堀井On-Line



4598, 読書という体験  ー1

2013年10月18日(金)

           「読書という体験」 岩波文庫編集部 (編集)
 読書を体験として捉えるところが面白い。それも色いろな分野の識者の体験談?だから惹きつけられる。
   ーアマゾンの内容 よりー 
【 熱い気持ちで読んだ本で経験したことの方が、実際に経験したことより今日の私にとっては何倍も大切な
  思い出になっているのだ ―香山リカ「読書だって“人生経験”」(学者、作家、)ー 
  ジャーナリスト、俳優など、三四人の多彩な筆者による、さまざまな読書という体験。】
 まずは、読んだことのある著者から取り上げていくが、特に藤原正彦の内容が良い!
   * 教養を培う  ―私の「読書ゼミ」 藤原正彦 
《 NHKによる最近の読書調査を見ると、中学生.高校生がいかに本を読まないか、あらためて愕然とする。
 平均読書時間は一日に数分である。一方、テレビに費やす時間は、平日が約二時間、休日が約四時間である。
高校生三人のうち二人は、一ヵ月に一冊も読まないという。読書以外に、文学、歴史、思想といった教養を身につける
方法はほとんどないから、このままでは早晩、日本は無教養な人々で埋めつくされることになる。
 教養がなくとも、日常生活をつつがなく送り、幸せな人生をまっとうすることはできる。その意味で教養とは
個人的なものと言えよう。 教養がどうしても必要なのは、長期的視野や大局観を得たいと思う時である。
「長期的視野や大局観を持つとは、時流に流されず、いったん自分を高みに置き、現象や物事を俯瞰しつつ考察する
ということ」である。 このためには若いうちから、「現状」を離れ大きな枠の中で人間や社会の本質に迫ることに
慣れねばならない。そこで、時空を超える唯一の方法、すなわち読書により、古今東西の偉人賢人の声に耳を傾け、
庶民の哀歓に心を震わせる、ということが必要となる。このような読書の累積が教養である。
 長期的視野や大局観は、リーダーとなる人の絶対条件である。我が国の政治や経済政策がいつまでたっても
うまく機能せず、社会や教育が少しずつ荒廃していくのは、リーダー達の大局観の欠如による。
大局観がないと、常に時流に流され、右顧左眄し、対症療法に走るということになる。
大局観欠如の背景には、かつてあった教養主義の衰退、読書離れがある。
 リーダーだけが教養を積んでいれば、国民一般はどうでもよいかというと、そうはならない。我が国が民主主義を
とっているからである。国民の総意に基づいて物事を決めるのだから、その国民に判断力がないと大変なことになる。
民主政治は衆愚政治になりはてる。 読書離れは、民主主義を最低の政治形態にまでおとしめ、日本を滅ぼす。... 》
▼ この危機感から筆者は、大学で八年前に読書ゼミを始めた。主に一年生を対象とした週90分、半年間のこのゼミは、
 以後毎年開いているという。この内容について次回に取り上げる。 武澤ゼミの武澤教授の指導に似ている。
 事例の現象に隠されている本質は、かなりの読書量がなければ、理解不能のものばかり。基礎教養が、人格をつくり、
 それが問題を解決する。私のゼミの事例研究の前の一年は徹底的に指定された本を読まされるが、私は二年目からの参加。
 ひと月もしないうちに、己の絶対量の読書不足を自覚する。二年目の彼らに全くついていけない。それが時間が経つたび、
 ジワジワ効いてくる。それまでの読書量の絶対量の不足。この自覚が武澤ゼミの、いや学生時代の最大の収穫。
 卒業時には、ノイローゼ気味でコンプレックスの塊になっていた。特に都会生まれの学生は、読書の必要性を知っていて、
 絶対量を読んでいる人が多い。 卒業の越年を真剣に悩んだ結果、社会生活に入ってから、毎日、二時間の読書を
 続けることを心に決め、それが現在まで続いている。そのことで、心の個室を持つことができた。足の踏み場もないが・・ 
・・・・・・
4223, 神は妄想である ー4
2012年10月18日(木)
 神は妄想である ー4                        
    * パスカルの賭け              ー「神は妄想である」 リチャード・ドーキンズ著 
 学生時代に読んだパンセの「パスカルの賭け」を読んだとき、いやに納得したことを憶えている。
と同時に「裸の王様の真の姿に目をつぶって黙っていた方がお得」という、いかがわしさも感じとった。
イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の文明の対立が激しくなる中、無神論も、堂々と主張すべき時期に来ている。
パスカルの賭けも、あまり語られてないが、当然である。  ーその辺の記述の箇所を抜粋ー
≪ 仏の偉大な数学者ブレーズ・パスカルは、神が存在するという確率がどんなに小さくとも、神の有無について間違った推測を
したときの報いには、かなり大きな非対称性が存在すると考えた。< あなたは神を信じた方がいい、なぜなら、もしあなたが
正しければ永遠の幸福という利益を得るが、間違っていたとしても、いずれにせよ失うものはないだろう。それに対して、
もしあなたが神を信じないとして、それがまちがっていることが判明すれば、あなたは永遠の苦しみを得ることになるが、
正しかったとしても、何の利得もない。悩む必要がないのは明らかだ。神を信じなさい。 >である。けれども、この論証には、
はっきりとおかしいところがある。信じるというのは政治問題とは違って、あなたがどうするか決定できるものではない。
少なくともそれは、自分の意志で決定できるようなものでも、自分の意志で決定できるようなものではない。私は教会へ行くか
どうかを決定できる。私はニカイア信条を唱えるかどうかを決定できるし、聖書に手を載せて、そこに書かれているすべての言葉を
信じると宣誓するという決定をすることができる。しかし、これらの行為のどれ一つとして、私が信じていないものを実際に
信じさせることはできない。 ‘パスカルの賭けは、神を信じているふりをするための論証でしかありえない’。
そして、あなたが信じると主張する神は全知という類の存在ではない方がいいだろう。さもなければ、神はその偽装を見抜いて
しまうだろうから。「何を信じるか」ということが自分で決定できるものだという馬鹿げた考えは、ダグラス・アダムズの
『ダーク・ジェントリーの全体論的秘密探偵社』において、みごとにからかわれている。そこにロボットの電子僧侶が登場するが、
それは「あなたにかわって物事を信じてくれる」、労働節約型の装置である。 宣伝によれば、デラックス型は、
「ソルトレイク・シティ[モルモン教の本拠地]では信じないようなことを信じさせることができる」というふれ込みの商品だ。
しかしいずれにしてもなぜ私たちは、「神を喜ばせたいならば、しなければならないのは彼を信じることだ」という考えを、
そんなに簡単に受け入れてしまうのだろう? 信じることの何がそれほど特別なのだろう? 神が親切、寛容、あるいは謙遜、
あるいは誠意という報償をくれるだろうというだけのことではないだろうか。≫
 ▼ 「信じることで、神から親切、寛容、謙遜、誠意という報償を与えられるだけで、十分過ぎる」ことも確かである。
  信仰は自分で自分の首を縛るだけか、長年の歴史に耐えた教えに『良心』を育て導く道理が入っているため信じるに足りるか。
  キリスト教圏だった、自分の子供には無神論より有神論者を選ばせるのは頷ける。亀井勝一郎の「愛の無情」でも読み返すか。
  ・・・・・・
3858, 幽霊を哲学してみる
2011年10月18日(火)
  先日、ある人と食事をしていた時の話題。《 最近、自分には学校とか病院の前に屯をしている霊が見えることがある。
貴方のブログに、そういう感覚があると書いているが、このことを如何思うか? 最近、気晴らしにパワースポットに
行くのが趣味になっている。長岡には、そういうスポットは何処にあるのか? 》という内容。 それに対する私の返事は、
《 ブログに書いてあるとおり、38年前に父親が亡くなった時から10数年、シックス・センスが身についた時期があった。
 実際に経験してみて、こういうものかと思い知った。 子供の頃から両親や姉などが、幽霊の話を真剣な顔をしているのを聞いて、
 他愛無い話と子供心に思っていた。ところが、父が亡くなった直後に「父親の死にたくない不安の気持ちが夢の中で乗り移り、
 我に返った時に、父親の魂が自分に乗り移ったような奇妙な経験」をした直後から、幽体離脱や、奇妙な偶然の一致などが
 多く続くようになった。 これだけは、実際に経験してみないと分からないこと。
  しかし10数年前から哲学に興味を持ち読み続けてから、その感覚が薄れてしまった。特にカントを知り、何度も読み込むうち、
 霊の正体が理屈で分かりかけてきた。 私はカレーを食べると汗が人一倍出る。そのためカレーをイメージしただけで汗が出たり
 カレーの臭いさえしてくる。 これは、嗅覚がカレーの言葉に刺激されるからである。 それと、あなたが見える幽霊に似ている。
 そこに幽霊がいるのではなく、貴方の中にある幽霊の刷り込みの感覚が働くためである。 それが分かると、シックス・センスは、
 その入り口で遮断される。 人間の脳は、生物が20億年かけた生命の歴史が刻まれている。 霊も、その類である。》であった。
霊に関しては、そんな簡単に言い切れるものではない。 過去を振り返ると分かることだが、我々は共同幻想の中にある。 
人生は幻想の中で浮遊していているだけ。見える人には見えて、見えない人には見えない。 その見えるも脳の悪戯? 
ふと考えついたのが「目覚めた状態で見える夢」という言葉。そうすると、やはり幻覚、幻想になる。
カラオケスナックは、酒で脳を麻痺させ、映像と歌謡曲で幻想の世界を作り上げる場所。 映画館も、小説も同じこと。
 たまたま、二年前の同月同日に「 生きる幻想 死ぬ幻想 −2」を書いていた。 
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3493, 人生、よもやま話 ‐2
2010年10月18日(月)
 幼児の頃は、聞くもの見るもの全てが新鮮で遊びの対象になる。 まだ憶えているのが、初めて海を見たときだった。
長岡から当時の列車で一時間足らずの柏崎で見た青い海と、潮風の臭いと、漁船と、近くの箱に入った魚に驚いた。 
同じ歳の親戚の男の子が海岸近くにいて、近くの寺に夏ごと泊り込みで遊びに行っていた。
 実家では店のビル全部が遊び場であった。 また幼稚園に入ってから直ぐに何人かの友人が出来た。その一人が焼鳥屋の息子。
家に行くと焼き鳥の仕込みをしていた親父さんが、イオリで焼いて食べさせてくれた白モツの味は今でも忘れられない。
その店(鳥梅)は、現在もある。 そのうちに、郊外にプールが出来て夏になると通っていた。 歳の離れた兄が5メートルの
飛び込み台の上から逆さまに足を持って 吊り下げられた恐怖心は生々しい。 その頃の楽しみの一つが祭りの屋台である。
その幾つかに家族で行ったり、一人でも行っていた。 特に「チケンサマの祭り」が多くの屋台や、植木の店がたつ。
そこで一軒ずつを一日かけて見るのである。 その中で、金魚と鯉の出店が気に入りだった。父は「贅沢は敵」の明治気質の人、
三輪車以外の玩具など殆ど買って貰えなかった。 そのため、祭りでも何かを買う楽しみではなかったが、普段には見れない
珍しいものを見るのを楽しみとしていた。 その癖が現在で残っている。 あまり物が欲しいと思わないのは、そのため。
新しいデジタル商品を除けば、見るだけで満足してしまうから安上がり。骨董品を見るのは好きだが、それを欲しいと
思ったことはない。所詮は倉庫のゴミでしかないことを知っているから。 美術館で見れば充分である。
 そうこう考えると、なるほど「魂の故郷は幼児の頃の思い出」というのは肯ける。人生は記憶で彩どられている。
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3118, 生きる幻想 死ぬ幻想  ー2
2009年10月18日(日)
「生きる幻想 死ぬ幻想 」岸田 秀 (著), 小滝 透 (著)  ー読書日記
  * 一神教批判をめぐって
 多神教の日本人と一神教徒の欧米・アラブ人とは肌の色だけでなく、根本的に考え方が違う。
一神教徒は多神教の多い黄色人種や黒人を元もと見くびっているのである。宗教そのものは、本来そういうもの。
だから、今さら、そういう異種の人と割り切り付き合うしかない。 外国旅行をしていると、辛らつな人種差別を
感じとることは度々である。 今さらのことだが。 アメリカは、中近東にサウジアラビア、東洋に日本という
赤色と黄色の属国があるとしか捉えていないのである。いざとなるとCIAが陰湿な謀略を属国日本に仕掛かける。
  〜以下の文章を読むと、その辺のことが、よく見えてくる〜
 Pー6  ユダヤ教・キリスト教・イスラームは、同じ「一神教の神」を奉じる兄弟宗派です。
一般に「旧約聖書」と呼ばれているのはユダヤ教の聖典で、これはキリスト教もイスラームも聖典として認めています。
キリスト教にとっては『旧約聖書』プラス『新約聖書』が聖典であり、イスラームは『旧約聖書』と『コーラン』が聖典です。
同し神様を奉じているのに、どういう角度で見るかによって、歴史的に分派しているわけです。ですから、この三つの宗教は
「セム系一神教」とか「アブラハムの宗教」と呼ばれている。このうちユダヤ教は、一応ユダヤ民族と呼ばれる人々の
「民族宗教」で、あまりほかに拡がっていかない、むしろ閉ざされていく傾向を持っていますが、キリスト教とイスラームは
「普遍宗教」として民族・文化を超えて拡がっていこうとする。 これが非常に問題を起こすのです。
一神教というのは基本的に自分たちの神だけが真実の神である、と主張しているわけですから、他の宗教には非寛容です。
実際、他の神々を否定し、殺していきます。そして極端に言えば、自分たちの神を信じない者は人間ではないと考える。
ところが一神教徒にとって最も大きな敵は、同じ一神教の他宗派なのです。多神教徒は、劣った連中、迷妄の徒だと思って
下に見ることができますが、同じ一神教の仲間だと、そうは行きません。これはちょうど左翼の中で一番敵視して闘ったのは、
むしろ国家権力やブルジョワ階級よりも、同じ活動をしている分派の方だったのと同じ心理です。
 解釈を違えた者同士は、まったくの異教徒よりもっと敵となるんです。
 P−50 僕の仮説では、人間はもともと黒人で豊かなアフリカに住んでいた。ところがそこに色の白いアルビノが
生まれて、それが差別されて、中東やヨーロッバに追いやられた。そういった差別された連中がまたエジプトでも差別されて
生み出したのが一神教であって、もともとユダヤ教は恨みがましい宗教だという説です。自分たちが差別され、
虐げられてきたから、他に対して攻撃的になり、他を差別する。ユダヤ教は、さきほども言ったように、エジプトで奴隷になって
いた入々が、モーゼという英雄に一つにまとめられて、パレスチナに逃亡してきて、現地の神々を追い払ってつくった宗教ですし、
キリスト教も、ユダヤ教徒のなかで差別されていた人たちがつくり、ローマ帝国の中で差別された人々に広まった宗教です、
だから万軍の主という神や、復讐の神といった、自分たちを差別する連中をやっつけてくれる神を作り上げたのです。 
キリスト教がヨーロッパに拡がったというのも、ヨーロッパの特に北部は、非常に自然が過酷で、そこに追いやられた白人たちは、
人類史的に見れば、ひどく悲惨な目に遭っています。だからこそ、ああいう磔になって死んだ人が教祖であるような宗教が、
ヨーロッパ人にとっていちばんフィットしたのではないかと思います。教祖は人々が同一視できるというか、自分を
そこへ投げ入れることができるような存在である必要がありますから。
 〜〜
 多神教と一神教が戦えば、間違いなく後者が勝つことは、歴史が証明している。
 多神教にとって、一神教もその一つだが、一神教は他の神を認めないのだから、心根が全く違う。
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2753, ジム・ロジャーズの金融危機インタビュー
 2008年10月18日(土)
ライダーの投資家で知られてる、ジム・ロジャーズが、この金融危機についてインタビューしていた。 
  ー以下は字数の関係でカットー2010年10月18日
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2007年10月18日(木)
2389, こころの旅  −3         c⌒っ *・∀・)φ【才八∋ゥ♪】
  「こころの旅」神谷 美恵子 (著)
 第一章、人生の出発点の中の
 −人生の諸段階ーの説で、八段階の半分の四段階が11歳までに区分されている。
更にいえば、5歳までに三段階が終わっているのである。これからみると、小学校で既に勝負がついているのである。
いや、もっと厳密にいえば、小学校入学時に質として、もう範疇に分けられていたのである。以前、最終区分前の中学校の成績順が、
そのまま人生を決めていると書いたが、エリクソンによると小学校でホボついていることになる。そう小学校も中学校と同じことが言える。
一番、二番、三番、四番とその後の消息を聞くと、そのまま拡大した人生である。私は4番位であったが、男で7番以内で地元に
帰ってきたのは私だけである。といって兄弟でもえらく違うから、一概にはいえないのだろうが。 大學の時に当時の親友だった男に、
「お前は竹のようなヤツだ。遊ぶが、ある所までいくと元に戻って自分の姿勢は崩さない」と言われたが、それが子供の時からの親の
生きる姿勢を見てきたからである。それでも自分の殻を必死に破ろうとしてきたが、これでこのザマである。
 以下は、その人生の諸段階の部分である。意味は深い!
 (以下、字数の関係でカット2008年10月18日)
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2006年10月18日(水)
2024, ある「煉獄」の中にて             才八∋ウ_〆(∀`●)
これからの内容は本人の同意を得て書いている。
(もし本人の同意なくして書いたとしたら、本人を著しく傷つけことになる上に、裏切り行為になる。
 本人曰く「母の苦労を多くの人に知ってもらえるから、書いてもよいです!」・・)
   (以下、字数の関係でカット2009年10月18日)        
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2005年10月18日(火)
1659, 北イタリア旅行記−8
 ー旅行雑感−1
 旅行中に、色いろな思いや出来事に行き会うことが多い。ただ、文章にするには如何書いてよいものかと切り捨てている
 場合が多い。
以下は字数の関係でカットー2013年10月18日
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2004年10月18日(月)
 1294, 県知事選挙ーつれづれ
昨日は県知事選挙。 実のところ、ギリギリまで誰に入れたら良いか焦った。
以下は字数の関係でカットー2012年10月18日
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2003年10月18日(土)
927, 「楽しく生きるには」−読書日記
 学生時代の日記帳を見ていて気がついたことは、「人生楽しく」をそのまま実行していたことだ。
その点では今と変わりはない。 よく読むと、議論をしているか、本を読んでいるか、遊んでいるか、酒を飲んでいるかだ。
 以下は字数の関係でカットー2008年10月18日
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553, 基調色
- 2002年10月18日(金)
私に着こなしの事を語る資格はない。しかし、実質的合理的な着方なら話せる。背広やブレザーは自分の基調色を決めておく。
(以下、次数制限のためカット2011年10月18日)


4597, そして、人生はつづく ー6 (そして、ゲームはつづく)

2013年10月17日(木)

   * そして、ゲームはつづく
 川本三郎著の『そして、人生はつづく』にしろ、朝日新聞の「耕論」小田嶋隆のコラム『生き直すために』にしろ、
自由業の物書きが、連合いの死や、断酒による人間関係の喪失で、孤立した生活に入りざるを得なくなった中で、如何に、
耐えていくか。そこで「一人暮しになって静かな一日を送る困難と、それゆえ幸福を知るようになった」心情を書き連ねる。
一匹狼の良さと辛さこそ、人生の哀歓があるということ。
 私も小さいながらの創業人生を45年かけ生きてきた。そして、三羽のブラックスワンの出現で、事業整理に至った。
そして、人生は続いている。「そして、」の「、」が、人生の節目の意味がある。 これを境に、森の人生から、
サバンナの人生に変化したことになる。
 ところで、昨夜、C.Sファイナルステージの巨人・広島戦で、巨人の坂本と村田が、攻守でチームを救った。
自らの悪送球で2点の先行を許した村田が決定打を放ち、更に最終回にヒット性打球を二人連携のファインプレーで
劇的なゲームセットで汚名を返上した。
 坂本は、9・10月は1割7分代と極端に低迷。それでも原監督は出し続けた。その後、村田の凡ミスで先制された直後の
勝機に、解説者の予測とおりの凡打。しかし、次の打席でHRを放った。「そして、人生はつづく」の『人生』を『ゲーム』に
置換えたようなドラマ。手痛い凡ミスと、勝機での凡打を全国注目している中だから、地獄から天国といった心境だろう。
こういう極限の中で、はね返すのが一流の証拠。 二人にとって、「そして、ゲームはつづく」で、劇的快打とプレー。
そして、お立ち台でインタビュー。 二人にとって、凡ブレーの後、「そして、」の気持ちの切替が出来るのだろう。
しかし、「そして、人生はつづく」には、孤独な平凡な日々で静かに己を律するしかない。
 人生にも、勝負にも、「、」と「。」と、行(ぎょう)かえが必要ということになる。 
 「国敗れて山河あり」 そこは微粒子に満たない小さな小宇宙でしかない。
・・・・・・
4222, つれづれに ー国家危機!
2012年10月17日(水)
    * 生々しく聞こえてきた世情の話
 「赤表紙本」といえば、経済状況を大げさに書きたて、不安を書きたて本を売る方法に使われる。「読むほうも、書くほうも、
割り切って読んでいる、」のが一般の見方。ところが、どんなにオーバーに書き立てても実際の現象になると、それを遥かに
超えるから恐ろしい。「欧州危機、恐慌と騒いでいるが、今だに起きてないじゃないか」というが、早いか遅いかの差で、
間違いなく起こるのは確か。一昨日も、BS/TVで、こんなことを放送してよいのかと思われるほどの過激なレポートだった。
そのゲストのブログで、現地の惨状の実態を読んではいたが、それをTVで流すのだから、一般の人は、驚くはず。 
 要は、日本円の預金をドル建てに替えて持つべきとか、日本も、PIIGS並みに数年内になる?とか・・ ギリシャやスペインの
街中で出会った人の生々しい窮状は、日本にいては分からない。まず一部勝ち組と、大部分の負け組みがいて、その負け組みも、
二分される。一年分の生活費の蓄えがある人と、数ヶ月以内に教会の食料配給の列に並ぶ人に分けられる、とか。
歯医者の開業医が、店を閉めたという、殆どの人が歯医者にかかる金が無いので、経営が成り立たなくなったという。PIIGSでも、
アイルランドのように国が一体になり再建を始めたところと、ギリシャのように国家がバラバラで、その意欲が全くない国がある。 
 それは日本でも同じこと。家内から聞く世情の話は、一部勝ち組と大部分の負け組みの段差の内容が、日常のリアルの内容になる。
家内の友人の勤め先の話。「顔が腫れているのに、そのまま。病院に行かないので変と思っていたが、その人、お金が無いため
行けないと、後で知った!でも、いつの間にか腫れが直ったみたい!」。 国内では預金ゼロ世帯が三割。それなら病院にいく
金も無いに等しい。 失われた20年で中流といわれる大衆は、本当に貧しくなった。 他人事ではない。 昨夜もNHKの
「クローズアップ現代」で、欧州危機を放送していた。実際に起こったら、どうなるのだろうか? 私の出来る範囲で恐慌の
備えの大方は終わったが、実際になると想像を遥かに超えるはず。まだ平和ボケの範囲でしかない。まだ火の手は上がってない。
・・・・・・
3857, Macの創業者のジョブス
2011年10月17日(月)
 Macの創業者のジョブスが先日、亡くなった。 iMacパソコンを二台、iPodを二つ、
iPhone(現在はドコモの携帯電話に逆戻り)、iPadと、最近買った端末は、ほぼMacである。
iPhoneは、小さすぎて指入力に戸惑い使い切れなかったが、他は及第である。
iPhoneには驚いたが、最近買ったiPadには感動もの。 デジタリアンと自認しているが、
実はジョブス・ファンだったようだ。 先日、NHKの「クローズアップ現代」で、ジョブスの死を悼んで
 『世界を変えた男 スティーブ・ジョブズの素顔』として報道番組を組んでいた。
ここで孫正義が、《 彼は商品、製品を生み出すのではなく、ジョブスの作品を生み出している。デジタル端末などの人間化を
テーマに、高度のマニアしか使えないデジタル機器を、普通の人が気楽に使える作品を作り上げてきた。iMacなどのiは、
愛に通じる。もし、彼が20年、30年生きて、最後に自分が作りたい作品は「iRobot]と、提示するのでは!
彼は、芸術とテクノロジーを両立させた正に現代の天才。数百年後の人々は、彼とダ・ヴィンチを並び称するだろう。》
とまで、賞賛している。今までのパソコンと比べると、マニアが使いこなしていたデジタル端末とネット世界を、ごく簡単に、
我々一般人が使えるようになっている。だから、何だと言われれば、それまでだが、知的好奇心が強いものにとって、これほど
有難いものはない。それにアプリが豊富にあることが、相乗効果になっている。ジョブスのように明確な形で(身近なモノ)で、
世界を変えてしまうのも、グローバル化の一つである。 本人自身、もっと生きたかったはず。
 ー NHKのHPの紹介文から ー
≪ iPhoneやiPadなど時代の一歩先を行く革新的な製品を生み出し、IT企業「アップル」のカリスマ経営者として知られた
 スティーブ・ジョブズ前最高経営責任者が5日に亡くなった。明確なビジョンと強いリーダシップでアップルを率いてきたジョブズ。
 製品の細部にまで妥協を許さない徹底ぶりや、卓越したプレゼンテーション能力は世界中の多くの人々を魅了してきた。番組では、
 ジョブズを身近で知る人々の証言や、ジョブズの言葉、かつてクローズアップ現代に出演した時の貴重な映像などを通して、
 IT界の天才と言われたジョブズ氏の素顔と、次世代へのメッセージを綴る。 ゲスト:孫 正義さん(ソフトバンク社長) ≫
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3492, 実践・50歳からの少食長寿法
2010年10月17日(日)
「実践・50歳からの少食長寿法-粗食革命のすすめ 」幕内秀夫著
  ーアマゾンの内容説明からー
 50代から、量を減らして質を高めれば歪んだカラダもすべて治る。 朝食断食、一日一食法から食材、水、調味料の選び方まで、
食卓を「宝食」に変える知恵と工夫!!貧困から脱却していろいろなものを食べられるようになった「豊食」くらいで止めれば
よかったはずです。ところが金にあかせて食を粗末にする「飽食」が当たり前となってしまったのです。しかもそれだけでは
済みませんでした。バブル期を迎えた日本人は、1人当たりの残飯量はアメリカを抜いて世界一ともいわれながら、中身を吟味しない
「泡食」に突き進みました。一方で「粗食」を放棄したために体調を崩してしまい、いわば「崩食」と呼ばれる食生活を送るように
なりました。さらには、無意味な健康情報に惑わされふり回される「呆食」の時代を迎えています。
こうした愚かなホウショクを、真にぜいたくな「宝食」に変える。
これこそが天命を待つ50代にふさわしい食生活なのではないでしょうか。
●みそ汁を飲むとがんは防げる?   ●更年期障害になる人、ならない人  ●長寿日本一、岐阜県和良村の秘密
●4ヵ月で7キロ減の4つの方法    ●朝食断食・一日一食のどちらかで  ●沖縄長寿神話の崩壊
●歩いて旅して3000キロ      ●自己防衛の「食の10ヵ条」  ●フードマイレージという考え方 ●命を与える偉大な発酵食
 〜以上だが、分かりやすく実行しやすいという内容である。最近、逆に昼飯をサンドイッチなどパン食に切かえたが。
  この中で自己防衛の「食の10ヵ条」が分かりやすい。
1、食事は量より質にこだわる  2、主食は御飯   3、発酵食品を食べる  4、砂糖、油脂のとり過ぎに注意  
5、パンを常食にしない      6、液体でカロリーをとらない       7、副食は季節の野菜を中心に   
8、動物性食品は魚介類を中心に   9、未精白の御飯に挑戦する       10、食事はゆっくり、よく噛んで
  要は昔ながらの日本食が健康食になる、ということになる。
御飯は玄米食で、納豆、味噌汁、季節の野菜を、量を少なめにし、ゆっくり噛んで、食べていれば良いということだが。
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3117, つれづれに  〜閑話小題〜
2009年10月17日(土)
  * 電動自転車を注文
 小学校4年時に、父親に自転車を買ってもらって以来、自転車を個人として持ったことがない。
中高校時代には何処の家にも一台はあったが個人としては持てない時代であった。子供時代の記憶に、
あまり乗りまわした記憶がない。 成人になってからも乗った覚えがない。 この25年間はウォーキングで
一万歩以上歩くことを心がけてきたこともあり、チャリを乗る距離なら歩いてきた。 ところが最近になって
自転車ブームになった。 またUターンしてきた長男がスポーツタイプの自転車を乗り回しているのを見て
自分も自転車が欲しくなり、数ヶ月前から自転車の選定を始めた。しかし、いざ買うとなると、なかなか決心が定まらない。
ママチャリか、スポーツタイプか、車輪の小さい折り畳みか、電動自転車か、など結構迷う。思い切って決めれば良いのだが。 
 ところが10日ほど前の新聞記事に「スポーツ用品チェーンの《アルペン》が、59800円の電動自動車を発売」
の新聞記事をみて、HPから注文をした。納入が10月末の予定である。選定で、まず考えたのが使用目的。 
あれこれ考えたが一番が休日のサイクリング。 他にも、休日の川崎のSC、図書館、公園。 
電動ということで、川向こうのSC、遠出のサイクリングなど、結構ある。
 ところで、ここで紹介した電動マッサージ、海老そり屈伸マシーンなど、その後どうか?というと、朝晩に数回使っている。 
どれもこれも愛用品になっている。 もちろん、ベースに毎朝の一時間近いウォーキングをした上で、それらを補助にしている。 
そして、次のマシーンが電動自転車である。iPodや、健康機器など自分に合うものが見つかると本当に良い。 
あれば使う、無ければ使わない、ただそれだけだが、あっても、使わないものも結構あるが!
   〜〜〜
  * いわしの群れになるな!というけれど
(次数制限のためカット 2011年10月17日)
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2752, サブプライム問題の6つの波とは
2008年10月17日(金)
 株の相場に興味のない人でも、今回の金融危機のタダならぬことに気づき始めてきたようだ。
今年の年末から数年にわたり、過って経験したことのない現象に遭遇することになる。
恐らく半数近くの事業所が閉鎖され、失業者が10パーセント以上、ハイパーインフレが襲い、食糧危機が襲うなど、
想像外の事態にジワジワ追い込まれる。 既に秋葉原の無差別殺人や、親の子殺し、などの予兆はあったが・・・
 リーマンブラザーズの倒産以来わずか一ヶ月で起きた一連の金融崩壊と、フォードとGMが倒産でもしたら
アメリカ炎上といっても過言でない。 歴史的大事件を毎日、目撃していることになる。
 この影響を一番被るのが、やはり日本。 それがハッキリするのが年末から来年の5月にかけてである。
まずは倒産ラッシュだろう。 この十数年で淘汰されるべきところはされたが、しかし、今度の津波は根こそぎ
私たちの生活を破壊するほど強烈になる。まずは衰弱の激しい地方の企業と地銀から問題が発生する。
銀行は金を貸さなくなり、売り上げは、平均30%は落ちる。 それで立ちいかなければ、消え去るしかない。
あれだけの思い切った資本注入を発表して、二日間しか相場が回復しなかった。 目先のカンフル剤になるはずだが? それさえもである。
GMが倒産した場面で6千円台をつける可能性がある。日本の生保・銀行の含み益が大きくマイナスに転じ体力を消耗する。
今回のサブプライム危機をステージとして、次の六段階になる。(参考ー日経、10月5日ーサブプライム危機ーより)
1、去年の8月のフランスのパリバショックである。
  −金あまりを背景とした欧米での信用膨張が瓦解を始めた瞬間ともいえた。銀行間の取引こ疑心暗鬼が広がり、
   中央銀行による多額の流動性供給など当局も緊急対策姿勢を強めた。
2、次に来たヤマ場は2008年2月、米証券大手ベアー・スターンズが資金繰りに行き詰まり実質的な破綻状態になったこと。
  円相場は一時=95円台に上昇、日経平均株価は12000円を割った。
3、三つ目のヤマ場となったのは7月。今度は米国の連邦住宅抵当公社(ファニーメイ)など、住宅公社二杜の経営悪化問題が浮上した。
  金融不安は現実の金融危磯に発展、
4、9月15日に米証券大手リーマン・ブラザーズが破綻したのである。
  米証券大手メリルリンチは米大手銀行パンク・オブ・アメリカへの身売りを決めた。
  リーマンは救済されるとの観測が大勢だっただけに市場では大きなサプライズと受け止められた。
  これを機に欧米の金融機関同士の疑心暗鬼は一段と強まり、各国中央銀行が大規模なドル資金供給を続けたものの、
  銀行間金利は上昇を続けた。
  (字数制限のためカット 2010年10月17日)
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2007年10月17日(水)
2388, こころの旅  −2
   「こころの旅」神谷 美恵子 (著)
第一章 人生の出発点 の心の琴線に触れた部分を取りあげて考えてみる。
 ーー ーP.22
 天井からぷらさがったガラガラの動きに赤ん坊がよろこんでさらに手足を勤かすと、ガラガラはいっそういきおいよく
動いて音をたてる。これを何度もくりかえしているうちに「条件づけ」ができて、赤ん坊には何となく自分の動きと
ガラガラの動きとの間の因果関係がわかってくる。この感覚運動的知脳が発達してくると、今度は紐のついていない、
(字数の関係で中間カット2009年10月17日)
解)
両親の愛情の温もりが直に伝わってくる人がいる。特に幼児期に両親や周囲の愛情をシャワーのように受けた人である。
深い愛情を受けると、人は笑顔になり周囲に対して積極的になるものだ。そして、それが性格の基礎としてカタチつくられる。
如何に幼児期の愛情が大切か身近の人を見ていると実感する。人間は絶対量で既に一生は決まっているといって過言ではない。
簡単にいえば温かみのある人で人品が良いともいえる。こういう人は本当に強いし、弾力性があり、不幸の方が弾き飛ばされるようだ。
反対に全くそれを感じない人がいる。 そういう人は直に解る。貧すれば鈍するでないが、両親の不仲の環境に育った人である。
自意識過剰で、自分を過大に勝手に評価、直に手の裏を返す。自分の顔に責任を持て!というが、顔と目に出るから恐ろしい! 
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2006年10月17日(火) 2023,
「私」のための現代思想  −12
 (字数の関係でカット2008年10月17日)
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2005年10月17日(月)
1658, 北イタリア旅行記−7
ツアーの楽しみの一つに、普段なら会えない人と会えることがある。一度会ったら二度と会わないから、気楽に何でも話せる。
共通点は旅行愛好家ということで互いの情報交換が気楽にできる。その中で色いろな人生が、それぞれ垣間見ることができる。
また私たちも彼らから同じ視点から見られているのだろう。今回は、北イタリアという場所ということもあり欧州派がそろった。
アフリカとか南米とかシルクロードなど殆ど誰もいったことがない。反面、欧州には隅々まで行っている人達ばかりで、
殆ど話がかみ合わなかった。特に、イタリア愛好家が何人かいて、イタリアへの深い愛情を感じた。
好きなものは好きなのだ。イタリアに行けば、その理由はよく解る。ローマ帝国から続いている長い文化が味わいがある。
どの街を見ても深い文化と歴史を感じることができる。イタリアとは関係ないが、面白い人がいた。趣味として、
デジタルビデオを番組風に編集してしまうのだ。元映像カメラマンの人で、編集には熟知しているから可能だという。
過去に30本以上も番組として完成してDVDに収めてあるという。5~6枚この旅行に持ってきてミニDVDデスクで見せてもらった。
奥さんが劇団にいた人で、ナレーターをして共同制作をしている。NHKなどで放映している海外ものの番組の内容と
同レベル?である。まず映像を編集して、ナレーションの内容を考え、バック音楽を選定し45分位にまとめ上げなくてはならない。
集中して三週間はかかるという。それにしても、旅行者として羨ましい限りである。そのテープを旅行代理店のツアー説明会に提供
しているようだ。代理店にとって、宣伝用の番組をつくるのには数百万円は最低かかるからそれを借りることができれば便利である。
「一人位、ツアーに半額位値引きしてでも?」と、考えるのは私の卑しい考えになる。何よりも、つくっている本人が
一番楽しいだろう。一度つくれば、コピーは簡単である。ボランティアとしても、誰からも喜ばれる。
今回も、希望者に送ると全員から住所を聞いていた。同行のツアー仲間にしてみれば、夫婦のビデオカメラマンを
引き連れていったと同じ。この夫妻にとって、最高のものを与えることで喜ばれ繋がりができる。
自分も楽しみ、そしてそれが因縁のある人達に最高に喜ばれる。人生の最高の楽しみになるはず。世の中は広いし、人生の達人がいる。
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2004年10月17日(日)
1293, 「閑」のある生き方ー読書日記 −3
「今ここに」を、更に考えてみる。
 ー前回では 「空」を時の上から解釈して、「即今」、 平たくいえば、ーただ いまーと解釈した。
 「空」がわかるというのは、その「ただいま」がわかるということである。
(字数制限のためカット 2010年10月17日)
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2003年10月17日(金)
926, 180円ラーメン
 新潟市内で目についた180円ラーメン店に入ってみた。180円のラーメンと、色いろなトッピングを付けたラーメンと、
餃子とチャーハンのセットがメニューの基本であった。 ー何処のラーメン屋もそうだが。
  (字数制限のためカット 2013年10月17日)
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552, 人生に目的はあるのだろうか?
- 2002年10月17日(木)
この年になると人生の仮決算期に入ってくる。「自分の人生はハタシテこれでよかったのだろうか?」
「人生に意味などがあるのだろうか? 有るとすればなんだろうか?」そういう話が最近面白くなってきた。 
 人生の目的とは漠然と考えてみるとー
 (字数制限のためカット 2012年10月17日)
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2001/10/17 
「189」ツアーのプラスとマイナスを考えてみる
  ーマイナス面ー
 (字数制限のためカット 2012年10月17日)


4596, 2050年の世界 ー19  

2013年10月16日(水)

第六章 宗教はゆっくりと後退する ーのまとめ
・地球上には約一万の宗教があると言われ、2000年の時点では、信者25万人以上の宗教は270を数えた。
・世界人口に占めるイスラム教徒の比率も、1900年には12・3パーセントだったものが、一世紀後には
 21・1パーセントへと大きく膨らんでいる。この原因はもっぱら、イスラム諸国の人口爆発に求められる。
・キリスト教とイスラム教はこの一世紀、世界の各地にある民間信仰、土俗宗教の信者を奪って伸長してきた。
・貧しければ貧しいほど宗教に帰依する割合が高くなり、豊かになればなるほど、宗教は相対化されていく。
・数の上で、宗教に帰依する者の数が1970年代を境に増えているように見えるのは、中国政府が国民に宗教を認める
 ようになったからであり、それは、本来宗教を信じていた人たちが、顕在化し見えるようになっただけとも言える。
・宗教性の高い国の出生率は高くなる。また同じ国内でも、信仰心に篤い人々のグループのほうが無宗教の人々の
 グループよりも多く子供を産む。先進国の中の無宗教の人々のグループはもっとも低い出生率である。
・経済発展の遅れと宗教性の高さには、強い連関がある。貧困と宗教の強い結びつきは国内にも存在する。
 ポスト産業経済に属する各国を見ると、最も貧しい階層の宗教性は、最も豊かな階層より約2倍も高い。
・したがって、現在出生率が高く人口の配当を受け経済成長を続ける新興国も、先進国化するにしたがって、 
 宗教は相対化され、無宗教者の割合は増えていくことになる。
▼ 宗教は共同幻想の最たるものだが、その共同幻想なくして生きられないのが人間。共同幻想は先進国化することで、
 幻滅になっていき無宗教者の割合が増えていく。情報が行き交い知識を持った人が多くなった世界で、神様の存在は、
 軽くなるのは当然の成り行き。しかし、「自分が、いま、ここに存在している不思議」を考えると、神の存在に
 結びつけるのが手取り早い。そろそろ、いつ何時、死を宣言され、恐怖のどん底に突き落とされる年代になった。
 余命半年を悟った時に慌てふためいても、時、既に遅しである。神のみもとに帰っていくと心から信じるには、
 長い信心の時間が必要である。どの神を信じますか?は、どの共同幻想のイメージを選択しますか?と同じ。
 金と神は共同幻想という面で、似ている部分が多い。で、金に余裕ができれば、両者の本質も見えてくる。
 既存の宗教による刷り込みの力は、あまりに大きいが、それ以上に、情報化は、それら刷り込みを破壊する。
    ー で、偶然だが、去年、一昨年の以下の文章が丁度良く続いていく。
・・・・・・
4221, 神は妄想である ー3
2012年10月16日(火)
 新約聖書、旧約聖書は、生々しい逸話で満ちている。神仮説は、超人間的、超自然的な知性=‘ラージX’が存在している
という仮説である。アブラハムがヤハウェという神をつくりあげた。その神に、現在も何億という民が、聖地に向けて祈っている。
初めてイスラム圏のカイロに泊まった早朝、異様な「アッラーの祈り」の声。丁度、ラマダンだったこともあり、目を据えた
人々が住む異世界に驚いてしまった。 その祈りは数百年も続いてきた生活の一部であり、アッラーの神が存在しているのである。
   * 可愛げない神仮説            ー「神は妄想である」 リチャード・ドーキンズ著
≪ 神がいるという仮説(神仮説)は、もっとも可愛げのない証拠事例である。
面白みのないキリスト教の顔である「おとなしくて優しい寛大なイエス」にも、その正否を委ねるべきではない・・・
私は、ヤハウェの、あるいはイエスやアラー、あるいはゼウス、オーディンなどの他の特別な神の特定の性質を攻撃しているわけでない。
むしろ私は、神仮説をもっと弁護のしようがある形で定義したいと思う。すなわち、宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを
意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説である。本書でその代案として提唱される考え方は、何かを
設計できるだけの十分な複雑さを備えたいかなる創造的知性も、長期にわたる漸進的進化の単なる最終産物にすぎないというものである。
進化によって生じた創造的知性は、当然のことながら、すでにできあがっている宇宙に後から生まれてくるのだから、その設計に責任を
もつことは不可能である。このように定義された意味における神は妄想である。そして、それは有害な妄想なのだ。
神仮説は、証拠よりもむしろ個人的な啓示にもとづく地域的な伝統の上に築かれたものだから、さまざまな変形版があるとしても
驚くにあたらない。宗教史家は、未開部族のアニミズムから、ギリシア、ローマ、北欧神話の神々のような多神教を経て、ユダヤ教
およびそこから派生したキリスト教やイスラム教といった一神教にいたる発展過程を認めている。・・・  (中略)
 ・・われわれの文化の中心にあって、口に出すのがはぼかられる最大の悪が一神教である。『旧約聖書』と呼ばれる野蛮な青銅器時代の
教典から、三つの非人道的な宗教が進化してきたーユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。 これらは天空神をもつ宗教である。
文字通り家父長的 ー神は全能の父ー であるため、この天空神と現世におけるその代理人である男に苦しめられた国国では、
二千年にわたって女性蔑視がつづいている。・・・(中略)
 ・・三つのアブラハム宗教のうちでもっとも古く、他の二つの祖先と言ってまちがいないのがユダヤ教である。
もともとは、猛烈に不愉快な一つの神をもつ一部族のカルトにすぎなかった。この神は、性的規制、焼けこげた肉のにおい、
他の神々に対する自らの優越、そして、選ばれた砂漠の民の排他的権利というものに病的にとりつかれていた。
ローマ人がパレスティナを占領していた期間に、タルソスのパウロによって、ユダヤ教のそれほど無慈悲ではない一神教的宗派として
キリスト教が興されたが、これは排他性も薄く、ユダヤ人の外の世界に目を向けたものだった。数世紀後にムハンマドとその弟子たちは、
もとのユダヤ教の断固とした一神教に回帰したが、その排他性は引き継がず、新しい聖典『コーラン』にもとつくイスラム教を興し、
信仰をひろめるために軍事的に征服するという強力なイデオロギーを付け加えた。・・・ ≫
 ▼ 最近、宇宙が一つでなく10の50乗の気が遠くなるほどの数があるという説が現れた。その中で、アラブの蛮族から
  発生した一神教の神は、アブクでしかないことが分かる。しかし、信心は、そんなもので揺らぐほど強いのである。
  人間を人間たらしめている情報伝達手段の言葉が、イメージを作り上げるようになった。そのイメージは、大自然の神秘と力に
  神をイメージしたのが、アニミズムになっていった。それが、部族間の争いを大きくしていき、現在に至っている。
 ・・・・・・
3856, 猿の惑星:創世記
2011年10月16日(日)
 先日、「猿の惑星:創世記」を長岡シネマで見てきたが、極めてシリアスなストーリー。
「猿の惑星」をみたのが40年数前。 その時の衝撃は現在も残っているが、20歳代半ばの記憶が今でも鮮明に残っているのは、
猿が人間を支配している意外性である。 その後、何本か続編が続いていた。 今回の、猿が人間と逆転するキッカケの創生の物語は、
不気味で恐ろしい原点を私たちの前に展開している。 結果は初めから分かっているが、筋書きが初めから終わりまで重い。
猿とチンパンジーの差より、人間とチンパンジーの遺伝子の差は小さい。今世紀中に類人猿の人権擁護法も出来る可能性もあるという。
 物語は、製薬会社がアルツハイマーの新薬の開発にチンパンジーを実験に使っていたが、その効果は上がっていたが、何かの切欠で
暴れてしまい射殺されてしまう。 しかし、そのお腹に赤ちゃんが宿っていて、それを秘密に持ち出した男が、育てあげる。
しかし母親に(実験のため)投与されていたアルツハイマーの新薬が、その子供に影響しており、育つにつれ飛躍的な能力を発揮する。
問題は、人間の能力より遥かに高くなっていたこと。 そして・・・、 と物語りは展開していく。
 初めは、人間サイドから見ていた筋書きも、何時の間にか類人猿の創生の物語に転化され、チンパンジーの目からみた人間社会の
文化の非難へと引き込んでしまう。 チンパンジーの目から逆照射した人間社会への視線は痛いほど。
創生者?のチンパンジーの名前が、シーザーというのも良い。 ところで、アルツハイマーの新薬が、私の目には現代の携帯端末か
タブレットPCに思えた。 誤解を恐れないでいえば、《 欧米の白人からみたら、チンパンジーが有色人種。
新薬が携帯電話と端末とPC、そしてネット。 これは後進国といわれている人たちの知識を飛躍的に進化させる劇薬に匹敵する。
一度与えてしまった劇薬は、世界中の底辺の人々に自由と平等の概念を植えつけてしまった。 欧米中心で世界が動いてきたが、
それが崩壊過程にあるのが、現在の世界の現状である。 20年、30年前には想像すら出来なかった事態が日々刻々進んでいる。
 今度の福島原発事故は、それを世界に知らしめてくれた。 情報端末とネットだけでなく、人間が作り上げてきた文化、
文明の象徴が、アルツハイマーの新薬開発と、チンパンジー創生と考えると、現在が見えてくる。
 ・・・・・・・
3491, しあわせの法則
2010年10月16日(土)
 先日、昼飯に入った店の週刊誌に「しあわせの法則」のタイトルの記事があった。
何かの本を要約し噛み砕いたもの。調査の統計はシビアな現実を表している。
 その場で意識して記憶したが、9つ、一つ残らずに憶えていた。
1、男性より女性の方が幸福の人が多い。
2、都会の人は大よそ幸福と思っている。
3、学歴が高くなるほど、幸福の人が多い。
4、年収700万、資産合計2千万が幸福の臨界点(それ以上になってにあまり変わらない)
5、幸福の八割は遺伝する。
6、国による税率の大小は、幸福に関係ない。
7、失業の不安感は幸・不幸に大きく関係する。
8、年齢が高くなるほど幸福度は低くなる。
9、その人の経験は、大して幸不幸に関係しない。(連れ添いの死の傷は9ヶ月で消える)
 ー [幸せ]については何度か取り上げてきたが、現実はシニカルである。
 見方によれば辛辣だが、実際に学歴を見ていると、中学校、高校、大学の友人の実例をみていると肯ける。
豊かで教養ある両親の元で、順調に育った人間は、その後の人生で、同じような生き方になっていく。
何度も書いているが、最終振り分け前の中学校の同級生の、その後の人生も、その格差が大きくなっているだけ。
家柄?が、運命そのものになっている。 とはいえ、それも目くそ鼻くそとは一概にいえない。実際は10歳までに決まっている。 
そうこう考えると結婚相手の選別と決断は重要である。 特に女性にとっての伴侶は、男より大きく人生を左右するため、
ドライになって当然のこと。 相性の当たり外れは五分五分と言うから、結果は神のみぞ知るである。
またブルーカラーより、ホワイトカラーの方が、概ね幸せの人が多いという結果もあるという。
 人間は不平等に生まれ不平等のまま死んでいく。「しあわせ」は、能力の一つか。
 ーーーーーーー
3116, 久々のジョーク −5
 2009年10月16日(金)
* ある日夫が妻と夫婦喧嘩をした。夫は怒りのあまり誤って妻を殺してしまった。焦った夫はすぐさま死体を自分の家の庭に埋めた。
それから数週間が経った。夫は5歳になる一人息子に言いました。「なぁ、ママが家出したまま長いこと帰ってきてないけど
お前は何にもいわないな」 そしたら子供が言った。「じゃ、パパは何でママをずっとおんぶしてるの?」
 〜〜〜
* あるユダヤ人が交通事故にあって歩けなくなったとして多額の保険金を受け取った。
しかしながら保険会社としては保険金詐欺ではないか?との疑いを持っているようだった。
入院しているユダヤ人を友人が見舞った。「大金をもらったといっても一歩も動けないんじゃ仕方ないね」
「いやあ、そうでもないさ。」「でも歩けるとなったら詐欺罪でブタ箱行きじゃないか」
「大丈夫、とりあえず退院したらフランス行きの飛行機の切符買ってルルドへ行くから」
 〜〜〜
Q1: すでに8人の子供があり、うち三人は耳が不自由で、二人は目が不自由、一人は精神面で成長阻害が見られ、
  そして本人は梅毒を患っている妊婦の知り合いがいるとする。 あなたは、彼女に妊娠中絶を勧めるか?
   解説は、次の問題を解いてから見てください。
(字数制限のためカット2011年10月16日)
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2751, 米国大統領は激戦区の白人の黒人観で決まる?
 2008年10月16日(木)
アメリカ大統領は、このままではオバマで決まりそうだが、実は結果を待たないと分らないという。
アメリカの黒人差別は根強いものがあると昨日の 毎日新聞の「記者の目」 の論説員のレポートは説得ある。
今回の正副大統領候補は、黒人、女、そして老人の組み合わせで、壮年の白人は一人もいない。
 ーーまずは、その辺をコピーしてみたーー
ずっと気になっている。これまで来国では白人男しか大統領にならなかった。さて、今年、黒人あるいは老人を大統領として、
そして女住を副大統領とて受け入れる用意が米国にあるだろうか。そうした個人の属性は人の意思では変えられい。
そこに優劣や価値をつけ、反対票の理由にする。そんな人がどれぐらい多いか、という問題だ。投票まで3週間を切った
大統領選挙の最大の政策課題はもちろん経済だ。しかし、票の争点にはならないので気づきにくいが、今年、米国人の投票行助を
左右する争点が三つあると思う。それがへ人種、年齢、男女の性差だ。米国は、この3点を根拠に、他人を差別してはならない。
 (字数制限のためカット09年10月16日)
・・・・・・・・ 
2007年10月16日(火)
2387, 新潟経済は今          *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ
 先週の金曜に取引先の地銀の担当が「判・仕事」で事務所に来た。
 そこで最近の地元経済の状況を聞いてみたところ、担当が浮かぬ顔をして言うには、
 ・地元は一部自動車部品メーカーを除いて中越沖地震を境に悪化
 ・特にマンションや一般住宅が売れなくなり、露骨な値引きが始まっている
  さらに建設中や予定のマンションが十数棟もある
 ・風評のためホテルや飲食店の売り上げが減少、回復の兆しがない
 ・不動産の動きも芳しくないという。
 中越沖地震が地元経済にとって甚大な影響を与えている。さらに手取り収入の減少、年金問題の不安感の増大、
農家の実質収入の激減など、多くのマイナス要素が重なっているためだという。先週の金曜日に長岡で飲んだが、
お客の数は少ない。客単価を上げようと店の方は必死。それはそれでよいが、健康も含めた対策として飲む回数を減らす。 
地方は、特に新潟県は、ますます疲弊しているのが実情である。 しかし、地方の疲弊は前ぶれ、関東・東海地区にも遅かれ早かれ
波がくることは必定。3〜5年後を考えると何か恐ろしい雰囲気である。ただ当方は目先は大口の団体が半年にわたって入ったのと、
駅の再開発が始まったので、一応目途は立っているが。ただ全体の地盤沈下はいただけない。昨日、都銀の担当がやはり
「判・仕事」で事務所に来たおりに、同じく地場の景気の状況を聞いてみたが、内容はホボ地銀の担当と同じ。
・中越沖地震が大きなキッカケで、デフレスパイラルの様相。
・コストは上がるが、それを売価に転換できない矛盾が全ての業界に出ている。
・地震が二つ続いたことで設備投資に対して、県内外の会社は及び腰で、その影響は大きい。
 それらが複合的にジワジワ経済に影響して地域の地盤沈下を大きくしている。
今日で丁度柏崎沖地震から3ヶ月、その影響は地元にとって一過性の問題ではない。三年もたたないうちに二度起きたことは、
県内外の企業の設備投資に冷や水をかけた。さらに年金の不安も重なり、住宅の買い替えなどは躊躇するのは当然である。
さらに大きな問題がある、北陸新幹線の開通で環日本海都市が金沢になることだ。歴代の政治家に新幹線を日本海(飛行場)まで、
10キロ延ばさなかった重大な過失がある。延ばしておけば、そこに野球場や、サッカー場、物流基地、飛行場の拡張などが集積し、
環日本海の関東の拠点としての機能が集積していたはず。今更、開通しても遅いが・・これも県の民度といえば、それまでである。
駄目になるには訳がある! それにしても金沢は富山、福井県と能登半島、岐阜高山を至近に控え、
東京と大阪の距離のバランスも良い。どっちにしても新潟より金沢である。     ☆w(´・з・`)バァイ
・・・・・・・・
2006年10月16日(月)
2022, 「ちょい悪」の一考察
     (。^0^。)ノ オッ(*^○^*)ハ〜 ヨウ
  「ちょい悪親父」の「ちょい悪」 =不良= の意味を考えてみよう。
子供の頃「不良」という言葉には、不気味な響きがあった。ヤクザモノというか、前科者か、その予備軍という意味があった。
徒党を組んで同級生弱い者虐めや万引きをするゴミのような連中で、誰の目にも卑劣の負け犬ということが歴然としていた。
    (字数制限のためカット09年10月16日)
・・・・・・・・・・
2005年10月16日(日)
 1657, 世界の絵画50
今回の北イタリア旅行でも、フィレンツェのウフィツ美術館で素晴らしい絵画を多く見ることができた。
実物を見ないかぎり、その絵画の背後にある意味を知ろうするには余程のキッカケがない限りできないものだ。
    (字数制限のためカット13年10月16日)


4595, 閑話小題 ーアフォノミクス

2013年10月15日(火)

   * アフォノミックス ーアフォが、三本の矢のミックスといっても!
 安倍内閣の経済政策に否定的で、先行き悲観論の経済学者・浜規子が、久々にTVに出演、アベノミクスを批判。
こんなバブルは直ぐに崩壊するのは自明のこと。 アベノミクスに対する街のインタビューで、20、30歳代の
17%に対し、40歳以上の74%がバブルを望んでいる結果であった。バブル経験者の多くが、
その恩恵の味が分かって期待するが、未経験の年代層はいずれ弾けるバブルに期待していない、と冷け気味。
 浜規子は、「1980年後半のバブルは4年数ヶ月つづいたが、今度は、そこまで続かない。 前のバブルは、
中産階級の風船が膨んだが、今回は、その萎んだ風船に再びガスを入れるのでなく、別の風船を膨らませ、
萎んだ風船に紐を加え、空に上げようという代物。全くの見当違い!」と、一刀両断。これも、当たり前。
元女子アスリートが、「周囲が家を買いたいという人が多いので、家を買うか、迷っている」に対し、
「周りが浮かれ始めた時に何を馬鹿なことを! 家は投資の一つ。直ぐに弾けるのが目に見えている。
『周りが買うから自分も』という考えが、バブル犠牲者の発想。止めなさい!」と、ハギレはよい。
 安倍内閣が発足、現在の日銀総裁が立候補をした時、「日銀総裁になりたいポチが尾っぽを振っているだけ」
と切って捨てた。 FRBのバーナンキンが無制限に札を刷って、目先のアメリカ経済の崩壊を引き延ばしたのと、
日本とは違う。彼らは世界の制空権を持ち、海軍力も世界一、言語も世界共通語の英語。その上、基軸通貨の発行国。
ドルを幾らでも刷って、それを米国債で回収するか、暴落に誘導すれば借金はチャラ。それと、デフォルトの手がある。
その米国を真似れば、待っているのは破滅。 米国予算が議会で否決、デフォルトをすれば、世界経済は大混乱になる。
『ひょっとすると、隠れた世界戦略』で、やってくる可能性が充分ある。リーマンショックで、世界の金融機関に隠された
不良債権ともども、焼き払うために? 金融の世界大戦と割切ってくる可能性は充分にある。無いと思うが・・ 火の海?
日本は米国債を4〜500兆円も持っている? ・・ 世界が火の海になろうという時、東京オリンピック誘致に成功!
と、浮かれている。景気浮揚より、国民の目を逸らすため? 阿部の横で、麻生が「アフォ違うねん、パーなんで」という
フザけているパロディのイメージが、浮かんできた。悲しいかなA・B層の質の低下、特にB層が国を滅ぼすことになる。
ーーー
2013/06/19
アベノミクスへの疑問
 アベノミクスの危なさは、二年前の事業断念に至るプロセスで直接、肌で感じ取っていた。
再び、とんでもない誤りを犯そうとしている。 「10年後に一人あたりのGDPを150万増加」など、方向は真逆。
それも以前に放り出した元首相二人が恥ずかしげも無くである。何人かの経済学者が、アベノミクスに批判をしているが、
円安、株高の現象の前に表立ってない。 先日、図書館で借りてきた文藝春秋4月号に、ー神谷秀樹のレポートー
アベノミクス「危険な熱狂」ーがあった。 ネットで調べたところ、これを簡略にまとめたブログの内容があった。
 ★ 〜ブログにゃんとま〜 ー神谷秀樹『アベノミクス「危険な熱狂」』文藝春秋4月号の一部を抜粋ー
≪◎ アベノミクスを冷静に分析し、「A=アセット(資産)、B=バブル、E=エコノミクス」と揶揄している人々がいるが、
 彼らのほうが正しいことは、いずれ歴史が証明する。いま喜んでいるのは、バブルに乗って一儲けしたい投機家ばかり。
「持続可能な経済基盤」を構築するものには、人口、中産階級の収益力、イノベーション(技術革新)、エネルギー価格、
 政府の健全な財政等々があるが、中央銀行はここに述べた経済成長の大きな要因のうち、何一つとしてコントロールできない。
◎ 安倍政権は「市場にお金が不足している」と考えているようだ。だが、これは完璧に間違った認識であり、市場にはお金が
 あり余っている。企業はもてあますほど現金を持っており、日銀の当座にも銀行が使い切れない「ブタ積」が山ほどある。 
◎ 株価が上がって投機家は喜んでいるが、何も企業の競争力が回復したわけではない。企業の持つ外貨資産の評価額が
 上がっているだけの話だ。 (中略) 外貨建ての資産が評価益を出すということは、裏返せば円建て資産が、国際通貨の
 バスケットで見れば価値が目減りしていることになる。
◎2000年代初めから民主党に政権を譲るまで、自民党政権時に彼らが行なった不況対策は、
 *「円安麻薬」で輸出ドライブをかけること、
 *「契約社員化」で賃金を切り下げ、国際競争力を維持することだった。しかし、この政策は完璧に破綻。 
 「インフレを起こせば賃金が上がる、雇用が増える」というのは、全くの妄想で、「国際的に価格競争力を失ったのは
  円高のせいだ」というのもの妄想。 競争力を失った理由は、同じ質の労働に対する賃金が海外に比べ高い、
  製品の質の面でも優位に立っていないことだ。
◎「バブル崩壊の対策は新たなバブルの演出で」が正しい処方箋でないのは「失われた二十年」で学んだ筈だったが、
  実際には学んでいなかったようだ。ABEがバブルを大きく膨らませれば膨らますほど、大きな破綻を日本にもたらし、
  その時はもう復活不可能な致命傷となるだろう。≫
▼ グローバル化の中では、日本一国の金融緩和でコントロールが出来ようはずがない。アベノミクスは、
 一部の輸出産業と大手の金融機関が目先のプラスになるだけ。逆にマイナスのエネルギーは、弱者を直撃する。
 二ヶ月前の地元の高校の同級会で、当初からのメンバー12〜3名のうち、この1〜2年で私を含めて6人が倒産、
 廃業、経営責任の辞任、自殺に追い込まれた。過半数近くである。 そう遠くないある日、中国かアメリカの投機筋から、
 売りを浴びせられ株価が暴落するだろう。 
ーーー
013/04/01  
閑話小題 ー要は、アベノミクスとは?
   * 要は、アベノミクスとは!
 アベノミクスと浮かれているが、少し考えれば、こういうこと。「小泉の中期政権後、毎年、首相が変わってきた。
その二人が偶発的に首相と副首相になって、似たような失敗の拡大版を始めようとしている。再び失敗したところで、
政敵に殺されたり、刑務所に入れられたりしない。大盤振る舞いの付けは、国民の負担になるだけ。幾ら金を発行しても、
銀行を通して国債を買わせることで周りまわって戻ってくる。 一度、ハイパーインフレにし、銀行閉鎖するなどの
荒治療した方が、デフレスパイラルが続く現状より良策。 世界は通貨安比べ、その中で紙幣の供給を増やし銀行閉鎖も含め、
一より出直しすべし 」ということ。その中で大部分の国民に物価高という負担が架ってくる。そして、責任を取って辞任。
そのパターンが繰り返される。
ーーー
2013/03/07  
閑話小題 ーアフォノミックスとは
   * アベノミクスは、アフォノミックスか
 アベノミクスを揶揄して、「アフォノミックス」とは、よくいったもの。経済評論家の浜規子が先日、アベノミクスの
内容を問われ、「アフォ(ノミックス)そのもの。死に掛けている病人にホルモン剤を投与するようで気持ちが悪い。
今さら経済成長などおかしい!」と切り捨てていた。 日銀総裁の黒田氏の国会答弁の内容についてどうですかに対して、
「日銀総裁になりたいポチが尻尾を振っているだけ」と、これまた辛らつだが、当を得たりと納得をした。
この事態を招いた戦犯達の主犯格の安部と麻生が、首相、副首相とは漫画の世界。殆どが、それを知っているから恐ろしい。
7月末の参院選までのミニバブルか、あと二年が限界か。しかし見渡す限り阿部しかいないのが現実である。
一度、チャラにになるなら、早めに息の根を止めるのも手か。この付けは、5年、10年後に覆いかぶさってくる。
 ところで韓国経済が特に変のようだ。 円安も効いて、あの元気にみえていた経済も崩壊過程。 輸出依存度を見ると、
日本 14% 、中国26%、アメリカ10%に対し、韓国は50%。 日本は貿易立国と言 われるが、実際には内需大国。
それにしても韓国の輸出比率が異常に高い。欧州危機と中国の経済停滞の影響を直撃し、急激に悪化している。
世界的動乱は、国力がある方が有利。資源があり、海軍と空軍が断然強いアメリカが当分は世界をリードするしかない。
体力を疲弊をした日本は、当分、アメリカの属国として生きていくしかなく、TPPの参加は当然のこと。
 明治維新も、太平洋戦争敗戦も、今回も、アメリカに屈した更なる開国。アメリカにとって、どれも世界戦略の
一つでしかない。韓国、台湾、日本が、アメリカの軍事、経済の中国に対する前線基地。中国も北朝鮮を庭先の番犬で
飼っている。ここにロシアが絡んでくると、1930年代から太平洋戦争の様相に酷似してくる。そうすると、保守本流の
安部と麻生の出番というのも分からないこともない。「天気晴朗なれど、波高し」である。


4594, そして、人生はつづく ー5

2013年10月14日(月)

   * 生き直すために ー2        ー朝日新聞の「耕論」『生き直すために』小田嶋隆
  ー 前回の『生き直すために』の続きから        
《 ・・生き直すといっても「やめる」こと以外に何もしていない。サッカー観戦、自転車、イグアナも、時間を潰すため。
酒をやめることで仕事は上手くいくようになったが、それは結果であって、目標ではない。 AAで、最初に「私は、自分では
何もできない人間であることを認めます」と言わされる。これは一理あった。「自分で人生を立て直せる」と思い込んでいると、
依存症から逃れられない。 ・・「自分で自分を律する」というのは大きな勘違いで、その意識がある限り、人生のやり直しは
できない。 就職のやり直しにしても、結局は運です。「夢に向かって努力する」では、こだわりでがんじがらめになるだけ。
自分がどの仕事に向いているかは、実際にやってみないと分からない。人生を途中からやり直そうとするなら、何かを捨てること。
捨てた結果、その空白に強制的に何かが入ってくる。その何かが良いか悪いかは別ですが。会社を辞めたことも、酒と一緒に
それまでの生活を捨てたことで多くを失いましたが、その代わりに膨大な時間を手に入れたものも明らかにある。あそこで
やめてなかったら、今のような人生を歩んでなかった。どちらが良い人生かわかりませんが。
 30歳を過ぎた人間が、自己を改革するなんて不可能。ただ、何かをやめることはできる。人生をやり直すには、
何かを「目指す」のではなく、「やめる」ことからです。》
▼ 私が嵌ってしまった異境・秘境のツアー参加者に、多く見かけられるのが、ガンなどで余命が見えて、その克服や
 人生を改めて見つめ直すために来ている人が多い。晩年になれば、今さら生き直すことは出来ないが、考えるために、
 極限の秘境ツアーは悪くない。被災地視察という名の「ダークツアー」に似ている。「やめ時」を悟ったら、あとは
 「前向きに目をつぶって倒れこむ」しかない。そうすれば、自動的に現象は生き直しになってしまう。これも一期一会。
 捨て身でやれば「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」になる。といって、覚悟が必要で、そのための周到な準備が必要。
 最期は、「そして、人生は終わり」! 「プツン!」になる。
・・・・・・
4219, 神は妄想である ー2
2012年10月14日(日)
   * 有神論と理神論と汎神論         ー「神は妄想である」 リチャード・ドーキンズ著
 理神論という言葉を、この本で初めて知った。「神を信じますか?」と、問われた時に、口を濁す代わりに、この理論を、
答えればよい。私は汎神論に近く日本人的考え方だったが、理神論を加えることにする。 ただ、「今ここにある自分の存在」が
不思議でたまらない。「類人猿が宇宙の存在と原理を意識して、そこに自然原理を見出し擬人化した『神』をイメージした」と
一言でかたずけられない。 神という言葉の解釈がいくらでも可能だからだ。 ーその辺りを部分を抜粋してみるー
 ≪ 用語法について念を押しておこう。有神論者は、そもそもこの宇宙を創するという主要な仕事に加えて、
 自分の最初の創造物のその後の運命をいまだに監視し、影響を及ほしているような超自然的知性の存在を信じている。
多くの有神論的な信仰体系においては、神は人間界の事柄に密接に関わっている。神は祈りに答える。罪を赦し、
あるいは罰する。奇跡をおこなうことで世界に干渉する。善行と悪行に思い悩み、私たちがいつそれを行うかを知っている。
理神論者も超自然的な知性を信じているが、その活動はそもそも最初に宇宙を支配する法則を設定することに限定される。
理神論の神はそれ以後のことに一切干渉せず、人間界の事柄に特別な関心をもっていないのも確かだ。汎神論者は、
超自然的な神をまったく信じないが、神という単語を、超自然的なものではない〈自然〉、あるいは宇宙、あるいは
宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う。理神論者は、彼らの神が祈りに応えず、罪や餓悔に関心をもたず、
私たちの考えを読みとったりせず、気まぐれな奇跡によって干渉したりしないという点で有神論者と異なる。
理神論者は、彼らの神が、汎神論者の神のように宇宙の法則の比喩的あるいは詩的な同義語ではなく、ある種の宇宙的な
知性である点で汎神論者と異なる。汎神論は潤色された無神論であり、理神論は薄めた有神論なのである。
「神は老獪なれど、悪意はない」や「神はサイコロを振らない」や「宇宙を創造するとき神に選択肢があったのか」
といった有名なアインシュタイン語録は、どう考えても、理神論的ではなく汎神論であり、まちがっても有神論ではない。
「神はサイコロを振らない」は「すべての事柄の核心に蓋然性が横たわっているわけではない」と翻訳されるべきである。
「宇宙を創造するときに神に選択肢があったのか?」は「宇宙はいまある形以外のやり方で始まることができただろうか?」
という意味である。アインシュタインは「神」を純粋に比喩的、詩的な意味で使っていたのである。≫
 ▼ 読み込めば読み込むほど、こんなシビアな無神論の明快さに驚いてしまう。日本人からみれば、何を今さらだが。 
  「神がいるかどうかでない、存在しなくてはならないのだ!」という言葉があるが、その人には神は存在すればよい。
・・・・・・・
3854, 50歳代が勝負時? 
2011年10月14日(金)
 何度か取り上げているが、51歳時、痴呆症だった88歳の母を見送り、「さて、これから如何しようか?」と考えた時に、
曽野綾子の「人生の良いところは60歳まで」という言葉に出会った。そうすると9年しかない。 そこで考えついたのが、
「残りの人生を、50歳代の9年間の中に押し込んで生きる」ことであった。 想定を70歳か75歳の寿命として、3〜5倍に
圧縮して生きることである。 そのためには捨て身で、やりたいことをする。そこで、思いついたのが秘境・異郷ツアー。
行きたいところをピックアップし、何はともあれ行くことにした。 年に4回も行った年もあった。 更に10年前の55歳の時に、
個人HPを作って、それを公開し思いのままを書き出すことにした。丁度ブログが普及する直前。この随想日記の始まりである。
これを書き始めた5ヶ月後に9・11テロが起き、世界の情勢が一変してしまった。 毎年10パーセントの売上減が3年続いた。
そして4年目に入って中越地震が起き、逆に売り上げを二年間下支えをしてくれた。しかし3割の売上減は長期借り入れの返済原資を
三分の一にしてしまった。それも血の滲むような合理化の上である。 その中で、やりたいことを実行したから、大変といえば大変。
その結果、60歳辺りから心に大きな余裕が出てきていた。「何だろう、これは?」という感覚である。 人生の元を取った実感は、
心に大きな安心感を持たせてくれる。 その余裕が三年前のリーマンショック以来、毎年20数パーセントの売上げ減の中でも、
そして今回の事態でも、何とか精神のバランスを保させてくれている。準備15年の立ちあげ、30年間の事業、合計45年の結果が、
この結果としても、精神のバランスを何とか保っているのは、50歳代の9年間で、人生のページの余白を埋めた為である。
 事業も、趣味も、自分の範囲の余白を埋めてしまうと、他人との比較も、自分が達成できなかった夢も、余裕を持って諦められる。 
それから考えると一年一年、自分の経験の範囲での余白を、捨て身で埋めることが残された人生の課題ということが分かる。
70歳まで、四年少ししか残されてない。不摂生だったこともあり人生の余白も残されてない。60歳前半は、リーマンショックで
エネルギーを奪われ、そうこうしている内に、事業閉鎖になってしまった。 その埋め合わせと、人生の始末は何かを考え抜いて、
捨て身で後片付けをする時節ということ。しかし世界の情勢は、この5年間は大荒れになるのは必定。60歳代は、世界の激変の
真っ只中、それへの適応時期になる。 時速数千キロで回転している地球上に我々は住んでいるが、周囲も同時に回っているため、
それを自覚できない。時流も激しく変化しているが、見ても見えずが、我々。 人間は現象との情死?しかないのか。
 自然と、芸術とに触れ、感動することが、現象との情死から少しは守ってくれる。 さて、信濃川のポタリングに出るか。
 ・・・・・・
3489、金は暴落する! 2011年の衝撃    
2010年10月14日(木)
             「金は暴落する!2011年の衝撃」ー鬼塚 英昭 著
 先日、ここで取りあげた「ロスチャイルドと共産中国が2012年、世界マネー覇権を共有する 」鬼塚 英昭の最近の著書である。
要は、ロスチャイルドが中国と組んで新しい世界マネー覇権を共有するために、金を値上がりをさせ、2011年か2012年の早い時期に
金バブルを崩壊させて、下がりきった金を買い漁るという。そのため金は世界恐慌に対して一番有利な投資と信じ込ませてきた。
わずか3年前の2007年に一トロイオンス700ドルだった金価格が現在1300ドルを超えている。わずか3年で二倍近い値段である。
これを著者はロスチャイルドと金融エリート集団によって仕組まれた説を立てている。 来年から再来年に金価格の暴落をはかり、
逆張りで利益を稼いだ上に、下がりきったところで金を買い漁るという。1985年のプラザ合意で日本は国内需要の喚起のためと、
大幅な金融緩和をアメリカに強要された。そしてバブルの発生と、崩壊で「日本は失われた20年」といわれる大打撃を被った。
バブル崩壊後に狙い通りにユダヤ資本が日本の株と優良な土地を買い漁ったことは言うまでもない。 やはりソ連崩壊後、
ロシアでも似たようなことをした。そして次は、アメリカの住宅バブル。バブル化した住宅債権を束ねて世界中に
ばら蒔いてしまったから始末が悪い。 著者は、これもユダヤ資本の要のロスチャイルドが仕組んだ罠という。 
ロスチャイルドは、今度は中国に目をつけ、供に新通貨システムを作ろうとしている。そのため現在、金のバブルを発生させ、
次にバブル崩壊を狙っている。それが、来年から再来年にかけて発生し、下がりきったところで、金を買い漁る目論見とみる。 
そのため、金の上場投信(=金ETF)の市場をつくりあげた。それが金バブルの崩壊を容易にさせる手立てになる。
 大雑把の要約すると以上だが、ウソか本当か、信じられない内容が面白、おかしく書いてある。      ー つづく
 ・・・・・・・・・
3114, つれづれに ー閑話小題 
2009年10月14日(水)
   * 低反発マクラ
 最近、ニトリに行くと低反発マクラとマットレスが山積みになって多く並んでいる。 売れ筋なのだろう。
(次数制限のためカット 2012年10月14日)
   * 最近の万歩計
20数年前から早朝ウォーキングを始めたが、15年前辺りから万歩計を腰につけて年間1万5千歩を数年の間歩いていた。
(次数制限のためカット 2011年10月14日)
・・・・・・・・・
2749, ソロスは警告する −2
 2008年10月14日(火)
 「ソロスは警告する」 ジョージ・ソロス著  講談社   ー読書日記ー
『アメリカ経済の終わりの始まり』などの著者の松藤民輔の解説の中の次の文章が、
欧米のエリートの意識感覚を言い表している。これがアメリカのエリートだけでなく、日本の官僚や、
エリートの偽らざる意識である。 所詮そんな意識とて、猿回しの芸を仕込まれたエテコウが一方的に
大衆をブタと決め付けているだけのこと。そのエテコウの舞い上がった演技で最悪の犯罪を犯したのが、
このサブプライム問題。 しかし彼らから学ぶことは「哲学と歴史を学び続けること」である。
歴史と哲学は最も重要な基本的な教養であるからだ。といって所詮あんなものかと、冷笑して学ばなければ、
ブタと言われた時に認めざるを得なくなってしまう。
 まあ、面白いから、一度は知っておくべき彼らの意識構造である。 世の中は差別で出来ているのです、
 ー松藤民輔(解説文)よりー
 (次数制限のためカット 2011年10月14日)
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2007年10月14日(日)
 2385, 私の嫌いな10の人びと −3
「私の嫌いな10の人びと」 中島 義道 (著)  ー読書日記
2章の「常に感謝の気持を忘れない人」が中島らしく面白い。少し歯切れは悪いが、それでもただ無闇に感謝する日本人の感覚に
疑問を持つのも、ご尤もである。感謝を売りにして一財産をなした小林正観という人もいる。この人の本を何冊も何度も読んだが、
一度ひいてみれば、所詮は「感謝という言葉を売りにして、一財産を築いた男」でしかない。
英語で、まず憶えるのはイエス、ノーの次にサンキューであるから、大事なのだろう。
営業の場合、この人の本を読んで心から感謝をする訓練をすれば、営業ギアは一桁は間違いなく上がるだろう。
 (以下、字数制限の関係上、カット09年10月14日)
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2006年10月14日(土)
 2020, 13日の金曜日恐怖症               
    (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ
昨日は「13日の金曜日」であった。日本では、あまり騒がれないが、西欧社会では「13日の金曜日恐怖症」がある位、
この重なりの日は自重をしている人が多いようだ。
(以下、字数制限の関係上、カット13年10月14日)
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2005年10月14日(金)
 1655, 北イタリア旅行記−6
 イタリア三大巨匠 ーダ・ヴィンチとミケランジェロ、そしてラッファエロー
このイタリア旅行まではフィレンツェの「ウッフィッツェ美術館」の存在を知らなかった。
この美術館にはイタリア美術史に燦然と輝く名画が勢揃いしてあり、馴染みのある絵画を次々とみることができた。
 ・ボッティチェッリの「春」「ヴィーナスの誕生」         ・ミケランジェロの「聖家族」
 ・レオナルド・ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」「受胎告知」  ・ラッファエロの「ヒワの聖母」
 ・フィリッポ・リッピの「聖母子と二天使」 などなどである。
特に印象的だったのが、ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」である。この絵は下書きの未完のものだが、
「モナリザ」「最後の晩餐」に匹敵するもである。また、ボッティチェッリの「春」と「ヴィーナスの誕生」が素晴らしい。
「春」を壁紙のHPよりコピーして一ヶ月位パソコンの背景画にしていたので身近な感覚で観ることができた。
地元の女性ガイドが絵画の説明の中で、同時代に生きたダ・ヴィンチとミケランジェロ、そしてラッファエローの
三人の関係を解りやすく説明してくれた。特に、ダ・ヴィンチとミケランジェロの人間臭い対立のエピソードが面白い。
それぞれの絵画の中の意味を知れば知るほど、その奥行きの深さが伝わってくる。
きしくも、三巨匠にボッテェチェリーなどが同時代にいたことが不思議である。
「旅は肯定である!」と、何かの旅についての随想にあった。ー旅は、肯定するためにある。ときにおこなう否定もまた、
肯定の一種なのだ。人間は、存在そのものが「!」であり、肯定なのだ。−
全くそのとおりであり、人生にも通じることである。如何なる場合でも人生は前向きにあらねばならない。
憎むためでなく、愛するためにある。苦しむためにあるのではない、楽しむためにある。
疲れたら、休めばよい。 急ぐことはない。 旅行は、そのことに気をつかせてくれる。    ーつづく
・・・・・・・
2004年10月14日(木)
 1290, ダイエーが再生機構活用!
一昨夜、自宅の近くにあるダイエーの紳士売り場と、靴売り場を見て驚いた。売り場に商品が、あまりに少ない。
 (以下、字数制限の関係上、カット09年10月14日)
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2003年10月14日(火)
 923, アイスランド旅行記ー3
 ーオーロラハントー
 数年前に、ノルウエーのトロムソにオーロラハントに行ったことがあった。その時は「何だこんなものか」
という程度で、期待とは全く違うものであった。薄い雲がスジ状に光っているだけであった。
だだ行きの飛行機から見たオーロラがカーテン状に広く光っていたが。今回も5日間で一日しか見えるチャンスが無かった。
夜になると寒くなる為か曇ってしまうのだ。感動するような大きなオーロラのはそうそう見ることができないのだ。
そしてたった一回だけの私にとって一生もののオーロラが出たのだ。天空に展開した時の感激は、想像をしていたより
遙かに神秘的かつ荘厳であった。写真など撮っている余裕など無く、ただ呆然と見とれるだけであった。
これをどう言葉で表現したらよいのだろうかと考えていた。 天空の黒をキャンパスに、滝が降るように頭上の両側に
壁になり揺らぐ青白光の波がこの世のものと思えない、神秘的なものであった。あとは「・・・」である。 
取材できていた共同通信社のカメラマンが、「このオーロラをどう東京の友人に説明したらよいか解らない」と
私に話しかけてきた。「これは実際、この目で見るしか理解はできないでしょうね」と答えるしかなかった。
その時、涙が出そうになっていた。以前ツアー仲間から、この体験談を聞いたことが何回もあったが。
「もういつ死んでもよいと思った!」「聞くと見ると大違い、実際見なくては!言葉で表現できない」
それを聞いて、「ちょっとオーバーではないか?」としか思ってなかった。しかし、この言葉の意味が実際見て
初めて解った気がした。 あと一度見たら、アフリカの大地のように完全にハマってしまうだろう!
 ・・・・・・・
549,「宣戦布告」
2002年10月14日(月)
 先日、映画の「宣戦布告」を見てきた。 北朝鮮の拉致事件の帰国も迫っていることもあり、
迫力と現実味のある面白い内容だった。「日本海沿岸の海に,一隻の国籍不明の潜水艦が海岸近くで座礁した。
   (以下、字数制限の関係上、カット09年10月14日)
・・・・・・・・
[186] 野村と円楽  
2001/10/14
 10年前の話になるが、新潟の大蔵ホテルで野村と円楽の講演会があった。
メインが円楽で前座が野村であった。もちろん私も円楽がまず面白そうで、野村も面白いのではと期待していった。
まず野村が出てきた、そして黙って会場を見渡し、ニヤッと笑い、「大部分は女性ですね、私の話なぞ如何でもよい
と思っているんしょう。円楽の刺身のツマぐらいと思ってるのでしょう」実際そうでだったから、ザワツイテイタ会場は
シーンとなってしまった。その瞬間に野村のペースに聞き手をのせてしまった。
 ー要点はー
・自分は投手の練習用のキャチャー「壁」として採用され
・数年後解雇を言い渡された・丁度その時父親が癌になっていた
・直接上司と掛け合い絶対に辞めないと粘りかろうじて首を免れた
・そのぎりぎりのところでどうしたら一流になれるか考えた
・一流の選手は持って生まれた天性ある、努力だけでは埋めがたい差がある
・そこでぎりぎりのところで、どうしたら一流になるための方法を考えたー頭を使ったー
等々、底から這い上がってきただけに、一言一言が経験のうらずけがあるため説得力があった。
また彼も浪人の真っ最中の状態で、話に力が入っていた。 今までー王、広岡、森と講演を聞いたが、
野村だけは底から這い上げって来たためか、ずば抜けた内容があった。
その日の円楽の話も力が入っていたが、所詮噺家の内容はしれたもの、しらけた会場の空気が漂っていた 。
さすがキャチャー、瞬間その場を雰囲気をとらえ、自分のペースに捉える術。今でもありありと憶えている。
キャッチャーは9人の選手のうち、一人だけ逆方向を見ているのだから。


4593, そして、人生はつづく ー4

2013年10月13日(日)

    * 生き直すために!
  朝日新聞のオピニオン「耕論」の『生き直すために』小田嶋隆 ーのコラムが面白い! 
 先回の「そして、人生はつづく」は、「生き直し」でもある。この年齢になると、一年ごとが生き直しの日々。
 筆者は、生き直しは、「やめる」ことから始まるという。 やめることは捨てること。最近、断捨離という言葉を聞くが、
 その捨てることが難しい。 捨てて捨てて捨て去ることは悲しく辛い。が、それを前向きにすることで、辛さを軽減出来る。
  ーまず内容の前半の要約をすると・・
《 「人生やり直し」を二度経験している。1980年に大学を卒業して、新卒で入った会社を8ヶ月で辞めた。
 何をするわけでなく、ただ不愉快なことがあったから逃げただけ。当時、上場企業の正社員というコースから一度
外れると再チャレンジが難しく、3〜4年アルバイトをしていたが、バンド仲間の知人からパソコン入門ライターを
勧められ、パソコンバブルもあって、それが当たった。しかし30歳前後から、アル中になり、酒浸り。
酒が切れるとウツ状態になる。自殺をしないためにも酒を飲み続けた。
 それもあり、仕事が減った39歳の時に断酒をしたが、5日間、断酒をしたら、眠れず、幻聴まで出てきた。そこで、
心療内科に行くとアルコール依存症と診断され、「このままだと、40代で酒乱、50代で人格崩壊、60代でアルコール性痴呆。
もう一生飲まないしかないよ」と宣言された。それまで人と会うのも、音楽を聴くのも、野球を見るのも、酒を飲みながら。
医者に「酒をやめるということは、酒のない人生を新たにつくることだよ」と言われ、慣れ親しんでいたことを次々やめた。
断酒自助グループのアルコホーリクス・アノニマス(AA)で、「棚卸し」というが、いわば人生のリセットをする。
 酒をやめてみると、膨大の時間が余る。何をしていいのか分からない。サッカー観戦だったり、自転車を乗り回したり、
イグアナを飼ったりして時間を潰した。・・・》 ーつづく  
 ▼ 何かを捨てるということは、「空即是色」の現象面の一つ。「空にしてこそ新たな色が現れてくる」。 
 筆者は、上場企業を8ヶ月で辞め、犬に例えると宅上犬から野良犬になった。そこで、彷徨い歩いているうちアル中になり、
 39歳で断酒。そこで得たのは膨大の時間。自分の能力、弱さを認めることから出発しないと、アル中から脱出できない。
  物書きと、創業を目指した私とは大きな違いがある。目標がハッキリすれば、選択することが見えて、自然と、
 「やめる」ことが見えてくる。20歳の頃、創業を決心した時から、私が捨てたのは「世間体」と世間の常識。
 そうとはいえ、やはり本当に捨ててきたかというと、捨てきれる訳がない。決断、決心をする時にまず意識してきた。
  これを捨てるには、まず全てを根こそぎ疑うこと。ここでは「やめる」と言っているが、まず自分の常識を破壊する。
 人生にやり直しなど出来ようがない。天を信じて、捨てるべき時に、捨てるべきことを、捨てないと・・・ 
 捨てることを決断することで、自ずと節目が出来る。「脱皮できない蛇は死ぬ」 脱皮出来ないゾンビが街を徘徊している。
・・・・・・
4218, 神は妄想である ー1
2012年10月13日(土)
                         ー「神は妄想である」 リチャード・ドーキンズ著
 面白い本を図書館で見つけた。無神論の立場を知ることもあるが、「逆照射で宗教とは、神とは何か?」を知るに最適である。
欧米のように、生まれた時から一神教に染められ、神を信じない人間を否定する環境の中で育ってない日本人は、神様目線が
殆どない。殆んどは、「神は妄想」と思っているし、神の話など家庭内では皆無だろう。しかし欧米では無神論者は同性愛と同様か
変人扱いにされる。とはいえ、この情報化の中で、原理主義者などの狂信者を知るにつけ、無神論者が増えてきている。
   まずは、ー背裏表紙の「内容の概要」ーより
≪ 人はなぜ神という、ありそうもないものを信じるのか? 物事は、宗教が絡むとフリーパスになることがままあるが、
なぜ宗教だけが特別扱いをされるのか? 「私は無神論者である」と公言することがはばかられる、たとえば現在のアメリカ社会の
あり方は、おかしくはないのか… 『利己的な遺伝子』の著者で、科学啓蒙にも精力的に携わっている著者は、かねてから宗教への
違和感を公言していたが、9・11の「テロ」の悲劇をきっかけに、このテーマについて1冊の本を書かずにはいられなくなった。
「もう宗教はいいじゃないか」と。著者は科学者の立場から、あくまで論理的に考察を重ねながら、神を信仰することについて
あらゆる方向から鋭い批判を加えていく。 宗教が社会へ及ぼす実害のあることを訴えるために。
 神の存在という「仮説」を粉砕するために。―古くは創造論者、昨今ではインテリジェント・デザインを自称する、進化論を
学校で教えることに反対する聖書原理主義勢力の伸張など、非合理をよしとする風潮は根強い。あえて反迷信、反・非合理主義の
立場を貫き通す著者の、畳みかけるような舌鋒が冴える、発売されるや全米ベストセラーとなった超話題作。≫
 ▼ 無神論は、哲学者などが多く論じているが、『利己的遺伝子』で世界的ベストセラーとなったドーキンズだから、なおのこと、
  注目された内容。 9・11テロに直面して、書かずにいられなかったという。神は妄想という言葉に対し、知人から
  注意があったというが、敢えて、この言葉にしたという。 欧米社会では無神論を公然と語るのは、変人とみなされる。
  とはいえ、知識を持ってしまった人間は、心の奥底で何かすがる絶対的な言葉を欲するもの。自然以外に、まず、それに
  アブラハムが気づき、「絶対神」を発明した。それが数千年を経た現在まで続き、ユダヤ人にはユダヤ教、欧米人には
  キリスト教、アラブ人にはイスラム教に分化していった。人種に宗教が複雑に絡んでいるため、そこに当然、争いが生じるのは
  至極当然で、その対立は激しさを増している。そこで、その神を無神論の立場で妄想と切り捨てる視点も、よく分かる。
  「裸の王様」に対し、思い切って誰かが、「王様は裸だ」と大声でいうことも必要か。どう考えても、人間は、アフリカの
  猿が進化した生きもの。動物どうし、猿どうしが、激しい生存競争の中で生き残った人間が、自然世界の時間をかけた
  進化などをさせてきた、自然法則を神として理屈づけたものと、思うのが大方の人。 ーつづく
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3853, シリアスでストイック
2011年10月13日(木)
 最近、目に付くのが「シリアス」と「ストイック」という言葉。
シリアスはコミックなどで度々、目にする。「リアルに近い意味」と捉えていたが、「本格的なさま、極めて深刻」と辞書にある。
コミックでは、「急に真面目になる」という意味。「真剣になる」というのが一般的である。
ストイックは、「禁欲的な」という意味で、「あの人はストイックだ」という場合は自分に厳しい人という意味になる。
「今回のヒロインはシリアスでストイックなキャラなので、アクションも静かな怒りを感じる」というと、
「ヒロインは極めて真剣で、自分に厳しいキャラなので・・・・」という意味になる。
プロの選手や兵士、そして原稿などの締め切りに追われている作家などは、シリアスで、ストイックの日々を過ごしている事になる。
漫画でいえば、「ゴルゴ13」の主人公が、シリアスでストイックなキャラになる。
そうすると現在の私は、「この変わり目の時節は、シリアスの日々をストイックに過ごさなければならない」ことになる。
まさに毎日の生活習慣は、この言葉どおりである。いや、「ファニー」の一日かもしれない。
その対義語ではないが、正反対のキャラのニュアンスが、「ファニー」である。「おかしな。奇妙な。一風 変わった。」という意味。
お笑いタレント、デブタレントが、これに当たる。サンマ、タモリなどが、このキャラになる。
 その目線で人を見ると、また違って見えてくる。すると、私はシリアスでストイックというより、ファニーの日々を過ごしている?
誰もが、少し視線を変えれば、違って見えて当然だが。 人生を振り返ると、この3つが混在している。 私の場合、「リアル」で、
かつ「コミック」も加わる。 まともに生きればシリアスで、ストイックで、リアルで、コミックの人生になる? 問題は品性か?
品性というと、シリアス、ストイックには品性が含まれていなくては、とすると?・・・ 絶句。 誰かはファニーで、コミックだけ?
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3488, インコのクシャミ
2010年10月13日(水)
 ペットのコガネインコが先週末の土曜日に変になってしまった。身体全体の毛が逆立ち丸くなり、目がうつろ、エサを食べようとしない。
籠の出入り口を開けると出てきて、頭と喉を撫ぜてもらうのが習慣になっている。しかし、そこすら来ないでエサ台の上の止まり場で
ジッとしている。呼びかけても反応がなく、目すら開けれない状態で寝入ってしまう。そして無呼吸状態になり、ハッとして腹式呼吸。
母が亡くなる直前も、そうだった。これが危篤状態なら死に目に立ち会ってやろと、付きっ切りで椅子に座り、みていた。
時どき寝入って後ろに転げ落ちそうになるが、片方の足が籠の網を握っているので、辛うじて立ち位置を保っていた。
そこで気づいたのがインコの小さなクシャミ。 小さくクショッと人間のようにするのである。
そこで、これは季節の変わり目の温度差で風邪をひき、熱が出て?変になっていたのに気づいたわけ。インコも風邪をひき、
クシャミまでするとは思ってもいなかった。毛を逆立て目も開けることもできず、蹲っているのをみて、何だろうと思い、
8〜9分は死ぬと思い込んだが。 寝入って呼吸もままならぬ状態の後に深呼吸する状態は人間の危篤時と同じ。
インコは、鳴き声と全身で自分の気持ちを伝えようとする。その辺が何とも愛らしいく、今回も全身で体調の不調が露出する。
クシャミをし、全身の毛が逆立ち、目が虚ろになり、ダルサ眠さなどが露出し、そのまま伝わってくる。
ペットの鳥でも、何ともやりきれなくなる。「あんたは人間、自分はインコをしている」が、そのまま全身から伝わってくる。
全身で苦しみ、全身で喜びを表現している姿に、無心に生きる魂が伝わってくる。考えてみれば動物は「ありのまま」で生きている。
だから、ペットとして人間に好かれるのである。 衰弱し、片足を籠の網にかけ下を向いている写真は、心を奪われる。

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3113,イチロウの言葉
2009年10月13日(火)
 以前もイチロウの言葉について書いたことがあった。その後も、これだけの記録を打ち立て続けている。
  それに対して的確な自己分析を理路整然と話せるのスポーツ選手も珍しい。
(以下、字数の関係上カット、 12年10月13日)
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 2748,  ソロスは警告する −1
2008年10月13日(月)
 「ソロスは警告する」 ジョージ・ソロス著  講談社     ー読書日記ー
 まずは、この本の背裏のジョージ・ソロスの紹介文からして面白い!
生き馬の目を抜く世界でトップのクラスの利益を出しているのだから、余程の知識と哲学がなければ勝ち抜けない。 
10年前から哲学に興味を持って継続して学んできたが? つくづく今まで何をしてきたか考えさせられる。
 (以下、字数の関係上カット、 12年10月13日)
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2007年10月13日(土)
 2384, こころの旅  −1  
 「こころの旅」神谷 美恵子 (著)
藤原治著の「人は60歳で何をしたか」に紹介してあった本である。 さっそくアマゾンで取り寄せ、読んでみて、
もっと早い時期に読んでおきたかったと思わせる本であった。 最近に、こういう本に出会うことが多くなった。
一冊の本に魂を入れることが出来るのである。本とは本来そういうものだろう。 それとも自身が著者の魂を
感じることが出来るようになったのだろうか。人生の旅路には、常に越えなければならないいくつもの峠がある。
(以下、字数の関係上カット、 09年10月13日)
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2006年10月13日(金)
2019, 「私」のための現代思想  −11
      (。^0^。)ノ オッ (*^○^*)ノ ハ〜 ヨウ
我われは顔を露出することによって呼びかけている。多くの場合、「顔」を合わせることが「呼びかけ」になる。
「呼びかけ」は、常に同時に発生するが「先に呼びかけられた」と感じる奇妙な性質を人は持っている。
「自分の居場所がない」ということに人は非常に敏感である。居場所は、他者の存在によって支えられている。
《私》を支えているのが<他者>だから、<他者>が存在しなくなれば、《私》の存在そのものも危うくなります。
  <他者>の「呼びかけ」に応答し、その存在を望むことが、すなわち「<他者>をもてなす」ということです。
 そしてこの他者をもてなすことが、すなわち「《私》の居場所をつくる」ということであり、それは《私》の
 存在を確かなものにする」ということ、そのものです。それがお互いにとって「ともに生きる」ということです。
第四章「私」にとって「他者」とは何か  −?
  =「ともに生きる」ということ=
 −なぜ人は顔を露出するのかー
<他者>が《私》に呼びかけるということは、音声による呼びかけだけを指しているだけではありません。
実は、私たちは顔を露出することによって呼びかけています。「呼びかけ」は一方からのみ行うものではありません。
つまり、<他者>が《私》に呼びかけるということは、《私》が<他者>に対して「呼びかけ」を行ったことの帰結です。
そして多くの場合「顔」によって行われます。ここでいう「呼びかけ」は、常に同時に発生し、両者とも常に
「先に呼びかけられた」と感じる奇妙な性質を持っています。 このような現象を、私たちが「顔を露出し、
顔によって呼びかけている」ことによって発生します。人は常に「存在している」ことを前提として生きています。
「ともに生きる」こと、そして「呼びかけ」「呼びかけられる」ことを前提として、人は顔を露出しているのです。
(字数の関係上カット2008ねん10月13日) 
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2005年10月13日(木)
1654, 北イタリア旅行記−5 
 ーチンクエテッレー
この意味は、「5つの島」という。海岸線に突き出た小さな島が5つあり、その小高いところに張り付くように
家が建てられており、その家々にカラフルな色が塗ってある。漁民が船で帰ってきた時に、自分の家を識別できるように
好みの色を塗りつけてあり、それが何ともいえない風情がある。 その岩場に細い散歩道が百数十キロ続いていて、
ウォーキングができるようになっている。 その近くを、やはり列車が通っていて5つの村に駅がある。
(字数の関係上カット2008ねん10月13日)


4592, そして、人生はつづく ー3

2013年10月12日(土)

   * 「アバウト・シュミット」の『そして人生はつづく』
 5月の連休明けにシネマでみた、「アバウト・シュミット」が、まさに、「そして、人生はつづく」をテーマにした内容。
   ーその概略をHPでみるとー
《 仕事一筋の平凡な男が、定年退職を機に第2の人生を歩む姿をユーモアとペーソスを織り交ぜて描くヒューマン・ドラマ。
 人生の終盤を迎えて大きな転機に直面し孤独と戸惑いを見せる主人公の悲哀を名優ジャック・ニコルソンが見事に表現。
 監督は「ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!」の新鋭アレクサンダー・ペイン。
  アメリカ中西部オマハ。この日、勤め先の保険会社で定年退職の日を迎える66歳のウォーレン・シュミット。
 彼はこれまで妻ヘレンと今は離れて暮らす娘ジーニーと共に、平凡だが特に不満のない人生を送ってきた。
 そして次の日から新たな人生を歩むことになる。しかし、翌朝目覚めてみると、シュミットは会社中心の生活リズムが
 染みついていたせいか手持ち無沙汰になる日々が続いた。そんなある日、妻ヘレンが急死する。そして葬儀の準備に
 追われるシュミットのもとへ、愛娘ジーニーが婚約者ランドールを伴い戻ってくるのだった…。》
▼ 一流保険会社で働き、良き同僚や妻と一人娘に恵まれて、自分でもそれなりの人生を送っていると思っていたが、
 定年をむかえた直後、妻が急死、その葬儀も終えたところで、何をしてよいか分からなくなり、離れて住む娘を
 車で訪ねるが、何か来て欲しくない様子。ラテン系娘婿の家族は、これまで接したことのない世界の人たち。
  その旅の中で、これまでと違った様々な経験をする。それが何か無様で、ホロ寂しい姿で、哀愁が漂う。
 職場と連れ添いの喪失で、なす術のない男の悲喜劇が、人生の終末期の有り様を浮き上がらせている。
 妻に先立たれた寡夫ほど大変なものはない。
  5月の連休明けに、この映画を見たが、会社を整理をして二年。主人公の姿に自分が二重写しに見える部分がある。
 また、「そして、人生はつづく」の著者に似ている部分がある。
  10年近く前の話になるが、幼馴染が倒産と同時に離婚。一人アパートで自閉症になって半年、お金も尽き、辛うじて
 知人に拾われ、働き出し、営業で私のところに訪ねてきた。が、風貌は歯が数本抜け、やせ細り、20歳は老けていた。
 数年後、年金生活に入ったが、重症のアル中になって県外の娘夫婦の住宅近くのアパートへ引越していった。
 現在も、「そして、人生は続いている」のだろう。豊かな老後には、十年以上かけたライフワークがあるかどうかだが・・
・・・・・・
4217, 開国という強迫観念 ー4
2012年10月12日(金)                      
    * 「開国」とは何だろう      ー反・幸福論『開国という強迫』ー 京大教授・佐伯啓思 
 「世界標準」とはアメリカの示したルールであり、常に自国に有利に作り変えることが可能なアメリカに世界は振り回されてきた。
 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)も、有利なのはアメリカ。しかし入らないと、競争力が明らかに不利になるため、従うしかない。
 属国から離脱など出来ないように囲い込まれてしまっているのが日本である。 ーその辺りからー
≪ ・・ところで「開国」とは何でしょう。先ほどから、「開国」とは、「世界の潮流に乗ること」であり、「世界の普遍性に乗ること」
だといってきました。いや、近代以降、日本ではそう考えられていました。しかし、本当はそうではないでしょう。世界は実は多様です。
「開国」とは異質なものに出会い、世界は多様であることを知ることなのではないでしょうか。「開国」とは、何よりまず、異質な文化、
社会、宗教などに出会うことです。そして、己の独自性を改めて知ることなのです。特異性ではありません。独自性です。自国の、
自文化の独自性を認識することなのです。もちろん、他国もまたそれぞれの独自性を持っています。その世界の多様性に触れることこそが
「開国」ではないでしょうか。決して「普遍的世界」と「特異な日本」ということではない。世界には、西洋もあれば、中国も、
インドもイスラム諸国もあるのです。しかしわれわれは「普遍的な世界」や「グローバル・スタンダード」といった時に、決して
イスラムやインドやアフリカなどを思い浮かべません。「普遍的」や「標準的」ということで、常に西洋先進国を思い浮かべるのです。
いやもっと端的にいってしまいましょう。少なくとも戦後、我々が「世界」といった時に「何か」というと、実は「アメリカ」なのです。
「世界標準」とはアメリカの示したルールなのです。「普遍的な世界」とはアメリカのことなのです。「世界に乗り遅れる」というのは
実は「アメリカに見捨てられる」ということなのでした。 ≫
 ▼ 軍事的用途で作られたインターネットをアメリカが公開した。そしてネット社会が、それまでの世界に張り巡らされ、現実世界を
  覆ってしまった。そして、タブレットPCとスマートフォンで、世界隅々の個人がポケットに持ち歩けるようになった。それで、
  個人情報の受発信が気楽に、しかも安価に可能になった。この流れは世界のグローバル化を、より推し進めることになる。
  それは、情報をコントロールでき、利用できるものと、出来ない人の格差を大きくする。その最も利益を得ることが可能なのが
  アメリカの一部の人たちである。日本の中流は、世界から見れば上流の部類に入る。垣根が低くなれば、世界の中流、そう、現在の
  日本の水準から見れば下流になる。総下流社会である。しかし、大部分がそれなら、言葉として、それが中流ということになる。
  預金がゼロが三割、借金と相殺すればゼロになる世帯を入れれば、既に国民の過半数を超えているという。失われた20年で、
  日本社会は大きき体力を失った。「敗戦で朝鮮のように分割され、歪にならないで済んでよし」とすべきか? 難しいところ。
・・・・・・
3852, ツレがうつになりまして ー3
2011年10月12日(水)
 鬱病のタレントは、音無美紀子、小山明子、萩原流行、千葉麗子、生田悦子、岸部四郎。 音無美紀子、高島忠男、小川宏、
木の実ナナなど多くいる。作家では夏目漱石、北杜夫がいる。 タレントの何人かが手記を出しているが、本当に辛そうだ。
老齢化してくると誰しもが軽い鬱状態が日常になる。 長生きの人生の利子。 私の倒産のストレスは実際のところ大きいが、
長年、その方面の知識を積み重ねていたので、今回も最小? で済んでいる。 対策として、直後から、
 * 早朝の一時間のサイクリング+スポーツセンターの二時間 =合計三時間の運動で身体を動かす。
 * 10年間続けてきた、この随想日記を書き続ける。 
 * 孤独を守り、人の目線を意識的に遮断する。 その為に、哲学書を一歩踏み込んで読み込むこと、と決め実行している。
  しかし、この結果に対しては外部要因が三分の二としても、当然、無念な気持ちは残る。当然のことだが。
 欝状態は、気分の落ち込みの底から自分を解放できなくなること。一度、底に落ち込むと、這い上がるには膨大な
 エネルギーを要する。そして更に泥が蓄積し沼(心)の泥は深くなり、ますます辛さが積もっていく。
  私事になるが、元もと人間関係はアウトサイダーを保っていたので、その崩壊は最小で済んでいる。 所詮は、娑婆娑婆!
 もしインサイダー人間だったら、私の性格からみて袋叩きだろう。それも娑婆娑婆。 地域社会を象の皮膚の隙間とすると、
 そこの住人は寄生虫でしかない。そう考えると気持ちが楽になる。 その自分も、その一匹。
  経験からして、心の傷は癒えるのに長くて三年、短いと一年。平均で二年弱。 時間が全てを解決すると腰を据えるしかない。
 結局は、自分で這い上がるしかないのが、この病気。 見渡してみると重い経験者は一割。 軽いのを入れると三分の二あたり。
 問題は独り遊びが出来るかどうか。独りで飲みに行く、読書に没頭する、映画館の梯子をするとか、新しい何かに挑戦するとか。
 それが出来ないから欝になるから、これ愚答。 そうすると自立(脱皮)しろ!というサインと考え、悶えるしかないか。で、悶える?
 住んでいる場所を変える、生活習慣を変える、趣味を変える、仕事を変える、どれかが短期的に効果的。 書店か図書館に行くと、
 (神経が研ぎ澄まされているので)そこの天使が感応し、ピッタリの書棚に案内をしてくれる。 これは神様の情け。
 気づかないで通り過ぎるのがいるが、それは本人の問題。 朝日をクラシックを聴きながら浴びると、毒素が出ていくのが分かる。
  ・・・・・・・
3487, ジョハリの窓
2010年10月12日(火)
 「ジョハリの窓」という原則がある。 ーネットによると
【ジョハリの窓とは、1955年にJoseph Luft とHarry Inghamが考案した自己理解のメカニズムを指す。
 対人関係における自己理解について、4つの窓の視点を提示し、自己理解がどのようになされるのかを分かりやすく説明した。
 コミュニケーション心理学の分野で認知されており、研修や能力開発の場面で使用されることが多い。
  <4つの窓>
A.自分も他人もよく知っている自由な行動領域「開放の窓」  : B.他人は知っているが、自分は気づいていない領域「盲点の窓」
C.自分は知っているが、他人には隠している領域「秘密の窓」 : D.自分にも他人にもまだわからない領域「未知の窓」    
 ・いつも失敗する人は、「盲点の窓」が大きい。自分の悪いところも、いい部分も気づいていない。
 ・「秘密の窓」が大きい人も、表と裏の顔が違うもう1人の自分を隠していて、いざというときに、その自分が顔を出して
 「こんな人じゃないのに・・・」と言われることもある。その、もう1人の自分をできるだけオープンにすること。
 その窓を広げるためには、自分の気持ちを率直に話すこと。自分を開示していくのは難しい。横にA→Bへと窓を広げるためには
 友達や周りの人からの率直な感想を謙虚に聞く姿勢が必要です。そして友達も気づいたことや感じたことを率直に伝えることが大切。
 このよう知らなかった自分に気づくことで、人は成長し、「未知の窓」を広げていく。】とあった。
   〜〜
  私のHPは、ジョハリの窓そのもの。10年近くも頭の中と私生活をオープンし「C・B」から「A」へ移行してきた。
 そして自分で自分が書いた内容を読み返している時に、「D」領域が垣間見ることがある。過去を思いやった時に、鳥瞰の視線で
 BとCに気づくと同時に、Dの影?も見え隠れする。 その時点で気づかない未知の窓の気づきがある。そこには、戦略、夢、目標、
 神の視線、純粋なギブ&ギブ、血筋、教養、等々色いろある。未知の窓こそ人間に進化?するプロセスの生命、動物の進化の
 プロセスが遺伝子に書き込まれている潜在意識の世界が隠されている。 開放の窓・Aと未知の窓は対角線・Dの位置にある。
 自分を開放し、自由な行動をすればするほど、自他ともが窺い知れない未知の世界に飛び出す確率が高くなる。
  驚き、感動が人間にとって最も重要な受容能力だが、それこそ未知の窓へ通路。驚き、感動の周辺に知識・知恵が豊富に存在する。
   外は、広い、内は、深い! そして人間には限界があり、それぞれの外は狭く、内は浅いのである。それをソクラテスが・・・
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3112,返済猶予法案の成立から見えてくること! ー5
 2009年10月12日(月)
 初めは、この返済猶予法案は難しいだろうとみていたマスコミなどの観測を尻目に、あれよあれよのうちに成立しそうである。
( 字数の関係上、カットします−2011年10月12日)
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2747, 仙台視察の二日間ツアー? に参加して
 2008年10月12日(日)
 商店連合会の仙台市の商業事情の視察バスツアーに参加してきた。
( 字数の関係上、カットします−2012年10月12日)
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2007年10月12日(金)
2383, 私の嫌いな10の人びと −2   中島 義道 (著)     ー読書日記
まずは、この本をダイジェスト的に書いてある最終章をコピーしてみる。
( 字数の関係上、カットします−2008年10月12日)
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2006年10月12日(木)
2018、「私」のための現代思想  −10                        
「『孤独』とともに『自由』が発生する」の極みは一人旅であろう。
( 字数の関係上、カットします−2009年10月12日)
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 2005年10月12日(水)
1653, 北イタリア旅行記−4
字数の関係上、カットします−2007年10月12日
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 2004年10月12日(火)
1288, 「閑」のある生き方ー読書日記 −2
11章の「今ココに」の心得が含蓄が深いので抜粋して、そして考えてみる。
  ーー
・ー現在只今の自分を全肯定できること、これが人間として達しうる究極の境地である。
 そこに達すれば現世の中で翻弄されている最中でも平然としていられるのだ。
・「今ココニ」は過ぎ去っていくのではなく、自分が生きている事実がつづくかぎり同一のものとしてあり、
 しかもそれがただち永遠につながっていることが、次第にわかってくる。
 それは心の時間というべき状態である。 鈴木大拙はそれを「零=無限」として、こう言う。
 「空」は空間の義に思い違えられるおそれがある。それで仏教者はいつも
 その弁明に悩まされるが、存在といえば、いつも空間の存在の義に考えられ、時間を入れない。
 しかし実際は空と時とを分けるわけにはいかないのである。空と時を合わせて「一念」というほうがよい。
 hereーnow が、それである。(略)とにかく、「空」を時の上から解釈して、「即今」という。平たくいえば、
 ーただいまーである。 「空」がわかるというのは、その「ただいま」がわかるという意味である。
 「ただいま」を手に入れなくてはならぬ。この「ただいま」を無限そのものだと悟るとき、零すなわち見元の式が成立する。
 アッというこの一瞬が直ちに無限の時間そのものであると気のつくとき、東洋思想の根底にふれることができる。
                                   鈴木大拙「東洋的な見方」岩波文庫
 「今ココニ」を丸ごと心で把握するなら、そこにはあとに残る過去も先に待つ未来もなく、ただ永遠の今があるだけと
 いうことに気づく。空間が時間であり、時間が空間であり、その空間とも時間とも名付けられぬ絶対の現在がある。
 それが生きている場である。そこから見れば、物差しのような時間観念はただ外にある人工的尺度にすぎない。
 我々にあるのが「今ココニ」だけであると同様、二千年前に生きたセネカやエピクロスにも在るのは「今ココニ」だけである。
 だから現在の自分とセネカは「今ココニ」というところで一つになる。これが人間の生きる時間の面白いところで、
 過ぎ去っていく時間という観念から自由になれば、人は永遠の時の中に行き始めるのだ。
 −−−
 以上であるが、この随想日記の過去分を読んでみると数年分の同月同日の「今ココニ」に、毎日出会っていることになる。
 いや36年前の日記の自分の今ココニとも同じことだ。その意味で感情を文章に込めて書くことの重要性の意味が納得できる。
 気持ちを込める、魂を込めるということは、現在の今ココニに現世を 超越した永遠の世界に入っている事になる。
 「茶道」の世界に「一期一会」も、「今ココニ」の世界である。 その瞬間こそ、自分に生きていることになる。
 ーーー
 ー「閑」のある生き方ー
    著者 中野孝次 発行元 新潮社  2004年10月3日長岡中央図書館
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003年10月12日(日)
921, アイスランド旅行記−1
 ー2003年 10月4日〜10日 
  ーアイスランドという国とは ー
直行便がアイスランドに初めて出発するという新聞広告をみて、急に思い立ってアイスランドのツアーに参加をしてきた。
行って解ったことだが、今年から捕鯨を開始をしたアイスランドに対して欧米の観光の予約のキャンセル相次いだという。
その穴埋めということで国をあげての企画であった。9月27日、10月4日、10月11日とそれぞれ240名、
合計720名の満員の大盛況。何か秘境?に行った感はほとんどなかった。
もちろん直行便はよいが、乗り継ぎで現地の人の間に好奇の目にさらされて行くから面白いのだが。
乗り継ぎのエネルギーも大変だから贅沢は言ってられない。アイスランドと聞けば「氷と火の島」というのが印象である。 
一般的には『それってどこにあるんだ』ってことである。この国の位置はイギリスと北極点の丁度中間に位置している。
大きさは北海道と四国を足した大きさになる。 そこに人口僅か28万人、首都レイキャビックに
18万人が住んでいる。 イメージは極寒の地であるが、実際はそうではない。
・火山の国である為、地熱で温泉があちこちに沸いている。
・更にメキシコ暖流が周辺の海に流れ込んでいる。
・また氷河によって永い年月で出来上がった小さなテーブルマウンテンが
 多くあり、それが北極の冷たい風を防いでくれる。そのため北極圏にしては暖かく、住めば都のようだ。 
 人口の50パーが漁業関係に従事している。
また地熱を利用したビニールハウスで野菜や果物ートマトやバナナやメロンなどが栽培されているのだ。
家も92?が地熱のお湯で暖房されており、地熱利用の発電所も多くある。
  ー日本人の若い女性現地ガイドが面白い内情を話してくれた。
・一見豊かさそうに見えるが、習慣としてローンを組む国民性があり、
 借金でどの家庭も火の車という。一般的には手取りで20万足らず、物価が高い為夫婦共働きだという。
 反面社会保障が充実しているため、将来の不安は少ないという。
 医療費は大病の場合は無料とか。島国根性で見栄っ張り、外見を飾りたいとか。
ー何処かの国に似ている。
・自殺の割合が、十代ではヨーロッパで一番多いという。 −これは一日八時間の日照時間に関係している。
・消費税が24?もあり、更に小国のこともあり食料以外の殆どが輸入品である。
 そのために物価が非常に高いのが特徴。 だいたい日本の物価の1・5倍である。 いかに高いか解るだろう。
・犯罪はほとんど無く、殺人は三年に一度あるかないかという。 大統府も小さなオフィスのようであった。
・どの人も何処かで人間関係が繋がっているという。 したがってあまり目立ったことができないとか。
                     −続くー
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547, 人生で一番よい時
- 2002年10月12日(土)
母から聞いた話である。
母が堀井に嫁いで数年たった時、多くいる小姑との折り合いがうまくいかず、離婚を覚悟に実家に帰った時の
祖母の励ましの話が良かった。「一番苦しい時は人生で一番いい時なのよ!」私の一番苦しい時に聞いた言葉で
あった為か、強い印象が残っている。小姑とイロイロあったと聞いていたが、こういう話しを聞くと納得するものである。
祖母もその経験があるから?その瞬間、その言葉が出たのだと思う。人生の深淵のある言葉である。
「苦しいときは逃げては絶対に駄目、前向きに生きなさい」という気持ちの意味が背後にある。
人生から逃げ回っている人が本当に多い。逃げても、その自分が何処までもついて来るのさえ気づかない。
そしていつも逃げ回ろうとしている。このような人には「人生のいい時は来ない!」来ても気がつかない。
「苦しみを通り抜けて歓喜に!」というベートーベンの言葉がある。苦しむから歓喜があるのだ。 
マゾはそれをセックスプレーで楽しむのだろう。 最後の一言は必要ない?! 硬い話を最後で落とす為です?


4591, 2050年の世界 ー18 

2013年10月11日(金)

  「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」〜英『エコノミスト』編集部 (著)
 地球温暖化も人類にとって切実な問題になってきている。大地震、津波、異常気象なども、地球温暖化と関連した現象。
これまでの後進国が経済発展で、国民の生活が底上げされることになると、エネルギーの大量消費が避けられなく、
それが地球温暖化に拍車をかけることになる。しかし、時の権力者は、目先のことしか考えない。
    第七章 地球は本当に温暖化するか ーのまとめ
・気候変動については現時点で正確に予想する方法は確立されていない。エネルギーのポートフォリオがどう変わるか、
 経済成長がどうなるのか、さらに気候の変化によって人間が対策を講ずることなど、様々な不確定要因が多すぎるためである。
・しかし、全体として人間が活動する結果としての二酸化炭素の増加は、温暖化に結びつくということはコンセンサスとしてあり、
 だからこそ、これまで先進国が音頭をとって、二酸化炭素排出削減の試みがなされてきた。
・一九九二年のリオデジャネイロ地球サミットで案出された国連気候変動枠組条約。
 この条約の署名国1ほぼすべての国1は、危険な気候変動を止めることを表明した。
・第二の進展は、一九九七年の同条約の会議で合意された京都議定書。富裕諸国はこの議定書のもと、二〇三年の
 二酸化炭素排出量について、それぞれの数値目標を達成することを表明した。しかし、各国の数値目標にはほとんど
 強制力がなくなり意形成を主導したアメリカは議会の批准を得られずに不参加となってしまった
・二〇〇九年のコペンハーゲン会議はこのような状況をさらに前進させ、京都議定書よりもっと野心的な数値目標を、
 富裕諸国だけでなくすべての国々に掲げさせるはずだったが失敗に終わった。その理由は、新興国が経済成長を
 達成するためには、二酸化炭素をこれまで以上に排出せざるをえないという背景がある。
・そうした中、二〇一〇年のメキシコのカンクン会議で中国が、二〇二〇年までに経済の炭素集約度を四〇〜四五パーセント
 削減すると表明した。これは、GDP当たりの二酸化炭素排出量を、二〇〇五年水準の半分強まで減らすことを意味する。
 中国では、福島原発事故で、原子力への信頼が揺らいでいるのにもかかわらず、新しい原子力発電所を増設していく。
 風力発電など再生可能エネルギーへの投資も増える。
・温暖化で北極は、夏の間は海になるという将来が予想される。海水部が増えることにより、海洋地下資源開発の促進、
 あるいは新たな漁獲域の出現など大きな変化があるだろう。
・人類の活動によるもうひとつの副産物「エアロゾル」は冷却機能を持つ。成層圏にこのエアロゾルを人為的に注入することに
 よって温暖化を防ぐという案があるが、どのような影響が出るかわからない面も多く、リスクがあるため実現はしないだろう。
▼ 当分の間、現在、生きていくため将来を犠牲にする構造は変わらない。その結果、温暖化問題が、より深刻化していく
 悪魔の循環が、日々、大きくなっている。 世界の氷河の幾つかを見てきたが、何処も氷河の後退が話題になっていた。
 「地球滅亡」をテーマにした映画を最近、多く見てきたが、このままでは、現実問題になってくる。
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4216, 開国という強迫観念 ー3
2012年10月11日(木)                      
  * 果たして世界>東京>地方か、先進文化度の順は?  ー反・幸福論『開国という強迫』ー京大教授・佐伯啓思
Uターンをして、地元に帰ってきて、私の地元に対して感じたのは、閉鎖的城下町の世界だった。
とにもかくも、染まらない、人間関係の序列社会から離れることだった。間違いなく、世界>東京>地方>城下町の視線だった。
新潟市でさえ外部の比率が6割に対し、長岡は2割しかいないことを知った。要は盆地の雪国だった。 住居を長岡、
事業を新潟市にして毎日、通っていると、それが浮き上がって見える。それも首都圏から見れば似たようなもの。
 それを逆照射してみると、世界というより欧米から見れば、日本は極東のアフリカか、中南米のような世界と同じ。
5百年近く前に、日本にやってきた西洋人が、この東洋の島国にやってきて、その文化の高さに驚いてしまった。
当時の織田信長の鉄砲で固めた軍隊は、欧州を滅ぼすほどの近代化された軍隊であった。 世界>東京>地方の図式は、
こと日本において、決して当てはまらないのである。  ーその辺を抜粋してみるー
 ≪ 世界」を「東京」に、「日本」を「田舎」に置きかえると、「東京」は「国際化」の象徴であり、外へ開かれた都市でした。
東京へ行くことは、また自分を世界へ開くことでもあったのです。それに対して地方や田舎にいることは内向きで閉鎖的な部族民に
甘んじることなのです。そして、この場合、「東京」が普遍的な「世界」を象徴するとすれば、「地方」や「田舎」は特異な「日本」
そのものだった。誰も「日本的風景」や「日本的社会」という言葉を聞いて「東京」を思い浮かべはしないでしょう。「日本的」で
連想するのは、田舎の野原に囲まれた風景だったり、地方でのいささか窮屈な生活だったりするのです。だから、確かにここにはかなり
「複雑」な事情があります。このことを突きつめてゆくとかなりやっかいな問題がでてくるのではないか。それはこういうことなのです。
「開国の論理」とは、まずは「田舎」を捨てて「都会」をとるという論理で引く。そして、日本の近代化とはまさしく「田舎」を捨てて
「都会」をとろうとしたのでした。「開国の論理」とは、まさにその延長上にある。ほぼ日本近代化の論理そのものといってもよい。
日本の近代化とは、「田舎」の閉鎖性を後進性とみなして、これを捨てる、もしくはこれを「都市化」することだったのです。
この同じ論理をもう少しスケールアップしたのが「開国の論理」でした。「世界」=「都市」、「日本」=「田舎」と見なせば、
ここで、われわれは「日本」を見捨てるか、さもなければ「日本」をこそ自己特権化の典型です。戦後のいわゆる進歩的文化面は、
自己特権化という立ち位置に自らを置くことで、まさに一進歩」した「文化人」を演出したのでした。 ・・・ ≫
 ▼ 首都圏の住民は、地方出身者を田舎者と一段、二段、蔑んで見ている。その出身者も、地方からの旅行者を「おのぼり」と
  蔑んでみている。当然、都会は階級社会がハッキリしている。その下層の人は、それを地方出身者に向ける。地方の人も、自然と
  固定観念に染み付き、自虐の念になる。しかし少し考えれば、どうでも良いことが分かる。大方が気がつくには死期が迫った時。
 ・・・・・・・
3851, ツレがうつになりまして −2
2011年10月11日(火)
 この映画のストーリは、暗い中にも何か仄々とした明るさがある。欝になるサラリーマンの屈折した心は実際、こんなものではない。 
学生時代の友人の商社マンが丁度、ホテルの創業時から新潟支店に勤務になってきて、それ幸いと古町などで15年ほど隔月ごとに
飲んでいたが、半分以上は人間関係の愚痴の聞き役。 支店長が変わる度に全神経が新しい支店長との人間関係の構築に向いてしまう。
それも数値責任を達成した上だから、たまったものではない。トイレの中での男の号泣を何度も聞いてきたというが、具体的な上司の
辛らつな虐めの言葉は、耳を覆いたくなるほど辛いという。 主人公も、外資系の会社で、リストラ、効率化、顧客主義、徹底した
コスト削減、顧客のクレーム処理で神経を磨り潰す。 几帳面で、生真面目で、誠実な人柄の主人公が、ある日突然、鬱病が表立つ。
そして、会社を辞めて家で引篭もりに入った主人公は、ただ死にたいと思うようになる。物語りは実録のためか見ている者を引き込む。
 ノンビリしている伴侶の晴子が、生活費も底につき、自分の漫画の連載を打ち止めになった出版会社の担当に
「ツレがうつになりまして、お願いします、仕事を下さい」と懇願したのが、タイトルになっている。たまたま、その同僚が、
欝になり人生論などを扱う部門に配置換えになっていた。 その必死さにうたれた担当が、その人を紹介し、それが、この
「ツレがうつになりまして」を書くキッカケになる。 この大不況の中で、どの企業も合理化、リストラなどで、ウツに追い込まれる人が
多い現在、タイミング的に丁度良い題材になった。 他人事ではない、私も半年前に会社を倒産させている。倒産の苦しみは生易しくない。
事業を立ち上げ準備が15年、事業期間が30年、合計45年の会社を自分の手で潰すのだから、ただならぬ事。思いもよらぬ事象も
当然起きてくる。 その嫌な経験でも、それを事業の一連として味わい、反面、その自分の姿を冷笑している心の奥の視線もある。
 当初の三ヶ月は、夜に布団に入るのが恐ろしいほど。三時間ほど熟睡した深夜の1時から3時に眼が覚めて、あれこれの思いが巡る。
それが連日となると、鉛のような気分に襲われる。 大部分の経験者が、この鉛の気分に押し潰され打ちのめされているのだろう。 
それも時間が解決してくれることは経験上分かっているが、その重い気分は言葉で言い難い。 事業を興し、上手くいっている時は、
この世の春。しかし、ある時点から転げ落ちるように成績が落ち込み始めたら鉛の日々になる。 それでも手元資金が完全枯渇する
半年前に、止める決意が出来たのは不幸中の幸い。 ここで欝になった主人公が、出版後、講演での言葉が印象的である。
≪ 私は、この経験から、「あ・と・で」という言葉を大事にしています。 あせらないの「あ」、自分を特別扱いしないの「と」、
できることからやるの「で」、3つ合わせて「あ・と・で」≫と。 
 仕事の手順からみたら、全く逆だが、欝体質の人には大切である。 生真面目すぎ、挫折経験の免疫が無い人が危ない。 ーつづく
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3486, つれづれに ー閑話小題
2010年10月11日(月)
   * ガラパゴスに戻って
 二年前にドコモの携帯からiPhoneに切り替えて、再び日本のドコモの携帯に切り替えて7日が経つ。
二年前にiPhoneに切り替えたドコモの携帯は、その二年前に買っていたので4年間のブランクになる。 
で、驚いたのが、以前とは格段に使いやすくなったことと、画面が綺麗になったこと、画面が大きくなったこと、
カメラが810万画素になり、タッチ式になったこと、スライド式も出てきたなど大きく変化をしていた。
他からの切り替えのため0円で、カメラとメールの最低条件があれば充分、ということで今の機種を選定した。 
しかし他の機種で4〜5万を出したものなら、その段差は更に大きいはず。 これでも、使いやすさは抜群である。
   * 一世帯あたりの平均所得が14年前の2割減
 厚生労働省が2009年6月に発表した国民生活基礎調査によると、2007年の一世帯の平均所得は556万円となり、
1994年のピークの664万円に比べ2割近く下げた。 一人当たりの平均給与は429万円で、1997年467万円から下がり続けている。
世帯の給与ほど下がってないのは、奥さんが、その補填のため働きに出たり労働時間を延長したこと、などがある。
増税などを含めると、世帯の収入が四分の一も減れば、景気が悪くなるのは当然である。これからも、団塊の世代の大量の
定年退職や、少子高齢化や、人口減少、そして世界恐慌?の進行とともに日本経済はますますダウンしていく。
おそらく10年で、更に2〜3割以上は減ることになるから、一ときの半分以下の平均世帯給与が300〜350万円になると、
勝ち組の収入格差が3〜10倍の格差がつくことになる。反面、それほどの貧困感は出ることはないだろう。
中古市場や、フリー(不用品の無料化、デジタル化による無料化)の拡大で有り余った在庫を融通しあうシステムが
ネットを通して働くからだ。貧乏だけど、最低限のモノや情報には不自由しない時代になっていく。
・・・・・・・・・
3111,つれづれにー閑話小題  
 2009年10月11日(日)
 *「正座が趣味」は、言い得て妙である
 ある随想を読んでいたら「セイザが趣味」とあった。「セイザというと星座と思われるかも知れないが、
私のは正座である」という書き出しが良い。正座をしている人を見て、格好がよかったと思ったので、
正座に挑戦してみたところ、良かったので続けているうちに趣味と思えるようになったという。
 海外旅行などで長時間、飛行機のエコノミーの席に座ってきた経験から言うと、座席にあわせ深く座り、
腰骨を立てて姿勢を正していた方が結局は疲れが少ない。 まあ人生の姿勢も同じであるが。
私は学生時代に合気道を経験したことと、両親が茶道を趣味としていたため、いつも自宅で茶道の会など、
両親の隣に座らされていたこともある。 もちろん、背骨を立て正座である。
 葬式とか、法事で公式の席で座る機会が多いが、最近は途中から正座を崩すようになった。今度は、
どこまで正座に耐えられるかこころみることにしようか。 で、何年後かに「正座が趣味」と言ってみたいが。
  〜〜
  * 自民党総裁選の結果を総括する!
 今さら自民党を取上げることもないが、谷垣を談合もどきで選出した愚を書いてみる。
恐らく、当たり前のことを当たり前に述べるのだから、ほぼ同じ内容が、よりシビアに政治評論家が切り捨てているはず。
しかし新聞にしろマスコミでバッサリと斬った内容を見てない。 ところで、その選挙、当て馬の何某は谷垣の反対票を
分散するための、「あの連中(自民党壊滅の戦犯)」が仕立てた役割以外の何ものでもない。 
要は、河野太郎と谷垣との選択選挙だった。 そこで主張している内容は、河野太郎の方が一方的に筋が通っていた。
「森元首相など戦犯を追放し、民主党の大きな政府の対立軸として、小さな政府を目指す党にしなければ自民党は再生できない」
全く、そのとおりである。 それに対して、谷垣は「これまでの派閥の領袖や、森元首相など首相経験者の後ろ盾を背景に、
これまでの体制を維持しながら立て直そう」という。 誰の目にも真っ当なのはどちらかは判断できる。
 小泉のアメリカ追随の新自由主義は行き過ぎだったが、といって自由競争はグローバルになった世界経済社会では
必要である。 また、アメリカと協調していくこともである。従って、民主党の方針をそのまま実行していけば
必ずや行き詰り、自滅するのは目に見えている。 その時を期して、今までの悪しき体質のヘドロ体質を思い切って
保守本流の自由主義を目指すのが筋である。 いずれにしても、二大政党としての対立軸は必要なのだから。
 これで、官僚と自民党の守旧派は陰湿な手段で陰謀を仕掛けるだろうが、その辺の匂いは、自然と見えてくるもの。
そうこう考えると来年の参院で、更に惨敗の可能性がある。 その方が当面は良いのだろうが。


4590, 閑話小題 ー謝罪あれこれ

2013年10月10日(木)

 このところ、毎日のようにJR北海道や東京電力など謝罪会見がTVのニュースで報道されている。
そのあたりを狙ったのか、『謝罪の王様』という映画が上映され、私も見てきたことは前に書いた。 
土下座は江戸時代の大名行列などで平民が土下座したことに始まり、謝罪というより権力の誇示のため武士がやらせた慣習。
謝罪に土下座をするようになったのは70年以降のこと。映画で、記者会見などの頭下げの時間が20秒が相場で、長いほど
効果があると・・ さっそくNHKのクローズアップ現代で、この風潮を取り上げ分析していた。ーまずは、NHKのブログからー
 (番組趣旨より)
空前の高視聴率を記録したドラマ『半沢直樹』。注目を集めたのは、“土下座”シーンだ。宮藤官九郎さんが脚本を書いた映画
『謝罪の王様』でも頻繁に出てくるのが“土下座”。 いったいなぜ私たちは“土下座”が気になってしまうのか。 専門家は、
2000年以降、謝罪会見などで経営者の土下座が見られるようになったのは、日本人が心のゆとりを失って不寛容になり、
相手を土下座させるまで追い込む風潮が広がっているからだと分析。“土下座”が氾濫する中で、見え隠れする社会の変化を探る。
 (NHK説明より)
 早速、プレビューを見てきました。 ドラマ「半沢直樹」は視聴率が民放ドラマとして今世紀最高を記録したこともあり、
多くの方がご覧になったと思います。その中で、注目を集めた土下座のシーン。印象深かったですよね。企業の不祥事などで、
社長たちが謝ったり、土下座するシーンを近年よく目にするようになりました。そもそも、「土下座」という言葉に、謝罪という
意味が加わったのは、70年代に入ってからのことらしく、比較的新しいといえます。 中には、土下座するまでもない場面で、
土下座を強要させられることもあるようです。私たちの社会は、なぜ、ここまで土下座を求め、またするようになったのでしょう。
土下座をさせると一時の爽快感があるが、何か見てはいけないものを見たようなそんな居心地の悪い気分になることも事実。
番組を通して分かってくるのは、ますます不寛容な社会になっている、一方で、謝る側も、形だけでも土下座することで、
それ以上追及されることを避けようという姿勢です。本来なら、土下座させるよりも、ことの本質を見てそれを改善することに
向かうべきではないでしょうか。番組の中で一番印象に残るのは、脚本家・宮藤官九郎さんのこんな言葉です。
 「もっと本当は広い心で過ごせたらいいのにっていう思いはありますよね」。 ぜひ、番組をご覧ください!
▼ 報道陣を前にした会見は、公開処刑か、リンチの縮小版に近い。 見ている方は、ライブで大して関係ないのに、直接の
被害者のように怒り、呆れ、嫌なものを見た感覚になり、また優越感に浸る。 謝罪をしている方も変だが、見ている方も、
明らかに変である。要は、役割を演じているだけで、本心からでないのは、有りありと画面から伝わってくる。 大場面なのに、
殆ど悲壮感が伝わってこない。それさえ映画で、笑いネタにされ、それを国営放送の話題になるのだから・・ 
大した謝罪もしないで首相を辞めさせられた、あの二人が再び首相と副首相で登場、更に大きな間違いをしようとしている。
元もと罪の意識もないのだから救いようがない。選挙制度の欠陥もあるが、自民党に大勝させ過ぎた国民が悪い!
・・・・・・
4215, 開国という強迫観念 ー2
2012年10月10日(水)
                 ー反・幸福論『開国という強迫』ー 京大教授・佐伯啓思
 * 果たして欧米社会が普遍的・先進的で、「日本」は特異で後進的か?
 義務教育が終わると、高校受験で進学校と専門高校に分けられ、大学では首都圏の大學か、地方大學に分けられる。
一般的に都心の大学進学は、進歩的文化人としての特権を得るための要素がある。それで果たして、それだけの知識と
教養を積んだかというと、そうではない。あくまで将来に知的素養の下地をつくるため。自由の立場で、世界を、社会を、
人間を見つめるための猶予期間である。しかし、最も重要なことである。  ーその部分からー
 ≪ 「進歩的文化人」こそ自己特権化の典型です。戦後のいわゆる進歩的文化面は、自己特権化という立ち位置に自らを置くことで、
まさに一進歩」した「文化人」を演出したのでした。「進歩的文化人」が西洋思想に関心をもっていたことは事実でしょう。
彼らがそれなりの知的エリート教育を受けていたことも事実でしょう。では彼らが本当に西洋を理解していたかというと全く
そんなことはありません。・・・ 戦前では天皇が頂点にあり、戦後すぐには「マッカーサー」がこの頂点にやってき、その後は
「西洋社会」や「アメリカ」がそこへくる。進歩的知識人、進歩的文化人という存在そのものが「抑圧移譲の原理」に捕捉されていった。
知的商売人には、少し手の込んだ事情があります。それは、彼らは、彼らに都合のよい西洋の思想や学問を取り入れて、それを「科学」
といい、自らを「専門家」といったことです。 「西洋の学問」=「科学」=「専門的」=「先進的」であり、これに対し、
「日本的思考」=「非科学的」=「大衆的」=「後進的」とみなした。その上で、自らの身を前者の「科学」「専門家」「先進的」
の方に置いたのです。 これは、「世界」"「先進的」「普遍的」であり、対して「日本」は「後進的」"「特殊的」というあの図式と同じ。
この両者を重ね合わせ、知識を身に付けた知識人は、あたかも日本の外に立って日本を眺めつつ、その特異性を批判する、という
特権的立場を手に入れたのです。・・(中略) ・・ この潮流からすれば日本はヘンだ。だから、世界へ向けて国を開かないと、世界の
潮流に乗り遅れる」というのです。実は、この発想は、必ずしも「世界」と「日本」に限りません。「世界」は普遍的で先進的であり、
「日本」は特異で後進的であるという発想は、もっと根深いものをもっています。それは日本の近代化そのものを支えてきた思考様式
だったのではないか。この「世界」を「東京」に、そして「日本」を「田舎」に置きかえてみましょう。 ・・・ ≫
 ▼ 哲学の構造主義は、「世界」=先進国は普遍的で先進的で、僻地の住民が果たしては特異で後進的か?を、問うている。
  それまでの欧米は、自分たちは文化人で進んでいる。それを遅れている南米、アフリカ、東洋に普及させるという建前で、
  世界を侵略をしてきた。しかし、その誤魔化しが何時までも続く訳がない。日本の開国という強迫も、西欧文化に乗り遅れる、
  という刷り込みではないかと、著書は問うているのである。しかし、ネット社会は否が応にも開国を迫る。
  真の支配層はネット化で、それぞれの国や社会の開放で、支配力を強化するのが狙い! 
 ・・・・・・・
3850, ツレがうつになりまして −1
2011年10月10日(月)
 「ツレがうつになりまして」という映画を見てきた。 TVでも放映され話題になったストーリー。 ところで、
もう亡くなってしまったが、前の会社の取引先の営業の担当が創業当時から高校の後輩ということもあり、隙間時間に
暇を持て余していた私のところに息抜きに来ていた。 ところが20数年前のバブル崩壊直前に重い躁鬱病になってしまった。
その症状のまま営業や知人先に回るので、再発すると周囲から「彼が再発をした」と、電話が入っていた。 躁の時は、
晴れやかに飲みに誘われ、しかし直前に断りの電話が入る。 鬱のときは、目が据わり今にも自殺でもしそうな暗い顔で、
再発の報告と相談に来ていた。 私も若い時から数多くの挫折体験をしてきたが、宗教書や精神科学の本の言葉で、何とか
危機を乗り越えてきた体験があるので、痛いほど彼の悩みと症状が分かっていた。 その時に彼に言い続けたことは
≪ 躁鬱や分裂病などの精神病、精神症は心の風邪で何にも恥ずかしいことではない。風邪をひいて恥ずかしい、という人は
いないのと同じ。 上司に正直に現状を報告し、直ぐに医者にいって治療すべき。医者の言うとおりにすれば、それ以上悪くなる
ことはないし回復は最短になる。とにかく拗らせないで治療すること。拗らせると廃人になり鉄格子の奥に隔離されることもある≫と。
15年間に大きな躁鬱の波は3〜4年に一度ぐらいは来ていたが、その都度、初めに飛び込んでくるのは私のところ。
欝にしろ、躁にしろ、本人や奥さんから状態を聞くと、それはすざましい。聞いているだけで背筋が寒くなる話しが山ほどある。 
しかし瀬戸際の経験を重ねるうちに、自分で医者に行き、一時入院をするようになっていた。 会社は管理職からヒラになったが、
最後まで病気と付き合いながら職に留まっていた。「精神病」と「精神症」の境は、他人に危害を加えるかどうか。 
その辺はギリギリでセーブをしていた。彼の場合、多くの友人がいて、その失敗を見守って許してくれる人間性があった。
営業先には病気を逆にネタにしてしまう逞しさもあった。 その人も7年前に癌で亡くなってしまったが、純粋で、面白い人であった。 
欝による失態も、決して恥ずかしいことでも何でもない。 だからこそ書いている。 そういう経験があるので、この映画に
感情移入をし、涙をしながら見入ってしまった。 歳をとると年齢に比例して欝が重くなっていく。 足腰の関節が痛くなり、
何らかの成人病が出てくる。 欝になるな! という方が無理な話。 その中で、欝というトラの背中を如何に乗りこなすかと、
割り切りきった方が良策。 それから逆算すると、若い時から何らかの宗教に入っていた方が良いことになる。
 私は子供の頃から仏壇前のお経だった。  次回は、映画の感想文・・
 ・・・・・・・
3485, エッセイ脳 ー2
2010年10月10日(日)
   「エッセイ脳―800字から始まる文章読本」 ー岸本 葉子 (著)
  ー著者のエッセイの基本要件を書き出してみたー
・A、自分の書きたいことを、 B、「他者がよみたくなるように」書く。 「何を」にあたる部分がA、
「どのように」にあたる部分がBになる。単純だが要諦である。 Aは、文章表現の動機になるが、エッセイは読み手(公共)
 の納得の方が優先されなければならない。そのため、「興味の持てる題材であること」と「読みやすい文章」が優先され
 なくてはならない。そのため、ふつうの生活の中で、誰もが興味を持ってもらえる題材を探さなければならない。
・そこで「テーマ」と「題材」の関係が出てくる。テーマは隠されていてもよい。したがって、タイトルにテーマを書く必要はない。
 テーマに合わせて題材を選ぶか、題材の中からテーマを見つけ、タイトルをつける方法がある。
 これは10年近い私の経験の中でも、度々していること。テーマは一般的、抽象的だが題材は個別、具体的になる。
・エッセイも当然、起承転結がある。「(そういうことが)ある、ある、へえ〜っ、そうなんだ」を目指している。
「ある=起、ある=承、へえっ〜=転、そうなんだ=結」になる。そして、「へえっ〜=転」が、書きたいことの中心にある。
 これには驚いてしまった。捻りこそエッセーなら、言われてみれば、そのとおりである。何事も、まずは驚きである。
 したがってテーマを探すときは、驚いたこと、変わったことを探せばよい。 驚きを題材にして、テーマ、そして、タイトルを
 考えればよい。他に大きくても小さくても人生に影響を与えたことも題材として良い。したがって「転、起、承、結」の順に
 なってくる。それはテーマが与えられてない場合である。 与えられている場合は、「結、転、起、承」の順になる。
・エッセイを成り立たせている文章として、枠組み=説明文、描写=おおずかみの文、セリフ「 」に括られるもの、などある。
 これは小説でも同じである。もちろん、エッセイでは誇張も、少々の嘘も入れてもよい。
 枠組は頭にはたらきかけ、描写は、感覚にはたらきかけるケースが多い。
・描写は、客観写生ではない。主観である。その人の主観が読み手からみたら面白いしエッセイの味になる。その人のカメラ・アイ
 こそ、エッセイのエッセイの由縁である。 セリフは描写の補強に適しており臨場感がで、さらに再現性がある。
・書き出しの一文は意識的に短くする。その後だんだん長い文章を入れていく。必要に応じて、問いかけ、呼びかけ(「〜ですね」)
 を交えてもよい。 そして、徐々に、情報を少しずつ出していく。
・エッセイは基本的に一つのエピソードで成り立つ。
・注意事項として�具体性に心かけ�文章は短く�文の見た目(ビジュアル)に配慮ー余白など�文のリズムに配慮する、になる。 
〜エッセイの参考になるだけでない、日常の見方も驚きを立ててみれば人生が豊かになっていく。[あ、そう]が一番の敵。
・・・・・・・・・
3110,生きる幻想 死ぬ幻想
 2009年10月10日(土)
「生きる幻想 死ぬ幻想 」 岸田 秀 (著), 小滝 透 (著)     ー読書日記
 唯幻論者の岸田と、宗教評論家の小滝透の対談は分かりやすく宗教とイデオロギーの関係を
世界的視点から踏み込んでいる。一神教の「正義」そのものが戦争と虐殺の火種になり現在に至っているが、
といって「価値」なしに生きることが可能か問題提起をする。イデオロギー(=一神教の亜種)は果たして終焉したのか。
「大きな物語」がなくなった現実の世界は泥沼化しているが、その病巣をえぐりだす二人の異種の対談である。
現在のアラブ対キリスト・ユダヤ世界の対立の根本構造を対話の中からあぶり出している。
  ー「おわりに」で、岸田秀が以下のように、この本で取上げた問題を分かりやすく要約しているー
 毎度いつものわたしの書き出しは、人間は本能が壊れた動物であるということである。
本能とは環境を知覚する枠組みであり、かつ行動の基準である。本能が壊れた人間は周りの世界がどうなっているか、
そこでどう行動すればよいか、さっぱりわからなくなり、耐え難く不安になった。そして滅びてもおかしくなかったが、
人間は、本能の代替え品として自我を発明し、自我を心の支えとして宗教を発明し、辛うして生き延びた。
自我とはここにいる自分という存在はどういう存在であるかの規定であり、宗教とは、自我の周りの世界はどういう
世界であるかを説明し、世界において自分はどうすればいいかを指示する規範である。 神も宗教も幻想であって、
現実的根拠はないのであるが、しかし、それなくしては人間が生きてゆけない必要不可欠の幻想である人間は他者たちと集団を
形成して生きるしかないが、人間が最初に形成した集団は、地縁共同体それをいくらか拡大した規模の共同体であったと思われる。
この共同体が共同体として成立するためには、その起源、由緒、来歴などについての物語が必要である。旧約聖書はそれ・・(略)
 ・・・そのような宗教の形態がどういうものであったかはよくわからないが、とにかく、神々はたくさんいたであろうから、
多神教と言っていいであろう。何らかの形の宗教をもっていない部族あるいは民族はなく、世界の各地の諸民族はそれぞれ独自に
それぞれの宗教を創ったであろうが、そのすべては多神教だったろう。 したがって、多神教が宗教の本来の自然な形であると
言える。 多神教の神々は、一般に、部族あるいは民族と血が繋がっている先祖、あるいはいろいろな経緯でさまざまな
形をとることになった先祖である。そうでなければ、神々が住む周りの世界は親しい、なじみのあるものとならないからである。
ところが、昔々のその昔、地球上のある地方、中東地方に例外的に唯一絶対神を設定する奇妙な宗教、一神教が出現した。
一神教は、古代エジプト帝国において戦争捕虜としてか何かで、それぞれ出自の部族あるいは民族から切り離されて連れてこられ、
差別され、虐待されていた奴隷たちが逃亡して創った宗教であると考えられるが、そのような成立の事情から、この唯一絶対神は、
信者たちと血が繋がっていない赤の他入で、狭量で厳格で嫉妬深く恨みがましい復讐と戦争の全知全能紳であった。
   (以下、字数の関係でカット2010年10月11日)


4589, 2050年の世界 ー17

2013年10月09日(水)

        「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」〜英『エコノミスト』編集部 (著)
    第八章 弱者が強者となる戦争の未来 ーのまとめ
・第二次世界大戦後、戦争による死者の数は劇的に減っている。
 それは、冷戦期、米ソの対立によって、戦争が逆に管理されていたからである。
・その一方で不確実性は高まった。米英も地上兵力を科学技術力によって劇減できると考えたが、
 9・11を皮切りとする非対称的な戦争では、それは誤っていたことがわかった。
・技術の拡散によって、不良国家やテロ組織がアメリカに非対称的な戦争をしかけられるだけの力を持ってきている。
 インターネットを基盤とする既成の通信手段と暗号化ソフト、安価な精密誘導ミサイルと迫撃砲、人間が持ち運びできる
 新型の防空兵器、対衛星システム、対艦ミサイル、核弾頭を搭載できる高精度長距離弾道ミサイルなどの技術である。
・一方、地域間の紛争の危険も高まり、その紛争の原因は宗教を起点として、水やエネルギーなどの資源を実利として行なわれる。
・そうした地域間の紛争で、核兵器の使用の懸念がある。米ソ冷戦期においては、距離的な緩衝材があったために、核戦争は
 管理され実際には起こらなかったが、国境を接する国々ではそうした抑止の力がない。
・イランは確実に核保有国家になるだろう。米国と同盟関係にあるはずのアラブ諸国は、米国を信じておらず、米の核抑止力に
 頼らず、独自に核を持とうとするだろう。サウジアラビアとエジプト、そしてイラク、シリアなどが核を保有しようとする
・現在英米の戦略は、空母打撃群を中心に、短距離飛行の戦闘機を中心に組み立てられているが、そうした戦略に危惧をいだく
 専門家もいる。彼らは、B-52のような長距離爆撃機こそ必要だと考えている。
・無人飛行機などの戦争のロボット化は引き続き進む。
・先進国は、高齢化による財政悪化で、かつてほどは防衛費に国家予算を回せなくなる。
 ▼ そうこう考えると、40年の間、核戦争が起きない方が不思議で、必ず起こるはず。20世紀前半では、1億以上の人が
  犠牲になったが、再び億単位の人たちの犠牲も有りうる。今のところ国家間の核攻撃の問題だが、他の科学兵器を含めた
  個人の意思による攻撃も充分あり得る。 狂った猿の兵器が、ますます強大になった結果、人類そのものの存在さえ
  危うくなる。細菌テロなどの科学兵器が、一国を滅亡させる可能性さえある。追い詰められた弱者の暴動を押さえ込む
  シリアの科学兵器攻撃でオバマが激怒したのではなく、それ自体が国家による反乱への弾圧の手段として使用したことに
  対する歴史的行為であるからだ。その意味で、中国と、ロシアも、米国の攻撃を阻止した行為は、歴史に残る愚行として
  間違いなく残る。そう、細菌などの化学兵器がテロで日常的に使用される時代が、近い将来の姿である。 
・・・・・・
4214, 開国という強迫観念 ー1
2012年10月09日(火)
 ある雑誌にー反・幸福論『開国という強迫』ー京大教授・佐伯啓思 のレポートがあった。
TPPの反対論だろうと読んでみたが、なかなか面白い。 私自身、地域社会に埋没しないことと、両親などの刷り込みによる
思い込みなどからの脱却が人生のテーマにしてきた。自分を開き違った世界を受け入れ、同化することが人間の成長と信じ、生きてきた。
しかし、反面、知らない世界に常に怯え、同化を拒否していた。これは人間として当然でもある。 ここで著者は、
「開国は、突き詰めればアメリカに対する不利な条件をつけられた開城ではないか?」と、問題提起をしている。
 その辺の論拠を何回かに分け取り上げてみる。  ーまずは、その抜粋からー
≪ 丸山真男は、戦国から安土時代へかけてが「第一の開国」、明治維新が「第二の開国」、そして終戦後が「第三の開国」といいました。
また松本健一は、明治維新が「第一の開国」、終戦後が「第二の開国」、そして1990年代のグローバリズムを「第三の開国」と呼んでいる。
両者を足し合わせれば、すでに日本は四回開国しており、今回は五回目の「開国」なのです。「開国」の大安売りで、「開国」、「続開国」、
「続々開国」…と、いったいどこまで開けばよいのでしょう。気になるのは、明らかにここにはあるバイアス、もしくは先入見があり、
それは国を閉ざすことは悪、開くことこそが善、という強力な思い込みがあるということです。閉所恐怖症ならぬ「閉国恐怖]と
「開国強迫観念」がある。「開国」すなわち「国を開く」ことは国際化を意味し、それは無条件に歓迎すべきだ、という思い込みです。
TPP賛成の「開国論」は、しばしば、「TPP反対派は外国に対していわれなき怯えと恐怖をもっている」といいます。
しかし逆にいえば、「TPP推進の開国論は、国を開かなければ世界からは取り残されるという強迫観念です。・・・(中略)
 ・・その一大典型が、先ほどの「開国論」を唱える丸山真男をはじめとする戦後進歩的文化人でした。彼らの主張は、何よりまず、
 戦後日本を民主化し近代化する、ということでした。ではどうして彼らはそのような主張ができたのか。それは民主的な近代市民社会を
成立させた先進国の立場に自らを同一化したからです。その上で、民主主義が根付かない後進国である日本を批判したわけです。
日本人部族の大半は閉鎖的で西洋のような先進世界を知らない。知らないから、自己中心的で、世界には通用しない自分たちの流儀に
得々としている、というわけです。いわば「部族社会の原理」で生きている、というのです。このようにいってしまえば、彼らだけ主義が
根付き、個人の自由や人権が保障され、合理的精神が行窟収ったいわゆる市民社会だとことあるごとに強調しました。しかし、現実は
大きく違います。アメリカには今でも根深い差別意識があり、ヨーロッパには強烈なエリート主義や隠然たる階級意識があります。
古代ローマやギリシャへの敬意は未だに強く(だから、あの「だらしない」ギリシャをわざわざEUに入れたのです) ≫
 ▼ 日本周辺の地勢から考えると、強迫観念を持つのは当然。アメリカとロシアと中国に囲まれた現実世界が存在している。
  もし、開国してなかったら、アメリカか中国の一部になっている可能性もある。 戦国から安土の開国は、蒙古襲来があったため。
  明治維新は、アメリカの開国要求に対して近代国家樹立が生きる道であった。終戦はアメリカに敗戦したため。 グローバリズムは
  共産圏が消滅し、世界各国の壁が低くなったためである。しかし著者はここで、「開国という強迫観念」があった、と主張する。−つづく
・・・・・・
3849, あれから半年か −2
2011年10月09日(日)
   * 9・11、9・15、3・15 の直撃後、日本は、どうなるのか?
 歴史的テロとリーマンショックで経済的に直撃を受けた日本は、今後どうなるのだろうか。
その三連発の直撃で私も儚くも破綻に至った。 商売上、ストレートの影響を受けてしまったが、では日本全体は大丈夫か?
というと、そうではない。 これから始る欧米の混乱が日本の政治経済に更に大打撃を与える。 地震・原発事故の影響は、
大きく現実として我々に覆いかぶさる。 アメリカ経済会議前委員長のサマーズは、事故後の講演で
「残念だが、日本は貧しい国になる」と断言。 私も、その先端で直撃をうけたので、その指摘は痛いほど感じている。
国家収入の三倍近い予算を立てざるを得ない日本。それに対し、増税は反対という国民の愚鈍さ。ギリシャのダラシナサより、
日本人の方が劣っているとしか私には思えない。 この惨状を自覚できない恐ろしさ。
 先日見たNHKスペシャルの東北大震災の録画を再びみた。 大震災に直面しても、正常性バイアス、同調バイアス、他愛行動で、
逃げ遅れる人の状況を。 「10年前の9・11、三年前の9・15以来、私も、この三つの判断と行動しかしてなかったのでは?」
という反省もあり、再び見て、その事実を確認した。ただし、装置産業のため、手の打ちようが無かったことも事実。
そこで3.11の大震災で、直ぐに決断した! というより、最後の迷いが無くなった。 この判断を、大部分の人たちが
冷ややかな視線で見ているのを、逆照射すると、逃げ送れた死者たちの顔が浮かんで見えてくる。
 この大震災の中で、「危ない、逃げろ!」と喚いても、殆どの人が「変な人が訳も分からないことを言っている」としか、
受け止められないで亡くなった人たち。 それとほぼ同じことが、近未来のリーマンショックの大津波の襲来に対する認識である。 
大震災でタバコをふかし車に寄りかかって、海を見ていた鈍い人たち(もちろん、その人の立ち居地によるが)。 
轟音が聞こても分からないのである。 一年もしないうちに、それが身に染みて分かるはず。立ち居地が違い影響の少ない人もいるが、
国家そのものが破綻の瀬戸際だから、そうも言っていられない! この9月から、リーマンと東北大震災の大波の姿が見え始めてきた。 
 見ても見えず、今さら遅い! が、現実か・・ これは自分への警告でもある。 まだ逃げ方が甘いのか
 ・・・・・・・
3484, エッセイ脳 ー1
2010年10月09日(土)
 「エッセイ脳―800字から始まる文章読本」 ー岸本 葉子 (著)
     ー内容ー(アマゾン)
   言葉の選び方、書き出しの心得、起承転結の「転」を利かし書き手の「ええーっ」を読み手の「へえーっ」に
  換える極意とは?しなやかに感じて、したたかに描く、奥義を伝授。人気エッセイストが初めて明かす文章術。
  第1章 テーマは連想の始動装置―「私」と「公共」の往復運動
  (何を、どのように書くか―エッセイの基本要件;学習で高められるもの―他者が読みたくなる要件 ほか);
  第2章 頭にはたらきかける文、感覚にはたらきかける文―無意識を意識する
  (文章のはたらきに着眼―三種類の役割;枠組の文でアウトラインを―「描写」を「枠組」で引き締める ほか);
  第3章 リスク回避と情報開示―「自分は他者でない」宿命を超えて
  (読みにくさは個性か―読みやすさの必要性;自分≠他者の宿命を超えて―読み手はヤマ場が見えていない ほか);
  第4章 文を制御するマインド―「筆に随う」はエッセイにあらず
  (言葉を選ぶ三つの側面―検討すべきこと/正確さ/主述、並列、呼応;クリエイティビティに先立つもの―
(字数制限のためカット2012年10月9日)
・・・・・・・・                         
3109,サエゼリア
 2009年10月09日(金)
* 村上龍のカンブリア宮殿
 以前にサエゼリアについて書いたことがあるが、大不況の中で最近、再び注目を浴びている。
テレビ東京に「カンブリア宮殿」という村上龍がメインナビゲーターの番組がある。それぞれの会社のトップを
インタビューをしながら、成功の秘密を探る番組である。先日、珍しく家内が自主的に録画をしてくれた番組を見た。 
 私たちは「サエゼリア」のファンである。 家から100mにあるのが最大の魅力だが、兎に角安い。
同じSC内にあるスーパー原信の惣菜よりやすい感がする。それと、高校生からファミリーや私たちの年代まで
気楽に入れる雰囲気が良い。 しかし、そのサエゼリアを褒めると、次男や会社の副支配人は顔をしかめてしまう。
「あんな女、子供の屯している煩い店。それに料理は美味くも不味くもない味。イタ飯なら個人店の少し高い店がよい」云々。
(字数制限のためカット2010年10月9日)
 ・・・・・・・・・
2744, 劇的な毎日が刺激的だが、凄惨な日々が待つ?
2008年10月09日(木)
 *東証が1万円割れ、NY株も一万ドル割れ
株式がジワジワ下げてきたが、二日前に日米ともに一万割れになり、現在は9200円近くに下がり続けている。
次は前回の下げの7600円が目安になる。 状況からいえば4000円でも不思議でない。10月中は一万台は持つだろうと
思っていたので、驚きである。9月15日から始った金融恐慌の波は日ごと大きくなってきている。 
東証株価は去年の同時期からみると45%の株価の下げになる。企業も、個人投資家にとっても大きな痛手になる。
ホテルは景気に直接影響を受ける商売。小団体が何組か入っているので現在のところは数字は出来ているが、
それを除くとマイナスである。駅前の飲食街も、このところ立て続けに長岡の飲み屋街に行っているが、
どこもホボ客は皆無。深刻をとおりこした状態である。 事業所のある新潟駅周辺の飲食街も殆ど歩いていない状態! 
なるほど、これが恐慌前夜の状況かと・・心の底ではアメリカの金融崩壊に拍手を送りたいが他人事でないのが米国属国の悲哀。
まずは欧州に飛び火をして大きな影響を出ているようだが本格的な危機は、これからである。
あのGMの倒産確率が95%、そして次の金融機関のターゲットはシティー・バンクだが、最近のニュースでは
バンカメの株が26%暴落し$23になっており、一気に経営危機が表面化し、近々に$20を割り込み、$10をも
割り込む暴落状態の可能性があるという。もし、シティーとバンカメが消滅したら、世界は最大級のパニックになる。
ソ連の崩壊を目の当たりにして驚いたが、今度はアメリカの崩壊過程を連日目にしているのである。
色いろのブログの中の生々しいレポートによると、アメリカはパニックで金融恐慌の話題一色という。
一ヶ月も経ってないのに、連日飽きもせず金融危機のニュースが飛び込んでくる。
それが日ごと深刻な内容になる。十月から十一月にかけて、更に大荒れになるだろうが、金融危機は、我われの生活に
直接に影響してくるから深刻である。現在進行中の一連の出来事は、私が生を受けて最大の事件である。
家内がTVで誰かが『日本は破滅だ〜』と言っていたとか、NHKのニュースで急遽上場を延期した会社社長が、
「台風と、サイクロンと、大地震が一度に襲ってきたような状況の中で不安で延期するのが当然のこと」
と言っていたが・・・・ 恐ろしいことは、アメリカの大統領選挙でアメリカの頭脳が麻痺していることだ。
大統領の交代時期が来年の一月というから、一番重要な時期に手を打つべきことが最小になることだ。
現在の日本にも同じことがいえる。 それでも十数年間にわたり金融に関しては合理化をしてきたので
金融バブルは最小だったようだが?  恐慌は数年間で大小の会社の半分は消滅するというから、
せめて自分のところだけは生き延びないと! サバイバルの世界に入ったということだ。
イラクは早々にアメリカ軍は撤退だろうし、北朝鮮も金が回らなくなって政変間近になったし、中国も荒れるだろう。
恐慌は国際間の緊張を呼び込み世界戦争への道を作っていく作用がある。 恐ろしい状況である。

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