められないとわからないですが、お医者さんとやりとりをして、彼女に ふさわしい治療や死の迎え方を一生懸命考えて決断する。そうするしかないですよね。(聞き手・辻外記子)》 ▼ 尊厳死については、色いろな著書の中で、取上げているが、病院にとって、一番の利益の元になるため、 変えられない事情もある。考えてみれば、当り前のことが、利益のために歪められている、それも人間の 死に対して、この有様とは、酷いもの。深く悩み納得するのが先というが、何がベストかを早そうしてやるのが ベストになる。 全く、恐ろしい限りである。 偶然だったが、その前段階の以下の「老いと鬱屈」も、である。 ・・・・・・ 4449, 老いと鬱屈 2013年05月22日(水) * 不快や苦悩は体内に蓄積される 「老いへの不安」春日武彦著 一線を退き第二の人生に入り、腰を据えて周囲をみると老人の鬱屈した姿が目につく。どうも老人の真の姿は鬱屈に あるような気さえしてくる。そして、合せ鏡で自分の鬱屈も垣間見ることになる。不快や苦しい事象は体内に蓄積した結果、 鬱屈してしまうようだ。締りが無くなるのは肉体だけでなく、精神にも出てくる。それが社会的な縛りも無くなるため、 長年蓄積された砒素などの毒素が心の奥に蓄積されて、愚痴の塊の老醜が身体全体から出てくる。 ーその辺りを精神医の著者が、明快に説いている ≪ 老いることは、人生経験を積むことによって「ちょっとやそっとでは動じない」人間になっていくこととは違う。 難儀なこと、つまり欝陶しかったり、面倒だったり、厄介だったり、気を滅入らせたり、鼻白む気分にさせたりするような ことへの免疫を獲得していく過程ではないのか。難儀なことを解決するのか、避けるのか、無視するのか、笑い飛ばすのか、 それは人によって違うだろうが、とにかく次第にうろたえなくなり頼もしくなっていくことこそが、老いの喜ばしい側面では ないかとわたしは思っていたのだった。だが、世の中にはまことに嫌な法則がある。嬉しいことや楽しいことに我々の感覚は すぐに麻痺してしまうのに、不快なことや苦しいことにはちっとも馴れが生じない、という法則である。不快なことや苦しい 事象は、砒素や重金属のように体内へ蓄積し害を及ぼすことはあっても耐性はできないものらしい。 だから老人は諺屈していく。歳を取るほど裏口や楽屋が見えてしまい、なおさら難儀なものを背負い込んでいく。 世間はどんどんグロテスクになっていき、鈍感な者のみが我が世を謳歌できるシステムとなりつつある。・・・ いずれ私たちもこの世界を置き去りにしてどこかに消え去っていく。ならば世界と一緒に置き去りにしていくグロテスクの 連中を「肯定的で寛大な心」を無条件に示してやるのもひとつの見識かもしれない。・・・ ≫ ▼ 老いへの不安に身体能力の衰えや、寝たきりや痴呆で他人の世話を受けなければならない状況、要は弱者に追い込まれる 不安がある。さらに言えば、今までは別ものと思っていた老人へ変わっていく自分への恐怖。それを受け入れまいという 屈折した気持ちが、何処かにある。そこに不快感と苦悩が蓄積されていく。それが老いるということ。老いを楽しむなど ほど遠い。だから、孤独な老人になっていく。だから早いうちに、その孤独の別室を準備しなければならないのである。 ・・・・・・ 4075, 哲学で自分をつくる ー3 (ソクラテス) 2012年05月22日(火) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著) * 知ったかぶりするな! ばか 第一章 しったかぶりはもうたくさん 〜ソクラテス ――「無知の知と魂の鍛錬」―― ≪ 自分のことは自分が一番よく知っているというが、本当にそうだろうかと2500年前に問うた人間がいた。ソクラテスである。 彼は一切、書物を書き残さなかった。ただひたすら人々に問いかけ、納得のいく議論を仕掛けた。 自分自身を知るためである。 その自分自身を知ることは「無知の知」から始まる。何も分かってない自分を知ることである。 ソクラテスは「無知の知」 「魂の鍛錬」がキーワードになる。彼は、哲学の生みの親である。確固たる哲学の約束事のない中から哲学を作り出していった。 彼の問いかけは、多くの人々の心、魂を強く揺さぶった。しかし、当時、弟子を除けば、偏屈者としか理解してもらえなかった。 お前は無知だと他人から言われれば、不愉快に思われて当然。しかし、ことの発端が、当時のギリシャ人が奉っていた神が、 「ソクラテスがアテネで一番の知恵者である」というお告げを出したことである。そこで彼は、「こんな馬鹿がなぜ一番の知恵者か、 間違いではないか」と考える。そこで、世間で知恵者といわれている人たちに多く会ってみる。彼らは、確かに知識、技巧、才能はある。 それは凄いが、それが何であるかの理屈がない。その根拠や意味が説明できないと、ソクラテスは考えた。説明できないなら、 「知恵」がないに等しい。ソクラテスは、彼らほど何かを持っていないのに、一番の知恵者といわれるのは、自分が何も知らない ということを知っているだけ。彼らから知恵を学ぼうとしたが、彼らは何も知らないといえない。ソクラテスは彼らより風通しの よいところにいて、なぜと問うことができる。どうも、その辺が違うのではないかと考える。それまで似たような理屈をこねる人々は ソフィストと呼ばれていたが、彼らが追求していたのは「弁論術」と呼ばれていた。自分の意見で相手を説得することを目的にしていた。 どうも、それとは違う。「たえずそれが何であるかを問い続けることが大事なのである。これが「知を愛する」、つまり「哲学」と考えた。 それを公衆の面前で行ったため、結果として相手をやりこめることになった。それゆえに、相手から憎しみを増す結果となった。 ≫ ▼ 相手の無知、いい加減さをつけば、相手は不愉快になる。その相手の怒りの感情や圧力に耐えて、その先にある真実を 追求しようというする態度、これが哲学である。この歳になっても、毎日のように自分の無知に出会うことは、他人だけでない、 自分が一番、辛い。しかし、せっかく地球に人間として生まれきたからには、少しでも真実を追究するのは当然のことである。 感動し、感激すること、真実を知ること、自分とは何かを求めることは、死ぬまで求めなくてはならない。以下は偶然関連していた。 ・・・・・・・ 3709, 自己を見つめる −25 2011年05月22日(日) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 最後の「解説 渡邊哲学の真髄 ー榊原哲也」が、全体の要約で締めくくっていて分かりやすい。 ーまずは、その部分から 【 著者の渡邊氏の長年の研究成果は、 ・「世界を見ることは自己を見ることであり、自己を見ることは世界を見ることである」という哲学上の根本洞察と、 ・「意味と無意味が力動的に交錯する世界のなかで他なるものの媒介を経ながら自己を実現していくのが人間である」という 世界観・人間観に結実したが、こうした渡邊哲学の核心が、本書ではたとえば、「内面性」という「孤独」こそ 「そこで私たちが本当の自分を取り戻し、自己自身と世界と人間のすべてを見直し、存在の真相に触れ直す瞬間だ」(「孤独」)とか、 ・「どこからも、どこへも見通せない、その投げ出された底なしの」「自分の存在の根底」をみつめつつ、 「まことに定めなく、当てにならず、油断のならない魔物である」「世間」のなかで「徐々に自らの理想を目指して努力する 漸進主義的な考え方以外に、人間の生きる道はない」(「世間」の章)といった平易かつ説得力ある表現で語られている。 ・本書でたびたび言及される「これが、生きるということだったのか。よし、それならば、もう一度」という二ーチェの言葉は、 世界観・人生観上の根本問題に対する渡邊哲学の真髄を一言で表したものといっても過言ではない。 本書は、一般の読者が人生の諸問題を自分にひきつけて哲学的に考え、「自己を見つめる」ことを可能にする好著であり、 また渡邊哲学への格好の入門書でもある。放送大学叢書の一冊に加えられることになった本書が、さらに多くの読者を 獲得することを願ってやまない。 (さかきばら・てつや/東京大学大学院准教授) 】 ▼ 人生の節目時に、偶然この本をみつけ、連日、読み解説をしてきた。一章ごとに、考えさせられる内容で満ちていた。 特に、「孤独」「愛」そして「老い」については、{老いへの節目時}ということもあり、一言一言が自分の現在に 向けられているようである。 ー特に以下の部分は現在の心境にあって、ドッキとする内容である。 【 老いは、心身の変化や不調、障害や不全、病気や悩、生計の面での困難や窮迫、人間関係における亀裂や別離、忘恩や裏切り、 さらには長年の人生遍歴における事故や災害、対立や紛争などの側面の出現といった、ありとあらゆる不幸な事態の顕在化という 姿を取って、人生の暗い側面を表す顛末の様相を帯びながら迫ってくる傾向が強い。もちろん、明るく幸せな老年というものも 存在するであろう。けれども、老いは、もともと死の予感とも結びついて、悲惨な様相の影を本質的に内在させている。 *老いは総じて、誰もがそこから眼を背けたがる暗黒の象徴を含んだ現象であることは否定することができない。】老いてこそ気づくか? ・・・・・・・ 3344, 高校生でもわかる日本経済のすごさ ー1 2010年05月22日(土) 「高校生でもわかる 日本経済のすごさ」三橋 貴明 (著) ーアマゾンの内容紹介よりー 消費税は上げなくても大丈夫! 年金は破綻しない!政府の借金は心配するな! 国民的大疑問を丁寧にわかりやすく解決。 日本経済の常識を根底から覆す。 世界の経済大国「日本」の底力を、グラフやデータをもとに世に知らしめる珠玉の一冊! ≪年金、消費税、格差、国の借金。4つのテーマから見る、日本の将来が安泰なこれだけの理由。≫ ーまず、その概要をまとめてみたー 以前からメディアは日本の借金が数百兆円だ、破綻すると騒いでおり、現在、日本の借金は1000兆円を超えようとしている。 しかし一向に国家が破綻する気配を感じない。「いつ破綻するの?」「いくらになると破綻する?」のだろうか。 父親(国家)が、子供たち(国民、企業、他)の預金を借用書(国債)で目一杯借りて、何とか急場を凌いでいるが、 それが数年で差し引きゼロの限度に達しようとしている。 とはいえ国の預金は、まだ二百数十兆円もあるから大丈夫!とか。 そして発行する国債の限度が尽きた時、自前で札を刷って、それを国債で賄えば良いだけと著者は主張する。 しかし、これは禁じ手と前から言われていること。 この辺から著者の論に疑問が出てくるが・・。 国の金融資産も、 アメリカ国債を強引に買わされ、その額が500兆というし、楽観視は出来ないはず。 ただし消費税がまだ5パーセントと、 20〜25パーセントまで余裕?がある。 (ここには書いてないが)それを資産価値に換算すると500兆円。 しかも国民の銀行預金や企業の預金などで国債借入れを賄っているので円安になった時のリスクはない。 (もし外貨建てなら90円が150円になれば、借金が900兆円から1500兆円に増えることになる。) 知人から「国債は永久債にして、返済は一切しない!で、金利だけ払う方法がある」と聞いたことがあるが、金利をしっかり払えば、 子供たちも何とか我慢してくれるか? そのため諸外国は日本の国債の異常な数字には、あまり危険視をしていないというが・・。 ところで、リーマンショックで欧米がニッチモサッチモいかなくなってしまった。アメリカは軍事力を背景に新ドルの 「アメロ」の切り替えで、デフォルトをしてくる可能性があるが、ユーロ通貨の矛盾も見ているので躊躇するだろう。 「日本経済がすごい!」稼動かは疑問だが、1400兆の預金は中途半端な金額ではない。 それと、消費税の10〜15パーの 余裕もあるか? さらに永久国債化と、日本銀行の国債買い入れ、デノミ、道路公団の株式化による売却に、 地方分権と称した切捨てに、・・ギリシャのように、気楽に生きましょうか〜 ったく! ー続くー ・・・・・・・・ 2969、住まうこととさすらうこと −1 2009年05月22日(金) 「住まうこととさすらうこと」 ウーテ・グッツォーニ著 ー読書日記 * 世界という家の中で、住まうこと と さすらうこと 図書館で何気なく手にとって、そのまま二時間以上も近くの机で読み込んでしまった。 その本の冒頭に芭蕉の『奥の細道』 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。 舟の上に生涯を浮べ、 馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」が書かれていた。 住まうこととさすらうこと、さすらうことと住まうこと。 人生を振り返ると、この二つの間を行ったりきたりした。 そこで学生時代の寮生活を思い出してみると、住まうこととさすらうことの重なっていることが解る。 そして、その後にジャスコに勤務をし、三重、神戸に行き。 東京に舞い戻り、金沢に、住まいさまよい、長岡に舞い戻り、 千葉に、そして、再び長岡・新潟に 住まいさすらってきた。 人はそれぞれが、住まいさまよってきたから、 その一言一言が鋭く心奥に響いてくるのである。 (以下は字数の関係でカット2012年5月22日) ・・・・・・・・ 2605, 自己愛について 2008年05月22日(木) 先回書いた「最近みる夢」で、自分の夢を分析して驚いたのは、自分の心の奥の本質を、そのまま提示されたことである。 夢に出てくる「海」が「自己愛」の象徴で、海底の牢獄でもがいている己の姿に、我ながら驚いた。 ユングの地下の象徴の夢に近い。 その夢の中には、自己逃避、不安、自己愛、それに囚われもがいている自分、 そして、死などなど、多彩な内容が重なっている。これは、私個人というより、人間の本質を提示していると言える。 (いや、勝手に、そう解釈したとも言えなくないか?)そこで、行き着いた「自己愛」とは何か?を調べてみた。 ▼ 真の自己愛とは、奥深い自分に忠実であるということ。 自分が深く納得している自己愛でなければ、ナルシストの姿 かたちの表面的なものに過ぎない。キリスト教の教えのように、真の自分を愛するように隣人を愛しなさいという自己愛である。 自己愛という言葉は、「私さえよければ」という利己主義とはまったく違う。 あるいはまた、自己愛は自分の魅力を感じて 自分自身が好きであると思われることもあるが、本当はそれとも違う。その区別を見わけるために本当の自己愛の条件をあげてみる。 自己愛とは、自分が認められたり、周りから褒められたりすると、喜ぶ。これが自己愛です。生きていくうえで、他者の存在は 絶対に必要で、そのため自己愛と同じように他者愛を持つことも必要となる。 常に自分が一人ではない、と認識したうえで、 自己愛を持つことが、健康な自己愛といえる。その極端な「自己愛性人格障害者」の特徴として、次のようなものがあげられる。 ・自分は偉くて重要人物だと思っている。この幻想に限度がない ・自分は特別であり、優れている人にしか理解されないと信じている。 ・過剰な賞賛を求め、特権意識が異常に強い。 ・相手を自分の目的にしか利用せず、相手に共感することがない。 ・自分の身体の不快にとても敏感でオーバーに反応する。 〜〜 以上だが、 ごくごく至近に、その傾向の強い人がいる。女性の本質だから仕方が無いだろうが。いや、誰の心の奥にも酷似した傾向が隠れている。 (以下は字数の関係でカット2011年5月22日) ・・・・・・・・・ 2007年05月22日(火) 2240, ヤバいぜっ!デジタル日本 ・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ○〕 高城剛著 集英社 ー読書日記 ー表紙裏に書いてある内容ーから ヤバいとはvery badとvary coolのWミーニング。世界各地を飛び回る著者が、情報最先端の事象を紹介しつつ 日本人の知らない日本と日本人を論じる。世界から取り残されてしまったIT戦略をこのままにしていいのか? 国家ブランド戦略をきちんと立てなくていいのか? 日本が世界に広めたハイブリッド車のように、異なる要素を組み合わせて 新しいスタイルを創ろう、それこそが日本人の得意分野で、世界から「クールでヤバい」と評価されるはずじゃないか? 日本への憂慮と愛が溢れる、元気の出る本。今後10年間のデジタル社会の変化を予言する書でもある。 著者は、これからの近未来はPCではなく「携帯電話」を情報の受・発信装置として駆使するライフスタイルが主流となり、 そのTrendは日本(人)が主導する」と予言。「携帯で電話しながらメールを書いてるのは日本人くらい凄いらしい」 「Googleは基本的にただの情報整理屋」と断定している。デジタル社会に乗り遅れないために日本が行うべき事として 使い方(ライフスタイル)志向で携帯電話の機能・Design・Softを開発し、デジタル社会のプラットホームにするような国家戦略を練って いくべきと論じている。グーグルに対しての見方には異論があるが、それでも携帯電話が主流になるとは、成る程と思うが・・ ーまずは面白そうな部分を P-21 ー TVを処分することを勧める!ー (字数の関係でカット2013年5月22日)
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2014年05月21日(水)
尊厳死について、多くの身近な人たちの最期をみて、これは正しい!という答えが無いことを前提に、 司法は可能な限り介入すべきではないと思う。 回復の見込みがなくなった時に治療の中止を認める、尊厳死法案が 検討されているが、これは当然のこと。 人生の終わりに、どうすれば尊厳は守られるのか、当人にとって大問題である。 この3月末にとり上げた、「そんなに長生きしたいですか 1〜7」の内容に通じるところがある。 ◆ 深く悩み納得するのが先 ー① <映画監督・周防正行> ー朝日新聞 オピニオン〜耕論ーより 《「患者に良かれ」と思い、治療をやめたお医者さんが、告発される。一度つけた呼吸器は外せない。 そんなことがあるのなら、何らかの法律が要るんだろうなと漠然と思っていました。 でも、2012年に公開した映画「終(つい)の信託」をつくるため終末期医療を調べるうち、 「待てよ」と感じるようになりました。死の迎え方は、人がどう生きてきたかと同じように、一律ではない。 経済的な理由から治療をやめざるをえない場合もあり、社会システムの問題でもあると気付いたのです。 取材してわかったのは、食べられなくなった時に栄養を直接いれる胃ろうをつけた家族も、つけなかった家族も、 どちらも「正しかったのか」と悩んでいること。そこに正解はなく、あんなに考え、話し合って決めたのだから、 という思いがせめてもの救いになるのでは。その質と量によって納得するしかないんですよね。 今の医療現場では、患者や家族と医師らの間で信頼関係を築きにくい。お互い忙しく遠慮もあるのでしょう。 患者や家族がいつでも、これからのことや不安を相談できる人が病院にいる態勢づくりが、大事だと思う。 患者と医師を結びつけてくれる窓口のような存在がいると、患者や家族は深く考え、きちんと悩めるようになるのです。 この人が望む道は何なのか。共通認識を持ち、それを実現するのが「尊厳ある治療」なんじゃないかな。 まずはそれが大事。良い医療かどうかって、患者や家族がいかに納得できるかにかかっている。 コミュニケーションがうまくとれないとだめなんです。・・・ つづく 》 ▼ 医療現場では、各個人の尊厳死に至るまでのフォローする仕組みなど出来ていない。 あとは、医療経営に有利な延命治療か、家族の都合によって生かされるか、殺されていく。 病院を監獄と看做すと、病室は獄内、身体につけられたチューブは鎖、看護婦は刑務官になる。 そこでは、拷問のため生かされた人たちの苦しみの悲鳴が聞こえてくる。チューブを外し、死なす尊厳死は 犯罪として禁じられている。しかし、当人も、家族も、それを望むなら、拷問のような苦痛の人を死なせる ことも、必要になる。それを法律で禁止すること自体に問題がある。縁者の死際では、殆どが医者の手で、 呼吸を止めているが、その前段階に、本人や家族の希望で延命を認めるべきだが、色いろなケースがあるから 一概に断じることが出来ないのが末期医療。今までは他人事だったが、今では近い将来の問題になってしまった。 ・・・・・ 4448, 屋根裏に誰かいるんですよ −2 2013年05月21日(火) 「屋根裏に誰かいるんですよ ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著 「幻の同居人」をネットで検索すると、日本老年精神医学会学会での「幻の同居人」に関する考察で、医師の深津亮 (埼玉医科大学)が講演で、以下のような発表をしていた。 1.はじめに = 超高齢社会を迎えた我が国の社会構造は劇的な変化がもたらされている.高齢者は社会的に孤立を 余儀なくされており,このような孤独な環境は 種々の喪失体験を増悪させ,特有の妄想反応や誤認症候群を生じる母胎となる. 「幻の同居人」もその様な症状の一つであり,「自分の家の中にだれか知らない人たちが住み込んでいて,さまざまなかたちで 自分を苦しめる」という妄想と定義されている. 「幻の同居人」はRowwan EL が1984 年に「自分の家の中にだれか知らない人が住み込んでいて,さまざまなかたちで自分を苦しめる」 と訴える女性例を報告したことをもって嚆矢とされている.「幻の同居人」は「天井裏や,床下に住んでいる」,「留守にすると 部屋に入ってきて,いろいろなものに触っていく」などと訴えられる.さらに自分 の行動がその同居人に監視されていると 確信していることがある.Rowan の報告例では,知的機能の低下や感情障害が明らかではなく,思考,感情,精神運動の障害や 退行などの脳器質性障害を示す徴候も認め られないことから遅発性パラフレニーにみられる被害妄想とされた. 2.「幻の同居人」はどのような精神症状か? = 「だれかが自分の家に侵入して,物を盗んでいく,部屋を汚す, 嫌がらせをする」などの住居(家) に関する被害妄想は遅発性パラフレニー,遅発性統合失調症,接触欠損性妄想症などにも 認められる.高齢者では少なからず見出される.我が国においても,同様の症例は,報告されている. 精神症状はいかなるものか, 幻覚か,実在性意識か,あるいは想像上の友達などとの鑑別が必要と思われるが,必ずしも明確でない。 3.「幻の侵入者」か「幻の血縁者」か? = 確かに「幻の同居人」は,本邦の高齢者にも稀ならず見出される. Terada S らは前述の「幻の同居人」の特徴を分析して,「幻 の侵入者」と記載した.我が国では,このほかに父,母,祖父, 祖母,子供などの血縁者が現れることがある.外部から侵入するのではなく被害的でも敵対的でもないことが多い. むしろ親密で友 好的協調的な懐かしい血縁者であり,特に小さな子供の場合も少なくない.これらは「幻の血縁者」と呼ぶことが できるかも知れない.この様なタイ プの同居人が比較的よく見出されることが我が国の特徴のように思われる. また妄想性誤認症候群,鏡像現象やTV 現象を伴うことも稀ではない. 4.「幻の同居人」の発現機構 = このような精神症状は加齢によるさまざまな変化や社会文化的背景をもとに出現して いると考えられている.精神機能の解体過程,退行などによ ってゲマインシャフト的世界,しかも日本的な農村共同体への回帰と みることができよう.「幻の血縁者」に子供が現れることは,遠野物語のザシキワラシ 伝説とも相通ずることを示唆している. ▼ 以上だが、この「屋根裏に誰かいるんですよ」で、< 身体の一部を失っても、脳機能は、それがあたかも存在する ように感じ取る働きをする。それに似た働きに近いのでは>は納得できる。作家の佐藤愛子本人が、色いろな場所で、 これに近い経験をしているが、作家なら、冷静に精神の衰えと看破するはずだが、どうだろう。知人の夫人の場合は、 高齢者の孤立、種種の喪失体験などによる精神不安定が見て取れる。老化による精神機能の解体過程に出てくる妄想ということ。 私にもサードマンが頭の中に同居しているが、これは自分で意識的に作りあげた対自。ちょっと違うか。 ・・・・・・ 4074, 屋根裏に誰かいるんですよ 2012年05月21日(月) 「幻の同居人」 ―都市伝説の精神病理 春日 武彦 (著 ーアマゾン 紹介文ー まず、その奇妙なタイトルが目を引く。しかし本書は、そのタイトルから受けるコミカルな印象とは異なり、 精神科医である著者が、現代社会におけるさまざまな精神病理を、きわめて冷静に考察したものである。 ある日、ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に人が入ってきて困る」と訴える。その侵入者は、彼女の部屋にある 日用品などを盗んでいったり、ちょっとだけ位置をずらしていったりするという。しかし、姿は見えない。 まるで、「座敷わらし」などの妖怪のしわざとしか言いようがない不可解な話を、老女は真剣に語る。 表題となっているこの症例は、「幻の同居人」と呼ばれる。このような症例は、多数報告例があるらしい。 患者たちは、脳に器質的な異常が認められるわけではなく、精神的にも問題ない場合が多い。 「妄想の突飛さと当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が生じているときには、精神医学はたちどころに歯切れが悪くなってしまう」 と著者は言う。それがこの症例の複雑さと奇妙さとを物語っている。本書は、現代社会においても、妖怪と出会うといったような 「非日常」的な現象が、たちあらわれる瞬間があることを示唆する。 精神科医が語っているだけに、いっそう説得力がある。 ▼ ある亡くなった友人の奥さんが数年前、急に事務所に訪ねてきて、世間話の後に何気なく、「最近、家に侵入者が時々入ってくるが、 生前、主人が何か言ってませんでしたか」と言う。「侵入者とはとんでもないこと、どういうことですか?」と吃驚して聞きなおすと、 「自宅の屋根裏に侵入者がいて、彼方此方、徘徊している。」という。 よくよく聞いた後、「貴女は魔界に一歩踏み込んだようですね。 ご主人からは、それについて聞いたことはありません。」と答えた。警察に相談して屋根裏を調べてもらった時の写真を何枚か出して、 「私には、侵入者が見えるが,貴方は見えませんか」という。 私には全く見えなかったが、その辺から、何か精神的に追い詰められている のだろうと思い始めた。その後、ご主人と共通の複数の知人から彼女の同様の話を聞かされた。本人には、実際に屋根裏に何かが いるのだろう。彼女は初老で、独り暮らしである。佐藤愛子が、似たような現象を経験している。それと同じかどうか私には分からない・・・ ・・・・・・・ 3708, 自己を見つめる −24 2011年05月21日(土) ー 他者について 〜� ー ーP194 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 幼児は、他者が素敵な玩具をもっていると、自分もそれをもっていなければならないとすぐに決め込み、それでいて自分には その玩具がないところから、その他者を激しく嫉妬することになる。 こうして、一般に、大人になってからも、人間は、他者とか 世の中とか世間からの影響を色濃く帯び、ときにはそれに飲み込まれてしまって、その水準で自分を裁断し、ほんとうの自分の姿を見失い、 自己喪失の状態に陥ってしまう。 また、自分の不幸や不満の原因を、他者のせいとして責任を転嫁し、自分がひどい目に遭った原因を、 ともすれば世の中に押しつけ、他者攻撃に生きる傾向に人は陥りやすくなる。したがって、本来そうであるぺきなように、自己でありつつ、 他者とともにあるという、二重性ないし両義性をほんとうに生きることは、人間にはきわめて困難になるのである。 東洋ふうの言い方をすれば、「和して同ぜず」という、自他の自由な自律性と、連帯性ないし他者容認とが、過不足なく、 円滑に両立してこそ、自他の関係は充足されうるのだが、それがきわめて困難になるのである。 ニーチェは、自他の関係において、ルサンチンマン(怨恨感情)という恐ろしい感情が胚胎する機微を鋭く抉り出した。 他者の不当な振る舞いに直ぐに反発できずに、じっと我慢する人間のうちに、やがて次第に欝積してくる不満の感情のことを指す。 それは、恐ろしい怨恨感情となって、やがてさまざまな形で爆発してきて、自虐と他虐の凄惨な凶行さえも生み出す原因となる。 しかし、ニーチェにょれぱ、そうしたルサンチマンの人は、他律的なのである。つまり、怨恨感情は、他者に囚われ、他者からの 傷跡に執着し、こうして、他者への遺恨を募らせ、やがて復讐心の形を取って、自虐と他虐に向けて爆発する。 そこでは、自己自身の本来性が見失おれている。しかし、自己は、ときに、自己自身を見失って、他者になりきってしまうことも あるものである。しかもそれは、人間的他者に関してだけ起こることではなく、事物に関しても起こる。 たとえば、私がすっかり 花に見惚れたときには、花が私になりきってしまうのである。それと同じ意味で、私たちは、自己自身を見失い、ついには、 さまざまな主義主張の虜になったり、迷信や邪教に取りつかれたり、神憑りになったり、あるいは、変身願望に駆られ、嘘と芝居で 身を塗り固め、役者気取りで自分を英雄天才視し、人類の救済を気取って、大言壮語し、自己欺瞞と他者篭絡に憂き身を窶すことすら 生じかねない。 その反対の被害妄想や厭世意識も似たりよったりである。 】 ▼ その人を知るには、その人の身近の他者(=親、妻、友人、会社の上司など)を知ればよい。そして、その不満と満足度を聞けば、 ほぼ大部分を知ることが可能になる。「人を恨めば穴二つ」と言うが、恨んだレベルのことでしかない。そこに囚われるからだ。 長期の間に、その質の段差は、その空白に大きなガスを溜めることになる。 身近な人と、自分の関係はメビウスの帯のように結局は、 同じようなもの。だから、連れ添いや、仕事は厳選をしないと互いに命取りになる。 他者は、三人称より二人称をさすことが多い。 他者たちによって形づくられた自己は、自分の合せ鏡でもある。 ・・・・・・・ 3343, 閑話小題 2010年05月21日(金) * 9・11事件の謎 ここで「9・11事件についての謎?」何で、というと、米国軍事産業か、金融関係者なら平気でやりかねないと最近、 特に思うようになってきたからである。このテロでアフガンやイラク戦争で軍事産業が大きな需要が生じ、恩恵を受けたからだ。 さらにリーマンショックもしかりである。世界中に不良債権という毒の入った債権を売り、その影響が今後、10年〜20年間にわたり 出てくる。これは数百年にわたって築き上げられてきた近代資本主義の崩壊をもたらす。それさえ金融の支配者はやりかねないという 疑念が出ている。ユーロの揺さぶり、そして膨大なアメリカの借財の棒引きの狙いだ。その真っ只中に我われがいるのである。 その第一波の大きな波が、まずは南欧のラテン系の国家、Piigsである。そして、時を同じくして日本の地方と輸出産業である。 まずは地方の我われが、その直撃を受けている。 9・11事件発生の数ヶ月前から、株と為替に異常な動きが在ったと、 関係者からの証言がある。事前に知っていた者たちが、その情報で大儲けをしていたのである。あれから世界は本格的に激動を始めた。 * 韓国が北朝鮮に報復攻撃? (字数制限のためカット 2012年5月21日) * 一年近く収まっていた腰痛が? (字数制限のためカット 2012年5月21日) ・・・・・・・・・ 2968,閑話小題 2009年05月21日(木) * 考えるほど、恐ろしい近未来 新インフルエンザが、日本でも拡大してきた。通勤帰りの新潟発の新幹線は、車内で一割、新潟駅構内と長岡駅構内では 3〜4%位がマスク着用。数週間後には、全国に蔓延しているだろう。微弱性の新インフルエンザに過剰反応と思いがちだが、 秋口には、弱毒性から強毒性になる可能性がある上に、鳥インフルエンザが流行する可能性もあるというから、WHOの反応は 決してオーバーではない。今回の新インフルエンザは、鳥インフルエンザに対する世界規模のシュミレーションになっていると、 考えた方がよい。新インフルエンザの死亡率が2%だが、鳥インフルエンザは60%というから、ただごとではない。 都市機能だけでなく国家機能も失われることになる。 この騒ぎが何時まで続くか誰も知らない。 世界恐慌を上に、これである。 現実の世界とかけ離れた小説のような世界に入ってしまった。 地球システムが、人間システムを根こそぎ壊し始めたということなのか? * 事務所の移動 事務所を移動したが、これで8回目。前の事務所は5年間。これまでの平均すると4年である。 まあ腰が落ち着かないが、ここも4〜5年先に移動することになる。 今回の引越し理由は、事務所の壁を隔てた隣のテナントの 居酒屋が事務所の面積を含めた規模を希望したため。 今回の事務所は、第一シングルインの隣のビルの2Fである。 オーナーと知り合いで、家賃を半値にしてもらったことが、この移転の決め手になった。 とはいえ、ここも駅再開発工事の道路拡張のため取り壊しになるので、移転しなければならない。 また、第一シングルインの接収の売却交渉に、隣りのビルにいた方がリアルで交渉がしやすく、 そこのオーナーとも共同戦線もはれることも良い。 昨日で大方の移動作業は終了したが、 窓側が全面ガラスで天井が高く、事務所環境は格段上である。 さすらいの事務所? ということか。 ・・・・・・・・ 2604, 最近みる夢 ー2 2008年05月21日(水) 前回、「空からパラシュートから飛び降りて、墜落し、気がついたところが海底の檻の中で、 もがいている所で目が覚めた夢」を書いた。そこで、その夢分析をしてみた。 ・まずは「空を飛び降りる夢」 空は束縛のない自由の世界。 現実の世界は覆いかぶさる責任ある仕事の重圧や、会社や家庭という束縛、日常の退屈など、 知らないうちにプレッシャーがある。 空から飛び降りる夢は強い脱出願望の現れ。また落下することは、強い不安の現れである。 不幸な境遇に陥る、ひどい気分に落ち込むなどを、敏感に感じ取っていることを現わすから、サブプライム問題で更なる 不況への不安感や、還暦を過ぎたことの焦りなどが、夢に集約されている。 ・「落下途中にパラシュートが開かない」 これは開くはずのパラシュートが半分しか開かずパニックになる、 予定していた想定が、外れる不安である。この歳になると、いつ死に直面するかもしれない不安感の顕れ・ ・次は、「海に落ち、海底の牢獄の中で檻から出れないでもがいている」部分。 これが面白いのである。 夢の中で、海なら助かると自分で直感的につくりあげた瞬間創作。海は欲望、それも自我愛である。 海底の牢獄は自我愛の牢獄。そこでもがいて死の境にいる私の顕わの姿そのもの。 ・そして、「ああ、このままでは死んでしまう」と恐怖を持った瞬間に目が覚めた。死の夢は、古い自分が死んで新しい自分が 生まれる前ぶれという期待。 従って死ぬ夢は、新しい人格の為に古い人格が死ぬことを意味している。 解釈の問題だろうが、それにしても人間の顕わの姿が、自分の夢に示されている。 現在、色々の問題で混乱している部分の己を、こういう夢で光を与えてくれていると解釈すると、驚きである。 一種のユング的な夢と受け止めることができる。 夢そのものより、解釈のほうが面白いだけか?受け止め方である。 前夜、これを書いたためか、これに劣らないほど?面白い夢をみたが、ほぼ断片を残して記憶の彼方に消えた。 ・・・・・・・・・・ 2007年05月21日(月) 2239, 宇宙に他に地球のような星があるの? ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ] 以前にもすこし書いたことがあるが、20年以上前の話。夏休みの午前中にNHKラジオ放送の「子供電話相談室」に 「宇宙に地球のような星が他にあるのですか?」という質問があった。 (字数制限のためカット 2010年5月21日)
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2014年05月20日(火)
<内向型人間の時代> スーザン・ケイン著 * ‘誰からも好かれる人’の興盛 毎日が淡々として、読書、スポーツ、TV鑑賞、ブログとパソコンに明け暮れる日々。ますます内向的人間になっている。 私の年齢と、時代が、そうさせているという実感がある。 一般的に、外交的人間の評価が高いが、実際に生きる上で、 内向的か、外交的が良いのかは、その人自身の問題になる。誰からも好かれるタイプは、時代によって大きく変わってくる。 特に、情報化の現在、何が外交的か、内向的かの根本から定義を変えなければならない。 ーその辺りからー 《 社会学者のウィリアム・ホワイトは1956年のベストセラ「組織のなかの人間」で、親や教師がどのようにして内気な 子供を矯正しようとしたかについて述べている。「ジョニーは学校にうまくなじめません。 担任の先生が言うには、 勉強のほうはまあまあなのに、社交性の面がはかばかしくないとのことです。友達はひとりか二人だけで、どちらかといえば ひとりでいるのが好きだそうです」 ある母親がホワイトにそう話した。そうした教師の干渉を親は歓迎するとホワイトは書いた。 「少数の変わった親を別にすれば、たいていの親は学佼が子供の内向酌な傾向など偏挟な異常を直そうとすることを歓迎している」 親がそういう価値観を持つのは、思いやりがないせいでも鈍感なせいでもなかった、たんにわが子に「現実の世界」と向き合う 準備をさせようとしただけだ。成長して大学に入った職に就けば、わが子は集団のなかで上手に立ちまわらなければならない。 大学の入試担当官が求めているのは、特別な学生ではなく、外向的な学生だった。1940年代後半に、ハーバード大学の ポール・バック学長は「繊細で神経質」や「頭でっかちな」学生よりも「健康的で外向的な」学生を入学させるべきだと言明した。 1950年には、エール大学のアルフレッド・ウィットニー・グリスウォルド総長が、理想のエール大生は「しかめ面の専門家ではなく、 円満な人間だ」とした。さらに、ホワイトがある学長から聞いた話は印象的だ。「学生たちの推薦状を読んでいると、大学が何を 望んでいるかだけでなく、四年後に企業の採用担当者が何を望むかまで考慮するのが常識になっているのを感じると総長は語った。 『外向的で活動的なタイプ』が好まれるそうだ。『つまり理想的なのは、平均してして八十から八五点の成績を取り、課外活動に 熱心な学生である。』『抜群の成績』でも性格が内向的な学生はあまりこのまれないという。 この学長は20世紀半ばの理想的な従業員は沈思黙考ではなく、セールスマン的な性格を持った外交型であることを適確に 把握していたわけだ。・・・ 要するに、科学者の仕事は研究するだけでなく、販売を手助けすることでもあり、相手に 調子を合わせる態度が必要になってくるというわけだ。》 ▼ 地方から上京してきて、都会育ちの洗練された外交的人たちを知った時の驚きは、はかり知れないものだった。 暇さえあれば、的確な間合いで、ダジャレを言い、笑いを取る。それに比べ、地方出身者は言葉が重く、無口な人が多い。 ジョーク、ダジャレで、その場を明るく和やかにするセンスはゼロ。更に内向的になっていくか、身につけるか分かれる。 私の場合、まずカーネギーの『人に好かれる六原則』の一つずつを身につけるしかなかった。 1、相手に誠実な関心を寄せる。2、笑顔を忘れず前向きに。3、名前を覚え、意識して名前を呼ぶようにする。 4、聞き手に回り、聞き上手になる。5、自分ではなく相手の関心を話題にする。6、その人を心から大切に思う気持を伝える。 これを半年〜一年かかって身につけた結果、多くの友人に囲まれるようになった。 しかし、仮面に嫌気をさして、直ぐ 止めてしまった。何故、自分を偽るのだろう、相手中心の話題ばかりで、自分を抑えなくてはならないのか!と。 人付き合いが良くなった反面、自分を抑えすぎて、日々、息苦しくなっていた。その後、所属した武澤ゼミの影響もあった。 ・・・・・・ 2013年05月20日(月) 4447, 早朝座禅 − 「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄著 *「死生観」から「生老病死観」へ 信長の時代から終戦までは人生50年の時代であった。それから僅か50,60年もしないうちに人生80年の時代になってしまったが、 それまでの死生観では、30年も多く生きる時代に対処できなくなってきた。それが異常な自殺者の増加というカタチで出ている。 そこで問題になるのは老いと病に対する対処の仕方である。ここで著者は「死生観」から「生老病死観」への対応が必要という。 ガンになれば、以前なら老人病で助からない自然死に近い扱いであったが、治療で乗り越えるケースが多くなる。しかし、治療で 生き延びた方が幸せかと老と病に対する問題が出てくる。 そして、それが自殺の増加につながってくる。 ー まずは、その辺りから、抜粋してみるー ≪ 人類は「人生五〇年」の時代を長く続けてきた。日本の場合、一九四七年の平均寿命は男性が五〇歳、女性が五四歳だったが、 その二〇年前や三〇年前はおだのぶながおけはざま「人生四〇年」だったかというと、そんなことはない。 あの織田信長が、桶狭間の戦げてんゆめまぼろしごといの前夜に「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」という 冒頭の一節で知られる幸若舞「敦盛」を舞ったのは、一五六〇年のことである。その時代からほんの数十年前まで、四世紀から 五世紀もの長きにわたって、人間の寿命は五〇年だったわけだ。 現代人は、平均寿命が徐々に延びるのが当たり前だと思っている。だが、それはごく最近になって生まれた「常識」にすぎない。 何百年にもわたって、「人間の寿命はおよそ五〇年」というのが世の中のスタンダードだったのである。 したがって「人生八○年」というのは、人間社会にとって「常識破り」の大変化だといっていいだろう。人の一生がいきなり 従来の一・五倍以上に膨張したのだから、その急激な変化が人間の心理に影響を与えないはずがない。当然、何らかの不適応が 起きるだろう。現代人のうつは、その不適応のひとつなのではないだろうか。 というのも、「人生五〇年」と「八○年」では、人間のライフサイクルがまるで違う。人生五〇年の時代は、働きづめに働いて、 気がついたときには死が目前まで迫っていた。だから「人生観」のことを「死生観」とも呼んでいたわけだ。 だが、人生八○年になるとそういうわけにはいかない。さんざん働いて定年を迎えても、死を迎えるまで二〇年、三〇年もの 時間が残されている。ゆっくりと老い、衰えや病気とつき合いながら、徐々に死に近づいていくわけだ。 そのライフサイクルは、「生か死か」というシンプルなものではない。「生」と「死」のあいだにある「老」や「病」を 受け入れざるを得ないのが「人生80年」の時代である。その場合、人生観は「死生観」だけでは足りない。 「生老病死観」とでも呼べるような、新たな人生観、もしくは人間観のようなものが求められるわけだ。 ≫ ▼ 両親の最期の頃、二人を看取ったこともあり、生老病死を近くで見てきたが、いざ自分が、その時期に近づくと、 一人称と二人称の、あまりの開きに驚いている。身体はあちこち痛んでくるし、心は暗くなる。世の中は、決して老人に 優しくはない。それと身近が次々と亡くなっていく中、死の不安の問題が出てくる。所詮は、全てが死んでしまうのが 分かっていてもである。考えようによって、以前は僅かだったが、現在は殆どが、長生長者。生老病死をじっくり 味わうことができる。どう味わうかは「生老病死観」になってくる。その中で、やはり自分一人の世界を持ち、味わうことが 求められる。現在は情報化の時代、その気になれば幾らでも味わう対象が手に入る。そうなると、それまでの準備があるか? 群れから自分から離れ、「ひとり」になれるかどうか。手っ取り早いのが、早朝の座禅、瞑想になる。長生きは辛く面白い! ・・・・・・ 4073, 哲学で自分をつくる ー2 2012年05月20日(日) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著) 以下の人たちの哲学を一通り理解し、ダイジェスト的に説明出来れば一応、哲学の歴史の一端を理解出来たことになる。 対象が哲学の初心者に向けられているので、門前の小僧にとってシンプルで分かりやすい。 ーはじめにーより ≪ 本書に登場する哲学者と、哲学史上の位置づけは、以下のとおりである。 �哲学は、ソクラテスからはじまる。 �近代西洋社会を支えたのは、デカルト、カント、へーゲルの哲学である。 �根本的な近代批判を展開したのは、マルクス、フロイト、二ーチェである。 �二〇世紀の哲学を構築し直したのは、フッサール、ベルクソン、ウィトゲンシュタインである。 �二〇世紀の哲学を反転させたのは、スピノザ、ハイデガー、メルローーポンティである。 ※スピノザは一七世紀の人間であるが、影響という意味でここに配置されている。 �二〇世紀哲学は、実存主義と構造主義の対立、つまりサルトルと、ソシュール、レヴィストロースの対立に代表される。 �二一世紀の哲学は、フーコー、デリダ、ドゥルーズからはじまる。 一般的な哲学入門書と似たような構成をとっているが、確固たる哲学の教義体系に必ずしも沿ってはおらず、「近代」以前の哲学や 西洋以外の哲学についてもあまり言及していない。また、哲学の知識や技術を伝授するような目的で書かれたものでもない。 ここで言う「哲学」とは、今生きている私たちの「常識」的な考えの「見直し」。「常識」を「否定」「非難」しているわけではない。 あくまでも「見直し」は、哲学で言うところの「批判」である。その結果、あなたがこれまでの「常識」と違った考え方を 持てるようになったならば、本書の目的は達成されたことになる。もちろん、「常識」も大事である。 鵜呑みにするのがよくないだけである。いろいろと考えた末に、「常識」的な考えに立ち戻ってもかまわない。 「常識」以外にも別の視座を持ち、力強く二一世紀を生き抜けるよう、願ってやまない。 ≫ ▼ この近代哲学の区分けも分かりやすい。著者は、常識的考えの「見直し」という点を強調しているが、哲学は本来そういうこと。 共通するのは、あくまで入門書のため。現在ギリシャが経済を含め破綻しているが、欧米の行き詰まりの象徴である ギリシャ哲学の行き着いた果て。人間の心の奥には不安、悩みが常に沸きあがっている。目先の安易の解決を図ろうとせず、 一度、世間的常識から手を切ることだ。勝手なエゴイズムにならないようにしながら、考え抜いて肯定的に生きるべきである。 ・・・・・・・・ 3707, ジャズについて −5 2011年05月20日(金) ー 「音楽の本」三枝成彰著 より ジャズといえば、日本人の私にとって、「アルカポネがいた20世紀初めの大都会の下町の酒場で、マフィアとか、 チンピラの屯している中で、数人の演奏者が奏でている曲」というイメージがある。 実際に、ジャズの歴史に残る巨人たちは、 そこから名をなすことになる。以下の三人も、ジャズに興味が薄い私でも知っている名前である。 * "不良の巣窟"に生まれたホーキンス、レスター・ヤング、カウント・ベイシー 【 p・189ー アメリカ中西部のミズーリ州カンザス・シティ、まさに‘不良の巣窟’だった街に目を移してみよう。 アメリカでは二〇年から三三年までは禁酒法の時代だった。禁酒法はかえってアル・カポネに代表されるギャングを生む土壌をつくった。 カンザス・シティは、こうしたギャングたちが経営する密造酒場やダンスホールが栄えた街で、ジャズもまたそうした場所を 賑わせることになる。カンザス.シティのジャズを代表するのが、コールマン・ホーキンス(一九〇四〜一九六九)とレスター・ヤング (一九〇九〜一九五九)という、スタイルがまったく対照的だったテナーサックス奏者の二大元祖だろう。ホーキゾスは、アップテンポの 曲では豪快に荒々しく、バラードでは甘く柔らかく、低音域から高音域まで緩急自在なトーン・コントロールで、サックスを単なる 伴奏楽器からソロをとれる楽器へと押し上げた。 三〇〜四〇年代のニューヨークでは、たいていのテナー奏者がホーキンスを手本とした。 一方、レスター・ヤングは、同時代人としてホーキンスの色に染まらなかったところに、その独自性がある。 彼はニューオリンズ、メンフィス、ミネアポリスと渡り歩いて・カンザス.シティのカウント.ベイシー楽団で頭角を現わす。 そのテナーサックスは、ホーキンスのリズミカルな力強さよりも、まろやかでメロディアスなフレージングを特徴とした。 二人ともスウィング・ジャズ時代に全盛期を迎えたが、のちのビバップ時代のアーティストとも共演している。 ホーキンスのテナーは、スウィングの衰退後しばらく鳴りをひそめていたものの、五〇年代後半、ジャズの復古ブームとともに蘇り、 力強い豪快なトーンの健在ぶりを示してビバップ派を驚かせた。しかし晩年は深酒に溺れ、栄養失調による餓死同然の状態で最期を迎える。 レスター・ヤングはシンガーのビリー・ホリデイ(一九一五〜一九五九)との共演でも知られ・ビバップ時代以降は、スタン・ゲッツを はじめとするクール派の白人アーティストの間に熱狂的な信奉者を生んだ。彼は軍隊生活で人種差別にあったことなどから その神経を病み、やはり酒とドラッグの助けを借りることが多くなって、晩年のセッションはしばしば深い憂馨をたたえたものになる。、 カンザス・シティのジャズといえば、なんといっても、カウント.ベイシー(一九〇四〜一九八四年)と彼の楽団を抜きにして語れない。 カンザス・シティ。そのカンザス・シティを拠点に活躍していたカウント.ベイシーも、のちに楽団を率いてこユーヨークに進出する。 エリントンとベイシー。期せずしてビッグ・バンドの両雄がニューヨークで相対し、人気を二分する。いや、三十年代に入って 禁酒法が廃止されると、カンザス。シティの歓楽街の灯も消え、そこを拠点にしていた他の腕こきジャズメンも相次いで、この街をさり、 ニューヨークへと向かうことになる。以後、ジャズの中心地はニューヨークになっていく。 】 ▼当時の黒人はスポーツかジャズマン位しか名をなす機会がない世界。そこで名をなすのは至難の技の筈。その曲に魂が入っていて当然。 ・・・・・・・ 3342, 医師と看護婦の危ない関係 2010年05月20日(木) いまさらの話だが、医師と看護婦の危ない関係が表面化してしまった。下世話の話だが、何処かの同級会で 「あの何某、医師になって順調に出世しているが、彼の話だと看護婦は、○○放題?だと!」。 酒席で酔っ払っているので、言っている方も、聞いている方も、ほぼデマ?として本当とは思ってないが、「そういうこともあるんだ?」 と、半信半疑で聞いたことがある。看護婦の立場からみれば、医師にみそめられるのが理想系だが、医師の立場からすれば、同じ医師か、 その世界の娘と結婚をするか、医師のネームバリュー?で自分より格上の家の娘を対象にする。 (字数制限のためカット 2012年5月20日) ・・・・・・・・・ 2967,困難は分割して解決しろ!とはいうが・・ 2009年05月20日(水) (字数の関係でカット2,011年5月20日) ・・・・・・・・・ 2603, 最近みる夢 2008年05月20日(火) (p≧w≦q)オッ☆ ハ! 最近みる夢は、ますます深遠の奥にある中心に入り込んだような内容が多い。 一昨夜の内容といえば、 飛行機からパラシュートで落下するが半分しか開かない。先に飛び降りた人達のパラシュートは開いているのに・・・ そして海に落下する。そして気づくと海底の牢獄のようなところでもがいている。 ところが檻があって海面に 出ることができない。生死の境目を漂っているようなストーリーである。 最近、図書館から借りて目を通した 「死のまぎわに見る夢」の影響だろうか。哲学書の生死の問題について読んだばかりのためだろうか。 映画でみたダイビングのシーンの影響か。その全てだろう。夢とはその人に深く埋もれている創造性が出るというが。 現時点の、死に対する潜在的なイメージだろう。何度も書いたが、父親が死んだあとに父のベッドで見た夢は、 心の奥深く刻まれている。 亡くなる前の数ヶ月、父は「死にたくない」という死の恐怖と闘っていた。 一緒に住んでいたので、その気持ちが私には痛いほど感じていた。亡くなった数日後の深夜に、父のベッドで、 その気持ちに乗り移ってしまい「死にたくない、死にたくない」という父の気持になったのである。 その夢から覚めたときに、「何だ生きているじゃないか!」という、父の感覚が乗り移って現に生きているという不思議な感覚。 魂が入り込んだとイメージである。 魂は不死という不思議な感覚を、その時に初めて実体験をしたのである。 27歳時だったが、それ以来20年近く、霊能力みたいな五感以外の感覚が私の中に入りこんでしまった。 最近は、殆ど無くなってしまったが、何時また出てくるかもしれない。夢の内容を意識的に思い出し考えると、 不思議な世界を覗き込むようである。深い得体の知れない自己の深遠の世界をみるのである。その奥は、想像を遥かに超えた 自分の経験の積み重ねだけでなく、何億年の生命の経験の積み重ねの記憶まで広がっているようにさえ思える。 考えてみれば、宇宙の一点で独り彷徨っているのである。 それを真に気がつくのが死の間際だけとは・・・ 身近な不幸な死を垣間見たとき、つくづく感じるのである。群れているしか身の処し方を知らない人こそ、そうだ。・ω・)ノホナ ・・・・・・・・・・ 2007年05月20日(日) 2238, お金の正体 ?2 (*゜ロ゜)ノミ☆【おは?♪】 ー読書日記 ーまずは面白そうなところを幾つか抜粋して考えみよう。 P32ー ここで不動産のイロハを言うと、 ・土地、建物の値上がり率は経済成長率より低い。ロンドンでもニューヨークでも、50年~100年間の統計がそうなっている。 その理由は固定資産税をとられるからで、経済成長率より低い分はちょうど税金額に見合っている。不動産に対する税金は逃げようがない。 ・ロンドンやニューヨークで不動産で財産をつくった成功者がいるが、その人たちは大抵ユダヤ人である。 ユダヤ人相手に売買して負けになら そうぞおやりください。 (字数の関係でカット2,009年5月20日)
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2014年05月19日(月)
* 高齢者の三割が認知症とは 先日の朝日新聞の社会面に「認知症徘徊 不明届け一万人」の記事があった。 その中で「65歳以上の高齢者のうち462万人が認知症で、軽度認知障害が400万人もいると推計される」とあった。 高齢者が人口に占める割合が23〜4%からすると、高齢者が3000万人。その中の862万とすると、三割近くが 軽度を含めた痴呆症になる。前期と後期高齢者では、二倍以上は違ってくるから、80歳までに4分の1、それを超えると、 過半数は認知症になる。 そして徘徊で不明になるのが年に一万人というから、深刻な問題である。 それからして、長寿を願うのは実は考えもの。独り住まいの高齢者が増加している中、本人も周囲も深刻な問題である。 「健康診断などしないで自然死も選択の一つ」も、理解出来る。 胃瘻で一度、管につながれると、簡単に取り払う ことが出来ない。生かして拷問しているようでもある。 死ぬも地獄、生き延びるも地獄。老いて死ぬのも大仕事である。 これを書いたためか、自分が認知症になって呆然と佇んでいる夢をみた。脳は面白いものである。その夢とは、 <店頭で、ハンバーガーとコーヒーを注文するが、商品がなかなか来ない。それを(どういう訳か中年男)の店員に言うが、 何も答えない。ところが後で入ってきた若い男が目の前のチケットを取って、カウンターに並んでいる。私が店のシステムの 要領を得ないで財布を持って勝手に立っていたようだ。仕方がないので、店から出て、他のテイクオフの店に行くが、 店内の座席は、二人以上でないと座れないという。どうも自分が認知症で、街を彷徨っていることに気づいた>ところで、 目がさめる。何か恐ろしい夢だが、認知症とは、こんなものと自分自身に知らしめる内容である。 そうこう考えると、可能な限り医者に行かないで、自然にまかせることも選択の一つである。いざ、余命一年、半年と 告げられると、その恐怖は、はかり知れないのは父親の姿から知った。傍らに一年いて、その恐怖感が直に伝わってきた。 それも、激痛が、死にたくなるほど激しくなっていく。死にいくのは、簡単なことではない。そのため認知症を神様が 与えた自然の業わいとも言える。マダラボケになるから、本人も、周囲も地獄になる。生きているうち、元気なうちである。 ・・・・・・ 4446, 屋根裏に誰かいるんですよ 2013年05月19日(日) 「屋根裏に誰かいるんですよ ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著 数年前になるが、既に亡くなった知人の奥さんが会社の事務所に訪ねてきて言うに、「誰かが留守に家に入りこみ、 困っている」と切り出してきた。それも会話の中で何気なくである。「ちょっと、待ってください。聞き捨てにならない話で、 もう一度、本当に侵入していたのですか」と聞きなおすと、現在も屋根裏に隠れていると、写真を数枚だし、ここですと言う。 私の目には見えなかったが、本人には見えるという。「警官に来てもらい見たが、何も見つからなかった。が、私には隠れて いるのが分かる。ところで、うちの主人が生前、そういう話をしてませんでしたか? 貴方にはシックスセンスがあると 聞いてましたが、この現象をどう思いますか?」と真剣な眼差し。「恐らく貴女は、魔界とか何か違う世界に取りつかれたと 考えるしかありません。そういう話は一度も本人から聞いたこともありません」と答えた。その話を、その人の共通の知人に 話すと、「実は私の家に訪ねてきて、全く同じ話をし写真を見せてくれたが、何も見えなかった。他にも訪ねてまわっている」 とか。本人は60歳前後で、老女というには、まだ若い。 ーアマゾンの内容説明ー 精神科医である著者が、現代社会におけるさまざまな精神病理を、きわめて冷静に考察したものである。 ある日、ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に人が入ってきて困る」と訴える。その侵入者は、彼女の部屋にある日用品などを 盗んでいったり、ちょっとだけ位置をずらしていったりするという。しかし、姿は見えない。まるで、「座敷わらし」などの妖怪の しわざとしか言いようがない不可解な話を、老女は真剣に語る。 表題となっているこの症例は、「幻の同居人」と呼ばれる。 このような症例は、多数報告例があるらしい。患者たちは、脳に器質的な異常が認められるわけではなく、精神的にも問題ない 場合が多い。「妄想の突飛さと当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が生じているときには、精神医学はたちどころに 歯切れが悪くなってしまう」と著者は言う。それがこの症例の複雑さと奇妙さとを物語っている。 ▼ 当時は、この本の存在を知らなかった。 子供達の巣立った家で、当人は深夜怯えているのだろうが・・ 想像しただけで、背筋が寒くなる。当人にとって感じるのだから! 私も一時期、女性の幽霊?を見たり、 幽体離脱をしたり、面白い経験をしたことがあるので、当人が真剣になるのは分かる。 ・・・・・・ 4072, 南直哉 恐山菩提寺院代の話 2012年05月19日(土) 昨夜の18日、BSフジ・プライムニュースに恐山菩提寺の南直哉(じきさい)院代が2時間近く出演し、 「生きる」ということ、「死」について、説いていた。最近、「恐山」出版されたようだ。 東北震災で家族を亡くされた人が多く訪れてくるというが、行方不明の場合、縋る思いで恐山に救いを求めるのは分かる。 院代とキャスターの問答の中で多くの鋭い指摘があった。 ・恐山は感情の器。 ・死は観念、生は感覚。 ・「やりすごす」ことの重要性。(なんとかやっていける方法がくるまで待つこと) ・人間には存在が認められた経験が必要。最初の動力になる。 子供の頃に、その基盤を両親がつくるが、それが壊れてしまっている。 ・自殺は選択の問題。まず生きることを選択すること。転んでも起き上がることが大事、自殺したくならないような人生は本来の人生でない。 ・あの世があるか?の質問に対し、「その前提に、死後の世界がある、という認識がある。」その前提は何か?と逆に問う。 ・最近さかんに「心の時代」というが、どんな時代にも、その時代を生きた人には心があったのであって、いまさら、この時代だけを 「心の時代」と言うのか?「心の時代」と声高にいう人たちは、そう言うことで、「心の時代」という商品を作っているではないか? 等々だが、訪問者が色いろの遺物を持ち込んでくる。その中に花嫁姿の人形が年に十数持ち込まれる。10年もすれば百以上になるが、 捨てるに捨てられないという。毎年、その人形に拝みにくる家族がいるからだ。その花嫁人形も、特注のものばかり。院代の話の奥行は深い。 東北大震災で奥さんがお産のため実家に帰っていて、亡くなられたヤンキーっぽい若い人の話が、涙を誘う。ただ独りで来たが、哀しみが 感じられなかったという。哀しむまで心が追いついてないのだ。本当の悲しみは時間とともにやってくる。 あっという間の二時間だった。 30年前に行った恐山は、強烈な印象である。山鳴りと、硫黄の臭いと、老人が多く入っていた硫黄風呂。あちこちに置かれていた遺品。 そして、イタコと涙ながらに話している人たち。目の前に広がる白っぽい小さな湖。哀しみの感情の器である。 ・・・・・・・・ 3706, 自己を見つめる −23 2011年05月19日(木) ー 他者について ー 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 幼児の頃から、「自分」は、他者の呼びかけによってカタチづくられていく。そして一般的には、「他者」は、自分以外の人や、 生物、そして物を総称して呼ばれる。 二人称の「汝」と「我」の出会いと対話から生じてくるのが他者である。 【(* 対人関係の葛藤の海 ーp186) 二十世紀になって、たとえばブーバーなどを中心として、多くの思想家によって、 二人称の「汝」と向き合った、「我と汝」の出会いと対話の関係が、人間存在の根本事実として、改めて強調されるようになったのも 当然である。とりわけ、人間関係が稀薄になってゆく機械的現代文明社会のなかでは、「我汝関係」の豊かな拡充が緊急の課題として 重視された。ブーバーなどは、汝の奥に、永遠の汝の面影さえ予感して、神の前に立つ自己の存在の確認を、汝との出会いの延長線上に 設定するほどである。こうした我汝関係の思想は、十九世紀前半のフォイエルバッハあたりから始まるとも言えるが、 とりわけ現代において強調された重要な問題意識であると見てよい。 さりながら、そうした他者のうちに、たとえば、サルトルは、むしろ逆に、鋭く私の秘密を握って、私に対して支配力を 行使しようと隙を窺っている、油断のならない「まなざし」を予感した。したがって、そこでは、自他の関係は、 永遠に自由をもった者同土の「相克」が宿命となる。調和的な共同主観などは幻想であり、むしろ、個別の体人同士の 峻烈な争いと闘いが、対人関係の根本事実と見なされるわけである。 ヤスパーも、人間関係において、やはり、争いを、不可避の個別的限界状況と捉えていたことは、すでに述べた。 ・ つまり、一つには、人間関係の根本には生存競争という非情な争いが、一皮剥けば、いたるところに隠れ潜んでいることが、 すぐに露呈してくるからである。実際、人間関係の深刻な極限的状況においては、食うか食われるかの、生死を賭けた争いの火花が 噴出してくることは、誰もがつとに覚悟している。 また、平凡な日常生活の場面においても、いろいろな局面で、先着順や成績順や 業績順や体力順によって、岐路が分かれ、自他の運不運の差が顕在化して、憂き世での浮沈が結果としてくる。 ・ さらに二つには、自己と他者は、相互に協力し合いながらも、「愛しながらの争い」において、互いにたえず、本心を確かめ合おうとし、 公明正大さをめぐる人間的吟味の鋭い眼を、相互に向け合う。すなわち、自他は互いに、相手が、どれほど誠実であるか否かを、いつも 気懸かりの種とする。つまり、他者を、その誠意や裏切り、欺朧や正直、傲慢や謙虚、忘恩や怠慢などの点で、吟味して、他者が 真に信頼の置ける人物であるか否かを、人は不断に確認しようとする。・・・ 】 ▼ ソクラテス、デカルト、カントの三者の考えは、みな「私」を拠り所にして他者や世界と立ち向かっていたと感じていた。 しっかりした「自分」があってはじめて他人と接しることができると考えていたようである。しかし、19世紀初めに 生きたヘーゲルは、この考えに根本から批判する。自分が自分でいるのは、先に「私」があるのではなく、むしろ他者が 先にいるからであると。少なくとも、相互作用が必要と言う。「他者」が「私」のことを意識することによってはじめて、 「私」は、この世に位置づけられる。 人生の節目どきで、身近にいた他者が変わる時に、この意味が実に鮮烈に見て取れる。 特に内面の希弱な人にとって、他者の交代の節目は、自分を支える基盤が無くなり、大きく動揺する。老齢になるほど大きくなる。 ・・・・・・ 3341, 今日からデジカメ写真がうまくなる 2010年05月19日(水) 「今日からデジカメ写真がうまくなる」 久門易著 元もと写真が好きで多く撮ってきたが、デジカメが出来てから、それがより多くなったようだ。 それにしてもデジカメの機能の日々の進化は目を見張るものがある。 プロとアマチュアの差は、 「多くの角度から枚数を撮って、その中からベストのものを選択できる要因の差」という。 (字数の関係でカット2,012年5月19日) ・・・・・・・・・ 2966,ミューズが降りる 2009年05月19日(火) 先日、立川談志のテレビインタビューを見ていたら「ミューズが降りた」芸について語っていた。 年に2〜3回はあるという。 話芸の中の人物に魂が降りてきて、自分でも信じられない芸になる。 その幾つかの中の一つの「芝浜」の録画を放映したが、何度か観たことのある録画。名優の演技には、度々あるのだろう。 森光子の放浪記の演技の中でも多くあったはず?。 談志曰く、「その時の芸は自分でも抱きしめたいようだ!」 ーネットでミューズを調べてみると・・・ ー「ミューズ とは、ギリシア神話に出てくる、文芸・音楽・舞踊・哲学・天文・芸術一般などの女神たちの総称。 個々の女神は、Muse ミューズで単数の形になります。 大神ゼウスと、記憶を意味するムネーモシュネー女神のあいだに生まれた、 9人の姉妹とされている。ー 芸の中の人物を演じていると、その人物が自分を観ている錯覚を覚えるという。 霊感の鋭い人の感覚は、鈍い人に解りようがない。スポーツ選手でも、政治家でも、一番勢いの乗っているときは、 誰でも神がかる。神?が本人を使っている状態か。 頭に浮かんだイメージに自分を通してエネルギーを入れると、 魂が入るということだ。芸術品もミューズが降りた神の仮の姿とみれば、違った面も見えてくる。 私の同級生の兄が「能」をしているが、「能の世界は現実か、現実が幻想世界か、混同することがある」(新聞紙上) と、同じようなことを言っているのだろう。 ところで私にミューズが降りたことがあっただろうか? いや、 誰にもあることでしかないか?言わないだけ、表現する場がないだけ、表現方法を知らないだけ、それだけ人間の脳力は 深いということ。 (後記ー偶然、昨年書いた、「ごっこ遊び」が、関連したような内容。) ・・・・・・・・・ 602, ごっこ遊び 2008年05月19日(月) ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。 ーまずは「ごっこ遊び」を、ー辞書で調べてみるとー 【ごっこ遊び(ごっこあそび)はこどもの遊びの一種で、何かになったつもりになって遊ぶものである。 通常、○○ごっこというように、何かの名前をつけて呼ぶ。 何かの職業のまねをして遊ぶ場合や、テレビやマンガの ヒーローやヒロインのまねをして遊ぶ場合がある。こどもはあこがれを抱いた対象ならどんなものでごっこ遊びにしてしまうので、 「わんちゃんごっこ」や「お人形さんごっこ」 など大人の予想しないごっこ遊びを始めることがある。】とある。 子供の頃に、 多くのごっこ遊びをした記憶がある。最近は、若者の間にアキバ系で「メイドカフェ」なども、「ごっこ遊び」そのもの。 他にも、ロールプレーイング・ゲームがある。元々は戦争シミュレーションゲームから派生したアメリカで考案された遊び。 参加者が各自に割り当てられたキャラクター(プレイヤーキャラクター)を操作し、一般にはお互いに協力しあい、 架空の状況下にて与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を目指すゲームの一種。 様々な設定と制約の元で、空想上の世界で物語の登場人物のように活躍できる。考えてみれば、世の中の多くは 「ごっこ遊び」のようなもので、国が発行している札だって、所詮は紙切れでしかない。 (字数の関係でカット2,011年5月19日) ・・・・・・・・ 2007年05月19日(土) 2237, お金の正体 ー1 「お金の正体」 ー日下公人著 (((。・-・)从(・-・。)・゜ 「生・死」と「金」の話題は尽きることは無い。 特に「金」に関してはもういいや!と思うが、それでも次々面白い道理に出あう。しかし、どれを読んでも面白いのは、 金が欲の集約でもあるからである。この本を図書館で手に取ったときは、あまり内容のない本に思えたが、実際読んでみると、面白い。 「お金の正体」はつきつめると「その人が求めている幸せは何ですか?」ということになる。 幸せとは何ですか?は、これも単純で解りきったように思えるが、実は深い問題である。 私が好きな「幸せはアルコールのようなもの」とか、軽く扱われない大きな問題である。 (字数の関係でカット2,010年5月19日)
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| 4812,閑話小題 ーシネマ『それでも夜が明ける』 |
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2014年05月18日(日)
* シネマ『それでも夜が明ける』 ー評論 一昨日はシネマの日。 今週は『それでも夜が明ける』を、みてきた。 評)90点 暗い内容だが、重厚で、アカデミー賞の作品賞をもらうだけのことはある。南部の奴隷が動物並みに扱われていた実態は、 それは酷い。中南米諸国のアスリストの身体能力が高いのは、奴隷としてアフリカから運搬船で送られる船中で、まず淘汰。 その後、過酷な肉体労働で生き延びた人たちから、さらに選び抜かれているため、異常に高い身体能力があるという。 当時の南部では、家畜として見ていたようだ。 インドのカースト制は、三千年前に西の方からやってきたアーリア人が、ヒンズー教を創りあげ、肌の色で階級を つけた仕組みで、そのミックスを防ぐのが目的で、現在も、そのまま続いている。 白、赤、黄色、ねずみ色の順に、 見た目だけで階級が判断できる。その上に体格も、顔つきも、そのまま三千年の歴史が現れ出ている。 最下層は、牛以下で、車ではねても、そのまま立ち去ってしまう。 先進国、後進国の格差も、似たようなものか。 3年前の節目時の日々は、『それでも夜が明ける』そのもの。 『闘い済んで日が暮れる』である。 ただ、面白みと味わいもあったが・・ 差別?、軽蔑の視線をモロに、受けてみて、「成るほど、こういうものか」という 逆視線と、経験したことのない怒りと、その対処法の知恵も出てくる。いちいち怒っていられないので、その場でイメージで 消去してしまう。 それで相手への憎しみも怒りも、その場限りで不思議なことに消えていく。 消去方法は?企業秘密。 で、再び怒りが出てきたら、その都度、小まめに消去する。10回もすれば、ほぼ消去。 百回なら大病、事故? 何度も書くが、避難先の高台(現状)から、外海に押し寄せてくる大津波に、ただ、漫然としている人たちの姿が見える。 三分の二は助かるが、三分の一は、間違いなく飲み込まれる。危ない人ほど、自分は大丈夫とタカをくくっている。 この映画の主人公のように、ある日、突然騙されて南部に売られ自由を失った主人公のように、突然、全てが失われる。 これは、社会的変動だけでなく、誰にでも起こる生老病死の問題もあるが。 国家としての行き先は、現在の韓国のように、 韓国内の企業の株式の8割が外国所有になって、民度は落ち続け、客船沈没事件とか、得体の知れない宗教団体の跋扈とか・・ それでも、かの国の夜が明けている。 色いろ考えさせられた映画である。 ・・・・・・ 4445、早朝座禅 2013年05月18日(土) 「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄著 この本を読んで直ぐに30分早く起きて、早朝座禅を取り入れてみた。まずは、今月一杯は続けてみるが、どうなるか。 今のところ抵抗感も、異物の習慣といった感もない。もう40年以上も朝起きの習慣化があった上に、その時間帯での全てが カタチを変えた瞑想みたいなもの。朝の散歩やミニサイクリングは、移動座禅といってよいほど。 何故、今まで軽い気持ちで 早朝座禅か、瞑想を取り入れなかったのが不思議なくらい。 30年間の新幹線通勤の往復一時間が、瞑想に近いし、 夜半の4時間の爆睡後の一時半から4時半までの三時間は、瞑想に近い状態になるので、あえてその必要が無かったこともある。 しかし姿勢を正し、目を瞑り、思いに捉われないで、覚醒した気持で正座をするのとは違うのは、経験して初めて知ったこと。 ーまずは、(内容ーアマゾン)よりー < 現代ほど「人間関係」の重要性が説かれる時代もない。家族、学校、会社、それぞれにおけるコミュニケーションの 大切さが謳われる一方、疲れた人やうつ病は増え続け、自殺者は九年連続で三万人を超えている。著者は、疲れたときには 「群れ」から離れて「ひとり」になってみよ、という。毎朝、五分坐って、己の心と向き合う。正しい姿勢で、深い呼吸をする。 季節の風を胸元に入れながら、歩く。ときには庭にたたずみ、河原で風に吹かれる。 ひとり静かに自分自身や自然と向き合うことが、騒々しい人間関係の疲れを取り、豊かな人生を手に入れる最良の方法。 凛とした生活を送るために大切な身体作法を実践的に説く、山折流・人生指南の書。> =概要をマトメルと= ≪ 現代社会にあふれる‘うつ’の現象を分析し、 ○過去に人生モデルが見つけられない程の高年齢化。 ○宗教的な感覚が欠如した口先だけの言葉の群れの氾濫。 それが、世の中に不安をもたらすモノノケとなり、うつを蔓延させている。 回復には、ひとりで静かな中で早朝坐禅をし、 モノノケから自由になり、歩く・泣く・眠るという3原則が大事とのこと。 宗教は非日常性。教会でもお寺でも、 日常の気持ちから離れ、心を改めて参拝します。 一方、俗人の日常は、非宗教です。宗教者とは違い、生活に宗教性は薄く、 実生活を営んでいきます。著者にとっては、この場は混ざり合っていて縦横に歩ける無境界地帯のよう。 早朝坐禅は、無念無想のために坐るのではなく、むしろ雑念妄想を吐き出させ、それ以後の1日をスッキリ生活させる為の手段。 またチベットの寺院の真似をして、呼吸さえ密やかにする坐禅中に、茶を喫するなどその自由闊達な動きは著者独自のもの。 頭の中に湧いてくる雑念をそのまま流れに任せ感じ、そのまま受け入れる。嫌な事でもいい事でも想像の中で、いろいろ出来る。 著者は「疲れたときには‘群れ'から離れ‘ひとり'になれ」と。そして自分の心と向き合って深呼吸をする。 人間が自分を不幸だと感じるとき、それは絶対的な不幸をいうのではなく、「幸福な他人」との比較による相対的な不幸に ついて言っている。 あらゆる不満は他人と比較で生じると。≫ ▼ 創業の第一歩は、「ひとりになること」から始まる。心にイメージした絵に向かい、ただ独り長年かけ準備をしていく。 周囲が現在のことに無我夢中の中で、一種の宗教のように自分が目指す、創業に向かい一つずつ、パーツを集める。 傍からみたら一種の狂人に近い心の状態。それでも続けていると、カタチが少しずつ現れてくる。問題は前進を止めないこと。 その中で、心の芯に「ひとり」を保っていないと、現象に流され、群れに同化してしまう。 庭弄りとか、散歩、一人旅、 読書など、「ひとり」になる切り口は幾らでもある。それでも、モノノケに縛られる。早朝禅か、瞑想の習慣は最も有効だが。 さて30分の野狐禅が身につくかどうか? ・・・・・・ 4071, 哲学で自分をつくる ー1 2012年05月18日(金) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著) 実をいうと、この本、トイレに一年間以上、置いておき毎日読んでいたもの。これを手に取ると自分の本音を見透かされてようで、 切り口が素朴で日常的のため面白い。あまり知られてない、こういう掘り出しものが哲学書には数多ある。 門前で野狐禅みたいなレベルで知識を弄んでいる輩(私)に、噛み砕いて教えを説かれているようである。 ー内容ー ソクラテス、ニーチェ、ウィトゲンシュタインから、フーコー、ドゥルーズ、デリダまで、 19人の哲学者の思想・人生のエッセンスを、現代に生きるリアルな問いに置き換え、今を生きぬいていく方法を学ぶ。 (読者評価) 19人の哲学者たちの声に耳を傾けつつ、もう一度自分自身の頭で考えるということから始めてみよう。 確かに悩みや不安を宿命として受け止め肯定的に捉えるのは容易なことでは無い。しかしそのために考えることを生きていくことの 力とする哲学というものが存在する。もっと哲学という方法を、すなわち自分で考えるということの強度を信頼しても良いのではないか・・。 著者はそうした問題提起の下、それぞれの哲学者に成り代わって現代の読者との対話を試みるのである。しかし本書は哲学者を高みの 存在には置かない。また、昨今の入門書のようにデフォルメもしない。あくまでも彼らがそれぞれの時代を生きた一人の人間であり、 一人の生活者であったことに軸足を置いている。このニュートラルな哲学者の位置づけによって、それぞれの哲学者に瑞々しい生命力が 与えられ、彼ら哲学者と現代に生きる我々との問題意識が決して隔てられたものではないという親近感を得るのに役立っている。 ーはじめにー の冒頭が、この著書の特徴と狙いを書いているー 【 あなたには、自分らしくありたい、人に認められたい、自分のことを分かってほしい、世の中で成功したい、幸せになりたい、 金持ちになりたい、モテたい、死にたくない、もっと真っ当に生きたい、といった積極的な意欲があることだろう。 もしくは、 とにかくモヤモヤしている、何もかもが信じられない、人づきあいが面倒、生きるのがつらい、何もしたくない、誰かなんとかして、 といったような、消極的な感情もあるかもしれない。過去の哲学者たちがもし、今、ここにいて、21世紀に生きる私たちの、 そういった悩みや葛藤を聞いたなら、はたしてどうなるのか。どのように聞きとり、どのようなことを語ろうとするのか。 「街の意見」をぶつけられた哲学者が応えるようなスタイルで本書は、書かれている。 本書は、あなたに「哲学する」ことを勧める。 ここで言う「哲学する」とは、生きてゆくうえでの「思考の力を磨くこと」である。既存の哲学を単に解釈したり理解することではない。 日常的に哲学的な問いかけを行い、生きることに役立てること、つまり哲学を使って「自分」をつくるということである。】 ▼ 現代の我々にとっての疑問、悩みを歴史上の哲学者が答える形式は分かりやす。我々が日常で悩んでいることや考えていることは、 全て過去の哲学者が考えてきた一部の悩みでしかない。19人は哲学者の中でも選りすぐりの人たち。彼らのいっている 真理は現在でも、そのまま通じること。最近、気づいたことは、私の人生はニーチェに大きく影響されていたようだ。 この生活者としての生の内面の疑問に19名が答える形式は哲学を身近に引き寄せる。残されて人生、とにかく考え続けるしかない。 ・・・・・・・ 3705, ジャズについて −4 2011年05月18日(水) ー 「音楽の本」三枝成彰著 より 一九二〇年代に「ビッグ・バンド・スタイル(4人位のバンド編成が、15人を超える大編成)」が受けるようになった。 その巨人が、あのデューク・エリントン。ジャズの世界を知れば知るほど、面白い。 * ビッグ・バンド・スタイルの流行 【 ジャズの中心がその生誕地ニューオリンズからシカゴに移っていた二〇〜三〇年代、ニューヨークやカンザス.シティでは、 大編成によるビッグ・バンド・スタイルのジャズが流行した。トランペット奏者、サックス奏者、トロンボーン奏者がそれぞれ四人程度、 それにピアノ、べース、ドラム、ギター奏者が一人ずつの編成し、クラシックの楽団には比べるべくもないが、それでも、一五人を超える メンバーからなるビッグ・バンドはニュー・ーオリンズ・ジャズの編成(一般的にはコルネットット、トロンボーン、バンジョー、ピアノ、 ベース、ドラム各一人)に比べればはるかに大規模だったし、現在でもトリオ(ピアノ、べース、ドラム各一が基本)か、カルテット (ピアノ、べース、ドラム各一にトランペットかサックスが加わる)がジャズ演奏の主流であることを考えれば、大編成と呼んでもいいだろう。 そのビッグ・バンド・スタイルを確立させたのは、フレッチャー・ヘンダーソン(一八九七〜一九五二)。しかし、ニューヨークの 黒人居住区であるハーレムのポールルーム(ダンスホール)やクラブを拠点に活躍したビッグ・バンドの巨人といえぱ、 デューク・エリントン(一八九九〜「九七四)をおいていない。 本名エドワード・ケネディ・エリントン(デュークは公爵という 意味のニックネーム)は、あとで触れるマイルス・デイビスに、「あらゆるミュージシャンは彼に感謝を捧げる日を持つべきだ」といわしめ、 フランスの作家ポリス・ヴィアンをして、小説の登場人物に、「かわいい女の子たちとの恋愛と、デューク・エリントンの音楽。 それ以外は消え失せたっていい。醜いんだから」と語らせた人物である。「A列車で行こう」「黒と茶の幻想」 「ソフィスティヶイテッド.レディ」「サテン・ドール」・・・。ジャズ・ファンならずとも耳にしたことがある名曲.名盤を数多く残し、 自らもピアン奏者であったが、彼の真の楽器は、自分の楽団そのものだったといっていい。アーム・ストロングと同じように時代や 国に影響を与えた彼は、アームのソロイストとは対照的に、優れたバンドリーダーであった。エリントンにとって、バンドのメンバーは さながら絵の具のようであり、それぞれ個性という色を混ぜ合わせて、最終的には「エリントン風絵画=楽曲」に仕上げることに長けていた。】 ▼ そうこうジャズについて知ると、学生時代に、こういう本があれば、もっとジャズ好きになっていた筈である。 エリントンの70年の録音された「ニューオリンズ・スイート」は、その地と縁もゆかりもない彼が、ジャズの発祥の地に 敬意を表したアルバムである。 アメリカ発の魂の歌とも言うことができる。 ・・・・・・・ 3340, 感性・悟性・理性 ーカント 2010年05月18日(火) 理性といえば、「純粋理性批判」のカントである。ーこの一冊で「哲学」がわかる!ー白取晴彦著ー の中で、 認識についてのカントの考えを次のように書いている。 ≪ 彼は、その中で「・・・我われの認識がすべて経験を以て始るとはいえ、それだからといって、我われの認識がすべて 経験から生じるのではない。 なぜなら、おそらく我われの経験認識ですら、我われが印象(直感)によって受け取るものと、 我われ自身の認識能力(悟性)が自分自身から与えるものとの結合真実であろうからである。」と述べている。 では、この「我われ自身の認識能力が自分自身から与えるもの」とはいったい何なのか。 それは感性と悟性である。 ・感性とは、見えている素材がいろいろな形で心に受容される能力というほどの意味。 感性は五感を通じて現われたもの、 すなわち現象を捉えます。このとき、感性は時間と空間という内なる形式にしたがって現象を整理して見ています。 時間と空間というこの形式は、人間の感性の中にあらかじめ備わっている先天的なものである。 ・この現象から得た情報を整理して判断するためには、もう一つの理性、「悟性」がここで必要となる。 悟性とは、大雑把にいえば、「理解する能力」です。 少し丁寧にいえば、能動的な思考・判断能力となります。 さらにわかりやすくいえば、「現象に規則を与える能力」だといえます。 この結果、概念の骨格が一つずつ出来てきて それに肉付けをしたものがイメージになって出てくる。 受け取った概念はたとえていえば、骨格標本のようなもの。 これに対応するイメージを生み出すのが、我われの人間の「心の内奥に隠された技術」すなわち構想力だといいます。 ・我われは日常的なこと、目に見えることだけを知りたがっているわけではありません。「愛とは何か」「神はいるか」 「何が善で何が悪か」といったことを知りたがる。 カントによれば、これら形而上の事柄に関しての担当は悟性ではなく、 理性であるといいます。感性と悟性は現象まで扱い、それ以上のこと、すなわち現象の原理については理性が扱うのである。 「霊魂は単一か否か」は昔からの馴染み深い疑問でした。 しかし、これこそ、という答えはありません。 霊魂は現象として目に見えるものではない。しかし、理性はこれについて考えてきた。 つまり人間の理性は、感性や悟性が 感知できないものについて、思考をめぐらすことが可能である。 しかし、カントは、そこで面白い結論を出したのです。 すなわち、認識の限界を超えたことを思考すれば、必ずや二律背反に陥るということである。 二律背反とは、互いに矛盾するということ、互いに矛盾しながらも互いに反駁も出来ないことを言います。 どうして、こういうことが起こるのか。 感性も悟性も到達しえない理念について理性が考えても、その考えは 認識できるものではないということです。 ≫ ▼ カントの認識に関するエキスの部分を非常にわかりやすく噛み砕いてある。「・現象を時間と空間の中で対象として感性で捉え、 ・悟性で、その対象を整理をし、・思考して(判断を加え)、・理性で原理を求める」 ということが認識としている。 非常に分りやすいカントの認識論である。 ・・・・・・・・ 2965,世界はパンデミックに入ったのか! ―2 2009年05月18日(月) * パンドラの箱が開いた! ついに国内に新インフルエンザの感染者が出て、そして拡大が始った。時間の問題ではあったが、これからは何処まで感染者が 増えるかの問題になる。感染者が増えていく過程で、菌が悪性化するから問題。予測どおりにゴールデンウィーク明けの10日足らずで、 日本も世界並みに感染が始った。問題は高校生であるところ、多くの生徒の間に感染している可能性がある。更に家族などから ネズミ算的に感染してる可能性がある。 スーパーや電車など人混みの多い所は要注意。マスクは殆ど感染に効果がないというし、 よく手を洗うしか予防がない。ウガイは10分以内の菌にしか、効果がないという? しないよりは、良いのだろう。 (字数制限のためカット2011年5月18日) ・・・・・・・・・ 2601, 柏崎沖地震で原発が7基、停止しているが 2008年05月18日(日) 去年、柏崎沖地震で7基の原発が停止をしたが、真夏の東京の電気を一時止めることも無く乗り切った。 これは、どういうことなのであろうか。 休止していた火力発電を急遽動かし凌いだといっても、原発の数は54基。 そのうち7基といえば大きい影響が出そうだが、それを乗り切ったという実績は大きい。単純に計算すると原発の発電電力が 占める割合が35パー。柏崎原子炉が大よそ15パーセントであるから、掛け合わせると5パーセントになる。 古い火力発電などを再開して、何んとか乗り切ったのである。2002年の統計だが、世界における総発電量(163215億kWh) の16.2%が原子力発電所によるものであり、これは火力発電所の66.6%、水力発電所の16.5%に次ぐ。 世界でもっとも原子力発電所に依存しているのはフランス (78%)、次いでスウェーデン (46.3%)、ウクライナ (44.9%)、 大韓民国 (35.4%)である。2005年現在、日本における発電電力量の約35%、発電設備容量の約20%を担っている。 (字数制限のためカット2012年5月18日) ・・・・・・・・・・・ 2007年05月18日(金) 2236, *閑話小題* ・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●) ーまさか、貴方まで!? 同級生のY君が病に倒れ、いきさつ上、私とM君が入院の合間に「Y君を励ます会」の幹事をすることになった。 他の同級生にもお願いして、連絡する名簿を振り分け、まず一番初めにK君に電話を入れた。 (字数制限のためカット 2010年5月18日)
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| 4811, Quirt <内向型人間の時代> ー2 |
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2014年05月17日(土)
<内向型人間の時代> スーザン・ケイン著 * 内向型人間は二流の性格特性か? 外交型人間の代表といえば、特にイタリア、スペインなどの南欧の人たち。逆に内向的人間の代表はフィンランド人を 代表にした北欧の人たちからみて、季節要因と食料が大きく影響しているのが分る。黒夜の時節、15時になれば真っ暗に なれば自殺率が高いのも当然である。冬期間に雪に閉ざされ、内向きになる秋田、新潟の自殺率が高いのと似てる。 外交型人間を理想とする価値観の中で、内向型人間は、一段も二段も低く見られるため、どうしても隠したがる。 ーその辺りから抜粋ー 《 今日、社会が求める性格タイプはごく狭い範囲に設定されている。成功するには大胆でなければならない、 幸福になるには社交的でなければならないと、教えられる。 私たちはアメリカを外向型人間の国家として見ているが、 それは必ずしも真実ではない。どの研究を見ても.アメリカ人の三分の一から二分の一は内向型である。言い換えれば、 あなたの周囲の人々のうち二、三人にひとりは内向型なのだ(アメリカが有数の外向型の国のひとつだとすれば、世界には もっと内向型の比率が高い国々がある)。あなた自身が内向型でないとしても、家族や学校や職場に何人か思いあたるだろう。 もし三分の一から二分の一という統計に驚きを感じるのなら、それはたくさんの人が外向的のふりをしているからだ。 隠れ内向型は、学校の運動場や高校のロッカールームや大企業の廊下に気づかれずに生息している。なかには自分自身までも すっかり騙していて、なんらかのきっかけで、たとえば、失業、子供の親離れ、遺産が転り込んで時間を好きに使えるように なったなどで、ふと自分の本来の性格に気づく人さえいる。この本の内容を友人や知人に話してみれば、思いがけない人が 自分は内向型だと思っているとわかるだろう。 多くの内向型がそれを自分自身にまで隠しているのには、それなりの理由がある。私たちは、外向型の人間を理想とする 価値観のなかで暮らしている。つまり、社交的で先頭に立ちスポットライトを浴びてこそ快適でいられる、そんな自己を 持つことが理想だと、多くの人が信じているのだ。典型的な外向型は、熟慮よりも行動を、用心よりもリスクを冒すことを、 疑うよりも確信することを好む。たとえ悪い結果を招くかもしれないと思っても、すばやい意思決定を優先する。 チーム行動を得意とし、グループ内で社交的にふるまう。私たちは個性を尊重すると言いながら、ひとつの特定のタイプを 賞賛しがちだ。その対象は「自分の存在を誇示する」のを心地よく感じるタイプなのだ。もちろん、テクノロジー分野の 才能があって自宅のガレージで起業するような人なら、一匹狼だろうとどんな性格だろうと許されるが、それはあくまでも 例外で、そういう特例として認められるのは大金持ちか、そうなると約束されている人たちだけだろう。 内向性は、その同類である感受性の鋭さや、生真面目さ、内気といった性格とともに、現在では二流の性格特性とみなされ、 残念な性格と病的な性格の中間にあると思われている。外向型を理想とする社会で暮らす内向型の人々は、男性優位世界の 女性のようなもので、自分がどんな人間かを決める核となる性質ゆえに過小評価されてしまう。外向性はたしかに魅力的で あるがゆえに、押しつけられた基準になってしまっていて、そうあるべきと、大半の人々が感じている。・・・ 》 ▼ 戦国時代の、信長、秀吉、家康を、この性格分類からみると、信長と、家康は内向型で、秀吉は外交型になる。 家系と、家族と、連れ合いなどの環境も、大きく左右してくるが、豊かさと、知識も多分に影響してくる。 学生時代の、ある時期から、面白いように次々と小さな殻が壊れていった。その一つが、父親が私の牛小屋のような 寮に来て、その見窄らしい生活に驚き、仕送りを二倍にしてくれた頃に、欧州旅行と、ゼミの影響もあって、外交型に 自分が変化していった。当時、仕送りが二倍になるのは、日常が根こそぎ変わることでもあった。 ーつづく ・・・・・・ 4444, 過去の意味は変えられる 2013年05月17日(金) * 過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる 何気ないが心に響く言葉、「過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる」がある。 40年近い事業人生と、この結末を如何に受容するか。所詮は、人生も事業もバブルと、その崩壊過程の側面がある。 何事も始まりと終わりがある。その行蔵は残るが、変えることはことはできないが、意味は変えられる。 それは、自分が何を目指すか、楽観的か悲観的か、などで意味の捉え方で変わる。過去の意味(価値)を変えることは、 未来と現在に対する考え方を変える。過去を結果に言い換え「結果は変えることはできないが、結果の意味は変えられる」 として、人生、事業を総括すると多くの視点が見えてくる。現在こうして存在していることは奇跡である。 全てがベストであったから今の私が、ここに存在している。(この宇宙、地球、人間など全てだが) それでは「過去の意味を変える」とは如何なることか。意味に近い言葉に価値があるので、意味=価値として考えてみる。 価値とは、その人にとっての優先欲求、優先順位でもある。ということは、何を目指しているかに行きつく。 過去の価値は、現在の価値で解釈が変わって当然、作り変えられ、加工される? 歴史が、時間と共に解釈が変ると同じ。 意味には真実も含まれるが、その真実もあてにならない。当人が信じていること、それが真実といわれるケースが殆ど。 そこで、真実と意味を辞書で調べると ・【真実とは、虚偽の反語。本当のこと、偽りでないこと。歪曲や隠蔽や錯誤をすべて排したときに明らかにされること。 漢字の意味は、事柄の中身を開いて見たときに、実(じつ)として充満しているもの ...】 ・【意味とは、表現に対する「なかみ」。意図するところ。表現(結果)をさかのぼる真意、意図、目的。 ある現象(行為・言語・その他)に添付される、ある種の上位概念。】とある。 真実も、意味も、言葉の解釈で如何様に変わる。あるのは現在しかないとすると、過去は記憶でしかない。 その記憶も曖昧ときたら、成り立つ基盤は在って無いようなもの。「過去の意味は、現在の解釈で如何様にもなる」ということ。 ・・・・・・ 4070, 主義とは、内に貫く一つの信条 2012年05月17日(木) * 勇ましい、高尚の人生こそ最大の遺物! ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 「金も、事業も、文学も、思想も、これをもって最大遺物ということが出来ない。その訳は、誰にでも残すことが出来る遺物でないから 最大遺物ということが出来ない」と、内村鑑三は論じて、こう訴えかける。 『それでドウゾ、後世の人が我々に就いて此の人等は力もなかった。富もなかった。学問もなかった人であったけれども、己の生涯を めいめい持っていた主義のために送って呉れたと云われたいではありませんか。是は誰にでも残すことが出来る生涯ではないかと思います。』 ▼「内に貫く一つの信条」こそ、その人となりである。 私は、「人間として生まれたからには、人生を全うをすること」を信条にしている。 一度だけの人生、自分で納得できてこそ。納得出来なかったとしても、それも人生だが・・・ 主義とは言葉の通り、その人の主たる義。 内に貫く一つの信条を実践することが義である。他人の思惑など入り込む余地など、そこには微塵もないはず。 貫き通せば、勇ましく、 高尚の人生が、そこに残る。しかし、人間は所詮、動物の進化系でしかない。 勇ましい、高尚の人生も、見方でどうにでも解釈はできる。 そうとでも思わなければやってられないということ。やり抜くには刷り込みも必要である。その刷り込みを、いかに加工するかである。 * 長い期間にわたって不幸なのは、その人が悪い! 誰でも長い期間にわたって不幸なのは、自分が悪いにほかならない。 死も生も堪える勇気のない人も、 抵抗しようとも逃げようともしない人、こういう人にはどうしてやればよいのだろうか。 ーモンテーニュ『エセー』より ▼ どこにでもいる、不平家。 勝手に不幸と決め込んでいるから始末に悪い。悪いことに親から相続しているため直しようがない。 現実を全く疑い持たない一般にいう世間人間。いっけん純粋で素朴のため、世間幻想を現実と信じている。 まともに思考をしたこともなし。 傍によらないことだ。不幸、幸福など、これまた解釈の仕方ひとつ。 不幸の時期ほどベストのことが隠されている。ベストよりベターが良いモノと、信じているんじゃないのか、彼らは?いや、自分か? ・・・・・・・・ 3704,自己を見つめる −22 2011年05月17日(火) * 死について ー� 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 死に際し、結局は神に頼りざるをえないのが人間。絶対者への希求に行き当たるのである。 最後は絶対者の支えなしには、 人間自身が、己を支えることが出来ないのである。私という主体が死という終わりに、根本態度として神様無しにはいられない。 【 神の子であるイエス自身が、ゴルゴダの丘で十字架に架けられたとき、「わが神、わが神、なぜわ私をお見捨てになったのですか」と、 大声で叫んだ。 西田幾多郎が、言ったように、有限性の極みのなかで、その逆対応的に、絶対者への希求が現れてくるのである。 もちろん、その絶対者をどのようなものとして思い描くかという立ち入った内実は、宗教的信仰によってさまざまであろう。 しかし、そうした観念の根底に、すべてを知る者としての絶対者という概念が潜むことだけは明らかである。なぜなら、この現実の悲惨を すべて知り尽くし、その上で、さらに、それを裁き、審判し、あるいは、善き者を許し、嘉し、こうして、すべてについて、正義の秩序を 保持して、万物を支え、生かし続けるであろうところの絶対者というものの観念の根底には、その根本前提として、その者が、生起した いっさいの出来事を見抜き、知り尽くし、記憶し、けっして抹消されることのない全知のなかにこれを映し出す働きを行うということが、 予想されているからである。万物を知り、そのあるべき秩序を保持し、それらすべてを見抜いて、審判と恩寵を与え、そのようにして、 それらを本当の意味で生かす根源的な働きを行うところに、絶対者の絶対者たるゆえんがあることを、誰もが理解しているからである。 そうした絶対者が、実際にどこかに、この世界の内にか、あるいはその外にか、確固として、人間を越えて、現実に存在するかどうかが、 問題であるのではない。そうではなく、むしろ死の限界意識および、それと連なる人間の悲惨という事態の自覚を介して、私たち人間に、 懐疑と絶望と憂悶のなかで、それと矛盾するかのように、こうした絶対者への希求が湧き上がってくるという、その抑えがたい 祈願の強靭な根源性そのものが問題なのである。 そこに、絶対者の観念の生まれ出る根源があるということが大切なのである。 言い換えれば、死の問題意識は、こうした絶対者の観念を生む土壌であるという根本事実が重要なのである。おそらくは、そうした 絶対者の観念は、私たち人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎないのかもしれない。 しかし、私たち自身のうちには、 時を越えた不滅の全知の存在を要請する根強い希求が、最後の時に至るまで、燃え盛っていることだけはたしかである。 それが、人間の生存とその努力を内面から支える根拠をなしている。 その根拠への確信が引き抜かれるとき、おそらく、人間の生存は、 その究極の意味と支えを失い、人間自身が、崩壊するであろう。 人間の生存の営為が無意味でないためには、その精進と努力の いっさいを移ろうことなく見届け、意味づける絶対者の眼差しがどこかに存在しなければならない。 誰もが、みずからの心の奥深くに、 そうした絶対者の眼差しの影を宿している。そこに、人間の存在の、畏怖すぺき尊厳の最終根拠がある。 それは、死をも越えて光輝く人問の尊厳であり、人間をとおして瞬く絶対者の眼差しである。 ーP・291 】 ▼「死の問題意識は、絶対者の観念を生む土壌であるということが重要なのである。 絶対者の観念は、人間自身の救いようのない 現実意識の裏返しにすぎない」 絶対者の眼差しが人間には必要欠くべからざるである。大部分の凄惨な最後は、それを示している。 ・・・・・・・ 3339, 2011年新聞・テレビ消滅 −2 2010年05月17日(月) 「2011年新聞・テレビ消滅 」ー佐々木 俊尚 (著) 現在のマスメディア崩壊の原因の1つとしてメディアのプラットフォーム化の進展をあげている。 これまでは新聞社の社員が記事を書き、紙面をつくり、印刷し、それを販売店に届けた。 販売店も専売店としてネットワーク化されている。これを3つの層に分けて説明する(もとはグーグルの及川卓也氏の説)。 その3つの層とはコンテンツ、コンテナ、コンベヤというモデル。 ● コンテンツ=内容 ● コンテナ=内容を納める媒体 ● コンベヤ=媒体の流通経路 という形で説明している。 * これから旧来の新聞を分類すると、 コンテンツ=新聞記事 コンテナ=新聞紙に印刷された記事(新聞紙そのもの) コンベヤ=新聞販売店 となるが、 インターネットでニュースを読む層が増えてきた今は、 コンテンツ=新聞記事 コンテナ=新聞紙、またはニュースサイト コンベヤ=新聞販売店、またはインターネット と変化してきているとのこと。 * テレビだと、コンテンツ=番組、 コンテナ=テレビ、 コンベヤ=地上波、衛星放送、CATV。 これがコンテンツ=番組、コンテナ=ユーチューブ、コンベヤ=インターネット、という形に移行し始めている。 (字数の関係でカット 09年05月17日) ・・・・・・・・ 2964、「未婚社会」 2009年05月17日(日) 先日のNHKの特番「未婚社会」をみたが、収入に対して女性がシビアな現状に驚いてしまった。。 長期停滞景気などの時代背景が、そうさせているのだろう。 最近は男性の収入も少ない。 平均収入が200万円の男性が一番多いが、女性が男性に望む最低年収は400万円。 20代の独身男性で年収400万円以上は4分の1しかいない。男の非正社員の既婚率は正社員の約2分の1。 30歳になっても、この時勢では給料が右上がりにはならないなら、互いにミスマッチになる。セクハラを恐れて職場の女性に 近付けない男性の声もあった。それなら男は自分の趣味に没頭するしかない。女性の魅力も情報化で減少する。 法的に縛った現行の結婚制度に対する反対もあったが、頭でっかちの感も。ドイツの新しい制度が紹介されていたが特徴として (1)減税あり、(2)お互いに貞操の法的義務なし、(3)一方的に「結婚」を解消化が可能。 日本とは背景が違う。 未婚者増加の原因は「草食系男性の増加?」と、背景にワーキングプアの拡大がある。 いま、この国の若者の置かれている状況は深刻。 情報化社会も、結婚を躊躇する要因になっている。 ・女性の立場からみれば、豊かな社会がTVなどを通して入ってくる。そうすれば「金のない男と苦労覚悟で 何で結婚しなければ?」と疑問を持つのも当然。 ・男の立場からしても、「高慢な女性とワザワザ結婚するより、好きな趣味の世界を保っていたい」もの。 私たちの時代は、男は30歳まで、女は20歳半ばまで結婚するという世間的圧力があった。 しかし、現在では就職戦線が氷河期の中で、収入が大きな壁になっている。 渡辺淳一が昨日のモーニングショーで、草食系の現代の若者に対して「欲情の作法」を語っていた。 ・心を込めずに褒めろ ・テスティングをしろ(触れ、誘え)・片っ端から口説け 等々。 いちいち真面目に考えずにチャンスをつくれということ。 しつこくする、のは違う。 一時代前なら当たり前のことが、現在では教訓になる。男諸君、先日の週刊誌の見出しに「独身男は、9歳も早死にする」 とあった。 理想が高いのは解るが、自分を見つめなおして見切りをつけなさい!ということ。 しないよりは良い。 いや、どうか? 過半数は破綻するから、どうともいえないか〜? ・・・・・・・ 2600, 一点集中力 2008年05月17日(土) 「一点集中力 」伊藤 真 (著) 図書館で見つけた本だ。今さらと思ったが、借りて目を通してみた。著者が東大在学中に司法試験に合格。 その後、受験指導を始めたところ、人気講師になり、95年に「伊藤真の司法試験塾」を開設して「伊藤メソッド」と呼ばれる 革新的な勉強法を導入して、司法試験短期合格者の輩出全国トップクラスの実績を不動にしていると、著者履歴に書いてあった。 その彼の恐らく最も基本が一点集中主義なのだから、説得力のある本であった。表紙裏の紹介文は簡単にー何かを成し遂げる人は、 みな「一点集中力」を持っているーである。まだ憶えているが、小学校の5年生になった時、ある姉が勉強法を教えてくれた。 「いい点数をとりたかったら、一教科だけとにかく集中して一度良い点数をとってみなさい。そうすると、他の科目も良い 点数がとれるようになるから」であった。 そこで算数に狙いをつけて一番になってみた。そうしたら、他の科目も何時の間に 取れるようになった。これも一点集中だったのだろう。とにかく、やはり借りて読んでよかった。もし受験期の子供がいるなら、 迷いなく、この本を買って与えることを勧めます。 私自身の一点集中は、 ・この7年間は、この随想日記を欠かさず書き上げること。 ・秘境ツアーに行き続けること。 ・良い習慣を少しずつでも付け加えること。それ以外で捨てること。 私も一点集中ということに関しては、知っていたつもり。 「錐の先の一点集中のエネルギー」「レンズで太陽光を一点に集中し発火させる」等々 戦略・戦術のまず第一歩である。それを兵法でといたのが「孫子の兵法」である。 まあ自分の話は、この辺にしておいて、 ーこの本の印象に残った部分を抜粋してみようー (字数の関係でカット 12年05月17日) ・・・・・・・・・ 2007年05月17日(木) 2235, 男は女のどこを見るべきか ー2 (゚∇^*)オハヨ♪ ー岩月 謙司 (著) 第四章 女性は記憶をかいざんする がなかなか面白い。この歳になり初めて知らなかった女性の心奥の魔性の一部を 垣間見た思いがする。一番身近な家内の心の内の未知を幾つか知って驚いた箇所があった。 なるほど男の知恵と女の知恵は大きく違う。まあ、それが良いのだろう。 *記憶の改ざんについて* 特に記憶の改ざんについて、なるほど思い当たる部分があまりにも多い。 女兄弟や女性の職場にいたこともあり、 多くの特性を把握していたつもりであったが、所詮は男の立場の理解でしかなかった。 (字数の関係でカット 09年05月17日)
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2014年05月16日(金)
<内向型人間の時代> スーザン・ケイン著 * 内向型人間かどうかのチェックリスト 私は、あまり外交的ではない。だから、事業創業の人生を選んだのである。 この書の冒頭にあった内向型リストで、○✖▽で、チェックしてみた結果、 20のうち、13が○、✖が3、どうだろう?▽が4で、明らかに内向的人間である。 家内は明らかに外交的人間と思っていたが、○が15に、✖が3、▽が2で内向的人間には驚いた。 専業主婦ということもあるが、驚きである。 ー以下、左が私、( )が私から見た家内である。 ーまずはチェックリストからー 日本人、特に地方、北国は8〜9割は内向的人間? ○グループよりも一対一の会話を好む ○ (▽) ○文章のほうが自分を表現しやすい ○ (✖) ○ひとりでいる時間を楽しめる ○ (○) ○周りの人にくらべて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味がないほうだ ○ (○) ○内容のない世間話は好きではないが、関心のある話題について深く話合うのが好きだ。○ (○) ○聞き上手だと言われる ○ (▽) ○大きなリスクは冒さない ✖ (○) ○邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ ○ (○) ○誕生日はごく親しい友人一人か二人や、家族だけで祝いたい ○ (○) ○物静かだ」「落ち着いている」と言われる。 ○ (○)
○仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めない。 ▽ (○) ○他人と衝突するのは嫌いだ ▽ (○) ○独力での作業で最大限の実力を発揮する。 ○ (○) ○考えてから話す傾向がある ○ (○) ○外出して活動したあとは、たとえそれが楽しい体験であっても消耗したと感じる。 ✖ (✖) ○かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。 ✖ (✖) ○忙しすぎる週末よりも、なにもすることがない週末を選ぶ ○ (○) ○一度に複数のことをするのは楽しめない ▽ (○) ○集中するのは簡単だ。 ○ (○) ○授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式の方が好きだ。 ▽ (○) ▼ 意外なことに、アメリカ人でさえ、2〜3人に1人は、内向的人間という。事業人生を30年以上、たずさわり、 人との接触が多い仕事もあって、外交的部分も多かった?反面、嫌な場面へ行かないで済む、自由もあった。 逆に仕事上、内向的姿勢も求められたこともあった。 家内の友人に、極度の内向型人間がいて、その話を度々、 聞くことがあった。内向的にも、暗いのと、明るいのがいる。冷たいのも、温みがあるのもいる。 携帯パソコンが一般に普及した中、情報選択と決断が重要になっているが、この時代だからこそ内向型人間の時代、 というのも、説得力がある。ヨガブームというが、週二回、26ヶ月、参加して、成るほど、内向き、精神性の時代が、 実感できる。 高齢者は、どうであれ、内向きになりざるをえない。 ーつづく ・・・・・・ 4443, ヨガと座禅の違い 2013年05月16日(木) 毎週二回、スポーツジムの「ヨガ」に参加して14ヶ月、百回はゆうに超えているが、回数を重ねるたび、身体も、 気持ちも解れていく。学生時代に野狐禅だが、六日町の雲頓庵で持ち込んだ卒論の種本を読みながら、合間に広い禅室で独り 座禅を組んだことがあった。ただシーンとした中、「直ぐにでも止めようか」という気持ちと戦いながらのたった独りの座禅は、 永平寺での一瞬気持ちを緩めれば、禅僧に叩かれる状況より辛い。誰もいないため、直ぐ止めたい誘惑との闘いになる。 ヨガで仰向けになり全身を弛緩する「死者のポーズ」があるが、これは座禅の禅定に似ている。飛行機内の座席で、 耳栓をして姿勢を正し、次々出てくる思いを泡のように流していると、何かのゾーンに入ってしまい、10時間以上の 時間がアッという間に過ぎてしまう。ヨガは、瞑想で心を解すのが目的で、禅は、その状況から仏の悟りに近づくことにある。 ーヨガと座禅の違いをネットで調た中で、納得にいった3つをコピーしてみるー 《人は疲れたときに目をつぶる事がある。そこで何かを思い浮かべながら瞑想にふける。この繰返しがヨガという。 このヨガはもともと「軛(くびき)」ということで、牛に車を曳かせる腕木を指した。これが次第に神の力に人間を 結びつけることを意味するようになり、その修行法として智慧、愛、行、瞑想が重視された。一般にヨガと呼んでいるのは、 このうちの瞑想による神人合一の方法である。このヨガは紀元5世紀ごろには「ヨーガ・スートラ」を根本経典とした ヨーガ派が独立してさかえ、完全性をそなえたひとつの霊魂を最高神としてあがめた。このヨガの修行法が仏教にも 広く取り入れられてきた。それが坐禅につながっていく。》 《 ヨガと坐禅は、まず姿勢を正して、呼吸や五感(眼、耳、鼻、舌、身)を整え、誘惑をさけ、精神統一するのは どちらも同じ。ヨガは、これによって初めて超自然的な力が得られ、対して禅は「禅定」に深くかかわり、静けさを求める。 禅とは(ジャーナ、禅那)という梵語の音写で、釈尊の悟りを追体験して”身心脱落”し仏の境地になりきり坐禅をすること。 禅は「無」を標誘し功徳や利益を求めない。ひたすら足を組んで坐禅をすること。ヨガは神人合一して身心の健康を増進させる。》 《ヨガは、インドに古くからあり、ウパニシャッドと言われる古代インドの哲学書にも出てくるもので、瞑想や呼吸法、 座法などによって心身を鍛える事で、心の動きを抑制する方法として古くから用いられた。 後に、ヨーガ学派という 哲学集団によって、解脱への実践方法として体系化されていったと言われています。そして仏教においても、このヨガは 悟りへの実践方法として用いられ、釈尊も、瞑想によって真理を悟ったと言われますし、「瑜伽行」という修行法として 確立されました。現代のヨガも、もともとはそのインド独特の修行法をアレンジしたものですから、仏教の修行とヨガとは、 出発点は同じであると言えるでしょう。違いと言えば、仏教における修行は、さとりを目指す為の方法であり、現代のヨガは、 心身の健康維持のためのもの、という点でしょうか。座禅とヨガとの関係についてですが、ヨガは、座法や呼吸法を盛り込んだ、 精神統一の方法でありますし、「禅」といいますのは、「禅定」つまり精神統一をし、真理を観察することであって、 「座禅」は座法や呼吸法を用いた「禅定」一つの方法ですから、根本的な部分で同じ要素を持つものと言える。》 ▼ ヨガは座禅と出発点が同じ「座法」「呼吸」を盛り込んだ精神統一の方法に対し、座禅は精神統一を通して真理を 観察するもので、少し意味合いが違っている。腰痛持ちの私にとって、週二回のヨガは腰痛緩和の自己マッサージ治療。 私の腰痛は完治はないが、仲良くするのは可能。その方法がヨガの中に多くある。手軽なベストの場が見つかったもの。 たまたまー「早朝座禅」山折哲雄著ーを見つけ読んでいるが、数日前から、30分早く起き、早朝座禅を取り始めたが、 これが良い。4時から7時までは、正にゴールデンタイム。60年以上溜まった毒出し、矯正の時間でもある。 ・・・・・・ 4069, お金と神 ー2 2012年05月16日(水) * 「お金=信用」と、「神=信仰」は同じようなもの 〜� ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より お金の本質に関して多くの本を読んで考え続けてきた。ここで、お金と神の本質を同定し分かりやすく書いている。なるほど、人は 心情的に多くの金を持ちたがるはずである。とはいえ、それは心情である。傍に迷惑をかけない範囲で、自分の好きなことに時間をかけて 使うべきである。通帳にあるのは単なる数字の羅列。その辺りの知識がないと必ず後悔する、それが人生である。 ーまずは抜粋ー ≪ 一方、お金はどうか。人は物やサービスという実体を消費して、生活している。経済は、それらを効率よく手に入れるため発達してきた。 多種多様な物欲と技能を持つ人びとが、それぞれの能力を最大限発揮して、生活を物的に豊かにするためには、自分の得意な物を作って、 他人が得意とする生産物と交換すればよい。それによって、自給自足では望めなかった生活永準を実現することができる。そのための 交換の場が市場であり、お金は交換手段として生まれ発達してきた。 物々交換では自分の欲しい物を相手が持っているとともに、 自分も相手の欲しい物を持っていなければならない。経済学で言う、交換における「欲望の二重の一致」である。このとき、誰でも普遍的に 欲しがる物があれば、交換手段として最適である。二重の一致が一重で済むようになり、いつでも自分の欲しい物と交換できるからである。 そのため、宗教が雷や山から始まったように、お金もはじめは、それ自体が安定した実用価値を持つ米や金銀などであった。 しかし、交換機能だけを考えれば実用価値などいらず、信用だけで十分である。持ち運びや保管には、かえって実体として機能は邪魔になる。 そのため、金銀の代わりに大銀行の金銀預り証が紙幣としての役割を持ち始め、20世紀に入ってからは金銀との交換性とも切り離されて、 純粋に交換手段の不換紙幣が定着した。しかし何の価値のない紙幣を流通させるのに、信じ込ませることが必要である。それが信用である。≫ ▼ 金も、社会的価値として信用出来るから流通するのである。それ(交換手段としていた金)が、いつの間にか、将来の不安を解消する手段に すり替わってしまっていることに人は気づかない。 金は使うべき時に使うのが道理ということ。 何で人は、お金を残して死ぬのだろう? 死後に残された金は、あくまで死の不安の遺物。しかし交換手段の額が大きいほど、自由になる幅が広くなることは確か。が、それも幻想。 やりたいことをするのが自由である。何がしたのかをハッキリさせて使ってこそ金(自由)の効用が生きてくる。 貯めたは貯めたで、 金に未練を持ったまま死んでいく。つくづく、人間は頭が変である。自分の好きなことをして行蔵として残せばよいものを。 100億円遺した人と、100億円使い果たした人と、どちらが面白かったかをみれば分かること。人間両手に持てるのは2千万まで! ・・・・・・・ 3703, ジャズについて −3 2011年05月16日(月) ー 「音楽の本」三枝成彰著 より アームストロングとバイダーベックといえば、私が学生時代の1960年代後半は現役で、ラジオやTVで見かけていた。 当時の部屋にはステレオがあり、アームストロングのレコードを何枚か持っていた。 この著書で、彼が集団即興演奏を、 ソロ中心のスタイルに変えた役割を果たしたことをしった。 当時の、あのシワガレ声は、今でも脳裏に焼きついている。 近々、近くの図書館に二人のCDを探しにいくことにした。あると思うが・・・ 【 * 〔 シカゴ・スタイルの中心、アームストロングとバイダーベック 〕 ジャズといえば4ピートのリズムを刻むのが大きな特徴だが、それが確立されたのは一九二〇年代のことである。 この時代、腕の立つミュージシャンが集まったのがシカゴだった。シカゴを代表するジャズメンといえば、当時は若きコルネット奏者として ニューオリンズからやってきたルイ・アームストロング(1901〜1971)である。 彼がジャズ史上に残した最大の功績は、それまでの ジャズの集団即興演奏スタイルを、ソロ中心のスタイルに変えたことだ。他のミュージシャンもこの時期、同じ方向を目指していたが、 アームストロングの才能は圧倒的だった。1925年には自らのバンド「ホット・ファイブ」を結成し、やがて楽器をトランペットに持ち変え、 「ウエスト・エンド・ブルース」をはじめキラ星のごとくジャズ史上に輝く名演奏を残していく。 同時に、独特のしわがれ声に深い情感を たたえたボーカルも評判となり、1926年の、「ヒービー・ジービーズ」では軽快なスキャットボーカルを初めて披露した。 30年代初めにはヨーロッパ・ツアーを敢行し、‘世界のサッチモ’となる。第二次大戦後はビッグバンド演奏をバックに従えた エンターティナーとして、もはやジャズの枠にとらわれない活動を展開する。 もっとも、初期ジャズの優れたミュージシャンは、 黒人ばかりとは限らない。 1919年、アイオワ州ダヴェンポート。ドイツ移民の一家の次男坊が、ディキシーランド・ジャズの レコード(兄貴の除隊みやげ)に夢中になっていた。やがて彼は、親兄弟の反対を押し切り、シカゴ周辺でコルネット奏者として 身を立てることになる。 この白人男、ビックス・バイダーベック(1903〜、93、)こそ、ルイ・アームストロ・ングに負けず劣らず、 多くの後進に影響を与えた天才ジャズメンである。 これこそ、白人ジャズマンの始祖である。ユニークなアーティストである ライ・クーダーのアルバム『ジャズ』でも、、インナ・ミスト」「きらめき」と、彼が残こしてくれた美しい音楽を聴くことができる。・・】 ▲ 歴史はクラシックと比べ、短いが、黒人の虐げられた歴史が背景にあるため、その奥行きは深い。 その背景を、知って聴くと聴かないとは、雲泥の差が出てくる。特に日本の戦後は、アメリカ文化に大きな影響を浮けた。 プロ野球に、ハリウッド、そして、ジャズにブルース。特に私の青春時代は、その最たるものだった。 ・・・・・・・・ 3338, 2011年新聞・テレビ消滅 −1 2010年05月16日(日) 「2011年新聞・テレビ消滅 」 佐々木 俊尚 (著) プロローグからして、刺激的な内容である。 ≪・・最初に言っておこう。2008年からアメリカで始った新聞業界の地滑り的な崩壊は、3年遅れの2011年、日本でも起こる。 アメリカで起こった現象は、ほぼ日本で3年遅れで起きている。 それからして来年の2011年は、テレビ業界にとって二つの 大きなターニングポイントの年である。アナログ波の停止による完全地デジ化と、情報通信法の施行だ。この二つの転回点によって、 これまでの垂直統合モデルが剥ぎ取られ、電波利権はなんの意味をもたなくなり、劇的な業界構造転換の波へとさらされることになる。 何社かは破綻し、業界編成が起こるかもしれない。もちろんそれ以降も、企業としての新聞の一部は生き残っていくだろう。 しかし、そうやっていきのびた新聞社やTV局は、もうマスメディアとはいえない別の存在になっているだろう。 その先に何が待ち受けているのだろうか?≫ ▼ この本を読んで尚のこと、日本でもかならず起きると確信してしまった。 現在、百貨店を見ればわかること。 誰が5年前に伊勢丹が三越を、大丸が松坂屋を、ヨーカ堂が西武・ソゴウを、阪急が阪神を、救済合併をするとは 思ってもいなかった。 さらに数年内に、さらに高島屋も含めた再統合が始る。 その後塵がマスコミ業界で始る。さらに、iPadなどのタブレット式パソコンの 普及が、紙からの移行を劇的に早めることになり、それがフリー (限りない無料化)を推し進めることになる。 著者は、 「これはマスコミのぬるま湯体質とか金融危機が原因でもない。大規模スーパーやビールメーカーの価格決定権の喪失ことではない」という。 現在、日本いや世界で起こっている行き詰まりと原因が同じような気がする。 TV局の最も大きな果実であるTV広告はネットなどの プラットフォームに奪われる。コンテンツ企業としては現在の制作会社と同程度ぐらいまで縮小せざるをえなくなる。それでは、新聞社は? というと、無料モデルに呑み込まれ、コンテンツを有料化していくことが、ほぼ不可能になってきており、この業界の未来は最も暗い。 電子書籍のプラットフォームへと参戦する選択肢があるが、ここには、アマゾンやキンドルという強敵が控えている。 ーつづく ・・・・・・・・ 2963, ディズニーランドとディナーショー 2009年05月16日(土) 先日、地元長岡の300人のディナーショーについて書いた。 「直感的にディナーショーの会場の雰囲気がディズニーランドと感じたが何故?」と考えてみた。 ディズニーランドは遊園地。 家族、友人が連れ立って浮世から離れ異次元の世界を楽しむ幻想の世界。その辺がディナーショーと同じと感じたのだろう。 女性達が最高の御洒落をし、仮想(仮装)を楽しむところが酷似している。ディズニーランドの御人形に自分がなってしまうところがミソ。 その点では、ベニスの仮面舞踏会の方に近いか。一万円でディナー付きでショーを楽しんだ上に、互いの着飾った姿を楽しめるのだから、 これはこれで良い。それも小さな地方の街で、300人も集合したハレの世界である。最近、「共同幻想」という論を知った。 そこに「共同幻想、他幻想、自己幻想」というのがあった。全てが幻想でしかないなら、仮装をすれば良いのである。 服装は、第二の皮膚というなら、可能な限り良いものを着ればよい。虚飾も、それまた「虚飾した自分」である。 全てが元々幻想でしかないのだから。ただ、解った上で幻想を楽しむことだ。人生は楽しめるうちに楽しんでおくこと。 また、笑えるうちに笑っておくことである。 そう思えるようになったのは、歳をとったということだろうか? 聞くところによると、300人のディナーショーは、地元では珍しいという。あれだけの女性を集めるというと、色いろな 難しい点があるはず。あの人と同席は嫌だとか、隅は嫌だとか、女は難しい。ディズニーランドというより、ズーの世界に近い。 それも固定化された城下街のこと。 私の知らないことだが、キメの細かいカースト制度(身分社会)があるのだろう。 誰々は銀行の重役とか、お医者様の奥様とか、今はときめく新興ソフト会社の社長婦人とか。 その渦巻く社会のアッパーが凝縮した世界を「御伽話」として、現に見ることができたのである。 まあ、そういうこと。 ミッキーマウスは、チャップリンからきているというが・・・ ・・・・・・・・・ 2599, 楽天主義とは 2008年05月16日(金) こういう先行き不安定の時、せめて気持ちは楽天的でなければせっかくの娑婆、勿体ないではないかと思う日々である。 そこで楽天主義を フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみた。 ≪ 楽天主義とは、optimismの訳語のひとつ。哲学上では最善説と訳される。対義語は悲観主義。ライプニッツの予定調和を主張する 「最善説」に由来する。ライプニッツは、現実世界は可能なすべての世界の中で、最善のものであると考えた。 かれはまず想定可能なすべての世界を考える。しかし、このうち、内部に論理的な矛盾を孕む世界はそもそも現実化可能ではない。 そこで、この共可能的な事象の組み合わせからなる複数の可能な世界のうち、どのような世界が(神によって)実現されたかが問題。 (字数制限のためカット 2014年5月16日)
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2014年05月15日(木)
「ある明治女性の世界一周日記―日本初の海外団体旅行」野村 みち (著) 何気なく、図書館内を彷徨っていたら、この本が目につき借りてきたが、現在の朝のNHKの連ドラの 「花子とアン」の、出身校の東洋英和女学校出身とあったことも借りる動機にもなった。そして、読んでみて、 面白いこと。ランダムに、どのページを開いても、その日その日の、本人の視線が、そのまま直に伝わる。 ーAmazonの内容紹介よりー 「母親からの厳しい「良妻賢母」教育と共に、東洋英和女学校でキリスト教と英語という新しい教育を受けた 明治の女性、野村みち。豊かな感性と柔軟性で、真摯に、率直な心情を綴った世界旅行記。」 ーレビューよりー 《 元横浜YWCA会長を務めた野村みちの「世界一周日記」。若い頃から洋行に憧れを持っていたことが書かれていた。 その「世界一周」は、1908年3月18日から96日間にかけて行われた。冒頭に旅のルートが掲載してあり、米太平洋郵船 会社のモンゴリア号で横浜港を出港し、ハワイを経由し、サンフランシスコ、ソルトレークシティ、シカゴ、ボストン、 ワシントン、ニューヨーク、英国ホワイトスターライン社のセドリック号で大西洋を渡り、ロンドン、パリ、ローマ、 ナポリ、ヴェネチア、ベルリン、サンクトペテルブルク、モスクワ、シベリア鉄道を利用してウラジオストック、敦賀に 帰ってくるという世界一周旅行です。一行54名、女性3人。 筆者の夫は、横浜の実業家・野村洋三氏で、外国人相手の古美術商のサムライ商会を営んでいました。 本町通りにあったサムライ商会は横浜の古い写真集を見ていると必ず登場するようなエキゾチックでユニークな 外観をしています。258ページに写真が掲載してありますので。筆者の家族の写真や世界一周時の集合写真も掲載してあり、 文章だけでなく当時のイメージが理解できるようになっていました。旅行中の装いも和装で通す意味合いも書いてあり、 このあたりに聡明さが伺えます。アメリカのルーズベルト大統領との謁見や、パリで名バイオリニストのサラサーテの 演奏を聞いたことも記されています。 巻末に番外編として「野村みちとは」と題する生涯を、北川原美乃さんが25ページにわたって紹介していました。 戦後すぐマッカーサーが占領下の日本で初めて接した民間人が野村夫妻だったことも書いてあります。そのような生き方を 貫いた女性であることが分かる書でした。》 ▼ 100年前の96日間の世界一周日記、そこに女性が3人、加わっての旅行、それは大変だっと思われるが、幕末、 明治初期の一女性の目で見た当時の、外国への視線が面白い。長年にわたり、多くの人が様ざまな経験をして記録に 残されているのに、改めて感心する。情報端末がノートしかない時代に、その人の記録が逆に、生々しさとして、 後世の者の心に訴える。横浜で外国人相手の古物商をしていたため、カルチャーショックは、さほど、無かったようだが、 そうでなかったら、その参加自体してなかっただろう。 ところで、居間の座椅子の横に、二年以上も、「世界の旅行記101」が置いてあり、毎日、数分間、読んでいる。 2〜3ページに要約した101の旅行記が、それぞれ何人かが分担して書いてある。ところが、どれもこれも、重いため、 せいぜい、一日、数分しか読めないが、それでも門前の小僧で、少しずつ、階段を下りるように、何とか読んでいる。 それらから比べれば、ツアーで内容が軽いが、それ故に、親近感がわいてくる。 世界は広く、それぞれが深い! ・・・・・・ 4442, 閑話小題 ーリタイア後の幸せ度 2013年05月15日(水) * リタイア後の幸せ度 退職後の幸せ度は、一番高いのは創業者、二番目は違う会社で勤めている人、三番目が、そのまま再雇用している人、 最後は、そのままリタイアした人、という調査結果がある。一番高いのが創業者は自分が、そうだから分かる。それも、 私のように会社を倒産させた人がいうと、強がりにように聞こえるだろうが、複雑な実感である。 挫折感より遥かに達成感が強いことは確かである。 自己完結してキレイサッパリするから。意外なのは、完全リタイア組の 幸福度が一番低いこと。長年かけたライフワークを持ってないためだろう。「自分が、まだ有用の存在でいたい」のか。 後は、解釈になる。収入の関係もあるのだろう。幸せの感じ方は様ざま。 鼻歌でスキップしていくしかない? そのためには、少々のお金と、知恵と、意欲が必要である。一番の問題は、やはりお金に行き当たるのか。 * 節目を超えたようだ! 昨日、もう一つのブログ《バードウォッチ》に。「一月ほど前か、現在の自分と娑婆に対し、底知れぬ可笑しさを感じて、 知らずに独り腹から笑っていた。これで節目を乗り越えたようだ。こういうのをアップスケール(脱皮)という。独り万歳! あとは、心置きなく流しの遊びの世界で我を忘れればよい。割り切るのに、やはり二年。節目としての4分割の最後のシリーズ。 心の還暦になる」と書いた。50歳になった時が、これかと思ったが・・、もう一破壊が必要だったようだ。そして少し楽しめ! ということになる。まだまだ重いし、最近、何事にも面倒が先に立つ。ただ、バイアスが日ごと取れて好奇心が強くなっている。 遊びに対して、まだまだ修行が足りないようだ。 「節目を打て」というが、なるほどである。 (後記)ところで偶然だが、去年の以下の文章が、これに連動していた。面白いもの。決して傷は浅くないということか!
・・・・・・ 4068, 疲れたら憩がよい、彼等もまた、遠くにはゆくまえ! 2012年05月15日(火) * 挫折について ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より ≪「人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか」 (太宰治・〈走れメロス〉)という科白もある。これなぞは負の体験こそ人間に正当な自負心を与えうる唯一の立脚点ではないかと、 負をプラスに転化しているのだ。・・・たえず自分の弱さや、醜さや、愚かさを思い知らされているというが、それがしかし、 自分というものを知る第一歩なんだ。そして自分の悩みを知ることを通じて以外にどうして他人を知ることが出来るのだろう。 その点からいえば君の悩みは、まだ浅すぎるかもしれない。自分はもっともっと悩むべきだ、と考えてみる必要があるかもしれない。 「ひょっとして、人間が愛するのは、太平無事だけではないかもしれないではないか? 人間が苦痛をも同程度に愛することだって、 ありうるわけだ。いや、人間がときとして、恐ろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることも、間違いなく事実である。」 (ドフトエフスキー「地下室の手記」より) ・・・世に文豪と呼ばれるほどの人びとの書いたものを読めば納得できよう。 彼らが作品に描いてみせた人間的苦悩の深さは、とても凡人には耐え難いほどだが、そういう深い苦しみ苦悩を通じてこそ彼らは、 その反対に光り輝く美や愛や幸福やを、あれだけ深く生き生きと感じることができたのだった。・・・ 「疲れたら憩がよい、彼等もまた、遠くにはゆくまえ!」(尾崎一雄「痩せた雄鶏」) おそらく挫折して世に出れなかった日々、 尾崎さん自身、この言葉を自分に言い聞かせ、じっと耐えていたのだろうと思う。 ≫ ▼「死ぬほど苦しんだと言い切れる自覚がプライドの立脚点」には考えさせられる。負の体験を現在しているが、 これをプラスに転化にするには、結果から、原因を徹底的に見つめなければならない。まだ、悩みが足りないのは分かっている。 しかし、盛んだった日々の光りがあれば闇もあって当然と思ってしまう。幸せも、不幸も解釈次第。死んでしまえば、全てチャラ! だから人生は面白い。負の節目が挫折になるが、プラスの節目もある。しかしマイナスの節目ほど次のステップには効果的である。 ・・・・・・・・・ 3702, 自己を見つめる −21 2011年05月15日(日) * 死について ー� 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 元気旺盛のただなかで、突如、不治の病を宣告された人は、初めは死を、不条理な運命として呪誼し、憎悪し、拒否するが、 次第にやがて、その苛酷な宿命を受容して、死を覚悟し、承認するようになるという心理学的研究も存在する。 人間が死と立ち向かう心理的状況は、種々様々である。 死を迎え入れ、その定めを覚悟し、その準備を整える用意は、 憂き世の終末に向けて身辺を整理することを含む。 そこには、種々雑多な俗世間的な事柄が絡みつくが、それらはみな、 老境の責務だとも言える。 ありうべき介護や臨終、葬儀やさまざまな後始末、それらをすべて、何らかの仕方で見越しながら、 誰もが、終末に身構えざるをえないのが、死にまといつく憂き世のしがらみである。 たいていの日本人なら、死んだら、草場の蔭から子孫を見守り、お盆には憂き世に帰り、生者と交わることを望み、しかし やがて年月が経てぱ、往時茫々、すべては諸行無常のなかに消え去ってゆくのがこの世の定めだとして、それを、詮方ないことと 心得る諦念を、心中密かに保持しているであろう。 あるいは、永遠の生命の流れとしての浄土に、自己が繋がり、久遠の仏性に 救い上げられるという強い信仰をもつ人もあるかもしれない。 さらにはまた、西洋からの宗教思想の影響のもとで、死に際して、 神の恩寵と審判が下され、裁きが行われるという終末観を抱き、神に救済されることを祈って、日夜、信仰と精進に励んで生きる、 敬謙な人々も存在するであろう。 死という終わりに直面する私たちが抱くさまざまな不安や、懐疑や、憂悶や、希望や、希求や、 欣求には、果てしがない。 それらの種々の想念と気遣いのすべては、いかに人間が、死の影のもとに、蜉蝣のような自己の身の上を、儚いながらも、 充実した有意義なものとして構築して生きようとするかという、胸痛む事実を、告知している。人間は、徹頭徹尾、 死の影のもとに生きる存在者なのである。 この憂悶にみちた現実が、人間の生存の真実である。】 ▼ 結局は、大部分の人にとって壮絶な死に際が待ち構えているが、敢えて知らないふりをし、日々の細事に気を紛らわせるしかない。 それも、物心とも準備を怠ってきた人は、ただ動転し、目先を辛うじて生きるしかない。その結果、事故や、争いに巻き込まれ、 老醜を曝す結果となりがちでなる。それは、家系とか、持っている体質にも関係してくる。やはり人の死は大方悲惨と覚悟をすべき。 問題は、当の本人が、それに独り直面し、ギリギリの極みの中で、苦痛の中で最期を向かえ、意識が消えていくことである。 ・・・・・・・ 3337, サイバーとは超格差社会 2010年05月15日(土) ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ー8 * サイバーとは超格差社会 ー まずは、その部分を抜粋してみる ー P−236 私は過去のコラムで「サイバーとは超格差社会」と書いたが、一方でこれは持たざる者、立場の弱い者に大きな恩恵を もたらすものだとも考えている。 その格差といえば情報と知恵の差である。仮に判らないことがあっても質問できる双方向性。 実はこれこそがサイバーの最大の特徴でもある。そこから自然にコミュニティが生まれ、互いのノウハウを交換しあうことによって 更に自らを高めることができる。電子町内会の誕生である。 こうしたことも、かつてなかったスタイルの「恩恵」であろう。 サイバー社会の格差を埋めるのもまたサイバーなのである。 この事実に我々はもっと注目すべきだ。 なのに現状、インターネット上の最大の産業がポルノ、またはポルノまがいのコンテンツになっているのは情けない話である。 「あらゆる技術は軍事目的で開発され、ポルノ目的で広まる」ともいうから(写真もビデオも、もちろんインターネットもそう)、 ある程度は仕方がないことなのかなとも思う。 しかしインターネットが我々の身近なものに降りてきて10年あまり、 そろそろ次の段階にステップアップすべきなのではないか。 「次の段階」、それは前述したように人々が学び、情報武装して賢明な市民となり、甘言を弄する政府の嘘を見抜き、 健康で文化的な生活を生涯に渡って維持することである。 そして、そのためにこそサイバーを有効活用することだ。 サイバー社会が人に恩恵をもたらすものである限り、私はそこを自らの事業ドメインとして関わり続けていこうと考えている。 ▼ 現在、サイバーに対してマイナーの視点で論じる傾向があるが、負け犬の遠吠えでしかない。 弱い立場の者に大きな恩恵をもたらすが問題は知恵である。 知恵と才覚があれば、その中で格差を埋めることが可能である。 そのためには哲学の基礎も必要になる。 哲学をもってネットを使えるかどうかで、その差は大きく左右する。 考えないでネットにハマッタら、底なしのバカ?になる。 HP・ブログに10年前に気持ちを集中してなかったら、 良し悪しは別にして現在の世界観とは全く違っていたはず。これからiPadと簡易ブログのツイッターが爆発的に普及した時に、 この蓄積は何ものにも変えがたくなる。 知らないうちにサイバーに移動していたことになる。 ますます情報=通貨の度合いが強くなる。恐慌も含めて、こんな時代が見れるとは思ってみなかった! ・・・・・・・ 2962,若者たちは今 −2 2009年05月15日(金) −若者が危ない!ー いつの時代にも「今時の若者は」と言われてきたが、少し前の経済週刊誌に「現在の20歳代が危ない」という特集があった。 その特徴として、 ・上昇志向なし ・10歳代で「失われた10年」を経験 ・二年で3割離職 ・20歳代前半の43パーセントが非正規社員 ・親との同居率6割 ・職場に不満は過半数 ・海外志向のない若者が半数 ・あまりモノを買いたがらない 等々である。 今さらだが、彼らには弱肉強食の意識が欠落、若いときに辛い体験をして、それをバネにして上を目指そう という気持ちが欠落している。韓国、中国などの若者に比べて、全く人生に対する姿勢が劣っているようだ。 例の「ゆとり教育の犠牲者」なのである。 こういうマイナスの回転に引きこまれた世代は、何処までもマイナスが ついて回るのだから、気の毒といえば気の毒。我われの世代が逆にプラスの回転だったから、それが鮮明に見えるのである。 (以下、字数の関係でカット11年05月15日) ・・・・・・・・・ 2598, 中国の地震について 2008年05月15日(木) 中国の地震は、死者行方不明は十万人以上の可能性も出てきた。産経新聞が行方不明9万人と報道していたが、 まだ真偽は解らない。中越、中越沖地震がマグネチュードが6・8、今回の中国の地震が、7.8 。 震度が一違うと32倍というから、いかに大きな地震だったか!が推測できる。 32年前の文革真っ只中に24万人の死者の地震があったというから、日本の最近の地震とは規模が違う。 この地震もも、マグネチュードが7・8だったという。最近は誰もがデジカメか携帯電話のカメラや、ビデを撮ってしまうから 情報管制は難しい。連日、生々しい写真が出始めいる。スマトラ沖地震と、ミャンマーのサイクロン、そして、 この地震と大規模の災害が続いている。それも中国にとって華やかなオリンピックの聖火リレーの最中に。 (以下、字数の関係でカット09年05月15日) ・・・・・・・・・ 2007年05月15日(火) 2233, しお壷の匙 ー2 (´∀`σ)σ オハYO! この中の「銭金について」の上司の言葉と、本人の動揺が面白い! 「学生気分が抜けない頭でっかち」を注意された時の カルチャーショック。誰もが一度通らなければならない精神的脱皮の時である。働くとは何か?金を稼ぐことである。 生きるためである。そして、その中に生甲斐を見出していくことである。一度、徹底的に自分を破壊して、金を稼ぐプロとして 再生しなければならない。これが三年目にくるか、十年目にくるか、それぞれ違うだろうが。 ーまずは、その部分を抜粋してみるー 「・・ある日、私は上司に呼ばれ、きみはまだ学生気分が抜けていないんじゃないか、お世辞、お愛想の言い方がへただ、 と注意された。突然のことに当惑していると、上司は自分の机の抽出しから一冊の本を取り出し、いきない「これは何だッ。」 と呶鳴った。見れば、それは私の本だった。当時、新潮文庫の一冊として上板された、プラトーン・田中美知太郎訳 「ソークラテースの弁明」であった。私は己れを慰めるためにそれを書店で求め、通勤の往き帰りに電車のなかで読んでいた。 上司はそれを私の机の中から取り出し、咎めているのだった。「俺はお前が週刊誌を読んでいる姿、見たことねえぞ。 これは何だ。こんなもの読みやがって。こんなもの読んでて、金に頭を下げられると思ってんのか。人間の心は捨てろ。 そうすれば、どんなことだって平気で出来る。人におべんちゃらを言うことだって、人を騙すことだって平気で出来る。 俺たちは人に頭を下げることによって、飯を喰ってんじゃねえぞ。金に頭を下げることによって、喰ってるんだ。 いいか。お前はその屈辱にもよう堪えん男じゃないか。金に頭を下げることのありがたさを知ったら、どんなことだって出来る。 屈辱に堪えること、それがお前の喰う飯の味だ。お前だって、金なしには飯が喰えん男じゃねえか。 その金は誰からもらうっているんだ。おう、どんな別嬪も便所へ行ったら、パンツを脱いでしゃがむんだ。 人間の心を捨てろ。いいか。」 ・・・ 私にあっては、この小事件は大きな意味・価値を持っていた。 (以下、字数の関係でカット11年05月15日) ・・・・・・・・ 2006年05月15日(月) 1868, ブログは社会革命ー 2 おはよ?!(*^ワ^*)i
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2014年05月14日(水)
* 年寄りの愚痴 親戚の法事で、いつも愚痴を言っている一回り少し年上の人がいる。今回も、前回同様に酒が入ると愚痴が始まった。 今回は「昔は良かった!」から始まり、山本五十六の家系の話から、掛軸の絵の知識の披露と、延々と講釈が続いた。 年を重ねると知らぬ間にクドくなるのは、自分も同じ? 長く生きてきたためだろうが、これは合せ鏡で、自身を思いやる しかない。酒もまわっていたため、私も二度「本当に昔が良かったですか?」と、クドく話に割り込んでいた。 愚痴は、老人性うつ症の特徴の一つの現れ。 そこでネットで検索してみると、 《 65歳以上の高齢者が全人口の23.1%(平成22年)を占める高齢社会になって、当然ながら老人性うつ病も増えてきた。 高齢者のうつ病には若年層で発症するのと比べると、いくつか特徴があります。若年期、壮年期に発症する場合には患者の 口数は少なくなり、行動はむしろ不活発にみえますが、高齢者の場合では逆によくしゃべり落着きのない印象を与える。 若年期のうつ病では身体的な症状を強く訴える場合は、仮面うつ病と診断されますが、同じように老人性うつ病でも身体の 不調を訴える傾向があります。うつ病を発症していなくても老年期には、個人差はあるにしろ変化を嫌い、意欲を失い、 適応力の低下、周囲への関心の喪失という行動的、心理的な面でいろいろな変化が起きやすい時期です。 特に注意したいのは、老化に伴って性格が変わっていく点です。 一般的傾向をまとめてみますと、 ①自己中心的になる ②疑い深くなる ③何にでも口や手を出したがる ④保守的になる ⑤自分の健康を必要以上に心配する ⑥愚痴が多くなる ⑦感動しなくなる ⑧気分や気持ちの切り換えがスムーズにできなくなる ⑨ストレスにうまく対応できなくなる ・・・》 ▼ 肉体的衰えが、精神の衰えを加速し、それがウツ症状をきたす要因になる。週に5日は運動ジムに通い、 1〜2時間のミニサイクリングをしているので、何とか落ちこみそうな気持ちを保っているが、この楽しみと、 週一の映画館通いと、自宅のドラマや映画の鑑賞と、この随想日記を書上げる面白味が無ければ、おそらく、 ウツ症になっているはず。先ほどの9つの老人の傾向、どれもこれも、日々、強くなっている現象である。 これが連れ合いにも起こり、その矛先が自分に向かってくるため、二重、三重苦になる。で、愚痴が深くなる。 しかし、老いてからの連れ合いの喪失は、それより遥かに厳しくなる。そして、攻撃先を探し出し・・・ 意地悪ばあさん、じんさんになっていく。 「転がる石には苔がつかない」で、転げまわるしかないのか? ・・・・・・ 4441, 四つの時間 2013年05月14日(火) * 四分割の時間割 「早朝坐禅―凛とした生活のすすめ 」山折 哲雄 (著) 宗教学者の著者が、この本で勧めている生活が奇しくも私の時間割と酷似していて驚いた。 �デカルトの時間、�イエスの時間、�ブッダの時間、�涅槃の時間、の四分割だが命名がユニークでよい。( )は、私。 �のデカルトの時間は、早朝座禅と読書や執筆などに充てる時間。(4時半〜6時にブログに掲載する文の添削と完成、 そしてアップ。6時過ぎから7時20分がミニ・サイクリングになる。そして朝食、新聞、風呂で9時になる) �のイエスの時間。著者が会社勤めをしていた時は、仕事に集中。あたかもゴルゴタの丘を十字架を背負い歩くような時間。 (9時過ぎから12時近くは書斎で、読書か、翌日のブログに掲載する文章の下書きなど音楽を聴きながら、独り沈潜する) �のブッダの時間。午前中に集中した緊張から解放された時間。(一時間ほどTVを見ながら昼飯した後、スポーツジムへ。 正午から15時が目安になる。帰りに図書館かスーパーか蔦屋に立ち寄り15時半位に帰宅) �の涅槃の時間。仕事も終わり、疲れきってしまい、後は晩酌をしたり野球中継をみたり。そして、熟睡。 (私の涅槃の時間は16時から21時になるが、TVの前で、野球、大相撲、録画のドラマか、書斎で読書、そして晩酌) 早朝、午前、午後、夕刻・夜の四分割になるが、書き出してみると価値の高い順に坂を下りるように世俗化するのが見てとれる。 この四分割、人生にも当てはめることが出来る。0〜19、20〜39、40〜59、60歳以上の、20年一区切り。 か、25年一区切り。 こうみると、どうも私は��が混同していたようだ。ゴルゴダの丘も大変だったが。そして、涅槃の時節に御隠居で、納得。 4分割を更に8分割すると「時間割」になるので、曖昧に二つ分けておくと良い。成るほど、老後への長期間の準備が必要だ。 ・・・・・・ 4067, つれづれに ー悲観的すぎるのか 2012年05月14日(月) 先日、一年半ぶりに木鶏クラブの会に出席した。この会の何人かは、私のブログを見てくれているが、自分でも気にしていた、 「最近の世界と日本経済の私の見方が悲観的過ぎるのでは」と指摘をされた。読者の多くは、「一年前に会社を潰したため、悲観的に なっているだろう」と予感をしていたが、案の定。その指摘に対して、「自分の事業の資産デフレと価格デフレの実情を実際に見て、 右下がりの移動年計グラフを10年間にわたって見てきた裏ずけがある。世界の株価の総額が4千兆円というが、その十数倍=6京円の 不良債権が銀行、企業、政府の金庫の中に隠されている。これは、何かのキッカケで現れ出る日がくる。私の事業に早めに来たので、 会社をたたんだが、これから世界恐慌というカタチで、大荒れになるのは当然の理。決して、悲観的過ぎないと・・ 日本政府の財政を見れば分かるはず、この有様をみて、悲観的に思わないほうが変である。」等々、の話になった。 フランスも、ギリシャも、今回の選挙で、国民は緊縮政策に「ノー」の答えを出した。 綺麗事をいい国民におもねいた野党の毒入りの 饅頭の政策に傾いてしまった。それと現在の民主党と自民党の一部の連中の、囁きは同じ。 10年前、5年前に、現在の事態を予測して、 警告を発した人は、当時は変人扱いをされていた。5年先から現在に戻ってきて、警告を発したら、私が言い続けてきたことなど、 大甘の論になると確信している。5年後は世界恐慌の渦中にあり、銀行閉鎖とか、食料の配給もありえる話。5年前、リーマンショックや、 東北大震災と原発事故を想像できただろうか。両者とも、500年とも千年に一度の大事件である。目先の応急処理で平静を保っているが、 株式の大暴落やハイパーインフレなど大クラッシュが起きて当然。 リーマンショックという大地震は起きてしまったのである。 その後の津波は1〜2年以内に押し寄せてくる。ただ、時間の問題でしかない。地方経済は半値八掛が現実。現場は沈黙しているが。 ところで移動統計グラフとは、月単位とすると、毎月、去年の翌月から今月までの年間の売上合計をとりグラフ化したもの。それをみると、 一年単位の趨勢が見えてくる。この右下がり傾向が10年以上も続いているのが地方の現状。 それで6〜7割減といえば・・ 一番先に現れるのが駅周辺のホテル、居酒屋、タクシー業界。 さらに携帯、パソコンなどの情報化が、消費者のシビアな選択を加速、 競争を激化させている。その結果としてデフレが拍車。この中で供給サイドの体力は大きく削ぎ落とされている。 悲観的になるわ〜 ・・・・・・・ 3701, ジャズについて −2 2011年05月14日(土) ー 三枝成彰著「音楽の本」より 【 * スピリチュアル、ブルース、ラクタイム……ジャズのルーツは黒人音楽。 ニューオリンズのブラスバンドだけがジャズの 母体となったわけではない。二百年にわたるアメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から自然に沸き起こってきた‘魂の歌’の営々たる 蓄積が、今世紀初頭にジャズという人種の垣根を超えた新しい大衆音楽として花開いた、ともいえるだろう。 そうした‘魂の歌’が、ワーク・ソング(労働歌)であり、スピリチュアル(黒人霊歌)であり、ブルースだった。 ワーク・ソングとは、その名の通り、長く単純な肉体労働の最中、少しでも気を紛らせるために、あるいは仲間主体となって その苦行を乗り切るために歌った歌のことである。リーダーが即興で一声うなると、それ応じて全員がコーラスで応じるスタイルだった。 これは、たとえばかって日本の酒つくりで、極寒の酒造りの中で杜氏たちが作業中に歌った‘元摺り歌"などにも通じるものがある。 ワーク・ソングはなにも黒人特有のものではなく、世界のいたるところでかつては見られた労働者の風習だったといえるだろう。 スピリチュアルは、西洋キリスト教の賛美歌などに影響を受けた黒人独特の宗教歌で、これは教会音楽を経由し、ゴスペルという形で 現代に継承されている。 ブルースについては、他のページでも融れるが、奴蒙の身分から解放された黒人ひとりひとりが、差別や貧困に苦しむ私生活の哀歓を 個人的な感情を込めて歌ったものといっていいだろう。そして、そのブルースが持っていたミとシの音撰半音下がる「ブルーノート」と 呼ばれる音階構造は、とりわけジャズの発生に大きな影響を及ぼした。 また、黒人とクレオールの融合は、ラグタイムというリズミカルな音楽を生んだ。ラグクイムはクラシックと同じように楽譜遍りに 演奏されるピアノ音楽で、即興性を大切な要素とするジャズとは直接の共通点はないが、十九憧紀後半から二十世紀初頭にかけて 流行した音楽で、これもまたジャズの源流となった音楽の一スタイルであることは間達いない。いずれにせよ、一方には 黒人の魂の歌やリズムがあり、他方には、クレオールからもたらされたといってよいラグタイムとブラスバンドがあった。】 ▼ ジャズのルーツはブルースやワーク・ソングなどの二百年にわたるアメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から沸き起こってきた ‘魂の歌’の営々たる蓄積が背景にあると知って聞くと、また違って聞こえてくる。特にブルースが、ジャズの発生に大きな 影響を及ぼしていると、この本で知った。ジャズに奥底には、黒人の差別と貧困の長年の哀歓がある。 その辺を捉えて聴くと、今まで何気なく聴いていたリズムの奥にあるスピリットを少しは感じるようになった。 ・・・・・・・ 3336, 2010年6の月、500万人が夜逃げする 2010年05月14日(金) 昨日の朝の書籍の新聞広告をみていると、「2010年6の月、500万人が夜逃げする 」ー水澤 潤著 が目に入った。 (以下、字数の関係上カット2011年5月14日) ・・・・・・・・ 2961,300人のディナーショー 2009年05月14日(木) 昨夜、地元の長岡駅近くのグランドホテルで福沢恵介ディナーコンサートに参加してみた。前夜の知人と福沢恵介さんとの ガーデンパーティに招かれ楽しいひと時を過ごし、是非参加してみたくなったのである。 私らしからぬことだが・・・ これもライフレッスン!9割が50歳〜60歳代の中年の女性で、一割が和服姿。隣に昨夜、一緒だった同級生の席。 私の顔見知りが数人はいたが、ほぼ見知らぬ人ばかり。ところが、隣席の同級生が、あれは何処どこの誰、これは誰と教えてくれると、 正しくディズニーランドにいるよう??。歳をとってきたせいか、面白おかしく姿を正視することができた。 オバサンの ファッションショーの趣きも! 武士の紋付・袴には胸に二つ、背中と袖に三つ家紋が付いていたが、あれは正しく家を 背負っていることを意味していた。 それと同じことが現在でも罷り通っているようだ。 家に縛られた閉鎖社会である。 同級生に「あんたも、大変だね。こういう社会で商売をしているのだから。よくノイローゼにならないね」と思わず言ってしまったが。 「いや、これが長岡。外部の人が長岡では中々、仕事をするのは難しい」とか。コンサートは、福沢恵介さんのギターの弾き語りで、 熱のこもった素晴らしいショーだった。一人で300人の観客を自分の歌の世界に引き込むのだから、大変な仕事である。 ところで、同じテーブルの前の席の女性二人、歌っている最中に平気でオシャベリをしていた。私に睨みつけられても、 隣の女性に「注意」されても、平気で話し続けていた。何処かの老舗の??。歌の半分は彼女らの声のバックグランド。 途中から慣れて気にならなくなってしまったが、家内に聞いたら、かなり酔っていたとか。 まあ、ディズニーランドだから、 それもご愛嬌だが、オバサマは凄い。この二日間は、普段は経験できない楽しい貴重な体験をしてみた。 ・・・・・・・・・ 2597, みんなのたあ坊の哲人訓 ー1 2008年05月14日(水) 「みんなのたあ坊の哲人訓」さんりお 辻信太郎著 ー読書日記 図書館で見つけた小型版の絵本のような本である。子供向けに サンリオの社長が選び抜いた言葉と、割り切ってみると 違った風合いがある。どれもこれも、耳にこびりついている言葉だが、子供向きにと思うと改め新鮮に思える。 何を今更というより、子供に道理の一部を伝えようという気持ちが伝わってくる。 今日は、100のうちの50までの印象に残った言葉を書き写してみた。 この中でも一番、好きな3つの言葉は 「虹だって15分続いたら人はもう見向かない」(ゲーテ) 「失敗の最たるものは、何ひとつ失敗を自覚しないことである」(カーライル) (以下、字数の関係上カット2,010年5月14日) ・・・・・・・・ 2007年05月14日(月) 2232, しお壷の匙 ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ 車長吉の本の評価は、それがどうした?とみるか、驚きの目でみるか?二つに分かれる。 私は「で、それがどうした?」という視点が強い!内容は事実をそのまま写生的だが、 何処にでもある話である。 人はそれぞれの人生を生きているのである。 ー面白そうなところを抜粋してみた。 (以下、字数の関係上カット2,008年5月14日) ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
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2014年05月13日(火)
* ボケか? 先週の土曜日、親戚の法事で駅まで歩いた後、タクシーに乗って寺まで行ったが、誰もいない。そこで、住職の自宅 玄関で聞いたところ、翌日の間違い。その前日、もしかと思い、案内を見直して日曜日と確認したが、その勘違いを確認した ことも忘れてしまっていた。 こういうのが呆けの初期症状? 家内に厳しい冗談?で、「施設に入れなくては!」と、 馬鹿にされ「他人に言わない方が良いよ」とまで、言われる始末。 それにしても、ハガキを見直しても、間違えてしまう 迂闊さに、我ながら信じられない思いである。帰り道、履き慣れない靴のため靴擦れの脚を引きずりながら、反省のため 30分の道のりを歩いて帰ってきた。 休憩のため駅東のマックに入ってハンバーガーを食べたが、それが何ともいえない味。 緊張感欠如だろうが、後々考えたとき、これが、ボケの始まりだった、でなければよいが。 * カラオケは、森の生活だからこそ? スナックに行っても、カラオケをほとんど歌わなくなった。店内に客が連れと二人だけでも、歌う気がしないのである。 やはり仕事の憂さとか、張り合いの中でこそ、歌に張りも気持ちが入るというもの。ゴルフはやらないが、これも現役時代 のプレーが、定年後より遥かに面白いとか。 年齢もあるが、秘境ツアーも以前ほど行きたいと思わない。これも、仕事の 合間に何とか都合をつけて、浮世のストレスを秘境旅行のストレスで消すからこそ張り合いがある。 今は今の楽しみが あるのだから、それは、それで良いとしなくては。 * カラスの糞かけ またまた偶然の一致だが、法事から帰ってきた玄関で、カラスの糞が、目の前50センチ前に落ちてきた。 これまで、一度は命中、あと一度が、以下の前年の同月同日に書いたのを含めて、三度目になる。 それより、よりにもよって一年前に書いていたとは面白い偶然である。 私には、この手合いの偶然があまりに多い。 その瞬間、「今回は、カラスに狙われた」と直感したが・・。 最近、一羽のカラスがペットのインコの鳴き声に惹かれて、 自宅の周辺に屯している。何か、法事とか、葬式に、よく起きる不思議な現象の一つ?だろうか。ー以下をご覧あれ!ー ・・・・・・ 4440, 閑話小題 ーカラスの糞かけ 2013年05月13日(月) * カラスの糞かけ 数年前になるが、自宅近くを自転車に乗っていた時、カラスが低空で私の二mほど先に糞を落としていった。 問題は、これは果たして私を狙ったのか偶然か、毎朝近くを通る度に考えたことがあった。 ところが、一昨日の朝日新聞の朝刊のコラムで、四コマ漫画の「ののチャン」が、専門家に質問する形式で、 「カラスの糞かけは、意図したものかどうか」を取り扱っていた。よくあることだから、取り上げたのだろう。 答え手は、「あくまで偶然で、カラスにとって何ら利益にならない」と、ゲーム説や、カラカイ説には否定的だった。 専門家といっても、私のように三十年以上、毎朝、散歩やミニサイクリングでカラスを観察していた訳でない。 で、私はゲーム説である。 長岡大橋の手すりで、カラスが5羽並んで私が自転車の通りすがりで至近距離に近づいても 逃げない「度胸ためしゲーム」をしていたことを、ここで書いたことがあった。また散歩中の小型犬を、至近距離で、 威嚇して遊んでいるのを見たことがある。犬の飼主も、それを面白がって見ていたが、明らかにバカにして遊んでいた。 話は変わるが、昨日の午後、帰宅をすると、隣の空地で5羽のカラスが入り乱れて空中戦をしていた。よくあることだが、 昨日は違っていた。その二組が同時に地上で激しい乱闘を始めたのである。初めは車内で見ていたが、決着がつかないので、 車庫に車を入れてから門の角から隠れてみていたが、その間7〜8分。鳴き声を聞きつけた他のカラスが数羽が駆けつけ、 騒然とした中での激しい乱闘はなかなか見もの。上下に体勢が入替わり互いの身体をワシヅカミしてツツキ合っていた。 よく再び飛びたてたもの。身体からみて若いカラス同士の縄張り争い。最近、一羽が我家の庭に度々来ているが、 その中の一羽だろう。
・・・・・・ 4066, つれづれに ースポーツジム、その後 2012年05月13日(日) * スローヨガ このところ、スポーツジムのスローヨガに参加している。連続参加が勘違いで14回で途切れたが、これまで18回参加した。 ヨガのポーズは腰と背骨の矯正に絶好である。大よそ30〜40人が参加しており、火・木曜日の午後の週二日である。 平日の午後、これだけの人数が一同、暗闇の教室でヨガをするのも奇妙な感覚である。慣れるのに7〜8回はかかったが、 慣れてしまえばしめたもの。60×120センチのマットの上で色々のポーズをとるが、ヨガの先生曰く、「ヨガでは、 このシートが全宇宙と思って、自分独りと思って下さい!」 一回、50分だが、あっという間に、時間が過ぎてしまう。 始まると周囲の人が意識から消えてしまうのがよい。 シートの中の自分と先生の世界が、それぞれ出来てしまう。 ところで、 専門のヨガ教室だったら幾ら?と値踏みをしてみたが、一回、千円の価値は充分ある。 週二日、月に6回(二回、休む?)として 6千円になる。 これだけでSJの会費の元が取れることになる。時間帯もあるが、9割が中年女性である。 * 昨夜は、新潟で飲み会 何?から一年以上経ち、そろそろ蟄居閉門も明けつつある。とはいえ新潟駅前で事業をしていた手前、会場は敷居が高い地区。 一般債権が無いが、気分的には近寄り難いことは確か。「あの野郎、沼垂で赤ら顔をして飲んでいた」と、言われそうだが・・・ 27〜8年前に、月刊雑誌「到知」に惚れ込み、新潟市周辺の愛読者の同好会「木鶏クラブ・新潟支部」を立ち上げた。 私自身は12年ほど前から、会から遠ざかっていたが、現在でも続いているが、有難いことである。最後に行ったのが 一昨年の忘年会、去年は時が時だけに一年の喪?が明けた今回、参加した。その前に、新潟駅構内にある家電のジョーシンと、 ビックカメラに行寄ったが、土曜日もあって客で溢れていた。 長岡と新潟の勢いの差は駅に出るが、あまりに大きい。 泊まろうと思ったが、22時半の最終新幹線で帰ってきた。 昔の仲間との邂逅は良いものだ。 * 自転車専門大店 昨日、新潟駅近くのイオン直営の自転車大店に行ってみた。100坪位の店舗にビッシリ自転車が並んでいたが、やはり 電動アシスト自転車が主流。 開店直後で、まだ軌道に乗ってないようだが、時代から見て時間をかければ良くなるはず。 まだ価格帯が10万円あたりだが、4〜5万円が爆発的に売れる分岐点だろう。 店長曰く、「電気代が月に20〜30円」。 一回分なら分かるが、こんなに安いとは知らなかった。電動アシスト自転車に乗って二年半になるが、本当に良いと実感している。 道具一つで、自分の生活圏の広さが全く変わってしまう一事例である。ヨガもそうだが、ポタリングを習慣にしてしまえばよい。 ・・・・・・・ 3700, ジャズについて −1 2011年05月13日(金) ジャズ1000曲がパソコンに入ったため、常にBGMとしてジャズを聴こえてくる。これに慣れると、もう無しには いられないから不思議。そこで、ジャズとは、そもそも何?と知りたくなって本棚をみると、三枝成彰著「音楽の本」があった。 そこに丁度、私が知りたいことが、そのまま書いてあった。 面白いものである。 【 「黒人の民族音楽と白人のヨーロッパ音楽とが融合し、その結果、黒人を中心としたブラスバンドから生まれたポピュラーミュージック」 「遅れて拍子を打つ黒人独特のバック・ビート(四拍子の一拍目、三拍目におくアクセントを二拍目・四拍子目にずらして演奏する)を リズムに持ち、即興演奏を生命とする音楽」 ジャズという音楽を簡単に説明すれば、こういうことになるであろう。 さて、そのジャズは二十世紀の初頭、アメリカ南部の港町ニューオリンズで生まれるのだが、ここは十九世紀はじめにアメリカが 購入するまで、スペインとフランスが交互に統治していた地域だ。そこには、フランスやスペインの白人と、西アフリカをルーツとする 奴隷として連れてこられた黒人、そして、その混血である「クレオール」が生活していた。 クレオールはおしなべて教育水準が高く、ヨーロッパに留学をしたり、ビジネスで成功するなど、ニューオリンズではエリート層に 入っていた。ところが南北戦争を受けて奴隷を解放せざるを得なくなった南部白人層の不満は、黒人ばかりかクレオ一ルへも向けられ、 クレオールも人種差別の対象となる。 一方、ニューオリンズの黒人たちは、奴隷解放後、主に音楽に仕事を求めた。南北戦争に敗れた南軍軍楽隊の楽器を古道具屋で 安く手に入れた彼らは、祝祭パレードや葬儀の行進などで演奏するブラスバンドとして活躍。とりわけ、葬儀の際のブラスバンド行進は、 ニューオリンズ名物として伝説化されている。埋葬へ向かうときには悲しげな曲を、墓地から戻るときには死者の魂が天国に 迎えられるように明るい曲を。ジャズ史上最も有名な曲の一つである「聖者の行進」は、そんな時代に生まれた曲だ。 こうしたブラスバンドには、どのグループにも何人かのクレオールがいた。白人社会から締め出された彼らは、同じ被差別層である 黒人たちと一緒に仕事を始めたのである。音楽の素養があるクレオールは、楽譜の読めない黒人に西洋音楽の技法の手ほどきをする。 黒人はアフリカの祖先から脈々と受け継がれている生来のリズム感覚を持っていた。それが融合し、ジャズの生まれる下地が できあがったのである。「ニューオリンズ(ディキシーランド)−>スウィングー>ビパップー>クールー>ハード・バップー>フリー」 これがクラシックの歴史を振り返ると「バロックー>古典ー>ロマンー>近・現代」といった流れで見るように、誕生から 百年を経過したジャズのスタイルの変遷も、こうした流れで見るのは一般だ。 】 ▼「ニューオリオンズ」という地域と「黒人」、そして「クレオール」という人種に行き着くのである。 20世紀の初めの頃、怪しげな下町の酒場で、即興として、古道具屋から安く手にいれた黒人たちがバック・ビートのリズムで始った。 あのアルカポネの時代に全米に、それが瞬く間に広がっていった。やはり、その背景を知っているといないとでは・・ ・・・・・・・・ 3335, 閑話小題 ーつれづれなるままに 2010年05月13日(木) * ゴールデンウィークの異変と、連休明けの異変 このゴールデンウィーク、道路も街も賑っていたが、この5〜6年で様変わりをした。10年前までは車の旅行客が夕方になると 殺到していたのが、ピーク3日間でギリギリ満室か9割がやっと。それも高校の剣道大会とバスケットの大会がベースで 一棟埋まっていた上で、これである。不景気もあり消費者が合理的になったのである。 その行動パターンのケースとして ・連休の間に日帰りを二回するとか、一泊で四国まで行って来たとか、高速道路の料金千円をフルに利用するもの。 ・東京まで早朝のバス代2500円×往復で5000円で行って来たとか、周辺ではいかに安く済ましたかが話題の中心。 それがブログやツイッターで話題になれば、直ぐに伝わる。 これも恐慌と情報化の影響である。 ところで毎年の恒例で、連休明けに一時的だが宿泊が減る。さらに6月に入ると二段目の落ち込みになる。 覚悟をしていたが、今回も予測どおりの落ち込みである。 数年前の、このブログにも落ち込みの現象を書いているが、 それが、ますます大きくなっている。 年末年始明けと同じような数字だから恐ろしい限りである。 * 民主党のおぞましさ 思わず現政権の官僚の言葉に耳を疑った。一国のトップが外国と約束をした「5月末までの決着」を、 ここにきて「延期」と言い出したからだ。 国際間で、それが通ると思っている無知・幼稚さに、ただただ呆れる。 これからみても政権末期である。これまた、一年も政権維持が出来ないことになる。これで4人連続である。 鳩山首相も、血筋も知性?も一級だが、やはり政治は阿修羅の世界で一寸先は闇の世界である。 長年かけた アメリカの実質日本占領下で出来てしまった体質の中では、思い切ったことが出来ない事情もあるが。 * 「Youtubeが面白い」のに気づく 息子に「Youtubeが面白いよ」と言われてから一年以上経つが、殆んどみることがなかった。 ところがデジタルビデオカメラを購入しアップをキッカケにして時々見るようになったが、これが面白い。 それより、自分が現実にアップして初めて注目をするのだから、頭が固くなってしまったということ。 特にペットとか、動物の世界の思わぬ出来事の遭遇の映像には驚いてしまう。 これまではTVで、月に一度位でみた衝撃映像が、ここでは幾らでも出てくる。 情報格差も大きくなるわけだ。 ・・・・・・・ 2960,藤を見るかい 2009年05月13日(水) 「藤を見るかい」の招待を受けて、昨日の17時過ぎに長岡郊外の友人の別荘に行ってきた。 (字数制限のためカット 2010年5月13日) ・・・・・・・・・ 2596, 金融鎖国 2008年05月13日(火) ー読書日記ー (朝´∀`){♪Good Morning♪} 「連鎖するドル大暴落」「ドル覇権の崩壊」の二冊を立て続けに読んでショックを受け、 それでは、その著者が以前に書いた本が、何処まで当たっているか見てみようと、 「金融閉鎖」と「日本壊死」を図書館から借りてきた。そして、その7?8割は当たっていた。数年前に本屋で手を取ってみたが、 気になってはいた本であった。読めば読むほど、先行きに対して不安になってくる。やはり、その2008年になったのである。 石油が120ドルという、とてつもない暴騰をし、世界経済が根本からおかしくなり始めたのである。 穀物や油が高騰を続ければ、世界経済は大混乱をするのは時間の問題である。物は売れない、原価は止めの無い高騰。 企業は成りゆかなくなり、倒産、そして失業者が溢れかえる。資源を狙って隣国同士が戦争とマイナスの連鎖が続くだろう。 現時点では、金融閉鎖は無いにしても、アメリカのドルの暴落、債権の暴落等で金融鎖国的の事態もありうるというのも肯ける。 悲しいことに日本は、その直撃を受けるのである。 ー概略をまとめてみたー 「金融鎖国」ー日本経済防衛論 副島 隆彦 (著) (字数の関係でカット 09年05月13日) ・・・・・・・・・ 2007年05月13日(日) 2231, 男は女のどこを見るべきか (ヾ(´・ω・`)ノオハヨウ(o´_ _)o)ペコッ ー岩月 謙司 (著) ちくま書房 「女性は男性のどこを見ているのか」の著者・岩月謙司の女性論である。こういう女性論は探せば幾らでも在りそうだが、 比較的少ない本である。彼の論によると「男は女をあまり理解していないが、女の方は逆に男と較べると段違いに 理解していて、理解できないのは、男の強い性衝動位のもの」という。男と女の違いより、共通していることのほうが多いが、 極限状態のときに本質的な違いが浮かび出るという。雄と雌でしかないのを、割り切ってしまえばよいが、 割り切れないから面白いドラマがあるのだろう。 ー概略をまとめてみるとー 女性の思考法の特徴を 1、自分の快・不快でものごとの善悪を決める ー女性が感じる快は、自然の法則に合っていることが多いが・・。 2、社会的配慮が苦手ー自分を守り、自分を愛してくれる人が一人いれば社会を敵にしてもよい 3、二分法的な発想 ーゼロか100かという二分法の発想 4、数の論理 ー「みんながしている」という数の論理で動いている、それで安心してしまう このような発想で生きていると、多くの人から愛される人間になり、結果として、 愛を多くため込むことになります。女性は「愛の貯金箱」にたとえる事が出来る。 人を愛するということは、 「人の悦びが我がことのように悦び、悲しみも我がことのように悲しむことです。 人の幸福を願い、不幸を悲しむことです。」 慈悲深い人になるのです。その愛情の大きさは、男の数十倍?数百倍もあるのです。 男とは桁が違うのです。それ故に、素敵な女性は女神であり、慈悲深い天使です。 ・男性は理論から感情を構築し、女性は感情から理論を構築する傾向にある。その感情も小さくできており、 大きな感情を理解できない。大きな感情を持っている人は、小さな感情は理解でたとしても、 小さな感情の人は大きな感情の人を理解できない。だから始末の悪いことがある。 ・気まぐれ(個人的感情)による約束反故は(彼女らにとって)正当な理由になる。 (字数制限のためカット 2010年5月13日)
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