堀井On-Line



4786,自分の頭で考えるための哲学講義

2014年04月22日(火)

         「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜
  * 価値教育とは?
 20歳から30歳までは、変化の連続になる。社会人、結婚、早ければ父親、と、色いろと変化をしていく。
そして、年々、就職先、結婚相手の選定など、人生を大きく左右する決断が突きつけられる。
その中で、大きは危機が体質の変化時の24歳頃にやってくる。それが人生の大きな分岐点になる。
 ここで悩み、基礎を固めておかないと、長い実社会の中で、大きな落とし穴に落ち込んでしまう。 
精神的には鬱病、分裂症など。社会的には突然の失業とか大病とか・・ そこで直面するのが、人生の意味と、
価値感である。ここで、その辺りを「アメリカ道徳教育からわかること」の小項目で取り上げている。
   ーまずは、その辺りを抜粋するー
《 価値教育とは、子どもの全人的尊重と、その自主的な全人的な働きによる価値の明確化を援助する方式をとる。
 従って確定した知識を権威として教師中心に教え込む指導方式とは根本的に違う。・・・
 アメリカの教育学には、二つの大きな流れとして本質主義と進歩主義がある。
・前者は、歴史の試練に耐えてきた文化遺産の教育的価値を重視し、学校にはそれを次世代に伝達するという、
社会から依託された任務があることを強調するのに対して、
・後者は、子どもの興味・関心・成長欲求を受けとめ、自発性・主体性を尊重して活動意欲を引き出すことを重視する」と。
 そして、本質主義に基づき価値の伝達に主眼を置く教育が、価値の押しつけにすぎないとして批判されるにつれ、
進歩主義に基づいて子どもの価値表現や価値判断を重視する教育が主張されるようになったといいます。
そして現在では、両者の統合が課題になっているそうです。私が注目したいのは、もちろん後者です。
つまり、子どもたちの価値判断を重視する進歩主義的な教育です。たとえば、ラス、ハーミン、サイモンらが
『道徳教育の革新』のなかで主張した「価値の明確化」という概念があります。彼らは、すべての人が同じ価値観を
もつことはないという前提のもと、それぞれの人が自分なりの価値観を確立する手法を明確化しようとしました。
  それが次の7つのステップです。
選択すること:①自由に選択する ②複数の選択肢の中から選択する、
       ③各々の選択肢の結果についての十分な考慮の後で選択すること、
尊重すること:④尊重し、大切にする、⑤肯定すること、
行為すること:⑥選択に基づいて行為すること、⑦繰り返すこと。
 これらの七つを満たしたものを「価値」と呼ぶそうです。 》
▼ アメリカ的価値観が、そのまま現れ出ている。「神の前で、それぞれが経典に従い、自主独立で、前向きに
 生きなさい」という事だが、更にマトメルと、【自由に、複数の選択肢の中で、充分考慮した上に、 大切に、
肯定的に、選択した行為を、繰り返すこと、を満たしたのが『価値』】ということになる。 価値観は、それぞれの 
年齢で変転していくため、人生は、何時も学び続けなければならないことになる。まずは両親など家族からの
価値観から脱皮するには、この7つのステップは有効にはたらくだろう! そのためには、教養が必要条件になる!
三年前の【3679, 自己を見つめる−6 2011年04月22日「自己を見つめる 」渡邊二郎 (著) 】が、続きになる!
・・・・・・
4419, この結果に感謝している!
2013年04月22日(月)
 一昨年の倒産劇から数ヶ月あたりから、「この結末が私の人生にとってベストでは?」という思いが心の片隅に生じていた。 
他人に言うべきことでもないし、失業させてしまった社員や役員に対しても、こんなことは口が裂けてもいえないこと。
2001年の9・11テロ以来、10年間、右下がり傾向が続き、リーマンショックで売上げが三分の一まで落ち込んでいた。
経営は死に体に近づき、真剣に止め時を探っていた矢先の東北大震災。もう駄目!と早めの決断をした。 その事業物件の
買い手が直ぐに見つかり、同じホテル名で新経営者の下で現在、営業が続いている。一般債権もほぼゼロで、金融債権以外は
思惑通りの清算ができた。会社借り入れの個人保証もあって普通なら個人破産しかないが、物件の処分が順調だったこともあり、
何とか破産なしの無傷で済ますつもり。そうこうあって担保に入っていた自宅も、家内が買い取ることで確保。 何とか今まで
とおり生活をしている。 順調に誰かに経営を渡すのと、この結果のどちらが良かったか、勿論、前者と思うが、こと私の
人生という面からみると、この方が良かったとも考えられる。 全てがベストに動いてきたから、人類も、自分もいる。
 先日の高校の同級会で、半年前に老舗の会社を倒産させた人が隣でシミジミと、「この結果で終わったことに感謝している。
こんな気持ちになるとは思ってなかった」と、現在の私の心情と同じことを、そのまま語りかけてきた。 これは実際に
経験した者でしか言えない言葉。 無念で、情けない自分と、周囲の好奇の視線の中、独りで日々、悶えた結果、この現実を
そのまま受け入れるしかない中で、実はこれがベストの結果だと気づく。「この苦しみを与えているのは、神(自然)が、
何かの意味を気づかせようとしているのではないか」という、フランクルの問いかけである。その時に自然に出てきたのは、
「この経験で私は、やっと半人前になったが、貴方は以前の不幸分を加えると、半人前から一人前になった」で、ある。
互いの心奥の葛藤と、その思いの先は同じ。過去を振り返ると、何度かのどん底の青春期の日々にこそ、人生の味があった。
思い出すのは絶頂の浮かれていた日々でなく、瀬戸際で呆然と過ごしていた日々である。あの時、何かが変わろうとしていた。
 それと同じ心情が、「この結果(状況)に感謝!」の言葉に集約されている。底に下りてしまえば、不安感など消滅。 
結果を素直に受け入れれば、そのまま安心立命の境地に到達できるのが人生。実際に倒れ、孤立し、そこで人生を俯瞰すると、
全く違う目線を得ることが出来る。その視線から、これまでの人生を振り返ると、何とつまらない自分が見えてくる。
だから、「この結果に感謝している!」の言葉に、なる。なかなか人生は味があり、面白い。それを味わうのが、これからの人生。 
・・・・・・
4045, 末っ子はつらい ー3
2012年04月22日(日)
  私は10人家族の末っ子。 家が商家だったので誰も自分のことで手一杯、互いのプライベートを見せないのが暗黙のルール。
4〜10歳までは1Fが店舗、2Fが倉庫と事務所、3Fが住居で、4Fには住み込みの女子従業員7〜8人が住んでいた。 
食事は、何時も従業員と一緒。 小学校5年になって、7〜8分離れたところに住居部分が移動した。雑然とした商家では独りで
遊ぶしかなかった。 末っ子は親の目が行き届かない分、姉や兄の虐めから自らを守らなければならなく、常に周囲の顔色を
窺がう性格になっていた。 特に父親が店と家族と親戚を束ねていた絶対的存在で、父に媚びるのが効果的であるのを知っていた。
そのため?末っ子の私に甘かった。数年前、新幹線の乗客同士の会話で、「私は多人数兄弟の末っ子で、常に親や兄弟から許されてきた。
それが今でも直らず、失敗をしても許されるだろうという思い込みの性格が身について、大きな壁になっている」というのを聞いて、
「まさに自分そのもの!」と、驚いたことがあった。 家族間では絶対に互いの陰口はタブーで、兄や姉が他人の噂話をしたのを
殆んど聞いたことがない。 児童心理学では、家族は5人以上が必要という。 一人っ子は同年代の心の内を知る機会が少なく、
孤独になりがちになる。 さらに親のかまい過ぎと、兄弟がいないため自己中心になってしまう。 家族の立ち位置で、
性格が形成されるのは自然の摂理。数年先が、それぞれの姉、兄の姿から見え、学ぶことが多い。7歳年上の姉が勉強の仕方とか、
自分の夢をイメージ化する重要性などを、節目ごとに教えてくれた。ある意味で、一番、世話になった人である。 
末っ子は、末っ子の欠点と利点がある。冷静にみて、やはり大家族は利点が多い。  両親の要素もあるが。
  * 末っ子はつらい ー2 2002/05/08
 末っ子は辛いと、姉が聞いたら、「なにをいっているか!」と怒鳴られそうだ。「両親に、兄姉にみんなに可愛がられて!」と。
確かにそうだ。 特に両親にとって、ペットみたいな存在で、亡くなる時もしかり、傍にいた。 そして遺言も財産に関しても、
不利にならないようにして亡くなった。 家は両親が死ぬまで常にお手伝いがいて何時もチヤホヤされてきた。 末っ子の特権を
充分享受したといってよい。 それと大家族は逆に孤独に強くなる。一人でいつも遊んでいた。 後年になって長姉がいうには、
いつも一人で三輪車で遊んでいたとか。今も一人遊びが好きだ。ノイローゼになる人は一人遊びの出来ない人。 幼児期・少年期は
事業の立ち上げ時で非常に刺激的な環境。 そういう意味で「三つ子の魂百までも」である。それぞれの性格はその時代の背景と、
血液型と家族関係と両親の年齢などによって、微妙に変わってくる。 長男には長男の立場、末娘ならその立場で決まってくる。 
すぐ上の兄は、私の影的存在で?大人しい性格。「積み木崩し」というタレント手記があった。長女、次女の次に男が生まれると、
その次女がひねて非行に走るケースが多いという。  兄妹の立ち位置で、性格が決められる。
  * 末っ子はつらい ー1 2002/05/07
 8人兄弟の末っ子である立場の自分を書いてみる。少年期まで、末っ子は上からの虐めがきつい。特にすぐ上の兄のそれがきつい。
常に気を張っていなくてはならないのがその宿命。 食事も早く食べないと食べ分がなくなる為、早食いが癖になっていた。
多くの兄弟で育った末っ子は社長に向いているそうだ。 他人の気持ちを読む習性が、それに向くのだろう。 それと結婚の相手は
長女がいいとも最近聞いた。たまたま家内がそうだった。 そういえば過去に惹かれた女性は長女で、A 型で、おっとりタイプが多かった。 
 また末っ子は口が堅くなくてはならない。立場上、それぞれの兄姉の秘密を知る機会が多い。 しかし万一告げ口をしたら、
袋たたきにあってしまう。家族はまず出会う初めての社会だった。
・・・・・
3679, 自己を見つめる −6
2011年04月22日(金)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
自己を見つめる、その自己とは? そもそも何だろうか? その自己は、「少なくとも、この世で、自己として
 瞬時の光芒を放って輝いた」のである。 この世に表れでたのは、その存在理由があったのである。
 ー 第五章 自己 ー
【 およそ、あらゆる芸術家、学者、政治家、実業家などの、人類社会に貢献した人々はみな、その生涯において、
 自己決定の稀な瞬間を生きとおして、それぞれ個性ある一生を築いて、この世を去った。 もちろん、そうした際立った、
 選り抜きの人々以外でも、考え直してみれば、あらゆる人間がみな、それぞれなりに、自己の人生と運命を生き抜き、
 そのかけがえのない人生の軌跡を描いて、自己の人生を全うしようとして、一生を走りとおしたと見なければならない。
 むろん、この世の人生においては、不運や事故、挫折や失敗が付き物であり、多くの人々は、志半ばで、不幸のうちで倒れ、
 意に満たない、悲運のなかで一生を終えた。けれども、人間はすべて、最後には、自分らしい生き方を、運命として肯定しながら、
 この世に別れを告げる覚悟で人生を生きるものである。そこに、ほかならぬ、掛け替えない当の自己自身の人生が、一回限りの
 形で生起し、代りの不可能な、それなりの個性と必然性をもったものとして刻まれ、こうして、永遠の闇から闇へかき消え、
 あるいは不減の魂のなかに久遠の記憶として残され、少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って輝いたのである。】
【 大切なのは、人間の存在の必要条件と十分条件とを峻別することにある、と。 
 人間が生物としての機能を果たして生きるということは、人間の存在の必要条件を満たして生きるということにほかならない。 
 また、人間が社会的存在として、なんらかの環境や境遇のなかに置かれて生存を営むということも、人間の存在の必要条件を
 満たして生きるということのうちに入る。けれども、それだけでは、真に人間的な自己自身として生きるということの十分条件が
 満たされたということにはならない。衣食住の欲求を満たし、胃腸や呼吸が正常に機能し、なんらかの社会的環境のなかに置かれて
 生きるということならば、誰もがやっていることである。むろん、そこに、胃腸の丈夫な人とそうでない人、あるいは比較的恵まれた
 環境に生きる人とそうでない人との差異はあるであろう。けれども、そうした所与の心身の資質や社会的環境のなかに
 ただ置き入れられて、それにまったく受動的となり、なんら奮起することがないのならば、その人は、ほんとうには、
 まだ自己自身に目覚めてはいないと言わなければならない。 】
 ― 自己の存在の十分条件を満たしたかどうか、それも充分かどうか、それぞれあろう。それは個性を発揮できたか、どうか。
・・・・・・・
3314, 聞きしに勝る3D/TV
 2010年04月22日(木)
  最近、昼飯は外食を週一にして、サンドイッチを通勤途中に買ってきて食べているが、昨日は、新潟駅の中華店でランチ。 
  その後、ジュンク堂書店に向かう途中、ビックカメラの前を歩いていると、話題の3D/TVが店頭にあった。 
  昨日の新聞で一部の店舗でデモ展示を始めた記事を読んだ直後だった。ところで、現在のTVは7年半になるパイオニアの
  50インチのプラズマ。当たり外れの、当たり。しかし、地デジには特殊のマシーンを入れなければならないので、
  替えときにきている。 先週の土・日に家電を見て周り、一度頭を冷やした今週末に、シャープの60インチの
  LED・TVを発注と決めていたが、「3D/TVが700万台の新規需要の創造」とかいう週刊誌の広告が気になっていた。 
  そこで早速、見たところ、その決心を覆すほどの画面。映画のアバターを3Dでみて驚いたが、TVは大したことはないと、
  思っていた。 ところが実際は映画より良い。映画もそうだが、画面と自分の間に空間ができ、更に画面の奥行きができた
  イメージで立体感を出している。デモ用の3D/TVはメガネが固定してあるので、メガネをした時と、しないで見たときの
  差が比べることが容易。そこで、比べた結果は格段の違いである。 これで大相撲や野球を見たら、迫力は数倍は違ってくる。 
  デモ用のソフトは石川遼のゴルフだった。 なるほど週刊誌の見出しの「新規700万台の市場の創造」の意味が分かった。 
   十数年前に初めてハイビジョンが店頭に出たとき、ソニーの画像を見たときの驚きと同じである。 その時は、
  暗い舞台にバレリーナーが白鳥の湖を踊っていたが、立体的な画面に感動したことを憶えている。
  それまでのTVとハイビジョンTVの格差と、3Dの映像の差は同じ位はある。数年後には多くの3D番組が出るだろう。
  急遽、買い替えは数ヶ月待ってから、3D/TVにすることにした。 ますます、お宅か! 
  21世紀とは、ツイッター、3D/TVにしろ、iPadにしろ、こういう時代だったのか! 驚きの連続である。
  「明治は遠く、なりにけり」から「昭和は遠く、なりにけり」か〜。
  ・・・・・・・・・
2939,マネー資本主義“暴走
2009年04月22日(水)
 4月19日(日)の 午後9時00分から 総合テレビで
「マネー資本主義 第1回“暴走”はなぜ止められなかったのかーアメリカ投資銀行の興亡ー」が面白い。
  *まずはーNHKのHPの番組紹介からー
【 金融危機はなぜ起きたのか。巨大マネーはどのように膨張していったのか。
 マネー資本主義の主役として批判の的となっているのが、リーマンショックを起こした当事者でもある「投資銀行」。
     (中間カット 字数の関係で 2011年4月22日)
 ・・・・・・・
2575, フロー体験 ー1
2008年04月22日(火)
 先日「好き」という言葉を取り上げた。好きな状態、好きなことをしていると時間を忘れ、あっという間に時間が過ぎ去ってしまう。
 最適経験をしている状態をチクセントミハイは「フロー」と呼んだ。 好きなことをしていれば創造的になる。だから一流の人は
 「好き」になるまで、対象に集中する。その為には、成功体験の味を知らなければならない。当たり前のことといえば
 当たり前のことだが。一流の人の持っている雰囲気は、フローが滲み出ている空気をいう。
 ーー
 面白そうなところを、まずは抜粋してみる。
   (字数制限のためカット 2010年4月22日)
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2007年04月22日(日)
 2210, 帰ってきたソクラテス ー1         (*^_^*)I おはよう!
あのソクラテスを甦し、政治家、学者、評論家、老人福祉係、元左翼、人権擁護団体、イエスに釈迦まで登場。
プラトンの『ソクラテスの弁明』の問答形式で、彼らと対話をしながら、尊厳死から性教育まで身近な難問に大哲人が挑み、
知の広場へと誘っている。哲学とは自分の頭で考えることだが、それを具体的に示してくれた内容である。
池田晶子の本は、もう10数冊以上は読んでいるが、読めば読むほど面白い。初めは面白くない本を買ってしまったと
後悔をしたが、じっくり読むほどに間違いだと気がついた。面白い順にランダムに取り上げてみる。
まずは、イエスと釈迦とソクラテスの対話が面白い。三人の対話の架空の対話の中から、
一神教と仏教と哲学の考えの違いを面白く浮き立たせているところが良い。
     ーーー
=死後にも差別があるなら救いだ=
 ー登場人物ーソクラテス、イエス、釈迦ー
 ーP・215ー
ソクラテス:「彼と我々」って気持ちの持ち方が、この世の差別の始まりであって、けしからんことなのだそうだから。
イエス: 全然違う話だぜ。
ソクラテス:付き合いのよさこそが、君らの身上ってもんだろう。ここは一つ、有難い御法話と御説教といこうじゃないか。
釈迦:付き合いということなら、あなたは我々の比じゃないでしょう。 あなたは実によく付き合う。ものぐさなんて、
 何をおっしゃる。教祖というものは決して付き合わないものなのです。付き合わないからこそ教祖は教祖になるのです。
 差別はすなわちシャベツとは、本来仏教の言葉なのです。たまたま厳しい身分社会の制度が人人を苦しめていた
 世の中に、万物平等、一切衆生悉有仏性を私が説いた。たまたま王子であった私が、その位を捨ててそうした。
 それで、私は画期的に偉いということになっているのでございますよ。
イエス:メクラを治し、いざりを癒し、売春婦を赦したから私はえらいことになっている。馬鹿やろうだな!
釈迦:私が申しましたのは、そういうたまたまの現われでしかないこの世の肉体や身分やらの差別相に拘泥する
 心のあり方こそが、ない差別をあることにしてしまっているのだ ということでしたのに。こんな当たり前のことに
 気づかない無知蒙昧なる衆生たちは、差別相を実相と信じ込んでは、性懲りもなくすったもんだを繰り返し、初めから
 ないものを、ますますすることにしてしまっている。ああ色即是空、かくも簡単な真理が何故わからないのでしょう。
イエス:いや君ね、いちばん困るものがそれだってこと。
釈迦: あるものをない、ないものをあると言うから易しいが、ないものをないという、それをわからせる、これが実に難しい。
    (カット 字数の関係で 2011年4月22日)


4785,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜②

2014年04月21日(月)

   * 倒産よもやま話(三年目の実感) 〜②
 「その直後、気持ちを落ち着かせるため、東京周辺に一週間ほど出たい」と、弁護士に相談すると、
「今が一番、大事な時。それは問題に対し後ろ向きになる。苦しいが今は、直面し続けるしかない!」と一喝。
そのことは以前から体感していた為、納得。問題の中心点を凝視し、立ち向かい続ければ、ほぼ時間が解決する。
この経験で、身近の経験者のことが、解っているようで実は何も解ってなかったことに気づいた。
実は、「犯罪者が捕まり、ホッとした気分は、こんなもの?」という風な、変な安堵感もあった。
 現時点では、『人が死ぬって悪いこと?』と、ほぼ重なる。 
バブル崩壊、9・11、9・15、3・11で、時代が根こそぎ変わってしまった。現在時点の、良い悪いは、表面的な現象。
10年前から、現在に至るまで何が起こった? 身近の天変事変では、中越地震、柏崎沖地震、東北震災。 世界では、
数万規模の死者が出た、幾つかの大地震。 経済では200年に一度といわれるリーマンショック。そして、今後10年で、
その数倍規模?の自然災害、経済災害が、間違いなく起こる可能性が高い現在、「倒産、廃業が悪」の図式・考えを
捨てるべきではないか?というのも、排除してはならない。 その辺は、自分の自頭で考え、判断すべきである。
 その上に、飛躍的なパソコンの携帯の進化で、これまでの現実社会をネット社会が覆ってしまった。
そしてアメリカのルールに習え、のグローバル化である。これが、良くいえば創造的破壊という美名の元に始まっている。
その最たるものがTPPである。経済的な日本併合である。それにしても、国家戦略ゼロの日本の思考能力に暗澹たる
気持ちになる。この節目は、やはり明治維新、太平洋戦争の敗戦に匹敵するか、それ以上の事態。 それに、
呆気無く、飲み込まれてしまったのが、この一連から、鮮明に見えている。私のケースは、事業からの
私自身のリストラであり、経済社会からの完全リタイア、排除である。で、近く避難先で、町を見下ろしている。  
・・・・・・
4418, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー7
2013年04月21日(日)                
   * 幸福とは何か ー大富豪とマサイ族   「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著
 幸福とお金の関係は、なかなか難しい。幸福の必要条件の一つにお金があるが、十分条件では決してない。
  その辺りを、以下で大富豪とマサイ族を比較して分かりやすく説明している。
≪ アメリカでは一九八○年代から、幸福を心理学的に計測するという試みが行なわれている。これは厳密に科学的な
 ものではないが、様々な調査によって、統計的にほぼ同一の傾向を確認できる(大石繁宏著『幸せを科学する』)。 
ある調査によれば、人生の満足度を七点満点とすると、アメリカのビジネス誌『フォーブス』に載った大富豪たちの
満足度の平均は五・八だった。彼らは資本主義社会の頂点に立つ成功者で、豪邸やプライベートジェットなど
望むものはなんでも手に入れることのできるひとたちだ。
 アフリカのマサイ族は、ケニアとタンザニアに住む半遊牧民で、必要最小限のものしかない貧しい暮らしをしている。
同じ調査で、彼らの人生の満足度は五・四だった。 目の眩むような大金は、ひとをたった○・四ポイントしか幸福には
してくれないのだ。もちろんこれには様々な解釈が可能だが、大富豪がマサイ族の村に行ったとしたら幸福だと思うだろう。
マサイ族の若者がニューヨークを訪れれば、極貧と不幸に打ちのめされるかもしれない。 幸福感は相対的なものだからだ。
マサイ族が幸福なのは、家族や仲間との強い絆(愛情空間と友情空間)のなかで暮らしているからだ。
それに対して貨幣空間の成功者である大富豪は、その成功ゆえに愛情や友情から切り離されて幸福を感じられなくなる。 
 でも彼の人生は、まだマシな方だ。この調査によれば、世界でもっとも不幸なのはロサンゼルスなどの大都市で生きている
ホームレスだ。彼ら貨幣空間の敗残者は富も人間関係もすべて失ってしまい、自分たちより過酷な生活をしているインドの
スラム街のひとたちよりはるかに幸福度が低い。もっともこれは、それほど奇異な結果ではないだろう。
お金が幸福の必要条件ではあっても、十分条件でないことは誰だって知っている。
 ぼくたちがお金にこだわるのは、それが「安心」や「安全」という大切な価値と結びついているからだ。
ヒトはずっと不安のなかで生きてきたから、安心を得ることは幸福の大事な条件のひとつだ。そして市場経済においては、
この安心はお金で買うしかない。日本国の財政が未曾有の赤字に陥り、少子高齢化で年金制度が破綻必至になったことで、
この国を重苦しい不安が覆っている。老後を国家からの年金に頼っていたひとが、安心を奪われてしまったのだ。
 でも単純な経済問題だから、お金により解決できる。財政破綻で年金の大幅減が実行されても、宝くじで一億円当たったら、
どうだってよいと思うだろう。(当たらないと思うが) 幸福のためにお金を求めるのは、きわめて合理的な行動だ。
ところが皮肉なことに、宝くじの当せん者を追跡調査をすると、実はあまり幸福のなっていない。
買物や豪遊で賞金を使い果たすころには、自分には何も残ってないことに気づくのだ。 ・・・ ≫
 ▼ ー我われがお金に拘るのは、「安心」や「安全」という価値に結びついているためーというのは、分かる。
  ならば、日本は世界一の「安全」で、「安心」して暮らせる国で、万一のことがあっても、生活保護がある。
  しかし自殺は先進国の中でトップクラスにあるし、国民は幸せそうでない。何故なら国の先行きが見えないためである。
  先行きなど、かつても見えなかった。中途半端な幸せを長年続けてきた結果、激変の最中、動揺しているのである。
  東北大震災から数ヶ月後、アフリカの難民をよびよせ、被災民の状況を見てもらったが、殆どコメントをしないで帰った。 
  彼らにしたら何をか言わんである。豊かさの中の極貧生活が不幸の最たる状態であるのは、大都市のホームレスを見れば
  分かる。今や夫婦間資産格差が出来た私など、不幸の最たるもの?でも不幸感はない。「不安感」が最小に縮んだからだ。
  先行きの不安感は、今が不安定だと生じ、蓄積していく。着地をした現在、今さら「不安」など感じようもない。
・・・・・・
4044, 一時停止 ー4
2012年04月21日(土)
            「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 他人との出会い
≪ 肉体的な成長だけで子どもがおとなになれるわけではない。肉体的な成長に精神的成長が伴わなければ、人間はおとなになれない。
その精神的成長とはどういうものか、知識が増えること、感情が豊かになること、経験を積むこと、考える力が増すことーいろいろな面から
考えることが可能だろうが、そのどれもが結局は<個>の自分の確立ということにむすびついていることに気づく。
 群棲動物である人間は、ひとりで生きてゆくことができない。そこから私たちは複雑な社会的構造を生み出し、〈個〉は常に自分と
同等な〈個〉、すなわち〈他〉との関係において生きてゆく。〈個〉の確立とは自我の拡張と同時にその制限をも意味している。
言葉をかえると、他人と出会うことによって、子どもはおとなへと成長してゆくと言うこともできるのではないだろうか。
もしそんなふうに言えるとしたら、私にとって初めての他人との出会いは、いったいいつのことだつたのだろうと考えることがある。
もちろん人間にとって最初の他人とは母親であると言うこともできるかもしれない。しかし、ほとんどの子どもにおいては、
母親は自分自身の延長のような存在であり、母親を他人として意識しはじめるのは、むしろ彼がおとなになってからだろうと思う。
似たようなことは他の身内・家族などについても程度の差はあるが、おおむねあてはまるだろう。 ≫
 ▼ 学校時代は、進学する度に変わる同級生が、他者を考える上に分かりやすい。その時の面々が、その時の自らの分である。
  それは、自分の広がりでもある。それが他人との出会いである。その範囲が広がれば広がるほど、その冷たさと暖かさの
  差が大きくなる。その段差が、人間を成長させるのである。逆に言えば、その段差が少ないと、成長が逆行していくことになる。
  自分を意識する前に見知らぬものとの出会いがある。その境目が増えるにしたがって、己との枠ができ、それが自分になる。
   それぞれの時代の相手の中に、自分の姿が合わせ鏡となり、自分の姿の一部を垣間見ることになる。
 ・・・・・・
3678, 自己を見つめる −5
2011年04月21日(木)
  「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  ー 境遇 ー
【人生においては、私たちは、それぞれの境遇のなかで、様々な経験をしながら、自己自身の人生の有意義性を目指して、
 日々努力を重ね、永い人生行路の過程を歩み進んでいる。そこに、自己自身の生きた時間的な軌跡が形成され、その人なりの
 自己の歴史が築かれてゆく。人生とは、そうした各自の時間的歴史的な行程であり、多様な諸経験を重ねてゆく遍歴の旅路である。
 人生は、しばしば、旅だと言われ、西洋でも、人間とは「ホモ・ヴィアトール(旅する人)」だと語られる。
 しかし、そのような遍歴の旅とは、いったい何であろうか。とりわけ、多様な諸経験を経巡ってゆくということのなかに
 籠められている大事な眼目は、いったいどこにあるのだろうか。・・・・・・
  遍歴の労苦を通じてのみ、私たちの人格の花は、大きく咲き出るのである。格言に言われるように、可愛い子供には
 旅をさせねばならず、異境に出て、他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ初めて、私たちの人格は、
 大きく実るのである。そうした切磋琢磨と、人格的遍歴の過程を、すべての人が、互いに、愛の思いと暖かい心とを込めて
 見守らねばならない。こうして、人間的振幅や試行錯誤のすべてを受け容れ、また赦すところの、裏切ることのない、
 誠実な追憶の魂もしくは心のなかに、それらの歩みのすべてを銘記し、それらを、過ぎ去りゆくことのない、不滅で、
 貴重な人間的経験の全体として、共同でいたわり、保持しようとすることこそが、あらゆる人間にとっての、最も崇高な、
 道徳的かつ人格的な相互的責務であると思う。】
 ▼ 神話は、まさに異境に出て行って、辛苦の中で勝利し帰還する物語が原型である。それは、自分の魂にとっても同じこと。
  異質なものとの出会い、そして邂逅のプロセスを通して自己が深まり、広がっていく。ここでも「異境に出て、他流試合に揉まれ、
 異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ初めて、私たちの人格は、大きく実る」現実の世間的価値観の中では、
 人格は大きく実らないことは周辺を見れば良く分かること。更にいえば、自己とは異質なものとの出会いと邂逅の中にこそ存在する。
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3313, 対話について
2010年04月21日(水)
  「プラトンー哲学者とは何か」 納富信留著
 * 対話について
 プラトンの「対話篇」を分かりやすく噛み砕いてある内容である。
以下は、そのエッセンスの部分である。 プラトンと、ソクラテスの立場を簡潔に分かりやすく述べている。
 ーまずは、その部分から (p28)
ソクラテスはつねに「対話」において人々と語り、プラトンはそれを「対話篇」として書いた。ソクラテスとプラトンとの出会いは、
また、言葉を語ることと書くことのへだたりと「対」として現れる。ここに、哲学成立の秘密がある。 対話とは、人と人との出会い、
言葉をつうじて何かを追求し明らかにしていく営みである。それは、顔をもつ生きたひとりの人間と人間のあいだにかわされる、
一度かぎりのやりとりである。 対話は、それがかわされる特定の生きた状況、時と場を離れてはありえない。会うのは心と心であり、
ぶつかりあう言葉と言葉が吟味により明るみに出し対話する人の生そのものである。そして、人と状況は、その対話を通じて変化していく。 
対話を交わした人のあり方は、もはや以前のものではありえない。 人が形つくる対話の言葉は、また、その人を形作るものである。
そして、対話は、二度とくりかえさることはない。 これに対してブラトンは、語られる言葉を書かれた言葉にして残した一度しか
起こりえない対話を書き物に結晶させた時、それは時を越えて反復可能なものとなった。書かれた対話は、うつろいゆく言葉を文字に留め、
それを読むことが対話を反復させる。私たちの心のなかには、思りという新たな対話が生み出される。 そうして書かれた対話篇において、
対話は対話者たち、さらに、著者プラトンの手を離れて、私たち読み手のものとなる。 一時の対話を永遠へとつなぎとめる著者と、
それを再び時間においてくり返す対話者。対話篇を読む私とは、そのようなもうひとりの対話者なのである。 しかし、ソクラテズが
従事する生きた対話と、それを書きあらわした対話篇とのあいだに根源的なへだたりがある。このギャップは、「パイドロス」で、
エジプトの神々の対話という形をかりて語られる、「書かれた言葉」への批判に現れる。文字が記憶と知恵のためのすぐれた発明であると
自慢するテウトに対して、王神クムゥスけこう批判しる。書かれたものを信頼することは記像力の訓練をなおざりにする想起の秘けつに
すぎず、それが与えるものは真の知ではなくその見かけにすざないと。 書かれた言葉は、問いかけても何答えない。
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 対話について、これだけ分かりやすく書かれているのものも珍しい。 学生時代にプラトンの「ソクラテスの弁明」を
読んでいたが、何を理解していたのだろうか。 字づらだけを見て、知ったつもりでいただけではないか?。
 反面、学生時代に寮にいたことや、ゼミや、クラブの人たちなど色いろな人と一度限りの対話があった。
その蓄積が人生の大きな基盤になっていた。 そして自分の壁を破壊してくれていた。
現在、ツイッターが爆発的に広まっているが、あれは会話?でしかないのか。
それとも、人によっては対話になりえるのか? ブログでは対話が成立していると思うが! 
 議論すること、それを書き留めること! その青さを持ち続けること!  チロリチロリだけでは、だめか?
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2938, イエスマン
2009年04月21日(火) 
 先々週にシネマに行ってきたが、そこで「イエスマン」という面白そうな映画予告をしていた。
そこでネットで調べてみた。 ーネットの紹介文には、
《 人生において常に「ノー」を連発してきた後ろ向きな男が、どんなときでも「イエス」と言うルールを自分に課した
ことから騒動が巻き起こるコメディー。・・・ ある人に「もっとイエスって言わなきゃ」と言われ、半年間、
“イエス”と答え続けた経験を回顧録にまとめベストセラーに。スパムメールの怪しい広告や平和運動への誘い、
週末シンガポール旅行、車のセールス、すべてに“イエス”。「もう1杯?」と聞かれなくなるまで飲み続けた。
ダニーはその日々を「とにかく楽しかった。楽しいパーティでも、つまらないパーティでもいい人に出会える確率は同じ。
パスしていたら始まらない」と振りかえる。誘われたり、勧められたり、頼まれたり、あるいは決断を迫られたり・・。
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2574, 我々は 井伏鱒二の山椒魚?
2008年04月21日(月)
 山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることが
できなかったのである。 ー『山椒魚』本文より?岩屋から出られなくなってしまった山椒魚が、孤独のあまり岩屋に迷い込んだ
蛙を閉じ込めてしまうという、井伏鱒二の「山椒魚」を読んだときの衝撃が、今でも鮮明に残っている。
学生時代に読んだ時の私の解釈は、「岩屋」を自分のつくった固定観念と、因縁に縛られてしまった現実(生活レベルの環境)
ということであった。岩屋に入った後に、自分の体が大きくなり、その入り口から出れなくなった悲哀である。
人生の縮図のようで、何か残酷にさえ思えたものだ。身近な壮年・老人の一生が山椒魚に重なって見えたのである。
家業に縛られた長男、長女の立場も岩屋にたとえることが出来るが、ただ誰もそのことにすら気づいてないのが、
悲しいといえば悲しい!しかし考えてみれば、全ての人が同じではないだろうか?
(12年04月21日 字数制限のためにカット)
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2007年04月21日(土)
2209, 反時代的毒虫 ー4
   U(^(ェ)^)U おはようございます!  ー読書日記ー
「反時代的毒虫」ー河野多恵子、奥本大三郎との対談ー『人の悲しみと言葉の命』から
P-153
奥本:お金を恥ずかしがったり、汚がったりするのは、日本独特のことじゃありませんかね。
河野 やっぱり武家社会の影響だと思います。 武家社会はお米が給料でしょう。
奥野:武家の負け惜しみ。
河野:武家は、一種の俸給生活者。それでお米をお金に替えたりするわけだけど。お金というものに縁遠かった。
奥野:商人階級を特に分離して、それを卑しめる。しかも時代とともに苦しくなって、
   それに頭を下げなければならない悔しさ。 そこから不浄感が余計に出てきた。
P-156
車谷:「お金がないということが生きることの原動力になっている人と、それが無気力を呼び込んでしまっている人と、
   ふた通りありましたね。 前者はなりふりをかまわず、金さえあればっていう考えで生きている。そういう人たちの
   顔色は溌剌としていた。ニヒリズムというか、絶望感というか、そういうものをはっきり意識していた。」
    (09年04月21日 字数制限のためにカット)
ーーー
解)お金に関しては、ここで多く書いてきたが、また小説の中での「金に関する扱い」もシビアで面白い。
 金と女(男)は、人間の煩悩の元である。車谷の「人の偉さは限りがあるけれど、人の愚かさは底なしの沼です。
 僕は人間の本質は相当にタチが悪いものだと思うんです。業が深いというか。 
 文学の原質は、世俗の中の下品な、血みどろの欲望の渦巻く、煩脳や迷いが流れ出るようなものだと思うんです。」
(12年04月21日 字数制限のためにカット)


4784,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜①

2014年04月20日(日)

   * 倒産よもやま話(三年後に思うこと)
 倒産など、滅多にできない経験である。姉夫婦、兄夫婦の倒産劇を身近にみて、相談にのっていたのが予備知識に
なっていた。お陰で、右往左往することなく比較的冷静に対処できた。「人助けは、結果として自分のため」になる。
幼馴染が10年前に訪ねてきて、倒産の生々しい話をしていたが、姉・兄と共通する点が、弁護士などの代理人をたてること。 
そのための資金を必ず確保することを強調していた。それもあって、迷わず弁護士に依頼した。30年来の経理事務所の
合同センター内の弁護士に依頼することになった。兄の倒産も手がけていたので、内情を知っていたこともあり、順調に
手順が進んでいった。 無我夢中の渦中、何もかもが新鮮な体験で、ドラマの主人公のような気分。 過酷というより、
「痛・面白い日々」という感覚で、惨めとか、恥ずかしいなど、思う余裕などなし。動物的本能が自らをつき動かしていた。
 2011年3月30日午後5時に、担当弁護士の主導のもと、弁護士二人と、女子事務員と、私たち三人の役員が起立をして
礼をした後、「これで会社は消滅しました!」と宣言。その後、経理総務は全てが弁護事務所に引き継がれた。 
その時から、二人の役員は弁護事務所の引継ぎと、資産処分の補佐になる。 と同時に、私は倒産会社の前社長。
翌日の午前、弁護士と二人で、地元銀行に報告を兼ねた御詫びまわり。午後からは、従業員への事情説明と解雇の宣言。
その後は、取引先からの問い合わせは一切なく、私個人の身の回りの整理だけ。そのため、40年近い事業人生の緊張感が
切れて、浮いたような軽い気持ちになる。数日間は、町内と、取引先しか情報は流れてないため、普段通りだったが、
一週間経ってから、マスコミが騒ぎ出す。どのチャネルを回しても、倒産騒ぎ。それも、震災絡みもあってか、
日テレ「真相報道バンキシャ!」(毎週日曜18:00〜放送)から自宅に取材依頼の電話。尾ひれ羽ひれが流される位は
解っていたので、迷わず断る。東北震災絡みで、数軒のホテルなどが廃業・倒産をしていたが、規模から見て、当方が
最大規模の為、あわや全国版ニュースになるところ。 振返ると、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、「痛・面白い」
など、とんでもない事態ではあった。時間が経つにつれ、記憶の書き換えをするしかない典型的事例か! ーつづく
・・・・・
4417, 閑話小題 ー昨夜は高校の同級会
2013年04月20日(土)
  * 審判のミスジャッジ
 一昨日の巨人対阪神戦で、一塁審判が明らかにセーフのジャッジをアウトにした。残酷なのは、走者の足が一歩先に塁に
着いているのをビデオで何度も流していること。後で注意勧告されるのだろうが。目から火が出る思いだろう。恐らく、
ビデオで流されているのだろうと気が気でないはず。甲子園の高校野球で審判のミスジャッジを見かけるが、これも純真な
子供の心を傷つけることになる。審判もミスをするが、致し方がないと割り切るしかない。ビデオの方が人間の目より明らかに
優れている。その結果の現象だが・・・ 試合が流れているため、ミスとしても後に戻せない矛盾がある。
これと同じことが、政治にもある。誰が見てもミスジャッジの政治判断としても、変えることが出来ない。私利私欲や党略で、
正当な判断が出来なくなり方向を誤ってしまう。
  * 昨夜は高校の同級会。
 昨夜は高校の同級会。幹事は気をゆるして酒が飲めない役回り。 このところ二回に一度は、私と幹事相棒Mの役目。
別に好きでやっているわけでないが、大学の寮とか、会社経営をしていた頃の宴会を含めると、間接を含めて二百回以上は
仕切りをしてきた。いや、もっと多いか。まずは盛り上げに役回りに徹すること。酒を飲むのも一期一会。人生を振り返ると、
いつも、「宴会とともにあった」。 気の合う相手であれば二人でも宴会。 ネットの「日本大百科全書」によると、
≪ 酒や歌舞などを伴う高揚した心の触れ合う機会。宴(うたげ)とも饗宴ともいう。また宴会の性格によって祭宴、祝宴、
 招宴、酒宴、狂宴などとよばれる。一般に宴会は季節ごとの折り目や人生の節目に行われ、忘年会や新年会が年末、年始と
 いう折り目に行われる宴会とすれば、子供の誕生祝いや結婚の披露宴は、人生の節目に行われる宴会ということになろう。≫ 
とあった。以前は、各家ごとに料理をつくって御客を招待したり、料理屋で宴会を開いたが、今では居酒屋の大部屋で開く
ケースが多いという。 小・中学校、高校、大学の同級・同期会だけは、最優先に出席にしてきた。同級会は、魂の世界。
心の故郷が魂とすると、年々「遠き日は 年とるごとに 近くなり」というのが実感できる。結局、家に帰ったのが一時過ぎ。
・・・・・・
4043, 一時停止 ー3
2012年04月20日(金)         
  * 出会い ーフェルメール 1967年     「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 私がほんとうにフェルメールを見たのは、その本物を見たときである。本物を見たから、フェルメールが見たくなったのだし、
 旅に出ずに複製しか見る機会がなかったら、もしかすると一生私はフェルメールに気づかなかったかもしれない。 現代の進歩した
印刷技術は、複製と本物との差をだんだんに小さなものにしてゆきつつある。複製で見ても本物で見てもそんなに変わりはないという
絵画もあるだろう。複製を見ることが、本物を見ることにつながる絵画もあるだろう。だがフェルメールはちがう。複製と本物との間に、
越えがたい断絶がある。 あたかもヴィニールの花と、野の自然の花とのように。 あるいはこう言いかえてもいいかもしれない。
本物を見ても、複製を見たのと同じ感動しかなければ、私はその絵にほんとうに感動してはいないのだと。そういう形で感動した絵は
実は私にはまことに少ないのだが。  はじめて見たフェルメールに感じた気持ちを、そのときの状態のままにことばにすりとしたら、
それは「ああきれいだなあ、ほんとになんてきれいなんだろう」ということにしかならない。 美は人を沈黙させるという。その通りである。
その沈黙の中に、無数のことばにならぬことばがひしめいているのではないかと言う人もあるが、少なくとも私の場合、そう言えば嘘になる。
沈黙はもっと深く、ことばにならぬことばなどといった不純なものはない。しんとした純正の沈黙なのである。 
ことばはずっとあとになってから、やっと重い腰をあげる。その時でもことばは謙虚だ、ただいちばんふさわしいオマージュを捧げ、
絵の美しさにほんの少しでもあやかりたいと思うだけなのだ。≫
 ▼ 本物の絵画や美術品を数多く見てきた。TPOもあるが、その前で立ちすくし、身動きが出来なくなるがある。
  ダビンチのモナリザ、サンピエトロのミケランジェロ作ピエタの像、ゴッホのヒマワリなどを目の当たりにした時の感動。
  対象が浮き出てくるようなエネルギーが満ち溢れていた。 特にゴッホのヒマワリは、周囲に誰もいなかったこともあり、
  10分間ほど、釘つけになってしまった。出会いである。  そういえば、近じかフェルメール展が日本で開催される。
・・・・・・・
3677, 自己を見つめる −4
2011年04月20日(水)
   「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 節目どきは、境遇の節目でもある。特に乗り越えることが不可能と思える壁に直面した状況を「限界状況」と、ヤスパーが
指摘している。 その限界状況に「人生の不条理」に突き当たる。その時に、それまで隠されていた真実が現れ出てくる。
節目を打つとは、人生の不条理を受け入れ目を背けないことである。正中心一点無になり、変化を受け入れること。
  ー 第三章 境遇 ーから、抜粋
【 現在、変えることのできない定めを帯びた宿命的な境遇のなかへと投げ出され、置き入れられて、人生の途上にある。 
 その私たちの無に貫通された現世における存在のうちには、宿命的な境遇のもつ変えることのできない定めが刻印されている。
 ヤスパースが指摘するように、私たちの生存のうちには、どうしようもない「限界状況」が巣くっていると言える。 
 限界状況とは、それに突き当たっては、私たちは挫折し、崩れ去る崩れ去るような、乗り越ることの不可能な壁に直面した状況を言う。
 そうした限界状況に面座して、私たちは途方に暮れた困惑のなかで、解決しようのない自己の人生の不条理の根源的事実に突き当たる。 
 しかし、そのときにこそ、私たち自身の、ほんとうの「実存」が目覚めてくる。
 実存とは、私たち各自の生存の、赤裸々な真実、その拒否できない現実のあり方のことである。
 自己の実存を自覚し、それにもとついて生きるよりほかに、この世を生きる生の根拠を、私たちはもたない。】
【 ハイデッガーが述べた通り、私たちは、それぞれ何らかの世の中に投げ出されと「被投的」存在である。
 その「現事実性」を引き受けて生きていかなければならない存在である。その存在としての自己を生きていかなければならない
 辛い気分を取り払い、重みや憂いを取り払い、それらを忘却させようという気晴らしや、慰めを求めて、無邪気な明るい朗かさ愉悦を、
 好んで受け入れようとする傾向にある。しかし、そうした気晴らしが、瞬時の儚いものということを骨身で知っている。
 その人生の底を見つめ、底知れぬ深遠を予感し戦慄をする。その深遠が、「限界状況」の時に直面する実在である。】
 ▼ 自己を見つめるとは、節目の境遇の人生の底を見つめ直すことと、言われると、挫折体験を振り返ることになる。 その意味で、
   挫折体験の中には多くの教えがある。 が、時間がたつにつれ、それを忘れてしまうのが人間の性である。そう人間、皆、馬鹿!
 ・・・・・・・
3312, ゴールドマンを訴追
 2010年04月20日(火)
 1929年から始った世界恐慌では、その直接の仕掛け人達が多くが逮捕された。
しかし、これまで逮捕までされたという話は聞いてない。 何か不思議な感がしていたが、
やっとSEC(証券取引委員会)が訴追に動き出した。 アメリカは金融マフィアが仕切る国でも、歴史に残る
犯罪を、このまま見逃すことは歴史が許さない。以下は、毎日新聞の数日前の社説だが、毒入り債権を欠陥車に例えるとは、
トヨタの喚問もあったこともあり比較するに分かりやすい。例え話は本質をより分かりやすく整理してくれる。
  〜まずは、その部分から〜
  = 毎日新聞社説: 「ゴールドマン訴追 金融危機解明の弾みに」 =
(字数制限のためカット 2011年4月20日)
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2937,レーシック専門眼科医院
 2009年04月20日(月)
姉三人が私と同じく強度の近視。 その姉三人とも「矯正手術をうけて良かった」という。知人の何人かが経験者、聞いてみると
「白内障の手術時にレンズを入れたが、出来たらやらない方がよい」と真剣にいう。 迷いに迷っていたが、去年の半ばに、
春先になったら決断しようかと決めていた。そして春は過ぎようとしているので、 検索に「新潟 レーシック」といれたところ、
何と自宅から数分のところの所在地に「長岡眼科医院」が、あった。三年前ぐらいに出来た(眼科らしくない)ミニ結婚式場みたいな
医院があったが、まさか、そこが気にしていたレーシック専門眼科とは思ってもみなかった。本気にならないと見えてこないものである。
(字数制限のためカット 2012年4月20日)
・・・・・・・・・
2573, 「好き」という言葉の重み
 2008年04月20日(日)
「好きと嫌いじゃどれほど違う、命ただやるほど違う」という川柳があるが、これほど人間の本質をあらわしている言葉はない。
私も好みの激しい人間だが、この感情は、何に由来するのだろうか。「あの男は好かん」とか、「あの女性は私のタイプだ」とか、
思うにつけて、その意味を考えたことがない? 育ってきた環境が似ているとか、教養レベルが同程度とか、趣味が一緒だとか。
反対に「俺は堀井が嫌いだ」と何人から言われたことか。でも、相手が相手だけに心の底では?私の経験上からみて「嫌い」いう言葉は
禁句である。 いわれた方が、それで一生恨まれるからである。犬でも猫でも、相性があるから、これだけは如何にもならないことと
割り切るしかないのか。私の好き、嫌いの基準は娑婆経験の中からハッキリ自覚している。女性は長女、血液型A型、教養と品性があり、
顔はノッペリ。 優しい雰囲気があり、明るい人である。大体、好きなタイプは概ね、これを満たしていた人。興味のないタイプは、
冷たいタイプで、神経質な近寄りがたい正統派美人と個性的な自意識の強いタイプ。 殆どいないが!コンプレックスの強い人。 
犬でいうと、宅上犬タイプが好きで、シェパード、コリーのような人は苦手。同性は、品性と教養のない人と、社会的な肩書きだけで
人を判断する人とか、チャラチャラした人は苦手。商工会議所、ロータリー、ライオンズとかの人間関係に没頭している人種。
それと女性関係に派手な人。軽薄な二代目。 もう一度いうと、品性のない人!。 それをいったら、地方では誰も相手に出来ない?
とはいうが、それはそれでよい。そういう御前さん、どうなの?といわれるが、他人に厳しく自分には甘い? 
 ところで好き嫌いということは、如何いうことか?相性ということ? それとも持って産まれた先天的な本質。
これだけは、どうにもならないこと?好きなことを選んで、それを一生を通して追求することが、幸せと不幸の分かれ目になる。
好き嫌いが、先天的なものとすれば、この道理は正しいことになる。 神=自然が与えた本質的素養だからである。
シカゴ大学の心理学者ミハイリ・チクセントミハイによると、人間には“フローの状態" と呼んでいる精神状態がある。
(字数制限のためカット 2011年4月20日)
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2007年04月20日(金)
2208, 下流志向                  おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ       
 一週間前の毎日新聞・文化欄「本の現場」のコーナーに、「下流思考」著者の内田樹氏へのインタビューをまとめた、
{ 若者はなぜ学ばず、働かないのか<「下流志向」内田樹著 講談社> }という記事があった。
本屋では平積みであったが、数回立ち読みをしていた。面白そうだが、買うほどでもない本と判断していた。
この記事と書評で八割は把握できたようだ。言わんとしているエキスを著者から引き出している。
 ー毎日新聞のHPに記事があったので、コピーして置きますー
  ーーー
◇固まった頭をぐちゃぐちゃに
 フランス現代思想の研究者にして武道家が「学力低下」「ニート」という若者をめぐる二大問題を論じた。
約2カ月で10万部と、この手の本としてはかなりの売れ行きだ。丘の上に南欧の修道院を模した校舎が建ち並ぶ、
神戸女学院大(兵庫県西宮市)で話を聞いた。「ここより美しいキャンパスは見たことがありません」という。
  (字数制限のため中略 2010年4月20日)
 ■人物略歴  ◇うちだ・たつる 神戸女学院大教授(フランス現代思想)。
   「『おじさん』的思考」「先生はえらい」ほか。 毎日新聞 2007年4月13日 
▼ なるほど、と納得する。学生時代は寮生活、ゼミ、クラブ、世界一周旅行と当時としては恵まれた経験を多くした。
その中で一度、「固まった頭がぐちゃぐちゃ」になった経験があるから、その重要性が深く理解できる。馬鹿の壁を一つずつ
叩き壊す経験をしたが、振り返ってみてどこまで壊してきたのか?疑問である。何も壊していなかったのか、いや壊した!の、
自問自答である。その時に生の言葉を発していたかどうか分らないが、傷口から出る血のような言葉であったことは間違いない。
  ー 著者の次の指摘も、ずばり急所をついている ー
    (字数制限のためカット 2012年4月20日)


4783,葬式は、要らない ー1

2014年04月19日(土)

 「葬式は、要らない」島田裕己著  
 そろそろ葬式の希望を書きおく時期になってきた。 現時点での希望の大枠は、
《 会場が3百メートル先のセレモニーホールで、直葬に近い家族葬。ごく身近な人たちだけにし、遺骨は実家の墓に。
 戒名は自作のものを仏壇の引き出しに。
その後は、「墓参り仏教」に従うことなく、命日にそれぞれが仏壇に手を合わせてくれれば充分。》 これだけ!
  内容(アマゾンより)
{ 日本人の葬儀費用は平均231万円。これはイギリスの12万円、韓国の37万円と比較して格段に高い。
浪費の国アメリカでさえ44万円だ。実際、欧米の映画等で見る葬式はシンプルで、金をかけているように見えない。
対して我が国といえば巨大な祭壇、生花そして高額の戒名だが、いつからかくも豪華になったのか。どんな意味があるのか。
古代から現代に至る葬儀様式を鑑みて日本人の死生観の変遷をたどりつつ、いま激しく変わる最新事情から、
葬式無用の効用までを考察。葬式に金をかけられない時代の画期的な1冊。
  ーアマゾン読者のレビューよりー
・日本の法律で葬式が義務となっているわけではない。医師に死亡診断書を書いてもらい、役所に行って死亡届を提出、
 埋葬許可をもらう。決まっているのはそこまで。遺体の処理については墓埋法で、1.死亡後、24時間経たなければ、
 埋葬も火葬も行ってはならない、2.火葬は火葬場以外で行ってはならない、3.埋葬は墓地以外で行ってはならない、
 とされるのみだ。焼いた遺骨をどこかに撒くのなら、葬式もいらなければ、墓もいらない。
 宇宙葬の費用ですら100万円である。もっとも現実には葬式を行わないケースは少ない。人は誰かかかわりあった人が
 亡くなれば、その死を確認してけじめをつけたい。葬式への参列ほど明確なけじめの機会はない。ただし葬式を出すことと、
 葬式に多額の費用をかけることとは直結しない。
・家族葬は近親者だけで行う規模の小さい葬式全般を指す。以前は密葬と呼ばれていた。通常なら通夜と葬儀・告別式で二日
 かかるところを、一日にまとめたワンデーセレモニーという形式も生まれている。もともと通夜は近親者だけで営むものと
 いう感覚があり、一般の会葬者が参列するのは葬儀・告別式のほうだった。結婚同様に、葬式も組織の儀式から個人儀式へと
 変化してきた。昔は商家も農家も家は生産や経済活動の単位であり継続が不可欠だったが、サラリーマン化が進むことで、
 養子をとったり婚外子を作ってまで家を存続させる必要がなくなった。 自営業の場合なら家の存続が重要で、伝統的な
 祖先崇拝の信仰を取り入れる傾向が強く、喪主になるのは後継者であり、葬式は後継者を披露する場ともなる。
  が、サラリーマン家庭の場合は家は生活の場でしかない。永代供養墓は跡継ぎのない家が増えたことで生まれた供養形態。
 墓を求める際に永代供養料として一定金額を払うことで、墓守となる跡継ぎがいなくても、寺が命日に読経するなど供養を
 続けてくれるのである。
・直葬は密葬、家族葬の一番簡略化された形態だ。現在、東京では20パーセントが直葬である。直葬では、故人の遺体を
 寝台車に乗せ、自宅や葬儀社が用意する一時的な安置場所に搬送し、とりあえずそこに安置。そこで納棺し近親者だけで
 通夜をする。会葬者は呼ばない。翌日、霊柩車で火葬場へ出棺する。そして、やはり近親者だけで故人に別れを告げ、
 遺体は荼毘に付す。最後に、収骨、骨あげをして葬式は終わる。直葬の費用は多くとも30万円ほどで、僧侶に読経を
 頼んでも50万円以内でできる。もっとも簡素な形式を選んで近親者だけが集い、会食もしなければ10万円程度で済む。
▼ ますます直葬、家族葬が増えることになるが、長く続いてきた家族中心から個人中心主義になる御時世では当然の流れ。
 これが不景気になるほど、簡易な葬式が増えてくる。上記のように直葬、密葬を宣言してしまえば、残された者は楽。
 私の墓は、このブログ。閲覧は墓参りのようなもの。 時どきの墓参り、本当に有難うございます。
・・・・・・
4416, ふしぎなお金
2013年04月19日(金)
                    「ふしぎなお金」 赤瀬川原平著
  子供用の絵本だが、人は当たり前のように使っているお金について、あまり考えない。お金は自由の、エネルギーの、塊。
 日本人は金を不浄なものと考えがちだが、お金は血液のようなもので、人間にとって非常に大事である。 人を生かし、
 また殺してしまう力を持っている。 子供に諭しながら、実は大人に語りかけている。 ーまずは、印象的な部分を抜粋ー
≪ *「冬のバーやレストランで、席につく前に、「コートお預かりします」といわれて、なんなドッキリとしないだろうか。
 だってコートの内ポケットには拳銃が入っている。それをそのまま預けて大丈夫なのか。というほど錯覚を持つほど財布は
 拳銃に似ている。だから「貴重品はよろしいですか」といわれると、何だかもっていかれるかと思って、その護身用の
 拳銃みたいな財布を、身近なポケットに移し替える。でも移し替えながら、どことなく後ろめたい、とうより、どことなく
 情けない気になる。「お前はそんなに相手が信用できないのか。そんなに拳銃なしで丸腰に、なるのが怖いのか、
 という`声が追いかけてくる。 そういえぱ、昔の西部劇映画には、ガンペルトそのものを外す場面があった。
 宿について、あるいは自分の家に戻って、外敵なし、大丈夫、という状態ではじめてガンペルトを外して椅子の背に掛ける。
 ガンマンがくつろぐ一瞬である。ところであのガンペルトとは、じつはむき出しの現金を装着したベルトなのだと、
 そんな感じがしないだろうか。ガンマンはその現金でいつも勝負している。
*「日本の場合は刀の大小だ。明治以前、武士はみんな刀を差していた。男子、一歩外に出れば七人の敵、といわれるくらいで、
 刀の大小を肌身離さず持ち歩いていた。刀は護身用であり、権威でもあるところは、やはりいまのお金に似ている。
 武士の世界の文化の一つに茶の湯があった。招かれて行くお茶室には、小さな躍り口が設けてある。あそこを入るには
 腰の大小を外して、外の刀がけに欠けねばならない。武士はみな一瞬、躊躇したのではないか。財布は刀やピストルと違って、
 人を殺める道具ではないのではあるが、人は金のために人を殺したり、金のために自分の首を吊ったりして、金はやはり
 隠然たる凶器の光を忍ばせている。拳銃も財布も、緊張の物件である。いざとなると拳銃をぶっ放すように、札びらを切る。
 でも「いざ」とならないときは、それはそっとボケットに仕舞われている。昔よりも落ち着いた現代社会では、さらに
 奥深くの内ポケットに移行している。」
*「足元にお札が落ちている。それを見たとたんにハッとする。千円札の四つ折りにしたわずかな面が見えているだけでも、
 何か異様にハッとするのは何故だろうか。足元に血が垂れている。それを見たとたんにハッとする。ちょっとした赤い
 液体なのに、何か異様にハッとする。見てはいけないような、一歩踏み込んだ秘密を見てしまったような、緊張感が走る。」
*「人間の血はだいたいみんなと同じで、成分にほとんど違いはないが、自分の血は自分のもので、自分の体内に密閉されている。
 でも場合によっては人助けで献血をする。場合によっては寄付したり、プレゼントしたり、投資で失くしたりする。」 
*「お金も血も、命にかかわるエネルギーの源である。流体である。生臭いものである。でも、輝いている。
 いきなり見せられるとドキリとする。プライベートでありながら、共有のものでもあるところが、不思議な関係である。」 
 ▼ 財布を拳銃に、そして刀に喩える切り口がよい。撃たれ、切られたとき、血が吹き出る。それからみて金はエネルギーと同じ。
  一万は一万の、一千万は一千万、一億は一億のエネルギーがある。無駄を廃し、使うべきときは使う、それが金の効用。
・・・・・・
4042, 世界の旅行記101 ー3
2012年04月19日(木)
   * 旅行記は、旅人により再構築された言説
≪ 旅行という行為や、そこでえられた環境や状況についての情報は、言説として再構成されている。
 おもいもかけない発見や探索、あるいはそれに出会った旅人の心象や思考は、旅行記という形態に定着させられるときに、
一定の文スタイルやデザインを採用する。 文章のかたちをとるという点からみれば、「文体」といいかえてもよい。
見聞され体験された隔遠の地における非日常の事実は、旅人の言語に変換され、日常の世界に発話される。著者と読者とが
共有する表現と読解のルールにもとづいて旅行記は書きおろされる「言説」といったのはそうした意味においてである。
 旅行記は、旅の事件記録性を検証するよりもまえに、言説そのものの解読作業がほどこされねばならない。旅程のすべてを
記載できるわけではない。見聞された事象すべてが、偏りなく叙述説うるわけでもない。 しかも、だれにとってもひとしく
共有される述法のルールにしたがって。 そうではなくて、旅行記は、旅人が旅先について投射した特定の視線が、
対象のうちに読みとった文脈にかんする言説である。 使用される語彙もシンタックスも、そしていますこしふみこんで
いうならば価値感覚も、言説として独自の完結を実現している。 別のいいかたをすれば、中世ヨーロッパ人と
近代アメリカ人、古代中国人と現代日本人は、それぞれに採用する言説の方式はことなっている。いや、著作者の身分、
出自、性別、教養のちがいによって、同一物にいての言説は別個のものになりうる。 ≫
▼ 旅先の情報を言説として再構築したのを旅行記とすると、書き手の特定の視点こそ注目すべきである。それが旅行記の特性であり、
 面白さになる。だから、この101の旅行記は、101人の特異体験を記した事件簿として垣間見ると分かりやすい。 
それぞれのクロス・エンカウンター(因縁)が現れ出るから面白い。人生の記録も、それぞれの特異点の旅行記に酷似している。
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3676, 自己を見つめる −3
2011年04月19日(火)
             「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  「時間」は簡単のようで、難しい。心の中は、時空をこえた多くの思いで満ちている。特に多くを経験した熟年期に差し掛かると、
 思いは過去に向かってしまう。  そこには現在の知覚と直感で彩られた抽象画としてたち現れてくる。
 豊かな経験なら豊かに、逆なら逆として! 生きてきたとおり、人生は自分に、その姿を突きつけてくる。
  ー 第二章 時間 ーより
【(p45) 私たちの心は、アウグスティヌスが言ったように、たえずなんらかの出来事を記憶し、知覚し、期待するという働きを、
 本質的に具有している。記憶は、過去の出来事に関わり、知覚は、現在の出来事に関係し、期待は、将来の出来事に向けられ、しかも、
 それら三つのものが別々にあるのではなく、むしろ、私たちの心のなかに、それら三つのものがすべて取り集められている。
 したがって、「過去のものの現在が、記憶であり、現在のものの現在が、直観であり、将来のものの現在が、期待である」と、
 アウグスティヌスは言った。 いわば心という大きな現在のなかに、過去の追憶と、現在の印象と、将来の予期とが、
 すべて取り集められているわけである。 たえず現存し続けるその大きな心が、うしろを振り返って追憶に浸るときに、
 過去が浮かび上がり、いま周囲を注意深く見回すときに、現在が印象深く迫ってき、行く末を思って期待や予期に心を震わせるとき、
 将来が思い描かれるのである。 時間とは、このように、振り返ったり、見回したり、行く末を思ったりする心の働き、
 すなわち記憶や追憶、知覚や直観、期待や予期といった心の作用に由来するわけである。逆に言えば、大きく静かで揺らぐことない
「立ち止まる今」という現在の心の場、いわばそうした明鏡止水の心眼という現在の鏡のなかに、さまざまな過去と現在と
 将来の出来事が映し出されてきて、それらが追憶され、知覚され、予期されるとき、そこに、それらの出来事が、過ぎ去り、現れ、
 到来する時間の諸相において意識されてくると言えるであろう。】
 ▼ 現在置かれている、この節目どきに、これまでの記憶と追憶と、現在立たたれている分岐点、そして、これから予期されること、
 その三つが、心の中で濁流のように渦巻いている。 この自分の中に、多くの節目があって、それが現在という幅のある
 時間の中で自分という確かな存在が見えてくる。 これは晩年期に差し掛かった人間に共通しているが、心が、これほど激しいものと。
 人は生きてきた、そのままに老いるとは、その意味である。 現在は、その「立ち止まる今」である。 それでも時間は止まらない。
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3311, 笑われ力  −3
2010年04月19日(月)
「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
  ー次に、なるほどと合点した箇所を抜粋し考えてみる!ー
*「笑われ上手」に「背伸び」禁物
 ・まずは「私は凡人」とみとめる。
 ・「みんなをリスペクト(敬う)する。そう思えば、自分の中の良い部分も見えてくる。
 ・笑ってもらえたら「笑ってくれてありがとう」という気持ちを持つこと。
   この一歩下がった気持ちが必要となる。
*「笑われ上手」の下ごしらえ、をつくっておく
 ・「ダメな自分物語」を多くつくっておく。出来るだけ短くまとめておく。失敗したその場でつくる。
 ・もったいぶらないで、いきなりクライマックスの話を話題に出す。
 ・キーワードを決めておく
 ・一度、物語を用意したら、あとは白紙の状態にしておく
▼ 20年前から10年前にかけて、かなり遊び人の不動産屋の社長と古町を、飲み歩いたことがあった。
 小料理屋や、スナックなどで、話術の巧さに驚き、花柳の世界を垣間見た。芸者を相手の粋な遊びは今では夢のようである。
あれから10年も経ってしまった。彼には、ここに書いてあることは、ほぼ身につけていた。決して他人の悪口や話題をしないのは、
当たり前。自分の昔話も成功談が一割、失敗談が九割。 芸者に三味線を弾かせて都都逸など一ひねりなど、粋な遊び方等など。 
話術も自分を嫌味なく下座におき笑わせておいて、実は笑わせている妙は場数のなせる技(業)
 こういう時代になればこそ、「やれる時にやれる事をやっておいて、良かった」と実感する!(逆に遊び過ぎ?もあったか)
「ダメな自分は、嫌な自分ではない」、これが笑われ上手のポイントと著者がいう。 笑われ力は、自分の中の
ダメな部分や矛盾を笑ってもらう力であり、相手のタイミングで「笑われネタを」提供する。それが受けたからと言って、
もっと笑わせてやろうとか背伸びするのは厳禁。 あくまで相手と場のタイミングに合わせるのだ。
 その「笑われ力」のきほんステップとは
1、「ダメな自分」を見つける 2、「笑える部分」を特定する 3、自分で笑い飛ばしてみる
4、笑顔で他人に話す     5、その結果「心地良い笑い」が生まれる 
  落語の「まくら」では、名人の域に達した人ほど、上手い。「駄目な私」のネタなら膨大な蓄積がある! ったく。
カミサンに耳にたこが出来るほど指摘されている。 大きな経営者大会で講演者が「女房は亭主をバカにする動物である」
と言った時、会場が異常な爆笑があった。大きな会社の立場の人ほど家ではバカにされているのだろう!良いように出来ている。
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2936,「NHKの世界同時不況の双方向解説」を見て
2009年04月19日(日)
 昨日の土曜日の午前10時に、NHKの「そこが知りたいー世界同時不況・危機への対応は十分か?」は、9人の解説委員による、
伯仲した議論と、その合間に視聴者の意見や、世界の識者の論説を挟んだ、見ごたえのある内容だった。
 ーまずは、NHKのHPの紹介文から
(以下、字数制限のためカット、2012年4月19日)
▼ 解説委員ということで、同質の意見が多かったという感は免れなかったが・・・。
・100年に一度の経済危機なら、100年に一度の対策をたてるべきだが、それが感じ取れない。
・非常に深刻な事態である。大量に輸血しないと患者が死んでしまうという共通認識はある。
・アメリカと中国のG2が、今後大きな役割を持つ。ロシアと中国をプラスしたG9も必要。
・視聴者からの質問で、「100年に一度の経済危機というが、世界恐慌といわない何故か?」に対して、
「GDPの落ち込みは、1929年の世界恐慌と同じだが、失業率は25パーセントに対し、10パーセントで収まりそう。 
 今回は世界の経済政策の協調があるところが前回とは違う。従がって、まだ世界恐慌に入ったと認識されてない」
 の答えであった。 実際は、10年〜20年後に振り返れば、今回の方が遥かに大きいはず。
・アメリカを中心に世界経済を引っ張ってきたが、今後は、新興国に中心が移動する
 ターニングポイントではないか。 今後はアジア中心の経済モデルを作るべきである。
・ドルに替わる基軸通貨は10年20年単位では出てこない。
ー以上、印象に残った部分のメモをまとめてみたが、それほど大したことを言ってはいない。
 今回の恐慌の概要を知らしめ続けるには、良い内容だが、NHKの立場もあって、過激な現実を報道ができないこともあろう。
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2572, ドル覇権の崩壊 ー5
2008年04月19日(土)
「金や銀、プラチナを買って、手元に保有すれば良い」と、そこまで言わしめるだけ、この危機は異常なのだろうか? 
 実際のところ国家単位で自国民を騙すのだから、それも道理。 税務署を暴力団とは言いえて妙である。
 税務調査を経験してから、そう信じていた。 調査の対象は、のっけから被疑者扱いである。
 そこまで疑うなら、脱税をしない方がおかしいのではと実感した。 
 何でしてないの?するのが当然で、その当然のことを我々は取り締まりに来たんじゃないの?という態度である。
 サブプライム問題もバブルの典型で、これをキッカケで世界恐慌の可能性をはらんでいる。
 実態は火の車で、いつ何が起きても不思議ではない状況。
 ドル安、アメリカ国債安、アメリカ株平均値安になると儲かるファンドもあるという。買ってみたいが。
*アメリカ住宅バブル崩壊が世界恐慌の引き金を引く
  (以下、字数制限のためカット、2010年4月19日)
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2007年04月19日(木)
2207, 犯罪集団の存在を公認している日本       オッ(*^○^*)ハ?ヨウ!
 一昨夜の長崎の山口組による、現職市長へのテロ?には驚いた。たまたまNHKを見ていたので、現場の生々しい事態が、
そのまま茶の間に入ってきた。これは明らかに国家に対する彼らの挑戦である。(結果としても)それにしては、
安部首相のコメントには驚いたというより、怒りを感じた。地方統一選挙の最中に現職の市長が、みよがしに射殺されたのに、
当たりさわりの無い一辺倒の言葉である。これでは、なめるわけである。
  (以下、字数制限のためカット、2011年4月19日)


4782,大不況には本を読む

2014年04月18日(金)

   * 「本書のまとめ」          「大不況には本を読む」橋本治著
  今さらの内容だが、時代を鳥瞰するにクリアーで解りやすい。  ーその部分から(P183)
《 ・・・今までこの本で言って来たことをまとめてしまうと、次のようになります。
【 十八世紀の後半に起こった産業革命は、それまでの世界のあり方を変えてしまった。その新しくなった"世界秩序"が
日本にやって来て、日本は百五十年前に開国した。開国した日本は、その時の世界秩序にのっかって、見事に成功した。
成功して行き過ぎて、第二次世界大戦とバブル経済という二度の破綻を経験した。成績トップになった優等生の日本は、
それゆえに"見事な破綻"を経験するが、その他の国はまだそこまで行っていないので、相変わらず"産業革命以後の体制"は
健在だったが、今度はアメリカが新たな破綻にぶつかった。産業革命以降の体制は、アクセル全開の自由貿易主義だったが、
そのこと自体にブレーキがかかってしまった以上、改めて"ブレーキをかけることの意味"を理解した方がいい。
 そんな世界的なあり方は、″会社の仕事に追い回されて、自分及び自分の家族やその周辺のあり方を省みない゜という
日本人のあり方にシンクロする。自分のあり方を省みるために、もう一度‘本を読む’というところに立ち戻ったらいい。】
 この考え方をエコノミスト的に裁断すると、私は「保護主義のイデオローグ」ということにもなるが、私はエコノミスト
ではない「人間のあり方に立脚する」文芸関係者なので、「そりゃお門違いだろう」ということにしかなりません。
 バブル経済へ向かって進行する中で、いくつもの誤解は生まれましたが、「経済が分からないのはバカだ。物事は
‘経済的見地’にのっとって見なければならない」ということになってしまったのも、その一つです。
 経済の方で「保護主義的」と言われるものは、「人間のあり方に立脚する」立場からすれば、「人が生きて行くために
押さえておかなければならない基本」でもあって、だからこそ私は、経済の方では「保護主義的」と言われるものを「自立」
と関連づけるのです。「金儲け」のことをあまり考えない、その能力があるとも思えない文学や思想、哲学といったもの
ーつまり「文学」「その他」は、「働いて金を稼ぐ」に代表される現実生活のことを、ともすれば忘却しがちです。
 ・・・ 2008年秋以降の・金融危機・経済危機はそれで、「破綻してよかった」でもあります。しかし、でありながらも
「世界」の方は「豊かさの達成は進行中」という前提に立って、相変わらずの「富の均質化」を求めます。だから、輸出量や
輸入量の調整は求められるのですが、この「調整」の向う方向は、一つです。「豊かである国の、既に達成された豊かさを
目標にして、世界中を均す」です。既に経済危機で「豊かな国の豊かさの基準」はぐらついているのですが、世界が
「豊かさの達成はなおも進行中のはず」という前提に立っている以上、目標とされる基準値は「豊かな国の豊かさ」です。
そしてこれは、「工業に追い抜かれ、工業にすがりついて追いつこうとする農業の哀れさ」と同じ質のものなのです。》
▼ 大きな節目時に、読書をして行間を読むしかない、ということ。特に、アメリカの露ばらいをさせられた日本こそ、
 新たな解決をしなければならない。「経済の自立=保護主義的になりざるをえない、という基本を押さえておくこと」
 には、考えさせられる。日本は明らかに衰退の道を歩き始めた。しかし、現実をみると、誰も直視しない。そのツケは、
 株価と国債の暴落という突然の崩壊で生じることになる。日本は近い将来、豊かさとは、かけ離れた国の悲哀を味わう
 ことになる。150年の間の政治経済のマクロの流れを振り返り、今後の方向性を見つけることは至難の業だが、それでも
 見つけ出すしかない。「普通の国」が、キーポイントだが、地政学的に見て、日本は中国とアメリカの間にある海洋国家。
 その辺りが鍵になる。今後10年間は、これまでの10年間より遥かに厳しい事態になる。この20年間の変化が、10年間に
 圧縮して襲いかかるとしたら、考えただけでも身震いがするが、興味もそそられる。気の毒なのは、若い人たちである。
・・・・・・
4415, 余生を過ごす場所は?
2013年04月18日(木)
   * 今の場所で快適に過ごす工夫を!     「知的余生の方法」渡部昇一
 余生を過ごす場所は、生れ故郷か、はたまた別荘地か、海外か、そのまま現在住んでいる場所か、迷うところ。
著者は、現在住んでいる場所こそ「ふるさと」と思い、別荘地など考えずクーラーでも入れ快適にするなど工夫すべきという。
何処も「住めば都」で、心地よく住んでいるところが、いなかと諭す。  ーその辺りよりー
≪ P・94 英語では一般的に「ふるさと」は単にホームという。イギリス民謡の『埴生の宿』の原題は‘Home,SweetHome’だが、
このホームがそうだ。ホームは単なる「住み家」「生まれた場所」という意味に過ぎない。そこから懐かしさを伴って、
「ふるさと」をあらわすようになり、「家庭」を意味するようになっていった。だから、「ふるさと」と「家庭」が相通じ、
切り離せない関係にあるといえる。そこには父や母がいて、昔の日本の田舎でいえば、囲炉裏を囲んで話をする風景である。
そのホームも、今では崩れつつあるようだ。 ローマ時代からの諺に「自分がうまく生活しているところ、そこがホーム、
つまり、自分の「ふるさと」「故国」だという意味である。これは言い得て妙で、都会暮らしの生活者にとって、救いになる
言葉である。田舎から東京に出てこようが、海外に移住しようが、そこで成功し、そこで良い暮らしをしていれば、その土地こそ
「ふるさと」なのである。都会でうまく生活しているなら、都会こそが自分の「ふるさと」と腹をくくるべきだ。・・・ ≫
 ▼ 思い切り移住するのも悪くないが、そのまま居座るのが自然。私のように、ブラックスワンの御蔭で、肩身が狭くても、
 「平気で死ぬのが悟りでなく、平気で生きてこそ悟り」と、自分に言い聞かせ、割り切ってしまえば別に何とことはない。
 ソフト・ランディングだったこともある。しかし、5億、10億の現金があれば、軽井沢のマンションか、ハワイ辺りを考える。
 としても、現在と大して変わりはない。いや、違うか! 天使の様に、肩に羽をつけ、浮いたように生きればよいだけ。
 フワフワ生活するのはお手の物。いずれにしても死んでしまうのだから、今を楽しむしかない。場所は二の次? 改善でよい。
・・・・・・
4041, 世界の旅行記101 ー2
2012年04月18日(水)
   * 旅行記は事件簿でもある
 はじめにー旅行記を読むということー の冒頭の文が、旅行記の本質をついている
≪ 古今東西、旅をする人たち、旅を愛する人たちは無数に存在した。そして無数の旅行記、紀行文が書かれた。
 どうも旅という非日常の行動は、文章の起草をはげしくうながすものらしい。 いろいろの旅行記がある。
任務をもって旅したものであれば、復命書を。さだめなき漂泊の旅にでたものであれば、遍歴の跡をしるす随筆を。
どれも当の本人にとっては、記録としての重みは、ひとしいだろう。だが、旅行記を読む側からすれば、自から興趣には軽重の差がある。
「読み甲斐」のある旅行記とはどんなものであろうか。まず考えられるのは、旅そのものが、冒険や危険にみちている場合。 
安穏として、ほとんど日常の域を出ない旅とはちがい、未知の領域や未踏の領野をゆく旅は、つねに発見と遊遁にみちている。
ドキドキ、ワクワクの連続は、旅する本人とともに読者をも、不安と興奮にまきこむ。探検記、踏査記が長らく愛読されてきた由縁である。
 旅は始点と終点とがある事件であるとすれば、旅行記は事件簿でもある。そこにふくまれる小事件のつながりが、どれだけ起伏にみち、
意外性にあふれているかによって読者へのアピールはことなる。実際には、みずからその事件に参画することは困難だが、そのアピールを
うけいれ、旅行記とともに旅という事件を追体験する。 おそらくは、なにがしかの潤色がほどこされるではあろうが、旅は現実に存在した
事件であるだけに、迫真の体験が身にしみる。アームチェアで葉巻をくゆらせながら読むものも、通勤の電車内で文庫本に読みふけるものも、
旅行記から、かの体験をうけとるだろう。ときには、身にうずきを感じ誘われるかのように、みずから旅への計画にむかうこともあろう。
旅行記の効用は、じつに広く深い。≫
▼ この事件簿は大事件の膨大な資料が詰まった代物。 それぞれのダイジェストは50数人が書いたのを編集したもので、
 紀元前から近代まで至っている。2〜3ページに纏められているので、軽く読めるし飛ばし読みもできる。
 2千数百年にわたる時代の世界各地を、それぞれの目線を通したフィールドワークを編集しているから、面白いはず。
とはいえ、ダイジェストはダイジェストだから、これを手引書として各書を読むと良い。旅という非日常から、
旅先の日常を垣間見るのも面白い。 私たちの生きている世界が、いかに極小で、特異ということにも気づかされる。 
私たちは最高の特異の時代に生きてきた!のである。
・・・・・・・
3675, 節目どきに ー8
2011年04月18日(月)
  * 体重が減り始めてきた!
 毎朝のウォーキング(サイクリング)を20数年間続けてきたためか体重は標準である。ところが、ここでスポーツジムに通いだしたため? 
半月で学生時代の体重まで落ちてきた。心労もあるかもしれないが、これは明らかに運動効果である。入会時にジムの人に計ってもらった
肉体年齢が私の肉体年齢より11歳も若かったのに驚いた(54歳)。長年の早朝のウォーキングの蓄積が肉体年齢を若くしていたようだ。 
肉体的には健康的な日々だが、精神的には、どうだろう。
  * CTスキャンは大量の放射能を?
 CTスキャンの被爆量が胸部レントゲン写真300倍に匹敵し、数十年後にがん発症リスクは被爆で高くなるという。
私など毎年の検診で20年近くCT検査をしているので、大量の被爆をしていることになる。 
そろそろ被爆の結果が出てくる頃。知らないことは恐ろしいことである。 チャンとした説明を受けていれば、
三年に一度位に減らしていた。 しかし適当な被爆なら、細胞が活性化して、むしろ健康によいとも言うが。
  * 今でも、私にとって3月11日が止まっている
 TVの画面で、被災地の中年女性の言葉が印象的だった。 「私にとって3月11日がそのまま止まっている。
毎日が、そのまま3月11日の繰り返しで続いている」と。 そうだろう、被災者にとっては、あまりにも、その日の出来事は大変事で、
その日をもって生活環境が一変してしまった。 被災者の一人が、「ここにいる殆どの人たちには、生死の境目にいて、九死に一生を得た
ドラマがある」と朴訥とした言葉で話していた。現在進行中の原発事故が、今だに、この災害が終わってないことを告げている。 
我々が自覚しているより、遥かに危険な状態の置かれているが、まだ、序曲。 そういう私も、震災ショックによる何の被害者である。
・・・・・・・
3310, 笑われ力  −2
2010年04月18日(日)
     「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
 笑われることができたら、会話も人生もラクになる!
 笑われ力: 飾らず、威張らず、強がらず、素の自分をさらけ出せる力。
「笑われ力」では、まずは「恥ずかしいこと」を全面的に認める。そうしてしまえば、まわりもそれ以上バカにできない。
恥ずかしいという感情そのものを曝け出すのである。 私は、平気でサエゼリアに行くし、その話をする。サエゼリアが値段からみて
価値がある思うからである。 世界中の郷土料理を食べてきて味に対する自信があるから、言えること。気楽に入る安いイタメシ屋を
小ばかにする方が野暮というもの。 SC内の隣にあるスーパーより安いのだから。あれはファーストフードとみた方が分かりやすい。
その辺の出来損ない?のイタメシ屋と比べる方が無知といういうもの。 美味くなくていい、不味くなければ。日本料理も、居酒屋料理も、
フランス料理も、中華料理も食べつくきたので言えるが。 週末などの外食は2千から5千円の店で充分。もちろん二人で! 
「笑われ力」も、実は、それと似ているのではないか。 笑いで周囲に安らぎを与えることが出来れば、それが73パーセントの
「おとな力」の要素として、当人にプラスになる。「笑わせ力」を身につけるより「笑われ力」を伸ばす方が簡単。 
笑われる欠点を自分がよく知っているからだ。人間の本能が「笑い」を求めている。もし「笑い」がなければ場は息苦しい空気に包まれる。
「笑い」が醸し出す「心地良さ」が、その場を良くする。 注意しなければならないのが「笑わせ力」である。
ひとつ間違うと笑いの強要になり、シラケを生む。無理をすると、タチの悪い「笑い」になることが多い。特に第三者の失敗の話題で
笑いを誘う「邪悪な笑い」は特に注意。 著者は、 笑われ力をつけるには、準備が必要という。 まず、
・ダメな自分を集めてみる
  *過去:失敗談    *現在:無知、悩み、コンプレックス、苦手    *未来:妄想
・そのネタを次の公式(ネタ*表現)に当てはめて話をする
 失敗話、 コンプレックス、 悩み、 勘違い、 なら幾らでもある。ただ、ヒタスラ隠してきただけ。
(字数制限のためカット、2012年4月18日)
・・・・・・
2935,わが人生最良の瞬間 ー2
2009年04月18日(土)
 一番、具体的に納得した「人生最良の瞬間」は小野田寛郎の「29年後の終戦記念日」である。 彼にとっての終戦日は、
昭和20年8月15日でなく、その29年後であった。その間に死亡した二人と共に、ジャングルの中で命令に従い戦い続けたのである。
終戦直後から「降伏命令」のビラがまかれていたが、彼等は信用しなかった。そして29年後に彼を捜しに来た冒険家の鈴木と遭遇した時も、
フィリッピンの掃討兵と思い殺害しようと接近したが、思いとどまり話をしているうちに、「命令解除の命令書を持ってくれば投降すると」と、
ボールを投げた。それを持ち帰った元上官がやってきて残留命令と任務解除と投降命令を受けた。その瞬間「なぁんだ」と思ったという。
・・・投降ということは、それは死を覚悟したもの。・・ところが、フィリッピン軍のレーダー基地に着くと、捧げ銃の敬礼で迎えられた。
捕虜にそんな礼を尽すわけがありません。さらに面会したランクード司令官も、投降の意味で差し出した軍刀の受け取りを拒否しました。
そして翌日、マラカニアン宮殿で会見したマルコス大統領がこう話したのです。「我われは、それぞれの目的で戦った。
しかし戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為すべてを赦します」 もう疑う余地はありません。
昭和49年3月11日のその瞬間に私の身柄と生命は保証され、「私の戦争」は終わりました。帰国のためにマニラ空港を出発する私に、
フィリッピン空軍の軍楽隊が日比両国の国歌と「ハッピーバースデー」を吹奏してくれました。死を覚悟した戦闘の日々から
解放されたのだと、心から生きる喜びを噛みしめました。
▼ 以上が概略だが、この人の人生最良の日は、まさに昭和49年3月11日であった。これほどの最良に日は、過酷の日々が兵隊生活の
 三十数年があればこそである。こういう体験記を読むと、迂闊に「わが人生最良の瞬間」など言ったり書いたりは出来ないと思い知る。
 彼の一言一言が、過酷な経験の裏づけをもって光り輝いてくる。そういえば、人生最良の瞬間より、人生最悪の瞬間が
 心に残るのは如何いうことなのだろうか?「良いことが多くあったが、嫌なことも多くあったな?!」と、「嫌なことも多くあったが、
   (字数の関係でカット2,011年04月18日)
・・・・・・・・・
2571, ドル覇権の崩壊 ー4
 2008年04月18日(金)          ー読書日記
 2001年の9月11日のテロは、ことアメリカのドル政策、石油にとって理想的な事件であった。
 そのため、当初はアメリカの国家としての陰謀か、意識的に見逃した事件ではないかと疑われた。
 アラブ民族、イスラム諸国にとって有利の事件だったのだろうか?と考えると、疑問は増す。
 価値のない紙切れは、ドルだけではない、円もしかりである。 私は、少し落ちついた40歳を過ぎた頃から、
 意識的にお金を使うことにしていた。といって、子供二人を大学に入れて毎年、1000万は使うこと!である。
(字数制限のためカット、2010年4月18日)
・・・・・・・・・
2007年04月18日(水)
2206, 反時代的毒虫 ?3
       b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
「反時代的毒虫」ー中村うさぎとの対談「覚悟の文学、命がけの浪費」ーより
浪費癖で借金してでもブランド品を買いまくりを売りにしている「ショッピングの女王」こと、あの中村うさぎ、との対談である。
 (字数の関係でカット2,008年4月18日)                                バイ! UvU/?


4781,閑話小題 ー怒りの取り扱い方

2014年04月17日(木)

   * 怒りの取り扱い方
 一昨日こと。家内に「同級会の席や二次会などで、誰かに見られているかもしれないから気をつけて!」と言われて
出かけたが、案の定、二次会のスナックでハイになっている中、銀行OBと思われる男に「誰かに見られているぞ!」と、
通りすがりに声をかけられた。「うるさい、人のことより自分をみてろ」と、言えないし。軽さが、そのまま出ていたが。
他人ごとではないか? スポーツジムでも、露骨なイヤミな視線を数ヶ月に一度は感じる。で、ますます悟りが深くなる。
 ー悟りとは、平気で死ぬのではなく、平気で生きることー というが、何ごとも慣れ。 
最近、腹が立つとすることがあるが、書くのはやめておく。
 ヒト指先で人をさすとき、親指は上(道理)、他の三本は、自分を指している。哲学でいう認識である。他人の指摘は
自分の世界観を言っているに過ぎない、という自覚がない。 ネズミ集団=世間の戯言ネタに、一々怒ってもいられない! 
世間教の下世話ネタが、ネズミたちの集団念仏。 気の毒といえば、気の毒だが、こんなバカのことを書いている私こそ
遥かに気の毒? そのために、ぼんやりの時間を持たなければ、せっかくの人生は台無しになってしまう。
 それにしても、バカなことを書いている、自分に驚いているが。 で、ぼんやりする時間が必要になる。
 [・現実の背景にある膨大な漆黒の闇を意識する。・その為に独りの世界を大切にする。・その時空をつくる為に、
閑居の世界を身近に持つ。・働いてばかりいないで、怠けること。・その中での心の余白を良しとする懶惰の気持ちが鍵] 。
ぼんやり時間のエネルギーこそ、己を包み込む。 怒りは、エネルギーの源。大事に扱うべきだが、因われないことも重要。
・・人生は、面白い玩具で一杯。 老いも、喜怒哀楽も、楽しか! 目を本質から逸らさなければだが。
長岡という出生の地に飲み込まれない知恵こそ、今こそ必要だが、老いは、その知恵を弱らせる。
私の人生は、50歳辺りから二毛作目と思っていたが、二期作でしかない?(二期作は、同じ農作物。二毛作は、違った作物) 
それとも、50歳から三年前まで、二期作目で、その後が、二毛作目?
・・・・・
4414, ボストン爆弾テロについて
2013年04月17日(水)
  * この結末は、どうなる? 
 ボストン爆発テロ、北朝鮮の関与を誰もが思い浮かべただろう。
アメリカの反政府の団体という仮説も立つが、平城でマラソンが行われた直後、ボストンのゴールのカメラの多い中で、
二つも爆発させたのは脅しの効果として抜群。他に二つの爆弾が発見されたというから、明らかに何かの警告。
 刑事ドラマのシリーズ「相棒」で、東京マラソンを狙った爆弾テロを阻止するストーリーがあったが、手口は同じ。
とすると近くの国の??と連想するのは私だけでないはず。 ボストンマラソンといえば、世界で有数の権威ある大会。
そのゴールを狙うとは大胆。それもケリー国務大臣の因縁あるボストンで・・ ミサイル実験の前のデモンストレーション、
としては危険すぎる? 今のところ、誰も北の関与を口に出さない。だから恐ろしい。タイミングからして確率は高い。
アメリカが黙って見過ごすか、全面戦争の切り口になるか? 関与していなければ、北朝鮮は震え上がっているはず。 
これだけ全面戦争と騒いでいた最中、タイミングが合いすぎ。 覚悟があってだろうがまずは、この数日が境目だが、
数ヶ月後には、全面戦争?が現実味を帯びてきた。まさかと思っていたが、やはり! その最中、ミサイル発射実験、
やるか、やらないか、見もの。 これで軍事的に一触即発になった。 しかしアメリカも軍事産業立国の要素が強く、
得体の知れない国家。さらにシリアもイランも、アメリカの矛先を北に向けたい思惑もある。またCIAが北の仕業にした
先制攻撃の口実作りも考えられるし、アルカイダがビンラディン殺害の復讐のため、北朝鮮と見せかけ、全面戦争の
‘けしかけ’の可能性もある。どの切り口も前面戦争の方向。その最中のシナリオ、あの坊やの考えそうなこと。危ない!
アメリカは金がない、中国も新体制が整ってない、欧州危機は深刻だし、日本は衰弱。 最初のブラックスワンは何から?
・・・・・・
4040, 汚れつちまつた悲しみに ー3
2012年04月17日(火)
 7年前の同月同日に若い時分の挫折体験について、次のような文章が書いてあった。傍からみた現在の私は、このようだろう。
ところが今回の挫折体験の心の傷は、これほどでもない。逆にいえば、茫然自失まで至ってないためか、若さを失ったためか。
青年期の幾度の挫折体験で、よくぞ狂わなかったものと思うほど心の傷は深かったが、今回は、魂まで切っ先が届いてない。
長年の読書と、経験、人間関係の構築のベースがあったためである。 特に若い時分の挫折体験と、長年の読書の蓄積が大きい。
それとも悲しみを遥かに超えた多くの体験のためだろうか。それにしても、真似た文体としても、血だらけの挫折体験が、
そのまま出ている。書くということ、書き残した自分の文章を改めて読み返すことの意味(価値)を、この文章で知らされた。 
【 1475, 汚れつちまつた悲しみに ー2  2005年04月17日(日) 】
 「汚れつちまつた悲しみに」の「汚れ」を「倒れ(挫折)」にして、「倒れてしまった悲しみに」という詩を書いてみた。 
 昔の何度かの挫折を思い出しながら。 ー作成時、2005年4月16日 20時20分
ー倒れてしまった悲しみにー
倒れてしまった悲しみに 今日も涙の雨が降りかかる
倒れてしまった悲しみに 今日も嵐が吹き荒れる
倒れたしまった悲しみは たとえば樹氷のように突き刺さる
倒れてしまった悲しみは たとえば黒い血海のよう
倒れてしまった悲しみは たとえば虚空の空飛ぶ蜻蛉よ
倒れてしまった悲しみは あなたの愛に気づくとき
倒れてしまった悲しみは 夢みた昔を懐かしみ
倒れたしまった悲しみは 倒した人を思いだす
倒れてしまった悲しみは 光りの日々が走馬灯
倒れてしまった悲しみは 独りの自分に出会うとき
倒れてしまった悲しみは 悲しい悲しい悲しみよ 悲しい悲しい悲しみよ
倒れてしまった悲しみは 倒れてしまった悲しみは 倒れてしまった悲しみは
 ▼ 悲しむべき時には、悲しむが良い。 本当の悲しみが出てくるのは、数年先になるのだろう。
  まだ、悲しむだけの余裕がないのかもしれない。
 ・・・・・・・
3674, 自己を見つめる −2
2011年04月17日(日)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 私たちは人生の現実を経験を介して初めて知られてくる、経験をしてみなければ分からないのである。
人生は、経験を通してその深みと広さを増してくる。 自分とは、経験してきた全てである。人生は様々な過去の追憶を返し、
暖めなおすことしか、事実上何処にも存在をしない。 良質な経験の積み重ねこそ、人生を豊かに、実りあるものにする。
   ー 第一章 経験 の中より ー
  哲学者・ダガマーは経験について3つの点をしてきした。
・まず第一に、それが誰も予見できず、見通せない仕方で生じてくる点である。
 したがって、経験は常に新しさを含んでおり、経験がもたらす内実を、まったく予測することができない。
・次に第二に、そうした経験の過程は、いつも否定的過程であって、実際に経験するまでは、当の事柄を知ってなかったことを
 痛感させられるわけである。つまり私たちは徹底的に、浅見や独断を捨て去らねばならないことを教えられる、とガダマーは断じる。
・さらに第三に、それゆえに経験とは、本質的に、辛い不快なもの、期待の幻滅を伴うものである。
 かつてギリシアの悲劇作家アイスキュロスが語ったように、人間は、「苦しみをとおして学ぶ」のである。
 それが経験ということであり、こうして初めて人間は、真の洞察と自己認識を獲得するのだ、という。 
  要するに、経験をとおして、私たちは、あらゆる予見の限界と、すべての計画の不確かさと、人間の非力さと有限性を、
 徹底的に思い知らされるわけである。 実際、こうした労苦にみちた経験を介して、私たちは、ほかならぬ自己自身の
 人生の実相のただなかに立つことになる。そしてそれ以外に、どこにも人生というものはない。 私たちは、経験において初めて、
 自己自身と宿命的に向き合うことになる。 経験のなかにこそ、自己自身があると言いうるゆえんである。
▼ 人生を振りかってみて、経験の中こそ、自分があると、つくづくと思い知る。 その境界が自分の限界であった。 
 だから迷ったら、とにかく、一歩踏み出して行動することが、自分を広く深くする。 「自分を見つめる」とは、
 自分の経験を見つめることと同じである。 経験して初めて、知るが、それは否定的過程を踏む事であり幻滅を伴なう。
  とはいえ、落語の与太郎では? 
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3309, 笑われ力  −1
2010年04月17日(土)
   「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
 図書館で、この本を見つけた時に、「面白い!」と、直ぐに借りることにした。
「自分の失敗や欠点を笑い飛ばしなさい。それで既に自分を客観的に見下ろしていることになる。」とは癒しの真髄であり、
これまで「フン、この程度モノさ!」と自分を笑い飛ばしてきた。 しかし、それを一冊の本として真正面から取組むとは。
お笑いのサンマやタモリが、この名人である。 実に上手に自分の失敗談を取上げて、周囲の共感と笑いをとる。
タモリが「電車で、もようして? 有名人なのでトイレに入りづらく、失禁直前に家にたどりついて、ホッとして、
ところが大爆音のガス一発だけ! あの1時間の苦労はなんだった? 」で、場内、爆笑だったが、「笑われ」の典型的事例。
誰も一度や二度は経験のあること?。私の知人でも、「笑われ力」を駆使して世渡りをしている人が何人かいる。実に自分の欠点、
失敗を披瀝をし、周囲の苦笑と共感を誘っている。 自分より知識や、経験の少ない人の前では可能だだろうが、同じレベル?
の人の前では、躊躇をしてしまう。 素の自分を曝け出し、相手を笑わせようというのだから、基盤がないと出来るものでない。
  まずは、アマゾンの ー内容紹介よりー ≪石原 壮一郎 ≫
≪ 「心地良い人間関係」に「笑い」が不可欠なのは言うまでもないでしょう。しかし、ウケを狙えば狙うほど、
スベりやすくなるものです。 まして、人をバカにして笑っても「心地良い人間関係」は生まれません。
そこで「笑われ力」の登場です。 笑わせようとするのではなく、笑われる意識、人をネタにするのではなく、
自分をネタにするスタンスです。 お笑い芸人のような爆発的な「笑い」が、笑わせることを目的にしているのに対し、
「笑われ力」が生む自然な「笑い」は「心地良い人間関係」を築くためのプロセスに過ぎません。
 大爆笑は不要です。 自然で心地良い「笑い」をプロデュースする方法をゆる?く紹介します。≫
▼ この本の「まえがき」の冒頭に、「いきなりですが、おめでとうございまう!あなたが、こうして『笑われ力』に出会ったことは、
 あなたの人生にとって、必ずや大きな意味を持つでしょう。きっと日ごろの行いがいい方に違いありません」とあり、最後の方には
「大人力の77パーセントは「笑われ力」でできています。 残り23パーは、さほど気にしていただく必要はありません。」とある。
この随想日記やブログも早くいえば「笑い」というより自嘲の披瀝。そうでも思わないと、毎日、アクセクして書いていられない。
ある意味、癒しになっている。 読み続けている人はご存知のとおり、最後の一行に捻りを入れるようにしている。それも共感を得る
ような自嘲気味の捻りで締めるように。決して、この本を読んだぞ! でなく、やっと読みおえた!という気持ちでないと続かない。
この本の内容は簡単明瞭。 嫌味なく自分をダシに笑いをとれれば、悩みや、怒り、悲しみの絶対量は激減する、ということ。
 そういえばオカマバーの方々、実にオカマの世界を自嘲気味に話し笑いをとっている。 
笑われてナンボの世界か、珍獣?の世界は。 10年以上は、行ってないが、歳のせいか気持ちが悪いが先にたつ。
 ・・・・・・・・
2934,世界恐慌に入って、まる7ヶ月 ー2
 2009年04月17日(金)
新潟駅前でビジネスホテルという業態モデルを経営しているために、世界恐慌の影響がストレートになる。
初めに、広告、営業活動に対して経費をつめてくる。 二時間以内の出張は日帰りである。
インターネットや携帯電話などで情報をやりとりして出張は可能な限り回数を減らすのは常道である。
最近は宿泊ネット販売が25パーセントなっている。しかも新潟では半額以下の2600〜3000円代前半は当たり前。 
当日でも3000円前半なら何時でも取れる状態だから、堪ったものではない。そういう私も、冷蔵庫や洗濯機や大型TV以外は、
電気製品、デジタル家電、書籍、健康食品、ユニクロは、ネット購入。情報は、大型店の店頭で見て、実際に買うのはネット。 
2〜3割はまちがいなく廉いからである。リーマン・ブラザーズから始った経済危機から世の中は一挙にデフレスパイラルに入った。
情報化によるフラット化で一物一価の世界になったことも、さらに輪をかけている。最低価格が実現できないところは、
即、退場をさせられてしまう。(客室は、在庫が限定されているから、まだよいが)ということは、大部分の企業は淘汰される
ことになる。 世界は5〜10年と暴風雨が吹き荒れだしたのである。日本の国力もバブル崩壊後に大きく失われてしまった。 
アメリカのように資源や軍事力や知的蓄積がないのである。この金融恐慌は近代資本主義社会の根幹を揺るがすほどの大事件。
4〜500年かけて近代社会がつくり上げてきたのはが中産階級である。その中産階級が中期・長期的に見て消滅しようと
しているというのだから、ただ事ではないのである。1990年前後にソ連と、東欧諸国の共産社会体制が消滅。
そして10年後の2001年9月11日にイスラム原理主義のアルカイダがアメリカの金融の中心のビルを二つ崩壊させ、
2千数百人の生命を奪いアフガン・イラクの戦争中に入った。そして今度は百年、数百年に一度といわれる金融恐慌である。
これは簡単に解決できるような事態ではなく5〜10年は世界中で想像を絶した多くの経済混乱が発生する。 
まさか、これほどの大事件を目撃できようとは思っていなかった。それも全ての人が直撃する惨事を・・
・・・・・・・
2570, 些細なものほど、光を放つ!と、振り返ると解る
2008年04月17日(木)
 日常のチョッとした瞬間、60年にわたる過去の些細な記憶がフラッシュのように出る。これが還暦を前後して特に多くなってきた。
人生は些細なことほど大きな意味が含まれているようである。コマーシャルではないが、「人生は、その人の選択で出来上がっている」と
実感する。一日、数万のことがフラッシュのように脳に発生するというが。 様々の経験から、自分の心の芯にとって、いやな後味に
なることはしないようにしてきた。それでも、次から次へとフラッシュが発生する。 自分の過去を冷静にみれる年月が経ったためだ。
多くの人を虐殺した政治家の内面は如何なるものだったのか。死者が纏わりついているのだろう。彼のそれは、些細なものではないからだ。
  次の文章が‘些細なものほど、光を放つ’ことを理路整然と表現している。
「哲学の教科書」中島義道著
  *些細なものほど、光を放つ      P-232
哲学者の目とは、人生の「外側」から、すなわちあたかも死者、あるいは他の天体からの飛来者のように、人間たちの営みを見る目です。 
こうした目で見続けますと、そこに面白い変化が生じてきます。 人生の大事と思われているものは取るるに足らぬように見え、
逆に取るに足らぬと思われていることが輝いて見えてくる。「死」を背景にすると、天下国家の大事ではなく些細なものこそ光を放つ。 
フランクルは強制収容所という「向う側」にいる人間の心持ちを次のように語っております。 彼の想像はいつも繰り返し過去の体験に
想いを馳せて、それに耽っているのであった。 しかしそれは過去の重大な体験ではなくて、以前の生活のごく日常的な出来事や
ささやかかな事象のまわりを彼の考えはめぐっているのであった。……市電に乗って家に向う、入口の扉を開ける、
電話が鳴る、受話器を持ち上げる、部屋の電灯のスイッチを入れるー囚人がその思い出の中でいわば撫で回して慈しむものは、
こんな一見笑うべきささやかなことであった。そして、その悩ましい思い出に感動して彼らは涙を流すこともあったのである。
強制収容所に入っていない私たちが、今この状況を腹の底から実感するのは難しいでしょうが、例えば奈良時代の
官吏の一日を文字通り再現してくれれば、どうでもよいことがわれわれには本当におもしろいことでしょう。
もし私が一時間だけ千二百五十年前の奈良の都に戻してくれるなら、東大寺や興福寺には行かずに、人がごった返す市場に
行くでしょう。 内裏の「閣議」は見物せず、一般の家庭の夕餉を見物するでしょう。・・(中略)女房が派手で困るとか、
給料が上がらないとか、子供がぐれて困っているとか、毎日の生活がしみじみと面白みを帯びてきます。
 ▼ 学生時代の日記を、ここで公開したが、私にとって、その面白みは当時の日常の風景が具体的に書いてあったことである。
 実際に読み返してみると、当時のことが昨日のように思い出される。何で、その後、思ったままのことを具体的に書いて
 なかったか後悔する。誰かに見られたら嫌だというのが、それなのだろうが。些細なことの中に光が宿っているのである。
 それは、「今日、今、ここ」しかないから。ここに永遠が存在しているから。
・・・・・・・・・・
2007年04月17日(火)
2205, 反時代的毒虫 ー2  才八∋ウ_〆(∀`●)
             ー読書日記ー
「反時代的毒虫」の中の ー白洲正子との対談『人の悲しみと言葉の命』ーから
車谷が『四十八瀧心中未遂』で直木賞をとったあとの「文学界」で白洲正子との対談である。
白洲をして、恐ろしい、こわい、と言わしめるのだから、驚きである!
 ーー
白洲 「私、十何年も前に見っけたんだからね」
車谷 「白洲先生からいただいたその手紙をここに持ってまいりました。
   (字数制限のためカット、2010年4月17日)


4780,ぼんやりの時間 ー9

2014年04月16日(水)

                      「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
   * ぼんやり時間について ーつれづれに
 10年前に、この本を読んでいたら、どうだったろう? まだ娑婆っけが強かった年齢。人生の余白を埋めることに全力を
あげていた真っ只中で、ぼんやりなど程遠い生活であった。 ー‘あとがき’の次の箇所が最後のマトメによいー
《 ところで、「ぼんやり」という言葉は、辞書ではどう説明されているのか。何冊かを調べてみて、予想以上に評判が
芳しくないことを改めて知った。「①気がきかないさま。②利発でないさま。③どこか元気がなく、気持ちが集中しない様子。
④間が抜けているさま。⑤呆然としていたり、うかつであったりする状態。」 多くの辞書では、「ぼんやり」という言葉は
否定的な意味で説明されているし、世間の人ぴとのぼんやり観も、たぶん、同じように否定的なものだと思う。
 たしかに、横断歩道のところで呆然とした状態でふらふらと車道に歩み出れば、これはもう危険な場所、不適切な場所での
ぼんやりは困りものだ、ということについて、私としては異議もなく、異論もない。そういうことは承知の上で、串田孫一は
「ぼんやりしているのは人間にとって非常に大切な貴い時間である」と書いたのだと思う。
 私は、串田の文章に共鳴するものだが、それでも、ぼんやりの否定面を忘れることはなかった。ぼんやりの否定面を仮に
「ぼんやりH」といい、ぼんやりの肯定面は「ぼんやりK」ということにしよう。この本で繰り返し説いてきたのは、主に
このぼんやりKのことである。「これは、ぼんやりKの場合です」といちいち断ってはいないが、いままでこの本で書き
つらねてきたのは、ほかでもない、主にぼんやりKのことである。 世の中の支配的な風潮に対して否定的な考え方を
示すことは、難しいことではあるが、ある意味では実に大切なことだと思っている。ぼんやりということを考えるとき、
「ぼんやりH」的な思いが支配的な風潮であるならば、一方で、「ぼんやりK」的なもの、つまり、ぼんやりには、脳の働きを
いきいきさせるものがあり、生命力をよみがえらせてくれるものがあると主張することは、ことのほか大切なことではないか。
そんな思いが私にはある。私たちは「光」の恵みを考えるならば、同時に「闇」の恵みにも思いをいたす必要がある。
「陽」の力を思うときは、同時に「陰」の力を思う必要がある。「動」や「働」や「がんばり」が大切だと考えるときは、
「静」や「休」や「ぼんやり」もまた、いかに大切であるかを考えねばならぬ。日常の暮らしのなかで、私たちはあまりにも
「働」や「緊張」や「がんばり」に力点をおきすぎて、「休」や「やわらぎ」や「ぼんやり」の効能を片隅に追いやっている
のではないか。ぼんやりは「呆然としていること」であり、「間が抜けているさま」であるということとは別に、
「ぼんやりすることは貴い」「ぼんやりすることで、なにかが貯えられる」「ぼんやりは活力を生む」という場合もある。
ときおり、ぼんやりした時間をもつことは、生気、活力をよみがえらせるためにも必要なのだ。》
 ▼ 人生には「よく働き、よく学び、よく遊ぶ」ことが核になる。それを、いつも意識をし、分類し、バランスをとってきた。
  その他に、もう一つ、背景に広がる空白も意識してきた。働くでなし、学ぶでなし、遊ぶでない、ボーとした時間である。
 これは幾つかの挫折体験などから、否応なしに誰もが経験すること。 そこでの、ぼんやりの時間も飽きてくると、そこから
 エネルギー、気力が湧き出ることを、である。 ツアーで、独自で行けない秘境・異郷に行くのをライフワークにしてきた。
 そこでは、旅の企画と手配と案内は全て代理店と添乗員がしてくれる。その大部分が、移動の飛行機か、バスの中。  
 そこの「ぼんやりの時間」が良いのである。慣れるまでは苦痛だったが、回数を重ねる度に、その高速移動空間で、
 ただただ、ボ〜っとする時空の魅力に気づくようになった。 何か、痴呆症の勧めのようだが・・ 
・・・・・・
4413, 早起きの話
2013年04月16日(火)
 早朝の読書習慣は事業を立ち上げた27歳の頃から現在まで40年になる。父も早寝早起きで、夜は9時前に寝ていた。
一日、二時間は読書をすると決めていた為、創業の忙しさの中で読書環境は静かな早朝しかなかった。40年にわたる早朝の
読書時間は私の独学塾。その蓄積で、もう少し読書の質が上がって良いさそうなものだが、独学もあり壁を破れなかった。
それもあって夜は9時就寝に自然となっていた。 晩酌をすることもあり就寝と同時に4〜5時間は爆睡するが、深夜1時〜
2時頃に目が覚める。その30分は頭が冴え渡る。事業で何か大きな決断をするとき、2時半を目安にして判断をする。
その後、半覚半睡の状態で二時間ほど過ごし4時〜4時半に起床、書斎に入る。そして6時頃からポタリングに出る。
早朝時間の活用をしている人は意外と少ない。時間帯として、「20対80の法則」「6対94の法則」でいう、この時間の
読書と散歩かミニ・サイクリングは私にとって重要事項。カレルが「物理的に過ぎ行く時間の他に『内的時間』が別にある」
というが、早朝の時間は、その内的時間に入る。内的時間の芯といえば純化した心のゾーン。名著などに没我しきった時間の、
それである。 ところで日本は戦中・終戦直後まで人口の過半数以上が農林漁業に従事していた。そのため、朝早く起き、
夜早く寝る習慣になっていた。 朝の陽光が生命の源。朝の語源は、天が開いて明るくなる「明ける」からきたという説がある。
英語のモーニングもドイツ語のモルゲンも、太陽の光を思わせるイメージがある。仕事により朝方かどうかが変わってくるが。
 早起きの効果は、長年続けなければ出てこない。部屋で、土手で、早朝、独りで物思いにふける時間は至福である。
・・・・・
4039, 世界の旅行記101  ー1
2012年04月16日(月)
   ー 内容(アマゾンより)ー     「世界の旅行記101」 樺山 紘一著
 アームチェアで葉巻をくゆらせながら読むものも、通勤の電車内で文庫本に読みふけるものも、旅行記から、迫真の体験を
うけとるだろう。ときには、身にうずきを感じ誘われるかのように、みずから旅への計画にむかうこともあろう。
旅行記の効用は、じつに広く深い。ヘロドトスの「歴史」からイブンバットゥータの旅行記、ぺルリ提督日本遠征記、
はたまた永井荷風の「あめりか物語」・・ 異文化への遭遇と驚き、喜びを満載した、古今内外の代表的な旅行記101冊の
歴史的な意味と、意義、概略をコンパクトにまとめている。自宅でくつろぎながら、旅行記の魅力に浸れます。
この中から興味を持った本を図書館に行って借り、読むのも一興。
  ◎ アマゾン読者感想 
≪ 読書と旅が好きな者にとって、旅行記は興味この上なく深い。しかし、世の中には旅行記なる書物は山のように存在する。
その中からその時の関心の在処に応じて何か良いものを探し出そうとする時、手引きとなる情報があると助かる。 旅に出る時、
ガイドブックとは別にその地をめぐった先輩の書き物に教えを請おうとする時、適切な本を探索する手引きとなる情報があると助かる。
また、仕事を終えた夜のつれづれに、何か旅の本に想いをいたそうとした時に、そんな本の梗概を記した手軽な本があると愉しい。
私は、数年来、この本をそんな風に使ってきた。先日、タヒチを訪ねるにあたっては、モームやゴーギャンの作品などとともに、
ブーガンヴィル、クック、ダーウィンという探検の時代の旅行記の関係部分に目を通した。その時、この本が彼らの旅行記を推薦してくれた。
そして、私のタヒチ旅行はいっそう内容豊かになった。 この本には、紀元前から現代までの代表的旅行記が外国から日本まで101件、
原則2頁で、時に地図や写真を付けて紹介されている。各文末には、入手可能翻訳本を記している。関連年表、索引もやや詳しい。
目次は、書名のみ、著者・解題者付書名、執筆年代順書名という3種が付されている。ハンドブックとして工夫次第で利用勝手は拡がる。
旅が好きな読書子には常備して価値のある本であろう。理想を言えば、併せて、古今東西の旅行記・紀行文を網羅したリストを座右におけば、
精粗あわせて情報が得られて良いのだが・・・ ≫
 ▼ 10年ほど前に買った本だが、数編を読んだまま蔵書になっていたもの。どのページを開いても、生々しい事件に満ちている。
  編者の「旅行記は事件簿でもある」という見方こそ、面白い切り口である。旅行は事件なのである。 そこには、それぞれの人生の
  全てトラブルが現れ出ていて、生々しい記述で満ちている。それと、自分の人生の様々な場面と合わせ鏡にすると万華鏡のようである。 
  次回から、目に止まった面白い旅行記の逸話を抜粋する。
 ・・・・・・
3673, 自己を見つめる −1
2011年04月16日(土)
   「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 ここまで人生を生きてきたら、要は「生きてきた過去をどのように受けとめるか?」になる。それは生きてきた「自己を見つめる」になる。 
その「自己とは、そもそも何か?」色々な場面で、多くの判断をし、決断をしてきた、その時々の主体が節目ときの自己になる。
それらの自己の総合体が自分になる。 先日、何気なく図書館で借りてきた10冊の本を流し読みをしていたら、
思わない拾物をしたのが、この本。 現在は、その「節目どき」。 自分を見つめ直す機会である。
   まずは、  −アマゾンの説明書きよりー
  放送大学の空前の人気授業といわれたテキストを叢書化。ニーチェやハイデッガーのことばをまじえながら、崩れ落ちそうになる
気持ちを支え引き締めてくれる。「この授業、このテキストがあったから、いまの私の人生がある」 と語りつがれる哲学の名著。 
日本を代表する哲学者が「自己」「仕事」「孤独」「世間」「運命」「不幸」など 15章のテーマで語る人生の真髄。  
  ― 次に、アマゾンの感想文の中の抜粋をコピーしてみた ―
* 「生き甲斐は、根本的に重い運命愛の意識に担われた、死場所への覚悟というものと深く関係している。
  しかし、他方では、それは、ときにはそれを忘却した、放念と遊戯と飛翔のうちで、自己の快癒を図る悦楽の解放感とも
  接続していることは確実である。この大きな振幅のなかで、私たちの生の営みは展開している」 (「生き甲斐」)
* 「愛とは……問題となっているものを、深く大切に思い、それを慈しみ、人生の大事と考えて、その尊厳を守ろうとする、
  控え目ながらも持続的で強い根源意欲ないし生命意欲に関係するものであり、また、そのことに伴うあらゆる憂いと
  悲しさの 情念のすべてであり、自己としての生きる人間の根源に関わる根本問題なのである」 (「愛」)
* 「幸福は、たいていの場合、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる失われた桃源郷である」 (「不幸」)
* 「老年になって、やっと人は、自分の人生を変えた大きな出来事が、そっと気づかないうちに、自分に忍び寄ってきて、
  自分を支配することに至ったことを理解する。自分の周りの人々が、ほんとうは何者であったかが、ようやく分かるのは、
  老年になってからである」 (「老い」)
* 「人は、多くの場合、無言のまま、誰にも相談することのできない、こうした人生の重大問題を抱えて、悩みながら生きている。
  私が、本書『自己を見つめる』において、語りかけたいと思っている読者は、そうした優しく敏感で、傷つきやすい、
  心豊かな人、慰めもなく、苦しみながら、しかし立派に生きる務めを果たそうとしている人である」  (「まえがき」より)
 [目次]  まえがき  
  第一章  経験  第二章  時間  第三章  境遇  第四章  遍歴  第五章  自己  
  第六章  生き甲斐  第七章  仕事  第八章  孤独  第九章  愛  第十章  他者  
  第十一章 世間  十二章 運命 第十三 不幸  第十四章 老い  第十五章 死
 ▼ これを図書館から借りてきて、直ぐにアマゾンで、姉妹書の「人生の哲学」と共に注文をした。老年に差し掛かってきた現在、
  自分の歩んできた人生を振り返り、己を見つめ、考える時期に来ている。 それが「節目を打つ」ことになる。
  青年期の挫折時には、これをチャンとしていたから、躓きの石を踏み台の石にすることができた? 内省も面白いものだ。
・・・・・・・
3308, 万田酵素
 2010年04月16日(金)
 新聞広告で、「万田酵素、無料キャンペーン」の見出しがあった。 前から新聞広告やドラッグストアで見かけていたが、
一万円前後。 無料キャンペーンはお試し用の6パックで1200円のもの。10日前に届いたので、試し飲みをしてみた。 
で、二日間、一パックを飲んだところ、二日酔いのような赤ら顔になった。 何かニンニクエキスを飲んで、一日中逆上せて
いるような感じ。そこで、小さなパックだが、半分にして飲んだところ、丁度良い。酵素といえば、もう25年来、玄米酵素を
飲みつづけている。これも一日一パックを飲んでいるが、続いているから身体に適応しているのだろう。
 酵素といえば新潟産業博で年一度、小さなコーナーで「酵素源」のデモ販売をしている。そこで三度ほど買ったことがある。
ただ7千円もするので、一瓶を数ヶ月かけて飲んだ。確かに身体全体に活力が出たが、電話で取り寄せるほどではなかった。
 無料の試しパックは一パック2百円と高い感がする。 しかし飲んでみると、全身から活力がみなぎ出る感じである。
通勤途上にある「マツキヨ」の健康食品のコーナーをみたら、全く同じものが一瓶9800円である。これなら少しずつ飲めば
三ヶ月は持ちそうである。 で、ネットに「格安 万田酵素」と入れたところ、何と3600円。
ネットでは、3000円半ばの販売価格に集中していたから、「マツキヨ」のバイヤーもネットでチェックしているはず。
それでも、この価格で販売しているのだから、ネットでチェックしない客を狙っているのか。ネットの世界=情報化は、
ドラックストアさえ中抜きにしてしまう。 バイアグラとしても、使える?代物。 バイアグラ以外では、これが一番? 
   今さら、大して用がないか!
・・・・・・・
2933,世界恐慌に入って、まる7ヶ月 ー1
 2009年04月16日(木)
去年9月15日のリーマン・ブラザーズ破綻から、まる7ヶ月経った。その間に金融恐慌関係の経済雑誌の特集や著書を、
多く読んできた。楽観論から悲観論まで様々あるが、当然のことながら悲観論が主である。
当初は、「50~100年に一度の金融恐慌」といっていたが、何時の間にか50が消えて、「100年に一度の経済危機」という言葉が
定着したきた。1930年代の世界恐慌より、今回は深刻という事実を時間をかけて一般に知らしめてきた。
新潟駅前の宿泊現場のセンサーからみると、全体的にみて30〜40パーセントダウン。輸出産業を中心としたメーカー関連で、
40〜50パーセントダウン、それ以外が20〜40パーセントのダウン。2001年の9・11事件の時は、三年かかって30パーセントに
ダウンしていったが、今回は2〜3ヶ月で、総じて30〜40パーセントのダウンである。 9・11の時は、金融庁の方からは、
駄目な会社は早々処理するようにというお達しが出ていたが、今回は、何とか助かるところは、潰さないようにという、
お達しが出ているという。大きな方針の転換である。実際には、現場は11月末から露骨な売り上げ減が始ってきた。
これは、どの業界も同じである。そして年を越えてから一ケ月ごとに、ジワジワと経営圧迫がきているのが現状である。
国家として3月末の大量倒産を避けることが出来たが、問題は決算が出揃う5月から6月にかけて大きな事変が続くと言われている。 
実際に数字を見ていると凍りつく思いである。当方の先期決算は恥ずかしくない数字だったが問題は、これからの経済社会の情勢。
この恐慌の大波が、まずは日本に押し寄せているが、アメリカ・中国に深刻に現れるのは、これからである。韓国・台湾
・シンガポールなどの日本の輸出比率が2倍もある国では、GDPが20パーセントダウンというから、大打撃になっている。
かなり深刻な事態が、世界各国、いや日本に出てくることを覚悟をしなければならない。この7〜8年、何とか輸出立国という
モデルで何とか、日本を牽引してきたが、そのモデルは崩壊してしまった。 どうなるのだろうか? 
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2569, 閑話小題 
 2008年04月16日(水)
 * ガソリン価格
先週、車のタイヤ交換のため新潟に来たが、見附で124円のガソリンを入れた。
そして新潟のバイパス近くのガソリンの値段を見たら120円とあった。ところが、家内の話だが長岡はセルフ以外は、
127円で統一(談合)しているのでは? 市内の何処を見ても統一は不自然だという。こんなことをしているから
消費者に嫌われるのを知らないのだ。誰も直接口には出さないが、必ず口コミで辛らつに批評されているのである。
 * 呼び込みの、その後(迷惑条例実施の、その後)
(字数制限のためカット 2012年4月16日)
 * ロシアのバレー事情の激変
(字数制限のためカット 2012年4月16日)
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2007年04月16日(月)
2204, ベトナムとインドの「交通戦争」  おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ
 ーインドの追い越しー
外国に行くと、思わない文化の違いを見ることがある。 その一つが交通事情である。。
インドの都市間をバス移動の時、対向車線の車が追い越しのため、進路から正面に向かってギリギリのところまで迫ってくる 
あわや正面衝突!と、思わず目をそむけてしまうほど危ない。彼らにとってそれが日常のため、国道沿いには数キロごとに
衝突の車を見かける。慣れていない日本人は見ていて気分が悪くなり、町から町への移動の国道では誰も前の席に座りたがらない
沢木耕太郎の「深夜特急」という本の中で、インドからパキスタンへの移動の高速バスで、その恐怖を書いていた。
実際に自分が体験をしてみて、これほど恐ろしいとは知らなかった。
それと中国のウィグル地区からパキスタンへのカラコルム・ハイウェーの断崖の砂利道の暴走運転の恐怖を思い出した。
明らかに我われ日本人をカラカッタ運転だった。その手の話題はいくらでも話題は出てくる。
 ーベトナム交通戦争ー 
ベトナムで驚くのは、そのバイクの数である。さらに驚くのは一台に乗っている人数が3人、4人、5人なのである。
警笛も鳴らしっぱなし。交通規則の信号なども殆どない。大きな交差点をバイクの群が縦横にぶつかり合っている。
よく見ていると、ギリギリのところで避けているが、よほど慣れてないと、衝突する際どさの中を運転技術で
コントロールしている。慣れない外国人は恐ろしくて運転などできない。ベトナムのオートバイは2000年で650万台、
2003年で1100万台、2006年で1700万台で、世界のオートバイ流通量の実に10パーセントをベトナムが占める。
(字数制限のためカット 2011年4月16日) 


4779,閑話小題 ー勘違い

2014年04月15日(火)

   * 勘違い
「今回、Windows・XPのサービスの停止で、私のWindows・Vistaも、その範囲」と勝手に勘違いをしてしまい、新たに、
Windows8のパソコンを買ってしまった。実際のところVistaは、あと3年後であった。6年以上も使って買え時期だった
ので後悔はしてないが、その迂闊さには我ながら呆れ果てる。検索で「Vistaのサービス停止」と入力すれば良かったが、
思い込みは恐ろしい! しかし、知人の言う「パソコンは進化を考えたら4年が買い替え時」というのも事実。
   * 今年の桜は
 毎年恒例の桜のシーズンで、数日来、満開だが、それぞれの地域ごとに素晴らしい桜並木があるもの。
その中で、特に自分の気に入った桜の木を決めて、毎年、再開するのも良いものである。個々も良し、並木も良しが桜。
シーズン中の、天候の良し悪しも大きく左右する。その点、今年は当り年である。明日あたりから、散り始めるが、
これもまた良い。川辺などの桜が散る頃、山辺の桜が満開になり、それも散ると、今度は八重桜が満開になる。
八重桜は八重咲きになるサクラの総称で、山桜のヤマのマがエの変化したという。
何か歳とるごとに、桜の花が愛おしくなっていく。
   ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな (村上鬼城)
   したたかに水をうちたる夕ざくら (久保田万太郎)
   ゆふ空の暗澹(あんたん)たるにさくら咲き (山口誓子)
   やどりして春の山辺に寝たる夜は夢の内にも花ぞ散りける (紀 貫之)
   すさまじくひと木の桜ふぶくゆゑ身はひえびえとなりて立ちをり (岡野弘彦)
   夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん (馬場あき子)
   世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし (在原業平)
   ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ (紀 友則)
今日は、この数日来のコースを周り、明日からは悠久山のコースの予定にしている。
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4412, 大丈夫、なんとかなるさ −2
2013年04月15日(月)                
   * 今を生きる女の強と、昔を生きる男の弱さ   ー「大丈夫、なんとかなるさ」近藤勝重著 より
 国が衰えてくると、俄然、女性の強さが浮かび上がってくる。その一つの傾向として男は台所に女が外に働きに出る。
定年をむかえ、男は仕事で消耗してしまい家の中では粗大ゴミ扱い。そこで争いが起こる。しかし強いのは女性。
ここで、その理由を明確に述べている。働きづめだった男こそ、「今を生きる」ために与えられた時間なのに、過去の
想いに囚われ今に生きることが出来ない。
≪ ある時期、男たちの間で女性の活躍がよく話題になった。おのずと話は男女の一般的な比較諭になって、
いざという時には女は強く、男は弱いという意見や感想が目立った。
 彼らの話を聞きつつ、ずいぶん前に新聞で読んだ男女の産み分けがなぜ可能かの記事をい出していた。
ある大学医学部が明らかにしたもので、人聞の精子を分離すると、女の子つくるX精子は重く下にたまるのに比べ、
男の子をつくるY精子は軽くて浮くという。 そんな内容であったと記憶する。
 以来ぼくは男女比較論になると、その話を引用しながら「つまり女はもともとどっしりと安定しているのに比べ、
男はふわふわと不安定なんだ」としたり顔で言ったものだ。 さらに近年は、脳科学のこんな説にも注目してきた。
芸術・感情脳の右脳と、言語機能を持つ思考.論理脳の左脳を結ぷ脳梁などは、女性のほうが男性より太く、そのぶん
情報交換量や、情感も女性が豊かだという訳だ。 これには異論、反論があるが、男性よりよくしゃべり、よく泣き、
よく笑う女性のリセット的特性を説明しやすく、これまでも重宝してきた。 男より女佐が長生きするなども、
それらの特性でかなり説明がつくようにも思える。
 ところで人間のありようが遺伝学や脳科学とは別に日常の習慣性からとらえられるとすれば、前に紹介の加藤登紀子
さんの話のとおり、炊事・洗濯・掃除といった短いサイクルで毎日を生きている女性のしぶとさは男など問題外だろう。
その場その場の対応力や性を生きる強さ、男よりよく泣くにしても、泣いてすっきり、ああご飯がおいしいとすぐに
涙など吹っ切っている女性を見ると、事態への能力において男の勝ち目は縛い。・・・ ≫
 ▼ 現在の状況を冷静にみると、身につまされる。比較的、今の時間を生きているつもりだが、家内の日常から
  すれば、全く劣っているのが現実。毎日、毎週の習慣から抜け出せないのである。歳もあってか、既に世の中を
 見切ってしまい、映画とか読書とか、過去の記述など、頭の中の世界に生きようとしている。それに比して、
 家内といえば、羽がはえたように「横世界の今・ここ」を生きている。で、私は、早朝起きて、独り部屋で、
 これを書いたり、ポタリングをしている。猫(女)と犬(男)の生活を続けた差が、鮮明に出て当然である。
 ニャ〜ンとワンが喧嘩して、毛をソバたてたフーとワンワンでは、猫が勝つに決まっている。夫源病と妻源病か!
・・・・・
4038, 閑話小題 
2012年04月15日(日)
     * つれづれに
◎ 昨日、一昨日と二日続けてシネマを見てきた。全米の観客動員数が一位と、二位というから間違いないと判断。
 私の評価は、全米一位の、「バトルシップ」、85点。 二位の、「ジョン・カーター」、90点。一応、合格。
 昨日は土曜日のためかロビーは客で溢れていた。 シルバー割引千円で現実からトリップできるから価値は充分ある。
 ストレスを解消してくれそうなものを、話題になった中から選んでいる。 大不況の鬱憤を映画で晴らそうというのか、
 破壊と再生の物語が多い。 バーチャルの世界で鬱屈した?気持ちをスカッとさせ、ストレス発散をするようにできている。
◎ 現在、世界的にも、国内的にも大きな節目。 現実に私のケースのように過去10年間の売り上げの激減と、
 その結果の事態は、数年先の現実の前倒現象になる。 それで、悲観過ぎるのか? 決して悲観過ぎるということはない。
 毎日毎日、同じようなことを飽きもせず書いているが、書くことで、気が付くことが多い。ところで、このところ、
 この随想日記のスランプ期間に入った。テーマが出てこないのである。数ヶ月に一度くるが、これも慣れている。
◎ 「年齢に気持ちがついていけない!」 これが、人生を生きてきて常に感じてきたこと。歳をとればとるほど、
 その傾向が強くなる。未来より、過去を見つめる時間が長くなるためだろう。そこで、過去を否定しないこと。
◎ 米国の天然ガス価格が2ドル代の大台を割っており、日本の輸入価格は18ドル。 日米格差は9倍である。
 米国は世界最大の資源国であり、世界一安い天然ガスを使える。これに対して日本企業は電力不足と、世界一高い法人税、
 そして社会保障費と人件費も高い。米国産原油価格優遇策となれば米国優位はゆるぎない。これが宗主国と属国の力の差。
 ジワジワと、その影響が日本経済と社会に出てくる。日本は海洋国家と、水資源が豊富にある。それと島国の特性の中に、
 これからのヒントがあるはず。それにしても、東北大震災と、原発事故と、54の原発が使えないのが大きい。
・・・・・・・
3672, 節目どきに ー7
2011年04月15日(金)
  * つれづれに
△ 事務所にあった身の回りのものと書棚が二回に分けて届いた。 倉庫の中に三坪ほどのスペースをとり、それらを収めたが、
 丁度良く収まった。事務所の移転ごとに多くを捨ててきたので比較的最小限度のものしかないが、それでも捨てがたいものが多くある。 
 会社に置いてた本の半分ほどは処分してきたが、振り返ってみると、もっと早く、哲学書を読み込んでおけばと反省しきりである。
 逆に言えば、この10数年で読む本が変わってしまった。
△ 昨日、小学校5〜6年担任の恩師の西沢先生から、丁寧な破綻の?お見舞いの葉書が届いた。
 現在、80歳前半になられたが、葉書に筆で書かれた書体の美しさに驚いてしまった。私の5歳上の姉も担任をされたが、
姉は、あまり先生のことを語ってくれなかった。 先生が定年退職をされた時に、確か小学校の同期会に先生が出席され、
その時に先生にお願いをして、新潟の私のホテルに宿泊をしてもらい、一晩、酒席を共にさせて貰ったことがあった。
もう20数年も前になる。 先生は多くの小中の校長を歴任し、長岡の教育長までされた人で、定年時には、そのお祝いに
300人が集まってくれたと嬉しそうに語ってくれた。 その時に先生がつくられた御猪口を貰いたが、先日まで、
会社の事務所の飾りだなに大事に飾っておいた。 卒業まじかに、半年間、虐め?で級長にされたことがあった。
これはきつかったが、その時に不貞腐れていて運動場で掃除をしていた私の頭を引っぱたかれた心の傷は、今でも鮮明の残っている。
しかし人を導く不思議な力を持っていた。先生の両親とも先生で、息子も先生をしている教員一家。色々の人生を垣間見たのだろう。
そういえば小学校の同級生、地方としては男15人の中で、慶応、早稲田、立教三人、新大二人と、出来は悪くない。 喧嘩も、勉強も
ライバルが多くいた。 変なのもいたが、変ななりに、まっとうに?家業などを引き継いでいる。 駅前エリアもあり、玉石混合ということか。
 ・・・・・・・
3307, 日本破綻 −2
2010年04月15日(木)
ー 「日本破綻ー株・債券・円のトリプル安が襲うー」 藤巻 健史 (著)
 著者は新自由主義論者で、円安論者。 グローバル化社会を推進すべきだとしている。
そして「大きい政府・規制社会・結果平等税制」の是正を主張している。 経済を拡大をしないと、
グローバルの世界を生き抜くことは不可能で、そのため円を実力どおりの円安に誘導すべきという。 
日本は輸出立国でしか成り立たないと論じている。格差が開いたとしても日本の貧困層は世界の中間層でしかない。
 ここで、アメリカの強さを何気なく書いている。
・アメリカの双子の赤字は大げさ= アメリカの税収2008年で約2.5兆ドル=220兆円。日本の44兆円の5倍ある。
 アメリカのGDPは日本の3倍に対して5倍である。一方、財政支出は、2008年で4500億ドルの赤字。ほぼ日本と同じ。
 2008年末の連邦債務残高は10兆ドル。これも日本と同じでしかない。日本は不景気が良くなって金利が5パー増えたら
 43兆円の支払い増で、今の税収が吹っ飛んでしまう。もうひとつのアメリカの赤字、経常赤字も大げさに騒ぎすぎ。
 ネット金額で見ると、資本を海外から取り入れているにかかわらず、配当金や金利は「支払う額」より「入ってくる額」
 の方が大きい。 借金をしていれば金利は「支払うはず」なのに、「受け取っている」のです。それは、アメリカ人に
 リスクをとる精神があるからである。海外投資で高い配当金や利息が国内に入ってくる一方、支払い金利の方が少ないからだ。
・日本のバブル時の1989年末と現在2010年1月と比べると、日経平均3万8915円から1万765円と4分の1近く。
 一方のNYダウは2753ドルから1万765ドル。4倍になっている。 その差は15倍になってしまった。
 NYダウが最高値の1万4千ドルをつけた時、日経は1万8千円として、そこから1万765円。
 アメリカが20パーセントダウンに対して、日本は40パーセントのダウンになっている。
 〜この背景には世界の主軸通貨がドル本位制がある。 ネズミ溝の親ハ、外貨準備金は必要でない。
  ただ紙切れを刷っていれば済む。紙代だけなら荒利は99パーセント以上の利益を得ることが出来るからだ。
  数年以内に、アメロなどの新ドルに切り替え、実質的なデフォルトをしてくるだろうが、日本破綻は大きな岐路にたつ。
 ・・・・・・・・
2009年04月15日(水)
 2932,筑紫哲也の残日録
文藝春秋の二月号の、筑紫哲也の「がん残日録」ー告知から死まで5百日の闘いー が壮絶な死と生の記録であった。
2人に1人が癌になり、3人に1人が癌で死ぬ時代である。50歳を過ぎれば何時何が起きるかもしれない。
癌は体内に発生して、最初に発見されるまで、14〜5年かかると言われる。発見されるまでの潜在的なものを含めると、
全員が癌を持っており、全ての人が癌への道を歩いていることになる。
一グラムの癌細胞は鼠算的に2倍ずつ増えていくと、1キロに増加するに10回の2倍を重ねるだけでよい。
  =この残日録の中の印象に残った部分を抜粋してみる=
・《07年10月20日》 福田康夫様
  歴代の総理を拝見していますと、この人がと思う人でも、鬱積が溜まっていくものです。それをあまり我慢するのもよくありません。
  秘訣は、本当に怒らないことです。口さがない批判、非難の大部分は、それを口にする者の身の丈、思考の水準に見合ったものでしかない。
  そんなものに自分がとらわれてたまるかと思えば腹は立たないでしょう。総理の仕事は、それより遥かに次元が違うでしょう。
・《07年12月8日》 執行猶予
  この病を得ることは、いわば《執行猶予ー死ぬまでの》の時間を与えられたことになる。 
  それは自分の正体を見つめなおす機会を与えられたということだ。私は何ほどのものか。何をしてきたか、何をしてこなかったのか。
  己を正視するのは、そんなにたやすいことではない。それに加えて、もう一つの困難がある。こうやって、何事かを言語を用いて
  表現することは、通常は他者に向かっての意思伝達の手段なのだ。そのための工夫や表現力は、訓練次第、
  あるいは個人的能力によって多少とも向上させることができるだろう。だが、本質的に社会的、公共的ツールである言語が、
  自分に向かって自分を説明するのに、どこまで有効なのか。どんな言語表現もすり抜けていく部分、そこに自分の正体はぼんやりと、
   または黒々と潜んでいるのではないか。「よい人生だった」「悔いの多い、くだらぬ人生だった」どちらにしても、言語を用いる以上、
  他者への説明を意識しているのだろうし、そうでなくとも、「自分の中の他者」に言い聞かせているのかもしれない。
・《08年1月 日付なし》 
   泣いても一日 笑っても一日 どちらでも良い 良くないのは どちらでもない一日 せめて怒ってみるか
・《08年2月15日》 次女ゆうな の言葉
  この宣告以前に、父が違う病院のお医者さんに余命について質問をしたことがあるんです。その時に言われたことは
 『自分が駄目だと思ったときが余命の始まりです』という言葉。はっきりとした余命を伝えることは『ダメか』と
  思わせることになるから、と家族で結論を出して、伝えることをしませんでした。
・《08年11月5日》 こん睡状態、次女に『メモ、メモ』と紙とエンピツを用意させ、
 《THANKY YOU》
     ーひとりの人の死は、生きてきたプロセスを圧縮して立ち現れてくる。
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2568, ドル覇権の崩壊 ー3
2008年04月15日(火)
 著者はアメリカが実質的価値のないドルと、偽札のドルとどこが違うと疑問を呈する。私も以前から北朝鮮が国家として
 作っているといわれる偽ドルと、アメリカのドルと、どこが違うか疑問を持っていたが、
 その極めつけがプライムローンである。 まずは、その部分を書き写してみる。
 ーー
第二章 世界はこうしてドルに騙された
  非兌換紙幣であるドルの刷り散らかしはアメリカによるマネーの偽造
ーP100
「紙幣を印刷するものがが法律を制定する」少なくともまだ暫くの間はこの格言が真実として通用するだろう。
今日では、ゴールド(金貨〉は通貨としてもはや使われていない。表面上は、ゴールドによる貿易決済もゴールドを準備貨幣とする
経済体制も存在しなくなっている。しかし、それでも今のアメリカの強大(そうに見える)な軍事的優越性と、米ドル紙幣の印刷と
強制通用のみせかけの信用によって、諸外国の国民が、米ドルをゴールドと同じような信用力を有するものと、思いこみ、
深く信用しているからだ。また、そのように信用させることが大事であるから、そのように、上手に「ドル紙幣の生産と
そのドル紙幣で各国への軍需や経済援助を実行し続けるという外見は今も不変である。
(以下字数の関係でカット2011年04月15日)
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2007年04月15日(日)
2203, 自殺について ー2           (~Q~;)  おはよう??
経済的の問題や時代の大きな変化、そして国民性が自殺の要因になる。日本人のような生真面目な性格も世界で
1~2位の自殺率に要因なっている。それに対して南米やアフリカの陽気な国民性のところでは、自殺は激減する。
フィンランドやデンマークなどの北欧で、冬の黒夜(14時位から夜になってしまう)が
人の心を暗くして自殺が多いという話を聞く。そういえば秋田や山形などの北国も冬は雪で閉ざされるから自殺が多い。
   ー自殺率の世界分布地図を見るとー
 ・ロシアを中心にユーラシア大陸で自殺率が高く、
 ・インドやイギリス、スペイン、イタリア、ノルウェイなどユーラシア大陸周辺部、及び北米大陸で低く、
 ・ラテンアメリカではさらに低いという状況が見てとれる。
 *自殺率が低くはなかったロシアが、1991年のソ連崩壊後の自殺率が急増、現在は断然世界一となっている。また、米国、英国、
 カナダ、オーストラリアといったプロテスタント国、及びイタリアは、以上の国々と比較すると低い自殺率水準で推移している。
ー日本の自殺率の高さと推移についてー
  日本では、自殺が文化の一部になっているようにさえ思える。過労や失業、倒産、いじめなどで、自殺で自身の名誉を守る、
  責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられていて、これは他のアジア諸国やキューバでもみられる傾向である。
 ・第二次大戦後、社会保障が整備される以前は高齢者の自殺率が高かったことや、
  戦後の価値観の大転換などで若者の自殺率が急増したことが原因で、1958年の自殺率25.7人は過去最高の値になった。
 ・その後、1959年国民健康保険法施行、1961年国民皆年金など社会保障制度の充実や1960年所得倍増計画に代表される
  経済成長目標の国民的普及により自殺率は、15人前後への低下した。国民全体で明るい夢を抱いていた時代だった為だ。
 ・その後、1973年のオイルショック前後から自殺率は上昇に転じた。
  あまり注目されなかったが、1983年の景気後退は自殺率の急増(前年の17.5人から21.0人へ)を招いた。
 ・1997年秋の三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券と立て続けの大型金融破綻事件がきっかけとなり、98年の5月にかけて
  失業者が急増し、自殺率も、97年から98年にかけて18.8人から25.4人へと急増した。このときは自殺者数も前年の2万3千人台から、
  一気に3万1千人台へと急増したこともあり社会的に大きく注目を浴びた。 そして、その傾向は十年経つ現在も続いている。
▼ 時代の変化と、それによる経済的困窮が自殺の要因として大きくなる。激変の中、生きていくことは大変である。
 「死にたくない」と同じように「死にたい」という気持ちも自然である。死など存在してないのだから、気持ちの一現象でしかないが。
 ーーーーー
 2004/07/24
 1208, 自殺 3万4427人
(以下字数の関係でカット2008年04月15日)


4778,閑話小題 ー 二度のポタリングの試み

2014年04月14日(月)

   * 先週から、一日二回のポタリングを開始
 先週から、早朝に加え午後の一時間のポタリングを加えた。午後はスポーツジムを早めに切上げ同じコースを走る。
健康もあるが、グライダーで空中遊泳をしているようで気持ちが晴れるからだ。音楽を聴きながらの土手の時間は特上。
 NHK・BS/TVで、朝食時に日本各地を火野正平が撮影チーム4人と自転車で駆け抜ける番組を放映している。
数ヶ月先のコースを予告しておき、視聴者が、どの道を走って欲しいかの便りを元に走る内容である。 
朝ドラの直後もあってか、視聴率が高いという。平凡な毎朝の、私の定番だが、ツーリストの自転車目線が好きである。
 その一つの便りに、「先年、亡くなった父親が生前、行き先は何も言わないで早朝から夜遅くまで、出かけていた。
ところが最近、父親の日記帳を見たところ、自転車でお寺や名所廻りの行先の記録があった。その一つの寺院のコースを
まわって欲しい」とあって、そのコースを辿っていた。「早朝から夜まで、自転車に乗って、独り、何処かに行っていた」
という言葉が妙に引っかかった。 私の自転車歴は4年半だが、その人は、一日中、どんな気持ちで走っていた? 
チャリダー? ポタリスト? 私の命名は、「一日ツーリスト」。 少なくとも、家でゴロゴロしているより遥かに良い。 
 そこで「現在、一時間のポタリングも、2〜3時間にしたら?」と思いたち、先週から二回目を挑んでいる。 
で、私は、「一時間ポタリスト」というところ。 ただ、自転車は危険なこと、この上ない。それもあって、土手と、
バイパス脇の道路以外は、避けている。最近、始めたのが、ある本をヒントに、ベンチで「ぼんやり時間」を持つこと。
これが、なかなか、難しい。自転車があるので、道の傍のベンチに座るが、ウォーカーが通ると、何か落ち着かない。
ボ〜っとした自分の姿を他人に見られたくない気持ちが動くのだ。 まだまだ「ぼんやり道」の初心者でしかない。
   * 面白い公園
 ツアーで、世界中を旅行していると、行先の都市の美術館、博物館、寺院などの観光の中に、公園がある。
公園は、その国の文化が、そのまま現れ出る。その中に、ノルウェーのオスロの彫刻家のヴィーゲランの
作品をテーマにした公園がある。 幼児期から老人期、そして死、愛、感情など、一生の出来事をテーマに、
人生を考えさせられる像が、様々なテーマごとに並んでいる哲学的空間である。初めて、その空間に入った時の
驚きは、今でも憶えている。人生をテーマに国をあげて公園をつくる、そのセンスの奇抜さに・・・
 一日がかりで、それぞれのコーナーで、自分の人生と重ね合わせると、記憶が生々しく立ち上がるのだろう。
・・・・・・

4411, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −8
2013年04月14日(日)
    * 心清く、よく遊びよく遊べ ーつれづれに
 老後を考える上で、なかなか面白い本である。何事にも自然体で、拘りを持たず、自由に気楽に生きることがベース。
人間は、それぞれ固いバイアスに囲われている。それを一枚一枚、そぎ落としていくのが人生。
老いるにつれ何事も面倒になり、過去に目を向けて、周囲の現象には上から目線になりがちになる。
両親の晩期を供に生活をし、冷静に身辺整理をした父の姿を見ることが出来た。母からは何事にもチャレンジする姿を見た。
「始める前に、あるレベルまで到達できるかどうか見極めること。決心をしたら、先生を見つけ集中すること。
ライバルを見つけること」と、教えてくれた。道を極めようと一心不乱で日々過ごすと、心が純化されていく姿が見て取れた。 
「心の純化」こそ、極意。 以前「何かに集中していると、あるゾーンに入る瞬間がある」と書いたが、それは心の純化の状態。
何事も純化の心から生まれ出てくる。 「童心に帰り、純化の心で、遊べ遊べ!」である。
 人生を振り返ると、その時々、面白く遊んだことが思い出される。 事業も、遊びも、何でも、遊びになるまで対象に入り
込まないと。それは楽しむことから始まる。楽しみになるまで対象に同化することだ。
「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり」 これは高杉晋作の言葉だが、その心は純化した心。
論語の雍也第六に『子曰。知之者不如好之者。好之者不如樂之者』がある。「師曰く、真理を知る者は真理を好む者に及ばない。
真理を好む者は真理を楽しむ者に及ばない」という意味である。 真面目に学べば「知ること」ができる。 しかし、
知ったことは、よく忘れる。だが、好きでやったことは身に付くから忘れることも少ない。更に良いのは「楽しむ」こと。
孔子は「知る」も、「好む」も、「楽しむ」も道徳である、という。何が良いことかを知るだけより、良いことが好きだ。
という方がすぐれている、つまり「徳を楽しむことが必要」としている。更に、楽しみを遊びにしていくことである。
 遊びは、現代風にいうと、ゲーム化することになる。ゲームは仮想世界の競争である。人生を夢幻として、難関を乗り越えて
いくことになる。人生のゲーム化。 夢幻の劇場で自作自演の役割を演じ、それを味わい楽しむことである。
心清く、遊んでいれば、その役をこなすことが出来る。 「うれし、たのし、おもしろし」の世界を、持つこと。
ただし、節度を持ってである。だから、そこに「良く」がなければならない。その辺りに少し気を使いながら。
・・・・・・
4037, 閑話小題 
2012年04月14日(土)
  * スマトラ沖でM8・7クラスの大地震
 先日のスマトラ沖地震は、2004年のスマトラ沖大地震の余震とみられる。前回のような断層の縦移動でなく、横に移動したもので、
M8・7の大地震にしては大津波は発生しなかった。 地震学者は、「これは東日本大震災も震源地の隣接地域で10年、20年単位で
誘発地震が起きる可能性を示唆しているもので、注意が必要。」と、忠告している。 東海、東南海、南海地震と、首都圏直下型地震の
可能性を示している。 地球規模の地殻変動期の渦中にいるのである。 日本は、その地震帯が重ねっている地震大国。 そこに
原発が54もあれば、危険極まりない事態。
  * ポタリングを再開
 早朝のミニ・サイクリング(ポタリング)を再開した。冬期間を除いた4月〜11月の間、一時間かけ信濃川の二つの大橋を一周する。
6時過ぎから7時過ぎにかけての時間帯だが、何とも清々しい。電動アシスト自転車の効能で、午後の二時間のスポーツジムを加えると、
三時間も運動している。 平坦な習慣の組み合わせのためかアッという間に一週間が経ってしまう。 電動アシスト自転車の使用目安を
5年と決めているので、半分使え終えたことになる。電動自転車は、お薦めである。手段(自転車)が、目的(朝の運動)を変えてしまう
(ウォーキングからポタリングへ)典型的事例になる。これからはスマートフォンとタブレットPCの普及が、ビジネスや生活パターンを
根こそぎ変え始めているが、手段の進化は、人間生活を間違いなく良くしてくれる。
  * チョッと騒ぎすぎでないのか?
 打ち上げ失敗で、よかったものの、北朝鮮のミサイルの打ち上げ少し騒ぎすぎ。また、おどおどした防衛大臣の巡り合わせも悪い。
北朝鮮の存在で一番、都合が良いのは中国。 極端に時代がかった漫画的国家を存在させておくのは、米国の属国、日本と韓国の国境の
緩衝地帯として地政学的に見ても必要である。 まだ韓国が存在しているから他人事のように勘違いしているが、危険極まりない。
更に、やっかいなのは日本。充てがわれた憲法をたてに、軍隊の存在を認めず、国境を侵犯されても他国への攻撃は相成らぬという、
呪縛にとらわれている。 その結果が、国家の体をなしてない有様。この十年で、残った体力を使い切ることになる。
  ・・・・・・・
3671, 節目どきに ー6
2011年04月14日(木)
  * 都知事選の結果をみて
 一度、不出馬を表明していた石原慎太郎が一転、出馬をして当選をした。東国原とかいうお笑いタレントが石原が不出馬の場合に、
当選する可能性があったからという。お笑いタレントを首都東京に選出するなど論外だが、この国ではありうること。
都民の大部分は以前、タレントの青島で大失敗をしたことを知らない。 この時期に人材が存在しないのは、悲しむこと。 
政治は言葉で方向性を常に発し導くことである。 石原を除いた他の候補は、論外も論外。
  * 本州壊滅は本当だったのだろうか?
 この原発事故が発生した数日後に、あるところから、これは「本州壊滅の惨事」と聞き及んでいた。
ここでも何度か書いてきたが、その直後から外国人が列をなして帰国をしていった。去年の三月にオープンした、東京駅に隣接している
シャンブリアホテルの支配人やシェフが、逃げ出して運営が出来なくなり、事故後10日もしないうちに、休業に入ってしまった。
(昨日に、営業再開のニュースがあったが・・)ところが数日前になって、チェルノブイリ級の最悪レベル7に引き上げられた。 
事故直後は、危険レベルが4だったが、実際は7ということを彼ら外国人は知っていたのである。知らないのは日本人だけだったのが、
ここで裏づけられたことになる。風評に気をつけろでなく、政府の発表と風評、両方とも疑ってかからないと、大きなリスクを負う。
  * ホテル・飲食・サービス業界の悲鳴
 一足先に、事業を清算したが、同業の悲鳴がグッサと刺さってくる。前年比で全国平均で三割減、首都圏で6割減、東北・北陸で八割減。
それも、リーマンショックで売上げが半減し体力を消耗した上で、これである。地元のリゾート地や、佐渡など壊滅的と漏れ聞こえてくる。 
「過度の自粛を控えなさい」というが、この世情の中で、生活防衛に入りざるを得ないのは当然のこと。だから、あまり費用のかからない
スポーツジムが大流行になる。気の毒なのは料理屋、居酒屋である。 酒のツマミには魚料理である。その魚に不信感を持ってしまえば、
足が遠ざかる。最近、居酒屋の刺身が、いやに美味しい。高級魚が売れないため、居酒屋に安く流れてくるためである。  
 ・・・・・・・
3306, 日本破綻 −1
 2010年04月14日(水)
 ー 「日本破綻ー株・債券・円のトリプル安が襲うー」  藤巻 健史 (著)
 またまた恐慌本だが、近未来の津波のひとつの形が株・債券・円のトリプル安と分かりやすい。
現在の世界経済と国内経済も異常事態だが、何か茹で蛙というのか、諦めムードというか、危機感がいまひとつ。
津波がきたところで、今さら如何にもならないこともある。それに加えて政治の混乱である。 最悪の政党がやっと瓦解し、
溶解しかけているが、それに劣らない時代遅れの社会主義政権になってしまい滅茶苦茶な空理空論の政策を始めた。
それが、とんでもない破滅型政策とくれば「株・債権・円」のトリプル安は早まること必定。
  まずはー 内容(amazn)から
バブル崩壊を上回る市場の反乱が日本を襲う財政の極度の悪化が招く「日本売り」が迫る。市場経済を無視し続けた
代償として「トリプル安」による未曾有の大混乱が迫る。惨事を回避する策は果たしてあるのか?
 〜 本文の印象的な部分を抜粋しながら考えると、現状の深刻さに背筋が凍りつく思いである。
*「市場の反乱」が起こると、人はそれを市場の暴力といいます。しかし、それは違います。日本でも株価が4000円を割り、
 円は200円まで暴落をし、失業率30パーセントが日本を襲う可能性がある。しかし、それは『市場』の自動調整機能を
 封印し、「計画経済」「管理経済」政策を長い間とってきたことの‘ツケ’なのです。
*2008年の54兆円の税収が、リーマンショックで44兆円まで落ち込んでしまった。
 この44兆円の内訳は、法人税が10兆円、所得税が15兆円、消費税が10兆円、その他が9兆円。
 その結果、33兆円の赤字を出してしまった。法人税は、これで世界で一番高い税率である。
 ところが、2009年度では10兆円だった法人税が「5〜6兆円」に減ってしまった。それは民主党がいっていた
 マニフェスト「子供手当て」とホボ同額。法人税は日本の三大税収のひとつだが、そのひとつ分を「子ども手当て」として、
 すべてばら撒こうという。その結果、53兆円の赤字国債を発行して、更に金を借りようとしているから驚きである。
*ハイパーインフレは「合法的徳政令」= 以上のことから、過剰なトリプル安が起こった結果としてハイパーインフレに
 なった結果としては、貨幣の価値が大幅に低下する。その結果、政府の872兆円の借入れは、どんどん小さくなる。
 国債も紙くずになるということ。こうなると政府も簡単に借金をへらすことができる。私が、これを「合法的徳政令」政策
 と呼ぶ理由はここにあります。 ・・・しかし、ハイパーインフレは大きな格差を生むことになる。
 株式や不動産を持っている人は良いが、持たざる人や、給料の低い経済弱者が酷いめにあう。
  〜〜
 結局、何時の世も弱者が最大の被害者に成りざるを得ないのである。 問題は、これが何時、始るかである。
 ・・・・・・・・
2931,わが人生最良の瞬間
2009年04月14日(火)
 ある雑誌に、「わが人生最良の瞬間」というテーマで各界30人の有名人が寄稿していた。歓びと、悲しみ、そして出会いと別れが、
 その人をつくりあげたことを、それぞれが心を込めて書いている。なるほど、このテーマで自分の思いを語ることは、
 自分自身を語ることでもある。それぞれの人が、自分の思い入れがあり、その一番印象的な瞬間こそ、「わが人生最良の瞬間」になる。
 その中で、印象に残ったものは、宗教学者ひろさちや「即今・当処・自己」である。
【 華々しい賞を貰ったこともないし、逆に刑務所に入ったこともない。それにかかわらず著作活動で500冊の本を書いた。 
 何処をもって最高だったか?・・・と考えた瞬間にハッと閃きました。そうだ〈いまが最高なんだ〉と。ラテン語に「カルペ・デイム」
 という言葉があります。「いまを楽しめ」という意味。BC1世紀のローマの風刺詩人のホラティウスの言葉です。 
 仏教では ー即今・当処・自己ー と、いっています。「いま、ここ、わたし」です。 もし、いまが苦しみの内にあるなら、
 わたしはその苦しみを味わって生きればよいのです。病気なら、その病人をしっかり生きればよいのです。病気でないわたし、
 苦しみのないわたし、そんなわたしは存在してないのである。あの頃は良かったといっても、それはもう存在してないのです。未来に
 求めても存在してないのです。それゆえ、「人生の最良のとき」と問われれば、「いま」になるのです。何か遺言みたいになったが。】 
▼ 以上だが、最良の瞬間には永遠という時間が縦に流れとすれば、彼のこの言葉は当然のこと。私の「わが人生最良の瞬間」を、
 考えてみたことが何度もある。 私もそれほど、華やかの経験もないし、実績もない。しかし「わが人生最良の瞬間」という経験を
 数多くしてきた。多くの感動の積み重ねが自分の中に沈殿し、それが磁力になって感動を求めて(引き寄せて)いったのだろう。 
 その度に感受性が強くなってしまったのだろう。秘境で大自然の神秘的な光景との思わない出会い、酒を飲んで騒ぎ、読書を通して
 時空を超えて多くの人と出会い、それぞれの節目ごとに多くの人と邂逅し、多くの美術館で有名な絵画などに出会うなどの集積が、
 多くの最良の瞬間を引き寄せてくれたのである。小さな自己満足でしかないが。
「 いま、ここ、自分 」を大事にしろ!ということ。 そして、その場をつくる積極的な準備もである。
 「 ひとがみな われより偉くみゆる日に 花を買いきて独りでしたしむ 」も、人生最良の瞬間になりえる。
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2567, 閑話小題
2008年04月14日(月)
 *桜咲く
*今日現在、桜が満開である。三分咲き、六分咲き、七分咲き、そして満開と自分の人生を開花の中にみる。
 毎年、同じ桜でも気持ちが新たになる。 短時間に咲いて散るから心を打つのである。一日ごとに、それぞれの姿を見せてくれる。
 そして今日あたりから一日一日と散っていく。通勤途中だから、それがよく見える。散るのもまた良しの気持ちにはどうしてもなれない。 
*最近の身近な景気状況
 (字数の関係でカット ー2012年04月14日) 
*その後のipod
 (字数の関係でカット ー2012年04月14日)
*最後の叔父が亡くなる
 (字数の関係でカット ー2012年04月14日)
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2007年04月14日(土)
2202, 自殺について ー1   ?? <(_ _)> ??        おはようございます!   
自殺について、ここでは何回も書いてきた。書いても書いても尽きないのが自殺である。考えてみれば、自殺ほど考えさせられる
ことはない。「死」が哲学(考えること)の究極であるから、自分で死を実行する自殺は、深い意味があって当然である。
歳を重ねれば重ねれば重ねるほど、生きていることの深さに気づくためか、自殺に対して否定的になってきている。
状況がそう言わせていることもある。若かりし時に何度か挫折をするたびに、この世から消滅をしたいと心底思った。
しかし、今から考えてみても気もちの何処かに「今のこの気持ちは何時か変わり、必ず素晴らしい未来ある」という楽観があった。
それは未来という時間があったからである。この数年でも従兄弟や従妹の亭主やポン友が自殺をしたが、死にたくなるほど
苦しかったのだろう。先進国の中で、日本が一番自殺率が高いと聞いてから10年近く経つ。数年前に韓国が一番になったようだが、
同じ位の数字である。検索で『日本の自殺率』というキーワードで検索したが、1990年代後半から異常に自殺率が跳ね上がり、
7~8年間は先進国の中で一番になってしまった。以下は、幾つかのHPの自殺の現状をマトメタものである。
不景気と体制変換期には自殺が跳ね上がることからみて、環境の変化と、その不適応と、自殺は大きく関連しているようだ。
 ーー
 日本は、人口10万人あたりの比率に換算する自殺率でみると世界第10位で、旧ソ連・東欧圏を除く主要先進国の中では最も多い。
主要先進国の自殺率は、米国10.4人、英国7.5人、フランス17.5人、ドイツ13.5人、に対し日本25.3人(平成16年)。
日本の自殺率を押し上げている最大の要因は「成人男性」の自殺だ。平成14年、15年ともに自殺者の72%は男性が占めている。
このうち、25歳〜44歳までの男性の自殺率は42.3人と著しく高い(平成14年)。100人の死者のうち、なんど24人は自殺!
この年齢層はリストラ対象層。再就職しても、給与は落ちる。家のローン、教育費、親の介護の資金と、金はいくらあっても足りない。
生命保険の保険金目当てに自殺を企てる人間も多い。この年代を含む30代?50代男性の自殺の動機は、1位が経済・生活問題である。
女性や他の世代では自殺の動機1位は健康問題だが、金の切れ目が人生の切れ目とは、何とも哀しい。
  主な自殺のサインは、
   (字数の関係でカット ー2008年04月14日)


4777, 閑話小題 ー消費税3%値上げの実感

2014年04月13日(日)

    * スタップ細胞の真偽について
 世紀の発見といわれたスタップ細胞の存在の真偽問題で、小保方リーダーの記者会見がライブでTV放映をされた。
理化学研究所のトカゲの尻尾切りで終わらせようとした目論見は失敗した。冷静にみれば、やはり小保方氏に問題があった
とみるしかない。200回もつくったなら、期限を決めて201回目を専門家を総動員してやればよい。共同研究者の上司が
降りたことからみても、疑われても仕方がない。 世界的な大問題になった中での、彼女の会見の受答えには、驚いた。
本人が撒いた種としても、問題が表沙汰になってからは地獄だったろうに。彼女が醸し出ている怪しげな雰囲気が、
ドラマ仕立てに妙にピッタリと来ている。「傷口が膿んだ後に皮膚が再生するのだから、それらしき何かがあって然るべき」
という専門家がいたが、いやに納得させられた。
   * 消費税3%値上げの実感
 毎週、木曜日のスーパーのシルバーディに酒とツマミなどを一週間分を買い込む。で、先日の値上げの実感といえば、
思いの他、大きいというのが実感。 他の値上げを加えた家計は、これでは大きく響くはずだ。 私にとっては酒を
控えるチャンスにもなる。ウィスキーの水割りと黒ビールの二本を、350mlのノンアルコールビールと、黒ビールの二本に
すればよいが。 つい売場で、他に日本酒かウィスキーのボトルに手がいってしまう。この値上で、電化商品とか車などの
売上が、駆け込み需要の反動で激減しているが、ファミレスとかコンビニは、影響が少なそうだ。 年金だけが収入の我家。
家内の買物行動をみていても、異常なくらいシビアになってきたが、何かゲームを楽しんでいるふう?これでは当分は、
さらなる消費の落ち込みになる! それと価格に転嫁の難しい中小企業も、厳しい事態である。世界的株価の暴落の
可能性も膨らんでいる現在、危険な日々が続くことになる。 「10年前から今日まで、何が起こった?」そして、
「今後10年間で、同じレベルか、それ以上のことが今後起こるとしたら、それ何?」とすると?  それより我身の存在?
・・・・・・
4410, 夫源病と妻源病
2013年04月13日(土)
 昼のワイドショーで、ゲストの医者が「最近の病の原因が夫婦間のイザコザが多い」という。それについて何人かの主婦や、
夫に街頭で互いの不満についてインタビューをしていたが、その殆どが我が身に当てはまる内容。 驚いたのは、「それでも
旦那を愛していますか?」という質問に、イエスと答えたのが20人いた番組の参加者の僅か5名。キャスターは唖然。
そんなものだろう、夫婦は! 
  ーそこでネット検索で「夫源病」を調べるとー
≪ 最近の病の原因を探ると、妻は主人への不満を語り出し「夫源病」と診断されるケースが多い。夫の言葉や行動に対する
不平や不満がストレスになり、妻の身体に更年期のような症状がでてしまう。まずはコミュニケ不足と家庭内の役割分担が
うまくいっていないことが問題、と言われる。 家庭の主婦がおこす病名として、大阪大学大学院医学研究科の准教授・
石倉文信先生が名付けた病名。 夫源病の症状として、原因不明の不定愁訴や強い耳鳴り、横揺れのめまい、激しい頭痛、
のぼせ、ひどい肩こり、全身の痛み、動悸、息切れ、呼吸困難、不眠などがある。妻の置かれた状況を察しない夫への日々の
小さな不平や不満が、脳の視床下部(自律神経やホルモンのバランスを司る部位)にストレスをかけ続け、次第に自律神経が
バランスを失い暴走し、色々な症状をおこす、と考えられる。その夫源病の対策として、感情を爆発させる、秘密を持つ、
プチ家出をする、などがある。≫ 
 ▼ 夫も同じで、モンスターワイフからくるストレスの「妻源病」が増えている。以前からあったが、こういう病名が
  付けられると、互いに我慢していた夫婦の亀裂が更に大きくなる。 中国で巣立った後の家庭を「空巣家庭」という。
 また英語には、「Empty nester」という言葉がある。ヒナ鳥が巣立った後の「空っぽの巣」 を守る親鳥に喩えて子供が
 育った後の親の事を指す。日本中、団塊の世代が定年を向かえ、空の巣で「妻源病」「夫源病」が向き合い、互いの首輪の
 紐を持ち合い、引っ張り締め付けあう。とはいえ、状況からして今さら離婚も無理。 さらにリタイアによる収入激減が、
 不満に火をそそぐ。多かれ少なかれ、何処の空巣でもバトルがある。で、やはり強いのは大方は御夫人の方? 
・・・・・・
4036, 一時停止 ー2
2012年04月13日(金)
          「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 昼と夜  ー ある感受性のプログラム 1955年5月 ー より
≪ 私「それで、あなたは、昼と夜とのどちらをお選びになるのですか。」 詩人は目を地に落としたまま答えた。
「私は両方を選ばねばなりません。私は詩人ですから。しかしあなたは昼を選ばなければいけない。あなたは詩人ではないのだから。
あなたは夜、眠ることが出来るのです。そうです、人間はみんな夜、眠らなければいけないのです。眠りこそ最も知恵深い行いなのです。」
私「あなたは昼も夜も眠らないのですね。」 詩人は答えなかった。 私は詩人の深い孤独を思わずにいられなかった。 その私の気持を
見ぬいたかのように詩人はいった。「しかしそれが運命なら詩人はそれを不幸とは呼ばないでしょう。 どんな不幸であろうと、それが
言葉になった時、詩人は幸せなのです。その時彼は人間になれるのです「だから。詩人の本当に怖れるのは言葉になり得ない不幸なのです。」
その時、すべての夜が詩人の中に集ったかのようであった。 私たちは黙って立ち上り、歩き出した。夕暮が近づいていた。 
詩人「こんな日は、ぼくはかえって気楽なんです。どうも曇りの方が晴れよりも人間的なところがありますね。 ぼくは天を見ずにすみます。
だからぼくは人間の中にいられます。ほんとうに雲ってやつは、大気や水が無ければ出来ないんだから、それだけでもどこかわれわれに
親しいような感じがしますね。」 私「で、あなたは今、昼を選んでいらっしゃるというわけですか。」 私の問は半ば冗談だったのだが、
彼の顔は生真面目であった。 詩人「そうもいえるかもしれません。 しかし詩人は昼を選んでいるように見えている時でも、決して夜を
あきらめてしまっているわけではありません。また逆に夜を選んでいるように見える時でも、決して昼を諦めているわけではないのです。」≫
 ▼「どんな不幸であろうと、それが言葉になった時、詩人は幸せなのです。その時彼は人間になれるのです。だから詩人の本当に
  怖れるのは言葉になり得ない不幸なのです。」 言葉になり得ない不幸が夜という言葉に滲んでいる。谷川のいう言葉は、言霊である。
  「不幸も言霊になった時、それも夜半の闇の中で熟成して生まれ出ると、不幸が不幸でなくなる」のである。 夜半に目がさめ、
  色いろ考えが吹き出てくる。 それはマイナスのことが多い。 詩人は、そこで多くの想いの中で、葛藤し言霊を生み出すのである。
 ・・・・・・
3670, 節目どきに ー5
2011年04月13日(水)
  * 娑婆には知らないことばかり
 先日、最近できたSC内のスポーツジムの施設を見学に行ったところ、10時のオープンに50人位の行列。
「プール関連の新しいサービスが開始されるため」というが、今どきに、あの熱気は凄い。館内設備の案内をしてもらっていたら早速、
小中学校時代の同級生に声をかけられた。「よう、八ちゃん、入れって!」だと! 時が時だけに「まずい!」と思ったが・・ 
何を今さらと気を持ち直して一時間ぐらい見学をしたが、成るほど人が殺到するわけである。ここは契約時間内なら何時間いてもよい。
家内の新潟在住の知人は駅南のスポーツジムに、日中5時間も行っていると聞いていたが、成るほど合点がいった。家内の、
別の新潟の友人は、二つのジムに入っていて、交互に行っているとか。家にいるより快適で、金がかからない上に、主婦にとって癒しの場。
漫画喫茶のパソコンとTVの替わりに、ウォーキングマシーンなどを入れかえたスポーツ用レジャー施設である。平均年齢が女性の方が
5歳以上も多いのが分かる。 風呂・プール関連、ウォーキングマシーン・サイクリングマシーン、エアロビックスのプログラム、
そしてマッサージ機の4本が柱になっている。考えた末に、10〜17時の平日コース(金、日、祭日 休み)に入ることにした。 
月15回行くとして、一回につき400円なら価値は充分にある。 これと市営の福祉センター内の運動ジムと、
図書館が当面の日中の外部空間になる。考える時間が多くなった分、身体を動かさないと! 
・・・・・・・
3305, 金の価格は談合で決まる!って本当 ? ー2
2010年04月13日(火)
 ハイパーインフレへの対策は、少しは金でヘッジをすべきと思っていた。しかし前回のレポートからみて、投機、投資の世界は、
私たちの窺い知れない世界。 金融シンジケートの手中にあるようだ。そのうえ、国家が金を吸い上げようと思えば、朝飯前。
利益に8割でも9割でも税金を賦課すればよい。その結果、金売りが殺到し暴落する。その後、政府が買い上げた上、その法律を元に戻す。 
一般の国民は、一時的の収益があっても中長期の利益を上げ続けることなど不可能である。アメリカの金融占領国の日本は、
そのコントロールから抜け出すことは出来ないのが現実。 近々に為替か株式かで、乱高下が起こるはず。金は世界共通通貨である。
ネズミ溝システムの米英通貨体制とすると、ドル体制を守るために金の価格をコントロール下におくのは当然。 金が真実で、
ドルを虚偽と仮説すると、ドルを発行するアメリカは、金の価格を可能な限り下げておく必要があった。 しかし借金棒引きために、
数十年かけて静かに買い集めたゴールドを、今度は暴騰させドルの価値を下げる必要性が出てきたのである。ドルの下げは
アメリカの対外債務が大きく減額される。あと1〜2年か遅くても3〜5年後には金の暴騰を中国などと組んで仕掛けてくる。 
と同時にデノミなどを世界中が一斉に実施するだろう。その前に金融シンジケートは何度かは大きな株や債権の上げ下げをしながら、
売りだされた金などの現物商品を買いに入る。 だから、5〜10年スパンの長期保有の覚悟があるなら、金は買い。
「世界は、ごく一部の人たちによってコントロールされていて、99パーセントの人たちは、彼らに搾取されている」
という、眉唾的な本を度々見かけるが、一連の恐慌謀略説など、あれは本当だったのかと考えざるを得なくなる。
 G7の首脳を動かしている力の存在は、当然、存在しているはずである。今更何をいっているかだが!
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2930,新潟清酒達人検定
 2009年04月13日(月)
一昨日の法事で、隣に座った従兄が三月に「新潟清酒達人検定」に受験、銀と銅のランクの、銀に合格したという。
・銀が500人、銅が800人が受験、合格率が7割。発表はネット上だという。
・3000円位の教科書があって、その中から問題が出て、○×で答えるもの。
・内容は、大吟醸は何の基準で決められるのか?とか、清酒のアルコール度は1〜22度まであるとかいう軽い内容が中心?
(以下、字数の関係上カット2012年04月13日)
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2566, ターニングポイント
 2008年04月13日(日)
・世界のターニングポイントは
 ソ連が崩壊した1991年か、アメリカの9・11テロの起きた2001年か、意見は分かれるだろう。
・日本は、バブルと、その崩壊の(1986年12月から1991年2月までの4年3か月の)1991年か、
 阪神淡路大震災、オウム事件、そしてネット社会の始まりをつげるウィンドウ95の発売で始まった
 ネット社会の起動の1995年か、これもまた分かれるところである。 
 世界にとって、ソ連の崩壊と、アメリカのテロによる威信の失墜と弱体化は、同じ位の意味はある。
 世界も、日本も、その背景にあるのは、情報化社会の到来によるグローバル化がある。
 民族と宗教対立が世界規模で生じてきたのである。そして中国ではオリンピックを契機に大混迷期に入る。
   ー以上のことからー
「日本はバブルの発生した1986年からウィンドウ95 ・阪神淡路大震災 ・オウム教事件の発生した10年間、 
 世界はソ連崩壊の1991年から2001年の9.11事件の10年間が、ターニングポイントの期間になる」ということになる。
これは20世紀から21世紀への時代の千年単位の変化で、その背景にIT革命などの科学の飛躍的進歩がある。 
まさか、ソ連が崩壊するとは思っていなかったし、ニューヨークのアメリカを象徴するビルが二つ瞬時に消滅するなど、
考えられない事件であった。 日本では、バブルと、その崩壊、そしてインターネットの普及は大事件である。
20以上あった都銀が、あれよあれよという間に3つに集約され、西武グループも、西武鉄道も解体された。
デパートも、ここにきて4つに集約されようとしているし、ナショナルチェーンも2つに集約された。
ターニングポイントは、10年にわたったが、その余波は政治経済の事象を大きく変え続けている。
それだけ大きな時代の断層は大きいのである。 身近では、僅か3年半で大地震が二度も起きた。
幸い事業には最小限の影響ですんだが、それでも決して甘い状況ではない。 ハッキリいえることは、これで新潟県の
エネルギーが10〜15%ダウンした。 その中で、一つ状況への対応を間違えれば事業として即死するしかない。
これは、どの事業も同じことだが。もう一つターニングポイントといえば、今年が大きな変わり目になる。
恐ろしい年と覚悟をしたほうがよい。 特に、後半に政治も経済も大波乱がある。
・・・・・・・・・
2007年04月13日(金)
 2201, 新幹線乗り越し、6回目         (~Q~;) おはよう?? ファ?
一昨夜、6回目の新幹線の乗り越しをしてしまった。飲み会の帰りの新幹線、燕三条駅まではしっかりしていたが、
その直後、少し寝込んでしまった。そして、目を開けたら長岡駅。鞄を持って走ったが、目の前でドアが無情にも閉った。
またか、と思ったが、最終便の一本前なので何とかなると慣れたもの。そして、無事Uターンした帰ってきた。
4年弱ぶりということになる。HP内検索で「新幹線乗り越し」と入れたら、出てきたのが以下の文章である。
 ーーー
2003/08/22  
 5回目の乗り過ごし
(以下、字数の関係上カット2010年04月13日)
ーーーーー
2002/02/10
 新幹線の乗り越しー4回!
(以下、字数の関係上カット2010年04月13日)
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2006年04月13日(木)
1836, ローマから日本が見えるー1            b(’0’)d おっ (゚Д゚)w  ハァよー
                 ー 読書日記
この本は塩野七生が1992年より年に一冊の割合で書いてきた『ローマ人への手紙』のローマ建国から帝国成立までを、
自らダイジェスト版にした本であり、その入門書でもある。 その意味で、解りやすい中味の濃い一冊である。
   まずは、この本の概要をまとめてみる。
 ー「なぜローマにこれほどの入れ込みをしたか」ー
著者の塩野七生は「私がローマ人に興味を抱くのは、彼らが人間性に対する幻想を抱かず、ということは、自分自身に対する
幻想を抱くことなく行動していたから」と述べている。イタリアの一地方都市に過ぎなかったローマが、有史以後最大の帝国にまで
成長を遂げ、千年以上(1229年間)に亘って世界を支配した、その原動力は何であったのか。そして、そのローマ帝国が何故衰退の道を
歩んだのか。ローマ史は、歴史の面白さに満ち溢れている。古代ローマ時代のローマ街道の道端にあるお墓に
「これを読む人に告ぐ。健康で人を愛して生きよ。あなたがここに入るまでのすべての日々を。」と、書かれていたという。
「幸運の女神は、すべての人にすべてを約束する。と言っても約束が守られたためしはない。
だから一日一日を生きることだ。一時間一時間を生きることだ。何ごとも永遠ではない。生者の世界では。」
「ローマ人の物語」の中の言葉である。人生の全てが、ローマ人の行蔵や言葉の中につまっている。
また、そこで活躍した男達の魅力は計り知れないものがある。 著者がローマに入れ込んでしまうのは自然のことだ。              
 ーローマ人の改革についてー                  
「真の改革とは再構築である」「改革とは『過去の否定』ではない」         ーε=ε=ε=(。・ω・)_旦~~
ローマに限らず、どんな国家であれ、どんな時代であれ、改革とはけっして会議で決まるものではない。
一人の指導者が現われ、みずからの信じるところに従って改革を断行しない限り、永遠に体制は変わらない。
そして変わらないで過ごすうちに、国力は衰微する一方になる。しかし、改革はむずかしい。
どんな改革であれ、それによって損をする人たちがかならず現われる。しかし彼らの反対に耳を傾けてしまえばどうなるか。
結局、どんな改革も大幅な修正をされて小幅な改良に終わってしまうのが落ち。したがって改革をやろうとすれば、
結局は力で突破するしかないということになる。カエサルは彼に最終勧告(要するに追放もしくは死刑の宣告)を与えた
元老院を潰すことなく、彼の体制の下に置いた。 ただし、改革も行った。それは従来ローマ市民にしか与えられなかった
元老院議員の資格を属州の人たちにも与えた。彼の大きな改革として私たちが今でも恩恵を受けているのはユリウス暦の制定。
カエサルは様々な改革をわずか2年で成し遂げた。           …(´Д`驚)…!!           
(字数制限のためカット 2011年4がウ13日) 

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