堀井On-Line



4790,閑話小題 ー父親のこと

2014年04月26日(土)

     * 父親のこと
 これまで、母親について語ってきたが、父親について殆ど書いてなかった。
父親が42歳時の時に8人の末っ子として生まれた為、父親が孫のように特別扱いされ育った。
それもあって、直ぐ上の兄に陰湿に虐められてもいた。御陰で、気が強く、常に自分の身を守ることに、
人一倍の知恵が身についていた。今回の一連も含めた危機管理などの用心深い性格は、この辺りからきている。
 大家族の中、父親が絶対的存在で、母親も、兄姉たちも、常に緊張の中で父の顔色を伺っていた家庭環境であった。
父親は骨董商の二代目。祖母が婿取りで、母が結婚した時には、当時の資産で七万ほどあったと、母の晩年になって、
語っていた。母が結婚当時、父に「うちは金持ちなの?」と、聞いたところ、「金持の目安が10万で、どうだろう?」
と答えたというが、その後、数倍に増やしたというから、資産家の部類だったようだ。 プチブルというところか。
 太平洋戦争前まで、当時のトップセールスを思い立って、津上製作所社長や、野本互尊などの上客を持っていて、
年に数回の取引で、かなりの利益を上げていたという。そして、大戦の勃発で、骨董は売れなくなり、地元からも
多くの戦死者が出ていた。その中、仏壇販売で戦中の生活を凌いでいた。それも終戦を向え、次に考えたのが古着販売。
食えなくなった人たちの古着を他より高い値で買取り、欲しい人に、安い値で販売することを思いつく。
それが拡大したのが、衣料量販店である。これも、問屋からの仕入れでは安く売れないため、岐阜、名古屋、岡山、広島
などの生産地に直接行き、仕入れることを考えついて、繁盛店として、全国的に知られるようになった。
 商売人の基礎の質実剛健をモットーに、明治気質の、真面目な人であった。顔つきも、性格も、私が、そのまま、
受け継いだが、酒は、殆ど飲まないところが、私とは違う。 趣味は、旅行と、骨董収集と、茶道と、住宅の建設。
自宅や、姉たちの新築建設に金も口も出して、そのプロセスを楽しんでいた。家も、店でも、チリ一つでも落ちているのを
嫌い、徹底的に掃除をさせていた。学歴コンプレックスが強く、自然に娘婿には高学歴の人がなっていた。
 友人の持てない人で、株屋や、保険屋の営業などしか、傍には寄せ付けなかった。兄姉も、怖れて近づかない中、
末っ子の私だけが何時も父の傍にいて、何かペットのような存在であった。法事などは、何時も私だけが出席をしていた。
 父親は、太平洋戦争を挟んだ激動期を、乗り切ったが、私は、結局は、飲み込まれてしまった甘い三代目になる。
 この随想日記も〈売り家と唐様で書く三代目〉の‘唐様で書いた’で、しかないのか。 ゙(。ノω<。)ァチャ- (-_-)ウツタ
【(後記)これを書いて、分類の<堀井誠作・シマ ワールド>を開いたところ、父親の命日などに、多く取り上げていた。
 今さら、我ながら驚いてしまった! 結局、父親は私の大きな後楯の人だった、ということ。それにしても! 呆けか 】
・・・・・・
4423, 老後の不安で天引き預金、の良し悪し 
2013年04月26日(金)                     
 両親を近くでみていて、お金について多く学ぶことができた。 それにして、このザマ?  で、まあ、聞いて! 
額は小さいとしても、三十年近く給与の範囲で使い切ってきた。また増築も含めてビル建設八棟と古ビル購入で35〜6億は
つかった。土地仕入れを含めたビル建設の面白さは何にも変えがたい。これらを現在も所有していればオーナーだが、
手から離れれば、使い果たしたことになる。大金持ちがヨットに、車に、別荘に、買物に35億使ったのと、35億のビル建設の
道楽?と大して違わない。それらを所有していようがいまいが車と同じ。ある期間を過ぎれば下手に所有してない方が良い。 
 父が死ぬ直前いっていた言葉が今でもハッキリ残っている。『数千万の貯金通帳の数字と、この紙に書いた数字と何処が違う。
何にも違わない。買い集めた骨董が倉庫にあるが、これも同じ。二度と箱を出さないものばかり。あるのは持っているという
満足感だけ。だから、使える時にしっかり使っておくべき。 金は商売を楽しんだ後のカス。カスを目的にするから失敗をする。
そのカスで自分を飾り立てたりしないこと。』と。
 それでも、茶道を楽しむため新たに自宅を建て、茶道具を中心にした骨董品集め楽しんでいた。しかし、無駄と、見栄の
ための出費はしてなかった。その家を建てること自体、見栄でもあったが。 それを見ていたこともあり、40歳過ぎから
収入は家内への給与分以外の全額は、使うようにしていた。酒、海外旅行、投資の失敗位だが。しかし秘境旅行などは10年、
20年続けると、なかなか良い思い出が蓄積されていく。それもあって現在、あまりしたいことはないし、金もさほど欲しいと
思わないし、買いたいものもないし、遣り残した思いも少ない。 
 で、仮りに徹底した節約をして年に400万ずつ30年、毎年積み立てをしていたとする。30×400=1億2千万。
投資で二倍として2億4千が残る。しかし長期的事業の個人保障で万一のことが発生すれば、この程度の額は数年でゼロ。
ということは、その範囲で、その時節に使っておいて正解だったことなる。人間は収入減に比例し支出を落とせないのは、
現在の日本国家を見ればわかる。そこで「別名義で一割程度は積み立てをしておくべき」ということになる。
 その長年かけて積み上げた金も信用も、失うのは一瞬。これは事業と同じ。あの世に持っていけるのは行蔵だけ。
こつこつ貯めるのと、こつこつ使って楽しむことの両立は難しい。何と金は使えるうち。後悔先に立たず、である。 
その辺を巧妙に仕掛けてくるのが保険屋と株屋。長年のスパンで積み上げた金を、彼らは狙ってくる。
 都会の年金暮らしのリタイア組みは、収入の7〜8割しか使わず、残りを預金しているとか。その殆どが亡くなった後、
子供に相続される。老後の不安で使うことが出来ないため。彼らは理詰めで考えないで、ただ不安に流されているだけ。
その不安は、「今・ここ・私」が確立されてないため生じている。 まず、それに気づくこと。
直ぐに泣く時が来るなら、今、笑うしかない! 腹から笑えるのは訓練で出来る。笑うから可笑しい。人生、笑って何ぼ!
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4049, 一時停止 ー7
2012年04月26日(木)                  
 * 公共広告「あなたが大切だ」について  (ふくろう通信一2008年春) 「一時停止」谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪  命は、たいせつだ。 命を、たいせつに。 そんなこと、何千何万回言われるより、
   「あなたが、大切だ」 誰かがそう言ってくれたら、  それだけで生きて行ける。
 不思議ですね。このコピーは不特定多数に向けられた言葉なのに、まるで誰かが私に向かって言っているかのように感じられる。
この短い文章の中で「命は大切とい一般論が、「あなた」という、ただ一人の人間に向けられた言葉に変換されたからでしょうか。
コピーに添えられた写真の少女は、もう何かを訴えかける元気もなく、孤独で病的な表情でこっちを見つめています。
この少女にとっては、一対一で自分と向き合ってくれて、自分のことを本気で気に向けてくれる誰かが言う「あなたが大切だ」
という言葉が、「魔法の言葉」なのではないでしょうか。
「元気になる魔法の言葉」は、もしかすると本や雑誌やテレビ番組の中にも見つかるかもしれませんが、何よりも身近な人の
言ってくれたこと、書いてくれたことにひそんでいるのではないかと私は思います。たとえば大切な人と別れなければならないとき、
別れの悲しみと苦しみが深ければ深いほど、どんな言葉も自分を元気づけてはくれないし、慰めてもくれないと思いがちです。
でも、もう言葉が何の役にも立たないと感じられたときにも、私たちのこころとからだの奥底で言葉はもがきながら生きています。
だから言葉にならない自分の悲しみ、苦しみが言葉になったとき、私たちは元気になるきっかけをつかむことができる。 
同じように、誰かが苦しみ、悲しんでいるとき、私たちはその人のこころとからだにひそんでいる言葉と共振する言葉を探します。
それはとても微妙で繊細な作業ですから、場合によっては言葉を探さずにただ黙ってその人のそばにいて、その人を抱きしめる
だけのほうがいいこともあるでしょう。辞書には載っていない「魔法の言葉」は、変幻自在ですから。   ≫
 ▼ 本を読むということは、書き手の意図を、自らに対する言葉に切り替える作業でもある。 一人も「あなたが大切だ」と、
  言ってくれなくても、著書を通して書き手から、私にとって自分自身が最も大切だと受け止められれば良いのではないか。
  とはいえ、それが出来る人は僅かとすると、やはり直接、誰かに言われたいもの。幼児期に両親から愛情を多くそそがれた人は、
 「あなたが、大切だ」という気持ちがシッカリと根付いて、その人の人生の土壌になる。 両親の愛情は大切である。
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3683, 自己を見つめる −7
2011年04月26日(火)
                 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  昔ほど、生甲斐という言葉を言わなくなったが、そのかわり、「好きなことを見出し楽しめ」というようになった。
 生き甲斐は、それなりの覚悟と追求のエネルギーを要するが、「好きなことはを楽しむ」には、それほどの重さはない。
 生き甲斐について、著者は以下のように納得できる説明をしている。
  * 生き甲斐の探究
【 私たちは、この世の中を生きるとき、なんらかの形で、生き甲斐を求めている。生き甲斐のない人生を好んで求める人は、
 考えることができない。 生きるということは、みずからが、そこに意味を見出し、なんらかの有意義性の成り立つことを
 信じることのできる道程を発見して、そこに自分の人生の基盤を据えて、自己の時間的な生成過程と、振幅を含んだ多様な遍歴の道を、
 辛苦や労苦を越えて、歩み進もうとする覚悟にもとづいて初めて成立する。 それを可能ならしめるものが、生き甲斐にほかならない。
 むろん、その生き甲斐という問題は、さまざまな局面を含んでいて、けっして単純ではない。 けれども、生きる意味を信じ、
 自分の人生を肯定できる道程を発見し、そこで自分の人生の充実を図って生きる、という構造を含まないような人生設計や
 人間活動というものは、人間の生き方として、考えることができない。意味や有意義性は、ディルタイがすでに指摘したように、
 私たちの生を構成する最も基本的なカテゴリーなのである。 そうした生き甲斐とは、それを最も強い形で言い表せば、
 自分の死に場所を発見することと同じだと言えるであろう。 その道を突き進んで、その果てに自分はもう死んでもよいと
 言えるような生き方とその内実を発見したときに、その人は自分で自分の人生の充実を図って生きる、こういう構造を含まないような
 人生設計や的活動というものは、泰然自若、自己であることに安らうはずである。 たしかに、「人生、いたるところに青山あり」
 である。 しかし、ほんとうに死んでもよいと思える場所と生き方を、最終的に見出すことは、けっして容易ではない。
 何人も迷いを免れがたいもの。けれども、人間は、最後には、自分を捨て、そこに自分を埋めてもよいと覚悟できる人生の
 住処を求めている。】
 ▼ 「生き甲斐とは、自分の死に場所を発見することと同じ。その道を突き進んで、自分はもう死んでもよいといえる生き方と、
   その内実を発見したときに、泰然自若、自己であることに安らう」は、納得する。 本当に自分の好きなことを見つけ、
  全霊を傾けて自分のエネルギーを叩きつける時に、生甲斐が生じる。 それがない人生は、空虚な喪失感が付きまとう。
  しかし生甲斐は、そう簡単に得ることはできない。極限の中にこそ、生じてくる。生甲斐を感じているときが、自分の心の芯に
  いる時であり、自分である時である。家族の為に我を忘れて必死に働いている時、振り返ってみた時に、生き甲斐を見出すのである。
  そこには、意味も意義も充分にある。 全身全霊をかけて対象に取り組んでいる中に生き甲斐が生まれてくる。
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3318, 悲しみ、苦しみは人生の花
 2010年04月26日(月)
 「悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花咲かせ、楽しむことの発見、
  これはあるいは近代の発見と称してもよろしいかも知れぬ。」これ坂口安吾の言葉である。
 それなら喜び、楽しみは果実というところか? 60数年の人生を振り返り肯定的に眺めれば、そうかもしれない。 
 私の実感は、悲しみ、苦しみ人生のレッスン=学びである。 近代の発見とは、目標の発見と解釈できる。 
 また花咲かせるとは、目的、目標の達成である。 目的達成のプロセスこそ人生の花というのも肯ける。「花も嵐も踏み越えて」
 という歌の文句があるが、人生とは挫折を乗り越えてこそ、その先の喜びも大きくなるもの。「悲しみ、苦しみは人生の花!」は、
 なかなかいえない言葉だからこそ、心に響くのである。 自分の子供に先だたれた親に、この言葉が当てはまるのだろうか。
 それも運命と割り切って受けとめることも人生なのだろうか。 「災い転じて福と成す」これが人生の真髄というが。
  大きな時代のウネリの中でこそ、味わいたい言葉である。 過去を振り返ると、一番のどん底の時ほど、周囲の人の苦しみや
 悲しみに対して鋭敏になり、優しい言葉をかけていた。 その時ほど多くの人と心が通いあっていた。 言い換えると
「どん底の時期は人生の花の時期」。「一番苦しかったけれど、一番楽しい時だった」と、気づくかどうかである。 
 私の場合は「人生、面白かった〜!」が実感だが。「喉ぼと過ぎれば熱さを忘れる」で、それなりに人生、色いろある。
 「人生、当たり!」と自己暗示するしかないか〜 
「悲しみ、苦しみは人生の花」と、心の底から思えたら、それは一種の悟りだろう。   あれが花?
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2943電動式ステッパー
2009年04月26日(日)
 スーパーやホームセンターで、「自力式のステッパー」を見ていたが、知人が毎日使っているが、非常に良いとは聞いていた。 
ところが電動式ステッパーを家電店でみつけたので売り場で使ってみたが、なかなか良い。 足の部分が勝手に動くものだが、
しかし13万円もする。数ヶ月前に電気ウエーブ・マッサージを見つけたが、12万円もする。そこでネットで廉く小さいのを探したら
1万4千円のものがあった。さっそく買って使っているが、これが大当たり。 朝晩使っているが腰と胃腸と血流に非常に良い。 
 それなら電動ステッパーも廉い簡易式のがあるはずと「電動ステッパー」と検索を入れたら、アマゾンやビックカメラのネットで、
29800円のものがあった。さらに価格ドット・コムで調べたら最低価格が7665円(送料別)があったので、さっそく注文した。
   (字数制限のためカット 2011年4月26日)
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2579, 連鎖する大暴落 -2
2008年04月26日(土)              (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
 サブプライム問題は、予測できることであった。だから、逆張りも出来たはずだが、それも振り返ってみればの話。
オバマが大統領になると断じているところが面白い。民主党は(クリントンは新鮮味がないので)オバマとしても、
共和党のマケインとは互角だろう。しかし民主、共和党が10年ごとに交代することに話がついている、というのも肯けること。
この本の通り、日本がアメリカの属国と割り切ってみると、日米関係が改めてシビアに見えてくる。
世界中の物資を、ドル、アメリカ国債などの紙切れの偽札モドキで交換しているに過ぎない。
特に日本などは、それで高い兵器を言値ねで買わされているのだから哀れなもの。この本を読むと、ドルが60円台、
株が3000ドルも、なんら不思議ではない。ー前著同様に、この目次だけでも内容が充分に要約されている。
[目次]
第1章 私の予言はなぜピタリと的中したか
 ・サブプライムローンの破綻はすでに2007年の5月にははっきりしていた
 ・アラン・グリーンスパンFRB議長は2005年に警告を発していた 
 ・ニューヨークもこれから三ヶ月ごとに大暴落していく
 ・返せそうもない人々に無理矢理お金を貸し付けたのがサブプライム  
第2章 大暴落がこれから3カ月ごとに襲い来る
 ・専門家と称する詐欺師たちが金融の八百長をやってきた
  (字数制限のためカット 2011年4月26日)
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2007年04月26日(木)
2214, 中国人移民の話       <(_ _)>  オハヨウゴザイマス            
 去年、新宿周辺を知人の車で案内してもらった時、青梅街道などに韓国人商店街や、中国人商店街が出来ていたのには驚いた。
アメリカをはじめ、何処の国の首都には中国人街がある。 朝鮮人街も時には見かけるが、日本人街は殆ど見かけない。
中国人街を見るたびに、中国人の海外居住者は何人いるのだろうか?という、素朴な疑問を感じていた。
 ー先日の毎日新聞に中国人の移民の記事があった。
 それによると、海外在住移民の数が3500万人!  こんなもの?と思ってしまった。
 シンガポールや、インドネシアが果して入っているかどうかは、この記事には無かったが。 
総国民の3%が多いか、少ないかだが。「イタリアのミラノ市で、移民と警官隊が衝突」という見出しであった。
これによると、ミラノでは1平方?の地区に500軒以上の店がひしめき、20年前の500人のミラノ在住中国人が13000人と、
26倍も膨れ上がったという。イタリア人は欧州でも働かない国民性で、中国人の「勤勉・活気」に妬みと軽蔑の気持ちが強く、
互いの軋轢が出てきている、という。 その横の関連記事として、中国人の移民の実態のレポートがあった。
その内容を要約すると、
・大陸出身中国人は、151ヶ国に3500万人              ・2000年から2005年間だけで、アメリカへの移住者が35万人。
・カナダ在住中国人は1988年の3万人から、2002年に30万人に激増。  ・日本では、韓国、フィリッピンについで28000人
・観光などの旅行により中国本土からの出国者は昨年で3450万人で、2001年の3倍近く拡大したという。
 旅行先では、「世界中には、何処にいってもネズミと中国人はいる」と言われていて、飲食街では殆んどの都市で
中華料理店を見かける。それが、また美味しい店が多いの。(日本料理は外れが多いが、中華料理店は外れは少ない)
いずれにしても、世界の人口の2割を占めていて、バラバラの国民性が携帯などでネット化すれば、侮れない存在に
なっていくだろう。人口が多いほど、個人の存在が小さく思われがちだが、逆に個性的でなければ、生きていけない。
没個性的な日本人とは、相性が悪いのは致しかたがないことである。     Σ( ̄∇ ̄|||  バイ!           


4789,葬式は、要らない ー2

2014年04月25日(金)

                    「葬式は、要らない」島田裕己著
   ーアマゾンのレビューよりー
《 過激なタイトルだが、葬式が「要らない」のではなく、そんなに金をかけるものでは無い、と言いたいのだ。
「高い高い」と言われても、何もお寺が強要してる訳でもなく、また業者も商売なので、多少の出費は仕方ない。
人が嫌がる、または面倒な事をお願いするのだから。また諸外国と(金額の)比較をし、日本が異様に高いというが、
国柄や文化がそれぞれ違うのであまり参考にはならない。要は個人個人が思うようにすればいいだけの話。
 でも日本人はそれができない。冠婚葬祭に関しては世間体やら周りの目を気にする体質ですから。
ある意味、日本に住んでる以上葬式にお金がかかるのは仕方の無い事かも。 日本人は世間体を絶えず気にする。
それがあらわれるのが葬式。布施や香典は行う側の気持ちによるとされてはいるものの重視されるのは、自分が
いくら出したい・出せるかではなく、他人がいくら出しているのか、である。
こうした感覚が日本人のなかに育まれる上で重要な働きをしたのが村落共同体の成立である。江戸時代に入って
寺請制度が導入されたのは大きな意味をもった。すべての村人は村内にある寺の檀家になることを強制された。
よって村人は必ず仏教式の葬式をしなければならなくなり、戒名も授けられた。
 仏典は膨大な数が存在するが戒名についての説明はない。仏教が広まった地域のなかで戒名という制度が存在するのは
日本だけ。初期の仏教はインドで生まれ主に東南アジアの国々に広がった。その後生まれた大乗仏教はインドから
中国に伝わった後、朝鮮半島や日本に伝えられた。最後に生まれた後期密教はチベットに伝わった。
 出家した僧侶がその証に戒名を授かる点は日本も他の仏教国と同じだが、一般の在家の信者でも死後に戒名を授かる
のは日本にしかない制度だ。しかも日本では出家であるはずの僧侶が妻帯し戒律を蔑ろにしている。破戒の道をたどって
いる僧侶が授戒を行い矛盾している。多くの宗教にも出家の制度は存在しない。あるのは仏教とキリスト教のカトリック、
それに東方教会だけ。仏教でも本来、出家した人間に僧侶としての名前が与えられるのであって、俗人にそれが与えられる
ことはない。が、日本では禅宗で在家の信者の葬式の作法が確立され、その際、いったん出家のかたちをとらせたため
戒名が授けられることになった。 寺にとって財政を支えてくれる檀信徒の存在は不可欠で、寄進された土地や田畑は
寺領として寺の維持に貢献した。が、明治に入り寺請制度は廃止され、寺領は召し上げられた。奈良の寺々は葬式仏教の
前の時代に創建されており境内に墓地を持たず檀家も存在しない。寺領没収後は他の収入の道を確保せねばならなかった。
境内に墓地を持ち地域の住民を檀家としてかかえる一般の寺院は葬式仏教の道を歩むことで生き延びることができた。
寺は檀家の布施がなければ寺は成立しない。戒名料が高騰するのは戒名の本質が死後の勲章だからであり、立派な戒名が
葬式を贅沢なものにしていく。が、戒名のあり方や戒名料への批判はあっても改革が行われないのは寺院経営の問題が
深くかかわっているからである。寺は宗教法人であり、檀家は法人を構成するメンバー、つまりは信者である。・・・ 》
 ▼ 上記の内容は、この情報化では一般的に周知のこと。ますます、お寺は衰退し、墓参り仏教も、変化する。
  戒名など、いらないし、年内に自分でつけた戒名の位牌をネットで注文しようか、そんな必要もないか?
 私の場合、家族葬で20人ぐらいで、葬儀社の指定した僧侶にお経をあげてもらって、
 それで御終い! それを、むしろ願っている。死んでしまえば、それまでよ! である。 墓は、このブログで充分!
・・・・・
4422, 糞袋の内と外
2013年04月25日(木)
              「糞袋の内と外」石黒 浩 (著)
 「世界の中の自分は時に不自由であるが、世界を飲み飲んだ自分は自由なのである」という新聞広告にひかれて、
アマゾンで、この本の内容紹介を読んでみた。まだ発刊して間もないこともあり、レビューも何もない。
パソコンとネットの機能から、逆に人間の脳の機能を逆照射した哲学を読んだことがある。 ロボット工学者が、
人間の形を持ったロボットの視点から人間を見つめると、また違った何が見えてくる。 まずは ー内容紹介ーより
≪ 人間は感覚器が集まった糞袋。しかしその糞袋は、自分が自分であるということを確認する手段を持たない。
 CNNの「世界を変える8人の天才」のひとりに選出されたロボット工学者、石黒浩。最先端のテクノロジー開発を通し
 人間の本質を見つめる中で、「生きるとはどういうことか?」「人間とは何か?」という問題を常に問い続けている。
 【人間を「糞袋」と捉えることで、どのような答えが浮かび上がるのだろうか? 】約2年間にわたって発信してきた
  ツイートをもとに考察を深め、いま本当に伝えたいメッセージを丁寧に綴った、渾身のエッセイ。≫
▼ 「人間は感覚器が集まった糞袋」と、「世界を飲み込んだ自分は自由なのである」という意味について考えてみる。
 まず「人間は感覚器が集まった糞袋」を、「人間は考える製糞器」であると言い替えると、動物とロボットと
 際立って違うところは、動くエネルギーが動植物系と電気かガソリンの違いになる。人間の燃えカスは、一度、
 糞袋に溜められて排出される。 
  人間は世界を飲み込んで(環境を直感して主体的に)動くところが違う。それも自由度が高いほど人間度が高い、
 ことになる。自由こそ人間たる要素である。世界を知り、そこで方向を探し出し、常に環境の変化に対応し、殻を破り
 続ける糞袋が人間の本来の姿。だから、身近に飛行機、自動車、自転車、パソコンなどの身に合ったツールやシステムを
 使いこなし、自由度を高めることが必要。優秀なロボットを創ることで逆照射をして、人間の本質を探る切り口は新鮮。
 人間の肉体を内と外面をシビアに捉え完成に近づける過程から見えてくる姿は、哲学でいうところの「他者」と
 「自分」の関係を考える上で面白い。この工学者は、自分の姿のロボットをつくり、生身の自分から見つめている。
 第三者が触ったり、殴ったりした時に何かを感じるはず。これは自己承認や、他者承認の問題に似ている。ロボットから
 見たら糞袋に過ぎない人間の肉体。ロボットのように、第三者からの指示やプログラムでしか動けない哀れな糞袋が、
 あまりに多い。そういう私の貧弱なプログラムこそ最も稚拙! 後悔先に立たず。自分を腹から笑えるだけ、まだましか。
 ・・・・・・・
4048, 一時停止 ー6
2012年04月25日(水)
  * 人間は大文字で書かれた矛盾      「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 唐突なようだが・シモーヌ・ヴェイユのことばを孫引きさせてもらう。
(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在するものであり、実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。
矛盾とは必然性の如何を試すものである)(存在の奥深くまで体験された矛盾、それは我々の身も心も引き裂く。それが十字架である) 
自己弁護のためにひくにしては、これらのことばがあまりに痛切であることは感じてもらえるだろう。私は十字架にまで到達できる
人間ではないけれども、せめて矛盾をかいま見る地点にまでは行きたいと思う。矛盾の一方に身を置けば、たしかにそこにも悲劇は
待っていよう。作家の自殺のいくつかはそうした場所で行われたのではないかと私は想像する。だが矛盾そのものを生きることは
―それは私には想像もつかない。 ヴエイユの言う矛盾は、いわば大文字で書かれた矛盾であり、人間そのものと言っていいと思うが、
そのことが、つまり究極には矛盾しかないのだということが、私に勇気を与える。私の出会うもろもろの小さな矛盾も、最終的な矛盾と
構造的に結ばれているに違いない。ひとつの矛盾を解決し得たと思うとき、それがすでにもうひとつの矛盾のはじまりになっている。
その無限地獄にこそあるいは書くことに第一原因がひそんでいるのかもしれない。――その辺でやめておけ。おまえにはそんなことまで
論ずる資格はありはしない。どうしてそんなに大仰でこわばった口しかきけないのだ。 おまえの内なる自然の荒廃はその口のききかた
からもあきらかだよ。見栄をはって、もっともらしい愚痴を人に聞かせる暇はもうないそ。 (一九七二年) ≫
▼【 ヴェイユの(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在であり、実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。
  矛盾とは必然性の如何を試すものである)】が良い。人生を総括すると、矛盾の塊である。しかし、その矛盾こそ実在であると知れば、
  人生を、そのまま受け取ることが出来る。「矛盾は人間そのもの」とすれば、自分だけでなく他人を受け入れることも出来よう。
  激しく生きるほど矛盾は大きくり、その重圧に潰されながら生きていくことこそ人生の味わいを深くする。人間は矛盾だらけか〜
 ・・・・・・
3682, 節目どきに ー10
2011年04月25日(月)
  * スポーツジムなど行ってみるまでは別世界だったが!
 スポーツジムに通いだして三週間になる。行くまでは別世界と思っていたが、今では生活に組まれた日常になってしまった。
ジムのシステムで、色々なプログラムがあって自分にあったものに参加出来る。 その一つに「イージーライン」がある。 
6つの機器を円座になって12人のメンバーが参加、輪の真ん中にインストラクターが音楽に合わせて全員を誘導していく。 
一つ置きにステップ台があって、大手を振って上がったり降りたりして息抜きをする。25分間が一コースだが、
これをベースにして、ランニングマシーンや、他の機器を使う。 最後は小さな暗い部屋に6台ある電動マッサージの一つで
30分ぐらい疲れをとる。 他にもプールや風呂もある。 私の場合は滞在時間は90分である。 そこに行ってきただけで、
気晴らしになる。私が選択したのは「金曜日が休日、日祭日は参加できないコースで、時間帯は10〜17時。その時間帯なら、
何時間もいてもよい。30坪位のサロンもある。 金曜と日祭日は、車で5分ほどの近くの市営スポーツ施設に行っている。
ここは三ヶ月で1800円。昼時には数人しかいないのがよい。とにかく健全な日常を維持しないと! 
  * ウォーカーの数が激減
 晴れている日には早朝、毎日、信濃川の土手にサイクリングに行っているが、ウォーカーの数が激減している。
初めは気のせいかと思っていたが、そうでもない。 原発事故による放射能に対する警戒のためだろうか。
ウォーキングでこれだから、行楽が大打撃になるのは仕方がない。ホテルは、どの業態も惨憺たるで、私も早々見切って倒産した。
特に温泉街が酷いとTVで騒いでいる。 あの草津温泉では95パーセントがキャンセルで、死活問題になっているとか・・
「新潟の月岡温泉の一番大きいホテルは二棟のうち一棟が休館。オープンしている棟も、一番上の階しか電気がついてない」とか、
「長岡の奥座敷の蓬平温泉街は、客がほぼゼロ」、という噂が漏れ聞こえてくる。日本国家始って以来の危機の一現象である。
  まだピンときてないのが日本の平和ボケした大部分の人だけ。まだ、他人事としてしか受け取ってない?
 ・・・・・・・
3317, つれづれに ー閑話小題
 2010年04月25日(日)
  * 無理をするな、素直であれ! か〜
「無理をするな、素直であれ。すべてがこの語句に尽きる。この心がまへさえ失わなければ、人は人として十分に生きていける」
は、種田山頭火の言葉である。 この年になってこそ、その意味の深さが理解できること。それが許されない事態が
次から次へと起こるのが人生である。で、最後に落ちついた時に、この言葉が出てきて、そして一人納得する。
これを真正直にして生きればホームレスか、引きこもりになる可能性が高い。現に山頭火は放浪の乞食。
私なら「自然体で、力まず、目を逸らさず、真正面に向き合うこと、それも正直に」と言うところか。
  * 人生は放浪
 山下洋輔がいみじくも言った「旅とは帰ってくるものだ。だから、人生は旅だ、などという言葉がぼくには分からない。
どこに帰っていくというのだろう。むしろ、人生は放浪だ、といってくれたほうがよい。 帰るあてがなく、行きっぱなしだ。」
 還暦を過ぎると、この言葉が身に沁みる。 自分に植え付けられている死のイメージが虚空に帰すからだ。 
死んでしまえば、それまでよ」と口癖だった父の言葉を思い出す。 引越し先で、全てを忘れる当てのない渡り。
  * 人間原理とは ーウィキペディアによると
《 人間原理とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。"宇宙が人間に適しているのは、
そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから"という論理を用いる。 これをどの範囲まで適用するかによって、幾つかの種類を
見つけることができる。人間原理を用いると、宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈できるが、これを自然科学的な
説明に用いることについては混乱と論争があり、未だ多数には認められていない。》
 何か無理があるように思える考えである。人間原理の人間を自分に置き換えてみると分かりやすい。もっとも、優秀な奴は、
これに近い自分原理を持っている。それが自分のステートメントだが、人類が、自分に当てはめると一神教みたいになってしまう。
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2942,閑話小題
2009年04月25日(土)
 * 県内景気 最悪の雨
(字数制限のためカット 2012年4月25日)
 * 柏崎刈羽原発が、5月連休明けに再開だと?
  (字数制限のためカット 2011年4月25日)
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2578, 連鎖する大暴落 −1
2008年04月25日(金)
『 連鎖する大暴落 』 副島隆彦著  読書日記
 この本は「ドル覇権崩壊」の続編といっていいが、決して劣ってない内容である。恐らく、この二冊で著者の論が
見直されるだろう。ジュンク堂に行ったら彼の本が十数冊あった。どれも悲観・際物的な内容だが、「ドル覇権の崩壊」が
具体的になった現在になれば、どれも納得するしかない。欧州はイギリスのロスチャイルドが19世紀を支配し、
20世紀になってアメリカのロックフェラーが石油を背景に世界を支配。
  (字数の関係でカット09年4月25日)              つづく
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2007年04月25日(水)
2213, 白い雲に乗って ー3    (・_・) ノ オハヨウ!
お風呂に入った直後の22時過ぎにクラッシック音楽を聴きながら就寝する。就寝30分後に爆睡を4〜5時間した後、
午前の3〜4時に一度目が覚める。そして冬時間の起床時間が5時半、夏時間は5時に起床する。起床前の2時間が
半睡状態の時間になる。その時間が、ある意味でゴールデン・タイムになる。夢をみたり、夢と現実の塀の上を遊ぶ?
以前、書いた「白い雲にのって」は、半覚醒で子供時代に立ち返った内容を書いた。夢のような、魂の故郷を漂った白昼夢の
世界の描写である(いや白朝夢か)。白い雲に乗ったイメージで当時の思い出の世界に入ると、記憶がドンドン出てくる。
脳の奥行きの深さに驚いてしまう。ある意味で夢と同じぐらい深い脳の領域に思える。50〜60年前の赤ちゃんから
幼児の記億の世界は、魂の世界。殆んど忘れてしまった、古い古い記億の痕跡への旅である。
立ち返って気がついたのは、それからの人生の激しい時代の記億より、ず〜と刺激の強い世界の思い出である。
白銀色の毎日が新鮮な経験のシャワーを浴びているようで、愛情に包まれた夢のような日々であった。
ドラマをみているような、自分そのものが舞台劇の小さな子供の役者を担っていた。初めての大きなショックが、
柏崎の親戚の近くの海を初めてみた時である。それまでは近くの公園の池しか見たことがなかった。
海のコバルト・ブルーを見たときの驚きは現在でもはっきり憶えている。それと、舟と漁師の姿と磯のカオリも記億に鮮明に
残っている。よほどショックだったのだろう。ところで、私が生まれたのは第二次大戦の終戦の5ヶ月後の1946年1月15日である。
越後長岡の東神田で産湯をつかり、長岡駅から100?先の繁華街の四つ角の大手通の四つ角に三月後に戻ってきた。百日風邪になり、
「もしかしたら駄目かもしれないと医者に言われた」と父は口ぐせのように言っていた。
私の名前は八人兄弟の末で「八郎」というが、実際は九人目で、もう一人2歳で亡くなった兄がいた。 
父が42歳、母が38歳の時の子供である。そのためか、特に父親にはペットのように特別愛されて育った。 
16歳、14歳、年上の兄と、その下に姉が4人、その下にすぐ上の兄がいて、最後に私という構成であった。
(2~3歳違いで、双子、年子は一人もいない)終戦直後で両親は大家族の生活維持のため人に、一倍働かなくては
ならない条件があった。産まれてから10年間の長岡の繁華街の真ん中の生活は刺激の強い環境にあった。
東神田から大手通に連れてこられた生後三ヶ月後の記憶が残っている。リンタクに乗せられて、大手通の家に行った記憶である。
そこでは、「福ちゃん」という喫茶店をしていたが、一年もしないうちに止め、衣料品店に転業をした。
そして2歳になった頃に、その店兼住宅を丸太を下にいれ、転がしながら、近くの公会堂の前に引きずっていき、
仮店舗を開きながら4F建のビルを建築した。 個人名義のビルは国内で始めてと市役所で言われたとか?その記憶が一つ一つ
記憶として残っている。人生を振り返って一番楽しい日々といえば、10歳までの大手通のビルの立ち上げから、店の開店、
そしてそこで起こった悲喜交々も日々だった。 本当に刺激的な日々だった。        ヾ(@⌒▽⌒@)
ーーーー
2007/02/18  
 2147, 白い雲に乗って ー2    b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
先日のつづきの夢をみた。半分は覚醒をしていたのかもしれない。前回の夢が契機になって当時のイメージが
ドンドン出てくる。如何いうことなのだろうか?それは57年前の世界そのものである。
その世界から此方をみている感覚と、此方の感覚の間にある塀の上での微妙な世界に立っているようだ。    
ーー
白い雲に乗って再び、その世界(4歳)へ行ってきた。そこは前回よりリアルな当時の世界があった。
中央保育園の面接があるというので、目新しい服を着せられて、母の手に引かれて「同じぐらいの小さい子が多くいるところ」
に行った。そこは家から10分ほど歩いた小さな小路にあった。面接のオジサンがニコニコしながら、色々なことを聞いてきた。
母に前もって聞いていたので、驚くほど上手く答えた。 恐らく入れるだろうと思った。家(店)に帰った後、三輪車に乗って
前の安栄館というビルの同じくらいの友達のところに行った。最近できた大きなビルのところの子だ。何か遊んでいると楽しい!
  《字数制限のためカット 2013年4月25日》


4788,「道徳」を疑え! 〜2

2014年04月24日(木)

          「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜
 * 自分の頭で考えるための哲学講義 ー大抵のことは嘘を見抜くこと
   ーまずは、その辺りを抜粋ー
《 哲学の第一歩は疑うことである。 なぜ本質や真理に到達するために疑うことが必要かというと、本当のことは常に
 隠れているからです。私たちはついつい人から聞いたことや、実際に見たものをそのまま本当のことと信じ込んでしまい
 がちです。でも、たいてい、それは嘘なのです。これには人間の弱さや未熟さが関係しています。 
  イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、それを「イドラ」と呼びました。本当のことを隠してしまう臆見
 (おっけん)のことです。 彼によると、人間には四つのイドラがあるといいます。
・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、感情や感覚によって知性が惑わされることに
 よって生じます。人間は自分が主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できないのです。
・二つ目は「洞窟のイドラ」です。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んでしまったかのように、個人の狭い事情により
 生じる思い込みです。その人の受けた教育、影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い考えに入り込んでしまう。
・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込みです。あたかも市場で聞いたうわさ話を信じて
 しまうがごとく、人は言葉のもつ力に弱いものです。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因になる?
・四つ目は「劇場のイドラ」です。あたかも劇場で観たものに強い影響を受けるように、すでに完成した塊のストーリーを
 目の前に提示されると、人は容易に信じてしまうものです。バトルゲームに影響されて犯罪に走る若者がいるように。
  このように、人間は弱い存在であることから、なかなか本当のことが見えなくなってしまっているのです。
 したがって、本当のことを知るにはあえて見たまま、聞いたままのものを疑うことが必要になってきます。
 しかもそれを根源にまでさかのぼって徹底してやらなければなりません。そうして初めて、答えに到達することが
 できるというわけです。批判的・根源的に考える哲学という学問が、出来合いの「正しさ」を植えつけようとする
 現行の「道徳」とは正反対の営みだということが、これでご理解いただけましたでしょうか。・・・ 》
▼ 私が40歳過ぎから還暦まで年に二回以上、秘境・異郷を中心にしたツアーに参加して気づいたのが、逆照射の
 視線である。極北のアイスランドの地から見れば、日本は極東である。アフリカの最南端のケープタウンからみても
 同じで、日本で思いつくのは、空手、忍者、侍、ソニーぐらい。そこからみた、常識とか、道徳を分解すると、
 上記の四つのイドラになる。地球を象に例えると、我々は、その皮膚のヒダに棲むダニかシラミになる。
 その視線が行く回数を重ねる度に、強くなっていった。装置産業もあって、あまり人と接する必要もなかったため、
 強固な小さな視線しか持ち得ない人との接点を最小に保つことが出来たことが、人生最良の環境と思っている。
 他人からみたら、変人そのものだろう。それも、人間関係工学(造語?)を40年以上も独学を続けているのだから、
 やはりオカシな人間だろう。おまけに、創業を20歳の時点で決心したため、視線が現状、現象の先を見つめることが
 優先となれば、言動は誰から見ても変? それでも変な創業事業者という隠れ蓑があったが、それが無くなった今!?
・・・・・・
4421, さっさと不況を終わらせろ
2013年04月24日(水)         
  * アベノミックスの理論的背景は、こんなもの!  「さっさと不況を終わらせろ」ポール・クルーグマン (著)
 安部政権の経済政策の大元が、この本ではないか? しかし非常に危険と思うのは私だけでないはず。
国力が無い国が、これを実行したらハイパーインフレになり国家破綻になってしまう。強者の手法ならよいが。
そこで、日本は強者か、弱者なのか? 腐っても鯛(資源、軍事、金融、世界共通言語、農業などが出揃っている)の
アメリカとは立ち居地が違うと懸念するが。まあ、ジャブジャブの結果、どうなるか見物である。
   ーアマゾン内容紹介ー
 いま最も信頼できるノーベル賞経済学者がついに叩きつけた不況打破への最終解答!  リーマンショック以降、いまだに
好転の兆しを見せない世界経済。では、各国政府と中央銀行、そしてわれわれが本当になすべきこととは――? 
いま最も信頼できるノーベル賞経済学者が、ついに叩きつけた最終解答。
  * (本書「訳者解説」より)      ー日経「エコノミストが選ぶ」2012年経済図書第2位
≪ 本書の主張はきわめて単純明快。いま(2012年)はまだ、りーマンショック以後の不景気が続いていて回復していない。
 そして失業者の技能や労働市場での価値の低下から、その害が一時的なものではなく、長期的な被害になりつつある。
 だから景気回復策をきちんとやろうということだ。 そしてその手法も明快。
【 前書きよりー 昔ながらのケインズ的な財政出動をやろう。赤字国債を出して、大ものを一気にやるべきだ。
 そして中央銀行はそれを金融緩和で徹底的に支援すべきだ。それに伴う財政破綻だの金利上昇だのは、悪しき
 固定為替制度の下にある、ユーロ圏のスペインやイタリアのようなかわいそうな国以外は、全く心配する必要はない。
 以上のきわめてシンプルな主張をまとめたのが本書となる。】 ・・・(略)
【 あとがきよりー 本書を読んで、一人でも多くの人が現状の各種政策の愚かさに気づけばとは思う。財政出動しようよ。
 かなり手遅れとはいえ、復興まともにやって、教育やインフラ補修にどんどん予算だそうよ。そして予算つけるだけでなく、
 ちゃんと消化しようよ。必要なら予算執行の細かい基準とか緩めようよ。日銀は、すでにやっている国債引き受けを
 もっと認められた枠いっぱいにやろうよ。それ以外にも、自分たちの保身だけでなく、日本の人々のことももっと考えてよ。
 そして増税なんて今やることじゃないでしょうに!  そういうことを理解してくれる人が、少しでも増えてくれれば──  
 こう書きながらも、それがどれほどはかない望みかは、知らないわけじゃない。それでも、一人でもそうしたごく基本的な
 部分を理解できる人が増えることで、日本経済の未来はすこしはよくなるはずだ、とぼくは信じている。 報われない
 信仰かもしれないけど…そのために、本書がごくわずかでも役立つことがあれば、大いなる幸せだ。―山形浩生(訳者) ≫
 ▼ これで不況が終わるのだろうか?本当に! ハイパーインフレになった時、銀行閉鎖かデノミを実施すればよいのは
  分かっている。現状がすでに待ったなしの事態からみれば、それでよいのか? PIIGSとは違い、自国通貨で
  インフレを起すから大丈夫とかは、このグローバルの金融の世界で果たして通用するのか? そのツケは、社会的
  弱者にまわってくるので、現在の選挙システムでは、政権そのものが持たない一年内閣が、続く。 ということは、
  ハイパーによる自滅が4^5年先と見るのが道理。顔色だけは良い麻薬漬患者?あっそう、アベグロ劇場の始まり!
・・・・・・・
4047, 一時停止 ー5
2012年04月24日(火)
           「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 魂という言葉
≪ フランスのアランという哲学者は、「一つの身体の運命に結びつけられた精神が魂(AME)というものである」と定義した。
 同じフランスの現代の前衛的文学者たちの中には、魂などという語はもう使えないと言っている人たちもいるらしい。
彼とって人間は魂という言葉ではとらえることが不可能なほど、細分化され抽象化された存在なのだろうか、だがぼくにとっては、
魂という言葉はまだ或る現実的な手ごたえをもってる。 肉体なしでも成立するかのように使われる精神という言葉とちがって、
魂には人間の肌のぬくみが感じられるんだ。精神はたしかに個人の肉体を離れて、その死後もかずかずの書物や芸術によって伝えられてゆく。
だが魂は、個人の肉体の死後むしろゆきどころを失って宙にただようもののように思える。「詩人の魂」という歌があったっけ。
たしか歌の歌詞は忘れられても、そのメロディは人々に口ずさまれて残ってゆくというような歌だった。 
 自分はいったいどこから来て、どこへゆくのか、自分がたかだか百年に満たぬ人生を、この無限の宇宙の中の地球と呼ばれる星の上で
過すことに、どんな意味があるのか、そんな疑問にとらえられたことのない人間はいないだろうか、そして決して本当の答を得ることが
できないそんな疑問に、精神は或る仮の答えを出すことが出来る。たとえば、いまのぼくは、自分にこだわるより、むしろ我を忘れて
自分を超えた他人の世界にかかわってゆくことことに、あるべき生きがいを見出そうとしていると言えるかもしれない。・・ ≫
 ▼ アランの魂について、「一つの身体の運命に結びつけられた精神が魂」という定義が分かりやすい。 キリスト教徒は、
 「魂は人間の不滅の本質であり、魂は死後に 報酬か懲罰を受ける」と信じている。 私の魂の解釈は、「心は毎日変わるが、
 魂は、その心を支えている生まれてから死ぬまで一貫した幹である。感激は心の響きだが、感動は魂の振動」である。
 秘境の大自然の中で何度も魂の振動を経験した。それが感動である。全身全霊で何かに没頭したときに魂が現れ出てくる。
  ・・・・・・・
3681, 逆説を考える
2011年04月24日(日)
 考えるときの一つに、正反対の説を立てる方法がある。「逆も真である」を試してみると、考え方の幅が広がってくる。 
とはいえ、逆説を正面から考えたことはなかったので、その意味を取り上げてみる。 学生時代のゼミの教授が、中根千恵の
「日本社会は縦社会=蛸壺社会」という説に対し、「横社会=資格社会」という説を立てられた。
「日本社会には武家社会の影響が残っており、殿様、家老、家臣、家では家長、嫁、婿、長男、末っ子、という資格社会ではないか。
蛸壺というが、どの世界でも、その資格で評価されるではないか?」という逆説に驚いてしまった。 
それを切欠に、逆照射の見方を常に持つようになった。
   ーYahoo辞書によると、 ー逆説とはー  
1 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。「急がば回れ」など。
2 ある命題から正しい推論によって導き出されているようにみえながら、結論で矛盾をはらむ命題。 逆理。 パラドックス。
3 事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、その結論に反対する論拠を容易に示しがたい論法。 
  ゼノンの逆説が有名。逆理。パラドックス。
   ー広辞苑」によると
「衆人の予想に反した、一般に真理と認められる説。また、真理に反しているように見えるがよく吟味すれば真理である説」。
  逆説といえばマックスウェーバー著の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
 資本主義といえば「自分の利益の為に利益を追求する」ことだが、マックスウェーバーは資本主義は「プロテスタント」は
「禁欲」「勤勉」の基本理念から出発したと主張。「禁欲」を目的とした「プロテスタンティズム」は「勤勉さ」を旨とする
「合理的」生活態度を形成した結果、「計画的・合理的」に企業経営を行おうとする精神が形成されたという、逆説は
 資本主義社会の大きな精神的支柱になった。
▼ 「逆も真なり」という諺が昔から日本にあったが、両者とも成立する確信で考える入口になればよい。
考えるための一番の近道だが、正論を把握した後でないと単なる歪みになってしまう。 
 ・・・・・・・
3316, 人みな骨になるならば ー11
2010年04月24日(土)
 * 神とは ?
 虚無主義の著者の宗教観がシビア。 この辺が、明るい乾いた虚無主義者の真骨頂である。
大方の人は、以下の論に近いのだろう。 アブラハムがつくりあげた超越的存在の神、そしてユダヤ教、
キリスト教、イスラム教の内輪もめ。 これが、現在の世界の宗教戦争を引き起こしている。
  ーまずは、その部分を抜粋してみるー
 神という言葉を使うと近代以後の知識人は懐疑的になったり警戒したりするものだが、それは「神」という概念の内包(意味)
に関して伝統的なイメージをひきずっているためである。もともと「神」などという超越的観念は、それを思っている人によって
勝手にイメージされてきた。 中世の農夫にとっては雲の上にいる白髭の老人であり、現代的な信者にとっては、「宇宙に偏在する、
形のあいまいな意志そのもの」である。 どこかの原住民にとっては自分と同じような腰蓑をつけているオッサンかもしれない。 
このように、信者たちが各自勝手に想像しているのが絶対者なのだ。ある意味で、このような多義的になんとでも解釈できる
教義を備えていない宗教は、レベルもニーズも様々な多数の信者を引き寄せることができないらしい。だから近代以降のインテリたちは、
神を否定したがる。確かに、そんなシロモノは実在しそうもない。 ただ、そうした多様なイメージのむこうに共通項として
「それ以上の審級が存在しないような超越的かつ絶対の存在にして運命の決定者」を想定することはできるだろう。
それが人間臭い愛や怒りや嫉妬や気まぐれをもつかどうかは、各信者の想像力の限界を示すだけである。
むしろ、その人間の程度を知りたければ、その人物が信じている神の特徴を教えてもらえばよい。
神のイメージは、たいていその信者の願望と恐れを投影したものだからである。 
そこで、ここにいう「神」とは「宇宙を統べるなにか」以上のものではない。そんなものが実在するかどうかはひとまず措く。
もしそうしたものが存在するならば、それとの相談なしに将来を誓うことは人間の分際を越えていることになる。
そして、そうしたものが存在しないなら、ますますわれわれの生や将来にはなんの保証もない。
 〜〜
「その人の程度を知りたければ、その信じている神の特徴を知ればよい。神のイメージは、その信者の願望と恐れを
 投影したものである」は、言いえて妙である。 人間が言葉を持ったが故の不安と不幸をカバーするため、
 未知の存在の畏敬としての神は、必要である。しかし、それでしかない。
「その人物の程度といえば、連れ添いを知ればよい!」というが、これは当たっているか?これとは関係ない。
  神については黙するしかない、ということか。最後は、神様助けて、というしかないのが人間である。
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2941,ナチが愛した二重スパイ
2009年04月24日(金)
 「ナチが愛した二重スパイ」  ベン マッキンタイアー著
 新幹線通勤の往き帰りの車中で一ヶ月かけて読んだが、これが何とも面白い。第二次大戦末期、ロンドン暗黒街の
 チャップマンは、ナチのスパイとなる。しかし「二重スパイ」として、ベルリンに偽情報を送っていた実録もの。
 ロンドンの当時の札付きの泥棒、ジゴロの生々しい犯罪と、監獄暮らしなどが詳細に書かれている。
 現在の犯罪者も似たようなものだろうから、我われ小市民とは全く異質の存在である。
 肯定的にみれば「何もしないで一生終わるより、よほど思いのまま生きることも必要では?とさえ思わせるほどである。 
 札付きの犯罪者がその経験を生かして二重スパイになって国家のために大きな働きをすることになるから、皮肉といえば皮肉。
 pー234に 著者は、二重スパイのチャップマンを次のように分析している。
 【 二重スパイのチャップマンの話は、地味なスパイの話とは違う。スパイ小説なら、あり得ないこととして拒否される
 内容である。主人公は悪党であるが、悪党としては決して敗残者ではない。彼の犯罪歴は、軍隊脱走から猥褻行為へ、
 女から脅迫へ、強盗から金庫爆破へと段階的に進んだ。あとになると彼の報酬は多くなり、最初はつまらぬことに手を染めたのを
 恥じているのは疑いない。この男の本質は己惚れで、自ら評価するところでは大物で、暗黒街のプリンスのような存在である。
  (字数の関係でカット09年4月24日) 
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2577, フロー体験 ー2
 2008年04月24日(木)
 ー まずは、要点を書き写してみる。ー
我々が幸福であるかどうかは、世界の大きな力に加えることのできる統制によるのではなく内側の調和による。
肉体的生存が外部環境に依存している以上、外部環境を支配する方法を学び続けることは確かに必要である。外部環境を支配するとは、
すでに経験して解るように、我々が個人としていかに喜びを感じるか、または世界めカオスをどのように減少させるかに関しては、
それほど役に立たない。カオスを減少させるためには、意識そのものを支配すること学ばなければならない。
 ーフロー体験の構成要素が存在すると、
 次の8つを挙げている。
1. 明確な目的(予想と法則が認識できる)
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
3. 自己に対する意識の感覚の低下、活動と意識の融合。
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
7. 状況や活動を自分で制御している感覚。
8. 活動に本質的な価値がある、だから活動が苦にならない。
フロー体験は外面的報酬とは隔離され、ひとつの活動に深く没入し、その経験それ自体が楽しいので、
純粋にそれをするために多くの時間や労力を費やすことができる状態をいう。
したがってフロー体験は、悲しい、辛い、煩わしい、妬ましい、腹が立つ、焦るといったネガティブな
感情とは隔絶した、うれしい、楽しい、歓喜に満ちた十全感、充足感、楽観、自己効力感をもたらしてくれる。
   (字数の関係でカット09年4月24日) 
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2007年04月24日(火)
2212, 宇宙的自己?が語りかけてきた ?        (。・8・。)ノ おはよう!
 *一昨日の朝方の夢*
10年近く前に亡くなった母の夢を時々みるが、一昨日の夢が不思議な夢だった。晩年の母は5年半ほど痴呆症だったが、
夢の中の母は平常の状態。 不思議に思い、「如何したら呆けないでいられるのか?」と聞いたら、
「何を経験しても、その都度ごとに文脈としてまとめることよ、また、一つ一つの要素をキッチリと言葉にしておくことよ。」
と諭すように答えた。そして、家の宝として、小さな仏像を5~6個持ってきた。さらに家にある大きな封書を持ってきた。
神聖な昔から家にある「書置き」のようだ。そこで目が覚めた。普段の自分の世界から一歩抜け出た不思議な感覚であった。
‘遥か遠い向うの世界からの魂の呼びかけ’のような、‘宇宙的自己としての母の自己が、地上の私に直に語りかけてきている’
ようであった。 現に毎晩、私が寝ているところが、母が30年以上寝ていた処である。「魂とは何なのだろうか?」不思議で
不思議で仕方がない。 誰もが持っている、不死の何かなのだろうか? あの夢に出てきた母とは誰なのだろうか?
(字数制限のためカット 2014年4月24日)


4787,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜�

2014年04月23日(水)

    * 綺麗に止めたい、のですが! 
 実際に自分が当事者になって感じたことは、自分もそうだったが、他人の卑下の視線と、いい加減さ。
地場の中で単一価値観しか持ち得ぬ人の「上から目線」が、漫画的で面白いといえば面白いが、
経験する前の自分は、こんなもの。 倒産といえば、【夜逃げ、自殺、家庭不和による離婚、計画倒産、
連鎖倒産、社会的抹殺】などが思い当たる。娑婆からみれば、良い倒産、悪い倒産など関係なく、
差別対象で、成るほど!と、実感する日々!
弁護士に依頼したことは「30年間、会社取引は綺麗にしてきたので『立つ鳥跡を濁さずで』終えたい!」
に対し、「倒産に綺麗も汚いもない。あるのは、良い倒産と悪い倒産だけ。今の状態は、それは可能。
点数でいえば、100点はあり得ない。せいぜいで70点! その手伝いをするのが弁護士の役割」と。
「ならば、その70点でお願いします!」で、方針が決まった。 結果は概ね70〜80点と自己評価。 
弁護士も、その方針とおり動いてくれ、事業物件の、全ての買い手がついた。 自宅も、家内が購入を
希望し、名義が家内に移って、現在に至って、今では使用人扱い! 
抵当などのの弁済平均が全国平均11%に対して、40%弱の弁済で、無事終了。一般債権も、労働債権もほぼゼロ。
役員と社員の退職金も規定の7〜8割は支払うことが出来た。  
 中小企業は、万一に備えて事業主の連れ合いに給与を支払い、厚生年金と健康保険をかけて、残りを本人名義の
預金にする。これが「間接保険」になる。 特に、長期の設備投資には必要条件というより絶対条件になるが、
これが装置事業でないと、その備えをしていない。それと妻など家族に、連帯保証人にしないのも長年の知恵。
 私の場合、40年近く、給与の一割を目安に家内の給与にしていた。これが、今では、命綱になっている。 
孫子の攻守の鶴翼の構えである。 思わぬ震災クラスの社会変動を、家系として経験してきたからこそ出来たこと。
更に保険に入る代わりに、家内名義の預金を40年近く続けていたが、塵も積もれば(小)山。 ケセラセラでは、
生きられないが、これをもって計画倒産と巷の噂! 弁護士に、「私の場合でも計画倒産?」と聞いたところ、
「倒産には、計画倒産と計画的倒産があり、長年にわたり、備えるのは、それ以前の体質の話。
『金持父さん、貧乏父さん』という本があったが、もじって『良い父さん(倒産)、悪い父さん』が基準の言葉。 
世間的には、それを同じに見ているが、似て、非なるもの」との解りやすい回答。 それを前提に、あの卑しい目線の
底の浅さが見え、それが気持ちを大きく支えてくれる。 成るほど、人間は自分の範囲でしか事象を解釈できない。
そういう自分自身も同じことだが。日頃から教養、特に哲学、歴史を学んでいないと、こうなる。何ごとも経験。

・・・・・・
4420, 暴走老人!  −3
2013年04月23日(火)
   * 孤立化する空間        「暴走老人! 」藤原 智美 (著)
 近所をみても一人住まい老人の家が目立っている。去年には孤独死の老婆が死後発見された。二年前には、その隣の老夫婦の
奥さんが自死。独り住まいの弧族が目立って多い。そういう我家も何時、いずれ弧族になる? 近くにスーパーや、コンビ二が
あるので、不便はないのだろうが・・ スマートフォンの普及は便利な反面、人と人との係わりを最小にする。
また、年寄りは情報機器を使いこなせるかどうかで、二分される。使いこなせない人の疎外感は、より大きく膨らむ。
とはいえ、孤立した老人が不幸か?というと、これだけは当人しか分からない。大家族の中の孤立の方が不幸のケースもある。
現在、毎日、書斎に4ー5時間はパソコンか読書をしている。それを孤立とは言わない。問題は、孤立した空間で楽しめるか。
≪ かつて農漁村、都市の商店街のような場所には、仕事や土地(地域)を通じた共同性が存在した。一方、郊外住宅地に仕事を
 基盤とした共同性を求めることは不可能だ。そこは仕事場とは切り離された、文字通り「ペツドタウン」である。
しかも長い時聞をかけて発展した町ではない。そのほとんどが、計画的に一気に造られたきわめて人工的な町である。
当然、造成地という白いキャンバスには、地域社会の秩序となる規範など存在しなかった。数世代、数十世代にわたって
造られていった町のように、受け渡される土地に根ざした約束事もない。郊外に暮らし始めた人々は、同質性(家族構成、年齢、
収入は似たり寄ったりである家をそなえていた。 彼ら核家族は、古い家父長制や地域共同体の縛りから自由な新しい家族像、
核家族を中心としたマイホーム主義を実践した。だがそれは一方で、地域社会の力を極端に弱める結果になった。
それぞれの核家族が均質な力をもった存在として、新たな土地で生活をスタートさせる。彼らを束ねる地域の「権威」もなく、
関係の秩序が成立していないその時点で、互いが強い主張を始める生活はきわめて不安定化する。住みにくい、ストレスな
場所になるだろう。その状況で新住人たちが選択したのは、なるだけ隣人とかかわらないことだった。互い干渉しないことで、
新興住宅地はかろうじで暮らしの場所となったのだ。(略)・・・ 鳥瞰してみると、そこにあるのは各戸に孤立して存在する
家庭群落だった。群れていても、関係しないというどこか矛盾した場所が郊外である。やがて明らかになったのは、孤立する家が
内部では個室によっでさらに分節化され、家族もまた個人として孤立しているという像だった。新興住宅地は二重に分節化され、
最後は個人に行き着く。それが「孤独な郊外」の本質。だが地域社会が衰弱、家族が孤立する構図は郊外だけにあるのでない。
都市近郊の団地からスタートした「孤独な郊外」は、都心部の集合住宅にもおよび、今では農村地帯も孤独な郊外化は進んでいる。
こうして日本中の住宅地から地域社会はしだいに姿を消していった。そして非地域社会化をいち早くスタートさせた郊外住宅地は、
現在著しい疲弊の姿をさらしている。多くは「ふるさと化」が失敗し、二代、三代と住みつづけ、新しい規範を生みだすことも
なかった。最近では大都市圏で、都心回帰がさらに郊外住宅地の疲弊を早めている。住まいから次世代が消えた老人世帯は、
家そのものが個室化した。・・・≫
 ▼ 平櫛田中の言葉「子供しかるな来た道じゃ、年より笑うな行く道じゃ・行く 道・来る道一人道・これから通る今日の道。
  今やれねば誰がやる・わしがやらねば誰が やる」がある。これは、【「子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの、
  来た道行く道二人旅、これから通る今日の道、通り直しのできぬ道」作者不詳。妙好人(=浄土宗の信徒の誰か)】を、 
  言い換えたものと思われる。この位の意志がなければ、生きてはいけない。そういう私も何時の間に、その年寄りの仲間入り。
  年齢に気持ちが追いついていけない日々を孤立化した書斎で、過ごしている! 
・・・・・・ 
4046, 閑話小題 ー癲癇について
2012年04月23日(月)
  * 癲癇とは
 先日、京都で癲癇持病の交通事故で多くの死傷者が出た。発作時には気を失うというから恐ろしい。 以前も似た事故があった。
持病を持った人にとって働く範囲が決まってくるため本人にとって大変な病。 国内に120に一人、100万人が患者というから、
身近にもいたはずだが何故か具体的に知らない。 10年ほど前のこと。突然、バスの後部座席で後ろの人に両手で全力で肩を掴まれた。
その時に何が起きたか理解できず、前屈みに立ち上がり、その手を払いのけた。そして振り返り怒ろうとしたが、硬直している。
何かの発作が起きたと判断して騒ぎにはしなかった。 次のバスステーションで、その中年女性が何事もなかったように降りていった。
それが癲癇ではないか?と、思うに数日ほどかかった。 今回調べてみて、100万人も存在していることに驚いた。
100人万といえば、リウマチ患者と同じ。 患者本人は人前に出ず可能の限り隠すので表面化していないという。 
  * 悲しきかな、人生は!
 先日、連帯保証をしている関係で自宅は家内の物件になり、私は宿六にあいなった。
弁護士曰く、「爪を切らた貰われてきた飼い猫のように大人しく従順に生き延びるしかない!」と辛辣。 無理? とすると!
  * フランス大統領が交代?
 フランス大統領選挙でサルコジが落選の様相である。5月6日で決選投票で交代にでもなったら、ユーロ危機が大きく再燃する。 
世界経済は毎日がスリルとサスペンスの日々である。 時の権力者がギリシャ、イタリア、スペインなどPIIGSを救いざるを得ないのは解る! 
日米欧の、どこもかしこも際どい状況。 中国も首脳交代で怪しげな権力闘争が表面化してきた。年末の韓国とアメリカの大統領選挙もある。
・・・・・・
3680, 節目どきに ー9
2011年04月23日(土)
  * ふと、思うこと
 まだ何が自分に起きていることが、分かってないのかもしれない。 廃業、倒産と慌しく現象だけは移り変わっていくが、
何か他人様から「奇妙なもの」に見られているような、これまでの視線とは全く違うような・・ それはそれで仕方がない。
経済震災・自然震災としても、倒産は倒産。 それでも、新潟・長岡と職・住が別だったので半分は助かってはいるが。
これから起こる経済動乱を考えると、一年だろう。 銀行債権以外の一般債権などは、ほぼ迷惑をかけないで済んだが、
一般の人は、そのことを知らない。 家内も含め、二人とも厚生年金に40年以上入っていたので、今日明日の生活の心配はない。 
弁護士がいうに、「現時点で3割が終了、債権の9割9分以上が銀行債権で、一般債権を、ほぼ完済しているので、これまでは順調。
手続きからして二年が目安。」 それにしても私自身に、自分の立場に何の疚しさと、暗さがないのが問題。「これだけは、
経済震災と自然震災で、私の力の及ぶことでない」という思いがあるし、実際に、そうだ。 あんまりケロッとしているので、
30年来の税理事務所の担当に「貴方は、自分の置かれた立場が全く分かってない!」と注意された。 それも分かるが、
「じゃあ、どうすれば良かったのですか?」という内語が、何処かで沸いてくる。 それらしく、していろ! ということか。
しかし時間の経過と同時に、気持ちがジワジワと追い詰められていくのが分かる。 自然災害も含め、それぞれ全国民の問題だが。
・・・・・・・
3315, アポリアと空とぼけ
2010年04月23日(金)
「プラトンー哲学者とは何か」 納富信留著
 *アポリアと空とぼけ  P−36
対話によって突き落とされるこの困惑の状態は<アポリア>と呼ばれる。それは、どこにも進むことができない行き詰まり、
途(アポロ)のないあり様を意味する。ソクラテスの吟味にさらされ、アポリアに落いった者は、対話相手メノンが告白するよるように、
あたかも「痺れエイ」に刺されたように感ずる。 対話相手は心も口もしびれて何も言えなくなってしまう。
 このような対話においてソクラテスは、問いかけ、議論を導く主導者の役割をはたす。 しかしソクラテスは、対話をかわしながら、
自らはその事柄について「知らない」、つまり、自らもアポリアにあると主張する。その一方で、対話によってアポリアへと追いやられ、
無知を突きつけられた人は、言葉によって鋭く矛盾をついて論駁するソクラテスが、その問いの答えを実ははじめから
知っているのではないかと推測する。 さもなかったら、どうしてこれほど鮮やかに、相手の無知をあばき出すことができるのであろう?
しかし、そうしたなかであくまで「自分もあなたと同じように、知らない」と言いはるソクラテスに、やりこめられた相手は、
しばしば怒りをぶつける。 ソクラテスは本当は知って質問しているのに、しらばくれてわざと知らないふりをし、
意地悪にも人々の無知をあばき立てよろこんでいるのであると。 人々はこうして、ソクラテスを「空とぼけ」の人と呼んだ。
「空とぼけ」が、対話するソクラテスの謎をあらわす言葉となったのである。 だが、ソクラテスの対話を空とぼけ、
つまり、本当は知っているのに知らないふりをしているとみなすのは、対話する相手や対話を見ている人であり、
ソクラテス自身はけっして空とぼけているわけではない。
▼ 学生時代の卒業の年に人事関連のゼミと出会い、そこでの学びの中で、自分は何にも知らないという事実を突きつけられ、
呆然自失状態。「学生時代にモット知識を得ておくべきだった!」と、頭がグチャグチャ状態。 その結果、悩み苦しんだ結論として、
死ぬまで学び続けること。 何があっても、一日ニ時間の読書を自分に課せることだった。しかし、最近気づいたことだが、
「グチャグチャと、学び続ける決心」そのことが学生時代の一番の学習効果だったこと。ゼミの教授の策略に乗ってしまったことになる。
「自分は何も知らない」という思い込みが「アポリア」としてプラトン、いやソクラテスが2500年も前に看破していたのである。
15人のゼミの人たちの議論から、「何も知らない自分を一年かけて知ったことになった。」  本当に有難いことである。 
で、このザマ? 人は人、我は我。 「全て人生は無知の馬鹿踊り」と思えば、楽なもの。 自分は違う? 貴方だけはね!
・・・・・・・
2940,レーシック専門眼科医院 ー2
 2009年04月23日(木)
視力の矯正方法には、メガネ、コンタクトレンズ、の他に、レザー手術、有水晶体眼内レンズ、オルソケラトロジーがある。
・レザー手術は、レザーで角膜の形を変えてしまうもの
・有水晶体眼内レンズは、角膜と水晶体の間に、コンタクト・レンズを入れて矯正する方法。
・オルソケラトロジーは、寝ている間にハードコンタクトを入れ角膜にクセをつけてしまう方法である。
 レザーや、有水晶眼内レンズを入れたりすると、ドライアイになりやすい欠点もあるという。
今回の短い先生との会話を再現してみよう。
・私の質問、  レザーや、有水晶体眼内レンズの失敗確率は?
  先生の答え、 数千分の一
・質問、 失敗したり、上手くいかなかった時は、どうなるんですか?
  答え  出血をしたり、レンズがずれたり、黴菌が入って炎症が起きたりするケースがあります。
・質問  もしも初期の白内障を取ってもらって、レザーで矯正をしたときの中期的なマイナスは何ですか。
  答え  早ければ早いほど、次の段階、緑内障に移行する時期が早まることになります。
・質問  私の今の段階での手術は、先生は勧めますか?
  答え  私は元々、手術は最後の手段で、本来はすべきでないというのが持論です。
     今回の場合は、手術は勧めません! 何を選ぶかは本人次第です。
・質問  もし、手術をしたときに、眼の度数が進んだり、白内障が再度出るのですか。
  答え  もちろん、度数は同じく進み、白内障も出てきます。更に緑内障になる可能性も早くなります。
・質問  近視の進行を止める薬が開発されたと聞きましたが、実際に、どうなんですか?
  答え  あれは、過大評価で、殆ど効きません。出しても良いですが、効かないものを出すこともないでしょう。
 ▼ 以上であったが、それにしても良心的な先生であった。身近な二人の経験者が同じような忠告をしてくれていたが、
  「緑内障への移行が早くなる」と、「貴方の体質は極力、手術をしない方がよい」が、今回の断念の決め手である。
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2576, ドル覇権の崩壊 ー6
2008年04月23日(水)           \(⌒∇⌒)/おはよ?!!!
 *アメリカの住宅バブルとは?  P-55
アメリカの住宅バブルを分かりやすく話すと、例えば「10年前に50万ドル(約6千万円)で買った家が、
今は100万ドル(約1億2千万)になっている。これがアメリカのミドルクラスー中産階級の家である。
中産階級というのはそれほど貧乏ではない。日本語の中流という意味ではなくて、もう少し豊かな、専門職業をもっている
小金持ち層のことである。このミドルクラスが自分の家を最初、一軒目を住宅ローンで買っていたのだが、家の時価(市場価格)が
100万ドルになってしまっているので、残っているローンの残高の3千万円を除いた残り9千万円分を更に目一杯までお金を借りられる。
また銀行も担保力があるかぎりは、家の価値、価格がある限りは、いくらでもお金を貸すのがアメリヵの流儀である。
すなわち一般庶民層までぎりぎりまでお金を借りて、二軒目の投資用の家、あるいはアパート(コンドミニアムと言う)
を買って利殖する。 あるいはその余剰資金を株式市場や債券市場での運用に回す。もともと返済能力があまりない人たちまでが、
この含み資産であるところの不動産資産を担保にして、ぎりぎりまでお金を借りている。 
そして、これが逆回転(リワインド)するのがいちばん怖いのである。このことをグリーンスパンFRB前議長が警告を鳴らしていた。
▼ これを読んでいると、まさしく日本のバブル期に土地投資に走った会社と、目端のきいたサラリーマン達がしてきたことと
同じではないか。
(字数の関係でカット12年04月23日)
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2007年04月23日(月)
2211, 帰ってきたソクラテス ー2   (^o^) (^0^)オハヨウ!       ー読書日記ー
 韓国人学生による米銃乱射事件、精神的に問題があったとしても、その原因は長年の人種差別の鬱積が本人を
追い詰めたことにある。 金持ちに対する恨み辛みというメッセージがあったというが、人種差別と朝鮮人の直情的な
国民性も重なり暴発したのだろう。 差別は人間の、いや動物の本能であり、これだけは、どうしようもないこと!
 と割り切るしかないのか。 目くそは、鼻くそを差別するものである。
 ーP・221
ソクラテス:救済と差別とは、どういう関係にあるのかな。僕はそこを君たちに聞いてみたい。
 だって、信者になるということは、自分は神に選ばれた、皆とは違う人間だってコトなんだろう。
 その選ばれた信者が、神の前に皆平等と説くなんて、やっぱり変じゃないか。
釈迦: 私は衆生を捨てておけなかったのです。ソクラテス:たとえ騙してでも?
釈迦:よしてくださいよ。ソクラテス:だけど、あなたも知っているとおり衆生はワカラナズヤだぜ。
 これは差別ではなく、事実を言っているだけだが、 自分ってものはなかなか捨てられないものだぜ。
ソクラテス: 宗教的なものとは、そも、一人っきりの心と、神なり仏なりとの間か、すごく孤独な何かだなんてこと、
 君たちには言うまでもないよね。なのに、なぜそのとき、他人の救済やら互いの平等やらが問題になることができるのかと、
 僕は思うんだ。 それぞれの人間が、それぞれの仕方で、神や仏と付き合ってはなぜいけないんだろうね。
イエス: だって、それじゃ宗教にならないんじゃないですか。
 (字数の関係でカット11年04月23日)


4786,自分の頭で考えるための哲学講義

2014年04月22日(火)

         「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜
  * 価値教育とは?
 20歳から30歳までは、変化の連続になる。社会人、結婚、早ければ父親、と、色いろと変化をしていく。
そして、年々、就職先、結婚相手の選定など、人生を大きく左右する決断が突きつけられる。
その中で、大きは危機が体質の変化時の24歳頃にやってくる。それが人生の大きな分岐点になる。
 ここで悩み、基礎を固めておかないと、長い実社会の中で、大きな落とし穴に落ち込んでしまう。 
精神的には鬱病、分裂症など。社会的には突然の失業とか大病とか・・ そこで直面するのが、人生の意味と、
価値感である。ここで、その辺りを「アメリカ道徳教育からわかること」の小項目で取り上げている。
   ーまずは、その辺りを抜粋するー
《 価値教育とは、子どもの全人的尊重と、その自主的な全人的な働きによる価値の明確化を援助する方式をとる。
 従って確定した知識を権威として教師中心に教え込む指導方式とは根本的に違う。・・・
 アメリカの教育学には、二つの大きな流れとして本質主義と進歩主義がある。
・前者は、歴史の試練に耐えてきた文化遺産の教育的価値を重視し、学校にはそれを次世代に伝達するという、
社会から依託された任務があることを強調するのに対して、
・後者は、子どもの興味・関心・成長欲求を受けとめ、自発性・主体性を尊重して活動意欲を引き出すことを重視する」と。
 そして、本質主義に基づき価値の伝達に主眼を置く教育が、価値の押しつけにすぎないとして批判されるにつれ、
進歩主義に基づいて子どもの価値表現や価値判断を重視する教育が主張されるようになったといいます。
そして現在では、両者の統合が課題になっているそうです。私が注目したいのは、もちろん後者です。
つまり、子どもたちの価値判断を重視する進歩主義的な教育です。たとえば、ラス、ハーミン、サイモンらが
『道徳教育の革新』のなかで主張した「価値の明確化」という概念があります。彼らは、すべての人が同じ価値観を
もつことはないという前提のもと、それぞれの人が自分なりの価値観を確立する手法を明確化しようとしました。
  それが次の7つのステップです。
選択すること:①自由に選択する ②複数の選択肢の中から選択する、
       ③各々の選択肢の結果についての十分な考慮の後で選択すること、
尊重すること:④尊重し、大切にする、⑤肯定すること、
行為すること:⑥選択に基づいて行為すること、⑦繰り返すこと。
 これらの七つを満たしたものを「価値」と呼ぶそうです。 》
▼ アメリカ的価値観が、そのまま現れ出ている。「神の前で、それぞれが経典に従い、自主独立で、前向きに
 生きなさい」という事だが、更にマトメルと、【自由に、複数の選択肢の中で、充分考慮した上に、 大切に、
肯定的に、選択した行為を、繰り返すこと、を満たしたのが『価値』】ということになる。 価値観は、それぞれの 
年齢で変転していくため、人生は、何時も学び続けなければならないことになる。まずは両親など家族からの
価値観から脱皮するには、この7つのステップは有効にはたらくだろう! そのためには、教養が必要条件になる!
三年前の【3679, 自己を見つめる−6 2011年04月22日「自己を見つめる 」渡邊二郎 (著) 】が、続きになる!
・・・・・・
4419, この結果に感謝している!
2013年04月22日(月)
 一昨年の倒産劇から数ヶ月あたりから、「この結末が私の人生にとってベストでは?」という思いが心の片隅に生じていた。 
他人に言うべきことでもないし、失業させてしまった社員や役員に対しても、こんなことは口が裂けてもいえないこと。
2001年の9・11テロ以来、10年間、右下がり傾向が続き、リーマンショックで売上げが三分の一まで落ち込んでいた。
経営は死に体に近づき、真剣に止め時を探っていた矢先の東北大震災。もう駄目!と早めの決断をした。 その事業物件の
買い手が直ぐに見つかり、同じホテル名で新経営者の下で現在、営業が続いている。一般債権もほぼゼロで、金融債権以外は
思惑通りの清算ができた。会社借り入れの個人保証もあって普通なら個人破産しかないが、物件の処分が順調だったこともあり、
何とか破産なしの無傷で済ますつもり。そうこうあって担保に入っていた自宅も、家内が買い取ることで確保。 何とか今まで
とおり生活をしている。 順調に誰かに経営を渡すのと、この結果のどちらが良かったか、勿論、前者と思うが、こと私の
人生という面からみると、この方が良かったとも考えられる。 全てがベストに動いてきたから、人類も、自分もいる。
 先日の高校の同級会で、半年前に老舗の会社を倒産させた人が隣でシミジミと、「この結果で終わったことに感謝している。
こんな気持ちになるとは思ってなかった」と、現在の私の心情と同じことを、そのまま語りかけてきた。 これは実際に
経験した者でしか言えない言葉。 無念で、情けない自分と、周囲の好奇の視線の中、独りで日々、悶えた結果、この現実を
そのまま受け入れるしかない中で、実はこれがベストの結果だと気づく。「この苦しみを与えているのは、神(自然)が、
何かの意味を気づかせようとしているのではないか」という、フランクルの問いかけである。その時に自然に出てきたのは、
「この経験で私は、やっと半人前になったが、貴方は以前の不幸分を加えると、半人前から一人前になった」で、ある。
互いの心奥の葛藤と、その思いの先は同じ。過去を振り返ると、何度かのどん底の青春期の日々にこそ、人生の味があった。
思い出すのは絶頂の浮かれていた日々でなく、瀬戸際で呆然と過ごしていた日々である。あの時、何かが変わろうとしていた。
 それと同じ心情が、「この結果(状況)に感謝!」の言葉に集約されている。底に下りてしまえば、不安感など消滅。 
結果を素直に受け入れれば、そのまま安心立命の境地に到達できるのが人生。実際に倒れ、孤立し、そこで人生を俯瞰すると、
全く違う目線を得ることが出来る。その視線から、これまでの人生を振り返ると、何とつまらない自分が見えてくる。
だから、「この結果に感謝している!」の言葉に、なる。なかなか人生は味があり、面白い。それを味わうのが、これからの人生。 
・・・・・・
4045, 末っ子はつらい ー3
2012年04月22日(日)
  私は10人家族の末っ子。 家が商家だったので誰も自分のことで手一杯、互いのプライベートを見せないのが暗黙のルール。
4〜10歳までは1Fが店舗、2Fが倉庫と事務所、3Fが住居で、4Fには住み込みの女子従業員7〜8人が住んでいた。 
食事は、何時も従業員と一緒。 小学校5年になって、7〜8分離れたところに住居部分が移動した。雑然とした商家では独りで
遊ぶしかなかった。 末っ子は親の目が行き届かない分、姉や兄の虐めから自らを守らなければならなく、常に周囲の顔色を
窺がう性格になっていた。 特に父親が店と家族と親戚を束ねていた絶対的存在で、父に媚びるのが効果的であるのを知っていた。
そのため?末っ子の私に甘かった。数年前、新幹線の乗客同士の会話で、「私は多人数兄弟の末っ子で、常に親や兄弟から許されてきた。
それが今でも直らず、失敗をしても許されるだろうという思い込みの性格が身について、大きな壁になっている」というのを聞いて、
「まさに自分そのもの!」と、驚いたことがあった。 家族間では絶対に互いの陰口はタブーで、兄や姉が他人の噂話をしたのを
殆んど聞いたことがない。 児童心理学では、家族は5人以上が必要という。 一人っ子は同年代の心の内を知る機会が少なく、
孤独になりがちになる。 さらに親のかまい過ぎと、兄弟がいないため自己中心になってしまう。 家族の立ち位置で、
性格が形成されるのは自然の摂理。数年先が、それぞれの姉、兄の姿から見え、学ぶことが多い。7歳年上の姉が勉強の仕方とか、
自分の夢をイメージ化する重要性などを、節目ごとに教えてくれた。ある意味で、一番、世話になった人である。 
末っ子は、末っ子の欠点と利点がある。冷静にみて、やはり大家族は利点が多い。  両親の要素もあるが。
  * 末っ子はつらい ー2 2002/05/08
 末っ子は辛いと、姉が聞いたら、「なにをいっているか!」と怒鳴られそうだ。「両親に、兄姉にみんなに可愛がられて!」と。
確かにそうだ。 特に両親にとって、ペットみたいな存在で、亡くなる時もしかり、傍にいた。 そして遺言も財産に関しても、
不利にならないようにして亡くなった。 家は両親が死ぬまで常にお手伝いがいて何時もチヤホヤされてきた。 末っ子の特権を
充分享受したといってよい。 それと大家族は逆に孤独に強くなる。一人でいつも遊んでいた。 後年になって長姉がいうには、
いつも一人で三輪車で遊んでいたとか。今も一人遊びが好きだ。ノイローゼになる人は一人遊びの出来ない人。 幼児期・少年期は
事業の立ち上げ時で非常に刺激的な環境。 そういう意味で「三つ子の魂百までも」である。それぞれの性格はその時代の背景と、
血液型と家族関係と両親の年齢などによって、微妙に変わってくる。 長男には長男の立場、末娘ならその立場で決まってくる。 
すぐ上の兄は、私の影的存在で?大人しい性格。「積み木崩し」というタレント手記があった。長女、次女の次に男が生まれると、
その次女がひねて非行に走るケースが多いという。  兄妹の立ち位置で、性格が決められる。
  * 末っ子はつらい ー1 2002/05/07
 8人兄弟の末っ子である立場の自分を書いてみる。少年期まで、末っ子は上からの虐めがきつい。特にすぐ上の兄のそれがきつい。
常に気を張っていなくてはならないのがその宿命。 食事も早く食べないと食べ分がなくなる為、早食いが癖になっていた。
多くの兄弟で育った末っ子は社長に向いているそうだ。 他人の気持ちを読む習性が、それに向くのだろう。 それと結婚の相手は
長女がいいとも最近聞いた。たまたま家内がそうだった。 そういえば過去に惹かれた女性は長女で、A 型で、おっとりタイプが多かった。 
 また末っ子は口が堅くなくてはならない。立場上、それぞれの兄姉の秘密を知る機会が多い。 しかし万一告げ口をしたら、
袋たたきにあってしまう。家族はまず出会う初めての社会だった。
・・・・・
3679, 自己を見つめる −6
2011年04月22日(金)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
自己を見つめる、その自己とは? そもそも何だろうか? その自己は、「少なくとも、この世で、自己として
 瞬時の光芒を放って輝いた」のである。 この世に表れでたのは、その存在理由があったのである。
 ー 第五章 自己 ー
【 およそ、あらゆる芸術家、学者、政治家、実業家などの、人類社会に貢献した人々はみな、その生涯において、
 自己決定の稀な瞬間を生きとおして、それぞれ個性ある一生を築いて、この世を去った。 もちろん、そうした際立った、
 選り抜きの人々以外でも、考え直してみれば、あらゆる人間がみな、それぞれなりに、自己の人生と運命を生き抜き、
 そのかけがえのない人生の軌跡を描いて、自己の人生を全うしようとして、一生を走りとおしたと見なければならない。
 むろん、この世の人生においては、不運や事故、挫折や失敗が付き物であり、多くの人々は、志半ばで、不幸のうちで倒れ、
 意に満たない、悲運のなかで一生を終えた。けれども、人間はすべて、最後には、自分らしい生き方を、運命として肯定しながら、
 この世に別れを告げる覚悟で人生を生きるものである。そこに、ほかならぬ、掛け替えない当の自己自身の人生が、一回限りの
 形で生起し、代りの不可能な、それなりの個性と必然性をもったものとして刻まれ、こうして、永遠の闇から闇へかき消え、
 あるいは不減の魂のなかに久遠の記憶として残され、少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って輝いたのである。】
【 大切なのは、人間の存在の必要条件と十分条件とを峻別することにある、と。 
 人間が生物としての機能を果たして生きるということは、人間の存在の必要条件を満たして生きるということにほかならない。 
 また、人間が社会的存在として、なんらかの環境や境遇のなかに置かれて生存を営むということも、人間の存在の必要条件を
 満たして生きるということのうちに入る。けれども、それだけでは、真に人間的な自己自身として生きるということの十分条件が
 満たされたということにはならない。衣食住の欲求を満たし、胃腸や呼吸が正常に機能し、なんらかの社会的環境のなかに置かれて
 生きるということならば、誰もがやっていることである。むろん、そこに、胃腸の丈夫な人とそうでない人、あるいは比較的恵まれた
 環境に生きる人とそうでない人との差異はあるであろう。けれども、そうした所与の心身の資質や社会的環境のなかに
 ただ置き入れられて、それにまったく受動的となり、なんら奮起することがないのならば、その人は、ほんとうには、
 まだ自己自身に目覚めてはいないと言わなければならない。 】
 ― 自己の存在の十分条件を満たしたかどうか、それも充分かどうか、それぞれあろう。それは個性を発揮できたか、どうか。
・・・・・・・
3314, 聞きしに勝る3D/TV
 2010年04月22日(木)
  最近、昼飯は外食を週一にして、サンドイッチを通勤途中に買ってきて食べているが、昨日は、新潟駅の中華店でランチ。 
  その後、ジュンク堂書店に向かう途中、ビックカメラの前を歩いていると、話題の3D/TVが店頭にあった。 
  昨日の新聞で一部の店舗でデモ展示を始めた記事を読んだ直後だった。ところで、現在のTVは7年半になるパイオニアの
  50インチのプラズマ。当たり外れの、当たり。しかし、地デジには特殊のマシーンを入れなければならないので、
  替えときにきている。 先週の土・日に家電を見て周り、一度頭を冷やした今週末に、シャープの60インチの
  LED・TVを発注と決めていたが、「3D/TVが700万台の新規需要の創造」とかいう週刊誌の広告が気になっていた。 
  そこで早速、見たところ、その決心を覆すほどの画面。映画のアバターを3Dでみて驚いたが、TVは大したことはないと、
  思っていた。 ところが実際は映画より良い。映画もそうだが、画面と自分の間に空間ができ、更に画面の奥行きができた
  イメージで立体感を出している。デモ用の3D/TVはメガネが固定してあるので、メガネをした時と、しないで見たときの
  差が比べることが容易。そこで、比べた結果は格段の違いである。 これで大相撲や野球を見たら、迫力は数倍は違ってくる。 
  デモ用のソフトは石川遼のゴルフだった。 なるほど週刊誌の見出しの「新規700万台の市場の創造」の意味が分かった。 
   十数年前に初めてハイビジョンが店頭に出たとき、ソニーの画像を見たときの驚きと同じである。 その時は、
  暗い舞台にバレリーナーが白鳥の湖を踊っていたが、立体的な画面に感動したことを憶えている。
  それまでのTVとハイビジョンTVの格差と、3Dの映像の差は同じ位はある。数年後には多くの3D番組が出るだろう。
  急遽、買い替えは数ヶ月待ってから、3D/TVにすることにした。 ますます、お宅か! 
  21世紀とは、ツイッター、3D/TVにしろ、iPadにしろ、こういう時代だったのか! 驚きの連続である。
  「明治は遠く、なりにけり」から「昭和は遠く、なりにけり」か〜。
  ・・・・・・・・・
2939,マネー資本主義“暴走
2009年04月22日(水)
 4月19日(日)の 午後9時00分から 総合テレビで
「マネー資本主義 第1回“暴走”はなぜ止められなかったのかーアメリカ投資銀行の興亡ー」が面白い。
  *まずはーNHKのHPの番組紹介からー
【 金融危機はなぜ起きたのか。巨大マネーはどのように膨張していったのか。
 マネー資本主義の主役として批判の的となっているのが、リーマンショックを起こした当事者でもある「投資銀行」。
     (中間カット 字数の関係で 2011年4月22日)
 ・・・・・・・
2575, フロー体験 ー1
2008年04月22日(火)
 先日「好き」という言葉を取り上げた。好きな状態、好きなことをしていると時間を忘れ、あっという間に時間が過ぎ去ってしまう。
 最適経験をしている状態をチクセントミハイは「フロー」と呼んだ。 好きなことをしていれば創造的になる。だから一流の人は
 「好き」になるまで、対象に集中する。その為には、成功体験の味を知らなければならない。当たり前のことといえば
 当たり前のことだが。一流の人の持っている雰囲気は、フローが滲み出ている空気をいう。
 ーー
 面白そうなところを、まずは抜粋してみる。
   (字数制限のためカット 2010年4月22日)
・・・・・・・・・・
2007年04月22日(日)
 2210, 帰ってきたソクラテス ー1         (*^_^*)I おはよう!
あのソクラテスを甦し、政治家、学者、評論家、老人福祉係、元左翼、人権擁護団体、イエスに釈迦まで登場。
プラトンの『ソクラテスの弁明』の問答形式で、彼らと対話をしながら、尊厳死から性教育まで身近な難問に大哲人が挑み、
知の広場へと誘っている。哲学とは自分の頭で考えることだが、それを具体的に示してくれた内容である。
池田晶子の本は、もう10数冊以上は読んでいるが、読めば読むほど面白い。初めは面白くない本を買ってしまったと
後悔をしたが、じっくり読むほどに間違いだと気がついた。面白い順にランダムに取り上げてみる。
まずは、イエスと釈迦とソクラテスの対話が面白い。三人の対話の架空の対話の中から、
一神教と仏教と哲学の考えの違いを面白く浮き立たせているところが良い。
     ーーー
=死後にも差別があるなら救いだ=
 ー登場人物ーソクラテス、イエス、釈迦ー
 ーP・215ー
ソクラテス:「彼と我々」って気持ちの持ち方が、この世の差別の始まりであって、けしからんことなのだそうだから。
イエス: 全然違う話だぜ。
ソクラテス:付き合いのよさこそが、君らの身上ってもんだろう。ここは一つ、有難い御法話と御説教といこうじゃないか。
釈迦:付き合いということなら、あなたは我々の比じゃないでしょう。 あなたは実によく付き合う。ものぐさなんて、
 何をおっしゃる。教祖というものは決して付き合わないものなのです。付き合わないからこそ教祖は教祖になるのです。
 差別はすなわちシャベツとは、本来仏教の言葉なのです。たまたま厳しい身分社会の制度が人人を苦しめていた
 世の中に、万物平等、一切衆生悉有仏性を私が説いた。たまたま王子であった私が、その位を捨ててそうした。
 それで、私は画期的に偉いということになっているのでございますよ。
イエス:メクラを治し、いざりを癒し、売春婦を赦したから私はえらいことになっている。馬鹿やろうだな!
釈迦:私が申しましたのは、そういうたまたまの現われでしかないこの世の肉体や身分やらの差別相に拘泥する
 心のあり方こそが、ない差別をあることにしてしまっているのだ ということでしたのに。こんな当たり前のことに
 気づかない無知蒙昧なる衆生たちは、差別相を実相と信じ込んでは、性懲りもなくすったもんだを繰り返し、初めから
 ないものを、ますますすることにしてしまっている。ああ色即是空、かくも簡単な真理が何故わからないのでしょう。
イエス:いや君ね、いちばん困るものがそれだってこと。
釈迦: あるものをない、ないものをあると言うから易しいが、ないものをないという、それをわからせる、これが実に難しい。
    (カット 字数の関係で 2011年4月22日)


4785,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜②

2014年04月21日(月)

   * 倒産よもやま話(三年目の実感) 〜②
 「その直後、気持ちを落ち着かせるため、東京周辺に一週間ほど出たい」と、弁護士に相談すると、
「今が一番、大事な時。それは問題に対し後ろ向きになる。苦しいが今は、直面し続けるしかない!」と一喝。
そのことは以前から体感していた為、納得。問題の中心点を凝視し、立ち向かい続ければ、ほぼ時間が解決する。
この経験で、身近の経験者のことが、解っているようで実は何も解ってなかったことに気づいた。
実は、「犯罪者が捕まり、ホッとした気分は、こんなもの?」という風な、変な安堵感もあった。
 現時点では、『人が死ぬって悪いこと?』と、ほぼ重なる。 
バブル崩壊、9・11、9・15、3・11で、時代が根こそぎ変わってしまった。現在時点の、良い悪いは、表面的な現象。
10年前から、現在に至るまで何が起こった? 身近の天変事変では、中越地震、柏崎沖地震、東北震災。 世界では、
数万規模の死者が出た、幾つかの大地震。 経済では200年に一度といわれるリーマンショック。そして、今後10年で、
その数倍規模?の自然災害、経済災害が、間違いなく起こる可能性が高い現在、「倒産、廃業が悪」の図式・考えを
捨てるべきではないか?というのも、排除してはならない。 その辺は、自分の自頭で考え、判断すべきである。
 その上に、飛躍的なパソコンの携帯の進化で、これまでの現実社会をネット社会が覆ってしまった。
そしてアメリカのルールに習え、のグローバル化である。これが、良くいえば創造的破壊という美名の元に始まっている。
その最たるものがTPPである。経済的な日本併合である。それにしても、国家戦略ゼロの日本の思考能力に暗澹たる
気持ちになる。この節目は、やはり明治維新、太平洋戦争の敗戦に匹敵するか、それ以上の事態。 それに、
呆気無く、飲み込まれてしまったのが、この一連から、鮮明に見えている。私のケースは、事業からの
私自身のリストラであり、経済社会からの完全リタイア、排除である。で、近く避難先で、町を見下ろしている。  
・・・・・・
4418, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー7
2013年04月21日(日)                
   * 幸福とは何か ー大富豪とマサイ族   「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著
 幸福とお金の関係は、なかなか難しい。幸福の必要条件の一つにお金があるが、十分条件では決してない。
  その辺りを、以下で大富豪とマサイ族を比較して分かりやすく説明している。
≪ アメリカでは一九八○年代から、幸福を心理学的に計測するという試みが行なわれている。これは厳密に科学的な
 ものではないが、様々な調査によって、統計的にほぼ同一の傾向を確認できる(大石繁宏著『幸せを科学する』)。 
ある調査によれば、人生の満足度を七点満点とすると、アメリカのビジネス誌『フォーブス』に載った大富豪たちの
満足度の平均は五・八だった。彼らは資本主義社会の頂点に立つ成功者で、豪邸やプライベートジェットなど
望むものはなんでも手に入れることのできるひとたちだ。
 アフリカのマサイ族は、ケニアとタンザニアに住む半遊牧民で、必要最小限のものしかない貧しい暮らしをしている。
同じ調査で、彼らの人生の満足度は五・四だった。 目の眩むような大金は、ひとをたった○・四ポイントしか幸福には
してくれないのだ。もちろんこれには様々な解釈が可能だが、大富豪がマサイ族の村に行ったとしたら幸福だと思うだろう。
マサイ族の若者がニューヨークを訪れれば、極貧と不幸に打ちのめされるかもしれない。 幸福感は相対的なものだからだ。
マサイ族が幸福なのは、家族や仲間との強い絆(愛情空間と友情空間)のなかで暮らしているからだ。
それに対して貨幣空間の成功者である大富豪は、その成功ゆえに愛情や友情から切り離されて幸福を感じられなくなる。 
 でも彼の人生は、まだマシな方だ。この調査によれば、世界でもっとも不幸なのはロサンゼルスなどの大都市で生きている
ホームレスだ。彼ら貨幣空間の敗残者は富も人間関係もすべて失ってしまい、自分たちより過酷な生活をしているインドの
スラム街のひとたちよりはるかに幸福度が低い。もっともこれは、それほど奇異な結果ではないだろう。
お金が幸福の必要条件ではあっても、十分条件でないことは誰だって知っている。
 ぼくたちがお金にこだわるのは、それが「安心」や「安全」という大切な価値と結びついているからだ。
ヒトはずっと不安のなかで生きてきたから、安心を得ることは幸福の大事な条件のひとつだ。そして市場経済においては、
この安心はお金で買うしかない。日本国の財政が未曾有の赤字に陥り、少子高齢化で年金制度が破綻必至になったことで、
この国を重苦しい不安が覆っている。老後を国家からの年金に頼っていたひとが、安心を奪われてしまったのだ。
 でも単純な経済問題だから、お金により解決できる。財政破綻で年金の大幅減が実行されても、宝くじで一億円当たったら、
どうだってよいと思うだろう。(当たらないと思うが) 幸福のためにお金を求めるのは、きわめて合理的な行動だ。
ところが皮肉なことに、宝くじの当せん者を追跡調査をすると、実はあまり幸福のなっていない。
買物や豪遊で賞金を使い果たすころには、自分には何も残ってないことに気づくのだ。 ・・・ ≫
 ▼ ー我われがお金に拘るのは、「安心」や「安全」という価値に結びついているためーというのは、分かる。
  ならば、日本は世界一の「安全」で、「安心」して暮らせる国で、万一のことがあっても、生活保護がある。
  しかし自殺は先進国の中でトップクラスにあるし、国民は幸せそうでない。何故なら国の先行きが見えないためである。
  先行きなど、かつても見えなかった。中途半端な幸せを長年続けてきた結果、激変の最中、動揺しているのである。
  東北大震災から数ヶ月後、アフリカの難民をよびよせ、被災民の状況を見てもらったが、殆どコメントをしないで帰った。 
  彼らにしたら何をか言わんである。豊かさの中の極貧生活が不幸の最たる状態であるのは、大都市のホームレスを見れば
  分かる。今や夫婦間資産格差が出来た私など、不幸の最たるもの?でも不幸感はない。「不安感」が最小に縮んだからだ。
  先行きの不安感は、今が不安定だと生じ、蓄積していく。着地をした現在、今さら「不安」など感じようもない。
・・・・・・
4044, 一時停止 ー4
2012年04月21日(土)
            「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 他人との出会い
≪ 肉体的な成長だけで子どもがおとなになれるわけではない。肉体的な成長に精神的成長が伴わなければ、人間はおとなになれない。
その精神的成長とはどういうものか、知識が増えること、感情が豊かになること、経験を積むこと、考える力が増すことーいろいろな面から
考えることが可能だろうが、そのどれもが結局は<個>の自分の確立ということにむすびついていることに気づく。
 群棲動物である人間は、ひとりで生きてゆくことができない。そこから私たちは複雑な社会的構造を生み出し、〈個〉は常に自分と
同等な〈個〉、すなわち〈他〉との関係において生きてゆく。〈個〉の確立とは自我の拡張と同時にその制限をも意味している。
言葉をかえると、他人と出会うことによって、子どもはおとなへと成長してゆくと言うこともできるのではないだろうか。
もしそんなふうに言えるとしたら、私にとって初めての他人との出会いは、いったいいつのことだつたのだろうと考えることがある。
もちろん人間にとって最初の他人とは母親であると言うこともできるかもしれない。しかし、ほとんどの子どもにおいては、
母親は自分自身の延長のような存在であり、母親を他人として意識しはじめるのは、むしろ彼がおとなになってからだろうと思う。
似たようなことは他の身内・家族などについても程度の差はあるが、おおむねあてはまるだろう。 ≫
 ▼ 学校時代は、進学する度に変わる同級生が、他者を考える上に分かりやすい。その時の面々が、その時の自らの分である。
  それは、自分の広がりでもある。それが他人との出会いである。その範囲が広がれば広がるほど、その冷たさと暖かさの
  差が大きくなる。その段差が、人間を成長させるのである。逆に言えば、その段差が少ないと、成長が逆行していくことになる。
  自分を意識する前に見知らぬものとの出会いがある。その境目が増えるにしたがって、己との枠ができ、それが自分になる。
   それぞれの時代の相手の中に、自分の姿が合わせ鏡となり、自分の姿の一部を垣間見ることになる。
 ・・・・・・
3678, 自己を見つめる −5
2011年04月21日(木)
  「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  ー 境遇 ー
【人生においては、私たちは、それぞれの境遇のなかで、様々な経験をしながら、自己自身の人生の有意義性を目指して、
 日々努力を重ね、永い人生行路の過程を歩み進んでいる。そこに、自己自身の生きた時間的な軌跡が形成され、その人なりの
 自己の歴史が築かれてゆく。人生とは、そうした各自の時間的歴史的な行程であり、多様な諸経験を重ねてゆく遍歴の旅路である。
 人生は、しばしば、旅だと言われ、西洋でも、人間とは「ホモ・ヴィアトール(旅する人)」だと語られる。
 しかし、そのような遍歴の旅とは、いったい何であろうか。とりわけ、多様な諸経験を経巡ってゆくということのなかに
 籠められている大事な眼目は、いったいどこにあるのだろうか。・・・・・・
  遍歴の労苦を通じてのみ、私たちの人格の花は、大きく咲き出るのである。格言に言われるように、可愛い子供には
 旅をさせねばならず、異境に出て、他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ初めて、私たちの人格は、
 大きく実るのである。そうした切磋琢磨と、人格的遍歴の過程を、すべての人が、互いに、愛の思いと暖かい心とを込めて
 見守らねばならない。こうして、人間的振幅や試行錯誤のすべてを受け容れ、また赦すところの、裏切ることのない、
 誠実な追憶の魂もしくは心のなかに、それらの歩みのすべてを銘記し、それらを、過ぎ去りゆくことのない、不滅で、
 貴重な人間的経験の全体として、共同でいたわり、保持しようとすることこそが、あらゆる人間にとっての、最も崇高な、
 道徳的かつ人格的な相互的責務であると思う。】
 ▼ 神話は、まさに異境に出て行って、辛苦の中で勝利し帰還する物語が原型である。それは、自分の魂にとっても同じこと。
  異質なものとの出会い、そして邂逅のプロセスを通して自己が深まり、広がっていく。ここでも「異境に出て、他流試合に揉まれ、
 異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ初めて、私たちの人格は、大きく実る」現実の世間的価値観の中では、
 人格は大きく実らないことは周辺を見れば良く分かること。更にいえば、自己とは異質なものとの出会いと邂逅の中にこそ存在する。
  ・・・・・・・・
3313, 対話について
2010年04月21日(水)
  「プラトンー哲学者とは何か」 納富信留著
 * 対話について
 プラトンの「対話篇」を分かりやすく噛み砕いてある内容である。
以下は、そのエッセンスの部分である。 プラトンと、ソクラテスの立場を簡潔に分かりやすく述べている。
 ーまずは、その部分から (p28)
ソクラテスはつねに「対話」において人々と語り、プラトンはそれを「対話篇」として書いた。ソクラテスとプラトンとの出会いは、
また、言葉を語ることと書くことのへだたりと「対」として現れる。ここに、哲学成立の秘密がある。 対話とは、人と人との出会い、
言葉をつうじて何かを追求し明らかにしていく営みである。それは、顔をもつ生きたひとりの人間と人間のあいだにかわされる、
一度かぎりのやりとりである。 対話は、それがかわされる特定の生きた状況、時と場を離れてはありえない。会うのは心と心であり、
ぶつかりあう言葉と言葉が吟味により明るみに出し対話する人の生そのものである。そして、人と状況は、その対話を通じて変化していく。 
対話を交わした人のあり方は、もはや以前のものではありえない。 人が形つくる対話の言葉は、また、その人を形作るものである。
そして、対話は、二度とくりかえさることはない。 これに対してブラトンは、語られる言葉を書かれた言葉にして残した一度しか
起こりえない対話を書き物に結晶させた時、それは時を越えて反復可能なものとなった。書かれた対話は、うつろいゆく言葉を文字に留め、
それを読むことが対話を反復させる。私たちの心のなかには、思りという新たな対話が生み出される。 そうして書かれた対話篇において、
対話は対話者たち、さらに、著者プラトンの手を離れて、私たち読み手のものとなる。 一時の対話を永遠へとつなぎとめる著者と、
それを再び時間においてくり返す対話者。対話篇を読む私とは、そのようなもうひとりの対話者なのである。 しかし、ソクラテズが
従事する生きた対話と、それを書きあらわした対話篇とのあいだに根源的なへだたりがある。このギャップは、「パイドロス」で、
エジプトの神々の対話という形をかりて語られる、「書かれた言葉」への批判に現れる。文字が記憶と知恵のためのすぐれた発明であると
自慢するテウトに対して、王神クムゥスけこう批判しる。書かれたものを信頼することは記像力の訓練をなおざりにする想起の秘けつに
すぎず、それが与えるものは真の知ではなくその見かけにすざないと。 書かれた言葉は、問いかけても何答えない。
 〜〜
 対話について、これだけ分かりやすく書かれているのものも珍しい。 学生時代にプラトンの「ソクラテスの弁明」を
読んでいたが、何を理解していたのだろうか。 字づらだけを見て、知ったつもりでいただけではないか?。
 反面、学生時代に寮にいたことや、ゼミや、クラブの人たちなど色いろな人と一度限りの対話があった。
その蓄積が人生の大きな基盤になっていた。 そして自分の壁を破壊してくれていた。
現在、ツイッターが爆発的に広まっているが、あれは会話?でしかないのか。
それとも、人によっては対話になりえるのか? ブログでは対話が成立していると思うが! 
 議論すること、それを書き留めること! その青さを持ち続けること!  チロリチロリだけでは、だめか?
 ・・・・・・・・
2938, イエスマン
2009年04月21日(火) 
 先々週にシネマに行ってきたが、そこで「イエスマン」という面白そうな映画予告をしていた。
そこでネットで調べてみた。 ーネットの紹介文には、
《 人生において常に「ノー」を連発してきた後ろ向きな男が、どんなときでも「イエス」と言うルールを自分に課した
ことから騒動が巻き起こるコメディー。・・・ ある人に「もっとイエスって言わなきゃ」と言われ、半年間、
“イエス”と答え続けた経験を回顧録にまとめベストセラーに。スパムメールの怪しい広告や平和運動への誘い、
週末シンガポール旅行、車のセールス、すべてに“イエス”。「もう1杯?」と聞かれなくなるまで飲み続けた。
ダニーはその日々を「とにかく楽しかった。楽しいパーティでも、つまらないパーティでもいい人に出会える確率は同じ。
パスしていたら始まらない」と振りかえる。誘われたり、勧められたり、頼まれたり、あるいは決断を迫られたり・・。
..........
2574, 我々は 井伏鱒二の山椒魚?
2008年04月21日(月)
 山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることが
できなかったのである。 ー『山椒魚』本文より?岩屋から出られなくなってしまった山椒魚が、孤独のあまり岩屋に迷い込んだ
蛙を閉じ込めてしまうという、井伏鱒二の「山椒魚」を読んだときの衝撃が、今でも鮮明に残っている。
学生時代に読んだ時の私の解釈は、「岩屋」を自分のつくった固定観念と、因縁に縛られてしまった現実(生活レベルの環境)
ということであった。岩屋に入った後に、自分の体が大きくなり、その入り口から出れなくなった悲哀である。
人生の縮図のようで、何か残酷にさえ思えたものだ。身近な壮年・老人の一生が山椒魚に重なって見えたのである。
家業に縛られた長男、長女の立場も岩屋にたとえることが出来るが、ただ誰もそのことにすら気づいてないのが、
悲しいといえば悲しい!しかし考えてみれば、全ての人が同じではないだろうか?
(12年04月21日 字数制限のためにカット)
・・・・・・・・・
2007年04月21日(土)
2209, 反時代的毒虫 ー4
   U(^(ェ)^)U おはようございます!  ー読書日記ー
「反時代的毒虫」ー河野多恵子、奥本大三郎との対談ー『人の悲しみと言葉の命』から
P-153
奥本:お金を恥ずかしがったり、汚がったりするのは、日本独特のことじゃありませんかね。
河野 やっぱり武家社会の影響だと思います。 武家社会はお米が給料でしょう。
奥野:武家の負け惜しみ。
河野:武家は、一種の俸給生活者。それでお米をお金に替えたりするわけだけど。お金というものに縁遠かった。
奥野:商人階級を特に分離して、それを卑しめる。しかも時代とともに苦しくなって、
   それに頭を下げなければならない悔しさ。 そこから不浄感が余計に出てきた。
P-156
車谷:「お金がないということが生きることの原動力になっている人と、それが無気力を呼び込んでしまっている人と、
   ふた通りありましたね。 前者はなりふりをかまわず、金さえあればっていう考えで生きている。そういう人たちの
   顔色は溌剌としていた。ニヒリズムというか、絶望感というか、そういうものをはっきり意識していた。」
    (09年04月21日 字数制限のためにカット)
ーーー
解)お金に関しては、ここで多く書いてきたが、また小説の中での「金に関する扱い」もシビアで面白い。
 金と女(男)は、人間の煩悩の元である。車谷の「人の偉さは限りがあるけれど、人の愚かさは底なしの沼です。
 僕は人間の本質は相当にタチが悪いものだと思うんです。業が深いというか。 
 文学の原質は、世俗の中の下品な、血みどろの欲望の渦巻く、煩脳や迷いが流れ出るようなものだと思うんです。」
(12年04月21日 字数制限のためにカット)


4784,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜①

2014年04月20日(日)

   * 倒産よもやま話(三年後に思うこと)
 倒産など、滅多にできない経験である。姉夫婦、兄夫婦の倒産劇を身近にみて、相談にのっていたのが予備知識に
なっていた。お陰で、右往左往することなく比較的冷静に対処できた。「人助けは、結果として自分のため」になる。
幼馴染が10年前に訪ねてきて、倒産の生々しい話をしていたが、姉・兄と共通する点が、弁護士などの代理人をたてること。 
そのための資金を必ず確保することを強調していた。それもあって、迷わず弁護士に依頼した。30年来の経理事務所の
合同センター内の弁護士に依頼することになった。兄の倒産も手がけていたので、内情を知っていたこともあり、順調に
手順が進んでいった。 無我夢中の渦中、何もかもが新鮮な体験で、ドラマの主人公のような気分。 過酷というより、
「痛・面白い日々」という感覚で、惨めとか、恥ずかしいなど、思う余裕などなし。動物的本能が自らをつき動かしていた。
 2011年3月30日午後5時に、担当弁護士の主導のもと、弁護士二人と、女子事務員と、私たち三人の役員が起立をして
礼をした後、「これで会社は消滅しました!」と宣言。その後、経理総務は全てが弁護事務所に引き継がれた。 
その時から、二人の役員は弁護事務所の引継ぎと、資産処分の補佐になる。 と同時に、私は倒産会社の前社長。
翌日の午前、弁護士と二人で、地元銀行に報告を兼ねた御詫びまわり。午後からは、従業員への事情説明と解雇の宣言。
その後は、取引先からの問い合わせは一切なく、私個人の身の回りの整理だけ。そのため、40年近い事業人生の緊張感が
切れて、浮いたような軽い気持ちになる。数日間は、町内と、取引先しか情報は流れてないため、普段通りだったが、
一週間経ってから、マスコミが騒ぎ出す。どのチャネルを回しても、倒産騒ぎ。それも、震災絡みもあってか、
日テレ「真相報道バンキシャ!」(毎週日曜18:00〜放送)から自宅に取材依頼の電話。尾ひれ羽ひれが流される位は
解っていたので、迷わず断る。東北震災絡みで、数軒のホテルなどが廃業・倒産をしていたが、規模から見て、当方が
最大規模の為、あわや全国版ニュースになるところ。 振返ると、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、「痛・面白い」
など、とんでもない事態ではあった。時間が経つにつれ、記憶の書き換えをするしかない典型的事例か! ーつづく
・・・・・
4417, 閑話小題 ー昨夜は高校の同級会
2013年04月20日(土)
  * 審判のミスジャッジ
 一昨日の巨人対阪神戦で、一塁審判が明らかにセーフのジャッジをアウトにした。残酷なのは、走者の足が一歩先に塁に
着いているのをビデオで何度も流していること。後で注意勧告されるのだろうが。目から火が出る思いだろう。恐らく、
ビデオで流されているのだろうと気が気でないはず。甲子園の高校野球で審判のミスジャッジを見かけるが、これも純真な
子供の心を傷つけることになる。審判もミスをするが、致し方がないと割り切るしかない。ビデオの方が人間の目より明らかに
優れている。その結果の現象だが・・・ 試合が流れているため、ミスとしても後に戻せない矛盾がある。
これと同じことが、政治にもある。誰が見てもミスジャッジの政治判断としても、変えることが出来ない。私利私欲や党略で、
正当な判断が出来なくなり方向を誤ってしまう。
  * 昨夜は高校の同級会。
 昨夜は高校の同級会。幹事は気をゆるして酒が飲めない役回り。 このところ二回に一度は、私と幹事相棒Mの役目。
別に好きでやっているわけでないが、大学の寮とか、会社経営をしていた頃の宴会を含めると、間接を含めて二百回以上は
仕切りをしてきた。いや、もっと多いか。まずは盛り上げに役回りに徹すること。酒を飲むのも一期一会。人生を振り返ると、
いつも、「宴会とともにあった」。 気の合う相手であれば二人でも宴会。 ネットの「日本大百科全書」によると、
≪ 酒や歌舞などを伴う高揚した心の触れ合う機会。宴(うたげ)とも饗宴ともいう。また宴会の性格によって祭宴、祝宴、
 招宴、酒宴、狂宴などとよばれる。一般に宴会は季節ごとの折り目や人生の節目に行われ、忘年会や新年会が年末、年始と
 いう折り目に行われる宴会とすれば、子供の誕生祝いや結婚の披露宴は、人生の節目に行われる宴会ということになろう。≫ 
とあった。以前は、各家ごとに料理をつくって御客を招待したり、料理屋で宴会を開いたが、今では居酒屋の大部屋で開く
ケースが多いという。 小・中学校、高校、大学の同級・同期会だけは、最優先に出席にしてきた。同級会は、魂の世界。
心の故郷が魂とすると、年々「遠き日は 年とるごとに 近くなり」というのが実感できる。結局、家に帰ったのが一時過ぎ。
・・・・・・
4043, 一時停止 ー3
2012年04月20日(金)         
  * 出会い ーフェルメール 1967年     「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 私がほんとうにフェルメールを見たのは、その本物を見たときである。本物を見たから、フェルメールが見たくなったのだし、
 旅に出ずに複製しか見る機会がなかったら、もしかすると一生私はフェルメールに気づかなかったかもしれない。 現代の進歩した
印刷技術は、複製と本物との差をだんだんに小さなものにしてゆきつつある。複製で見ても本物で見てもそんなに変わりはないという
絵画もあるだろう。複製を見ることが、本物を見ることにつながる絵画もあるだろう。だがフェルメールはちがう。複製と本物との間に、
越えがたい断絶がある。 あたかもヴィニールの花と、野の自然の花とのように。 あるいはこう言いかえてもいいかもしれない。
本物を見ても、複製を見たのと同じ感動しかなければ、私はその絵にほんとうに感動してはいないのだと。そういう形で感動した絵は
実は私にはまことに少ないのだが。  はじめて見たフェルメールに感じた気持ちを、そのときの状態のままにことばにすりとしたら、
それは「ああきれいだなあ、ほんとになんてきれいなんだろう」ということにしかならない。 美は人を沈黙させるという。その通りである。
その沈黙の中に、無数のことばにならぬことばがひしめいているのではないかと言う人もあるが、少なくとも私の場合、そう言えば嘘になる。
沈黙はもっと深く、ことばにならぬことばなどといった不純なものはない。しんとした純正の沈黙なのである。 
ことばはずっとあとになってから、やっと重い腰をあげる。その時でもことばは謙虚だ、ただいちばんふさわしいオマージュを捧げ、
絵の美しさにほんの少しでもあやかりたいと思うだけなのだ。≫
 ▼ 本物の絵画や美術品を数多く見てきた。TPOもあるが、その前で立ちすくし、身動きが出来なくなるがある。
  ダビンチのモナリザ、サンピエトロのミケランジェロ作ピエタの像、ゴッホのヒマワリなどを目の当たりにした時の感動。
  対象が浮き出てくるようなエネルギーが満ち溢れていた。 特にゴッホのヒマワリは、周囲に誰もいなかったこともあり、
  10分間ほど、釘つけになってしまった。出会いである。  そういえば、近じかフェルメール展が日本で開催される。
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3677, 自己を見つめる −4
2011年04月20日(水)
   「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 節目どきは、境遇の節目でもある。特に乗り越えることが不可能と思える壁に直面した状況を「限界状況」と、ヤスパーが
指摘している。 その限界状況に「人生の不条理」に突き当たる。その時に、それまで隠されていた真実が現れ出てくる。
節目を打つとは、人生の不条理を受け入れ目を背けないことである。正中心一点無になり、変化を受け入れること。
  ー 第三章 境遇 ーから、抜粋
【 現在、変えることのできない定めを帯びた宿命的な境遇のなかへと投げ出され、置き入れられて、人生の途上にある。 
 その私たちの無に貫通された現世における存在のうちには、宿命的な境遇のもつ変えることのできない定めが刻印されている。
 ヤスパースが指摘するように、私たちの生存のうちには、どうしようもない「限界状況」が巣くっていると言える。 
 限界状況とは、それに突き当たっては、私たちは挫折し、崩れ去る崩れ去るような、乗り越ることの不可能な壁に直面した状況を言う。
 そうした限界状況に面座して、私たちは途方に暮れた困惑のなかで、解決しようのない自己の人生の不条理の根源的事実に突き当たる。 
 しかし、そのときにこそ、私たち自身の、ほんとうの「実存」が目覚めてくる。
 実存とは、私たち各自の生存の、赤裸々な真実、その拒否できない現実のあり方のことである。
 自己の実存を自覚し、それにもとついて生きるよりほかに、この世を生きる生の根拠を、私たちはもたない。】
【 ハイデッガーが述べた通り、私たちは、それぞれ何らかの世の中に投げ出されと「被投的」存在である。
 その「現事実性」を引き受けて生きていかなければならない存在である。その存在としての自己を生きていかなければならない
 辛い気分を取り払い、重みや憂いを取り払い、それらを忘却させようという気晴らしや、慰めを求めて、無邪気な明るい朗かさ愉悦を、
 好んで受け入れようとする傾向にある。しかし、そうした気晴らしが、瞬時の儚いものということを骨身で知っている。
 その人生の底を見つめ、底知れぬ深遠を予感し戦慄をする。その深遠が、「限界状況」の時に直面する実在である。】
 ▼ 自己を見つめるとは、節目の境遇の人生の底を見つめ直すことと、言われると、挫折体験を振り返ることになる。 その意味で、
   挫折体験の中には多くの教えがある。 が、時間がたつにつれ、それを忘れてしまうのが人間の性である。そう人間、皆、馬鹿!
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3312, ゴールドマンを訴追
 2010年04月20日(火)
 1929年から始った世界恐慌では、その直接の仕掛け人達が多くが逮捕された。
しかし、これまで逮捕までされたという話は聞いてない。 何か不思議な感がしていたが、
やっとSEC(証券取引委員会)が訴追に動き出した。 アメリカは金融マフィアが仕切る国でも、歴史に残る
犯罪を、このまま見逃すことは歴史が許さない。以下は、毎日新聞の数日前の社説だが、毒入り債権を欠陥車に例えるとは、
トヨタの喚問もあったこともあり比較するに分かりやすい。例え話は本質をより分かりやすく整理してくれる。
  〜まずは、その部分から〜
  = 毎日新聞社説: 「ゴールドマン訴追 金融危機解明の弾みに」 =
(字数制限のためカット 2011年4月20日)
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2937,レーシック専門眼科医院
 2009年04月20日(月)
姉三人が私と同じく強度の近視。 その姉三人とも「矯正手術をうけて良かった」という。知人の何人かが経験者、聞いてみると
「白内障の手術時にレンズを入れたが、出来たらやらない方がよい」と真剣にいう。 迷いに迷っていたが、去年の半ばに、
春先になったら決断しようかと決めていた。そして春は過ぎようとしているので、 検索に「新潟 レーシック」といれたところ、
何と自宅から数分のところの所在地に「長岡眼科医院」が、あった。三年前ぐらいに出来た(眼科らしくない)ミニ結婚式場みたいな
医院があったが、まさか、そこが気にしていたレーシック専門眼科とは思ってもみなかった。本気にならないと見えてこないものである。
(字数制限のためカット 2012年4月20日)
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2573, 「好き」という言葉の重み
 2008年04月20日(日)
「好きと嫌いじゃどれほど違う、命ただやるほど違う」という川柳があるが、これほど人間の本質をあらわしている言葉はない。
私も好みの激しい人間だが、この感情は、何に由来するのだろうか。「あの男は好かん」とか、「あの女性は私のタイプだ」とか、
思うにつけて、その意味を考えたことがない? 育ってきた環境が似ているとか、教養レベルが同程度とか、趣味が一緒だとか。
反対に「俺は堀井が嫌いだ」と何人から言われたことか。でも、相手が相手だけに心の底では?私の経験上からみて「嫌い」いう言葉は
禁句である。 いわれた方が、それで一生恨まれるからである。犬でも猫でも、相性があるから、これだけは如何にもならないことと
割り切るしかないのか。私の好き、嫌いの基準は娑婆経験の中からハッキリ自覚している。女性は長女、血液型A型、教養と品性があり、
顔はノッペリ。 優しい雰囲気があり、明るい人である。大体、好きなタイプは概ね、これを満たしていた人。興味のないタイプは、
冷たいタイプで、神経質な近寄りがたい正統派美人と個性的な自意識の強いタイプ。 殆どいないが!コンプレックスの強い人。 
犬でいうと、宅上犬タイプが好きで、シェパード、コリーのような人は苦手。同性は、品性と教養のない人と、社会的な肩書きだけで
人を判断する人とか、チャラチャラした人は苦手。商工会議所、ロータリー、ライオンズとかの人間関係に没頭している人種。
それと女性関係に派手な人。軽薄な二代目。 もう一度いうと、品性のない人!。 それをいったら、地方では誰も相手に出来ない?
とはいうが、それはそれでよい。そういう御前さん、どうなの?といわれるが、他人に厳しく自分には甘い? 
 ところで好き嫌いということは、如何いうことか?相性ということ? それとも持って産まれた先天的な本質。
これだけは、どうにもならないこと?好きなことを選んで、それを一生を通して追求することが、幸せと不幸の分かれ目になる。
好き嫌いが、先天的なものとすれば、この道理は正しいことになる。 神=自然が与えた本質的素養だからである。
シカゴ大学の心理学者ミハイリ・チクセントミハイによると、人間には“フローの状態" と呼んでいる精神状態がある。
(字数制限のためカット 2011年4月20日)
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2007年04月20日(金)
2208, 下流志向                  おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ       
 一週間前の毎日新聞・文化欄「本の現場」のコーナーに、「下流思考」著者の内田樹氏へのインタビューをまとめた、
{ 若者はなぜ学ばず、働かないのか<「下流志向」内田樹著 講談社> }という記事があった。
本屋では平積みであったが、数回立ち読みをしていた。面白そうだが、買うほどでもない本と判断していた。
この記事と書評で八割は把握できたようだ。言わんとしているエキスを著者から引き出している。
 ー毎日新聞のHPに記事があったので、コピーして置きますー
  ーーー
◇固まった頭をぐちゃぐちゃに
 フランス現代思想の研究者にして武道家が「学力低下」「ニート」という若者をめぐる二大問題を論じた。
約2カ月で10万部と、この手の本としてはかなりの売れ行きだ。丘の上に南欧の修道院を模した校舎が建ち並ぶ、
神戸女学院大(兵庫県西宮市)で話を聞いた。「ここより美しいキャンパスは見たことがありません」という。
  (字数制限のため中略 2010年4月20日)
 ■人物略歴  ◇うちだ・たつる 神戸女学院大教授(フランス現代思想)。
   「『おじさん』的思考」「先生はえらい」ほか。 毎日新聞 2007年4月13日 
▼ なるほど、と納得する。学生時代は寮生活、ゼミ、クラブ、世界一周旅行と当時としては恵まれた経験を多くした。
その中で一度、「固まった頭がぐちゃぐちゃ」になった経験があるから、その重要性が深く理解できる。馬鹿の壁を一つずつ
叩き壊す経験をしたが、振り返ってみてどこまで壊してきたのか?疑問である。何も壊していなかったのか、いや壊した!の、
自問自答である。その時に生の言葉を発していたかどうか分らないが、傷口から出る血のような言葉であったことは間違いない。
  ー 著者の次の指摘も、ずばり急所をついている ー
    (字数制限のためカット 2012年4月20日)


4783,葬式は、要らない ー1

2014年04月19日(土)

 「葬式は、要らない」島田裕己著  
 そろそろ葬式の希望を書きおく時期になってきた。 現時点での希望の大枠は、
《 会場が3百メートル先のセレモニーホールで、直葬に近い家族葬。ごく身近な人たちだけにし、遺骨は実家の墓に。
 戒名は自作のものを仏壇の引き出しに。
その後は、「墓参り仏教」に従うことなく、命日にそれぞれが仏壇に手を合わせてくれれば充分。》 これだけ!
  内容(アマゾンより)
{ 日本人の葬儀費用は平均231万円。これはイギリスの12万円、韓国の37万円と比較して格段に高い。
浪費の国アメリカでさえ44万円だ。実際、欧米の映画等で見る葬式はシンプルで、金をかけているように見えない。
対して我が国といえば巨大な祭壇、生花そして高額の戒名だが、いつからかくも豪華になったのか。どんな意味があるのか。
古代から現代に至る葬儀様式を鑑みて日本人の死生観の変遷をたどりつつ、いま激しく変わる最新事情から、
葬式無用の効用までを考察。葬式に金をかけられない時代の画期的な1冊。
  ーアマゾン読者のレビューよりー
・日本の法律で葬式が義務となっているわけではない。医師に死亡診断書を書いてもらい、役所に行って死亡届を提出、
 埋葬許可をもらう。決まっているのはそこまで。遺体の処理については墓埋法で、1.死亡後、24時間経たなければ、
 埋葬も火葬も行ってはならない、2.火葬は火葬場以外で行ってはならない、3.埋葬は墓地以外で行ってはならない、
 とされるのみだ。焼いた遺骨をどこかに撒くのなら、葬式もいらなければ、墓もいらない。
 宇宙葬の費用ですら100万円である。もっとも現実には葬式を行わないケースは少ない。人は誰かかかわりあった人が
 亡くなれば、その死を確認してけじめをつけたい。葬式への参列ほど明確なけじめの機会はない。ただし葬式を出すことと、
 葬式に多額の費用をかけることとは直結しない。
・家族葬は近親者だけで行う規模の小さい葬式全般を指す。以前は密葬と呼ばれていた。通常なら通夜と葬儀・告別式で二日
 かかるところを、一日にまとめたワンデーセレモニーという形式も生まれている。もともと通夜は近親者だけで営むものと
 いう感覚があり、一般の会葬者が参列するのは葬儀・告別式のほうだった。結婚同様に、葬式も組織の儀式から個人儀式へと
 変化してきた。昔は商家も農家も家は生産や経済活動の単位であり継続が不可欠だったが、サラリーマン化が進むことで、
 養子をとったり婚外子を作ってまで家を存続させる必要がなくなった。 自営業の場合なら家の存続が重要で、伝統的な
 祖先崇拝の信仰を取り入れる傾向が強く、喪主になるのは後継者であり、葬式は後継者を披露する場ともなる。
  が、サラリーマン家庭の場合は家は生活の場でしかない。永代供養墓は跡継ぎのない家が増えたことで生まれた供養形態。
 墓を求める際に永代供養料として一定金額を払うことで、墓守となる跡継ぎがいなくても、寺が命日に読経するなど供養を
 続けてくれるのである。
・直葬は密葬、家族葬の一番簡略化された形態だ。現在、東京では20パーセントが直葬である。直葬では、故人の遺体を
 寝台車に乗せ、自宅や葬儀社が用意する一時的な安置場所に搬送し、とりあえずそこに安置。そこで納棺し近親者だけで
 通夜をする。会葬者は呼ばない。翌日、霊柩車で火葬場へ出棺する。そして、やはり近親者だけで故人に別れを告げ、
 遺体は荼毘に付す。最後に、収骨、骨あげをして葬式は終わる。直葬の費用は多くとも30万円ほどで、僧侶に読経を
 頼んでも50万円以内でできる。もっとも簡素な形式を選んで近親者だけが集い、会食もしなければ10万円程度で済む。
▼ ますます直葬、家族葬が増えることになるが、長く続いてきた家族中心から個人中心主義になる御時世では当然の流れ。
 これが不景気になるほど、簡易な葬式が増えてくる。上記のように直葬、密葬を宣言してしまえば、残された者は楽。
 私の墓は、このブログ。閲覧は墓参りのようなもの。 時どきの墓参り、本当に有難うございます。
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4416, ふしぎなお金
2013年04月19日(金)
                    「ふしぎなお金」 赤瀬川原平著
  子供用の絵本だが、人は当たり前のように使っているお金について、あまり考えない。お金は自由の、エネルギーの、塊。
 日本人は金を不浄なものと考えがちだが、お金は血液のようなもので、人間にとって非常に大事である。 人を生かし、
 また殺してしまう力を持っている。 子供に諭しながら、実は大人に語りかけている。 ーまずは、印象的な部分を抜粋ー
≪ *「冬のバーやレストランで、席につく前に、「コートお預かりします」といわれて、なんなドッキリとしないだろうか。
 だってコートの内ポケットには拳銃が入っている。それをそのまま預けて大丈夫なのか。というほど錯覚を持つほど財布は
 拳銃に似ている。だから「貴重品はよろしいですか」といわれると、何だかもっていかれるかと思って、その護身用の
 拳銃みたいな財布を、身近なポケットに移し替える。でも移し替えながら、どことなく後ろめたい、とうより、どことなく
 情けない気になる。「お前はそんなに相手が信用できないのか。そんなに拳銃なしで丸腰に、なるのが怖いのか、
 という`声が追いかけてくる。 そういえぱ、昔の西部劇映画には、ガンペルトそのものを外す場面があった。
 宿について、あるいは自分の家に戻って、外敵なし、大丈夫、という状態ではじめてガンペルトを外して椅子の背に掛ける。
 ガンマンがくつろぐ一瞬である。ところであのガンペルトとは、じつはむき出しの現金を装着したベルトなのだと、
 そんな感じがしないだろうか。ガンマンはその現金でいつも勝負している。
*「日本の場合は刀の大小だ。明治以前、武士はみんな刀を差していた。男子、一歩外に出れば七人の敵、といわれるくらいで、
 刀の大小を肌身離さず持ち歩いていた。刀は護身用であり、権威でもあるところは、やはりいまのお金に似ている。
 武士の世界の文化の一つに茶の湯があった。招かれて行くお茶室には、小さな躍り口が設けてある。あそこを入るには
 腰の大小を外して、外の刀がけに欠けねばならない。武士はみな一瞬、躊躇したのではないか。財布は刀やピストルと違って、
 人を殺める道具ではないのではあるが、人は金のために人を殺したり、金のために自分の首を吊ったりして、金はやはり
 隠然たる凶器の光を忍ばせている。拳銃も財布も、緊張の物件である。いざとなると拳銃をぶっ放すように、札びらを切る。
 でも「いざ」とならないときは、それはそっとボケットに仕舞われている。昔よりも落ち着いた現代社会では、さらに
 奥深くの内ポケットに移行している。」
*「足元にお札が落ちている。それを見たとたんにハッとする。千円札の四つ折りにしたわずかな面が見えているだけでも、
 何か異様にハッとするのは何故だろうか。足元に血が垂れている。それを見たとたんにハッとする。ちょっとした赤い
 液体なのに、何か異様にハッとする。見てはいけないような、一歩踏み込んだ秘密を見てしまったような、緊張感が走る。」
*「人間の血はだいたいみんなと同じで、成分にほとんど違いはないが、自分の血は自分のもので、自分の体内に密閉されている。
 でも場合によっては人助けで献血をする。場合によっては寄付したり、プレゼントしたり、投資で失くしたりする。」 
*「お金も血も、命にかかわるエネルギーの源である。流体である。生臭いものである。でも、輝いている。
 いきなり見せられるとドキリとする。プライベートでありながら、共有のものでもあるところが、不思議な関係である。」 
 ▼ 財布を拳銃に、そして刀に喩える切り口がよい。撃たれ、切られたとき、血が吹き出る。それからみて金はエネルギーと同じ。
  一万は一万の、一千万は一千万、一億は一億のエネルギーがある。無駄を廃し、使うべきときは使う、それが金の効用。
・・・・・・
4042, 世界の旅行記101 ー3
2012年04月19日(木)
   * 旅行記は、旅人により再構築された言説
≪ 旅行という行為や、そこでえられた環境や状況についての情報は、言説として再構成されている。
 おもいもかけない発見や探索、あるいはそれに出会った旅人の心象や思考は、旅行記という形態に定着させられるときに、
一定の文スタイルやデザインを採用する。 文章のかたちをとるという点からみれば、「文体」といいかえてもよい。
見聞され体験された隔遠の地における非日常の事実は、旅人の言語に変換され、日常の世界に発話される。著者と読者とが
共有する表現と読解のルールにもとづいて旅行記は書きおろされる「言説」といったのはそうした意味においてである。
 旅行記は、旅の事件記録性を検証するよりもまえに、言説そのものの解読作業がほどこされねばならない。旅程のすべてを
記載できるわけではない。見聞された事象すべてが、偏りなく叙述説うるわけでもない。 しかも、だれにとってもひとしく
共有される述法のルールにしたがって。 そうではなくて、旅行記は、旅人が旅先について投射した特定の視線が、
対象のうちに読みとった文脈にかんする言説である。 使用される語彙もシンタックスも、そしていますこしふみこんで
いうならば価値感覚も、言説として独自の完結を実現している。 別のいいかたをすれば、中世ヨーロッパ人と
近代アメリカ人、古代中国人と現代日本人は、それぞれに採用する言説の方式はことなっている。いや、著作者の身分、
出自、性別、教養のちがいによって、同一物にいての言説は別個のものになりうる。 ≫
▼ 旅先の情報を言説として再構築したのを旅行記とすると、書き手の特定の視点こそ注目すべきである。それが旅行記の特性であり、
 面白さになる。だから、この101の旅行記は、101人の特異体験を記した事件簿として垣間見ると分かりやすい。 
それぞれのクロス・エンカウンター(因縁)が現れ出るから面白い。人生の記録も、それぞれの特異点の旅行記に酷似している。
 ・・・・・・・
3676, 自己を見つめる −3
2011年04月19日(火)
             「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  「時間」は簡単のようで、難しい。心の中は、時空をこえた多くの思いで満ちている。特に多くを経験した熟年期に差し掛かると、
 思いは過去に向かってしまう。  そこには現在の知覚と直感で彩られた抽象画としてたち現れてくる。
 豊かな経験なら豊かに、逆なら逆として! 生きてきたとおり、人生は自分に、その姿を突きつけてくる。
  ー 第二章 時間 ーより
【(p45) 私たちの心は、アウグスティヌスが言ったように、たえずなんらかの出来事を記憶し、知覚し、期待するという働きを、
 本質的に具有している。記憶は、過去の出来事に関わり、知覚は、現在の出来事に関係し、期待は、将来の出来事に向けられ、しかも、
 それら三つのものが別々にあるのではなく、むしろ、私たちの心のなかに、それら三つのものがすべて取り集められている。
 したがって、「過去のものの現在が、記憶であり、現在のものの現在が、直観であり、将来のものの現在が、期待である」と、
 アウグスティヌスは言った。 いわば心という大きな現在のなかに、過去の追憶と、現在の印象と、将来の予期とが、
 すべて取り集められているわけである。 たえず現存し続けるその大きな心が、うしろを振り返って追憶に浸るときに、
 過去が浮かび上がり、いま周囲を注意深く見回すときに、現在が印象深く迫ってき、行く末を思って期待や予期に心を震わせるとき、
 将来が思い描かれるのである。 時間とは、このように、振り返ったり、見回したり、行く末を思ったりする心の働き、
 すなわち記憶や追憶、知覚や直観、期待や予期といった心の作用に由来するわけである。逆に言えば、大きく静かで揺らぐことない
「立ち止まる今」という現在の心の場、いわばそうした明鏡止水の心眼という現在の鏡のなかに、さまざまな過去と現在と
 将来の出来事が映し出されてきて、それらが追憶され、知覚され、予期されるとき、そこに、それらの出来事が、過ぎ去り、現れ、
 到来する時間の諸相において意識されてくると言えるであろう。】
 ▼ 現在置かれている、この節目どきに、これまでの記憶と追憶と、現在立たたれている分岐点、そして、これから予期されること、
 その三つが、心の中で濁流のように渦巻いている。 この自分の中に、多くの節目があって、それが現在という幅のある
 時間の中で自分という確かな存在が見えてくる。 これは晩年期に差し掛かった人間に共通しているが、心が、これほど激しいものと。
 人は生きてきた、そのままに老いるとは、その意味である。 現在は、その「立ち止まる今」である。 それでも時間は止まらない。
・・・・・・・
3311, 笑われ力  −3
2010年04月19日(月)
「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
  ー次に、なるほどと合点した箇所を抜粋し考えてみる!ー
*「笑われ上手」に「背伸び」禁物
 ・まずは「私は凡人」とみとめる。
 ・「みんなをリスペクト(敬う)する。そう思えば、自分の中の良い部分も見えてくる。
 ・笑ってもらえたら「笑ってくれてありがとう」という気持ちを持つこと。
   この一歩下がった気持ちが必要となる。
*「笑われ上手」の下ごしらえ、をつくっておく
 ・「ダメな自分物語」を多くつくっておく。出来るだけ短くまとめておく。失敗したその場でつくる。
 ・もったいぶらないで、いきなりクライマックスの話を話題に出す。
 ・キーワードを決めておく
 ・一度、物語を用意したら、あとは白紙の状態にしておく
▼ 20年前から10年前にかけて、かなり遊び人の不動産屋の社長と古町を、飲み歩いたことがあった。
 小料理屋や、スナックなどで、話術の巧さに驚き、花柳の世界を垣間見た。芸者を相手の粋な遊びは今では夢のようである。
あれから10年も経ってしまった。彼には、ここに書いてあることは、ほぼ身につけていた。決して他人の悪口や話題をしないのは、
当たり前。自分の昔話も成功談が一割、失敗談が九割。 芸者に三味線を弾かせて都都逸など一ひねりなど、粋な遊び方等など。 
話術も自分を嫌味なく下座におき笑わせておいて、実は笑わせている妙は場数のなせる技(業)
 こういう時代になればこそ、「やれる時にやれる事をやっておいて、良かった」と実感する!(逆に遊び過ぎ?もあったか)
「ダメな自分は、嫌な自分ではない」、これが笑われ上手のポイントと著者がいう。 笑われ力は、自分の中の
ダメな部分や矛盾を笑ってもらう力であり、相手のタイミングで「笑われネタを」提供する。それが受けたからと言って、
もっと笑わせてやろうとか背伸びするのは厳禁。 あくまで相手と場のタイミングに合わせるのだ。
 その「笑われ力」のきほんステップとは
1、「ダメな自分」を見つける 2、「笑える部分」を特定する 3、自分で笑い飛ばしてみる
4、笑顔で他人に話す     5、その結果「心地良い笑い」が生まれる 
  落語の「まくら」では、名人の域に達した人ほど、上手い。「駄目な私」のネタなら膨大な蓄積がある! ったく。
カミサンに耳にたこが出来るほど指摘されている。 大きな経営者大会で講演者が「女房は亭主をバカにする動物である」
と言った時、会場が異常な爆笑があった。大きな会社の立場の人ほど家ではバカにされているのだろう!良いように出来ている。
・・・・・・
2936,「NHKの世界同時不況の双方向解説」を見て
2009年04月19日(日)
 昨日の土曜日の午前10時に、NHKの「そこが知りたいー世界同時不況・危機への対応は十分か?」は、9人の解説委員による、
伯仲した議論と、その合間に視聴者の意見や、世界の識者の論説を挟んだ、見ごたえのある内容だった。
 ーまずは、NHKのHPの紹介文から
(以下、字数制限のためカット、2012年4月19日)
▼ 解説委員ということで、同質の意見が多かったという感は免れなかったが・・・。
・100年に一度の経済危機なら、100年に一度の対策をたてるべきだが、それが感じ取れない。
・非常に深刻な事態である。大量に輸血しないと患者が死んでしまうという共通認識はある。
・アメリカと中国のG2が、今後大きな役割を持つ。ロシアと中国をプラスしたG9も必要。
・視聴者からの質問で、「100年に一度の経済危機というが、世界恐慌といわない何故か?」に対して、
「GDPの落ち込みは、1929年の世界恐慌と同じだが、失業率は25パーセントに対し、10パーセントで収まりそう。 
 今回は世界の経済政策の協調があるところが前回とは違う。従がって、まだ世界恐慌に入ったと認識されてない」
 の答えであった。 実際は、10年〜20年後に振り返れば、今回の方が遥かに大きいはず。
・アメリカを中心に世界経済を引っ張ってきたが、今後は、新興国に中心が移動する
 ターニングポイントではないか。 今後はアジア中心の経済モデルを作るべきである。
・ドルに替わる基軸通貨は10年20年単位では出てこない。
ー以上、印象に残った部分のメモをまとめてみたが、それほど大したことを言ってはいない。
 今回の恐慌の概要を知らしめ続けるには、良い内容だが、NHKの立場もあって、過激な現実を報道ができないこともあろう。
・・・・・・
2572, ドル覇権の崩壊 ー5
2008年04月19日(土)
「金や銀、プラチナを買って、手元に保有すれば良い」と、そこまで言わしめるだけ、この危機は異常なのだろうか? 
 実際のところ国家単位で自国民を騙すのだから、それも道理。 税務署を暴力団とは言いえて妙である。
 税務調査を経験してから、そう信じていた。 調査の対象は、のっけから被疑者扱いである。
 そこまで疑うなら、脱税をしない方がおかしいのではと実感した。 
 何でしてないの?するのが当然で、その当然のことを我々は取り締まりに来たんじゃないの?という態度である。
 サブプライム問題もバブルの典型で、これをキッカケで世界恐慌の可能性をはらんでいる。
 実態は火の車で、いつ何が起きても不思議ではない状況。
 ドル安、アメリカ国債安、アメリカ株平均値安になると儲かるファンドもあるという。買ってみたいが。
*アメリカ住宅バブル崩壊が世界恐慌の引き金を引く
  (以下、字数制限のためカット、2010年4月19日)
・・・・・・・・・・
2007年04月19日(木)
2207, 犯罪集団の存在を公認している日本       オッ(*^○^*)ハ?ヨウ!
 一昨夜の長崎の山口組による、現職市長へのテロ?には驚いた。たまたまNHKを見ていたので、現場の生々しい事態が、
そのまま茶の間に入ってきた。これは明らかに国家に対する彼らの挑戦である。(結果としても)それにしては、
安部首相のコメントには驚いたというより、怒りを感じた。地方統一選挙の最中に現職の市長が、みよがしに射殺されたのに、
当たりさわりの無い一辺倒の言葉である。これでは、なめるわけである。
  (以下、字数制限のためカット、2011年4月19日)


4782,大不況には本を読む

2014年04月18日(金)

   * 「本書のまとめ」          「大不況には本を読む」橋本治著
  今さらの内容だが、時代を鳥瞰するにクリアーで解りやすい。  ーその部分から(P183)
《 ・・・今までこの本で言って来たことをまとめてしまうと、次のようになります。
【 十八世紀の後半に起こった産業革命は、それまでの世界のあり方を変えてしまった。その新しくなった"世界秩序"が
日本にやって来て、日本は百五十年前に開国した。開国した日本は、その時の世界秩序にのっかって、見事に成功した。
成功して行き過ぎて、第二次世界大戦とバブル経済という二度の破綻を経験した。成績トップになった優等生の日本は、
それゆえに"見事な破綻"を経験するが、その他の国はまだそこまで行っていないので、相変わらず"産業革命以後の体制"は
健在だったが、今度はアメリカが新たな破綻にぶつかった。産業革命以降の体制は、アクセル全開の自由貿易主義だったが、
そのこと自体にブレーキがかかってしまった以上、改めて"ブレーキをかけることの意味"を理解した方がいい。
 そんな世界的なあり方は、″会社の仕事に追い回されて、自分及び自分の家族やその周辺のあり方を省みない゜という
日本人のあり方にシンクロする。自分のあり方を省みるために、もう一度‘本を読む’というところに立ち戻ったらいい。】
 この考え方をエコノミスト的に裁断すると、私は「保護主義のイデオローグ」ということにもなるが、私はエコノミスト
ではない「人間のあり方に立脚する」文芸関係者なので、「そりゃお門違いだろう」ということにしかなりません。
 バブル経済へ向かって進行する中で、いくつもの誤解は生まれましたが、「経済が分からないのはバカだ。物事は
‘経済的見地’にのっとって見なければならない」ということになってしまったのも、その一つです。
 経済の方で「保護主義的」と言われるものは、「人間のあり方に立脚する」立場からすれば、「人が生きて行くために
押さえておかなければならない基本」でもあって、だからこそ私は、経済の方では「保護主義的」と言われるものを「自立」
と関連づけるのです。「金儲け」のことをあまり考えない、その能力があるとも思えない文学や思想、哲学といったもの
ーつまり「文学」「その他」は、「働いて金を稼ぐ」に代表される現実生活のことを、ともすれば忘却しがちです。
 ・・・ 2008年秋以降の・金融危機・経済危機はそれで、「破綻してよかった」でもあります。しかし、でありながらも
「世界」の方は「豊かさの達成は進行中」という前提に立って、相変わらずの「富の均質化」を求めます。だから、輸出量や
輸入量の調整は求められるのですが、この「調整」の向う方向は、一つです。「豊かである国の、既に達成された豊かさを
目標にして、世界中を均す」です。既に経済危機で「豊かな国の豊かさの基準」はぐらついているのですが、世界が
「豊かさの達成はなおも進行中のはず」という前提に立っている以上、目標とされる基準値は「豊かな国の豊かさ」です。
そしてこれは、「工業に追い抜かれ、工業にすがりついて追いつこうとする農業の哀れさ」と同じ質のものなのです。》
▼ 大きな節目時に、読書をして行間を読むしかない、ということ。特に、アメリカの露ばらいをさせられた日本こそ、
 新たな解決をしなければならない。「経済の自立=保護主義的になりざるをえない、という基本を押さえておくこと」
 には、考えさせられる。日本は明らかに衰退の道を歩き始めた。しかし、現実をみると、誰も直視しない。そのツケは、
 株価と国債の暴落という突然の崩壊で生じることになる。日本は近い将来、豊かさとは、かけ離れた国の悲哀を味わう
 ことになる。150年の間の政治経済のマクロの流れを振り返り、今後の方向性を見つけることは至難の業だが、それでも
 見つけ出すしかない。「普通の国」が、キーポイントだが、地政学的に見て、日本は中国とアメリカの間にある海洋国家。
 その辺りが鍵になる。今後10年間は、これまでの10年間より遥かに厳しい事態になる。この20年間の変化が、10年間に
 圧縮して襲いかかるとしたら、考えただけでも身震いがするが、興味もそそられる。気の毒なのは、若い人たちである。
・・・・・・
4415, 余生を過ごす場所は?
2013年04月18日(木)
   * 今の場所で快適に過ごす工夫を!     「知的余生の方法」渡部昇一
 余生を過ごす場所は、生れ故郷か、はたまた別荘地か、海外か、そのまま現在住んでいる場所か、迷うところ。
著者は、現在住んでいる場所こそ「ふるさと」と思い、別荘地など考えずクーラーでも入れ快適にするなど工夫すべきという。
何処も「住めば都」で、心地よく住んでいるところが、いなかと諭す。  ーその辺りよりー
≪ P・94 英語では一般的に「ふるさと」は単にホームという。イギリス民謡の『埴生の宿』の原題は‘Home,SweetHome’だが、
このホームがそうだ。ホームは単なる「住み家」「生まれた場所」という意味に過ぎない。そこから懐かしさを伴って、
「ふるさと」をあらわすようになり、「家庭」を意味するようになっていった。だから、「ふるさと」と「家庭」が相通じ、
切り離せない関係にあるといえる。そこには父や母がいて、昔の日本の田舎でいえば、囲炉裏を囲んで話をする風景である。
そのホームも、今では崩れつつあるようだ。 ローマ時代からの諺に「自分がうまく生活しているところ、そこがホーム、
つまり、自分の「ふるさと」「故国」だという意味である。これは言い得て妙で、都会暮らしの生活者にとって、救いになる
言葉である。田舎から東京に出てこようが、海外に移住しようが、そこで成功し、そこで良い暮らしをしていれば、その土地こそ
「ふるさと」なのである。都会でうまく生活しているなら、都会こそが自分の「ふるさと」と腹をくくるべきだ。・・・ ≫
 ▼ 思い切り移住するのも悪くないが、そのまま居座るのが自然。私のように、ブラックスワンの御蔭で、肩身が狭くても、
 「平気で死ぬのが悟りでなく、平気で生きてこそ悟り」と、自分に言い聞かせ、割り切ってしまえば別に何とことはない。
 ソフト・ランディングだったこともある。しかし、5億、10億の現金があれば、軽井沢のマンションか、ハワイ辺りを考える。
 としても、現在と大して変わりはない。いや、違うか! 天使の様に、肩に羽をつけ、浮いたように生きればよいだけ。
 フワフワ生活するのはお手の物。いずれにしても死んでしまうのだから、今を楽しむしかない。場所は二の次? 改善でよい。
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4041, 世界の旅行記101 ー2
2012年04月18日(水)
   * 旅行記は事件簿でもある
 はじめにー旅行記を読むということー の冒頭の文が、旅行記の本質をついている
≪ 古今東西、旅をする人たち、旅を愛する人たちは無数に存在した。そして無数の旅行記、紀行文が書かれた。
 どうも旅という非日常の行動は、文章の起草をはげしくうながすものらしい。 いろいろの旅行記がある。
任務をもって旅したものであれば、復命書を。さだめなき漂泊の旅にでたものであれば、遍歴の跡をしるす随筆を。
どれも当の本人にとっては、記録としての重みは、ひとしいだろう。だが、旅行記を読む側からすれば、自から興趣には軽重の差がある。
「読み甲斐」のある旅行記とはどんなものであろうか。まず考えられるのは、旅そのものが、冒険や危険にみちている場合。 
安穏として、ほとんど日常の域を出ない旅とはちがい、未知の領域や未踏の領野をゆく旅は、つねに発見と遊遁にみちている。
ドキドキ、ワクワクの連続は、旅する本人とともに読者をも、不安と興奮にまきこむ。探検記、踏査記が長らく愛読されてきた由縁である。
 旅は始点と終点とがある事件であるとすれば、旅行記は事件簿でもある。そこにふくまれる小事件のつながりが、どれだけ起伏にみち、
意外性にあふれているかによって読者へのアピールはことなる。実際には、みずからその事件に参画することは困難だが、そのアピールを
うけいれ、旅行記とともに旅という事件を追体験する。 おそらくは、なにがしかの潤色がほどこされるではあろうが、旅は現実に存在した
事件であるだけに、迫真の体験が身にしみる。アームチェアで葉巻をくゆらせながら読むものも、通勤の電車内で文庫本に読みふけるものも、
旅行記から、かの体験をうけとるだろう。ときには、身にうずきを感じ誘われるかのように、みずから旅への計画にむかうこともあろう。
旅行記の効用は、じつに広く深い。≫
▼ この事件簿は大事件の膨大な資料が詰まった代物。 それぞれのダイジェストは50数人が書いたのを編集したもので、
 紀元前から近代まで至っている。2〜3ページに纏められているので、軽く読めるし飛ばし読みもできる。
 2千数百年にわたる時代の世界各地を、それぞれの目線を通したフィールドワークを編集しているから、面白いはず。
とはいえ、ダイジェストはダイジェストだから、これを手引書として各書を読むと良い。旅という非日常から、
旅先の日常を垣間見るのも面白い。 私たちの生きている世界が、いかに極小で、特異ということにも気づかされる。 
私たちは最高の特異の時代に生きてきた!のである。
・・・・・・・
3675, 節目どきに ー8
2011年04月18日(月)
  * 体重が減り始めてきた!
 毎朝のウォーキング(サイクリング)を20数年間続けてきたためか体重は標準である。ところが、ここでスポーツジムに通いだしたため? 
半月で学生時代の体重まで落ちてきた。心労もあるかもしれないが、これは明らかに運動効果である。入会時にジムの人に計ってもらった
肉体年齢が私の肉体年齢より11歳も若かったのに驚いた(54歳)。長年の早朝のウォーキングの蓄積が肉体年齢を若くしていたようだ。 
肉体的には健康的な日々だが、精神的には、どうだろう。
  * CTスキャンは大量の放射能を?
 CTスキャンの被爆量が胸部レントゲン写真300倍に匹敵し、数十年後にがん発症リスクは被爆で高くなるという。
私など毎年の検診で20年近くCT検査をしているので、大量の被爆をしていることになる。 
そろそろ被爆の結果が出てくる頃。知らないことは恐ろしいことである。 チャンとした説明を受けていれば、
三年に一度位に減らしていた。 しかし適当な被爆なら、細胞が活性化して、むしろ健康によいとも言うが。
  * 今でも、私にとって3月11日が止まっている
 TVの画面で、被災地の中年女性の言葉が印象的だった。 「私にとって3月11日がそのまま止まっている。
毎日が、そのまま3月11日の繰り返しで続いている」と。 そうだろう、被災者にとっては、あまりにも、その日の出来事は大変事で、
その日をもって生活環境が一変してしまった。 被災者の一人が、「ここにいる殆どの人たちには、生死の境目にいて、九死に一生を得た
ドラマがある」と朴訥とした言葉で話していた。現在進行中の原発事故が、今だに、この災害が終わってないことを告げている。 
我々が自覚しているより、遥かに危険な状態の置かれているが、まだ、序曲。 そういう私も、震災ショックによる何の被害者である。
・・・・・・・
3310, 笑われ力  −2
2010年04月18日(日)
     「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
 笑われることができたら、会話も人生もラクになる!
 笑われ力: 飾らず、威張らず、強がらず、素の自分をさらけ出せる力。
「笑われ力」では、まずは「恥ずかしいこと」を全面的に認める。そうしてしまえば、まわりもそれ以上バカにできない。
恥ずかしいという感情そのものを曝け出すのである。 私は、平気でサエゼリアに行くし、その話をする。サエゼリアが値段からみて
価値がある思うからである。 世界中の郷土料理を食べてきて味に対する自信があるから、言えること。気楽に入る安いイタメシ屋を
小ばかにする方が野暮というもの。 SC内の隣にあるスーパーより安いのだから。あれはファーストフードとみた方が分かりやすい。
その辺の出来損ない?のイタメシ屋と比べる方が無知といういうもの。 美味くなくていい、不味くなければ。日本料理も、居酒屋料理も、
フランス料理も、中華料理も食べつくきたので言えるが。 週末などの外食は2千から5千円の店で充分。もちろん二人で! 
「笑われ力」も、実は、それと似ているのではないか。 笑いで周囲に安らぎを与えることが出来れば、それが73パーセントの
「おとな力」の要素として、当人にプラスになる。「笑わせ力」を身につけるより「笑われ力」を伸ばす方が簡単。 
笑われる欠点を自分がよく知っているからだ。人間の本能が「笑い」を求めている。もし「笑い」がなければ場は息苦しい空気に包まれる。
「笑い」が醸し出す「心地良さ」が、その場を良くする。 注意しなければならないのが「笑わせ力」である。
ひとつ間違うと笑いの強要になり、シラケを生む。無理をすると、タチの悪い「笑い」になることが多い。特に第三者の失敗の話題で
笑いを誘う「邪悪な笑い」は特に注意。 著者は、 笑われ力をつけるには、準備が必要という。 まず、
・ダメな自分を集めてみる
  *過去:失敗談    *現在:無知、悩み、コンプレックス、苦手    *未来:妄想
・そのネタを次の公式(ネタ*表現)に当てはめて話をする
 失敗話、 コンプレックス、 悩み、 勘違い、 なら幾らでもある。ただ、ヒタスラ隠してきただけ。
(字数制限のためカット、2012年4月18日)
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2935,わが人生最良の瞬間 ー2
2009年04月18日(土)
 一番、具体的に納得した「人生最良の瞬間」は小野田寛郎の「29年後の終戦記念日」である。 彼にとっての終戦日は、
昭和20年8月15日でなく、その29年後であった。その間に死亡した二人と共に、ジャングルの中で命令に従い戦い続けたのである。
終戦直後から「降伏命令」のビラがまかれていたが、彼等は信用しなかった。そして29年後に彼を捜しに来た冒険家の鈴木と遭遇した時も、
フィリッピンの掃討兵と思い殺害しようと接近したが、思いとどまり話をしているうちに、「命令解除の命令書を持ってくれば投降すると」と、
ボールを投げた。それを持ち帰った元上官がやってきて残留命令と任務解除と投降命令を受けた。その瞬間「なぁんだ」と思ったという。
・・・投降ということは、それは死を覚悟したもの。・・ところが、フィリッピン軍のレーダー基地に着くと、捧げ銃の敬礼で迎えられた。
捕虜にそんな礼を尽すわけがありません。さらに面会したランクード司令官も、投降の意味で差し出した軍刀の受け取りを拒否しました。
そして翌日、マラカニアン宮殿で会見したマルコス大統領がこう話したのです。「我われは、それぞれの目的で戦った。
しかし戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為すべてを赦します」 もう疑う余地はありません。
昭和49年3月11日のその瞬間に私の身柄と生命は保証され、「私の戦争」は終わりました。帰国のためにマニラ空港を出発する私に、
フィリッピン空軍の軍楽隊が日比両国の国歌と「ハッピーバースデー」を吹奏してくれました。死を覚悟した戦闘の日々から
解放されたのだと、心から生きる喜びを噛みしめました。
▼ 以上が概略だが、この人の人生最良の日は、まさに昭和49年3月11日であった。これほどの最良に日は、過酷の日々が兵隊生活の
 三十数年があればこそである。こういう体験記を読むと、迂闊に「わが人生最良の瞬間」など言ったり書いたりは出来ないと思い知る。
 彼の一言一言が、過酷な経験の裏づけをもって光り輝いてくる。そういえば、人生最良の瞬間より、人生最悪の瞬間が
 心に残るのは如何いうことなのだろうか?「良いことが多くあったが、嫌なことも多くあったな?!」と、「嫌なことも多くあったが、
   (字数の関係でカット2,011年04月18日)
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2571, ドル覇権の崩壊 ー4
 2008年04月18日(金)          ー読書日記
 2001年の9月11日のテロは、ことアメリカのドル政策、石油にとって理想的な事件であった。
 そのため、当初はアメリカの国家としての陰謀か、意識的に見逃した事件ではないかと疑われた。
 アラブ民族、イスラム諸国にとって有利の事件だったのだろうか?と考えると、疑問は増す。
 価値のない紙切れは、ドルだけではない、円もしかりである。 私は、少し落ちついた40歳を過ぎた頃から、
 意識的にお金を使うことにしていた。といって、子供二人を大学に入れて毎年、1000万は使うこと!である。
(字数制限のためカット、2010年4月18日)
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2007年04月18日(水)
2206, 反時代的毒虫 ?3
       b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
「反時代的毒虫」ー中村うさぎとの対談「覚悟の文学、命がけの浪費」ーより
浪費癖で借金してでもブランド品を買いまくりを売りにしている「ショッピングの女王」こと、あの中村うさぎ、との対談である。
 (字数の関係でカット2,008年4月18日)                                バイ! UvU/?


4781,閑話小題 ー怒りの取り扱い方

2014年04月17日(木)

   * 怒りの取り扱い方
 一昨日こと。家内に「同級会の席や二次会などで、誰かに見られているかもしれないから気をつけて!」と言われて
出かけたが、案の定、二次会のスナックでハイになっている中、銀行OBと思われる男に「誰かに見られているぞ!」と、
通りすがりに声をかけられた。「うるさい、人のことより自分をみてろ」と、言えないし。軽さが、そのまま出ていたが。
他人ごとではないか? スポーツジムでも、露骨なイヤミな視線を数ヶ月に一度は感じる。で、ますます悟りが深くなる。
 ー悟りとは、平気で死ぬのではなく、平気で生きることー というが、何ごとも慣れ。 
最近、腹が立つとすることがあるが、書くのはやめておく。
 ヒト指先で人をさすとき、親指は上(道理)、他の三本は、自分を指している。哲学でいう認識である。他人の指摘は
自分の世界観を言っているに過ぎない、という自覚がない。 ネズミ集団=世間の戯言ネタに、一々怒ってもいられない! 
世間教の下世話ネタが、ネズミたちの集団念仏。 気の毒といえば、気の毒だが、こんなバカのことを書いている私こそ
遥かに気の毒? そのために、ぼんやりの時間を持たなければ、せっかくの人生は台無しになってしまう。
 それにしても、バカなことを書いている、自分に驚いているが。 で、ぼんやりする時間が必要になる。
 [・現実の背景にある膨大な漆黒の闇を意識する。・その為に独りの世界を大切にする。・その時空をつくる為に、
閑居の世界を身近に持つ。・働いてばかりいないで、怠けること。・その中での心の余白を良しとする懶惰の気持ちが鍵] 。
ぼんやり時間のエネルギーこそ、己を包み込む。 怒りは、エネルギーの源。大事に扱うべきだが、因われないことも重要。
・・人生は、面白い玩具で一杯。 老いも、喜怒哀楽も、楽しか! 目を本質から逸らさなければだが。
長岡という出生の地に飲み込まれない知恵こそ、今こそ必要だが、老いは、その知恵を弱らせる。
私の人生は、50歳辺りから二毛作目と思っていたが、二期作でしかない?(二期作は、同じ農作物。二毛作は、違った作物) 
それとも、50歳から三年前まで、二期作目で、その後が、二毛作目?
・・・・・
4414, ボストン爆弾テロについて
2013年04月17日(水)
  * この結末は、どうなる? 
 ボストン爆発テロ、北朝鮮の関与を誰もが思い浮かべただろう。
アメリカの反政府の団体という仮説も立つが、平城でマラソンが行われた直後、ボストンのゴールのカメラの多い中で、
二つも爆発させたのは脅しの効果として抜群。他に二つの爆弾が発見されたというから、明らかに何かの警告。
 刑事ドラマのシリーズ「相棒」で、東京マラソンを狙った爆弾テロを阻止するストーリーがあったが、手口は同じ。
とすると近くの国の??と連想するのは私だけでないはず。 ボストンマラソンといえば、世界で有数の権威ある大会。
そのゴールを狙うとは大胆。それもケリー国務大臣の因縁あるボストンで・・ ミサイル実験の前のデモンストレーション、
としては危険すぎる? 今のところ、誰も北の関与を口に出さない。だから恐ろしい。タイミングからして確率は高い。
アメリカが黙って見過ごすか、全面戦争の切り口になるか? 関与していなければ、北朝鮮は震え上がっているはず。 
これだけ全面戦争と騒いでいた最中、タイミングが合いすぎ。 覚悟があってだろうがまずは、この数日が境目だが、
数ヶ月後には、全面戦争?が現実味を帯びてきた。まさかと思っていたが、やはり! その最中、ミサイル発射実験、
やるか、やらないか、見もの。 これで軍事的に一触即発になった。 しかしアメリカも軍事産業立国の要素が強く、
得体の知れない国家。さらにシリアもイランも、アメリカの矛先を北に向けたい思惑もある。またCIAが北の仕業にした
先制攻撃の口実作りも考えられるし、アルカイダがビンラディン殺害の復讐のため、北朝鮮と見せかけ、全面戦争の
‘けしかけ’の可能性もある。どの切り口も前面戦争の方向。その最中のシナリオ、あの坊やの考えそうなこと。危ない!
アメリカは金がない、中国も新体制が整ってない、欧州危機は深刻だし、日本は衰弱。 最初のブラックスワンは何から?
・・・・・・
4040, 汚れつちまつた悲しみに ー3
2012年04月17日(火)
 7年前の同月同日に若い時分の挫折体験について、次のような文章が書いてあった。傍からみた現在の私は、このようだろう。
ところが今回の挫折体験の心の傷は、これほどでもない。逆にいえば、茫然自失まで至ってないためか、若さを失ったためか。
青年期の幾度の挫折体験で、よくぞ狂わなかったものと思うほど心の傷は深かったが、今回は、魂まで切っ先が届いてない。
長年の読書と、経験、人間関係の構築のベースがあったためである。 特に若い時分の挫折体験と、長年の読書の蓄積が大きい。
それとも悲しみを遥かに超えた多くの体験のためだろうか。それにしても、真似た文体としても、血だらけの挫折体験が、
そのまま出ている。書くということ、書き残した自分の文章を改めて読み返すことの意味(価値)を、この文章で知らされた。 
【 1475, 汚れつちまつた悲しみに ー2  2005年04月17日(日) 】
 「汚れつちまつた悲しみに」の「汚れ」を「倒れ(挫折)」にして、「倒れてしまった悲しみに」という詩を書いてみた。 
 昔の何度かの挫折を思い出しながら。 ー作成時、2005年4月16日 20時20分
ー倒れてしまった悲しみにー
倒れてしまった悲しみに 今日も涙の雨が降りかかる
倒れてしまった悲しみに 今日も嵐が吹き荒れる
倒れたしまった悲しみは たとえば樹氷のように突き刺さる
倒れてしまった悲しみは たとえば黒い血海のよう
倒れてしまった悲しみは たとえば虚空の空飛ぶ蜻蛉よ
倒れてしまった悲しみは あなたの愛に気づくとき
倒れてしまった悲しみは 夢みた昔を懐かしみ
倒れたしまった悲しみは 倒した人を思いだす
倒れてしまった悲しみは 光りの日々が走馬灯
倒れてしまった悲しみは 独りの自分に出会うとき
倒れてしまった悲しみは 悲しい悲しい悲しみよ 悲しい悲しい悲しみよ
倒れてしまった悲しみは 倒れてしまった悲しみは 倒れてしまった悲しみは
 ▼ 悲しむべき時には、悲しむが良い。 本当の悲しみが出てくるのは、数年先になるのだろう。
  まだ、悲しむだけの余裕がないのかもしれない。
 ・・・・・・・
3674, 自己を見つめる −2
2011年04月17日(日)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 私たちは人生の現実を経験を介して初めて知られてくる、経験をしてみなければ分からないのである。
人生は、経験を通してその深みと広さを増してくる。 自分とは、経験してきた全てである。人生は様々な過去の追憶を返し、
暖めなおすことしか、事実上何処にも存在をしない。 良質な経験の積み重ねこそ、人生を豊かに、実りあるものにする。
   ー 第一章 経験 の中より ー
  哲学者・ダガマーは経験について3つの点をしてきした。
・まず第一に、それが誰も予見できず、見通せない仕方で生じてくる点である。
 したがって、経験は常に新しさを含んでおり、経験がもたらす内実を、まったく予測することができない。
・次に第二に、そうした経験の過程は、いつも否定的過程であって、実際に経験するまでは、当の事柄を知ってなかったことを
 痛感させられるわけである。つまり私たちは徹底的に、浅見や独断を捨て去らねばならないことを教えられる、とガダマーは断じる。
・さらに第三に、それゆえに経験とは、本質的に、辛い不快なもの、期待の幻滅を伴うものである。
 かつてギリシアの悲劇作家アイスキュロスが語ったように、人間は、「苦しみをとおして学ぶ」のである。
 それが経験ということであり、こうして初めて人間は、真の洞察と自己認識を獲得するのだ、という。 
  要するに、経験をとおして、私たちは、あらゆる予見の限界と、すべての計画の不確かさと、人間の非力さと有限性を、
 徹底的に思い知らされるわけである。 実際、こうした労苦にみちた経験を介して、私たちは、ほかならぬ自己自身の
 人生の実相のただなかに立つことになる。そしてそれ以外に、どこにも人生というものはない。 私たちは、経験において初めて、
 自己自身と宿命的に向き合うことになる。 経験のなかにこそ、自己自身があると言いうるゆえんである。
▼ 人生を振りかってみて、経験の中こそ、自分があると、つくづくと思い知る。 その境界が自分の限界であった。 
 だから迷ったら、とにかく、一歩踏み出して行動することが、自分を広く深くする。 「自分を見つめる」とは、
 自分の経験を見つめることと同じである。 経験して初めて、知るが、それは否定的過程を踏む事であり幻滅を伴なう。
  とはいえ、落語の与太郎では? 
 ・・・・・・・
3309, 笑われ力  −1
2010年04月17日(土)
   「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
 図書館で、この本を見つけた時に、「面白い!」と、直ぐに借りることにした。
「自分の失敗や欠点を笑い飛ばしなさい。それで既に自分を客観的に見下ろしていることになる。」とは癒しの真髄であり、
これまで「フン、この程度モノさ!」と自分を笑い飛ばしてきた。 しかし、それを一冊の本として真正面から取組むとは。
お笑いのサンマやタモリが、この名人である。 実に上手に自分の失敗談を取上げて、周囲の共感と笑いをとる。
タモリが「電車で、もようして? 有名人なのでトイレに入りづらく、失禁直前に家にたどりついて、ホッとして、
ところが大爆音のガス一発だけ! あの1時間の苦労はなんだった? 」で、場内、爆笑だったが、「笑われ」の典型的事例。
誰も一度や二度は経験のあること?。私の知人でも、「笑われ力」を駆使して世渡りをしている人が何人かいる。実に自分の欠点、
失敗を披瀝をし、周囲の苦笑と共感を誘っている。 自分より知識や、経験の少ない人の前では可能だだろうが、同じレベル?
の人の前では、躊躇をしてしまう。 素の自分を曝け出し、相手を笑わせようというのだから、基盤がないと出来るものでない。
  まずは、アマゾンの ー内容紹介よりー ≪石原 壮一郎 ≫
≪ 「心地良い人間関係」に「笑い」が不可欠なのは言うまでもないでしょう。しかし、ウケを狙えば狙うほど、
スベりやすくなるものです。 まして、人をバカにして笑っても「心地良い人間関係」は生まれません。
そこで「笑われ力」の登場です。 笑わせようとするのではなく、笑われる意識、人をネタにするのではなく、
自分をネタにするスタンスです。 お笑い芸人のような爆発的な「笑い」が、笑わせることを目的にしているのに対し、
「笑われ力」が生む自然な「笑い」は「心地良い人間関係」を築くためのプロセスに過ぎません。
 大爆笑は不要です。 自然で心地良い「笑い」をプロデュースする方法をゆる?く紹介します。≫
▼ この本の「まえがき」の冒頭に、「いきなりですが、おめでとうございまう!あなたが、こうして『笑われ力』に出会ったことは、
 あなたの人生にとって、必ずや大きな意味を持つでしょう。きっと日ごろの行いがいい方に違いありません」とあり、最後の方には
「大人力の77パーセントは「笑われ力」でできています。 残り23パーは、さほど気にしていただく必要はありません。」とある。
この随想日記やブログも早くいえば「笑い」というより自嘲の披瀝。そうでも思わないと、毎日、アクセクして書いていられない。
ある意味、癒しになっている。 読み続けている人はご存知のとおり、最後の一行に捻りを入れるようにしている。それも共感を得る
ような自嘲気味の捻りで締めるように。決して、この本を読んだぞ! でなく、やっと読みおえた!という気持ちでないと続かない。
この本の内容は簡単明瞭。 嫌味なく自分をダシに笑いをとれれば、悩みや、怒り、悲しみの絶対量は激減する、ということ。
 そういえばオカマバーの方々、実にオカマの世界を自嘲気味に話し笑いをとっている。 
笑われてナンボの世界か、珍獣?の世界は。 10年以上は、行ってないが、歳のせいか気持ちが悪いが先にたつ。
 ・・・・・・・・
2934,世界恐慌に入って、まる7ヶ月 ー2
 2009年04月17日(金)
新潟駅前でビジネスホテルという業態モデルを経営しているために、世界恐慌の影響がストレートになる。
初めに、広告、営業活動に対して経費をつめてくる。 二時間以内の出張は日帰りである。
インターネットや携帯電話などで情報をやりとりして出張は可能な限り回数を減らすのは常道である。
最近は宿泊ネット販売が25パーセントなっている。しかも新潟では半額以下の2600〜3000円代前半は当たり前。 
当日でも3000円前半なら何時でも取れる状態だから、堪ったものではない。そういう私も、冷蔵庫や洗濯機や大型TV以外は、
電気製品、デジタル家電、書籍、健康食品、ユニクロは、ネット購入。情報は、大型店の店頭で見て、実際に買うのはネット。 
2〜3割はまちがいなく廉いからである。リーマン・ブラザーズから始った経済危機から世の中は一挙にデフレスパイラルに入った。
情報化によるフラット化で一物一価の世界になったことも、さらに輪をかけている。最低価格が実現できないところは、
即、退場をさせられてしまう。(客室は、在庫が限定されているから、まだよいが)ということは、大部分の企業は淘汰される
ことになる。 世界は5〜10年と暴風雨が吹き荒れだしたのである。日本の国力もバブル崩壊後に大きく失われてしまった。 
アメリカのように資源や軍事力や知的蓄積がないのである。この金融恐慌は近代資本主義社会の根幹を揺るがすほどの大事件。
4〜500年かけて近代社会がつくり上げてきたのはが中産階級である。その中産階級が中期・長期的に見て消滅しようと
しているというのだから、ただ事ではないのである。1990年前後にソ連と、東欧諸国の共産社会体制が消滅。
そして10年後の2001年9月11日にイスラム原理主義のアルカイダがアメリカの金融の中心のビルを二つ崩壊させ、
2千数百人の生命を奪いアフガン・イラクの戦争中に入った。そして今度は百年、数百年に一度といわれる金融恐慌である。
これは簡単に解決できるような事態ではなく5〜10年は世界中で想像を絶した多くの経済混乱が発生する。 
まさか、これほどの大事件を目撃できようとは思っていなかった。それも全ての人が直撃する惨事を・・
・・・・・・・
2570, 些細なものほど、光を放つ!と、振り返ると解る
2008年04月17日(木)
 日常のチョッとした瞬間、60年にわたる過去の些細な記憶がフラッシュのように出る。これが還暦を前後して特に多くなってきた。
人生は些細なことほど大きな意味が含まれているようである。コマーシャルではないが、「人生は、その人の選択で出来上がっている」と
実感する。一日、数万のことがフラッシュのように脳に発生するというが。 様々の経験から、自分の心の芯にとって、いやな後味に
なることはしないようにしてきた。それでも、次から次へとフラッシュが発生する。 自分の過去を冷静にみれる年月が経ったためだ。
多くの人を虐殺した政治家の内面は如何なるものだったのか。死者が纏わりついているのだろう。彼のそれは、些細なものではないからだ。
  次の文章が‘些細なものほど、光を放つ’ことを理路整然と表現している。
「哲学の教科書」中島義道著
  *些細なものほど、光を放つ      P-232
哲学者の目とは、人生の「外側」から、すなわちあたかも死者、あるいは他の天体からの飛来者のように、人間たちの営みを見る目です。 
こうした目で見続けますと、そこに面白い変化が生じてきます。 人生の大事と思われているものは取るるに足らぬように見え、
逆に取るに足らぬと思われていることが輝いて見えてくる。「死」を背景にすると、天下国家の大事ではなく些細なものこそ光を放つ。 
フランクルは強制収容所という「向う側」にいる人間の心持ちを次のように語っております。 彼の想像はいつも繰り返し過去の体験に
想いを馳せて、それに耽っているのであった。 しかしそれは過去の重大な体験ではなくて、以前の生活のごく日常的な出来事や
ささやかかな事象のまわりを彼の考えはめぐっているのであった。……市電に乗って家に向う、入口の扉を開ける、
電話が鳴る、受話器を持ち上げる、部屋の電灯のスイッチを入れるー囚人がその思い出の中でいわば撫で回して慈しむものは、
こんな一見笑うべきささやかなことであった。そして、その悩ましい思い出に感動して彼らは涙を流すこともあったのである。
強制収容所に入っていない私たちが、今この状況を腹の底から実感するのは難しいでしょうが、例えば奈良時代の
官吏の一日を文字通り再現してくれれば、どうでもよいことがわれわれには本当におもしろいことでしょう。
もし私が一時間だけ千二百五十年前の奈良の都に戻してくれるなら、東大寺や興福寺には行かずに、人がごった返す市場に
行くでしょう。 内裏の「閣議」は見物せず、一般の家庭の夕餉を見物するでしょう。・・(中略)女房が派手で困るとか、
給料が上がらないとか、子供がぐれて困っているとか、毎日の生活がしみじみと面白みを帯びてきます。
 ▼ 学生時代の日記を、ここで公開したが、私にとって、その面白みは当時の日常の風景が具体的に書いてあったことである。
 実際に読み返してみると、当時のことが昨日のように思い出される。何で、その後、思ったままのことを具体的に書いて
 なかったか後悔する。誰かに見られたら嫌だというのが、それなのだろうが。些細なことの中に光が宿っているのである。
 それは、「今日、今、ここ」しかないから。ここに永遠が存在しているから。
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2007年04月17日(火)
2205, 反時代的毒虫 ー2  才八∋ウ_〆(∀`●)
             ー読書日記ー
「反時代的毒虫」の中の ー白洲正子との対談『人の悲しみと言葉の命』ーから
車谷が『四十八瀧心中未遂』で直木賞をとったあとの「文学界」で白洲正子との対談である。
白洲をして、恐ろしい、こわい、と言わしめるのだから、驚きである!
 ーー
白洲 「私、十何年も前に見っけたんだからね」
車谷 「白洲先生からいただいたその手紙をここに持ってまいりました。
   (字数制限のためカット、2010年4月17日)

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