堀井On-Line



4800,年金破綻報道の罠 ー②

2014年05月06日(火)

               <世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> ー細野真紘 (2014年の論点100)
   * 基礎年金と、厚生年金と、老後の預金
 あくまで年金は老後生活の資金補助の位置づけ、とは知らなかった。まず、老後の預金に、基礎(国民)年金が加わり、
最後に厚生年金が加わる。これを40年にわたって、かけてきたかどうかで、既に老後格差が、ついてしまっている。
父親の代から、連れ合いに別立てで給与を与え、健康保険と厚生年金をかけるのが当然のように行っていた。それは、
私の知識・知恵ではない。  ー以下の部分は、年金を分かりやすく要約してあるー
《 ◎ まず国の年金は、大きく2種類があるのです。 1つ目が「自営業者」の「国民年金」です。中小業者は定年が
 ないため、60歳以降も収入を得ることができます。そのため、年金をもらうための保険料は(会社員などと比べると)安く
 なっていて、給料を預貯金に回せる割合が多くなっています。その老後にもらえる「国民年金」は満額で月6万6千円程度。
 つまり「自営業者」のための「国民年金」は、「弁当」でいうと保険料を安くして、老後は最低限の「お米」だけ
 もらえる位置づけで、「おかず」については60歳以降に働いたお金で買ったり、それまでの貯蓄で買ったりできる。
◎ その一方、「会社員」の場合は定年退職のため、定年以降は、収入を得ることが難しくなってしまいます。
 そのため、会社員の場合は、現役時に(自営業者よりは多めに保険料を払うことで、国から「厚生年金」を死亡するまで
 受けとれることになっているわけです。これは「弁当」でいうと、会社員は定年があるので、現役時に(自営業者より)
 多めに保険料を払い、引退後に死亡するまで、国から「おかず付の弁当」をもらえるようにするものなのです。
 その「厚生年金」は月16万円程度となっています。合計で22〜3万になる。ちなみに、公務員の場合も会社員と同じ定年制
 になっているため、「共済年金」は「厚生年金」と同様に「おかず付の弁当」となっています(厚生年金と共済年金は
 分ける必要性が乏しいため、一元化する方向に向かっています)。
◎ 今では日本は「世界一の高齢化率」で、世界で最も65歳以上の割合が多い国となっています。そして、国の年金制度は
 仕送り方式なので、「将来は年金がもらえなくなる」という声がよく聞かれます。
 そこで、「現在の少子高齢化で、年金は破綻する」という論を考えてみましょう。まず、日本も含めて世界の先進国では、
 基本的に国の年金は、個人が自分のため蓄える「積立方式」ではなく、現役世代が高齢世代を支える「仕送り方式」です。
 そのため、テレビなどでは図表を使い、もっともらしく"年金破綻論"が展開されている。「今の年金制度は仕送り方式で、
 2010年現在では現役世代2・6人で高齢者1人を支えている騎馬戦型が、高齢化のピークの40年後には現役世代1・2人で
 高齢者1人を支える肩車型になる。こんな仕組は破綻する!」 これは一見、、もっともらしく思えますが、実は単純な
「ひっかけ問題」にひっかかっています。まず、国の年金制度は「仕送り方武」ではあるのですが、この「仕送り方式」にも
「ひっかけ問題」が潜んでいて、多くの人は「これまでの保険料が、すべて高齢者の年金に支払われている」と錯覚している。
 ただ、現実に、そんなことになってなく、かっての現役世代が多かった時の保険料については、きちんと今後の年金の
 支払いに備えて国が「年金積立金」として保有してあるわけです。そして、なぜ日本ではこのように極端な人ロ構成に
 なっているのか、というと、「団塊の世代」の存在などの特殊要因があるためで、そのため「年金積立金」も世界一の
 水準にまでなっているのです。さらに年金の財源は、保険料だけではなく、あくまで「国の保険の仕組み」なので、
 財源として「税金」も入っているのです。 》
 ▼ ネットで積立残高を調べてみると120兆円あったが、問題は多くが日本の国債にばけていること。また、年金支払に
  税金も含まれていることは、全く知らなかった。だから、さほど心配する必要がない? 私の場合、家内も厚生年金に
 40年近く入れていたので、合計で税込で350万(税抜きで300万余り)。持出しが家内の預金から年間で??万に
 なるが、地方もあって生活には不自由はない。欲しいものや、旅行も、外食も、現役時代に十分、楽しんだため、
 TV番組で追体験をしながら見ていれば充分。 中小企業者や個人営業の場合は、別立て預金は当然のことで、敢えて
 言うことでもはない! でも、周辺で、してない人が多い? また、保険屋と証券屋に騙されていたことすら気付いて
 いない? 他人事ではないが。 今さら年金の話題に熱中するようじゃ、B層もいいところ? まあ、面白いが!
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4433, 閑話小題ー次のグーグルの新製品が面白い
2013年05月06日(月)
   * 次のグーグルの新製品が面白い
 ニュースでグーグルの次世代端末「グーグルグラス」を紹介していたのをYoutubeでみたが、これは面白い。
メガネのフレームの上部だけの柄に超小型カメラがつけ、視線が、そのままネットの生中継で世界に配信される。
見知らずの人の視線が、そのままリアルで見れる面白さは格別。これは視覚のツイッター。「カメラ、ビデオ」と発音すると、
その機能が立ち上がり自動撮影するという。 これをグーグル・アースに繋げると、アフリカや南米のある地域をクリックし、
見たいシーンを打ち込むと、誰かの目線が現れ出てくるのだろう。ジンバブエのバンジージャンプが見たいといえば、
飛び降りる画面を生で見ることも可能に? 日本橋三越本店の客か、店員の目線のアクセスも可能になるはず。
日本で売り出されるのは来年辺りだろうが、これが当たり前になるとしたら、まさにSF世界。 いや現在もそうか。
他のメーカーも、こういう類の情報端末が出してくるはず。情報端末の進化は止まることはない! 良いのか悪いのか?
   * 何歳まで生きたいですか?の質問に
 ある調査で、「あなたは何歳まで生きたいですか?」の質問に、
60歳未満が8・5%、70歳未満が15・1%、80歳未満が31・1%、90歳未満が54・1%、100歳未満が60・9%、
百歳以上が僅かに9・3%という。更に150歳以上は6・5%。私なら、90歳未満と答えるが、酒の飲み過ぎで無理。
それにしても意外な結果。神様がいたとして、「幾つまで生きたいのですか?希望を重視しますから」と問われたら、
やはり90歳と答える。「寝たきりでも良いですか?」と問われれば、躊躇する。元気が前提、いや絶対条件になる。
死ぬまで10年間は、何らかの形の介護を要するというから、80半ば? これだけ面白い情報が手軽に入手できる時代、
出来るだけ長生きしたいが、「生老病死」の苦痛を考えるとどうだろう? 不摂生もあり、せいぜい7〜8年か。
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4059, つれづれに ーネット社会の現在
2012年05月06日(日)
  * 飲食店の漫画の棚 ーデジタル本の世界
 喫茶店や中華料理店のランチの楽しみの一つに、本棚の週刊誌か月刊誌を読むことがある。 最近、店内に入ると、
iPhoneかiPadで、その店が契約したネット上の本棚にアクセスして色いろの雑誌を読むことが出来るという。
店は一月7000円を業者に支払えば店内のネットで雑誌が見放題になるとか。よく考えるものである。 
前回、70冊の蔵書をデジタル化にするため業者に依頼したが、先日、久々に、そのHPを見たところ、デジタル化した本を
月980円で見放題のサービスを始めていた。 漫画が中心とあったので、契約はしなかったが、これも面白い企画である。
現在、私が契約しているのは、朝日新聞のデジタル版と、朝日、毎日の週刊誌など数十冊が読めるビューンである。
朝日のデジタル版は月1000円の加算。ビューンは月480円。 もちろん有料でアクセス出来るブログがあるが、
写真集のデジタル本に有料でアクセス出来るのがある。幾つか買ってあるが、次々に更新されているのが良い。
  * スマートフォンと、タブレット
 現在、スマートフォンが爆発的に売れているという。iPhoneが初めて売り出された時に買ったが、画面が小さすぎて、
インプットに戸惑って使いこなすことが出来なかった。そこで学んだことは、二代目以降の機種変更になってから購入すること。
それもあってiPadは、二代目のiPad2になってから買うことにした。スマートフォンが爆発的普及は、携帯電話が
世の中を変えたように、世の中を更に大きく変えるだろう。 それはゲームや、ブログ、ツイッターなど書き込みや閲覧の
端末にも使える。小ささが逆に便利な場面で有効になる。電車や、車の移動とか、昼休みに何処にでも持ち歩けるからだ。
何ども書いているが、現在、普通の携帯電話とiPadを使い分けている。 PCは居間のTVの前と、仏間の書斎コーナーに
iMac一台ずつ、とiPad、合計三台を使っているが、その使い分けのバランスは非常によい。 これに読書とTVと、
ペットのインコとくれば、お宅そのもの。図書館と、スポーツジムと、早朝のポタリングと、週二日の近くの店のランチで
息抜きをしているのが日課。 これまでのスリルとサスペンスのストレスが少ないのが、逆にストレスである。 
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3693, 自己を見つめる −15
2011年05月06日(金)
  * 幸福について (不幸について) ー2      「 自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
【 不幸は、その出来事の客観的説明の当否のいかんを越え、また、その人の主観的資質の鋭敏さの度合いのいかんを越えて、
その人に、いやおうなく襲いかかる絶対的事実である。 不幸は、その人の時間的歴史的な人生遍歴の過程のなかに突如、
痛苦を与える刑罰として立ち現れる、不可抗的な不倶戴天の敵である。不幸とは、その人を根底から震憾させる苦悩の化身である。
そうした不幸は、この世の中のいたるところで、不運、事故、災難、災害、病気、心痛、貧困、労苦、不遇、虐待、軋礫、失敗、
挫折、対立、不和、紛争、戦争などの種々様々な姿において、たえず出現の隙を窺っている悪夢である。したがって、不幸は、
ものの見方を変えることによって、消去したり、転換したりすることのできるような、たんに主観的な事柄では断じてない。
それは、深刻な苦難として、この世の中に、乗り越えがたい障壁の姿で、厳然と存在する。それゆえに、こうした不幸においては、
何よりも、その出来事が、その人にとって、この上なく不当で、許し難いものとして感受されるという点が大切である。
なぜ、自分は、このように、辛く、苦しい、耐えがたい悲惨や屈辱や困難を課せられねばならないのか、どうして、自分は、
このように、見捨てられ、罵倒され、除け者にされ、迫害される憂めに会ねばならないのか、と、いくら自問しても、
その理由が分からず、ただひたすら、苦悶し、絶望するところに、不幸と苦悩の本質があるのである。
そのことは、旧約聖書のヨブ記のなかに典型的に示されているとおりである。善人のヨブは、あるとき、理由もなく、
身の毛もよだつような苦難と不幸のすべてに襲われ、ついに、ヨブは、神を呪うほどの絶望と絶叫のなかに陥ってしまう。
こうしたヨブの心境こそは、この世の不幸と苦難に逢着したすべての人間が抱く感懐であり、苦悶であろう。・・・】
 ▼ 人の間で生きている人間は、他者と自分とを比較し、色々憶測する傾向を持つ。 従って、大小種種の、不平不満、卑下慢心、
 確執や争いが、あらゆるところに、絶え間なく起こる。 それは絶えず、出現を窺っている悪夢であるが、一度、檻から出たら、
 本人とて抑えることが出来ない猛獣として暴れまわる。それが他虐になり、次に自虐として、深手を負うことになる。
 ニーチェが度々引用したように「難破しながらも、よく航海したものだ」と授戒することが出来た人なら、直ぐに次の新たな
 取り組みをすることができる。 しかし、意志薄弱者は、ただ恨む対象を探し、そこに執着し前進が出来なくなる。
 その辺のことが理解できないのは、それまで生きてきた中で経験を消化してこなかったことに由来する。不幸は自分で招くこともある。
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3328, HPを開設、10年目!
2010年05月06日(木)
 一昨日で、このHPを開設して10年目に入った。旅行中も出発前に書きだめをして、会社の人に頼んで書き込んできたので、
ほぼ休んだことはない。 時どきスランプになるが何とか続けてきたが、書きあげる重要性が日ごと分かってくる。
一つのことを続けると、その習慣が自分自身になる。  ここまでくると、私の精神というより、魂の中核になる。 
HPではレポート用紙で15枚分までの字数の制限があるので、数年前から毎日カットせざるをえないが、身を削るようで辛い。 
それだけエネルギーが入っている。 第三者の目を意識しながら、自分の思いの倉庫(墓場?)として、その時どきの、
浮かんだ思い、習得した知識、面白そうな情報、潮流を書き出してきた。 あと一年で10年になるが、書きたいことは
書き出したつもり。 その時どきの時節のメルクマールとして、情報タンクとして非常に有効になっている。 
 また毎日、過去分の同月同日に書いた内容を読み返すことができるのが一番のメリット。
「書きだめをして何になるのか?」といわれても、返す言葉はないが、これが魂の中核なのだから、
中心点に向かって一日2〜3時間、気持ちを集中し続けている、それが全てである。絵、俳句など、それぞれ人によって違うが。
 まず文章のテーマを考え、情報を集めて、書いて、何度か修正するプロセスが考えるということ。
いま書いている文章の読者は、未来の自分であり、過去から現在にいたる因縁ある人であり、新たな因縁のある人。
文章を書き、それを公開するのは恐ろしいところがある。 自分を曝け出してしまうからである。 今さら、仕方ないだろう!
と、何度呟いたことか。 書き上げて、アップロードした瞬間に、見事なぐらいに内容を忘れてしまう。気持ちが入るほど、
そうなってくる。 したがて一年ごとに、その内容と出会うと、驚くことしばしば。 数年前の今日こんなことを考えていたのか、
こんな本を読んでいたのか、こんなことに出会っていたのか、等々に驚かされる。それは既に過ぎ去った過去の自分である。
(字数制限のためカット 2012年5月6日)
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2953,人はどうしてオヤジになるか? −3
2009年05月06日(水)
 * オバサン前段階のアラサーとアラフォー
   ―女の最後の輝く時ー
 最近、アラサーとアラフォーという言葉がマスコミ上で目に付くようになった。40歳前後の女性を指して
around 40を略してアラフォーという。日本的風土では働く女性は「仕事と結婚」の両立が大きな問題になっていた。
しかしこの世代は、男女雇用機会均等法のもとで社会進出を果たし、自由に選択できるようになった。
しかし、これが人生の転機を遅くさせ、大きな問題になっている。アラフォーはアラサーから派生した言葉。
アラサーとはaround 30を略した言葉で「30歳前後の女性」を指す。2005年の女性誌が使ったことから広まった。 
彼女らは90年代中頃にコギャル文化を体験しており、団塊ジュニアに続く世代区分としてアラサーを用いるようになった。
それに次いで登場したアラフォーの概念で、1964年から1973年に産まれた人となる。40歳前後は、オバサン化するか
どうかの瀬戸際である。もう一度女として花を咲かせるかどうかの?20年ほど前になるが、
ある大手の保険代理店の支店長が言った言葉が印象的だった。「女性の一番美しいのは40歳前後。
その年頃の女性は人生の分かれ道、何ともいえない色気が沸きあがっており、危ない時期でもある。 
彼女らとは塀の上で仕事をしているので、一つ間違えると塀の向こう側に落ちてしまう」そういえば、スナックなどの
アルバイト女性に、その頃の女性が目に付くが、なるほど色気が満ちている。しかし45歳を過ぎると同時に、
坂道を転げ落ちるのように変化するのも事実。 それにしてもアラサー、アラフォーとは、上手く命名したものである。
《そこのお嬢さん! 鏡ばかり見てないで(外装だけでなく)内装も手入れしておきなさい!》最近は、兄さんにも言えるが!
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2589, 日本の真実
2008年05月06日(火)
 「ドル覇権の崩壊」と「連鎖する大暴落」の警告が、あまりに当たっているので、副島隆彦の「日本の真実」を、
アマゾンで買って読んでみた。「日本はアメリカの属国、日本の支配者層は、その傀儡の売国奴でしかない!」と、
辛らつに切り捨てている。 また、そう直視すると見えない真実が見えてくる。角栄や栄作など、隷属国家の悲哀を
一番良く知っているのだろう。角栄と、福田赳夫がアメリカに呼びつけられて、ある人物に大声で怒鳴れれている
現場の生々しい話を聞いたことがある。二人が震えていた姿が痛ましかったとか・・・
しかし、その御陰で、アメリカ型消費社会を享受することが出来たのである。
その毒饅頭のおかげで、脳までやられてしまったのが現在の日本の有様である。
 ーまずは、その概要からー
「最高支配層だけが知っている日本の真実」  ー副島 隆彦 (著)
ー表紙裏の「著者からのコメント」が面白い!ー
 本書が提供するのは「日本の最高支配層の人間たちだけ」が知識と情報として占有し、隠し通し、一般国民には
絶対近づくことをさせなかった諸事実である。なぜ一般国民には大きな事実が知らされないのか?
その理由は、現在の世界覇権国であるアメリカ合衆国の属国群のひとつであり、しかも属国の優等生として卑屈極まり
ない現状にある私たち日本国の支配層の人間たちが、帝国からもたらせれる高度の情報と知識を独占することによって、
それら最高情報が生み出す価値を自分たちだけで享受し、そのことから来る圧倒的な優位性によって国内権力者層として
存在しているからである。だから、これらの秘密を公然と暴き立て、一般国民に知らせ、広めることが、私たちの日本国に
どうしても必要なことである。そうすることで、一方で帝国から常に脅され、脅かされている現在の惨めな彼ら指導者たちと
一般国民の間に壁が消えて、日本人が一致団結して、国難に立ち向かうことができるのである。 「編著者のことば」より
  ー目次   (字数制限のためカット 2011年5月6日)
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2007年05月06日(日)
2224, 自分の居場所ヽ         (★>з<)o○[ォハヨ]○o(>ε<☆)ノ    
 昔から、どの世界に行っても「自分の居場所のつくり方」は上手い方であった。 八人兄弟の末っ子と、商家の生活環境もあって、
大所帯の中で独りで自分の居場所を何時もつくっていたため。その条件が誰とも就かず離れずの間隔を幼児時期から身に着けていた。
人間は、両親との人間関係の相性が人間性のベースとなる。両親の愛情をたっぷり受ければ愛情に満たされた人間性になる。
両親の不仲の中で愛情が空回りになった子供は愛情不足になる。その不足を友人や恋愛相手に求めてしまい、
バランスが崩れてしまい、自己嫌悪になるケースが多い。その根本が、親への愛情に対する不平不満である。
愛情不足の人は、何時も自分の居場所に不安を感じとり、何処かに母の存在を求めて居場所の確保追われることになる。
(これは当人は気づいてない)その確保を探し求めても、所詮は虚構を求めているだけでしかない。
その解決は自分でしか出来ないが、「まあ、しょうがない!居場所は居直る心の状態しかない!」と自分の心の奥で悟るしかない。
  (字数制限のためカット 2014年5月6日)


4799,よくもここまで騙したな

2014年05月05日(月)

   「よくもここまで騙したな これが[人殺し医療サギ]の実態だ!
        ーいのちを奪いながら金を奪うワンワールド支配者」船瀬 俊介 , ベンジャミン・フルフォード (著)
 以下の内容紹介だけでも、この書の半分は言い尽くしている?あのベンジャミン。これぐらいでないと、面白くないが、
医者の世界では、今さらのこと? こういう視点も知っておいたほうがよい。
  ー内容紹介ー  〜医療を殺人ビジネス化した者たちよ! 化けの皮はすでに剥がれている!
◎ がん患者1000人殺して一人前!
◎ 日本の内科医は1人平均1000人のがん患者を殺している
◎ 命を奪う、カネを奪う!  医者は完璧に白衣の殺人鬼、白衣の詐欺師!
◎ 日本の近代医学はどこをほじくり返しても詐欺とペテンと強盗と殺人だらけ
◎ 欧米医療というのは基本的に軍隊の医療
◎ 足を切断や伝染病の治療には欧米医療はいいが、糖尿病とがんといった慢性病のときは絶対に関わらない方がいい
◎ 漢方も鍼灸も食事療法(ナチュロパシー)や整体療法(オステオパシー)も弾圧された
◎ マッサージもカイロプラクティックもサイコセラピーもホメオパシーも弾圧された
◎ 自然治癒力をサポートして病気を治す伝統的なテクノロジーは全部弾圧され、薬物療法だけが生き残った
◎ 伝統療法は、金融マフィアによって保険対象外にされた
◎ 強制的に保険料を取って、自分たちの息のかかった殺戮医療マフィアにだけおカネを回すシステム
◎ 医療の問題は上に行くとラムズフェルド、ブッシュ、ロックフェラーらに行き当たる
◎ 医者に金も命も投げ出す崖っぷち日本人よ! 今こそ、自分の脳を疑いなさい
◎ 薬漬け、検査漬けの放射線大量照射に生物兵器の毒物注入まで
◎ 抗がん剤は元々は廃棄に困った化学兵器の原料
◎ 失敗する医者ほど儲かる /治す医者は失業   ◎ 医療は世にも不思議な失敗報酬の世界!
◎ 一番高い抗がん剤ペグイントロンは1グラム3億3170万円する
◎ マイクログラムまで薄めて使っても1回当たり何十万円、利益率は何万%にもなる
◎ 白血病はがんではない。 団十郎を殺した!?マイロターグという白血病の治療薬は、1グラム4800万円
◎ マイロターグは投与した患者の90・5%が死ぬ!  
◎ 輸血は人命を助けていない、むしろ殺している!?
◎ お年寄りが死ぬとわかるとここぞとばかりに点滴、投薬をやる香典医療というのがある。稼ぎどきならぬ殺しどき!
◎ 「現代医学の神は、唯一人しかいない、それは死神である」とベストセラー書籍『医者が患者をだますとき』の
  著者ロバート・メンデルソンはいっている!  だから病院が営業停止中には死人が減る!?
▼ 少し?過激に思えるが、何度か目を通すと決して過激ではなく、こんなものと気づくはず。医者にすれば、見送りの
 手助けだが、患者からすれば殺人? 更に言えば、人間ドックや、健康診断が一般的に行われているのは世界で日本だけ。
  先日、週刊ポストの広告見出しに、ー「血圧147は健康値」の怪奇ーがあった。
《 人間ドック学会が健康診断の基準値を大幅に緩和。他に「総コレストロール199ー>254」「悪玉コレストロール119ー>
178」「中性脂肪149ー>196」など、》 「これを元に、それまで飲んできた薬は何なんだ?」の疑問が起きて当然。
この変更だけをみても「健康人」を「病人」にして、薬漬けにする利権の闇が見えてくる。医療行政と製薬会社の利益のため、
一般国民が弄ばれている図式が透けてくる。昔、父親が高血圧で何時も気にしていたが、当時、年齢プラス90が目安と言う。
ところが、5年前に医師から聞かされたのが130。『これも、いい加減なので』と、言葉を加えていたが・・ 
 で、健康センターで測ってみると125〜160の間で、平均すると140辺り。父から聞いていた数値からすると、私は158が目安。
140は少し高めだが、これで良しと思っていたが正解。これからして、医者は偉そうにしているが、詐欺、たかり、殺人集団?
・・・・・・
4432,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −4
2013年05月05日(日)
                  ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
   * ルート3:自分の小ささを客観視する道ー「1億7125分の1と、70億分の1」
 今度は、時間――宇宙と生命の歴史1についてである。世界の人口からみれば、私は70億分に1。宇宙年齢からすると、
人の一生は1億7125分の1の存在でしかない。そう考えれば、深刻に自分の生き様など考えることはない。その自分の枠組も
勝手な定義でしかない。自分など何ということはない。 やっと、それが理解できるのが最期の最期とくる。
 そのことが分からないから、「死ぬのが怖い」のである。 ー まずは、その辺りを抜粋してみるー
≪ すざまじく荒れ狂うひずんだ宇宙の中の、オァシスのような地球。光速で拡大することこそが普通である宇宙の中で、
 あたかも静かに見える特殊で局所的な世界。そこに偶然生まれた人の命。なんとはかなく小さく特殊な現象であることか。
生命の誕生は、今から40億年前といわれている。 地球誕生から6億年経った頃。 霊長類が誕生したのは、6千5百年前。
現生人類であるホモ・サピエンスが出現七たのは25万年前。 中国その他で文明が誕生たのが今から6千年前(から9千年前)。
そういわれても、どれも大きな数字すぎて実感がわかない。
 そこで試しに、137億年前のビヅグバンを、1月1日の午前零時、現在を一年後の12月31日の24時にたとえると。
つまり、宇宙の歴史を137億分の1に短縮してみると―― ・ビッグバンは、1月1日午前零時 ・地球誕生は、8月30日 
・生命の誕生は、9月15日 ・霊長類が誕生したのは12月30日午前6時26六分(新年まであと1日と約18時簡) 
・原生人類のホモ.サピエンスが出現したのは12月31日午後11時50分 ・中国などで文明が生じたのが新年まで14秒前 
・人間の命は、80歳まで生きるとして、0・18秒。 宇宙の年齢の、1億7125分の1。
ちなみに、宇宙の直径が274億光年、人間の身長が170センチだとすると、人間の大きさは、宇宙の大きさの
1・44×10の25乗分の一というとてつもない小ささだ。それに比べ人間の一生は、宇宙が経た時の1億7125分の1。
時間の差は、空間の差よりもはるかに小さい。これは意外な気もする。1億7125分の1とは途方もなく小さいとお思い
かもしれないが、地球の人口は70億人。あなたの心は、地球上にある人間の心の70億分の1に過ぎない。
一億7125分の1はそれよりも約四十倍も大きい。意外と宇宙の中での人間の一生も長いという気がしないでもない。
とはいえ、宇宙の年齢を一年にたどえると、人間の一生は0・18秒だ。≫
 ▼ 前にも書いたが、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している可能性があると知って世界観が変わった。
  上記のことすら、問題にならない。ケセラセラだが、当面、死ぬまでの生活もある。一日一回、このような壮大な
 宇宙と、その中の自分を考えればよい。象を世界に、その皮膚の間に住む寄生虫、70億分の1の自分。その象も、
 この宇宙からみれば、10の500乗の宇宙からみれば、チリですらない微細の存在。だからこそ、生きているうち!
・・・・・・
4058, B層の暴走と価値の錯乱
2012年05月05日(土)
 二年前の5月2日に ー3324, 「B層」という「IQ]が低い人々ー という文章を書いていた。(3日前の、ここにある)
ところが昨日の産経新聞の一面の【賢者に学ぶ】「素人の暴走と価値の錯乱」で、このB層の人たちを取り上げていた。
選挙対策として、この層を的にして狙い打つには問題がない。しかし、彼らB層の価値観を押し付けようとする機運が、
全体を導き始めたため、社会が混乱を始めてきている。その危険な状況を理路整然と論じた問題提起が以下である。
   【賢者に学ぶ】ー素人の暴走と価値の錯乱ー(哲学者・適菜収)  産経新聞 5月4日
 ≪ ・・・19世紀ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言った。その意味は、西欧において 価値の根拠とされてきた
《神の視点=普遍的真理》を設定することが理論上不可能になったということだ。にもかかわらず、《神》は平等主義や民主主義といった
近代イデオロギーに姿を変えて私たちを支配している。その根底にあるのは「神との距離において人間は等価である」という信仰だ。 
近代大衆社会はこうしたキリスト教本能をもつがゆえに、あらゆる格差、階層的なものを破壊する。 また、《本当に価値があるもの》
《偉大なもの》《美しいもの》は貶められ、《つまらないもの》《新奇なもの》《卑小なもの》が評価されるようになる。
その結果、芸術家気取りのゲテモノ、半可通、あらゆる領域における素人が権力をもつようになってしまった。
テレビの音楽番組では、芸術の対極にあるジャリタレが「アーティスト」と呼ばれ、ワイドショーでは有象無象の評論家が
専門外のトピックについて無責任なコメントを垂れ流している。 こうした価値の錯乱の上に成立するのが《B層文化》だ。
前回も述べたように《B層》とは平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で「マスメディアに
踊らされやすい知的弱者、ひいては「近代的諸価値を妄信する層」を指す。 この《B層》が現在消費者の主流になっている。
そこでは大企業のエリートがマーケティングを駆使し、大量の資本を投入することで《B層》の琴線に触れるコンテンツを量産している。
 ・・・ ニーチェは言う。「畜群人間は、例外人間や超人がいだくのとは異なった事物のところで美の価値感情をいだくであろう」  
畜群はまさに《B層》である。真っ当な価値判断ができない人々だ。彼ら《B層》は、圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を
社会に押し付けようとする。そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ。ありとあらゆるプロの領域、
職人の領域が侵食され、しまいには素人が社会を導こうと決心する。これこそがニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的な姿だ。 
与党政府も素人に陥落されつつある。前防衛相の一川保夫は「(自分は)安全保障の素人」と誇らしげに語り、続いて防衛相になった
田中直紀は素人以前の「ド素人」だった。 閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に進んだ背景には、
《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という問題が潜んでいる。
 ▼ 恐ろしい末期現象に日本は置かれている。その一つにマスコミが流す世論調査がある。世論の大方を占めているのが
 B層の人たち。彼らは質問の内容で、どのようにも誘導可能。 政治のトップ判断の重要事案に、それを使い権力を駆使する。
その背後に、アメリカの巧妙な誘導が見え隠れする。B層が「近代的諸価値を妄信する層」なら、過っての?私も当然、その層。
この10年、哲学に目覚め少しは盲信から抜けてはきた、しかし森林は面白かったが・・で、サバンナでは?この蓄群が屯する。
 ・・・・・・・
3692, 自己を見つめる −14
2011年05月05日(木)              
   * 幸福について ー1    「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)  
【 私たちは、幸福であるとき、その幸福をあまり感じない。不幸になったとき、私たちは、初めて、自分に幸福が失われている
ことを痛感し、深く傷つく。 幸福は、たいていの場合、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる失われた桃源郷である。
幸福は、不幸という現実のなかで、初めて見つめられる幻影、そして追い求められる夢、切なく慕われる理想である。
ダンテが歌ったように、「幸なくて 幸ありし日をしのぶより なほ大いなる 苦患なし」(山川丙三郎訳)である。
否定的な状況のなかで、肯定的な状況に憧れ、それでいてその達せられない悩みをかこつというのが、人間における幸福と
不幸の相貌である。 幸福と不幸は、離れ難く結びついている。 人間は、不幸の現実を直視しながら、嘆きと悲しみのなかで、
幸福を思うのである。 望みをもたない人間というものは、存在しない。 人間であるということは、何らかの願いを胸に抱き、
その実現を希求し、その願望の達成を欣求し、そのために励むということである。何らかの目的を定め、それに向けた自己拡充に
おいて、その可能性から現実性への転換と具現を冀い、そのために熱い胸を躍らせるというのが、人間であることの根底を形作って
いる。してみれば、現在の欠如状態から、いつの日にか将来の充実状態へと、恋いこがれる熱情は、人間にとって本質的である。
そうだとすれば、欠如状態としての不幸と、充実状態としての幸福の二つは、人間を構成する基本要因だということになる。】
 ー「幸福は、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる桃源郷」は、言いえてる。
「幸福は不幸という現実を通して見つめられる幻影」である。時代背景があるが、若い時には「自分は間違いなく幸福になるだろう」
という変な確信があった。 大かたの青春時代は決して幸せとは言えない四苦八苦を過ごしている時期である。
その頃の幸せの願望は祈りに近い感がした。 ところが人生の終盤に差し掛かってくると、幸せの願望も失せてしまい、死の不安が
立ち現れてくる。 精一杯生きてきたのに、あの桃源郷の正体も見え隠れする。 先に逝った人たちの最期は、不幸に見えてしまう。
 老いが進み、死が現実問題として迫ってきて、漠然とした不安が心を覆ってくる。その時に、過去の充実していた時の思い出に
逃避するしかなくなる。 その時、人生を生きてきた通りの老いと死が、自分を覆いつつむ。 これが自分の人生だったのかと!
・・・・・・・
3327, 偏差値導入が日本人を劇的に変えた
2010年05月05日(水)
「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ー3
  * 偏差値導入が日本人を劇的に変えた
 大前健一は、改憲論者であると同時に新自由主義者である。また「安保闘争以降の偏差値による選別教育が日本人の愚民を
押しすすめる結果になった」と主張。 偏差値による選別教育の年代とは 現在の40歳代前半から20歳後半である。
   ーまずは、その部分を抜粋してみるー
 日本で、詰め込み教育、受験一辺倒教育、偏差値による選別教育が始ったのは1960年代後半の安保・大学紛争以後である。
今から考えると、あそこが分岐点であった。 あの紛争で、政府は、過激な学生運動に非常に強い危機感を持った。
ここで、国民教育を民化政策に転換した。その象徴が「偏差値教育」である。・・・・
 本来、人間の能力は自分で判断すべきである。自分のやりたいことは、その判断に基づいて自分で決めること。
ところが、日本の子供たちは、自分の能力の判断をする大切な時期を偏差値に支配された世界で過ごすため、
自分で自分を判断する力をなくし、やりたいことも自分ではなく、偏差値で決めることになってしまったのである。
こうなると本人も偏差値による数字を先生に言われることで‘予定調和’して、「自分はこの程度」と簡単に思ってしまう。
学校や塾で「この数値では、この学校は無理だ]と、繰り返し言われれば、目標を上にあげることなぞ無理になる。 
これが、偏差値教育の持つ最大の弊害である。
 これは工業化社会の確立を目指す政府には非常に都合のよい政策である。それぞれが、能力に見合った位置で仲良く
協力しあってやっていくことが必要とされるからだ。 こういう飼いならされたロボット人間が、大量に必要なのが、
工業化社会であって、そのために、偏差値による選別有効に働いた。これは、個人個人から意欲というもの、
アンビションを奪ってしまったのである。現在の40代前後の偏差値世代の人たちは、非常に従順なのが多い。
彼らは共通の思い込み「偏差値が高い=頭がよい」と子供の頃から植えつけられていて、そこから抜け出さないのである。
クラスメート、同級生といった狭い範囲で考えてみると、自分たちより数値の高い人が、マスコミに行ったり、
役所に行っているのを見て、彼らは偏差値が高いから頭がよい。だから、彼らの言うことは正しいと、勝手に思い込んでいる。
 ▼ この年代が社会の中心になってきたのが、この日本の不況の隠れた真実である。 この年代の人たちと、この十年来、
 ツアーなどで一緒になる機会が多かったが、前頭葉がゼロというほど思いざるを得ないと感じていた。 
 勝手に自分たちの階級を決め付け、それ以外には一切を無視をする。 無視なら、まだマシだが、否定をしてくる。
 その後の年代を大前は、「少年ジャンプ世代」、「ゲームキッズ世代」と分けているが、それは次回。
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2952,スリルな瀬戸際だった日々 ―2
 2009年05月05日(火)
前回の凍りついた二日間で思い出したことがある。 《まずは、以前書いた文章を御覧あれ!》
  (字数制限のためカット2011年5月5日)
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2588, 閑話小題
2008年05月05日(月)
   * パペット
パペットとは、手や指を入れて遊ぶことができるぬいぐるみのことをいう。
他には影の人物や国に操られる人間や国を指す。日本などは、ある意味でアメリカのパペットとである。
以前に「新潟県を活性化する会」を何度かやらされたことがあった。いい様に操られる猿回しのエテと気づいて、
さっさと役割を降りたが・・。3?4回まで!と始める前に約束をしたが、それを了解をしておいても、
「縛り付けをして役割から抜けられなくなるのが世の常」チャンと、そういう役割の英語「パペット」という
専門単語があったのである。それが仕事ならパペットとして納得するが。
地元のために発展を考える中小企業の社長という役の振り付けで、ボランティアだとか。
それを知っていて巧妙に役割に収めようというのも、その人の仕事なのだろうが、私は何の価値もない。
乗りかかる私も甘いが、いや三回ぐらいなら面白いと割り切っていたから、甘くはないか?
それ以上は絶対にやらないこと位見抜けなかったのか? いや、見抜けないか?
 (字数制限のためカット2012年5月5日)
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2007年05月05日(土)
2223, HP開設、6周年         [○´・ω・]ノオハヨウ!
毎年のように、開設記念日に感想を書いていた。今年も二日遅れになるが書くことにした。
実のところ、全エネルギーを入れて書き続ていて複雑な気持ちがある。ネタ(テーマ)を選ぶだけで神経を
集中せざるを得ない。それと、ネタ切れになるので、何処かからネタを探してこなけかればならない。
しかし良寛の発句「焚くほどは風が持てくる落葉かな」の、落ち葉と同じように何時の間にか湧いてくる。
その感覚とスリルを楽しまないと続かない。考えつく全てを吐き出して何も書くことが無くなれば、
その境界の外に出ざるをえない。それが、この随想日記を書き続ける一番のプラスニなる。
書くために読む、書くために考える、書くために本を買う、そして借りる、そしてウソも吐き出す。 
 (字数制限の関係でカット2,010年05・05)
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2006年05月05日(金)
1858, ローマから日本が見える ー10        ォ'`ョ━━(。・∀・)ノ゙━━ゥ★
この本を読んでいると史実を読んでいるというより、壮大な歴史小説を読んでいるようだ。
一人一人がそれぞれの立場をわきまえて役割をこなしている。当然、ローマに敵対する英雄もいる。
カルタゴの英雄ハンニバルである。まずは第5章のハンニバルの挑戦 の概略を抜粋する。
 ー第5章 ハンニバルの挑戦 ー1
  (字数の関係でカット2,008年0505)


4798,年金破綻報道の罠 ー①

2014年05月04日(日)

               <世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> ー細野真紘(2014年の論点100)
   * 年金の根本的誤解
 これを読むまで、年金を根本的誤解をしていた。<「それで老後の生活は十分」というものではなく、あくまで
「老後の最低限の補助」という位置づけ>という。 そうすると、我われ国民が、ほぼ誤解していることになる。
 我家も、家内の預金を取崩し、年金に加えて生活しているが、この根本の考えが間違いだった! ーその辺りからー
《 年金について、TVでよく次のような街頭インタビェーが出てきます。記者「あなたの年金で生活は十分ですか?」 
 年金受給者の主婦「いや、月5、6万円じゃあ全然足りない。だから、仕方なく預金を取り崩さないといけない状態だ」
このようなやりとりが、何の疑いもなく放送され続けているが、これに基本的な「誤解」があると気付いている人は
どれほどいるのでしょう?  まず、この記者の質問自体がおかしいが、そもそも年金というのは、「それだけで
老後の生活は十分」というものではなく、あくまで「老後の最低限の補助」という位置づけになっている。だからこそ
昔から人は、自分自身で貯金をするわけです。これは、特に、日本のような「低負担」の国では必然的な行動の結果です。
 さらに言うと、インタビェーでコメントしている入も、誘導尋問に乗っかっておかしな発言をしています。
それは、そもそも貯蓄は「老後の備え」として貯めていたわけで「老後に取り崩す」というのは、極めて当然の行動のはず。
それなのに「国に感情をぶつける」ように答えてしまっているのです。なぜこの「矛盾だらけのテレビ報道」に対して、
これまで誰も疑問を抱かなかったのでしょうか? これは、一言でいうと「社会保障に関する教育の欠如」に尽きます。
つまり、教育が全く機能しでいないので、視聴者が判断できなくなってしまっているわけです。
 では、どのように「国の年金」を捉えておけばいいのでしょうか。これは、日本の年金とは「老後に国から死亡するまで
もらえるお弁当」だと捉えておくとイメージもしやすいし、根本的な誤解も減っていきます。・・・ 》
 ▼ 弁当の飯とおかずの例えが,解りやすい。ということは、大部分の人たちは、老後は飯だけの生活が待っている
  ことになる。 ネットで中小企業の数を調べてみると、【 2006年で、420万社で我が国の企業数の99.7%を占め、
 中小企業の従業者数は2,784万人で我が国の雇用の約7割を占めている。また、国民総生産の約2割を占める製造業においても、
 2008年には、中小企業は48.4兆円と製造業付加価値額の約5割を占めている 】とある。そうすると、国民の多くの老後に、
 決して楽ではない生活が待っているのが現実。それから考えると、少ない給与の中で2割は別途積立など蓄財が必要になる。
 消費税の3%値上げや、インフレターゲットなど、国民にとって、実際には、聞捨てにならないこと!  ーつづく
・・・・・・
4431, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −3
2013年05月04日(土)
               ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
  * ルート2:直ぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道)
 人はいずれ死んでしまう。直ぐか、そのチョッと先かの差でしかない。 で、悲観的になるか、楽観的になるか。
誰もが楽観的の方が良いと思うが、悲観も時に必要。ブラック・スワンが80年の人生のスパンに、必ず何羽かが舞い降りる。
思いもよらないことだらけ、これが人生。だからハリケーンや地震多発地帯の住宅ではシェルターが必要。それを人生にも
組み込む必要性がある。そのためにも悲観は必要。悲観のレールに楽観の列車で走れば良い。 ー箇所が面白い!ー
≪ 人生は絶望か、希望か?では、本質的には意味のない人生を、どう生きればいいのだろうか。以下の二つの方向性がある。
 (1) どうせ人生は無意味なんだから、はかなく悲しい、と絶望に向かう生き方。
 (2) 人生には定められた意味などないんだから、人生の足かせを取り去り、むしろ自由に人生をデザインして
  軽やかにのびのび生きていこう、とう希望に向かう生き方。  (1)と捉えるか、(2)と捉えるか・・ 
あなたはもともとお金を持っていなかったとしよう。ところが何らかの理由で今は一万円をもっている。しかし何らかの理由で、
そのお金はなくなる。これをどう捉えるか。どうせお金はなくなるんだから、はかなく悲しい、と絶望するか、たまたま一万円
持っていると希望を持つか。これと同じだ。あなたはもともと生きてなどいなかった。ところが、何らかの理由で今は生きている。
しかし、いずれまた無に戻る。中島義道だったら「この世に自分の意志ではなく生まれさせられ、苦しみあえいで生きねば
ならないから、はかなく悲しい」と絶望するかもしれない。 (1)型の捉え方だ。 
 しかし、見方を変えれば「なんと幸運なことに、何の因果か、たまたま、生きているかのような幻想を一的に手に入れた。
なんてラッキーなことか」 これが(2)だ。 つまり、人生とはあぶく銭。生まれる前には何もなかった。
ところが、何の因果か、宇宙ができ、有機物の塊が生物になり、それが進化して、人間になった。その中の一人として、
何の偶然か、あなたが生まれた。生まれたての時は、何も考えなかったが、脳が成長・学習して今に至った。
これがラッキーでなくてなんだろう。あなたにとって、宇宙史上最大のラッキーの一つだ。死刑というより、恵みだ。
信じられない、鮮烈な奇跡である。そんな奇跡を楽しまずして、この奇跡が再び失われてしまうことにフォーカスを
当て続けるなんて、もったいない。それよりも、この刹那の偶然を、大いに楽しもうではないかが、それが、(2)だ。
 一万円を得たこの奇跡的な現在を喜ぶか、その一万円を失う未来を憂うか。その違いが(1)と(2)の違いだ。
(1)は、いま一万円を持っていることから出発しようとするから、失うことの絶望に向かう。それって近視眼的ではないか。
一万円を得たという既得権は、既得権。それは当然としておいておき、一万円の維持にフォーカスしている。
 それよりも、人生をその始まりから俯瞰する視点に立ち、もともとゼロだったものが一万円になったこの人生のあぶく銭を
楽しもうではないか、というのが(2)だ。 視野が広い。 ルートと関連付けるなら、今一万円を持っていると思っているのは、
幻想だ。本当は持っていないのだ。誰かが「自由に使っていいよ」と言い、そっと貸してくれたのだ。このラッキーな一万円を、
幻想だと知りながら、ぱーっと使おうではないか。 そして、なくなったら、なくなったとき。くよくよしたって仕方がない。
もともと持っていなかったのだ。・・・ ≫ 
 ▼「要は生のラッキーを楽しみ、死の恐怖を超越すべし」からすると、この辺りを理解してないと人生を誤る。
  それを教えるのが親の務めである。必要なのが教養。 生まれたときからの環境などが備わっているかどうかもある。
  幸せな家系は幸せに、不幸な家系は幸せになる傾向が強い。26歳で千葉で、34歳で新潟駅前で創業を決意をした時、
  特に新潟駅前の時は、500%の成功するだろうという確信があったが、兎にも角にも、何にも知らない業種。土地の時価を
  含めて当時の私の能力からして、やはり博打。魂が震える思いである。で、自然考えたのが、上記のこと。
  「せっかく与えられたチャンス。もし失敗しても、全てを失っても後悔はしない」と! だから現在、さばさばしている。
  万一の備えはしていたこともあるが・・ 人生も、「ご覧のとおり、そのまま結構!」と、開き直りか。 日々是口実!
・・・・・・
4057, 随想日記も12周年
2012年05月04日(金)
 11年前の5月4日にHPを開設してから連日、ほぼ休まずに掲載してきた。旅行時は知人に頼んで書きだめしたのを当日ごとに
アップしていた。12周年を期に気楽に休むつもりである。休み癖をつけると続かなくなる心配が逆に、ここまで続けることが出来た。
内容はともかく、「自分に納得できる文章にすること」を心掛けてきた。毎日、同月同日分の10年分を読み返しているが、手を抜いた
文は少ない。 大相撲、全日本柔道選手権、新年とか殆んど欠かさず同日に、同テーマの感想を読むと不思議な奇妙な感覚になる。
読んでいると、変わらない自分と、変わってしまった自分に気づくことがある。 ここまで書きためると自分自身の墓場そのもの。 
飾ろうにも飾ろうとしている自分が現れ出る。従って正直に書くことになるが、それが人を大きく傷を付けてしまう。言葉の力は大きい。 
 大まかに、「読書日記」「過去の思い出」「現在の社会現象と分析」「つれづれに」「箴言」「新たに知った言葉」などに分けられる。
「書くということは、書き続ける自分を維持するための行為」ということに気づいている。思いを、印象を、書き出すということは一度、
脳から文として出し、吟味することになる。書く行為そのものが考えることになる。毎日、読み返し11年分の自分に出会っているが、
そこに自分の小さな歴史をみている。 もし書いてなく、完全忘却をしたら、元々、何も無かったのと同じでは?と思うことさえある。
 実家の事業を5年足らず携わった時、気持ちの余裕が無かったこともあり、写真も、日記も殆んど残っていない。書き残していたら
面白い断片が数限りなくあった。大変だったが自分の力が十二分に発揮できた時期だった。このシリーズは心底では自分に120点。
だから逆に書き残さなかったのが良かったとも言える。 おいおい、その時のことを書くつもりだが・・・また人を傷をつけるのか?
 毎日、書き出す習慣も慣れてくるとゲーム感覚になる。 ネタ切れの際(きわ)に常に立っているスリルと苦痛が逆に面白味を増す。
 ・・・・・・・
3691, 自己を見つめる −13
2011年05月04日(水)
   * 運命について  ーp226   「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 【 ハイデッガーの言い方に従えば、私たちは存在の真理の「呼び求める促し」の中に立たされていることになる。
 私たち人間は、そうした運命的なものの呼びかけに聴従せざるをえない、あり方を、根底に宿し、
 それに聴従することによって初めて、真に生きることを果たしうるものというように捉えていった。
  ・・・自己と歴史の由来を、その根源から聴き取って、それをその将来と結びつけることによって初めて、人間は、
 自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当てることができるようになると説かれたわけである。ここに、現代における
 優れた運命思想の一つがあると言っても過言ではない。 ハイデッガーによれば、私たちは、この世の中に生きるときに、
 予期しえない形で「降りかかってくる」、さまざまな「偶然」の出来事にさらされているのである。ということは、
 人間は、出来事の出現をすべて見通し、それを支配することのできる神ではないということである。
 人間は、非力で、無力なのである。しかし、それでいて、人間は、自分なりの情熱と威力において、
 自己の本来的存在の証を立て、それを刻み残そうとする。 そうした覚悟のうちで初めて、立ちはだかる宿命的な
 困難と格闘しながら、人間は、真の存在の呼びかけを、運命の声として聞き取りつつ、それに聴従して
 本来的に実存しようとするのである。 ここに、優れた運命思想があることはたしかである。 】
 ▼「運命」について、考えさせられる内容である。( 存在の真理の「呼び求める促し」に立たされ、運命的なものの
 呼びかけに聴従せざるを得ない、あり方を、根底に宿し、それに聴従することによって、真にいきることを果たしえる)
 これが運命に従って生きるということである。これが本来的に実存しようとすることである。それぞれ天命、宿命、運命がある。
 その中で、運命は自分で切り開いていくもの。 自分で真の存在の呼びかけを聞き取り、聴従し、実存しようとすることである。
 そうこう考えると、運命に対する見方が変わってくる。 自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当て、前に進むことが
 運命に従うことになる。 それとて下記のような虚無的見方からすれば、些細なことでしかないが。
  ・・・・・・・
3326, 人みな骨になるならば ー12
2010年05月04日(火)
 この著書は、蓮如上人の「白骨の御文章」と「般若心教」の視点から、当たり前と信じている日常の思い込みを一つずつ取上げ、
その根拠を潰している。 何かにとらわれり、行きづまった時に、この書は、それが如何に取るに足らないことかを諭してくれる。 
葬式や法事で参列者全員がこの「白骨の御文章」を読経することがある。死を第三者でなく自分に当てはめて考えさせるためである。 
 そこで改めてネットで検索して、コピーしてみた。 
   ー蓮如上人の「白骨の御文章」ー
≪ それ、人間の浮生なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
 されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。 一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。
 我や先、人や先、今日をも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
 されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
 既に無常の風来りぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて
 李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
 あわれというも中々おろかなり。 されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、
 はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。≫
ー以上だが、父の生前の口ぐせ、「死んでしまえば(生きている方からすれば)それまでよ!」である。
あるのは、いま、ここ、だけである。過去の、あの時も、現在も、「いま、ここ」しかない。 一期一会である。
それぞれが、いま、ここ、で生きている。そして、それも、確かに存在していると感じるが、実は幻想。
自分の感覚という器官が能作しているだけである。 夢・幻でしかないのである。 で、確認で酒を飲む、のか! 
 ・・・・・・・・
2951,人はどうしてオヤジになるか? −2
2009年05月04日(月)
 * 女はどうしてオバサンになるか?
「人はどうしてオヤジになるか?」というなら「女はどうしてオバサンになるか?」を考えてみたくなる。
  ーそれではオバサンとは、どういう人なのだろか?ー
《30代後半から40歳前後の大きな境目として、女を捨てると同時に恥じらいを捨て「怖いものがなくなった」存在で、
特に徒党を組むと非社会性が露出する。 お婆ちゃんといわれる前に、それまで内に圧縮されていたエネルギーが非社会的行為として
露出する歪んだ「突然変異の一時的生きもの」である。彼女?を見ようと思ったら、デパ地下とか、ホテルのランチバイキングに行くと
徒党を組んだ姿が見られる》 ところで、秘境旅行に行くと、必ずといってよいほど「離れオバサン」が参加している。
これが恐ろしい存在である。具体的に書くのを憚るほど唯我独善。 今回は、そこまでは書かないでおく。
逆に40歳前後までに、女としても人間としても自分を見つめ、「個」としての自分を確立し、責任を持って生き、
自信に満ちた態度を持てる女性を「マダム」という。それに対しオバサンは自己管理ができないで、集団化した第三の性化した存在。
 (以下は字数の関係でカット。2012年05月04日)
 ・・・・・・・・・
2587, 幸福大国ブータンから、幸せとは何かを考える
 2008年05月04日(日)
 国民の97%が幸福と実感し、自殺者ゼロの国、40年前には国土の5割以下だった森林面積が、現在は7割以上に回復し、
経済成長ではなく「国民総幸福」を国の指標とし、独自の「豊かさ」を目指すブータンという国がある。
数年前にTVのドキュメントで見て気になっていたが、図書館で、この国の第四代国王王妃が、その国の素顔と
ブータン人の死生観などを書いていた本を見つけ早速読んでみたが、何とも心の豊かさが滲み出ている内容であった。
 ブータンの幸せ指数世界一だが、物資や食料の欠乏は、心の貧困には繋がらない証明になる。
  (以下は字数の関係でカット。2011年05月04日)
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2007年05月04日(金)
2222, 平凡って幸せなの?  ー2       ♪ヾ(*'ー')*'ー')*'ー')/" オッハヨウ!
 平凡って幸せなの?という、何気ない家内の質問に、「そういえば、平凡など考えたことがないし、
平凡の日々を過ごしていながら、平凡を嫌って生きてきた自分に気がついた。」というのが本音である。
しかし過去を振り返ると、平凡な日々のなかにこそ人生の真実があったように思える。
しかし、これも縦に立ち上がっている、問題の陰に隠れてしまって記憶には残らない。
記憶に残らないということは、無に等しいと思いがちになってしまう。ただ合せ鏡で平凡の生き方をしている人を見ると、
やはり?とも、思ってしまうが。「平凡とは?」と検索をしたら、面白い質問に行き当たった。
 まずは、その部分を・・・
<平凡な生活に対する疑問>
「毎日を平凡に生きている人間って、どうして生きているんでしょうか?
はっきり言って僕は、そういう人間は死んでしまってもいいと思います。毎日何も変化のない
暮らしというのは最も最低な人間の生き方と思うのですが・・みなさんはどう思いますか? 」
▼ この答えが、面白いので後にコピーしたが、平凡は一番身近の問題であり、過去には多くの人が名言を残している。
 ところで平凡って何だろうか? 非凡とは何だろうか? 考えてみたら非常に難しい問題である。
「死んでしまえばよい」でなく「死んだも同然」と言えば良いのだ。「死んでしまえばよい」でなくては「釣り質問」
にはならないか? ところで、若い時に「こんな生活を送っていて良いのだろか?
もっと良い生き方が在るのじゃないか」と何時も思っていた。
今でも、「二度とない人生、悔いのない一日を過ごすよう心がける」が、
私の信条の一つである。これも「平凡の人生を否定する言葉」ではないか。
平凡に対する、テーゼ・アンチテーゼとして、自分で何時も問答をしなければならない問題である。
====
*投票でベストアンサーに選ばれた回答
(字数制限のため、中間カット 2010年5月4日)
ーー
以上だが、なかなか含蓄がある答えが多い。平凡、非凡を何を持っていうのかという問題にもなるが、王陽明に影響を受けた
我が長岡藩の河井継之助は「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ。
(字数制限のため、中間カット 2012年5月4日)


4797,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜⑤

2014年05月03日(土)

     * 苦悩の時間的推移
  この節目の一連の精神的苦痛の実感は
「 ①痛いー> 
  ②痛・哀しいー> 
  ③痛・気持ち良い(痛みに慣れる)ー> 
  ④痛・面白い(立場を客観視できる)」へと変化している。 もちろん七転八倒をした上のことだが・・ 
 私のすぐ上の姉の連れが20年前に亡くなった時に、葬儀の席で、一まわり以上年上の従姉妹が、姉に
『私の経験からみて、三年で哀しみは消えるよ!』と慰めていた。 時間が解決する『時間薬』である。 
 青年期からの節目(挫折)の苦痛の経過を振返ると、大よそ上記の経過をたどったが、大たい次の障害への取組で、
それらが消えていった。前向きに生きることが、如何に重要かである。 そして、最後に、その痛いが無くなり、
「ああ、面白かった」だけが残るなら、ハッピーリタイアよりは良い? 肯定的に捉えれば、それを境に全く違った
新世界が開けることになる。その世界からみると、節目前の自分が、何とも滑稽に思えるもの。新しい自分の再生が、
何とも奇妙な感覚である。「泣いても笑っても同じ空」で、笑ってきたが、泣きが不足していたのだろう、私には。
 母親から聞いた話が耳に残っている。『小姑の虐めに、耐えられず実家に帰ったところ、母に〈シッカリしなさい!
一番辛い時が人生で一番、良い時なのよ〉と、励まされた』と。見方によれば、この3年間が、私の人生で一番良い時?
といえば、思い当たるフシもある。いや、サホド辛くもなかった?どうだろう? 少なくとも、人生で一番、内省できた
ことと、解放感があったことは事実。 本当に精神的苦痛なんど、あったのだろうか? それからも、解放された?
 成るほど、人間は少しハンデを負って、《痛》が、頭に残っていた方が良いのかもしれない。どの道、10年後には、
8.9分は存在していないのだから。苦悩も、解放も、知的欲求も、感動も、感謝も、至高体験も、生きている今のうち。
・・・・・・
4430,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −2
2013年05月03日(金)
    * ルート1 心が幻想だと理解する道(脳科学の道) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
 信長が、幸若舞の演目のひとつの「敦盛」を好んで舞っていたが、そこには、
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ・・」という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで
演じたと伝えられている。人生振り返れば全てが夢幻。 その辺りを以下のように述べている。
 ≪ 古くは進化論で有名なダーウィンが、感情は基本的に「幸福」「驚き」「恐怖」「怒り」「悲しみ」「嫌悪」「軽蔑」の
七つから成ると述べている。また、心理学者エクマンは、表情から見た感情には、「幸福」「驚き」「恐怖」「怒り」「悲しみ」
「嫌悪」の六つがあるという。軽蔑を感情に含むかどうかだけが異なるが、あとは同じ。「幸福」が感情だというと日本語では
やや不自然な感じがするかもしれないが、「ハッピネス」を「楽しさ」と訳さずに「幸福」と訳したと解釈すれば、違和感はない。
ちょっと驚くのは、ポジティブな感情は「幸福(楽しさ)」だけで、他の五つないし六つはネガティブな感情だという点だ。
ああ、人間のポジティブとネガティブは、なんて非対称なんだろう。いずれにせよ、恐怖=怖さ。人間は、怖いという感情を持つ。
ちなみに、恐怖に限らず、あらゆる感情の記憶はすべて大脳辺縁系に蓄えられているといわれる。このため、大脳辺縁系は心の
中心だという人もいるくらいだ。・・・ もし人間に感情が無かったら、人間社会は、ロボットの集団、ないしはアリの集団の
ように、ただ役割分担をし、ただ生きて死んでいくような、無機質な社会だったに違いない。・・・シマウマの群がライオンに
襲われたとき、一匹が犠牲になる。それはお布施と同じで、一匹の命をライオンに提供しているのだという。あたかもお布施の
ように思えるシステムが、種と種の間の調和のために成り立っていることは、進化の当然の帰結だと言うべきだろう。・・・
要するに、生物種は、個体の死へのセンチメンタルを超えたダイナミズムによって進化を遂げただけ。それだけのこと。≫ 
 ▼ 一人称の死は存在しない。死んだ瞬間、無になるからだ。あるのは二人称と三人称の死しかない。怖いというのも
  感情の一つなら、心=感情は幻想と理解すれば、死は恐ろしくないはず。固体の死への感傷を超えたダイナミズムが猿から
 人間に進化させたのだ。一人称の私の死など、真面目に考えることはない、ということ。死ねば幻想が抜けたゴミでしかない。
 逆に、夢幻こそ大事にすべきといえる。小説、映画、ドラマ、コミックも作者の創作という幻想。 だから面白い。
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4056, 個性など、どうでも良い。的を絞った意欲と根気だけ!
2012年05月03日(木)
  * どう騒いでも、われわれは集合体の一部なのだ     ー 「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より
≪ 結局のところ、なにをどうしてみたところで、われわれは集合体なのだ。なぜといって、純粋な意味で自分の所有だと
いえるものなぞわれわれはごくわずしか持っっていないのだから。われわれはみな、先人からも同時代人からも受け入れて
学ばねばならないのだ。どんな偉大な天才でも、なにもかも自分の内部にたよろうとしたら、大したことはできないだろう。(略)
 要するに、自分の内に持っているか、他人から得るか、独力で活動するか、他人の力によって活動するか、こんなことはみな愚問。
大事なことは、大きな意欲をもち、それをやりとげるだけの技能と根気をもつことだ。それ以外はどうでもいいことなんだ。 ≫  
                                         エッカーマン『ゲーテとの対話』
▼ 我々は何らかの形で人類の蓄えられてきた文化遺産の一分野にいるのであって、それから一歩も出ることが出来ない、
 ということになる。一歩出たところで、それも際の範疇でしかない。そう思えば、あくせくすることもない。
 そのことに気づきてしまえば、後は楽。個性とか、自分になるとかは、他と違うことをなしうる能力に求めがちだが、
 本当に必要なのは、強い意欲を持って、やり遂げるだけの根気。アランは『教育論』で、発明や、一般に天才とよばれて
 いるものについて、長い間の勉強のあとでなければ出てこない、と述べている。 個性など、その後の話でしかない。
 好きこそものの上手なりで、好きだからこそ、辛抱づよく続けることが出来る。それを誤って才能と誤解してしまう。
 一人一人が意欲をもち、やりとげる技能と根気をもち努力するしかない。他人と比較することもない。要は意欲と根気だけ。
 で、根気を持って、これ続けています。
 ・・・・・・・
3690, この随想日記も、まる10年か〜
2011年05月03日(火)
 今日で、この随想日記がまる10年になるが我ながらよく続いたと驚いている。10年は大きな節目、今後どうするかである。
これで自分の全てを出し切った思いがある。あけすけに脳内を公開しているようなものだが、これを続けたおかげで自分の中に、
一人の記者の目が出来たようである。その結果、世界の見方が変わってしまった。 いや世界そのものも大きく変わってしまった。
書き続けるために、常に数回分の文章を書きためておかなければならないプレッシャーは大きい。が、それを逆に楽しむ面白さもある。
「一度でも休むと、もう二度と書き続ける気力が無くなるのでは」という恐れが続ける後押しをしてきた。振り返って読んでみると、
ここで書いてきたことが私の限界線でもある。 一番のメリットは数年分の同月同日の文章を毎朝、読むことが出来ることである。 
過去の痕跡の文章を早朝、読み返しているから10年続いたのかもしれない。 それと、「何人かの知人が読んでくれている」
という実感があることである。 それと書き続けることで、否が応でも常に読書を自分に強要できることである。 
この10年で、私の人生の支柱の一つとして残すことが出来たのは大きな収穫である。 他にも、
・最後は、こういう結果としても、四十年近くの事業の起承転結と、・50回近い秘境ツアー、・そして10年間続けた随想日記。
・それと、好きな酒と肴を思い残すことなく、飲み食べたこと。  ・それと読書を十分にできたことなど、思い残すことはない。
 そうこう考えて、これから続けるかどうか、止めれば張りが無くなるし、続けるのもシンドイし・・・
  「力を半減して、当面、続ける」が、現在の答えか? 
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3325, やりたいことは三千五百万もあれば・・・
 2010年05月03日(月)
   ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) −2
  * やりたいことは三千五百万もあれば・・・
・「死ぬ時に、楽しい人生だった」と言えるには、したいことは全部やったと思えること。
・ そのための金額は普通の人なら三千五百万もあれば殆んど実現できる。
  葬式代は350万もあれば充分。自分で葬式の手立てをしておけば三分の一で可能。
 (120万を前提に葬儀屋を何社か呼んで手はずを組んでおくこと)
・ 「漠然とした不安感で貯めておいた金を、この世に置いて後悔だけを持っていく」
 これが日本の大部分のバカな老後の姿である。 要は、考えてないからである。
▼ 以上のことは大前研一でなくとも私でも思うことである。要は考えないからである。 40歳の時、良い悪いは別にして
「年間1000万は使い切る」と決心した。しかし当時、10歳前後の子供がいて大学を卒業するまで10数年は、それほど贅沢を
出来る金額ではなかったが、それでも年二回は家内と海外ツアーに行き続けることが出来た。海外旅行代は総額3千万前後だろう。
一点豪華主義?である。月にすると10万になるが、普段の生活で節約をしていたので、使いすぎたという感はなかった。
その御蔭か満足した後半生を過ごしてきたと思っている。 これまで46回のツアーに行ったが、これを、これから始めることは
時代背景と年齢を考えると無理。「べき時に、べき事を、べくすべき」を実行していて良かったと満足をしている。
したがって老後の心配は殆んどない?。三千五百万といえば大金である。しかし100万ずつなら何とか可能?家を売却して
貸家に入っても「やりたいことを、すべき」と思うが、いざとなると、これが出来ないのも分かる。それぞれの事情があるから、
これ以上は言えないか。 もし何とか可能なら40歳から100万×35年間で、不可能でもない?。 無理?なら、50万は?それも無理? 
月に4万の積み立ても無理? その前に、まず「自分は本当に何をしたいのか」考えなくてはならない! で、ないと
「漠然とした不安感で貯めておいた金を、この世に置いて後悔だけを持っていく」ことになる。そういう思いで、歳をとってから
秘境に来ていた人と出会ってきた。それを実感したので、迷いなく実行できたのである。ーそれがどうした?って、どうもしないが・・
くだらない自画自賛か! これから3500万か〜面白そうだが、老後資金を考えると?となる。 でも、その金が! 宝籤を買うか!
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2950,人はどうしてオヤジになるか?
2009年05月03日(日)
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 内田樹著の《人はどうしてオヤジになるか》の問いかけが面白い。
 この文章を読みながら( 私は「オヤジ」かどうか?)を内省してみた。 オヤジといえば、オバサンである。
 現象に大きく左右され、考えることをしない両性化した生き物。オヤジも長年かけて自分でつくりあげる生き物である。
 常に自分の中で肥大化しようとしている化け物として、監視しておかないと・・・
  ー まずは、その部分から ー P・20
 人の誤解のうちに最も危険なものの一つは「不愉快な人間関係に耐える能力」を人間的能力の一つと思い込むことです。
その耐性はむしろ有害であり、命を縮めることの方向にしか作用しません。「耐える」人の場合は、「耐えること」が
自己の中心にあります。それ以外のことは「耐えること」のために総動員されます。「不愉快な人間関係に耐える」というのは、
人間が受ける精神的ダメージの中で最も破壊的なものの一つです。世の言う「中年オヤジ」というのは、この耐えることが
劇的に人格化されたものといってよい。 会社で上司の罵声に耐え、部下の暴言に耐え、クライアントのわがままに耐え、
満員電車に耐え、妻の仏頂面に耐え、セックレスに耐え、子供の軽蔑に耐え、巨額のローンに耐え、背広の綻びに耐え、
全身これ「忍耐」からできているのが「中年のオヤジ」という存在です。 人生のある段階で、(たぶん、かなり早い段階で)
不愉快な人間関係に耐えている自分を「許す」か、あるいは「誇る」か、とにかく「認めて」しまったのです。
そして、その後、「不快に耐えている」ということを自分の人間的な器量の大きさを示す指標であるとか、人間的成熟の証しとか、
そういうふうに合理化してしまっている。蟹が甲羅に合わせて穴を掘るように、人間は、自分でつくってしまったパターンに
合わせて不幸を呼び込みます。「不幸に耐えている自分」を「器量の大きい人間」と勘違いをしたら、もうその後の
「オヤジへの道」は一直線である。そういう人は不愉快な人間関係だけを選択し続けることになります。本当にそうなんです。
▼ 以上だが、八割の人は、この「耐え人」の人生を過ごしている?自分の人生を振り返って、一番良かったことは何か?と、
 考えた時に、「事業を立ち上げ、一度も営業赤を出さないで何とかやってこれたこと」(今年度からは??)
       (字数制限のためカット2010年5月3日)
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2586, 日本の貧困率 ワースト2
2008年05月03日(土)                ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…
先日、Wowowで観た映画『しあわせの力』という映画。ウィル・スミス演じる主人公が貧乏のどん底から成功者への階段を
上っていく内容だが、その大部分が「すべり台社会」を滑り落ちていく内容。 リアルで他人事に思えない内容である。
地下鉄のトイレや、教会の施設に並んで泊まったり、子供が一緒だから尚のこと引き込まれてしまった。
実話に基づいた内容だから、迫力があるのだろう。 黒人のセールスマンが収入が無くなり、奥さんに愛想をつかれ子供を
置いて出て行く過程など現実的である。そして、最後はホームレスになる。這い上がるのは無理という状況から主人公が
成功を掴んだ要因は、【息子への愛】と、どん底でも諦めない執念。何か身につまされる内容であった。 
人生で、何度もすべり台に立つ瀬戸際を経験した。一つの判断が致命傷になる、それが創業ということ。
 (字数制限のためカット2010年5月3日)
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2007年05月03日(木)
2221, 静岡で感じたとこ       ヾ(●´∀`●)GOOD MORNING!!
 去年、学生時代の友人が私のところに訪ねて来て、今年は私が静岡を案内してもらった(4月30日、5月1日)。
学生時代に30日間欧州旅行をした友人である。静岡は住みやすいと聞いていたが僅か2日間だけでも、その豊かさを感じ取った。
静岡市内を案内してもらった後に、車で一時間近くにある浜松市に行き、その後に焼津に行って、友人の地元の知り合いの
経営しているホテルに泊まった。その間に車の中から垣間見た世界は、東海ベルト地帯の豊かさである。
「日本は東京から名古屋までの地帯に富が一極化に集約されるのではないか」とさえ思えるような景気の良さと豊かさを感じとった。
車から見える家と車は新しく、街並みは奇麗に整備されており、静岡駅や浜松駅周辺は再開発など大きなビルラッシュで、
カナダの都市?のような活況と清潔感があり、「これが地域格差」「これが21世紀」を具体的に見せつけられた思いであった。
「新潟駅立体交差再開発の完成の姿を思い浮かべることができた」ということか。静岡県は「ヤマハ」「本田」「鈴木自動車」
それにトヨタの関連企業が数多揃っていて互いシノギを削っている。友人の実家が、トヨタ自動車のラジエーターを主に
つくっている会社で、友人は、その子会社の社長で、かなり鼻息の荒い状態だった。東海道ベルト地帯は永年かけた工場地帯の
集積がある上に、お茶の生産地があり、焼津などの漁港もあり、山梨などの後背地域もあって、それぞれが有効に連鎖している。
名古屋駅周辺を含めて、隔世の感があるほど活況があり、不景気はどこ吹く風という。
なるほど他とは格差がつくにはつく理由がある。それに引き換え、それ以外の日本は?・・・・
 ▼ そうそう、今日でHP開設、6周年になる、2200も毎日、この文章を書いたことになる。それと、もう一日に書ける限度の
 レポート用紙20枚分をオーバーする。6年前の文章をカットしなければならない。毎日、過去に書いた文章を眺めて自己満足をしていたが、
 オーバーのサインが出てきて、カットするのが非常に心が痛む。過去の自分(のエネルギー)を切り捨てるような気持になり、
 どれも捨てがたいのである。             (○´ω`○)ノ **SeeYou *(○´ω`○)ノ
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2006年05月03日(水)
1856, HP開設、5周年  ー1    \(^▽^*)おはようございます!(*^▽^)/
明日で、このHPを開設して、まる5年になる。旅行以外は、ほぼ?一日も欠かさず随想テーマ日記を書いてきた。
我ながら続いたことに驚いている。5年前のこの日を境に一変し、全て、このHPを中心に生活がまわるようになった。
一日、何らかのカタチで5時間以上?はパソコンに向かうようになった。5年前にパソコンの先生に事務所にきてもらい、
このHPを立ち上げた。さらに自宅近くのパソコン教室に三年以上通った!
・パソコンを自分の道具として使いこなせるようになりたい!
・HPを自分のネット上の部屋にしたい
・ネット・サーフィンでネット空間を飛び回りたいという思いがあった。 


4796,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜④

2014年05月02日(金)

    * 何かが変?なのは、自分? それとも巷の常識?
 先日取り上げた【「道徳」を疑え!〜自分の頭で考えるための哲学講義ー小川仁志著】の中で、イギリスの哲学者
 フランシス・ベーコンの「イドラ(本当のことを隠してしまう臆見)を取り上げていた。
 彼によると、人間には四つのイドラがあるという。
《・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、感情や感覚によって知性が惑わされることに
 よって生じる。人間は自分が主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できない。
・二つ目は「洞窟のイドラ」。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んでしまったかのように、個人の狭い事情により
 生じる思い込み。その人の受けた教育、影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い考えに入り込んでしまう。
・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込みです。あたかも市場で聞いたうわさ話を信じて
 しまうがごとく、人は言葉のもつ力に弱いものです。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因になる?
・四つ目は「劇場のイドラ」です。それぞれの都合の良い物語を疑おうとしないで信じてしまうことをいう。》
:この結果、世間とかいう、ほぼ嘘で固められた常識を疑うことなく信じる九割以上の人達がつくられ、現に存在する。
 この方々は、殆どのイドラが全存在。 覆い隠されている真実の世界の存在など想像すら出来ないため、厄介そのもの。
 彼らには、「嘘もほどほどにしろ」より、「本当のことは、ほどほどに」と、対応するしかない。何故なら、本当の
 ことは、イドラの世界からは見ることが出来ないから。本来、人間は共同幻想の中にしか生きることが出来ない存在。
 とすると、変なのは社会と、その中で生きる、私たち(個々人)になる。問題は、それを常に自覚できるかどうかが、
 境目になる。 リーマンショックから、一段と世の中が変になっている。ところが何故か、それを覆い隠している何か、
 恐ろしい力。それが何だろう?「世界恐慌は静かに浸透しているが、誰も声高に言わない。いや、言えない」のだろう。
 石ころの大小を言っている自分も、その中の砂利でしかない。結論は、「私も、一般常識とも、変!」 ということ。
・・・・・・
4429, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか 
2013年05月02日(木)
   * 死の恐怖を克服する七つの登山道とは   ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 人生で最大の難関が最期の死。ここには、死の恐怖を克服する著者の椎奨の七つの登山道が書かれている。
スッと、眠るように死にたいが、そうは簡単にいかない。 長生きすれば「死に損ない」と言われそうだし、癌で、あと一年、
数ヶ月と区切られ悶々と死んでいくのも厳しい。現に父親が、そうであった。一年間、傍にいたので、それが直に伝わってきた。 
砂漠の真只中に置かれたような生の渇望の乾きは残酷である。実際に、その立場に置かれて経験しないと分からないこと。
死の恐怖の克服法は知らないより、知っていた方が遥かによい。生への渇望の克服など無理といえば無理。肉体的に精神的にも、
のたうちまわって死んでいくしかないのが実態。だから恐れる。著者が死への登山道という表現は言い得て妙である。 
  ーまずは、7つのルートとはー
ルート1  心が幻想だと理解する道(脳科学の道)
ルート2  すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道)
ルート3  自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道)
ルート4  主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケール思考の道)
ルート5  自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道)
ルート6  幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
ルート7  リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思想の道)
 ▼ 次回から、それぞれのルートの要点を書き出してみるが、最近読んだ、「宇宙は本当にひとつなのか」と、
  「宇宙は何でできているいるのか」(村山斉著)を読んで、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している
  可能性があると知り、単純だが、自分の人生も、死も、大した問題でないことを改めて知った。 これはルート3の、
  客観的スケール思考の道になる。 この7つのルーツの道を繋ぐと、
 ≪ 人間の心は、本来幻想。人の一生は宇宙的スケールでみれば、瞬時でしかない、直ぐ死ぬのも後で死ぬのも同じ。
  また微細な存在。知情意で捉えている時間も幻覚。自分という枠組みも定義で変わるもの。恐怖が幸福の対角にあるとし、
  その幸福という感覚も幻覚。ただそれだけのこと。≫ ということになる。般若心経そのものになる。だから、
  死に直面すると、写経を始めるのは効果がある。こう、まとめると、各ルートを歩くのが面倒に思ったが、よく読むと、
  道筋には含蓄に満ちた景色がある。目先の死を知ってから、それまでの一生分を生きるのだから、学び足りないのは当然。
・・・・・・
4055, 一個の人間の顔、それは一つの象形文字
2012年05月02日(水)           
                 ー 「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より
≪ 「一個の人間の顔、それは一つの象形文字だ。ある神聖な、明確なしるしだ。なかに魂の現在があらわれている。
 動物だってそうではないか水牛がものを咀嚼しているとき、その顔を見てみたまえ、鷲の顔を見てみたまえ、犬の顔を見てみたまえ。
一個の人間の顔の中にはっきりした意欲と決意とがあらわれているとき、それは一個のばらばらな意欲と決意という以上のものだ。
そういう顔をぼくの夢想の中のドイツ人は持っていた。どれも一息つくより短い夢の間にすぎなかったが。 むろんぼくは、
ぼくに向って吹きつけてきたその未知の人物の顔を必ずしもいつも見たわけではない。(中略) だがともかくそういうとき、
ぼくはそういった顔を内側から見たという気になったものだ。『 わたしはこういう人間だ 』と、それらの顔には書かれていた。
そして今ぼくはこの四ヶ月というもの、現実の人間の顔を見ているわけだ。 なにもぼくはかれらに魂がないなどというのではない、
魂の光は一再ならず閃き出るのだが、それがすぐまたふっと消えてしまうのだ。鳩小屋の鳩と同じことで、強と弱、近いものと遠くから
持ってきたもの、卑俗なものと高貴なものとの、永遠の入ったり飛び立ったりなのだ。 あるのはざまざまな可能性のそういった
落着きのない出入りだけ、そしてそこにはつねに、あの一つの偉大な、決して言葉に言い現わせぬ奥底の思想が欠けている。
立派な顔には必ずあるあの変らぬものが。・・・ ≫          ーホフマンスタール『帰国者の手紙』より
 ▼ 顔に責任を持て、と言われても今更だが、年齢を重ねた顔には責任を持たねばならない。
  特に、政治家の大事を成し遂げた顔は、大事の象形文字と見ることが出来る。『わたしはこういう人間だ』と、
  そのまま書かれているようだ。先年、亡くなった片岡球子の人物画の顔が良い。人間の顔が象形文字ということを
  知り尽くしているから、あのような顔がかけるのである。 顔は魂の表出、老いてきたとき、行蔵が、そのまま現れ出る。
    ・・・・・・・
3689, 自己を見つめる −12
2011年05月02日(月)
  * 世間とは        「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 
 世間についても、何度も取り上げてきた。特に絶対神を持たない日本では、右に倣えの世間的価値に同化することが善になる。
人生の最晩年になって、いかに、それが自分の壁になっていたことに気づいて慌てふためく。(それさえない人もいる)
世間から身を守るためには、やはり読書か、芸術や趣味などに専念するなどライフワークが必要である。 
世間を否定するのではなく、それと、心底で距離を置くことが必要である。 
  ー以下の、哲学的世間論も分かりやすい。
【 ー世間とはー 世の中の人が判断する仕方に従って判断する。大勢に準じた生き方のスタイルが、自分自身の生き方のスタイルに
なってしまう。 それ以外に自分の人生を考える余裕もすっかりなくなってしまう。 なにしろ、そうした自己喪失的な大勢順応の
暮らし方のほうが、気楽で、安心で、責任がなく、居心地がいいのである。 下手に逆らったり、別の道を選ぶと、世間から
締め出される危険性が忍び寄ってくる。 みんなと一緒のほうが安全なわけである。 したがって、誰も、真剣に自分のほんとうの
生き方の道などを考えてみようとはしない。 ハイデッガーは、こうした自己喪失的な世人のあり方を「頽落」と呼んだ。
そのときには、世の中の人は、いやな過去のことはどんどん忘れ、将来の成功のことをもっぱら予期し、現在の周りの出来事には、
最大の注意を払って、そこでの出番の成り行きに汲々となる。 そのとき世の中の人は、好奇心に動かされて、噂話や風評に打ち興じ、
物事の真相を曖昧にしたまま、仕事や趣味や遊びや気晴らしで、興奮した多忙な日々を送る。そうしないと、恐ろしい倦怠と、
ぞっとするような人生の深淵が眼に入ってきて、鬱陶しいのである。そうして、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な
世界内存在の表面ないし前景を形作ることになる。・・・ 】
 − 世間とは、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な世界内存在に生きている人たちをいう。しかし人間は、自分の存在の
根底を見つめたとき、投げ出された底なしの存在に、不安を覚えるもの。その気分の方が、人間の根源に潜む根源的気分であると、
ハイデッガーが看破した。 それは死にさらされた自己自身の存在の自覚とともに立ち上がってくるという。
その逆に、存在の根底から目を背ける人たちが世間の人である。我々は底なしの存在から目を背け現象に気持ちを集中させて
生きようとする別名、俗人ということになる。 俗人も悪くはないが。
・・・・・・・
3324, 「B層」という「IQ]が低い人々
 2010年05月02日(日)
 ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ーの中で、B層という言葉が印象的に残った。
 以前、小泉元首相が、≪一言メッセージ≫を国民にわかりやすくコメントしたり、郵政解散で自民党の内部分裂を
ショーにして選挙に大勝した。 これは、考えない「B層」に狙いを絞った戦略だったことを、この本で知った。
その後の民主党の大勝も、「腐りきった長期政権の自民党の破壊」という分かりやすい争点であった。
それにしても、小泉、安部、福田、麻生、鳩山という政治を家業とする二代目が、徹底的に日本を破壊してくれた。
創造の前の破壊なら、それも良しだが。どうも、そうでもない。アメリカの実質、日本の植民地化の政策が背後にある。
彼等二世の養成もアメリカの長期戦略の一つ? 恐ろしい限りである。
 ーウィキペディアによると 「B層」とは
2005年、小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社「スリード」が、
小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。その後、ポピュリズムに動員される国民層を揶揄する意味合いで
使われるようになった。  スリード社の企画書では国民を
「構造改革に肯定的か否か」を横軸、「IQ軸(EQ、ITQを含む独自の概念とされる)」を縦軸として分類し、
「IQ」が比較的低くかつ構造改革に中立ないし肯定的な層を「B層」とした。 主に主婦や教育レベルの低い若年層、
高齢者層を指すものとされる。 上記の企画書がネット等を通じて公に流布されたため、
資料中に使用された「IQ」(知能指数)の語や露骨なマーケティング戦略が物議を醸すところとなり、国会でも取り上げられた。
・「A層」=エコノミストを始めとして、基本的に民営化の必要性は感じているが、これまで、特に道路公団民営化の結末からの
  類推上、結果について悲観的な観測を持っており、批判的立場を形成している。「IQ」が比較的高く、構造改革に肯定的。
  *構成ー財界勝ち組企業、大学教授、マスメディア(テレビ)、都市部ホワイトカラーなど
・「B層」=現状では郵政への満足度が高いため、道路などへの公共事業批判ほどたやすく支持は得られない。郵政民営化への
  支持を取り付けるため、より深いレベルでの合意形成が不可欠。   「IQ」が比較的低く、構造改革に中立・肯定的。
  *構成ー主婦層、若年層、高齢者層など。具体的なことは分からないが小泉総理のキャラクター・内閣閣僚を支持。
・「C層」 構造改革抵抗守旧派。          「IQ」が比較的高く、構造改革に否定的。
  〜〜
 大前は、「B層という知の減退した人たちと一線を引いて、何とかA層に入りなさい!」というから辛辣といえば辛辣。
しかし、この日本の低たらくの現実がある。 ネット社会=情報化社会では、端末から価値ある情報が無限に引き出せる。
したがって彼の論旨も、ある意味で納得できる。 知能まで植民地の住人に落ちてしまったB層の比率の拡大? 
  周囲は、ほぼB層? ということは、私も? まあ、いいか!  で、A層とかいう幸せな方々、実はD層じゃないかい 
 (一番大事なことを考えない、見えてない、という意味で?) 上記の5人が、その証明。  闘い続けている点は認めるが!
 ・・・・・・・・
2949, スリルな瀬戸際だった日々
2009年05月02日(土)
 先日の4月28日に、無事に第二シングル・インの中のテナントが決まり、調印が終わった。そして午後にテナントの内装屋から
 電話が入り、「建物の用途変更は、お宅でして貰えるのでしょうね」という。     (字数の関係でカット2,008年5月2日)
 ・・・・・・・・
2585, 情報は1冊のノートにまとめなさい
2008年05月02日(金)
「情報は1冊のノートにまとめなさい 」
 −100円でつくる万能「情報整理ノート」 ー奥野宣之著
 (以下、字数制限のためカット2010年5月2日)
・・・・・・・・・
2007年05月02日(水)     ー遇然同日に、酒の話があった。面白いものだ2008年5月02日
 2220, 酒の話ー3  +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゜・:*☆  
酒の話は、ここで何度も取り上げてきた。酒には付き合い酒、祝い酒、涙酒、別れ酒、
怒り酒、迎え酒、寝酒など、色いろあるが、あるHPで酒に関する面白い文に行き当たった。
酒は下ネタと同じく時空を超えて万国共通であるためか人間の本質を知る上で身に沁みる戒めが多い。
特に私は!? 偶然の一致だが、三年前の今日、『酒について』というテーマで酒について、
書いていた。面白いものである。 それにしても、酒の失敗があまりにも多い!
  =====
*まずは『旧約聖書外典』である。『外典』は、『正典』としての「旧約」や「新約」聖書の成立の編纂で、
排除された文章をまとめたもので、酒に関する戒めのような実用的なものが多い。
これが2000年前の旧約聖書にあったのだから、酒は今も昔も人間を狂わせてきた魔物。
 ー『旧約聖書外典』(関根正雄編 講談社文芸文庫)よりー
大酒を飲むことで勇者を気取るな           酒で失敗した人は多いのだ
炉が鋼鉄をためすように               酒は酔っ払う人の性格をためす
酒はほどよく飲めば                 生命の力となる
酒なくして何の人生か                酒は人を幸せにするために作られた
時をえらんでほどよく飲めば             酒は心を楽しませ 愉快にする
だが飲みすぎれば苦い思いを味わい          怒りと復讐の心を生む
愚か者は酒によって憤り 自ら害を招く        酒は力を弱め ついには障害をうけるようになる
酒の席ではとなりの客と争うな            相客が楽しんでいるのを妨げるな
隣人をあざけったり                 借金の催促などをしてはいけない
====
また若山牧水「酒の歌」で『今まで自分のして来たことで多少とも眼だつものは矢張り歌を
  作ってきた事だけの様である。いま一つ、出鱈目に酒を飲んで来た事。』と酒の思いを述べている。
ー牧水の酒のうたー
(字数制限の関係でカット09年5月02日)


4795,「消費される物語」 ー4

2014年05月01日(木)

                     朝日新聞(4月22日) 耕論「消費される物語」
   * 二つの大震災は「自然と文明」の大きな物語に開かれる機会だった!
 私の人生のテーマは、「創業と事業を遊ぶ」だったが、それもブラック・スワン(思いもよらない震災クラスの事象)
の何羽かの出現で終りを遂げたが、結果に対して挫折感は殆どない。むしろ、自分の手で息の根を止めることが出来て、
良かったと手前勝手に思っている。で、これも、物語。物語とは手前勝手の筋書きでしかない。無事にリタイアをして、
事業を次に送ったとしたら、閉じられた一つの物語だが、私の結末は、破壊により開かれた物語になる。
 ものは考えようである。 しかし、物語には節操が必要である。 ーその辺りからー
《 ー忘れられる節操ー  将来への不安がのしかかってなかで、私たちは小さく閉じたきな物語の方向に開かれる
 身近な物語に癒やされているわけです。最近は作曲家を話題にするときに、作品と関係のない事柄が全面に出てくる。
女性の研究者の話題でも、メディアは研究の内容関係ないファッションや趣味などを大きく取り上げる。それが節操のない
ことだという了解がなくなっている。 STAP細胞を発見したのが、30歳の女性ではなく、さえない中年の男性ならこれほど
社会的な関心を持たれることはなかった。本筋と関係ない過剰な物語がつくられることで、スタップ細胞について、
よりよく理解できたかというと、そうではない。
 物語は自ら完結する性質があります。つまり物語の外を遮断して閉じているということですが、この閉じた物語を
あえて開いて、外にまなざしを向けるのが人間の進歩というものだったと思います。
 けれども、物語を外に向けて開くことなく、心地よい物語を作っては消費して、飽きたら捨ててまた新しい物語を作る。
その繰り返しでは社会の進歩はありません。阪神と東日本の大震災は、「喪失と癒やし」といった小さな物語として
消費されてしまいがちですが、本来「自然と文明」という大きな物語の方向に開かれるいい機会でした。人間の文明など、
自然の力で一瞬にして押し流されることがある。そう気づいた以上、「私たちとは何者か」と語りなおすことによって、
内向きの物語が外に向かって開かれる可能性があったのですが。結局、「復興」という美名を冠したあまたの物語に
のみ込まれてしまっています。
 私が小説家として目指しているのは「閉じない物語」。いろいろな人間、価値観が混じりあって混然一体となった
空間です。いたるところに破れ目や出口がある。あえて完結はしない、大団円やオチがない物語が理想ですね。》
 ▼ 地元の城下町・長岡に戻ってきたとき、「アッ危ない!」と思った。『閉じられた孤島の世界があって、
  この価値体系に飲み込まれると自分の一生が潰されてしまう。とにもかくにも、距離を置くこと。自分の世界を
 つくり、第三者をいれないこと!』であった。こう割り切ると、これほど面白い世界はない。で、今回も、その
 距離のおかげで、比較的、冷静にいられる。「目くそ、鼻くそを笑う」というが、そんなもの、「ドくそ、目くそ、
 鼻くそ(を)、笑う」でしかない。逆に「ドくそ、目くそ、鼻くそに笑われる」と、割り切ればよい。所詮は、共同幻想で
 しかないのだから。挫折を個人にとっての大震災と喩えると、その人を取り囲んでいる地球の、そして身近な
 「自然と文明」に、気づき、開かれる機会になる。この東北大震災も、リーマンショックも、日本人に、いや、
 人類にとって、「文明の行方の方向性を、根本から考え直せ」になる。私も、この結果を含めて人生の意味を考えると、
 森の生活から、サバンナの生活に移行し、早く馴染め! ということか。 
  これからして、{『東京オリンピック』は、明らかに愚行そのもの!} いや、{オリンピックは文明の象徴、
 これで良い!}と意見が分かれるが、私は、せっかくの再生のチャンスを潰す象徴!の方が、正しいと思うが・・
・・・・・・
4428, 前期高齢者になって、気づいたこと!
2013年05月01日(水)
  * 老人教育の必要性
 前期高齢者になって丸二年になる。丁度、会社も無くなり、年金暮らしに入り、丸裸の自分に直面、そこで改めて
自分の年齢に驚いている。まず気持ちが年齢についていけない。まだ50歳半ばというところ。
 数年前に親戚の法事に出たが、宴席で80歳位の人の愚痴が始まった。「後期高齢者という命名が人を馬鹿にしたようで
気に入らない」「免許書換えで、返納を考えるように暗にいわれた」とか。そこで、年寄りの愚痴ほど周囲を不愉快にする
ことを教わった。私の両親の愚痴を殆ど聞いたことはない。 肉体の衰えが精神に転化し顕れるのが愚痴。スポーツジムに
毎日通って腰痛は軽くなったが、何かしらイライラする頻度が多くなった。さしあたった心配事がないこともある。
 「前期高齢者」「後期高齢者」という命名は確かに失敗。例えば前期を「グリーン高齢者」、後期を「プラチナ高齢者」
ぐらいにする心遣いも必要である。歳を重ねるたび身体は重く、気持ちは暗くなり、身内や身辺の悪口、あら探しの
度合いが強くなるのが老化のようだ。 他人をみると分かるが、自分になると自覚できない。それもあるから年寄りは
意識して明るくなければならない。それと自立が出来てなかった人ほど老人の甘えが強い。 政府が音頭をとって、
地域自治体に「お年寄りの心得」とかいうセミナーの聴講を義務づければよい。 私など最も手のつけられない偏屈老人に
なりそうだが・・ 日本は世界の名だたる長寿国になったが、それに備える知識教育はされてない。 その以前に、
自立と教養の問題に行き着く。 御隠居学とか、余生の過ごし方のようなノウハウ本には、長年かけた準備が必要とあるが、
今日明日、そう簡単に良い老人への変身など土台無理の話。そこで、せめて「明るく自立した生き方を目指すべき。
老人になると、人生で培ってきた要素の格差が大きく出てくる。老いていく自分を自虐的に鳥瞰するのも面白いもの!
  ー たまたまだが、以下の内容が、丁度つながる。
・・・・・・
4054, 吹き来る風が私に云う
2012年05月01日(火)
  ー 帰郷 ー   中原中也
柱も庭も乾いてゐる 今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が 心細さうに揺れてゐる

山では枯木も息を吐く あゝ今日は好い天気だ
路傍の草陰が あどけない愁しみをする

これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと 年増婦の低い声もする

あゝ おまえはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に云う
  ーー
 この最後の二行が、現在の自分の心?でもある。 自分だけでない、晩年の人間から湧き出る言葉。
「あゝ、おまえは何をしてきたのだと・・・吹き来る風が云う」 ったく!お前という奴は!と、まともに人生を生きてくれば、
この言葉が出るのが自然。 秘境ツアーで、平々凡々に生きてきた人が病気で突然、死に直面し慌てて人生の余白を埋めに
来た人に出会ったことがある。 死線を彷徨った手術の後、壮大な景色に感動して夫婦して肩を抱き合い泣いている姿も見た。
ネパールで遠景のヒマラヤ連峰が一望できる丘であった。 パタゴニアでは初老の婦人が何気なく、「親のいう通り生きてきたが、
ハッと気づくと、先が無い。 私の人生で何もしてこなかった。このままでは死にきれない。この旅行は、その穴埋めにきた」と、
道すがら語りかけてきた。「・・・吹き来る風が云う」声で追われるように旅立ってきて、そこで何を感じたのだろう。 
 実は、この矛盾こそ実在。 生きてきた証である。 エッ 証文が束になっている? 誰? ただ飄々と風がふく。
 ・・・・・・・・
3688, 自己を見つめる −11
2011年05月01日(日)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  愛の不在の人=肉親の愛情に恵まれなかった人を見抜くことは難しい。 両親の仲が悪い子供には往々に多いが。
 愛の不在の人は普段は分からないが、節目時に、それが表面化する。 人への憎悪と呪いが、そこで爆発する。
 これは誰々という訳でなく、全ての人の心の奥に巣くっている。 節目時は、傷ついている場合が多い。
 そのマイナーのエネルギーをプラスに転換するには、そのまま流される数倍のエネルギーを要する。
 しかし流される人は意志が弱いため、そのエネルギーが空回りをしてしまう。そして自爆になっていく。 
  以下の箇所も、充分、肯ける部分である。
  ー愛の不在ー
【 小さいときから、肉親の愛情に恵まれず、誰からも優しい扱いを少しも受けなかった人があったとすれば、多分その人は、
心の奥底に深い傷を抱いて、その後ずっと人生を恨みとおし、表面は穏やかであっても、おそらく心の底では、一生を通じてずっと、
他者に対して暖かい心をもつことができず、絶対に他人を許そうとはしないであろう。 小さい頃に親の愛情に恵まれなかった人、
また、周囲の人たちから嫌われ、いじめられ、除け者にされたと思っている人、さらに、長じてからも憂き世の労苦と意地悪な
世間にもみくちゃにされて、何の優しい愛の絆をも構築することができなかった人、そうした人は、その原因が何であれ、
その隠された心のなかで、人生を憎悪し、呪うことになるであろう。 そうした人は、自虐や他虐のふるまい方をする以外に、
人生への仕方をすることができなくなるであろう。 そのすさんだ心には、辛い人生に復讐する怨恨構の爆発だけが、
この世の慰めとなるであろう。 これは、ひとごとではない人生の最重要問題である。 こういう否定的な感情は多れ少なかれ、
誰のうちにも巣くっている心の病だからである。なぜなら人間は、どこにおいても、厳しい人間関係のなかに置かれ、
大なり小なり、この世の荒波にもまれ傷つ経験を免れがたいからである。】
 ▼ 無条件に親の愛をうけた人は、それが温もりとして性格を形成する。 逆の人は否定的感情に支配され、深く自分を傷つける。 
  それは誰も持っているが人により強弱がある。 普通の流れでは、それは出てこないが、節目時に暴風となる。それも家族全体が。
 ・・・・・・・
3323, 「なぜ・なぜならば」の極限としての自由
 2010年05月01日(土)
  『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著 −3
「理性の極限として自由に行き着く」とは、驚きだが納得できる。 そしてカントも自由が「創造的能力」と看破。
自由は第一原因であることから、当然の帰結である。  自分の真にしたいことを人生を通して貫き、
創造性を発揮することが自由であり、それが理念であり、そこに理性が働くことになる。
 *「なぜ・なぜならば」の極限としての自由  ーP・205 から
≪ 自由は第一原因である。原因は理由であり根拠であり、「なぜ」「なぜならば」であったから、第一原因としての自由は、
意外に思われるかもしれないが、「なぜ」および「なぜならば」の極限である。日常のことばの使用法からすれば、
「なぜ」は単なる疑問詞であり、「なぜなら」も単なる接続詞にすぎず、これらが自由とじかに結びつくことはない。
それを思えばよくよく意外な地点に到達したものである。しかし、「なぜ」「なぜならば」「理由」「根拠」「原因」、
そして「第一原因」と、一連の鎖を極限までたどってくると、おのずと「自由」に逢着せざるをえなかったのである。
これらの鎖の項は、いずれも理性のメタモルフォーゼ(変容・化体)である。理性は自由の最終的メタモルフォーゼである。
そして、自由はあの「なぜ存在するものがあって、むしろ無ではないのか」というライプニッツ以来の問いに対する、
考えられうる「なぜならば」の中で究極のものである。 その意味で、先にアプリオリな判断が、ライプニッツによる
十分な理由の法則の成長形態であることを確認したが自由はその成長の極致と言ってよい。
われわれ独自の定式で言えば、「なぜ『なぜ』なのか」という問いに対する究極の「なぜならば」でもある。
この背後に関しては、哲学はソクラテス以来の率直な「無知の知」をもって答える以外にない。
究極の「なぜならば」であるかぎり、そのさらに「なぜ」は少なくとも理性にとっては無意味である。
カント自身も、「なぜ」自由が可能なのかは、答えることが出来ないとした。自由が「なぜ」(理由=理性)の極限であれば、
理性にとってそれ以上の「なぜ」はあるはずがない。あえてその背後に踏み込もうとすると、理性の限界外に越権を犯すことになり
言葉が空転する。そこには、理性を満足させうる答えはない。 というのは、理性を満足させうるのは再び理性のみであり、
理性の限界外には「非理性」があるだけだからである。 ちょうど、鏡に万物が映し出されるが、しかしその中には何も
実在していないように。 非理性によって満足するものがあるとすれば、それはさしずめ「構想力」(イマージネーション)
であろうが、それを満足させることができるのも、やはり逞しい構想力であって理性ではない。・・・・
 たしかに自由は無からの創造に類似する。超時間から時間への作用である自由は、どこか神による無からの創造を思わせる。
カントも自由が「創造的能力」であることを、はっきり認めていた。 しかし、理性的存在者としての人間は、その自由ゆえ
自己の行為の創造者でありえても、世界の創造者ではない。≫
〜「よく遊び、よく学び、よく遊ぶ」これが創造的能力を発揮する! この「よく」が理性? 親、社会の刷り込みからの自由?
・・・・・・・・・
2948, 報道されないニュース
2009年05月01日(金)  
 ネットで「商業販売、過去最大24.0%減に」をみて驚いた。 大手の新聞記事を探したが見当たらない。
報道管制をしているのである? メーカーが40〜50パーセント減、流通・サービスが30〜40パーセント減、
と言われているが、あまり表面だった報道はされていない。ところが、共同通信社のHPに、この記事があった。
スーパー、百貨店などが24パーセント減とは、マスコミは間違っても報道はしないが、実際は、そんなところか?
日本は、とんでもない領域にあるということだ。 時間の経過と共にツルベオトシになっている。
これに豚インフルエンザときたら、5〜6月は大荒れになってしまう。即死の企業が多出するのは必然である。
*3月商業販売、過去最大24.0%減=卸の全業種マイナスに  4月28日11時1分配信 時事通信
  経済産業省が28日発表した3月の商業販売統計によると、卸売りと小売りを合計した商業販売額は前年同月比24.0%減の
  45兆0650億円となり、4カ月連続で過去最大の減少幅を記録した。自動車や半導体の輸出が不振で、卸売業販売額が
  29.2%減の33兆3420億円と急減したことが響いた。  卸売りは全業種でマイナス。 
*2月商業販売、過去最大21.5%減=卸、小売りの全業種がマイナス (2009/03/27-10:20)
  ≪字数制限のためカット 2011年5月1日≫
・・・・・・・・・・
2584, ただ、生命だけが‘びくびく’と生きている
2008年05月01日(木)
 ー「人生の答え」の出し方ー  柳田邦夫著 ー2
この本の「魂を揺さぶる言葉」という項目の中でー「いのちの初夜」 北條民雄著ーを取り上げていた。
ハンセン病のために隔離され疎外され、23歳で夭折した小説家・北条民雄の代表作「いのちの初夜」で、
古株の患者が新入患者である主人公に語る言葉の一部がある。 まず、その部分を書き写してみる。
 ーー
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち そのものなんです。
僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。 あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。
ただ、生命だけが‘びくびく’と生きているのです。 なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那(せつな)に、
その人の人間は亡びるのです。 死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では
決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。 けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、
全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復(かえ)るのです。復活そう復活です。 びくびくと生きている生命が
肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。
死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。
ひとたび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」・・?   「いのちの初夜」より
 ここからは、ー「人生の答えの出し方ーより??
・・ハンセン病になったとたんに、家族からも地域からも排斥され、社会的存在としての人間は抹消されてしまう。 
しかも、病気の進行によって、肉体は崩れて感覚器官もうしなわれていく。まさしく<生命だけが、びくびくと生きている>
状態になることを、北条は残酷なまでに表現している。<びくびく>という形容詞が情景と本質を正しく表現する決め手に
なっている。・・この作家が川端康成に出した手紙の中に次のような文章がある。
「この作品は書かねばならないものでした。・・僕には、生涯忘れることの出来ない恐ろしい気(ママ)憶です。
・・僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。」
 ーー
解)「人生の答え」など、あるわけがないと、この本を読むまでは考えていた。ところが、此処には、その答えがあったのである。
  この本の構想のメモには、
 <俺は俺の苦痛を信じる。如何なる論理も思想も信じるに足りない。 ただこの苦痛のみが 人間を再建するのだ。>
 とすざましいことをいっている。 人間は、死を直前に突きつけられると「生きる意味」に気づかされるのである。
 死を目の前に突きつけられると、自分が宇宙のチリの中の微粒子の、そのまた無に無限に近い存在に気づかされるのである。
 そして、そこから改めて現世に振り返って、そのことを考えている己を見つめ直すと生死の際でボウフラのように、ふわふわ
 している存在に大きな愛情を感じる。 著者のライ患者・北条は、そこで苦しみ苦痛こそ、崩れ去ろうとする人間性を 
 再建させてくれると悟り、 書くことに全てを捧げる。 それこそが、人生の答えの出し方である。 
 「その苦痛こそ、多くの人間の苦悩を救うことが出来る。それを書くという一点に全てを集中すること」
 それが人生の答であると、柳田邦夫は看破している。
 ・・・・・・・・・
2007年05月01日(火)  
 2219.平凡って幸せなの?         おはよう! (=゜ω゜)ノょぅ!
数日前の出勤前の朝飯の時に、家内が神妙な顔をして「平凡な生活って幸せなの?」と聞いてきた。私が読んでいた
「14歳からの哲学」(池田晶子)を、この数日の間、読んだ影響だろうと思ったが、待ってましたとばかりの
瞬時の私の答えといえば・・・
▼ 「もちろん、平凡ってのは幸せだと思う。何でもそうだが、平凡の生活も、非凡も、現象をどう受けとめるかだ。
脳には長年かけて作りあげた、絶対超越言明という、言葉の受け皿がある。その受け皿が<受け止め方>として、
自分の脳の中で、経験を分類・整理をするようになっている。だからマイナス要素の強い人なら、その受け皿の分類で
何ごともマイナスに選り分けることになるし、プラス要素の人ならプラスに分類・整理をするだろう。
(字数制限のためカット 2014年5月01日)


4794,閑話小題 ーつれづれに〜4月29日

2014年04月30日(水)

  * 4月29日の午後は、寝室でTV三昧
 4月29日の祝日は、毎年、全日本柔道選手権のTV観戦をしているが、昨日の午後は、これに加えて、
巨人・ヤクルト戦、サッカーの新潟アレビレックス戦、映画のアーカイブを、寝室にこもり一人で同時に見ていた。
どれもこれも面白く、伯仲した思わぬ展開が続いていた。 特に残念だったのが、巨・ヤ戦。九回の表、エース
菅野が完投勝利直前の三対一から、思いもよらぬ選手から逆転スリーランを打たれてしまった。 このところ、
負け続けのヤクルトが気の毒に思い、急遽、ホームランを願ったところ、それが通じてか、逆転をして、会場は騒然。
ところが、その時、「逆転サヨナラホームラン」と、勘違いをしてしまい、チャンネルを全日本柔道に変えてしまたが、
そこでも熱戦が繰り広げられ、決勝で21歳の無名の伏兵が、優勝候補を破って優勝をした。 その思わぬ結果に、
本人は何と「優勝候補に自分の名前が一切、取り上げられなかったのが悔しくて、それを晴らそうと優勝を狙ったいた」
と、いう。「自分が優勝など思っていませんでした」と、答えると思っていたため、耳を疑ったが、本人には、
「優勝できる手応えが元もとあった」と、言いたかったようだ。
 アーカイブの映画も、いずれの試合も面白かった。しかし、夕方のニュースで、巨人が9回裏に更に逆転サヨナラで
勝利したと知り、一番面白い場面の観戦が出来なかった勘違いに、我ながら驚いた始末。 我ながら、平凡な、
ありきたりの、軽い御隠居になったものだが、それは、それで、気に入っている。見方によれば、TVで頭をやられた、
バカなヤツになる。 それでも、朝、4時に起きて、随想日記を書き上げ、信濃川の大橋と土手を一周し、午前中は、
読書とパソコンに向かった上だから、と自分に言い聞かせているのだから、真面目というか、硬いというか・・・ 
 で、今朝は小雨で、ポタリングは無理?かどうかと、空を見上げ、ため息をついている。
・・・・・・
2013年04月30日(火)
4427, 閑話小題ー 「人生−仕事=?」の質問
  * 「人生−仕事=?」の質問
 「貴方の人生から仕事を差し引いた何が残る?」という問いかけ。 さしずめ私は屁理屈と、秘境ツアーの思い出と、
酒癖の悪さ、この随想日記の辺り。そして幾つかの建物。ところで人生の中で仕事はどれほど重要な位置を占めるのだろう? 
知らない人に出会ったとき、まず知りたいのは職業で、趣味は後になる。都会のセミナーや何かの同好会で、初対面の素性を
知りたいとしたら、まず職業と肩書きである。その後、学歴、出身地、趣味になっていく。それだけ職業は大きな要素である。
人生とは生まれて死ぬまでの生きた道筋。そこで職業は生活をしていくベースで、まずは、その確保が必要になる。
とすると、「人生=仕事+?」になる。「?」を思いついた順に書いてみると、金、教養、趣味、愛、夢、家族、仁、神、
自分の世界、情熱、世間体、などが出てくる。仕事の中に、それら集約されたものが含まれる。 私の場合、挫折を入れ、
「人生ー仕事=挫折」とし、置き換えると「人生=仕事+挫折」。人生から見れば「成功」と変わらない? 実際は上記の全て。
   * どうも人は、長期的思考が苦手のよう
 事業が長期的設備投資のため、常に長期的、中期的、短期的に分けて考える習慣が身についているが、どうも一般的には、
長期的思考が苦手のようだ。大家族の商家の末っ子で、姉兄が自分の3、5、7、9、12歳上のため、自分の将来が
垣間見れる位置にいた。商家は家庭が日常戦場の現場で、不安の真只中に置かれていた。そして一年一年、家族が同時に
歳を重ねながら変化していくのが刺激的であった。変化は残酷にも現状を破壊する。その中で、親の目が届かないため、
まず自分の身を守らなければならない。そうこうあり、全神経を身近な周囲に向ける癖がついてしまった。特に商売の
先行きが幼児ながら心配で、時代の成り行きには敏感であった。それが、そのまま現在まで続いている。では長期思考が
得意かというと、そうでない。そうならば、この結末に至らない。9・11テロの地方経済に及ぼす影響と、リーマンショックで、
売上が三分の一まで落ち込むとは想定外で、これである。過去10年の想定外の出来事を、これから10年先に想定したら、
誰もが竦むはず。楽観的だから人間は生きていけるが、対策はとって置くべき。特に、このアベノミクスには注意すべき。
この10年の延長上の大地震の頻発と、火山の噴火、更なる経済変動(恐慌)、北朝鮮の暴発、国境紛争を切欠とした戦争、
などなど、いつ何が起きても不思議でない。大変動を冷静に受け入れるしかないが、刺激的で、面白い時代でもある。
・・・・・・
2012年04月30日(月)
4053, 閑話小題
   * 自分の傷口の血で、他人の傷口の血を洗うな!
 その辺のシラミというより、人間というものは、他人の血の臭いを嗅ぎ付けると本能的に食いついてくる。
自分の傷口の血を相手の傷口に擦りつけたくなるのは本能のなせる業。結局、それは自分の傷を化膿させる。他人の不幸は密の味で、
シタリ顔をして評価が始まる。 その家系や過去の出来事をあたかも知り尽くした気になり、人物鑑定から始まり最後は嘲笑で終わる。 
それが共同幻想化をしていき化け物のように変異していく。 しかし実際の化け物は、それをつくり上げているシロアリ集団そのもの。 
 地方に痴呆が多いのも変化が少ないため。如何に何もしなかった、いや、出来なかった自分がマトモと言いたいのである。
逆に、それに縛られてしまっている自分たちの姿が見えなくなっている。老齢化社会とは、こういうことだ。
  * 4月29日といえば
 例年楽しみにしている天皇賞と日本柔道選手権も、ダークホースが優勝をした。それがGWの連休が始まりである。 梅も桜も散り、
鯉のぼりの時節になる。この数年来、信濃川沿岸近くの公園で鯉のぼりが多く上る。 初夏の到来である。 また季節の変わり目で、
軽い腰痛が出るが、トレーニングの為か何とか軽く収まっている。 積雪のため休んでいた早朝のミニサイクリングも、慣れてきた。
日本と世界経済も、何時、暴発するかどうかの緊迫の中、どうしてもマイナス思考になりがち。しかし、情報化の御陰で面白いことに
近づける。こういう時代、「よく見れば、なずな花咲、垣根かな」で、身近な楽しみを味わうこと。 TVの昔のドラマの再放送も、
ジックリ見るとけっこう面白いのが多い。だんだん、この生活に慣れてくると、味わい深くなっていく。御隠居とは、よく言ったもの。 
・・・・・
2011年04月30日(土)
3687, 節目どきに ー11
  * 今年の桜
 今年の桜も、悠久山もほぼ散ってしまった。私の主観でいうと、「福島江の桜は例年並み、悠久山は、数年に一度の咲き具合。」 
だったが、丁度みた時間帯などにもよる。しかし去年の写真を見ると同じようなものだから、主観的な要素が強いということか。
大震災で花見という雰囲気ではない。ボンボリも殆どなく、人影も普段の散歩程度しか見かけられなかった。
やはり、何かが変ってしまったようだ。
  * 居間を追われ
 数日前、家内に「居間を昼間、占拠されていると自分のいる場所がないので、仏間の一角の書斎コーナーに行くように」と
強く言われ憮然とした。 が、考えてみれば、その通り。そこで事務所から引き上げてきたパソコンの荷をほどき、机に移動、
ネットに結んだ。パソコンの設定が違っているため、SEをしている知人にお願いをして苦労惨澹の末、結ぶことができた。 
そうなってしまうと、そこが最適の居場所になり、家内からのシェルター?にもなっている。 中古でも良いから以前より、
ここにパソコンを、もう一台置いておけばという、欲目が出てきている。 それにしてもパソコンの存在は大きい。
「酒に、タバコに、そしてiphne」と言われる位に、スマートフォンの影響は大きいというが、納得できる。
  * 生活保護者受給者数が200万
 生活保護受給者が200万人となり、10年前に比べ8割も多くなっているという。さらに、この震災で大幅に増えるのは明らか。 
震災・原発事故の問題で景気は一段と悪化、生活保護受給者が数十万は増加するのは必至。 現在の生活保護費は3兆円を超えており、
今後4兆円になっていくのだろうが、予算の一割が生活保護費とは! この大震災の経済における影響は底しれぬ影響を今後、
もたらすことになる。それにしても、現在おかれている状況からみる日本は、あまりに楽観的である。
・・・・・・・
2010年04月30日(金)   
 3322、iPadについて
 iPadについて、「ウェブ進化論」著者の梅田望夫が、どのように見ているのか知りたかったが、
4月26日(月曜の産経新聞・一面)のコラムで以下のような感想を述べていた。
雑誌や、週刊誌の記者が実際に使ってみた感想と同じだが、同じことをいっても専門家の言うことは重みが違ってくる。 
私も使ってはいないが、ネットでデモの画面の内容をみて、「これは現在ある紙を媒体とした情報手段を叩き壊すだけでなく、
携帯電話や、iPodや、パソコンが生活様式を変えたより、大きなインパクトを与える革命的な存在になる」予感がした。
iPodやiPoneのソフトの下地にあるから相乗効果を出すはず。 書籍だけでなく新聞を、これを媒体として、
見るようになる。5年から7年で、本や雑誌の出版が1〜2割まで落ち込む可能性があるという。
 ■ 全てを“本”にするiPad   梅田望夫 (産経新聞)■
4月3日、米アップルがタブレット型コンピューター「iPad」を発売した。事前にネット注文していた私は
3日は外出の予定を入れず、自宅でiPadの配達を待った。そして、アップルストア開店から4時間遅れて中国から
フェデックスでiPadが届いた。 iPadは電子書籍端末としての期待も大きい商品だが、使ってみて私が直感したのは、
これは創業者ジョブズが昔から作りたかった「理想のマルチメディア・コンピューター」の姿そのものだ、ということだった。 
アップルの社名はもともとアップルコンピューターだった。しかし90年代に経営危機に陥り、携帯音楽プレーヤー
「iPod」の大ヒットなどで復活したあと、業態と合わせるために社名からコンピューターがはずれた。
しかしジョブズは執拗にコンピューターを構想し続けていて、いまiPadという製品に結実させたのである。
使い始めてしばらくして私は、ぜんぜん想像していなかった不思議な感覚を味わうことになった。
 「あれっ、本と雑誌と新聞とウェブサイトの区別がつかなくなってきたぞ」と。
昨年アマゾンが電子書籍端末「Kindle」を世に出したとき、人々は「本がまるで本であるかのように読める」ことに驚いた。
しかしiPadは、本や雑誌といった出版商品だけでなく、ウェブコンテンツであれ書類であれ、何でも読めるコンピューター。
しかも形状は電子書籍端末に近く、カラー画面上に指を滑らせるだけで、ウェブコンテンツにつきものの夾雑物をも取り除ける。
その結果、利用者に「本以外のすべてのコンテンツを、あたかも本を読んでいるかのように錯覚させてしまう」効果をもたらす。
「本がまるで本であるかのように読める」というのとは全く違うのである。 本も雑誌も新聞も、紙と印刷技術を前提にした
パッケージ商品である。 電子書籍とはこれまで、その「本という概念」を変えることなく電子化することを意味していた。
雑誌や新聞の電子化も右に同じ。 Kindleはその方向性に忠実な端末だ。
しかしiPadの登場は、逆に「本と本以外のあらゆるコンテンツの境界が揺らぐ感覚」を私たちに味わわせる。
そしてその揺らいだところに新しい技術が注入されれば、越境により新しいジャンルが創出できそうな予感に満ちている。
いまiPadにいちばん興奮しているのは、初期の利用者以上に、世界中の開発者やクリエーターたちだと言っていいだろう。 
iPadとは、ジョブズが仕掛けた「メディア産業全体に創造的破壊をもたらす時限爆弾」なのだ。
 iPadの米国での販売台数は発売から1週間で50万台以上と、事前予測を超える大ヒットとなった。
供給がまったく追い付かず、米国でもなかなか手に入らない。日本を含む米国以外での発売時期は1カ月延期されて5月末。
 〜〜
 【ツイッター、3D/TV、そして、これ。 よくぞ次から次へと21世紀的なソフト、マシーンが出てくる!】
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2009年04月30日(木)
 2947,全日本柔道選手権  ー2009年
 毎年、全日本柔道選手権は(壮絶の試合になるので)必ず見ている。そして毎年4月30日は(一昨年を除いて)
前日の試合の感想を書いてきた。それを読むと、それぞれの時代の有力選手の姿などが見えてくる。
今年は24歳の若手の穴井が優勝をしたが、決勝戦の棟田との試合は極限の中での勝負であった。
最後の最後に若さの力を振り絞った穴井が逆転勝ちをしたが、見ていて感動的だった。
 去年までの数年間は、井上、鈴木、棟田、石井が準々決勝の常連だったが、今年は井上と、石井が引退、
鈴木も準々決勝で敗退してしまった。 時代の変化が、そのまま現れていた。
この試合は体重別でないのが良いし、日本人柔道家にとって思い入れの深い選手権。
次の主役が穴井と準決勝まで勝ち進んだ高井が浮き上がった。 毎年のことだが死力を尽くしきった試合は心を打つ。 
また、今年勝った、穴井が優勝をして男泣きしていた姿が何ともいえない純粋さが現われていた。 
石井が去年のオリンピックの金メダルを取った後の引退騒動。 彼によって柔道そのものが汚されてしまった。
それが柔道界全体に後をひいたように感じたが。 石井の醜態は、柔道そのものを汚した反面、
世界は柔道から「ジュウドウ」への流れを、石井は適応してオリンピックで優勝をした実績は実績である。 
 ところで毎年書き続けてきた文章を一切に目にしないで見たままを書いているが、
自分自身を試合を通して合せ鏡をみているようで面白い。 大相撲もそうだが、一つのことを
書き続けることも、何か自分の心を見つめる良い機会になる。
 ー
この文章を書いた後で、これまでのものを読み返すと、「毎年書き続けた文章を目にしないで書いている」
など、同じ文言が書いてあったが、決まった言葉を疑問を持たずに繰り返す自分の枠を見せつけらる。
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2008年04月30日(水)
2583, 全日本柔道選手権
毎年、この大会を楽しみにしている。特に、オリンピックの年のこの大会は、異常な熱気に包まれる。
日本の柔道家は、オリンピックより、この選手権に勝つことを重要視している。
今年も、準々決勝から放送されたが、どの試合も熱気に満ちた劇的な試合が続いた。
特に、準々決勝の棟田・生田戦と、井上康生と高井戦が劇的な戦いであった。
それまでの全てをかけた男同士の極限の戦いということ。結果として石井と鈴木の三年連続決勝戦になった。
普通の人なら、この試合は凡試合で、後味の悪い幕切れと見るだろうが、私は違う。
 (以上、字数制限のためカット 2010年4月30日)
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2007年04月30日(月)
2218, 団塊格差は、かくもついたり      (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪    
『団塊格差』三浦展著   ー読書日記ー
2005年12月に、この著者の『下流社会』について書いたことがあった。
今度は『団塊格差』という本が書店に並んでいた。丁度、団塊の世代が今年から定年を向かえるのでタイミングがよい。
これもまた買うほどでないので、ネットで概要を調べてみた。 時代背景が良かったので、格差がついたとしても、
それぞれの立場で納得しているところが、見かけられる。総中流時代の中で、結果として格差がついても、
時代の恩恵は受けていた年代である。歴史的にみても、団塊の世代は日本の黄金時代の背景があった。
格差がついたとしても、それが如何した!でしかない。格差は、その子供たちに直接影響を受けるから、問題は子供である。
それが大きい!が、 しかし、どれが如何した!と言えば、それまでのこと。
 ーまずは、ネットで調べた内容からー
月刊誌『文藝春秋』との共同調査で、2000人の男女から得られた様々な数字を基に、
「団塊たち」の人生60年とこれからを考える
*貯蓄:   300万円未満ー29%、 2000万円以上ー19% 
*退職金:    なしー35%   2000万円以上ー28%
人生60年の棚卸しをしてみたら、実は団塊の世代にも大きな階層間格差が!
月刊『文藝春秋』との共同調査をもとに、所得、資産、仕事、結婚、定年、子育ての視点から現状を分析。
・女性にはもてたい43%、 ・不倫したことがある28%なども含まれている。
『下流社会』の著者が、団塊世代の格差をとらえている。
 ー団塊格差ー
1.リッチ・シニア層
  退職金は2000万円以上、充分な年金、ある程度の資産を保有。
  職業を持つ場合、実業家であれ、再雇用で会社従業員になるにしろ、収入のためより、社会貢献の一環として、好きで働く層。
  職業を卒業した場合は、ボランティア活動をしたり、趣味に生きたり、学問や研究をしたり、自分の好きなように、自由に、
  有意義にセカンド・ライフを送ることができる階層。
2.アクティブ・シニア層
  金銭的に不安があるため働かざるを得ないが、法制度の改正にうまく乗って、シニアになっても職業を得ている階層。 
  例えば、労働基準法の改正による、会社の雇用延長制度や再雇用制度を上手に利用して就職できている人々。
  健康で元気なうちは良いが、病気やケガで働けなくなると心配。
3.ワーキングプア・シニア層
  金銭的に不安があるのに、アクティブ・シニア層のように収入を得る職業に就くことも難しい層。
 ▼ 調査が浮き彫りになった団塊世代こととは何か。著者があとがきに記している次の一文が、それを端的に表している。
  (字数制限のためカット 2011年4月30日)
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 2006年04月30日(日)
 1853, 全日本柔道選手権      (☆-v-)。o○《Gооd Мояйiиg》○
毎年、4月29日は全日本柔道選手権が行われる。この数年来、このテーマで書いているが、前年度を全く読み返さないで書く。
その後以前の内容を読むと面白い。同じ日に同じテーマで書いていると、その時々の選手の力関係だけでなく、それを見て
書いている自分が見えてくる。別に柔道が格別好きということではない。一年に一度の大勝負の真剣試合だから面白いだけだ。
年末の全日本相撲選手権も同じである。この大会は、階級別でないのが面白い!
今年の大会は、前評判の選手が順当に勝ちあがってきたが、19歳の最年少、初出場の石井選手が初優勝をした。
(以上、字数制限のためカット 2014年4月30日)


4793,「消費される物語」 ー3

2014年04月29日(火)

                     朝日新聞(4月22日) 耕論「消費される物語」
    * 自己完結せず外へまなざしを                作家・高村薫
  毎日、一文章を書き終える自己完結に精一杯で、内々に凝り固まっている現状を批判するに、丁度良い内容のようだ。
 それも、13年間にわたって、束縛されてしまっている自分にである。 ーその辺りからー  
《 ■「我々の社会」という物語が揺らいでいるため、物語は過剰な作られ方をしているー
 人間の社会があるところには必ず物語が誕生します。原始時代でも自分たちの集落とその外を分ける物語があったはず。
日本で「古事記」や「日本書紀」が編纂されたのも、律令国家が確立して自らの国史を欲したから。つまり、物語は人間が
生きていくうえで必要なものなのです。私たちの国、私たちの王、家族、これらはすべて物語です。 物語の特徴は、
自分たちが見たいもの、好ましいものを取り入れる一方で、見たくないもの、不都合なものは排除することができる
ところにある。つまり虚構です。私たちは物語という虚構を消費しながら生き、社会は虚構に支えられて維持されている。
ですから、今日さまざまな物語が次々と作られているのはそれほど不思議なことではありません。
 ただここへきて、その物語の作られ方が年々過剰になっているのは「私たちの社会」という物語が揺らいでいるからです。
例えはグローバル世界では、人やモノの自由な往来が国境をなくしてゆくだろうと予想されていたのに、実際には世界の
あちこちで「私たちの国」という物語が不安定になって、その穴埋めのために過剰な物語が生まれています。
ナショナリズムの台頭もその一つです。社会不安が増したり、経済状況が悪化したりして、人ぴとが自信や幸福感を失うと
アイデンティティーも揺らぎます。それを補うために、ことさら物語を増幅させているのが今の世界です。
これまでと大きく方向性の異なる安倍政権が誕生したのは、新しい物語を語ってくれそうだという朋待が有権者にあるからで、
それが高い支持率の正体かもしれません。
 日本では、戦後続いた経済的な繁栄という物語が崩れた後、社会をまとめる物語がなかなかできません。1990年代以降は、
心の余裕がなくなつて、物語がより内向きになっています。人は誰でも、より心地よい物語の方に惹かれます。社会にはかって、
本筋を外れてはならない暗黙の了解というか、節操があったと思います。明るい未来が見えているときには、外に向かって
積極的に開いていくことができたのですが、それが出来なくなってしまった。》
▼ 13年間で、5千近い文章、物語を書き続けてきたが、これが私を、更に内向けにしていた。これで、都合の良いように
 物語化して、都合の悪いことを排除していたのである。混沌とするほど、それが大きくなっていくのを、冷笑して、
 改めて読み返すのも、また、都合の良い物語である。小さく、小さく、自己完結をしていただけだったのである。
 その知識を加えて、これからの文章を書いていくしか、現在の私には術がないが。自己完結するから、次に進むことが
 出来るともいえる。そういえば、単調な自己完結した日々を繰り返している現状を、改めて考えてみようか?
 読者の一部には、これが見えていたのだろう。 今さら、自分は自分でしかない!と、思わなくては、ボキッと折れる。
・・・・・・
4426, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー9
2013年04月29日(月)
           「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著
   * 日本人は実は会社が大嫌い
 これまで年功序列と終身雇用の日本的システムこそが人々を幸福にすると信じて疑わなかった。が、実はサラリーマンは
昔から会社が大嫌いでガマンして働いていただけ。それが出来たのは高度成長でパイが拡大していたため。 バブル崩壊で
景気が落ち込むと、日本的雇用制度が虚構の上で成り立っているのが露呈してきた。 著者は、ここで、
《 大卒内定率が50%を下回るのも、3人に1人が非正規雇用になるのも、中高年のサラリーマンにうつ病が急増するのも、
 日本人がアメリカ人の2倍(イギリス人の4倍)の割合で自殺するのも、すべて、機能不全を起こした日本的システムから
 生じる同根の現象》という。誰が好きこのんで年功序列の終身雇用のラインにいるのではない。それなりの理由があるため。
  ーその辺りを抜粋してみるー
≪ バブル最盛期の1980年代後半に行なわれた、仕事の満足度に関する日米比較調査がある。おそらくほとんどのひとは、
 日本と米国のデータがすべて逆になっていると思うだろう。この調査結果は衝撃的で、私たちの「常識」を根底から覆す。 
カリブォルニア大学と南カロライナ大学によるこの調査は、日本の厚木と米中西部イソディアナポリス地区の製造業七業種の
労働者それぞれ4千人あまりを対象とした大規模なものだ。彼らは日本と米国の仕事観に際立った違いを明らかにした。
* 結局のところ「いまの仕事にどれほど満足ですか」との質問に対し、満足との回答は米で34%、
 日本はその半分の17・8%。不満は米ではわずか4・5%に対し、日本はその三倍の15・9%にのぼる。
*「あなにの友人にこの会社であなたのような仕事を希望したら、あなたは勧めますか」の質問には、
 米では63・4%が友人に勧めると答えたのに対し、日本はわずか18・5%だけだ。
 逆に勧めないと答えたのは、米が11・3、日本が27・6%だ。
*「いまあなたが知っていることを入職時に知っているとしてこの会社のいま一度、この仕事につきますか」の質問では、
 「もう一度やりたい」との回答は米ではじつに69・1%、日本は23・3%と三分の一にすぎない。
 二度とやりたくない」は米ではわずか8%、日本は39・6%と回答者の四割にものぼる。
*「いまの仕事は、入職時の希望と比較して合格点をつけますか」に対しては、合格点は米33・6%に対し
 日本はわずか5・2%にすぎない。否定にいたっては米の14・0%に対し、日本は62・5%と過半数を超える。
もういちど繰り返すけれど、これは雇用崩壊が騒がれるようになった最近の調査結果ではない。80年代は日本企業が
世界に君臨し"ジャパン・アズ、ナンバーワン"と呼ばれた時代であり、一方のアメリカでは、家族経営を信条としていた
IBMやコダック、AT&Tなどの大企業が次々と大規模なリストラに追い込まれていた。それにもかかわらず、アメリカの
労働者のほうが日本のサラリーマンよりもはるかに仕事に充実感を持ち、会社を愛し、貢献したいと思っていたのだ。≫
 ▼ アメリカの平均的家庭はプロテスタントで、働くことの価値の宗教的裏づけがある。日本にあるのは、儒教と
  朱子学の勤勉と、藩への滅私奉公の意識ぐらい。それもアメリカの占領政策により、骨抜き。特に私は従属が大嫌い。
  そのため会社に入らないで済ませるため、自分で会社を作る道を選んだ。振り返ると、それが正解? 調査結果の内容は、
  国民の民度の問題でもある。これでは経済の荒波が来れば、ヘチャルわけ。使われるのも大変だが、使う方はモット大変。 
* これらの質問の逆を考えて、何人肯定出来る? 日本人と同じ比率? 肯定肯定、絶対肯定!と、感謝の言葉を繰り返す日々。
・・・・・・
4052, 閑話小題 
2012年04月29日(日)
   * ゴールデンウィーク
 ゴールデンウィークといっても、現在の私には関係ないし、敢えて人混みの中に外出をすることもない。
一般社会では、まとまった休暇は、この時期しかないのが世の習い。大多数が行楽地に出かけたりするのを見ると、
似たように動きたくなるのが人情。 ところで、現在通っているスポーツジムが、この期間にオール・オープンのサービスを
打ち出してきた。年中休みの私にとって有難いことである。 例年、ゴールデン・ウィークは昼か夜、隔日ごとに外食するのが慣い。
今年も何の予定も無し、サンデー毎日と同じ感覚である。 5月の連休をゴールデンウィークとは、良い命名である。
  * 見切り千両
 撤収の決断のキーワードは、「見切り千両」である。 以前より節目では「見切り千両」をキーワードにしてきた。
見切りこそ生物的本能が生かされる。攻撃の判断と、撤退の判断、この二つが決断の要。 そのためには経験と知識の蓄積が必要。
攻撃の決断より、撤退の決断は遥かに難しい。 遅かったきらいもあるが、この時しかなかったのも事実。
  * 秘境の写真集とドキュメント
 趣味に、秘境・異郷の写真集とTVドキュメントを楽しむことがある。(最近、秘・異郷ツアーに行ってないので写真で我慢もあるが)
最近は、もっぱらiPadで写真集にアクセスして見ている。 やはり一度、訪れたところが主になる。 一度行ったところは、
それぞれの目線により対象が違って見え新たな発見があり、その延長の旅を続けているような気持ちになる。その点でiPadは便利。
常に身近において置けるのでチョッとした豆時間(隙間時間)に、開き見ることが出来る。質も大事だが、量をこなすことも必要。 
多いほど、より対象により近づいていける。 現地で全身で情報を吸収すれば、その後、情報は磁石のように吸い寄せられてくる。
今ではネットから簡単に入手出来る。 世界は面白いことで満ち溢れている。 やはり行動しなければ、そして知識を満たさなければ!
 ・・・・・・・
3686, 自己を見つめる −10
2011年04月29日(金)
   * 孤独と愛について、       「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 【 ー孤独の深さー 二ーチェによれば、落ち着いた人間の心のうちには「深い泉」があって、そこに石が投げ込まれても、
 その底に達するには時間がかかるという。そうした人は、端から見れば,反応の遅い、退屈な人と見えるのだが、
 そうした人こそは、外からの刺激を深く受け止めて、よく考える人なのである。 そうした人は、孤独のなかで熟慮する。
   西田幾多郎は、かつて、こう歌った。
  ー わが心 深き底あり 喜も憂の波も とどかじと思ふ ー
  と。 心の深い奥底は、そこに、すべての知情意の作用も、憂き世のあらゆる出来事も、みんな呑み込まれて、沈殿してゆき、
 いわば底知れぬ深淵のまま、自己を支える存在の根底としてどよめいている生命の大海、ないしはその尽きることのない
 源泉なのである。その心の奥底を孤独のなかで見つめつつ、自己を照らす根源的なものと面座する自己意識の極限こそは、
 自己の知を越えて、自己の存在そのものと融け合うであろう。】
 【 ひたすら、いのちを慈しみ、優しく幼子をかき抱き、愛情の限りを尽くして、子らのために献身する母性というものの記憶が、
 人間における愛の心の象徴的原点を形成することは否定できないように思われる。なぜなら、そうしたものがあったからこそ、
 人類はこれまで、そのいのちの営為を継続して、存続することができたからである。おそらく、愛の根源は、象徴的には、
 そうした母性を介して人間に植えつけられるところの、無償の贈与、そのひたすらな献身のうちにあるであろう。
 いのちあるものに恵みを与え、それを慈しみ、見守り、育て、その無垢の胎動を大切にし、その侵すことのできない
 尊厳を守護しようとする、いのちへの優しい気遣い、その存在の絶対的肯定、それが愛であると言ってよい。
 そうしたいのちの見守りの働きが、さらに拡大されて生きとし生けるすべてのものに及ぼされて、あらゆるものを
 その存在意義において許し、承認し、助け、生かし、守護し、見守り、育て、養い、その存在の至福を祈念する働きのすべてが、
 愛という語によって含意されることになろう。そこに、万物を生かすところの神の愛といった観念も成り立つ。
 もちろん、そうした愛に、さらに厳しさも加えられてこそ、万物の生成が初めて可能になるという観念も、やがて成立する。
 シェリングの世界観などはその典型である。】
 ▼ 孤独と、そこに潜む愛の問題は人間の本質に根ざしている。 「母の愛を介して人間に植えつけられる無償の贈与は、
  その献身の中にあり、それが心底で象徴的原点を形成する」ことは、誰もが体験的に知っている。その量と質が、人間性を
  決めてしまう。特に幼児期の両親の絶対愛が、人生の原点になる。絶対量の少ない人は多い人の温みの起因を知ることがない。
 ・・・・・・・
3321, 「知の衰退」からいかに脱出するか?  −1
2010年04月29日(木)
 ー「『知の衰退』からいかに脱出するか? 」 ー大前研一 (著)
 大前研一は、図書館や書店で手に何度か手に取るが、何か読む気がしなかった。しかし現在の日本の行き詰まりなどをみるにつけ、
「日本が変、それも異常なほど変である!」と思っていた矢先に、グローバルの世界の中で「茹で蛙の日本」を徹底的に非難している
内容をみて、読んでみることにした。 保守的な人からみたら、眼を剥いて怒るような内容が次から次へと出てくるが、
現実に中国や韓国の若者たちは、眼を輝かせて必死に勉強している割合が日本の若者に比べて圧倒的に多い現実がある。
 高度成長期の時代なら、解るが、低成長の時代に生まれ育ちデジタルの時代の中で、情報だけは豊富にあり、
偏差値でランク付けを子どもの頃からされた若者の立場もわからないでもない。しかし、だからダメと諦めてかかっては、
どうもこうもならない。 これからのビジネスマンに必要な三種の神器は、「IT」「英語」「ファイナンス」というのも、
初めは??と思ったが、21世紀には、当たり前といえば当たり前のこと。 特に、ファイナンスを挙げているのは良い。 
最後は、この辺である。 日本の若者の相手はネットの先の、世界の高IQ化した若者である。
だから、日本の低IQ化した相手を無視して、自分の得意とする分野でユニークなスキルを磨くことを勧めることこそ、
若者の道筋である。 「現在の日本の低IQ社会の一員になってはならない」ということ。 だから、私の知人の子弟が
数人、高校から外国に留学をさせているのをみかける。「寂しくないか?」と聞くと、毎日ネット電話で顔を見て話しているので、
全く感じないという返事。 それと、外国に行っていると金銭感覚が、鋭くなるという。
そうこう考えると、著者のいう三種の神器を身に付けさせるために行かせているようだ。
・・・・・・・・
2946,タレント知事をどうみるか? ー2
2009年04月29日(水)
  佐高信は、タレント知事を完全に否定している。 
ー反対する理由はー
「タレント、つまり人気商売は常に多数に寄っていく宿命だ。だから知事に一番向かないのではないか。
 多数の人気に自分を預けていて、自分の意見がありそうで、ない。例えば、東国原知事の国政への転出騒ぎがその象徴だ。
『みなさんが許すなら』という言い方だった。 自分に信念があって不人気でもやるということではなく、
 人気に寄りかかっている。 橋下知事も反発を受けることを断行しているように見えるが、常に多数に乗っかっている。
 政治家や行政マンに必要な信念があるようで、実はない」
ー知事に必要な条件とは何かー
「弱者の痛みが分かること。過疎を切り捨てない人。この逆をやった政治家が小泉純一郎氏だ。
 全体的に政治家の『小泉純一郎化』が進んでいる。タレント知事も同じ人気者路線に乗っかっている。
 喝采(かっさい)を浴びた小泉氏のまねをして県民に受けている。 政治や行政の本来の使命である『公共』という概念が
 忘れられるというか“殺される”と思う」 タレント知事は人気を利用した発言力が役立ってはいないか
ーPR係として雇えばいいだけー  
  (以下、字数の関係でカット2010年4月29日)
・・・・・・・・・
2582, 柳田邦夫の2.5人称の視点
 2008年04月29日(火)
 ー「人生の答え」の出し方ー柳田邦夫著 ー1
柳田邦夫著ー「人生の答え」の出し方ーに「2・5人称の視点」という言葉があった。その意味を噛締めてみると、
成程と合点がゆく良い言葉である。学生時代のゼミで、色いろな人間関係の実例を取り上げ、それぞれ原因を探り、
解決策を討論する事例研究を一年にわたり徹底的に鍛えられたことがあった。この本を読みながら気がついたことがある。 
それは事例研究から学んだことは、一人称、二人称、三人称、そして一・五人称、二・五人称の視点の訓練をさせられたこと。
 ーその二・五人称とは何か?を大筋書いてみる
一人称は、自分、 
二人称は、あなた、家族など身近な人、
三人称は、専門家、役人、ジャーナリスト等、客観的に見る人。他人事とみる視点。
三人称は「事態を客観的に見る良さがあるが、悩んでいる、落ち込んでいる一人称、二人称からは冷たく見えてしまう」
そこで、三人称の人も二人称に歩み寄り、同時に二人称に埋没しない「2.5人称の視点」を持つべきだと。
1人称、2人称の視点だけでは感情に走って冷静な判断が下せなくなる。といって他人事としての3人称の視点であれば、
冷たく突き放す見方が優先する。求められるのは、1人称と2人称を考慮に入れつつ3人称的な冷静な判断を下せる、
2.5人称の視点が、柳田邦男さんの「2.5人の視点」である。冷静・客観的な、それでいて人間性豊かな
かかわり合いを持てる人間こそ2・5人称の視点を持った人、ということだ。二人称に限りなく近づくが、
どっぷりと二人称になると、冷静な判断かつ正しい処置ができなくなる。そうすると「1.5人称の視点」「0・5人称の視点」
「4人称、5人・・・称の視点」と考えてみた。1・5人称の視点は、夫婦、親子、兄弟間のこととか・・0・5人称の視点は、
自分の中の神の目の視点とか、良心の視点とかである。 ーそれにしても、0.5、1・5、2・5とは面白い切口である。
思いやる心、温かい心、慈悲、感謝、感激、愛する心などなどということか。
・・・・・・・・・・
2007年04月29日(日)
 2217, ネットカフェ難民 
   ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ
今年になってから、インターネット難民という言葉を見かけるようになった。駅前で宿泊業をしているので、
こういう現象に敏感になる。当ホテルにもビジネスホテル難民?が数年前までぺアで1〜2組、入れ替わり立ち代り
宿泊をしていた。12?の部屋に3?10年の長期滞在になるが、身なりはシンプルで、キチットしている。
水商売で色いろの事情があるようだ。もちろん警察にはマークされるが、犯罪にはつながってない。
今年になってから、急にネットカフェ難民という言葉が目立ってきた。
  (以下、字数の関係でカット2,010年4月29日)


4792,「消費される物語」 ー2

2014年04月28日(月)

                            ー耕論「消費される物語」朝日新聞(4月22日)
    * 「消費される物語」 〜希薄化する挫折         夢はかなう」を引きずるロマン 竹田青嗣ーより
  物語といえば、劇場で演じられ、それぞれの役割がある。その物語が、右下がりで、大した意味のない役割としたら、
 生きている張り合いがない。そこには、夢も挫折も、ない節のない竹のようなもの。挫折には価値があるのである。
 今回の節目で、気づいたことが、これ! その挫折さえ持てないとしたら・・ 挫折感は、人を絶望に到達させる。
 その虚無を背景に、人生が新たな出発点になる。その以前に夢が持てないとなると、どうするのだろう。ーその辺りから
《  ◆ 希薄化する挫折
 一方、現代を生きる人々にとって、恋愛はもはや、それほど非日常的な体験ではないし、社会への高い理想を持つこともない。
欲望が「恋愛」や「理想」という形で結晶化しないため、我々の世代では当たり前だった「若い時に挫折し、自らの欲望を
かみ殺す」という重大な経験が起こりにくくなっている。 挫折が希薄化したことで、多くの人々が「いつかはみんなから
認められる」「夢はかなう」というナイーブなロマンチシズムを、年齢を重ねても引きずり続けているのではないか。
 あくまでも仮説ですが、佐村河内さんや小保方さんの成功物語が大きな支持を集めたのも、そうしたことが影響している
のかもしれません。「夢はかなうかも」と思い続けたい上に、うさんくさそうな話を疑うリアリズムを身につけていない。
だから物語をあっさりと信じてしまい、裏切られると本気で憤る。私自身はこの仮説を「真実だ」と結論づけるだけの証拠は
持っていませんが、貴重な示唆を与えてくれると思います。
 いずれにせよ、挫折がない、それゆえに自らの欲望と現実社会の折り合いをどうつけるかという筋道がはっきりしない
という問題は、現代に固有の危機だと思います。それぞれの時代で、常に本質的な危機がある。若い世代が中心になって
その筋道をつかみ、しっかりと表現することが、文化の大きな役割だと考えています。》
▼ 私たちの高度成長期の頃の「夢はかなう」は、当然のことであった。しかし、国家が衰退し始めた現在、大多数の者に
 とって夢の実現が考えられなくなった反面、挫折も希薄になっている。 小保方氏や、佐村河内氏の成功物語の崩壊も、
 また新たなる物語になる。私たちは、高度成長の経験と、バブルの破裂、右下がりの経験をしてきたが、団塊世代の子息
 以下の世代は、高度成長やバブルを知らない。だから、夢も挫折も、おのずから小さくなる。また、物語もミニになる。
 青年期から成年期の間には、夢と挫折が、大きは節目をつくる。 それが希薄化するのだから、気の毒といえば気の毒。
 私の事業の最後は、倒産という挫折?で終わったが、傷は少ない。準備期間15年を含めた45年の物語が、行蔵として、
 心の底に残っているため、諦めと同時に達成感がある。だから、毎日を、淡々と過ごすことが出来ている。
 実際のところ、「希望が持てないほど辛いことはない」のだろう。現代の若者は、その意味で、非常に辛いのである。
  で、仲間内の闘いの中で、相手を倒し、馬乗りになることで満足をするしかない、きめ細かい差別化の時代の到来!
・・・・・・
4425, 閑話小題 ー今時のプレハブ住宅は二ヶ月で建つ
2013年04月28日(日)
   * 今時のプレハブ住宅は二ヶ月で建つ
 5年程前に裏隣の古い貸家が壊され二軒の住宅が建った。そして三軒目のプレハブの着工が、この4月10日に始まった。
その知らせに、完成が二ヶ月後のの6月10日とあった。以前は、住宅は最短で半年から一年だったが、今時のプレハブは
工期が二ヶ月とは驚き。 まず基礎工事に二週間。 次に外壁工事で、周囲に足場をつくり、柱を建てていく。
この連休が終わるころまでに外壁まで完成し、内装に一ヶ月かけて完成のようだ。
 最初の二軒は貸家で、その借り手は両方とも既に居なくなり、一軒は空いたまま。表通りの方は小さな小物雑貨店だったが、
夜逃げ。その後、ファッション衣料店だが、私の感覚では、この入り込んだ立地で商売が成り立つのかさっぱり分からない。
で、三軒目の住宅の着工。 子供の頃近くに建前があると父に手を繋がれ見に行ったもの。それより、2〜3歳にかけて
実家の店兼住宅のビル建設の最中にあった。住んでいる家を近くにあった300m先の公会堂の前に曳いていき、空いた
ところにビルを建設をしたが、幼児ながら、毎日、父と建設現場に行ったときのトキメキが、今でも忘れられない。
その幼児体験が、ビル建設マニアになったのだろう。 新築は夢があってよい。
  * 目的に合わせて人集めをするのではなく
 もう十数年経つが、ドキッとした言葉があった。《 起業では、何かをしようと適材を集めるのでなくて、優秀な人材を
確保してから、何をするか、どうするかを考えるべし 》 まず有志が集まって、何の事業を始めるところから考えるのが
理想なのだろうが。 創業というと、一人の強力な個性が必要になる。 黒澤監督の「7人の侍」は、盗賊から村を守るため、
かき集められた浪人が、圧倒的多数の盗賊と闘う。これは目的に合わせた人集めの典型。このことは、教養についてもいえる。
何かのために知識を得るのではなく、知識のための知識のベースが、まず必要。それが教養である。大学も4年のうちの
二年間が一般教養、あとの二年間が専門課程になっている。人生を振り返ると、本当に必要な知識は、哲学、文学、倫理とか、
経済の基礎知識であった。教養課程は、その導入知識を広く教えてくれる。大都会と地方の差は、そういう人材が身近にいるか、
いないか。40数年の独学では限界があった。 「限界は誰でも到達するが、問題は、その先!」の意味を実感する日々。
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4051, シングルイン、31年間の総括 ー10
2012年04月28日(土)
   * つれづれに ー あれから一年
 去年の3月30日17時に会社を閉鎖して一年余りになる。激しく落ち込むと覚悟はしていたが、思いのほか平静の日々を過ごすせた。
会社経営から開放され現在でも宙に浮いたようで、長年、重荷を背負っていたことに改めて気づいた次第。 日が経つにつれて、
前倒しの決断をして本当に良かったと実感している。 しかし世界も日本も国債と株価も何とか持ち堪えている。 早ければ、
去年の11月、遅くとも今年末と思っていた 辛うじて4月末現在、何とか維持し現在に至っている。 世界の銀行と政府、企業の
金庫の中に六千兆円の十倍の6京円の不良債権が塩漬けになっている。 何時、それが表面化するか時間の問題でしかない。
 一番早く表面化しそうなのが欧州だが、日本も、中国も、何が起こっても不思議でない。日本は福島原発事故も解決したわけでなし、
かつ原子炉54基すべてが、止まったままである。 更に政変含みの状態。 年末の米国と韓国の大統領選挙まで持ちこたえるのか。
会社名義のホテルと駐車場抵当物件の処分が終わり、個人住宅も家内が買い取って全て終了した。ホテルも今までのホテル名で再稼働を
始めたという。有難いことである。 普段の生活が、もう少し手持ち無沙汰で暇を持て余すと思いきや、全く、それはない。 
 反面、倒産は倒産、犯罪者に近い目で蔑視される事実に驚いた。一般債権は、ほぼゼロ。社員への退職金の満額支払いは出来なかったが、
国の一部たて替えを含めると平均八割近く支払ったが、残債は残った。 一般債務分で補填すべきだったか? 30年間の担当だった
経理事務所の担当が言うには、「本当にキツイのはこれから」という。 その意味が、まだ分からないが、差別?蔑視からくる世間様の
何なのだろうが・・ 今のところ「シラミ!」の10回の呪文で、気持ちの処理が可能。 自分を含めシラミはシラミ。
 スポーツジムと、iPad、シネマ通いと、図書館の御蔭で何とか精神を保っている。 好きなことだけが出来るからである。
アウトサイダーに徹してきたのも、結果として良かった。小さな襞(地域)の中で、煩わしい因縁社会に組み込まれない生き方が、
ここにくると楽。 一歩、年金生活に入ると景気とか社会に対する温感が鈍くなる。 景気は最悪の筈だが、直接の悲鳴が聞こえない。
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3685、 自己を見つめる −9
2011年04月28日(木)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 孤独については、これまで何度も書いてきた。結局、人間は独りでは生きられないのである。
しかし孤独は、世間とかいうのがある限り必要である。私の出身校の「長岡高校」の校是が「和同」の精神である。
和して同ぜず。 和せ、同じになるな!である。これは、それぞれが孤独を守る中から生じてくる。
ここで孤独について、ニーチェの体験を指摘している。 孤独の素晴らしさを「私の故郷」の良さに譬えているのは言いえて妙。
  ーまずは、その部分をー
【 ー孤独の大切さー ニーチェはかつて、孤独を「私の故郷」と呼んで、その至福にみちた優しさを讃えた。
孤独が終わるところ、そこに「市場」が始まり、世間の大人物や大俳優たちの騒々しさが耳を圧し、毒をもった蝿たちの
うなりが聞こえ、小人物たちの刺が私たちを突き刺す。そうした騒がしい市場を離れ、海辺に出て、高い品位をもって沈黙し、
岩陰にそびえ立つ大きな樹木を見よう、とニーチェは誘う。その樹木のように、静かに耳を澄ましながら、存在の声を聞こう、
とニーチェは促す。そのとき、ニーチェは、「孤独」の素晴らしさを、「私の故郷」と呼んで、その声が、なんと優しく、
また至福にみちて、自分に語りかけてくるか、ということを打ち明ける。ニーチェは、そのとき、あらゆる「存在」が、
「言葉」となって自分に開かれてくると言い、存在の内奥の秘密を宿した言葉の小箱が、一気に開かれ、ありとあらゆる生々流転が、
その秘儀を語り始めようととするかのようだ。 このニーチェの体験は、すべての人間の体験だと言ってよい。
言い換えれば、孤独とは、そこで私たちが本当の自分を取り戻し、改めて純粋に、自分自身と世界の人間のすべてを見直し、
存在の真相に触れ直す瞬間なのである。実際、私たちは、物事のほんとうの姿が何であるのかをよく熟慮しようとするときには、
世間や俗事の雑音を一旦は遮断しなければならないことをよく心得ている。たとえば、他の人々と大勢で、がやがやわいわい騒いで
いるときには、私たちは、ほんとうに自分らしく純粋に物事を見直し、考え直し、正しく事態を把握する余裕や冷静さを
持つことができない。 人間は、それほどまでに非力なのである。 】
▼ 世間や俗事の雑音を一旦、遮断するため孤独になるために、古典などの世界に浸ることが最も手短である。
 それか、一度自分の住んでいるところから外に出て、純粋に物事を考え直し、冷静さを保つことが必要である。
 宇宙の塵でしかない己を自覚すること、しかし、その塵の素晴らしい存在である一度だけの人生を自覚するためにも。 
 ・・・・・・・
2010年04月28日(水)
 『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著  −2 
* 理性は絶対を求め、「理念」を生みだす  
学生時代の問い「理念の意味は何か?そして、その理の意味は?」が、40年以上経った現在、その答えを見つけたのである。
何か微妙な感覚である。 理念が理性の「何故?何故?」を徹底した問いの極限というから、眼から鱗である。
  ーまずは、その部分を抜粋して考えてみる   P−24
≪ 理性的とは、「なぜ?ーなぜならば」という仕方で物事に筋道をつける能力である。それも、どこまでも道筋をつける能力である。 
というのは、「何故?ーなぜならば」の関係は原則的に一組でほ終わらないからである。一つの「なぜ?.」にいったん「なぜならば」
と答えても、その答えに対して再び「なぜ?」と問いうるし、そのまた「なぜ?」へとさかのぼりうる。 理由のそのまた理由……、
原因のそのまた原因……、という具合にである。そのようにして、「どこまでも」ということは、「徹底的に」という意味になる。 
そして「徹底的に」ということは、究極に迫るということ、すなわち、最後には「極限」にいたるということである。 
それは、理性が推理の能力であるということと表裏一体である。 ある物事(結果)の理由や原因には、そのまた理由や原因がある。 
すなわち、いったん「なぜ? なぜならば」の推理が開始されるや、その鎖は原理的にどこまでもさかのぼる。ということは、
理性は原因のそのまた原因、そのまた原因のさらにそのまた原因、等々の果てに、必然的に究極原因を求めざるをえなくなる。
要するに、理性は極限に迫らざるをえないのである。 いわゆる「理を通す」とは、そういうことである。・・・・
・・(中略) 冷めた言い方をすれば、理念は理性固有の本性や関心から理性自身によって生みだされ、現実社会に合理的な脈絡を
つけるために、現実社会のかなたに「投影」された像に他ならない。 それは現実社会を合理的に読みとくためには、
はなはだ有効であり、それどころか不可欠でさえある。 ところが、ひとたび投影され現実世界と融合した像は、いつしか
現実世界の一部はおろか、その全体として実在するかのように、うっかりと思われてしまう。 ちょうど、熱心な観客が映画の
スクリーンの中に、あたかも実在の世界があるように思い込んで、感動したり憤慨したりするように。 このように、
理念は「功」と「罪」の両面性を持っている。 この両刀論法、すなわちパラドックスの原因とオーバーラップする。
この理性の両面性事態がまさしくパラドックスである。 このパラドックスこそ、アンチノミー(二律背反)に他ならない。 
その理性が意志をコントロールし、決定をする。 ≫
 ー以上だが、我が社の理念とか、私の理念とかで、使うが、まずは理性から考えていかなければならない。
 そうすると、やはり何故、自分は目指すのか、そして、何を目指すのか、その根拠(理性=理由)を明確にし、
それを突き詰めたのが会社理念となっていく。 それが個人としての私の行動指標なら、その根拠の明示が必要になる。
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2945,タレント知事をどうみるか? ー1
 2009年04月28日(火)
最近、一時なりを潜めていたタレント知事がマスコミで注目を浴びている。青島幸男、横山ノックなどで選挙民は、
その正体を見てあきれ果てたはずだったが、再び田中康夫、東国原、大阪の橋元知事、直近では森田健作が千葉県知事になった。
田中にしろ、橋元、東国原知事も、現在見るところ、最大限にタレントの経験を生かしているようだ。産経新聞のオピニオンという
コーナーで、その功罪を浅野志郎と佐高信が論じていた。浅野は、タレント議員を肯定する立場で、佐高は否定する立場である。 
まず浅野は「知名度で圧倒的有利なのは言うまでもない。外に対する発言力に長けている。マスコミに面白がられて目立つことも悪くない。
また政治的未経験について、「ほとんどの知事は政治未経験者だ。これは決してマイナスでなく、むしろメリット。僕は国家公務員を
23年7カ月間務めたので、知事になったとき行政についてはお手のものだったが、大きな改革や新しい発想をする時はマイナスになる。
『センス・オブ・ワンダー』、つまり驚きを感じる心が必要だ。東国原知事や橋下知事は県(府)庁に入って驚きの連続だったと思う。
 (字数制限のためカット2011年4月28日)
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2581, 連鎖する大暴落 -3
2008年04月28日(月)         才ノヽ∋?_φ(゚▽゚*)♪
この本の「まえがき」に「アメリカがいよいよ暴落する。・・・少しだけアメリカから離れましょう。
自分の財産を守りたかったら、ここで『損切り』を敢行すべきである。
 (字数制限のためカット2011年4月28日)
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2007年04月28日(土)
2216, 中村うさぎ               才八∋ウ_〆(∀`●)
  「女殺し借金地獄」 ー読書日記
書き写しながら、何でこんな文章を自分が?時間を潰していて、果たしてよいのだろうか?
と自責の念にかられる内容である。男には、こういう文章はかけない?ものである。
アル中の、買い物依存症の、バカ女が、それを売りに捨身で文章にして、生計をたてているだけの本でしかない。
それもブランド買いの世にも哀れな気の毒な底の浅さを売りに!その哀れな女のサガが共感を得るのだろうが・・。
(字数制限のためカット2012年4月28日)


4791,「消費される物語」 ー1

2014年04月27日(日)

                   ー耕論「消費される物語」朝日新聞(4月22日)よりー
    * 「消費される物語」 ー憧れをかみ殺す  
  ー「夢はかなう」を引きずるロマン 竹田青嗣ーより
 毎日、随想日記をネットに載せてから、まる13年になる。 これも、ミニ物語になるが、先日の朝日新聞の
耕論「消費される物語」が考えさせられる。 ーまずは、竹田青ほぼ全文を抜粋ー
《 「どんな物語が杜会で受け入れられるか」ということは、「人々の間で広く共有されて一般化している欲望とは何か」
ということに強く影響されます。近代社会のかっての一般的な欲望は「自由」でした。職業選択の自由、思想信条の自由、
そして自由恋愛。だが、これらの自由への欲望は、先進諸国では20世紀半ばまでに実現してしまった。それに代わり、
現代社会で一般化しているのが「承認」への欲望です。
 そもそも人間の欲望には、それが他者から承認されないと実現できない、という特質があります。赤ちゃんがお乳を
吸おうとすることさえ、母親の「あなたは私の子ども」という承認がなければ実現できない。人間社会では、どんな欲望も
承認を経て初めて実現する以上、快楽への欲望が「みんなから認められたい」「祝福されたい」という承認への欲望へと
移行していくのは、自然なことです。 
 佐村河内さんの物語も、小保方一さんの物語も、「不幸な境遇にある人や一見平凡に見える人が、がんばって成功し、
多くの人々から承認を得る」という基本的な枠組みは共通している。最近公闘された英国の映画「ワンチャンス」も、
携帯電話の販売員がテレビ(オーディション番組で優勝し、塒界的なオペラ歌手になる、とり実話を描いた作品でした。
   □ 憧れをかみ殺す
 だが、ここで問題になるのは資本主義社会における「承認を巡る競争」はゼロサムゲームで、勝者は常に少数派、です。
「そこそこ満足」という人まで勝者に含めても、6〜7割の人は最終的に挫折感や敗北感を抱くのではないか。
実現不可能な一般的な欲望に縛られ続けると、人間は不幸になるだけです。 (略)・・・
 挫折自体は決して悪いことではない。実現不能な欲望や憧れをかみ殺し、強い忍耐で現実世との調停を試み、自らの
生き方を確立する契機になるからです。・・欲望をすべて実現したいという「極端なロマン主義」、理想がかなうことなど
決してあり得ないという泥のようなリアズム、そのどちらかに真理があるではない。両方の引き合いので、より深く
生きられる「微妙な場所」を探し当てることこそが必要なのです。私にとっては井上陽水の歌や、フッサール、へーゲルの
哲学が、そうした場所を見いたすための道しるべとなってくれました。 ・・ ーつづく  》
▼ 現実にぶつかり、破壊された挫折経験の中で、「微妙な場所、そして立場」で、生きている我身にとって、
 自分にとって、都合の良い「物語」をつくるしかない。それが、珍妙で、哀しく、痛面白いのである。
逆に言えば、イドラ(真実を覆っている嘘)の世界にドップリ浸かっている人たちが鮮明に見えてくる。 
だから、この結果も悪くはないのである。イドラの言葉から、世間を読み解くと面白い! 其の辺の、市場で
聞いた噂を、信じて、小さな殻の中で、情念で生きているのが一般である。ほぼ、世の中は、嘘と妄想で出来ているのが、
気づかない人たちの総称を「世間」。日本人の大多数にとっての宗教が、この「世間教」。で、信者の群れが数多、屯する。
 それを、学生時代のゼミの「ケース・スタディ」で、徹底的に議論の中で教わった。現象の中に隠された真理、道理を
冷静に捉える知識の必要性である。釈尊の遺言に「すべてのものは移り変わる、怠らず努め励めよ」とある。
変化する時代の中で、ロマン主義と、泥のようなリアリズムの引き合いの中でこそ、怠り務めることだ! (-ノ-)/Ωチーン
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4424, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー8
2013年04月27日(土)
                   「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著
   * 私たちが何故不幸か、進化心理学が教えてくれる
 チンパンジーからして、実は平等も格差も遺伝子に刻印されている。この矛盾が、人間を不幸にしている。
能力も、女性の容姿も、生まれながら大きな差がある。それを克服するには、一生を要するが、それを失うには数年、
いや、数ヶ月で済む。女性が連れ合いの選択にシビアになるのは当然、それで人生の大半が決まってしまうため。
だから二段階上の相手を必死に探す。それをシンデレラコンプレックスという。しかし殆どが夢幻の幻想で終わる。
だから神様は、男の性欲を過剰に与えて、仮装の相手に惑わさせるようにした。で、男は一生、その付けを払わされる。
平等欲求と格差の遺伝子を同時に与え、不幸になるように創られたのは、神様の仕業。だから幸福など気の迷い。
  ーその辺りから抜粋してみるー 「不幸なのは人類の宿命で、私や貴方だけでない!」と割り切るしかない
≪ 二頭のチンパンジを真ん中をゴフス窓で仕切った部屋に入れ、片方にキュウリを与えるとすごくおいしそうに食べる。
ところがもう一方のチンパンジーにバナナが与えられると、いきなり怒り出して、手にしていたキュウリを壁に投げつける。
さっきまであんなにうれしそろだったのに。霊長類学者のドゥ・ヴァールは、こうした観察結果から極めて重要な発見をした。
平等はチンパンジーにとって、けっして譲ることのできない「基本的猿権」なのだ。 ぼくたち人間も、「平等」に強い
こだわりをもっている、人種差別で沢山の血が流れるのも、バックパッカーがぼったくられたことに延々と文句をいうのも、
同じ人間として平等に扱われていないと感じるからだ。でも平等が遺伝子に刻み込まれた生得的な価値観でなぜ世の中は
格差社会になるのだろうそれは、「格差」もまたぼくたちの遺伝子に刻印されているからだ。
 初対面の二頭のチンパンジを四角い机に座らせ、どちらにも手が届くところにリンゴを置くと先へと互い取り合う。
負けけがつづと威嚇の表情を見せるが、喧嘩にはならない。互いに先取者に所有権があることを認めているからだ。
 ところが同じことを何度も繰り返すうちに、どちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。からだの大きさなどさまざまな
特徴から二頭の間で自然に序列が生まれ、いちど階層が決まると、下位のチンパンジーは上位者にエサを譲るようになる。
保育園や幼稚園でも、子どもたちを集団で遊ばせるとごく自然に階層が生まれ、リーダーが決まる(とくに男の子の場合、
この傾向は明瞭だ)。サルやヒトには、相手と自分の関係を測り、無意識のうちに支配したり従ったりする強力なちからが働く。
 人間の耳には、五〇〇ヘルツより低い周波数は意味のないハミング音としか聴こえない。ところがぼくたちが会話をすると、
最初はハミング音の高さがひとによってまちまちだが、そのうち全員が同じ高さにそろう。ひとは無意識のうちに、支配する
側にハミング音を合わせるのだ。 声の周波数分析は、アメリカ大統領選挙のテレビ討論でも行なわれている。
一九六〇年から二〇〇〇年までの大統領選挙では、有権者は一貫してハミング音を変えなかった(すなわち相手を支配した)
候補者を常に選んできた。わざわざ選挙などやらなくても、討論のハミング音を計測するだけでどちらが勝つかはわかって
しまうのだ(ドゥ・ヴァール『あなたのなかのサル』) ≫
 ▼ 誰もが不幸になるよう設計されていると思えば、少々の怒りや悩みは解消される。だいたい幸・不幸は一時的感情。
  だから格差を容認するため「公平」という考え方を作り上げた。ここでチンパンジーに平等の意識が「基本的猿権」
 としてあるのに驚いた。数十、数百万年かけてつくられたのだろう。小・中・高校、大学に進学する度に選択されていく。
 上に進むたびに格差された自分の上下左右が鮮明に見えてくる。平等、自由、博愛、これは理念、現実は逆ということも!
・・・・・・
4050, 一時停止 ー8
2012年04月27日(金)                
   * 「好き」という言葉が好きだ      「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
 ≪ ・・・ ぼくは生きる上でいちばん大切なのは、好きになる気持ちだと思っているだ。好きになるのに理由はない。
  「好き」はじぶんのからだとこころのもっとも深いところからわいてくる。 むりして好きになるわけじゃない、自然に
  好きになる。好きになる気持ちは人間に、そしてほかの生きものにも、はじめからそなわったすばらしい能力だと思う。
   何かを、誰かを好きになること、じぶんが生きているこの世界を(それがときにどんなに苦しく悲しいものであれ)好きになること、
  そしてこれがけっこうむずかしいんだけど、じぶんじしんを好きになること。じぶんがきらいじゃ、ほかの人を好きになれないし、
  生きているのがつらくなる。はじめきらいだと思っていたものや人が、知っていくにつれてだんだん好きになるってことだってある。
  ぼくは「好き」ということばが好きだ。     (母のひろば482号一 二〇〇四年) ≫
 ▼ 人生の早い段階で好きなことを見つけ、続けることは大事なことだが、それぞれの年代ごとに、蛇の脱皮のように、好きなことを
  変えることも必要である。それは男女の出会いに対していえること。 節目ごとに好きな対象が変化するものと、一貫して好きを
  貫くか、である。「 好きと嫌いじゃ どれほど違う 命ただやる ほど違う 」という都々逸があるが、それほど好みは根源から
  湧き出るもの。 反面、「好きになるまで取り組んだことを突き詰めれば、奥底好きになれる」こともある。好きという言葉は、
  人生の鍵を握っているようだ。現在の自分が好きになれるか? 特に、人生の晩秋に差し掛かった時期の自分が、どうだろうか?
 「日々、面白い!」と思えるかどうかが目安。ここまでくれば、「突き抜けた自分を好きと思うしかないか!」自嘲的自己肯定か、最期は。
   ・・・・・・・
3684, 自己を見つめる −8
2011年04月27日(水)          
  * 仕事について     「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 第二の人生に入って一ヶ月足らずになる。 今月から仕事・事業人生から無職のリタイアの人生に入った。
人生の大部分を仕事を通して幸福・不幸の波の中で泳いできた。仕事は人生の核であることは間違いない。
社会の中の存在意義が仕事を通して証明される。そこで表現した中に自分が見えてくる。仕事、趣味、そして学びは人生の三本柱。
人生のプロセスで、その重心が変わってくるが、男は家族を作り、養っていかなければならない。
だから仕事の比重はのしかかってくる。とはいえ、三本柱の一つだが・・・
  ーこの本の中の仕事に関する部分を抜粋して考えてみるー
【 したがって、社会に応えてなんらかの役割を果たし、世間に寄与することができるということは、人間の自己意識にとっては、
自己の存在の意味を確認することのできる最も直接的な答えであり、また喜びであることは、疑いようのないことだからである。
もちろん、そうした仕事における労苦のうちには、失敗や挫折、困難や事故、予期せぬ妨害や災害、さらには競争や不運など、
実にさまざまな心労の種が含まれていて、人生の現実が容易ならぬものであることが、誰にでも、ひしひしと実感されてくる。
人生における懐疑や煩悶、疑心暗鬼や気欝は、多くの場合、仕事をめぐるトラブルや、そこに絡んでくる陰湿な人間関係に起因する
ものであることは、否定することができない。けれども、そうした暗欝な影にもめげずに、自分の関与する仕事の有意義性を確信して、
少しでも前進し、実りある人生行路を切り開こうとする人にとっては、やはり、仕事を措いて、人生の実質上の道程は考えられない
ことになるであろう。そして、もしもその人が、強い信念の持ち主として、どんな障害にも屈服せずに、この世界では善が勝ち、
道徳的な世界秩序が実現してゆくはずだと確信することができるならば、たしかにヒルティも述べたように、その人にとっては、
仕事を通じた人生の意味と幸福が、力強く確認され、労働の喜びが増すであろう。】
 ▼ 「人生における懐疑や煩悶、疑心暗鬼は、仕事をめぐるトラブルや、それに絡んでくる陰湿な人間関係に起因する。」
 しかし、それを乗り越えて仕事を成し遂げることこそ、その醍醐味がある。とはいえ、経済震災や、自然震災は、その全てを
 飲み込んでしまう。これほど大激震だと諦めがつくが。これも人生。人生の多くを事業を通して多く学び、楽しんだことも確か。
 まあ、面白かった! 
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3319, 理性の「理」は、理由の「理」
2010年04月27日(火)
   『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著
 学生時代に理念、理性の「理」の意味は何だろうと疑問に思い、ゼミの人たちに聞いてみたが、納得する答えがなかった。
そこで字づらから、王の里で、真理の大元と一人合点をした。ところが、先日図書館で借りてきた
『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著に、カントの「純粋理性批判」中の「理」が解りやすい。
 《 理性の「理」は、実は理由の「理」にほかならない、と述べている。 欧州の古典語であるラテン語で「理性」を意味する 
「ラテオ」は、同時に「理由」を意味する。理由とは、「なぜならば〜」と表現されるもので、物事の「根拠」、
 物事を「根拠付ける」働きを意味する。さしずめ「なぜならば」と答える能力が理性であると言ってよい。
 20世紀のハイデッガーは、理性と理由、理性と根拠が同一であることを際だたせて、次のように述べている。
「理性とはラチオのことであり、すなわち根拠の能力。理性は物事を基礎づける根拠である。根拠は純粋理性の理性的根拠以外にない」
 ところで、この「なぜならば」といきなり、切り出すものはいない。それを誘導するものがある。それは「なぜ?」という問いである。
「なぜ?」と問われて、はじめて「なぜならば」が発せらるのである。・・・ 》
 ▼ 以上だが、理性的とは「なぜならば」と答える能力である。と同時に「なぜ?」と、問う能力である。
 分かっているようで、分かってなかったようだ。そうすると、常に「なぜならば」と「なぜ?」を、考えている人が
 理性的ということになる。人は「なぜ『なぜ』と問うのか?の答えは、「人は根拠となる物事の基礎を把握したいため」である。
「なぜ?」「なぜならば」と、言っている限りは、理性を使っていることになる。 ということは、根拠=原因を知りたくなる
 根本的な探究心のため何か驚いたり、知らない現象に出会うと、その背後にある原因を探したくなり、「なぜ」と問うのである。
  認識に経験論と合理論があるが、合理の理性から物ごとを認識をするという場合、経験が直接的に認識するのに対して、
 合理の理性で把握するのは間接的に認識する、ということになる。  −つづく
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2944,ブラックアウト
2009年04月27日(月)
 ーブラックアウトについてネットで検索をしたら、以下のようにあったー
blackoutは、飲酒中やその直後に自分の行ったできごとについて、翌日に一部の記憶がなくなるアルコール性記憶喪失をいう。
例えば、飲んでタクシーで帰ったが、友人に乗せられたまでは覚えているが、その後はまったく記憶がないなどである。
社交飲酒家でも認められるが、アルコール依存症者ではしばしば認められる。ブラックアウトの出現はアルコール依存症の入門切符。
▼ 「元スマップの草薙剛が、ブラックアウト?で逮捕された」と報道された。深夜三時ごろに全裸で騒いでいるところを
 逮捕されたもので、何と猥褻罪という。深夜に素っ裸で公園にいたところで誰に見られた訳でなし、やりすぎではないかと
思うのは私だけではないはず。有名人でなければ、これだけ騒ぎになるわけでなし、酔っ払い保護センターもあるし、騒ぐほうも騒ぐほう。
(字数制限のためカット2012年4月27日)
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2580, 閑話小題
2008年04月27日(日)       \(⌒∇⌒)/おはよ?!
 ー哲学と思想の違いー
池田晶子著の「暮らしの哲学」で 「哲学」と「思想」の違いについて次のように書いている。
『「哲学」と「思想」の違いは「哲学」とは考えることであり「行為」である。
それによって導き出された言葉なり文章なりの結果が「思想」である。だから「哲学する」とは言うけれど「思想する」とは
言わない』と。 解りやすい説明である。「哲学は考えること。思想は思いこむこと」 というと、何か違うような気がする。
 人の考え、思い込んだことを言語化したもので、貼り付けることが出来るのが思想で、考える行為が哲学ということ。
一般的には、哲学も思想も同じように論じられているから、話がややこしくなる。
ここの差異をハッキリさせおくと、哲学・思想書関連の本を読んでも整理がつく。
 ー何でも半分ー
 (字数制限のためカット2010年4月27日)
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2007年04月27日(金)
 2215, 買い物依存症の女   ^O^ノ  オアヨーン
海外ツアー、それも秘境に行く人は、心に大きな負担を持った人が多い。ある年代になれば誰もが何らかの問題は抱えている・・
特に刺激を求めてアフリカ、中近東、シルクロード、南米などに行く人は人生の究極を求めている人が多い。
その中で、「買い物依存症」の人が何人もいた。明らかに病的の、「やり手?ブランド嗜好の金ぴか中年女」である。
(以下、字数の関係で中略2009年4月27日)

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