堀井On-Line



4558, 東京が、2020年の開催地に決定!

2013年09月08日(日)

 朝5時20分に、次次回のオリンピック開催地が発表された。その2時間前の3時に何時ものように目が醒めたので、
布団の中で瞑想モードに意識を持っていき、「私が神としたら、3都市の何処を選ぶだろうか?」と考えた。 
その結果は、イスタンブール。 5時からのTVの特別番組の選定会場で、まずマドリッドの落選。 
あとの残ったイスタンブールと東京の二者択一の中で、東京が決定された。 「そんなことをしている場合じゃないだろう!」が、
気持ちにあったが、いざ発表となると「東京」と願うのが人情。 以前から、「2020年の75歳が死に時」と思っていた。 
その年が、これで東京オリンピック開催の年になったのである。一回目は昭和39年、18歳の年。二日目は生きていれば75歳。
 現実は、世界も日本も2020年までは、大きな試練が山のように待ち構えている。福島第一原発の汚染処理、世界恐慌の対応、
国家財政の破綻、国境問題等々がある。
 トルコか日本?の二者択一というと、選ぶ方は、原発汚染への不安より、中東の政治的不安定と、欧州危機を考えると、
安全、安定面から、今回は極東の安定した都市の「東京」を選んだ。 これで、「2020」と「東京オリンピック」が、
キーワードとして浮上、国家としての明るい目標が出来た。オバマがシリア攻撃を示唆したのもトルコにとってマイナスになった。
タイミングをみていた? 日本のような島国では、一つ明確な目標があれば元気が出るが、大きな問題が残っている。
南海トラフ地震と、東京直下地震、富士山噴火の可能性である。 福島第一の汚染に目を向けさせたのは戦術としては良かった。
実際問題は、これらを考えると二つの都市の危険さと遜色はない。 国内の政治面では、予想される混乱の中で、国民の目を
オリンピックに向けさせることが出来る。今日を境に、大きく空気が変わるだろう。 今日は目出度い日になる!

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4183, 呪いの時代 ー3
2012年09月08日(土)
                      「呪いの時代」内田樹著
  * 記号の過剰化    ー第2章 「祝福」の言葉についてーより
 呪いは怒りや羨望、嫉妬などの要素が相まって内面に作りあげられた一種の記号と著者が指摘している。
しかし怒りの感情を言葉にし繰り返すうちに、その毒が己の脳を侵してしまう。鬱である。そこで医者から貰った
ハッピードラッグで目先、散らしている内はよいが、いつの間に、それが呪いの感情を更に強く苛んでいく。
呪文は記号のため、反復するうち、その人そのものになってしまい、自滅の道をひた走ることになる。
 次の箇所は、悲劇と喜劇の境い目としてみると、うなずける。
≪ なぜ、このようなニヒリズムが社会を覆うようになったのか。それについて考えてみようと思います。
 僕はそれを「記号の過剰」あるいは「過記号化」という枠組みで説明できるのではないかと思っています。
「呪い」は、その本質からして、記号的なものです。藁人形に五寸釘を打ち込む「丑の刻参 り」という古典的な呪いの
儀式がありますが、これ自体、きわめて記号的な行為です。生身の人間の心臓にではなく、代替物の藁人形に五寸釘を
打ち込むわけですから。メタファーとして行われる殺人が生身の人間の生き死にに影響を与えるという信憑が共有されて
いないとこの種の類感呪術は有効性を持ちません。つまり、藁人形が生身の人聞でないように、殺意や嫉妬、羨望や憎悪も
記号化されない限り呪いとして機能しない。忘れられやすいことですが、呪いが機能するのは、それが記号的に媒介された
抽象物だからです。具体的、個別的、一回的な呪いというようなものは存在しません。あらゆる呪いは、抽象的で、
一般的で、反復的です。それが記号的ということです。
 なまの現実が記号化されて、「情報」になるプロセスを「情報化」と呼びます。情報とは「なまもの」が加工され、
分類され、ラベリングされ、パッケージされたもののことです。「高度情報化社会」とは情報だけが行き交い、
「なまもの」に触る機会が失われた社会のことです。生きた動物が殺され、皮を剥がれ、血を抜かれれ、骨が切り離されて、
細切れになってパッケージされるという工程については誰も考えず、清潔な商品だけが売り買いされている。
 医療でも過情報化の問題は深刻なものです。当今の医師たちは、なまものとしての身体ではなく、「記号としての身体」
を診療している。『医療崩壊』の著者である小松秀樹さんが指摘されていましたが、今の診療室では、机上のパソコンの
ディスプレィに患者のカルテや検査数値が表示されます。患者が診察室に入ってくると、医師は患者を診るより先に、
まずディスプレイに表示されたさまざまの数値を見る。うっかりすると診療時間のうち、患者の顔を見ている時間よりも
ディスプレイを見ている時間の方が長いのです。 ≫
 ▼ TVのワイドショーは情報を提供するところ、情報化は「なまもの」とは違うため、それを扱う解説者は、
  記号としての言葉にして発信するするため、呪詛的な言葉になっていく。それを受け止める視聴者は、いつの間に、
  呪いとして、なまものを呪ってしまう。これが端的に出のが政治であり、政治家は手軽な呪いの対象になる。
  だから、島国日本の首相は、一年しかもたないのは、何ら不思議ではない。そして、その行き先は? 
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3818, 哲学人 ー�
2011年09月08日(木)                     
  * 精神と肉体ー 二元論       ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 
 ー まずは二元論についてのデカルトの誤りを、ライルが指摘している部分からー
【 ライルは二元論について『心の概念』で、私たちの誤用に的を絞って書いている。ライルの攻撃対象はデカルトである。・・・
二元論の生みの親をデカルトと特定したが、実際には二元論、もしくはそれに似たものは、原始時代から人間についての通説となっていた。
常にと言っていいほど、人は自分を、肉体と、肉体に宿る非肉体的な要素から出来ているとみなしてきた。そして常に時代によって霊、魂、
心と様々な呼ばれ方をしてきた、この非肉体的要素を、ある程度独立した存在として、また、そうなる可能性があると見てきたと言っていい。 
  私がかつて、この事実を挙げて異議を申し立てると、ライルはこう答えた。
「この間違いを最初に犯したのがデカルトだと思っている人はいないでしょう。要はデカルトがこの考え方をとても明確に打ち出したので、
デカルトの時代以降、これが教義もしくは定説なったということです。シェイクスピアも聖書も言っていませんが、デカルトは実際に
こう言いました。『私の心はひとつの実体であり、私の身体はそれとは別の実体である』と、それが事実であるかのような言い方なら、
それまでもされたことはありました。が、デカルトは確かに事実であると言ったのです」
 実を言うと私はそうは思わないのだが、それはさておき、精神という実体などないのだから二元論は誤りというのがライルの主旨。
  その著書で述べられている詳細な分析をもとに、ライルはこう書ている。 
 ≪ われわれ人間が行なっているのは、自分の行動と経験のある部分を精神的なものとして分類し、その他の部分とは異なる、
主体に帰属させること、そしてその主体を精神として物象化することである。 精神に関連する概念の使用法を入念に調査すれば、
そのようなことをする正当な理由はないということがわかり、さらには人間は単一の存在であり、行動と経験のただひとつの主体で、
アイデンティティも歴史もひとつしかないことが明かになる。 われわれはふたつの実体が神秘的に結びついたものではない。
これまでわれわれは、「カテゴリー錯誤」(ライルが哲学の世界に広く普及させた用語)を犯してきた。われわれは精神という概念を
一種類のものを意味するとみなしているが、実際は多種多様なものを意味している。 精神とは、独立して存在する実体であって、
なんらかのことをして経験をもつものと考えているが、通常はさまざまな行動形式のうちのいくつか(行為、気分、経験など)を総括する
言葉にすぎず、またこうした行動様式はどれも、正しくはひとつの主体に帰属させるべきなのだ。このカテゴリー錯誤がもととなって、
われわれが自分自身を想定する上で、そして考えたり語ったりする上で数多くの誤りが生まれている。これは哲学的誤謬の好例であり、
我われの思考の広大な領域はこの誤謬に犯されている。≫
 ライルの本は、いかにして言語分析派がこうした問題を解決するかを示す範例である。 P・106  】
▼ 「肉体が消滅した後、私(精神)はどうなるのだろう」という疑問そのものが、二元論である。
  デカルトが言わなくとも、大昔から天国か地獄に召されると言われている。肉体と精神と、あらためてデカルトが述べただけ。
  肉体が無くなれば、当然、精神とやらも消滅するのは、当たり前である。精神を指している一つに『言葉』がある。
 「生きているときに発した言葉。それは現在でも生きている」というが、それは、生前に発した言葉。死んだ後に、言葉は発せられない。
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3453,, ニューカレドニアの休暇 −3
 2010年09月08日(水)
 夕飯でいったフランス料理、ベトナム料理、中華料理が、それぞれ美味しい。フランス領のためだろう。
特に天使の贈りものといわれる「海老」が美味い。 ベトナム料理、中華料理は日本的味付け。
それより新鮮な貝魚がふんだんに入っているからである。値段も、日本の居酒屋に少しプラスした程度である。
 ところで、オプションツアーで行った「天国にもっとも近い島」のニックネームで親しまれているイル・デ・バン島が良かった。
日本では、その称号は森村桂の著『天国にいちばん近い島』から、ロワイヨテ諸島のウベア島がそう呼ばれているが、実際はここ。 
数多くの種類の熱帯魚や珊瑚礁を、透明度の高い海水の中に見ることができた。この島は南北15キロ、東西13キロの大きさで、
島人口は約2,000人である。 珠玉のような島で、ニューカレドニアで是非とも行ってみたかったところ。
双発のプロペラ機で首都ヌメアから30分ほどのところにある。 行く先々の小さな湾の海岸線と海と空が美しい。
いまだ観光づれしてないハワイと考えればよい。ここに宿泊するツアーもあるが、値段は非常に高くなる。
 ニューカレドニアは日本人に特に好まれているようで、親しみやすい。 中国、韓国人の姿は、ここで一人も見かけなかった。
まずはハワイ、東京、欧州、オーストラリアなのだろう。この島を通して、日本の現状を現地のポリネシア人を通してみてしまう。
小さな島国で、フランスの占領に甘んじているが、日本も同じ被占領国。ドルとアメリカ国債という紙切れと小麦・大豆と、
汗水たらして作った商品と交換。 その紙切れは、20年〜30年単位で価値を数分の一に一方的に下げさせられている。
アメリカ、オーストラリアも、欧州人が現地人を虐殺して建国したところ。 現在も、その構図は同じである。
 マスコミを背後で操り、教育システムで骨抜きにし、官僚を洗脳、コントロールすることで、間接占領をしている。
フランス領の観光地で、気楽に避暑。それだけで、深く考えることもないが・・・・
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3078,富豪と金の使い道
 2009年09月08日(火)
 一昨日の日経新聞の最後の紙面(「私の履歴書」の隣コーナー)に「富豪と世捨て」というテーマで、
作家で法大教授の島田雅彦が書いていた。昔の富豪の身の処し方と使い方で、西行や千利休などを取上げていた。
井原西鶴の作品の中の‘世之介’は、現在では500億円位の資産で、生涯をかけて色事に追求し、
花魁を次々に身請けをしたが、それでも使い切ることが出来なかった。
 また日本人の昔の粋な生き方として、世捨てを紹介している。死を前にして身軽になることが含意されているが、
不祥事で失脚した時のリセットで、政治家などが清貧を気取る場合がある。その辺が人間の面白さである。
富豪は、その富のために悩みが多いが、人のためにそれを使うのが、一番の悩みを消す効果があるとする。
資本主義の覇者は資本主義によって滅びた物を復活させて、その罪を償う義務がある。失われた神仏を買い戻し、
廃れた神社仏閣を復活させたことなどである。 それが「歴史からの使命」と結論づける。 何代か続いてきた金持ちは、
その使い道さえ無頓着で淡々としている人が多い。金を使っての快楽など知れたもの? 金を気にしないで済む生活こそ豊かさ。 
で、金を気にしないで済む生活は、幾らか。 そう考えると、人様々である。 平均すると、家一軒があって、蓄えが一人あたり1000万で、
夫婦で年間収入400万ぐらい?  ところで、直接、両親の生き方をみてきて、合理的散在?を学んだ。
定額を見定めて、平均して使うことである。 持って彼岸にはいけないことを世間を見て得た知恵である。 
所詮は、蓄財は不安の裏返しの行為でしかない。 私の親戚に「清貧を自認した生きかた」をした人がいた。 
90歳後半で亡くなった時には、3千万近くの蓄財があった。その人の収入からみたら奇跡的ですらある。 
もし、年間300万を65〜75歳の10年間を使っていたら、面白かっただろうに思うのだが。 
私は、それを40〜50歳代後半の二十年間で使ったから、わかる。 といって、年間、150万なら散在ではない?
貯めるのも難しいが、それを後悔しないで散在するのは、もっと難しい。貯めるは努力、使うは芸術というが。 
 ところで、100億を10年で浪費で必ず使うことを約束して神様から貰ったと仮定して考えると面白い。
浪費というところがポイントだが、50億の船を買って世界中をまわったとして、年間5億×10年=50億のコストとみると、
大したことではない。 それなら世界の豪華クルージングの最高級クラスの部屋でサービスを受けた方が良いか? まあ、それも2〜3年。 
でも、面白そうだ。しかし「それが如何した」という内なる声も湧く。 そうこう考えると、一日を真剣に遊ぶ能力こそ重要ということか。
問題が山積みの中、ストレス解消のために遊びに使う散在こそ、価値があるということ?
しかし、富豪はそれを超えた世界があるのだろう。 経験しないものには分からないだけ?
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2008年09月08日(月)
 2713, コピペ
 先週のNHKの「クローズアップ日本」で、コピペを取り上げていた。「コピペ」とは
パソコンのコピーと、ペースト(貼り付け)の略語である。 なかなか考えさせられる内容であった。
  ーまずはNHKの番組紹介を、コピペしてみよう。
 * コピペ 〜 「ネットの知」とどう向き合うか〜
インターネットで見つけた文章をコピー&ペーストして、自分の文章にしてしまう"コピペ"。
ある大学では提出されたレポートの半数近くがコピペで作成されていたという事実が明らかになった。
夏休みには小中学生向けに開設された「コピペで書ける読書感想文」のサイトがアクセス数を伸ばし、
大人の世界でも、役所が募集したパブリックコメントに大量のコピペの「組織票」が提出されるなど、
コピペは今、社会全体に広がりつつある。 「コピペは人間の考える力を弱める」と批判の声が上がる一方、
「新たな知の技法」として肯定的に捉えるべきだとの意見もある中、私たちはネット上に広がる膨大な情報と
どう向き合っていくべきか考える。 (NO.2623) スタジオゲスト : 茂木 健一郎さん (脳科学者)
 〜〜
以上が概要だが、コピーと、貼り付けは、デジタル社会では当たり前になっている。
私も、随想日記で書くネタがないときは、キーワードの検索で情報を集め、要点をコピーして、張りあわせもする。
そのプロセスで思い浮かんだことを書き込み文章の体裁を作り上げることもある。
学生時代のゼミの論文も振り返ってみれば、彼方此方の本から抜書きをしたものを繋ぎあわせたものだった。
 それだけで精一杯だった。随想日記を毎日書く目的は、自分の日々の情報を第三者に公開することで、
まとめ上げることだから、それでよい。せっかくだから、自分の脳を通して情報を濾過して公開をするようにしている。
そうしないと、何年後に自分の文章を振り返って読んでも面白くない。最大の読み手は明日(将来)の自分である。
自分の情念と苦労が見て取れる内容にしないと、後年に字数の関係でカッの対称になる。
実際に、毎日、(字数の制限がレポート用紙15枚分しかなく)カットしているが、自分を切り裂くようつらい。 
それだけ、汗水を流しているのである。 この番組で、コピペの反対派と、賛成派が出てきて話していた。
賛成派の野口悠紀雄は、情報化の時代に、どんどんコピペをして、そのプロセスで考えればよい。
時間節約になるし、効率よく情報を吸収すべき、という。反対派の人は、自分で考えることを放棄している。 
自分でジックリと考えることで、情報は身に付く。安易に情報を集め、張り合わせるのは、いかがか?という。 
両方とも分かるが、それぞれの人によるだろう。私は野口悠紀雄の説で、どんどん情報を吸収すべきである派である。
使い分けをすればよい。ネット上の日記のほかにもアナログの日記帳も書いている。自分の手で字を書くことも重要である。
これはコピペではないが、結構、レシートとか貼り付けている。
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2007年09月08日(土)
 2349.ベナレス・・・5
 ー多様なるインド世界ー
インドは日本のおよそ九倍にあたる三二九万平方キロメートルの面積を持つ。
これは西ヨーロッパの面積にほぽ等しい広さである。そこに現在十億を超す人びとが暮らしている。
多言藷・多民族の国家であることは言うを待たないが、宗教もまた多様である。
古代から育まれてきたヒンドウー教のほかに、仏教やジャイナ教が紀元前五世紀頃に相次いで生まれた。
(字数の関係でカット 13年9月08日)  
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2006年09月08日(金)
 1984, バイアグラ        おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・ ねむ              
     (字数の関係でカット 11年9月08日)      
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2005年09月08日(木)
 1619, 閑話小題
ー書くとはー
ー電波歯ブラシー
  (字数の関係でカット 09年9月08日


4557, グレートジャーニーから見えてきたことは ?  ー2

2013年09月07日(土)

     * 携帯電話が、世界を変えている     「新潮45ー6月号」 ーたけしvs・関野吉晴の対談ーより
 旅番組などで、ケニアなどの僻地でマサイなどが携帯電話をしているのを見かけて驚いたことが何度かあった。 
携帯電話の電波環境が出来ているためだが、さほどインフラに資金がかからないのだろう。考えてみれば、僻地ほど
濃密な繋がりと日々の生活情報が必要である。苦労して僻地についた先で、携帯電話をしている姿を見たらガックとするはず。
 ーその辺りが具体的に書かれているー
【 たけし〕 ところで、そういう極限の地域で暮らしている人たちの生活って、今も昔と変わっていないものなんですか。
 関野〕昔は自分たちが食べていくために自給的生活とか狩猟採集で暮らしていた人々が、換金可能な作物を作っている。
  現金収入を得ないと生活ができなくなっている。特に最近はグローバリゼーションがアマゾン、シペリア、アフリカとか、
  どこまでも進行しています。特にすごいのは携帯電話ですね。携帯で全てが変わります。
たけし〕 それはどういう意味でですか。
関野〕 携帯電話は世界を変えていますよ。アマゾンには、僕が四十年前からつき合っている先住民の部族がいます。
 最初会った時は、大人たちは腰巻きだけつけて、子どもは素っ裸でした。そんな村でも三十年ぐらい前に学校ができたんです。
 それは小学佼しかないから、中学校に行くようになると町の寄宿舎に人る。高校生にもなると、みんな携帯を持っています。
 村に帰ってくると電波は通ってませんが、携帯でダウンロードした音楽は聴ける。
 そうなると、若者は伝統音楽ではなく、ロックを携帯で聴くようになる。文明人に近いほうがステータスが高いと思うと
 伝統音楽に目を向けなくなって、どんどん文化が変わっていく。アマゾンの奥地でさえそうなるのですよ。」
たけし〕 あっという間の変化ですね。
関野〕 ここ数年、フィリピン、マレーシア、インドネシアの海域で淘賊がいっばい出るところがあるんですけど、
 そこにパジョという家船生活をしている漁民がいるんです。
たけし〕 確か百万人ぐらいいるとか。
関野〕それは海岸縁に杭を打ち込んで家屋をつくって住んでいる人たちも含めての数字です。わずかに家船で陸に家を持たない
 人たちがいて、その人たちのところに僕は「泊めてください」と言って、一緒に暮らしていた。ちょうど僕が訪ねた頃に
 彼らの生活にも携帯電話が入ってきたんです。
たけし〕 2004年から、日本人の祖先が日本列島に到達するルートを辿る「新グレートジャーニー」(〜2011年)を
 始めていますが、それに挑戦していた時のことですね。
関野〕 はい。南方から船で海上を渡ってきた日本人の祖先のルートを辿ろうとしたんです。風の関係で航海で暫なくなると、
 パジョの人たちのところに通っていました。彼らにとっても携帯はすごい役に立っている。 家船が十数隻あって、夜は
 集まってくるんですが、昼間は別々に魚を穫りに行ったりして行動している。その時に、海賊がいるかいないか、
 携帯があれば安全かどうか確認できたりするわけです。
たけし〕 海の上で電波が届くわけですか。
関野〕 沿岸から五キロまではアンテナがあれば届きます。
たけし〕海の漂流民がそうならば、砂漠のペドウィンはどうなんだろうね。】
 ▼ これは、僻地だけでない。都会の社会的弱者にも携帯が普及。弱者が結びつけば、強者に変身する。中国など多くの
  社会的矛盾を抱えた国家は、ある日突然、この矛盾への暴発が起こることになる。そこにパソコン機能が入った
  スマートフォンの普及は、世界を根底から変えようとしている。貧富の格差は、情報の格差から生じるが、それが
  均質化されていくとしたら、格差は一部を除いて是正されていく。ただし、それは世界平準に近づくため、G8は、
  G20の国々の平均値に、G20は、世界200ヶ国の平均レベルになっていく。日本にとって、それは貧乏への茨道!
・・・・・・・
4182, 呪いの時代 ー2
2012年09月07日(金)
          「呪いの時代」内田樹著
 呪いに対する言葉は祝福である。含めて世の中が右上がりの時は、何事もハッピー。しかし、世の中全体が右下がりになり、
暗い世相の中では一部の勝ち組を傍で祝福する人は少ない。羨望と嫉妬が、そこに生じてくる。特にこの情報化で、そのの事態が
生で伝わるから、呪いが社会全体を覆ってくる。その中でハッピーにいるには、「にもかかわらず祝う」しかない。
現に生きている、そのことを祝う諦念である。最後は生きている感謝しかないのである。今さら世を呪っても致し方がない。
  * 「このようなもの」でしかない自己の承認   ー 第2章 「祝福」の言葉について ーより
≪ 「生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりパッとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体として
あくまで維持することです。「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け入れ、承認し、けなげに
生きている姿を可憐と思い、一掬の涙をそそぐこと。それが「祝福する」ということの本義だと思います。呪いを解除する方法は
祝福しかありません。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け容れ、自分をだきしめ、自分を愛すること。多くの人が
誤解していることですが、私たちの時代にこれほど攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が「自分をあまりに愛している」からでは
ありません。逆です。自分を愛することがどういうことかを忘れてしまったせいです。私たちはまず「自分を愛する」というのが
どういうことかを思い出すことから、もう一度始めるしかないと思います。≫
 ▼ 第二次大戦後、経済成長という僥倖に恵まれ「自由」が容易く転がり込んで来て、安手の「近代」を掴んでしまった。
 しかし、それが崩壊する中で、「全て他人が悪い、自分は悪くない」という他責的で未成熟な言説がメディアにより拡がった。
豊かさが急速に萎み、大多数がプアーになりつつある中、呪いの時代に思われるほど、惨めな社会になってきた。
「このようなものでしかない」自分を受け入れず、承認せず、祝福せず、自分探しという自分でない突っかい棒を求めて
彷徨っている社会。 わが国は平城平安の時代から呪いを基軸にして変転してきた。ここで急に「呪いの時代」がキーワードに
なったのではない。呪いがあればこそ古事記、日本書紀、源氏物語、平家物語、太平記、法隆寺、北野天満宮も正史に登場しなかった。
日本の文化文明の本源は、この呪いにある。だから一時でもよいから祝うしかない。お祭りは、そのためにあったといえる。
社会に出てからの読書習慣がなかったら、現在、世を呪い、過去を後悔し、人生そのものを否定しているはず。 娑婆娑婆!
 ・・・・・・
3817, 松下政経塾の野田が首相に
2011年09月07日(水)
   まずは松下政経とは何か? −知恵蔵2011ーによると
【 松下電器産業(パナソニック)の創業者・松下幸之助が、1979年に約70億円の私財を投じ、政治家育成塾として設立した財団法人。
神奈川県茅ヶ崎市の6千353坪の敷地には、寮棟・食堂・体育館の他、茶室やテニスコートも付設されている。入塾の応募資格は22〜35歳。
全寮制で3年間の研修を原則としているが、期間中に選挙に出馬することは半ば容認。ただし、最低2年間を修了しないと退塾扱いになる。
授業料などの費用はゼロで、逆に研修資金・活動資金が提供される。研修は、人間学・哲学・近代政治学などの講座と茶道・書道・剣道
などによる精神修練が中心。また、現地現場主義の下、自治体訪問、松下関連工場での実地作業、自衛隊体験入隊といったカリキュラムも
用意されている。過去30年間の卒塾生は237人で、このうち69人が政治家の道を歩んでいる。開塾後の10年間で当選した国会議員は、
1期生の逢沢一郎(自民党)だけだったが、新党ブームが吹き荒れた93年の衆議院選挙で、一気に15名の当選を果たした。
政経塾出身議員の評価は分かれるが、世襲議員が増える中、選挙に必要な3バン「地盤(地元支援組織)・看板(知名度)・カバン(資金)」
を持たない若者に政治家への道を開いている点で、政経塾の存在は評価されている。 現職の松下政経塾出身の国会議員は、
衆議院議員が27名、参議院議員が3名。*自民党では前述の逢沢一郎の他、元金融担当大臣の伊藤達也(5期生)、高市早苗(5期生)ら、
*民主党では元代表の前原誠司(8期生)や野田佳彦(1期生)、原口一博(4期生)ら、次代のリーダー候補が名を連ねる。
この他、神奈川県知事の松沢成文や横浜市長の中田宏など、自治体の長も輩出している(2009年7月時点)。 】
▼ 現在の日本に丁度良さそうな人物が、首相に選出された。それも、松下幸之助が憂国にかられ、つくりあげた人材育成機関出身。
 存在そのものは知っていたが、まさか34名も国会議員になっていたとは驚き。巷では、「人工栽培の頭でっかちのエリートの
 育成機関と」批判的だが、それでも公明党に次ぐ出身母体になっている。どうも、二、三代目が目に付く中で、 こういう機関も必要?
 卒塾生の43パーセントが、政治の道を歩いているという。 政治家は、一国を未来に導く仕事。
 「クールな頭脳と、暖かい心」を必要とする。それを3年か、4年の期間でベースをつくり上げることが良いことかどうか?
 二代目政治家と、どちらが良いというと考えてしまう。 やはり二代目より、まだましレベルか。現在議員は、貴族院化している。
 ・・・・・・・
3452, ニューカレドニアの休暇 −2
2010年09月07日(火)
 * ホェール・ウォッチング 
 オプション・ツアーの「ホェール・ウォッチング」に参加してみた。 家内はヨットに12時間も無理ということで、私一人の参加。 
20人乗りの2Fのヨット(1Fにトイレとベッド)に、日本人が私の他に中年ペアー。 他は白人系が15人を加えた18人。もう少し大きな
ヨットのつもりだったが意外と小さい。外海に出たと同時に、船は二メートルの波で大ゆれ。 案の定、気分が悪くなってきたが後の祭り。 
乗員も分っていて海水を入れたのを持ってきて、「あげろ!」という。そして胃を空にした。その直後に睡魔が襲ってくる。
ロビーの椅子に座ったまま二時間ほど寝たら気分は元に戻る。 船酔いを心配していたが、その時はその時と覚悟はしていたが、
何とかなるものである。そうこうして鯨の出産場に三時間後に到着。そこを40分ほどかけて通過している間に、5分位の間隔で、
鯨が空気を吸うために海面に出てくる姿をウォッチングすることができた。そこでテレビの撮影を過って見たことを思い出した。 
今回は10匹近く見ることができた。 鯨は、まず潮を噴き上げるので見逃すことはないが、潮を吹いて7〜8秒しか浮いてないので、
目を凝らしてないと見逃してしまう。 海も天気で大きく左右するが、天候に恵まれたこともあり今回のウォッチングは大当たり。
 また12時間も小型ヨットに乗船するのもワイルドな感覚で、南太平洋を堪能することができた。甲板から海に向かって足を突き出して
座って海を眺めボットするのも、気分は爽快である。また10秒ぐらいだったがイルカが二頭、ボートと同じスピードで泳いでいったのも印象的。
 さらに帰港前の20分ほど、タイミングよくサンセットにゆきあったが、南太平洋に浮かぶヨットと、赤い色合いのマッチが印象に残った。
一期一会、迷ったら直感を信じ躊躇をしないことだ。
・・・・・・・
3077,SCが工期半年で完成とは、驚き
 2009年09月07日(月)
 長岡の自宅から500m先に、オープンモールの25店舗のSCが9月1日に着工、来年の3月8日にオープンと
現場の立て看板にあった。 それにしても半年とは驚いた。これから冬場の中で駐車場も含めてである。 
新造成地の更地で全てが平屋だから可能なのだろう。突貫工事になるのだろうが、見ものである。先月、近くで説明会があった。 
折込の通知によると、大和ハウスの総合企画で、三菱東京銀行系が資金調達とあった。 住宅地も数ヶ所売り出されているが、
坪27〜8万円、少し高いが環境からして悪くはない。 場所は長岡駅裏から直線道路一キロほど、自宅からは5分の場所。 
自宅の100m先にSCがある上に、長岡駅(12分)には一万坪の専門店街があるので生活環境は、ますます良くなる。
 そのSCから車で数分(一キロ)のところに家具のニトリ、家電のジョウシン、ホームセンターのコメリ、ディスカウント、
紳士服のアオキなど20店舗近い川崎のオープンモールのSCがある。店舗構成をみるとバッテングをさけて補完してあるのが分かる。 
店舗が重なるのは、原信と、蔦や。業種では中古ショップである。 二つのSCを買い回ると丁度良い店舗構成になっている。
 これまでは長岡の信濃川の向こうに比べて、川崎のSCだけでは、魅力が薄かったが、この二つを合わせて対抗拠点として、
周辺に店舗が自然発生的に出来ていく過程をみることになる。 長岡駅中専門店街は、年々、弱体化していくが、
駅前再開発も含めて大きく一変する。これも見もの。間違いなく大きく縮小していく市場の中で、再開発だけは止まらない。 
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2712, 大相撲が面白い!
2008年09月07日(日)
 若貴あたりから違う面で大相撲が面白くなってきている。マスコミを巻き込んで、北朝鮮のような瀬戸際のブラックジョーク的な
展開を示してきた。グローバルの流れと、人材不足をカバーするため、いち早く外国人に開放をした。 しかし国技とかいうが、
法的に全く根拠の無い曖昧な協会が実態だが、税金を払わない宗教法人と同じような扱いを受けている。相撲部屋はヤクザ世界に酷似、
縄ばり社会が寄り合っているだけ。部屋がそれぞれボクシングジムのように独立し、それが集まって大相撲協会をつくっている。 
だから,北の湖が言い訳をするのも一理ある。ボクシング協会が、個々の選手の薬物まで責任はないのと同じである。そんなことは、
どうでもよいが。 今回の土俵外の物語は、ロシアの三人の麻薬事件である。一月前までは、朝青龍を中心としたモンゴル人が
トラブルメーカーだった。それが一転してロシアの(麻薬)文化?への話題が移ってしまった。朝青龍かたなしである。
今回の物語は北の湖理事長の辞任のプロセスである。今回は、もう無理だろう?しかし・・
 昨日のニュースでは、期待をしていたとおり相撲協会が尿をすりかえたり、自民党の??あたりが天皇家への尻尾振りで、
政治的な圧力をかけてくるか、などなど漫画的な動きである。しかし、幾ら程度が低い彼らも、世界的にも注目を浴びているので、
腰が引けたのだろう。 日本のマスコミのロシア人兄弟に対する質問が甘い!「ロシア国家に対する代表として、宣誓できますか」
の質問をすればよい。もし、「もちろん、します!」と答えたら、帰国をして数ヶ月以内に行方不明になるだろう。
大相撲を国技としている限り、今後、中国、モンゴル、ロシア、東欧の国家戦略として日本バッシング戦略的対象になる。  
大相撲協会は、あまりに、軽く甘い。 私が敵対国の政治家なら、対日の攻撃対象にする。 
自国の強い力士に女とか薬を与え、マスコミに騒ぎ立てるか、日本の力士を徹底的に怪我をさせるようにもって行く。
それかモンゴルのように、三役力士を自国の力士で占有する。 その意味で、外国人に開放をしたと同時に、
旧来の国技という名を返上すればよかった。せめて日本の相撲のルーツのあるモンゴルと朝鮮だけに限定すべきだったろう。
それともモンゴリアンだけに。 しかし、現実は現実である。 国技とかいう名を返上、払うべき税金は払い、
横綱審議会など解散することだ。 天皇家も閲覧席などに座らないで、しかるべき警備をして一般席に座るべきだ。
 こういう不祥事も、人気取りの前座と考え、割り切っているのもよい。あくまで、格闘技の見世物でしかないのだから。
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2007年09月07日(金)
 2348.ベナレス・・・4
この街では私たちの世界と価値観が逆転しているとさえ感じられる。そしてその不思議さは、私たちが生きる社会への、
痛烈な批判なのかもしれない。朝夕、スワループさんの僧院では神への祈りがささげられる。
そこには路地に暮らす数多くの人が参加し、スワループさんが唱える経典の言葉を聞き、その後に繰り返し唱える。
集まってくる人びとの中には、たくさんの子供たちの姿もあった。かつてスワループさんがそうであったように、
聖地ベナレスに受け継がれてきた伝統が、また次の時代へと伝えられて行くことを感じさせる光景であった。
街が人を生み出し、人が街の営みを支えて行く。こうしてペナレスは聖地としての歴史を刻んできたのである。
(以下、字数の関係でカット、11年09月07日)
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2006年09月07日(木)
 1983, 閑話小題    Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning
  ーウォーキングの道でー
(以下、字数の関係でカット、11年09月07日)      
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2005年09月07日(水)
 1618, 楽しく生きるー3
「楽しく生きる」にも、色いろある。「ドラックをやって、目先の快楽を追い求めて人生をボロボロにしてしまっても」と、
 いう意味で言っているのではない。目先の楽しみだけを求めると、長期的に問題がでる。何ごともバランスである。
(以下、字数の関係でカット、13年09月07日)
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2004年09月07日(火)
 1253, 死について再び考える
過去に死について多く書いてきたが、五十嵐恭一さんの死で改めて死について考えてみる。
     (字数の関係でカット08年09月07日)
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2003年09月07日(日)
 886, 「ありがとうの言葉」ー8


4556, グレートジャーニーから見えてきたことは ? ー1

2013年09月06日(金)

              月刊誌「新潮45ー6月号」 ーたけしvs・関野吉晴の対談ーより
   * 追われ追われて南米最南端
 冒険家が人類の移動の跡を辿って見えてきたのは、「人類の弱者が、より悪い環境の地に追い込まれて、その繰り返しの
究極の地が南米最南端パタゴニアであった」ということ。アフリカから追われ、その移動先で落ち着くと、その中の弱者は
また弾き出される。その積み重ねが、アフリカから南米の最南端までの人類の軌跡であった。その過程で生き延びる知恵こそ、
弱者の知恵になる。しかし、その過程で彼らは進化したかというと、そうではない。北アフリカと欧州に留まり闘い続けた人間が、
文明の基礎を作りあげていった。逆に、エスキモーとか、南米インディアンは、逃げることで、生き延びていった。
弱者には逃げるしかない。 この切り口で人類の歴史を鳥瞰してみると面白い! 僻地の人間は、そのためか優しい。
  ーその辺りから抜粋ー
《 たけし〕しかし、六万年前に人類がアフリカから移動していって、世界中に広がったルートを逆に辿る発想は面白いけど、
 ずいぶん無茶なことをしましたね(笑)。
関野〕 確かに逆ルートは無理があります。やっぱり人類は逆ルートでは移動しないことが、やってみると分かります。
 全部、逆風なんですよ。例えばべーリング海峡を渡るときに、風速五メートルから十メートルのいい風というのは西から吹く。
 僕はアラスカからシベリアに行くわけですから、東風が欲しい。しかし、東風は風速十五メートル以上になることが多い。  
たけし〕どうしてアフリカで生まれた人類が全世界に移動したと言われているんですか?
関野〕研究者によって意見が違っていて、僕は最初、「あの山を越えたら何かあるんだろうか」という好奇心、あるいは
 「あの山を越えたらもっと獲物がいて、いい暮らしが出来るんじゃないか」という向上心で心で動いていたと思っていました。
 もしそういう好奇心とか向上心とか、いわゆる進取の気性に富んでいたなら、一番遠くまで行った人たちの末裔のはずです。
たけし〕そういうことになります。
関野〕ところが行ってみたら逆でした。南米最先端に行った人は一番弱い人なんです。そこでは狩猟生活もできない。
 ホタテとかカニをとって生活をせざるを得ないんです。どうしてそんなところに移住してきたのだろうと考えてみると、
 弱いからじゃないか。例えば、あるところが住みよいとなれば人ロが増えていきますよね。
たけし〕 そうなると誰かがふき飛ばされる人が出てくる。
関野〕ええ、誰が出ていくかが問題になる。強い人出ていきません。そこで、はじき出された人がフロンテアに行くわけです。
 滅びてしまう人も多いと思いますが、そこでバイオニアになれた人が生き残れる。創意工夫を働かせて適応した人が「住めば都」
 に変えてしまう。そこでも人口が増えると、また弾き出される人たらが出てくる。だから、日本は弱い人の吹だまりだと思う。
 それ以上、東に行けないわけですから。
たけし〕日本人がもともと弱い人間の吹だまりだというのは面白いね。
関野〕それはイギリスも同じですね。もっと西に行けない。ところが、いいか悪いかけ別にして、日本はアジアを制圧しようとしたし、
 イギリスは世界を制覇しようとした。だから、もともと弱いといって、いつまでも弱いわけしでない。弱いから逆にいろんな知恵を
 使うわけです。もともと人類はその誕生のときから、弱いから知恵を使って生きてきた。 》
▼ 強みは、弱者の苦労から湧き出る知恵から生まれる。決して野心を持って挑んだ訳ではない。弱者の知恵こそ、力になる。 
 弾き出した方はといえば、変化適応能力が無くなり弱者になっていく。何処かの国か、地域そのもの。脱皮できない蛇は死ぬ。
・・・・・・
4181, 呪いの時代 ー1
2012年09月06日(木)
                     「呪いの時代」内田樹著
 なかなか時代の特質を捉えた面白い本である。バブルと、バブル崩壊を経た後、日本は20年以上も下降曲線をたどっている。
経済大国と言われたのも遠い過去になりつつある中、人々は、その環境の中で互いに呪い、怒りをぶつけあっている。
そして中流社会が崩壊を始め、総下流化社会になりつつある。そこでは互いに呪い、一部勝ち組を呪う時代になっている。
呪いは人間としての悪い意志、否定的な情動であるが、その核心部分には他者の全面否定と破壊と殺意が内蔵されている。
自己崩壊は他者への憎悪となり自他とも傷つけるだけでない、未来へ希望と友愛を損傷する。「呪いの時代」は、言い得て妙である。
  * まずは、第一章 呪いの時代より
≪「呪い」は今や僕たちの社会で批評的な言葉づかいをするときの公用語になりつつあります。「弱者」たちは救済を求めて呪いの
 言葉を吐き、「被害者」たちは償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義の人」たちは公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。
けれども、彼らはそれらの言葉が他者のみならず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまりに無自覚のように
思われます。20年ほど前、まだ僕が学会というところに顔を出していた頃までは、学会発表後の質疑応答で、「あなたは…の論文を
読んでいないのではないか」とか「周知の…についての言及がないのはなぜか」といった、「そこで論じられていないこと」を
持ち出して、「こんなことも知らない人間に、この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る学者が沢山いました。
僕はそういう「突っ込み」を見るたびに、どうして彼らは「自分の知っている情報」の価値を高く格付けする一方、
「自分の知らない情報」が知るに値しないものだとあれほど無邪気に信じていられるのか、その理由がよくわかりませんでした。
僕たちは誰でも自分の知っていることの価値を過大評価し、自分の知らないことの価値を過小評価する傾向にあります。
だから、学者にとっていちばん最初の仕事は、自分の所有する学術情報を適切に評価することであるはずです。
でも、「君は『こんなこと』も知らんのか」と気色ばむ学者たちは「こんんなこと」が議論の始点でなければならない理由について、
ほとんど説明責任を持ていないようでした。・・・・ 学者というのは「知識を持つ人間」ではなく、「自分のもつ知識についての
知識を持っている人間」のことだと思います。ですから自分の知っていることは「知るに値すること」であり、自分が知らないことは
「知るに値しないこと」だと無反省的に信じ込める学者のことを僕は端的に「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいました。
しかし、学界だけの固有種であったこのタイプの人々が今ネット上では異常増殖しているように僕には思われます。
ディスプレイに向かって、グーグルでキーワード検索をしながら、個別的なトピックについてのトリヴィアルな情報を入手すること
それ自体は愉快なことですし、誰の迷惑になるわけでもありません(僕だって大好きです)。けれども、そうやって自分が仕入れた
知識の価値を「知識についての知識」というメタレベルから吟味する習慣を持たない人にとっては、どれほどトリヴィアルな
情報を収集しても、それは学的には無価値だということは忘れない方がいいと思います。≫
 ▼「呪い」は、恐ろしい結果をもたらす事例を、あまりに多くみてきた。特に、人生に恵まれてない人のそれは酷いもの。
 起こった現象しか見えないため、その背後の原因を突き詰める能力が無いのである。呪いは、そこに羨望が含まれている。
 そのため周囲の全ての人が対象になるから始末が悪い。国会の有様は、正に呪いの政争である。呪いの政治は破壊しかない。
・・・・・・
3816, iPadを買った ー3
2011年09月06日(火)
  手元にきてから二週間、iPadにますます虜になっている。パソコンが大好きだがアプリをイマイチ使いこなせなかった。このお陰で、
アプリを比較的簡単にダウンロードして気楽に使えるようになったことが大きい。 更にゲームをパソコンで遊んだ経験が殆どなかった。
そこで、まず無料のゲームで子供心に立ち返って遊んでいる。「自分の人生がゲームそのもの、敢えてする必要もない」と決めつけ、
受け付けなかったこともある。 このところ一日、2時間は熱中している。まずは無料の小学校低学年?レベルのもの数種類だが、
始めると止まらない。 まあ、いい歳をして幸せなことだが、面白いのは面白い!
 先日、初めてデジタル雑誌をAplleから購入をしてみた。 『 最新 iPadアプリ 特選700』である。
「成るほどiPadを買ったことで、iBookが購入出来た」と一人感心。 そこで気づいたのは、目次から一瞬で項目のトップに切り替わること。
それとitunesの音楽とは逆に、ページの下に次々と、各ページのイメージがスクロールをすると現れてくる。 雑誌をパラパラと捲るのと
同じことが可能である。 また、最後に読んだところが、次回にiBookを開いた時に自動的に開く。 最近の録画は、最後にみたビデオの
部分が自動的出てくるのと同じ。 さらに字の大きさが親指と人差し指二本で拡大・縮小できるのも便利である。 何よりも何時でも、
何処でも、気楽に見れるのがよい。 その点はiPodに数千曲入力してある感覚と同じ。
「アプリあってのiPad」が、この本の副題にあるが、PCでアプリを充分に活用できない者にとって、「iPadあってのアプリ」になる。 
それぞれの有り難さは違って当然。 私には「iPad 様様」のよう。 初めて携帯電話を手にしたのに匹敵する。 問題は自分に
ピッタリのアプリを如何に探し出し活用できるかである。 無線で、平面で、本の大きさのため、画面にピアノや太鼓の画面を表示し、
作曲したり、演奏をしたり、車の運転席で道路を疾走するする画面のゲームも現れている。それもネット上で誰かと競技も可能。
TVとDVDのコントローラー機能も組み込まれ、ネットでコントロールしたり、iPadに録画できるようになるだろう。(もう、あるかも?)
 ・・・・・・・
3451, ニューカレドニアの休暇 −1
 2010年09月06日(月)
 去年はブタインフルエンザ騒ぎで予約をしていたクロアチア・ツアーを急遽キャンセルをした。
その後、あの騒ぎは薬品メーカー(WHOに入りこませた役員)が薬品を売るための詐欺紛いの扇動と後になって気づいたが後の祭り。
恐慌二年目も加わり、25年間、毎年行き続けた海外旅行が途切れてしまった。そして今年は恐慌三年目、経済的状況は二番底に向け動き出した。 
さて、どうするか迷った。毎年9月以降に大きな事件が起こる傾向があるので、最終タイムリミットは9月初旬まで。 近くで、安く、
目だないツアーを絞って盆明けになって探した。グァム島はありきたり、バリ島は家内が嫌。 オーストラリアはイマイチ。
そうこう調べてると南太平洋の中で「7日間で8万弱のニューカレドニア」を探しあてた。 ワンフライト8時間で、滞在型で、
エネルギーが最小で済むところとあいなった。しかしホテルの一ランク上に上げたり、現地で4回のオプションツアーに参加したりで、
二倍近くになってしまった。それでも15万である。 振り返ってみて、オプションは2回で十分で、あとはホテル近くの海岸線の木陰で
日干しをしたりして、のんびりするのが正解。 二度と来ないと思うと可能な限り動きたい気持ちに勝てなかったのである。
私の基準の採点では80点。 フィジーが90〜95点とすると少し低いが、私の避暑的時間の過ごし方になれてなかったこともある。
 フィジーと違って、ここはフランス領ニューカレドニア。 四国ほどの面積に25万弱の人口が住んでおり、小さな多くの島が
点在している。 ニッケルを主とした鉱山資源が豊富。 フィジー、タヒチなど年中、常夏な気候に対し、5度ほど寒い冬がある。
この時期は丁度冬と夏の境目。冬で20度、夏でも25度というから、やはり常夏である。 大まかにポリネシア系の現地人が4割、
フランスなど白人系が3割、アジアの移民が3割の比率で、フランス支配感が強い国で、地中海のフランス領の小島にいるようである。
その点、フィジーは小さいながらもポリネシアの独立国でありポリネシアの人間的特性が前面に出ている。料金はフィジーが5割高くなる。  
南太平洋に行くなら、何処の国の領地か、独立国か調べた方がよい。 植民地は白人支配が前面に出ている。
現在、世界は一部の白人が支配している厳然たる事実がある。 インドのカースト制度は、三千年かけたアーリア人による身分制度で、
裏づけにヒンズー教で心まで支配するシステムになっている。一神教のユダヤ、キリスト教も、ほぼ同じ手法で、侵略の尖兵として、
キリスト教で洗脳しながら乗り込んでいく。 そして世界を牛耳っている。 ここで、日本がアメリカの金融被支配国が表面化してきた。
それだけでない、軍事も支配されている現実がある。 バカではないかというほどの人の良さが小さな島国の運命である。
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3076,120年の物指し
 2009年09月06日(日)
 週刊朝日の記事ー 平成維新「次の100年が始った」が面白い。
  ーまずは民主党の大勝の長短の4つの物指しを要約
一、麻生の一年足らず政権、永田町の政治記者レベルの内容。今後、民主党が、
  そのレベルとして参院選挙まで、いかに実績を積み重ねることができるか。
二、次は、四年前の小泉劇場の大勝で、今度の選挙のように逆ぶれで民主党に政権が転がり込んできた。
  4年後の衆院選挙も同じ道をたどることになるかどうか。
三、小選挙区制度ができて15年で、ここでようやく政権交代が実現した。1993年の国会は、「政治改革国会」と呼ばれ、
  翌年には小選挙区比例代表制を含む政治改革関連4法が成立。今後15年で二大政党の交代システムが出来るかどうか。
四、120年という物指しで、これが最も本質的な物ざし。明治憲法ができて120年になるが、この間の政治は実は官僚に従属してきた。
  今度の政権は120年の「中央集権国家」を廃絶して新たに「地域主権国家」を樹立しようというのである。 自民党も「地方分権」
  といい、その具体策として「道州制度」を導入しようとしているが、あくまで「中央集権国家」が今後とも続くという前提である。
  その官僚主導体制とその中核である財務省による徴税・国債管理・予算分配の「財政中央集権」も続くということであり分権といっても、
  うやむやにされることは目に見えている。これに対して民主党は、国民生活に密接な権限と財源を基礎自治体に渡してしまうもの。
  ▼ 以上だが、その15年間、延命を繰りかいした自民政権があまりに狡猾であった。それも120年続いた流れで、国民が
   騙されていたことが露出してしまったのである。二度とあの威信は戻ることはない。 あとは民主党の自滅を待つしかない。
 ・・・・・・・・・
2711, 臨死体験を経験できるヘルメット
 2008年09月06日(土)
何の知識無しで初めて幽体離脱を経験したときの驚きを今でもリアルに憶えている。
それを契機に、キュープラ・ロスや、立花隆の臨死体験などの本を読み、その経験の意味を知った。
ところが最近になり、アメリカでパーシンガー博士の開発したゴッドヘルメットと呼ばれるものがあり、これ装着すると万人が
体外離脱できるという。博士はてんかんの治療で、脳を電極で刺激する手術を400例以上やっていて、その手術の際に側頭葉の
シルビウス溝と呼ばれる、右耳の上を電極で刺激すると、体外離脱がおこることを発見した。これで体外離脱した意識が、
遠くのものを見てきて、現実と一致したり、霊が他人の体をジャックしたイメージも起こるという。
これまでのように脳を開いて直接電極を押しあてたりせず、電磁気で脳を刺激して、反応を見る研究が盛んのようだ。
体外離脱とは、脳の中の幻覚ではなく、アストラル体のような意識が、抜け出している状態ともいわれる。
実際に体外離脱の経験者に装着したところ、同じような経験をしたという。それまで一部霊能者とか、そういう体質を持った人だけしか
経験できなかったことを、科学者は誰にでも体験できるようにする。 何年もしないうちに、家電の店頭で並ぶかもしれない。 
これを被って気が向いたら幽体離脱をするのも面白いだろう。そういえばアルファー波を発生させる器械を買ったことがあった。
またマリファナを吸ったと同じ気分になるCDのセットも買ったことがあったが、少し酔ったような気分の状態になる。
私は酒に酔いの方が好きだが。他のTPOSが面白いだけであるが・・・恐らく、これを被っても、私の経験した幽体離脱の緊迫した
感覚とは違うだろう。色いろな状況の中で独りで、誰にも言えない奇妙な体験だから神秘的なのであって、ヘッドギアの器械で
幽体離脱をしても、味も素っ気もないだろう。しかし、面白そうである。前に書いたことがあるが、欧州の帰りの飛行機の中での夢。
「自分の身体が突然にフワフワ空に向かって上昇していく、電信柱が下に見えてきた辺りで恐怖心が出てくる。
夢から早く覚めて布団に身体を戻さないと、我に返った。 ところが、そこは飛行機の中で、身体が地上に在るはずなのに逆に、
その遥か上を猛スピードで移動している。 そこには、飛行機も、シートも、周囲の人たち消えて、独り宙を移動している」
身体が凍りつくとは、このことだろう。 恐らく、死ぬ瞬間とは、あの感覚になるのでは? 絶叫をしそうになったが、ギリギリ
抑えることができた。人間は大地の上で生きているのである。 死ぬと、大地から離れるのである。
幽体離脱で元の身体に戻ってこれないで、狂ってしまうケースもあるというし、自分が外に出ている間に、
動物か彷徨っている霊が入り込む場合が往々にあるという。 オウム教が騒がれていた頃、ニュースなどの映像で、
ヘッドギアをしている信者の姿を見かけたが、あれがゴッドヘッドだったのか? 集団維持の手法や典型的カルトの教えは
否定されるべきだが、宇宙からの視点とか、こういう幽体離脱の手法は、なるほどと感心する。
脳はまだまだ未知の世界である。脳は3?しか使われておらず、10?も使えば天才になれるという。神様(自然)は何を脳にさせよと
したのだろうか。我われ凡人は、パソコンなど、道具を有効に使ってせめて5〜6?を使えるようにすればよい筈だが?
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2007年09月06日(木)
 2347.ベナレス・・・3
 (字数制限のためカット 2010年9月6日)
・・・・・・・
2006年09月06日(水)
1982, ある首斬り役人の日記 −3
           Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning    −読書日記   
   215、1602年9月14日
  ゲオルク・ブラウン、マンスフェルト出身。  彼は蜂蜜・胡椒入りケーキ職人で、流れ者の剣客であった。
     字数制限のためカット      (+>∀<+)ノ ホンジャ!
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2005年09月06日(火)
1617, 楽しく生きる−2
大不況の中、毎日を楽しく生きることができれば、これにこしたことがない。
図書館で借りた「楽しく生きる」精神科医・高橋和巳著が、なかなか含蓄のある内容であった。
ー概要をまとめてみた。 (時間をかけて書き写すだけの価値は充分にあった)
(以下、字数の関係でカット08年9月6日)


4555,横尾 忠則の老人論 ー2

2013年09月05日(木)

                      「猫背の目線」横尾 忠則 (著)
   * 人生の目的 ―バルザックの場合
 ー良く遊び、良く学び、良く働く。その他に、「空白=虚」の領域を持つことー これが私の人生の目的。
その虚の領域が、バルザックの人生の目的の「休息」になるのか? 生前、死後に取り囲まれた『自分』の外(虚空)を常に
意識をするため、休息が必要ということか? 欧州のバカンスで1〜2ヶ月も休暇をとり、生活圏から離れ、ただボッとする。
それが彼らの休息。日本にも湯治というシステムが昔からあった。軽井沢や那須などの別荘地は、娑婆から隠れるためにある。
  ーまずは、その部分からー
《 彼は「芸術家にとって暇が労働なのだ」と言う。つまり芸術家は常に規則に従うことを拒絶し、自らが自らの規則に
 生きることを本懐としているのである。世の中の潮流や流行は意に介さず、無頓着でいなければならない。
社会や他人の支配に従うのではなく、その時の気分(そう、この気分が大事である)に従うのを第一義にしなければならない。
バルザックも「芸術家は自分の好きなように、またはやれるように生きる」と語っている。
 「人生の日的は休息にある」というバルザックは、芸術家は例外としてもこの彼の目的は万人に通じる。
先に彼は「芸術家にとって閑暇が労働であり、労働が休息なのだ」と言ったが芸術家は何もしないでボーッしている瞬間にも、
作品の構想を頭の中で練っている。だか休息中でも働いているのだと言っているのである。働くといえど肉体労働ではない。
知的というか創造的労働を体を休ませると同時に行っている。「芸術家は休む時がないですね」と言われそうだが、確かにそうだ。
でも画家の立場からすれば描いている時は結構休んでいる。考ているようで考えてない状態、三昧世界に入っているのである。
バルザックが「人生の目的は睡眠にある」と言ったらヤバイが「休息」と言うところがさすがである。
 つまり休息こそわれわれが無意識になれる最もベストの状感だからである。またこの無意識の状態こそ最も健康な状態と
いえるのではないだろうか。常に頭を使ったり過度な肉体労働をすることは健康を害することに結ぴつくことがある。
バルザックが人生の目的を「休息」と言ってのけたところには人間の究極の幸せがあるように思う。大半の日本人は
人生の目的を手に入れるためには多忙を極めなければならないと考えているのではないだろうか。「休息」を目的にしたら
きっと落ちつかないに決まっている。「休息」の背後には芸術家バルザックの優雅な生活というのが存在しているのである。
貴族趣味で家中を金目の物で飾り付けるという優雅さでなく、自由に心の向くままに生きることこそ優雅な人生の目的である
ということを「休息」を通して学び直す必要があるとぽくは思うのです。》
 ▼ 「休息は死後にすればよい」というが、「激しく生きた後の死こそ人生の目的」と言いたいのか?
  先日、新しいCDを出すと、ツアーで同行したミュージシャンから販促を兼ねた手紙がきた。西アフリカのバスツアーで
  ひたすら海岸線を南下する日程だったが、そこで、「この旅行は、私にとって仕事。異国のツアーが私に創造を喚起する。
  しかし税務署は、これを経費と認めてくれない」と言っていた。芸術家にとって休んでいる時が、創造状態にあり、
  それをカタチに移行する状態が、むしろ休んでいる、遊んでいる状態というのは、納得できる。
・・・・・・・
4180, 復讐するは我にあり
2012年09月05日(水)
 『復讐するは我にあり』は、キリスト教の言葉で、”我”というのが神様(イエス)のこと。復讐はまた新たな
復讐を呼び”憎悪の連鎖”が生まれてしまう、それを断ち切るために復讐は神に預けて神の裁きにまかせると言う意味。
この言葉を知らしめたのは、第74回直木賞を受賞した佐木隆三の小説で、5人を殺害した西口彰事件を題材にした作品
【復讐するは我にあり】。 1979年に映画化したストーリーとは、≪ 昭和38年。当時の日本はたった一人の男、
榎津巌に恐怖していた。 敬虔なクリスチャンでありながら「俺は千一屋だ。千に一つしか本当のことは言わない」と
豪語する詐欺師にして、女性や老人を含む5人の人間を殺した連続殺人犯。延べ12万人に及ぶ警察の捜査網をかいくぐり、
78日間逃亡したが、昭和39年に熊本で逮捕され、43歳で処刑された。≫ である。
 この「復讐は神に預けて神の裁きにまかせること」の意味を知って以来、怒り心頭になると、この言葉を呪文のように唱え、
気持ちを収めてきた。逆に、私の逆鱗で多くの人の心を傷をつけてきたが、それ故に何倍も返り矢で傷ついてきた。その時も、
この言葉の意味を痛いほど実感した。年齢を重ねるにつれ、この言葉の重みを感じている。 要は因果応報で、報いは一番、
当人が受けているから、あえて怒りの感情に支配されることもない。怒りの感情は、相手を毒する以上に自分を害する。
復讐となれば更に毒が自分に向かう。とはいえ、家族が殺されたり、致命的な裏切りの怒りは癒しのしようがない。
この言葉を唱えるしかないことになる。 逆に祝福を積み続けた人に神は幸運を与える。「積善の家に福来る」である。
しかし、この言葉こそ、ニーチェは弱者の怨念の原因となるという。領土を奪われた国民が『復讐するは我にあり』と信じ、
他力に頼ろうというしたら、国は滅びる。人を恨めば穴二つ、という格言があるが、復讐は長期的潮漬けにするしかない。
「江戸の仇を長崎で討つ」ということ。グローバル化は弱肉強食の世界になっていく。怨念が世界に満ちることになる。
 ・・・・・・
3815, 哲学人 ー⑨
2011年09月05日(月)
                     ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
  * ー経験の裏側には、常識ではまったく感知できない真理と現実が数多くあるー
 人生の比較的前半で、経験、そして現象の裏側に一般では感知できない真理と現実があることを、垣間見てきたつもり。
 私たちは表側の一部だけの事象を見て判断している。知りえる範囲でしか見えない。旧約聖書の世界の創世の物語は7千~8千年前。
 当時は、そこまでしか想像が出来なかったのである。それも我々が住む地球が球形で、宇宙に無限に近い星があることも分るはずがない。 
 現在の我々は、現象の中にある真実を知ろうともしないで日常を流れている。 その範囲のイメージ内でしか生きるしかないのである。
  以下の部分が、その辺のことを明快に表現している。
【 現代科学によって明らかにされつつあるように、日常の世界における、そのときどきの経験の裏側には、常識ではまったく感知できない
 真理と現実が数多くある。 それはしばしば人を愕然とさせるうえに、直観に反したものであることが少なくなく、真実であると
 わかったところで、とうてい納得できない場合もある。  例を挙げると、
・私たちの周囲にあるどの物体も、分子と原子から成立しており、その原子を構成する素粒子の一部は不規則に運動している。これらは
 すべてエネルギーに変換可能なのだが(あらゆる物体は力に満ちた空間である)、こうしたことは常識的なものの見方とは全く相容れない。
・私たちのまわりの空気は、テレビやラジオの微量の電波など、情報を運ぷ見えない波動に溢れており、
 そのほかにも数々の分析可能の属性を有している、という事実にしても同様である。 
・私たちは巨大な球体の表面で暮らしており、その球が表面上では時速千六百キロで自転していると同時に、空間を驀進しているといった、
 ごく基本的な事柄でさえ、(私としてはどうしても言っておきたいのだが、猛烈に)直観に反しており、真理であるとわかっていても
 見たり触れたりすることはできない。この事実はあまりに常識はずれであるため、これを最初に発表した人々は、いまからほんの
 数百年前のことだというのに、ふざけた空想家か危険な嘘つきとして糾弾され、そんな途方もない嘘を人々が信じたとしたら、
 あらゆる真の宗教と(それゆえ)真の道徳にとって害になると非難されたほどである。
このように、常識は私たちの置かれている状況を適切に解き明かすどころか忠実に説明してくれそうもないということを、
私たちは事実として知っている。さらに、特殊および一般相対性理論によって明らかになったもろもろのことや、量子物理学によって
明らかになったもろもろのことが示しているように、私たちがじかに触れている物理的環境は、近年まで人間には想像もつかなかったほど
奇怪であり、あまりに常識とかけ離れているため、どれだけ聡明な研究者だろうと、こうした問題を理解するのは至難のわざ。
このような状況のなかで常識的な世界観の擁護を試みても、やる前から結果はわかっている。この試みはきわめて想像力を欠いた
アナクロニズムと蒙昧主義にほかならない。それは最も粗悪な時代錯誤なのである。 なるべく失礼にならないよう控えめに述べるなら、
常識的な世界観は思慮の浅い人々の形而上学にはなりうるだろう。ラッセルは、それを「野蛮人の形而上学」と呼んだ。ラッセルの言葉で
私が何よりも頻繁に引用してきたものは、つぎに挙げる『哲学の諸問題』(『哲学入門』社会思想社)の一節の最後の文である。
「……そうなると常識はも、もう役に立たなくなり、私たちは物理的対象の本性について、五里霧中におちいりざるをえない。
そこで物理的対象を正当な理由で心的なものとみなせるとしたら、ただ奇妙に思われるというだけでそういう説を否定することは
正しいはずがない。物理的対象に関する真理は、奇妙であらざるをえない」 】
 ▼ 歳を重ねると、軽くなっていくか、重くなっていくかである。私の知る限り、教養を積んできた人ほど軽くなっていく。 
  生きてきた月日の出来事が所詮は粟粒、チリの様に消え去っていく事象でしかなかったことを知っているからである。
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3450 秘・異郷の旅、よもやま話 -7
2010年09月05日(日)
 * アフリカに魅せられて
 私がアフリカに興味を持ったのは、私の高校時代の友人がケニアのサファリから帰ってきて、
その写真を見せてもらったことに始る。100枚以上の、ライオンや象、ヌー、そしてチーターの写真が数多くあった。
それだけの写真が、その男が実際に写真に撮ってきた事実が受け止められないのである。
そこには、バルーンから動物を撮った写真もあった。 なんで一回のツアーで、これだけ多くの写真が撮れるのだろか?
実際に彼が撮った写真だろうか? 狐に摘まれる感覚であった。 どれもこれも、これまで見たことのない活き活きした
野生動物のエネルギーが写真から溢れ出ていた。丁度、カナダのロッキーに行って、大自然に魅せられたばかり。
なら、アフリカの大地と、野生動物が次のターゲットとして良いだろうと考えた。 
しかし、17〜8年前にケニアのサファリというと、大きな抵抗感がある。
とはいえ、あの写真を見せられた上には、行かない訳にはいかない。そして、初めてケニアのマサイマラの平原にサファリカーで
乗り入れたのである。 平原をしばらく走っていると、遥か彼方に、動物が走っているのが見えてきた。事前知識は全くないので、
期間中にせいぜい数匹のライオンか、シマウマを見れれば儲けもので、テレビで撮影された動物は、普通は見れないものと、
信じきっていた。それが、シマウマが走っているのである。そして、その後は、次々と、ヌー、ガゼルの姿を見ることができるのである。
現地のドライバーが、無線とか、行きあう仲間同士で、何処にライオンの群れがいるとか、チーターがいるかを連絡しあっている。
そして、夕刻に像の20頭位の群れが一列になり寝ぐらに帰っていくのに出くわした。 夕陽の中に、黙々と隊列を組んで進む姿が
何とも絵になっている。そして、翌朝は、早朝サファリである。この時の参加者が4名に添乗員が一人。我われ夫婦に、
40歳ぐらいの中年の男の一人参加が、二人のため、ペースは我われ夫婦になってしまう。 これほど、都合の良いサファリのツアーは
今だかってない。どの場面をとっても、強烈な印象が残っている。 最初のサファリは、誰にとっても、そうらしい。
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075, 父は疲れてしまったのです!
 2009年09月05日(土)
 * 民主308議席の衝撃 ー朝日新聞ーオピニオン高橋源一郎 9月4日
 朝日新聞のオピニオンのコーナーの高橋源一郎の「父は疲れてしまった」の例えが言い得て妙。
  ー概略とは
《 今回の政権交代は、自民党が古いタイプの家父長で、国民がその「妻」、民主党が自民党から生まれた「子」
と考えとわかりやすい。 要するに「熟年離婚」なんですね。「妻」である国民は、「夫」の自民党に何度も裏切られても、
なかなか別れることができない。 離婚など出来ないと思い込んでいたからです。「夫」も、浮気をしても喧嘩をしても
「妻」は自分のいうことを聞く、過半数は取れると思い込んでいた。両者とも「離婚」という発想がなかった。
でも、05年の選挙で、投票で政治が変えられると気づいてしまった。それなのに定年に近づいた「夫」がまだ威張っている。
そこで「妻」は離婚届を突きつけた。 一方で自民党も、実は離婚を無意識で望んでいた?。 一種の自殺願望。
小泉が自民をぶっ壊すといい、安部、福田の二代の総理が政権を投げ出した。 もう死にたいという自殺願望である。
半世紀以上も政権にいたことで金属疲労を起こし、当人たちは、もうやめたいと思うようになった。
国民は「戦後」的な関心を失っているのに、自民党だけが旧言語で話している。
彼等はそのことを体感としてわかっていても、あまりにずれていて、自分ではどうしようもない。
「子」である民主党は、自民党から脱皮した形で生まれた政党。だから、いち早く「戦後」から脱皮できたのです。
自民党の大物議員に「小沢チルドレン」の女性をぶつけたのは、「家父長的な老人と若い自立した女性の戦い」
という構図を見せつけたかったからです。 民主党は、この選挙が過去と現在の戦いということを知っていた。
「いま」や「変化」を掲げて、「現在」という時空間に適応したからこそ、大勝できたのです。
自民と民主党は、いわば違う時空間に存在している、だから、「現在」の中での価値の争いとはなりにくい。
恐らく、自民はこのまま自壊していくんじゃないか。 民主党は、自民党という「父」を敵にすることで結束してきた。 
一度「父殺し」が成功してしまえば、兄弟げんかが始まり、分裂しかけない。それをどう防ぐかが大きな課題になる。》
 = 作家とはいえ、全く上手い例えを思いつくもの。ギリシャ神話のオディプスの父殺しを、持ち出すとは。
このように一度、殺されてしまえば、父への思いは何だったのか?、ということになる。
森、安部、福田、山崎拓などの権威が元に戻ることは無い。 「自民党パージ」である。
社会党の残党が隠れ住んでいるが、これらも森、山崎拓と同じ穴の狢。 
一度、分裂した後に再編成のプロセスが必定だが、少し勝ちすぎたのが時期を遅らせてしまう。
 自民党という父は疲れただけでない、殺されてしまったのである。困ったのは、本人たちが解ってないこと。
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2710, 今東光の話題
 2008年09月05日(金)
 以前に、今東光の毒舌の味と凄みについて書いてある本を紹介したが、インターネット上の検索で見つけた
「極道辻説法」の一部抜粋してみる。自分の年齢が、この人物の年齢に近づき、若い人に対する視点が似てきたのに
驚いているが、今東光の足元すら届いていない己との距離も見えてくる。
今の時代が、この馬鹿な質問者よりもレベルが下になっているのか?。
彼が現代の日本に対して曰うとしたら、こんなものだろう!
「この馬鹿野郎!手前ら、ここまで成り下がったのか、エエ〜! アメ公の毒饅頭をまだ食べてんのかよ〜!
ブチ殺すぞ、この野郎。 頭と尻尾から腐るというが、あのパンダのようなキャスター上がりのようなオナゴが
次の首相に立候補だと、何をぬかしあがるか。馬鹿野郎! 面を見な、面構えがなってないじゃねえかよ、わかんねえのか!
程度の低い二代目が続けて首相だと、あいつらに国家が任せるしかない、日本がよ哀れでしか思えね〜よ。たくも〜!
どれもこれも腑抜けた奴ばかりじゃねえかよ、あの中曽根も、まだ生きてやがる!それもしたり顔をしてよう。
今度は、吉田茂の孫かよ、そして何をするかとみたら、またバラマキかよ。なんなもの。
一度な〜、明治維新のことを考えてみなよ。 今の日本の危機は、あんなものじゃねえんだ。解ってんか!」
大体こんなものか。 今度、今東光を私の脳に呼び寄せて娑婆批判をしてみる。「今東光語る」とかいうシリーズで!
  (字数制限のためカット 2013年9月5日)
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2007年09月05日(水)
 2346.エーゲ 永遠回帰の海ー2
この本を読むまでエーゲ海の周辺に無数の遺跡があることを全く知らなかった。
ギリシャ本土はもとより、エーゲ海に点在する島々に、そして対岸のトルコのアナトリア地方に数知れないほどの遺跡がある。
素晴らしい神殿があっても、その由来が全く解らないために、神殿A,B,C,Dなど記号で呼ばれているものもある。
序章の中で、シチリアのセリヌンテ神殿群を訪れた時のことを、以下のように書いている。「なぜそんなにまでして
遺跡を見て歩いたのかと問われると答えるのは簡単でない。ほんものの遺跡と自分自身で出会った事のない人に
その理由を説明するのは、ほとんど不可能に近い。」
「遺跡=滅びた跡。そこに必ず、繁栄と栄華ののち、その時代の大戦に敗北して破壊され滅亡した都市の歴史が刻まれてる」
「知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。
歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料の中に遺されている歴史。
それらはすべてフェイクである。最も正統な歴史は、記録されざる歴史、
語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。」
「いま自分の前にあるこれらの神殿。これだけの見事な神殿が、これだけ立派に保存されているのに、
この神殿がいかなる神殿であったか、誰も知らないのだ。記録された歴史などというものは、記録されなかった
現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。
宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある。」
「時間は一つの方向に不可逆的に流れるものではない。円環をなしているのだ。
時が円環であるなら、初めもなければ終わりもない。過去は同時に未来で、未来は同時に過去である。
現在は永遠に過ぎ去りゆく一瞬ではなく、永遠そのものである。
現在はすでに過去に無限回くり返されたことがあり、未来においても無限回くり返される。
人はまさにこの現在の一瞬において、過ぎ去りゆく時を生きているのではなく、永遠を生きている。」
人気(ひとけ)のない海岸にある遺跡で、黙ってしばらく海を眺めていると、
これが永遠なのだということが疑問の余地なく見えてくるような気がするという。
他にも、シチリアのセリアンテ神殿群、トルコのペルガモンの大劇場、ディディマのアポロン神殿、
エフェソスの大劇場・アルテミス像、聖山アトス、リキアのサルコファガス、ヒエラポリスのネクロポスなどがある。
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2006年09月05日(火)
 1981, 歩行とダンスー2
(字数制限のためカット、以降は、ブログーバードウォッチにコピーしておきます)


4554, 横尾忠則の老人論

2013年09月04日(水)

                      「猫背の目線」横尾 忠則 (著)
  横尾の戒老録だからこそ、風がわりで面白い。「猫背の目線」とは「老人のものの見方」という意味である。
 私より10歳年上で三年前に初版が書かれており、古希越えの経験が書いてある。再来年に古希越えの私に丁度良い老人論。   
    ーアマゾン内容紹介ーより
 ☆ 体の声を無視した結果がストレスを起こす。老年を迎えた猫好きのアーティストは、嫌なことはせず、
  好きなことだけをして生きる。少し日常の目線をずらしてみれば、あなたも今日からできること。最新エッセイ集!
 ☆ 古稀を迎えた猫好きの芸術家は考えた。「忙しいのは他人の時間に振り回されるから」「病気自慢が体を浄化する」
 「努力は運命の付録のようなもの」―老年が人生を仕上げる時期ならば、ひとつ人生を遊んでやろう、遅ればせながら
  隠居を実行しよう。自然に、創造的に生きたい老若男女必読。
 ー アマゾンのレビューの内容がよい! 出版社か、筆者自身?の書き込みと疑いたくなるほど、である。
《 「今まで芸術と生活を二つに分けて、芸術に集中さえしていれば生活を疎かにしたってどうってことないと考え、
 全てを芸術論でかためてしまう人生観を送ってしまったところがあった。芸術は芸術の中でのみ完結するという錯覚は、
完全に幻想だったことが理解できた気がする」 この言葉が核心といっていいだろう。
 若い頃から、ナルシシストで自意識過剰の横尾は、75歳になる今年も、そこから抜けるために未だ苦労しているようだ。
自意識過剰から抜けるための試みの一つが、全国あちこちでやっている公開制作である。 公開制作について横尾は
「(公開制作を行っていると)無私になる。不思議なことに雑念が去来しなくなる。『私』の意識が薄れる」とここで語る。
この公開制作時のテーマは「T字路」である。 なぜT字路なのか?それは62,3歳の頃に10年ぶりに帰った故郷の西脇で、
子供の頃に良く通った、T字路に建つ模型屋が奥の壁を残して、あとは見る影もなくなっている姿に、膝が崩れ落ちるような
衝撃を感じ、そのT字路を描くことでノスタルジーをもった「個人」から自由になり「普遍的な個」と感じるからだそうである。
横尾は幼児の頃に叔父の家に養子に入り、溺愛されて育った。彼にとって過去の記憶はすべてよきもの、と言っていいだろう。
決して忘れたい過去に苦しむ人間ではないのである。芸術と生活は別、と考えて60代にまで至ったこと自体にに驚くが、
同じくナルシシストで、「芸術と日常生活は別」と同じことを言っていた三島由紀夫に傾倒し多大な感化を受けていたことを
考えると、不思議ではないのかも知れない。》
 ▼ 横尾は、「隠居は、嫌なことをしない、好きなことだけをする生き方らしい」と、述べている。
  それからすれば、昔から隠居ということになる。目先、不自由でない位の金と、有り余る時間が人生を通してあった。
 足らなかったのは、それを使うほどの能力。 事業人生の結果は、自己精算に近い事業整理で終わったが、充実感が残った。
 それは、有り余る自由な時間に恵まれていて、事業も生活も趣味も楽しんだ手応えが残っているから。そう思うしかないが・・
・・・・・・
4179, プライドと自尊心と虚栄心
2012年09月04日(火)
 * 「プライドが高い」「誇り高い」「自尊心が高い」の違いは?
言葉のイメージとしては良い順に ・自尊心がある ・誇り高い ・プライドが高い になる
 ー 哲学者の池田昌子は、このへんのことを解りやすく説いている。 (ー14歳からの哲学ーより)
≪「自尊心がある」はプラスを含んだ言葉で、「プライドが高い」は自分の弱さをカバーするための防御する気持ちである。
自分がしていることを自覚できるのは、それについて考えられる精神を所有している人間だけ。精神は自分を自覚する。
精神としての自分を自覚する。そこで精神にとって精神よりも大事なものはないと知る。なぜなら、精神としての自分にとって
何が大事かを考えることを知ることができるのが、まさに精神だからだ。自分を大事にするとは、つまり精神を大事にすることである。
「自尊心」とは、自分を尊ぶ、自分を愛するということの、本当の意味がこれだ。自尊心を持つことと、プライドがあるということは、
間違いやすい。誰も自分が大事で、プライドがあると思っていれば、他人に侮辱されても腹が立たないはずだ。なぜなら、自分で
自分の価値を知っているなら、他人の評価は気にならないはず。もし腹が立つなら、自分の価値より他人評価を価値としているからだ。
それは自尊心でなく、虚栄心だということになる。≫
▼ 自尊心は『本当に自分を尊く思える心』。プライドとは全く違う。人から否定的な事を言われたり、弱い自分がさらけ出されても
 自尊心が高ければ、心は揺らがない。自尊心が低いと、他人の評価を気にしてプライドと言う虚勢で弱い自分をカバーする。
 プライドの高さは虚勢の高さに他ならない。自分を尊び、価値ある存在と信じる自尊心とは違う。そのため自尊心の低い人ほど
 プライドが高くなる。年齢をかさねるにつれ、それが小さくはなるが、女子と小人は、その壁がますます高くなっていく。
 誇り高いというのはプライドと意味は似ているが、虚勢の高さはプライドほど高くはない。自尊心とは自分に自信があって生まれる。
 プライドは、自信がないための防御の柵をいう。無知蒙昧のカラ元気。 居るよ、こういう人!地頭が悪いというか、底がない? 
 何か、自分のこと?と思い知る。プライドも自尊心もズタズタ?が現在の私だが、ことの本質(世界恐慌)をみれば極当然のこと??
 と、プライドの心が囁き出す。そして、そのプライドの壁の上から、そこに来ている恐慌の大津波を眺めている日々というこか。 
 ・・・・・・
3814, リタイヤの生活は退屈か?
2011年09月04日(日)
 良かったのか悪かったのか、10代半ばから常に受験、就職、事業などで、常に追い立てられて生きてきた。 
しかし思いもよらずに? ここで追い立てられてきた人生から50数年ぶりに解放された! のが、現在である。 
その前のイメージは、本音でいえば味も素っ気もないのでは? と思っていた。
しかし、その立場になって分かったことは、「それはそれなりに充実している」ことである。
 10年かけてネットに重心を移動していたこともあって、気持ちに余裕がなければ、こうはいかないのだろう。
事業の結果がこうとしても、これだけ世界規模の経済震災や自然災害が次々と生じれば、諦めもつくもの。
現在の状態を抵抗なく受け入れている自分に驚いている。 逆に、何だったのか、この10年は?と、疑問も生じてくる。
止めようもない右下がりの落ち込みに、対処療法しか手の打ちようがない日々も辛いもの。6年前に大手銀行からの
会社売却の話があったが、これは「生きたまま銀行系列のホテルに、ただ同然に持っていかれるレベル」の案件。
あれから6年間も持続した分、実質な回収とも解釈ができる。 反面、倒産は避けられたかもしれない。
それに関しても後悔は全くない。 目先の資金繰りの綱渡りは、事業人生で一度も経験したことはなかった。 
半年後には給料、退職金の大部分も、取引先の支払いも、(資金繰り表から逆算して)不能になるのがハッキリしていた。
そのため目先資金の余裕のあるうちにと、会計事務所、弁護士、私と役員で相談の上に、少し早目の整理に入った。
それが打撃を最小限で終わらせたことになる。 そうはいっても会社の死は、そう生易しくはない。 
 当分はiPadに集中。 最適なアプリを画面上に配置することと、新しい何かにチャレンジすることである。 
10数年前に亡くなった母親の老後の様々なチャレンジを身近にみていた。その辺にヒントが隠されているようだ。 
「良い人生、悪い人生ではなく、充実している人生」がキーワードになる。
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3449 秘・異郷の旅、よもやま話 -6
2010年09月04日(土)
  *初めて経験した大自然の懐
 広大な大自然に初めて唖然としたのが、カナダのロッキーの懐に入って時である。トロントと、ナイアガラの滝をみた後に
ロッキーを巡るコースのため、その途上のバスの中で寝入ってしまった。そして目を開けると、何かこれまで見たことのない
山々と渓谷が続いている。「これは、まだ夢の中。それにしても、リアルな夢じゃないか」と思っていた。しばらくして、
これが夢ではない現実に気づいた。これは何処かの星の異次元の世界としか考えられなった。
(その後、これと同じような異次元の世界を数多く見ることになった) そして、次から次へと想像を遥かに超えた光景が、これでもか、
というほど現われてきたのである。 「これまでの人生と、これからの人生という境になるほど、この感動は大きい」という言葉が、
溢れ出てきた。これをキッカケに大自然に魅せられ、世界の秘境・異郷の大自然の世界に引き寄せられるようになった。
 大自然には、
・「山脈」「湖」「滝」「川」「氷河」「密林」といった山脈系
・「海・海岸線・島」「クルージング」という海系
・そして「平原・草原」「サファリ」「砂漠」の平原系がある。
 目的別に分けると、リゾート、探検、遺跡探索などの知識収集、そして祭りなど、分かれる。
 どれが一番というのは一概にはいえない。どれもこれも、素晴らしいとしかいえない。
 ・・・・・・・
3074,立花隆の緊急寄稿ー「自民党の破滅」
 2009年09月04日(金)
 週刊誌は図書館か昼飯時の喫茶店以外は読まないが、週刊文春の新聞広告が面白そうなので買って読んでみた。
 特に立花隆の緊急寄稿「自民党の破滅」に興味があった。 
 副題が「小選挙区制度の罠」で、民主308議席、自民党119議席の結果について書いている。 
  ーその概要といえばー
「日本はいつから「政権交代」を叫ぶだけのドブ板選挙で大勝できる、貧しい政治文化の国になってしまったのか。
 ぶっ壊されたつつあるのは自民党だけでない。日本国そのものなのだ。」というのが主旨である。 
小選挙区制度にしたことと、派閥を無くしたことが大きい。そのために都(県)議会並みの小さな選挙区では
ドブ板選挙活動を基礎にするかどうかで勝負が決まる。その結果、そこで育つ政治家のスケールが小さくなってしまう。
小選挙区制度になってから出てくる国会議員の人間的スケールが都議会議員並み。 国会議員レベルで、
国政を安心して任せる人格識見の持ち主が殆ど見られない。 これまでの中選挙区制度では、派閥があり、
そこで政治家を大きく育てるパドックの役割があった。 そこで政策力、リーダーシップ、そして政治家として
の日常のふるまい方を学んだ。自民党の中で、派閥の領袖は自派には総理総裁候補が多くいると自慢できた。
それが自民だけでなく民主党も、人材が払拭してしまった。
 自民党が「責任力」をスローガンにしたのは呆れるしかない。 せっかく総理大臣になったのに、その職責を
充分に果たせずに任期途中で政権を放り出すことを二度三度も続けた政党は、無責任の極地にあるというべきだ。
こういう中で、GDPの170パーセントの長期債務をいったいどうするのか。 両党とも、これをどうするか、
一回も真剣な議論が聞こえてこない。 小泉は「自民党をぶっこわす」と宣言して、伝統的な集票システムなど様々な
システムを壊したが、それが遠因で自民党の大敗につながった。 選挙の当座だけ尤もらしいことを並べ立てて、
あとはTVを通じてプロパガンスを並び立ててしまえば、大勝を博すことが可能というのを05年の小泉郵政選挙が示した。
今回の選挙も大して変わらないのではないか。最大の心配なことは、自民党の「ぶっこわれる過程」に巻き込まれる形で、
「日本のぶっこわれ過程」がはじまってしまったのではないか、ということだ。
民主党を含む日本の野党には、口先だけの尤もらしいことの経験があっても、責任政党として国政を担ったことはない。
その経験が無いことを自覚して、一歩一歩を薄氷を踏む思いでいかないと、日本を本当に破滅させてしまう可能性がある。
 −−
 以上だが、自民党も一度政権を離れてしまえば、「何で、こんな党に政権を預けていた愚かさ」に国民は心底から
気づくことになった。そうこう考えると、政界再編成は近い将来必ず起こる。もちろん自民党は解党をしてだが。
民主が政権を取ったところで、800兆の借金が消えるわけでない。ますます、借金が増えるのではなかろうか!
・・・・・・・・・
2709, アメリカのコーヒー戦争
 2008年09月04日(木)
不景気が外食産業を直撃している。アメリカではスターバックスが苦戦している一方、マクドナルドが好調という。
数年前までは、マクドナルドのコーヒーは不味くて飲めたものではなかったが、最近は格段と美味しくなった。
スターバックスのコーヒーが4杯ドルに対して、マクドナルドが1ドルと4倍も違う。そのため不景気とガソリンの高騰で、
コーヒー好きのアメリカ人は低価格のMcにながれているようだ。二年前の株価を見ると両者とも35ドルと拮抗していたが、
現在ではスターバックスは、その半値、Mcは2倍になり、4倍の開きが出来てしまった。 
皮肉なことに、売価が逆の倍率になってしまった。4倍といえば、味が大して変わらなければ、Mcに流れるのは当然のこと。
そこでMcは低プライスのコーヒー専門店チェーンにも乗り出した。日本国内でも、不況の煽りで、スターバックスと
ドトールも売り上げが前年割れをしており、それに対しMcは売り上げを伸ばしている。通勤途中の長岡駅周辺にスターバックス、
Mc、Uccコーヒー、ドトールがあるが、 最近、Mcとドトールには客が多く、コーヒーの値段が400円以上のUccと、
スターバックスは客が少ない。 また新潟駅と長岡駅にパンとコーヒーに絞ったカフェテラスがあるが、両者とも好調。
この20年来、個人経営の喫茶店がほぼ消滅した。ところが新潟の事務所の真前にコーヒー専門店が二年前にできた。
それ以来、週に1〜2度はランチを食べに行くが、基本に忠実なコーヒーを出してくれる。
コーヒーは、良い豆を使って、基本に忠実に出し続けることが要求される。その維持がなかなか難しい。
この不景気の中、身近なランチや、コーヒーから節約をするもの、安いコーヒーに流れるのも仕方ない。
自動のコーヒー販売機のコーヒーがプロ並みに美味しいのに行き当たった。コインを入れてから、コーヒーを炒って出す?ので、
時間が4分ほどかかる。月に一度新潟駅の至近距離にある専門店ビルの地下のイオン内にあるカフェテラスの自動販売の
カプチーノが美味い。月に一度は行ってパンとコーヒーを飲んでいるが、目当てはカプチーノである。Sサイズで150円、
Lサイズで200円だが、充分満足できる昨夜のニュースで、昼飯に弁当持参が復活していると報じていた。
何か、身につまされる思いである。でも、暗い感じでないのが救いであるが・・・
・・・・・・・・
2007年09月04日 
「エーゲ 永遠回帰の海」 −1          −読書日記
  * 作者: 須田 慎太郎, 立花 隆 情報社
ポルトガルか、秋の紅葉のカナダか迷っていた時に、この本を読んで、今年の旅はギリシャ・エーゲ海の旅を思いたった。
(次男が「ギリシャに行って良かった」と言っていたのもあるが・・)面白いもので、いざ決定すると、写真も文章が
違ってみえてくる。 三日間のエーゲ海のグルージングとギリシャ本土の遺跡をまわると、また違って見えてくるが、
それもまた楽しみである。世界の遺跡の主だったところを見てきたが、遺跡の真只中に立つと何とも不思議な感覚になる。
数千年前に住んでいた人たちの気配を感じるのである。生活の跡に立っているのだから、当たり前といえば当たり前だが。
初めにハッとしたのはエジプトの遺跡群をまわった時である。行く先々、感動と驚きの連続であった。
遺跡を造った皇帝の意志と、当時の人達の息づかいが伝わってくる。生々しいのが2000年前に一瞬のうちに埋没した
イタリアのポンペイの遺跡。火山灰がパッケージになったため、殆ど完全に近い形で街と、店舗と、住宅がそのまま残っていた。
また死者の体を包んだ灰の中が空洞で残っていて、そこに石膏を入れた「人間の型」が気味が悪いほどリアルに並んでいた。
そこに立っていると、タイムマシーンでポイと瞬間移動してきたような気持ちになってしまうのである。
この本は立花隆と写真家の須田慎太郎が、1982年に40日かけて行ったギリシア、トルコ取材をもとに出来た本である。
(出版までに20年以上を要した理由については本書にその経緯が記載されている。)写真家の須田氏の美しい写真と、
立花氏の紀行文がなかなかよい。ゼウスと人間の女の混血児であるディオニュソスの不完全な不死性と、イエスの復活神話や
「一粒の麦もし死なば」という教えとの相似性。 アジアの地母神信仰がギリシアのアルテミス信仰に変容し、それが
さらにキリスト教のマリア信仰に姿を変えたこと。新約聖書「ヨハネ福音書」の「初めに言(ロゴス)があった。
言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。」
というくだりが、新プラトン主義哲学のロゴス論を下敷きに書かれたことなど・・。ギリシアの神々は、一神教である
キリスト教の成立や普及過程において、形を変えてしぶとく生き残っていったということが、この本を読むとよく分かる。
・・・・・
2006年09月04日(月)
1980, ある首斬り役人の日記 −2  \(^▽^*)おはよう         
               −読書日記
 HPで「首切り」と検索したら、イラクの首切りの生々しい映像が出てきたのには驚いた。
 さすがに首切りの場面は見なかったが・・ 更に、次の内容があった。 
  ー日本の首切り役人のことを書いた内容であろう。
罪を犯したある男が首切り役人に首を刎ねられる羽目になった。この男は最後の最後まで抵抗し、たとえ首を切り落とされても
執念でお前を末代まで恨んで、祟ってやると罵った。首切り役人は「そう思うのなら切り落とされた首で自分の草履をくわえてみよ。
(字数制限のためカット 2013年9月4日)


4553, 51年前の小学校の写真にタイムスリップ ー2

2013年09月03日(火)

 写真を見ながら、当時の20人の男子同級生のフルネームと実家が何をしていたか思い出してみた。
私を除いた男19人中15人の8割近くのフルネームと、各々の実家の職業は全員、憶えていた。半分以上は幼稚園から同窓で
何処かで同クラスだったためだろう。 焼鳥屋、自転車屋、ペンキ屋、乾物雑貨屋、美容院、衣料卸、床屋2人、和装店、電気店、
青果卸業など、駅前もあって商店主の子供が多い。実家を継いだのは3人。 青果卸業(兄が継いで現在、社長をしている)
と土田塗装以外は、消滅?している。51年も経てば当然のこと。中学校は全員、東中学校に進み、2、3年時での同クラスは
男は私を含めて7人。女は3人。 その後の人生をみると、高校と、大学に進むにつれ分別され、そこで大部分が決まってしまう。
いや、それ以前から血筋で決まっていた? 当時、4Fの鉄筋の商店ビル3Fの住居を、この頃に駅裏に引っ越していた。 
やっと商店内の生活から解放されていた。 と同時に、勉強に遅ばせながら目覚め始めていた。目の前のライバルがハッキリ
したこともある。実家の力関係と、相撲の強さと、学業の成績で、微妙な力関係が出来ようとしていた。
 その頃、ある姉に成績の良くなるコツを教わった。「一つでも良いから一度、テストで百点をとってみな! そうすると、
他も自然に良くなるから!」 その時、「これだ!」と思い、実践したのが勉強の目覚めの第一歩。他に店から自宅と生活環境が
変わったことが成績に大きく左右をした。 また中学二年時に兄と同室だが、勉強部屋と机を与えられたこともある。
勉強の出来不出来は勉強空間の親の配慮が大きく影響するもの。 当時は隣家に遊び好きな一歳年上の子と遊びまくっていた。
その上、居間にTVが入って夢中になっていた中ニの後半に、それをみた同じ姉に、「慶応高校に挑戦してみな!」と言われた。
そこでガムシャラな勉強を始めた。 一年の即席では無理だったが、その挑戦がなかったら地元の受験校さえ入れたかどうか? 
そのことから具体的に目標を定め無我夢中になる重要性を学んだ。大した玉でないことは確か。だから水面下の独学は必要だった。
 話は逸れたが、写真を通し当時にタイムスリップすると、同級生と自分がディズニーランドのキャラのように見えてくる。
頭でっかちで、親が、そのまま縮小したような姿で、未来の人生に向かって精一杯生きていた。 この切り口は、人生の全ての
場面に当てはめることが可能。自分とは過去の積み重ねから成り立っている。記憶を失うとは、自分を失うことになる。
 この文章を書いていて気づいたことだが、80歳まで、あと12年の現在、生から生前(無)に逆照射すれば、同年代になる。
その意味で、団塊の世代にとって、昭和三十年前半は意味がある。里帰りということか。 やはり「人生は生きているうち」。
・・・・・・・
4178, 事実と真実と真理について
2012年09月03日(月)
  * 「真実」と「事実」の違い
 事実の中にある真実とは、そもそも何かという素朴な問いかけがある。 以前、自宅に電話の苦情があった。
「さっき、お宅の犬に突然に飛びかかられた。子供のヒモが外れたのは分かるが、危険過ぎないか。腹の虫が収まらないので、
電話をした」と御立腹の様子。ところが家には子供も犬もいないので、「何かの間違いではないですか?」というと、「御宅の
前のアパートに住人で、駐車場から突然、飛びつかれた」という。そこで「電話番号を間違えたのでは?」というと、
「間違いない」と、押し問答。後で分かったことだが、自宅奧の貸家の住人が、何時の間に犬を飼っていたのである。それなら、
勘違いをするのは分かる。アパートの住人は裏に、もう一軒、家が存在しているなど知るよしがない。事実は、我家の駐車場から
飛び出してきた犬が突然、飛びかかったのである。その現象の事実は、そうだが、真実はこうである。今回の倒産劇で、B層、
C層レベルの創作話が多く流れたようだが、誰も好意的解釈などするはずがない。
 ー 以下は、、ネットで、「事実と真実」を検索してみた内容である ー
≪●「実際に起こった事象『事実』に対して、それを個人、または集団の心理、または理解を通して視られるものが『真実』である」
 ● 事実と真実の違いは、5Wのうち「いつ、どこで、だれが、何を」について言うのが事実です。
  表面には現れない「なぜ?」を見つけるのが真実を見つけるということ。 真実を追求するというのは、事件や問題の
  背後にある何故そうなのか、を見つけること。
 ● 真実・・・嘘のないこと、本当のこと
   事実・・・現実に起きたこと  本来なら、「真実」=「事実」にならなければならないが、そうはならないことが多く、
 「多くの人間は見たい現実しか見ない」。 真実とは「見た人が見たい現実をみているもの」、 事実は一つだが真実は
 人の数ほどある。 真実はそれを口にする人の価値観と切っても切り離せない。 「事実」は人間の外部にあるものだが、
 「真実」は人間の内部にあるもの。「客観的事実」という言葉はあっても「客観的真実」という言葉を聞かない。
 問題は、人の認識がそういうものである以上、はたして、「事実」を「事実」として認識できるのか?という問題が生じる。
 そうなると、「真実」というのは本当にあるのか?という疑問も生じてくる。≫
▼ 寺山修司の言葉に「真実の最大の敵は事実である」がある。真実は、事実の中にある、それぞれの解釈でしかない場合が
 多いからである。世間では「事実の最大の敵はウワサである」になる。それがウワサがB級層では事実になってしまう。
 教養とは、そのへんを見分ける知識の蓄積をいうが、とにもかくにも考えない人が多い。ひと事ではないが。そういえば、
 学生時代のゼミで、ケーススタディを一年間、してみた。次回分のケースのプリントを渡された内容を10人ずつ二グループに
 分かれて議論して、それを持寄り20人の円座を組んで再び議論する。提出された問題の中の答えとの誤差を、更に議論する。
 半年も月4回もしているうち、その誤差が無くなっている。事実=現象の中の真実、真理を見通す能力の訓練だったことになる。
 ・・・・・・
3813, 無知の涙
2011年09月03日(土)
 * 問題は悪意より無知から生じる――ハンロンの剃刀
  ー「ハンロンの剃刀」とはー
「無能で説明できる現象に悪意を見出すな(愚かさによって充分に説明できることを悪意のせいにすな。)」
  頭にきた行為が愚かさで説明できれば、必要以上に悪意を想定するな!ということ。
この定理を知ると、不満やトラブルに遭遇した時に、相手が本当に悪意に基づくものか、無知や愚かさからくるものか、を
間をもって判断できる。 そうすれば、その大部分が無知からきていることを知る。 しかし現実に厄介なのは、悪意より
無知からくる方で、無知の自覚がないから始末が悪い。 「知らぬが仏の恐ろしさ」を、他者に、あまりに多く見てきた。
いや、それ以上に過っての自分を振り返ると無知の涙を経験してきた。今もか。 人生は無知から生じる問題を解決するプロセス。 
大体のことが、この法則で(少なくとも他人への)怒りをなだめることができる。それで問題は半減する。 
「本来、人を理解するのは至難のわざ」である。 自分さえ分からないのに、他人のことなど分かるわけがない。
その他者に悪意を見出しても何にもならない、という道理は納得できる。 一番怖いのは、無知の善意。あとで、悪意がついてくる。
 ー「ハンロンの剃刀」をネット検索で調べるとー
【 ハンロンの剃刀とは、オッカムの剃刀の代用品である。あくまで代用品なので、切れ味はそれなりである。 
しかし、その切れ味の悪さは単に研磨屋の腕が悪かったり、粗悪な鋼を使ったりしているためであって、別に悪気があった訳ではない。
もちろん穿った見方をすれば「腕を磨いておかないのは研磨屋の怠慢すなわち悪意である」とか 「素材に良質な鋼を用いないのは
商業倫理に悖る卑劣な行為」とか言えないこともないが、そう何でもかんでもバッサリと切り捨てないのが優しさと言うもの。
要するに「無能な(≒悪意はない)んだから、許してよ」という体のいい言い訳。「無能で説明できるなら、それに悪意は存在しない。】
 何かドッキとする言葉。 無知蒙昧を、一々取り合わない、腹を立てるだけロスということ。出来たら、孤高でありたいが・・無理。
  ・・・・・・・
3448・秘・異郷の旅、よもやま話・・5
2010年09月03日(金)
 * ツアーあれこれ ー4
・パック・ツアーに参加するか。・旅行代理店に行って窓口の担当に旅行の目的をいい、行程を組んでホテルや飛行機の手配をしてもらうか。
・旅行先の現地のパックを探してもらい飛行機の搭乗券と組み合わせるか。・それらをネット上で、全て予約を組むか。
・それとも、飛行機だけを予約して、現地に行って出たとこ勝負で、 ホテルとか行き先を決めるとか、旅行にも色いろな方法がある。 
 人見知りをする私にとって、パック旅行は最適なシステムである。 旅行パックシステムは欧米から発展してきたもの。 
全国から同じ目的を持った者がチームを組んで旅の目的を達成する。 その最適パッケージを代理店が企画販売するのがパックツアー。 
激しい競争の中で、パッケージの商品は年々、改良されていく。 その進化したシステムを如何に合理的に使うかである。 
インテリと称す何?が時々、パッケージ・ツアーを罵倒している文章に出くわすが、彼等はそのシステムの合理性を知らない。
これがなければ、「ケニアでヌーの河渡り」や、タンザニアのセレンゲッティーの草原で、チーターの狩りなど見れる訳がない。
それを可能にするには、10倍近い金額と期間が必要になる。 それ以前に、そんな気持ちになれない。
南米のべネゼイラのテーブルマウンテンに、地元のインディアンが先導するボートに乗って奥地にいき、キャンプをし、飛行機で上空を旋回し、
エンゼルフォールの滝の下から1千Mの滝を見上げることなど出来るわけがない。 南アフリカで、ボツナワとザンビアの国境の橋の上から
100mの高さからのバンジージャンプなど出きようがない。代理店は普通のパック商品では生き残れないから、各種のパッケージを開発する。
特に中小は、自社の強みが何かを探し出して、それを売りにする。ケニア・タンザニアを専門にしたり、イスラエルだったり、アマゾンだったり。
それをパッケージにして、可能な限り格安に売りに出してくる。面白いところでは、ツアーのベテランを狙って、秘境・異郷のツアーに、
かなり厳しい教育の入った自前社員を組み合わせた一ランク値段の高いパッケージを売っている代理店もある。
それも、ランクがあって特Aの客層狙いだったり、A狙いだったりする。特Aの団体を時どき見かけるが、人相からして違う? 
一度、パタゴニアのツアーで参加したことがあるが、成程である。
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3073,飲み屋横丁考
 2009年09月03日(木)
 このところ重い内容が続いたので、飲み屋横丁考でも・・・
飲食街は幾つかの飲み屋横丁と、飲食ビルの組み合わせから構成されている。飲食街そのものは50年〜60年の長年の歴史の上に成り立つ。
その飲食街も、この不景気と生活様式の変化で存続そのものが揺らいでいる。東京は銀座、新橋、六本木、新宿など地区で、客層が分けられるが、
一般的には、年齢、客単価、一次会、二次会など目的などで大まかに分かれている。 この数年は地元・長岡で飲む時は、殿町の一角にある
3メートル通路両側に8軒が並んでいる横丁の二軒で飲む機会が多い。 ところが先日、行きつけの隣の店に新たに入ってみた。
 これで8軒のうちに6軒目に入ったことになる。
・先日開拓した「笑いキャラ」の店である。30〜40歳代の客層の店という。
(そこで、その横丁の各店の話題をしていたら、5軒の店が年代別の客層で分かれているのに気づいた)
・私が通っている店は、50代後半から60代後半のカラオケを売りにしていた名物店。
・もう一軒の行きつけは医者や夫婦が何組が常連の店で50〜65歳前後の店。 
・極めつけは70歳後半から80歳代の店がある。 ママは当然80歳前後。知らない人が入ったら驚く。
・それにフィリッピン人と、韓国人がママの店が一軒ずつある。
・残りの二軒は入ってないが、何かの違いがあるのだろう。
自然に店舗構成がそうなったところが絶妙である。基本として高い店は行かないので少し離れた横丁である。
そこだけで店を替えていれば十年間は持つことになる。 吉田類の「酒場放浪記」という番組があるが、店の中より、最寄駅から
周辺の商店街などを歩くことから始る。背景から客を知るのである。大きな飲食店ビルは、オーナーが意識的にテンポ構成をするのだろう。
そういえば数年前に、地元で最高級?のスナックビルが倒産した。 この御時勢、そうだろう。
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2708, 政局の話
 2008年09月03日(水)
福田首相の辞任表明で、政局が動き出した。私は政治に対しては関心が薄く、なるようにしかならないというスタンス。
どれもこれも、大した人物はいない。 ただし、ここまで国が行き詰まると、無関心ではいられない。
これまでの日本人は、どういう訳か自民党の仕掛けに弱い。麻生を目先立て、何とか政権を維持しようとするが、負けるだろう。
もしそう判断すれば、小池百合子を首班に立て、小泉を行政改革大臣担当副首相として、捨て身の作戦の可能性がある。
しかし参院との捩れを解消するためにも、一度は野党に政権を譲って国民の声を聞くのが筋。民主党も、直ぐにボロが出て、
政界の再編成になること必定。本来はアメリカ大統領選挙の結果を待って、アメリカが民主党なら日本も民主党、共和党なら自民党にすべき。 
現状は自民党政権が政権を持ち続けること自体に問題。見ている分には面白いが、日本の置かれた現状があまりに厳しい状態。
民主党が政権をとって、日本を一度解体して日本合衆国を作り変える位の改革が必要である。日本に巣くっている官僚を解体して、権限を
8州に委譲することだ。*北海道、*東北6県、*新潟、群馬、長野、石川、富山、福井の中部州、*東京、埼玉、千葉、神奈川の関東州
*静岡、愛知、山梨、紀州の何県かに飛騨と、岐阜県など名古屋州、*大阪、京都、兵庫の関西州、四国と広島、岡山などの中国・四国州、
そして*九州・沖縄州である。そして政治形態はアメリカをソックリに真似ればよい。 現在の日本には無理だろうが・・
しかし、待ったなしのところまで来ているのに、日本人そのものがアメリカの実質統治の戦略で、骨抜き。
日本の政治家で気骨のある男がいないものか。小泉は批判はあるとしても世界のグローバル化に対応する方向づけをした。
現在は「アメリカ一極から、中国・インド・ロシアと多極化する世界に対応する方向付け」をしなければならない。
その意味では日本は歴史的に見ても大きな転換期にある。その点で麻生は選挙管理内閣レベルの繋ぎ役。阿部、福田と、
麻生と、二代目。 それも、一人として選挙で洗礼されてない。麻生は衆院解散後に否認されるのは当然の成り行きである。
「御前に何が出来るのか?前任者と比べてみればドングリか、それ以下!」の、一言で終わり。
「御前様、直ぐにバラマキを始めただろう! 哀れなものだ。」は追加。
 政治談議を、このように書いてみると面白いものだ。   それにしても危ない!
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2007年09月03日(月)
 2344, 糖尿病について    オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァ踊♪
昨日の朝日新聞の朝刊のトップページに「糖尿病は万病のもとーアルツハイマー発症4・6倍、ガン死亡3・1倍」が出ていた。
アルツハイマー発症4・6倍、ガン死亡3・1倍、脳梗塞と心筋梗塞が約二倍というから、本当に恐ろしい病である。
年一度の検査の際で、インシュリンの点滴を受けている部屋を覗くことがあったが、いつも多くの人がいるのに驚かされる。
そこで、どの位の人がなっているのか早速、検索ー キーワード「糖尿病患者の人口比」で調べてみた。
 日本の人口比では6%(ちなみに肥満の多いアメリカでも6・6%)。
5年前の調査になるが、糖尿病が強く疑われる人の数は740万人、その可能性がある(糖尿病予備軍の数は880万人といわれている。
40歳から74歳の中高年男性の32.2%、女性の31.5%が糖尿病有病者か予備群と推定される。その割りに、周辺ではあまり持病の人は少ないが、
敢えて自分から名乗らないからか。糖尿は親からの遺伝が多いと聞いていたが、今回の検索で「両親が糖尿病だと子供は50?が遺伝し、
片方が糖尿だと25パーが遺伝する」という。私も家内も、両親とも糖尿の系ではない。 また親戚が糖尿病という話は聞いたことはない。
酒好きなため糖尿に関しては気にかけている。殆ど砂糖とか、甘い菓子は口にしないし、酒のツマミは肉類はさけて、魚類や酢のものを
注文するようにしている。それと、ウォーキングも欠かさない。「糖尿になりかけたが、通勤の片道30分を徒歩通勤に切りかえたら直った」
という話を聞いたことがあるが、糖尿病になると直ることは絶望的ともいう。糖尿になってしまうと10年以上は寿命が短くなるということか。
死亡原因の間接的な病であるため目立たないが、しかし恐ろしい病である。 糖尿病治療は食事療法・運動療法・薬物療法の三本柱という。
その大きな要因である生活習慣の改善には食事療法と運動療法が特に重要という。そのために、医師の診療・指導を受け、正しい食事と
運動を生活に定着させることだ。その糖尿病予防には一にもニにも肥満解消が大きな比重を占める。 最近、ストレスのためか?
急に太ったあの人、大丈夫か? 私も実はってなことはないのか?? これだけ酒を飲んできたんじゃ・・ ホナナァ☆|∀・`@)気をつけて!
・・・・・・・・・
2006年09月03日(日)
1979, 冷蔵庫を20年ぶりに買い換える    
  (字数制限のためカット 2013年9月3日)   


4552, 2050年の世界 ー3

2013年09月02日(月)

            「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 英『エコノミスト』編集部 (著) 
   * 米国の衰退の予感と、勝ち組になる国の姿は?  
 日米欧のうちG7の中で残るのは米国だけと予測。人口衰退の国に明日はないことになる。その中で、日本の影は一層、
 薄くなるのは、現在の日本を見ていても分かる。米国の実質支配下の隷属国家、親が転ければ子も転けて当然。
    〜まずは、その辺りから抜粋〜
《 米国民は、つねに競争、解雇、収奪、殺害のリスクにさらされている故に脆弱感を持ち続けている、だから宗教にすがる、
と分析する。 次に・高齢化に伴う医療費・年金の財政圧迫であり、投票率も高く献金も多い高齢者の仕様の老害政治である。
高齢者に有利な財政・優遇策ではなく、若者の勤労意欲を引き出し、結果として高齢者をよりよく支えさせる賢明な政治に
切り替えよ、と主張する。 エコノミスト誌の予測を読んで、私なりに導いた結論は、次の点である。 
 これからの「国々の興亡」は、中産階級を育て、維持し、大いに嫁がぜる中産階級大国と、若年層の勤労意故、社会・政治参加、
高齢者を支えるコミットメントを上手に引き出すスマート・カントリーが勝ち組になる。それはグローバル化を活用しながら、
可能にしなければならない。 グローバル化の波頭でサーフィンするのではなく、海面からは見えない潮流をとらえ帆を張ること。
それには黒潮をつかまえることだ。そのひとつは、シュンペーター的起業家精神。 
 ローレンス・サマーズは「21Cは、シューペンターがもっとも重要なエコノミストになるだろう」と看破したが、
グローバル化により創造的破壊がグローバルに解き放たれている。その怒涛に渦から湧き上げるプランクトンを貧ること。
もう一つはグローバル・リテラシーである。いま、それは英語である
  * 二〇五〇年の日本の影は一層、薄い。
 2010年に1億2600万人を打った人口は減少し続ける。人口減少は毎年1%GDPを押し下げる。GDPは世界全体の1.9%、
(2010年は5・8%)。人口一人あたりのGDPも、米国を100とすると、韓国の105に比べて日本は58へと沈んでいく。
しかし、日本の真の問題は人口とGDPではない。 日本の科学関係のノーベル賞受賞者は15人しかいない、オーストリアは日本の
人口の7%に過ざないが、受賞者は14人と日本より一人少ないだけだ。なぜなのか。 エコノミスト誌は、権威に挑戦することを
目己規制するからだ、と見る。 「欧米に追いつき追い越せ」の後に何を生み出すのか、それが見えない点では日本も中国も
同じである、というのである。向こう40年間、日本にとっての最大の挑戦は、シュンペーターと英語ということかもしれない。
{ *参考  20世紀の経済学者ヨーゼフ・シュンペーター(1883〜1950年)は、イノベーションと改善を求める起業家の意欲が、
 いかに大きな変動と変革をもたらすか注目し、起業家精神を「創造的破壊」をもたらす力と考えた。彼によれば、起業家は
「新結合」を遂行し、古い産業の衰退を促す。確立されたビジネス手法が、より優れた新たな手法により破壊される。} 》
▼ 現在の日本がシューペンター的起業家精神を持って創造的破壊が可能だろうか?といえば、疑問である。
 それより国家の概念が、情報端末とネットの進化で破壊される可能性が高い。ますます個人化が進み、個人が国家や、
 地域社会の垣根を超えて行き来する。10年前、誰がPCが、タブレット、スマートフォンの大きさになると想像しただろう?
・・・・・・
4177, 哲学で自分をつくる ー6 (デカルトー②)
2012年09月02日(日)            
  第二章 まだ自分をさがしているのか?(ーデカルト― ②) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」瀧本往人 (著)  
   * まずは、「感覚」「現実」「数学」を疑うことから
 確かに間違いなくある五感と、現実。 デカルトは、まず、それを疑った。現実と思っているのが実は夢でないかと。
確かに感覚で捉えても、錯覚ということもある。 まず、感覚と現実をデカルトは疑った。なる程、デカルトは近代哲学の祖である。
ここから、まず疑うのが知性、理性の出発点。 膨大の情報化の真っただ中で、このへんの事を、よく分かってないと、その洪水に
流されしまう。いわゆるB層の人々になってしまう。割り切ってしまえば、それも良いが。哲学で自分をつくろうとしているのだから、
現実も、感覚も、まず疑うことから出発しないと・・ あの人たち?のようになる   ー その辺の記述を抜粋してみる
【◎ 最初に疑ったのは、「感覚」である。一般的には、自分が見たもの感じとったものは絶対に正しいと考えたくなるが、デカルトは
 これに依存してはならないとした。 なぜなら、見えているもの、感じているものは、しばしば「錯覚」を起こすからである。
 ・・・要するに自分からの確信は世界を正確にとらえているとはかぎらない、ということである。逆に、この錯覚にさえ気をつければ
 自分の感覚もあてになる、とも言えるが、デカルトは、どんな場合も間違いなく依拠できるもの、条件なしのものを追求しているので、
 感覚には依拠できないとする。
◎ 次に疑いにかけたのは「現実」である。実は第一の疑いである「感覚」とこの「現実」とは重複した部分がある。
 実際に見ているものは、「感覚」でもあり、「現実」でもあるからだ。だが、自分が今、経験していること、つまり感覚も含めて
 把握していることが「リアル」だ、というイメージならば、「現実」を疑うデカルトの意図は少し明確になるだろ。
 この「現実」に対してデカルトは、もしかすると、今現実と自分が思っているものも夢なのではないか、と疑ってみた。 
 夢なのか現実なのか、その見定めができない、ということである。こでもやはり、自分が夢を見ていないということが証明されれば
 問題はなくなるのだが、むしろデカルトは、その根拠を必要としているので、確かなことではないとみなした。
◎ そして第三に、デカルトは数学を疑う。彼は最も擁護したいものを一度懐疑にさらしたことになる。数学的な真理は確かに、その
 体系においては真理が成立しているかのように見えるが、新たな真理が発見されてしまうと、今まで信じてきたものもあっけなく
 崩れることがある。デカルトはここで、数学を特権視せず世の中に多々ある約束事と同様のものとして、不確かなものとみなす。
 このようにしてデカルトは、用心く、私たちが最も依拠するであろう「感覚」「現実」「数学」にそれぞれ落し穴があると強調する。
 つまり、特に確からしいと思われているものさえ不確かなのだから、「すべてのものごとは不確かなものなのだ」ど判断するのだ。】
▼ 般若心経の「色即是空」の、色が現象であり、受想行織が感覚になる。それらの全てが、即、空であり、あてにならないと
 デカルトは看破したのである。まず常識を疑うことが第一歩だが、それを疑っている自分の感覚を疑ってかかることこそ必要である。
 緑の原野からサバンナに出てみて、「あの原野での出来事は何だったのだろう?」と、振り返ると、何も疑問を持たないで同じ行動
 パターンを繰り返していた自分が見えてくる。そして、現在も同じようなことをしている。根こそぎ、否定すべきことが出来ない。
 それをするには常に死を意識しなくてはならない。しかし、目を背けている弱い自分が、ここにいる。
 ・・・・・・
3812, 世の中、すべからく代理・代行  −2
2011年09月02日(金)
  国会議員、地方議員も間接民主主義による、国民や地域社会の代理・代行業になる。
・セブンイレブンなどのコンビニは、車や徒歩で10分以内の住民が、買ってから10分以内に消費するニーズを満たす代行の店。
 土地持ちのオーナーに全国区レベルの情報とシステムの提供で、互いの利点を生かしあっている。
・配送業が供給過剰のため熾烈な競争に入ったが、その中で一部業者は逆に成績を伸ばしていった。 家電なら、TVやDVD、
 冷蔵庫、洗濯機などの配達先の取り付け作業を家電店に代わって請負うのである。パソコンもしかり。
 運送業者が電器の取り扱い経験者を運転手として雇えばよいのである。
・スーパーの流通センターから各店の配達も、最終店出し直前まで請負う。
・先日、寿司の宅配専門で伸びている業者が、東京の山の手の有名店の宅配だけを専門に請負う会社運営をTVで放映していた。
 売り上げの4割を店から分けぶんとして貰う。 それでも有名店の店舗運営の経費からみても、採算がとれるという。
・代理出産もあるが、ここではやめておこう。
・その中で面白いのが結婚相談所である。これは昔からあったが、最近はネット時代。一番、微妙な部分を考慮に入れた仕組みづくりが
 ポイントのようだ。 料亭などが、最近では料理教室をつくり、そこに男女を集めて出会いの機会を提供する。
 中高年や、エリートだけに絞り込んだコースとか、外国人との結婚を求めている男女とか・・・
・面白いのでは、ゴーストライターがある。有名人や成功した社長に代わり一代記や、人生訓などを書く。
 ケネディ、オバマ大統領にも名ライターがいたが、あくまで影の身である。
・戦国時代、江戸時代の大名にも名筆の書き手がいた。 それは、それで専門職は必要である。 
激しく時代が変わる中で、一人で何もかもは不可能、その中で、いち早く、変化のニーズを察知して、その代理・代行のシステムを
提供する必要性がある。 デジタル化とネットによる情報化が別世界を新たに出来つつある中で、代理・代行がキーワードになる。

 ・・・・・・・
3447.秘・異郷の旅、よもやま話・・4
 2010年09月02日(木)
* 初めての21歳の欧州旅行 ー3
 初回の欧州旅行で、帰国して半年間は自失呆然状態であった。 自分の心が粉々に粉砕されてしまったようだ。
カルチャーショックである。今から思うと、これが良かった。両親から受け継がれていた小さな世界の価値観が
根こそぎ壊れたのである。それと「自分は東洋の小さな島国・日本の黄色人種」という目線を得たことである。
これをキッカケとして、根こそぎ自分を変えなければ学生時代の4年の自由時間を与えられた価値がないと気づいた。 
それと社会、世界は、不平等で格差であること。世界には豊かな人種と国家があり、反対に貧しい人種と国家が満ちている。
その中で生きていく自分を作る基礎を学生時代に培わなければと、気づいたのである。とにかく世界は広く、深い一端をみた。
 話は戻るが、ロマンチック街道から見た、川添に展開するお城と、景色。それと、早朝にスイスに霧の中から見えたレマン湖と
スイスの渓谷の美しさに言葉を失ったことを思い出す。 毎日にように、これまで、想像すらできない光景を、これでもか、
これでもか、と見せられるのだから・・ 当時、中高年の人で、あまりのカルチャーショックで精神の異常をきたす人が多いと聞いた。
現在のように、写真に、テレビの旅番組に、ニュースに、映画の背景として過剰に入ってくる時代ではない。 私のように、
中高校の白黒の小さな写真でしか見たことがないものを、次から次へと見れば、感動の蓄積で、脳が変になって当然である。
 幕末の獅子たちで、当時、欧米渡航経験があるかないかで、動乱の中で大きく、その後を左右したというが、
当時の彼らは欧米の社会を驚愕の目で見てきて近代国家の絵図を描いたのである。時代も、スケールも、全く違うが、
それでも21歳での経験として、大きな財産になっている。
 ・・・・・・・・・
3072,コカコーラのビン
 2009年09月02日(水)
最近、歴代のコカコーラのコマーシャルをまとめたDVDが発売され話題をよんでいる。
それぞれのCMに出演しているタレントと、その時代背景が織成すミニ物語が、そこにある。
目隠しをして、ファンタとコークの飲み比べをすると、ファンタのほうが美味しいと答える人が多い
という実験結果がある。 CMと、ビンのカタチのイメージの洗脳が、そうさせているのだ。
「コークのビンはグラマー女性の全身を模ったもので、理想的なスタイル」という。
 ーその創製の逸話を偶然ネットで見つけた
【 1923年、アメリカのある町にケップマン・J・ルートという青年がガラスビンを作っていた。 かっこよく、しかも中身が
多く入っているように見えるビンはないものかと考えていたある日、恋人がふらり、仕事場へ入ってきた。 いつもより色気がある。
タイトスカートをはいていた。 このスカートは膝のところが細くなって歩きにくいのが欠点だが、ヒップの線が美しく出る。
彼は、それを元にしてコカコーラ用のビンを作って、社長のところに出かけていった。
「スタイルがよく、握り心地も良い。すべらないビンのプランができました。」 社長は気に入ったが素知らぬ顔をした。
3日目、ルートはビンとコップをもってまた出かけていった。「社長、このコップとこのビンでは、どっちが容量が多いと思いますか」
「そりゃ、ビンに決まっているさ」 青年はコップの水をビンに注ぎはじめた。コップの水が入りきらないうちにビンは、一杯になった。
(う〜ん) 契約は即座に成立した。 ケップマン青年の得た金は300万ドルから600万ドルだといわれている。】
 以上だが、米国でグラマー女性がコーラと供に看板に書かれた絵を見たことがある。
「何でグラマーな女性にセクシーさを感じるか?」というと、「騎馬で攻めた男が片手で女を持ち上げやすいのが、腰が括れていた女」
だから、という。 本当のような嘘のような話だが。 コーラも、括れていて持ちやすい。
ところでコーラの原料のコークは麻薬のコークじゃないのか? 薄けりゃ害にならない?
 何か飲みたくなるのは、そのせいか? それに刷り込みでもされれば・・・水に麻薬を混ぜて数十倍の利益をだしているのだから、
ドエリャイ儲けになる。 あの地元の超大物(故人)がコーラの日本の販売許可の見返りに数パーセントの利権を得ていた、とかいう
噂があったが、本当かウソか? 「ありゃ、コークを原料とするから駄目」と言われりゃ、出すしかないのは分かる。
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2707, うつ病について
 2008年09月02日(火)
 精神病や精神症について、何度か書いてきた。 誰もが、何らかの精神症は持っているし、その一歩手前の経験をしているはずだ。
(まともであればだが)言うか言わないかの差だろうが、家系や、性格もあるから極々軽い人もいるのだろう。青年期と、
老年期は誰もが躁鬱気質を持っており、乗り越え方は、それぞれある。私も神経症など多くありすぎて説明するのも大変だが、
それを気にしなくなったのは、50歳過ぎた頃だろうか。私を知っている人は想像すらできない神経症を一人静かに?乗り越えてきた。
青年期のうつ病的な体質も、神経過敏症も、視線恐怖症も、現在では殆ど消滅をした。
誰もが、何らかの深刻な神経症を持っているのを実感したのは、40歳を過ぎてからである。
60歳ー還暦頃から、少し鬱っぽい日々が多くなっている。もしかしたら、この時期になる初老性鬱病の触りかもしれない。
しかし、私の場合は、絶対に?重症にはならない確信がある。 まあ、明日のことは分からないが。
北欧には白夜の反対の黒夜があり、一日の日照時間が数時間しかない。その冬の時期に起こるうつ病が深刻と旅先で聞いた。
「季節性感情障害」といい、大半は女性がなり、家系もあるという。
治療には、特殊の明るい光線を一日三十分当てると症状がかるくなる場合が多いとか。
元々、エデンの園はアフリカと古人類学者の説があるが、その反対の冬の黒夜は病気を誘発するのだろう。
日本で最も自殺の多いのは秋田県。北欧と同じく冬の時期が長いのが自殺を誘発するというのも肯ける。
ハワイやフロリダで波の音を聞き、パイナップルやオレンジでも食べ、踊って歌っていれば鬱などなりようもない。
私は一月生まれもあり、冬の時期が嫌いではない。むしろ好きであるが、美味い餅を食べ、熱燗で鍋をつつき、
コタツでDVDの面白い映画を見て、熱い風呂にユックリ入っていればマイナスな気分になろう筈がない。
しかし鬱病の恐ろしさを周辺で見聞きしている。無線のチューニングのように、周囲のマイナス、
過去のマイナスを拾い上げ自分の中に蓄積していく。人生の様さまな後悔のネタが次々と思い浮かんできて、
その海に溺れ、もがくようになる。そして深い深い鬱の闇に己が沈没してしまう。 それが鬱病である。
その数歩手前の精神状況が殆どの老齢者の心のうちというから恐ろしい。そういう連中が寄り沿うと、人間は後退をしていくのが
リアルに見えてくる。他人事ではない、まったく。とにもかくも、腹から笑える場所を幾つか持てるかである。
私が鬱にならないという自信があるのは、毎朝の散歩があるからだ。これを始めて25年ほどになるが、朝の陽光と、新鮮な空気と、
鳥と虫の鳴き声と、川のセセラギが身体にも精神に良いからである。さらに土日の笑いの時間の設定である。 
それと毎日一度の仏前の祈りと、般若心経である。それを実行していても、どうも少し欝っぽいのは、そういう時期のためだろうか?
過去のマイナーの記憶がフラッシュのように飛び出してくる。 それが、歳をとったということか?
 欝的気分も日常の塩味として、必要であるが。           -ω-)..。oо○(゜+。鬱々゜+。)
・・・・・・・・・・
2007年09月02日(日)
 2343, ポスト・モダン主義とは          (o゜▽゜)o オハョ〜 ゴザマス!
最近は、あまり以前のような大物?が、居なくなった。 これは時代の変遷のためである。 
高度成長期の、田中角栄とか、小佐野賢二とか、堤義明とかいうのは、存在しえなくなったのである。 
存在したところで、「それが何じゃい!」と誰も仰ぎ見たりはしない時代になったのである。
解りやすい事例として、イチローが大リーグで超一流の選手として認められたところで、
「ああ、そういう人がいる、凄いな~」で、それはそれはご立派なことで!と、頭に過ぎってお終い。
それより、それぞれが自分の好きなことを見つけ、それぞれの楽しみを求める時代になったのである。
それは考えてみれば当たり前。それだけ、社会が成熟したということだ。第二次大戦後、マッカーサーが
日本を占領したとき言ったのが、「日本人は10歳の子供」である。欧州から見れば、そんなものかも知れない。
といって、西欧が未開の原始人より文化が進んでいるということではない。
モダン=大きな成功とやらを求めた時代は終わったのである。これを解りやすく書いたある本があった。
『世界をよくする現代思想入門』高田明典著である。 情報化社会は、ポスト・モダン主義をますます加速させる。
日本は、いや世界は、9・11が現象として大転換期と日となる。その意味で、あの男ービンラディンは歴史に残る。
アメリカ現大統領は、「アメリカの凡庸・親子大統領の息子」として歴史に留める。
私が生きた戦後のアメリカ大統領では、その意味ではカーターと肩を並べる??の人物。 その程度ということだ。
  この本の一部を抜粋してみるー  P-158
  (字数制限のためカット 2013年9月2日)


4551, 2050年の世界 ー2

2013年09月01日(日)

           「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 英『エコノミスト』編集部 (著) 
   * 船橋洋一の解説 〜1
 最後の船橋洋一の解説が簡潔に大筋をまとめてあり、これだけでも読みごたえがある。四十年間の最も意外の黒鳥は
インターネットには全く同調する。まずは、その辺りを抜粋してみる。
  ーその部分を抜粋してみるー
≪ 四十年先の世界を予測しようと言うメガチェンジならぬメガチャレンジをエコノミクス誌が試みた。これがいかに無謀かは、
 過去四十年間に世界で起こったことがどれほど不可測的であったかを振り返れば足りる。 例えば、一九七二年の時点で、
  次のような地政学的新世界を誰が予測しただろうか。
○ ソ連が崩壊する。 
○ 中国が世界第二の経済大国にのし上がる。
○ 新興国パワーのインド、ブラジル、南アフリカがサミットを開催する。
○ 日本が二十年間の「失なわれた時代」の揚句、没落する。
○ 米国と欧州連合)が深刻な債務危機に喘いでいる。
○ インターネットが世界を覆い、フェイスブックが、インド、中国に次ぐ十億人の大国になると誰が予測しただろうか。
 過去四十年間の最も意外の黒鳥は、インターネッ卜だったかもしれない。これ一つとっても未来予測に謙虚であるべきである。
もっとも、英エコノミスト誌は、この種のメガチェンジの調査予測をこれまでたびたび特集してきた。 有名な例の一つが、
一九六二年、ノーマン・マクレー副編集長が執筆した「驚くべき日本」の大特集である。 日本が戦後の復活の過程を終了、
世界の経済大国へとのし上がっていくだろうとの日本像を鮮明に打ち出し、世界の日本観を一変させた記事だった。
同記者の日本調査予測モノは、その後、一九六五、一九六七、一九八一年と続いた。 
 今回のエコノミスト誌の予測は世界をまるごと予側している。さらに野心的である。
 ○ 絶滅種が再生技術で復活するだろう。マンモスが一番乗りするかもしれない。(恐竜は雛しいのだろうか?)
 ○ イエメンでは、二〇一五年までに自然水が完全になくなる。
 ○ インドは、文盲人口と大学卒人口がほぼ同数という世界で最初の国になるだろう。
 ○ インドとパキスタンが競争する可能性がある。それが起これば、核保有国同士の最初の戦争となり、もしかしたら核戦争?。
 ○ 中国の繁栄は長続きしない。最大の要因は、人口減のの重圧である。中国の出生率は2.1に落ちる。
  四十年後、日本、欧州と並んで最大の人口負け組となるだろう。
二〇五〇年。最大の人ロを擁する国は17億人のインドである。中国がそれに次ぎ、米国を抜いて、ナイジェリアがその後を追う。
インドネシアも向こう四十年間、人ロポーナス国である。二〇五〇年、アジアは世界経済の半分の規模を占める。この時点でのG7
(七大経済大国)は、インド・ブラジル・ロシア、インドネシア、メキシコとなる。現在のG7で残るのは米国だけになる。・・・≫
 ▼ 過去40年より、今後40年の方が遥かに大きな変化が次々と生じてくる。理由は簡単、スマートフォンなどの情報端末が
  止まることなく進化し、世界中の人たちが瞬時に繋がる流れが加速し、それが一部の特権階級の富、情報、権力の独占を
  破壊することになるからだ。未来学者が、現在の事態は自分たちの予測を遥かに超えていると述べていた。こと知識、情報、
  娯楽面で充分に恩恵を受けている実感がする。
・・・・・・
4176, グローバル化の真実
2012年09月01日(土)
     『 終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか 』水野 和夫 (著)
 なかなか面白い本である。  ーアマゾンの書評の中で解りやすいのをコピーしてみたー
≪「自由とはドルとエネルギーの消費である」と言われたアメリカが覇権国である時代はもう終わった。
 しかるにアメリカはグローバリゼイションという名の〈米による世界経済征服計画)方策でその命を永らえさえようとしている。
(そこには様々なきしみとともに大きな亀裂も生じる)成長を至上命題とする近代資本主義は限界に来ている。
 今行われようとしている景気回復は誰のための景気回復か立ち止まって考える必要がある。それはいわゆる株主
〈言い換えれば上位1%の富裕層)のための景気回復ではないのか。働くものを幸福にはしない。このままでは景気は回復しても
 労働者の賃金は下落する。(一億総中流というほんの少しの間の日本のキラメキは戻ってこない)
 アメリカは金融化で世界経済を支配しようとしている。しかしそれがうまくいかないことはもう証明されている。≫
≪ 水野氏の議論の核心は昨今の世界経済危機が、16世紀以降近代資本主義の構造を前提に反復された景気循環の一齣ではなく、
 こうした構造自体の終焉を示すより根源的事態であるという視点に他ならない。これに匹敵する歴史の根源的危機として
 水野氏が参照するのが、中世封建制経済から近世資本主義経済への過渡期に当たる16世紀である。
 16世紀と21世紀は、氏によれば、数々の点で相似的関係に立つ時代である。 こうした相似性は
1.それぞれの構造において経済が極限を迎えてしまった結果、投資効率が極端に落ち類を見ない低金利に陥ってしまったこと、
2.こうした危機的状況の打開のため前者においては「陸から海へ」、後者においては「海から陸へ」という世界軸の大転換が生じたこと、
3.かかる転換の途上で前者においては地理的空間の拡張、後者においては仮想的空間の拡張とそれに伴う超法規的収奪が、
 それぞれスペイン/アメリカという旧体制維持の世界帝国建設のため実行されること、
4.こうした世界帝国はその反動制故に解体を余儀なくされ、その残骸の上に新世界が現出されること等々に確認されるという。
 21世紀における'1.から'3.への過程は天然資源の希少化に由来する大量生産/大量消費型経済モデルの失速とそれに代わる
 情報・金融革命に基づく仮想空間への資本主義の突出により可能となるが、帝国を支えるかかる空間上の高収益は人件費の流動化
 即ち〈搾取〉により初めて実現する。だがこのことこそ、近代という時代を構成した資本主義と民主主義の幸福なる結婚という
 神話のおわりを明らかにする。「ルールを破ることを許される者と、それが許されない者との徹底的不平等」に基づく
 新自由主義を通じ国家は、前者の後者に対する「搾取」を「規制緩和」を通じ実現する手段に過ぎなくなった。
「労働は、資本にすり寄った国家に裏切られたのである」。グローバリゼーションの本質を、16世紀に起きた同質の変化と
 対比させることによって明らかにしようとする。≫
 ▼ ここで著者は、「グローバル化の真実を、「アメリカ金融帝国システムを中心と、その周辺を結びつけるイディオロギー」
  と、看破している。グローバリゼーションの事実とは、「ヒト、モノ、カネの国境を越える自由な移動」である。
  そして、帝国主義国=アメリカ金融帝国は世界中の従者から「規制緩和」を強要し、「搾取」をする、これが実態であると。
  その手始めが1985年のプラザ合意である。日本は、ここからバブルとバブル崩壊のプロセスを歩み、アメリカに搾取された。
・・・・・・
3811, 閑話小題 ー老いと病について −1
2011年09月01日(木)
   ▼ 血圧について
 酒好きの私が、これまで血圧を意識したことは全くなかった。年に一度の半日検査では、「少し高めで高血圧の入り口にある。
出来たら酒は止めた方がよい」と、いわれ続けてきた。それでも、「毎日の運動を意識的にして続けているので大丈夫」と、判断していた。
最近、二箇所の運動ジムに通いだしたが、両方とも血圧測定器が置いてあるので自然に、毎日のように検査をしている。
だいたい145〜155である。そこでネットで調べてみたところ140からが高血圧の三段階の初段階とあった。
医者にいわれ続けてきた通り。 両親とも高血圧体質で数値をいつも気にしていたので、年齢プラス80〜90が高血圧の境目、
という記憶がある。 65歳として、やはり145〜155が境目になる。 ということは年齢からして、少しは考えなければならない。
晩酌で少し飲みすぎが原因は分かっている。 食事は20年以上前から、肉食を避け魚料理にし、御菓子など甘いものは、ほぼ口にしない。
また塩分も最小にと心がけてきた。 運動も30年近く、早朝に散歩か、最近はサイクリング。 5ヶ月前からは、ほぼ毎日のように
運動ジムに通っている。 反面、晩酌に酒一合から二合と、350mlのノンアルコールの缶ビール1本を欠かさず飲んでいる。
死ぬならガンと思っていたので、血圧に対して少し認識が甘かったようだ。
 昨夜のNHK番組の「ためして合点」で、高血圧と認知症対策のマッサージを紹介していたが、そろそろ一歩踏み込んだ血圧対策を
しなくてはならない時期にきたようだ。 今さら遅いか? まだ遅くないか? ネットや、社会、世界の断層の狭間を目の当たりにし、
健康で長生きをしたい欲が出てきている。 まだ娑婆に未練? が残っているか。
やはり、振り返ると、60歳までが人生の良いところ。 ーべき時に、べき事を、べく、すべきーとは、良くいったもの。
 「 若気のいたり、とは若気のいたりが、むしろ無かったこと!」と今東光が、いみじくも言ったが、その通り。
 「 チョットチョット、あの老人、現実に溺れすぎて、恋もしたことが無いんだって! 」というのも、ある。 血圧と何の脈絡がある? 
かというと、血圧など気にする時節に「人生を充実して活きてこなかったことに、後悔する」からからだ。チロリ・チロリ・チンチロリか〜
 ・・・・・・・
 3446.秘・異郷の旅、よもやま話・・3
 2010年09月01日(水)
*初めての21歳の欧州旅行 ー2
 デンマークの初めての夜はレストランのバイキング料理である。当時の日本にはセルフ形式は全くなかった。
それより、自分が食べたいだけ皿にとってよい、とうのが珍しく、不思議な感覚であった。
 そして、スウェーデン。夏のせいか、金髪の若い女性が裸足で、超ミニスカートで、街を闊歩している。
その美しさが街並みにマッチしているのに驚いた。 また郊外にある古城の絵に出てくるようは美しさ。
それと高台からみた高原の輝く景色。それが次々と続いて出てくるのである。
 そしてロンドンに。中学校の教科書の小さな写真でしか見たことのないバッキンガム宮殿、そしてロンドン市内には、
シルクハットをかぶって歩く風格ある紳士。 パブに入って飲んだビールの美味さ。 重厚なパブの雰囲気も異次元の世界へ
タイムスリップをしたような感覚であった。 そこで仲間数人酔ってしまい、子供時代以来、腹の底から笑った経験をした。
こんな楽しく高揚をしたことは今だかってなかった。もう、その世界に入ってしまったのである。
これを何度か経験すると、チョッとしたキッカケで同じ気分になれる。これが人生を楽しさという面で非常に豊かにしてくれた。
元もと実家で商売をしていて、年に一回、家族、従業員、取引先など5〜60人が、年末に飲めや歌えやのドンチャン騒ぎをしていた
回路があったが、ロンドンで仲間と騒げば面白みが格段と上がる。それで酒席が好きになり、ハメがきかなくなってなっていった?
 パリのシャンゼリゼ通りと、凱旋門、エッフェル塔。歴史的な積み重ねが、そのまま、街並みに出ている。そのシャンゼリゼを、
独りで歩いたことが今でも記憶に鮮明に残っている。歩行者の、ほぼ全員が白人。
その中で、東洋人の自分に違和感を初めて覚えたということ。
・・・・・・・・・
3071,衆院選挙の各新聞の論評から
2009年09月01日(火)
  各新聞の衆院選挙の結果の論評をみたが、なるほど要点を突いている。
 ーまずは印象に残った箇所から
・麻生首相は保守本流を強調し過去の実績を訴えたが、戦後の日本を作ってきた自民党は「腐ってもタイ」でなく、
「腐ったタイ」としか見られなくなった。(毎日新聞)
・麻生が任期満了まで解散できなかったのは、郵政民営化などの構造改革の総括ができない自民党が
 国民に顔向けができないという方が正確だ。(毎日新聞)
・小泉を引き継いだ浮世ばなれした三代目が三人が「売り家と唐様で書く三代目」の巻き添えに
 されるのではという危機感を国民が感じ取ったのでは。(日経新聞)
・タダ、今回の結果も、ローマ帝国時代の「パンとサーカス」を庶民に与えて手なずけたのと、
 似ている。パンは子供の手当ての支給とか年金の値上げや、高速道路の原則無料化。
 サーカスは、政権交代という危機のスリル。 (産経新聞)
  以上だが、今回の選挙は、あくまで自民党の自壊の要素が大きい。
    (次数制限のためカット 2011年9月1日)
 ・・・・・・・・
2706, 現代とはいかなる時代か
2008年09月01日(月)
人類の現時点を俯瞰してみると、人間圏が限界に達してしまったことと、
インターネットという人類文明史にとって大きな情報手段を手に入れた、という大きな分岐点に立っている。
著者はアポロの月面着陸が地球史・生命史という時間スケールでも、特記すべきことと見ている。
4億年前に、生命が初めて海から陸に進出した事件に匹敵するという。現代は宇宙から地球をみなければ
ならない時代になってしまったのである。グーグルアースも地球だけでなく天体飛行のできる機能がついている。
我々は何時の間にか、その立ち位置に置かれてしまったのである。
 ー以下、要点を抜粋したー
「地球システムの崩壊」 松井孝典著         −読書日記   −2
  *現代とはいかなるじだいか
1969年、人類は地球上の生命としては初めて、地球の重力圏を突破し、月面にその足跡を印した。
人類としての記念すぺき最初の一歩を印したアームストロング船長は、 その歴史的瞬間に立ち会った気持ちを、
次のように述べている。「これは一人の人間としてはほんの小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」。
この言葉ほど、現代という時代の特徴を、簡潔にして明瞭に伝えるものはない。
 アメリカの文豪ノーマン・メイラーもまた、この高揚した時代の気分を次のように残している。
「二〇世紀はアポロー1号の打上げをもって終った」。それは地球史、生命史という時間スケールでも、特記すべき事件。
今から四億年前、生命が初めて海から陸に進出した事件に匹敵するからだ。 地球の重力圏を突破することの哲学的意味は、
宇宙から地球を見る視点を獲得することにある。それは地球が、他の太陽系天体と同じくひとつの天体にすぎないことを、一般の人にも、
画像としてはっきりと確認させてくれるが、しかし一方で、地球が他の太陽系天体と、異なる天体であることも認識させてくれる。
 その雲の変化や、季節による大陸の地表変化は、大気と海との複雑な相互作胆あるいは生物圏の存在を示唆し、
地表が、その領域を構成するいくつかの構成要素間の、相互作用による動的な平衡状態にあることを語っている。
専門的な言い方をすれば、それは地球がひとつのシステムであるということだ。
 また、夜になると地表を覆う光の海は、この天体に、高度に発達した知的生命体、あるいは文明が存在することを、
灯台からのシグナルのように宇宙に向かって発信している。従って、「現代とはいかなる時代か」と問われれば、
「我々の存在が宇宙から見える時代、あるいは我々が宇宙を認識しはじめた時代」といっていいだろう。
それはまた、我々が大脳皮質に外界を投影し、内部モデルを構築するーそれが認識ということだが、
その認識の時空を拡大することで、ギリシャ以来の学問のゴールである普遍性について、具体的に語りはじめた
時代といってもよい。宇宙からの視点を得るとは、俯瞰的、相対的、普遍的視点をもつということと同じである。 
その結果、「我々は初めて、我々とは何か、どこから来てどこへ行くのか」という根源的な問いに真正面から
向き合うことができる。その詳細を議論するには、宇宙や地球や文明について、いくつか基本的な認識を
確認しておかなくてはならない。
〜〜
何度も書くが、これはコペルニクス的な人間観の転換でもある。また、その視点が最重要になる。
月面着陸が地球史的にみて、これほど大きな出来事だったとは知らなかった。そして宇宙の彼方から地球を改めて
みた時に地球システムの中に、自然の中に人間という知的生物がいて、生物を支配しているのである。
それだけでなく、自らを創りあげた地球システムを破壊始めたのである。それが自滅とわかっていても自分自身どうすることも
出来ない事態に入ってしまっている。この知的生物とやらは、知を得たがゆえに消滅していくのである。
正しく「アダムとイブが禁断のりんご食べたこと」が、これに当たるのだろう。
・・・・・・・・・
2007年09月01日(土)
2342, 「ある」ことと「あった」こと          お|* ̄O ̄|は
 『狂人三歩手前』 ー中島義道著
ー「ある」ことと「あった」ことー
理屈っぽくなるが、「ある」とは「あった」があるから「ある」のである。「あった」があるから、その想起で現在が「ある」。
「私」も現在から過去を振り返ったとき、「私」が発生するのと似ている。現在は過去にかこまれているのである。
かって旅先で暴漢に襲われて記憶を無くしてホームレスになって、そして立ち直っていく男の物語の映画をみたことがある。
これこそ自己喪失である。そこに記憶も生活基盤を無くすことの恐ろしさを見た。それは「あった」があるから「ある」という説明に、
解りやすい物語であった。その映画を見て、人生は「ある」ということと、「あった」ということで成り立っており、
その両者を大事にしなくてはならない!と実感をした。過去は消せないのである。
   ー以下は『狂人三歩手前』から・・・
世界についてでも、私自身についてでもいい、物体についてでも、心についてでもいい、われわれは
現在の知覚を基準にして、何らかの客観的対象が「ある」とみなしがちである。
(以下、字数の関係でカット09年9月1日)
ーー
非常に解りやすい、深い内容である。これを歴史に当てはめてみても、成り立つことである。
遡れば、ビッグバンがあったから、現在があるのである。
(その説が正しければだが)ありえない事が起こったのである。そして、現在、私が世界を生きている!
これは偶然か、必然か?そしてビッグバン以前は何だったのか? これを考えるのが哲学の一歩である。
・・・・・・・・・
2006年09月01日(金)
1977, 三回目のケニア旅行ー2 (≧∇≦)オハヨウ~ゴザイマス!
 10年前には日本人観光客が一万人だったが、現在では十万になってしまった。以前はケニア旅行といえば珍しい存在であった・・
また首都のナイロビからマサイマラへの道路では以前はあまり車が走ってなかった。しかし現在では対向車が絶えることなく走っていた。
 話は変わる。 マサイマラでの出来事。サファリカーが5~6台終結しているところに若い雄ライオンが二匹寝ていた。
ところが何分経っても寝たままなので、その場を去ろうとすると、突然隣の車が二台が交互に、そのライオンの鼻先に
車を突進、寝ているライオンを飛び跳ねてしまった。若い現地の運転手が笑いながらからかっているのだ。
ー字数の関係でカット(13年9月01日)
・・・・・・・・・
2005年09月01日(木)
1612, ハワード・ヒューズ
 ー字数の関係でカット(08年9月01日)
・・・・・・・・・
2004年09月01日(水)
1247, さよなら!五十嵐恭一さん
 −五十嵐恭一さんへの弔文


4550, 51年前の小学校の写真にタイムスリップ

2013年08月31日(土)

  『長岡市の昭和』という写真集の広告の折り込みが、今月だけで二度も朝刊に入っていた。
それも、一枚目は表面トップに実家の商店ビルの写真で、二度目は、裏側に、何故か小学校五年時のクラスの集合写真。
出版社に誰か同級生でもいるのかとネットで調べてみたが?? 7名の小さな長岡市内の出版会社で、県内だけでなく
全国の各市の昭和の街の写真集を出している会社。団塊の世代以上を狙ったものだが、旧長岡市内の人たちに限定2000冊
としても9990円で売れるのだろうか? その方が心配になる。しかし他は、HPを見ると完売となっていた。
その小・中・高校時のアルバムが、引越しなどで紛失、同級会などで、誰かが持ち込んだのを見るしかなかった。
で、51年の時空を超え、このチラシの集合写真を何度か見ているうちに、当時のことが、次次と思い出してきた。
 11〜12歳は、人間としての最終の熾烈な闘いがあって、そこで、ほぼ性格も能力も決まるという。クラス内の力関係などで、
誰かが常にターゲットにされる、あまり気持ちの良くない年頃。そのため心の傷は深く残るもの。その最たるのが、まあ、
書くのは止めておく・・ 自分も似たようなものだったろう。手取り早く学歴からみると、慶応一人に、立教三人、あとは
大学名は不明だが、数名、卒業しているから、街中の小学校として並みというところ。学校の先生の子弟は新大付属小学校が
ある。ここで目立つのは長岡青果市場の社長の息子で慶応と明治の教授をしたが既に故人になっている人とか、土田塗装とか、
何処かの中学校の先生とか、多種多彩。女性の方は皆目分からないが、少し目立っていた三人が三人とも離婚とかで?? 
死亡数は男20人中に4人。女性は分からない。 
 主任は非常に厳しいので有名な西沢先生。その後、多くの小学校校長を歴任し、最後は何処かの教育長をされた人で、
定年時に400人が祝いに集まってくれたという。20年近く前に、私が経営していた新潟駅前のホテルに泊まってもらい、
古町を数軒、飲み歩いたことがあった。 せっかくなので、この数日、当時の記憶を、たどっているが、51年の時空を超えて
嫌な記憶を中心だが幾らでも出てくる。太平洋戦争と長岡空襲の影響も色濃く残っていて、誰も口に出さなかったが、
戦争孤児とか様々な問題を各家庭が抱えていたようだ。 
 そうこう、自分を振り返ってみると、子供の頃の記憶から、繁華街で、父親の大きな影響下で、負けん気が強い遊び好きの
生意気な子供だった。今だ続いているが・・ 当時、家庭内で多くの問題があり、母親が倒れてしまい、住居が商業ビル3Fから、
歩いて7分ほどの駅裏に移転していた。その辺りから、やっと学業に目覚め始めてきた。生活環境は本当に大事である。
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2012年08月31日(金 
4175, 閑話小題 ー恐ろしい近未来がまっている
   * 恐ろしい近未来
 南海トラフ地震の最悪の死者予測が32万人と政府が発表、マスコミが騒ぎ出したが、もう一年以上も前から週刊誌で騒がれた
記事と同じ内容。しかし、政府発表となれば違ってくる。大手ゼネコンの含み笑いが聞こえてきそうだ。これは太平洋沿岸沿いには
住めないということになる。その地区の住宅地や商業地が暴落というより、ほぼゼロになってしまったことになる。 当事者は、
まだピンとこないはず。 千年前の大地震の後に二回、17年内周期で大地震と大津波が起こっている痕跡があるという。
活断層が不自然に捩れていて、何らか次の大地震が起きる可能性が大きい。決して非現実的予測ではない。 
これに関東直下型地震の可能性がある。更に世界恐慌も遅かれ早かれ起こる。いや、すでに起きている?
 これでは、夢も希望も持てやしない。この数年来、大卒の正規社員就職率が63パーセントで、三分の二も就職ができてない。
これが恐慌が吹き荒れる前で、この有様。数年先は、こんなものでないはず。 40数年前の私の卒業の時とはえらく違う。
金の卵で、会社は選び放題。私の同期の男たちは、殆どが一部上場の有名企業で、ハッピーリタイアをした。時代は大きく変わった。
  
  * 田中真紀子が民主党党首に立候補 ?
 久々に面白い話に驚いた。途中で立ち消えになるかどうか?だが、真紀子様が民主党党首の候補の可能性が出てきたという。。
思わず失笑したが、それほど民主党は困っているということになる。 あの外相時の相応しくない姿を忘れてしまったのか。 
あの人物から誠意の何も感じられない。一国を束ねる力量があるとは到底思えない。何が今さらだが立場が野党なら、最適の逸材か。 
あの辛辣な口撃は溜まったガス抜きになる。 まあ国が衰えると、こうなる。 政治は、何でもありである。床屋レベルの政治談義
からみると、この世界的危機の中での、日本、米国、韓国、中国のトップ交代による政治変動は非常に興味をそそられる。
なるほど2012年問題は、危ない要素に満ちている。安倍自民党総裁、田中真紀子民主党党首、それに安倍に担がれた橋元首相。
面白いが、どうだろう? それと何時起こるかしれない南海トラフ地震と、関東直下型地震。それと世界恐慌の可能性がある。
20世紀前半に世界恐慌を挟んで二つの世界大戦があった。このドサクサで一億以上の人たちが犠牲になった。
それより大きな変動が、始まってしまった。 これから壮大なシネマのような世界が展開される。
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3810, 世の中の商売、すべからく代理・代行 
2011年08月31日(水)
  旅行代理店、保険代理店、会計事務所などのサービス業があるが、すべからく世の多くは代理サービスの変形である。
家電商品も、その多くの製品は代理システム品である。洗濯機、電気炊飯器、扇風機、暖房機も、人間の労働の代理品である。
20年前に、「一世代前の人が、現在の生活をするには200人の従者を必要とする」と聞いたことがあった。現在では、
数万人でも無理だろう。 車は馬車の代行であり、カメラは専属カメラマンの代行。 夕食の宅配は、主婦の仕事の一部代行である。
 旅行代理店のパック・ツアー。その大ファンにとって、その恩恵は大きい。アフリカのタンザニアや、ケニアのヌーの河渡りなど、
素人では絶対に無理だが、ツアーに参加すれば誰にでも気楽にいける。スナックや、居酒屋も家庭内で満たされない料理や、お愛想、
色気などの代行である。 この事業整理の一連も、弁護士事務所が会社が300万プラス個人が50万、合計350万で、一括業務?委託。
一連の委託契約をすると、全ては弁護士の管理下に入り、良くいえば債権者から守られる。 逆に、一切の社会的信用はゼロ、
前科者に近い後ろ指、陰口の絶好の対象になる。 また、最近通いだしたスポーツジムも、各種のエアロビがあり、運動の指導を
パッケージにしてある。それに従っていれば体質改善が合理的に出来る。 その指導を多くの会員を集めることで、パックにして、
場の提供をしている。 これも各自で行っていた個別運動のパッケージ化になる。
 ところで、これまでの蔵書、ベストの100〜200冊をデジタル化して、iPadに気楽に入れられたら、よいだろうにと思っていたら、
一万冊を入力してiPadに入れて持ち歩いているという人の本があった。それは面倒と思っていたら、一冊100円で入力をしてくれる
サービスがあった。とりあえず、100冊を?と考えているが・・。 また、アマゾンに注文した本を、そのまま業者に本が直送し、
スキャンしてくれるサービス業者もあるという。デジタル本が、まだまだ普及してない中、これは良い代行システムになる。
情報化とデジタル化の時代、代理・代行システムは重要なキーワードになる。 それにしても、面白い時代になったもの。
各種代理システムをiPadを端末として、如何に使いこなせるかが、これからのポイントのようだ。
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2010年08月31日(火)
 3445・秘・異郷の旅、よもやま話・・2
  *初めての21歳の欧州旅行 ー1
 どの旅行が一番良かった?と聞かれても、答えられない。半分、いや三分の二以上が、それに当たるからである。
ショックの段差が大きかったのは、初体験の学生時代の一ヶ月間の欧州旅行。見るもの、聞くもの全てが驚きの連続。
当時は、やっとカラーテレビが普及し始めたばかりで、欧州の映像など殆んど目にしたことはなかった。
モナリザや、ミロのビーナス像、パリの凱旋門などは中学か高校の教科書の小さな白黒の写真でしか目にしてなかった。
それが突然、目の前に本物が次々に現われるのだから、驚き唖然とするのは当然である。
 まず飛行機乗って、夕飯にヒレのステーキが出てきた。まだ憶えているが、牛肉に細い糸が巻き付いていた。
生まれてこのかたヒレステーキなど、食べたことはなかった。 そのためか、その味の美味しいこと。
次に初めての海外に降り立った地はデンマーク。そこは、私が今だ見たことがなかった明るい空と緑の中に街がある御伽の
国に思えた世界があった。人種が違うのである。金髪の大柄な男女。空の色が違うのである。そして、林や森のグリーンが、
違うのである。考えてみたら、日本全国の自然さえ見てなかったのである。それが、いきなりデンマークの空とグリーンと、
北欧人を目の当たりにするのだから。一挙に御伽の国の真っ只中に降り立った時の驚きは新鮮であった。自分の精神を
正常に保つだけで精一杯であった。 当時、海外旅行に出る人は、まだ20万人でしかなかった。現在の100分の一である。
 だから、出発前から気持ちが高揚していた。
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3070, 衆院選挙の結果をみる
 2009年08月31日(月)
 終わってみれば、マスコミが発表をした最終の予測調査の通り。週刊誌では週間朝日の最終予測の307が一票差で、
完璧に近い予測。森元総理が落選するかどうかに注目をしていたが、残念ながら?当選、その反面、太田公明党首が落選した。
今回の特徴は元総理など多くの実力者が落選したことだが、これは歴史的転換への時代の要請である。
色いろな意味で歴史に残る選挙になった。 自民が国民から大きく離反した結果のオウンゴール(自滅点)。
民主党は私の事前の予測の325には及ばなかった。 私の周辺では殆ど自民党を支持する人はいなかった。
 あと講釈で言えば、自民の三代の首相が解散のタイミングを何回も逸し、自民党を粉々に崩壊させたことになる。
もう二度と元の自民党に戻ることはない。 海部元首相や派閥の領袖などの大物が消えたことは最大の収穫。 
権力も失ってしまえば、磐石に見えた彼らも虚構でしかなかったということ。アメリカの政治体制の変革に続いて日本も大きく
舵を切ることになった。当然といえば当然の流れである。自民党も振りかえると決してマイナスだけではない。
プラスの面も多かったが一度、旧態依然の官僚支配の体質の根本的な改革をしろ、という天の声である。
それにしても自公の大物等がよくも雁首を揃えて落選したもの。 これで経済に続いて政治も動乱に入った。 
面白くなったと他人事のように言っていられないのが、現在の日本の危機状態である。
幸福党の教祖様は、この結果を予測もできなかったのか? 元もとは布教活動の宣伝活動だったのか?
我が区の真紀子様、大恥の結果だったが、これが地元感情である。それにしても素朴な人が多く残っているもの。
次は、新政権の組閣の顔ぶれに興味が移る。 法務大臣が誰になるか面白い。検察のゴミ掃除をどうするかだ。
 これで日本も良きにつけ悪きにつけ大きく変わる。 あまり期待はしてないが、期待できない自民よりは良い。
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2008年08月31日(日)
 2705, 酒の話
ここでも、何度か酒の失敗について書いてきた。しかし楽しい酒はこれまた格別よい。致命的な大失敗をしても仕方が無いと割り切れるほど、
酒は日常の制約や退屈さから解放をしてくれる。「酒はモラルの休暇」とは、よく言ったもの。世界の人たちは酒の少々の失敗は認めてくれる。
歴史を振り返っても、どの社会でも飲めや歌えの大騒ぎを許容する祭りや行事があり、その日のことは、大目にみられてきた。
ただ酒で抑制が解放されてしまい、殺人や、思ってもいない浮気や、失態も起こる。
「しらふの人間が心の中で思っていることを、酔っ払いはベラベラと話してしまう」ことが、酒の一番の欠点だろう。
そういう不節制にも教育的?価値もあるという。 少し無理はあるが、直接跳ね返ってくる身近な事件?になるからだ。
あまりに真面目くさった人生も、これまた面白くも可笑しくもない。 下戸の人は、酒を飲んで大騒ぎをしている高揚した楽しさ、
至福を知らないまま生涯を終えるのである。 普段の生活の中に自分を解放する夕時の一時の時間として一般的には、どの世界もアルコールは
日常の生活に入りこんでいる。どの街にも飲み屋街が繁華街にあり、多くの人が頻繁に出入りする。スペインにはバールが何処にいってもある。 
値段の安い西欧居酒屋である。 そこには、誰もかしこも入り浸っている。
長い歴史の中で、出来上がった庶民の娯楽施設だが、そこで家族や友人同士が夜遅くまで話し合っている。
カフェテラスのように店の前にも席があって、多くの人が親しそうに話しをしているのを見ると、奇異な感じがする。
バイロンは「理性があるからこそ、人は酔わねばならない。人生で最高のものは、けだし酩酊なり」と、いっている。  
  酒に十の徳あり(酒には十種の長所がある)という。
 百薬の長、 寿命を延ばす、 旅行に食あり、 寒気に衣あり、 推参に便あり、
 憂いを払う玉ぼうき、 位なくして貴人に交わる、 労を助く、万人和合す、 独居の友となる。
酒は、つらい日々ほど、その時間だけは美味い酒で楽しい最高の気分になれる。 辛い日々の酒こそ、美味い味わいが残る。
一時的に天下を取ったような気分に慣れるのである。 達成感など実際の喜びを感じるには長い年月と、汗と涙が必要となる。
しかし、酒は酔いという作用で、その喜びを与えてくれるのである。 だから、恐ろしいのである。
 まあ、よくぞ、これだけ、酒で失態をしたものだ。 しかし、その時々に本当に美味い酒を飲んできた。
これが、もしかしたら、人生で一番の価値あることだったかもしれない。 たまには大騒ぎをするのも良いじゃないですか、
ということだが、「御前の場合は、それさえなければ、な〜」と何度言われたことか。 そして自戒しとことか! 
でも、私から、それを取ったら毒の無い河豚みたいなもの。  棘の無いバラ、それともノンアルコールのビール?
(以下、字数の関係でカット11年8月31日)
                 
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2007年08月31日(金)
2341, 「私」とは何か?        〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●)
  「狂人三歩手前」−中島 義道 (著)       −読書日記
   ー「私」とは何か?ー
「私」について、その構造について、過ってこの読書日記で書いたことがある。
成る程と合点がいったが・・・ 常に考える時、「私」は何々・・・と一日、数百回も自問自答しているのに、
その「私」とは何ぞや?と考えたことがない。それをキチッと知っていると、いないとでは、思考の根本が違ってくる。
 ー「私」が無になることーのコーナーの「私」についての説明が解りやすい。
  ある哲学書で「私」についての説明があった。
{「いま・ここ」の主観を私とは言わない。 土手を歩いていて振り返った時、さっきの橋を歩いていた主観が
「私」として飛び出してくる。云々}と。成る程と思いつつ、解ったようでもう一つ理解できないモヤモヤが残っていた。
過去を振り返った時に「私」が初めて発生するということ?垂直に縦にある「いま・ここ」の主観は、
まだ私になってないということ? ところが彼は、この本の中で、その「私」を噛み砕いて解りやすく説明をしている。
  −p.86
「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。だが、そうであろうか? いま両肩から下に頭部を欠いた
独特の身体が広がっているが、なぜこれが「私の」身体なのだろうか?そこに独特の感じがするから?だが、なぜその独特の感じが
「私の」感じなのだろうか? こう問いつめていくと、この方向に答えは見いだせないことがわかる。「私」とは知覚とは別の
独特の作用によって端的にとらえられるものではないか? いや、そんな独特の作用など見いだせない。「私」とは知覚しているときに、
同時にそこに感じられるものではないか?いや、胃がきりきり痛い時にそれと並んで独特の「私」という感じなどない。
そもそも「私」とは作用の対象ではなく、作用の絶対的主体なのではないのか?多くの哲学者はそう考えた。
そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」とか名付けた。だが人間としての「私」がそんな抽象的な
発光点のようなものであるはずがない。あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。
ここで、別の視点から反省してみるに、「私」とははじめから異なった時間における同一なものと了解されている。
「私」とは過去のあの時も同一の「私であった」者である。しかも、その同一性は二つの対象を見比べて判定するのではなく、
現在の側から一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。「私」は、過去と現在との関係において登場してくる
のだから、現在の世界を隈なく探しても見いだせないのは当然である。過去自体はすでに消えている。過去の記憶だけが残っている。
現在の知覚される世界ではなく、過去の想起される世界を探究することによってはじめて「私」は身を現わすのである。
ここにきわめて重要なことは、過去のあの時に私が不在であっても「私」の同一性は保たれるということだ。
夢の場合で考えてみよう。夢を見ているあいだ「私」は自覚されていない。
「私」は、夢から覚め「私は夢を見た」と過去形で語る時にはじめて自覚される。
まさにその時、あれが「私の」夢であったことが忽然と了解され、遡ってあの時「私が」夢を見ていたことになるのである。
夢ばかりではない。この構造は広く普遍化できる。「私」は仕事に没頭している時や、夢中でボールを追いかけている時や、
ぼんやりもの思いに耽っている時など、いわば消えている。しかし、あとから「私は〜していた」と語れる限り、
その時「私」は存在していたことになるのだ。夢中で小説を読んでいた。
ふと気がつくとあたりが薄暗く、電気をつけてみるともう三時間も経っている。
私は小説の内容を細部に至るまでありありと覚えている。一体誰が読んでいたのか?ほかならぬこの「私」である。
ーーー
夢を例にした説明が、理解しやすい。夢見ているうちは「私」は成立してない。じゃあ、夢の中で私は何々、云々と
いっているのは何だろうか?ただ夢の中で過去のことを考えただけで何の問題は無いか!まだ夢の中で成立してない
純粋何とかいう未成立の?が、夢の中で成立した「私」として過去からの流れの何かを考えていた!
 ということになる、ただそれだけだ。 そういえば、また夜半にリアルな夢をみた  グッ。・:*:☆w(´・з・`)バァイ
・・・・・・・・・
2006年08月31日(木)
 1976, 充実した人生
  おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・  時差ぼけだ〜


4549, 六韜三略

2013年08月30日(金)

 学生時代に、守屋 洋著『六韜三略』と海音寺潮五郎著『孫子』を読んだ時の面白さと驚きは今でも憶えている。
純朴で、欲と欲の争いに立たされる前の学生時代に読んでいたため、社会に出てからの丁度良い手引き書になっていた。
この思想を通して人間をみると、その心底が透き通って見えるようで、世俗が幼稚に思えてくる。 ー当時の感想はー
《人間は欲で動いているが、それを隠して綺麗ごとを並びたてる社会的動物。それを前提に一切を無にして諸現象を一度、
疑ってみること。そして冷静に本質を捉えること。利害対立の場に立った場合は、よりシリアスに徹すべし》ということ。
そう割り切ると、誠意の外面の奧に隠された心底が手に取るように見て取れた。 これに学生時代のゼミの(現象の)
事例研究が叩き込まれていれば、アウトサイダーになるのは自然の流れ。人生に戦略的である必要性を、この書で実感。
人生への鳥瞰の視線でもある。 ーネットで、『六韜三略』を検索するとー
《「六韜」は文韜、武韜、竜韜、虎韜、豹韜、犬韜の六篇からなることによる。「韜」は弓袋( 秘訣)。「略」は機略の意味。
 「三略」は、上略、中略、下略の三篇からなることによる。 二つとも「太公望の兵法」であるから、主張を統一して
 判断すべしというスタンス。もう一 つは内容である。 『六韜』が兵法のうち戦略・謀略を担っているのに対し、
 『三略』が 政治思想、軍事思想を担っている。『三略』はリーダーの書、『六韜』はマネージャー の書 ... 》
《 劉邦の軍師となって漢の国の柱石となる張良が、若い頃、行きずりの老人から「明朝5時、ここに来い」と命じられた。
 言われたとおりその場所に行くと老人はもう来ていて、「年寄りを待たせおって。また明日だ」と言って去った。 
 翌朝、今度は3時に行ってみると、また老人は待っていて「まだまだだ」と同じように去る。張良は意地になって
 「今度は絶対に待たせない」と徹夜して老人を待った。すると老人はニコニコと笑って六冊の書物を渡し、
 「よく勉強して世のためになれ」と肩を叩いた。『六韜』は「虎」「竜」を始めとした六巻の兵法書で、「虎の巻」の語源。
 『三略』は、前・中・後の三巻からなる兵法書で、『六韜三略』は中国はもちろん日本の戦国大名の兵法書としても親しまれた。》
《 中国の兵書、六韜と三略の2書。前者は太公望呂尚、後者は黄石公の撰述と伝え、併称して韜略の書という。
 いずれも後世の偽書であるが、宋代、『武経七書』のうちに組み入れられ、中国古兵法の教科書として広く読まれてきた。
 ・六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民の術、富国強兵の策を説くもの 》
▼ これを参考に黙して対処したら、これほど難しい相手はいない・・ この書を通すと、面白いように物事が透けてくる。 
 心静かに、これを読み続ければ、その中の原理原則が己を導いてくれる・・ 学生時代に、この二書を読んでいたので、
 いざこざの真只中で、対峙した人の言葉を一度、突き放し、疑い、静かに自問自答する余裕が出来ていた。
  問題は、その都度「正中心一点無の心境で道理は何かを考える」しか解決は出来ない。
・・・・・・
4174, 閑話小題 ー電機メーカーの苦境
2012年08月30日(木)
   * 電機メーカーの苦境
 日本の電機各社が苦境に陥っていると、マスコミを騒ぎ出している。この原因が、あのエコポイント。電機メーカーにとって、
神風になり大きな利益を確保したが、その間に韓国などのメーカーが主力商品に力をつけ日本が太刀打ち出来なくなっていた。 
数年前まで、薄型TVで勝ち組だったシャープが死に体で倒産の危機になり、同じく恩恵を受けたソニーとパナソニック、東芝、
日立の各社が数千億の赤字というから尋常ではない。世界に名立たる日本のブランドが、今や苦境に立っている。 耳を疑うが、
これが現実である。 現在、同じことが自動車で行われている。 どうしたというのだろうか。 中小企業救済法も今となれば、
良かったのか悪かったのか? しかし、産業の不振は日本に限ったことでない世界的な流れ。 スマートフォンとタブレットPC、
この中に、電話、テレビ、パソコン、デジカメ、ビデオ、全ての機能が入って同じ位の値段なら電子機器が売れなくなるのは当然。
日本のメーカーが、専用機種に目を奪われている間に、マックや韓国メーカーが、ここに集中していたのである。日本のメーカーは
決定的なミスを犯してしまった。10年前、5年前なら考えられない事態が、目の前に起こっている。 グローバル化は恐ろしい。
   * 地元経済は、ますます悪化
 先日、3ヶ月ぶりに自宅に送付されてきた一連の書類を持って弁護事務所に行き弁護士と30分位、世情話になった。
中越地区の景気状況は、来春の「中小企業特別救済立法」の打ち切りに向けての動きが顕著になっており、その上に刈羽原発の
休止にともない関連の5千人の従業者のうち3千人が、この秋に整理される。更に小千谷にある大手の工場も雲行きが怪しい。
それらから景気は一段と悪化しているという。一線から退くと生の情報は殆んど入ってこなくなる。必要がないからもあるが。
この9月から12月にかけて、リーマンショック並みの一大イベントが発生する可能性が大と見ているが、その前兆の波か、
それとも思い過しなのか? 景気は一段と悪化の道をたどっているようだ。
 ・・・・・・
3809, つれづれに
2011年08月30日(火)
  ▼ 収まる所に収まった民主党党首
 最後の最後まで、誰が民主党党首に選出されるのか分からないギリギリの選挙だった。しかし、海江田と野田の二人の決戦となれば、
どちらが相応しいかはTV画面が正直に語っている。 しかし小沢一郎と鳩山が後盾の海江田が勝つのではと予測されたが、党員も、
その歴然とした差に、野田に雪崩をうっていったようだ(立候補者の一人が最後の最後に野田支持に回ったのが勝因ともいうが)。 
たまたま投票直前にTVを入れたら、野田が演説をしていた。朴訥とした中に人を惹きつける感情のこもった内容に引き込まれてしまった。 
その前にも、彼の立候補の政策を聞いたが、至極自然なもので、他が悪すぎたこともあり、一人光っていた。 
【 二年前に政権についたが、国民からみて期待はずれの結果しか出せなかった。次の選挙まで残された期間は二年。それまでに捨て身で、
 この国難とマニフェストを達成しなくてはならない。大震災の国難を乗り切るためには、野党との大連合を考え、かつ党内融和も必要。
 また赤字の国家財政と、大震災を乗り切るためには増税もやむをえない。】 
  この当たり前のことを当たり前に述べているに過ぎないが、現在の与野党も含めて、これをいうと世論受けしないとか何とかの
 ジレンマに陥っていた。 小泉も含めて、この数代の首相の中で、一番真っ当であってほしいものである。菅首相の直後では、
 やりやすいだろうが、この日本の政治と経済の惨状下では、それもどうか?。 まさか、海江田とか、あれ、ではね。 これで当分は、
 少しは政治不信は小さくなるだろうが(いつも最初は期待感でそうだが)・・ この国の体質は、この20年で、あまりに劣化した。
  ▼ あれから5ヶ月
 あれから5ヶ月になる。 事業期間三十年のうち、初めの10年が登り。 次の10年間はバブル崩壊の日本経済の混乱の最中、
逆に積極策に出て客室を増やした(これが、今回の倒産の間接原因になる)。 最後の10年の始まりが9・11で、二度の中越大地震、
三年前のリーマンショックの直撃、とどめが半年前の東北大地震。 その中で一番の打撃が、リーマンショックであった。
この影響は、まだまだ序盤で本格的津波=大恐慌は、この秋口からアメリカから世界、そして日本に吹き荒れること必定。
 この二十年、日本の政治は混乱を極め国家の態をなさないほど疲弊してしまった。それと比例して、この今回の倒産である。 
事業がビジネスホテル。ネットなどの情報化と、長期不況による新幹線日帰り二時間圏と、客室在庫の過剰もあり、その対応不能に陥り、
この結果である。 逆に、ここまで次々の大波で悪化すると諦めがつくもの。後悔とか未練は少なくなる。
事業として荒波に飲み込まれたと同時に、業態の老衰ということもある。 しかし全体として、面白い経験をさせて貰ったと感謝している。 
 それにしても、日本経済、どうなるのだろう。 この三年間は大暴風雨になる。 特に地方経済は、来るところまで来ているから、なお。
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3444・秘・異郷の旅、よもやま話・・1
2010年08月30日(月)
  * 海外旅行に見せられて
 これまで47回の海外旅行で、フラッシュ的に記憶から飛び出したことを思いのまま書いてみる。
その方がむしろ、これまで書けなかった生の体験をリアルに表現できそうだ。 痕跡として残るのは、現場で撮った写真と言葉。
人生を旅に喩えることがあるが、素晴らしい経験と同時にトラブルを如何に少なくし有意義な旅に仕上げるかがポイント。
そのために、行き先の選定、日々の過ごし方、対処の仕方などのコツが大切になる。 また日本の遥か彼方から、逆照射してみた
自分の人生の卑小さが何とも滑稽に感じることがある。 それが気持ちに余裕を持てるのが収穫になっている。
まずは、思いもよらない経済恐慌に出くわした為に、人生の仕上げに入った計画に狂いが生じてきた。それも、なるがままの人生。 
旅先で、絶対に行きたかったが行けなかったところはない。 ガラパゴス諸島ぐらいだが、それほど行きたいと思わない。
秘・異郷旅行での最大の収穫は、想像を遥かに超えた自然が与えてくれる感動。 自然そのものが何か波動を発している。
その波動に、飲み込まれにいくのである。 この感動は、山好きの人が国内の色いろな名山で経験しているものと同じだろう。 
 世界の異郷の地で、違う形で経験をするのである。 学生時代の多感な頃に北海道、九州、そして紀州と一人旅をしたことがあるが、
あの時の下地と、21歳時の一ヶ月の欧州旅行でのカルチャーショックが下地にあったから、ここまでノメリ込んだのだろう。
その結果、ほぼ毎晩、BS/衛生TVの何処かのチャンネルで、これまで行った先を放送しているが、見ていると旅の延長のようになる。
「一回の旅は、帰ってきても、そのまま続いていく」が、そこで実現してくる。一点豪華主義?としても、贅沢である。
 ・・・・・・・
3069,新インフルエンザの恐怖
2009年08月30日(日)
 新インフルエンザが全国的に流行期入りをし、拡大はもう止まらないという。
どうせ感染するなら、早くなって直った方がよいと割り切った方が良いようだ。
先日のTVのモーニングショーで、新インフルエンザ(=A)と、これまでのインフルエンザ(=B)との
違いを説明をしていた。その内容とは、
 ・Aの方が、症状として重い。 身体がだるく、下痢や、発熱になり、気管支がやられ呼吸などが困難になる。
 ・Bに比べて感染力が圧倒的に強く、かかる比率は比較にならないほど。
 ・5〜19歳までが患者の7割で、青少年が罹りやすい。
 ・予防でタミフルを飲んでも、48時間しか持たない。
 ・外出後の手洗いと、ウガイ以外に、これといった予防方法はない。
 ・感染者の接触した箇所の菌は48時間は死滅しない。だから、人の集まるところは何処もかしこも菌だらけ。
(次数制限のためカット 2011年8月30日)
 ・・・・・・・・・
2704、共同幻想を抱いていただけ?
 2008年08月30日(土)
 松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」である。
一万年前に農耕牧畜を始めて、「人間圏」を作り上げてきた。そして右肩上がり人間圏の拡大が共同幻想だったことを、
人類は宇宙に出て地球を俯瞰して初めて知った。資源が有限であり、農耕以来、環境破壊を続けてきたことも、
これ以上の人間の欲望を拡大できないことも知った。
 ー著者の松井孝典は、次のように人間圏の危機を述べている。
 ≪欲望のカタチは所有であり、人間は地球という大地を「所有」すると、錯覚していたのである。
 これが人類の「共同幻想」というのである。共同幻想は、これだけでなく、貨幣は未来永劫に交換可能とか、神様の存在とか、
 人間の命は地球より重いとか、民主主義とか、市場主義経済とか、自由平等とか、人間を規定する概念すべてといってよい。
 21世紀の人間圏にとって、その崩壊の引き金になる最も高いシナリオは、これらの共同幻想が多くの人に幻想と
 認識されたときである。 その一つがインターネットとという。インターネット社会は、個々人を主体化し、
 情報が個人に拡散する。 情報が拡散するということは、社会が均質化していくことになるが、共同幻想という面では
 理想的かもしれないが、宇宙からの視点から見れば、人間圏のビッグバンになる。
 それは秩序も構造も、情報もあってない、混沌とした社会になる。》
  そこで、共同幻想とは何かを知るためにネットで調べてみた。
 ー以下は共同幻想についてのウィキペディアのコピーであるー
共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。日本の思想家である吉本隆明が用い、有名になった言葉。
吉本は、自分の共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、ただ手垢がついているから使いたくなかったと述べている。
 吉本隆明は、著書「共同幻想論」で人間関係は、3種類に分類されると提唱した。
▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。
▼ 対幻想  = 個人と他者とのプライベートな関係。 ?家族・友人・恋人がこれに当たる。
▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合がこれに当たる。
 宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。
この分類は効果的であり、世界を正しく見るうえでこの3つの幻想領域を混乱、混同させないことが大事であると吉本は主張する。
これらはそれぞれ独自の法則で動いているのである。  例えば、吉本は心理学者のフロイトはリビドーと言う対幻想性を、社会領域まで
無条件に拡大して採用しようとしたところに誤りがあると批判する。また、1人の人間もこの3つの領域でそれぞれ違う顔を持っている。
 *職場にいる顔と、*家庭にいる顔、*1人でいるときの顔や行動は、それぞれ違うのである。外弁慶、内弁慶という言葉があるように、
冷酷な独裁者や軍人が家庭内では優しいよき父親であったり、逆に職場では物静かな男が家庭内では暴力的な暴君として振舞うなど
ということは、充分ありえる。吉本隆明は、共同幻想の世界では、個人が幽霊としてしか存在できないと主張する。
 例えば、「今は企業の危機だから、粉骨砕身働け」との企業幹部の檄は、
 労働力を売りに来ているに過ぎない個人としての労働者の立場と矛盾する。 
 〜〜〜 以上だが、
 松井孝典の二冊の本は、大きな衝撃であった。
地球学という視点で、自分を振り返ると、大いなる共同幻想の中で蠢いていた小さな生命でしかないことだ。 太陽の惑星の一つの地球、
その大気圏の中の、物質圏の、生物圏の、人間圏の、極東圏?の中の小さな島国の、北陸圏の、新潟圏の中の、何でしかない私。
地球の外から俯瞰すれば、そういうことである。そして共同幻想を何の疑問を持たないで抱いていた存在である自分を振り返り、
「何?何だったのか?」と根こそぎ、人生観がぐらついている。恐らく身近に死を感じ取った時に、直感的に感じる恐怖心の向こうに
見える宇宙的な俯瞰の視線は、織田信長が舞ったという敦盛の「人生50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」を彷彿させる。
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2007年08月30日(木)
 2340, さっきみた幻想的、かつリアルな夢
  -v-)。o○《Gооd Мояйiиg》○o。(-v-★)
 これだけ、ハッキリと憶えている夢は珍しい。毎朝書いているモーニング・ページに夜半にみた夢を書いているが、殆ど忘れている。
それでも、五日に一度位は大筋は書いているだろうか。夢から醒めた直後は忘れないように反駁をしているが、しかし殆どは反駁した
ことだけしか憶えていない。ところが、どういうわけかリアルに殆ど憶えているのである。夢見た直後に、リアルに、詳細に書けば、
読んでいても面白いだろうから、あえて書き出してみる。 まずは、私の夢の世界を、ご覧あれ。 私の潜在意識の公開である!
▼ 近所を散歩していると、面白そうな家が目に付いた。家の向かって右の方に、子供のための遊び場がつくってある。
 そこで主人らしき人が手作りで何かを作っている。 声をかけると、中に入ってもよいという。
そこに入っていくと右が廊下のようになっていて、手作りの小さな部屋が5つ位ある。 その中に子山羊がいたり、子供の遊び場があり、
遊び道具が入っている。その廊下の奥に少し広い空間があり、カヤックやカヌーなどが置いてある。
家の右全体が自分たちの遊び場として、その主人・松尾という人が自分で手作りで作ったという。 
そういえば去年、大学の学生時代の友人がカヤックを持ってきて新潟の阿賀野川の河口で大水の中、二時間ぐらい遊んだことがある、
と言うと、急に打ち解けてくる。そして、居間に案内をする。そこには、彼の友人が4〜5人遊びに来ていた。
毎週のように週末は仲間が集まるという。そこで奥の方の部屋に行き、そこで松尾さんと話をする。薄っすらとした髭をはやした
五十歳位の人で、自由業のようだ。名刺をだそうとしたが、出さない方がよいと判断、自分の姓だけをいう。
急に睡魔が押し寄せてきたが、そこに10歳位の彼の息子が来て、正座をして挨拶をする。私も挨拶をしようとしたが、眠くてできない。
その松尾さんに、「あなたは自由業でしょう。弁護士か、医者か、会計事務所の先生とか」というと、その通りだと答える。
そうじゃなければ、このような好きなことを好きなまま、できないはず。ところが、この夢には次の場面がある。翌日、何と家内を連れて、
その松尾さんの家に行ったのだ。そして家内は松尾さんの奥さんと話をしている。半分お互いに知っていたようだ。二人で世間話を始める。
まあ、せっかくのところに何で家内か、と思っているうちに帰ることになった。ところが、何か騒がしいので行ってみると、
この家の老いたお手伝いさんが前日亡くなり、そのお参りに近所の人が来ていたのだ。 そこで私も、仏壇の前でお参りをする。
身寄りではないが、お手伝いとして面倒を見ていた人という。 聞いていて涙が出てくる。その後、一人で自宅の前に帰ってくると、
宅配の人が玄関口にいる。その前に宅配の人がきていたようで、不在の紙がある。そして、家に入ろうとすると、何か人の気配がする。
二人の息子と、二匹の犬が一Fの部屋にいる。庭から部屋の中を見るとまだ高校生の彼らである。 その辺りで眼が覚める。
何か不思議な、リアルな夢である。心象風景ということか? 他人の夢を垣間見るのも面白い?
というより、珍しいか!私も直後にこれだけ、鮮明に文章化したのは初めてである ネムイ!
・・・・・・・・・
2006年08月30日(水)
1975, 写真家はインドをめざす       \(^▽^*)おは!
              ー読書日記
(字数の関係でカット09年08月30日)

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