堀井On-Line



4568,変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー4

2013年09月18日(水)

         「変えてみよう! 記憶とのつきあいかた」高橋 雅延 (著)       * 幸せな人生とは、本人が決めること!幸福感は、それぞれの人の核となる魂の問題で、他人がとやかくいう問題でない。「不幸の極みと思っていたことが、実は幸運の仮面を被っているにすぎない」と思えば、そう思えてくる。
 実際に経験してみると、そこに多くの視点が見えてくる。本当の幸福感は、
不幸の真只中にこそ、現れ出てくるのは人生経験を積むほど分かるはず。 
ー以下の箇所はなかなか含蓄があるー
≪ 『サザエさん』の原作者として有名な長谷川町子のマンガで、小学四年生のときに読み、今なお覚えている作品がある。
それは、一人の男の人生をめぐる、良い神様と悪い神様の話だ。 何の不自由もない家に、玉のような男の子が生まれた。
これを知った悪い神様は、どうもこれがおもしろくなく、この男の子の人生を惨憺たるものにしようとシナリオを練る。
そして、「男の子の身に次々と不幸が起こり、紆余曲折をへて船乗りとなった挙句に猛烈な嵐に遭遇して、最後は絶海の
孤島に流れ着き、そこで人生を終える」いうシナリオをつくりあげた。 はたして、男の子の身には次々に不幸が襲いかかる。
しかし、良い神様がそれに気づいて彼を何度も助けたために、彼は幸せな人生を送ることになる。
 ところがその臨終の場で彼は自分の人生を振り返って、本当に不幸な一生だったと言い出すのである。
そして、自分の夢は船乗りになって、どこかの島で人生を終えることだったと述懐して息を引きとるのだ。
二人の神様は、人間 とはよくわからないと言いながら、去っていく。こんな話だ。このマンガが私の人生の原点である。
幸せな人生とは、あくまでも本人が決めることであり、まわりがとやかく言うべきものではない。
もとより、記憶のさまざまな性質や、その生かしかたを知ったからといって、幸せになれるわけではない。
ただ、何も知らないよりは、知っておいたほうが、みすみす損をしないだろうと思われるだけだ。
この本に書かれている「ヒント」をもとに、どのような人生を生きるかは、最終的には、みなさんが決めることなのである。》
 ▼ 以前に取り上げた「幸福の4階建」に、当てはめると分かりやすい。
  4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。
  3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する中に幸福感が生まれる。そこに自己実現の要素が入っている。
  2階:獲得した「快」を永続させる。 そこに時間的要素を入れ、いかに長続きさせる中に幸せがある。
  1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。
 苦労に苦労を重ねて得た幸せこそ、その最たるものだが、得てしまった幸せより、不幸に見えた苦労の中にこそ、
 真の幸福の含量が多くある。 私のケースは、『サザエさん』の作者の物語とは真逆である。
 思いもしない3つの大津波に飲み込まれて、この結果に終わった。しかし、これこそベストでは?の、心の奥からの声に
 我ながら驚いた。この「幸福の4階建」の意味が、いやでも実感せざるを得ない。現在の私は、この建物の3階辺りで、日々を過ごしているが、いつ何どき、4階に駆け上がり、幸福感を味わうのだろう。
  その屋上のテラスからの景色は、どんなものか? それもこれも、生きているうち! 今日一日を楽しむしかないか。
・・・・・・
4193, 呪いの時代 ー10
2012年09月18日(火)                                 * ペルソナ(仮面)の品不足      「呪いの時代」内田樹著
 結局、人は、それぞれの場面に色いろな仮面を被ることで生きている。ところが一つの理想的な仮面に限定すると、
それに対して真逆なペルソナが現れ出る。「弱くかわいい僕」以外のペルソナの品ぞろいがないと、危機的状況になった時に、
思いもよらない凶暴なエゴの男が顔を出してくる。人間は面白く、哀しく、弱いもの。我が内なる他者とは、よくいったもの。
秋葉原の無差別殺戮などは、その典型である。仮面の品不足だったのである。 ーその辺の記述からー
≪ 人間の攻撃性のコントロールは容易ではありません。完全抑圧してしまうと、かえって思いが違ったかたちで暴発する。
 ひとりの人間が抱え込んでいる攻撃性の絶対量は、変わらないあるところで抑え込めば、違うところからかたちを変えて
 噴き出してくる。だから、攻撃性はいろいろなかたちで管理して、「小出し」にするしかない。小出しにしておけば破局的
 事態は避けることができます。だだし、そのためには、「攻撃的なペルソナ」にしても「防衛的なペルソナ」にしても
 何種類か品ぞろえしておく必要があります。そして、状況に応じて、その場にもっともふさわしい仮面をかぶる。・・
 ・・・ 草食系男子が採用している「弱くてかわいい」ペルソナというのはたしかに多くの場合に有効だと思います。
 とりわけ、今の日本のように「弱者であることの利益」がつよく意識されている社会では。でも、当たり前ながら
「弱くてかわいい」だけで対応できる状況は限られています。対応できないとき、彼らは一気にしばしばまったく
 似ても似つかない別のペルソナ(凶暴で攻撃的)に切り替わってしまう。この二極のペルソナがあまりに隔絶しているので、
 人格が統合できないまま、まるで別人のようになる。卑屈なほど恋人に尽くしてきた男が、結婚と同時にいきなり荒れ狂う
 DV男に変わってしまったという事例は実際に僕も知っていますけれど、このような人格解離現象はペルソナの「数不足」で
 起きてしまうのではないか。・・・
 ・・・「他者との共生能力の劣化」ということを問題にしたが、他者との共生の基礎となるのは、実は「我がうちなる他者たち」
 との共生の経験なのだと思います。僕自身にも、「さもしい私」、「邪悪な私」、「卑劣な私」がいる。それらもまた僕の正規の
「ペルソナ」の一つであり、それなしでは僕は僕ではない。自分自身の中にある(ろくでもないものを含めて)さまざまな人格特性を
 許容できる人間は他者を許容できる。僕はそうだと思います。世間で言われる道徳訓とは言葉がずいぶん違いますが、僕は自分を
 許すことのできる人間だけが他人を許せると考えています。 ≫
▼ ー「他者との共生能力」をつくるには、他者を構成する複数の人格特性のうちに幾つか「私と同じもの」を見出して、
 この他者は私自身と同じであることを認めるべきである。その共通部分をどうすれば増やせるか、とりあえずは、
人格特性を「切り出す」ユニット数を増やすしかない。ーという。要は、その切り方である。可能な限り、自分を割っていく、
割れば割るほど他者との共有部分が増えていくことになる。人生の経験とは、そんなものである。
 ・・・・・・・
3828、 もう、あれから半年
2011年09月18日(日)
 3月30日から、あと二週間足らずで半年になる。そろそろ30年、いや仕事人生の40年余りの毒気も抜けてきた。
そこで、「何だったのだろうか、これまでの日々は?」と、定石通りの思いが浮かんでくる。
「男なら、条件が揃えば事業を興すのは当然」と信じてきた。 ふと気づくと9・11、9・15に直撃、その大波が地方経済を直撃。
更に情報化の進展も加わり売り上げが激減。 ここまで、経済状況が悪化するとは、実のところ思いもよらなかった。
ここまでリアルに売上減になると、諦めるしかないと納得する。 で、一歩、娑婆から身をひいた半年後の実感は、
「世の中で揉まれているうち、大きな歪みの塊になっていたのでは?」という疑問である。それが気づくのは、娑婆気から抜けた時。
特に家庭の柱としての働き手の男の場合、その歪みが大きい。その断面を大きな節目になって気づくことになる。
誰もが、社会や会社の柵に捉われたくないが、競争社会では肩肘も張らないと・・・
とはいえ、それだけに目がいき過ぎて、他の大事なことに目がいかなくなり、最終章に近づいて、慌ててしまうのが大半。
 半年で、この40年の歪みを改めて振り返っている日々でもある。 もしかしたら、一生、気づかないで終わる人もいる。
それに気づいて悶々とする人もいる。 先日、近じか定年になる友人に、この話しをしたら、全く同感という。
小さな、しかし、かたい勤め先を、こともなく48年間勤めあげた実直な男が、自分の人生の歪みを認識していたのである。
私なら自分で納得するが・・ でも、その歪みも後悔は全くない。 ここで、「良い人生、悪い人生でなく、充実していたか、
してなかったか?」という言葉で、自己納得するしかない。 状況が状況だったので、苦悶はあるのは仕方がないが、
充実感が、何とか支えになっているというのが、正直のところ。 準備、15年も含めた事業人生の45年の終わりは、
三連発の経済・自然大災害の直撃で終わってしまった。 そして半年たった現在、静かな心境でいられるのが、救いである。
少なくとも、自分の人生の歪みに後悔はしていない。この歪みが自分でもあるから。 その歪みに七転八倒しているのがいるが・・・
それも人生。 穏やか過ぎる人生より、遥かにましである。 それも歪みか。
 ー 偶然、この内容に滞欧する文章が以下の去年の同月同日に書いてあったー 面白いもの。 いや、数年分が関連している。
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3463, 9・15より二年
 2010年09月18日(土)
 リーマンショックから、二年経過し三年目に入った。100年とも、250年に一度の激震と言われる。
アメリカでは、証券大手の殆どが瞬時に消滅、シティーバンクなど幾つかが大手銀行も政府管理会社になり、
ビッグスリーのGM、クライスラーも政府管理の事態になっている。日本のバブル崩壊で、大手銀行が20社から
三社に集約されるまで10年も要したことからみれば、迅速である。日本では今のところ目だった大手では日本航空ぐらい
なのは不思議と言えば不思議である。まだ表面化はしてないが、まずは関東・東海ベルトラインを除いた地域経済は惨憺たるもの。
悪いことに政権が民主党に移行し、人間に例えれば脳がマヒ状態で、この難局に国の方向が定まらない無政府状態。
このまま、この激震のクライマックスに入る2012年を迎えることになる。デフレから悪性のハイパーインフレへの転換である。
現在は円高だが、さらに恐ろしい円安が日本経済を襲うことになる。まだ表面化してないが、ある日、株と国債の暴落から
始る激しい恐慌の本番は、激しく我われの生活を襲ってくる。悲観的だが、それが事実なら認めざるをえない。
 これに情報化社会の進展によるグローバル化が、世界をフラットにしていけば、これまで東西冷戦の狭間で、大きな
恩恵を受けてきた日本が、普通の国並みに豊かさが損なわれるのは当然である。それが、現在の日本の衰退である。
情報化、グローバル化、フラット化の流れは、もう止めることは不可能である。これまでの常識は根底から破壊され、
全く違った価値観が通用する時代に既に入ってしまった。情報、軍事、金融を支配しているアメリカは、当面は勢力を
保つだろうが、中期的にみれば衰退は免れない。それに対し、中国・インド・ブラジルなどに覇権の重心が移動するのは
避けれないこと。その中で、日本はアメリカの更なる植民地化が進むことになる。毒素が脳までやられてしまったのである。
その一つの現象が、現政権のトップ達に、そのまま現出しているとみると、ニヒルな笑いが出てきざるをえない。
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3088,挫折を考えてみようか −3
 2009年09月18日(金)
 ある人に「あなたの『挫折を考えてみようか ー1』を読んだが、貴方には挫折経験がないのでは?」と言われた。
そこで改めて考えてみた。 大学浪人は、そこで進学を断念したのなら話しは別だが、挫折ではない?
金沢時代も挫折とは違う。目的もしっかりあったし、絶好の体験をしているという実感はあった。創業を目指して彷徨いながら
準備をしていたという明確な絵図があった。そうこう考えると、「挫折体験はないのでは?」という指摘も正しいことになる。 
先が見えないで暗い心情になっていた時期で挫折とはいわない。そうこう考えると、挫折と軽々しく言わない方がよい!ということ。 
 ネット辞書によると「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」とあった。
挫折は、それまでの自分を一度破壊して新たな自分の創造を促すチャンスになり、竹の節目に譬えることが出来る。 
そこに大きな鍵が隠されている。 超越者の声に敏感になることもある。 それまでが横の時間なら挫折の時節は縦の時間。
「節目を打て!」というが、そこで超越者に試されことでもある。 物語なら、そこを節目としての転換期になり、「起承転結」の
「転」の時になる。挫折の状態は、追い詰められた状況ほど芸術作品や本などを通した超越者の語りかけに鋭敏になる。
「予定挫折」という言葉がある。 挫折を意図的に入れて置いて、人生の踊り場にするのである。 そこは枝葉を切って根を養う時節であり、
超越の時節になる。「そうか〜挫折と思い込んでいただけか〜」と思ったが、それでは、挫折が無かったかというと、勿論ある。
実は見落していたのである。 大学浪人や創業時の準備は勘違い? しかし深傷だったが。最近になって「自分は中学浪人だった」と、
何人かの知人から聞いて驚いたが一番傷つきやすい時期の、それから見れば、当時の大学は半分近くが浪人経験者で、挫折でない。
また私の姉夫婦と実兄夫婦の倒産劇で、大きく挫折をしたのを間近で見たが、壮年、老年近い挫折は厳しい。 
最近はリストラで日常が挫折だらけになっている。 他人事ではない。 予定挫折ともいかないし。
 幸福というビルの最上階の4Fならいいが、屋上から何は? 挫折を茶化すこともないが・・・
「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」か〜! なら日々挫折である。計画が甘いだけ?。
                      「日々是挫折」 =「日々是口実(好日)」
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2723, アメリカ発、金融危機の始まり!
 2008年09月18日(木)
AIGが一昨日、1ドル台まで下落したが、アメリカのFRBが昨日になって9兆円の融資を決めたことで、当面の倒産を回避した。
FRBがリーマンと同じスタンスをとれば、倒産になるところだった。世界中が一瞬、息を呑んで見守っていた決定であった。
NHK海外衛星TVで、ジョージ・ソロスにインタビューをしていた。「これで問題が解決をしたのではなく、小さな目先の問題が
先送りをされただけ、次から次へと同じような問題が出てくる!」と、大恐慌の到来を匂わせていた。アメリカ政府が80?の株式を持ち、
切り売りなどしてソフト・ランディングをさせる方針だ。アメリカの上位数社の壊滅と、AIGの政府の倒産の危機は9・11事件に
匹敵する金融の大事件。一つ間違えれば世界の金融は崩壊の危機に立っている。これが序曲でしかないのは、誰の目にも明らか。
ボロボロ世界中から、大問題が次々と発生してくるのだろう。 恐慌が始ったようだ。ある日、手に負えないようなハイパーインフレが発生、
スタグフレーションになる。考えただけで恐ろしい日々になるのである。メルリリンチが、もしBOAのリーマンを買収が決定すれば、
次にターゲットが自社に来ることを察知。恐らく財務関係者から救済がないことを知らされて、急遽BOAに売却を申し込んだのだろう。
メルリチンチの倒産の方が更に衝撃が大きかっただろう。 映画のような非常に緊迫したヤリトリがあったのだろう。
リーマンでも負債総額が64兆円というから。日本でも各金融機関は大きな損失を被るだろう。この混乱は、今後大きな尾を引く。
これまでとは全く違った金融環境になることは自明。 日本でもあったように、資金の貸し渋り、貸し剥がしが、アメリカのみならず、
世界中で起こる。 やはり世界恐慌が始ったのである。欧米各紙は、「ブラック・サンデー」と命名したという。
それか翌日の15日の荒れた月曜日ということで、「ワイルド・マンデー」ともあったが、ドチラが定着をするだろうか?
昨日の為替・株式、世界中の国家が、その維持に必死だったのがうかがえる。日米欧、二日で36兆円というが、そんなものではない。
すざましい攻防があったはずである。2001年9月11日をもって時代が様変わりしたように、この9月15日をもって経済が様変わりを
したのである。その意味で、歴史的な日になってしまった。アメリカで大地震が起きれば、日本に大津波が押し寄せる。
それも数年にわたって何波もである。銀行と企業の倒産の嵐、円安、株の暴落、政情の不安定、失業率の増大、資産の海外への逃避。
考えただけでも恐ろしくなる。 その中で経営していくのもソラ恐ろしい!
 大津波の場合、全てを捨てて高台に向けて逃避するのが助かる唯一の方法。 具体的に、如何いうことか走りながら考えようか? 
日本人には「マレーシア沖地震の大津波を、アメリカの大地震の津波と類推する」ことさえできない。そういう私も、そうかも知れない。 
戦後最大の日本の危機であることを実感してないのでは?僅かな、貯金を直ぐに金に換え、AIGの預け金を何をして・・、 
今更何をしても変わらないか!ソ連の崩壊時に、政府高官とか、マフィアは自分の資産を海外の口座にドル建ての預金を
しておくとか、秘密金庫に貴金属に替えて預けておいたという。その人たちが、崩壊後に資本家として現在、君臨している。
・・・・・・・・・
2007年09月18日(火)
 2359, ギリシャとエーゲ海の旅 −5       才ノヽ∋―_φ(゜▽゜*)♪
ーエーゲ海クルーズー
クルーズといえば、過去に香港クルーズの経験がある。香港からフィリッピン周辺の海域をクルーズするのだが・・
何社かの旅行代理店の共同企画だったが、{参加者が少ないため体裁を整えるため御得意に三分の一の値段でどうか}
というので参加したことがあった。クルーズが、こんなに楽しいとは実際、参加して初めて知った。
朝から晩まで何かしら船内で企画があり、それ以外は甲板で日光浴かウォーキング。決して飽きさせないノウハウを
企画者は持っているのである。そこに日本の老女の未亡人が、ほぼエンドレスで参加していた。
  (以下は、字数の関係でカット・・・2008年09月18日)
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2006年09月18日(月)
1994, 悪筆ー2   (。^0^。)ノ オッ
   ーもっと「きれいな字!」が書ける本−2
  (字数の関係でカット09年09月18日)
・・・・・・・
2005年09月18日(日)
 1629, 戦略的思考についてー3
戦略的思考としての「質問」を幾つかの本からランダムにとりあげてみた。(戦略的でないものも含まれるが)
   (以下は、字数の関係でカット・・・2013年09月18日)
・・・・・・・・・
2004年09月18日(土)
 1264, 自己喪失感
10年から20年前のことだが、喪失感?に捉われたことが何度かあった。自信喪失というか、虚無感というのか。
 (以下は、字数の関係でカット・・・2013年09月18日)
・・・・・・・
2003年09月18日(木)
 897, イルカの話ー2
 先日、NHKで「野性の発見ーイルカとロビン・ウイリアム」という内容のドキュメントを放送していた。
  (以下は、字数の関係でカット・・・2012年09月18日)
ーーーーーー
523, 本屋と書籍出版社と問屋
- 2002年09月18日(水)。
  ( 以下は、字数の関係でカット・・・2011年09月18日 )
・・・・・・・
148、アフガン国境   2001/09/18
カイバル峠ーアレキサンダー大王が通った峠ー
  (以下は、字数の関係でカット・・・2012年09月18日)


4567, 変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー3

2013年09月17日(火)

            「変えてみよう! 記憶とのつきあいかた」高橋 雅延 (著)
 最近、老いてきたためか、「突然死は、本人にとって決して悲劇ではなく、平均10年近くの介護にならず済むため、
むしろ幸運だった」と思うようになってきた。しかし、いざ「余命半年!」と言われれば、生きたいと思うのが人情。
あと一年半で私も古希をむかえるが、気持ちは今だ50歳半ば。そのギャップは埋めようがない。ある日、余命半年か、
一年と宣言されるか、悟り、それまでの一生分の濃厚に圧縮された時間を過ごして、消えていくのだろが、くも膜下で
一瞬、消えていく可能性もある。  ー以下は、くも膜下で救急車で運ばれる当事者の生々しい場面の記述であるー
   * 空白の五日間
《 くも膜下出血で私が倒れたのは二〇〇六矢月一九日のことだ。あの日はー生涯忘れられないとともに、その後の
「記憶のない」日々の始りであった。その日は、翌日から、学生を引率してイギリスへの語学研修が予定されていた。
翌朝が早いため、私は成田空港の近くに宿泊することにした。例年とかわらぬ猛暑の中、その日は夕方の五時頃、
翌日から大阪に帰省する妻とともにホテルに、チェックインしたのだった。その後・六時をほんの少し過ぎたとき、
キーンという耳鳴りとともに、私は突然激しい頭痛におそわれた(妻の話によると、ごく短時間だが意識を失っていたという)。
 仕事柄、少しは脳のことを知っている私は、この異常な激痛からするとたぶん、脳の血管が切れて出血が起こったと思った。
そして同時に、右足の小指がしびれてきたから、出血は脳の左半分のどこかで起こったのではないか、と推測した。
脳は左脳と右脳に分かれ、それぞれ反対側の身体の動きをつかさどっている。だから、身体の右側に麻痺が起こるのは、
反対側の左脳にダメージを受けたからだと考えられるのだ。左脳といえば、ことばをつかさどる部分がある。
これはへたをすると、ことばに障害が残り、二度と教壇に立てないかもしれない…… そんな不安さえ頭をよぎった。
 あまりの激しい痛みに、横たわったまま身動きのできない私の姿をみて、妻が救急車を呼ぶと言い出した。
私は翌日からの引率が気になっていたのだが、とにかく医者に診てもらうべきだという妻の意見に最終的には従うことにした。
そして、壁に掛けていたズボンの後ろポケットからパスポートやクレジットカードを取り出してもらい、ベッド脇に置いていた
カバンの中にある大学の緊急連絡先に電話するように頼んだ。そうこうしている間も、激しい頭痛は止まらない。
その後ようやく、二人の救急救命士が到着し(・・略)救急車の寝台に横たわると、身体の大きい私には思いのほか窮屈で、
しかも、走行中の振動が頭にひびいた。救急救命士は、何度も私の名前を呼ぶと同時に、血圧を測っていた。横たわっている
私からも血圧計の数字が読み取れたので、それをみていると、血圧は一五〇、一七〇、……と、どんどん上昇していく。
私はこのまま死ぬことを考え、つき添っていた妻にかろうじて感謝のことばを言って、そのまま、意識を失ったのだった。
 これは当日のほんの一部のできごとを書いたが、おそらく多くの方は、極めて鮮明な私の記憶に驚くのではないだろうか。
実際、私は今もなお、あの場面を、まるで自分が主役の映画を観るかのように、心の中に鮮明に思い浮かべることができる。
しかし私には、その後、つまり救急車の中で意識を失った後の、五日間の記憶がないのである。
この五日間に、月並な表現だが、私は生死分境をさまよっていた。・・ 》
▼ 二年ほど前に、知人が突然、TVの朝ドラを見ている最中に脳梗塞で倒れ、救急車で病院に運ばれたが、意識が戻らない
 まま亡くなってしまった。状況は似ているが、著者は生還して状況をこと細かく生々しく書きのこしている。
 知人は長年、糖尿病に悩まされていたというが、突然、脳溢血で死ぬとは思ってもいなかっただろう。
 この年齢では、「マサカの坂」はない。
・・・・・・
4192, 呪いの時代 ー9
2012年09月17日(月)                        
   *「今、付き合っている人いる?」の意味 ー草食系男子とは何?     「呪いの時代」内田樹著  
 最近は合コンとかいうのがあり、気楽に結婚相手を探すシステムが出来ている。それと、ネットの交流サイトで知り合い、
結婚に至るのも多い。 何気なく「今、付き合っている人いる?」と声をかけるのも、実は巧妙な意味がある。 ーその辺を抜粋ー
 ≪ とりあえずは恋愛の局面において「傷つかないこと」があります。20年ほど前から、「ロ説く」人が少なくなりました。
 それどころか「口説く」という動詞自体がもう今の学生たちくらいの年齢では日常語彙に含まれてないかもしれません。
じゃあ、学生諸君は、交際を求めて何というか。「今、付き合っている人いる?」です。 これは、きわめて巧妙に構築された
「口説き文句」と思います。「今、付き合っている人いる?」という問いは、一見すると客観的な事態についての価値中立的な
問いのように見えます。まるで、「今、雨降ってる?」とか「今、6時過ぎた?」と訊いているように誰でも口にできるし、
誰でもイエス・ノーで即答できるように作文されている。まだ知り合ったばかりでお互いをよく知ないもの同士が、色いろあたり
さわりのないことを話しているうちに話題も尽きてしまい、ふっと訊いてみた。そういうふうなカジュアルな問いのようにみえる。
あたかもその問いに対する相手からの返答に自分はとりわけ関心があるわでがないけど、ちょっと聞いてみただけなんだけどと
言わんばかりである。「今、付き合っている人いる?」の問いに、仮に、「うん、いるよ」と即答されても、「ああ、そうなんだ。
ふ〜ん、でさ、キミ、音楽聴く?」というふうに、そんなことオレ的に関係ないけどさ」的に修羅場から逃走できます。
「いないよ」といえば、「それなら自分と付き合わない?」と、いきなり具体的性行動レベルに一気に切り替えられる。
「今、付き合っている人いる?」という問いを発する人は、その言葉が性的アプローチであるかどうかの決定権を自分の側に
留保しています。だから、「いるよ」という答られた場合は「この問いはただの社交的問いである」と言い抜け、「いないよ」と
いう答えが得た場合は「この答えは私に対する性的関心の表明である」という解釈ににじり寄る。「キミが好きだ」という
告白に対しては、言われた側には無数の答え方があります。言葉で答えてもいいし、鼻で笑ってもいいし、背中を向けて
歩き去ってもいいし、何も聞えなかったふりをしてもいい(これはよくあるリアクション)。・・・ ≫
 ▼ スナックやキャバクラなどで日常、会話されているポピュラーな言葉だろうが、直ぐに思い浮かぶのは、「あんた美人だね!」、
 「最近、シネマで何か見た?」「オーラが漂っているね」「あなたの為に、この場があるような存在だね」とかがある。以前、
 女性の職場にいたときは、浅知恵で「三度褒め」を心掛けていた。意外と異性は直接褒めないためか、三度目がポイント。
 少し軽いが誰にも言っていれば変な誤解は受けない。言葉は相手を有頂天にも激怒もさせる。最近は、褒めたことがない。 
・・・・・・
3827,  集団爆笑 ー木曜五限の地理公民ー
2011年09月17日(土)                       ( 『ザ・万歩計』万城目学著 )
  人生では思わないハプニングで爆笑の渦に巻き込まれることがある。以下は、ある随想にあったもの、思わず噴出してしまった。
【 高見は一風変わった授業を進める教師だった。とにかく生徒を当てまくる。次回までに解いてこい、と指定した範囲の問題を
 徹底し当てまくる。彼は中学生の本質を、的確に見極めていた。甘い顔をして、放っておいたらどこまでも勉強せず、授業中
 昼寝するだけ、という性悪説を信奉していた。そして、その考えはおおむね正しかった。・・・・答えが間違っていると床に正座。
 次に後ろの席の生徒が立つ。答えられない。 正座。はい、次、また、正座。こんな調子なので、クラスの九割が床に正座させられ、
 正規のイスに座る者がほとんどいなかったこともある。おかげで、高見の授業は常に異様な緊張感が漂っていた。 事件は、
 この高見の授業で起こった。主役は三井。 三井は強度のビビリ。人前で怒られることに、極端な差恥を覚える性質の正直者だった。
 あの日、高見に当てられ、問題文の朗読および解答を求められた三井は、傍目にも哀れなほどビビっていた。斜め後ろの私の席からも、
 問題集を持つ手が、緊張に震えているのが、はっきり見えたほどだ。 三井は途中しきりに噛みながら問題文を読み上げる。 
「アラビア半島の一角を占める、人口二百二十万人のオマーンの首都マスカットはアラア海とオマーン…」問題文は「首都マスカットは
 アラビア海とオマーン湾に面し、漁業と交易の中心地となっている」という何でもないものだった。だが、三井はこのとき緊張からくる
 混乱の極みに達していた。普段から冗談も言わない、根っから真面目な奴。ただ、男なら誰もが通る、ちょっとした思春期の懊悩に、
 運悪く足元をすくわれてしまったのだ。「アラビア海とオマーン……」で途切れ、数秒のブランクののち、三井はぽつりと、「湖……」
 と続けてしまつたのである。その瞬間、大阪の片田舎の男子校に笑いの爆弾が落ちた。教室に破裂した笑い声で本当に床が揺れていた。
 いったん笑いが収まっても、誰かがふたたび笑いだすと、波となって全員をまきこんだ。 十分経っても、男どもはひたすら笑い続け、
 もはや授業どころではない。教壇の高見も笑っていた。「誰にでも間違いはある」とフォローさえしていた。あれほど些細な間違いを
 見逃さず、なべて正座を命じていた男の言葉とは思えなかった。もちろん、三井に正座命令はなし。三井の導いた笑いは、「鬼」と
 陰口された教師の心すら溶かしたのである。その日より三井の名前は学校じゅうに轟いた。あんなに笑った経験は、二度とない。
 とことん生真面目な男が、私の人生最高のスマッシュ・ヒットを飛ばす。「人間には無限の可能性がある」この言葉を聞くたび、
 思い出すのは、あの木曜五限の地理公民と三井のことである。 私が笑いの偉大さについて身をもって知った、十四歳の夏の午後。】
 ▼ 以前に、ここでも書いたことがあるが、学生時代のドイツ語の授業で、誰かがドイツ語の訳をしていた。「・・・ その時、
遠くから犬の鳴声が聞こえてきた!」と、同時に遠くから、それを待っていたかのように、「ウ〜 ワンワンワン」と犬の鳴声。
その瞬間、かたい授業の最中、部屋中が爆笑の嵐。あれだけ集団で腹の底から笑った経験はなかった。
・・・・・・・
3462, 純粋持続 −2
2010年09月17日(金)
 * 純粋持続と自由
 ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由の源泉である。 通常、自由といえば、選択の自由を意味する。
たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか
自分の意志に基づいて選択できる。 そこに自由があるとされる。 しかし、ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を
思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想であり、生命の自由な持続に即したものではない。
 生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、現在において不断かつ連続的に
創造されるものであるからだ。したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての純粋自我による行為である。
他方、物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。 物質は自らを
破壊するのに対して、生命は自らを形成する。つまり生命には、物質が降りていく坂を登ろうとする努力をみることができる。 
宇宙の万象は、この持続の種々の緊張による多様な創造的進化の展開なのである。そして緊張の極にあるのが、「生の躍動」である。
 ▼ 以上だが、まず好きなことをして我を忘れている時間が「純粋持続」である。 その時は空間時間は消え、没頭している時、
 そこに「したいことを、しているという自由」がある。 純心になって対象に打ち込んでいる時、時間も空間も超越している。
しかし我われは日常の煩わしい空間に縛られ、日常の反復を繰り返すだけになっている。 それらをカサブタと仮定すると、
その奥に隠れている真の時間が「純粋持続」である。 哲学は、固定、静止、実在するもの、定着したものを探究するのが常であった。
しかし、ベルクソンは「流動性」つまり「流れ」に注目する。一人の人間存在について考えても、その細胞は日々刻々と変化しており、
昨日と今日は、同じでない。生命の場合、同一状態が永遠に続くことはありえず、流れの只中に「ある」ということが保証されているに
過ぎない。ベルクソンは、この「流れがある」こと、ならびに「流れの中で生きている」こと、この両者に「自由」を見出す。
あえて言えば、生命体が生きているだけで、どのような状態であっても、死んでいなければ「自由」である。
我われは、強力な束縛はないが、小さな細かい束縛の中で生きている。もう一つは、現在はある程度自由だが、もっと多量な、
もっと高貴な、深遠な自由に到達してないと考える場合である。どっちにしても、ある程度自由だが、自由でもない、
のが多くの人たちの現実だろう。 気の持ちようである。だが、この「気」こそ、ベルクソンの呈示したものである。
 ・・・・・・
3087,挫折を考えてみようか −2
 2009年09月17日(木)
 哲学者のヤスパーの「限界状況」と「包括者」は、なかなか含蓄がある。ヤスパーは第二次世界大戦でナチへの協力を
拒否したため、大学教授を剥奪され、身の危険を感じスイスに亡命せざるを得なくなった体験がある。そこから「限界状況」
という考えが、色濃く反映している。『限界状況』とは、突き当たり、そこで挫折するしかない壁、具体的には、死、闘争、
悩み、歴史による規定などをいう。それらの乗り越え難い厳しい壁を目の前にして、逃避するなら人間は自分を失ってしまう。
反対に、その試練を真摯に受け止めることよって初めて、我われは自分の生きる姿を知ることになる。
 しかし受け止めたところで、限界状況では挫折は避けられない。しかし、この挫折が私たちを超越者(=包括者)
の世界に導いてくれる。 もちろん、ヤスパーが考えたのは、挫折(無力感)から神のような超越的なものへ目が見開かれる
という宗教的なことではない。 包括者を認知するとは、この世の中に決して合理的に理解できないものがあることを
知るということ、理性の限界を知るということである。 理性の限界を認識してこそ、私たちは理性的に思索できる。
それをヤスパーは包括者の認知と提示したのである。 20世紀から、このかた原爆、世界大戦、ナチ、毛沢東などが、
大量殺戮を繰り返してきた。 それは徹底した合理主義の下である。 理性そのものの疑問が生じるのは当然である。 
 我われの挫折も、それを逆バネにすれば自分の無力感を、超越者(作家や芸術家など)から救ってもらう切っ掛けとなる。
挫折は、それから学びプラスに出来れば、これほど効果的なことはない。 その限界状況が芸術、思想、自然、歴史などの暗号を解いて、
包括者を受け入れやすい環境として最適な状態となるのである。 挫折は、自分の壁が破壊することでもある。
その壁は、自分を守ってもくれるが、反面、殻にもなってくる。養老孟は、それを馬鹿の壁と表現した。そうこう考えると、
人間にとって(特に若いときの)挫折は必要欠くべからざる経験ということになる。 ところで先日・・・・  〜つづき    
・・・・・・・・・
2722, どうも世界恐慌に入ったようだ!
2008年09月17日(水)
 * アリコが危ない?
   (字数の関係でカット、2011年09月17日)
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2007年09月17日(月)
 2358, ギリシャとエーゲ海の旅 −4
ーデルフィの遺跡ー
 (字数の関係でカット、2012年09月17日)
ーメテオラの修道院ー
 (字数の関係でカット、2008年09月17日) 
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2006年09月17日(日)
1993, 悪筆  おはよ〜!(*^ワ^*)i (~O~)ふぁ・・
 { もっと「きれいな字!」が書ける本−1 }  ー読書日記
(字数の関係でカット、2008年09月17日)
 ・・・・・・・  
2005年09月17日(土)
 1628, ソウルの富士山ー日野敬三 対談集 −2
また、作家の保坂和志の対談 ーソウルの富士山ーも含蓄がある。
死に直面した日野の心理が二人の対談から、みごとに浮かび上がっている。
ー保坂和志
今日は日野さんが、脳の手術から回復される過程で体験されたことを、
闘病記というより旅行記のような感じでうかがいたいと思います。
ー日野ー
自分が脳を手術されて、術後に安静状態にあるんだとわりあい客観的に自覚したのは一ヶ月ほどあとでした。
なんとなく現実がわかるようになっても、まだうつらうつら夢を見ている状態がさらに一ヶ月続きました。 
そこには、どうも完全な夢とは違う。 自分がソウルにいて窓の外がソウルの街がみえる。(実際は東京だが)
そして、富士山でなくてカイラス山がみえる。もしかすると、この人生ではなくて、その前のいつか巡礼に行ったことが
あるのかも、と思い直しました。だとすると僕の中で辻褄が合う。カイラス山はそれだけの格と威厳がある山ですからね。
超意識の神話的空間内だったら、カイラス山も見える。それだけリアリティのエネルギーを持ってなかったら、何が聖山ですか。
ー日野ー
僕は実は世の中を楽しんでいる、あるいは生きていること、人間であることが好きなんじゃないかと思い当たったんです。
 (字数の関係でカット、2013年09月17日)
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2004年09月17日(金)
 1263, 老子と孔子
本を読んでいて、時々ハッとする文章に出会うことがある。 以下を書き写してみるが、儒教と道教を対比させることによって、
それぞれの本質を、より解りやすく知ることができる。    (生き方の研究ー森本哲郎 P・302より)
ー「孔子の教え」はあくまで「厳父の思想」であり、対する「老子の思想」は「慈母の思想」とみることができよう。
老子と目される人物が生きたのはー孔子もそうだがー春秋、それにつづく戦国時代の乱世であった。誰もが真剣に生き方、というより
生き抜くための知恵を求めていた。それに、応えて、孔子と老子に代表される儒教と道教が生まれたのである。対立というより、
対照というべきかもしれない。いずれが是で、いずれが非か、などという問いは愚かである。我われは、ここに二通りの生き方を見、
学べばよいのだ。考えてみれば、この世には「人間なるものは存在しない。生きつづけてきたのは、男と女である」。
  (字数制限のためカット 2013年9月17日)
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2003年09月17日(水)
896, 言いわけ読本 ー読書日記
               塩田丸男 中央図書館ー2003・09・14日
(以下、字数の関係でカットー2007年09月17日)
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522,勉強法ーノートのとりかた--3 -
 2002年09月17日(火)
(字数制限のためカット 2010年9月17日)
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 147  機動捜査隊  2001/09/17
7〜8年まえになるが。当ホテルで年平均二〜三人の犯罪者を逮捕している。その協力の功績で、・・・
(字数制限のためカット 2012年9月17日)


4566, 変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー2

2013年09月16日(月)

             「変えてみよう! 記憶とのつきあいかた」高橋 雅延 (著)
   * 経験も、その記憶も、受け止め方ひとつ
 どうも、家庭に引っ込むと単調な日々になる。 好きなことだけが出来るため充実感はあるが刺激がない。 
で、週一のシネマと、TVの映画、ドラマの再放送、プロ野球、録画のボクシング、インターネットとブログの日々になる。
これもいいが、平穏のため、フラッシュバックが多く出てくる。現役なら、現実の刺激がそんな記憶を瞬時に飛ばしてしまう。
が、現在はそれがないこともあって、振り回される。それも一瞬だが。 人生の後半になるほど、思い出されてくるのが、
20歳代のフラッシュバック。封印していた記憶が次々と出てくる。 
そんな折、図書館で見つけたのが、この本。「実は、私たちは不確かな記憶に振り回されている」とある。 
 20歳代は自立の時節で、卒業、就職、結婚など人生の大きな決断時、そのため記憶が鮮明になる。
30〜40歳代も密度は濃厚だったが、社会的な基盤が出来ていた。それもあり不安定の20歳代の方が新鮮になる。
 「社会背景と、時代背景、そして家庭に恵まれていたこともあって、私には良い記憶が多く、良い人生だった」と信じていた。
しかし「人間は、嫌な記憶より良い記憶が残すように出来ている」とすると、「私だけが特に良い思い出、良い経験を多く
積んできたわけでない」ことになる。「良いこと一つに、嫌なこと一つ」を、「良いこと二つに、嫌なこと一つ」に、
記憶を修正してきた。これは意識をすれば可能である。やけ酒を飲まないで、祝い酒や楽しい酒なら飲む習慣も、その一つ。
「悲観は感情、楽観は意志」という言葉もある。これも意志で可能である。 それより、普段から上機嫌でいられる
環境をつくっておくことである。 
 その点、御隠居は良い。ご隠居の強みに、「嫌なことはしない、好きなことだけをする」がある。
趣味、道楽の生活を日々心掛けることが御隠居の勤めと割り切ればよい。しかし年齢を重ねると、病気や老人性鬱など、
過去からの色いろな返り矢が、次から次へと飛んでくる。その結果、何時の間にか、暗い捻た老人になっている。
「ご覧の通り、そのまま結構」で、まずは自分を納得させるしかない。
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4191, 閑話小題 ーカテゴリーキラー
2012年09月16日(日)
   * カテゴリーキラー
 自民・民主の対立軸の間に、地方の首長が平成の維新と名うって「日本維新の会」を立ててきた。既存の党に新しい時代
の改革が不可能と見た堺屋太一などの識者などが、大阪市政、大阪府政を建て直した松井府知事、橋下市長を中央政治の改革に
担ぎだしてきたもの。この良さは、既存政治のしがらみがないことである。流通業界は、こういうのをカテゴリーキラーという。
既存の流通経路とは全く違うバイパスをつくってしまうやり方で、既存の百貨店と一般小売店という流通経路に対し、スーパー、
量販店、コンビニなどを、これまでと違った立地に新たに出店する方法。さらに最近では、その流通経路に対し全く新しい
カテゴリーキラーが出現してきた。ネット販売である。 先日、歯ブラシを見に電器チェーン店に行ってきたが、ネットで買えば
25パーは安いことを知ってのこと。そこには若い子連れの家族がいた。私と同じで、そこで商品の品定めをしているだけ、
買うのはネットの様子。今では、多くがスマートフォンを持ち、その場でネット価格を調べることが可能になっている。
店は現物をみるショーウインドウとして割り切っている。恐ろしい時代である。それと、酷似しているのが、日本維新の会である。 
それにしても自民、民主何だ? 
  * 近所の人の突然死
 一昨日のこと。朝の10時前に自宅の数軒先に救急車がきた。一軒おいた所は5軒の小さなフクロ小路になっていて、
家内が言うに、「殆どが80歳以上の老人の独居暮し」とか。10年前にも誰かが救急車で運ばれていったことがある。
「この暑さ、熱中症で誰かが倒れたのだろう」と気に留めなかった。 その直後に家内はスポーツジムに出かけていった。
今年は私の家が班長の番もあり、その家の隣家の人が、その報告に来た。その話によると「 一人暮らしの89歳の老女で、
一キロ先に娘夫婦が住んでいて、その娘が亡くなっていた母親を見つけて救急車をよんだが、故人はTVを見ていた状況で、
梗塞だったという。昔からいうポックリ病死である。 静かな住宅地で比較的住みやすいところ。その中で、振り返ると、
けっこう、それぞれの家庭事情が垣間見れる。 数年前の三条の洪水で東北電力の御主人が流され亡くなったとか、
病気を苦にした自殺をしたとか、旦那が女をつくり出ていったとか、あげればキリがない。そういう私も去年の春、何で!
 ・・・・・・
3826, 閑話小題
2011年09月16日(金)
  * 血圧か〜
 スポーツジムで血圧を測りだしてから一月ほどたつ。130前後から150後半が、このとこの数値。 以前から、この位だった。
気にすれば気になるし、気にしなければ別に問題はない。 体重は、二十年、標準を保っているし、食事も気をつけている。
ただ酒量が多いことが問題。親戚で脳卒中で寝たきりだった人は少ない。 ほぼガンか老衰で亡くなっている。でも、そろそろ血圧も、
血糖値も気にしなければ! ところで、一昨日の運動を終えた直後で158、昨日はリクライニング室のマッサージの直後のためか128。
高いのか? こんなものか? 先日、公営の小さなジムにある測定器では120だった。状況により大きく左右するようだ。
脳卒中で半身不随は辛いだろう。 頭は全く変わらないというし。大学時代の少しメタボ気味が二人、半身不随になってしまった。
  * パソコンゲーム
 これまでゲーム歴は、ソニーのPSPを少し遊んだことと、学生時代のパチンコ(数ヶ月に一度位)以外、ほぼない。
ここでiPadを購入したおかげで、さっそくフリー(無料)のゲームを幾つかダウンロードして使いだしたら、これが面白い。
午前中はスケジュールに追われているが、午後は時間がタップリある。 それでも仮眠をしたり読書やネットで時間をとられるため、
夕食後からTVを見ながらゲームに嵌っている。 2〜3時間は時間がたつのを忘れてしまうほど。止めようと思っても、もう一回、
もう一回と延々と続けてしまう。 これを幼児の頃から楽しんでいたら、現実で自分をゲームの主人公にした夢の追及とか、
目標のため目先の苦労をすることなど避け、ゲームで達成感などを味わった方が遥かに楽に思えるのだろ。 なるほどバカになるわけだ。
  * ど忘れ
 数日前に、以前に一度『哲学人』を、この随想日記に書いていたことに後になって気づいたばかり。ところ再び昨日の朝、三年前の
同月同日に、全米NO1の弁護士の著書『議論に絶対負けない法』の感想文があるのに気づいたしだい。これまでも、せっかく書き上げた後、
何か書いていたような気がしブログ内検索で書いていたことが判明し、没にしたことは何回もあった。しかし二回もたて続きに気づくとは、
やはり少し変か? やはり年齢のなせること? 書いたと同時に、ハッキリいって内容は一年後に、ここで再読する以外は皆無。
その分、後で読むと面白いが・・・ 
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3461, 純粋持続 −1
2010年09月16日(木)
 ベルクソンの「純粋持続」の考察が面白い。 まずは、ウィキペディアで、「純粋持続」を検索した。
 * 粋持続と真の時間
【 たとえば、音楽の旋律にゆだねた意識内容は、それを逆向きにしたり、こま切れにしたりすることはできない。
このように概念や言葉から離れて内省に専念すると、そこに意識の直接与件として、ひとつの流れを感じる。
その流れは、計量不可能性、不可逆性、連続性、異種混交性を特徴としており、止めようなき自発、能動によるものである。
これをベルクソンは「純粋持続」と呼んだ。この純粋持続は、空間的に表現できるものではない。
というのも、空間化とは数学的な抽象であり、測定可能、可逆的、均質的、受動的なものとなって、それはもはや
流れの連続ではなく、点の継起となってしまうからだ。したがって古典物理学の(線形的)時間は、真の時間ではない。】
 〜〜 以上が、純粋時間の要点だが、
 我われのいう時間は、あくまでも決め事でしかない。日常生活でアナログ時計や、手帳やカレンダーなど
空間に時間帯が印刷され、それを見て日程をたて、お互い、そして自分自身、その約束事に従っている。
それを真の時間と勘違いしている。 しかし、人間の意識に流れる時間とは、それとは違うのは誰も直感で知っている。
日常生活の便利さに惑わされて、意識の時間が持つ性質を忘れている。 人間が作った約束事の「空間的かさぶた」を
剥がしてみると、そこには本当の時間が姿を現すかのようである。 その「本当の時間」を「眠った時間」の状態から
分かりやすく説明するためベルクソンは「純粋持続」と呼んだのである。 豊かさとは、そのような「純粋持続」を
如何に確保できるかにある。たしかに、私が秘・異郷旅行にはまるのは、その時間を濃度深く確保できるからである。
空間移動で、その色濃く感じる空間から感じ取ることが果たしてベルクソンの、それと「純粋持続」と言えるかだが。
 人間は定期的季節の変化から、一年という周期を経験的に知り、それを、それぞれ季節3ケ月、さらに三等分をして一月、そして一日、
という単位を作っていった。農耕にとって、それが大きく役立った。しかし、それは人間が作った約束事でしかない。 
人間の心の時間は、それ以前から現在に至るまであった。その時間こそ真の時間と看破したのである。    ー つづく
  ・・・・・・・・・
3086, つれづれにー 閑話小題
 2009年09月16日(水)
  * 9・11から8年が経った
 このHPを開いて4ヶ月後に9・11テロが起こった。 先日で丸8年になる。昔といえば昔だが、8年で時代は大きく変わった。
アフガン戦争、イラク戦争、そしてインドネシア沖の地震、ミャンマーのサイクロンに、中国・深釧の大地震、地元では中越地震、
柏崎・刈羽地震、去年の9・15金融恐慌と、世界は大きく変わってしまった。 直近では、衆院選挙での自民党の壊滅的敗北である。
これが21世紀のようだ。更に情報化の進展が我われの生活を根本から変えている。5〜6年前からブログが飛躍的に普及、
個人がそれぞれの情報を発信し始めた。 これに携帯電話にデジタルカメラやビデオが取り込まれ、現場から瞬時に情報発信が
可能になったのである。 地球上にネットという別世界が新たにできて、それが現実世界に大きく影響を始めてきたのである。 
この想像を絶した情報化はSF作家の小松左京をして、「SF作家の我われさえ追いつけない事態」と言わせるほど。 
日本は冷戦終了後、それまでの冷戦の恩寵と、その結果としての世界第二位の経済大国の立場はもろくも瓦解してしまった。
人口の本格的縮小も重なり年々、経済などのダウンサイズが始ったのが、この不況である。
  * 民主党が政権を取るとどうなる?
 民主党が鳩山政権として発足するが、どうなることか? 面白いといえば、面白い。
闘う相手は自民党ではなく官僚というから尚のこと。 検察を使おうにも、彼等こそ一番の悪巣。
ここで日本も大きく変化するのは間違いはないが危うさも出てくる。民社党も批判しているうちはよいが、今度は責任政党に
立場が変わってしまう。二大政党は、交互に政権交代すること自体がよいのだから、目先を心配することはない。
  * 9・15リーマンショックから一年
 昨日で、リーマンショックから一年が経った。見るところ三割の経済規模がダウン。
緊急輸血で何とか恐慌一歩手前で踏みとどまっているが、現場段階では上っ面な回復としか感じられない。
メーカー段階では、3分に1にダウンしたのが、2分の1になった位でしかない。これも、何時まで続くか分からない。
元に戻ることはないという上で、経営戦略を根本から練り直さなければなるまい。超大型地震は起きてしまったのである。
津波の本体がくるのは、これからである。それが分かってないのでは?というほど、日本は長期停滞で神経が麻痺している。
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2721, BOAが、メルリ・リンチを買収!
 2008年09月16日(火)
バンク・オブ・アメリカが、メリル・リンチを買収!というニュースが入ってきた。シティバンクが倒産レべルのニュースより大きい。
(シティは倒産してないが)それも、リーマン・ブラザーズと天秤にかけて、メルリ・リンチを買い取ったというから驚きである。
しかも選択されなかったリーマンの方が倒産というから、なお衝撃が大きい。しかし、そのツケの支払いは日本国民にも覆いかぶさって
くることは明白。アメリカの、というより世界の金融の再編成に入ったということになる。1929年の大恐慌より、深刻な事態というが、
その大きなウネリが姿を現した。ニュースで100年に一度の金融のニュースといっていたが、その通り。日本では、三菱・UFJ銀行が、
野村證券を買収したような出来事である。リーマン・ブラザーズは野村證券の2・6倍というから、世界に及ぼす影響は計り知れない。
サブ・プライム問題の深刻度からして、おこるべくして起こったことである。 5年から10数年前まで、日本を買い叩いていた
アメリカ金融機関が、脳梗塞・脳血栓で半身不随になったと例えられる。 もちろん日本の十数年前よりも根は深い。
崩壊という表現も過激ではない。アメリカの三大自動車メーカーが、ほぼ死に体状態から考えて、世界的な混迷期に入ってしまった。
先週受けた経営セミナーの先生が言うとおりである。証券会社の一位・ゴールドマンサックス、二位・モルガン・スタンレー、
三位・メルリチンチ、四位・リーマンブラザーズ、五位のベアーズ・スターンズ(この春にモルガンに救済合併)。
この三位から五位が異変をきたしたのである。どうなっているのだろう。今年に入って、三位から五位が消滅したということになる。
ここにきてアメリカの航空会社、自動車、そして金融と、異常事態に入ったということになる。アメリカ経済の崩壊というと、
ドル安圧力が当面は強まるだろう。その行き着く値段が60円。それが近日か3年先かは分からないが。そして一度下げておいてから、
再び回復するだろう。何故なら、ドルはアメリカが輪転機で刷っただけの偽札もどき紙切れでしかないからだ。
一番影響を受けるのは、資源のない、紙切れを掴まされた日本、中国、インドである。いずれにしても、大恐慌へのテンポが速すぎるようだ。
世界中が震撼としていることは事実である。今日からの為替と株価がどうなるのだろうか。それにしても、あの首相候補の5人の漫画的な
パフォーマンス、何をしているのだろうか、この国は! そういえば私の学生時代の友人がBOAにいたが、どうしてだろうか。
クールなハッタリの大きな男だったが。
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2007年09月16日(日)
2357, ギリシャとエーゲ海の旅 −3  Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning
  ー旅行の雑感ー
*今回の旅行で、地中海と中近東一帯でイラン・イラクを除いて、エジプト、ギリシャ、ローマ、オスマントルコ、メソポタミア、
 イスラエルの遺跡を巡ったことになる。 そうすると、数年以内にイラン・イラク(イラクは無理だが)に行くのが目標になる。
(字数の関係でカット 2012年09月16日)  
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 2006年09月16日(土)
1992, デジタル一眼レフカメラ −3          (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜
一番肝心の「写真の具合は?」ということに言及していなかった。写真は見ての通り全く別物である。
例え話でいうと、ハイビジョン液晶TVと、今までのブラウン管の地上放送Tvの差と同じといってよい。
【字数制限のためカット2010年9月16日】
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2005年09月16日(金)
 1627, 自分の死ー日野敬三 対談集 −1
先年、亡くなった日野敬三の対談集「創造する心」が深い内容である。
癌から脳出血まで、次々と死に至りかねない病の中で書いた文章は、一言一言が胸に刺さるようである。

(字数の関係でカット 09年09月16日)                          ーつづく
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2004年09月16日(木)
1262, 書いてなかった旅行記 −1
 ーカナダ旅行記−
過去の旅行記は殆んど書いてきた。しかし先日、地域別ごとに旅行記を纏め直していて、カナダと、ハワイと、中国(桂林・香港)
の旅行記が書いてなかった事に気づいた。 そこで早速、書くことにする。まずはカナダである。 カナダは二回行っている。 
一回目を書いてみる。 この旅行は、トロントと、その近くにあるナイアガラと、ロッキー山脈と、バンクーバーと、
その近郊のブッチャーガーデンを巡るコース。ナイアガラはNHKの特集を見ていたが、実際見てみて「こんなものか!」と
少し失望したのが実感であった。しかし、ボートで近くの滝のカーテンの迫力は実物ならではの迫力があった。
しかし、この旅行のハイライトはロッキー山脈のジャスパー国立公園である。飛行機の乗り継ぎなど、かなりの強行軍で、
バスでジャスパーについた時には疲れのため熟睡をしていた。ふと目が覚めると今まで見たことのない裸の大きい山が展開していた。 
変な夢を見ていると思いつつ、再び目を開けると、どうも夢でない。そこは私の知らない別世界であった。 それからは、
次から次へと見える光景に目が釘付けになってしまった。これまでの自然のパノラマを見るのは生まれて初めてであった。
日本でも黒部渓谷や立山など、多くのパノラマを見てきたが、そこで見たものは全く違うものであった。
「なんだ?!こりゃ!」と息を呑む景色が次々展開しているのだ。「こんなところが、地球にあったんだ?知らなかった!」
「これを見るまでの人生と、この後の人生は全く違う。 家を叩き売ってでも見るべき価値はある!」等々の感激が、
ロッキーにいる最中次々と出てくるのだ。この時から、旅行は大自然派になってしまった。 自然の美しさを、
これだけ数日に渡って味わって見たのは初めて。自然が自然と、こういう神々しい姿を創りあげたのだ。 山々の神々しさ、
そして空の青さ、湖のエメラルドグリーンの美しさ。そこに住む地リスの愛らしさ。あちこちで見ることができた熊とヘラ鹿。
はじめて見るものにとって、そこは違う惑星の景色である。
ーーーーーーー
2003年09月16日(火)
895, 超一流選手の共通項
 ー世界柔道選手権とプロボクシング世界タイトル戦-
 この五日間の世界柔道選手権が面白かった。昨日まで5日続けて男女の八階級と団体戦の試合があった。
 (字数制限のためカット2011年9月16日)
・・・・・・
521,「世の中を良くする為には」
 - 2002年09月16日(月)
昨日の昼、何げなくみた映画のなかで、薬中のホームレスが橋から飛び降りようとする見しらずの女性を助ける時の言葉がよい。
「なぜ助けようとするのか?」という瞬間の問いに、「自分を助けてほしい、貴女を助ける事でしか今の自分を救われない!
  (字数制限のためカット2013年9月16日)


4565, 2050年の世界 ー6

2013年09月15日(日)

       「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」〜英『エコノミスト』編集部 (著)
   * 第十九章 距離が死に、位置が重要になる
《テクノロジーが距離を葬った。通信費は限りなく無料に近づき、様々なソフトウェアーでこれまで以上につながるようになり、
 ‘どこにいるか’がかってない程重要になる。》 これは10年前から現在に遡って言えること。その何処かにいるのかさえ、
重要で無くなる可能性がある。大相撲やプロ野球の観戦も、現場より居間の大型TVの方が面白くなりつつある。
その意味でグーグルアースは、ますます重要な位置を占めてくる。
   ー第十九章のまとめーより
・『エコノミスト』誌編集主任だったフランセス・ケアンクロスは一九九七年に『距離の死』という本を書き、そのなかで
 通信費が技術革新で安くなり、距離は障害ではなくなると予言したが、二〇一一年現在の時点でそれは現実になりつつある。
・一九九七年には、アメリカと欧州の電話料金は、一分あたり平均で八一セント、二〇一一年には、スカイプを使えば
 2セントですむようになった。
・国際間のテレビ電話会議とも言える「テレプレゼンス」はすでに商業化されているが、
 今後はそれが家庭に安価に進出していくだろう。
・携帯電話に搭載されるさまざまなソフトで、距離はさまざまな分野で意味をなさなくなっている。
 テキストメッセージで現金を移動させるモバイルマネーもそのひとつ。 そういうサービスで最も成功した一例が、
 二〇〇七年にケニアで始まったM-PESAだ。〔 *(M-pesa、エムペサ)とは、ケニアにおいて人口の約3割(1,300万人)が
 登録 するほど普及しており、銀行口座を持たない貧困層の金融システムへのアクセスを可能 にしたとして名高い
 Safaricom社のモバイルバンキング〕
・典型的な発展途上国で百人あたりの携帯電話台数が一〇台増えれば、GDP成長率を○・八ポイント押し上げる効果がある。
・ウェブ空間上で、人の集えるソフトは、専制的な政府が集会の自由を圧迫しているときも、それを迂回できる道を提供した。
・距離が意味をなさなくなったことを利用し、各地域、各文化圏の労働力、技術力の特長を生かした国際分業がやりやすくなった。
 そのぶん、どこで何をする、という位置が重要になってきた。開発の得意なシリコンバレー、スペックをもとにプログラミングを
 するのが得意なインドのバンガロール、厳格な運用システムを創ることが得意なドイツ、といった具合である。
・常時接続の世界により人々は互いに話すことに興味を失ったように見える。市場調査会社二ールセンによると、
 アメリカでは携帯電話の加入者が自分の端末で話す時間は、二〇〇七年からの四年間で、一カ月あたり一〇〇分以上短縮され、
 七〇〇分(着信を含む)になった。
▼ ネット社会が世界を覆い尽くし、それが全てを変え始めているが、その行方は誰も知る由がない。それが距離より、
 それぞれの立ち位置を重要にさせていく。家族や隣人より、ネットで継った友人の方が優先されるネット社会が現にきている。
 そうこう考えると、「自分」「私」の哲学的問題も出てくる。「ネットで継った私は何者だろうか?」「ネット社会とは何?」
・・・・・・
4190, 呪いの時代 ー8
2012年09月15日(土)                   
   * 草食系男子とは何だったのか 「呪いの時代」内田樹著
 団塊世代の下の年代に草食系男子が多くなったようだ。今に限らず、私たちの年代にも肉食系と草食系男子は別れていた。
しかし中流階層が下流階層に移行している現在、その比率が高くなってきた。この暗い世相の中では、男子も下を向いて
草を食べているしかないのだろう。50歳以下の男たちをみると、本当に多い。しかし自分が、この世代にいたら、草食系に
なりざるをえないのも確か。長期的右下がりは、いかんともしようがない。 ー 以下の部分が面白い! ー
≪ 僕のゼミで、このところ年に二回も「草食系男子」を自由研究発表のテーマが取り上げられる。学生たちは、草食系男子と
現にかかわり深い当事者のみなさんですから、その報告には「現場を見抜いたもの」にしか語れない生々しいリアリティがある。 
  ー以下、僕が彼女たちから聴き取った情報の一部を開示したいと思います。
 草食系男子の特徴は、とにかく「弱い」ということです。きわだった特徴は「すぐ泣く」、それから物を決めるのが苦手。
「どこに行く?」とか。「何を食べる?」とか訊いても答えられない。できることなら女の子に全部決めてもらいたがる。
身体的には細身・お洒落で・髪の毛の手入れと美肌に関心が高い。かわいいしぐさ(胸の前で両手を組んで、口をとがらすとか、
外見的には哺乳類の幼生、なかんずくげっ歯類に通じる風貌をしている。 では、このような「草食的ふるまい」がもたらす
生存戦略上の利点とは何でしょうか。ある特異な社会的態度が集団的に採用される場合に、それは「生存戦略上有利である」という
無意識的な判断が下されたためと考えるのが合理的です。実際に有利であるかどうかはともかく、有利であるという判断は下された。
とりあえず誰でも思いつくのは、それが「弱い立場」にあることを強くアピールすることによって、これ以上攻撃されることを
抑止する機能を持つという仮説です。僕も、この仮説には妥当性があると思います。
 弱い犬が股間に尻尾を挟むのと同じように、あるいはマウンティングをされるのを尻を向けて待つ弱いサルのように、
「弱い」ポーズを取ることで、これ以上の攻撃を予防することが出来ます。一種の「安全保障」として機能する。・・・
こういうことが可能になったのは、公的な「強いシステム」と、それに収奪され抑圧され管理されている「弱い個人」という
二元的な対立図式に置いて、常に「弱い個人」の個に正義があるというチープでシンプルな物語を国民が選好したからである。
草食系男子は、おもに性的関係の局面で発揮されるが、とにかく傷つくことを恐れる。・・・≫
 ▼ バラエテー・ショーに出てくる若いタレントを、ほぼ、こんなのばかり。私たちの年代から見れば「女の腐ったような男」
  「人畜無害のヤサ男」。 疑似ホモ化である。 逆に司会とか、キャスターは肉食系を思わせる逞しそうな女が目立っている。
  これもグローバル化・情報化によるのだろう。
・・・・・・
3825, 生命保険について
2011年09月15日(木)
 一昨日のNHKの連続ドラマで「生命保険」をテーマにした連続ドラマが始った。後で録画を見るつもりだがシビアな内容だろう。
生命保険は名前のとおり命をかけた博打。 当たった時には、当人は娑婆にいないが、残された人に保険金が支払われる。
そのため胡散臭さが漂う。 母親が生前、「自分には八百万の保険がかけてあり、死ねば支払われる」と遺言書にあった。
しかし、契約書では80歳で切れていた。母の勘違いというより、保険屋が、そのことを言ってなかったようだ。
私は「保険は体の良い組織的詐欺の要素を持ったシステム」という持論があり、保険などかけたことはない。 
  ある本に、その辺のことが分かりやすい説明があった。
【 生命保険の保険料は、男性の場合、十万人が一斉に生まれ、順次死亡して、百七歳で全員が死亡するという前提で、
 毎年の死亡確率を出し、これを元に算出される。 四十歳の男性の場合、生き残っている九万七千三百九十人中、年間に死亡するのは
 百四十四人。つまり、九万七千三百九十一人が払った死亡保障の保険料は、不幸にも亡くなった百四十四人がもらい、その年は終わり
 ということになります。十万人生まれた男性が、半分の五万人を切るのは八十二歳。死なない限り払った保険料の元は取れない。】
「自分が死んだ後の身内のことを考え、保険に入っておく」という理屈は分からないでもないが、それをネタに利益を得ようとする
 保険の仕組まれたシステムは、契約書に業者に有利に作られているのは、当然のこと。 火災保険は、万一を考えると必要だが、
 それで「も利益団体の言いなり」ということを考えておくべきである。 
古来から金融の本質は、保険のあるという。だから、そのには、専門家でさえ知りえないほどの騙しが隠されている。
私が保険嫌いのため、家内は心配で、家内名義の給料を38年間預金をしていたことを、一年前に知った。
それが、この事態(倒産)の命綱になっている。 保険は、生々しい世界だが、この情報化のため、保険のオバサンの
多くが淘汰されつつあるという。 それと零細の業者も、ほぼ大手によって淘汰。 再編成もすざましいという。
 何処も同じということだ。 
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3460, つれづれにー政治談議  −2
2010年09月15日(水)
 * 管首相の大勝利
 民主党党首選挙、ここまでの大差で管首相が勝利するとは驚いた。これは日本経済にとって深刻な問題。
ある意味で致命的である。目先は分裂することはないが、半年、一年スパンでは再編に動きざるをえなくなる。
この結果、景気は円高、株安にシビアにふれてくる。 管内閣三ヶ月間で、彼が経済、外交音痴であることが判明。
当分の間、政権を担うとなると考えただけで鬱々たる気分になる。まず雪崩をうって景気が悪化、二番底、三番底に向けて
容赦なくふれてくる。円は80円、株は8千円割れが、当面の目安になる。我われに商売は直接、景気が直接反映するから敏感になる。
結果からみれば小沢の政界再編は現職与党の国会議員にとって、何時、解散があるか分からないし、次の選挙の資金確保という
大問題に直面する。 この歴史的危機でも国家天下より、御身大事を優先するしかないのか。地方議員や、サポーターなどの
票は、どうしても世論に左右されるのは仕方がないのか。一番、怖いのは、小沢が政界から引退すること。しかし、直ぐに
自分の出番が来ることを彼が一番知っている。二人の演説を聞いていて、管首相の内容が国家のトップとして内容が乏しいのが
渦中にいると分からないようだ。過去と内側のことばかりで、方向性が乏しい。あれで、大きく小沢に振れないのだから、
民主党の議員レベルの質を問われて然るべきである。 無政府状態が当分続く。そして景気はますます悪化する。
 これでは瀕死の日本経済のリンゲルも効かなくなる?
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3085,時間リッチと時間貧乏
 2009年09月15日(火)
 新聞広告の雑誌の見出しに「時間リッチと時間貧乏」があった。
図書館で立ち読みをしたら、「TodoリストよりNotTodoリストつくり」。
「何をするかより、何をしないかをリストアップして実行せよ 云々」である。 私事になるが、時間リッチを自認している。 
月に数回の飲み会以外は一切の付き合いが無いに等しい。自分を育ててくれた学校の同級会、同期会以外は、商工会、町内会、
ライオンズなど、誘いもないし、行く気も無い。都合の良いことに、職場と住宅が新潟と長岡に分かれているので新幹線の乗れば、
そこで遮断できる。おまけに事業が装置産業ときているので、目先の判断は人任せでも大きな支障がない。そのために20年あまりで、
40回近い秘境ツアーに参加することも出来た。おまけに早朝5時に起床、散歩や、読書、そして、この随想日記を書いたりもできた。 
「戦略とは、何々をすることを決めるのではない! 何々をしないかを決めること」という言葉を著名なコンサルタントの先生の講義で、
30歳そこそこで聴いたこともあり、時間に関してはリッチであった。 「で、時間リッチというわりに全然、人間的に
リッチじゃないじゃないかい」と言われれば、返す言葉が無い。しかし可能な限り世界の果てを見てきたという満足感はある。
 そこで検索に「時間リッチ」と入れたら面白いリストがあった。 その幾つかを抜粋してみた。
 〜 時間リッチになる 〜
・一週間は金曜日から。 金曜日に翌週の準備、月火水でmustを済ませ、木に検証反省。
・やる気が出ないときはとりあえず動く! 動くからやる気が出る!
・楽する方法を考える       ・自分の時間価値を意識する。「2735円」
・スタートから完璧を目指さない。走りながら完璧を目指す。挑戦すると案外簡単、成果が出るもの。
・失敗しても経験が残る。「武器を手に入れてから走るのでは遅い。走りながら武器を拾え」
・今動かないとそのチャンスを他の人に持って行かれると考える。  ・時間はお金で買える。(セミナーは有料を)
・お金を殖やすため、モチベーションを維持するための先行投資を恐れるな
・時間をケチらない。「ながら作業」は「ケチ」。 一つの行為に2つ以上の意味を見いだす、
 一つの行為をいくつかの目的のために利用するのが時間密度を濃くするということ。
・忙しいときこそ勉強する。自分のために時間を使うという行為が安心感を生む。
・仕事のできる人は仕事に遊びを取り入れ余裕がある。 ・そうねではなく魅力的ねと言われるように。
・かきくけこ(簡単・興味・グレー時間・決断・行動) ・嫌なことは朝一で片付ける ・隙間時間にやることリスト  
・捜し物は時間の無駄                ・携帯時計よりアナログ腕時計。時間の量的感覚を身につける。
  ー 以下は字数制限の関係でカット(2007年9月15日)
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2720,議論に絶対負けない法 −1
 2008年09月15日(月)
「議論に絶対負けない法」
  ―全米ナンバーワン弁護士が書いた人生勝ち抜きのセオリー    ゲーリー スペンス 著
 ある知人が訪ねてきて話しをしていたら、現在、トラブルに巻き込まれて裁判中という。「500万〜1000万規模か、億単位なのか?」
と聞くと、「億単位」という。 その人は30年来の付き合いがあって、地元では大手クラスのトップ。大きな分岐点の経営判断のときは
必ず相談に来て、何気ない応答にヒントを得るようだ。その場ではヒントを得たふりを見せないが、後年になってヒントになったという。
 今回は、裁判の係争の真っ只中、具体的な生々しい相談。「議論に絶対負けない法」という本を紹介した。
アメリカのナンバーワンの弁護士が書いた本で、拗れたトラブルであるほど、彼の一言一言が全て、問題をヒント与えてくれるはずと、
助言をした。私が、この本を読んだのは十年以上前。 問題を抱えていた時で、本そのものがコンサルタントの先生のような役割を
与えてくれ、非常に参考になった。  詳細は憶えてなかったが、スラスラ出てきた言葉は
・準備、準備、準備、それが全てである。 準備以外の秘訣など何もない。
・それと構えである。 構えの構築を一つずつしていくこと。それが準備。
・問題の中心点に向かって、自分の心を無にして集中すること。
 そのためには、心の底から正しい!と信念が持てるかどうか自分の心に問うこと、そこが一番重要。
・戦いを始めたからには、絶対に強気、攻撃的で攻めること。等々、それを言えるのは、10年前に貪り読んだため。
「その知人の相談は、再び目を通せ」というメッセージだろうと本を探したが無い、誰かに貸したのだ。
そこで早速アマゾンで中古本を買った。 10円+送料340円=350円。新書なら750円である。
そして再び目を通すと、なかなか内容があり、味がある。著者が魂を込めて書いてあるのが解る。
 ー 次回から、面白そうな所を書いてみる。ー
十年前は、どうなった?かですか。構えを知ってか、相手が手を引いてきました!       −つづく
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2007年09月15日(土)
 2356, ギリシャとエーゲ海の旅 −2               o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ
この旅行では、天候、実際の対象の内容の良し悪し、スケジュール内容の質、添乗員の当たり外れ、同行のツアー仲間の質、体調
(食あたり など)?行き帰りの飛行機の席の順など、すべてが90点以上であった。この一つでも外れると、だいなしになることがある。
前回のケニアでは、過半数が外れたが・・代理店の選定ミスがあったが。 それも御愛嬌と割り切らないと旅行など続けることは出来ない。
「アフリカ・南米などの零細専門業者、地元の中小の旅行代理店」は‘外れる可能性が非常に高い’ことは経験からいえることだが・・・
外れた場合は金をドブに捨てたと割り切らないと! 中小の場合などでは、「劣悪の添乗員ー素人の遊び気分の夏休み代わりの添乗員」
を平気で組んでくる。 二度、いや三度当たったことがある。 でも、そんなものと割り切らないと・・・
 ある規模以上の代理店は、質の高いマニュアルのしっかり入っている添乗員が揃っている。同じ代理店の、ほぼ同じ少し商品の違う
パックのグループとクルーズで一緒だった。ところが、そのグループの添乗員への不平不満が、食事時に耳に入ってきた。
そのグループは外れの添乗員だったのである。間違えれば、当方の担当になる可能性もあった。
 今回の旅行を印象に深い順にランダムに書き出してみた。
・まずはクルーズ船の最上階にある甲板の先頭で、長いすに横たわりエーゲ海の風に当たりながらの日光浴。
 三日間、毎日90分間、一人で小島を左右に見ながらの甲板の瞑想?は至高であった。夢の中にいるような気分であった。
・次は、サントリーニ島の断崖の上からみたエーゲ海ブルーの広大な景色。
 そして、傾斜面の街の建物が全て白に統一された光景・・広角に広がる湾とエーゲ海の光。これも眼に印象的であった。
・小さな珠玉のようなミコス島のリトル・ベニスといわれる海岸線からみたエーゲ海に沈む夕景と、その街。
・デルフィの遺跡の神々しい雰囲気。 2500年以上昔に、そのままタイムトリップしたようであった。
・奇岩の上にそびえ立つメテオラ修道院の神聖な雰囲気と それを取り囲む広大な原野と、山々。
・アテネのパルテノン神殿と、そこを取り囲んでいるアテネ市内の風景。
・二度目だが、ギザにある三つのピラミッドとスフィンクス。そして前回は時間の関係で見なかったピラミット群の遠景。
・カイロ市内にある「エジプト古代博物館」特に、見れば見るほど驚かされるツタンカーメン王のマスクなどの財宝群。
 そして、多くのピラミッドなどから発見された像や財宝などなど・・
 以上、指が動くまま、頭に浮かんだまま、キーボードを打って書いてみた。
この旅行はギリシャ本土とエーゲ海と、そして、そこにある遺跡を見て歩く少し趣向の変わった旅行であった。
そして三日間はクルーズとはいえ、午前、午後と二つの島を数時間かけて見てまわる強行なスケジュールであった。
しかし、その間は移動が船のため、ストレスの少ない旅であった。  Д`、)マタネ         ーつづく


4564,変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー1

2013年09月14日(土)

                「変えてみよう! 記憶とのつきあいかた」高橋 雅延 (著)
    * 豊富な知識、旺盛な好奇心の必要性
 ‘無意味なものを意味づけるために必要なものは何か。それは知識だ’が納得出来る。
≪ 意味づけこそが記憶の秘訣であるということは、並外れた「記憶力」を示す工夫からもうかがい知ることができる。
 たとえば、どこかできいたことがあるかもしれないが、円周率を何万桁も覚えているという日本人がいる。円周率は、
小数点以下、無限に続く意味のない数字の羅列だ。この円周率を一〇万桁以上も暗記しているのが、原口謹さんだ。
 かつて私は、この原口さんと、五四歳のときに円周率四万桁の暗唱記録を打ち立てた友寄英哲さんの記憶能力について
調べたことがある。その結果、二人の基本的な記憶能力は、同年代の人たちとそれほどちがいはなく、特殊な才能は何一つ
みられないことがわかった。しかし、その代わり二人とも、日本人にはおなじみの、「語呂合わせ」を使う技能に長けていた。
つまり、何万桁もの円周率も語呂合わせで覚えていたのだ。語呂合わせというのは、端的に言えば、数字の羅列のような
意味のないものに意味づけすることだ。原口さんも友寄さんも、けっして若いとは言えない年齢であるにもかかわらず、
並外れた「記憶力」を示すのは、二人が意味づけという記憶の秘訣を使っているからにほかならないのだ。
もちろん、何万桁もの数字の語呂合わせをつくり、それを完壁に覚えるまで繰り返した努力を忘れてはならないのだが。
 では、無意味なものを意味づけるために必要なものは何だろうか。それは知識だ。知識が貧弱だと、深い理解はできない。
逆に豊富な知識をもっていると、まったく理解できないような事柄であっても、自分の知っていることとの類似点をみつける
などして、意味づけが可能になる。たとえば、難解小説を読むときに、作者の生育環境や交友関係などを知っているとよく
理解できることがあるが、これが知識による意味づけの一例だ。・・
 ここで重要なことは、知識が増えれば、その後新しい事柄に出くわしてもその意味づけが可能となり、記憶に残る。
ひいては、新たな知識として頭の中に加わるということだ。つまり知識が増えるほど、新たな事柄の意味づけがより
多面的にできるようになり、知識に加わりやすくなる。よい循環が生まれるわけだ。逆に知識が乏しければ、新しい事柄も
記憶に残らず、いつまでも知識は貧弱なままという悪循環に陥ってしまう。一六世紀から一七世紀にかけて活躍したベーコンは
「知は力なり」と言ったが、まさに記憶にとって、知識は力なり」なのだ。
 原口さんも友寄さんも、会って話をしたときに一番強く感じたのは、もっと新しいことを知って、知識を増やしたいという、
旺盛な好奇心をもち続けているということだった。つまるところ、彼らの記憶力の秘訣である多面的な「意味づけ」は、
旺盛な好奇心あってのものだということなのだろう。 》
 ▼ 12年以上も随想日記を書き続けて、これにエネルギーを費やしていることに疑問を持たないことはない。
  反面、この御陰で人一倍の旺盛な好奇心を持ち続けている利点がある。さらに記憶媒体になる上に、公開することで、
 情報と知識のギブ・エンド・ギブにもなる。印象に残った読書内容を感想と共に「起承転結」でパックにすることで、
 自分の知識として残すことが出来る。 知識が増えた分、新しい事柄や知識に出くわした時、その意味づけが深くなり、
 記憶に残る。少しキツイが、私にとってベストの習慣になっている。続ければ続けるほど、自分の底の浅さに愕然とする。
 ・・・・・
4189, 呪いの時代 ー7
2012年09月14日(金)
               「呪いの時代」内田樹著
  * 婚活も、「適職イデオロギーの刷り込み」の一種  ー第5章「婚活」と他者との共生ー
 ここで著者は、「ほぼ全ての結婚は、最後は『失敗だったな』と思うもの!」と断言する。
家庭内離婚を含め過半数が破綻しているのは知っていたが、ここで殆んど全部というから驚きである。
知人などから、こっそりと、『失敗だった』という愚痴を聞くと、禁断の秘密を知ってしまったと思ったが、
全部が、そういうことなら話は別。 実際に暮らして分かる相性もある・・  ーその辺からー 
≪ 婚活もイデオロギー的洗脳によってエンドレスの願客を作り出すというビジネスモデるにおいては就活と同じ。
 就活における「適職イヂオロギー」にあたるのが、「運命の赤い糸で結ばれた宿命の配偶者幻想」です。世界のどこかに
 私だけに宿命づけられた一人の配遇者がいる。その人に出会わなければならない。出会いさえすれば永遠の幸福が約束される… 
 この赤い糸イデオロギーは幼児期からさまざまな物語を経由して、子どもたちに植え付けられます。
 この幻想から自由であることはきわめて難しい。そのイデオロギーに悼さすかたちで結婚情報産業が呼びかけます。
≪「この世の中に、あなたにだけ約束された人がいます。あなたはまだその人に出会っていません。何故でしょう? 
 それは『出会い』が足りないからです。私たちが、その出会いを提供しましょう。もちろん有償」・・・ ≫
「あらゆる結婚は(と申してよいでしょう)「これは失敗だったな」という後悔を当事者たちにもたらします。必ず。
 だから、ご心配には及びません。 僕たちは配属者の選択において、必ず間違いを犯します。そして、後になって
「なんで、こんな人と結婚しちゃうたんだろう……」と空を仰ぐことになる。・・・ 
 そうですよね。頭に血が上ると「この人こそ世界でたった一人の私だけのための人だ」というような夢想に酔うが、
 普通はあまり継続しない。「では、結婚しましょう」ということになり、両家の親族に挨拶に行き、新居の家具を買いに行き、
 式の段取りをしているうち、「ほんとにこの人でいいのかなあ」という懐疑の念が兆してくる。 「赤い糸イデオロギー」は
 平たく言えばただの夢想ですから、現実の「やすり」でこすられるとポロポロと剥落してくることは避けがたい。
 何となく「マリッジ・プルー」になっているうちに新婚旅行に行き、そこでいびきをかいて寝る夫や、トラブルが起きるたび
「あなた、なんとかしてよ」ときいきい叫ぶ妻にうんざりし、婦りの飛行機の中では口もきかないというようなことが起こる。
 いや、これは「あなたの場合」じゃなくて、ほとんど全ての(95%くらいの)夫婦についてなさていることなんですから、
 ほんとうは少しも心配するには及ぱない。≫
 ▼ これを読むと、社会の見方と人生観が一変する人もいるはず。とはいえ、やはり夫婦というシステムは、一部動物と
   人類が作りあげてきたもの。やはり、結婚と、その後の我慢はしておくべき。 身も蓋も無い話だが、そういうこと。
 ・・・・・・
3824, 閑話小題
2011年09月14日(水)
   * スポーツジムに通って半年、その効果は?
 月に一〜二度位しか休むだけで半年間ほぼ皆勤でスポーツジムに通っている。スポーツジムの休日の金曜日と日曜日は市の公民館の
中のスポーツ施設に行くが、変化があって、これはこれでよい。お陰で体調は、非常に良くなった。足腰が、この数年来、重くなって
きたが半分以上は元に戻ってきた。健康ジムの「イージーライン」というプログラムに参加しているのが良い。12人一チームで、
若い女性のインストラクターの掛け声で、全員が互いを意識しながらやるため、手抜きは最小になる。特に初めと終わりのストレッチが、
非常に良い。ここが要と、入念に足腰の関節部分に気持ちを入れる。このストレッチを早朝のミニ・サイクリングの途中の土手の
ベンチの横で休憩の合間にもやるが、いま一つ気合が入らない。 あの場でやるから良いのである。
 二年前に、酷い腰痛になってから、居間や書斎の椅子に、低反発クッションを、寝床には低反発枕と低反発クッション、
居間には腰痛用の健康機器を入れたため、腰痛は最小に収まっていた。 そこに更に、健康ジム通い、体には良いはずである。 
また健康ジムそのものが持つ明るい雰囲気が良い。 ここで痛感したことは、足腰に大きな重圧がかかっていること。それを一日に数度、
丹念に揉み解す習慣は最重要事項になる。 歳を重ねると足腰の弱体化から自然に猫背になっていく。これが、良くない。 
前かがみの老人は不健康に見える。「老化すると、人は老人になる」というが、老齢期に人生のそれまでのツケが一挙に老い被さってくる。
そこで、まずは足腰と、頭の老化は人一倍、気をつけないと・・・  成るほど、老いるとは、辛いことだ。
  * 老老介護
 先日、近くのチャンコ鍋チェーン店に久々に食事に行ったところ、案内された小座敷の隣に80歳は超えている老夫婦の先客がいた。
少し妙な直感がしたが、別に気にはとめてなかった。 しかし私たちが入店した時には食事が終わっていたのに、私たちが帰る直前まで、
そのまま御茶を飲みながら周りの客の話を聞いている雰囲気が伝わってきた。それは別に問題ないが、家内がセルフ・サービスの
コーヒーを取りに行ったところ、帰りかけで入り口にいた御婆さんが、家内に「足が痛くて歩けないんだけど、どうしたらよいですか?」
と話しかけてきたので、家内は戸惑い「私には、どうにもならないんで、店の人に御願いしたらどうですか」と、少し冷たく答えたという。
連れもいるのに見知らずの人に訴えること自体が変で、明らかに痴呆症が半分入っている風とか。 
 私も腰痛を持っているので、その酷いときの辛さは痛感するので(痴呆が入ってなくとも)誰彼なく言いたいのも分かる・・・
長生きは有難いが、そこに精神的、肉体的苦痛の代償を自然は与える。 老いただけ、無念が増す、ということか。 本気で
「来年は存在ない」という思いで、一日一日を生きる時節になってきた。 あの人は誰かに愚痴を聞いて欲しかった?のか。
長生きはしたいが、老いたくはない。 この矛盾が老いの問題になってくる。・・・・・・・
・・・・・・
3459, 今日の民主党党首選は?
2010年09月14日(火)
昨日のヤフーの私のブログに
《 小沢と管の民主党党首選が明日に行われるが、順当なら小沢だろう。選挙は水物だが、連中が真っ当ならでの話である。 
真っ当でないのが、衆院選で当選している可能性があるから、外れるかもしれないが・・ そこまで程度が低くないはず。
政治には、それほど期待してないが、この数年間は無政府状態。 国しか我われの身を守ってくれない。だから恐慌の現在、
特に注目せざるを得ない。 小沢も、確かに変である。当選したら、バッシングの嵐。 短命でも良いから、
政界再編成を早く実現し、出来たら病気で倒れた方がよい。》 と書いた。
 今日、その民主党の党首選が行われる。小沢からみたら、むしろ負けた方が良い。その方が首相の立場で再編するより、
やりやすいはず。 だから党首選に立候補して、接戦をすること自体が目的だろう。その圧力が選挙後の力関係にも影響してくる。
そうこう考えると勝敗に関係なく、接戦に持ち込んだことで既に勝負があったことになる。 それより民主党の代議士が真っ当か
どうかの方に興味がある。 何でマスコミが、その予測で管首相に一方的に傾くのか?不思議である。アメリカの間接的圧力が
ある?と、穿った見方もある。ネットでは8割が小沢を支持しているというが、その乖離は何故起きるのか。 
(字数の関係上、カット11年09月14日)
・・・・・・
3084,挫折を考えてみようか
 2009年09月14日(月)
 「挫折」については誰かが考えているはず、と調べたら、ヤスパーがいた。
ヤスパーは、挫折を「自己に目覚めるきっかけ」として捉え、自分自身を乗り越える機会とみる。
人間は日常の生活に明け暮れで生きているが、それでは真に生きていることにはならない。なぜ己が世界に生きているかを問い、
自分のあり方を求めることが生きる出発点になる。ところが、それを真正直に守ると最後には挫折が待っている。人は最期は死ぬ。 
それを考えると生きている根拠がなくなり、行き着く先の挫折を「限界状況」とヤスパーはいう。 色いろの挫折を重ね、最後に
「死」が厳然と待っているのは、身近な死が我われに教えてくれる。 しかし死を含めた多くの苦悩を通して、人間は真の自己である
実存を自覚し、そこから苦悩を乗り越える「超越」への基盤となる。しかし人間は死の戦いや苦悩を、実存の最終的なあり方と
受けとめることが出来ない。 本来は、愛、永遠、無垢に惹かれる存在だからである。  
 ヤスパーは、《 実存は苦悩のうちに挫折しつつ、指し示す絶対者=包括者へと超越することが要求される。
その超越が促すのが「暗号解読」である。それは一種の象徴で、有限な現実の存在が自らを越えて絶対なる超越を指し示すのである。 
芸術、思想、自然、歴史など、そうした暗号によって、それを包括者へと超越せよ、という指示として受け取るのが暗号解読である。》
と、挫折=限界状況の先のアップスケールとして、自己に目覚めるきっかけとする。人間が生まれ存在しているから挫折をする。
そして最後の挫折としての死を受け入れるプロセスが超越だったり、真に生きることであると指摘する。人間は誰かに人生を
代ってもらうことはできない。 限界状況をひとりで背負う、本質的に孤独な存在である。だからこそ独りに閉じこもらず、
自分の実存を他者に開示すべきとヤスパーはいう。他者との交わりを通して、自分を振り返ることが、更に自分に近づくことになる。
実存に目覚めた人間同士の交わりを、「愛しながらの戦い」と呼んでいる。人生を振り返ると、挫折から多くのことを得た。 
その時に、新約聖書や、大本教の本に救われた経験がある。超越者から救われていたのである。40,50歳代の峠越えは
秘境旅行で大自然に出会うことで超越していた。私にとって、大自然の懐が「暗号解読」の場所であった。 
更に、多くの都市の美術館の名画などの作品がである。「限界状況」の中に、そして、その向うの「超越」こそ、人間の生きている
意味が隠されている。挫折、そして苦悩こそ、人間を超越に運んでくれる。 そこで出会う感激・感動こそ超越状態である。
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2719, 嘘について
 2008年09月14日(日)
社会に生きていくうえで、嘘をつかなければならない場面も往々にしてある。その場その場で、ころころ変化する人物は
直ぐに見抜かれて信用を失う。「約束の時間を守るかどうか」で、まず評価されるのは、そこに言い訳と嘘が鮮明に出やすい。
後ろ向きの人は、言い訳から始る。そして小さな嘘を重ねる。過去に何人かの長年行き来していた人と断交をしてきた。 
その共通点が嘘が多い人である。開いた口が塞がらないというほど、純朴に嘘をつく。純朴を表面に見せて、次から次へと嘘を重ねる。
ある人を例に取ると「本人は嘘を言っていることに気づいてないだけ。 三歩ほど歩いたら全てを忘れる、嘘など更々言っていない」
のが真実。「私を信じて下さい」が、ある人物の口癖だが、そのことさえ自覚をしてない。 話を都合のよいように変えるのも、
嘘の一歩手前の行為である。営業口で、きれいごとを並び立てているうちに嘘の構築のプロセスを踏んでいることになる。考えてみたら、
誰もが大同小異ではないか。他人のウソは見えても自分のウソは気づかいないだけだ。所詮、世の中は全てが幻想、ウソも真実も大して
変わらないではないか?と嘯くこともできる。嘘も方便で嘘も相手を傷つけないように気遣う場面も必要。鮮明に憶えていることがある。
父親が、末期癌になり、あと一年と宣告され一年間実家で同居をしたとき、そ知らぬ顔をして、父親の葬式のための喪服をつくりに
行ったことがあった。 嘘も必要悪と己に言い聞かせ。「末期かどうかは自分は聞かされてない!」という前提で、全ての言動を
しなければならなかったのも辛い。この時に綺麗ごとだけでは生きれないことを、つくづくと知らされた。普段からウソの訓練も必要?
私の場合は、後味の悪い他者への裏切りや、嘘は避けてきた。 結局は周り回って帰ってくる。 動機が純粋かどうかを、
最終の判断基準にしている。 ただ、人間の窮したときの露骨な嘘こそ忌み嫌う。 自分の利益行為のために、綺麗ごとを当然のごとく
並び立て、結果として尻尾を出している男かいる。営業という仕事自体が綺麗ごとを並べ業績に結びつける要素が含まれる。
全てを営業成績を上げるため、生きるため、の手段にしなければならないのがプロと思わないと、やれない。嘘をつかないで、
相手をグサリと刺しまわっている「私」も大問題である。嘘を言う前に、まず真実を知らなければ! 
真実も嘘も知らない手合いが多いから困ったもの。そうこう考えてみると、親の資質や、本人の教養度合いの低い人が、
ウソが多い人、ということになる。まあ娑婆は適当なウソで持っているところがあるが・・
 後記)書いた後に気づいたが、ほぼ同じ文章を書いたことがある。   
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2007年09月14日(金)
 2355, ギリシャとエーゲ海の旅 −1
この旅は、予測していた通り、ヨーロッパをメインに旅行している人が大部分で、秘境・異境派は一組もいなかった。
23名の参加者のうち、16人が夫婦づれ、6名が女性づれ、1人参加が1名。 平均年齢が大よそ60歳強で、私達にとって
丁度良いバランスの連れ合いであった。少し、お品の良い人種が多いのが特徴で、食事時の会話が大変であった。
(その辺は家内の得意とする分野!私は寡黙の人に変身した日々。)内容的には、クルーズではトルコのクシャダズと、
また乗り継ぎ拠点のエジプトでは、ピラミッドとエジプト考古博物館のオマケつき。盛りだくさんのスケジュールが
組まれていて10日間としては、内容が豊富であった。点数でいうと、100点満点といってよい。まずは今回のツアーの
「スケジュールと主な内容」を旅行代理店のクラブツーリズムのHPのスケジュール表をコピーしてみた。
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 (字数の関係でカット09年9月14日)
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2006年09月14日(木)
1990, 9・11から5年が経過
(字数制限のためカット2010年9月14日)         
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2005年09月14日(水)
 1625, 戦略的思考について−2
(字数制限のためカット2013年9月14日)  
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2004年09月14日(火)
 1260, 人生の基礎は10歳までに作られる!
人生は10歳での環境によって、ほぼ既に決まっている。中学校は選抜される前の最後の場である。
(字数の関係上、カット13年09月14日)
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2003年09月14日(日)
 893, 「バカの壁」ー読書日記−1
 ー以下は字数の関係でカット(2007年09月14日)            
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2002/09/14
眠れない夜に
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2001/09/14
宗教戦争−3
(字数の関係上、カット08年09月14日)


4563, 2050年の世界 ー5

2013年09月13日(金)

       「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 英『エコノミスト』編集部 (著)
   * 予言はなぜ当たらないのか (第二十章)
  ー まずは要約部分よりー
・今から四〇年前になされた予言をみると、悲観的なものばかりで、その殆どが外れている、
・なぜ、そうした予言が外れるかと言えば、理由はふたつある。良いニュースは目立たず、人々の記憶に残りにくいからだ。
 悪いニュースだけが残り相互に連関する認知のバイアスが人間にあるので、そういう予言をすることが受け入れられる。
・もう一つは人間が対策を講じることを無視するからだ。
・資源が枯渇する、食料が枯渇する、というのは終末予言の典型的だが、「技術革新」よる「低価格化」を無視している。
・グローパル化による国際分業により、人々は、かってより遥かに安い値段で必要なものが手に入るようになった。
・1950年代には、平均賃金の人がハンパーガー1個の代金を稼ぐのに三〇分かかったが、今では三分だ。
・技術が人間の生活水準に作用するのは、技術が発明されたときではなく、何十年ものちに手ごろな価格の技術になったとき。
・バイオテクノロジーの発展によりその応用物が低価格化する。たとえば幹細胞をさまざまな臓器に発展させる技術は、
 移植医寮そのものを、低価恪化させる。また、癌治療もバイオテクノロジー技術の発見によって、癌ワクチンや
 遺伝子組み換えウイルスを体の必要な場所に送るという治療を大衆化させる。
・第二次大戦以来、全世界のGDP成長率がゼロを下回ったのはたった一年。それは2009年で、マイナス0・6%の成長率だった。
・先進国ではさまざまな形で実際に、森林面積が増えるなど環境は良化している。いまの新興国が先進国なみの経済水準になる 
 二〇五〇年までに、これまで損なわれた環境が腹興するようになるだろ。
 ▼ 予言はなぜ当たらないのか? その状況で対応する「技術革新」が出てくるからだ。その中で情報機器と、バイオテクノ
  の革新は、予測不能である。現に過去40年をみると肯けること。 人間には、長期楽観、短期悲観が経験を通して
  認知バイアスとしてある。それが目先、悲観的な見方が受け入れられる。 40年前の予測が悲観的過ぎたというのも
  大いに疑問である。ソ連は崩壊、米国も、衰退の坂を転げ落ちている。そして日本は、20数年前のバブル崩壊から現在に
  わたって惨憺たる事態。40年後を考えると、さらに酷くなるのは現在の状況をみれば分かること。
 「現時点で予言不能の未来が待っている」ことだけは確か・・ バーチャルと現実が混合した世界だろう! 今もそうか?
・・・・・・
4188, 呪いの時代 ー6
2012年09月13日(木)
                         「呪いの時代」内田樹著
   *「適職イデオロギー」の刷り込み   ー第5章「婚活」と他者との共生ー
「適職イデオロギーの洗脳」の切り口は面白い。そのため?まず3年もしないうちに三分の一が夢やぶれて辞めていく。
それだけでない、その後も、その影に追われることになる。歌の文句ではないが、「自分を待っている職があるはず」と。
そんなものは、あるはずはない。現実は、そんな軽い若者を拒否をする職場だけ。そのため転々と幻影を求めてサマヨウしかない。
私たちはコマーシャルで、知らないうちに無防備に不安と劣等感と無知を煽られ多くの洗脳を受けている。ーその辺りからー
≪ 就職活動を始めるに当たって最初に叩き込まれるのが「適職イデオロギー」です。就職情報産業の営業マンがやってきて、
 大学2年生を購堂に集めて「空気を入れる」ときに彼らはこう言います。「ひとりひとりには、この広い世界のどこかに、
ただひとつだけ適性に合致した天職がある。この一年余りで、諸君は自分に適正に合致したこの職業にであわなくてはならない。
そのために捧げうる就活に全エネルギーを当時なければならない」と。学生たちは驚きますけれど、だいたい根が素直な子たち、
たちまち、この「適職イディオロギー」に染め上げられる。
△ そして、「自分が適職に出会えないのは、自分の何であるか知らないからだ」ということと、
△「世の中にどのような職業があるのかについてまだ十分に知らないからだ」
 という2種類の「情報」不足によって説明されるということに、うっかり頷いてしまう。 そうして適性試験を受けたり、
目を赤くして就職情報誌に見入ることになるわけですが、もちろんこれらの情報は無償ではありません。かの「適職イデオロギー」
を宣布してまわった営業マンの会社が課金して販売しているまわるのですから、この段階で、「なんとなく家業継ぐか」とかいう
「ゆるい」就職観はきびしく排斥されます。この「適職イデオロギー」というのはきわめて強烈なもので、これを一度受け容れて
しまうと、私たちは「ほんとうに『こんな仕事』に就いていいのだろうか」という不安から逃れられなくなります。就活中も
もちろんですが、実際に内定をもらったあとも不安が鎮まらず、さらに就活を続ける学生がたくさんいます。最初に内定を
くれたところはそれだけ「ご縁」があるということなんだから、そこでいいじゃないかと僕は学生に相談されると答えるのですが、
僕のそういう場当たり的な就職観に説得される学生はほとんどいません。・・・就職情報産業にとって、「適職イデオロギー」を
深く内面化した若者はエンドレスの顧客です。「この職場に骨を埋めよう」と覚悟をしているわけでないのだとしたら、
「いつか出ていきたいが、今は出ていけないので我慢してここにいる」という「腰掛け」的な就労態度をありありと示すことになる。
「はやく出ていって『ほんとうに私の適正に合った仕事』がしたい」という切ない思いは更につのる・・・ 仕掛けになっている。
就職情報産業は、このビジネスの洗脳によって決して自由になれない人々を量産することで利益をあげることを自覚しておいた方が
いいと思います。・・・≫
▼ 幻影を求めてさ迷う若者に、更に就職産業屋は顧客として利益を貪ることになる。気が付いた時には、立派なフリーター。
 社会は、彼らを便利な部品として使いまわす。グローバル化で人件費が抑えられる中で、ひ弱な若者は火の目を見ることはない。
 これと酷似しているのが婚活である。結婚相手と、就職先も幻影でしかないことが自覚できない若者。 それは次回に。
 ・・・・・・
3823, 閑話小題 
2011年09月13日(火)
   * 『哲学人』の感想文を連載は、二年前に一度書いていた。
 驚いたことに昨日に気づいたことだが、二年前に、この下巻のー小説の作り方ーについて取り上げていた。 
難しかったのだろう、それっきりで終わっていたが、それ自体を忘れていたのは迂闊だった。無意識のリベンジだったことになる。
分類に検索で調べたが見落としたようだ。それにしても、思いもよらなかったので驚いた。 成るほど、さすが哲学者が実践した
小説作法は実に分かりやすい。(下にコピー) それにしても、ブライアン・マギーの教養のレベルに驚かされる。さすが英国である。  
   * 初めての書くテーマのネタ切れ
 この10年間、ここで一応、起承転結を成している?文章を書き続けてきた。
最低でも2つの仕込み文はあったが、今回、初めてゼロになってしまい、それ自体をネタに書いている。
現在の読書感想文の『哲学人』が、私にとって難しい。しかし、何とかギリギリで理解出来るから、なお疲れる。
さらに、iPadにエネルギーを大部分取られていることも重なっている。 ひとつテーマを書いても、ウェブ上では、それより
遥かに素晴らしい情報が満ち溢れている。そこをネットサーフィンしていた方がより広く深く世界をみることが可能である。
それでも自分が10年間エネルギーを入れたサイトをiPadで何時でも見れるのは悪くはないと、何とか気持ちを保っている。
有料、無料を含めて、iPhone・ipadのアプリは10万以上あるというが、その一端を次々にダウンロードして使ってみるが、
その都度驚きの連続になる。別に、声高に、これは凄い!という必要もないし、これに近いモバイル携帯電話で既に普及している。
何を今さらといえば、それまでのこと。 話を戻すが、書くネタが無くなるほど本音で書くので、読む方は面白いというが・・。
 何も書けない焦りは何とも言い難い。この辺が限界の際が見えてくる。書き続けるのは大変だが、その分、張り合いにもなる。
 ・・・・・・
3458, 9・11から9年
2010年09月13日(月)
 あれから9年になる。こと自社からみたら、この日をもって右下がりになり、現在も続いている。
2004年から少し持ち直してきた矢先に今度は2008年9月15日のリーマンショックを契機にした100年、250年に一度の世界恐慌。
あの日から世界も日本も変わってしまった。まことしやかなアメリカ陰謀説がある。時間の経過と同時に信じるようになってきている。
為替と株式で大儲けをした輩がいた現実がある。更に、この事件をキッカケに兵器業界は大儲けをした。
アメリカでは戦争は公共事業といわれ、不況にとって手っ取り早い毒薬と同時に、回復剤になる。 第二次世界大戦は、
1929年から世界恐慌から立ち直る大きな契機になった。 アメリカの誘導によって日本がハワイ急襲をしてしまった。
そうこう考えると、アメリカは恐ろしい国。イラクの攻撃のキッカケとなった大量破壊武器所持疑惑も、実際には存在してなかった。
戦争を仕掛けるためにCIAが捏造したことが後になって判明した。日本のバブルもアメリカによる日本国内の内需拡大の強制による。
その結果の日本のバブルのピークを待って株式の暴落を誘導を図った。そして下がりきった株と不動産を買い捲ったファンドが、
大儲けをした。 好き放題に日本の資産をいじくりまわし、収奪を繰り返しているアメリカに日本は成す術がない。
歴史的にみて、その後の2008年9月15日のリーマンショックと同じレベルで、2001年9月11日の事件は語られるはず。 
アメリカ崩壊への二つの大事件として。 これを必然的事件とみると、何か底知れない深いウネリを垣間見れる。
20世紀的なものの崩壊の必然の事件としてである。そして、この火の手が10年20年かけて世界を焼き尽くす。
日本のバブル崩壊後、山一證券が倒産したのが、7年後。大手銀行が3つになったのが10年後である。
この世界恐慌も、10年20年の時間で世界を大きく変えていく。現在はデフレ、そしてハイパーインフレが襲ってくる。
グローバル化は、世界をフラット化する。日米欧は、その他の国と変わらないレベルになりざるを得なくなる。
9年で、インターネットも、携帯電話も、テレビも、劇的進化をしてきた。それが、世界をフラット化を進めている。
これから10年、世界は、その動きを更に大きくするだろう。 面白いと同時に、恐ろしい10年になる。
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3083, 哲学人 −1
2009年09月13日(日)
 * 小説の作り方
哲学研究者の、ブライアン・マギー著『哲学人』を、半年がかりで読んでいる。
なかなか難しいが、時どき解りやすい部分もある。分野の違う人の「小説の作り方」も、
小説作法の全くの素人からみると新鮮で解りやすい。 自分の欠けていた部分を満たす作業としての小説も、
読んでいる方も、書いている方も、リアルに感じるだろう。 自分の体験を補充するなら事実に近い
深みのある内容になって当然である。 まずは、その内容から〜
《 私の希望は、相思相愛の果てしない追求だったが、そうした愛を経験したことは一度もなかった。
経験できなかった理由は、私が愛されなかったからではなく、愛さなかったからである。行き場のない強烈な感情の内海は
私のなかでせき止められ、誰かが愛してくれたときでさえ、表に現れることはかなわず、自由に流れることもできなかった。
そのため大きな不満が募り、激しい感情に支えられた衝動が蓄積され、私はそのはけ口を求めた。 そこで思いついたのが、
小説を書いてこの衝動をつぎこむことだった。その小説のなかでは、大海のごとき感情があふれ出ると同時に癒され、
私に欠けていたことが、ある意味で達成される。それも想像のなかだけではなく、現実のもの、自分の外に存在するもののなかで、
である。私はこれを『ラブ.ストーリー』と名づけようと思った。驚くべきことに、このタイトルはその時点では
まだ使われたことがなく、少なくとも私の知りあいに過去の例を覚えている者はひとりもいなかったのである。
私の構想では、中心人物は最低でもふたり必要だった。 女と男がひとりずつ、これは当然である。
では、このふたりをどうするか? 単純に、彼らは恋愛中という設定にして、その愛を表現してみるのか?
それだけを二、三百ページにわたって情熱的に語っていくのか? これをうまくやってのけることが想像できなかった
わけではない。 私が、本来の私とは違う作家になれば、それも可能だったろう。壮大な散文詩、淡々とした、それでいて、
たゆまぬ愛の賛歌というわけである。ただし作品自体がだれることなく飛翔しつづけるためには、その勢いは単に力強いだけでなく、
本質的に詩的でなければならない。そしてこの場合、私の勢いに力はあるが、詩情はないとわかっていた。 
この本の背後にある衝動は、何よりもまず心理的、感情的なものだった。私が探していたのはリピドーのはけ口だったのである。
それに、私にとって自然なはけ口とは、叙情的であるよりむしろ劇的であるべきだろうと感じてもいた。
波乱に富んでいて、望むらくは力強いものでなければいけないのだと。 しかし、だとすれば本のなかで何かたいへんなことが
起こらなくてはならない。 そして、このたいへんなことが本の内容に大きくかかわるのだとしたら、恋愛関係に影響を
及ぼすものでなければならないだろう。 さらに、それがささいなことでないとしたら、重要なことでなくてはなるまい。
いずれにしても、劇的な効果をあげるにはそうである必要がある。考えれば考えるほど主人公たちの恋路を邪魔するもの、
なんらかの障害でなければならないという思いが強くなっていった。いわゆる三角関係についても、思いつくかぎりの可能性を検討
してみた。だが、そのうちのどれかが読者の心をつかんだとしても、本来無条件であるはずの主感情に制限を設けることになってしまう。 
それは避けたかったので、別の登場入物を巻きこまずとも、彼らの恋愛にとって大きな現実の脅威となるものを考えてみた。
浮かんできたのは、重大な病気や事故というアイデアだった。 》
 ーーー
ここで、著者は「相思相愛」の経験が無かったと正直に告白している。そのリピドーのはけ口を『ラブ・ストーリー』にしたのだと。  
相思相愛?の恋愛結婚をした人は、そのまま、脚色をすれば小説になる。  が、本当に面白いのは、著者の方だろう。
所詮は共同幻想、いや自己幻想、いや他幻想だから、『達成したことに何かを付け加えるより、達成できなかった幻想の方が、
むしろ新鮮味がある』と言える。 哲学人の書いた小説作用の切口もリアルである。
・・・・・・・・・
 2008年09月13日(土)
一昨日、「清水洋の経済セミナー・全3講ー有事に勝ち残る」を受講してきた。
4年前からのシリーズで、これで三回目である。30数名の参加者だが、行くたびに、講師の言うとおり、
経済が世界的にも国内的にも深刻度を増している。何時も暗い気持ちになって帰ってくる。 
 *印象に残っている順に書くと、
・この5年間で中小・個人を含めた30?の事業所が閉鎖。ここに来て更に悪化している。(周りを見ていると、その通りになっている)
・ハイパーインフレは、もう間ちかに来ている。来年は食品がインフレになる。 5年〜10年先を想定して、金とか財政が
 優良な国家の債権などに、ヘッジをしておくこと。 国家破綻とは、ハイパーインフレになり、庶民の資産価値が激減すること。
 ヘッジをしてあれば、六分の一になったら、逆に六倍の価値が上がることになる。金は現在二千八百円だが、六千〜七千が目安。
 他のヘッジとして、 カナダドルを持って、ケイマン諸島に預けておくとか、
・不動産のビッグバンがおきている。地方銀行の隠れた不良債権が膨大にあり、これから表面化してくる。
・変化は、ある日、一挙に起こる。
・10年後のイメージとして、国家予算が370兆円、70兆円が国債の発行。(ハイパーインフレのため)
 ガソリン千円。 首都圏移転が本格化。
・現在の夕張市の実情が、10年後の日本の姿。公共事業はゼロ。公務員の三分の一カット、給料の三分の一カット。
・道州制は、早く導入されるだろう。そうしなければ、日本は持たない。官僚を解体するのに一番手っ取り早いからだ。
・日本政府は、隠れ資産が膨大にある。まずは東京の霞ヶ関の土地と建物。 首都移転で、数百兆円など軽く捻出できるし、
 ガソリン税などの特別目的税などの余剰の資金が国民の目から隠されている。道路公団を民営化すれば膨大の株価から金が入るし、
 郵貯の株式も膨大な金額になる。それもこれも、道州制と首都移転から派生する。 まだまだ、国家は多くを隠蔽している。
 要は、これまでの固定観念を根本から変えること。グローバル、フラット化、情報が誰にでも手軽に入る時代になった。
 それは根こそぎ社会を変えようとしている、ということ。
 −−−
大まかに言えば、こんなものだ。 税務署が来て、明らかに理不尽なことをいう。
こと細かくメモを取っている。 もちろん、ここで後日に一連のヤリトリを公表するが、彼らは、そういう官僚機構の末端である。 
この国は狂っているとしか思えない。取れる相手が3割しかないから、そこで理不尽なことをするしかない。 というより、
世界的な混迷期に入ってしまったのだ。 知れば知るほど、この10年の変化がタダゴトではない。特に日本は一番マイナスに働くであろう。
明治維新の動乱など足元にも及ばない混乱が始ったのである。
・・・・・・・・・
2007年09月13日(木)
 2354, 閑話小題 
ーギリシャ旅行より帰ってー
ー安部辞任ー
(字数制限のためカット 2010年9月13日)
・・・・・・・・・
2006年09月13日(水)
 1989, 地元・中堅企業が二社倒産
ー石橋組の倒産ー


4562, ポタリ、ポタリ、ポタリかな!

2013年09月12日(木)

ポタリ、ポタリ、ポタリかな!
   
 4月〜11月の8ヶ月間、毎朝一時間、4年続けて雨の日以外、合計一万キロ以上も乗り続ければ、自らをポタリスト
(ポタリング=自転車散歩)と宣言してよいだろう。 4年前になるが、「電動アシストのMTB(マウンテンバイク)が、
格安で、スポーツチェーン店から(通販)売り出される」という新聞記事を読み買うことにした。 そして乗って仰天!
ママチャリを年に1〜2度しか乗ったことのない私が、その日を境に、冬季間と雨天以外は、ほぼ毎日12キロは乗っている。
自転車で15分の距離に信濃川があり、二つの大橋を一周して帰ってくると丁度一時間、早朝の運動に最適である。
ある本に、「江戸時代に舟に車輪をつけた陸舟車というのが試作されたのが第一号」とあった。 
さしづめ電動アシスト自転車を舟とすると、エンジン付きカヌーである。手で漕ぐか、脚でペダルを踏むかの違いになる。
 この自転車に出会うまでは、自宅から300M先にある栖吉川の土手を30年近くウォーキングをしてきた。
ところが、道路拡張工事で散歩道が数年間も交通ドメになったタイミングに、電動アシストのMTBを購入。
一気に、4キロ程先の信濃川まで行動パターンが広がった。 電動アシストのうえ、MTBの車種が良かった。
軽くて、小さくて、小回りがきいて、6段変速ギア。 変速ギアのついたスポーツ自転車も一度も乗ってないうえに
電動アシストである。驚くのは当然である。 
 東京在住の学生時代のゼミの後輩がカヌーの愛好家で、数年前、車にカヌーを積んで新潟にきて、阿賀野川河口と、
寺泊の浜辺で同乗させてもらったことがある。それもヨットカヌー。彼の別荘が川口湖にあり、長年、乗りこなしていた。
羨ましいと思ったが、今さら私には無理。 そこで、スポーツ自転車を陸のカヌーとみたて、電動アシストにすればよい。
 早朝、電動アシストの力を借りて、信濃川の土手を飛ばすのも快感。 乗っていると、自分がいかに軽く小さい存在で、
空中遊泳をしているような感覚になる。現在のものも限界に近づいてきたので、消費税のアップ直前の来春2〜3月に、
もう一台を買う予定にしている。クロスか、折りたたみのMTBか、電動のついてない10数万の高級車か?
それまで半年間の選定が楽しめる。これを購入すると、胸を張って、「古いMTBと、クロスバイクの二台を持っている
ポタリスト」と宣言ができる。車やオートバイで高級車といえば数百万だが、自転車では、30〜50万も出せば超高級車、
十数万なら高級車になる。ーブログ内の検索で、以下のような文章があったが、時間の経過とともに内容が濃くなっている。
一つのキーワードで検索で過去分を拾うと、書き遺した価値が味わえる。肌で風を切ると、頭が冴えてくるのも良い。
 低空の飛行艇のようにも・・・ 少しオーバーか!
・・・・・・
2013/07/29
スポーツ自転車の勧め! ー4               
        「自転車で痩せた人」高千穂 遙 (著)
2013/07/29
スポーツ自転車の勧め! ー4               
   * マウンテンバイク     「自転車で痩せた人」高千穂 遙 (著)
 私が現在乗っているのがマウンテンバイク。 舗装されてない山道などを走るため、特徴は丈夫かつ軽快さである。
ただ値段の安さに惹かれ買ったが、私の毎朝のコースからみて、これがベスト。小さく軽いのがよい。
  ーそこで、ウィキペディアで調べると、以下のとおりー
《 1970年代後半にアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ郊外のマリン郡で、ヒッピー達がビーチクルーザーや
 実用車などに太いタイヤをつけ、急勾配の山を下りタイムを競った遊びが始まりと言われている。同時期に北カリフォルニアでも
 同じ遊びが発生していた。初めは手作りだったが、一つのジャンルの大量生産で一般に広がっていった。
 マウンテンバイクの定義は、【 荒野、山岳地帯等での高速走行、急坂登降、段差越えなどを含む広範囲の乗用に対応して、
 軽量化並びに耐衝撃性、走行性能および乗車姿勢の自由度等の向上を図った構造の自転車のこと。舗装路でも広く利用されており、
 用途によって様々な形態が存在する。】である。 
  マウンテンバイクは、クロスカントリーバイク、ダートジャンプバイク、ダウンヒルバイク、プレイバイクなどの種類がある。
・クロスカントリーバイク= 山道の長距離走行に特化したバイク。軽量なフレームに軽量なサスペンションフォークが組み合わされ
・ダートジャンプバイク= ジャンプスタントに特化した、BMXに近いバイク。小さめで取り回し易いフレームが、堅牢なクロモリか、 
 十分な補強を施したアルミニウムで作られる
・ダウンヒルバイク= 山を下り降りる事に特化したバイク。数メートルの崖を飛び降りるなど過酷な環境に耐える強度が必要。
・プレイバイク= 2010年頃よりジャンルが定着し始めたMTBとBMXをミックスさせたバイク。・・・ 》
 ▼ 以上だが、MTBはポタリングに手軽な自転車で、軽快さが良い。それとママチャリと同じく、普段の生活の何にでも使える
  マルチのところがよい。親が、このタイプを少年用に買うことが多いこともあり、HCの自転車売場では、丈夫でない見た目
  だけMTB風のチャリが並んでいる。そのため愛好家からは「モドキ」とか「ルック車」などと呼んでいて、良いイメージはない。
  その見分けはデザインで直ぐ分かる。また「悪路走行禁止」と書いてあるのもある。私のようなスポーツ車初心者に向いている。
  とにかく軽く小回りがきき、乗りこなしがスムース。次は、クロスバイクにするつもりだが、折畳み式も捨てがたい。
  スポーツジムと、家でパソコンか、TVか、読書になりがちな生活の中で、これはソロで出来る手軽な趣味になる。
  早朝に加えて午後からのポタリングの習性も悪くはない。それと現在、ジムや、図書館への移動に使うことも考えてよい。
  趣味としてポタリングにするとなると、違った切り口が出来てくる。それより、まず事故に気をつけなくては。
  これまで色々なマウンテンバイクを見て、デザインが違うとしか思ってなかったが、実は、使用目的が違っていたのである。
・・・・・・
スポーツ自転車の勧め! ー3 ー2 ー1は、
字数制限でカット(バードウォッチにコピー)          

・・・・・・
2013/06/25
電動アシスト自転車に乗って、はや4年
 電動アシスト自転車を乗って3年8ヶ月になる。ーまずは、その時の文章より 
   ー3131,期待どおりの電動自転車 2009年10月31日(土) 
≪ 注文をしていた電動自転車が一昨日届き、昨日の朝、さっそく試乗したきた。自宅は長岡駅裏から徒歩10分ほどにあるが、
 長岡駅前から歩いて20分のところにある大手大橋まで12分で着いた。信濃川を渡ったところのジャスコには15分、
ユニ系のSCのアピタまでは20分。そして、その先にある長岡大橋から駅前近くまで戻って、家に着いたのが50分後。
万歩計をみると、2500歩になっていた。50分というと5500歩になるから、半分近くになる。疲れは、ウォーキングと
同じぐらい。 これまでは月に一〜二度ママチャリに乗るぐらい。一日一万歩を目指しているので、自転車にはほとんど
乗ることはなかった。そのためスポーツタイプで、6段切り替えで、かつ一対二のアシストの自転車を乗った驚きは大きい。
一対二のアシストというと、人が一の動力をかけると二倍の加速がかかる。 自転車は発進時の加速と、登り坂に力を要するが、
その時にペダルに力が二倍加わるのは、何か異様な感がする。コースは線路の下をくぐる地下道の登りとか、信号待ちの後の
加速とか、大きな橋までの登り坂とか、けっこう起伏がある。そのストレスがゼロで、平らの道路でペダルをまわす時の加速も
三分の一で済むのだから、非常に楽である。ところで、通販で注文して送られてきた電動自転車を組み立ててくれた長男が、
「すぐに、盗まれるよ!」というのも分かる。小型のためボックスカーに、簡単に乗せる事が可能だからである。 
 一年ほど前に、家内に電動自転車を買おうかどうか相談したら、「友達が買って直ぐに盗まれてしまった。あと数年先が
よいと思うよ」といって、買うのを止めた経緯もあった。スーパーや、駅前などは当分は置けないが、その時はその時。≫
 ▼ これを書いた翌日から25年続けていた早朝ウォーキングを、ポタリング(ミニサイクリング)に切り替えた。
  同じ一時間で、コースは東バイパスから、長岡大橋を渡って、日赤前の土手を通って、大手大橋から、土手を走り、
  長岡大橋に戻り、同じコースを逆コースで帰ってくる。 冬期間(12〜3月)と雨天を除くと、ほぼ毎日、乗っている。
  大よそ、年に200日として7百回以上、一日、14キロで1万キロ、地球を半周も走ったことになる。
   スポーツチェーンのネット販売で59800円で買ったが、中国産だが私にとって大当たり。現在は値下げで49800円。 
  もうボロボロだが、何とかあと一年使って買換えるつもりである。まず故障するのはブレーキと、蓄電池周りの固定器具。
  パンクは三月に一度ぐらい。来年には、一ランク上のナショナルのものを買うつもりだが・・  
   自転車には、シティ、クロス、ロード、マウンテンタイプなどがある。 私のは車輪の小さなマウンテンタイプ。
  来年の購入予定はナショナルのクロスタイプのもの、どうなることやら。iPodで音楽を聴きながらの
  早朝サイクリングは良い。雨が降ると溜息が出るほど。最近の週末は天気の具合をみて、昼も同じコースを走っている。
・・・・・・
2013/03/27
閑話小題 −つれづれに
 * 先週から早朝の信濃川一周のポタリングを始めたが、ほとんど散歩する姿はないのは寒いためだろう。
分厚い手袋と耳あてをし何とか寒さを凌いでいるが、日々暖かくなっている。慣れてしまえば最上の習慣である。
毎日15キロ、一年200日として合計三千キロ。三年間で9千キロ走ったことになるが、自転車はボロボロになって当然。
リチウム電池は、当初一回の充電で二日持ったが、劣化で一日が限度。この買換えは一年後の予定?だが、持つかどうか。
あと一年で4年で一万二千キロ、地球の4分の1周を走ったことになるのだから良しとするか。ギリギリ使うつもりだが・・
 * 一昨日、カラスの交尾をみた。ポタリングの何時ものコースの通りの脇の花壇にいたカラスに、小さなカラスが
舞い降りてきて尾っぽを向けて羽根をそば立てて小さくうずくまった。そこにオスが・・ メスからの求愛である。
これで春の訪れを知るとは・・・
・・・・・・
2012/08/21
つれづれに
   * 大手大橋にて
 先週土曜日の早朝、何時ものようにポタリング(ミニ・サイクリング)の大手大橋で、ヒキチャリをしながら歩いていると、
後ろから声をかけたれた。車椅子に乗った隻手の男性で、恐らく交通事故で右腕を根元から切断、下半身麻痺で自走式車椅子である。
私の電動アシスト自転車に興味を持ち声をかけてきた。電動アシスト自転車が如何に良いか説明すると、自分の車椅子が電動切替え式で、
背後に電動モーターがついていて時速6キロという。何度か薄暗い中、かなりのスピードで走っているのを見たことがあった。
人それぞれの運命と人生がある。 ところが昨日の朝、いつものコースの信濃川の土手を走行していると、屋根つきの休憩所で、
30歳前後の男女二人が、その電動の車椅子を畳んでいた。本人は不在で、まさか聞く訳もいかないし、そのまま遣りすごしたが。
その前に何か(熱中症とか?) あったのだろう。ポタリングを始めて4年目になるが、続けていると色いろある。
そういえば、雀が少なくなった。去年の大雨で河川敷の雑草地に水が使ったせいだろうか。燕も少なくなった。多いのはカラスだけ。 
・・・・・・
2012/06/15
閑話小題 
  * 自転車のパンク
 4〜11月まで八ヶ月間、毎朝一時間もポタリングをしていると、年に二回はパンクをする。
たまたま土砂降りの時にパンクをし、ズブ濡れで自転車を引いて帰って来たこともある。それも付きものと割り切っている。
一回のパンクの修理代が千〜千二百円で、店によって違う。 昨日もパンクをしたので近くの自転車屋で修理をした。世間話に、
市内の自転車屋の数を聞いたところ、「百軒あった店が今では三十軒になってしまった。4kのため次世代が店を継ぎたがらない」という。
店売りの自転車はHCや、スーパーが大量販売するため、価格競争に負け、修理だけとか。 パンクの修理時間は平均、20分。
それで千二百円は悪くないが、私の見立てでは一日4〜5人。 奥さんがパートをする兼業商家なら何とかなるのだろう。
・・・・・・
2012/04/14
閑話小題
  * ポタリングを再開
 早朝のミニ・サイクリング(ポタリング)を再開した。冬期間を除いた4月〜11月の間、一時間かけ信濃川の二つの大橋を一周する。
6時過ぎから7時過ぎにかけての時間帯だが、何とも清々しい。電動アシスト自転車の効能で、午後の二時間のスポーツジムを加えると、
三時間も運動している。 平坦な習慣の組み合わせのためかアッという間に一週間が経ってしまう。 電動アシスト自転車の使用目安を
5年と決めているので、半分使え終えたことになる。電動自転車は、お薦めである。手段(自転車)が、目的(朝の運動)を変えてしまう
(ウォーキングからポタリングへ)典型的事例になる。これからはスマートフォンとタブレットPCの普及が、ビジネスや生活パターンを
根こそぎ変え始めているが、手段の進化は、人間生活を間違いなく良くしてくれる。
・・・・・・
2011/11/08
 閑話小題 ー自転車からの風景
  * 焼鳥屋、鳥梅
 私の幼稚園の頃の、一番初めの友達が、近くの焼き鳥屋の息子であった。幼稚園の一年間と、小学校の二年の三年間である。
ある日の午後、そこに遊びに行くと、今から思うと焼き鳥の串さしの仕込みを、御父さんがしていた。子供なりに、仕事の場には
近づいてはならないことは知っていた。ところが手招きをして、その一本の焼き鳥を差し出してくれた。 そして、食べて驚いた。
その美味いこと。ガムのようで噛んでも噛んでも、噛み切れないが、その味わいと香りは、今でも強烈な記憶として残っている。
その後、成人になって長岡にUターンをしてから1〜2度、飲みにいったことがある。 私の幼馴染は何があったか分からないが、
店から引退し、姉さんと、奥さんが店に出ていた。 その店の前を二月ほど前に早朝のポタリングの帰りに通ったら、店の看板が
無くなっていた。そこで、姉さんらしき女性が、店の前で掃き掃除をしていた。 そこで、長岡の夜の博士と自認している?人に、
聞いてみたところ、「この春に閉店したが、その閉店の日に行ってきた。姉さんも高齢と不景気で止め時と言っていた」という。
それにしても、幼稚園時代の記憶の原点の一つの店が閉店とは、時代の変わり目である。
・・・・・・
3777, ポタリング
2011年07月29日(金)
  最近、面白い言葉ーポタリングを知った。 −ネット辞書によるとー
【 ポタリングとは、自転車でぶらつくことを意味する和製英語で、観光名所などに自転車を用いる「散歩」的なサイクリングをいう。
  散走とも言う。サイクリングの一種で、散歩程度に軽く走ることをいう。】
 中高年のオジサンが、行く当てない風にママチャリに乗っているのとは、チト違うようだ。毎朝、ウォーキング代わりに、
 信濃川まで一時間、自転車で散走をしているが、サイクリングというには違和感があったが、適切なポタリングという言葉があった。
 「ちょっとポタリングしてくる!」なら、丁度よい。自転車は野球帽を少し深めに被っていれば目だたないし、人は気に留めない。
 また電動アシストなら、エネルギーは普通の自転車の三分の一か、五分の一で済む。 近くのSCや図書館に気楽にいけるのも良い。
 この御陰で生活が一変したと言ってよい位である。 イメージとして、サイクリングは、中・長距離の場合に使い、目的は自転車に
 乗る方のニュアンスが強い。またツーリングは、長距離で、自転車で旅行をする場合につかう。
  東京など密度の濃い都会の二時間の散策なら、かなりの場所に行くことが出来る。 現在、早朝の信濃川のポタリングが主だが、
 今度は午後などに折りたたみ自転車を車に乗せて日本海沿岸をポタリングするのも面白そうだ。
 そうこう考えると、周囲に面白いことは、山ほどある。ただ気づいていないだけである。 ベストの敵はベターというが、その通り。
 それにしても「ポタリング」という語感がよい。 これから少し与太るで,「ヨタリング」という言葉も浮かんでくる。
  陰鬱の時、少し与太らないとやってられない。 でも、自重の時期である。 で、自転車でヨタルしかないか。
 少し離れた場所のポタリング用に、もう一台、安い折りたたみでも買うか? でも、車で一時間で何処かあるのか考えると?
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2011/09/24
ツール(道具)について考えてみる ー1
 電動アシスト自転車を使い始めて二年になるが、その日から日常が変わってしまった。足馴しに自転車で自宅から20分ほどの
信濃川の長岡大橋から大手大橋を一時間ほど一周してみたが、自動アシストのためペダルを踏むストレスが半減。そのためか
信濃川一周のポタリングが快適であることに気づいた。 空気が新鮮で、野鳥が多く飛び交い、川幅が広く、流れが緩やか。
そこから見る360度の視界がまた良い。川向こうから街中に向かう長岡大橋の上からのパノラマはライン川の風景に決して劣らない。
それと何より、自宅の生活圏から一歩外に出た開放感が良い。 自宅近くの栖吉川を30年近くウォーキングをしてていたが、
丁度その頃に工事で遠回りをしないと何時ものコースを行けないこともあって、切り替え時だった。 以来、12月から3月を
除いた連日、信濃川周辺のポタリングは日常生活の大きな柱になっている。新たな手段が生活を変えてしまった。


4561, 2050年の世界 ー4

2013年09月11日(水)

        「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 英『エコノミスト』編集部 (著) 
  本書は(第一部:人間とその相互作用)(第二部:環境、信仰、政府)(第三部:経済とビジネス)
 (第四部:知識と科学)それぞれ5章の合計20章から成る。人間、宗教と政治、経済、知識と科学の、4つ括り。
 次回からは後半ほど面白いため、20項目の一番最後から⑳⑲⑱⑰と逆向きに取り上げる。ーまず目次からー
  (第一部:人間とその相互作用) 
① 人口の配当を受ける成長地域はここだ    ② 人間の病気の将来
③ 経済成長がもたらす女性の機会       ④ ソーシャル・ネットワークの可能性
⑤ 言語と文化の未来
 (第二部:環境、信仰、政府)
⑥ 宗教はゆっくりと後退する         ⑦ 地球は本当に温暖化するか
⑧ 弱者が強者となる戦争の未来        ⑨ おぼつかない自由の足取り
⑩ 高齢化社会による国家財政の悪化をどうするか
 (第三部:経済とビジネス)
⑪ 新興市場の時代              ⑫ グローバリゼーションとアジアの世紀
⑬ 貧富の格差は収斂していく         ⑭ 現実となるシュンペンターの理論
⑮ バブルと景気循環のサイクル
 (第四部:知識と科学)
⑯ 次なる科学                ⑰ 苦難を越え宇宙に進路を
⑱ 情報技術はどこまで進歩するか       ⑲ 距離は死に、位置が重要になる
⑳ 予言はなぜ当たらないのか
 ▼ これを見ていると、人口の推計以外、どれもこれも、この程度ではない?と・・
  日本一つ取り上げてみても、40年前の1973年は高度経済成長の真っ只中で、石油ショックで茫然自失。
 12年後にバブルが発生、5年後にバブル崩壊。そして、失われた20年を経て、リーマンショックと東北大震災。
 現在は1000兆円の借金を抱えている。明らかに10年後は国家破綻国の可能性が大。まして、40年後は・・・ 
 それでも、叩き台として想定するのは必要である。最終章の「予言はなぜ当たらないのか?」の答えは、
 「土台無理のテーマ」。情報化によるグローバル化で、世界が平準化していく結果は、誰も想定出来ないだろう。
・・・・・・
4186, 閑話小題 ーヨーカ堂の正社員削減
2012年09月11日(火)
   * オスプレーを一番必要としているのは日本じゃないかい?
 政府がトラフ地震の被害情報を発表してから、次の大震災に対しての被害想定が表立ってきた。
道路が寸断された災害地に対する緊急の救済にヘリコプターが一番有効に働くが、短距離しか有効に働かない。
問題は中距離からの輸送である。そうオスプレーのような中距離の大量空輸が可能な緊急輸送手段こそ必要になる。
被害地の近くに飛行場は無いのである。問題は数千、数万の命に関わる問題、危ないとかいっている場合でない。
尖閣列島などの領土問題でもしかり。もし戦闘になった時に最も必要になるのは中距離輸送。 オスプレーの着陸は、
別に住宅密集地にする必要がない、問題はコース。ヘリ機能はコースを如何ようにも変えられる。
こういう意見は、この国では口に出せない。出せば袋叩きになる。何かがおかしい!
   * ヨーカ堂の正社員削減
 ヨーカ堂が現在の正社員8600人を4,000以上削減すると発表し、パート比率を90%に引き上げるという。
それだけ、経営状況が悪化しているということだ。 ヨーカ堂グループは、セブンイレブンを持っているので、
グループとしての経営体質は良いが、その発生の元のGMSの業態のヨーカ堂店舗を多く抱えている。
それが正社員比率を一割まで減らすというから驚き。 店舗も一割削減するため均衡縮小になる。
情報機器が高度化しているため、それほど店舗レベルの質の低下は避けられるのだろう。
地元の長岡駅前のヨーカ堂は、私と家内の目からみて死に体の店。ファッション、雑貨に買いたくなる商品が皆無。
 ・・・・・・
3821, 哲学人 ー�
2011年09月11日(日)
 * ウィトゲンシュタインの『論理哲学考』      ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
   ー まずは、以下の箇所である。
【 オックスフォードでは、しきりとこの本「論理哲学考」が参照されいたけれど、学生は読むように勧められていなかった。
これを理解するには、論理学の技術に習熟する必要があったからである。・・・ 私はこの本に取り組む準備はできていると感じた。 
おそらく、このような本だと知ったときほど驚いたことは、あとにも先にもないのではないだろうか。
オックスフォードでは『論理哲学論考』は常に論理実証主義の基礎をなす文献として挙げられていた。
ところがきちんと読んでみると、その中心テーマは論理実証主義のほぽ対極にあったのである。
 論理実証主義者は、世界に関するあらゆる真理探究を科学に同化させる傾向があり、その結果として、科学を律する
基準によってすべての真理探究活動を判断し、科学的発言に適用されるルールによってすべての発言の妥当性を判断した。 
観察か経験によって立証されるものしか、世界について知ることはできないのであり、確実な論拠を提出できるものしか、
有効に、もしくは正当に語ることはできない。だが重要な事柄はすべて、少なくとも原理上は語ることができるはずである。
そして曲がりなりにも語ることができるものは、明確に語りうるだろう。『論理哲学論考』は、こうしたこととは正反対に、
きわめて重要なもののほとんどはまったく語ることができず、言葉を使ってもせいぜい示すことができるだけと言いきっていた。 
それは示されうるとしても、語ることはできないのだ、と。 また、「論理哲学諭考』は科学をあまり評価していなかった。 
命題言語が有効なのは、経験や分析に基づく真実、すなわち事実と論理にかわる事柄を表現する場合にかぎられる。
それ以外の分野では、役に立つというよりむしろ誤解を招きやすいので、有益というよりむしろ有害となりやすい。
このため、私たちにとってきわめて重大な意味をもつ問題はどれもその範囲の外にあることになる。倫理・道徳・価値観に
関する疑問・人生の意味に関する疑問、自我や死の本質に関する疑問、全体としての世界の存在に関する疑問は、観察にも
論理にも解決できない。したがって命題言語が扱えるものではなく、強引に命題言語で処理しようとすれば、行き詰る結果となる。】
▼《『論理哲学論考』は、きわめて重要なもののほとんどはまったく語ることができず、言葉を使ってもせいぜい
 示すことができるだけだと言いきっていた。それは示されうるとしても、語ることはできないのだ、と。
 また『論理哲学諭考』は科学をあまり評価していなかった。命題言語が有効なのは、経験や分析に基づく真実、
 すなわち事実と論理にかわる事柄を表現する場合にかぎられる。それ以外の分野では、役に立つというより
 むしろ誤解を招きやすいので、有益というよりむしろ有害となりやすい。》 上記の中で、この部分は、非常にシビアであり、
 したり顔で小理屈を述べている学者風の人を一言で切り捨てている。これは哲学の否定でもある。語りえないことを、
 哲学は求めていることになる。論理実証主義者と言語哲学者たちが、この『論理哲学考』をまったく誤解していたことになる。
*「論理は考えられるもの」の範囲を定める。 * 語りえないものには沈黙を * 言語は「写像形式」によって世界につながっている。
 言語はものや出来事を写し取って名前をつけたもの * 言語が対象に意味を持たせる=言語ゲームの始まり、である。
 「言語が語れることだけが思考できる範囲」と言うが、私として、「解釈できる範囲が思考できる範囲」であって欲しいが。
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3456, 渥美俊一氏死去 −2
 2010年09月11日(土)
 一回の追悼文で終わる予定だったが、何か言い足りないので更に書く。
7月21日に亡くなったが、どういう訳か死亡記事を見過ごしてしまった。知人に聞くと日経新聞に小さく載っていたという。
氏の業績から言えば、より大きく取り扱われてよいのだが、既に時代が変ってしまったか? 所詮はスーパーの神様でしかないのか。
早くいえば、流通先進国アメリカをウォッチング、そっくり真似をし、日本の遅れている流通経路に新しいバイパスを創りなさい、
ということである。「大量生産、大量消費の間に、大量流通の仕組みつくりを、それぞれの立場で、新業態をつくること、
それをロマンとして志すべし」は、高度成長期には正しいことであった。その時期、ジャスコや、いとはん(その後、北陸ジャスコ)
に勤めていたので、濁流の渦で色いろな現象を目の当たりに見てきた。そしてバブル崩壊。以降、今度は激しい生存競争に晒される。
その中で、長崎屋、マイカル、ダイエー、西武流通グループなどが次々と姿を消していった。 大手で残ったのがジャスコ=イオン、
ヨーカ堂だけになってしまった。 その二社も最近、変調をきたしてきている。
(字数制限のためカット 2011年9月11日)
 ・・・・・・・
3081, 第三の場所
 2009年09月11日(金)
 我われは家と職場だけでは息がつけないので、行きつけの居酒屋やスナックをつくり、学生時代の校友会や、
気の合った飲み友達の会などの自分の世界を広げる。その他にもスポーツクラブやゴルフの会にも参加したりする。
 それがレイ・オルデンバーグがいう「サードプレイス(第三の場所)」である。
「サードプレイス」とは 家(必要不可欠な第一の場所)と 職場(必要不可欠な第二の場所)に加え、
都市に暮らす人々にとっての「必要不可欠な第三の場所」を意味する。 オルデンバーグは「サードプレイス」の代表例として、
イギリスのパブ、フランスのカフェ等を挙げ、それらが自由でリラックスした雰囲気の対話を促進し、都市生活における良好な
人間関係を産み出す重要な空間であるとする。 その特徴を「インフォーマルでパブリックな営み」を促進する場としている。
インフォーマルとは社会的立場を脇に置くことであり、パブリックとは仲間がいて協調する場をいう。 
第三の場は、年齢とか趣味で個々の組み合わせが変わってくる。
 私のベースは、居酒屋・スナック+秘・異郷旅行+図書館・読書+早朝のウォーキング+新幹線通勤の車中などである。
誰もそうだろうが、私も学生時代から現在まで、第三の場所を直ぐに創る習性があった。 家が商売をしていて大家族だったこともあり、
自分の世界を創るしかなかったのである。但し中・高校時は、その余裕は全く無かったが、その分、大学時代に一挙に爆発したようだ。 
ところで8年前にパソコンを始めて、HPを開いてからネットが第三の場所の一つに加えられた。 もしかしたら第四の場所? 
いや、第三の場所か??。 サルトルは、その一つとしてパリのカフェの一角で多くの友人とサークルを作り、オープンな議論をした。
 そうこう考えていたら、人生でみると学生時代が第三の場所だったような気がする。第一の場が両親の影響下の家庭、第二の場が自立後、
そして第三の場が中間の学生時代である。だから現在でも学生時代の友人と会いたくなるのである。学生という身分でスポーツやゼミなどで
日本中から集まった人たちと、酒を飲み、議論をし、旅行などをした。第三の場所に父親に頭を押さえつけられた二世・三世が逃避している
ケースが多く見られる。青年会議所、ライオンズなどである。こういう時期に人間関係を形成する機会という見方もあるから否定は出来ないが、
要は第一・第二・第三のバランス。 場所といえば、時間にも「第三の時間」という言葉が成り立つ。「第三の場所で過ごす時間」である。
 時間と空間と具体的な内容ーTPOの問題と、それを受け止める心(立場)の問題が出てくる。
で、「第四の場所」を想定すると? 「絶対孤独の場」それとも「何かに夢中になっている場」か「忘我の読書」?
 ・・・・・・・・・
2716, 東京について
 2008年09月11日(木)
家内は東京大好き人間。 私は好きではないが、少なくとも住みたいとは思わない。大都会は確かに情報が集まり、面白いかもしれないが、
何か豊かさの方向を間違ってしまったように思える。私は日本の中央の東京の反対側の日本海の都市で、職は新潟市、住いが長岡市である。
のんびりしているが四季の変化が激しく、地方特有の時間がユックリ流れている。そこには色いろな人生を、活き活きと生きている人が多い。
(字数制限のためカット 2010年9月11日)
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2007年09月11日(火)
 2352.ベナレス・・・8
  6、輪廻と解脱の思想
 輪廻と解脱という考えは、ウパニシヤッド聖典(奥義書)の中に最初に現れた思想である。
過去の善悪の業(もともとの意味は行為)が現在の果報を生じ、現在の業が未来の果報を招くというように、われわれの生死は
繰り返し続いていく。古代の思想家の大半は、このような輪廻の世界に存在すること自体を苦であると考え、いかにして
輪廻の束縛から解放されるか、すなわち解脱できるかを最大の問題とした。彼らにとつて解脱とは、自我の本質とされる
アートマン(我)が宇宙を成り立たせている根本原理、すなわち万有に遍在する力であるブラフマン(梵)に合一することである。
しかし、庶民一般にとつてはこのような思想はいささか難しく、普通は死後天界におもむくことと考えられている。
現在の生が過去の生の結果であるという考え方は一見宿命論的に思えるが、輪廻の大海で生死を繰り返すのも、またその連鎖を
断ち切つて解脱を獲得するのもすべては自己の行為にもとついている。いわば執看を離れた努力主義精進主義こそが、
ヒンドゥー教徒にとっての理想的な行動原理となつている。解脱は日々の正しい行いの蓄積によつてこそ達成さる。
ーー
輪廻と解脱。まあ、解りやすい因果応報の内容である。この位の制約をつけておかないと、
征服者の支配はインド大陸の中では不可能なのだろう。宗教による縛りとは考えたものである。
これで3000年支配してきたのだから、奇跡といえば奇跡である。 
・・・・・・・
2006年09月11日(月)
1987, デジタル一眼レフカメラ−1           おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・
 ー字数制限のためカット09年09月11日ー
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2005年09月11日(日)
1622, 戦略的思考について
「戦略」については、書いたことがあったが。不況の真っ只中に、それに対して戦略的な手をうってきたのかというと、問題がある現在?
あまり偉そうなことも書けないが。まあ、いいだろう!理屈は理屈である。 戦略的思考とは、「自分に対する質問と、その答え」であり、
その飽くなき繰り返しの中での練り上げのプロセスをいう。質問に、その大きな要素が含まれている。
ー私の手帳に「戦略的質問」がポストイットに書いて貼ってある。(どの本から書き抜いたか憶えていないがドラッガー?)
・現在おかれている事態は何だろうか?        -What
・それは何故そうなったのですか?         −Why
・現在うっている手は、本当によいのだろうか?
・そのためには何故を何回質問しましたか?     ー最低5回繰り返しまたか?
・それは、『自分の強み』を生かしたものですか?  −その自分の強みとは何ですか?
・今後、どうなっていくのですか?
以上であるが、なかなか良い含蓄のある内容である。貼ってから、自分で自問自答したかといえば、ほぼしていないが。
「自分のおかれている事態は何だろう?」という質問を考えてみると、全てに、根本問題が噴出してくる。
この歳になれば、誰も似たりよったりだろうが。そして、この問題の答えがそう簡単に見つかるわけがない。
問題に対して『正中心一点無』なって自問自答を、し続けるしかない。       ーつづく
以前書いた『戦略について』をコピーしておきます。
 ーーー
「戦略について 」
ー少し難しい問題を定義してみる しかし一番大事な問題である。
・時代の流れを認識して  ・限定された資源を
・自己の強みを認識して  ・集中して投下を決めるー選択
その為に
・戦略を良質な情報に触れて、じっくり考える事。
 決済、権限を委譲する事。
・戦略を考える基本は他人と違う事,自己の強みに集中する事。。
・旧習を壊す事  ・戦略を考えることに集中する事。 ・ひたすら、1人で考える事。
戦略とは  −キーワード
・長期的ー継続し続ける     ・革新的−革新の継続
・集中的ー革新ポイントへ集中し ・統合的ー集中のために要素を揃える
ペガサスクラブの4C主義も同じ
 チャンス     ー機会の開発
 チャレンジ    ー挑戦
 コンペテテーションー闘い
 チェンジ     −変化し続ける
その為には
 4S主義をとる
 スペシャリゼーション  −特殊化
 シンプリフィケーション −単純化
 スタンダデゼーション  ー標準化
 セグメンテーション   ー限定化
人生もまったく同じである。
(字数制限のためカット 2013年9月11日)
・・・・・・・
2004年09月11日(土)
 1257, オーストリア旅行記ー4
ーパプスブルク家の人たちのことを書いてみる。
(字数制限のためカット 2013年9月11日)


4560・横尾 忠則の老人論 ー3

2013年09月10日(火)

 「猫背の目線」横尾 忠則 (著)
    * コスプレの公開制作が面白い!
 コスプレとはアニメやゲームなどの登場人物やキャラクターに扮する行為を指す。画家が、自分の描く風景の登場人物の
コスプレで公開制作とは面白い。これまで色いろな職種を経験してきたが、制服を着た当初はコスプレのような感がした。
それも数日で同化するから不思議。それは事業も同じで、無我夢中で取り組んでいるうち、その機能になってしまうもの。
人生もコスプレのように、服装も心も身体も全身仮面で時節ごと付け替えているに過ぎないのではないか。 
化粧と服装も、自分が主役のTPOSに合わせたコスプレ? ギャルとか、キャバクラ嬢の見なりは、その典型・・
  ーその辺りの箇所からー
《 1980年代にさしかかった頃、グラフィクデザインから画家に転向したが、当初アトリエがなかったため美術館のスペースで
 絵を書く事が多かった。それもただで場所を提供してくれるところはなく、「貸してあげるが公開制作にしてくれないか」
という条件が出された。絵は本来アトリに独り籠ってかく孤独な作業なのに人前で描くということは考えてもいなかったので、
果たして描けるかどうかに頭を痛めたが、やってみると意外と抵抗もなく、むしろスイスイ描けることに我ながら驚いたものだ。
 それ以来アトリエができるまであちこちの美術館で公開制作を行ってきた。人前で描くことは確かにプレッシャーになったり、
ストレスの原因を生むが慣れてしまえぱ平気である。背後の観客から、集中する僕に突き刺さってくるのがヒシヒシとわかる。
こんな想念がぼくの中でエネルギーに変換されてより創造的になることを発見した。この場合の創造というのは無私になること。
不思議なことに雑念が去来しなくなるのである。そう言う意味で座禅に近いのかもしれないが、座禅とて雑念に振り回される
場合が多い。その点、公開創作の方が「私」意識が薄れるのである。
 それはは考えるということと描くということが一体化されるからだ。おまけに描くスピードが早くなり、手と心が同化して
いくのがよくわかる。だから時には一日で150号大の作品が描き上がることさえある。観客がこちらの一挙手一投足を固唾を
飲んで見ているのが体に伝わるので、思わず手を休めるのを忘れて描き続けてしまう。このことが描きてであるぼくを解放する。
 公開制作の味を占めたぽくは最近また続づけるようになった。しかもコスプレによって制作する。 公面制作で描く絵は、
ぼくが近年描き続けている「Y字路」である。そこで道路で作業している現場の人たちと同じ格好で絵を描くことにした。
街でよく見かける ー幅の広いズボンにベスト着用、頭にはタオルを巻いてー とこんな風景をよく見かけるでしょう。
つまり鳶職スタイルである。他の学芸員も道路工事の関係者の役回りになってもらう。最初は観客は度肝を抜かれ、ギョッと
した顔になって、次はケラケラ笑う。それも一瞬、こちらが真剣に絵を描くものだから、あとは会場は水を打ったようになる。
 よく仮面の効用というが、コスプレはまさに全身仮面になり、人格も他者になるわけだから不思議な解放感に襲われ、
その結果、実に自由な気分になるのである。そして描く行為そのものも絵と同じように作品化されてしまう。だから観客は
パフォーマンスを鑑賞することになる。制作の休憩時間に美術館のレストランにこの格好で入っていくと、まずお客は
場違いなものを目にしたわけだから、なんとも当惑した顔をする。われわれに向ける視線には明らかな拒否反応の色が見える。
「作業着のままでよく、ソフィスティケイトされた美術館のレストランに入ってくるわね」という視線を投げてくると同時に
「レストランの人たちは何もいわないのか」と。 ぽくがコスプレしていることがわからないのだけど。そんな反応をぼくは
実は楽しんでいるのである。これも仮面の効用で、普段体験できない経験にほくは悦に入っているというわけだ。》
 ▼ それは、自分自身にも、人間そのものにも当てはまる。 両親合作の心身を「魂らしい自分の芯」が、コスプレ?
 としての自分を見つめ続けている。 さすがに横尾忠則である。描き手の目線を、その環境の一人として、まず服装から
 当事者になってしまう。 そして観客も、その場の一人として引き込んで、作家のイメージの世界に誘導する。
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4185, 呪いの時代 ー4
2012年09月10日(月)
             「呪いの時代」内田樹著
  * 脊髄反射的その場のつくろい       ー 第3章 「後手」に回る日本 ーより
 島国の閉鎖的社会では、問題を荒立てないために「その場のつくろい」も必要である。しかし、情報化社会では、
それは許されるものではない。現在の日本の政治は、毎年、首相を交換させることで、その場のつくろいをしているに過ぎない。
それを国民が求めているから首相は、問題解決の痛みを敢えて強いることをしない。そして一年もしないうちに引きずり下ろされる。
  ー以下の部分は、その理由を端的についている。
≪ 日本の政治家とアメリカの政治家の違いというのは、武道で言うと、アメリカは基本的に「先手」の人であり、
「日本は後手」の人ということ。欧米では、とりあえず国家が行くべき道というか、実現すべき国家像というビジョンがあり、
それが国民的規模で共有されている。日本には、そんなものはありません。終戦時に、それがなかった。とりあえず、
「アメリカ人が日本がかくあるべしと考えていること」をもって国是とした。「自分で与えた憲法の理念と背馳する命令が
出せるほどの強大な国家には従属するしかない」という経験則が存在したということです。それが日本の国是です。
アメリカに従属する。 ・・・ 相手が次に打ってくる一手に最適対応すべく、全神経を集中すること。どれを武道では
「居着き」と言います。物理的には足の裏が地面に張りついて身動きならない状態ですが、構造的に「負ける」ことです。
日本の政治が三流であるということはそういうことです。政治家個々人の資質がどうこうでなく、構造的に負けているのです。
国家像が描けない、統治原理が語れない、外交戦略が起案できないというのは個別的な知性の問題でなく、日本人全員が
罹患している国民的な病です。・・・ ≫
 ▼ 現在、日本が直面している問題は、まさに上記のことによる。数十年に渡って、間接的米国隷属国家として、当然、
 と言えば当然で、これしか出来なかった。上司と部下の関係である。アメリカには建国の精神がある。独立宣言書である。
 何かあると、ここに立ち戻って、立て直す。問題があるのは、それから軌道がそれたと理屈づけ軌道修正をしてきた。
 明治維新も、太平洋戦争の敗戦も、アメリカの圧力で変化を余儀なくされた。それに日本人の特質もあり、後手という
 守りしか手が打てなかった。現在の領土問題も、これから起因して周辺各国から遊ばれている状態。  つづく
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3820, 哲学人 ー�
2011年09月10日(土)
   * 現実と経験と言語は一緒ではない       ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
  ー まずは、「現実把握は、言語的分類次第で決まる」という部分から ー
【 言語が経験を構成するというのである。この見解についてジョーン・サールが、明快に述べている。
≪ 私は言語が現実をつくると言っているのではありません。とんでもない。むしろ、私が言おうとしているのはこういうことです。
 何を現実とみなすか ーどういうものをグラス一杯の水として、一冊の本として、一脚のテープルとしてみなすか、どういうものを
 同じグラスとか違う本とか二脚のテープルとみなすかー は、私たちが世界に押しつけるカテゴリーしだいなのです。
 そして、こうしたカテゴリーはたいてい言語的なものです。それだけではありません。世界を経験するとき、私たちは経験そのものを
 形成する際に役立つ、言語的なカテゴリーを通じて世界を経験しているのです。 世界はもとから物体と経験に分かれて存在している
 わけではありません。何を物体とみなすかは、もともと私たちの表象体系の一機能の結果であり、経験のなかから世界をどう知覚するかは、
 その表象体系に影響を受けているのです。 言語を世界に適用することを、いわばみずから独立自存する物体にラベルをつけることだと
 想定するのは間違いです。私の考えでは、世界は私たちが分類するとおりに分類されるのであり、事物を分類する主な方法は言語に
 よるものなのです。 現実の把握は、言語的なカテゴリーしだいなのです。≫
  この考え方はいまなお、哲学者ばかりか、文学や言語学をはじめとする他分野の専門家たちによって、さらには、一部の社会学者や
 人類学者たちによって唱えられている。「何を物体とみなすかは、もともと私たちの表象体系の一機能の結果であり、経験のなかから
 世界をどう知覚するかは、その表象体系に影響を受けている」という点については、私もサールに賛成したいし、誰もが同意しなくては
 ならないだろうが、私としてはこれをカント哲学的な意昧に解釈したいと思う。 ただし、その表象体系に含まれるカテゴリーが
 基本的に、もしくは第一に言語という性質をもつとする点は認められない。考え方としてはわかる。 わからないのは、そしてこれまで
 一度として理解できたためしがないのは、どうしてそんな考えを抱けるのかということだ。というのも、それは私の直接の経験によって
 真っ向から否定されるように感じるからである(この点に関して私が特殊であるとは思えない)。】
 ▼ 事業が、この結果(倒産)で終わった。総括は頭を冷やした来年早々にするつもりだが、それが、この30年の構成の提示になる。
  創業10年、中間期10年、最後の10年、そして最後に、どのような終わり方をしたか?、その時の断面は、どうだったか。
  それを、どういう切口で分類し、評価するかである。 30年、人生の事業生活の大部分を注ぎ込んだ、この結果は? 
   要は、倒産で終わったということ。その視点を失うと、総括は不可能になる。 炎上している世界経済と、ネット社会の
  移行の中で日常が音を立てて変化している。その中で、言語的分類の枠組みを立て直すことが、まず求められる。
  「3つの震災が何もかも飲み込んだように見えるが、実は情報化の潮流に飲み込まれたのが真の理由だったのか?」これも言語的分類。
   分類は分析の第一歩。そのプロセスが総括。そこで価値(意味)を自ら下げることもない。今までの価値観のコペルニクス的転換の時。
  ここの小テーマが「現実と経験と言語は一緒ではない」である。 当然、この小テーマが問題になる。「言語は、それを構成する」だけ。
  消滅してしまった事業の総括。ただ、それだけだが・・あと講釈でしかない、だから冷静に見つめないと。意思決定から45年である。
・・・・・・・
3455, 渥美俊一氏死去
 2010年09月10日(金)
 ペガサスクラブの主催者で、日本リテイリングセンターの渥美俊一氏が亡くなった。チャーンストア時代の大きな転換期の目安になる。
そこには、桜井たえ子という渥美先生の片腕の女史がいるが、彼女がペガサスを支えることができるかどうか?  昭和30年半ば、
大手スーパーや専門チェーンの創業経営者のほとんどが渥美先生の元に終結、成長・拡大し、そして消えていった。現在でも流通界における
カリスマ的指導者で、亡くなる直前まで講義を続けていた。氏が主宰していた「ペガサスクラブ」の指導は厳しいのは衆知のこと。
日本の高度成長を流通面から支えた貢献は多大である。 バブル崩壊後は、ダイエー・マイカル・西武流通グループの倒産が象徴するように、
チェーンストア理論が必ずしも有効に機能しない側面が表面化し、これまでの勢い失っていった。最近ではユニクロのように、ペガサスに
創業当初から属さない成長チェーンも出現してきている。 学生時代、大学の近くの書店で月刊誌の「販売革新」を手に取り、渥美俊一が
「ペガサスクラブ」を立ち上げ、ダイエー、ヨーカ堂などのチェーン店のコンサルタントをしていることを知った。
そして、「チェーンストアへの道」という10巻シリーズのチェーンストアつくりの戦略、手法が書かれている理論を貪り読んだ。
そして、それをベースに卒論「流通革命」を書いた。 それもあってジャスコの創業一期生として入社をした。そうこうあって渥美先生には、
大きな影響を受けた。そして現事業の立ち上げでは、その裏づけとしての理論的背景にチェーン理論があった。 
セミナーだけで、50〜60回は出続けた。 その費用は、長岡市郊外の二つの土地転がしで直ぐに元は取れた。 
立地論から、バイパス沿いの若い土地の短期転売で利益を得て、その理論の正しさを確認した。 しかし20年前にバブルが弾けた瞬間、
彼の理論は、時代とはかけ離れたものとなってしまった。「バランスシートの右と左を拡大しながら店数を増やしなさい。
それも町のバイパス沿いのヘソ(要所)を見つけ、自店舗を建てることで価値をあげ、それを担保に拡大出店を続けなさい」という理屈である。
 またアメリカの流通事例を見せるため店舗見学ツアーを組んで、2、300人と連れて行くのである。私も二度、参加したことがある。
大量生産、大量消費の時代、流通システムが全く旧態だった日本に、新しいバイパスとして、スーパーや、総合量販店、専門店を、
チェーン化で、販売経路の拡大戦略を指導してきたのである。彼は死ぬ直前まで、「日本の流通は未完である」と、その指導の手を
緩めることがなかったのは、やはり経営コンサルタントとしては、超一級だった証である。 ご苦労様。 ご冥福を! 
 ・・・・・・・
3080,再び死について考えてみる
 2009年09月10日(木)
 一昨日、従姉妹の通夜に参列をしてきた。 地元の米屋に嫁に行ったが、小姑が多くいて難儀をしていると聞いていた。
「この世に、今時にこんな厳しい嫁の環境があるのだろうか」と思われるほどの重荷を背負っていたようだ。その10日ほど前に、
長岡のグリーン・ホテルの先代社長が先月27日に亡くなったと死亡広告にあった。一度、当方の事務所に来たことがあったが、
創業時にホテル業についての話を聞きに行った事があった。暗い顔をした気難しそうな人だった。「自分の兄弟二人が、新潟駅前で
ホテルをしているのを知らないね」と言われ、それさえ知らない無知を恥じた記憶がある。 三条、柏崎、長岡三棟、東京の上野近くで
6棟を建て、子供たちに一棟ずつ与えるのが夢だったというから、それはそれで・・。  ところで、身近な知り合いと、
第三者の中間の立ち位置の「二・五人称の人」が死を考えるに最適という。第三者と第二者=知人と中間の立場の立場の死から
多くのことが見えてくる。知っている程度の人である。「死ぬ=無になる」、という論理の矛盾(無になる〜無には成りようがない
ー無いものに何故なる?)という池田晶子の言葉の通りに、死という言葉のイメージが刷り込まれる立ち位置にあるのが2・5人称の人。
10歳の頃、親戚の葬式に親と出席した時に思った、「何で人は周囲の眼を気にして好き放題生きないのだろうか?」と。
子供ながら凄い疑問を持ったのである。そのうちに、その疑問を忘れてしまったが、次の疑問は父親の死に接した時である。 
 死の瀬戸際から、逆に「生きる輝き」を逆噴射して見つめた視点である。 死に際で、「あと、せめて三年、生きたい」という生への
渇望の言葉を聞いた。それが日々強くなっていった。その時に「人間は生きているそのことだけでベストである」ことを肌で感じ取った。
そのためか、父親が亡くなってから人生観が変わってしまった。「一日一日を生ききること」が人生から与えられた責務と!。
知人の死だけでなく、身近な人の死も多く教えてくれる。 生老病死 苦集滅道 とは よくいったものだ。 
般若心経をパソコン画面に貼り付けておこうか! 
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2715, 「要素還元論」と「二元論」
2008年09月10日(水)
 島田雅彦・対談集「無敵の一般教養」の松井孝典の対談で
松井孝典が、考える方法として「要素還元論」と「二元論」を解りやすく手短にまとめていた。
  ーまずは、その箇所である。
【物事を深く理解しようと思うと、考える枠組みをよりシャープに細かくとっていかないと、解くべき問題を設定することすらできない。
それがわれわれの脳の仕組みと合っているのかもしれない。だから、時代とともに、より細かく対象を分け、より細かい領域で物事を
明らかにしてきた。 それが要素還元論です。しかも自然と人間とを分ける。考える主体と認識される客体を、とりあえず分けなければ
思考はスタートしないわけで、それが二元論でしょう。 現代を生きる人は、これまでの教育でそれを徹底的にたたきこまれているわけ。
「わかる」とは何なのかについて、それ以外の「わかる」ということは考えられないわけです。ぼくは今、地球学とか
アストロバイオロジーとかで、二元論と要素還元主義の枠を超えて、昔のようにとりあえず現代の知の体系のすべてを認識しましょう
ということを主張しています。何か新しい方法論が出てこないと、「生命の起源と進化」という問題は解けないと思うからです。
そういう過激な認識を持っているわけです。 とりあえず、二元論と要素還元主義に対抗する方法論として、「システムと歴史」
という見方で、もう一回すべてを見直そうとしています。宇宙も地球も生命も人類も文明も全部一緒に論じようとしています。
数学は言葉です。経験しない現象を語れることばが数学なんです。宇宙の始まりは過去のことで我々は経験しえない。 
そういう現象を語るためには数学以外に語ることばがない。いわゆる言語はすべて経験によって意味が裏付けられている。
そういう種類の以外のことばを持たない限り語れないでしょう。】
  〜〜以上である。
 なるほど、こういう思考の捉え方があるのには驚いた。「帰納法、演繹法」発想法として「KJ法」「テーゼ、アンチ・テーゼ、ジンテーゼ」
とか、情報収集の中での発火(発想)方式などあるが、「要素還元法」「二元法」も、上記の中でしていたことである。
この年齢になって初めて初歩的な知識を得ることの、何か恥ずかしいような、無知の再確認をさせられているようである。
それに加えて、松井教授は、「システムと歴史」という考え方を提示している。これは宇宙、地球システム、人間の歴史、個人の歴史、
全てに当てはめて考えることができる。要素還元法、二元法の限界を、一度「システムと歴史」という視座に入れて考えると、限界を
超えることができるという。「システムと歴史」の意味が理解できなかったが人間の歴史、個人の歴史に置き換えて考えてみたら理解できた。
「システムと、これまでの始まりとプロセス」ということ。「数学は言葉です。経験しない現象を語れることばが数学なんです。
  (字数の関係でカット11年09月10日)
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2007年09月10日
べナレスー7
3、 多くの化身を持つヴィシュヌ神
インドには石造りの壮大な寺院から路傍の祠にいたるまで、様々な神様が祀られている。
それらの中で現在最も信仰を集めているのが、ヴィシュヌ神とシヴァ神である。
  (字数の関係でカット08年09月10日)


4559, グレートジャーニーから見えてきたことは ? ー3

2013年09月09日(月)

     * 平等こそが生き延びてきた知恵! しかし欲望が人間を変えた
 実験によると、チンパンジーは平等に非常に敏感。これに仲間内の力関係が絡むので、集団は非常に複雑でデリケートで、
その研究から人間の本質が垣間見ることが出来る。 平等原理はアマゾンなどでは生きていくために必要なこと。極限の生活で
生きていく上で、常に分かち合うのが合理的であるからだ。しかし、文明の進化?が、社会的階級と富の独占を生み出し、
さらにグローバル化が、それに拍車をかけている。 
≪ たけし〕 関野さんはいろんな未開地に行っていますが、変な話、人食いとかカニバリズムは見たことがありますか。
 関野〕 うーん、少なくとも、僕は見たことがないですね。
たけし〕 よく「人食い人種」とか言うじゃないですか。アマゾンやニューギニアでも、そうした風習はなかったのかな。
関野〕 例えばマヤとかアステカで生贄の人間から心臓を取ったりしたことはあったけれど、それを食べたかどうかは分からない。
 生贄にする人間は、誰でもいいわけではなく、強い戦士でないといけない。勇気をもらうとか、そういう意味があるんです。
 しかし、アマゾンで生き延びるために相手を殺して食べるということは、過去にも僕はなかったと思っています。
 理由は、アマゾンの奥地で僕たち日本人はすぐに餓死するかもしれないが、彼らは餓死することはあり得ない。・・・
たけし〕 パリ・ダカールで日本人ドライバーが地元の子どもを撥ねてしまい、慰謝科として何十万円か払ったら、
 次のレースから子どもを放り投げようとして侍つている奴がいたらしい。そういうバカなことが起きてしまうんですね。
関野〕 結局、欲望が人を変えてしまう。食料や資源ということは四十年以上も前にローマクラブが声明を出しているのに、
 経済が絶対的に右上がりでなければいけないと思ってしまうのは、やはり欲望のせいでずよね。欲望が膨れ止がることによって、
 一部の人たちたけが富を独占しようとしているのが現代の社会です。アマゾンの人たちと暮らすと、これがすごく平等なんです。
 僕は人間が誕生した時に平等でないと滅ぴていたと考えています。なぜかというと、まず弱かったということが挙げられます。
 太古の人類は採取・狩猟で生きていたと思われていたんですけれども、最近は二本足で立って歩くようになった時は、
 狩猟なんかできなかったと見ている。】
▼ レヴィ=ストロースの構造主義などがある。アフリカや南米で残っている「未開人」の地に何千年も変わらない社会がある。
 そこは彼らにとって意味のある極めて合理的な社会である。決して、西欧が文明の最先端にいるのではないのである。
 その社会の特徴は平等。文明社会は変化の積み重ねの結果の産物たが、未開社会は一切変わらぬ「静かな世界」が続いてきた。
 そこは冷めた日常があり、美しさがある。変化はエネルギーを要する。その熱い社会の方が優れているという進歩史観に
 促われてきたが、それを根こそぎ覆す説こそ見直す時である。特に地球資源の枯渇でエネルギー問題が出ているからだ。
  私も含めて戦後から、このかた、欧米に追いつき、追い越せで必死に生きてきた。そしてバブルの崩壊から、失われた
 20年から、30年に入りつつある。ここで、考えるべきは、未開社会にある「冷たい社会」のシステムである。
  ここに至って何が「東京オリンピック」である。あれは、追いつき、追い越せの、高度成長期の残物でしかない。
 「最後の止めが、これ!」ということが、見えてきた。とんでもない劇薬であり、最後のトドメ。 年寄の冷水(酒)か?
 「いいじゃないか、いいじゃないか、ヨイヨイヨイヨイ」ということ。 先がない私たちには、これでよいが?
 「それでは、落選した方が良かったのか?」と、問われれば、どうだろう? どのみち、大して変わらない?なら、踊るか!
・・・・・・
4184, 閑話小題 ーつれづれに
2012年09月09日(日)
   * 元IBM社長が・・・
 ネット以外は、あまりマスコミでは流れなかったが、元IBM社長がiPhoneで女性の下着の盗撮をしたとか。
男は50歳までは多かれ少なかれ異常性欲者?たまたま超エリートが少し変わった趣味だったに過ぎない、という同情もある。
前科があったかどうかだが、その後、マスコミが騒がないのは悪質で無かったためか。超エリートが、その危険をかえりみず
盗撮をするスリルの快感は本人しか解らない。私など、最近、時どき深酒で、ある時間から記憶が無くなることがある。
「ハッとして起きてみたら留置場の中」なんてことがあっても不思議はない。ネットの写真じゃ、満足できないのは分かるが。
それにしても・・ これだから娑婆は面白い。常にデジカメを持って歩いているが、気をつけないと!
  * 「あと20年以上生きそうな感じがする!」には驚いた
 中学校の同級会で隣に座った男の言葉。私など不摂生もあり、あと5〜10年が限度と思い込んでいたので、実のところ驚いた。
飄々とた何か仙人を思わせる雰囲気を漂わせているが、この感じなら、さもありなんである。節制をしているから言える言葉。
そこで自分を振り返ると、どうみても十年以上は無理、せいぜい75歳あたり。 まず、そこを目標とすると、あと8年4ヶ月。
2021年1月15日である。何とか節制をすれば? しかし、現在の酒量からみて明らかに無理。毎日の晩酌が美味いのである。 
最近、20歳位の人を見ると、「私より50年以上も長く生きるんだ」という思いが先に立つ。 去年春の一連の出来事、人生の
側面からすれば、人生の整理に入るためにフリーハンドになるため。それにしても、その自覚は薄い。で、幾つまで生きたいのか、
自分に問うてみた。80歳である。そこまで生きるべく節制するか、一年一年、二倍濃厚に生きるかである。
それとも、80歳を目標に節制しながら二倍以上濃厚に生きるか? 濃厚に生きなくても、実際に濃厚だから、このまま?
 ・・・・・・
3819, つれづれに
2011年09月09日(金)
* ドル安がジワジワと景気に影響をしてくる時節に入った。 それと新米の問題が出てくる。
 もし県内の何処かで汚染米が出たら、全ての県内米に影響を与えることになる。
 ヒヤヒヤだろう、農業関係者は。 それと輸出業関係者もギリギリのはず。
* ドル安と同時に、ユーロも110円を割ってきた。
 ECもピッグス=PIGS(ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインなど)を抱え、
 足元が揺らいでいる昨今、100円を割る可能性がある。これも数年前から、破綻すると言われていたことが。
 そのため、金(ゴールド)が一年で5割以上も値上りをした。 金が上がったというより、
 欧米を中心とした紙幣の価値が下がったため。 これは株式と国債が暴落につながってくる。 
* 9月、10月のある日、欧州か、アメリカ発の株式大暴落の可能性が大。
 日本国民は東北大震災で大打撃の現在、世界経済の変調の動きに鈍感。
 三年前の9・15、そして、十年前の9・11ダブルの津波の波が、いかに甚大なものか、
 イメージが出てこないのか。 大震災の直後、識者も今更騒ぎ立てることもできない。
* 恐らく現在も事業を続けていたら、売り上げは更に3~5割減の筈。資金ショートで、業者や給与も払えず倒産の頃。 
 悪い倒産の惨状は地獄。 地方経済は、その一歩手前。 世界の何処から火の手が上がるか、木、金曜日は要注意。
 ギリシャ国債の金利が20パー、ということは実質破綻である。欧州経済は、導火線に火がついた。
  { 何か、極度に悲観的のようだが、まだまだ言葉が足りない。 最悪に備えているかである。}
 ・・・・・・・・
3454,  つれづれに −政治談議 
 2010年09月09日(木)
* 民主党党首選挙について
前にも書いたが中長期的にみたら、やはり小沢がなるしかない。 管首相は選挙管理内閣で終わるべき。まず、その器でない。
それが役割以上のことをすれば、それは国害になる。左翼運動家上がりが、さらに過激派だった男を官房長官に据えれば、
舵取りを間違えることは誰の目に見ても明らか。 実質オーナーの小沢を首班指名をされた途端に手の裏を返すとは、
あまりに露骨で稚拙である。まだしも愚衆の目を欺く演劇なら分かるが、本気でやるとは思いもよらないこと。
それが、あの官房長官と財務長官の指名である。 それにしても、あの世論調査ってのは何だろう。 
現在の政治と内閣は「世論調査内閣」といってよい。 世論調査で政治の行方を左右するなど、亡国の極まりである。
100・250・500年スパンの世界的激変の時代に世論に動かされる舵取りなど、とんでもないこと。
タイタニックの船内の連中に海原の向こうの大波が見えるわけがない。 それを彼等の顔色に従って舵取りをするなど、最悪。 
船内で揚げ足を取りの経験しかない彼らに船の舵取りを任せた国民も問題あり。 間違いに気づいたなら、早く政界再編をして、
体制を作り変えないと国家破滅になる。それはアメリカにとっても、中国にとっても望ましいこと?自民も駄目、民主党も駄目なら、
それを解体して新しい枠決めをしなければならない。また政治家の二代目、三代目しか、政治の表舞台に出れないシステムも、
変である。明治維新後、学歴を自力で上り詰めれば、誰でも出世のチャンスが、日本を短時間に飛躍的に国力アップにつながった。
どうも、こうも、日本は気がつけば戦後65年で、頭から尻尾まで、腑抜けにさせられてしまった。
それでもネットでは小沢の支持が八割という。世論調査とかいうのは、どうも誘導されたマヤカシでしかないと考えた方がよい。
蓋をあければ、小沢が間違いなく勝つだろうが、それでも、この国の民度が異常な低下からみると、管首相の続投も有りえる。
その時は、間違いなく政界再編成しかない。いずれにしても、あと数日で大きく政治も動き出す。
 ・・・・・・・・
3079,不況景色 −12
 2009年09月09日(水)
 この御題目で書くのは6月1日以来で3ヶ月あまりになる。その前に「世界恐慌に入って、まる7ヶ月」というテーマ名で二回書いている。
「不況景気などを今さら書くことでもないだろう」だが、そこが生き物、ジワジワときている。9月に入って落ち込みが始った。
こういう先ぶれが居酒屋とホテルに最初に来る。 現場段階は十数兆のバラマキで何とか小康を保っているが、何が起きても不思議でない。
重体患者を緊急の大量輸血で持たせているようなもので、集中治療室にいる事態は変わりない。衆院選挙が8月末まで延びたため、
株の暴落や経済の大混乱が来年2月まで延期しただけのこと。まだ東海地区の輸出産業は、この数年間の好況の蓄積があるが、他の地方は
体力を使い果たし、大きく弱体化している。これに悪質のパンデミックでもなれば、大きな波乱が起きるのは必定である。 週に数回は、
通勤の帰りや、家内のお供にスーパーや、駅の専門店街によるが、実際に売れてない。TVのワイド・ショーで、「はしっこ食品」や
「訳あり商品」の特売などを特集をしていた。ハム、カステラ、魚などのスミの切り落としが半額から三分の一になるのだから客は殺到する。
そういえば最近、生ハムや鳥肉の燻製の『切り落とし』を、安さにつられて買ってしまうことが多い。 新潟駅前周辺の飲食街では、
潰れた店の後に出来るのは「ホルモン焼き肉屋」が目立つ。「安く、小じゃれて、腹が一杯になる」のが必要条件だが、時代が変わったもの。
 当社も、長期のミニ団体が何組かが途切れずに入っていたが、それが少なくなっている。 夏場の稼ぎ時は別腹と期待していたが、
この冷夏で結果は芳しくはない。 それでも9月下旬から10月にかけて国体があるので、数字は何とか例年に近い数字は作れそうだが、
甘くないことは事実。  町内会の役員の人から聞いた話だが、新潟市内の町内連合会が、急激な売り上げの悪化に、駅再開発計画を
改めて説明会を開いて聞いたという。 今さらであるが。(10年遅れである) これに北陸新幹線開通という2014年問題がある。
新潟県にとって大打撃になるが、それを誰も真剣に考えない。20年前に既に新幹線を新潟空港まで延長、その沿線に環日本海都市としての
機能をコツコツと造っておくべきだったことすら、誰も気づいていない。 飛行場の直接乗り入れも大きい要素だが、
「日本海に東京駅直結の新幹線の乗り入れ」が良いのである。 僅か5〜10キロの延長で済むのにである。 
そこに新幹線駅沿線のサッカー場と野球場をつくり、野外スポーツなどのレジャー施設を長年かけて造るべきべきだったのである。 
更に夢のある高齢者向けの施設と、本格的な中国人街もである。金沢が関西と関東を後背に新日本海都市創りを始めるのは目にみえている。
 不況景色から少し話が逸れたが。
 ・・・・・・・・
2714, 大相撲が面白い! −2
2008年09月09日(火)
 せっかく、面白くなってきたところで、北の湖は辞任。三重の海の武蔵川が理事長に選ばれた。
そしてロシア人二人は解雇。 当然のことである。起訴猶予になった若の鵬を含めた三人をロシア政府は急遽帰国させるだろう。
  (以下、字数制限のためカット09年9月9日)
・・・・・・・・・・
2007年09月09日(日)
 2350.ベナレス・・・6
 2,ヒンドゥー教とは
ヒンドゥー教は紀元前一五〇〇年頃に西方からインド亜大陸に移住してきたアーリヤ人が
信仰していた祭祀中心の宗教を核にして、先住民のもつさまざまな民間信仰を融合して発展してきた。
それ故・この宗教には開祖が存在しないが、そのかわり『バガヴァッド・ギーター』(神の歌)など、
人びとを宗教的な道に導く数多くの聖典が編纂された。 ヒンドゥー教は基本的には多神教であるが、
それらのうち主要な神のどれもが最高神と考えられるという独特な神観念を持っている。
   (以下、字数制限のためカット09年9月9日)
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2006年09月09日(土)
1985, ハイデッガー
       (。^0^。)ノオッ*^○^*)ハ〜 ヨウ             
10年来、トイレに常に哲学書が置いてある。そして一年に一度位の間隔で、入れ替えをする。
そして、普段も必ず哲学書のいずれかは私の鞄か机の横にある。歳を重ねた経験の裏づけが哲学の言葉を噛み砕いて
くれるようになった。哲学的大問題の「死」に向き合わなくてはならない歳になったこともある・・・
「首切り役人の日記」とか、このHPの随想日記で辛辣に死について書いている。哲学にしても宗教にしても結局は、
 ー人間いかに生きるべきか? そして最後の最後は、いかに死ぬべきか?ー ということだ。 あと何があるのか?
 もし知っていたら教えて欲しいもの! 『面白がって死ぬことだ!』という黒鉄ヒロシの言葉位か、面白かったのは!
「ヒーヒー悲鳴を上げてジタバタしている最後の自分の姿をみるのが何で悲しいの? 
こんな面白いことが何で?」彼ならでの言葉だ。冷静に自分を見ていなくては笑えない!
ハイデッガーは、「その死を意識的に見ないようにして日常をすごしている我われの姿を、そのまま直視。 
見ないようにしている死が、我われにマトワリついていて、それが不安という漠然とした心理になっている」と看破している。
彼は不安とは現存在として最も根本的な気分であるとし、現存在は世界内存在として理由もなくこの世界に投げ出され、
そのつど、何らかの気分に規定されていると・・ 日常性の中に埋没されて生きている非本来的あり方から、
本来的自己を呼び覚ますきっかけとなるのが不安であると・・とりわけ「死」の可能性の前にしての不安において、
現存在としての根源的開示がはじめて生起する。我われはいつか死ななくてはならない。「この私」の死を誰も変わってはくれない。
その死を痛感する時、人は日常から引き離され、単純化し、自分自身と対面せざるを得ない。
その死を見つめることによって、その可能性に「先駆」することによって、初めて本来の自分を取り戻すことができる。
おのれの実存をたえず知覚させてくれる気分として「不安」を考察した。恐怖と不安は違う。恐怖は対象を持つが不安は対象を持たない。
ハイデッガーは「私は何が一体不安なのか?」という問いをする。「私が存在そのものが不安なのである。」という。
「私がある」こと自体が不安の発生現場で、私の存在は「無」の中に沈みこんでいくのである。それが不安の時である。 
不安は人間そのものの根源的な性格なのである。 彼は「人間は、日常性の中に存在の本来性を忘れている」という。
われに現存するのは「他人の死」のみである。「死、それはまだまだ自分の番ではない!」と思っているから、生きていけるのだろう。
私が死を度々とりあげるのは、その死を直視することで、生とは何か考えるためであり、現存している自分を見つめるためである。
夕陽をみて人は、その太陽を自分に投影する。 一日の死である。そして、朝陽をみる、今日の生誕を感じる。そ
して、その夕陽のように沈んでいく。しかし、夕陽のように沈んでいく死だけでないのが、人生の妙味であるから面白いのである。
                        (。^0^。)ノホンジャ、マタ!  あの世で! いや明日!
 そういえば、明日とあの世は似ている。あると言えば在るし、無いと言えばないし!
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2005年09月09日(金)
 1620, 「仮想と虚妄の時代」
月刊誌の文藝春秋5月号の石原慎太郎の「仮想と虚妄の時代」ー援助交際と純愛ー が、現在の日本の現状と病巣を書きあらわしていた。
(以下、字数制限のためカット2013年9月9日)
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2004年09月09日(木)
 1255, ダイエットに100万円賭ける ー2
   (以下、字数制限のためカット09年9月9日)

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