堀井On-Line



4198, 閑話小題 ーとある話

2012年09月23日(日)

    * ランチの席で漏れ聞こえてきた、とある話
 一昨日の長岡駅裏の居酒屋で、一人でランチを食べている時に聞こえてきた話。
 至近距離の六階にあるスポーツジムの帰りらしい6人連れの中年女性。 ある女性Aから・・・
A:「ねえ最近聞いた話だけど、都会のチョットした家には2千万も預金があるというけど(自分にはない)どうなの?」
B:「そんなに持っているの? うちなど遥かに及ばないわ!」
A:「Cさんは、ご主人がお医者さんだから、あるわよね?」
C:「そんなにあるわけないでしょ! 家のローンが残っていて、あれば、そっちに向けてるわよ!」
A:「Dさんはどう?」  少し考え込んでいた彼女
D:「それって一人あたりの金額のこと?」  その一言で、その場がシラーと白けてしまった。
  その強力なボケをかましてしまった本人、悪気はなかったようだが横で聞いていて、その場に飲み込まれてしまった。
  一年ほど前に、この随想日記で一世帯あたりの預金高について書いたが、平均預金残高1150万を何故か鮮明に記憶している。
    ーそこでHP内検索で改めて調べてみると・・
≪・一世帯平均平均1150万。人々の実感に近い中央値(答えた世帯の中間の値)は前年500万より80万円少ない420万円。
 ・一億以上の預金を持つ人は108万人(総世帯4700万ですから全体の2.3%)。 ー 40世帯に一世帯になる。
 ・都会サラリーマンの65歳の年金者の平均値は2500万の貯金を持ち、夫婦で月額30万円の年金収入があり、30%を預金にまわす。 
  貯蓄残高が1年前に比べて「減った」世帯は40%で、「増えた」世帯(21%)の2倍近い。
 ・預金ゼロ世帯が何と28・6%と約3割近くもいる。ローン残高を差し引いたらゼロという人を加えたら、過半数を超える。
  【 金融広報中央委員会が22日発表した2011年の「家計の金融行動に関する世論調査」による】 ≫
 ▼ 実家で親と同居し、それを引き継いだサラリーマン以外なら、子供を育てあげ家のローンを払い続ければ、貯金と借金で、
  差し引きゼロだろう。 平日にスポーツセンターに行き、ランチをするというだけで、収入が中の上以上クラス。更に言葉の
  ニュアンスと服装からして、地方では上クラスだろう。預金が一千万辺りで、ボケをかました奥様は5千万以上。
  日替わりランチを食べながら耳を逆立て聞いている私は、シャーロック・ホームズきどりの馬鹿そのもの。
  ところで少ない私の知人の中で、数人は一億以上を持っている。(直接、本人から聞いてみた)それが身体全体から滲み出ている。
  それ以上に、使い方が実に巧い。だから金の方から近づいてくる。 使い方は巧いが貯め方イマイチの人なら幾らでもいる。
  いや逆が多い?あれとあれって使える時に使うもの! 森林から出て世界を振り返ると、違ってみえてくる。サバンナには味がある。  
・・・・
3833, 閑話小題
2011年09月23日(金)
   * 病上手の、死に下手
「病い上手に、死に下手」とは良くいったもの。 ただ長生きしても、それで良いのかどうか?
用が済んだら、さっさと消えるのも必要かもしれない。 そう言っていられるだけ、まだいいのか。
 ネット辞書では、【 “よく病気をする人はなかなか死な ない”という諺で、江戸から大衆の間で言われ続けてきた 】。
病を乗り越え長生きしすぎると「死に損ない」と陰口を言われる。 それぞれの人に、それぞれの死に時がある、
「病上手」のかわりに、「生き上手の、死に下手」に置き換える場合もある。前の「長生きの死に損ない」という意味と同時に、
「人生を上手く生きてきた人ほど死に際は良くない」ということ。 身近の人の死に際は須らく苦悶の末に亡くなっていく。
これも人生のうち。 銀座のクラブのママのブログに「遊び上手の本気下手」というのがあった。 なるほど!言いえて妙。 
逆に「本気上手の、遊びベタ」と捻って考えてみると、その方が頷ける?。「料理上手の、床上手」もあるが、これはチョット違う。
   * パソコン・ゲーム
 iPadの有料のゲームソフトを先日からネットでダウンロードして使っている。 無料のものは多く試みたが有料のものは少し違う。 
その一つがカーレース。 車の運転席に座って走る設定だが、iPadそのものがハンドルになってフロントからみえる道路を疾走する。
左右に傾けると左右にハンドルが回る。 設定をしておくと、ある程度の運転をフォローもしてくれる。(大事故にならない設定)
終了後にカメラで運転した車をリプレーした映像を写し出してくれ奇妙な気持ちになってしまう。より面白いものは幾らでもあるはず・・・ 
フリー(無料)のカーレースは元々、後ろ上から運転をしている車をハンドルとアクセルとブレーキでコントロールする。これも面白い。 
他にも幾つかフリーのゲームを使っている。とにかく始めたら止められないで2時間3時間など直ぐに経つ。ゲームに熱中している
子供をみて、心の底で羨ましくさえあった。しかし周囲を見渡してパソコン・ゲームに熱中している知人は皆無。 ネット世界には、
まだ半歩しか足を踏み入れてないが、底知れぬ面白い渦がトグロを巻いている。 やはり節目は必要。 空即是色である。
 ・・・・・・・
3468. 閑話小題
2010年09月23日(木)
   * 検察の特捜主任検事を逮捕
  検察不信に関して何度か書いてきたが、ついに特捜主任検事が逮捕された。ウヤムヤに葬りされなかったことが不思議なぐらい。
 押収資料を改ざんしたというから、何を言わんかである。強引に逮捕され起訴された何人かの手記を読んだことがある。
 彼らは自分で筋書きをつくり、その物語どおりの材料を強引に集め起訴をする。そこには検察の手前かってな理屈が罷り通る
 というのが共通項である。 その一端が、今回の事件に現われている。これまで、国家権力を使い好き勝手に事件を捻じ曲げた
 所業が多くあったとが窺える。検察上層部に上るほど、出世のための手練手管の手法を持った輩になるから想像を絶する世界??。
 今回、逮捕された検事もまさか自分が逮捕されるとは夢にだに思ってなかっただろう。 これまで手記を書いてきた被害者?が、
 雑誌などで、多くのコメントや手記を出すことになる。 検察もたまったものでない。 情報化で国家権力を持った者でも、
 以前のように抑えることが出来なくなってきたのである。 手記からすると暴力装置を持った官僚、それが検察、末端が警察。
    * 尖閣漁船衝突問題について
  ー産経新聞の産経抄が面白い。まずは、その内容からー
 【 加瀬英明氏と「元中国人」石平氏との対談集『ここまで違う日本と中国』を読むと、「目から鱗(うろこ)」の話ばかりだ。
  例えば「公」を大切にする日本と「私」しかない中国だ。お二人は「論語」にある「父親が羊を盗む話」をあげて説明する。
 ▼ある人が孔子に「友人は正直者で、父親が隣の人の羊を盗んだことを知ると、父親を告発しました」と語る。すると孔子は怒る。
 「何よりも、孝が大事だ。父親がどんなに悪いことをやっても、外に言ってはいけない」。石平氏は「孔子は公を無視している」という。
 ▼これに対し中国とは別の儒教を作り上げた日本人は「孝」よりも「公」に尽くす「忠」を重視してきたそうだ。何事か起きると、
  日本人が「相手に悪い」と思うのに対し中国人は「相手が悪い」と思う。明らかに「公」と「私」の精神の違いだろう。
 ▼そう考えると、沖縄・尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件での中国側の対応はよくわかる。現場が日本領海であるとか、国際社会の秩序に
  従うとかいった「公」の気持ちはさらさらない。ただ自国の船を守り、日本への恨みを晴らす「私」の基準で騒ぎ、日本を恫喝しているのである。
 ▼その漁船衝突事件で、こんどは日本の大学生ら約1千人の上海訪問まで延期になった。温家宝首相の招待で予定されていたが、
  中国側が「今はふさわしくない」と断ってきたのだそうだ。報復のつもりだろう。楽しみにしていた若者たちには気の毒だ。
 ▼だが容易に理解し合えそうもない精神構造の違いを覆い隠して交流してみても、あまり意味があるとは思えない。
  事件を通じ違いを知ったとすれば、その方が真の友好につながる。断られたことを感謝してもいいぐらいだ。】
  ―以上だが、中国頼みの日本は、アメリカと中国の狭間にたって翻弄され、結局は資産とノウハウを奪い去られる運命か。
  「第二次世界大戦で、日本が中国でしてきた所業を、今度は日本にして何が悪い」という論も成立する。
  中国とアメリカの間の「独り紙相撲の日本」という様相をおびてきた。 
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3093,久々にジョーク −1
2009年09月23日(水)
 一時期にジョークに興味を持って100以上を収集した。どれもこれも面白いものばかり。ところが、ある時期から、これはという
面白いものが無くなってしまった。ハッキリいうと、ジョークは聞くほうに、それなりの素養が無いと笑いが生じない。
周囲には、その捻りの妙の可笑しさが解る人は極少?で、何時の間にか、酒席でも話すのを止めてしまった。
先日、借りてきた「続・ジョーク世界一」に、面白いものがあった。下ネタの、聖(ひじり)ものと、老婆もの。
最後の一言で落とすのが、ブラックものの面白さである。 それにしても久々にニヤリとした。
  * 神の思し召し
 医師と密会していた女性、やがて妊娠することに。困り果てた二人はいろいろ対策を考えたが、名案が浮かばない。
出産の日がどんどん近づいてくる。丁度そのころ、一人の神父が腸の手術をするため入院してきた。医師はひらめいた。
「神父の手術を終えたところで、赤ん坊が誕生したと言って神父に押しつけよう」医師に計画を打ち明けられたが、
女性は懐疑的だった。「それしか道はないんだ。やってみよう」 医師は女性の出産と神父の手術を同時におこない、
神父に向かって言った。「神父さま、こう言っても信じられないでしょうけど・・・」
「何だったね、何があったんだね?」問い返す神父に耳元に「神父様のお腹に赤ちゃんが宿ってました。幸い赤ちゃんは元気です」
「そんなバカな。ありえない」「そのありえないことが起きたんです。わたしがこの手で取り上げたんですから、間違いありません」
「奇跡だ!」「ええ、奇跡です」 奇跡の言葉に弱い神父は`すべては神の思し召し′と、結果を受け入れ、赤ん坊を連れて修道院へ戻った。
それから十五年経ったある日、神父は息子を呼んで語り始めた。「おまえも十五歳になったんだから、わたしは真実を語らなければならない。
実は・・わたしは、おまえの父親ではなく…」「何なんですか?」「母親なんだ」驚いた少年は問い返した。「じゃあ、お父さんは誰なんですか?」
「これは絶対に内緒だぞ。おまえの父さんはとなり町のあの大きな教会の司教さま・・・」
(字数制限のためカット 2012年9月23日)
・・・・・・・
2728,  議論に絶対負けない法 −3
 2008年09月23日(火)
  議論に絶対負けない法」−3   ー読書日記
物語になるまで、筋書きに対する準備に徹する、それも楽しんでやれるかどうかである。以下は、この本の一番好きな部分である。
成功のノウハウが、この部分に全て含まれている!と、いってよいほど。この天才的な弁護士が百戦百勝している最大の秘訣である。
好きこそ、ものの上手けれというが、何事も好きになり、その準備を楽しまなければならない。
  Pー195
  *私が百戦百勝している最大の秘訣
 準備!そこから魔法がはじまる! だが私がそう言うと、若い弁護士は当てが外れたような顔をする。彼らは労働と呼ばれる退屈なものを
迂回できるような、楽な方法を知りたいのだ。本当の準備は労働などではないと彼らに説明できればいいのだが…。準備とは、創造する喜びだ。 
  (字数制限のためカット 2011年9月23日)
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2007年09月23日(日)
2364, 哲学とは何か、考えてみようか?
        Good☆Morning (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
池田晶子から、再び中島義道に戻るのも良いだろう。脳の筋肉を使わないと独りよがりの理屈の捏ね回しになってしまう。
色いろな本を手がかりに、自分で脳の筋肉を使うしかない。その手っ取り早いのが哲学である。
それも、同じことを同じように、何度も繰り返しながら、一人ブツブツと独り言を呟きながら・・・・
私の場合特に、自分の経験を照らし合わせて理解することが多い。何ごとも初めは心と頭を空にして
(空即是色から始めないと)新しいことは出来ない。解ったふりとか、それまでの些細な知識や経験は、全て邪魔になる。
それが創造である。 哲学は何ごとも一度横において、原点を見つめることである。
 「狂人三歩手前」 ー中島義道著
ー夏には哲学がよく似合うー  P-51
メルローーポンティは言う。「真の哲学とは世界を見ることを学びなおすことである」脳髄の中はクルクル思考が回っている。
この「私」とは何者なのか?太陽が眩しい「いま」という時、それは何なのか?太陽から私の身体までのこの空間とは何なのか? 
このごろとくに考えること。それは、「見えるもの」は「見えないもの」に支えられて初めて見えるということだ。
他人の心も見えない…膨大な数の「見えないもの」に支えられて、特定の風景がいま眼前に広がっている。
ここにメルローポンティとカントを繋ぐ線があるのではないか。カントの言う「経験を可能にする条件」とは、「見えるもの」を
見えるようにする「見えないもの」なのだ。フムフムいいそ、いいそ…。哲学者とは夏の海岸でも、こういうことを絶えず考えている変な奴。
メルローポンテイは次のようにも言う。「哲学者とは、目覚めそして話す人間のことである」(『眼と精神』)。
「目覚めている」とは、絶えず周囲世界を見ているということである。そして「話す」とは、それを絶えず言語化しているということ。
この条件さえ満たせば、誰でも哲学者になれる。というより、すでに哲学者である。いや・もう一つの条件を加えておこう。
どんな場合でも、周囲世界に埋没していないこと。いかなる事件が起ころうが、適度な距離をもって冷静に世界を眺めていること、
つまり、「冷たい」厭な人間であること。プラトンは哲学の開始を「驚き」と言ったが、ひとの驚くことを驚かず、人が驚かないことに
驚くといい換えてもいい。テロが起ころうが、いかなる残虐な事件が起ころうが、驚かないが(私は地下鉄サロン事件にも
アメリカの同時多発テロにも全然驚かなかった)、「見えることの」の不思議さに驚き、いつも「いま」であることの不思議さに驚く。
思うに・女性哲学者が皆無なのは、こうした「驚きのズレ」がないためかもしれない。少なくとも、私は五十数年にわたる人生において、
こういう驚きのメカニズムを有した女性にお目にかかったことがない。 勿論、不安定なあるいは病的な人はいくらでもいる。
しかし、一通り社会生活をしこなしていて、しかも「いま、は何か」という問が絶えず脳髄の中で唸り声をあげている、という女性に
遇ったことはないのである。夏の浜辺で、ある女性が太陽に身を焼きなが、「いまとは何か?」と考えていることを想像するのは難しい。
それはいかなる文化にも共通の根源的な両性の差異であるように思われる。女性たちは「世界の安定性」に対する懐疑を抱かない。
ふっと抱くかもしれない。しかし、それを執念深く追究しようとしないのだ。次の瞬間世界は崩れるかもしれない、という不安感がない。
彼女たちの悩みは「世界の中」での悩みであり「世界の枠」そのものに関わる悩みでない。それは、彼女たちが生物体として
劣っているからではなく、優れているからである。男性の不安定性と哲学とは直結している。犯罪者も、自殺者も、精神病者も、
性的倒錯者も、ひきこもりも・圧倒的に女性より男性のほうが多い。哲学者も、疑いなくこうした反社会的グループの一員なのである。
(哲学釣な)男たちよ真夏の海岸で身を焦がしたら、漆黒の蒸し暑い夜、反社会的行為に向かってまっしぐらに没落していこう……。
ーーー
評)「私は五十数年にわたる人生において、こういう驚きのメカニズムを有した女性にお目にかかったことがない。」
中島のこの部分は池田晶子の評価に対する、読者への間接的なメッセージとも受け取れるが。池田晶子には不安定性が感じられないのは事実。 
反社会的な人間の匂いを、この中島には感じ取っても、池田には感じない。社会的センスの問題もあるが。  ヽ(★>з<)バイバイ
・・・・・・・
2006年09月23日(土)
1999, 「私」のための現代思想  −3   (。^0^。)ノ オッ (*^○^*) ハ〜 ヨウ
 第一章 「私」を縛るものは何か ー
  ー《価値》についてー
<価値>とは、何が良いか何が悪いかという時の価値基準をいう。良い・悪いの規範のことを「道徳」という。
  (以下、字数の関係でカット2008年9月23日)
・・・・・・・
2005年09月23日(金)
 1634, 創造性とは何かー 日野敬三 対談集
今西錦司との対談「創造とは何か」も深い。もう23年前の対談で二人とも故人になっているが、
生々しい肉声がそのまま伝わってくる。自らを謙虚にして自然の声を聞く姿勢が、創造の原点であるが、
個性に対して「自己」と「自我」の相対の中から、その意味を導き出しているのも、鋭い指摘である。
 (以下、字数の関係でカット2009年9月23日)
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2004年09月23日(木)
 1269, 否定的想念の恐怖
人間の脳には磁力があり、否定的想念を持てば否定的情報とその類の人間が集まり、反対に肯定的想念を持てば、
肯定的情報とその類の人間が集まる。私の経験でいうと、否定的想念のほうが肯定的想念より磁力は圧倒的に強い。
周囲には否定的想念の情報とその類の人間の方が圧倒的に多いからだ。肯定は意志を必要とするし、否定的想念は
感情のまま周囲と供に流されていればよい。教養が身につけばつくほど肯定的生き方になるのは、その知識を
持つからだろう。いやそうでもないか。否定的想念の習慣はその人に、必然的に否定的人生を強いることになる。
 (以下、字数の関係でカット2008年9月23日)
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2003年09月23日(火)
 902, 「守護霊との対話 」
 母が晩年よく「私には守護霊がいて、一生を通して、いつも守っていてくれたような気がする」といっていた。 
母の守護霊は、母が幼児の時に亡くなった実父といっていた。『幸せの宇宙構造』を書いた小林正観と
中川昌蔵氏の対談集が、図書館にあった。早速借りてきて読んでみたが、なかなか面白い内容であった。
   (字数制限のためカット 2010年9月23日)
 ーーーーーー
 貧すれば鈍する
  2002年09月23日(月)
 私の周辺に不幸を絵に書いたような人が数人いる。 「何をしてもうまくいかない人」である。 
 20対80の法則からいうと、その20パーセントの人間に80パーセントの不幸が集中するたぐいの話である。
  彼らの共通項とは
・甘さの塊である。そしてそれを周辺に押し付ける。人の甘さの隙を捜し続け、そこに擦り寄っていく。
・その結果群れたがる!一人になりきれない要素が非常に強い。腐った納豆?のような人だ。お互い粘粘絡み合っている。
・暴力団の事務所はそういう溜まり場だ。
・言い訳だけを常に考え行動しようとする。
 (以下、字数の関係でカット2008年9月23日)


4197, 呪いの時代 ー14

2012年09月22日(土)

                          「呪いの時代」内田樹著 
  * 「リスク」と「デインジャー」の二種類の危機       ー第10章 荒ぶる神を鎮めるー
東北大震災は想定を超えた千年に一度の事故。それでも東北は地震対策を最大限していたので、最大規模の地震と津波にしては、
これでも最小の被害で済んだ。 しかい太平洋沿岸で近い将来、必ず大震災が起こるというから、大変な事態である。 
恐らく、日本経済を先導してきた東海地区も工場の移転が始まることになる。日本は、ますます疲弊することになる。
  ー以下の、「リスク」と「デインジャー」が分かりやすいー
≪ リスクレというのはコントロールしたり、ヘッジしたり、マネージしたりできる危険のこと。「デインジャー」というのは、
そういう手立てが使えない危険のことである。喩えていえば、W杯のファイナルを戦っているときに、残り時間1分で、1点の
ビハインドは「リスク」である。このリスクは監督の采配や、ファンタジックなパスによって回避できる可能性が辛うじてある。
一方、試合の最中に、ゴジラが襲ってきてスタジアムを踏みつぶすというのは「デインジャー」である。
対処法は「サッカー必勝法」のどこにも書かれていない。だが、そういう場合でも、周囲の状況を見回して「ここは危ない、
あっちへ逃げた方が安全だ」というような判断ができる人間がいる。こういう人はパニックに陥って腰を抜かす人間よりは
生き延びる確寧が高い。でも、いちばん生き延びる確率が高いのは、「今日はなんだかスタジアムに行くと厭なことが
起こりそうな気がするから行かない」と言って、予定をキャンセルして布団をかぶって寝ていた人である。9・11テロの日も、
「なんだか『厭なこと』が起こりそうな気分がした」のでビルを離れた人が何人もいた。彼らがなぜ危機を回避できたのかを
エビデンス.ベースで示すことは誰にもできない。・・・
 ・・・ 東北大震災で、助かった人は、それが単なる偶然であり、生き延びたことに『理由』を求めるのは愚かなことである」と
言うような発言をしてはならない。それは死者を二重に穢すことになるからである。私たちがもし幸運にも破局的事態を
生き延びることがあったとしたら、私たちはその都度「なぜ私は生き残ったのか」と自問しなければならない。
「他ならぬ私が生き残ったことには理由がなければ済まされない」という断定は誇大妄想でもオカルトでもなく、
人間的意味を「これから」構築するための必須条件なのである。だから、WTCをテロの直前に離れた人が「なんだか『厭なこと』が
起こりそうな気がして」というふうに事後的に自分の「異能」を発見するようになるのは当然のことなのである。そうすべきなのである。
私が生き残ったことに意味があると思わなくては、死んだ人は浮かばれないからである。誰かがそう思わなければ、被害者たちは
殺人者の恣意に全面的に屈服したことになる。そして、その断定を基礎づけるためには、自らの責任で、長い時間をかけて、ほんとうに
「デインジャーを回避する力が人間には潜在的に備わっている」ということを身を以て証明しなければならない。だが、私たちの社会は
戦後66年間あまりに安全で豊かであったせいで、危険をすべて「リスク」としてしか考察しない習慣が定着してしまった。
「デインジャー」に対処できる能力はどうすれば開発できるのかについての「まじめな議論」を私はかって聴いたことがない。≫
 ▼ 去年春の事業の帰結は、9・11テロと、9・15リーマンショックと、3・11東北大震災の「デインジャー」によるが、
「リスク」レベルの要素が無かった、とはいえない。 それでも、当初からの事業設計に万一の「デインジャー」対策を組み込んで
いたので、九死に一生を得ることができたが? 「家族経営はしない(妻子を事業に入れない)」「家内の通帳は別だて」。
「予備資金の積立」は、9・11による売上減で青くなり、始めたばかり。これを一部でも使いざるを得なくなった時は、迷わず廃業と
決めていた。御陰で事業をたたみ裏山に辿り着いたが、下を見るとノンビリとした世界が見える。外海の超大津波が見えない!のである。
・・・・・・
3832, 毒を溜めない! 日々 ー2
2011年09月22日(木)
  * 言葉の毒は、人も自分も殺す魔物
 脳に毒が溜まる原因となる「毒のある言葉」を平気で話す人がいる。という私も、その手になるか。 怒りは感情の動物、それは仕方ない。
しかし、その場限りにすればよい毒言葉を、何度も何度も繰り返す。そのうち、その言葉がヘドロとして心に溜まり支配されたときに、
「怒り」が「怨念」に変わる。それは本人にとって猛毒になる。 怨念は相手を殺すが、自分も同時にやられる。「人を恨めば穴二つ」である。 
 9・15のリーマンショック以来、会社の売上の激減が続いてから、身近に中村天風の「箴言集」をトイレと、書斎の机近くの本棚に置き、
ことあるごとに読んでいる。状況が状況、どうしてもマイナーの気持ちになるが、天風の言葉は、それを半減させる効用がある。
何ども読み返すと、その味わいが深くなるのが天風の言葉。 天風の本は20数年前から読んでいるが、歳を重ねるほど心に響いてくる。
老化は人の心を冷やす働きがある。人間の肉体も生(なま)もの、古くなれば傷んでくる。 長く生きた分、娑婆の家賃は高くなって当然と
痛みを受け入れるしかない。マイナス言葉が特に人間の精神を蝕んでしまう。 しかし精神が傷むからマイナーの言葉に支配される側面もある。
人間で一番大事なのは健康だが、それに劣らずに大事なことは「驚く心」。 何にでも興味をもって、その存在に驚くこと。
「存在」と「認識」への原初的な問いかけである。「あれは、こう、それは、こう」と、何を見ても分かったと思い込んでしまうのが老い。
若いのに老化してしまっているのが大部分? 無知は老化に極似している。 家族や身近な人などの刷り込みで壁をつくりあげられている。 
それを一つ壊している間に、他の壁が、さらに立ってくる。 その壁が人間の脳には毒になる。 言葉は恐ろしい魔物の側面がある。
特に他者への侮蔑の言葉は、その人間の限界を明確に浮きだたす。 相手を傷つける数倍も自分を傷つける。それは弱者の武器になるが、
自分自身に対して返り矢になる。 特に老醜は心しなければならない。愚痴と怨念がそれだ。それにしても毒が底から沸々湧いて出る。
それを常に浄化しておかないと顔に出る。 やはり宗教しかないのか、人間は! 明るい天国か浄土のイメージが毒を消してくれるのか?
・・・・・・・
3467, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー11
2010年09月22日(水)
  * アフリカに魅せられて ー5
 アフリカは、ケニア・タンザニアに4回。 南アフリカ、西アフリカ、モロッコ、エジプト、それぞれ一回、そしてイスラエルの
コースでシナイ半島に立ち寄った一回を含めて9回行ったことになる。あとエチオピアか、マダカスカル島に行きたいと思っている。
アフリカの魅力は手付かずの大草原と、そこに住む野生動物と原住民。それぞれの部落で社会形成が成されていて、彼らと我われの社会と
何が違うのだろうか考えさせられる。 父親がいて、母親がいて、子供がいて、それぞれの家庭がある。そして集落があって、酋長がいて、
一族を束ねている。その視点で現在の自分が住んでいる社会と何が違うというのだろう。ポストモダン主義は、それを指摘した。
現象の背後にある構造から、これまでの欧米=先進国という思い込みを根こそぎ疑問を持ち、未開発地域の人たちにも同じような文化が
存在している事実に注目した。戦国時代、そして江戸時代の日本に日本を訪れた宣教師や商人が、日本の文化レベルの高さに驚愕した
手紙などが記録で残っている。それがアフリカのマサイ族の部落などから感じ取ることが出来るのである。それはアフリカだけでないが。
初めてアフリカに足を入れる前までは、恐ろしく未開発で、文化程度の低い地域と思い込んでいた。しかし、サバンナで出会うマサイ族の
衣装と野生動物から身を守るために持っている槍の取り合わせは、決してパリの美しい女性のセンスにひけをとらない。
サバンナの背景にピッタリで様になっている。彼らは彼らで何処かの街の市場で、自分に似合った柄の羽織?を買い求め着ている。
それを上から視線で見る輩もいるが、現地でみれば自分の無知を知ることになる。 その視線で自分に流れている日常を見直すと、
小さな自分の世界を見直すことができるのである。
 ・・・・・・・
3092,つれづれに ー閑話小題ー
2009年09月22日(火)
  * 自民党総裁選挙だと!
 民主党が政権を取り、自民党が新たに建て直しのための総裁選挙が始った。早くいえば敗戦処理のための一期だけの総裁である。
三人がTVで議論をしていたが、民主党の閣僚の斬新さと比べたら明らかに見劣りがする。勝てば官軍、負ければ賊軍で、まともなのは
河野太郎だけで、二人はボケ。派閥領袖達が談合の結果、谷垣禎一を総裁にするために西村康稔をワザワザ擁立したのはミエミエ。
その筋書きを国民が見ていることを老害連中には理解できないのである。 恐らく谷垣になるのだろうが、その方が日本にとってよい。 
それだけ自民党が嫌われ、立ち直りが遅れるからである。今のところ政権交代は現在のところ、それを選択した国民の方が、驚いているはず。
数年間は自民党の、これまでの悪臭が際立ってくる。 官僚に牛耳られてきた結果の腐りが、である。
  * 図書館にて
 昨日の午後に自宅近くの図書館に入ったところ、入口近くカウンターの7〜8人の館員が一斉に私を見ている。
それも全員が立ち上がっていて氷ついている。 一瞬何ごとか竦んでしまった。 次の瞬間、一人の男が怒鳴りだした。 私が入って来たので、
中断したようだ。 ホームレスのようで目が据わっている。何かの欝憤を晴らしているようだった。 対応が悪かったのか?館内でトラブルを
起こして追い出され悪態をついたのか? ところが「俺は長岡高校が大嫌い」だとか、要領を得ないことをいっている。二メートルほどだったが、
強盗でもないので無視をして本の返却をした。あの館員達の顔からしたら、かなりの剣幕だったのだろう。館員が受付の外で対応していたが、
ああいうのは相手との間隔をつめて身体を逆に密着すると、相手も気が飲まれる。 それにしても、銀行強盗に出くわしたような雰囲気だった。 
ホテル業は1〜2年に一度、流しのヤクザが因縁を創作してトラブルの演技で金を強請にくる。
また酒に飲まれた機嫌の悪い客が怒りをぶつけてくる。現場は、本当に大変である。 
  * 5連休か〜
 秋の5連休とかで、高速道路の千円効果もあってか春のゴールデンウィーク並みのようである。この不景気の中、観光地は思わぬ特需で
息をついているという。私の方もだが。高速道路の無料化は地方にとっては大きなインパクトになるだろう。さっそく「知人の奥さんが
4名で東北まで一泊で遊びに行ってガソリン代と往復2千円を加えて、割ったら一人当たり交通費が二千八百だった」とかいう
話題が入ってきた。そうこう考えると、高速無料化は日本全体にとって莫大な経済効果をもたらすだろう。
学生時代のゼミの後輩が、その火付け役である。さぞ、鼻が高いだろう。
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2727, ザ・オオズモウ
 2008年09月22日(月)
  *大相撲が面白い!
 ロシア人力士の麻薬事件と理事長辞任の異常事態の中で大相撲が始った。一場所を中止をする位の大事件なのに、
それ以上は騒ぎ立てなかった。ロシア人が不服を申し立て、そこに注目させた戦術が良かったようだ。 所詮は、その程度。
これからも次々に同じような問題が起こるだろう。大相撲の始まりは、神社の神事で力自慢の余興から始った。 
歌舞伎と類推すると、その本質が見えてくる。その意味では、外国人に開放したことで割り切るべきは割るきるべき。
歌舞伎に外国人開放したと同時に、それは「ザ・カブキ」に変質してしまう。柔道が「ジュウドウ」に変わってしまったのと同じである。
大相撲は、「ザ・オオズモウ」になってしまったのである。それが不可能なら、システムそのものを変えるべきである。
それと「国技」とかいう名前も返上すべきである。外国人の総量規制を一部屋一人ではなく、一国一人とし、20人以内にすべきだろう。
一年に2度位、それぞれの部屋単位でドーピング検査をするようにして、問題が発覚する前に処分するべき。
もちろん、抜き打ちは当然に徹底すべきである。日本人と外国人のマリファナに対する罪悪感が違うから、尚のこと徹底すべきである。
  *立ちあいの厳格化で、朝青龍が引退?
 最近になって気力が衰えていた朝青龍が、両手を確実についての立ちあいのため不調である。この力士の特技が立ちあいの張り手である。
下位の力士が横綱に張り手は出来ないのを逆に利用して張り手を武器にしていた。地位を利用した戦術と感心していたが、両手の手つきでは、
張り手がやりづらくなった。これで、力が半減してしまう!数場所以内の引退もあるだろう。新たな戦術をつくりだして再出発するには
気力が衰えている。しかし、ヒール役としての彼の役割は、あまりに大きい。前の理事長が擁護していたから、あれだけの不祥事の中、
引退をしないで済んでいたのだから、これまでの所業の積み重ねからして、新理事長の下では早々の引退だろう。
元もと芸能的色彩の強い業界だから、麻薬あり、リンチ殺人あり、八百長あり、それはそれで結構じゃないか! その辺が結論。 
 後記)2002年〜4年にかけて大相撲を取り上げていたが、成るほど時代は大きく変わっている。
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2007年09月22日(土)
 2363, 郵便配達夫シュバルの理想宮  −2
シュヴァルの凄さは、理想宮が明らかに意味あるものなら解るが、今でいうテーマ・パークを、誰の理解もされずにただ黙々と石を集め、
自分の心の命じるまま理想宮をつくり続けたことである。ただ、そのプロセスの中で生甲斐を感じていたはず、もし感じてなければ
続くわけがない。他の人から見たら何ら意味もないことを、自分でも意味など考えてなかったのだろう。
あるのは、それに取り組んでいるときの何ともいえない喜びである。続けているうちに評判を聞いた外部の人が見に来て褒めてくれたこと、
認めてくれたことなどで、意味を見つけていったのである。それは結果として、潜在意識の具現化につながっていく事になる。
そのテーマ・パークはみる人の気持ちをうつのである。もちろん、周囲の人は、その奇異な建物をみても理解などできようがない。
むしろ外部の人は、それを冷静に客観視できるから興味も加えて評価が可能になる。創造者は、まずは気違いにならないと
新しいことは創造できない。そして周囲は、その姿をみて、気違いという。 だから面白いのである。
 ーその部分を抜粋したみるー
  ー村の気違いー
シュヴァルは、村では最初から異端者であった。農地を持たない、という一事だけでも、村において、人を異端者と
するに足りたであろう。そのうえ彼には、孤独癖、厭人癖があって、周囲の生活に決してなじむことができなかった。
 (以下、字数の関係でカット2008年09月22日)
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2006年09月22日(金)
1998, 「私」のための現代思想  −2  
   (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜  −読書日記
第一章 「私」を縛るものは何か ー
 ーまずは問題とはー
まず「我われの世界は正しいのか」という問題をまず考えなくてはならない。
我われの世界には正しい部分と、腐った部分がある。《「世界」と「私」は、ともに腐っていく》という方が解りやすい。
この世界で自分が腐っていくのを実感することは、さらに腐敗にまみれないようにするためには、非常に重要である。 
我われを拘束する要素として、<言葉><価値><社会>が考えられる。
 ー言葉ー
私たちは<言葉>を使ってこの世界を認識し、他者に何かを伝えます。言葉は「思考の枠組み」であり、
便利な道具ではあるものの、逆にその「枠」の外には出られないという意味で束縛となる場合がある。
 ー価値ー
私たちは何らかの、<価値>を求め、それに照らし合わせて自分の行動を決定したり選択したりします。
自分が重要だと考えている<価値>そのものが、私たちを束縛している場合がある。
 ー社会ー
この枠組みは、私たちがよりよく生きるために構築されてきたものですが、そこに窮屈感や閉塞感が出ることがある。
これらは「束縛」となる場合と、「自由になるための武器」になる場合がある。 この束縛から脱するには、
これらを得なくてはならない。 得るためには、まずは言葉・価値・社会とは何か知らなければならない。
 まずはーー《言葉》についてーー
言葉の機能の中心には「分類」があります。これは、言葉は「私たちが知覚したものを分類する」ために用いられるという意味である。
私たちが「何かを学ぶ」ということは、ー社会において重要とされている分類基準を自分のものとするーということを意味しています。
このとき私たちは、少しだけ「自分を殺す」ことになります。それが「大人になる」ということであり、「社会化する」ということです。
(以下、字数の関係でカット2009年09月22日)
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2005年09月22日(木)
 1633, 閑話小題
 ー雲を消すー
(以下、字数の関係でカット2011年09月22日)
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2004年09月22日(水)
 1268, 大相撲に思うーつれづれに
大相撲が始まると、相撲について書くのが恒例になってしまった。場所ごとに刻々と、相撲の様相が変わっている。
最近は、朝鮮相撲、モンゴル相撲、レスリング、そして日本相撲の「国別異種格闘技」の様相に変ってきている。
(以下、字数の関係でカット2011年09月22日)
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2003年09月22日(月)
 901, 相撲を考える
 大相撲が昨日で千秋楽、朝青龍が優勝をした。他の格闘技も多くできたこともあるが最近の大相撲はつまらなくなった。
  (以下、字数の関係でカット2008年09月22日)
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2003年03月12日(水)
 707, モンゴル大相撲
 先場所の各段の優勝は序二段を除いて全て外人が取ってしまった。
今場所からは、両横綱とも外人である。外人力士が50数名いるうち8割がモンゴル出身である。
  − 以下字数の関係でカットー2007年9月22日
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2002年09月22日(日)
 527, 大相撲ー頑張れ武蔵丸!
 まさか貴乃花が千秋楽で同点決勝に持ち込めるとは思ってなかった。
もし優勝をしたら大騒ぎになるだろう。こういう時に勝つのが大スターであるが、彼はそれを持っている。
  (以下、字数の関係でカット2010年09月22日)
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[154] 性善説と性悪説   2001/09/22
 以前、身近に[おれは性善説だ]と口癖の男がいた。本当に性善なら‘それを売り言葉に使うのがおかしい’
という事も解らない。人間なんぞ性善も性悪もごちゃ混ぜになっているもの。
(以下、字数の関係でカット2012年09月22日)
 


4196, 呪いの時代 ー13

2012年09月21日(金)

                                「呪いの時代」内田樹著 
    * 原発供養
 この東北大震災に際し皇室一族が最大限のお見舞いをしていた。国家の元首として、歴史的大惨事に現地に真っ先に行かれ、
見舞うことが役割として最優先されることだが、その行為に呪鎮の意味が入っているとみることができる。ー以下も納得できるがー
≪ 一神教文化圏の人々は荒ぶる神を巨大な神殿に祀り、それを畏れ、隔離することでいっときの安心を買い、日本人は
荒ぶる神を金儲けの道具にまで堕落させ、その在所をずっぽりとベニヤの書き割りで囲って、「あんなもん、怖くも何ともないよ」
と言い募ることでいっときの安心を買った。 どちらの安心が長持ちするものだったかは今回の事故があらわにした。
 福島原発のふざけた書き割りを見たヨーロッパやアメリカの原発関係者はかなり衝撃を受けたのではないかと思う。
その施設の老朽ぶりや、コストの安さや、安全設備の手抜きに心底驚愕したのではないかと思う。どうして原子力のような
危険なものを、こんなふうに「雑に」扱ったのだろう……と海外の原子力研究者は頭を抱えたはず。そこまでして「コストカット」
したかったのか? 日本人は命より金が大事なのか? もちろんそうではない。話は逆なのだ。 あまりに怖かったので、
「原子力は所詮金儲けの道具にすぎないという嘘」を採用した。原発の設備をあれほど粗雑に作ったのは、原子力に対する
恐怖心をそうやってごまかそうとしたからなのである。「こんなものいくら粗雑に扱っても抵抗しやしねんだよ」と蹴ったり、
唾を吐きかけたりして、「強がって」みた、 (・・・中略)
 ・・・ 原子力についても、そもそもその設営のときに、伝来の古法に則って、呪鎮の儀を執り行うべきだったと思う。
盛り土をして、原子炉を土中に置くのである。塚に草が茂り、桜が咲き、鳥がさえずるような広々とした場の下に原発を安置する。
そこに神社仏閣を勧請する。「原発神社」。荒ぶる神がとりあえずは「よきこと」だけをなし、恐るべき力の暴発を抑制して
くれていることを感謝するのである。 そして、桜が咲く頃には地域の人を集めて、「原発祭り」を挙行する。荒ぶる神が
とりあえずは「よきこと」だけをなし、恐るべき力の暴発を抑制してくれていることを感謝するのである。(・・・中略)
 ・・・ 福島原発の設概工事のときにも、間違いなく地鎮祭は行われたはずである(地鎮祭を執行しなければ、建築現場には
誰も入らない)。なぜ地鎮祭の執行を禁止しなかったのか。地鎮祭をしないと、日本人の作業員が現場に入ってくれないのなら、
中国からでもフィリピンからでも建築労働者を連れてきて断行すればよいではないか。なぜ地鎮祭を行うのか。それは平屋の家を
建てる工事においてでさえ、行われる。「恐るべきもの」の不意の現場での警戒を怠れば、思いがけない事故が起こることを
現場の働く人は経験知として知っているからである。地鎮祭は地祇を鎮めるためのではなく、人間の緊張を亢進させるための
心的装置なのである。・・・≫
 ▼ 「原発供養をすべし」とは、思いもよらぬ切り口。供養すれば済む問題でもなかろうが。ビル建設で地鎮祭を何度か
  経験したが、それはそれで大事な神事。 しかし世界中のビル工事で行われるかといえば、そうでもなく、日本的心的装置。
  施工業者と、施主と、土地・建物を一つの魂にする儀式ということか。最後は祈るしかないという、ブラックジョークか。
 ・・・・・・
3831, 閑話小題
2011年09月21日(水)
   * 学生時代に経験した、都会人と地方出身者の差
 東京の学生時代は寮暮らしだったが、当然そこは地方出身者の巣窟。それに比べ大学はミッション系で比較的裕福な人たちが集った学校。
クラブに入って驚いたことは、都会人の会話のセンス。 常にジョークか駄洒落を飛ばし会話を楽しんでいる。 友人も教養課程の
クラスでは席が固定されている。そこで二分されるのが、都会出身者と、地方出身者。服装からセンスが違う。しかし都会出身者は、
地方人の素朴さに惹かれるが、反面、どこか田舎者と見下げている。 地方出身者は更に言葉にコンプレックスを持つ。が、それ以前に、
日常の三食の食事など生活のハンデキャップがある。 友人を見ていてキツイそうなのがアパート生活者。 地方出身者は、孤独な都会の
一人暮らしに辟易としてしまう。 入学早々に彼女をつくるなど、まだ純真な身の上にとって考えられない。チャンスは幾らでもあるが、
どの辺が自分に妥当かどうか判断できない。やっと声がかかってくるのが学生生活に慣れた二年の後半から三年にかけてになる。
とはいえ、女性の方は二段階上の人が対象。(これは40歳を過ぎて初めて知ったこと) その中で自分の4人の姉たちを比較し、
その上というとナカナカ適正な相手が見つからない。 現在振り返ると私も1〜2ランク上の相手を求めていたということ?。それからして、
ギャップは、あまりに大きい。 という訳で私は学生時代に結婚相手を見つけないまま終わってしまった。 友人をみると、
学生時代の相手と結婚したのは三分の一ぐらい。 結婚相手を決めることは互いに、人生を大きく左右するほどの決断。目先の熱に
うなされ、一生の大惨事になる可能性があるのが結婚。 更に驚いたのは都会人の読書の絶対量が違うこと。
25人の地方出身者の寮に入っていて、確かに何時も酒を飲み騒いでいた。 しかし、必死に本を読んでいたことも確か。
それでも、都会育ちに人たちは、その絶対量が違っていた。 それでも、色いろの大学の学生が入り交じっていた寮、クラブ、ゼミ、
一ヶ月の欧州旅行、アルバイトでの多種の人との接点が非常に恵まれていた。 小学校から大学時代を通して、大学が最も恵まれていた。
卒業直後、就職で地方にいったこともあり、もう一皮ぬけなかったのが、良かったのか悪かったのか。 それもこれも、同じだが・・・
 しかし、話が合うのは今でも都会の人たち、というより揉まれた人たち!  
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3466, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー10
2010年09月21日(火)
 * アフリカに魅せられて ー4
  ー奇跡の自然動物園のクレーター「ンゴロンゴロ」ー
 初めて足を踏み入れたときに、自然が創り上げた自然動物園に奇跡を目の当たりに見たような気がした。 
ここは数百万年前に出来た火山のカルデラに広がる平野である。 もとはセレンゲティ国立公園の一部だったが、遊牧民マサイ族の
生活保護のため国立公園から分離、ンゴロンゴロ然保護区となった。ンゴロンゴロとはマサイ語で「大きな穴」。
野生保護区は、直径約16キロメートルの火口跡があり、クレーター内では多くの野生動物(キリンやインパラ以外)の象、ライオン、
バッファロー、クロサイ、カバなどが見られる。 外輪は2,400mの高さがあり、カルデラ内部の平野(1,800m)と比べ標高が高い。
このためカルデラ内部はカルデラ外部と遮断されており、ここで生息する大型動物のほとんどはカルデラの外にでることはない。
(象とか一部は出入りの道がある) そこは周囲と隔離された生態系が形成されるに至った。そこでは東アフリカのサバンナに
生息する動物はほぼ観察することができる。植物にはじまる食物連鎖は一つの大きな生態系のシステムをつくっている。
上から下に下りて見渡すと本当に小さく感じる。僅か16×14キロの平原に2万5千頭もの野生動物たちが暮らす「最後の楽園」。
それぞれの動物のテリトリーがあり、ジープを少し走っただけで、色いろな動物に遭遇する。実際に地球上に、
アフリカ大陸がそのまま圧縮されたような自然界である。 そのこと自体が信じがたく奇跡的である。
 クレーターから約50キロメートルに数百万年前の初期人類が発見されたオルドバイ渓谷がある。
ここから人類がアフリカ大陸全体に、世界に向け進出していったと言われる。 だから、人は本能的に惹かれるのである。
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3091,猫背の話
 2009年09月21日(月)
 数ヶ月前に、何気なく全身鏡の自分の猫背姿をみて愕然とした。 腰を痛めていたこともあるが、首が少し前に出た猫背の
初老の男の姿が、そこにあった。毎日、散歩をして軽いストレッチをしていたのだが。しかしストレッチを一年ぐらい気を
抜いていたのは事実。 意識して背筋を伸ばすように心がけてはいたが。そこで、さっそく朝起きる直前に布団の中で全身を
伸ばし、背筋を伸ばすマシーンを探して取り寄せ矯正を始めた。 朝晩に使っているが、これでかなり矯正はした。
 ところで先日、TVのワイドショーで「猫背」をテーマにしていた。
・猫背には「首猫背」と「腰猫背」がある。
 首猫背は首が前に出た猫背で、腰猫背は腰が少し引けて上半身が前に傾いている姿勢。
・壁を背に密着して立って、脚から頭までピッタリとくっ付けば猫背ではない。
 首が壁につかないのが首猫背、背中もつかないのが、腰猫背。 
・静止して立っているときに、片方に重心を置く人や、脚を開いて立つ癖のある人には、猫背の可能性がある。
・姿勢にしても、歩行にしても、座っている姿も、理想的なカタチを自覚して、常に意識すること。
・中年女性のモデルが姿勢矯正のポイントして「モデルは壁の御友達」という言葉と方法を紹介していた。
  ー以下字数の関係で中間をカットー (2010年09月21日)ー
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2726, 議論に絶対負けない法 −2
 2008年09月21日(日)
ランダムに面白そうなところから選んで考えてみる。「力の議論」の十大要素が纏めてあったが、
この本の要点である。よく読むと気がつくが、議論というより人生を前向きに活き活きいきるコツでもある。
孫氏の兵法にも通じる。 この本から多くのことを教えられる。
 ー「力の議論」の十大要素ー (12章、どんな議論でも「絶対負けない」十の法則より)
1、まず十分に準備しなさい -自分が議論そのものになるまで、準備しなさい。
  -適切な準備には、ストーリーを話すことと、関係者に役を割り当てることが必要だ。
2、あなたの議論を受け取ってもらえるよう相手の心を開かせなさい
  −ただただ真実を語りなさい。自分自身になりなさい。それで十分だ。
3、ストーリーの形で議論しなさい −おとぎ話、たとえ話は皆、成功する議論に欠かせない道具だ。
4、真実を語りなさい−力の議論は、真実を語ることに始り、真実を語ることに終わる、真実は言葉だ。
5、相手に自分の望んでいることを話しなさい −人間とは、どんな種類のどんな性格の苦しみも耐えれる種なのだー
   ―ただ一つ不正という苦しみを除いては―
6、皮肉を言ったり馬鹿げたことを言うのを避けることー ユーモアを使う時に注意しなさい。
  相手を侮辱する言動に注意しなさい。皮肉屋、馬鹿にする人、卑怯な人を尊敬する人はいない。
  相手に敬意を払うことによって私達は高い次元に上がる。忘れてはならない敬意とは相互に働くものだ。
7、論理は力だ −サミュエル・バトラーが言ったように、「論理は剣に似ている。論理に訴える人は、論理に滅ぼされるだろう」
8、行動と勝利とは兄弟だ−もっとも緻密な防御をするより、最悪のものでも真正面から攻撃をした方がよい。
   絶対に相手に主導権を握らせてはいけない。攻撃する時には防御をしてはいけない。
9、最初に自分の議論の弱点を認めなさい
  −自分から弱点をさらけ出した方が良いだろう、そうしないと相手は可能な限り陰険なやり方でそれを暴くだろう。
  それを先に認めれば信頼を得ることが出来るし、認めたことに何も言うべきことがなくなる。
10、自分の力を理解しなさい −自分自身に許可ー勝つ許可だけーを与えなさい。
   だが放漫と横柄と愚かさは近い親戚であることを忘れないことだ。
▼ 以上だが、物語にするための準備を積み上げること、それも真実の、ということか!
 次は、その準備について述べている部分を抜粋して考えてみる。日本の検察の手法に、これがあるという。
告訴する時に、荒筋をつくって強引に容疑者を当てはめようとする。そのストーリーを書いてしまえば、真実は二の次になってしまう。
これが、恐ろしいという。マスコミも、しかりである。それだけ、物語の力があるということだ。 共同幻想は、物語から沸いてくる。 
 そういえば、ここで「物語のつくり方」みたいな本を取り上げたことがあった。
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2007年09月21日(金)
2362, コーヒーの由来
 ー以下字数の関係で中間をカットしました。 (2008年09月21日)ー
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2006年09月21日(木)
 1997, 「私」のための現代思想    読書日記
   \(^▽^*)おは!   (光文社新書)  著者・高田 明典
 「私」とは何か、「他人」とは何か、そして他人の集まった「世界」とは何か? を解りやすく書いてある本がないかと
 思っていた矢先、 図書館でこの本に行き当たった。 哲学、そして現代思想で、常に言及している問題である。
 この本では、<言葉><価値><社会><世界><物語><私><身体><他者>という現代思想の主要概念を検討する構成。
 この著書の中で、凝縮されたポイントを抜粋してみよう。 まずは「はじめに」の中から、ポイントの部分を抜粋してみる。
・フランスの哲学者のシモーヌ・ヴェイユは、哲学の教師でありながら、一介の労働者として工場に入り込み、そこで辛い体験を通して、
 自らの思想を研ぎ澄ました。そこで工場での体験で意志の発揮の機会はことごとく 奪われてしまいました。 そこで私たちは
 「時間の流れ」にさからうことはできません。しかし時間の流れの中で、次に到来する時点において何をしているかを思い描き、
 その通りに行動することはできます。それを人は「意志」といいます。また、「精神」とも、「魂」ともいいます。
 すなわち「魂」とは、人が「時間を支配すること」です。もしも「次の瞬間」、もしくは「次の時間単位」に発生することが、
 自分の意志とは全く関係なく起こるものであれば、人は「瞬間的に生きる」ほかなくなります。その自由は失われます。
・教養とは「自由になるための技術」です。そして哲学や現代思想は、その柱の一つです。私たちに与えられた武器は、
 思考であり言語であり論理である。それ以外の武器を、私たちは持っていません。 自由になるための「技術の束縛」
 から逃れるためには、「技術を所有する」ことです。「お金の束縛」から逃れるには、「お金を所有」するしかありません。
 所有するとは権限を持つことと同義語である。 何に束縛を感じるか、その人によって違います。
 その違いは、それぞれの個人の「物語」の違いによります。物語は「人が生きていく上での行動の道筋」です。
 束縛は、外部に存在して人の行動を制限するものではありません。 その人が採用する「物語」が遂行していく途上に
 存在する「壁」のことです。「金銭という束縛」を感じているとすれば、それは「金銭が壁となって邪魔をする」という
 「物語」が遂行中であることを意味しています。「思考による束縛」の場合は、「思考を捨てる」ということは、
 すなわち「何も考えない」ということなので、その実現はかなり難しいと思われる。
 「思考の束縛」から逃れるためには、「思考を所有する」ほかはないようです。 ーおわり (。^0^。)ノホンジャ、マタ! 
  ・・・・・・・・
2005年09月21日(水)
1632, 記憶する身体、飛翔する意識
         ー 日野敬三 対談集  −3
柄谷と保坂の違って、三木は本人自身が生死の淵の大手術をしているので対談の内容は、よりリアルになっている。
ー手術の前前日、夜に病院を抜け出して、信濃町の駅の向かいの喫茶店に一人座って茫然とコーヒーを飲んだのです。
ふと見たら駅の改札口が、ひどく明るく見えるのです。そこだけ輝いて見えるのです。努め帰りの人たちがドンドン出てくる。
以前だったら、疲れて不幸そうな顔をしているなと思うんですけど、そのときは出てくる人たちの顔が、
みんな輝いているのですよー のクダリなど、挫折を何度か繰り返してきた経験から、痛いほど解る。
現在、リストラにあった人の心象風景そのものである。 以下は、少し暗いが真実の声である。
   ー記憶する身体、飛翔する意識ー 三木卓
ー三木: 生死ぎりぎりの大手術をして、人生の荒治療を食らったという感じは大いにありますね。
 突如として目の前に「シャッター」がダーンと落ちてきたときには、やはりかなり慌てた。
 多少は死のことを考えていたつもりなのに、やはり本番の覚悟はできてなかったのですね。
ー日野:『2001年宇宙の旅』というSF映画の中に、モノリスという不思議な金属が出てくる。 ツルツルの黒っぽい。
 三木さんは先ほど、シャッターとおっしゃいましたが、僕はあれが目の前にスーッと現れた気がしたの。
ー三木:モノリスが?怖いな!
ー三木:病室の窓から、恵比寿の町の灯が見えるんです。そうすると街のどこかのバーで僕が一杯ひっかけていてもいいわけですよ。
 ところがその風景が、何か、明治時代のガス灯の世界か何かに思えてくる。その間にあるガラスは厚いですね。
 驚くほど厚いガラスなんです。そこに僕が行って飲むということは素晴らしいが、もう絶対できない。
ー日野:僕は、手術の前前日、夜に病院を抜け出して、信濃町の駅の向かいの喫茶店に一人座って茫然とコーヒーを飲んだのです。
 ふと見たら駅の改札口が、ひどく明るく見えるのです。そこだけ輝いて見えるのです。勤め帰りの人たちがドンドン出てくる。
 以前だったら、疲れて不幸そうな顔をしているなと思うんですけど、そのときは出てくる人たちの顔が、
 みんな輝いているのですよ。僕はここにいて、10~20m先の改札口の皆が帰っていく姿が、この世のものならぬ光に包まれて、
 そして自分とそこの間には絶対の隔たりがあった。その光景は忘れられません。
ー三木:日野さんも僕も、シャッターが落ちたときから、そういう時間が始まったんだと思う。
   ー以下字数の関係で中間をカットしました。 (2009年09月21日)ー


4195, 呪いの時代 ー12

2012年09月20日(木)

                     「呪いの時代」内田樹著 
    * 「片づかなさ」の人間性     ー第8章 これからを生き延びる智恵
  贈り物を貰った場合、何かを返さない限り気持ちの中に、「片づかなさ」が残る。これが人間社会とサル社会との差。
 私はビジネスの場面で、それを徹底してカットしてきたが、私的場面でも何時の間に持ち込んでいたようだ。これが最近、
 つくづく間違いだったと反省していること。結局、人との付き合いは贈り贈られで成り立っている。 それにしても
「贈り物」とそれに対する「反対給付(お返し)」が、人間たる由縁とは。  以下は ーその辺の抜粋であるー
≪ 人類学者マルセル・モースはその著書『贈与論』のなかで、贈与論の主題を端的にこうまとめています。
「受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何であるか。贈られた物に潜むどんな力が、
受け取った人にその返礼をさせるのか」
 モースも、マリノフスキーも、レヴィ=ストロースも、「贈り物」とそれに対する「反対給付」が人間集団を形成する
本質的なカだとみなしている点では共通しています。贈り物をされると「お返し」をしないとどうにも気持ちが片づかない。
この「片づかなさ」が人間社会を「人間的」なものたらしめている。この「片づかない気持ち」が人間社会とサルの社会を隔てている。
人間性とは、すべての装飾を剥ぎ取って言えば、「贈り物をもらうと、お返しをしないと『悪いこと』が起きそうな気がする」という
「負積感」のことです。いや、ほんとに。だから、この「負債感」を持たないものは人間ではない。そう言い切っていいと思います。
 「贈り物」というと、僕たちはふつうお中元お歳暮のようなかたちのあるもの、価値のあるもの、実用性のあるものを思い浮かべます。
でも贈り物はそれには尽くされません。というか、贈り物というのは「価値あるもの」を贈ることではないからです。そうではなくて、
「これは贈り物だ」と思った人がそう思った瞬間に価値は生成する。そういうふうに順逆の狂ったかたちで贈与という儀礼はつくられる。
 例えば、挨拶というのはある種の贈り物です。「おはよう」と誰かに呼びかけられる。僕たちはそれを聴くとこちらも「おはよう」と
言わなければならないという強い返礼義務を感じます。負債感と言ってもいい。同じ言葉を返さないと気持ちが片づかない。
挨拶した方もそうです。挨拶したけど返礼がないということになると、気持ちが片づかない。片づかないどころか、心に傷を負います。
 どうしてでしょう。たしかに、「おはよう」というのは「今日一日があなたにとってよき日でありますように」という
『予祝』の意味をもつ言葉です。 ≫
 ▼ 家のインコ、餌を与えると、取って置きの「枝の連続回転芸」をする。それも食べている合間に思いついたように挟んで芸をする。
  これも餌という贈り物に対する「お返し」に思えるが、動物的直感ということか。 朝の恒例のサイクリングで、すれ違いざまに
 「おはようございます」と言われ、返事を、しそこなった後に残る気まずさは、何時までも残る。与えるは、アンドという意味がある。
  与え与えられることで、アンドという結びつきが積み重なっていく。「負債感」が少ない人が、あまりに多いが、自分はどうだろう。
・・・・・
3830, 毒を溜めない! 日々
2011年09月20日(火)
 30年ほど前から腰痛対策のため早朝のウォーキングを始め、20年前からは平日一時間、日祭日二時間を目標にしていた。
しかし二年前に、電動アシスト自転車に切り替え、信濃川の長岡大橋〜大手大橋一周に切り替えた。 続けていると自分の全身から
毒素が抜けていくのが実感できる。 たまに休んだ翌日に歩いた後、二日分の毒素が抜けたの分かる。 その毒は活性酸素だろう。
 近年、肉体的に毒素を体内に入れない、溜めないことを目指す女性誌で馴染みになっている「デトックス」がある。 
  そこで、ー「デトックス」をネット辞書でみるとー
【 デトックスは「解毒」や「浄化」という意味で、人間の体内にたまった重金属や、余分なミネラルなどを取り除く健康法。
体調がよくなる、肌が若返る、生活習慣病の予防となる、などの効果があるといわれている。従来の健康法はサプリメントなどによって
足りない栄養素を補うという足し算方式だったが、これは余分なものを取り除く引き算方式。人間の体内には、食品や水道水などを通じて
鉛やアルミニウム、ヒ素などが細胞のタンパク質などとくっついて蓄積されており、これらはわずかな量でも体に悪影響を及ぼすことが、
最近の研究でわかっている。脂肪を分解する酵素の働きを妨げるため、ダイエットがしにくくなることも指摘されており、これらを体内に
ためないためには、効率よく排出する食事に心がける必要があるという。ゴボウやコンニャクなどに含まれる食物繊維は、余分なミネラルが
体内に取り込まれるのを防ぐ働きがある。タマネギやリンゴ、コリアンダー、ニラ、ニンニクなどは、重金属をとらえて体外に排出する。】
▼ 早朝の運動で体内に溜まった毒素を出すと、ストレスの半分は軽減する。 それとは別に肉体に溜まった重金属や、余分なミネラルを
 取り除くことも大事なことも分かる。 白砂糖と缶コーヒーは毒と聞いていたので、この10数年間は殆ど口にいれてない。
 それからして缶ビールも良くないはず。 半年前の転換期から一番気をつけたのが、ストレスによる精神的毒素。一つ間違えば命取り。
  その為に運動量を二倍と考えて、「スポーツジム」通いで、二時間の運動をプラスすることにした。 週二日のジムの休みは、
 市営の施設内のジムに通い、休みは月1〜2回にしている。 毒は精神統合失調症とか、ガン、糖尿、女性はリュウマチを誘発する。
 さらに毒は老化と病を前倒しにする。 スポーツジムの八割は、未病より、既病の人の方が多い。 むしろレジャーランドと割り切って、
 未病対策で来たほうがよいようだ。 人は自分では気づかない毒が精神も肉体も歪めている。 ストレッチを続けていると、つくづく
 腰の(全身の重圧で)歪みが分かる。老化は足腰から弱るようだ。 歳をとるにつれ全身が黒ずんでくるが、これ老化? 既に毒の塊?
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3465, 純粋持続 −3
 2010年09月20日(月)
 私が行った47回の旅行は、それぞれが今だ終わってない気がする。それぞれが続いているから、旅先をTVで放送をみる時、
その延長として見ることができる。記憶の中で現在も鮮明に残っていて、TVの旅番組で再び見る新たな記憶がプラスされていく。
それはロマンチックな感傷で語るのでない。それぞれの旅が心の奥底に「純粋持続」している実感がある。その意味で
「純粋持続」の意味がよく分かる。初めての一ヶ月間の欧州旅行の同行の友人の二人と先日、東京で会い、43年前の思い出話になった。
そして、それが昨日の出来事のように思えてしまう。 この43年間で同じ旅行先に立ち寄ったり、旅番組の放送でみたりして、
その間も私の旅は続いていたのである。 ほぼ毎日、これまで47回の旅先をBS/TVで放送している。
それを見る度に純粋持続の純粋記憶に、それが重なっていく。 それらは空間化された日常時間とは別口の〈趣味の世界〉の
引き出しに加えられる。だから、ベルクソンのいう〈純粋持続〉が実感として受け止められるのである。
純粋記憶として鮮明に残すため、写真の整理と、感想文(感傷文)にして《随想日記》や、ブログに載せる。
それは記憶、記録というだけでなく、【魂に記録される純粋記憶】になる。 それも余白の多い、現在も持続し書き込みをいる
瞬間像の記憶である。 そこを見入ると空間化された日常が消え去り、純粋持続の時間に入ってしまう。
 趣味に没頭している時間こそ純粋持続である。 好きな仕事に没頭している時間も純粋持続になる。だから仕事を好きに
なるまで追求すべし、という論がたつ。そのためには孤独を愛し、自己の確立をしておかないと心奥の純粋持続は維持できない。
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3090,「官僚内閣制」が終焉
 2009年09月20日(日)
  * 明治以来の政治形態の実態は「官僚内閣制度」
「日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ」飯尾潤著 に刺激の強い内容が書かれている。
 菅直人のブログにも「2重の政権交代」(2009年9月15日)と題して「今の政権交代は自民党から民主党への政権交代と
 官僚主導の官僚内閣から国民に選ばれた政治家主導の国会内閣への2重の政権交代。明治時代に内閣制度が生まれて初めて
 の大改革。この実現に全力を挙げたい。」と書いている。これまでの実態は議院内閣制度ではなくて官僚内閣制度であった。
  * 9月17日の産経新聞の正論のコーナーで屋山太郎が、その辺の実態と弊害を次のように述べている。
《 その官僚政治の元凶は財務省、その中の主計局である。 官僚政治は省の中の省である財務省に仕切られてきた。
  (字数の関係でカット2012年9月20日)
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2725, サブプライム・ローン販売の現場
 2008年09月20日(土)
 「金融偽装」ー米国発金融テクニックの崩壊 伊藤博敏著 
 以前にサブプライム・ローンを扱っていたNHKのドキュメントで、ローン販売していた人の証言を映していた。以前に図書館で
 見つけた、この著書の以下の場面と、ほぼ同じ内容。このように世界中に、証券会社の契約社員達により販売されたのである。
P−18
販売プロセスは、綿密に仕組まれた詐欺のようなものである。しかも米国の住宅ローンビジネスは分業化しているから責任者不在で、
詐欺を働いていても、誰も罪の意識を感じなくてすむ。例えば住宅ローンを組む際に、購入者が接するのは住宅ローンブローカー。
こうしたブローカーは歩合でセールスを雇い複数の住宅ローン会社の商品を斡旋、セールスにはローン残高のー%を報酬として支払う。
それだけにセールスは必死だ。審査が緩いのをいいことに、自己申告で収入と仕事を記載させ、借り手に不利な重要事項は教えず、
最初の金利は安くして支払い可能なローンと思わせて売りまくった。サブプライムローンが好調な時には、年収100万ドルのセールスが
ざらにいたという。こうして、最初の2年は金利が6%で残り十数年が十数%といった無茶なローンを組ませた住宅ローン会社は証券化で
「貸し手責任」から解放され、証券化した金融機関は格付け会社や債券保証会社の信用供与で責任を逃れる。この「負の連鎖」の特徴は、
誰にも責任が及ばないことだった。この実体経済を揺るがす金融商品は住宅ブームを演出したいという金融当局の思惑によって生まれていた。
そこには「マエストロ(名指揮者)」とまで呼ばれて尊敬を集めた米国FRB(連邦準備制度理事会)のアラン・グリーンスパン前議長もいたという。
P−24   (字数の関係でカット2009年9月20日)
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2007年09月20日(木)
 2361, 閑話小題
 ー新潟駅にビック・カメラが出店ー
来年12月にオープンする新潟駅内のビルに「ビック・カメラ」がオープンと新聞に発表されていた。 
現在「ヨドバシ・カメラ」がオープンしているので駅再開発の前に、このビルに移転するのではと予測をしていたが、
何とヨドバシの競合相手の「ビック・カメラ」になった。 
(字数の関係でカット09年09月21日)
 ー阿部首相の退陣についてー
 (字数の関係でカット1011年9月20日)
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2006年09月20日(水)
1996, 悪筆ー3         才八∋ウ_〆(∀`●)
 =もっと「きれいな字!」が書ける本=               読書日記             
 (字数の関係でカット2008年9月20日)
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2005年09月20日(火)
 1631, 愛か、夢か、それが望めないなら仕事を!     
この連休前に借りてきたDVDの『フライト オブ フェニックス』の一場面の、ある男のセリフである。
砂漠の真ん中で墜落した飛行機から一人絶望のうえに脱出しようとした男が、助けに行ったリーダーに向かって言うセリフ。
「この状況では愛など関係ない、ならばせめて夢を与えて欲しい。それも無理なら仕事を与えて欲しい!  
 ただ死を待つのはもう耐えられない!」 極限の言葉である。
それに対して、「あくまで援助隊を待つべし」という方針だったリーダーは、その考えを変える。
この言葉は人間のあるべき姿を全てを言いあらわしている。
・人間の一番だいじなことは、「愛」    −暖かさ
・次に「夢」を持つこと          −方向
・そして、それを可能にするための「仕事」 −力ー愛と夢を支える力ー現前の気晴らし? である。
リーダーとしても、人間にとってもこの順位は変わらない。 どれも、決して侮れないことである。極限では、この一つも
見出されないのが人間の姿である。極限の中にこそ、これを見出せるかどうかが試されるのだろう。何気ない映画の一言にドキッ。
 ー検索で調べた荒すじをコピーしておきます。
 閉鎖された石油採掘所のスタッフと廃材を運ぶ運搬機が、巨大な砂嵐に遭遇し砂漠のど真ん中に不時着する。毎度お決まりの仕事を
無難にこなすだけだった貨物機操縦士のフランク(デニス・クエイド)は、自分たちの状況が最悪なのを察し、助けを待つしかないと悟る。
 (字数の関係でカット2011年9月20日)
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2004年09月20日(月)
 1266, 仲人制度が消滅?
新聞に出ていたことだが、「結婚式で仲人を立てたカップルは4・6?と、前年より3?近くも減少。
20組に1組以下になった。 首都圏では、僅か1?しかなく、制度としてほぼ消滅した。
終身雇用が揺らぎ、ついてゆくべき上司に頼む風潮がなくなったこと、「家」と「家」から「個人」と
「個人」の結びつきに変化したためである。更に仲人を頼まれるのを嫌がる人も増えているのもある。
三年前には20?がまだ仲人をたてていたが、そのサラに4分の1に激減した」という。
そういえばこの数年来の結婚式で仲人をたてた結婚式はみたことがない。 非常に良いことだ。
  (字数の関係でカット2010年9月20日)
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2003年09月20日(土)
 899, 《V・E・フランクル》について
十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。
人生丁度まがり角であったためであろう。その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。
彼の「意味」発見のための3つの問い
・「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」
・「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。その人は、どこにいるのか」
・「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」
この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』『満たすべき意味』
を発見するための手がかりになると、フランク心理学では考えている。 特に以下の分析には深く納得をした。
ー自己超越のための3つの意味(価値)ー
1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味   =仕事・子育て・学問・芸術
       ー力への意志
2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味  =自然・芸術・愛
       ー愛への意志 
3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで
        得られる価値・意味ロゴスの覚醒=対象との一体化
        ※自身が何らかの喜びに満たされていること ー知への意志 
人生には発見されるべき価値や意味がある
 (1)意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる)
 (2)意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である)
 (3)人生の意味  (創造・体験・態度生きる姿勢の中に意味を見出す)
  ー生きることは価値判断(学習)と選択の連続である
ー私が読んだ本は以下であるー
  ー以下は、字数の関係でカットー2007年09月20日
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525,光ファイバー
- 2002年09月20日(金)
昨日から、会社のランが光ファイバーでネットされた。今までの電話線の10?安いネット料金でコストパフォーマンスはよくなったが、
諸経費等が65万である。1~2年で元はとれるが、それで1000倍近い速度だ。自宅では来月半ばに入る。長岡で導入の一号だそうだ、
その証明書も出してくれるという。何か営業に強引に加入されてしまったが、一号の証明書をもらって我慢だ。月9000円で、来春5800円に
下がる?そうだ。電話代が無料になるから、その辺が入り時という。ブロードバンド、ポルノと検索入力、はじめは定番から入るしかないか?
「ブロードバンドと何々」の何々をこれからキーワードに意識をしていくと、面白いものに行き当たるだろう。
愛犬家だったら犬と入れると犬の画像が出てくる。おしゃべり日記といれたら、何か話している人の画像が出てきたりする?
自宅ではADSLが一月前に入ったが、早速ブロードバンドとポルノと入れたら、リアルな映像が出てきた。
それから見ていないが、あれはこっそり見るもので、パソコンで見るのに適してない? 美術館とか博物館などが早速取り入れてくるだろう。
それとサービス関係のホームページも。これに携帯が連動してくると、さらに面白い時代なってくる。 今まで写真中心の海外旅行のHPが、
写真が出てくるまで時間がかかりすぎて見るのに躊躇していた。その問題は軽くクリアーするだろう。二紙とっている新聞を一紙にしようかと、
今月中に結論を出す。トレードオフだ。以前は3紙とっていたが、日経をまずやめた。この時はWOWOW に加入した時だった。
次は朝日か?新潟日報か?どちらを残すか。 会社に行けば見れるのだから。今の若い人は新聞を見ない傾向にあるという。
インターネットでネット新聞を見ているという、もちろん無料だ。 死亡広告がなかったら日報もやめたいのだが、全くつまらない!
考えてみたら、とってないのもいいかもしれない??!新聞社の斜陽が更に進むだろう。
ヒカリファイバーで3年先には大きな社会的な変化が進むだろう。
・・・・・・・
[151] 世間様  2001/09/20
「世間とは現実にドップリつかった馬鹿4^5人のこと。」 浪人を重ねるうち悟ったことである。それは諦めと醒めた視点から感じた。
現実とは世間とは「教養のない馬鹿な女と女みたいな男の現象世界」でしかないことを。それが馬鹿な彼女・彼等にとって、
現象が全てだからそうなのだろう。世間の目、世間様とかは自分の(自己の範囲を自分というなら)日々の泡でしかないのに。
それが解ってないから前に書いたチンドンヤや子狐が出てくる。その言葉に呪縛されて一生終えてしまうのが95%いやもとっと多い?。
世間様に笑われないようにとか、世間様に迷惑をかけないように!これも大事だろう。 城下町街はこの世間様の世界に入る。 
彼らの情報は下ネタか夜逃げか不幸,それを皆で楽しんでいる。社会と世間の言葉の違いを定義つけておかないと!こういう世界に迷い込む。
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(10年近く前に書いた文章に似たような内容をコピーしておきます。)
 −H0407城下街小唄ー
(字数の関係でカット2010年9月20日)


4194, 呪いの時代 ー11

2012年09月19日(水)

                           「呪いの時代」内田樹著 
   * 交換経済から贈与経済へ
 何か奇異に思える贈与経済とは、お金でも、物でも、情報・知識でも、留めないで次に回せということ。
情報に限って考えると納得できる。ブログなどで自分の持っているベストの情報を公開(贈与)することで、
世界中の情報を共有できるようになった。情報化社会では、贈与という言葉がキーワードになる。銀行預金は、
その正反対になる。現在の世界的不況は、一部勝ち組が得た利益を独り占めをして回さなくなったことにある。
ボランティアは慈善の贈与と解釈出来る。 ーその辺りからー
 ≪ 贈与経済というのは、要するに自分のところに来たものは退蔵しないで、次に「パス」するということです。
 それだけ。「自分のところに来たもの」というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。
とにかく自分のところで止めないで、次に回す。自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。
先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくら持っていてもそれではもう「金で金を買う」以外のことは
できなくなる。それで「金を買う」以外に使い道のないようなお金は「なくてもいい」お金だと僕は思います。
それは周りの貧しい人たちに「パス」してあげて、彼らの身体的要求を満たすことに使えばいい。
ご飯や服や家や学校や病院のような、直接人間の日常的欲求をみたすものに使えばいい。タックスヘイブンの
銀行口座の磁気的な数字になっているよりは、具体的に手で触れる「もの」に姿を変える方がいい。・・・
 ・・・その人がエンドユーザーであるような人間には贈与は届かない。贈り物を受け取ったときに、目にも止まら速さで
次の贈り先にそれがパスされるような人のところにしか贈り物は届かない。そういうものです。贈与経済が成り立つための要件は、
ある意味きわめてシンプル。市民的に成熟していること。それだけです。自分より立場の弱い人たちを含む相互扶助的な
ネットワークをすでに作り上げており、その中で自分が「もっぱら持ち出し」役であることを愉しむようなマインドを
もつ人であること。そういう人のところに選択的にリソースが集中するシステムが贈与経済システムです。 ≫
 ▼ 経済は商品と情報が回り進化することで向上する。その意味では、日本が一時期そうであったように、
  国民が総中流が理想的である。しかし、情報化社会は一部の勝ち組が総取りになってしまう。その辺が難しい。
・・・・・・
3829, 閑話小題
2011年09月19日(月)
  * 絶え間ない変化と変身
 変化のない日々が、相変わらず続いている。それはそれで一日単位では小さい事象が次々と起こっている。
人生を、あらためて振り返ってみると色々あったことに驚いている。 それらは絶え間ない変化の連続線にある。 
生まれた0〜9歳までを考えても、新生児、幼児、児童、少年期と変わっていく。
10歳から19歳でも、小学校、中学校、高校、大学と、次々に節目がある。
20歳から29歳といえば、学生から社会人、結婚、そして父親である。その中で絶え間なく変化と変身が要求される。
30歳を過ぎると、青年期から成年期、中年期と家庭でも社会でも、大きな柱としての責任が覆いかぶさってくる。 
そうこうしている間に40,50,60歳の壮年期から老年期に移行している。
何処かで自分で、「人生は、こんなもの」と決め付けたと同時に変身のダイナミックがなくなり、人生の要求と合わなくなって
肉体と精神の変調をきたす。こうみると世界も、社会も、自分も常に時の流れの中で、変身し、最期は「プッツン」で終わる。
生き、老い、病になり、最後は死ぬしかない。「いま、ここ」でしか、留まることは出来ないのである。
とはいえ、あまり神経質になっても結果は同じである。なら、自然体で変化を受け入れ、従うしかない。   
  * iPad 初心者の呟き
 iPadを購入をして三週間をすぎたが、御蔭で数ヶ月も過ぎたような気がする。これは、私にとって非常にインパクトが大きい。
この10年間、ネット、ネットといっている割に、ネットを使いこなしてなかったこともある。この間に、便利で使い勝手のよい
アプリと、ネット環境が劇的に進歩していたのである。 ゲームに面白そうなのを動画サイトで見ていたが、「自分には縁のないもの」
と思い込んでいた。それが、このiPadのお陰で私にも使えるのである。ゲームとビュー専門の端末と割り切ってしまうのが良い。
まず7つの画面に切り替えられ分類出来ることで、使いかってが格段に良くなった。ゲーム・ソフトも、アプリも毎日が発見の連続。
一日一日が面白くて仕方がない。これでは新聞や雑誌、TV局などマスコミは大きな転換を余儀なくされる。タブレットPCは、
あとは軽さの問題。 これも、時間が解決するだろう。 テレビの地デジ化と大型化、モバイル携帯、そして、タブレットPCが情報を、
さらに膨大に世界に流しこみ、政治も社会がミスマッチが拡大、収拾がきかないカオスの時代になる。 これは中高年PC難民を救う。
 ・・・・・・・ 
3464, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー9
2010年09月19日(日)
   * アフリカに魅せられて ー3
  ータンザニア・セレンゲッティ国立公園ー
 ケニアと比べてワイルドなのがタンザニア。フランス領だったため開発が遅れていて、その分アフリカ的である。
まずセレンゲッティの広大な草原。 360度の視界が全て草原、それ以外何も目に入らないのは、ここだである。 
その広大な草原はケニアのマサイマラと地続きであり、ケニア側をマサイマラ、タンザニア側をセレンゲッティという。 
その広大な草原をヌーとシマウマが楕円形のコースで終わることのない旅を大昔から続けている。
その群れにライオン、ハイエナなど肉食系動物がついてまわる。かってケニアはイギリス領、タンザニアはフランス領だった。
ケニアもタンザニアも、サファリが大きな観光資源になっていて、国立公園内には現住民を除いて観光客以外に入ることができない。 
サバンナで時おり現地の鮮やかな布をまとったマサイ族などが、護身用の槍を持って歩いているのを見かける。
草原に彼方此方にいるのではなく、車で20〜30分走って、時に見かける程度。ヌーとシマウマの群れから少し間をおいて
ライオンや、ハイエナの群れがいる。 群れがいないところで、ウサギやジャッカルなどの定住動物の姿を見かける。 
大らかに見えるが、そこは野生動物にとって生と死をかけた緊迫した戦場。そのサバンナに6メートル位の土の道路が何処までも続く。
走行中に他のサファリカーは、ほぼ見かけることがない。そこを同行のジープ数台で激走するのである。車の上は開け閉めが出来、
走行中でも座席に立って胸から上を外部に出せる。そこで外を眺めていると、たった一人でサバンナで走っているような錯覚になる。
車に乗っているとライオンやヒョウなどは襲ってこない。自分より強いという認識があるという。
だから平気でライオンやハイエナの群れに近づける。しかし、時おり像のボスが襲うことがある。
ボツナワのサファリで、その現場を直接見たことがあるが、乗客は恐怖で真っ青な顔をしていた。 下手をすると命に関わる。
特に危ないのが、離れバッファロー。 人を見ると追いかけまわす傾向が強い。ケニアで、早朝に10人位のマサイ族が
逃げてきたところに出くわしたことがある。我われのジープを間に入れて、クラクションを鳴らして防いだが迫力満点である。
 そういえば先日Youtubeで、白人がライオンの群れを撮影をしていて、つい車外に出て後ろからライオンに襲われ、
群れに生きたまま食べられている映像を見てしまった。何でもありである。
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3089,つれづれに-閑話小題
 2009年09月19日(土)
・民主党政権が発足したが、問題は、公約が守られるかどうかだ。 100年以上の官僚内閣制度を打破できるかだ。 
 検察と国税と土建の国土省の狡猾な宦官をコントロール出きるかどうかだ。戦略局が次官会議に取って代えるところがミソ。
 自民党も政権を下りてしまえば、官僚内閣の小間使いでしかなかったのが露出したことになった。
 今度は、民主党が、彼等にどう取り込まれるのか、それとも首輪をはめられるのか?
 そのバトルが生々しく劇場化してくる。 国民による自民、官僚パージが、この選挙だったのである。
・中小企業と個人の返済3年猶予というが、実際に行われるのかどうかだ見ものである。
 徳政令ということだろうが、そうでもしないと、来年早々、日本経済は大きな転換期になる。
 中小・零細企業の倒産ラッシュである。 せざるを得ないということだ。 銀行も、反対するが、
 逆に政府も間接救済になる。 自民党政権も、大手銀行の使い走りだったので、このような発想そのものが
 出ないのだろう。自民党よりの読売新聞が「自民党よ、堂々たる与党に」だと、更に破壊しないと無理。
・一週間後の国体に向けて、新潟市も慌しくなってきた。 当方のホテルもである。
 宿泊は、選手よりマスコミとか、運営関係の役員とかが中心のようだが、色いろ細かいようで現場は大変のようだ。 
 身障者の大会も含めると半月の間は新潟市は満杯になる。問題は、終了後のことだが、それは、その時に考えるしかない。
 しかし、来年になると新潟にある火力発電の増設工事が始るようだ。柏崎刈羽の原発が当分フル稼働が出来ないので、
 新潟の火力発電を増やすしかないとか。 景気の落ち込みで、柏崎刈羽のマイナスを吸収したと思っていたが、そうでもなさそうだ。 
 いずれにしても大変である。 どの程度か分からないしし、当てには出来ない話だが。
  ・・・・・・・・・
 2724、世界恐慌の結果、どうなる?
  2008年09月19日(金)
 恐慌になると過去の事例から、30?売り上げが減り、それに耐えられないところから消滅を始めるという。
毎日毎日、アメリカの発の金融危機のニュースが入ってくる。100年に一度の恐慌が始った。
アメリカが風邪をひくと日本は肺炎になる、という言葉が可愛らしくて思え懐かしい。アメリカで震度6強の大地震が起こったのである。
そして、大きなウネリが起こってしまった。それは大津波になり日本のみならず世界中に押し寄せ始めた。 津波と違うのは何年にも
わたることことである。ところが日本は政治的空白の事態で、頭がないのが現状である。 これは2001年の9・11事件に匹敵するか、
それ以上の出来事。大津波を、現象としてイメージしてみると、数年以内に既存の会社の半分は倒産、いや、そんなものではないか?
銀行、特に地銀以下の過半数が消滅、ハイパーインフレが発生、失業率が二倍、国家非常事態宣言が出て、銀行口座の閉鎖?
現在考えられるのは、その辺だが実際は、この程度ではないだろう?100年に一度の世界恐慌なのだから。それも直撃を受けるのは日本。
どうすることも出来ないのがアメリカの隷属国家の運命である。次は、アメリカの証券会社二位のモルガン・スタンレー。
緊急に銀行との合併で凌ごうとしているようだが。そして、シティーバンクが次のターゲット。数年前まで日本を買いあさっていた
アメリカの金融機関の惨状、ザマ〜ミロと言えないのである。そのツケは日本が払わざるを得ないからだ。他人ごとでない、
果たして会社はどうなるのだろうか?逃げも隠れも出来ないが、生存に全てをかけるしかない。生き残りをかけた生存競争レベルになってきた
ということだ。 それが会社だけでなく、年金生活者も含まれるから、ことは重大である。国家破綻の現象としては、ハイパーインフレになる。 
そして、次に来るのは中間層が総下層になる。 社会の不安が増大し、犯罪は増加する。ソ連の崩壊時と同じような現象になる。
年末から100円以下の株価の会社は銀行のしめつけで、次々と倒産が始るだろう。 日本型社会主義の完全崩壊である。  
第二の敗戦が表面化してきたということだ。これだけ劇的な世界恐慌に「現役」で経験するとは思ってもいなかった。
私自身、2008年9月16日14時をもって、「世界恐慌」と判断した。そう判断すると震えるほど恐ろしい。みる目が全く違ってくる。
みる目が違うと判断も違ってくる。私の人生で、過って経験をしたことのない最大のイベントが展開を始めた。 
それにしては、まだ実感が少ない。 茹で蛙になってしまったのだろうか。現実に信じられような大混乱が直ぐに始るだろうから・・、 
いや始ったのである。ゴールドや、資源を持っている国は、それを担保としてあるから、立ち直りが早い。
しかし、体力のない日本の行く末は・・・・ 何度でも言う、「恐ろしいことだ!」
・・・・・・・・・・
2007年09月19日(水)
2360, ギリシャとエーゲ海の旅 −6
  ーギリシャ旅行の総括ー (1)
この旅行で言いたかったことはホボ書きつくした。去年のケニアを除けば、北イタリア、オーストリア、
スイスと欧州が続いている。やはり何処にいっても、欧州は数千年の間に積み重ねられた豊かさと文化の深を実感する。
観光地の一部だけを見たにしても、アジア・アフリカとは根本的な格差が解る。レジャーにしても、長年の間に洗練されたセンスが違う。
人生を楽しむことに長けている。またクルーズをするならカリブ海クルーズだろう。底抜けの明るさと太陽は、またギリシャとは違った
味わいがあるだろう。メキシコに行ったとき、一日だけメキシコのリゾート地のカンクンに泊まったが、カリブ海を臨む高級リゾート地の
雰囲気は何ともいえなかった。クルーズ船に乗ってカリブのバハマなどの諸島を巡ったら、思いもよらない景色に出会うだろう。
「求めよ!さらば与えられん」である。今回は殆ど無駄のない日程が組んであった。旅行は、続けてこそ当たりも外れもある。
当たってばかりでないのが、よい。外れがあるから当たりもあるのである。人生と同じである。
出発前にギリシャの各地で山火事のニュースが流れた。行く前に、誰かに「大丈夫ですか?」と聞かれたが、
「大丈夫! 九州の鹿児島辺りの一部で火事が起きているようなもの。イメージでしかないし、絶対に日程が狂ったりしない。」
と答えた。案の定、旅行の最後の方で地元のガイドが少し話しただけで、遠い遠い何処かの話でしかなかった。 
そんなものだ。逆にいえば風評は恐ろしい。エジプトはギザのピラミッドと、エジプト考古博物館に行った。
二回目である。エジプトの遺跡はルクソールだけでも世界の遺跡の5〜6割以上ある?
(現地ガイドの説明で真偽は解らないが)というが、その中でもこの二つは一番の見所であった。
良いものは見れば見るほど、その素晴らしさが見えてくる。前回は、この二箇所をじっくり見ることができなかった。
いま一度どうしても行ってみたかったので、丁度よいタイミングであった。特にカイロの考古博物館は、素晴らしい。
その中で圧巻は、ラムネス?などのミイラと、ツタンカーメンの「黄金のマスク」と、副葬品である。
それらは現在でも通用するものばかりである。今回旅行で解ったことだが、ナイル川クルーズがあるという。 
今度チャンスがあったら、是非乗ってみたいクルーズである。もしエジプトを計画しているなら、これはお勧め。
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2006年09月19日(火)
1995, 世界の絵画50 −2          おはよ〜!(*^ワ^*)i                   
      不安の正体  ームンクの「叫び」
    不安感を絵で表現するとムンクの「叫び」になる。あれは恐怖の叫びとは違う!不安の叫びである。
   人間がいきている限り、不安は常に付きまとうものである。生きていること自体が不安の原因となる。
   これが 先日、ハイデッガーについて書いた中にある、「不安」の本質である。
   「不安とは現存在として最も根本的な気分である」という。  彼によると現存在は世界内存在として理由もなく
   この世界に投げ出され、そのつど、何らかの気分に規定されている。
   日常性の中に埋没されて生きている非本来的あり方から、本来的自己を呼び覚ますきっかけとなるのが不安である。
   とりわけ「死」の可能性の前にしての不安において、現存在としての根源的開示がはじめて生起すると・・
    誰でも漠然とした不安が夢の中で熊の姿で現れたり、金縛りになったりする。
    その根源が現実社会と思っていたが、「死」の可能性を前にしての不安というのも納得できる。
    恐怖は具体的な恐れであるが、不安は漠然とした恐れである。 その正体が「死」である。
    もう一つは変化そのものであるが・・・ 難しくなるので、「変化」のテーマで書くことにする。                   
     ところで、新聞にノルウェーのオスロのムンク美術館所蔵の強奪された「叫び」が発見された、と報じていた。
   この「叫び」の男は、絵の中で表現された人物として、絵画の世界で有数な有名なキャラクターになっている。
   ムンクは、この男の絵を通して不安を表現したかったようだ。彼は、この絵に対して、次のような言葉を残している。
   ー友人ふたりと歩いていたムンクは、ひとり立ち止まって、太陽の沈んだあとの、血のように赤くなった雲を見た。
    友人はそのまま行ってしまったが、ムンクはそのとき、恐怖と不安にふるえながら、自然の大きな叫び声を聞いた。
    そして、この「叫び」を描いたーという。 彼は自分のその時の体験をそのまま描いた絵であり、
    その男は、ムンク自身の姿である。この絵には中央の雲の部分に小さな字で、「こんな絵を描けるのは狂人だけである」
    と書き込みがある。ムンクは1863年、ノルウェーのロイテンで軍医の子供として生まれている。
    5歳にして母親を亡くし、その9年後、母親と同じ結核で姉を亡くし、32歳で、父親と弟が亡くなっている。
    そして、妹も精神を患い、病院に入れられてしまう。彼は「病と狂気と死が、私の揺りかごを見守ってくれた
    黒い天使だった」という言葉を残している。
     ー「世界の絵画50」より抜粋ー
   正に「病と死と狂気への不安感」が大きく口を開いている。この絵は人間の不安感という黒い闇を鋭く描いた絵である。   
                      (。・ω・)ノ☆゜+.バイ!
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2005年09月19日(月)
 1630, タクシー業界の実態は!
ホテル業をしていると、生々しいタクシー業界の話が入ってくる。
  (字数の関係でカット09年09月19日)
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2004年09月19日(日)
 1265, 少し際どい、「とある話」
かなり危ない話は、実際のところ随想日記では書いてない?
(字数の関係でカット12年09月19日)


4193, 呪いの時代 ー10

2012年09月18日(火)

                                「呪いの時代」内田樹著 
    * ペルソナ(仮面)の品不足
  結局、人は、それぞれの場面に色いろな仮面を被ることで生きている。ところが一つの理想的な仮面に限定すると、
 それに対して真逆なペルソナが現れ出る。「弱くかわいい僕」以外のペルソナの品ぞろいがないと、危機的状況になった時に、
 思いもよらない凶暴なエゴの男が顔を出してくる。人間は面白く、哀しく、弱いもの。我が内なる他者とは、よくいったもの。
 秋葉原の無差別殺戮などは、その典型である。仮面の品不足だったのである。 ーその辺の記述からー
≪ 人間の攻撃性のコントロールは容易ではありません。完全抑圧してしまうと、かえって思いが違ったかたちで暴発する。
 ひとりの人間が抱え込んでいる攻撃性の絶対量は、変わらないあるところで抑え込めば、違うところからかたちを変えて
噴き出してくる。だから、攻撃性はいろいろなかたちで管理して、「小出し」にするしかない。小出しにしておけば破局的
事態は避けることができます。だだし、そのためには、「攻撃的なペルソナ」にしても「防衛的なペルソナ」にしても
何種類か品ぞろえしておく必要があります。そして、状況に応じて、その場にもっともふさわしい仮面をかぶる。・・
 ・・・ 草食系男子が採用している「弱くてかわいい」ペルソナというのはたしかに多くの場合に有効だと思います。
とりわけ、今の日本のように「弱者であることの利益」がつよく意識されている社会では。でも、当たり前ながら
「弱くてかわいい」だけで対応できる状況は限られています。対応できないとき、彼らは一気にしばしばまったく
似ても似つかない別のペルソナ(凶暴で攻撃的)に切り替わってしまう。この二極のペルソナがあまりに隔絶しているので、
人格が統合できないまま、まるで別人のようになる。卑屈なほど恋人に尽くしてきた男が、結婚と同時にいきなり荒れ狂う
DV男に変わってしまったという事例は実際に僕も知っていますけれど、このような人格解離現象はペルソナの「数不足」で
起きてしまうのではないか。・・・
 ・・・「他者との共生能力の劣化」ということを問題にしたが、他者との共生の基礎となるのは、実は「我がうちなる他者たち」
との共生の経験なのだと思います。僕自身にも、「さもしい私」、「邪悪な私」、「卑劣な私」がいる。それらもまた僕の正規の
「ペルソナ」の一つであり、それなしでは僕は僕ではない。自分自身の中にある(ろくでもないものを含めて)さまざまな人格特性を
許容できる人間は他者を許容できる。僕はそうだと思います。世間で言われる道徳訓とは言葉がずいぶん違いますが、僕は自分を
許すことのできる人間だけが他人を許せると考えています。 ≫
 ▼ ー「他者との共生能力」をつくるには、他者を構成する複数の人格特性のうちに幾つか「私と同じもの」を見出して、
  この他者は私自身と同じであることを認めるべきである。その共通部分をどうすれば増やせるか、とりあえずは、
  人格特性を「切り出す」ユニット数を増やすしかない。ーという。要は、その切り方である。可能な限り、自分を割っていく、
  割れば割るほど他者との共有部分が増えていくことになる。人生の経験とは、そんなものである。
 ・・・・・・・
3828、 もう、あれから半年
2011年09月18日(日)
 3月30日から、あと二週間足らずで半年になる。そろそろ30年、いや仕事人生の40年余りの毒気も抜けてきた。
そこで、「何だったのだろうか、これまでの日々は?」と、定石通りの思いが浮かんでくる。
「男なら、条件が揃えば事業を興すのは当然」と信じてきた。 ふと気づくと9・11、9・15に直撃、その大波が地方経済を直撃。
更に情報化の進展も加わり売り上げが激減。 ここまで、経済状況が悪化するとは、実のところ思いもよらなかった。
ここまでリアルに売上減になると、諦めるしかないと納得する。 で、一歩、娑婆から身をひいた半年後の実感は、
「世の中で揉まれているうち、大きな歪みの塊になっていたのでは?」という疑問である。それが気づくのは、娑婆気から抜けた時。
特に家庭の柱としての働き手の男の場合、その歪みが大きい。その断面を大きな節目になって気づくことになる。
誰もが、社会や会社の柵に捉われたくないが、競争社会では肩肘も張らないと・・・
とはいえ、それだけに目がいき過ぎて、他の大事なことに目がいかなくなり、最終章に近づいて、慌ててしまうのが大半。
 半年で、この40年の歪みを改めて振り返っている日々でもある。 もしかしたら、一生、気づかないで終わる人もいる。
それに気づいて悶々とする人もいる。 先日、近じか定年になる友人に、この話しをしたら、全く同感という。
小さな、しかし、かたい勤め先を、こともなく48年間勤めあげた実直な男が、自分の人生の歪みを認識していたのである。
私なら自分で納得するが・・ でも、その歪みも後悔は全くない。 ここで、「良い人生、悪い人生でなく、充実していたか、
してなかったか?」という言葉で、自己納得するしかない。 状況が状況だったので、苦悶はあるのは仕方がないが、
充実感が、何とか支えになっているというのが、正直のところ。 準備、15年も含めた事業人生の45年の終わりは、
三連発の経済・自然大災害の直撃で終わってしまった。 そして半年たった現在、静かな心境でいられるのが、救いである。
少なくとも、自分の人生の歪みに後悔はしていない。この歪みが自分でもあるから。 その歪みに七転八倒しているのがいるが・・・
それも人生。 穏やか過ぎる人生より、遥かにましである。 それも歪みか。
 ー 偶然、この内容に滞欧する文章が以下の去年の同月同日に書いてあったー 面白いもの。 いや、数年分が関連している。
・・・・・・・・
3463, 9・15より二年
 2010年09月18日(土)
 リーマンショックから、二年経過し三年目に入った。100年とも、250年に一度の激震と言われる。
アメリカでは、証券大手の殆どが瞬時に消滅、シティーバンクなど幾つかが大手銀行も政府管理会社になり、
ビッグスリーのGM、クライスラーも政府管理の事態になっている。日本のバブル崩壊で、大手銀行が20社から
三社に集約されるまで10年も要したことからみれば、迅速である。日本では今のところ目だった大手では日本航空ぐらい
なのは不思議と言えば不思議である。まだ表面化はしてないが、まずは関東・東海ベルトラインを除いた地域経済は惨憺たるもの。
悪いことに政権が民主党に移行し、人間に例えれば脳がマヒ状態で、この難局に国の方向が定まらない無政府状態。
このまま、この激震のクライマックスに入る2012年を迎えることになる。デフレから悪性のハイパーインフレへの転換である。
現在は円高だが、さらに恐ろしい円安が日本経済を襲うことになる。まだ表面化してないが、ある日、株と国債の暴落から
始る激しい恐慌の本番は、激しく我われの生活を襲ってくる。悲観的だが、それが事実なら認めざるをえない。
 これに情報化社会の進展によるグローバル化が、世界をフラットにしていけば、これまで東西冷戦の狭間で、大きな
恩恵を受けてきた日本が、普通の国並みに豊かさが損なわれるのは当然である。それが、現在の日本の衰退である。
情報化、グローバル化、フラット化の流れは、もう止めることは不可能である。これまでの常識は根底から破壊され、
全く違った価値観が通用する時代に既に入ってしまった。情報、軍事、金融を支配しているアメリカは、当面は勢力を
保つだろうが、中期的にみれば衰退は免れない。それに対し、中国・インド・ブラジルなどに覇権の重心が移動するのは
避けれないこと。その中で、日本はアメリカの更なる植民地化が進むことになる。毒素が脳までやられてしまったのである。
その一つの現象が、現政権のトップ達に、そのまま現出しているとみると、ニヒルな笑いが出てきざるをえない。
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3088,挫折を考えてみようか −3
 2009年09月18日(金)
 ある人に「あなたの『挫折を考えてみようか ー1』を読んだが、貴方には挫折経験がないのでは?」と言われた。
そこで改めて考えてみた。 大学浪人は、そこで進学を断念したのなら話しは別だが、挫折ではない?
金沢時代も挫折とは違う。目的もしっかりあったし、絶好の体験をしているという実感はあった。創業を目指して彷徨いながら
準備をしていたという明確な絵図があった。そうこう考えると、「挫折体験はないのでは?」という指摘も正しいことになる。 
先が見えないで暗い心情になっていた時期で挫折とはいわない。そうこう考えると、挫折と軽々しく言わない方がよい!ということ。 
 ネット辞書によると「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」とあった。
挫折は、それまでの自分を一度破壊して新たな自分の創造を促すチャンスになり、竹の節目に譬えることが出来る。 
そこに大きな鍵が隠されている。 超越者の声に敏感になることもある。 それまでが横の時間なら挫折の時節は縦の時間。
「節目を打て!」というが、そこで超越者に試されことでもある。 物語なら、そこを節目としての転換期になり、「起承転結」の
「転」の時になる。挫折の状態は、追い詰められた状況ほど芸術作品や本などを通した超越者の語りかけに鋭敏になる。
「予定挫折」という言葉がある。 挫折を意図的に入れて置いて、人生の踊り場にするのである。 そこは枝葉を切って根を養う時節であり、
超越の時節になる。「そうか〜挫折と思い込んでいただけか〜」と思ったが、それでは、挫折が無かったかというと、勿論ある。
実は見落していたのである。 大学浪人や創業時の準備は勘違い? しかし深傷だったが。最近になって「自分は中学浪人だった」と、
何人かの知人から聞いて驚いたが一番傷つきやすい時期の、それから見れば、当時の大学は半分近くが浪人経験者で、挫折でない。
また私の姉夫婦と実兄夫婦の倒産劇で、大きく挫折をしたのを間近で見たが、壮年、老年近い挫折は厳しい。 
最近はリストラで日常が挫折だらけになっている。 他人事ではない。 予定挫折ともいかないし。
 幸福というビルの最上階の4Fならいいが、屋上から何は? 挫折を茶化すこともないが・・・
「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」か〜! なら日々挫折である。計画が甘いだけ?。
                      「日々是挫折」 =「日々是口実(好日)」
 ・・・・・・・・・・
2723, アメリカ発、金融危機の始まり!
 2008年09月18日(木)
AIGが一昨日、1ドル台まで下落したが、アメリカのFRBが昨日になって9兆円の融資を決めたことで、当面の倒産を回避した。
FRBがリーマンと同じスタンスをとれば、倒産になるところだった。世界中が一瞬、息を呑んで見守っていた決定であった。
NHK海外衛星TVで、ジョージ・ソロスにインタビューをしていた。「これで問題が解決をしたのではなく、小さな目先の問題が
先送りをされただけ、次から次へと同じような問題が出てくる!」と、大恐慌の到来を匂わせていた。アメリカ政府が80?の株式を持ち、
切り売りなどしてソフト・ランディングをさせる方針だ。アメリカの上位数社の壊滅と、AIGの政府の倒産の危機は9・11事件に
匹敵する金融の大事件。一つ間違えれば世界の金融は崩壊の危機に立っている。これが序曲でしかないのは、誰の目にも明らか。
ボロボロ世界中から、大問題が次々と発生してくるのだろう。 恐慌が始ったようだ。ある日、手に負えないようなハイパーインフレが発生、
スタグフレーションになる。考えただけで恐ろしい日々になるのである。メルリリンチが、もしBOAのリーマンを買収が決定すれば、
次にターゲットが自社に来ることを察知。恐らく財務関係者から救済がないことを知らされて、急遽BOAに売却を申し込んだのだろう。
メルリチンチの倒産の方が更に衝撃が大きかっただろう。 映画のような非常に緊迫したヤリトリがあったのだろう。
リーマンでも負債総額が64兆円というから。日本でも各金融機関は大きな損失を被るだろう。この混乱は、今後大きな尾を引く。
これまでとは全く違った金融環境になることは自明。 日本でもあったように、資金の貸し渋り、貸し剥がしが、アメリカのみならず、
世界中で起こる。 やはり世界恐慌が始ったのである。欧米各紙は、「ブラック・サンデー」と命名したという。
それか翌日の15日の荒れた月曜日ということで、「ワイルド・マンデー」ともあったが、ドチラが定着をするだろうか?
昨日の為替・株式、世界中の国家が、その維持に必死だったのがうかがえる。日米欧、二日で36兆円というが、そんなものではない。
すざましい攻防があったはずである。2001年9月11日をもって時代が様変わりしたように、この9月15日をもって経済が様変わりを
したのである。その意味で、歴史的な日になってしまった。アメリカで大地震が起きれば、日本に大津波が押し寄せる。
それも数年にわたって何波もである。銀行と企業の倒産の嵐、円安、株の暴落、政情の不安定、失業率の増大、資産の海外への逃避。
考えただけでも恐ろしくなる。 その中で経営していくのもソラ恐ろしい!
 大津波の場合、全てを捨てて高台に向けて逃避するのが助かる唯一の方法。 具体的に、如何いうことか走りながら考えようか? 
日本人には「マレーシア沖地震の大津波を、アメリカの大地震の津波と類推する」ことさえできない。そういう私も、そうかも知れない。 
戦後最大の日本の危機であることを実感してないのでは?僅かな、貯金を直ぐに金に換え、AIGの預け金を何をして・・、 
今更何をしても変わらないか!ソ連の崩壊時に、政府高官とか、マフィアは自分の資産を海外の口座にドル建ての預金を
しておくとか、秘密金庫に貴金属に替えて預けておいたという。その人たちが、崩壊後に資本家として現在、君臨している。
・・・・・・・・・
2007年09月18日(火)
 2359, ギリシャとエーゲ海の旅 −5       才ノヽ∋―_φ(゜▽゜*)♪
ーエーゲ海クルーズー
クルーズといえば、過去に香港クルーズの経験がある。香港からフィリッピン周辺の海域をクルーズするのだが・・
何社かの旅行代理店の共同企画だったが、{参加者が少ないため体裁を整えるため御得意に三分の一の値段でどうか}
というので参加したことがあった。クルーズが、こんなに楽しいとは実際、参加して初めて知った。
朝から晩まで何かしら船内で企画があり、それ以外は甲板で日光浴かウォーキング。決して飽きさせないノウハウを
企画者は持っているのである。そこに日本の老女の未亡人が、ほぼエンドレスで参加していた。
日本で生活しているのと生活費は同額?なら、よほど国内より楽しいという。スタッフは親切にしてくれるし
解らないでもないが、それは人生の甘い辛いの全てを経験した後のこと。ところで、この実質三泊三日のクルーズ朝から
晩まで飽きることのない日程。むしろ、時間、いや体が足りないぐらい。三日間、午前・午後と分け4時間、
地中海の小島の遺跡や観光地に上陸する。それぞれが深い歴史と味わいを持っていて世界中からの観光客に親しまれている。
  (以下は、字数の関係でカット・・・2008年09月18日)
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2006年09月18日(月)
1994, 悪筆ー2   (。^0^。)ノ オッ
   ーもっと「きれいな字!」が書ける本−2
  (字数の関係でカット09年09月18日)
・・・・・・・
2005年09月18日(日)
 1629, 戦略的思考についてー3
戦略的思考としての「質問」を幾つかの本からランダムにとりあげてみた。(戦略的でないものも含まれるが)
・その意味は何だろうか? 何故?何故?何故?何故?何故?何故? 何?何?・・・・・
・私が長期にわたって成し遂げたいことは何か?私にとっての価値あることとは何だろうか?自分を使って何をしたいのか?
・それが可能なことは解っている・・・しかし、やる必要があるだろうか?
・ここで新しく学んでいることは何ですか?  その目的は?
・それを仕切るのがあなたなら、どんな手段をとりますか。
・なぜ、ずっとこの方法でやってきたのですか? その方法で本当によいのですか?
・もっと前向きな方向に進めるために一つ決断を下せるとしたら、それは何ですか?
・お客にもっとも必要とされ、やりがいのあることは何でしょうか? お客に私たちが提供できるものは何でしょうか?
・顧客にどんなことを尋ねるべきでしょうか?
・自分のスキルを向上させるために、今日は何をしましたか?
・誰もが、果たすべき役割を持っている。その役割は何だか考えていますか?
・いま起きている変化は何ですか?そして、それに対する対応は如何しているのですか?
・あなたはどういう人生を送りたいのですか? 今日、その一日を過ごしたといえますか?
・・・・・・・・・
2004年09月18日(土)
 1264, 自己喪失感
10年から20年前のことだが、喪失感?に捉われたことが何度かあった。自信喪失というか、虚無感というのか。
このような心理状態を、誰からも直接は聞いたことがない。誰も黙って、こころの奥に閉まっているのだろうか。
「自分は全くの無能者で、何にも中味も蓄積もない。 今まで生きてきたが、全て上辺のことしか経験してこなかったし、
学んだ蓄積も何も無い。いや何も学んでこなかったのだ。ただ此処にいる自分は無能の抜け殻があるのみ」という凍りつくような
恐怖感である。 いや、真実の自己に気がついたということか!これが虚無感というのか、それとも一種のノイローゼの心理か?
その無能感のためか、他の存在がいやに大きく感じる。多くの挫折感を味わってきたが、その虚脱感とは違う底を抜けたような
無能感だ。心のある状態なのだが、底知れない心の深遠を覗きみた。「心に穴が空いて、その下を恐怖感で見たときに、
虚無に取り付かれた心理状態」である。失業をしたり、離婚をして、山手線の駅の雑踏の中で自己喪失感にとらわれた時に、
思わず電車に飛び込でしまう自殺が多いという。死を覚悟をした時に同じような感覚になるのかもしれない。
・・・・・・・
2003年09月18日(木)
 897, イルカの話ー2
 先日、NHKで「野性の発見ーイルカとロビン・ウイリアム」という内容のドキュメントを放送していた。
  (以下は、字数の関係でカット・・・2012年09月18日)
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523, 本屋と書籍出版社と問屋
- 2002年09月18日(水)
本屋の世界が特殊ということがあまり知られてない。書店の問屋に2大勢力がある、日販と東販だ。
  ( 以下は、字数の関係でカット・・・2011年09月18日 )
・・・・・・・
148、アフガン国境   2001/09/18
カイバル峠ーアレキサンダー大王が通った峠ー
  (以下は、字数の関係でカット・・・2012年09月18日)


4192, 呪いの時代 ー9

2012年09月17日(月)

                        「呪いの時代」内田樹著 
   * 「今、付き合っている人いる?」の意味    ー 草食系男子とは何?
 最近は合コンとかいうのがあり、気楽に結婚相手を探すシステムが出来ている。それと、ネットの交流サイトで知り合い、
結婚に至るのも多い。 何気なく「今、付き合っている人いる?」と声をかけるのも、実は巧妙な意味がある。 ーその辺を抜粋ー
 ≪ とりあえずは恋愛の局面において「傷つかないこと」があります。20年ほど前から、「ロ説く」人が少なくなりました。
 それどころか「口説く」という動詞自体がもう今の学生たちくらいの年齢では日常語彙に含まれてないかもしれません。
じゃあ、学生諸君は、交際を求めて何というか。「今、付き合っている人いる?」です。 これは、きわめて巧妙に構築された
「口説き文句」と思います。「今、付き合っている人いる?」という問いは、一見すると客観的な事態についての価値中立的な
問いのように見えます。まるで、「今、雨降ってる?」とか「今、6時過ぎた?」と訊いているように誰でも口にできるし、
誰でもイエス・ノーで即答できるように作文されている。まだ知り合ったばかりでお互いをよく知ないもの同士が、色いろあたり
さわりのないことを話しているうちに話題も尽きてしまい、ふっと訊いてみた。そういうふうなカジュアルな問いのようにみえる。
あたかもその問いに対する相手からの返答に自分はとりわけ関心があるわでがないけど、ちょっと聞いてみただけなんだけどと
言わんばかりである。「今、付き合っている人いる?」の問いに、仮に、「うん、いるよ」と即答されても、「ああ、そうなんだ。
ふ〜ん、でさ、キミ、音楽聴く?」というふうに、そんなことオレ的に関係ないけどさ」的に修羅場から逃走できます。
「いないよ」といえば、「それなら自分と付き合わない?」と、いきなり具体的性行動レベルに一気に切り替えられる。
「今、付き合っている人いる?」という問いを発する人は、その言葉が性的アプローチであるかどうかの決定権を自分の側に
留保しています。だから、「いるよ」という答られた場合は「この問いはただの社交的問いである」と言い抜け、「いないよ」と
いう答えが得た場合は「この答えは私に対する性的関心の表明である」という解釈ににじり寄る。「キミが好きだ」という
告白に対しては、言われた側には無数の答え方があります。言葉で答えてもいいし、鼻で笑ってもいいし、背中を向けて
歩き去ってもいいし、何も聞えなかったふりをしてもいい(これはよくあるリアクション)。・・・ ≫
 ▼ スナックやキャバクラなどで日常、会話されているポピュラーな言葉だろうが、直ぐに思い浮かぶのは、「あんた美人だね!」、
 「最近、シネマで何か見た?」「オーラが漂っているね」「あなたの為に、この場があるような存在だね」とかがある。以前、
 女性の職場にいたときは、浅知恵で「三度褒め」を心掛けていた。意外と異性は直接褒めないためか、三度目がポイント。
 少し軽いが誰にも言っていれば変な誤解は受けない。言葉は相手を有頂天にも激怒もさせる。最近は、褒めたことがない。 
・・・・・・
3827,  集団爆笑 ー木曜五限の地理公民ー
2011年09月17日(土)
  人生では思わないハプニングで爆笑の渦に巻き込まれることがある。以下は、ある随想にあったもの、思わず噴出してしまった。
【 高見は一風変わった授業を進める教師だった。とにかく生徒を当てまくる。次回までに解いてこい、と指定した範囲の問題を
 徹底し当てまくる。彼は中学生の本質を、的確に見極めていた。甘い顔をして、放っておいたらどこまでも勉強せず、授業中
 昼寝するだけ、という性悪説を信奉していた。そして、その考えはおおむね正しかった。・・・・答えが間違っていると床に正座。
 次に後ろの席の生徒が立つ。答えられない。 正座。はい、次、また、正座。こんな調子なので、クラスの九割が床に正座させられ、
 正規のイスに座る者がほとんどいなかったこともある。おかげで、高見の授業は常に異様な緊張感が漂っていた。 事件は、
 この高見の授業で起こった。主役は三井。 三井は強度のビビリ。人前で怒られることに、極端な差恥を覚える性質の正直者だった。
 あの日、高見に当てられ、問題文の朗読および解答を求められた三井は、傍目にも哀れなほどビビっていた。斜め後ろの私の席からも、
 問題集を持つ手が、緊張に震えているのが、はっきり見えたほどだ。 三井は途中しきりに噛みながら問題文を読み上げる。 
「アラビア半島の一角を占める、人口二百二十万人のオマーンの首都マスカットはアラア海とオマーン…」 問題文は「首都マスカットは
 アラビア海とオマーン湾に面し、漁業と交易の中心地となっている」という何でもないものだった。だが、三井はこのとき緊張からくる
 混乱の極みに達していた。普段から冗談も言わない、根っから真面目な奴。ただ、男なら誰もが通る、ちょっとした思春期の懊悩に、
 運悪く足元をすくわれてしまったのだ。「アラビア海とオマーン……」で途切れ、数秒のブランクののち、三井はぽつりと、「湖……」
 と続けてしまつたのである。その瞬間、大阪の片田舎の男子校に笑いの爆弾が落ちた。 教室に破裂した笑い声で本当に床が揺れていた。
 いったん笑いが収まっても、誰かがふたたび笑いだすと、波となって全員をまきこんだ。 十分経っても、男どもはひたすら笑い続け、
 もはや授業どころではない。教壇の高見も笑っていた。「誰にでも間違いはある」とフォローさえしていた。 あれほど些細な間違いを
 見逃さず、なべて正座を命じていた男の言葉とは思えなかった。もちろん、三井に正座命令はなし。三井の導いた笑いは、「鬼」と
 陰口された教師の心すら溶かしたのである。その日より三井の名前は学校じゅうに轟いた。あんなに笑った経験は、後にも先にも二度とない。
 とことん生真面目な男が、私の人生最高のスマッシュ・ヒットを飛ばす。「人間には無限の可能性がある」この言葉を聞くたび、
 思い出すのは、あの木曜五限の地理公民と三井のことである。 私が笑いの偉大さについて身をもって知った、十四歳の夏の午後。】
                                              ( 『ザ・万歩計』万城目学著 )
 ▼ 以前に、ここでも書いたことがあるが、学生時代のドイツ語の授業で、誰かがドイツ語の訳をしていた。
  「・・・ その時、遠くから犬の鳴声が聞こえてきた!」と、同時に遠くから、それを待っていたかのように、
  「ウ〜 ワンワンワン」と犬の鳴声。その瞬間、かたい授業の最中、部屋中が爆笑の嵐。あれだけ集団で腹の底から笑った経験はなかった。 
  ・・・・・・・
3462, 純粋持続 −2
2010年09月17日(金)
 * 純粋持続と自由
 ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由の源泉である。 通常、自由といえば、選択の自由を意味する。
たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか
自分の意志に基づいて選択できる。 そこに自由があるとされる。 しかし、ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を
思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想であり、生命の自由な持続に即したものではない。
 生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、現在において不断かつ連続的に
創造されるものであるからだ。したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての純粋自我による行為である。
他方、物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。 物質は自らを
破壊するのに対して、生命は自らを形成する。つまり生命には、物質が降りていく坂を登ろうとする努力をみることができる。 
宇宙の万象は、この持続の種々の緊張による多様な創造的進化の展開なのである。そして緊張の極にあるのが、「生の躍動」である。
 ▼ 以上だが、まず好きなことをして我を忘れている時間が「純粋持続」である。 その時は空間時間は消え、没頭している時、
 そこに「したいことを、しているという自由」がある。 純心になって対象に打ち込んでいる時、時間も空間も超越している。
しかし我われは日常の煩わしい空間に縛られ、日常の反復を繰り返すだけになっている。 それらをカサブタと仮定すると、
その奥に隠れている真の時間が「純粋持続」である。 哲学は、固定、静止、実在するもの、定着したものを探究するのが常であった。
しかし、ベルクソンは「流動性」つまり「流れ」に注目する。一人の人間存在について考えても、その細胞は日々刻々と変化しており、
昨日と今日は、同じでない。生命の場合、同一状態が永遠に続くことはありえず、流れの只中に「ある」ということが保証されているに
過ぎない。ベルクソンは、この「流れがある」こと、ならびに「流れの中で生きている」こと、この両者に「自由」を見出す。
あえて言えば、生命体が生きているだけで、どのような状態であっても、死んでいなければ「自由」である。
我われは、強力な束縛はないが、小さな細かい束縛の中で生きている。もう一つは、現在はある程度自由だが、もっと多量な、
もっと高貴な、深遠な自由に到達してないと考える場合である。どっちにしても、ある程度自由だが、自由でもない、
のが多くの人たちの現実だろう。 気の持ちようである。だが、この「気」こそ、ベルクソンの呈示したものである。
 ・・・・・・
3087,挫折を考えてみようか −2
 2009年09月17日(木)
 哲学者のヤスパーの「限界状況」と「包括者」は、なかなか含蓄がある。ヤスパーは第二次世界大戦でナチへの協力を
拒否したため、大学教授を剥奪され、身の危険を感じスイスに亡命せざるを得なくなった体験がある。そこから「限界状況」
という考えが、色濃く反映している。『限界状況』とは、突き当たり、そこで挫折するしかない壁、具体的には、死、闘争、
悩み、歴史による規定などをいう。それらの乗り越え難い厳しい壁を目の前にして、逃避するなら人間は自分を失ってしまう。
反対に、その試練を真摯に受け止めることよって初めて、我われは自分の生きる姿を知ることになる。
 しかし受け止めたところで、限界状況では挫折は避けられない。しかし、この挫折が私たちを超越者(=包括者)
の世界に導いてくれる。 もちろん、ヤスパーが考えたのは、挫折(無力感)から神のような超越的なものへ目が見開かれる
という宗教的なことではない。 包括者を認知するとは、この世の中に決して合理的に理解できないものがあることを
知るということ、理性の限界を知るということである。 理性の限界を認識してこそ、私たちは理性的に思索できる。
それをヤスパーは包括者の認知と提示したのである。 20世紀から、このかた原爆、世界大戦、ナチ、毛沢東などが、
大量殺戮を繰り返してきた。 それは徹底した合理主義の下である。 理性そのものの疑問が生じるのは当然である。 
 我われの挫折も、それを逆バネにすれば自分の無力感を、超越者(作家や芸術家など)から救ってもらう切っ掛けとなる。
挫折は、それから学びプラスに出来れば、これほど効果的なことはない。 その限界状況が芸術、思想、自然、歴史などの暗号を解いて、
包括者を受け入れやすい環境として最適な状態となるのである。 挫折は、自分の壁が破壊することでもある。
その壁は、自分を守ってもくれるが、反面、殻にもなってくる。養老孟は、それを馬鹿の壁と表現した。そうこう考えると、
人間にとって(特に若いときの)挫折は必要欠くべからざる経験ということになる。 ところで先日・・・・  〜つづき    
・・・・・・・・・
2722, どうも世界恐慌に入ったようだ!
2008年09月17日(水)
 * アリコが危ない?
   (字数の関係でカット、2011年09月17日)
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2007年09月17日(月)
 2358, ギリシャとエーゲ海の旅 −4
ギリシャに着いて、初めて行ったところが‘デルフィの遺跡’である。なるほど2500年前に欧州とペルシャ周辺から、
王侯貴族が宣託を聞きに行く雰囲気が、そこにはあった。遺跡の背景には大きな岩盤の山があり、その前に広大な平原があった。
そこに神々しい巫女が御宣託を恭しく述べれば、当時の情報過小の王様など信じて当然。今でいうと、新興宗教の洗脳演技の
舞台として充分な場がデルフィの地にあった。当時としては国家単位として、洗脳手法ー戦術を冷静に実行していたのだろうか?
しかし、その手法?は、キリスト教的な思想が入ってきてから、衰退していった。現在でも越後の地元にも、狐を神様?とした
「??宗教」が岩塚という村落にある。あれが存在しえているだけ、地域民度の低さを物語っている。
イングランドの狐狩を、あそこでやればよい! 福沢諭吉の「学問のすすめ」ではないが? 
いや、それとも土着レベルの神様も必要である?というのか。
ーデルフィの遺跡ー
 (字数の関係でカット、2012年09月17日)
ーメテオラの修道院ー
 (字数の関係でカット、2008年09月17日) 
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2006年09月17日(日)
1993, 悪筆  おはよ〜!(*^ワ^*)i (~O~)ふぁ・・
 { もっと「きれいな字!」が書ける本−1 }  ー読書日記
(字数の関係でカット、2008年09月17日)
 ・・・・・・・  
2005年09月17日(土)
 1628, ソウルの富士山ー日野敬三 対談集 −2
また、作家の保坂和志の対談 ーソウルの富士山ーも含蓄がある。死に直面した日野の心理が二人の対談から、みごとに浮かび上がっている。
ー保坂和志
今日は日野さんが、脳の手術から回復される過程で体験されたことを、闘病記というより旅行記のような感じでうかがいたいと思います。
ー日野ー
自分が脳を手術されて、術後に安静状態にあるんだとわりあい客観的に自覚したのは一ヶ月ほどあとでした。
なんとなく現実がわかるようになっても、まだうつらうつら夢を見ている状態がさらに一ヶ月続きました。 
そこには、どうも完全な夢とは違う。 自分がソウルにいて窓の外がソウルの街がみえる。
(実際は東京だが)
そして、富士山でなくてカイラス山がみえる。 もしかすると、この人生ではなくて、その前のいつか巡礼に行ったことがあるのかも、
と思い直しました。 だとすると、僕の中で辻褄が合うのです。カイラス山はそれだけの格と威厳がある山ですからね。
超意識の神話的空間内だったら、カイラス山も見える。それだけのリアリティのエネルギーを持ってなかったら、何が聖山ですか。
ー日野ー
僕は実は世の中を楽しんでいる、あるいは生きていること、人間であることが好きなんじゃないかと思い当たったんです。それを好きでない
ように思い込んでいきていたのが、いよいよ最後のところに来て、その思い込みが剥がれ落ちて本当の地が出たんだと気がついた。
もう一つ考えたのは、人生はなにも正しく生きねばならいことはないと。楽しく明るければよい。
正しくありたいと思ってきたが、それは最も大切ではないとベッドの中で声に出して自分に言った覚えがあります。
(字数の関係でカット、2009年09月17日)
ーーーー
冷徹な記者あがりの作家が幽体離脱をして、チベットの霊山のカイラス山にいってきた。それも夢ではないと言い切っている。 
また、ー僕らは日ごろいとも簡単に現実と夢と言います、全く別のように。でも本当は、そう分かれる以前のところに
生きているんじゃないか。「夢現のあいだ」ということを東洋の人たちは古くから知っていたように思います。
「夢現のあいだ」は「無現のあいだ」でもありましょう。 という、クダリは、生死の狭間での極限から生じた
魂の深い世界を垣間見た体験があるからこそ、言えることだ。人間の脳には、信じられない能力が隠されている。
死の瀬戸際を漂うと、その一部を垣間見ることができるのだろう。死ぬ時の楽しみでもある。
ー面白いことに、去年の今日老子と荘子のことが書いてあった。意味ある偶然の一致である。
・・・・・・・
2004年09月17日(金)
 1263, 老子と孔子
本を読んでいて、時々ハッとする文章に出会うことがある。 以下を書き写してみるが、儒教と道教を対比させることによって、
それぞれの本質を、より解りやすく知ることができる。    (生き方の研究ー森本哲郎 P・302より)
ー「孔子の教え」はあくまで「厳父の思想」であり、対する「老子の思想」は「慈母の思想」とみることができよう。
老子と目される人物が生きたのはー孔子もそうだがー春秋、それにつづく戦国時代の乱世であった。誰もが真剣に生き方、というより
生き抜くための知恵を求めていた。それに、応えて、孔子と老子に代表される儒教と道教が生まれたのである。対立というより、
対照というべきかもしれない。いずれが是で、いずれが非か、などという問いは愚かである。我われは、ここに二通りの生き方を見、
学べばよいのだ。考えてみれば、この世には「人間なるものは存在しない。生きつづけてきたのは、男と女である」。
人間とは、女と男の総合した抽象概念である。だとすれば、その「人間」には、当然二通りの生き方が考えられよう。
すなわち、男性原理による哲学と、女性原理につらぬかれた思想である。中国は孔子、老子という祖によって、二元的に、つまり、
全人的に生きてきたといってもよい。私たちが学ぶべきことは、そのような二つの知恵なのだろうか。 中国の作家、林語同は、
こう書いている。 ー功なれば儒教ー孔子ーの徒になり、失意の時は道教ー老子の徒に奉じるようになる。
 道教の自然主義は、中国人の傷ついた魂を和らげる鎮痛剤なのである。 得意と失意で織りなされた人生、それを歩む人間の生き方ー
それは何といっても「父」と「母」に従うことなのではないだろうか。
▼ 以上だが、道教と儒教を対比させ中国そのものを、いや人間の生き方の知恵を提示している。学生時代、「諸子百家」を読んだ時に、
孔子の教えは堅苦しく思い、むしろ老荘の思想に共鳴をした。老子の言わんとする要諦は ー小さな私心を捨て去れということだ。
人間存在なんぞは宇宙から見れば砂、いやチリのような存在。それを真に理解すれば、無為自然、母なる自然の道に従うのが
一番の近道ということが解ってくる。人間が生きていくからには、常に挫折と失意が波のように押し寄せては返していくものだ。
その時、宇宙的視点でその波を見つめる視線が道教の真髄である。
 ー老子の思想の幾つかを書いてみるとー
・道を体得した人は、何事にもとらわれず、言葉を使わず教えを行なう。
・もっとも理想的な生き方は、水のようなものである。
 水は、万物に恵みを与え、相手と争そわず、衆人の嫌がる所へと流れていく。だから道に近いのである。
・実在が意味をなすのは、無が作用しているからである。
・道を体得した者は、行動した跡をのこさない。
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2003年09月17日(水)
896, 言いわけ読本 ー読書日記
               塩田丸男 中央図書館ー2003・09・14日
(以下、字数の関係でカットー2007年09月17日)
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522,勉強法ーノートのとりかた--3 -
 2002年09月17日(火)
(字数制限のためカット 2010年9月17日)
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 147  機動捜査隊  2001/09/17
7〜8年まえになるが。当ホテルで年平均二〜三人の犯罪者を逮捕している。その協力の功績で、機動捜査隊が表彰状をやるから
私に来いとのこと。「何いってるのか!来るのはお前らの方だろう」と思ったが、「面白そう!」という誘惑に負け行くことにした。
(字数制限のためカット 2012年9月17日)


4191, 閑話小題 ーカテゴリーキラー

2012年09月16日(日)

   * カテゴリーキラー
 自民・民主の対立軸の間に、地方の首長が平成の維新と名うって「日本維新の会」を立ててきた。既存の党に新しい時代
の改革が不可能と見た堺屋太一などの識者などが、大阪市政、大阪府政を建て直した松井府知事、橋下市長を中央政治の改革に
担ぎだしてきたもの。この良さは、既存政治のしがらみがないことである。流通業界は、こういうのをカテゴリーキラーという。
既存の流通経路とは全く違うバイパスをつくってしまうやり方で、既存の百貨店と一般小売店という流通経路に対し、スーパー、
量販店、コンビニなどを、これまでと違った立地に新たに出店する方法。さらに最近では、その流通経路に対し全く新しい
カテゴリーキラーが出現してきた。ネット販売である。 先日、歯ブラシを見に電器チェーン店に行ってきたが、ネットで買えば
25パーは安いことを知ってのこと。そこには若い子連れの家族がいた。私と同じで、そこで商品の品定めをしているだけ、
買うのはネットの様子。今では、多くがスマートフォンを持ち、その場でネット価格を調べることが可能になっている。
店は現物をみるショーウインドウとして割り切っている。恐ろしい時代である。それと、酷似しているのが、日本維新の会である。 
それにしても自民、民主何だ? 
  * 近所の人の突然死
 一昨日のこと。朝の10時前に自宅の数軒先に救急車がきた。一軒おいた所は5軒の小さなフクロ小路になっていて、
家内が言うに、「殆どが80歳以上の老人の独居暮し」とか。10年前にも誰かが救急車で運ばれていったことがある。
「この暑さ、熱中症で誰かが倒れたのだろう」と気に留めなかった。 その直後に家内はスポーツジムに出かけていった。
今年は私の家が班長の番もあり、その家の隣家の人が、その報告に来た。その話によると「 一人暮らしの89歳の老女で、
一キロ先に娘夫婦が住んでいて、その娘が亡くなっていた母親を見つけて救急車をよんだが、故人はTVを見ていた状況で、
梗塞だったという。昔からいうポックリ病死である。 静かな住宅地で比較的住みやすいところ。その中で、振り返ると、
けっこう、それぞれの家庭事情が垣間見れる。 数年前の三条の洪水で東北電力の御主人が流され亡くなったとか、
病気を苦にした自殺をしたとか、旦那が女をつくり出ていったとか、あげればキリがない。そういう私も去年の春、何で!
 ・・・・・・
3826, 閑話小題
2011年09月16日(金)
  * 血圧か〜
 スポーツジムで血圧を測りだしてから一月ほどたつ。130前後から150後半が、このとこの数値。 以前から、この位だった。
気にすれば気になるし、気にしなければ別に問題はない。 体重は、二十年、標準を保っているし、食事も気をつけている。
ただ酒量が多いことが問題。親戚で脳卒中で寝たきりだった人は少ない。 ほぼガンか老衰で亡くなっている。でも、そろそろ血圧も、
血糖値も気にしなければ! ところで、一昨日の運動を終えた直後で158、昨日はリクライニング室のマッサージの直後のためか128。
高いのか? こんなものか? 先日、公営の小さなジムにある測定器では120だった。状況により大きく左右するようだ。
脳卒中で半身不随は辛いだろう。 頭は全く変わらないというし。大学時代の少しメタボ気味が二人、半身不随になってしまった。
  * パソコンゲーム
 これまでゲーム歴は、ソニーのPSPを少し遊んだことと、学生時代のパチンコ(数ヶ月に一度位)以外、ほぼない。
ここでiPadを購入したおかげで、さっそくフリー(無料)のゲームを幾つかダウンロードして使いだしたら、これが面白い。
午前中はスケジュールに追われているが、午後は時間がタップリある。 それでも仮眠をしたり読書やネットで時間をとられるため、
夕食後からTVを見ながらゲームに嵌っている。 2〜3時間は時間がたつのを忘れてしまうほど。止めようと思っても、もう一回、
もう一回と延々と続けてしまう。 これを幼児の頃から楽しんでいたら、現実で自分をゲームの主人公にした夢の追及とか、
目標のため目先の苦労をすることなど避け、ゲームで達成感などを味わった方が遥かに楽に思えるのだろ。 なるほどバカになるわけだ。
  * ど忘れ
 数日前に、以前に一度『哲学人』を、この随想日記に書いていたことに後になって気づいたばかり。ところ再び昨日の朝、三年前の
同月同日に、全米NO1の弁護士の著書『議論に絶対負けない法』の感想文があるのに気づいたしだい。これまでも、せっかく書き上げた後、
何か書いていたような気がしブログ内検索で書いていたことが判明し、没にしたことは何回もあった。しかし二回もたて続きに気づくとは、
やはり少し変か? やはり年齢のなせること? 書いたと同時に、ハッキリいって内容は一年後に、ここで再読する以外は皆無。
その分、後で読むと面白いが・・・ 
 ・・・・・・・・
3461, 純粋持続 −1
2010年09月16日(木)
 ベルクソンの「純粋持続」の考察が面白い。 まずは、ウィキペディアで、「純粋持続」を検索した。
 * 粋持続と真の時間
【 たとえば、音楽の旋律にゆだねた意識内容は、それを逆向きにしたり、こま切れにしたりすることはできない。
このように概念や言葉から離れて内省に専念すると、そこに意識の直接与件として、ひとつの流れを感じる。
その流れは、計量不可能性、不可逆性、連続性、異種混交性を特徴としており、止めようなき自発、能動によるものである。
これをベルクソンは「純粋持続」と呼んだ。この純粋持続は、空間的に表現できるものではない。
というのも、空間化とは数学的な抽象であり、測定可能、可逆的、均質的、受動的なものとなって、それはもはや
流れの連続ではなく、点の継起となってしまうからだ。したがって古典物理学の(線形的)時間は、真の時間ではない。】
 〜〜 以上が、純粋時間の要点だが、
 我われのいう時間は、あくまでも決め事でしかない。日常生活でアナログ時計や、手帳やカレンダーなど
空間に時間帯が印刷され、それを見て日程をたて、お互い、そして自分自身、その約束事に従っている。
それを真の時間と勘違いしている。 しかし、人間の意識に流れる時間とは、それとは違うのは誰も直感で知っている。
日常生活の便利さに惑わされて、意識の時間が持つ性質を忘れている。 人間が作った約束事の「空間的かさぶた」を
剥がしてみると、そこには本当の時間が姿を現すかのようである。 その「本当の時間」を「眠った時間」の状態から
分かりやすく説明するためベルクソンは「純粋持続」と呼んだのである。 豊かさとは、そのような「純粋持続」を
如何に確保できるかにある。たしかに、私が秘・異郷旅行にはまるのは、その時間を濃度深く確保できるからである。
空間移動で、その色濃く感じる空間から感じ取ることが果たしてベルクソンの、それと「純粋持続」と言えるかだが。
 人間は定期的季節の変化から、一年という周期を経験的に知り、それを、それぞれ季節3ケ月、さらに三等分をして一月、そして一日、
という単位を作っていった。農耕にとって、それが大きく役立った。しかし、それは人間が作った約束事でしかない。 
人間の心の時間は、それ以前から現在に至るまであった。その時間こそ真の時間と看破したのである。    ー つづく
  ・・・・・・・・・
3086, つれづれにー 閑話小題
 2009年09月16日(水)
  * 9・11から8年が経った
 このHPを開いて4ヶ月後に9・11テロが起こった。 先日で丸8年になる。昔といえば昔だが、8年で時代は大きく変わった。
アフガン戦争、イラク戦争、そしてインドネシア沖の地震、ミャンマーのサイクロンに、中国・深釧の大地震、地元では中越地震、
柏崎・刈羽地震、去年の9・15金融恐慌と、世界は大きく変わってしまった。 直近では、衆院選挙での自民党の壊滅的敗北である。
これが21世紀のようだ。更に情報化の進展が我われの生活を根本から変えている。5〜6年前からブログが飛躍的に普及、
個人がそれぞれの情報を発信し始めた。 これに携帯電話にデジタルカメラやビデオが取り込まれ、現場から瞬時に情報発信が
可能になったのである。 地球上にネットという別世界が新たにできて、それが現実世界に大きく影響を始めてきたのである。 
この想像を絶した情報化はSF作家の小松左京をして、「SF作家の我われさえ追いつけない事態」と言わせるほど。 
日本は冷戦終了後、それまでの冷戦の恩寵と、その結果としての世界第二位の経済大国の立場はもろくも瓦解してしまった。
人口の本格的縮小も重なり年々、経済などのダウンサイズが始ったのが、この不況である。
  * 民主党が政権を取るとどうなる?
 民主党が鳩山政権として発足するが、どうなることか? 面白いといえば、面白い。
闘う相手は自民党ではなく官僚というから尚のこと。 検察を使おうにも、彼等こそ一番の悪巣。
ここで日本も大きく変化するのは間違いはないが危うさも出てくる。民社党も批判しているうちはよいが、今度は責任政党に
立場が変わってしまう。二大政党は、交互に政権交代すること自体がよいのだから、目先を心配することはない。
  * 9・15リーマンショックから一年
 昨日で、リーマンショックから一年が経った。見るところ三割の経済規模がダウン。
緊急輸血で何とか恐慌一歩手前で踏みとどまっているが、現場段階では上っ面な回復としか感じられない。
メーカー段階では、3分に1にダウンしたのが、2分の1になった位でしかない。これも、何時まで続くか分からない。
元に戻ることはないという上で、経営戦略を根本から練り直さなければなるまい。超大型地震は起きてしまったのである。
津波の本体がくるのは、これからである。それが分かってないのでは?というほど、日本は長期停滞で神経が麻痺している。
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2721, BOAが、メルリ・リンチを買収!
 2008年09月16日(火)
バンク・オブ・アメリカが、メリル・リンチを買収!というニュースが入ってきた。シティバンクが倒産レべルのニュースより大きい。
(シティは倒産してないが)それも、リーマン・ブラザーズと天秤にかけて、メルリ・リンチを買い取ったというから驚きである。
しかも選択されなかったリーマンの方が倒産というから、なお衝撃が大きい。しかし、そのツケの支払いは日本国民にも覆いかぶさって
くることは明白。アメリカの、というより世界の金融の再編成に入ったということになる。1929年の大恐慌より、深刻な事態というが、
その大きなウネリが姿を現した。ニュースで100年に一度の金融のニュースといっていたが、その通り。日本では、三菱・UFJ銀行が、
野村證券を買収したような出来事である。リーマン・ブラザーズは野村證券の2・6倍というから、世界に及ぼす影響は計り知れない。
サブ・プライム問題の深刻度からして、おこるべくして起こったことである。 5年から10数年前まで、日本を買い叩いていた
アメリカ金融機関が、脳梗塞・脳血栓で半身不随になったと例えられる。 もちろん日本の十数年前よりも根は深い。
崩壊という表現も過激ではない。アメリカの三大自動車メーカーが、ほぼ死に体状態から考えて、世界的な混迷期に入ってしまった。
先週受けた経営セミナーの先生が言うとおりである。証券会社の一位・ゴールドマンサックス、二位・モルガン・スタンレー、
三位・メルリチンチ、四位・リーマンブラザーズ、五位のベアーズ・スターンズ(この春にモルガンに救済合併)。
この三位から五位が異変をきたしたのである。どうなっているのだろう。今年に入って、三位から五位が消滅したということになる。
ここにきてアメリカの航空会社、自動車、そして金融と、異常事態に入ったということになる。アメリカ経済の崩壊というと、
ドル安圧力が当面は強まるだろう。その行き着く値段が60円。それが近日か3年先かは分からないが。そして一度下げておいてから、
再び回復するだろう。何故なら、ドルはアメリカが輪転機で刷っただけの偽札もどき紙切れでしかないからだ。
一番影響を受けるのは、資源のない、紙切れを掴まされた日本、中国、インドである。いずれにしても、大恐慌へのテンポが速すぎるようだ。
世界中が震撼としていることは事実である。今日からの為替と株価がどうなるのだろうか。それにしても、あの首相候補の5人の漫画的な
パフォーマンス、何をしているのだろうか、この国は! そういえば私の学生時代の友人がBOAにいたが、どうしてだろうか。
クールなハッタリの大きな男だったが。
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2007年09月16日(日)
2357, ギリシャとエーゲ海の旅 −3  Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning
  ー旅行の雑感ー
*今回の旅行で、地中海と中近東一帯でイラン・イラクを除いて、エジプト、ギリシャ、ローマ、オスマントルコ、メソポタミア、
 イスラエルの遺跡を巡ったことになる。 そうすると、数年以内にイラン・イラク(イラクは無理だが)に行くのが目標になる。
(字数の関係でカット 2012年09月16日)  
 ・・・・・・・
 2006年09月16日(土)
1992, デジタル一眼レフカメラ −3          (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜
一番肝心の「写真の具合は?」ということに言及していなかった。写真は見ての通り全く別物である。
例え話でいうと、ハイビジョン液晶TVと、今までのブラウン管の地上放送Tvの差と同じといってよい。
【字数制限のためカット2010年9月16日】
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2005年09月16日(金)
 1627, 自分の死ー日野敬三 対談集 −1
先年、亡くなった日野敬三の対談集「創造する心」が深い内容である。
癌から脳出血まで、次々と死に至りかねない病の中で書いた文章は、一言一言が胸に刺さるようである。

(字数の関係でカット 09年09月16日)                          ーつづく
・・・・・・・・
2004年09月16日(木)
1262, 書いてなかった旅行記 −1
 ーカナダ旅行記−
過去の旅行記は殆んど書いてきた。しかし先日、地域別ごとに旅行記を纏め直していて、カナダと、ハワイと、中国(桂林・香港)
の旅行記が書いてなかった事に気づいた。 そこで早速、書くことにする。まずはカナダである。 カナダは二回行っている。 
一回目を書いてみる。 この旅行は、トロントと、その近くにあるナイアガラと、ロッキー山脈と、バンクーバーと、
その近郊のブッチャーガーデンを巡るコース。ナイアガラはNHKの特集を見ていたが、実際見てみて「こんなものか!」と
少し失望したのが実感であった。しかし、ボートで近くの滝のカーテンの迫力は実物ならではの迫力があった。
しかし、この旅行のハイライトはロッキー山脈のジャスパー国立公園である。飛行機の乗り継ぎなど、かなりの強行軍で、
バスでジャスパーについた時には疲れのため熟睡をしていた。ふと目が覚めると今まで見たことのない裸の大きい山が展開していた。 
変な夢を見ていると思いつつ、再び目を開けると、どうも夢でない。そこは私の知らない別世界であった。 それからは、
次から次へと見える光景に目が釘付けになってしまった。これまでの自然のパノラマを見るのは生まれて初めてであった。
日本でも黒部渓谷や立山など、多くのパノラマを見てきたが、そこで見たものは全く違うものであった。
「なんだ?!こりゃ!」と息を呑む景色が次々展開しているのだ。「こんなところが、地球にあったんだ?知らなかった!」
「これを見るまでの人生と、この後の人生は全く違う。 家を叩き売ってでも見るべき価値はある!」等々の感激が、
ロッキーにいる最中次々と出てくるのだ。この時から、旅行は大自然派になってしまった。 自然の美しさを、
これだけ数日に渡って味わって見たのは初めて。自然が自然と、こういう神々しい姿を創りあげたのだ。 山々の神々しさ、
そして空の青さ、湖のエメラルドグリーンの美しさ。そこに住む地リスの愛らしさ。あちこちで見ることができた熊とヘラ鹿。
はじめて見るものにとって、そこは違う惑星の景色である。
ーーーーーーー
2003年09月16日(火)
895, 超一流選手の共通項
 ー世界柔道選手権とプロボクシング世界タイトル戦-
 この五日間の世界柔道選手権が面白かった。昨日まで5日続けて男女の八階級と団体戦の試合があった。
2年に一度おこなわれるもので、オリンピックと同じ位の権威のあるものだ。何といっても井上康生の強さが目立った。
背の低い棟田と大柄の外人との勝負も面白い内容であった。 二日目と三日目は、殆ど目に付く内容は無かった。 
 (次数制限のためカット2011年9月16日)
・・・・・・
521,「世の中を良くする為には」
 - 2002年09月16日(月)
昨日の昼、何げなくみた映画のなかで、薬中のホームレスが橋から飛び降りようとする見しらずの女性を助ける時の言葉がよい。
「なぜ助けようとするのか?」という瞬間の問いに、「自分を助けてほしい、貴女を助ける事でしか今の自分を救われない!
たった今まで薬のことしか頭になかったが、いま気づいた!貴女を救う事が自分を救う事だということを!
頼む私を助けてくれ! 死ななでくれ!」この男の哀願に女性が自殺をとどまる。
中学の初めての授業で先生が出した自分への課題。ーこの一年間で、世界を変える方法を考え実行してみよう!−
ある少年の考えた課題ー「3人の人に役立つ事をする誓い。 それをして貰った人は他の3人に役立ちをわたす、
それが鼠算に伸びれば世の中が良くなる」という自分の創った課題を実践しようとした。しかしことごとく失敗した。
その一つが薬中のホームレスを自宅のガレージで立ち直らせる事であった。しかしその期待に答えられなかった男が、
元の生活に戻って失敗した。しかし人を救う何かをしなくてはというのが残っていたのだ。それがその女性を救った。 
その少年がいうー日々の生活に慣れきってしまい、良くないことが変えられないんだ!
怖いんだ、変化する事が。良いことをしたら、次に渡せ!ー耳が痛いが、なかなか味のある内容であった。
広がっていくのだが??シックスセンスの子供役がその男の子を演じていたが、素晴らしい心理描写を演じていた。 
「可能の王国」という題であった。 最近TVの内容が面白い!
・・・・・・・ 
[146] チンドンヤ  
 2001/09/16
  (次数制限のためカット2011年9月16日)


4190, 呪いの時代 ー8

2012年09月15日(土)

                       「呪いの時代」内田樹著 
   * 草食系男子とは何だったのか
 団塊世代の下の年代に草食系男子が多くなったようだ。今に限らず、私たちの年代にも肉食系と草食系男子は別れていた。
しかし中流階層が下流階層に移行している現在、その比率が高くなってきた。この暗い世相の中では、男子も下を向いて
草を食べているしかないのだろう。50歳以下の男たちをみると、本当に多い。しかし自分が、この世代にいたら、草食系に
なりざるをえないのも確か。長期的右下がりは、いかんともしようがない。 ー 以下の部分が面白い! ー
≪ 僕のゼミで、このところ年に二回も「草食系男子」を自由研究発表のテーマが取り上げられる。学生たちは、草食系男子と
現にかかわり深い当事者のみなさんですから、その報告には「現場を見抜いたもの」にしか語れない生々しいリアリティがある。 
  ー以下、僕が彼女たちから聴き取った情報の一部を開示したいと思います。
 草食系男子の特徴は、とにかく「弱い」ということです。きわだった特徴は「すぐ泣く」、それから物を決めるのが苦手。
「どこに行く?」とか。「何を食べる?」とか訊いても答えられない。できることなら女の子に全部決めてもらいたがる。
身体的には細身・お洒落で・髪の毛の手入れと美肌に関心が高い。かわいいしぐさ(胸の前で両手を組んで、口をとがらすとか、
外見的には哺乳類の幼生、なかんずくげっ歯類に通じる風貌をしている。 では、このような「草食的ふるまい」がもたらす
生存戦略上の利点とは何でしょうか。ある特異な社会的態度が集団的に採用される場合に、それは「生存戦略上有利である」という
無意識的な判断が下されたためと考えるのが合理的です。実際に有利であるかどうかはともかく、有利であるという判断は下された。
とりあえず誰でも思いつくのは、それが「弱い立場」にあることを強くアピールすることによって、これ以上攻撃されることを
抑止する機能を持つという仮説です。僕も、この仮説には妥当性があると思います。
 弱い犬が股間に尻尾を挟むのと同じように、あるいはマウンティングをされるのを尻を向けて待つ弱いサルのように、
「弱い」ポーズを取ることで、これ以上の攻撃を予防することが出来ます。一種の「安全保障」として機能する。・・・
こういうことが可能になったのは、公的な「強いシステム」と、それに収奪され抑圧され管理されている「弱い個人」という
二元的な対立図式に置いて、常に「弱い個人」の個に正義があるというチープでシンプルな物語を国民が選好したからである。
草食系男子は、おもに性的関係の局面で発揮されるが、とにかく傷つくことを恐れる。・・・≫
 ▼ バラエテー・ショーに出てくる若いタレントを、ほぼ、こんなのばかり。私たちの年代から見れば「女の腐ったような男」
  「人畜無害のヤサ男」。 疑似ホモ化である。 逆に司会とか、キャスターは肉食系を思わせる逞しそうな女が目立っている。
  これもグローバル化・情報化によるのだろう。
・・・・・・
3825, 生命保険について
2011年09月15日(木)
 一昨日のNHKの連続ドラマで「生命保険」をテーマにした連続ドラマが始った。後で録画を見るつもりだがシビアな内容だろう。
生命保険は名前のとおり命をかけた博打。 当たった時には、当人は娑婆にいないが、残された人に保険金が支払われる。
そのため胡散臭さが漂う。 母親が生前、「自分には八百万の保険がかけてあり、死ねば支払われる」と遺言書にあった。
しかし、契約書では80歳で切れていた。母の勘違いというより、保険屋が、そのことを言ってなかったようだ。
私は「保険は体の良い組織的詐欺の要素を持ったシステム」という持論があり、保険などかけたことはない。 
  ある本に、その辺のことが分かりやすい説明があった。
【 生命保険の保険料は、男性の場合、十万人が一斉に生まれ、順次死亡して、百七歳で全員が死亡するという前提で、
 毎年の死亡確率を出し、これを元に算出される。 四十歳の男性の場合、生き残っている九万七千三百九十人中、年間に死亡するのは
 百四十四人。つまり、九万七千三百九十一人が払った死亡保障の保険料は、不幸にも亡くなった百四十四人がもらい、その年は終わり
 ということになります。十万人生まれた男性が、半分の五万人を切るのは八十二歳。死なない限り払った保険料の元は取れない。】
「自分が死んだ後の身内のことを考え、保険に入っておく」という理屈は分からないでもないが、それをネタに利益を得ようとする
 保険の仕組まれたシステムは、契約書に業者に有利に作られているのは、当然のこと。 火災保険は、万一を考えると必要だが、
 それで「も利益団体の言いなり」ということを考えておくべきである。 
古来から金融の本質は、保険のあるという。だから、そのには、専門家でさえ知りえないほどの騙しが隠されている。
私が保険嫌いのため、家内は心配で、家内名義の給料を38年間預金をしていたことを、一年前に知った。
それが、この事態(倒産)の命綱になっている。 保険は、生々しい世界だが、この情報化のため、保険のオバサンの
多くが淘汰されつつあるという。 それと零細の業者も、ほぼ大手によって淘汰。 再編成もすざましいという。
 何処も同じということだ。 
 ・・・・・・・
3460, つれづれにー政治談議  −2
2010年09月15日(水)
 * 管首相の大勝利
 民主党党首選挙、ここまでの大差で管首相が勝利するとは驚いた。これは日本経済にとって深刻な問題。
ある意味で致命的である。目先は分裂することはないが、半年、一年スパンでは再編に動きざるをえなくなる。
この結果、景気は円高、株安にシビアにふれてくる。 管内閣三ヶ月間で、彼が経済、外交音痴であることが判明。
当分の間、政権を担うとなると考えただけで鬱々たる気分になる。まず雪崩をうって景気が悪化、二番底、三番底に向けて
容赦なくふれてくる。円は80円、株は8千円割れが、当面の目安になる。我われに商売は直接、景気が直接反映するから敏感になる。
結果からみれば小沢の政界再編は現職与党の国会議員にとって、何時、解散があるか分からないし、次の選挙の資金確保という
大問題に直面する。 この歴史的危機でも国家天下より、御身大事を優先するしかないのか。地方議員や、サポーターなどの
票は、どうしても世論に左右されるのは仕方がないのか。一番、怖いのは、小沢が政界から引退すること。しかし、直ぐに
自分の出番が来ることを彼が一番知っている。二人の演説を聞いていて、管首相の内容が国家のトップとして内容が乏しいのが
渦中にいると分からないようだ。過去と内側のことばかりで、方向性が乏しい。あれで、大きく小沢に振れないのだから、
民主党の議員レベルの質を問われて然るべきである。 無政府状態が当分続く。そして景気はますます悪化する。
 これでは瀕死の日本経済のリンゲルも効かなくなる?
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3085,時間リッチと時間貧乏
 2009年09月15日(火)
 新聞広告の雑誌の見出しに「時間リッチと時間貧乏」があった。
図書館で立ち読みをしたら、「TodoリストよりNotTodoリストつくり」。
「何をするかより、何をしないかをリストアップして実行せよ 云々」である。 私事になるが、時間リッチを自認している。 
月に数回の飲み会以外は一切の付き合いが無いに等しい。自分を育ててくれた学校の同級会、同期会以外は、商工会、町内会、
ライオンズなど、誘いもないし、行く気も無い。都合の良いことに、職場と住宅が新潟と長岡に分かれているので新幹線の乗れば、
そこで遮断できる。おまけに事業が装置産業ときているので、目先の判断は人任せでも大きな支障がない。そのために20年あまりで、
40回近い秘境ツアーに参加することも出来た。おまけに早朝5時に起床、散歩や、読書、そして、この随想日記を書いたりもできた。 
「戦略とは、何々をすることを決めるのではない! 何々をしないかを決めること」という言葉を著名なコンサルタントの先生の講義で、
30歳そこそこで聴いたこともあり、時間に関してはリッチであった。 「で、時間リッチというわりに全然、人間的に
リッチじゃないじゃないかい」と言われれば、返す言葉が無い。しかし可能な限り世界の果てを見てきたという満足感はある。
 そこで検索に「時間リッチ」と入れたら面白いリストがあった。 その幾つかを抜粋してみた。
 〜 時間リッチになる 〜
・一週間は金曜日から。 金曜日に翌週の準備、月火水でmustを済ませ、木に検証反省。
・やる気が出ないときはとりあえず動く! 動くからやる気が出る!
・楽する方法を考える       ・自分の時間価値を意識する。「2735円」
・スタートから完璧を目指さない。走りながら完璧を目指す。挑戦すると案外簡単、成果が出るもの。
・失敗しても経験が残る。「武器を手に入れてから走るのでは遅い。走りながら武器を拾え」
・今動かないとそのチャンスを他の人に持って行かれると考える。  ・時間はお金で買える。(セミナーは有料を)
・お金を殖やすため、モチベーションを維持するための先行投資を恐れるな
・時間をケチらない。「ながら作業」は「ケチ」。 一つの行為に2つ以上の意味を見いだす、
 一つの行為をいくつかの目的のために利用するのが時間密度を濃くするということ。
・忙しいときこそ勉強する。自分のために時間を使うという行為が安心感を生む。
・仕事のできる人は仕事に遊びを取り入れ余裕がある。 ・そうねではなく魅力的ねと言われるように。
・かきくけこ(簡単・興味・グレー時間・決断・行動) ・嫌なことは朝一で片付ける ・隙間時間にやることリスト  
・捜し物は時間の無駄                ・携帯時計よりアナログ腕時計。時間の量的感覚を身につける。
  ー 以下は字数制限の関係でカット(2007年9月15日)
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2720,議論に絶対負けない法 −1
 2008年09月15日(月)
「議論に絶対負けない法」
  ―全米ナンバーワン弁護士が書いた人生勝ち抜きのセオリー    ゲーリー スペンス 著
 ある知人が訪ねてきて話しをしていたら、現在、トラブルに巻き込まれて裁判中という。「500万〜1000万規模か、億単位なのか?」
と聞くと、「億単位」という。 その人は30年来の付き合いがあって、地元では大手クラスのトップ。大きな分岐点の経営判断のときは
必ず相談に来て、何気ない応答にヒントを得るようだ。その場ではヒントを得たふりを見せないが、後年になってヒントになったという。
 今回は、裁判の係争の真っ只中、具体的な生々しい相談。「議論に絶対負けない法」という本を紹介した。
アメリカのナンバーワンの弁護士が書いた本で、拗れたトラブルであるほど、彼の一言一言が全て、問題をヒント与えてくれるはずと、
助言をした。私が、この本を読んだのは十年以上前。 問題を抱えていた時で、本そのものがコンサルタントの先生のような役割を
与えてくれ、非常に参考になった。  詳細は憶えてなかったが、スラスラ出てきた言葉は
・準備、準備、準備、それが全てである。 準備以外の秘訣など何もない。
・それと構えである。 構えの構築を一つずつしていくこと。それが準備。
・問題の中心点に向かって、自分の心を無にして集中すること。
 そのためには、心の底から正しい!と信念が持てるかどうか自分の心に問うこと、そこが一番重要。
・戦いを始めたからには、絶対に強気、攻撃的で攻めること。等々、それを言えるのは、10年前に貪り読んだため。
「その知人の相談は、再び目を通せ」というメッセージだろうと本を探したが無い、誰かに貸したのだ。
そこで早速アマゾンで中古本を買った。 10円+送料340円=350円。新書なら750円である。
そして再び目を通すと、なかなか内容があり、味がある。著者が魂を込めて書いてあるのが解る。
 ー 次回から、面白そうな所を書いてみる。ー
十年前は、どうなった?かですか。構えを知ってか、相手が手を引いてきました!       −つづく
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2007年09月15日(土)
 2356, ギリシャとエーゲ海の旅 −2               o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ
この旅行では、天候、実際の対象の内容の良し悪し、スケジュール内容の質、添乗員の当たり外れ、同行のツアー仲間の質、体調
(食あたり など)?行き帰りの飛行機の席の順など、すべてが90点以上であった。この一つでも外れると、だいなしになることがある。
前回のケニアでは、過半数が外れたが・・代理店の選定ミスがあったが。 それも御愛嬌と割り切らないと旅行など続けることは出来ない。
「アフリカ・南米などの零細専門業者、地元の中小の旅行代理店」は‘外れる可能性が非常に高い’ことは経験からいえることだが・・・
外れた場合は金をドブに捨てたと割り切らないと! 中小の場合などでは、「劣悪の添乗員ー素人の遊び気分の夏休み代わりの添乗員」
を平気で組んでくる。 二度、いや三度当たったことがある。 でも、そんなものと割り切らないと・・・
 ある規模以上の代理店は、質の高いマニュアルのしっかり入っている添乗員が揃っている。同じ代理店の、ほぼ同じ少し商品の違う
パックのグループとクルーズで一緒だった。ところが、そのグループの添乗員への不平不満が、食事時に耳に入ってきた。
そのグループは外れの添乗員だったのである。間違えれば、当方の担当になる可能性もあった。
 今回の旅行を印象に深い順にランダムに書き出してみた。
・まずはクルーズ船の最上階にある甲板の先頭で、長いすに横たわりエーゲ海の風に当たりながらの日光浴。
 三日間、毎日90分間、一人で小島を左右に見ながらの甲板の瞑想?は至高であった。夢の中にいるような気分であった。
・次は、サントリーニ島の断崖の上からみたエーゲ海ブルーの広大な景色。
 そして、傾斜面の街の建物が全て白に統一された光景・・広角に広がる湾とエーゲ海の光。これも眼に印象的であった。
・小さな珠玉のようなミコス島のリトル・ベニスといわれる海岸線からみたエーゲ海に沈む夕景と、その街。
・デルフィの遺跡の神々しい雰囲気。 2500年以上昔に、そのままタイムトリップしたようであった。
・奇岩の上にそびえ立つメテオラ修道院の神聖な雰囲気と それを取り囲む広大な原野と、山々。
・アテネのパルテノン神殿と、そこを取り囲んでいるアテネ市内の風景。
・二度目だが、ギザにある三つのピラミッドとスフィンクス。そして前回は時間の関係で見なかったピラミット群の遠景。
・カイロ市内にある「エジプト古代博物館」特に、見れば見るほど驚かされるツタンカーメン王のマスクなどの財宝群。
 そして、多くのピラミッドなどから発見された像や財宝などなど・・
 以上、指が動くまま、頭に浮かんだまま、キーボードを打って書いてみた。
この旅行はギリシャ本土とエーゲ海と、そして、そこにある遺跡を見て歩く少し趣向の変わった旅行であった。
そして三日間はクルーズとはいえ、午前、午後と二つの島を数時間かけて見てまわる強行なスケジュールであった。
しかし、その間は移動が船のため、ストレスの少ない旅であった。  Д`、)マタネ         ーつづく
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2006年09月15日(金)
1991, 仲人・高橋与三八氏を偲ぶ
            ( −」)φ~~
兄と私の仲人をしてもらった高橋与三八さんが亡くなられた。 私の10指に入る恩人である。 
柏崎の出身で、元銀行マン。 大手銀行の再編成の中で、苦労した人である。 日本相互銀行に入行、合併で太陽銀行になり、
太陽神戸銀行になり、さくら銀行になるプロセスで定年を迎えた。 多くの仲人をしたようで、多くの人に慕われていた。 
私の名前が八郎で、兄が三郎。 その仲人をしたので、名前どおり「嫁を与・三・八」をした。 面白い因縁である。
  − 以下は字数制限の関係でカット(2007年9月15日)
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2005年09月15日(木)
 1626, 頭脳の果て−2
以前にも書いたが、この本をヒントに「三つの部屋」のイメージ空間を創ってみた。
一見バカバカしいが、イメージ空間から真実が語りかけてくる。
・縁者/故人の部屋 ・10年 20年後の自分の部屋 ・もう一人の自分がいる惑星(前回書いた)である。
通勤の列車の中とか、寝つきが悪い細きれ時間とか、ウオーキングの時などに、このイメージ空間に入り自己対話をする。
  ー以下は字数制限の関係でカット(2007年9月15日)
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2004年09月15日(水)
1261, 幼児虐待殺人事件 −字数の関係でカット2008年09月15日ー
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2003年09月15日(月)
894, 「バカの壁」読書日記ー2
「バカの壁」を常に感じ取っている。過去を振り返ってみれば、よくわかるはずである。
子供に遡るほど小さな視界の世界ー壁が立ち塞がっている。その壁を一つずつ乗り越えるのが人生でもあり成長である。
学生時代、ある友人に「大爺」といわれたことがある。「地方の固定観念の塊」と「両親からの価値観の殻」
を感じ取って批判したのだ。学生時代の一番の収穫は、この壁‐殻を可能な限り叩きこわしたことである。
そのためか、地方にいると全く価値観が合いあわない。壁は乗り越えれば乗り越えるほど、多くの壁が立ち塞がってくる。
「バカの壁に気がついてくる」といってもよい。 メジャーにはメジャーの壁、マイナーにはマイナーの壁がそれぞれある。
この随想日記も、バカの壁の提示でもある。自分の壁を認識するのに、過去の喜怒哀楽の極みを内省してみるのがよい。
一番、喜んだこと、怒ったこと、悲しかったこと、楽しかったことを書き出してみることだ。それと好きなことや人、
嫌いなことや人を考えてみることだ。感動・感激・感謝の極みもそうだ。それが、その人の限界でありプラスの意味の壁である。
その壁の上に立って、その向こう側を眺めると、自分が何をすべきかが見えてくる。
バカの壁を一番乗り越えるヒントが見えてくる。私のバカの壁を乗り越える方法を幾つか書いてみる
ー新しい習慣をプラスしていくことである。
・ウオーキング ・お経ー般若心経 ・読書 ・本屋と図書館通い ・パソコンー随想日記
・頭の固い人との接触を避ける ・常に新しいこと現象に興味をもつ ・意識して感激・感動の場面に近づく
・秘境旅行に行き続ける 等々を時間をかけて習慣化していくことだ。
チャレンジ・コンペテション・チェンジの繰り返しのサイクルを維持すること、中村天風の「積極一貫」である。
バカほど、こういう本は読まないものだが!バカとは頭の固い人ーバカの壁がびっしり囲んでいる人のことだ。
   そう貴方、いや自分のことだ。 
ーこの本の感想を書いてみるとー
「内容を理解もせずに、うわべだけを見ただけで知っただけで、わかっているという思いこんでしまう恐ろしさ」を提示している。
「知識と常識」「科学的事実と科学的推論」「意識と無意識」「脳と身体」「都会と田舎」等々は違うとして「二元、論」
の考え方で主張している。現代世界の三分の二が「一元論」者の中で限界がきているとしている。
 (字数の関係でカット09年09月15日)
 −−−『バカの壁』 著者 養老孟司  出版社: 新潮社


4189, 呪いの時代 ー7

2012年09月14日(金)

                「呪いの時代」内田樹著
   * 婚活も、「適職イデオロギーの刷り込み」の一種   ー第5章「婚活」と他者との共生ー
 ここで著者は、「ほぼ全ての結婚は、最後は『失敗だったな』と思うもの!」と断言する。
家庭内離婚を含め過半数が破綻しているのは知っていたが、ここで殆んど全部というから驚きである。
知人などから、こっそりと、『失敗だった』という愚痴を聞くと、禁断の秘密を知ってしまったと思ったが、
全部が、そういうことなら話は別。 実際に暮らして分かる相性もある・・  ーその辺からー 
≪ 婚活もイデオロギー的洗脳によってエンドレスの願客を作り出すというビジネスモデるにおいては就活と同じ。
 就活における「適職イヂオロギー」にあたるのが、「運命の赤い糸で結ばれた宿命の配偶者幻想」です。世界のどこかに
私だけに宿命づけられた一人の配遇者がいる。その人に出会わなければならない。出会いさえすれば永遠の幸福が約束される… 
この赤い糸イデオロギーは幼児期からさまざまな物語を経由して、子どもたちに植え付けられます。
この幻想から自由であることはきわめて難しい。そのイデオロギーに悼さすかたちで結婚情報産業が呼びかけます。
≪「この世の中に、あなたにだけ約束された人がいます。あなたはまだその人に出会っていません。何故でしょう? 
  それは『出会い』が足りないからです。私たちが、その出会いを提供しましょう。もちろん有償」・・・ ≫
「あらゆる結婚は(と申してよいでしょう)「これは失敗だったな」という後悔を当事者たちにもたらします。必ず。
 だから、ご心配には及びません。 僕たちは配属者の選択において、必ず間違いを犯します。そして、後になって
「なんで、こんな人と結婚しちゃうたんだろう……」と空を仰ぐことになる。・・・ 
 そうですよね。頭に血が上ると「この人こそ世界でたった一人の私だけのための人だ」というような夢想に酔うが、
普通はあまり継続しない。「では、結婚しましょう」ということになり、両家の親族に挨拶に行き、新居の家具を買いに行き、
式の段取りをしているうち、「ほんとにこの人でいいのかなあ」という懐疑の念が兆してくる。 「赤い糸イデオロギー」は
平たく言えばただの夢想ですから、現実の「やすり」でこすられるとポロポロと剥落してくることは避けがたい。
何となく「マリッジ・プルー」になっているうちに新婚旅行に行き、そこで聞きたなくいびきをかいて寝る夫や、トラブルが起きるたび
「あなた、なんとかしてよ」ときいきい叫ぶ妻にうんざりしてきて、婦りの飛行機の中では口もきかないというようなことが起こる。
いや、これは「あなたの場合」じゃなくて、ほとんど全ての(95%くらいの)夫婦についてなさていることなんですから、
ほんとうは少しも心配するには及ぱない。≫
 ▼ これを読むと、社会の見方と人生観が一変する人もいるはず。とはいえ、やはり夫婦というシステムは、一部動物と
   人類が作りあげてきたもの。やはり、結婚と、その後の我慢はしておくべき。 身も蓋も無い話だが、そういうこと。
 ・・・・・・
3824, 閑話小題
2011年09月14日(水)
   * スポーツジムに通って半年、その効果は?
 月に一〜二度位しか休むだけで半年間ほぼ皆勤でスポーツジムに通っている。スポーツジムの休日の金曜日と日曜日は市の公民館の
中のスポーツ施設に行くが、変化があって、これはこれでよい。お陰で体調は、非常に良くなった。足腰が、この数年来、重くなって
きたが半分以上は元に戻ってきた。健康ジムの「イージーライン」というプログラムに参加しているのが良い。12人一チームで、
若い女性のインストラクターの掛け声で、全員が互いを意識しながらやるため、手抜きは最小になる。特に初めと終わりのストレッチが、
非常に良い。ここが要と、入念に足腰の関節部分に気持ちを入れる。このストレッチを早朝のミニ・サイクリングの途中の土手の
ベンチの横で休憩の合間にもやるが、いま一つ気合が入らない。 あの場でやるから良いのである。
 二年前に、酷い腰痛になってから、居間や書斎の椅子に、低反発クッションを、寝床には低反発枕と低反発クッション、
居間には腰痛用の健康機器を入れたため、腰痛は最小に収まっていた。 そこに更に、健康ジム通い、体には良いはずである。 
また健康ジムそのものが持つ明るい雰囲気が良い。 ここで痛感したことは、足腰に大きな重圧がかかっていること。それを一日に数度、
丹念に揉み解す習慣は最重要事項になる。 歳を重ねると足腰の弱体化から自然に猫背になっていく。これが、良くない。 
前かがみの老人は不健康に見える。「老化すると、人は老人になる」というが、老齢期に人生のそれまでのツケが一挙に老い被さってくる。
そこで、まずは足腰と、頭の老化は人一倍、気をつけないと・・・  成るほど、老いるとは、辛いことだ。
  * 老老介護
 先日、近くのチャンコ鍋チェーン店に久々に食事に行ったところ、案内された小座敷の隣に80歳は超えている老夫婦の先客がいた。
少し妙な直感がしたが、別に気にはとめてなかった。 しかし私たちが入店した時には食事が終わっていたのに、私たちが帰る直前まで、
そのまま御茶を飲みながら周りの客の話を聞いている雰囲気が伝わってきた。それは別に問題ないが、家内がセルフ・サービスの
コーヒーを取りに行ったところ、帰りかけで入り口にいた御婆さんが、家内に「足が痛くて歩けないんだけど、どうしたらよいですか?」
と話しかけてきたので、家内は戸惑い「私には、どうにもならないんで、店の人に御願いしたらどうですか」と、少し冷たく答えたという。
連れもいるのに見知らずの人に訴えること自体が変で、明らかに痴呆症が半分入っている風とか。 
 私も腰痛を持っているので、その酷いときの辛さは痛感するので(痴呆が入ってなくとも)誰彼なく言いたいのも分かる・・・
長生きは有難いが、そこに精神的、肉体的苦痛の代償を自然は与える。 老いただけ、無念が増す、ということか。 本気で
「来年は存在ない」という思いで、一日一日を生きる時節になってきた。 あの人は誰かに愚痴を聞いて欲しかった?のか。
長生きはしたいが、老いたくはない。 この矛盾が老いの問題になってくる。・・・・・・・
3459, 今日の民主党党首選は?
2010年09月14日(火)
昨日のヤフーの私のブログに
《 小沢と管の民主党党首選が明日に行われるが、順当なら小沢だろう。選挙は水物だが、連中が真っ当ならでの話である。 
真っ当でないのが、衆院選で当選している可能性があるから、外れるかもしれないが・・ そこまで程度が低くないはず。
政治には、それほど期待してないが、この数年間は無政府状態。 国しか我われの身を守ってくれない。だから恐慌の現在、
特に注目せざるを得ない。 小沢も、確かに変である。当選したら、バッシングの嵐。 短命でも良いから、
政界再編成を早く実現し、出来たら病気で倒れた方がよい。》 と書いた。
 今日、その民主党の党首選が行われる。小沢からみたら、むしろ負けた方が良い。その方が首相の立場で再編するより、
やりやすいはず。 だから党首選に立候補して、接戦をすること自体が目的だろう。その圧力が選挙後の力関係にも影響してくる。
そうこう考えると勝敗に関係なく、接戦に持ち込んだことで既に勝負があったことになる。 それより民主党の代議士が真っ当か
どうかの方に興味がある。 何でマスコミが、その予測で管首相に一方的に傾くのか?不思議である。アメリカの間接的圧力が
ある?と、穿った見方もある。ネットでは8割が小沢を支持しているというが、その乖離は何故起きるのか。 
(字数の関係上、カット11年09月14日)
・・・・・・
3084,挫折を考えてみようか
 2009年09月14日(月)
 「挫折」については誰かが考えているはず、と調べたら、ヤスパーがいた。
ヤスパーは、挫折を「自己に目覚めるきっかけ」として捉え、自分自身を乗り越える機会とみる。
人間は日常の生活に明け暮れで生きているが、それでは真に生きていることにはならない。なぜ己が世界に生きているかを問い、
自分のあり方を求めることが生きる出発点になる。ところが、それを真正直に守ると最後には挫折が待っている。人は最期は死ぬ。 
それを考えると生きている根拠がなくなり、行き着く先の挫折を「限界状況」とヤスパーはいう。 色いろの挫折を重ね、最後に
「死」が厳然と待っているのは、身近な死が我われに教えてくれる。 しかし死を含めた多くの苦悩を通して、人間は真の自己である
実存を自覚し、そこから苦悩を乗り越える「超越」への基盤となる。しかし人間は死の戦いや苦悩を、実存の最終的なあり方と
受けとめることが出来ない。 本来は、愛、永遠、無垢に惹かれる存在だからである。  
 ヤスパーは、《 実存は苦悩のうちに挫折しつつ、指し示す絶対者=包括者へと超越することが要求される。
その超越が促すのが「暗号解読」である。それは一種の象徴で、有限な現実の存在が自らを越えて絶対なる超越を指し示すのである。 
芸術、思想、自然、歴史など、そうした暗号によって、それを包括者へと超越せよ、という指示として受け取るのが暗号解読である。》
と、挫折=限界状況の先のアップスケールとして、自己に目覚めるきっかけとする。人間が生まれ存在しているから挫折をする。
そして最後の挫折としての死を受け入れるプロセスが超越だったり、真に生きることであると指摘する。人間は誰かに人生を
代ってもらうことはできない。 限界状況をひとりで背負う、本質的に孤独な存在である。だからこそ独りに閉じこもらず、
自分の実存を他者に開示すべきとヤスパーはいう。他者との交わりを通して、自分を振り返ることが、更に自分に近づくことになる。
実存に目覚めた人間同士の交わりを、「愛しながらの戦い」と呼んでいる。人生を振り返ると、挫折から多くのことを得た。 
その時に、新約聖書や、大本教の本に救われた経験がある。超越者から救われていたのである。40,50歳代の峠越えは
秘境旅行で大自然に出会うことで超越していた。私にとって、大自然の懐が「暗号解読」の場所であった。 
更に、多くの都市の美術館の名画などの作品がである。「限界状況」の中に、そして、その向うの「超越」こそ、人間の生きている
意味が隠されている。挫折、そして苦悩こそ、人間を超越に運んでくれる。 そこで出会う感激・感動こそ超越状態である。
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2719, 嘘について
 2008年09月14日(日)
社会に生きていくうえで、嘘をつかなければならない場面も往々にしてある。その場その場で、ころころ変化する人物は
直ぐに見抜かれて信用を失う。「約束の時間を守るかどうか」で、まず評価されるのは、そこに言い訳と嘘が鮮明に出やすい。
後ろ向きの人は、言い訳から始る。そして小さな嘘を重ねる。過去に何人かの長年行き来していた人と断交をしてきた。 
その共通点が嘘が多い人である。開いた口が塞がらないというほど、純朴に嘘をつく。純朴を表面に見せて、次から次へと嘘を重ねる。
ある人を例に取ると「本人は嘘を言っていることに気づいてないだけ。 三歩ほど歩いたら全てを忘れる、嘘など更々言っていない」
のが真実。「私を信じて下さい」が、ある人物の口癖だが、そのことさえ自覚をしてない。 話を都合のよいように変えるのも、
嘘の一歩手前の行為である。営業口で、きれいごとを並び立てているうちに嘘の構築のプロセスを踏んでいることになる。考えてみたら、
誰もが大同小異ではないか。他人のウソは見えても自分のウソは気づかいないだけだ。所詮、世の中は全てが幻想、ウソも真実も大して
変わらないではないか?と嘯くこともできる。嘘も方便で嘘も相手を傷つけないように気遣う場面も必要。鮮明に憶えていることがある。
父親が、末期癌になり、あと一年と宣告され一年間実家で同居をしたとき、そ知らぬ顔をして、父親の葬式のための喪服をつくりに
行ったことがあった。 嘘も必要悪と己に言い聞かせ。「末期かどうかは自分は聞かされてない!」という前提で、全ての言動を
しなければならなかったのも辛い。この時に綺麗ごとだけでは生きれないことを、つくづくと知らされた。普段からウソの訓練も必要?
私の場合は、後味の悪い他者への裏切りや、嘘は避けてきた。 結局は周り回って帰ってくる。 動機が純粋かどうかを、
最終の判断基準にしている。 ただ、人間の窮したときの露骨な嘘こそ忌み嫌う。 自分の利益行為のために、綺麗ごとを当然のごとく
並び立て、結果として尻尾を出している男かいる。営業という仕事自体が綺麗ごとを並べ業績に結びつける要素が含まれる。
全てを営業成績を上げるため、生きるため、の手段にしなければならないのがプロと思わないと、やれない。嘘をつかないで、
相手をグサリと刺しまわっている「私」も大問題である。嘘を言う前に、まず真実を知らなければ! 
真実も嘘も知らない手合いが多いから困ったもの。そうこう考えてみると、親の資質や、本人の教養度合いの低い人が、
ウソが多い人、ということになる。まあ娑婆は適当なウソで持っているところがあるが・・
 後記)書いた後に気づいたが、ほぼ同じ文章を書いたことがある。   
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2007年09月14日(金)
 2355, ギリシャとエーゲ海の旅 −1
この旅は、予測していた通り、ヨーロッパをメインに旅行している人が大部分で、秘境・異境派は一組もいなかった。
23名の参加者のうち、16人が夫婦づれ、6名が女性づれ、1人参加が1名。 平均年齢が大よそ60歳強で、私達にとって
丁度良いバランスの連れ合いであった。少し、お品の良い人種が多いのが特徴で、食事時の会話が大変であった。
(その辺は家内の得意とする分野!私は寡黙の人に変身した日々。)内容的には、クルーズではトルコのクシャダズと、
また乗り継ぎ拠点のエジプトでは、ピラミッドとエジプト考古博物館のオマケつき。盛りだくさんのスケジュールが
組まれていて10日間としては、内容が豊富であった。点数でいうと、100点満点といってよい。まずは今回のツアーの
「スケジュールと主な内容」を旅行代理店のクラブツーリズムのHPのスケジュール表をコピーしてみた。
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 (字数の関係でカット09年9月14日)
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2006年09月14日(木)
1990, 9・11から5年が経過
(字数制限のためカット2010年9月14日)         
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2005年09月14日(水)
 1625, 戦略的思考について−2
アインシュタインは、質問の力について、「もし自分が殺されそうになって、助かる方法を考えるのに
一時間だけ与えられるとしたら、最初の55分は適切な質問を探すのに費やすだろう」と述べている。
それだけ最適な質問には、莫大なエネルギーと力が秘められている。 その事態に対する『隠された質問』
を探しだしさえすれば、問題の殆どを解決したことになる。 それは思考についても同じことがいえる。
問答による思考発展として2500年前のギリシャで、ソクラテスの対話による教育手法が生まれた。
現在もソクラテスメソッドとして、主流の教育方法になっている。
18世紀にアメリカで大人数の教育が世界に伝わり、ソクラテスメソッドを破壊してしまった。
これは高等教育を普及させるのに役にたったが、個人の教育の立場ではギリシャ以前に立ち戻ってしまった。
その為に教育とは、生徒に情報ー知識を詰め込むことと考えてしまうようになったが、
教育という言葉の語源の『エデェカーレ』は、本来は‘引き出す’という意味がある。
古代から教育者が、生徒自身から持っている知覚や洞察力を引き出す方法で、ソクラテスによって名が
知れるようになったテクニックである。先生が鋭い質問を生徒に投げかけ、彼らの持っている知覚を試して、
説明するように仕掛けることである。これは闊達な対話を通して進められる教育形式である。
はじめに結論を言わないで、対話の中から結論を見出していく。
私が学生時代に武澤ゼミで訓練された「ケースメソッドーケーススタディ」は正にこれであった。
多彩な事例問題を毎週二回与えられ、それに対して先生とゼミ仲間同士が問答形式
(ソクラテスメソッド)で、ある結論に導いていく方法である。
与えられた(一枚の紙の)ケースに対して、はじめはアトラン. ダムに論じ合い、
最終的には全員で一定の結論を導くという方法である。 その効果は
・不確実性の内容の中で、的確な意思決定ができる
・自由な質問(ソクラテスメソッド)を使い、論理を引き出し問題を明確にしていくプロセスの学習
・ロジック構築のプロセスの学習  である。
内容が「思考」に偏ってしまったが、戦略についてに戻そう。
戦略は鳥瞰としての絵図である。 その絵図の構図を練ることが戦略思考である。
それも地頭で考えることが戦略思考にとって最も要求される。
戦略とは、限られた資源を集中して最大の効率を図ること。
その為には、時流とその方向を見極めることが求められる。
わたしが最近ゲンキがないのは、デフレのすざましさを読み違えたことだ。
インフレ脳でしか考えてなかったことか!戦略思考など偉そうなことは書けない立場のはずだが!
冷静に鳥瞰しなくてはならない時期のおさらいである。
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2004年09月14日(火)
 1260, 人生の基礎は10歳までに作られる!
人生は10歳での環境によって、ほぼ既に決まっている。中学校は選抜される前の最後の場である。
その時の成績が、その後の人生を殆んど決めてしまっている。以前にも書いたことがあるが、私の中学の同級では、一番が慶応大学の教授、
 二番が日本レコード協会の専務理事、 三番が自衛隊の幹部である。反対に、成績が悪い方を見ると、具体的に??書かないほうが良い。
それをより突き詰めてみると、10歳の成績と環境まで遡ることができる。好奇心と向上心が潜在意識の中に如何育まれていたかである。
子供のころは「退屈をする時間」が有り余っていた。その時間の中ありあまる好奇心で大人の世界を見たり、子供同士の世界の中で多くの
試行錯誤を繰りかえしていた。初恋や新しい遊びの発見、人間関係の駆け引き等々。また大人の世界を子供の純粋な目でチャンと捉えていた。
ここで親が、その自由な時間を奪い取ったり、口出しをしたら、無気力な指示待ちの基礎が出来てしまう。もう一つのチャンスは、大学時代。
嫌になるほどの、自由な退屈な時間と、有り余った時間の中で、自分の人生の「予行練習」と、「人生計画」を練り上げる。
多くの分野の本を読んだり、多くの人と出会い議論するのは、その知識を得る為。クラブ、寮、ゼミの先輩、教授から、その準備期間に
如何に多く教え頂くかで決まってくる。その時に、如何に準備に集中したかで長い人生が決まってしまう。
「べき時に、べき事を、べくすべき」ということだ。10歳までは親の責任である。好奇心と、自主性と、やる気を壊さないように
導き出してやれるかだ。しかし,それだけでないのが人生だからこそ面白い。
反面教師として、それをのりこえる場合も往々にしてあるから。 いや無いか!
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2003年09月14日(日)
 893, 「バカの壁」ー読書日記−1
 以前から気になっていた本だが、ついに買った。この人の本を多く読んでいたので立ち読み程度でよいと思っていた。
 ー以下は字数の関係でカット(2007年09月14日)            
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2002/09/14
眠れない夜に
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2001/09/14
宗教戦争−3
(字数の関係上、カット08年09月14日)

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