堀井On-Line



3684, 自己を見つめる −8

2011年04月27日(水)

          「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  * 仕事について
 第二の人生に入って一ヶ月足らずになる。 今月から仕事・事業人生から無職のリタイアの人生に入った。
人生の大部分を仕事を通して幸福・不幸の波の中で泳いできた。仕事は人生の核であることは間違いない。
社会の中の存在意義が仕事を通して証明される。そこで表現した中に自分が見えてくる。
仕事、趣味、そして学びは人生の三本柱である。人生のプロセスで、その重心が変わってくるが、男は家族を作り、
養っていかなければならない。だから、仕事の比重はのしかかってくる。とはいえ、三本柱の一つだが・・・
 ーこの本の中の仕事に関する部分を抜粋して考えてみるー
【 したがって、社会に応えてなんらかの役割を果たし、世間に寄与することができるということは、人間の自己意識にとっては、
自己の存在の意味を確認することのできる最も直接的な答えであり、また喜びであることは、疑いようのないことだからである。
もちろん、そうした仕事における労苦のうちには、失敗や挫折、困難や事故、予期せぬ妨害や災害、さらには競争や不運など、
実にさまざまな心労の種が含まれていて、人生の現実が容易ならぬものであることが、誰にでも、ひしひしと実感されてくる。
人生における懐疑や煩悶、疑心暗鬼や気欝は、多くの場合、仕事をめぐるトラブルや、そこに絡んでくる陰湿な人間関係に起因する
ものであることは、否定することができない。けれども、そうした暗欝な影にもめげずに、自分の関与する仕事の有意義性を確信して、
少しでも前進し、実りある人生行路を切り開こうとする人にとっては、やはり、仕事を措いて、人生の実質上の道程は考えられない
ことになるであろう。そして、もしもその人が、強い信念の持ち主として、どんな障害にも屈服せずに、この世界では善が勝ち、
道徳的な世界秩序が実現してゆくはずだと確信することができるならば、たしかにヒルティも述べたように、その人にとっては、
仕事を通じた人生の意味と幸福が、力強く確認され、労働の喜びが増すであろう。】
 〜
 「人生における懐疑や煩悶、疑心暗鬼は、仕事をめぐるトラブルや、それに絡んでくる陰湿な人間関係に起因する。」
しかし、それを乗り越えて仕事を成し遂げることこそ、その醍醐味がある。とはいえ、経済震災や、自然震災は、その全てを
飲み込んでしまう。これほど大激震だと諦めがつくが。これも人生。人生の多くを事業を通して多く学び、楽しんだことも確か。
 まあ、面白かった! 
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3319, 理性の「理」は、理由の「理」
2010年04月27日(火)
   『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著
 学生時代に理念、理性の「理」の意味は何だろうと疑問に思い、ゼミの人たちに聞いてみたが、納得する答えがなかった。
そこで字づらから、王の里で、真理の大元と一人合点をした。ところが、先日図書館で借りてきた
『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著に、カントの「純粋理性批判」中の「理」が解りやすい。
 《 理性の「理」は、実は理由の「理」にほかならない、と述べている。 欧州の古典語であるラテン語で「理性」を意味する 
「ラテオ」は、同時に「理由」を意味する。理由とは、「なぜならば〜」と表現されるもので、物事の「根拠」、
 物事を「根拠付ける」働きを意味する。さしずめ「なぜならば」と答える能力が理性であると言ってよい。 
 20世紀のハイデッガーは、理性と理由、理性と根拠が同一であることを際だたせて、次のように述べている。
「理性とはラチオのことであり、すなわち根拠の能力である。理性は物事を基礎づける根拠である。
 根拠は、純粋理性の理性的根拠以外にはない」
 ところで、この「なぜならば」といきなり、切り出すものはいない。それを誘導するものがある。
 それは「なぜ?」という問いである。「なぜ?」と問われて、はじめて「なぜならば」が発せらるのである。・・・ 》
  ――
 以上だが、理性的とは「なぜならば」と答える能力である。と同時に「なぜ?」と、問う能力である。
分かっているようで、分かってなかったようだ。そうすると、常に「なぜならば」と「なぜ?」を、考えている人が
理性的ということになる。人は「なぜ『なぜ』と問うのか?の答えは、「人は根拠となる物事の基礎を把握したいため」である。
「なぜ?」「なぜならば」と、言っている限りは、理性を使っていることになる。 ということは、根拠=原因を知りたくなる
根本的な探究心のため何か驚いたり、知らない現象に出会うと、その背後にある原因を探したくなり、「なぜ」と問うのである。
 認識に経験論と合理論があるが、合理の理性から物ごとを認識をするという場合、経験が直接的に認識するのに対して、
合理の理性で把握するのは間接的に認識する、ということになる。  −つづく
 ・・・・・・・
2944,ブラックアウト
2009年04月27日(月)
 ーブラックアウトについてネットで検索をしたら、以下のようにあったー
blackoutは、飲酒中やその直後に自分の行ったできごとについて、翌日に一部の記憶がなくなるアルコール性記憶喪失をいう。
例えば、飲んでタクシーで帰ったが、友人に乗せられたまでは覚えているが、その後はまったく記憶がないなどである。
社交飲酒家でも認められるが、アルコール依存症者ではしばしば認められる。ブラックアウトの出現はアルコール依存症の入門切符。
 ーー
「元スマップの草薙剛が、ブラックアウト?で逮捕された」と報道された。深夜三時ごろに全裸で騒いでいるところを
逮捕されたもので、何と猥褻罪という。深夜に素っ裸で公園にいたところで誰に見られた訳でなし、やりすぎではないかと
思うのは私だけではないはず。有名人でなければ、これだけ騒ぎになるわけでなし、酔っ払い保護センターもあるし、
騒ぐほうも騒ぐほう。これが情報化の恐ろしいところである。私など20数年間で新潟で酒を飲んで6回も新幹線を
乗り越した経験者。以前から「酒を飲んだ後の記憶がなくなったら、要注意」と酒の先輩格の人から聞いていた。
思い返すに一番酒を飲みまわっていた時に、何度かブラックアウトの経験がある。
それにしても、これだけ酒の失敗を重ねても警察の世話になったことがないのは、不幸中?の幸い。
草薙の場合、8合というからやはり飲みすぎ。 しかし酒癖の悪い私としても、どうしても甘くみてしまう。
二軒目からは焼酎のお湯割りだけにして、楽しい酒にすること。 そして、馴染みの店以外は行かないこと。
酒で人生を多くの失敗したが、その数倍は楽しく面白い思いもしてきた。
昨日のマスコミは全体的に、「警察のやりすぎ」というのが論調で、警察そのものを批判するもの当然。
結果的に警察のレベルの低さを露呈したということになった。 鳩山とかの何が、偉そうな批判をしていたが、
「御前さん、そんなことを言える柄かよ」の一言で失言の取り消しで、逆に嘲笑をかってしまった。
ブラックアウトといえば、精神的に追い詰められて蒸発をした人が、その間何をしていたかまったく記憶がないケースがある。 
これもブラック・アウトという。 「男はつらいよ」の中で、寅が知り合った男を捜すストーリーがあったが。
「酒、特に日本酒は口から脳に入れる魔物である!」 魔物に支配されて破滅は、長い歴史上、数知れずである。
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2580, 閑話小題
2008年04月27日(日)       \(⌒∇⌒)/おはよ?!
 ー哲学と思想の違いー
池田晶子著の「暮らしの哲学」で 「哲学」と「思想」の違いについて次のように書いている。
『「哲学」と「思想」の違いは「哲学」とは考えることであり「行為」である。
それによって導き出された言葉なり文章なりの結果が「思想」である。だから「哲学する」とは言うけれど「思想する」とは
言わない』と。 解りやすい説明である。「哲学は考えること。思想は思いこむこと」 というと、何か違うような気がする。
 人の考え、思い込んだことを言語化したもので、貼り付けることが出来るのが思想で、考える行為が哲学ということ。
一般的には、哲学も思想も同じように論じられているから、話がややこしくなる。
ここの差異をハッキリさせおくと、哲学・思想書関連の本を読んでも整理がつく。
 ー何でも半分ー
 (字数制限のためカット2010年4月27日)
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2007年04月27日(金)
 2215, 買い物依存症の女   ^O^ノ  オアヨーン
海外ツアー、それも秘境に行く人は、心に大きな負担を持った人が多い。ある年代になれば誰もが何らかの問題は抱えている・・
特に刺激を求めてアフリカ、中近東、シルクロード、南米などに行く人は人生の究極を求めている人が多い。
その中で、「買い物依存症」の人が何人もいた。明らかに病的の、「やり手?ブランド嗜好の金ぴか中年女」である。
店側の尤もらしい口上、お世辞に金をばら撒いている姿が悲しく映る。買物で心の空虚を埋めようとするとするのは究極の癒し。
亡くなったが、何度かガンの手術の死線から生還してきた人と、その直後、酒を飲んだことがあったが、その時の言葉が印象である。
(以下、字数の関係で中略2009年4月27日)
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2006年04月27日(木)
1850, 2008年、日本は大きなクラッシュに? ー1        おはよ?!(*^ワ^*)i
 昨日、池袋で開催された『資産防衛セミナー』での第一声の講師の言葉が「平成20年に、日本は大きなクラッシュになる!』である。 
そして「その対策を、具体的手順にふむべき時期がきている」という。二年半前に同じ講師で同じテーマのセミナーに参加したが、
再び参加してみた。5回も参加している人もいるという。その衝撃的な内容は絶望度をましていた。景気回復など論外。 
現在の日本の事態は生やさしいものではないという。本屋で、数年前まで悲観的な表題の本が平台に積まれていたが、
最近は見かけなくなってきた。 少し温かい微風がふいているからだ。この講師の話を聞いていると、
その絶望的な話は不変であった。 2~3年以内のクラッシュも、あながち有得ない話ではない。
ー印象的に残った部分を列記するとー
・金(ゴールド)など現物に替えておけ、グラム6000円も有得る(現在2000円)
・ハイパーインフレはもう始まっている
・銀行閉鎖も最悪の場合ありうる(その場合は貸し金庫も閉鎖される)
・金利が5~10?を覚悟をしておいたほうがよい
・日本はアメリカの植民地国家
・三井住友銀行の貸し手に対しての、脅しもどきの取立て現場の生々しい話
これからの日本の混乱の生々しい予測と現状の内容である。 現在は明治維新時、第二次大戦の敗戦時、と同じ有事の時。
それを明確に意識をして、ことに当たるべきだという。思い切った決断しか、これからの時代は生き残れない!ということか。
私が感じているより、遥かに事態は深刻のようだ。日本は、これから何処に漂っていくのだろうか?
「日本という国は、潰れない。ただ、国民の財産を根こそぎアメリカ資本に持っていかれるだけだ!
 その防衛は、それぞれの自己責任で防衛するしかない!」が印象的であった。   ー つづく    ε(´',_c')зβyё        
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2005年04月27日(水)  
 1485, 24歳の日記ー3
 3月31日 1970年
昨日、最終的に実家の会社の一員になることが決定した。恐らく三年後あたりが目途であろう。
それまでに、自分の力をつけなくてはならないのだ。もう許されないのだ、いい加減な姿勢は。
息苦しい感じがしたが、それでもハッキリとしたものが見えてきた。これからは、衣料店だけでなく他の事業も
考えなくてはなるまい。もう、サイは投げられたのだ。これから大事なことは、「自分を自分の相談相手にすることだ」
この時期は二度とない大事な時期である。足元を見つめなおして一つずつこなしていかなくてはなるまい。
ー私の現在思っている言葉の定義を、そのまま書いてみようー
・「贅沢」とは、他人の目を意識をして、そのために意識や金や物を使うことなのか。
・「生きがい」とは、自分の価値を明確にして、その追求をするプロセスの一瞬に感じる満足感
・「言葉」は大事な要素である。しかし、それは行為にあとに出てくるもの。
 その行為は、生きた言葉、生きた人間そのものである。
・「神」とは、真善美の理想形として人間が創りあげたXである。
・「真」とは、ものごとの本筋・本質をいう。
・「決断」とは何だろうか?その裏づけになる理論と、その後の行為が肉付けされて達成に至るものだ。
・「善」とは、道徳のいや、価値の側面である。道徳は社会の中の規範であるが、その社会の規範は過去のものでしかない。
・「誠」とは、裏切りを知りながらそれを乗りこえて生きることである。
・「美」とは、美を感じる心が無くては。美を感じる心とは、対象のバランスを
  自分の中のバランスとして受け入れる感受性である。それは、真善においても同じだろう。
・「克己」とは、自分の壁を乗り越えること。人に勝つ前に、自分に勝たなくては!
・「価値」について、それぞれの社会の固定化された欲求?
 それとも目標? 外部に価値を見出すべきではない。そうなった時は自分に迷いのあるときである。
・「力」とは何か、人間がただ頼れる一つのエネルギー?
 今の自分は自分自身を信じて自分の足で立つことだ! 見えない未来に向かって。    おやすみ!
 ー2005年4月27日5時半ー 記
 よくぞまあ、35年前にこんな難しい?ことを書いたものだ。 難しいことというより自分の頭の中の言葉を引っ張り出して
 曝しているのが有効である。深くは考えないで、その時に気ままに日記に書いたものだが言葉の重要性に気づいたのだろう。
 この一年で情報と言葉の「切断」の重要性にも気づいた。カレーライスをつくるのにそれぞれ素材を目的に合わせて切断する。
 情報や言葉も同じであることに。この一年ほど、自分の一生にとって有意義な年はなかった。
 一見、無駄に見えたが基礎の再構築だったようだ。常に社会と一線を引くスタンスが、この一年で身に付いた。
 姉夫婦が、小さな城下町の価値観の世界を全世界と信じて疑ってない姿を身近で観察できたこともある。
 内海にいる魚は海そのものがどういうものか知ることがない。陸に上がって海そのものを見ることができない。
 まして、自分が内海にいることも知らない。 人間全てにいえることだが。
 ・・・・・・・・
 2004年04月27日(火)
 1120, 「ライフ・レッスン」ー7
  ー時間のレッスンー
・時間のなかで、すべてのものは変化する。内面も変わり、外面も変わる。 外観も、内的自己も変化している。
人生はたえず変化をつづけているが、ふつう、変化を好まない。それに抵抗しようとする。そうこうしているうちに、
周囲の世界のほうが変わってしまう。変化の速度は、かならずしもわたしたちの内的速度と一致しているわけではない。
たいがいは早すぎるか遅すぎるか、である。変化とは慣れ親しんだ状況に別れをつげて、不慣れな状況に直面すること。
あたらしい状況そのものでなく、そこにいたる間の時間に不安を感じることもある。
「一つのドアが閉まっても、別のドアが必ず開いている。・・でも、それぞれドアにつうじる廊下にいるときが、いちばんつらい」
変化はたいがい、ドアがバタンと閉まってしまった場合始まる。先が見えなくなり、人は不安な時間を過ごす。
  (字数の関係で中略2009年4月27日)
ー感想ー
「時間がすべてを解決をする」ということを長く生きてきた人は誰でも実感することである。だいたい深い傷でも3年が目安。
ただし、深いところで自分で手当てをしておかなくては後々まで引きずるが。振り返ってみる時、時間と供に自分も
変わっていくので、客観的にその変化をみることができる。時間が経つと同時に、何が大事で何が大事でないかもみえてくる。
冷静に屋上の上から見ている自分が「魂」である。その時々に思い悩み、笑い楽しんでいる感情が「心」といってよい。
時間と供に魂の目を、その時間に伴って上方に上げてくれる。ただ今日、今という時間に意識を集中しなくては
魂は上方には上れない。一期一会とは、すべてにいえることである。
・・・・・・・
2003年04月27日(日)
 753, 孤独について考えてみた
 自分の強みは何だろうと考えてみた。「孤独に強い事」である。あまり人といなくとも平気である。
若い時の都会の生活や勤めの時代に鍛えられたことと、8人兄姉の末っ子だったこともある。
一人でいつも遊んでいたという。創業を独りで何回か経験をしてきたのが、さらに孤独の訓練になった。
孤独をポジティヴに前向きにしなくては、無から有は創れない。青年期はそれほど強くはなかった。実際は空元気であった。
「孤独を恐れるのは、ひとりそのものではなくて、孤独であることを責める自分の中の内在化された他者の声である。
それが多くの人の心を責めさいなまし、安らかな心を破壊してしまう・・・」とある本に書いてあったが、
私の場合そのような内在化された他者の声は全くない。独り事業を何回か立ち上げてきた為に内在化する余地が
なかったのだろう。それと行蔵が整理?されていたこともある。幼児期に両親や姉兄に愛情をそそがれた事が大きい。
 日本というのは孤独を白眼視する、同調的で画一的、群れや集団に属さないことを忌避する、個人が自立できない
幼稚な社会である。これは仏教と島国が長年の間に影響してきたのだろう。現代のように人から嫌われることを極度に恐れ、
他人に従順になりすぎる大多数の人には、逆に「人から嫌われる強さ」が必要である。群れていれば安心している輩があまりにも多い、
まあ如何でもよいことだが! 孤独をきっちり確立した上で、寂しさを紛らわしたくなったら、そういう場に行けばよい。
独身時期はきっちりとその組み立てをしていた。居酒屋に行けばいくらでも、癒してくれる店主やママや飲み仲間がいた。 
本当に孤独に対して訓練されてない人が多い。そういう人が仲間になって群れてしまうから更に悪い。
今回の青年会議所仲間同士の殺人事件など、そこがバカや低脳児の集まりの場でしかないことの証明でもある。
本人たちは全く気がついてないのが哀れである。仕事の手段として群れているつもりだろうが、手段が目的にすりかわってしまうのだ。
手段の遊びが、目的になってしまうのだ。 過去を考えると他人事ではないが!??
ー孤独を失った時の損失を考えてみると
 ・独創性や創造性であり ・夢や目標や目的の喪失であり ・自我の確立であり、また自己の心の成長であり
 ・自分らしさや個性、独自性、心の自由、行動の自由、趣味の自由などである
群れや際限なき仲良しゴッコはそれを補ってあまりあるものなのか疑問である。たえず友達や仲間といっしょにいる人は、
群れの奴隷となり、自分を失っている。私の嫌う子狐があちこちで群れているが、「和して同ぜず」ではなく、「同じて和す」
ということ。その「同じる」が恐ろしいのだ。「個性個性、孤独孤独といって石のカタチの違いこそ大事だといっても、
所詮は砂利は砂利でしかないのに、解ったことをぬかすな!」という心の奥の声がする。
・・・・・・
2002年04月27日(土)
 389, どういう時代に?
  今年来年はどういう年になるだろうか?
・今年はブロードバンド時代の新しい形が、製品や社会現象で新しい形で出てくる年である。ー孫正義
 携帯TV電話、液晶TV、BSハイビジョンTVなどの普及
・何を発信できるか、するかの時代になってきている。ー堺屋太一
 ホームページは発信の窓か
・嵐の年、そして来年もビッグバンを間接原因にした倒産の嵐、失業の増大 
 身近に失業者や倒産廃業が増えてくるデフレの進行 
  (字数の関係でカット2011年4月27日)


3683, 自己を見つめる −7

2011年04月26日(火)

          「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  昔ほど、生甲斐という言葉を言わなくなったが、そのかわり、「好きなことを見出し楽しめ」というようになった。
 生き甲斐は、それなりの覚悟と追求のエネルギーを要するが、「好きなことはを楽しむ」には、それほどの重さはない。
 生き甲斐について、著者は以下のように納得できる説明をしている。
  * 生き甲斐の探究
【 私たちは、この世の中を生きるとき、なんらかの形で、生き甲斐を求めている。生き甲斐のない人生を好んで求める人は、
 考えることができない。 生きるということは、みずからが、そこに意味を見出し、なんらかの有意義性の成り立つことを
 信じることのできる道程を発見して、そこに自分の人生の基盤を据えて、自己の時間的な生成過程と、振幅を含んだ多様な遍歴の道を、
 辛苦や労苦を越えて、歩み進もうとする覚悟にもとづいて初めて成立する。 それを可能ならしめるものが、生き甲斐にほかならない。
 むろん、その生き甲斐という問題は、さまざまな局面を含んでいて、けっして単純ではない。 けれども、生きる意味を信じ、
 自分の人生を肯定できる道程を発見し、そこで自分の人生の充実を図って生きる、という構造を含まないような人生設計や
 人間活動というものほ、人間の生き方として、考えることができない。意味や有意義性は、ディルタイがすでに指摘したように、
 私たちの生を構成する最も基本的なカテゴリーなのである。 そうした生き甲斐とは、それを最も強い形で言い表せば、
 自分の死に場所を発見することと同じだと言えるであろう。 その道を突き進んで、その果てに自分はもう死んでもよいと
 言えるような生き方とその内実を発見したときに、その人は自分で自分の人生の充実を図って生きる、こういう構造を
 含まないような人生設計や的活動というものは、泰然自若、自己であることに安らうはずである。 たしかに、
「人生、いたるところに青山あり」、である。しかし、ほんとうに死んでもよいと思える場所と生き方を、最終的に見出すことは、
 けっして容易ではない。何人も、迷いを免れがたいからである。けれども、人間は、最後には、自分を捨て、
 そこに自分を埋めてもよいと覚悟できる人生の住処を求めている。】
  〜〜
  「生き甲斐とは、自分の死に場所を発見することと同じ。その道を突き進んで、自分はもう死んでもよいといえる生き方と、
  その内実を発見したときに、泰然自若、自己であることに安らう」は、納得する。 本当に自分の好きなことを見つけ、
  全霊を傾けて自分のエネルギーを叩きつける時に、生甲斐が生じる。 それがない人生は、空虚な喪失感が付きまとう。
  しかし生甲斐は、そう簡単に得ることはできない。極限の中にこそ、生じてくる。生甲斐を感じているときが、自分の心の芯に
  いる時であり、自分である時である。家族の為に我を忘れて必死に働いている時にこそ、振り返ってみた時に、生き甲斐を
  見出すのである。そこには、意味も意義も充分にある。 全身全霊をかけて対象に取り組んでいる中に生き甲斐が生まれてくる。
・・・・・・・・
3318, 悲しみ、苦しみは人生の花
 2010年04月26日(月)
 「悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花咲かせ、楽しむことの発見、
  これはあるいは近代の発見と称してもよろしいかも知れぬ。」これ坂口安吾の言葉である。
 それなら喜び、楽しみは果実というところか? 60数年の人生を振り返り肯定的に眺めれば、そうかもしれない。 
 私の実感は、悲しみ、苦しみ人生のレッスン=学びである。 近代の発見とは、目標の発見と解釈できる。 
 また花咲かせるとは、目的、目標の達成である。 目的達成のプロセスこそ人生の花というのも肯ける。「花も嵐も踏み越えて」
 という歌の文句があるが、人生とは挫折を乗り越えてこそ、その先の喜びも大きくなるもの。「悲しみ、苦しみは人生の花!」は、
 なかなかいえない言葉だからこそ、心に響くのである。 自分の子供に先だたれた親に、この言葉が当てはまるのだろうか。
 それも運命と割り切って受けとめることも人生なのだろうか。 「災い転じて福と成す」これが人生の真髄というが。
  大きな時代のウネリの中でこそ、味わいたい言葉である。 過去を振り返ると、一番のどん底の時ほど、周囲の人の苦しみや
 悲しみに対して鋭敏になり、優しい言葉をかけていた。 その時ほど多くの人と心が通いあっていた。 言い換えると
「どん底の時期は人生の花の時期」。「一番苦しかったけれど、一番楽しい時だった」と、気づくかどうかである。 
 私の場合は「人生、面白かった〜!」が実感だが。「喉ぼと過ぎれば熱さを忘れる」で、それなりに人生、色いろある。
 「人生、当たり!」と自己暗示するしかないか〜 
「悲しみ、苦しみは人生の花」と、心の底から思えたら、それは一種の悟りだろう。   あれが花?
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2943電動式ステッパー
2009年04月26日(日)
 スーパーやホームセンターで、「自力式のステッパー」を見ていたが、知人が毎日使っているが、非常に良いとは聞いていた。 
ところが電動式ステッパーを家電店でみつけたので売り場で使ってみたが、なかなか良い。 足の部分が勝手に動くものだが、
しかし13万円もする。数ヶ月前に電気ウエーブ・マッサージを見つけたが、12万円もする。そこでネットで廉く小さいのを探したら
1万4千円のものがあった。さっそく買って使っているが、これが大当たり。 朝晩使っているが腰と胃腸と血流に非常に良い。 
 それなら電動ステッパーも廉い簡易式のがあるはずと「電動ステッパー」と検索を入れたら、アマゾンやビックカメラのネットで、
29800円のものがあった。さらに価格ドット・コムで調べたら最低価格が7665円(送料別)があったので、さっそく注文した。
   (字数制限のためカット 2011年4月26日)
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2579, 連鎖する大暴落 -2
2008年04月26日(土)              (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
 サブプライム問題は、予測できることであった。だから、逆張りも出来たはずだが、それも振り返ってみればの話。
オバマが大統領になると断じているところが面白い。民主党は(クリントンは新鮮味がないので)オバマとしても、
共和党のマケインとは互角だろう。しかし民主、共和党が10年ごとに交代することに話がついている、というのも肯けること。
この本の通り、日本がアメリカの属国と割り切ってみると、日米関係が改めてシビアに見えてくる。
世界中の物資を、ドル、アメリカ国債などの紙切れの偽札モドキで交換しているに過ぎない。
特に日本などは、それで高い兵器を言値ねで買わされているのだから哀れなもの。この本を読むと、ドルが60円台、
株が3000ドルも、なんら不思議ではない。ー前著同様に、この目次だけでも内容が充分に要約されている。
[目次]
第1章 私の予言はなぜピタリと的中したか
 ・サブプライムローンの破綻はすでに2007年の5月にははっきりしていた
 ・アラン・グリーンスパンFRB議長は2005年に警告を発していた 
 ・ニューヨークもこれから三ヶ月ごとに大暴落していく
 ・返せそうもない人々に無理矢理お金を貸し付けたのがサブプライム  
第2章 大暴落がこれから3カ月ごとに襲い来る
 ・専門家と称する詐欺師たちが金融の八百長をやってきた
  (字数制限のためカット 2011年4月26日)
・・・・・・・・・・・
2007年04月26日(木)
2214, 中国人移民の話       <(_ _)>  オハヨウゴザイマス            
 去年、新宿周辺を知人の車で案内してもらった時、青梅街道などに韓国人商店街や、中国人商店街が出来ていたのには驚いた。
アメリカをはじめ、何処の国の首都には中国人街がある。 朝鮮人街も時には見かけるが、日本人街は殆ど見かけない。
中国人街を見るたびに、中国人の海外居住者は何人いるのだろうか?という、素朴な疑問を感じていた。
 ー先日の毎日新聞に中国人の移民の記事があった。
 それによると、海外在住移民の数が3500万人!  こんなもの?と思ってしまった。
 シンガポールや、インドネシアが果して入っているかどうかは、この記事には無かったが。 
総国民の3%が多いか、少ないかだが。「イタリアのミラノ市で、移民と警官隊が衝突」という見出しであった。
これによると、ミラノでは1平方?の地区に500軒以上の店がひしめき、20年前の500人のミラノ在住中国人が13000人と、
26倍も膨れ上がったという。イタリア人は欧州でも働かない国民性で、中国人の「勤勉・活気」に妬みと軽蔑の気持ちが強く、
互いの軋轢が出てきている、という。 その横の関連記事として、中国人の移民の実態のレポートがあった。
その内容を要約すると、
・大陸出身中国人は、151ヶ国に3500万人             ・2000年から2005年間だけで、アメリカへの移住者が35万人。
・カナダ在住中国人は1988年の3万人から、2002年に30万人に激増。 ・日本では、韓国、フィリッピンについで28000人
・観光などの旅行により中国本土からの出国者は昨年で3450万人で、2001年の3倍近く拡大したという。
 旅行先では、「世界中には、何処にいってもネズミと中国人はいる」と言われていて、飲食街では殆んどの都市で
中華料理店を見かける。それが、また美味しい店が多いの。(日本料理は外れが多いが、中華料理店は外れは少ない)
いずれにしても、世界の人口の2割を占めていて、バラバラの国民性が携帯などでネット化すれば、侮れない存在に
なっていくだろう。人口が多いほど、個人の存在が小さく思われがちだが、逆に個性的でなければ、生きていけない。
没個性的な日本人とは、相性が悪いのは致しかたがないことである。     Σ( ̄∇ ̄|||  バイ!           
・・・・・・・・
2006年04月26日(水)
1849, ローマから日本が見える?6      ≡≡≡⊂[ォ][ハ][ョ][ゥ]っゝд・)っ
第三章 共和制は一日にしてならず
 ー王から執政官へー
紀元前509年、尊大なタルクィニウスを追放し、王政を廃止するに至った中心人物はルキウス・ユニウス・ブルータス。
これより460年後にカエサルを暗殺したマルクス・ブルータスとは血縁は全く無い。王を追放したブルータスは、ローマ市民を集めて
「今後一切、ローマ人はいかなる人物であろうとも王に就くことを許さず、いかなる人物もローマ市民の自由を侵させない」
と誓わせた。ーここからが面白い!ブルータスが考えたのが、「執行官」という最高指導者である。
王と同じく、市民集会で選ばれて、ローマ内政の最高権力を握ると同時に、有事では指導者として軍隊を率いる。
とはいえ、アメリカの大統領とは違い、当時は実際に最前線で指揮をとるのが常であった。このような大きな権力を与える一方、
執行官が将来の王にならないように歯止めをかけた。その制度とは「執行官はかならず市民集会によって二人選ばれ、
その任期を一年とする」ということであった。これでは王のように振舞えないと考えた。 しかも、執行官を二人にすることで、
更に保険をかけた。二人の執行官には上下がなく、それぞれに拒否権が与えられていた。 しかし、これには弱点もある。 
任期が一年なので、長期の政策ができなくなる。そこでブルータスが考えたのが、元老院の機能の強化であった。
100人の元老院を三百人に増やした。 当時、三百人まで増やすということは、殆どの有力者を網羅することになった。
                   まあ、茶でも!~~旦_(-ω-`。)
 ー「ノブレス・オブリージュ」ー
 著者の塩野は、ローマ帝国1000年を支えた根本は「ノブレス・オブリージュ」だったと強調している。
 ローマの貴族は社会的責任を負わなければならないという考えが強かった。戦争が起これば貴族は率先垂範して
 最前方に出て戦い、公共の利益をためには貴重な財産を社会に快く提供したという。ローマの元老院は真の意味で
「貴族精神」の持ち主であった。「知性ではギリシャ人より劣り、体力ではケルト人やゲルマン人より劣り、経済力では
 カルタゴ人より劣っていたローマ人が、永らく巨大帝国を維持できた原動力は社会指導層の役割だった」と主張した。
    辞書にはノブレス・オブリージュの意味を
  ・身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。
  ・高い地位や身分に伴う義務。ヨーロッパ社会で、貴族など高い身分の者には
   それに相応した重い責任・義務があるとする考え方。
  ・もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意とある。                      (´Д`;)/ヽァ・・・
ー「リキニウス法」の驚くべき内容ー
 紀元前367年といえば今から2373年以前。日本は歴史以前、中国では戦国時代に入ったばかりの時期に、
ローマ人が成立させた法律「リキニウス法」。この法律でローマは国政の中枢に貴族の賛成の上に平民を受け入れを決定。
(流血もなく平民の受け入れを決めたのは驚くべきことである。)この目的は貴族と平民の対立の解消にあったにせよ、
この改革は英断であった。その賛成をした大部分が元老院の大多数を占めていた貴族であったから、尚のことである。
それも彼らが選んでのは「全面的な開放」という道であった。つまり、共和国政府のすべての官職について、
貴族であろうが、平民であろうが、ローマ市民なら誰でもなれるようにした。「機会の平等」という他にない。
平民と貴族の結婚さえ合法化されたのである。ローマ人は、30年前の紀元前404年にアテネがスパルタに
敗れさった事実を見ていたからだろう。この事実が、[[近現代史の教訓」として強く刻まれていたからである。
当時のトップランナーであったアテネが民主主義の暴挙を許したがゆえに凋落してしまった姿を見たためだろう。
 ーーーー
 果てしない戦いの中で『共和制』の体制の基盤を作っていったローマは、『機会の平等』という民主主義と自由主義に
 似た考えに辿りついたのだろう。指導者に「ノブレス・オブリージュ」を失えば、その国は滅び去るしかない。
 どこかの国にもいえることだ。いや組織にも!              ーつづく 
・・・・・・
2005年04月26日(火)
1484, 24歳の日記ー2         
  ー1970年3月22日
朝11時に、実家の店に手伝いに行き、17時まで手伝う。よく売れるのに驚かされる。
今日、大鵬を見ていておどろいてしまった。再起不能といわれながら、努力で再起をして優勝をしたのだ。
ただ驚きである。人間の一番美しい姿を見せてもらった。今日、一年の設計図の大枠を考えるつもりが何も考えられない。
どうしたことか、例の手紙のせいか気持ちが揺らいでいる。明日は病院に行って、精密検査をしなくては。
ー3月23日
午前中は、病院で検査である。 午後は設計図を書いたが、いい加減である。
早々簡単に書けるわけがないが。 焦りだけあって、何もできないのだ。 こういう時間をもらっていながら、
何もできないのが情けないが。といって時間だけは過ぎていく。一日一日、一歩一歩、歩むしかない。
走ろうとしても無理、歩くしかないのだ。自分と直面して解るのは自分の甘さと、いい加減さである。
ー 3月30日
今朝、急に父が8時半に居間に集まるように言われた。両親に、家の裏に住んでいる姉夫婦、兄の三郎、そして私である。
遺言の内容の言い渡しという。 急なことで全員が、吃驚する。
ー内容の概略は以下の通りであるー
 (字数制限のためカット 2010年4月26日)
・・・・・・・・
2004年04月26日(月)
1119, 北朝鮮の怪?
 今回の北朝鮮の大爆発の事件,何か不可解な事件である。数百メートルが瞬時吹っ飛んでいたのに、
どうして電線から引火をしたのが解るのだろうか?組織的な大掛かりのテロ?TVで「近くの中国側の街での噂で、
今回の事件は暗殺未遂といわれている」とか、「金総書記が通過する近くに、危険物を乗せた貨車があること自体不自然だ」とか、
報じていたが、異常な事件であることは間違いはない。北朝鮮は単純なミスと報じていたが、そんなわけがない事件である。
NHKでも、阪大の爆発物の専門の教授が出てきて「電線から引火は考えられない、爆発物によるものと考えられる」
と言っていた。中国から近い駅というと、アメリカのCIA?がとも想像してしまう。北朝鮮そのものが、援助目的の窮余の一策
ともいう仮説は少し無理がある。状況からみたら、軍部のからんだ大掛かりな暗殺未遂のテロとみるのが自然だろう。
これから、いろいろな情報が出てくるだろうが。スターリン型の国家が隣国に存在していること自体信じられないことだが。
現在の北朝鮮にピッタリの事件に思えるが、いつも犠牲になるのは一般大衆である。
・・・・・・・・
2003年04月26日(土)
752, SARSの不安
 もしアルカイダーか北朝鮮のテロなら!と考えると、背筋がゾッとする。
発生源が特定しているからまだよいが、そうでなかったらテロと疑われパニックになるところであった。
単純な自爆テロなら、その範囲で済むが、火薬を細菌に置き換えたテロを彼らが始めたら大変なことだ。
 中国の香港や広東州からばら撒くのが、世界恐慌を狙う彼らからみた時に、一番効果的である。あまりにも
TPOSがよすぎる疑問が残る。もしアルカイダーの立場なら、自分を感染させてアメリカとか日本に行くのが効果的である。
(字数制限のためカット 2011年4月26日)
・・・・・・・
2002年04月26日(金)
388, 温度差
3~4年前の将棋の米長棋士の講演会で聞いた話だが、丁度北海道拓殖銀行がつぶれた直後で彼の講演がそこの主催で入っていた。
当然のことながら急遽中止なった。急なことで時間もとっていたし、飛行機の切符も送られてきたし,他の人との予定も
入れていたので、そのまま行ってきたという。それと札幌の雰囲気がどうなっているかみたかったという。
飛行場からのタクシーの運転手に話を聞いて思わぬ内容に耳を疑った。北海道中、特に札幌の道民は内心皆、喜んでいるとか。
彼らは北海道では超エリートで、威張り尽くしていた。永年のその鬱憤が一般の中に蓄積されていた。
確かに北海道経済にとってマイナスで、喜んでいられないが、道民感情は拍手喝采だという。
そして数日札幌滞在中、会う人全員がそういっていたという。これは実際現地に来てみなくては解らない情報である。
彼が言いたかったことは、実際マスコミに流れる情報と、そこの情報の差である。
「何事も現場の声を実際聞いてみなくてはわからない」ものだという事だ。反面ITの時代は、
こういう情報が瞬間流れてしまう。「それにしても、あれは何だったんだ?」ということだった。
そこまで嫌われる理由は?マスコミはこういう情報は間違っても流すことは出来ない。
こういう情報は現地で直接しか聞けない。どこかの県市でも、同じことが生じている。
気がつかないのは当事者だけ、破綻したときそれが表面化する。何処かの城下街のそれは時間の問題という。
リストラにあった元管理職や街の中から?? という話が生々しく聞こえてくる。


3682, 節目どきに ー10

2011年04月25日(月)

  * スポーツジムなど行ってみるまでは別世界だったが!
 スポーツジムに通いだして三週間になる。行くまでは別世界と思っていたが、今では生活に組まれた日常になってしまった。
ジムのシステムで、色々なプログラムがあって自分にあったものに参加出来る。 その一つに「イージーライン」がある。 
6つの機器を円座になって12人のメンバーが参加、輪の真ん中にインストラクターが音楽に合わせて全員を誘導していく。 
一つ置きにステップ台があって、大手を振って上がったり降りたりして息抜きをする。25分間が一コースだが、
これをベースにして、ランニングマシーンや、他の機器を使う。 最後は小さな暗い部屋に6台ある電動マッサージの一つで
30分ぐらい疲れをとる。 他にもプールや風呂もある。 私の場合は滞在時間は90分である。 そこに行ってきただけで、
気晴らしになる。私が選択したのは「金曜日が休日、日祭日は参加できないコースで、時間帯は10〜17時。その時間帯なら、
何時間もいてもよい。30坪位のサロンもある。 金曜と日祭日は、車で5分ほどの近くの市営スポーツ施設に行っている。
ここは三ヶ月で1800円。昼時には数人しかいないのがよい。とにかく、健全な日常を維持しないと! 
  * ウォーカーの数が激減
 晴れている日には早朝、毎日、信濃川の土手にサイクリングに行っているが、ウォーカーの数が激減している。
初めは気のせいかと思っていたが、そうでもない。 原発事故による放射能に対する警戒のためだろうか。
ウォーキングでこれだから、行楽が大打撃になるのは仕方がない。ホテルは、どの業態も惨憺たるで、私も早々見切って倒産した。
特に温泉街が酷いとTVで騒いでいる。 あの草津温泉では95パーセントがキャンセルで、死活問題になっているとか・・
「新潟の月岡温泉の一番大きいホテルは二棟のうち一棟が休館。オープンしている棟も、一番上の階しか電気がついてない」とか、
「長岡の奥座敷の蓬平温泉街は、客がほぼゼロ」、という噂が漏れ聞こえてくる。日本国家始って以来の危機の一現象である。
  まだピンときてないのが日本の平和ボケした大部分の人だけ。まだ、他人事としてしか受け取ってない?
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3317, つれづれに ー閑話小題
 2010年04月25日(日)
  * 無理をするな、素直であれ! か〜
「無理をするな、素直であれ。すべてがこの語句に尽きる。この心がまへさえ失わなければ、人は人として十分に生きていける」
は、種田山頭火の言葉である。 この年になってこそ、その意味の深さが理解できること。それが許されない事態が
次から次へと起こるのが人生である。で、最後に落ちついた時に、この言葉が出てきて、そして一人納得する。
これを真正直にして生きればホームレスか、引きこもりになる可能性が高い。現に山頭火は放浪の乞食。
私なら「自然体で、力まず、目を逸らさず、真正面に向き合うこと、それも正直に」と言うところか。
 * 人生は放浪
 山下洋輔がいみじくも言った「旅とは帰ってくるものだ。だから、人生は旅だ、などという言葉がぼくには分からない。
どこに帰っていくというのだろう。むしろ、人生は放浪だ、といってくれたほうがよい。帰るあてがなく、行きっぱなしだ。」
 還暦を過ぎると、この言葉が身に沁みる。 自分に植え付けられている死のイメージが虚空に帰すからだ。 
死んでしまえば、それまでよ」と口癖だった父の言葉を思い出す。 引越し先では、全てを忘れる当てのない引越し
 * 人間原理とは
 ーウィキペディアによると
《 人間原理とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。
"宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから"という論理を用いる。
これをどの範囲まで適用するかによって、幾つかの種類を見つけることができる。 
人間原理を用いると、宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈できるが、
これを自然科学的な説明に用いることについては混乱と論争があり、未だ多数には認められていない。》
 何か無理があるように思える考えである。人間原理の人間を自分に置き換えてみると分かりやすい。
もっとも、優秀な奴は、これに近い自分原理を持っている。 それが自分のステートメントだが、
人類が、自分に当てはめると一神教みたいになってしまう。
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2942,閑話小題
2009年04月25日(土)
 * 県内景気 最悪の雨
財務省の新潟財務事務所が今年の1〜3月期の県内経済情勢について「一段と悪化しており、厳しい状況」と
総括判断した、報じていた。7段階で景況感を示す天気マークも2003年来マーク導入後に初めて最悪の雨に引き下げた。
全国的にも「悪化し、厳しさを増している」と判断し、去年の10〜12月の「全国的に悪化している」より、一段引き下げた。
全国を11地区に分けた10地区までが前の四半期より一段引き下げ、景気の悪化を示している。
 ここで何度も何度も書いていることだが、飲食、宿泊、タクシーは、一番敏感に反映する商売である。
日ごとジワジワと真綿で首を締め付けられるような感がしている。数日前に、ダイエー跡の大型専門店「ラブラ」の
地下にあるジャスコのスーパーに行ってみた。火曜日が特売の日で、主婦で賑わっていたが、何処を見ても100円前後の
特売ばかりが目立っていた。それも小手先でなく、本気で価格を引き下げているのが肌で感じ取ることが出来た。
デフレとは、こういうものかと、ただ驚いたが、
そういう駅前近辺のホテルも、ネットを通して乱売が始っている。2千円代半ばまで値段が下がっている。
そのネットからの顧客が25パーセントにまでなってきているのだから、堪ったものではない。
 〜〜
* 柏崎刈羽原発が、5月連休明けに再開だと?
  (字数制限のためカット 2011年4月25日)
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2578, 連鎖する大暴落 −1
2008年04月25日(金)
『 連鎖する大暴落 』 副島隆彦著  読書日記
 この本は「ドル覇権崩壊」の続編といっていいが、決して劣ってない内容である。恐らく、この二冊で著者の論が
見直されるだろう。ジュンク堂に行ったら彼の本が十数冊あった。どれも悲観・際物的な内容だが、「ドル覇権の崩壊」が
具体的になった現在になれば、どれも納得するしかない。欧州はイギリスのロスチャイルドが19世紀を支配し、
20世紀になってアメリカのロックフェラーが石油を背景に世界を支配。
  (字数の関係でカット09年4月25日)              つづく
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2007年04月25日(水)
2213, 白い雲に乗って ー3    (・_・) ノ オハヨウ!
お風呂に入った直後の22時過ぎにクラッシック音楽を聴きながら就寝する。就寝30分後に爆睡を4〜5時間した後、
午前の3〜4時に一度目が覚める。そして冬時間の起床時間が5時半、夏時間は5時に起床する。起床前の2時間が
半睡状態の時間になる。その時間が、ある意味でゴールデン・タイムになる。夢をみたり、夢と現実の塀の上を遊ぶ?のである。
以前、書いた「白い雲にのって」は、半覚醒で子供時代に立ち返った内容を書いた。夢のような、魂の故郷を漂った白昼夢の
世界の描写である(いや白朝夢か)。白い雲に乗ったイメージで当時の思い出の世界に入ると、記憶がドンドン出てくる。
脳の奥行きの深さに驚いてしまう。ある意味で夢と同じぐらい深い脳の領域に思える。50〜60年前の赤ちゃんから
幼児の記億の世界は、魂の世界。殆んど忘れてしまった、古い古い記億の痕跡への旅である。
立ち返って気がついたのは、それからの人生の激しい時代の記億より、ず〜と刺激の強い世界の思い出である。
白銀色の毎日が新鮮な経験のシャワーを浴びているようで、愛情に包まれた夢のような日々であった。
ドラマをみているような、自分そのものが舞台劇の小さな子供の役者を担っていた。初めての大きなショックが、
柏崎の親戚の近くの海を初めてみた時である。それまでは近くの公園の池しか見たことがなかった。
海のコバルト・ブルーを見たときの驚きは現在でもはっきり憶えている。それと、舟と漁師の姿と磯のカオリも記億に鮮明に
残っている。よほどショックだったのだろう。ところで、私が生まれたのは第二次大戦の終戦の5ヶ月後の1946年1月15日である。
越後長岡の東神田で産湯をつかり、長岡駅から100?先の繁華街の四つ角の大手通の四つ角に三月後に戻ってきた。百日風邪になり、
「もしかしたら駄目かもしれないと医者に言われた」と父は口ぐせのように言っていた。
私の名前は八人兄弟の末で「八郎」というが、実際は九人目で、もう一人2歳で亡くなった兄がいた。 
父が42歳、母が38歳の時の子供である。そのためか、特に父親にはペットのように特別愛されて育った。 
16歳、14歳、年上の兄と、その下に姉が4人、その下にすぐ上の兄がいて、最後に私という構成であった。
(2~3歳違いで、双子、年子は一人もいない)終戦直後で両親は大家族の生活維持のため人に、一倍働かなくては
ならない条件があった。産まれてから10年間の長岡の繁華街の真ん中の生活は刺激の強い環境にあった。
東神田から大手通に連れてこられた生後三ヶ月後の記憶が残っている。リンタクに乗せられて、大手通の家に行った記憶である。
そこでは、「福ちゃん」という喫茶店をしていたが、一年もしないうちに止め、衣料品店に転業をした。
そして2歳になった頃に、その店兼住宅を丸太を下にいれ、転がしながら、近くの公会堂の前に引きずっていき、
仮店舗を開きながら4F建のビルを建築した。 個人名義のビルは国内で始めてと市役所で言われたとか?その記憶が一つ一つ
記憶として残っている。人生を振り返って一番楽しい日々といえば、10歳までの大手通のビルの立ち上げから、店の開店、
そしてそこで起こった悲喜交々も日々だった。 本当に刺激的な日々だった。
                                    ヾ(@⌒▽⌒@)
ーーーー
2007/02/18  
 2147, 白い雲に乗って ー2    b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
先日のつづきの夢をみた。半分は覚醒をしていたのかもしれない。前回の夢が契機になって当時のイメージが
ドンドン出てくる。如何いうことなのだろうか?それは57年前の世界そのものである。
その世界から此方をみている感覚と、此方の感覚の間にある塀の上での微妙な世界に立っているようだ。    
ーー
白い雲に乗って再び、その世界(4歳)へ行ってきた。そこは前回よりリアルな当時の世界があった。
中央保育園の面接があるというので、目新しい服を着せられて、母の手に引かれて「同じぐらいの小さい子が多くいるところ」
に行った。そこは家から10分ほど歩いた小さな小路にあった。面接のオジサンがニコニコしながら、色々なことを聞いてきた。
母に前もって聞いていたので、驚くほど上手く答えた。 恐らく入れるだろうと思った。家(店)に帰った後、三輪車に乗って
前の安栄館というビルの同じくらいの友達のところに行った。最近できた大きなビルのところの子だ。何か遊んでいると楽しい!
その数日後に場面が変わり、幼稚園の合格のしらせがきた。手紙を待っていたが、何時までたってもこないので、
お母さんが「落第したのかもしれないけれど、そんなことがないはずだが・・」と言う。
ガッカリしていたところ、合格の葉書がやっと届いたが、凄く嬉しい。クリスマスの飾り付けのため、二番目の姉の恭子と
近くにツリーの飾りを買いに二人で行った。大きな雪がフワフワと降っている。ツリーに吊るす色いろなものを二人で選んだ。
小さな家とか、星とか、動物とか、人形などがあった。それを袋一杯に買って家に帰って3Fの食堂で飾り付けをした。
ラジオのクリスマスの音楽を聴きながら、それを他の姉たちと飾りつけた。ツリーの電飾がいやに奇麗だ!
こんな楽しい気持ちは初めてと喜んでいる自分を誰かがみている。あれは誰だろう? 翌日の朝、枕元に箱に入った
サンタの贈り物があった。雪が、ドンドン降っていて窓の下は雪で埋まりそうだ。突如、周りを見渡すと誰もいない
空間になってしまった。何処に行ったのだろう、皆は! 白い靄がかかり、その中で恐ろしさが襲ってきた。
目をつぶって白い布団を被った。目が覚めると、そこは寝室の布団の中であった。   (o ・д・)ツ  バイ!
・・・・・・・・・
2007/02/10  
 2139, 白い雲に乗って ー両親の思い出
夜半に幻想的な夢をみた。小さな白い雲があった。それに乗ると、ふかふか浮いて異次元の世界に引き込まれた。
そこは4歳の頃の世界におりたようだ。すべてが鮮明な蘇った当時の世界が浮かび上がってきた。
両親がいて、兄達と姉達、そして多くの従業員がいた。そこは越後長岡の十字路のど真ん中にある
  当時の私にとって大きなビルの中。一階が店、二階に事務所と倉庫があり、三階に家族の住まいと台所、
四階には従業員と姉達の部屋があった。白銀に輝くファンタジーの中に包まれていた。
三階の住まいに猿のタロー、そしてタマという茶色の猫がいて、そこでラジオから童謡とか歌謡曲が聞こえていた。 
店には若い女店員が多くいて、ぼくを「ハッちゃん」と頭を撫ぜてくれている、正に当時の真っ只中にいた。
コロという生まれたばかりの白黒の小犬を運一・兄が拾ってきた。そして三毛猫のタマとコロがジャレている。 
その空間には何時も緊張感がただよっていた。燕が飛んできて窓に当たって死んでしまった。初めて死をみた瞬間だ。
いやに首の下の赤い色が印象的だ。そこを出たところには大きな通りがあり、多くの人が歩いている。
小さな三輪車で駅の方に行くと右手に小さな公園があり、その脇に池があり小さなスイッカスが水上を泳いでいた。
そうだ、ここは公会堂の裏にある小さな山の上に神社が祭ってある公園である。周りを見渡すと植木の展示会が開かれていた、
多くの植木鉢がところ狭しと並んでいる。その先に大きい広場があった。それは阪之上学校の運動場。
何時も遊んでいる近所の子がいたので声をかけると、スーと消えた。夢をみているのだろうか?いや、夢のはずがない。
ぼくは間違いなく、ここにいる!ズットここにいるのだ。何で、ぼくはズ~ットここにいるのだろうか?
 忘れたが何か遠い遠い旅をしてきたようだ。何の旅だったのだろうか、僕はどこにいってきたのだろうか? 
そこで、無性に悲しくなり大声で泣いてしまった。泣いても泣いても、あの遠くのズット向こうの世界は戻れない!
ぼくはもう、あの遠い世界には返れないのだろうか?ふと脇をみると小さなコロが悲しそうな顔をして、ぼくをみていた。
でも、コロがいたので安心をして三輪車を引っ張りながら家路についた。両親が忙しそうに働いている。
その横で姉達は今度法事で着る洋服を試着して笑っている。その後に夕飯の時間がきて、丁度みんなで食べようとしていた。
父チャンがいて、ぼくもふくめて子供達が8人が勢揃いをしてご飯を食べた。外がいやに賑わしいのでみると、長岡祭りの山車が
次々と通っている。三階の窓から手を振ると、屋台の上から男の人が笑いながら手を振り返した。何かそれをみていたら、
嬉しくてケラケラ笑ってしまった。しばらくすると父親が今日の売り上げを持って、下にある店から上がってきた。
札を十枚ずつ数えて束にまとめて小さな金庫に入れている。嬉しそうな顔をしている。
何か自分が白い雲の中で浮いているような感じがしている。ふと目が醒めると、隣に両親が寝ていた。
あ〜ぼくは、一人ではないんだ!よかったと独り言をいっていた。ここは間違いなく大手通の世界である。
どうして、ぼくはここにいるのだろう!それにしても、それにしても、どうして浮いているのだろうか?     
というところで、目が覚めてしまった。幻想的な遥か彼方の遠い世界に舞い戻ったのだ。
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ー字数の関係で内容をカットしました。
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2006年04月25日(火)
1848, ローマから日本が見えるー5        は(* ̄(エ) ̄)ノろぉ(* ̄(エ) ̄)ノ
                ー 読書日記
少し息抜きで、ークレオパトラは美人だったのか?ー
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2005年04月25日(月)
1483, 桜咲くーつれづれに −2
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2004年04月25日(日)
1118, 寝るほど楽はなかりけり
・・・・・・・
2003年04月25日(金)
751, 不思議-シンクロニシテー
 以前にもシンクロニシティーについて書いたが、また書く。親戚の葬式で不思議なことがおこることが多い。
不思議な現象で特に多いのが虹だ。5~6回はある。先日も葬式から帰ってきて散歩にでると、過去15年以上を
散歩をしているコースで初めて大きな虹を見た。 ああまた出たという感覚である。その中で一番凄かったのは、
7~8年前に義父が亡くなった時である。葬式が終わり柏崎から車で帰ってくる曾地峠で虹が7回も次々に出て、
その下を通ってきたのだ。曾地峠は過去に数百回は車で通っているが虹が出たのは勿論はじめてである。
 以前にも書いたが、ゾクッとしたのは8年前に近くの分家にあたる従兄が自死した時のある現象。
納棺の時に、突風が自宅に吹き込み桜の花吹雪が舞い込んだのだ。写真を撮っていたが、汗びっしょりになった。
そして納棺が終わると同時に、その突風が止んでしまった。 天気予報で午後の三時過ぎに突風が吹くといっていたが、
納棺の時間が偶然に一致したのだが。 死ぬ前日に桜の花をいっぱい撮っていた。こういうのをユングが「意味ある偶然の一致」
といっている。涙雨というのは昔からある。晴天でも葬式の時だけ雨が降る現象だ。それなら大都会では毎日
降っていなくてはならない。地方におきやすいのだろう。人知のはかれない何かがあることは間違いない!
=以前書いたものをコピーしておきます。
  ーーー
H0407霊的体験
二十年近く前になるが、父の死後四九日の終わるまで何度か不思議な体験をしてみた。死後一週間後位か妙な夢をみた。
私自身父の気持になり“死にたくない。もっと生きたい、生きたい”という“念”になってしまった夢である。
《字数制限のためカット 2010年4月25日》
ーーー
H0511妙な夢―(?)  
ある夜半、自宅のどこかで音が聞こえた。泥棒ではないかと起きようとするが半睡眠状態で身体が動かない!
起きよう起きようとしているうちにスーッと身体が起きて廊下に出て、居間に行き、台所を通り、寝ていた部屋へ一周して
もどってきて布団に入る。ところが、ところがである。自分の肉体は反対側の向きでねている。
まずいと思い反対側にねがいって自身の肉体と一緒になるという夢(?)である。これが単なる夢か幽体離脱かわからない。
 また、こんな夢(?)もみた。
《字数制限のためカット 2010年4月25日》
・・・・・・・・・
2002年04月25日(木)
 387, 習慣ー極限
人間が極限の時にする行為が、健康法にいいと聞いた事がある。それを習慣化してしまえば良いという。頭を掻き毟る。
顔をこするーマッサージする。ため息を吐く。喚くー叫び声をあげる。身辺の整理をする。これを普段から習慣ですればいいと。 
  そのとおりである。 遺言もそうかもしれない。死ぬという極限の状態を常に忘れない。毎日は無理かもしれないが、
毎年の年末に書くこともそれに似ている。末期がんで死を宣言されて、写経を始めるケースがある。それなら普段から、
暗記をして唱えているか、写経をしておけば良いことになる。積極という言葉は正しくそれを普段から積んでおけという事だ。
  (字数制限のためカット 2011年4月25日)


3681, 逆説を考える

2011年04月24日(日)

  考えるときの一つに、正反対の説を立てる方法がある。
「逆も真である」を試してみると、考え方の幅が広がってくる。 とはいえ、逆説を正面から考えたことはなかったので、
その意味を取り上げてみる。 学生時代のゼミの教授が、中根千恵の「日本社会は縦社会=蛸壺社会」という説に対し、
「横社会=資格社会」という説を立てられた。「日本社会には武家社会の影響が残っており、殿様、家老、家臣、家では家長、
嫁、婿、長男、末っ子、という資格社会ではないか。蛸壺というが、どの世界でも、その資格で評価されるではないか?」
という逆説に驚いてしまった。 それを切欠に、逆照射の見方を常に持つようになった。
   ーYahoo辞書によると、 ー逆説とはー  
1 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。「急がば回れ」など。
2 ある命題から正しい推論によって導き出されているようにみえながら、結論で矛盾をはらむ命題。 逆理。 パラドックス。
3 事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、その結論に反対する論拠を容易に示しがたい論法。 
  ゼノンの逆説が有名。逆理。パラドックス。
   ー広辞苑」によると
「衆人の予想に反した、一般に真理と認められる説。また、真理に反しているように見えるがよく吟味すれば真理である説」。
  逆説といえばマックスウェーバー著の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
 資本主義といえば「自分の利益の為に利益を追求する」ことだが、マックスウェーバーは資本主義は「プロテスタント」は
「禁欲」「勤勉」の基本理念から出発したと主張。「禁欲」を目的とした「プロテスタンティズム」は「勤勉さ」を旨とする
「合理的」生活態度を形成した結果、「計画的・合理的」に企業経営を行おうとする精神が形成されたという、逆説は
 資本主義社会の大きな精神的支柱になった。
  ーー
「逆も真なり」という諺が昔から日本にあったが、両者とも成立する確信で考える入口になればよい。
考えるための一番の近道だが、正論を把握した後でないと単なる歪みになってしまう。 
 ・・・・・・・
3316, 人みな骨になるならば ー11
2010年04月24日(土)
 * 神とは ?
 虚無主義の著者の宗教観がシビア。 この辺が、明るい乾いた虚無主義者の真骨頂である。
大方の人は、以下の論に近いのだろう。 アブラハムがつくりあげた超越的存在の神、そしてユダヤ教、
キリスト教、イスラム教の内輪もめ。 これが、現在の世界の宗教戦争を引き起こしている。
  ーまずは、その部分を抜粋してみるー
 神という言葉を使うと近代以後の知識人は懐疑的になったり警戒したりするものだが、それは「神」という概念の内包(意味)
に関して伝統的なイメージをひきずっているためである。もともと「神」などという超越的観念は、それを思っている人によって
勝手にイメージされてきた。 中世の農夫にとっては雲の上にいる白髭の老人であり、現代的な信者にとっては、
「宇宙に偏在する、形のあいまいな意志そのもの」である。 どこかの原住民にとっては自分と同じような腰蓑を
つけているオッサンかもしれない。 このように、信者たちが各自勝手に想像しているのが絶対者なのだ。
ある意味で、このような多義的になんとでも解釈できる教義を備えていない宗教は、レベルもニーズも様々な多数の信者を
引き寄せることができないらしい。 だから近代以降のインテリたちは、神を否定したがる。
確かに、そんなシロモノは実在しそうもない。 ただ、そうした多様なイメージのむこうに共通項として
「それ以上の審級が存在しないような超越的かつ絶対の存在にして運命の決定者」を想定することはできるだろう。
それが人間臭い愛や怒りや嫉妬や気まぐれをもつかどうかは、各信者の想像力の限界を示すだけである。
むしろ、その人間の程度を知りたければ、その人物が信じている神の特徴を教えてもらえばよい。
神のイメージは、たいていその信者の願望と恐れを投影したものだからである。 
そこで、ここにいう「神」とは「宇宙を統べるなにか」以上のものではない。そんなものが実在するかどうかはひとまず措く。
もしそうしたものが存在するならば、それとの相談なしに将来を誓うことは人間の分際を越えていることになる。
そして、そうしたものが存在しないなら、ますますわれわれの生や将来にはなんの保証もない。
 〜〜
「その人の程度を知りたければ、その信じている神の特徴を知ればよい。神のイメージは、その信者の願望と恐れを
 投影したものである」は、言いえて妙である。 人間が言葉を持ったが故の不安と不幸をカバーするため、
 未知の存在の畏敬としての神は、必要である。しかし、それでしかない。
「その人物の程度といえば、連れ添いを知ればよい!」というが、これは当たっているか?これとは関係ない。
  神については黙するしかない、ということか。最後は、神様助けて、というしかないのが人間である。
 ・・・・・・・・
2941,ナチが愛した二重スパイ
2009年04月24日(金)
 「ナチが愛した二重スパイ」  ベン マッキンタイアー著
 新幹線通勤の往き帰りの車中で一ヶ月かけて読んだが、これが何とも面白い。第二次大戦末期、ロンドン暗黒街の
 チャップマンは、ナチのスパイとなる。しかし「二重スパイ」として、ベルリンに偽情報を送っていた実録もの。
 ロンドンの当時の札付きの泥棒、ジゴロの生々しい犯罪と、監獄暮らしなどが詳細に書かれている。
 現在の犯罪者も似たようなものだろうから、我われ小市民とは全く異質の存在である。
 肯定的にみれば「何もしないで一生終わるより、よほど思いのまま生きることも必要では?とさえ思わせるほどである。 
 札付きの犯罪者がその経験を生かして二重スパイになって国家のために大きな働きをすることになるから、皮肉といえば皮肉。
 pー234に 著者は、二重スパイのチャップマンを次のように分析している。
 【 二重スパイのチャップマンの話は、地味なスパイの話とは違う。スパイ小説なら、あり得ないこととして拒否される
 内容である。主人公は悪党であるが、悪党としては決して敗残者ではない。彼の犯罪歴は、軍隊脱走から猥褻行為へ、
 女から脅迫へ、強盗から金庫爆破へと段階的に進んだ。あとになると彼の報酬は多くなり、最初はつまらぬことに手を染めたのを
 恥じているのは疑いない。この男の本質は己惚れで、自ら評価するところでは大物で、暗黒街のプリンスのような存在である。
 良心の咎めとは無縁で、どんなことでもやりかねない。社会とはなんの契約もせず、金はひとつの手段である。
 怖いもの知らずで、間違いなくドイツ人に対する根深い憎しみを抱いている。ひとことで言えば、冒険はチャップマンにとって
 必要不可欠なものである。いったん冒険に乗り出すと、信じられないようなことを達成する勇気を持っている。今日は、
 彼はドイツのパラシュート・スパイであるが、明日、活動的な二重スパイとして危険極まりない任務を引き受けるであろう。
 それに賭けるのは自分の命である。冒険が無ければ、彼は犯行者になるであろう。危険は大きいが、成功する見込みがある限り、
 危険は犯されねばならないと思う。チャックマンにとって確かなことは、たった一つしかない。 冒険が大きいほど、
 成功する確率も大きくなる。】
  犯罪者の生態、そしてスパイ機関の実態、そして世界大戦の中の生活ぶりなどが、リアルに目に浮かんでくるのは、
 事実を克明に書いてあるからである。また、その世界にドップリと漬かることで、現在の世界、日本、そして自分の人生の
 立ち位置が浮かび上がってくる。(チベット旅行記もそうだったが・・・)  世界は底知れぬ経験で満ちている。
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2577, フロー体験 ?2
 2008年04月24日(木)
 ー まずは、要点を書き写してみる。ー
我々が幸福であるかどうかは、世界の大きな力に加えることのできる統制によるのではなく内側の調和による。
肉体的生存が外部環境に依存している以上、外部環境を支配する方法を学び続けることは確かに必要である。外部環境を支配するとは、
すでに経験して解るように、我々が個人としていかに喜びを感じるか、または世界めカオスをどのように減少させるかに関しては、
それほど役に立たない。カオスを減少させるためには、意識そのものを支配すること学ばなければならない。
 ーフロー体験の構成要素が存在すると、
 次の8つを挙げている。
1. 明確な目的(予想と法則が認識できる)
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
3. 自己に対する意識の感覚の低下、活動と意識の融合。
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
7. 状況や活動を自分で制御している感覚。
8. 活動に本質的な価値がある、だから活動が苦にならない。
フロー体験は外面的報酬とは隔離され、ひとつの活動に深く没入し、その経験それ自体が楽しいので、
純粋にそれをするために多くの時間や労力を費やすことができる状態をいう。
したがってフロー体験は、悲しい、辛い、煩わしい、妬ましい、腹が立つ、焦るといったネガティブな
感情とは隔絶した、うれしい、楽しい、歓喜に満ちた十全感、充足感、楽観、自己効力感をもたらしてくれる。
 ーー
最近、ipodを常に携帯して機会があるごとに聴いているが、マシン+音楽でフロー状態を作っていることになる。
特にアルファー波が出るのがよい。マリファナを吸ったときに出る脳波と同じ状態になる音楽だけを集めたシリーズもある。
スナックや居酒屋のバックグランドミュージックとして流しておけば、再び来たくなる効果が出るだろう。 
成功者は、フロー体験を人一倍持っている。 だから、人を引きつける。失敗者は、その逆の波が身についている。
だから人は近づかなくなる。逆境のときは、あまり人と接しないことだ。この毎日書いている随想日記も
フロー体験の構成要素をみると、当てはまる。居間のコタツの上で書いているが、目がパソコンに向かった瞬間、
他の情報はホボ遮断する。フローの状態そのもの。   (。´_`)ノ ほなぁ。
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2007年04月24日(火)
2212, 宇宙的自己?が語りかけてきた ?        (。・8・。)ノ おはよう!
 *一昨日の朝方の夢*
10年近く前に亡くなった母の夢を時々みるが、一昨日の夢が不思議な夢だった。晩年の母は5年半ほど痴呆症だったが、
夢の中の母は平常の状態。 不思議に思い、「如何したら呆けないでいられるのか?」と聞いたら、
「何を経験しても、その都度ごとに文脈としてまとめることよ、また、一つ一つの要素をキッチリと言葉にしておくことよ。」
と諭すように答えた。そして、家の宝として、小さな仏像を5~6個持ってきた。さらに家にある大きな封書を持ってきた。
神聖な昔から家にある「書置き」のようだ。そこで目が覚めた。普段の自分の世界から一歩抜け出た不思議な感覚であった。
‘遥か遠い向うの世界からの魂の呼びかけ’のような、‘宇宙的自己としての母の自己が、地上の私に直に語りかけてきている’
ようであった。 現に毎晩、私が寝ているところが、母が30年以上寝ていた処である。「魂とは何なのだろうか?」不思議で
不思議で仕方がない。 誰もが持っている、不死の何かなのだろうか? あの夢に出てきた母とは誰なのだろうか?
自己の創り出した(記憶の底から出てきた)母のイメージだろう。夢も考えてみたら不思議である。犬も夢をみるというが、
自分の無意識がつくり上げた物語である。以前は不思議な夢を多くみたが、最近はめっきり少なくなった。
モーニング・ページに起きざまにみたばかりの夢の内容を書いている。そのまま、大学ノートに書きなぐるが、
生々しい夢を書くのも面白いものである。モーニング・ページの大きなコーナーになっている。
内容は他愛もないが、それでも時どきハッとするような深い内容がある。夢と魂とは何か結びついているんじゃないのか?
と時どき思う。それも身近な母や父などの夢は、特に!ところで母が持ってきた、あの封書の中味は何だったのだろう?
母の残した、「詩」だろうか?それとも家を守りなさいというサイン?
あのイメージは、家筋としての記録である。家系としての筋道? 胡散臭いが!    ホンジャ  (~▽~*)/
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2006年04月24日(月)
1847, 安楽死についてー2        (’0’)d おっ w(゚Д゚)w ハァ?
昨日の随想日記の過去分(2002年4月23日)に、安楽死について書いてあった。(あとでコピー)
数日前の毎日新聞のー記者の目 ーで安楽死について取り上げていたが、鋭い論評であった。
私は積極的安楽死論であるが、この記者も安楽論のようだ。両親や親戚の叔母などの死際を身近に見ていて実感したことは、
激痛を伴う終末の延命は無意味であり、カタチを変えた拷問の容認である。
 ーまずは、毎日新聞からー
「射水市民病院の呼吸器外し問題」=根本毅(大阪科学環境部)
  (字数の関係でカット09年4月24日)           ヾ(^ω^*) バイ
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2005年04月24日(日)
1482, ラジウム岩盤浴ー2
スモールビジネスとして岩盤浴経営も増加しつつある。新潟市内にも、先日郊外に開店をした。
数年前に流行したアカスリブームや、足マッサージに似ており、一時的ブームも可能性も充分考えられる。 
三〜四年が目安であろう?料金は一回600円?1500円。 天然ミネラル風呂と併設されているところもある。
女性の利用が9割ということもあり、女性専用のところが多い。最近は男性も利用者が増えつつあるという。
取引先の社長が、この岩盤浴に興味を持って岩盤温泉サウナを準備をしていたが、開店直前に失火で全焼してしまった。
現在、違う場所で開店準備に入っているという。失火した店を、その数日後に社長と見てきたが、見るも無残であった。
その時にラジウム石?を一部譲ってもらって風呂に入れたり、枕の下に入れている。特に風呂に拳大の大きさの石を入れたが、
身体に保温効果が出ている。風呂のタイルに付いていたカビや水垢も不思議なことに自然と消えていた。
また、この素材でできているカップでコーヒーを飲むと一段と美味しい。また酒やワインも、この小石を入れて飲むと味が
一段と美味しくなる。最近はラジウム石のブレスレッドや、ネックレスも身に着けている。
パソコンに集中しているためか目が異常に疲れるが、その疲れが減っている。
 ーあるHPのこぴーです。
 ルルドの泉って何?
(字数制限のためカット 2010年4月24日)
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2004年04月24日(土)
1117, 「ライフ・レッスン」ー6
 ー罪悪感のレッスン
・罪悪感は自己の判断に根ざしている。自分が何か悪い事をしてしまったという意識である。
それは自己の信念体系に抵触をしたときに生じる、内側に向かう怒りである。多くの場合、その不幸な判断基準は、幼児期に
受けた教育によって形成されるものだ。それもしばしば「売春婦」になるべく育てられたということが原因になっている。
不穏当な表現だが、これは事実である。象徴的に売春婦とおなじく、われわれは他者の親愛の情を得るために自己を売るべく
育てられてきた。自己のためのアイデンティティを強化するよりも、他者の願望実現の為に専念するのがいい子であると
教えられてきた。真の独立や相互依存よりは、共依存すべく訓練されてきた。われわれは自己の幸福実現のために
自己の欲求を満たす方法を知らないままに育ったのだ。 適切な時に「ノー」といえることを学ぶべきなのに。
罪悪感は時間とも密接に結びついている。罪悪感はつねに過去から生じ、人は過去に生きつづけさせるものである。
罪悪感とは、現在というリアリティを見ないようにするための方法なのだ。それは過去にまでひきずっていく。
過去の罪が未来の罪をつくりだす。罪をてばなした時、人ははじめて過去を手放すことができ、あたらしい未来創造ができる。
人は罪に値するものではなく、許しに値するものである。そのレッスンを学んだとき、われわれはまったき自由になるのだ。
 ーー
 笑い話に「こどもの嘘」を思い出した。ーあぶらげを隣から貰ってきた子供が、思わずかじってしまった。
それをとがめらると「トンビが下りてきてかじっていった!」この類だが。
良心という問題が出てくるが、両親ー良心ーの姿が一番影響する。 自分も両親ー良心ーの片割れだ。
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2003年04月24日(木)
750, ある人生
 先日親戚の葬式で、故人の息子の一人に30年ぶりにあった。2歳年下で、中学を卒業したと同時に日本橋の蕎麦屋に
勤めにいった。といっても出前持ちである。一度その店に行ったこともあったが、将来自分の店を持ちたいといっていた。
大人しい無口な、あまり機転が利かないタイプで、店を出せるタイプでない典型の人と思っていた。
 その彼が何と店を持ったという。そして数年前に7年やった店を閉鎖をしたと聞いて驚いた。
涙がドッと出てとまらなかった。大小にかかわらず創業がいかに大変かを身にしみてわかっているから、
彼がまがりなりにも新潟で単身で店を出した苦労が解るのだ。 20数年働いた1千万で、誰の力も借りないで新潟市で、
あの大人しい彼が開店から閉鎖まで自分一人でやったという。彼の性格からいって、人の数倍の苦労があったのが想像できる。
若い時の甘い顔は一仕事をやり遂げた野武士のような面構えに変わっていた。そして自分のやってきたことに自信を持っていた。 
この自信こそ人生で一番大事なことだ。 一心は岩をも通すというが、正に彼はその人生を貫いたのだ。
20数年かけて一心に働き、店の営業を含め合計30年以上のワンクルーを一心にやりとげたのだ。
隣で、その兄が「凄いことだ!」といっていたが、それを聞いてただ涙が出て止まらなかった。
「それが如何したことか?何処でもある話ではないか」というストーリーかもしれないが、
彼の純粋な大人しい性格を知ればこそ感動したのだ。それも独身で! 彼の30年以上のスパンで、やり遂げた一心さは,
どんな成功者より凄い。少しオーバーかもしれないが、「山田太一の世界」といってよい。
人生の何たるものかをこの人に教えてもらったようだ。私の尊敬する人が一人親戚にできた。
 今は柏崎の実家で母親と住んで、掃除会社に勤めているといっていた。この経済の暴風の中やる気をもらった。
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2002年04月24日(水)
 386, 宗教的タカリ
オウム教はとんでもない犯罪行為をしたが、一つだけよい事を、いや結果的に良いことをした。
宗教の怪しげな一面を浮き彫りにしたことである。その一つが現在の仏教界の集り体質である。
葬式仏教の陥っている偽善体質である。数百年かけ巧妙に、そのシステムを作っていったのだ。
彼らも商売?のだから仕方ないと、誰もが疑わないのもおかしい。仏を盾に集っているのだ。 
彼等の法事等の話など聞けたものでない。こちらの知識の数段下レベルである。プロの素人化の典型といってよい。
戒名料とかなんとか、勝手に値段を決め金をせびる。彼らも生活をしなくてはならないのは判るが、豪奢な生活が問題である。
幸福の科学にしろ、創価学会にしろ、その怪しげな一面を見ると、もっとその共通点を洗い出し、
白日にさらけ出さなくてはならない。信じさせて金を騙し取るという点で、詐欺師のテクニックとほぼ同じである。
特に結婚詐欺に似ている。  夢を売って金を騙す、お布施と称して。 


3680, 節目どきに ー9

2011年04月23日(土)


  * ふと、思うこと
 まだ何が自分に起きていることが、分かってないのかもしれない。 廃業、倒産と慌しく現象だけは移り変わっていくが、
何か他人様から「奇妙なもの」に見られているような、これまでの視線とは全く違うような・・ それはそれで仕方がない。
経済震災・自然震災としても、倒産は倒産。 それでも、新潟・長岡と職・住が別だったので半分は助かってはいるが。
これから起こる経済動乱を考えると、一年だろう。 銀行債権以外の一般債権などは、ほぼ迷惑をかけないで済んだが、
一般の人は、そのことを知らない。 家内も含め、二人とも厚生年金に40年以上入っていたので、今日明日の生活の心配はない。 
弁護士がいうに、「現時点で3割が終了、債権の9割9分以上が銀行債権で、一般債権を、ほぼ完済しているので、これまでは順調。
手続きからして二年が目安。」 それにしても私自身に、自分の立場に何の疚しさと、暗さがないのが問題。「これだけは、
経済震災と自然震災で、私の力の及ぶことでない」という思いがあるし、実際に、そうだ。 あんまりケロッとしているので、
30年来の税理事務所の担当に「貴方は、自分の置かれた立場が全く分かってない!」と注意された。 それも分かるが、
「じゃあ、どうすれば良かったのですか?」という内語が、何処かで沸いてくる。 それらしく、していろ! ということか。
しかし時間の経過と同時に、気持ちがジワジワと追い詰められていくのが分かる。 自然災害も含め、それぞれ全国民の問題だが。


・・・・・・・
3315, アポリアと空とぼけ
2010年04月23日(金)
「プラトンー哲学者とは何か」 納富信留著
 *アポリアと空とぼけ  P−36
対話によって突き落とされるこの困惑の状態は<アポリア>と呼ばれる。それは、どこにも進むことができない行き詰まり、
途(アポロ)のないあり様を意味する。ソクラテスの吟味にさらされ、アポリアにおちいった者は、対話相手メノンが
告白するよるように、あたかも「痺れエイ」に刺されたように感ずる。 対話相手は心も口もしびれて何も言えなくなってしまう。
 このような対話においてソクラテスは、問いかけ、議論を導く主導者の役割をはたす。 しかし、ソクラテスは、
対話をかわしながら、自らはその事柄について「知らない」、つまり、自らもアポリアにあると主張する。
 その一方で、対話によってアポリアへと追いやられ、無知を突きつけられた人は、言葉によって鋭く矛盾をついて
論駁するソクラテスが、その問いの答えを実ははじめから知っているのではないかと推測する。 さもなかったら、
どうしてこれほど鮮やかに、相手の無知をあばき出すことができるのであろう?
しかし、そうしたなかであくまで「自分もあなたと同じように、知らない」と言いはるソクラテスに、やりこめられた相手は、
しばしば怒りをぶつける。 ソクラテスは本当は知って質問しているのに、しらばくれてわざと知らないふりをし、
意地悪にも人々の無知をあばき立てよろこんでいるのであると。 人々はこうして、ソクラテスを「空とぼけ」の人と呼んだ。
「空とぼけ」が、対話するソクラテスの謎をあらわす言葉となったのである。 だが、ソクラテスの対話を空とぼけ、
つまり、本当は知っているのに知らないふりをしているとみなすのは、対話する相手や対話を見ている人であり、
ソクラテス自身はけっして空とぼけているわけではない。
 〜〜
 学生時代の卒業の年に人事関連のゼミと出会い、そこでの学びの中で、自分は何にも知らないという事実を突きつけられ、
呆然自失状態。「学生時代にモット知識を得ておくべきだった!」と、頭がグチャグチャ状態。 
その結果、悩み苦しんだ結論として、死ぬまで学び続けること。 何があっても、一日ニ時間の読書を自分に課せることだった。
しかし、最近知ったことだが、「グチャグチャと、学び続ける決心」そのことが学生時代の一番の学習効果だった。 
なるほど人事管理のゼミの教授の策略に乗ってしまったことになる。
「自分は何も知らない」という思い込みが「アポリア」としてプラトン、いやソクラテスが2500年も前に看破していたのである。
15人のゼミの人たちの議論で、「何も知らない自分を一年かけて知ったことになった。」  本当に有難いことである。 
で、このザマ? 人は人、我は我である。 「 全て人は無知の馬鹿踊り 」と思えば、楽なもの。 自分は違う? 貴方だけはね!
・・・・・・・
2940,レーシック専門眼科医院 ー2
 2009年04月23日(木)
視力の矯正方法には、メガネ、コンタクトレンズ、の他に、レザー手術、有水晶体眼内レンズ、オルソケラトロジーがある。
・レザー手術は、レザーで角膜の形を変えてしまうもの
・有水晶体眼内レンズは、角膜と水晶体の間に、コンタクト・レンズを入れて矯正する方法。
・オルソケラトロジーは、寝ている間にハードコンタクトを入れ角膜にクセをつけてしまう方法である。
 レザーや、有水晶眼内レンズを入れたりすると、ドライアイになりやすい欠点もあるという。
今回の短い先生との会話を再現してみよう。
・私の質問、  レザーや、有水晶体眼内レンズの失敗確率は?
  先生の答え、 数千分の一
・質問、 失敗したり、上手くいかなかった時は、どうなるんですか?
  答え  出血をしたり、レンズがずれたり、黴菌が入って炎症が起きたりするケースがあります。
・質問  もしも初期の白内障を取ってもらって、レザーで矯正をしたときの中期的なマイナスは何ですか。
  答え  早ければ早いほど、次の段階、緑内障に移行する時期が早まることになります。
・質問  私の今の段階での手術は、先生は勧めますか?
  答え  私は元々、手術は最後の手段で、本来はすべきでないというのが持論です。
     今回の場合は、手術は勧めません! 何を選ぶかは本人次第です。
・質問  もし、手術をしたときに、眼の度数が進んだり、白内障が再度出るのですか。
  答え  もちろん、度数は同じく進み、白内障も出てきます。更に緑内障になる可能性も早くなります。
・質問  近視の進行を止める薬が開発されたと聞きましたが、実際に、どうなんですか?
  答え  あれは、過大評価で、殆ど効きません。出しても良いですが、効かないものを出すこともないでしょう。
  〜〜
 以上であったが、それにしても良心的な先生であった。身近な二人の経験者が同じような忠告をしてくれていたが、
「緑内障への移行が早くなる」と、「貴方の体質は極力、手術をしない方がよい」が、今回の断念の決め手である。
 ・・・・・・・・・
2576, ドル覇権の崩壊 ー6
2008年04月23日(水)           \(⌒∇⌒)/おはよ?!!!
 *アメリカの住宅バブルとは?  P-55
アメリカの住宅バブルを分かりやすく話すと、例えば「10年前に50万ドル(約6千万円)で買った家が、
今は100万ドル(約1億2千万)になっている。これがアメリカのミドルクラスー中産階級の家である。
中産階級というのはそれほど貧乏ではない。日本語の中流という意味ではなくて、もう少し豊かな、専門職業をもっている
小金持ち層のことである。このミドルクラスが自分の家を最初、一軒目を住宅ローンで買っていたのだが、家の時価(市場価格)が
100万ドルになってしまっているので、残っているローンの残高の3千万円を除いた残り9千万円分を更に目一杯までお金を借りられる。
また銀行も担保力があるかぎりは、家の価値、価格がある限りは、いくらでもお金を貸すのがアメリヵの流儀である。
すなわち一般庶民層までぎりぎりまでお金を借りて、二軒目の投資用の家、あるいはアパート(コンドミニアムと言う)
を買って利殖する。 あるいはその余剰資金を株式市場や債券市場での運用に回す。もともと返済能力があまりない人たちまでが、
この含み資産であるところの不動産資産を担保にして、ぎりぎりまでお金を借りている。 
そして、これが逆回転(リワインド)するのがいちばん怖いのである。このことをグリーンスパンFRB前議長が警告を鳴らしていた。
ーー
これを読んでいると、まさしく日本のバブル期に土地投資に走った会社と、目端のきいたサラリーマン達が
してきたことと同じではないか。 現在、その人達は大損をして消えてしまった。それと同じことがアメリカで現在進行中で、
まだ殆どのバブルの感覚から抜け出ることが出来てないという。当時の株価から5分の一まで下がったのだから、
アメリカの株価が3000ドルまで下がるのは別に極論ではない。日本の損失が100兆円、そしてアメリカの損失は500兆円という。
日本経済の壊滅的な崩壊からみて、このサプライム問題が如何に大問題を含んでいるかわかる。アメリカが世界の主軸の
通貨ということを考えると、大恐慌は必至なのか。とくに、3年から5年は日々、深刻度合いが増していくだろう。
日本は関東から東海に渡る今まで好景気に沸いていた地域が一挙に冷え込むかどうかは、中国のバブルの破裂の度合いによる。
・・・・・・・・・・
2007年04月23日(月)
2211, 帰ってきたソクラテス ー2
      (^o^) (^0^)オハヨウ!       ー読書日記ー
 韓国人学生による米銃乱射事件、精神的に問題があったとしても、その原因は長年の人種差別の鬱積が本人を
追い詰めたことにある。 金持ちに対する恨み辛みというメッセージがあったというが、人種差別と朝鮮人の直情的な
国民性も重なり暴発したのだろう。 差別は人間の、いや動物の本能であり、これだけは、どうしようもないこと!
 と割り切るしかないのか。 目くそは、鼻くそを差別するものである。
 ー P・221
ソクラテス:救済と差別とは、どういう関係にあるのかな。僕はそこを君たちに聞いてみたい。
 だって、信者になるということは、自分は神に選ばれた、皆とは違う人間だってコトなんだろう。
 その選ばれた信者が、神の前に皆平等と説くなんて、やっぱり変じゃないか。
釈迦: 私は衆生を捨てておけなかったのです。ソクラテス:たとえ騙してでも?
釈迦:よしてくださいよ。ソクラテス:だけど、あなたも知っているとおり衆生はワカラナズヤだぜ。
 これは差別ではなく、事実を言っているだけだが、 自分ってものはなかなか捨てられないものだぜ。
  ・・・
ソクラテス: 宗教的なものとは、そも、一人っきりの心と、神なり仏なりとの間か、すごく孤独な何かだなんてこと、
 君たちには言うまでもないよね。なのに、なぜそのとき、他人の救済やら互いの平等やらが問題になることができるのかと、
 僕は思うんだ。 それぞれの人間が、それぞれの仕方で、神や仏と付き合ってはなぜいけないんだろうね。
イエス: だって、それじゃ宗教にならないんじゃないですか。
 (字数の関係でカット11年04月23日)
 ・・・・・・・・
 2006年04月23日(日)
1846, いくらかかるの? 結婚のお値段
            (。・ω・)ノ☆゚+.オハヨゥゥゥ゚+.☆
昨日の朝日新聞の『マネー外来』というコーナーで、
「いくらかかるの?結婚のお値段」を特集していた。二人の息子も、27と30歳になる。
いつ結婚しても不思議でない歳になってきたので知りたい内容であった。
 ーまずは、その記事からー =満足感を重視して382万円=
 ごく身内だけですませる地味婚から、セレブを気取った盛大なゴージャス婚まで結婚式の形態はさまざまですが、
気になるのが結婚費用です。 どのくらいかかるのか、最近の相場を調べてみました。
    Q 最近の結婚式の形態はさまざまだけれど、
      平均的な費用はどのくらいなの?
 A 結婚情報誌「ゼクシィ」が昨年、読者4547人に実施した調査では、
   結納・婚約から新婚旅行までの総費用の平均は382万円。
   このうち挙式、披露宴・披露パーティーが293万円。
   首都圏では02年の254万円を底に3年連続のアップで05年は291万円。
   前年より11万3000円も上昇している=グラフ左。
    Q 結構、お金をかけているんだね。
 A 結婚は普通、人生で1度きり。節約して後悔するより満足感を重視する人が多い。
   オリジナルな演出や料理にこだわるカップルが増えているのも価格上昇の一因だ。
    Q 400万円近い費用を工面するのは大変だね。
 A 2人の貯金総額の平均は470万円(首都圏)だから、
  結婚準備はしっかりしているようだ。でも、夫の3割、妻の2割は貯金ゼロ。
  親からの援助=グラフ右上=が役立っている。
    Q どんな式が人気なの?
 A 上位三つは
 (1)アットホームなムード(65%)
 (2)自分らしさを表現できること(57%) 
 (3)列席者を退屈させないこと(54%)。「お金をかけないこと」は16.7%で8位だ。
(字数制限のため中略 2010年4月23日)
・・・
以上だが、知人の数人から聞いたら、
・結婚の総額は400万が相場
・援助は新郎側が100万、嫁側が50万
・祝儀収入は半額の200万
・結納は、それぞれの考え方があるという。
・披露宴は50~人。
ーホテルには結納セットがあるというー 
 地元で事業をしていて、人間関係が絡まっている場合は規模は大きくなるという。
 その分、祝儀も入るからバランスはとれるとか。私が出席した中で、気持ちの入った結婚式が幾つかある。
 本人達の結婚式への思い入れが、そのままでる。小さな披露宴ほど良いのは、どういうことか。
 盛大のものは、当たり外れが大きい!出席するほうは、人の幸せの席に参加できるだけでも嬉しいもの。
 ただ私は結婚式に出席するのは大好きだ!
私ケースは、本人達が計画をしたのに従うつもり。50人以内で、カジュアルな、二人の気持ちの入った地味婚が
息子二人には似合ってる。まあ、結婚をしてくれるだけ有難いと思わなくては!       (v^ー°)バイ! 
・・・・・・・
2005年04月23日(土)
1481, ラジウム岩盤浴
最近、話題になっているのが岩盤浴である。岩盤浴とは、温められた天然石の上に寝ることで多量の汗を促進して、
新陳代謝を高め老廃物を排出する”お湯を使わない温石療法”である。天然石はブラックシリカ・ラジウム石・セラミックなど
と種類があるが、どれも遠赤外線とマイナスイオンを発する石だ。岩盤浴で有名なものとしては秋田の玉川温泉の地熱を
利用した天然岩盤浴がある。最近は北海道でサウナ感覚のものが急増して、それが全国に飛び火をしているようだ。
北海道のものは、ブラックシリカであり、国内では 北海道の檜山郡上の国町でしかとれないためか
道内からブームがおきた。サウナ式岩盤浴では、
・受付でパジャマのような服をもらい着替える。
・岩盤浴の部屋は大体が10名程度が一度に寝転べる程度の広さ。
・室温は38度、湿度80%位。
・うつ伏せで10分、仰向けで10分、その後いったん退室して、
 マイナスイオンの入った水を飲んで1、0分間水分補給。 これを1?3回繰り返しす。
岩盤浴はマイナスイオンをたっぷり吸ってクラッシック音楽などをバックグランドにして、深い眠りにつくのがよいようだ。
ベタベタしない、匂わないサラサラの汗がタップリでる。特に顔と首周りが汗が出るという。 この汗がダイエットにも
効果的をもたらす。ダイエットや、美肌効果や、体質改善など、週1回のペースで 一ヶ月くらい続けると効果が出てくるという。
                     ーつづく
・・・・・・・・
2004年04月23日(金)
 1116, 「内面なんて、見せかけだけのもの」
何気なく図書館で立ち読みをしていたら、この言葉が飛び込んできた。
早速借りてきて読んだが、一理あるようなないような。しかし面白い内容である。
 ー抜粋をしてみるが、際どい内容だが、まあいいだろうー
老詐欺師が私のおだてに乗って、自分の若いときの女性遍歴を話し始めた。よくぞまあ、こんなことまでという内容であった。 
その話も終盤にさしかかったとき、私は彼に、「・・女性の、どんなところがあなたはいいと思いますか?」と訊いてみた。
しばしうつむいて考えていたが、やがて「・・・やっぱり、美しさだね」と言った。「それは・・・顔の?それとも、内面の?」
と私。「顔だよ。顔。それしかないよ」「内面とかはどうでもよいこと?」「・・・きみはね、まだ若いね。いいかい、内面の
美しさなんてものは、見せかけにしか過ぎないんだよ」「内面なんて見せかけだもの」という言葉は、ズット私の言葉に残った。
それから十数年の間に、わたしもかなり、さまざまの女性とつきあった。もちろん仕事上だが。例外なく心の美しい人たちであった。
彼女たちは心が純粋で、内面が美しくて、それのみを自分の価値観として生きてきてビジネス的な話は何ひとつ理解できなくって、
それどころか、私の方にも内面の美しさを要求し、つまり金などという汚いことを云々するなと,強要してほどほど困った。
           (以下、字数の関係でカット2,008年4月23日)  
・・・・・・・
2003年04月23日(水)
749, リオのカーニバル
 この時期になると例年、NHKハイビジョンでその内容が放映される。毎年三月の初旬に開かれ,約一月後に放映されている。
何とも派手で陽気で豪華で楽しい!8年前にいって、その雰囲気を知っているから、観ていても楽しいのだろう。
違うのは音量の大きさと会場の熱気が直接伝わっていることだ。TVを観ていると、会場に行っているような錯覚をしてしまう。
以前にも書いたものを後でコピーするが、なかなか奥行きが深い。ブラジルではTVなどで生中継される全国的な行事なっている。
今回、あるチームの準備などの内幕をドキュメント風に紹介していた。
80分の持ち時間の演技のために一年間の準備をする。審査項目が10項目あり、それを細かく説明していた。
・テーマ曲の良し悪し            ・打楽器ーバテリアの内容
・テーマの紹介のパフォーマンス       ・同じ衣装のダンス隊のダンス
・山車の美しさ、テーマの解りやすさ、迫力  ・チームの旗手の踊り
・そのチームの女王の観客へのアピールと反応である。
 プロの演出者を雇い、その年のテーマにそってカーニバルとサンバと山車や音楽や衣装が組み合わされる。
    (字数の関係でカット09年04月23日)
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2002年04月23日(火)
385, 安楽死
   (字数制限のため中略 2010年4月23日)


3679, 自己を見つめる −6

2011年04月22日(金)

        「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
自己を見つめる、その自己とは? そもそも何だろうか? その自己は、「少なくとも、この世で、自己として
 瞬時の光芒を放って輝いた」のである。 この世に表れでたのは、その存在理由があったのである。
 ー 第五章 自己 ー
【 およそ、あらゆる芸術家、学者、政治家、実業家などの、人類社会に貢献した人々はみな、その生涯において、
 自己決定の稀な瞬間を生きとおして、それぞれ個性ある一生を築いて、この世を去った。 もちろん、そうした際立った、
 選り抜きの人々以外でも、考え直してみれば、あらゆる人間がみな、それぞれなりに、自己の人生と運命を生き抜き、
 そのかけがえのない人生の軌跡を描いて、自己の人生を全うしようとして、一生を走りとおしたと見なければならない。
 むろん、この世の人生においては、不運や事故、挫折や失敗が付き物であり、多くの人々は、志半ばで、不幸のうちで倒れ、
 意に満たない、悲運のなかで一生を終えた。けれども、人間はすべて、最後には、自分らしい生き方を、運命として肯定しながら、
 この世に別れを告げる覚悟で人生を生きるものである。そこに、ほかならぬ、掛け替えない当の自己自身の人生が、一回限りの
 形で生起し、代りの不可能な、それなりの個性と必然性をもったものとして刻まれ、こうして、永遠の闇から闇へかき消え、
 あるいは不減の魂のなかに久遠の記憶として残され、少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って輝いたのである。】
【 大切なのは、人間の存在の必要条件と十分条件とを峻別することにある、と。 
 人間が生物としての機能を果たして生きるということは、人間の存在の必要条件を満たして生きるということにほかならない。 
 また、人間が社会的存在として、なんらかの環境や境遇のなかに置かれて生存を営むということも、人間の存在の必要条件を
 満たして生きるということのうちに入る。けれども、それだけでは、真に人間的な自己自身として生きるということの十分条件が
 満たされたということにはならない。衣食住の欲求を満たし、胃腸や呼吸が正常に機能し、なんらかの社会的環境のなかに置かれて
 生きるということならば、誰もがやっていることである。むろん、そこに、胃腸の丈夫な人とそうでない人、あるいは比較的恵まれた
 環境に生きる人とそうでない人との差異はあるであろう。けれども、そうした所与の心身の資質や社会的環境のなかに
 ただ置き入れられて、それにまったく受動的となり、なんら奮起することがないのならば、その人は、ほんとうには、
 まだ自己自身に目覚めてはいないと言わなければならない。 】
 ― 自己の存在の十分条件を満たしたかどうか、それも充分かどうか、それぞれあろう。それは個性を発揮できたか、どうか。

・・・・・・・
3314, 聞きしに勝る3D/TV
 2010年04月22日(木)
  最近、昼飯は外食を週一にして、サンドイッチを通勤途中に買ってきて食べているが、昨日は、新潟駅の中華店でランチ。 
  その後、ジュンク堂書店に向かう途中、ビックカメラの前を歩いていると、話題の3D/TVが店頭にあった。 
  昨日の新聞で一部の店舗でデモ展示を始めた記事を読んだ直後だった。ところで、現在のTVは7年半になるパイオニアの
  50インチのプラズマ。当たり外れの、当たり。しかし、地デジには特殊のマシーンを入れなければならないので、
  替えときにきている。 先週の土・日に家電を見て周り、一度頭を冷やした今週末に、シャープの60インチの
  LED・TVを発注と決めていたが、「3D/TVが700万台の新規需要の創造」とかいう週刊誌の広告が気になっていた。 
  そこで早速、見たところ、その決心を覆すほどの画面。映画のアバターを3Dでみて驚いたが、TVは大したことはないと、
  思っていた。 ところが実際は映画より良い。映画もそうだが、画面と自分の間に空間ができ、更に画面の奥行きができた
  イメージで立体感を出している。デモ用の3D/TVはメガネが固定してあるので、メガネをした時と、しないで見たときの
  差が比べることが容易。そこで、比べた結果は格段の違いである。 これで大相撲や野球を見たら、迫力は数倍は違ってくる。 
  デモ用のソフトは石川遼のゴルフだった。 なるほど週刊誌の見出しの「新規700万台の市場の創造」の意味が分かった。 
   十数年前に初めてハイビジョンが店頭に出たとき、ソニーの画像を見たときの驚きと同じである。 その時は、
  暗い舞台にバレリーナーが白鳥の湖を踊っていたが、立体的な画面に感動したことを憶えている。
  それまでのTVとハイビジョンTVの格差と、3Dの映像の差は同じ位はある。数年後には多くの3D番組が出るだろう。
  急遽、買い替えは数ヶ月待ってから、3D/TVにすることにした。 ますます、お宅か! 
  21世紀とは、ツイッター、3D/TVにしろ、iPadにしろ、こういう時代だったのか! 驚きの連続である。
  「明治は遠く、なりにけり」から「昭和は遠く、なりにけり」か〜。
  ・・・・・・・・・
2939,マネー資本主義“暴走
2009年04月22日(水)
4月19日(日)の 午後9時00分から 総合テレビで
「マネー資本主義 第1回“暴走”はなぜ止められなかったのかーアメリカ投資銀行の興亡ー」が面白い。
  *まずはーNHKのHPの番組紹介からー
【 金融危機はなぜ起きたのか。巨大マネーはどのように膨張していったのか。
 マネー資本主義の主役として批判の的となっているのが、リーマンショックを起こした当事者でもある「投資銀行」。
     (中間カット 字数の関係で 2011年4月22日)
  ――
 非常にシニカルな内容であった。 一番のターニング・ポイントは、ソロモン・ブラザーズが債券市場で、次々と
 新手の金融商品を編み出し、利益を生み出した時に、若いトレーダー数人がトップと利益に見合った収入確保を要求。
「もし通らなければ 他社のスカウトで移動する」と談判したことから始る。当初は拒否をしようとしたが、
 ノウハウごと他社に持っていかれることを恐れ歩合制度を認めた。このことで他社も、こぞって同じ制度を取り入れた。
 それが「超レバレッジ」など、バブル経済を大きく膨張させる起爆となったのである。
 デモ隊が、そのトップたちが高級車から出てくるところを待ちかまえ、罵倒する映像は何ともいえない
 アメリカの現在の姿を現していた。次から次へと、アメリカのマネー投資の暴走の実態が暴かれているが、
 記事が映像として写しだされるのも生々しくリアルである。ところで日本の証券会社は手を染めてなかったのか?
 答えは簡単、染めてないわけない! 銀行は?毒餃子、冷蔵庫の奥に隠されてないの? ???
 ・・・・・・・
2575, フロー体験 ー1
2008年04月22日(火)
 先日「好き」という言葉を取り上げた。好きな状態、好きなことをしていると時間を忘れ、あっという間に時間が過ぎ去ってしまう。
 最適経験をしている状態をチクセントミハイは「フロー」と呼んだ。 好きなことをしていれば創造的になる。だから一流の人は
 「好き」になるまで、対象に集中する。その為には、成功体験の味を知らなければならない。当たり前のことといえば
 当たり前のことだが。一流の人の持っている雰囲気は、フローが滲み出ている空気をいう。
 ーー
 面白そうなところを、まずは抜粋してみる。
  「フロー体験 ー喜びの現象学」 ミハイ.チクセントミハイ著
「なぜ幸福になるのはこんなに難しいのか?」 「人生の意味は?」人はみなこの大問題に思いを巡らす。
あえて答えを示す者は多くはないし、それだけの素養のある者はさらに少ない。 著者のミハイ.チクセントミハイは、
最初の問いに答えることに全力で挑んだ結果、それが第二の問いと切り離して考えることはできないことを見出した。
(字数制限のためカット 2010年4月22日)
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2007年04月22日(日)
 2210, 帰ってきたソクラテス ー1         (*^_^*)I おはよう!
あのソクラテスを甦し、政治家、学者、評論家、老人福祉係、元左翼、人権擁護団体、イエスに釈迦まで登場。
プラトンの『ソクラテスの弁明』の問答形式で、彼らと対話をしながら、尊厳死から性教育まで身近な難問に大哲人が挑み、
知の広場へと誘っている。哲学とは自分の頭で考えることだが、それを具体的に示してくれた内容である。
池田晶子の本は、もう10数冊以上は読んでいるが、読めば読むほど面白い。初めは面白くない本を買ってしまったと
後悔をしたが、じっくり読むほどに間違いだと気がついた。面白い順にランダムに取り上げてみる。
まずは、イエスと釈迦とソクラテスの対話が面白い。三人の対話の架空の対話の中から、
一神教と仏教と哲学の考えの違いを面白く浮き立たせているところが良い。
     ーーー
=死後にも差別があるなら救いだ=
 ー登場人物ーソクラテス、イエス、釈迦ー
 ーP・215ー
ソクラテス:「彼と我々」って気持ちの持ち方が、この世の差別の始まりであって、けしからんことなのだそうだから。
イエス: 全然違う話だぜ。
ソクラテス:付き合いのよさこそが、君らの身上ってもんだろう。ここは一つ、有難い御法話と御説教といこうじゃないか。
釈迦:付き合いということなら、あなたは我々の比じゃないでしょう。 あなたは実によく付き合う。ものぐさなんて、
 何をおっしゃる。教祖というものは決して付き合わないものなのです。付き合わないからこそ教祖は教祖になるのです。
 差別はすなわちシャベツとは、本来仏教の言葉なのです。たまたま厳しい身分社会の制度が人人を苦しめていた
 世の中に、万物平等、一切衆生悉有仏性を私が説いた。たまたま王子であった私が、その位を捨ててそうした。
 それで、私は画期的に偉いということになっているのでございますよ。
イエス:メクラを治し、いざりを癒し、売春婦を赦したから私はえらいことになっている。馬鹿やろうだな!
釈迦:私が申しましたのは、そういうたまたまの現われでしかないこの世の肉体や身分やらの差別相に拘泥する
 心のあり方こそが、ない差別をあることにしてしまっているのだ ということでしたのに。こんな当たり前のことに
 気づかない無知蒙昧なる衆生たちは、差別相を実相と信じ込んでは、性懲りもなくすったもんだを繰り返し、初めから
 ないものを、ますますすることにしてしまっている。ああ色即是空、かくも簡単な真理が何故わからないのでしょう。
イエス:いや君ね、いちばん困るものがそれだってこと。
釈迦: あるものをない、ないものをあると言うから易しいが、ないものをないという、それをわからせる、これが実に難しい。
ソクラテス: うふふ。
イエス: 何がうふふですか。ほんとうにズルイんだから。確かに、執拗な問答という君の戦略こそ、先手必勝だった
 のかもしれない。十字架か毒人参かは対した違いじゃない。いずれにしても世間というものは、
 わからないものが怖いものだよ。 しかし、君、言い出したものの仕方がない。もはや断言あるのみだ。
 然り、然り、否、否、であるべきだ。私が言った「神の御心を行う者は、誰も私の兄弟である。」
釈迦:それ言ったのが悪かったようですな。
イエス: おや、それなら君だってかなりなものだぜ。「一切衆生悉有仏性」、言わずもがなだ。しかしね、
 それを聞いた弟子たちが、すかさず付け足すんだ、「一部除く」と。お陰で後世、あれは何を指すんだ、
 女人か、はたまた賎民とかの詮索が絶えないじゃないか。知ってるかい、部落の中でも女が
 差別されているとか、 女の中でも部落を差別するのがおるとか、互いにせめぎあっているとか。
    (カット 字数の関係で 2011年4月22日)
 ーーーーーーー
2006年04月22日(土)
1845, あちら側の世界 ー10
             おっ w(゚Д゚)w ハァョ?
ー狭い世界,6次の隔たり「ウェブ進化論」の中に「6次の隔たり」について書いてあった。
 「地球上の任意の二人を選んだとき、その二人は、6人以内の人間関係に結ばれている」というもの。 
 早速、グーグルの検索で調べてみた。
ー以下は、その中の一つのコピーであるー
6人の知人の連鎖を介せば世界中のどんな人にもたどり着けるという理論。もとは心理学者 Stanley Milgram 博士が唱えた、
"米国民全員は、6人程度の知人の連鎖を介してつながっているという"説。 これから,ネットワーク効果という
科学分野が生まれた。イェール大学の故 Stanley Milgram 博士(社会学者)が1967年に行なった実験から生まれた。
博士は全米から無作為に選んだ300人に対し,彼らが直接知らない受取人に重要な手紙を送るよう指示。
送り主に人々には,受取人のおおまかな居場所や職業といった手がかりが与えられ,彼らはそをもとに,目当ての受取人に
「より近い」かもしれないと思われる誰かに手紙を転送するよう指示され,最終的な受取人に手紙が届くまで,
これが繰り返された。この結果を Milgram 博士はサイコロジー・トゥデイ誌に発表,
(以下字数の関係でカット2008・40・22)
・・・・・・
2005年04月22日(金)
 480, 桜咲くーつれづれに
昨日か今日あたりが長岡の平地では満開であり、もう散りかけてもきている所もある。近くの山は大よそ一週間おくれになる。
何でも咲きがけか蕾のころがよいものだ。満開で散りかけも良いが、何か心さびしいものがある。近くに福島江という桜の名所があり、
この時期の楽しみになっている。車で10分ほどの悠久山の桜も良い。特に豪雪の年は良い桜が咲く。
家内は如何いうわけか桜が好きでない。「どうして?」と聞いても解らないと言う。「すぐ散るからじゃないか」と言ったら
「恐らくそうじゃない」と答えた。私は、すぐ散るから気にいっているのだが。10年に一度位は大当たりになる。
悠久山などで早朝に見ると、思わず息を呑むような神秘的な光景を目にすることが何度かあった。一瞬の艶めかしい雰囲気が漂っている。
全国的にみたら、無数に名所があるのだろう。サロンに、時々訪ねてくれる井上さんの桜の写真も楽しみだ。
現場で見る桜は、写真では表現できない濃艶な妖精が無数に漂っているのだろう。
先日の日経新聞の最後のページの「文化欄」に作家の山本一力氏が、吹かずともと言う文章を書いていた。
桜の花と、人の引退時を重ねて書いていた。 ー引き時に迷ったら、桜に教わればよいー
今週の長岡は、桜の週である。 庭の梅の花も散り始めてきた。
近くの川に鴨の姿がチラホラ見えてきた。本格的な散歩が、この時期から始まる。
・・・・・・・・
2004年04月22日(木)
1115, 中年期の「八つの危機」
思春期妄想症、青年期神経症をやっと乗り越えて、中年期から老年期になると一番恐ろしい中年期の危機が大きく
口を開いて待っている。中年から老年に向かっている身にとって一つ間違えれば、とんでもない危機に陥ってしまう
年齢になってきた。アルフォンス・デーケンは、この中年期の危機を「八つの危機」にまとめている。
バランスを崩せば、何時でもこの鬱の世界に転げ落ちてしまう。この「危機」に対して、上手に対応することが
必要になってくる。以下は、アルフォンス・デーケンの本に書いてあった内容である。
いくつかは誰もが心の奥で感じたことであろう。どういうわけか私の場合、ほとんどない?? 
常にコントロールしてきた為だろうが。今まではそうであったが、今後は解らないのが人生というものだ。
このすべてを背負って、万年鬱になり自殺未遂を繰り返している人がいるが、ある日突然、
こころの芯棒が折れてしまって、この幾つかの穴にはまり込まないとは限らないことばかりである。
   ーその一部をまとめて抜粋をしてみるー
「気がついたら人生の折り返し地点を過ぎてしまった・・・」「仕事がサッパリ面白くない」
「同僚と付き合うのが億劫だし、妻や子供との時間が楽しくない」「何の為に生きているかわからない」
「ちょっとしたことでも、くよくよ考え込んでしまう」「若い頃のように、やる気が出てこない」
「上司や同期の葬式に出ることが多くなったな・・・」「コメディ映画をみても、素直に笑えないよ」
よく聞くぼやきであるし、身に覚えのあることである。以上のことは中年期に忍び寄ってくる特有な
「八つの危機」の典型的な現れである。それぞれを説明してみると--以下は字数の関係上カットしました。
 後は、HPの同日分を開いて見てください。(2008年04・22)
・・・・・・・
2003年04月22日(火)
748, 思い込み
 中学の頃、血液検査でB型といわれて30年経った10数年前に、自分が実はA型ということが解った。
その時の驚きは天地が引っくり返る位であった。「自分はB型で、その性格は努力型で、独創型のマイウエータイプ!
部下や友人にはO型が適正、女性はA型が(^_-)-☆?大好き!男の相性の悪いタイプはAとAB型と信じて生きてきたのに!」
そのA型が自分自身だと!!「今まで信じてきたことは何じゃい、これは!」が、その時の実感である。
逆に考えてみると、条件を設定をして、その中でパーツをたてればいろいろな自分を創れるということだ!
暗示をかければ、その通りになってしまう実例でもある。それにしても、こんなバカみたいな事が実際にあるのだ。
実の親と思っていたが、実は違っていたという感じである。面白いものでBの対極のA型といわれてみると、
自分は本来はA型タイプに思えてくるから面白く、かつ単純なものである。それからはA型類型の性格の自己暗示に
いつの間にかかかっている? 金沢の会社にいたころ、誰かの手術で緊急に寮生のA型が集められた。
全く自分とは正反対な性格の連中であった。その時やはり血液型は性格形成の基礎になっているのだと実感したのに、
あれは何だったのだ? 人間なんてものは全て言葉による刷り込みを、言葉によって剥がしていく動物でしかないのだろう。
そこに不条理が発生してくるのだ。イスラム教とキリスト教の対立も、その思い込み?が起因している!
宗教ー経典は刷り込みの典型である。地方にいれば地方の、都会にいれば都会の思い込みがそれにあたる。
思い込んでるのが愚か者、それを冷笑しているのがバカ、というのが何かに書いてあった。
・・・・・・・・
2002年04月22日(月)
384, 我が内なる無能性?2
以前も「我が内なる無能性?後まわし」という題で書いたが、その続編。そういう人が反面教師として多くいる。
といってそれを云うだけの資格があるのかといわれれば、ない。それでも書き出してみる。
・自己責任がない ーーー人のせいにする。全て人が悪い、よく言うよという位人のせいにする。その点で狡猾そのものだ、
 その芸術家だ。誰もがその要素を持っているから書いては駄目なことだが。 人間それほど強いものでない。
・過去の記憶だけは、よーく憶えている、特にマイナスの記憶を。その壁を自分の周りに作り上げ、
 その中から出れない状態。 芥川龍之介の「山椒魚」はこれを揶揄したのだろう。
・本を読まない、人の話しを聞かない、変化を嫌う、議論をしないーいや出来ない。
・長期的視点ーグランドデザインが全くない。ー人生でも、家族の事でも、仕事でも。したがって準備という意味が解らない。
・人の付きあいが小さい枠。 両親の呪縛から抜け出る事が出来ないーとっくに死んでしまっていても。
・人の欠点を探す事で、凝視する事で自分の影をカバーしようとする。
 考えてみたら、大部分の人がほぼこれに当たる。もちろん私もである。少し濃いか薄いかの差でしかない。
 それを「子狐」という象徴でその無能性を書いている。時々「子狐」とあったら、上記の象徴と思ってほしい。


3678, 自己を見つめる −5

2011年04月21日(木)

  「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  ー 境遇 ー
【人生においては、私たちは、それぞれの境遇のなかで、様々な経験をしながら、自己自身の人生の有意義性を目指して、
 日々努力を重ね、永い人生行路の過程を歩み進んでいる。そこに、自己自身の生きた時間的な軌跡が形成され、その人なりの
 自己の歴史が築かれてゆく。人生とは、そうした各自の時間的歴史的な行程であり、多様な諸経験を重ねてゆく遍歴の旅路である。
 人生は、しばしば、旅だと言われ、西洋でも、人間とは「ホモ・ヴィアトール(旅する人)」だと語られる。
 しかし、そのような遍歴の旅とは、いったい何であろうか。とりわけ、多様な諸経験を経巡ってゆくということのなかに
 籠められている大事な眼目は、いったいどこにあるのだろうか。・・・・・・
  遍歴の労苦を通じてのみ、私たちの人格の花は、大きく咲き出るのである。格言に言われるように、可愛い子供には
 旅をさせねばならず、異境に出て、他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ初めて、私たちの人格は、
 大きく実るのである。そうした切磋琢磨と、人格的遍歴の過程を、すべての人が、互いに、愛の思いと暖かい心とを込めて
 見守らねばならない。こうして、人間的振幅や試行錯誤のすべてを受け容れ、また赦すところの、裏切ることのない、
 誠実な追憶の魂もしくは心のなかに、それらの歩みのすべてを銘記し、それらを、過ぎ去りゆくことのない、不滅で、
 貴重な人間的経験の全体として、共同でいたわり、保持しようとすることこそが、あらゆる人間にとっての、最も崇高な、
 道徳的かつ人格的な相互的責務であると思う。】
  〜
  神話は、まさに異境に出て行って、辛苦の中で勝利し帰還する物語が原型である。それは、自分の魂にとっても同じこと。
 異質なものとの出会い、そして邂逅のプロセスを通して自己が深まり、広がっていく。ここでも「異境に出て、他流試合に揉まれ、
 異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ初めて、私たちの人格は、大きく実る」現実の世間的価値観の中では、
 人格は大きく実らないことは周辺を見れば良く分かること。更にいえば、自己とは異質なものとの出会いと邂逅の中にこそ存在する。
  ・・・・・・・・
3313, 対話について
2010年04月21日(水)
  「プラトンー哲学者とは何か」 納富信留著
 * 対話について
 プラトンの「対話篇」を分かりやすく噛み砕いてある内容である。
以下は、そのエッセンスの部分である。 プラトンと、ソクラテスの立場を簡潔に分かりやすく述べている。
 ーまずは、その部分から (p28)
ソクラテスはつねに「対話」において人々と語り、プラトンはそれを「対話篇」として書いた。
ソクラテスとプラトンとの出会いは、また、言葉を語ることと書くことのへだたりと「対」として現れる。
ここに、哲学成立の秘密がある。 対話とは、人と人との出会い、言葉をつうじて何かを追求し明らかにしていく営みである。
それは、顔をもつ生きたひとりの人間と人間のあいだにかわされる、一度かぎりのやりとりである。 対話は、それがかわされる
特定の生きた状況、時と場を離れてはありえない。 会うのは心と心であり、ぶつかりあう言葉と言葉が吟味により明るみに出し
対話する人の生そのものである。 そして、人と状況は、その対話を通じて変化していく。 対話を交わした人のあり方は、
もはや以前のものではありえない。 人が形つくる対話の言葉は、また、その人を形作るものである。
そして、対話は、二度とくりかえさることはない。
 これに対してブラトンは、語られる言葉を書かれた言葉にして残した一度しか起こりえない対話を書き物に結晶させた時、
それは時を越えて反復可能なものとなった。書かれた対話は、うつろいゆく言葉を文字に留め、それを読むことが対話を反復させる。 
私たちの心のなかには、思りという新たな対話が生み出される。 そうして書かれた対話篇において、対話は対話者たち、さらに、
著者プラトンの手を離れて、私たち読み手のものとなる。 一時の対話を永遠へとつなぎとめる著者と、それを再び時間において
くり返す対話者。対話篇を読む私とは、そのようなもうひとりの対話者なのである。 しかし、ソクラテズが従事する生きた対話と、
それを書きあらわした対話篇とのあいだに根源的なへだたりがある。このギャップは、「パイドロス」で、エジプトの神々の対話
という形をかりて語られる、「書かれた言葉」への批判に現れる。文字が記憶と知恵のためのすぐれた発明であると自慢する
テウトに対して、王神クムゥスけこう批判しる。書かれたものを信頼することは記像力の訓練をなおざりにする想起の秘けつに
すぎず、それが与えるものは真の知ではなくその見かけにすざないと。 書かれた言葉は、問いかけても何答えない。
 〜〜
 対話について、これだけ分かりやすく書かれているのものも珍しい。 学生時代にプラトンの「ソクラテスの弁明」を
読んでいたが、何を理解していたのだろうか。 字づらだけを見て、知ったつもりでいただけではないか?。
 反面、学生時代に寮にいたことや、ゼミや、クラブの人たちなど色いろな人と一度限りの対話があった。
その蓄積が人生の大きな基盤になっていた。 そして自分の壁を破壊してくれていた。
現在、ツイッターが爆発的に広まっているが、あれは会話?でしかないのか。
それとも、人によっては対話になりえるのか? ブログでは対話が成立していると思うが! 
 議論すること、それを書き留めること! その青さを持ち続けること!  チロリチロリだけでは、だめか?
 ・・・・・・・・
2938, イエスマン
2009年04月21日(火) 
 先々週にシネマに行ってきたが、そこで「イエスマン」という面白そうな映画予告をしていた。
そこでネットで調べてみた。 ーネットの紹介文には、
《 人生において常に「ノー」を連発してきた後ろ向きな男が、どんなときでも「イエス」と言うルールを自分に課した
ことから騒動が巻き起こるコメディー。・・・ ある人に「もっとイエスって言わなきゃ」と言われ、半年間、
“イエス”と答え続けた経験を回顧録にまとめベストセラーに。スパムメールの怪しい広告や平和運動への誘い、
週末シンガポール旅行、車のセールス、すべてに“イエス”。「もう1杯?」と聞かれなくなるまで飲み続けた。
ダニーはその日々を「とにかく楽しかった。楽しいパーティでも、つまらないパーティでもいい人に出会える確率は同じ。
パスしていたら始まらない」と振りかえる。誘われたり、勧められたり、頼まれたり、あるいは決断を迫られたり・・。

..........
2574, 我々は 井伏鱒二の山椒魚?
2008年04月21日(月)
山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることが
できなかったのである。 ー『山椒魚』本文より?岩屋から出られなくなってしまった山椒魚が、孤独のあまり岩屋に
迷い込んだ蛙を閉じ込めてしまうという、井伏鱒二の「山椒魚」を読んだときの衝撃が、今でも鮮明に残っている。
学生時代に読んだ時の私の解釈は、「岩屋」を自分のつくった固定観念と、因縁に縛られてしまった現実(生活レベルの環境)
ということであった。岩屋に入った後に、自分の体が大きくなり、その入り口から出れなくなった悲哀である。
人生の縮図のようで、何か残酷にさえ思えたものだ。身近な壮年・老人の一生が山椒魚に重なって見えたのである。
家業に縛られた長男、長女の立場も岩屋にたとえることが出来るが、ただ誰もそのことにすら気づいてないのが、
悲しいといえば悲しい!しかし考えてみれば、全ての人が同じではないだろうか?
頭が大きくなりすぎて出れなくなったならよいが、腹?(中年太り、出来ちゃった婚の子供)が大きくなって出れなくなって
云々で一生、岩屋で過ごしてしまうのが人生だろう。といって山椒魚が大河や大海をすいすい泳ぐこともない。
所詮は岩屋から出たり入ったりをしているので、同じことかもしれないが。 その後人生を重ねて自分を振り返ると、
自分も同じである。これを読んで、ピンとこないのは鈍い?山椒魚の場合、岩屋に餌が紛れ込んでくるが、
最近は岩屋には餌が激減しているようだが。それでも最近は、インターネットという代物が出てきたため岩屋でもけっこう面白か!
・・・・・・・・・
2007年04月21日(土)
2209, 反時代的毒虫 ー4
   U(^(ェ)^)U おはようございます!  ー読書日記ー
「反時代的毒虫」ー河野多恵子、奥本大三郎との対談ー『人の悲しみと言葉の命』から
P-153
奥本:お金を恥ずかしがったり、汚がったりするのは、日本独特のことじゃありませんかね。
河野 やっぱり武家社会の影響だと思います。 武家社会はお米が給料でしょう。
奥野:武家の負け惜しみ。
河野:武家は、一種の俸給生活者。それでお米をお金に替えたりするわけだけど。お金というものに縁遠かった。
奥野:商人階級を特に分離して、それを卑しめる。しかも時代とともに苦しくなって、
   それに頭を下げなければならない悔しさ。 そこから不浄感が余計に出てきた。
P-156
車谷:「お金がないということが生きることの原動力になっている人と、それが無気力を呼び込んでしまっている人と、
   ふた通りありましたね。 前者はなりふりをかまわず、金さえあればっていう考えで生きている。そういう人たちの
   顔色は溌剌としていた。ニヒリズムというか、絶望感というか、そういうものをはっきり意識していた。」
    (09年04月21日 字数制限のためにカット)
ーーー
解)お金に関しては、ここで多く書いてきたが、また小説の中での「金に関する扱い」もシビアで面白い。
 金と女(男)は、人間の煩悩の元である。車谷の「人の偉さは限りがあるけれど、人の愚かさは底なしの沼です。
 僕は人間の本質は相当にタチが悪いものだと思うんです。業が深いというか。 
 文学の原質は、世俗の中の下品な、血みどろの欲望の渦巻く、煩脳や迷いが流れ出るようなものだと思うんです。」
 という言葉が深く染みる。私自身も父親の影響を受けたため、金に関してシビアの方だ。
 父は「人間の金に対する建前と本音」の乖離を冷たくみていた。特にひ弱な教養人と自認している人間の、
 腰の弱さ、底の浅さ、うそと安っぽさを見抜ききっていた。 問題は、それを直視するかどうかである。
 世の中は、やはり8割は金で解決できるのだろうか? 「猫に小判」という言葉もある!   
 馬鹿に金を持たせても、ただ見ているだけのヤツ多いね、ホント!
   m(_ _)m       使い切るヤツよりいいか? どっち?
・・・・・・・・
2006年04月21日(金)
1844, ローマから日本が見えるー4       ォ'`ョ━━(。・∀・)ノ゙━━ゥ★
 第二章 かくしてローマは誕生した。  
以下は、ウィキペデェア百科辞書から「ローマ誕生」について抜粋したものだ。
 ーー
ー建国伝承ー
 狼の乳を吸うロムルスとレムスの像ローマ建国までの伝説は、次のようになっている。
トロイア戦争で敗走したトロイ人の末裔(アエネイアスの息子アスカニウス)が、イタリア半島に住みついた。
この都市をアルバ・ロンガという。時代がくだり、王の息子アムリウスは兄ヌミトルから王位を簒奪する。
ヌミトルの男子は殺され、娘レア・シルウィアは処女が義務付けられたウェスタの巫女とされる。
ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マルスが降りてきて彼女と交わった。シルウィアは双子を産み落とすが、
怒った叔父の王は双子を川に流した。双子は狼に、その後羊飼いに育てられ、ロムルスとレムスと名づけられた。
成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して大叔父を討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力する。
兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとする。
しかし兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺される。この丘に築かれた都市がローマであった。
ー王政ローマの制度ー
 初代ロムルス王以来、多くの一族を抱える有力者は「貴族(パトリキ)」として終身の「元老院」を構成させ、
王の「助言機関」とした。人類の社会史上ローマにのみ見られる特徴として、他国から一族郎党を引き連れて
移民してきた者や、戦争で破った敵国の有力者も一族ごとローマに強制移住させ、代表者を元老院議員にすることで
味方に取り込み勢力基盤とした。これは、エトルリア人都市国家やアルバ・ロンガなどのラテン族都市国家に囲まれた小さな
「寒村」ほどの規模から出発した新生ローマでは、最大・喫緊の課題は「人口増加策」であり、人口が増えないことには、
自衛のための兵力すら維持できないからであった。さらに、奴隷や一時居住者以外のこれら自由市民は「ローマ市民」として
王の選出を含む国家最高議決機関である民会で投票する権利を与えられた。もっとも、この市民による王の選出は共和政期に
共和政の歴史を古くに求めるために作られた伝説とする説もある。ローマ建国の王であったロムルスも治世の途中で、
この民会の選挙で選出(この場合信任)され、改めて選挙で選ばれた王となった。 王の任期は終身。しかし原則として
世襲制はとらない。王の最大の責務はローマの防衛であり、そのため自由市民が「輪番」で兵役を勤める
ローマ軍全軍の指揮を担当した。(全軍とはいっても草創当時は2,000名程度であったと推測される)(。・・)_且~お茶どうぞ
 ーー
以上だが、面白いのはロムスルは王になっても権力を独占しようとしなかったことだ。
彼は国政を、王、元老院、市民集会の三本柱で支えるという制度を定めた。
 (2010年04月21日 字数制限のためにカット)
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 2005年04月21日(木)
1479, 『知りたいことがなんでもわかる 音楽の本』ー1
クラシック、ジャズからワールドミュージック、日本のポップスまで、幅広く網羅した、
音楽の基礎などが書いてある本である。ほぼ全てのジャンルの歴史が詳しく分りやすく書いてある。
入門書に留まらず歴史的な考察も入っている。一冊にこれだけ音楽の体系をまとめてあるのに感心した。
この一冊で、音楽の世界を鳥瞰したような気分になれる。「人生を肯定するもの、それが音楽」というが、
どん底の時に何度も音楽で救われたことがあった。むしろどん底の方が、音楽を受け入れることができるようだ。
音楽の奥底から感じ取られる作曲家の気持ちが通じやすくなるためだ。ボーズのステレオを買ったのをキッカケに、
音楽の世界に急に興味をおぼえ始めたに過ぎないが、先ず知りたいのが歴史と分野の体系であるから、
 (2010年04月21日 字数制限のためにカット)
・・・・・・・・
2004年04月21日(水)
1114, 「ライフ・レッスン」 ー5
 ー力のレッスンー
・ほんとうの力はその人の社会的な地位、銀行の高額の預金残高、華麗な肩書きなどから生まれるのではない。
 それは自己の内なる真正さ、つよさ、誠実さ、いさぎよさから生まれる。どんな人にも内奥には宇宙の力があるのだということに、
 わたしたちは気づいていない。一粒のタネがたくさんの花を咲かせ、毎日、太陽を大空をわたっていくのをみて、そこに力を感じ取る。
・感謝をする人は力のある人である。感謝が力を生み出すからだ。世にある豊かなものはなんであれ、いまあるものに感謝する気持ちに
 根ざしている。真の力、真の幸福、真の幸福は、感謝という高度の技術の中にみいだされるものだ。いま与えられているものに
 対する感謝、ものごとがそのようにあることへの感謝、自己が自己であることへの感謝、生まれてきたときに自分が
 この世界に持ち込んできたものへの感謝。 自己の唯一無二性への感謝。たとえいまから100万年経ったとしても 
 自分とまったく同じ人間は現れない。自分と同じように世界を眺め、同じように反応する人間はいない。
 感謝の種は尽きない。「感謝の筋肉」を鍛えたことがない限り感謝をすることはできないのだ。
 「もっと」というゲームをやめて「もう足りている」というゲームをはじめよう。
・人間は内部に大きな力を持っているが、その使い方には無知同然である。
 真の力は、真の自己を知り、世界のおける自己の立場を知ることより生まれる。
  ー感想
 力のレッスンに感謝ーありがとうーがあるとは思ってもみなかった。しかし考えてみれば、内奥の力は
 今あるものに対する感謝・気づきから出発することを考えれば至極当然のことである。
「感謝の筋肉を鍛える」という言葉も心にのこる。感謝は長年のトレーニングが必要ということだ。
 毎日「ありがとう」という言葉を繰りかえすのも、トレーニングで感謝の筋肉を鍛えあがていることになる。
・・・・・・・・
2003年04月21日(月)
 747, 散る桜残る桜も散る桜ー2
ー雨中の花見
 昨日、散歩がてらの悠久山の花見に行ってきた。毎年のこの時期の恒例の一人花見である。もう十年以上続いている。
他の場所はどうか解らないが、長岡は4~5年に1度があたり年である。季節の微妙なバランスが影響しているのだろう。
今年は例年並であったが、満開時期に雨が続いたという点で外れの年と言ってよいだろう。
 午後一番に悠久山に向かって出発したが、小雨がダンダン大粒の雨になり、丁度悠久山の参道に到着したと同時に
大雨になってしまった。いまさら帰るわけにもいかないし、とりあえず瓢箪池に行く。それでも、いろいろな団体が
テントの中で「やけ花見?」をしていた。雨が桜にとっての天敵ということが散歩をしていて解った。
それまでは大風と思っていたが、雨も桜の花を叩き落してしまう。最近の桜では6年位前に2~3年に大当たりが続いた。
その時に早朝、悠久山で写真を撮っていると、中年の男の人が話しかけてきた。「自分はこの近くに住んでいるが、
これだけの桜は初めてだ!」という。それだけすばらしい桜だったのを憶えている。
ここで桜を見ていると、子供の頃家族で夜きたことを思い出す。参道の両側に多くの屋台がならんで華やかな雰囲気であった。
もう50年も前のことだ 花見こそ一期一会である。吉野とか京都の名所のあたり年の桜は、魂を吸い取ってしまうのだろう。
・・・・・・・・・
2002年04月21日(日)
 383,チンパンジー
TV のドキュメントや本などでチンパンジーの生態の研究が面白い。人間そのものである。まずはその社会、ボス争い。
彼らの社会は厳格な序列が決まっていて、常にその力関係の争いと緊迫が漂っている。特にボス争いが熾烈である。
また2番手3番手の力バランスが、人間の政争とそっくりである。鼻が詰まった時など鼻の穴に小枝を入れ、
くしゃみを誘発したりもする。蟻の穴に棒を入れ蟻を抜く行為もする。 ボスのいない隙に浮気をしたりもするし、
子供期の遊びと虐めも人間とほぼ同じ。嫁いびりや集団リンチなどもある。京都大学の霊長研究所の代々の名物教授が、
数十年にわたりその研究を続けている。その内容がいろいろ出版されている。またTVでそのドキュメントを数年に一度づつ
放映している。今アメリカの研究所で、チンパンジーの一番人間に近いボノボというチンパンジーの研究が進んでいる。
数回そのドキュメントを見た。 言葉の研究やゲームの姿を見ていると「人間との差は何処にあるのだろう?」
と考えさせられる事がある。日本でもアイコという雌チンパンジーとその子供の研究がすすんでいる。
今ではヒトを「第三のチンパンジー」と呼ぶべきという動物学者も出てきている。
人間は狂ったチンパンジーパンジー(猿)というが、言葉を持った猿の欲望の無限の拡大のなせる業か。


3677, 自己を見つめる −4

2011年04月20日(水)

   「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 節目どきは、境遇の節目でもある。特に乗り越えることが不可能と思える壁に直面した状況を「限界状況」と、ヤスパーが
指摘している。 その限界状況に「人生の不条理」に突き当たる。その時に、それまで隠されていた真実が現れ出てくる。
節目を打つとは、人生の不条理を受け入れ目を背けないことである。正中心一点無になり、変化を受け入れること。
  ー 第三章 境遇 ーから、抜粋
【 現在、変えることのできない定めを帯びた宿命的な境遇のなかへと投げ出され、置き入れられて、人生の途上にある。 
 その私たちの無に貫通された現世における存在のうちには、宿命的な境遇のもつ変えることのできない定めが刻印されている。
 ヤスパースが指摘するように、私たちの生存のうちには、どうしようもない「限界状況」が巣くっていると言える。 
 限界状況とは、それに突き当たっては、私たちは挫折し、崩れ去る崩れ去るような、乗り越ることの不可能な壁に直面した状況を言う。
 そうした限界状況に面座して、私たちは途方に暮れた困惑のなかで、解決しようのない自己の人生の不条理の根源的事実に突き当たる。 
 しかし、そのときにこそ、私たち自身の、ほんとうの「実存」が目覚めてくる。
 実存とは、私たち各自の生存の、赤裸々な真実、その拒否できない現実のあり方のことである。
 自己の実存を自覚し、それにもとついて生きるよりほかに、この世を生きる生の根拠を、私たちはもたない。】
【 ハイデッガーが述べた通り、私たちは、それぞれ何らかの世の中に投げ出されと「被投的」存在である。
 その「現事実性」を引き受けて生きていかなければならない存在である。その存在としての自己を生きていかなければならない
 辛い気分を取り払い、重みや憂いを取り払い、それらを忘却させようという気晴らしや、慰めを求めて、無邪気な明るい朗かさ愉悦を、
 好んで受け入れようとする傾向にある。しかし、そうした気晴らしが、瞬時の儚いものということを骨身で知っている。
 その人生の底を見つめ、底知れぬ深遠を予感し戦慄をする。その深遠が、「限界状況」の時に直面する実在である。】
  〜
 自己を見つめるとは、節目の境遇の人生の底を見つめ直すことと、言われると、挫折体験を振り返ることになる。 その意味で、
 挫折体験の中には多くの教えがある。 が、時間がたつにつれ、それを忘れてしまうのが人間の性である。そう人間、皆、馬鹿!
 ・・・・・・・
3312, ゴールドマンを訴追
 2010年04月20日(火)
 1929年から始った世界恐慌では、その直接の仕掛け人達が多くが逮捕された。
しかし、これまで逮捕までされたという話は聞いてない。 何か不思議な感がしていたが、
やっとSEC(証券取引委員会)が訴追に動き出した。 アメリカは金融マフィアが仕切る国でも、歴史に残る
犯罪を、このまま見逃すことは歴史が許さない。以下は、毎日新聞の数日前の社説だが、毒入り債権を欠陥車に例えるとは、
トヨタの喚問もあったこともあり比較するに分かりやすい。例え話は本質をより分かりやすく整理してくれる。
  〜まずは、その部分から〜
  = 毎日新聞社説: 「ゴールドマン訴追 金融危機解明の弾みに」 =
(字数制限のためカット 2011年4月20日)
・・・・・・
2937,レーシック専門眼科医院
 2009年04月20日(月)
姉三人が私と同じく強度の近視。 その姉三人とも「矯正手術をうけて良かった」という。知人の何人かが経験者、聞いてみると
「白内障の手術時にレンズを入れたが、出来たらやらない方がよい」と真剣にいう。 迷いに迷っていたが、去年の半ばに、
春先になったら決断しようかと決めていた。そして春は過ぎようとしているので、 検索に「新潟 レーシック」といれたところ、
何と自宅から数分のところの所在地に「長岡眼科医院」が、あった。三年前ぐらいに出来た(眼科らしくない)ミニ結婚式場みたいな
医院があったが、まさか、そこが気にしていたレーシック専門眼科とは思ってもみなかった。本気にならないと見えてこないものである。
そして、木曜日に予約を入れて、昨日の日曜日の8時半にいってきた。入ってビックリ、ホテルのようなロビーに次から次へと
客が来て、流れ作業のように検査、診察、瞳孔検査、診察、と流れていく。再診は、そのまま診察だが、初診が多いのに驚く。
結局は検査もあったことで一時間半もかかってしまった。そして私の結果といえば「できたらレーシック手術などしない方が良い。
ブッチャケタ話し、貴方の場合は、まだ、その時ではない。少し白内障になっているが、手術するほどではない。
白内障の手術に、近い将来になる。矯正手術は、その時のほうがよい。眼鏡が嫌でたまらないなら、話しは別。
幾つかのコースがあるが、それは貴方の判断です」という結論。 姉が三人、知人が三人が手術をし、その一人は秋葉原の
三井記念病院の眼科の一人者、赤星先生から手術を受けた等を話したのも、〈ブッチャケタ話し〉を引き出したのだろう。 
私も眼は、盲目の危険も伴なうので真剣になる。 それより、自分の初期の白内障の写真を見せられたのは少しショックで
あったが、仕方がないのだろう。白内障の後はどうなるのか聞いたら、緑内障になる!という。 
亡くなた義理の母が、そうだった。あと数年後に白内障になり、メガネから解放される反面、次は緑内障が待っている。
それが老いるということか。 生きていればの話だが。年齢ごとに、それぞれの風景がある。
・・・・・・・・・
2573, 「好き」という言葉の重み
 2008年04月20日(日)
「好きと嫌いじゃどれほど違う、命ただやるほど違う」という川柳があるが、これほど人間の本質をあらわしている言葉はない。
私も好みの激しい人間だが、この感情は、何に由来するのだろうか。「あの男は好かん」とか、「あの女性は私のタイプだ」
とか、思うにつけて、その意味を考えたことがない? 育ってきた環境が似ているとか、教養レベルが同程度とか、
趣味が一緒だとか。反対に「俺は堀井が嫌いだ」と何人から言われたことか。でも、相手が相手だけに心の底では??
私の経験上からみて「嫌い」いう言葉は禁句である。 いわれた方が、それで一生恨まれるからである。 
犬でも猫でも、相性があるから、これだけは如何にもならないことと割り切るしかないのか。
私の好き、嫌いの基準は娑婆経験の中からハッキリ自覚している。女性は長女、血液型A型、教養と品性があり、
少し抜けていて、顔はノッペリ。他人には概ね無関心で、優しい雰囲気があり、明るい人である。大体、好きなタイプは概ね、
これを満たしていた人。興味のないタイプは、冷たいタイプで、神経質な近寄りがたい正統派美人と個性的な自意識の強いタイプ。 
殆どいないが!コンプレックスの強い人。 犬でいうと、宅上犬タイプが好きで、シェパード、コリーのような人は苦手。
同性は、品性と教養のない人と、社会的な肩書きだけで人を判断する人とか、チャラチャラした人は苦手。
商工会議所、ロータリー、ライオンズとかの人間関係に没頭している人種。それと女性関係に派手な人。
軽薄な二代目。 もう一度いyと、品性のない人!。 そんなことをいっていたら、地方では誰も相手に出来ないのでは?
とはいうが、それはそれでよい。そういう御前さん、どうなの?といわれるが、他人に厳しく自分には甘い? 
 ところで好き嫌いということは、如何いうことか?相性ということ? それとも持って産まれた先天的な本質。
これだけは、どうにもならないこと?好きなことを選んで、それを一生を通して追求することが、幸せと不幸の分かれ目になる。
好き嫌いが、先天的なものとすれば、この道理は正しいことになる。 神=自然が与えた本質的素養だからである。
シカゴ大学の心理学者ミハイリ・チクセントミハイによると、人間には“フローの状態" と呼んでいる精神状態がある。
(字数制限のためカット 2011年4月20日)
・・・・・・・・・
2007年04月20日(金)
2208, 下流志向
                  おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ       
一週間前の毎日新聞・文化欄「本の現場」のコーナーに、「下流思考」著者の内田樹氏へのインタビューをまとめた、
{ 若者はなぜ学ばず、働かないのか<「下流志向」内田樹著 講談社> }という記事があった。
本屋では平積みであったが、数回立ち読みをしていた。面白そうだが、買うほどでもない本と判断していた。
この記事と書評で八割は把握できたようだ。言わんとしているエキスを著者から引き出している。
 ー毎日新聞のHPに記事があったので、コピーして置きますー
  ーーー
◇固まった頭をぐちゃぐちゃに
 フランス現代思想の研究者にして武道家が「学力低下」「ニート」という若者をめぐる二大問題を論じた。
約2カ月で10万部と、この手の本としてはかなりの売れ行きだ。丘の上に南欧の修道院を模した校舎が建ち並ぶ、
神戸女学院大(兵庫県西宮市)で話を聞いた。「ここより美しいキャンパスは見たことがありません」という。
  (字数制限のため中略 2010年4月20日)
 ■人物略歴  ◇うちだ・たつる 神戸女学院大教授(フランス現代思想)。
   「『おじさん』的思考」「先生はえらい」ほか。 毎日新聞 2007年4月13日 
ーー
なるほど、と納得する。学生時代は寮生活、ゼミ、クラブ、世界一周旅行と当時としては恵まれた経験を多くした。
その中で一度、「固まった頭がぐちゃぐちゃ」になった経験があるから、その重要性が深く理解できる。
馬鹿の壁を一つずつ叩き壊す経験をしたが、振り返ってみてどこまで壊してきたのか?疑問である。
何も壊していなかったのか、いや壊した!の、自問自答である。
その時に生の言葉を発していたかどうか分らないが、傷口から出る血のような言葉であったことは間違いない。
 ー著者の次の指摘も、ずばり急所をついているー
「ずっと考えていたけれど、背後にある巨大な地殻変動の正体がわからなかった。『オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二著)
を読んで、腑(ふ)に落ちたんです。『それってグローバリゼーションだったのね』と」・・・
 ・・
グローバルぜーションの上に共産圏が一挙に資本主義社会に組み入れられ、更に「ゆとり教育」の失敗が、
無気力の若者を造成していまった。また、アメリカの実質占領政策が、この国民を無気力にしてしまった。
団塊世代ジュニア以下の年代の人たちは、明らかに自ら下流を目指しているのでは?と思うことが度々である。 
彼らは、お消費様なのだ。逆の立場は数パーセントの人たちが確実に占拠してしまっているのである。
この時代の変化に、やはり一度、グチャグチャにして、己を変えるしかない!
変わり方によるが、少なくとも、アメリカ型の消費社会を見据える知識は持たねば!
                  (℃゛)/ また、明日!
・・・・・・・・
2006年04月20日(木)
1843, 桜の話            才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
近くの福島江の桜は昨日・今日が満開である。「花」と言えば桜を意味するくらい桜は日本人にとって特別な花である。
今年の花便りだと桜の当たり年のようだ。私のHPに投稿してくれる井上さんのHPも、桜の花が多い。
長岡にも幾つかの桜の名所がある。自宅から数分のところにある、福島江の桜と悠久山の桜だ。毎年、開花を楽しみにしている。
5年に一度は大当たりの年になるが、今年はその年か如何か?桜をぬきにして日本人の自然観や人生観を語ることは出来ない。
文学・能・歌舞伎・絵画のどれをとっても、桜は大事な役割を果たしている。日本人の考え方や生き方を表しているとも言える。
春になると「桜前線」が天気予報のように(今どこが満開かと)放送される位だ。
十数年前の話になるが、私の近くに住んでいた従兄弟が、桜の散り際を待っていたように「自死」をした。
その納棺の儀式の時、桜吹雪が部屋の中に吹き込んできた。ゾクッとするような不思議な体験であった。
5月3日に、その法事に行くことになっている。  (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが?               
  ー幾つかの花に関する和歌・俳句をHPからコピーしてみた。
世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし    在原業平
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なり      細川ガラシャ
人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂いける         紀 貫之
こえぬ間は 吉野の山のさくら花 人ずてにのみ ききわたるかな      紀 貫之
みよしのの 山辺に咲けるさくら花 雪かとのぞみあやまたれける      紀 友則
色見えでうつろうものは世の中の人の心の花ぞありける           古今和歌集
願はくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ           西行
(以下、字数の関係でカット2009年4月20日)

 桜は死の匂いがする。 一瞬にして咲いて散るからである。それが、また良い! 今朝は強風が吹いている。
 こういう日の強風は、何か腹立たしくなるものだ。     ε(´',_c')зβyё☆βyё
・・・・・・・
2005年04月20日(水)
1478, 居酒屋放浪記
土曜日は家内と至近にあるサエゼリアか、歩いて十数分の駅周辺の全国チェーンの居酒屋に行っているが、
もうソロソロ飽きた。そこで、昔からの居酒屋をあらためて見直すことにして三週続けて行った。
今更の感もあるが、年齢もあるのだろう。家内はもう行きたくないというが。
最近、BS・6で「吉田類の居酒屋放浪記」を放映している。平日の19時半に放送しているが、毎日これを
見るのを楽しみになっている。全国のレトロな居酒屋を訪ね歩く内容だが、吉田類と現場で酒を飲んでいるような
カメラ目線がよい。先々には、何十年も積み上がられた味と雰囲気が漂っている。
店と料理と親父・女将とお客の醸しだす暖かさがよい。それと、その地域の日本酒の紹介も時々ある。
以前に「居酒屋の親父」のミニ小説?を書いたことがあったが。男の楽しみは酒と女と博打であるというが、
軸は一つという。間違いなく私は酒である。そういえば32年前に初めての創業で貸しビルつくった時に、その中に
「養老の滝」を立ち上げて経営したことがある。二年間だったが、忘れられない経験だった。酔っ払いの恐ろしさ、
嫌らしさ、そして面白さをジックリ味わった。居酒屋は客としてはよいが、自分がやるものではない。
カウンターの外と内側は全く違う世界である。人間、酒が入ると別人になる。歪みと誠実さなどの人間性がそのまま露呈する。
割り切ってみれば、これほど面白いものはない。人生の縮図が、そこにある。 書き出したら止まらない。
ーー
これからは私の文に戻るが、東京の中野の居酒屋もよかった。創業以来47年の女将と、それ以来のお客との会話が
何とも味があった。苦しい時の居酒屋の酒の味の何とも心の気休めはなかった。神戸のガード下の中華料理店の油に
まみれたモツの炒め物とか、おでん屋(関西では、たしか関東煮といった)のスジ肉の美味しさ。誰もが、甘じょっぱい
酒のつまみの思いでは数知れずあるだろう。今度、養老の滝の立ち上げの時の話をジックリ書いてみよう。
あまり思い出したくないが、書きたくなったということは、その時のことを受けいれる余裕が出てきたのだろう。
その時の相棒もこのHPを見ているとメールが入った。
・・・・・・
2004年04月20日(火)
 1113, ヘビー級の醍醐味 ー2
 ー家内性手工業ー
昨夜、世界ヘビー級ボクシングを見ていたら、アナウンサーが面白い言葉をいった。IBFの世界チャンピオンのセコンドが
何とトレーナーが父親で、カットマンが母親であった。解説者も長くボクシングを見ているが初めてと言っていた。
その時のアナウンサが「家内性手工業」と言ったから笑ってしまった。上手いジョークである。大型の選手が小型の選手を、
追い回している試合であった。その内容を称して「コンニャクを押さえつけて包丁で叩き切ろうとしているようだ」
という表現もおもしろい。際どい壮絶な試合だからこそジョーク?が出るのだろう。大型選手の名前がまた良い「ゴロタ」
というポーランドのゴロツキあがりの柄の悪い選手なのだ。いつも負けそうになると相手の下腹部を叩きつけて、反則負けになる。 
数年前もタイソンに負けたばかりだ。この試合ではないが、観客席で見ていた母親が、負けそうな息子を助けようと興奮して
「ハイヒール」で、相手の選手に殴りかかったこともあった。この試合は最後の最後までわからない大接戦でドローであった。 
ヘビー級は面白い。そういえば具志堅というチャンピオンが「あなたの職業はどういう関係?」と聞かれて
「肉体関係」と答えた話しを聞いたことがあるが。 まあ、どうでも良いことだが。
 ・・・・・・・・・
 2003年04月20日(日)
746, 笑われている自分を笑っている面
 数年前の話である。 
高校の同級生が、ある会ー精神修養団体の支部ー主催で講演会をやるから、聴講して欲しいと頼まれた。
たまたまその話し手の手記を読んだ事があったので二つ返事で参加をした。300人位の講演会で同級生が開会の挨拶をした。
恥ずかしいそうな顔をしての挨拶が何とも可愛らしい味のある顔であった。それから数ヶ月後に、同級会で顔を会わせた。 
何げなく「お前も、やっと面ができてきたな!」と言うと、本人がすかさず「どういう面か?」と聞いた。
正直にそのまま「笑われている自分を笑っている面になっていたぞ!」と言葉がでてきた。どうしようも隠せない心の顕れが
純粋にでた面であった。それも他人に良かれという仏心のが表れた表情は何とも良いものだ。本人も何か嬉しそうな顔をしていた。
 自分の心の傷を最小にするには、他人に笑われる前に先に自分で笑ってしまうのがコツである。その意味で、この随想日記も
赤裸々に心の奥を曝け出して笑われるのを承知の上で書いているのも「笑われている自分を先に笑っている」ことにになる。
ところで人間の顔というのも面白いものだ。気持ちや品性がそのまま出てしまう。酔っ払った時の顔を鏡で見て
ビックリした事がある。漫画のアトムで小さく出てくるブタの顔そのものの顔であった。実際そういう顔をしているのだろう。
そういう顔をして、総てを忘れたい為飲んでいるのだから、それも仕方がないが。 
顔はごまかせない。 バカな女が必至で化粧をするのも解る。
・・・・・・・・
2002年04月20日(土)
 382,能力とは
人間の能力は無限だ。問題は発揮できる環境をどうやって作り上げていくかだ。それを伸ばす為に、
人生設計ーグランドデザインが必要である。それを前提にして目標の設定を立て、その達成のプロセスと
その結果が能力。したがってグランドデザインが明確でかつ高くなくては伸びない。
 まとめると
・高い志を持ち                 ・ウオームハート&クールヘッドで
・事の本質を見つけ
・自ら常にその時点の最重要の問題を見つけだし  ・失敗を恐れず、その重心と中心点に向かい
・全エネルギーを持って             ・チャレンジとコンペテションとチェンジをする
知性と愛と力のバランスをとり、それぞれの価値を見つけ継続してやり続ける。
その為には好きな事を見つけそれをやり続けるか、それを好きになるかだ。  まあこんなところか。


3676, 自己を見つめる −3

2011年04月19日(火)

        「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  「時間」は簡単のようで、難しい。心の中は、時空をこえた多くの思いで満ちている。
  特に多くを経験した熟年期に差し掛かると、思いは過去に向かってしまう。
  そこには現在の知覚と直感で彩られた抽象画としてたち現れてくる。
  豊かな経験なら豊かに、逆なら逆として! 生きてきたとおり、人生は自分に、その姿を突きつけてくる。
  ー 第二章 時間 ーより
【(p45) 私たちの心は、アウグスティヌスが言ったように、たえずなんらかの出来事を記憶し、知覚し、期待するという働きを、
 本質的に具有している。記憶は、過去の出来事に関わり、知覚は、現在の出来事に関係し、期待は、将来の出来事に向けられ、
 しかも、それら三つのものが別々にあるのではなく、むしろ、私たちの心のなかに、それら三つのものがすべて取り集められている。
 したがって、「過去のものの現在が、記憶であり、現在のものの現在が、直観であり、将来のものの現在が、期待である」と、
 アウグスティヌスは言った。 いわば心という大きな現在のなかに、過去の追憶と、現在の印象と、将来の予期とが、
 すべて取り集められているわけである。 たえず現存し続けるその大きな心が、うしろを振り返って追憶に浸るときに、
 過去が浮かび上がり、いま周囲を注意深く見回すときに、現在が印象深く迫ってき、行く末を思って期待や予期に心を震わせるとき、
 将来が思い描かれるのである。 時間とは、このように、振り返ったり、見回したり、行く末を思ったりする心の働き、
 すなわち記憶や追憶、知覚や直観、期待や予期といった心の作用に由来するわけである。逆に言えば、大きく静かで揺らぐことない
「立ち止まる今」という現在の心の場、いわばそうした明鏡止水の心眼という現在の鏡のなかに、さまざまな過去と現在と
 将来の出来事が映し出されてきて、それらが追憶され、知覚され、予期されるとき、そこに、それらの出来事が、過ぎ去り、現れ、
 到来する時間の諸相において意識されてくると言えるであろう。】
ーー
  現在置かれている、この節目どきに、これまでの記憶と追憶と、現在立たたれている分岐点、そして、これから予期されること、
 その三つが、心の中で濁流のように渦巻いている。 この自分の中に、多くの節目があって、それが現在という幅のある
 時間の中で自分という確かな存在が見えてくる。 これは晩年期に差し掛かった人間に共通しているが、心が、これほど激しいものと。
 人は生きてきた、そのままに老いるとは、その意味である。 現在は、その「立ち止まる今」である。 それでも時間は止まらない。
・・・・・・・
3311, 笑われ力  −3
2010年04月19日(月)
「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
  ー次に、なるほどと合点した箇所を抜粋し考えてみる!ー
*「笑われ上手」に「背伸び」禁物
 ・まずは「私は凡人」とみとめる。
 ・「みんなをリスペクト(敬う)する。そう思えば、自分の中の良い部分も見えてくる。
 ・笑ってもらえたら「笑ってくれてありがとう」という気持ちを持つこと。
   この一歩下がった気持ちが必要となる。
*「笑われ上手」の下ごしらえ、をつくっておく
 ・「ダメな自分物語」を多くつくっておく。出来るだけ短くまとめておく。失敗したその場でつくる。
 ・もったいぶらないで、いきなりクライマックスの話を話題に出す。
 ・キーワードを決めておく
 ・一度、物語を用意したら、あとは白紙の状態にしておく
  〜
20年前から10年前にかけて、かなり遊び人の不動産屋の社長と古町を、飲み歩いたことがあった。
小料理屋や、スナックなどで、話術の巧さに驚き、花柳の世界を垣間見た。。
芸者を相手の粋な遊びは今では夢のようである。あれから10年も経ってしまった。
 彼には、ここに書いてあることは、ほぼ身につけていた。決して他人の悪口や話題をしないのは、当たり前。
自分の昔話も成功談が一割、失敗談が九割。 芸者に三味線を弾かせて都都逸など一ひねりなど、粋な遊び方等など。 
話術も自分を嫌味なく下座におき笑わせておいて、実は笑わせている妙は場数のなせる技(業)
 こういう時代になればこそ、「やれる時にやれる事をやっておいて、良かった」と実感する!(逆に遊び過ぎ?もあったか)
「ダメな自分は、嫌な自分ではない」、これが笑われ上手のポイントと著者がいう。 笑われ力は、自分の中の
ダメな部分や矛盾を笑ってもらう力であり、相手のタイミングで「笑われネタを」提供する。それが受けたからと言って、
もっと笑わせてやろうとか背伸びするのは厳禁。 あくまで相手と場のタイミングに合わせるのだ。
 その「笑われ力」のきほんステップとは
1、「ダメな自分」を見つける 2、「笑える部分」を特定する 3、自分で笑い飛ばしてみる
4、笑顔で他人に話す     5、その結果「心地良い笑い」が生まれる 
  落語の「まくら」では、名人の域に達した人ほど、上手い。「駄目な私」のネタなら膨大な蓄積がある! ったく。
カミサンに耳にたこが出来るほど指摘されている。 大きな経営者大会で講演者が「女房は亭主をバカにする動物である」
と言った時、会場が異常な爆笑があった。大きな会社の立場の人ほど家ではバカにされているのだろう!良いように出来ている。
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2936,「NHKの世界同時不況の双方向解説」を見て
 2009年04月19日(日)
昨日の土曜日の午前10時に、NHKの「そこが知りたいー世界同時不況・危機への対応は十分か?」は、
9人の解説委員による、伯仲した議論と、その合間に視聴者の意見や、世界の識者の論説を挟んだ、
見ごたえのある内容だった。
 ーまずは、NHKのHPの紹介文から
去年9月のリーマンショックから半年あまり。
「100年に一度」とも表現される経済危機は深刻な世界同時不況をもたらしています。
世界各国では、企業倒産や失業者の数が拡大し、予想をはるかに超えるスピードで景気が悪化しています。
国際協調の下で各国が打ち出す経済政策は、景気を下支えする十分な力になっていないのが実情です。
この状況を打開する処方せんを世界各国の政府は持ち合わせているのでしょうか。
そして、日本をはじめ世界の政治指導者たちは、経済危機を乗り切るための責務を果たしているのでしょうか。
4月18日(土)の双方向解説では、私たち解説委員室の経済・国際・政治担当の解説委員が、
世界同時不況への危機対応や解決への糸口を、視聴者の皆さまとともに考えたいと思います。 
 ーー
 解説委員ということで、同質の意見が多かったという感は免れなかったが・・・。
・100年に一度の経済危機なら、100年に一度の対策をたてるべきだが、それが感じ取れない。
・非常に深刻な事態である。大量に輸血しないと患者が死んでしまうという共通認識はある。
・アメリカと中国のG2が、今後大きな役割を持つ。ロシアと中国をプラスしたG9も必要。
・視聴者からの質問で、「100年に一度の経済危機というが、世界恐慌といわない何故か?」に対して、
「GDPの落ち込みは、1929年の世界恐慌と同じだが、失業率は25パーセントに対し、10パーセントで収まりそう。 
 今回は世界の経済政策の協調があるところが前回とは違う。従がって、まだ世界恐慌に入ったと認識されてない」
 の答えであった。 実際は、10年〜20年後に振り返れば、今回の方が遥かに大きいはず。
・アメリカを中心に世界経済を引っ張ってきたが、今後は、新興国に中心が移動する
 ターニングポイントではないか。 今後はアジア中心の経済モデルを作るべきである。
・ドルに替わる基軸通貨は10年20年単位では出てこない。
ー以上、印象に残った部分のメモをまとめてみたが、それほど大したことを言ってはいない。
 今回の恐慌の概要を知らしめ続けるには、良い内容だが、NHKの立場もあって、過激な現実を報道ができないこともあろう。
・・・・・・・・・
2572, ドル覇権の崩壊 ー5
2008年04月19日(土)
「金や銀、プラチナを買って、手元に保有すれば良い」と、そこまで言わしめるだけ、この危機は異常なのだろうか? 
 実際のところ国家単位で自国民を騙すのだから、それも道理。 税務署を暴力団とは言いえて妙である。
 税務調査を経験してから、そう信じていた。 調査の対象は、のっけから被疑者扱いである。
 そこまで疑うなら、脱税をしない方がおかしいのではと実感した。 
 何でしてないの?するのが当然で、その当然のことを我々は取り締まりに来たんじゃないの?という態度である。
 サブプライム問題もバブルの典型で、これをキッカケで世界恐慌の可能性をはらんでいる。
 実態は火の車で、いつ何が起きても不思議ではない状況。
 ドル安、アメリカ国債安、アメリカ株平均値安になると儲かるファンドもあるという。買ってみたいが。
*アメリカ住宅バブル崩壊が世界恐慌の引き金を引く
  P-18
だから、金や銀、プラチナなどの貴金属を買って手元で保有すればいいのである。
銀行の貸金庫にも預けない方がいい。自分で安全確実な場所に隠すのがいい。税務署の調査になど、
やすやすと応じてはならない。彼らは国家強盗団である。正義の法の執行者のふりをして、
日本の資産家、投資家、経営者たちを痛めつける国家の暴力団である。
  (以下、字数制限のためカット、2010年4月19日)
・・・・・・・・・・
2007年04月19日(木)
2207, 犯罪集団の存在を公認している日本
                  オッ(*^○^*)ハ?ヨウ!
 一昨夜の長崎の山口組による、現職市長へのテロ?には驚いた。たまたまNHKを見ていたので、現場の生々しい事態が、
そのまま茶の間に入ってきた。これは明らかに国家に対する彼らの挑戦である。(結果としても)それにしては、
安部首相のコメントには驚いたというより、怒りを感じた。地方統一選挙の最中に現職の市長が、みよがしに射殺されたのに、
当たりさわりの無い一辺倒の言葉である。これでは、なめるわけである。
(以下、字数制限のためカット、2011年4月19日)
・・・・・・・・
2006年04月19日(水)
1842, ローマから日本が見える?3
                        おっ \(*^▽^*)/ はぁー
ー第一章 なぜ今、「古代ローマ」なのかー  
 *この章の印象的なところから抜粋してみる・・
  「歴史とは人間である」
私にとって歴史とは、人間がこれまで経験してきた全てが入っている。キリスト教は千年の間、ヨーロッパ人の精神を
支配してきた。だが、それにもかかわらず、ヨーロッパ人の人間性が向上したとも思われない。
これは結局、人間の存在自体がもともと、宗教によって変えようがないほど「悪」に対して抵抗力がないのではないか。
そうした人間世界を変えていこうとするなら、こういう人間性の現実を冷徹に直視する必要がある。
なぜなら古代ギリシャやローマの人々はキリスト教のない時代に生きた人々であった。・・・・
キリスト教は本来は人間をさらに向上させたはずだ。それが、そうならなかったのは神と信者の間に、
聖教者というフィルターが介在したと考えられる。彼らの存在はかえってキリスト教の教えを損ねているだけでなく、
神と信者のつながりを邪魔をしているとルネサンスのルターは考えた。{私見ー現在の日本の葬式屋僧侶にもいえる}
「水平思考と垂直思考」    
  現在の日本を考える時、改革の遅れに破滅への危機を感じる。
  どうすれば良いのか?それには、一つには、日本以外の国はどの様にしているのか?
(水平思考)
  他には、垂直方向のリサーチー歴史を振り返ることです。西欧的な考えが崩壊している現在、
  ローマ人の生き方は宗教やイデオロギーとは無関係だっただけに参考になる!と・・・
「試行錯誤がローマを作った」
当初は小さな都市国家でしかなかったローマがイタリア半島に勢力を伸ばし、
ついにはポエニ戦役に勝って大国のカルタゴを下し、地中海を「我らが海」と呼ぶまでの勢力になる。
あたかも幸運の女神に導かれて、すくすく発展したようだが、実際は正反対であった。
ローマ人の強さは失敗しても、必ず次の成功につなげようとするメンタリティがある。
彼らは敗因が自分たち自身にあったことを直視する。反省するだけでなく、それを、国論分裂という
活力のロスを避けることを目的とした政治改革という形に結びつけるのです。
こうして完成したのが、帝政に移行するまでのローマの政体として有名なローマ独特の「共和制」であった。
                    まあ茶でも! ~~旦_(。-_-。)
「一級品の男たち」
 「役に立つ」ことだけが歴史のとりえではありません。ましてや、ローマの全史ときたら、素晴らしい男たちが
  次々と現れてくる波乱万丈の物語です。ドイツの歴史家モムンゼンをして「ローマが産んだ唯一の創造的天才」
  と言わしめたユリウス・カエサルはもちろん筆頭ですが、カエサルだけがローマ史ではありません。
 ・ポエニ戦役の天才のハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌス。
 ・ポエニ戦役以後の「混迷の時代」の登場したスッラ。
 ・カエサル暗殺後、初代ローマ皇帝になるアウグストゥス。・・・
この他にもユニークな人物、型破りな人間、あるいは仕事はできないが、
愛すべき人間達が無数に登場する。 歴史とは、やはり人間が作るもの。だから面白い。
             ? つづく  。.@(-ェ-)@ノ~~~バイ?
・・・・・・・
2005年04月19日(火)  1
477, 男はつらいよ
 ある保険会社のアンケートによると、
・また生まれてきて再び 同じ亭主と再婚したいと思っている女性が20%に対して、同じ女房と再婚したいと
 思っている男は75%(40%と60%の調査結果もあるが)女は更に、結婚は嫌だから一人で暮らしたいが5パーもいる
・60代夫婦で、夫が妻を看取るのが15%、 妻が夫を看取るのが85%。
 看取ったあとの男の余生は5年、逆に夫を看取った妻の余生は22年。
私の親戚を見ていると、この数字に納得がいく。女は逞しいものであるし、夫に愛想をつかしているのがわかる。
定年をむかえると妻は外に遊びに出て、夫が家にいて妻の管理をする逆転現象がおこってしまうという。
しかし、もう亡くなった姉から聞いた話。 コーラスの先生をしていて、コンセプトごとにグループ化をしていた。
その中に未亡人の会があったが、「やはり夫に死なれた女性は強がりを言っているが、実際は片羽を失った鳥」という。
しかし、妻に先立たれた夫の方が更に惨めであるが。60歳過ぎると、甘いものでないことは事実。
夫婦がいがみ合っても、お互いが生きているうちが花。 女性の場合、横社会に生きている割合が多いので、
すぐに群れることができる。しかし男は、いまさら横社会といっても難しいようだ。
人生は甘いものではないのは老後も同じ。ライフワークをチャンと創っておかなくては!おかあちゃんの奴隷になってしまう。
 最後は、老後も含めて生きてきてよかったといえる人生を終えることか。
・・・・・・・・
2004年04月19日(月)
1112, 「ライフ・レッスン」ー4
       ー人間関係のレッスン
ー感想文ー
人間関係ほど難しく、かつ人生勉強になるものはない。それも対立している相手や、悩ましてくれる相手ほど
自分の姿の合わせ鏡になる。その軋轢の中に真の自己が表れてくる。また私たちが無意識の中に求めている
ロマンチックな関係の相手こそ、ありもしない自己逃避の空想の相手である。そして勝手にイメージとして作りあげ、
対象に求めていくから幻滅が生じる。解りやすい例としては、成田離婚がある。そのイメージこそ自分を不幸にする
「バカの壁」になる。しかし人間はイメージの中でしか生きられない側面もある。「ブランド」は、その一番リアルな
イメージ商品といってよい。お互い自分自身というブランドをつくりあげ、そのイメージに縛られてしまう。
真実の自己に気づくのに一生かかってしまう。人間関係のレッスンこそ、そのイメージを剥ぐ目的になる。
ー抜粋ー
・人間関係は人生のレッスンを学ぶ最高の機会をあたえてくれるものである。 自分はほんとうはどんな人間なのか、
 何を恐れているのか、自分の力はどこから生まれるのだろうか、真の愛とはどんなものなのか、人間関係は
 それを発見ための場である。 人間関係は多くの場合、なかなか上手くはいかない、時にはひどく辛い
 経験だからだ。だからこそ、学び、成長し、愛し、愛されるための最高の機会にすることができる。
   (以下、字数制限のためカット、2011年4月19日)
・・・・・・
2003年04月19日(土)
 745, 散る桜、残る桜も散る桜
「散る桜、残る桜は散る桜」は人間の死を一言でいっている。他人の死も、すぐに自分の死になる人生の無常を喩えている。
この季節の桜の花を見ていると、ものの哀れをつくづく感じる。桜は生臭い死の臭いがする。人生の縮図を桜の花に感じるのは
歳のせいか? 今年の桜は[あたり年ではなかった?]が、例年並だった。2~3日前が近所の桜の福島江の桜が満開だった。
「悠久山の桜」は今日あたりが満開だろう。悠久山の桜も絶品だ!5?6年に一回はあたり年になるが、雪などの季節の要素が
微妙に関係してくる。桜は毎年思うことだが、自分の生死を考えさせられる。以前、桜の精の女に迷って死んでいく侍の映画を
みた事を思い出した。ゾクッとする日本的エロチックの内容であった。また7~8年前に近くの従兄が桜とともに自殺をした。
多くの写真を撮り残して。 新潟は桜とともに春が来るという感覚である。
・・・・・・・
2002年04月19日(金)  
 381,システム販売
「IBMが物流コストを一~二割カットできるシステムを提案、初年度のカット部分の半額をシステム料として貰う。
 診断料は無料」という提案の講習会に出てきたと、あるメーカの専務が言っていた。
システム販売そのものである。物流システムの販売をIBMが始めたのに時代の変化を感じた。
IBMの世界から集めたノウハウなら一~二割のコストカットは難しい問題でない。私もフランチャイズを2回経験して
システム力には納得している。息子が去年宅建の試験を受ける為に日建学院に通った。授業は衛星で送られてくる画面と聞いた。
「もし日建に通ってなかったら試験は受かってなかった」と本人が言っていた。全国数百箇所の教室で、いっせいに聞くのだから
合理的だ。もし落ちても来年は、無料で通えるとか。なるほどと納得した。これもそのシステムを売っているのだ。
イトーヨーカ堂もシステム70?商品30?という考え方を柱にしていた。
システムを主体に売っているということだ。もの主体から、こと主体の時代の変化である。


3675, 節目どきに ー8

2011年04月18日(月)

  * 体重が減り始めてきた!
 毎朝のウォーキング(サイクリング)を20数年間続けてきたためか体重は標準である。
ところが、ここでスポーツジムに通いだしたため? 半月で学生時代の体重まで落ちてきた。
心労もあるかもしれないが、これは明らかに運動効果である。入会時にジムの人に計ってもらった肉体年齢が
私の肉体年齢より11歳も若かったのに驚いた(54歳)。長年の早朝のウォーキングの蓄積が肉体年齢を
若くしていたようだ。 肉体的には健康的な日々だが、精神的には、どうだろう。
  
  * CTスキャンは大量の放射能を?
 CTスキャンの被爆量が胸部レントゲン写真300倍に匹敵し、数十年後にがん発症リスクは被爆で高くなるという。
私など毎年の検診で20年近くCT検査をしているので、大量の被爆をしていることになる。 
そろそろ被爆の結果が出てくる頃。知らないことは恐ろしいことである。 チャンとした説明を受けていれば、
三年に一度位に減らしていた。 しかし適当な被爆なら、細胞が活性化して、むしろ健康によいとも言うが。

  * 今でも、私にとって3月11日が止まっている
 TVの画面で、被災地の中年女性の言葉が印象的だった。 「私にとって3月11日がそのまま止まっている。
毎日が、そのまま3月11日の繰り返しで続いている」と。 そうだろう、被災者にとっては、あまりにも、
その日の出来事は大変事で、その日をもって生活環境が一変してしまった。 被災者の一人が、
「ここにいる殆どの人たちには、生死の境目にいて、九死に一生を得たドラマがある」と朴訥とした言葉で話していた。
現在進行中の原発事故が、今だに、この災害が終わってないことを告げている。 我々が自覚しているより、遥かに
危険な状態の置かれているが、これがまだ、序曲。 そういう私も、震災ショックによる何の被害者である。
・・・・・・・
3310, 笑われ力  −2
 2010年04月18日(日)
    「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
   笑われることができたら、会話も人生もラクになる!
   笑われ力: 飾らず、威張らず、強がらず、素の自分をさらけ出せる力。

 「笑われ力」では、まずは「恥ずかしいこと」を全面的に認める。そうしてしまえば、まわりもそれ以上バカにできない。
恥ずかしいという感情そのものを曝け出すのである。 私は、平気でサエゼリアに行くし、その話をする。
サエゼリアが値段からみて価値がある思うからである。 世界中の郷土料理を食べてきて味に対する自信があるから、言えること。 
気楽に入る安いイタメシ屋を小ばかにする方が野暮というもの。 SC内の隣にあるスーパーより安いのだから。
あれはファーストフードとみた方が分かりやすい。その辺の出来損ない?のイタメシ屋と比べる方が無知といういうもの。
美味くなくていい、不味くなければ。 日本料理も、居酒屋料理も、フランス料理も、中華料理も食べつくきたので言えるが。
 週末などの外食は2千から5千円の店で充分。もちろん二人で! 「笑われ力」も、実は、それと似ているのではないか。 
笑いで周囲に安らぎを与えることが出来れば、それが73パーセントの「おとな力」の要素として、当人にプラスになる。
「笑わせ力」を身につけるより「笑われ力」を伸ばす方が簡単。 笑われる欠点を自分がよく知っているからだ。
人間の本能が「笑い」を求めている。もし「笑い」がなければ場は息苦しい空気に包まれる。「笑い」が醸し出す「心地良さ」が、
その場を良くする。 注意しなければならないのが「笑わせ力」である。ひとつ間違うと笑いの強要になり、シラケを生む。 
無理をすると、タチの悪い「笑い」になることが多い。 特に第三者の失敗の話題で笑いを誘う「邪悪な笑い」は特に注意。 
 著者は、 笑われ力をつけるには、準備が必要という。 まず、
・ダメな自分を集めてみる
  *過去:失敗談    *現在:無知、悩み、コンプレックス、苦手    *未来:妄想
・そのネタを次の公式(ネタ*表現)に当てはめて話をする
 失敗話、 コンプレックス、 悩み、 勘違い、 なら幾らでもある。ただ、ヒタスラ隠してきただけ。
 まあ、あまり辛らつにならないように、サラリというまでには時間がかかる。 馬鹿?の餌食になることなど恐れてはならない。
 ≪ そういえば、昨夜、近くにできたSCの地元チェーンのステーキハウスで、赤ワインの注文時に、「デカンタにしてください」と、
  言ったつもりが、何と「デカタンにしてして下さい」と言ってしまった。 家内は噴出したが、店の人は我慢していたようだ。》
  味は値段の割りに美味しい。サエゼリアとは違うが、300グラムのサービス・ステーキセットが1980円。二人で食べたが、これで充分。
  タコのカルパッチョとワインで3000円強の値段なら、駅周辺の居酒屋より安い。サエゼリアなら半額だが! これも「笑われ」か!
   ステーキは、数ヶ月、いや半年に一度でよい。 ところで、ステーキハウスに入ったのは10年ぶりか?   ー つづく
・・・・・・・・・
2935,わが人生最良の瞬間 ー2
2009年04月18日(土)
 一番、具体的に納得した「人生最良の瞬間」は小野田寛郎の「29年後の終戦記念日」である。 彼にとっての終戦日は、
昭和20年8月15日でなく、その29年後であった。その間に死亡した二人と共に、ジャングルの中で命令に従い戦い続けたのである。
終戦直後から「降伏命令」のビラがまかれていたが、彼等は信用しなかった。そして29年後に彼を捜しに来た冒険家の
鈴木と遭遇した時も、フィリッピンの掃討兵と思い殺害しようと接近したが、思いとどまり、話をしているうちに、
「命令解除の命令書を持ってくれば投降すると」と、ボールを投げた。それを持ち帰った元上官がやってきて残留命令と任務解除と
投降命令を受けた。その瞬間「なぁんだ」と思ったという。・・・ 投降ということは、それは死を覚悟したもの。・・・ところが、
フィリッピン軍のレーダー基地に着くと、捧げ銃の敬礼で迎えられた。捕虜にそんな礼を尽すわけがありません。
さらに面会したランクード司令官も、投降の意味で差し出した軍刀の受け取りを拒否しました。そして翌日、マラカニアン宮殿で
会見したマルコス大統領がこう話したのです。「我われは、それぞれの目的で戦った。しかし戦いはもう終わった。
私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為すべてを赦します」 もう疑う余地はありません。昭和49年3月11日のその瞬間に
私の身柄と生命は保証され、「私の戦争」は終わりました。帰国のためにマニラ空港を出発する私に、フィリッピン空軍の軍楽隊が
日比両国の国歌と「ハッピーバースデー」を吹奏してくれました。死を覚悟した戦闘の日々から解放されたのだと、
心から生きる喜びを噛みしめました。
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 以上が概略だが、この人の人生最良の日は、まさに昭和49年3月11日であった。これほどの最良に日は、過酷の日々が兵隊生活の
三十数年があればこそである。こういう体験記を読むと、迂闊に「わが人生最良の瞬間」など言ったり書いたりは出来ないと
思い知る。彼の一言一言が、過酷な経験の裏づけをもって光り輝いてくる。そういえば、人生最良の瞬間より、人生最悪の瞬間が
心に残るのは如何いうことなのだろうか?「良いことが多くあったが、嫌なことも多くあったな?!」と、「嫌なことも多くあったが、
(字数の関係でカット2,011年04月18日)
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2571, ドル覇権の崩壊 ー4
 2008年04月18日(金)          ー読書日記
 2001年の9月11日のテロは、ことアメリカのドル政策、石油にとって理想的な事件であった。
 そのため、当初はアメリカの国家としての陰謀か、意識的に見逃した事件ではないかと疑われた。
 アラブ民族、イスラム諸国にとって有利の事件だったのだろうか?と考えると、疑問は増す。
 価値のない紙切れは、ドルだけではない、円もしかりである。 私は、少し落ちついた40歳を過ぎた頃から、
 意識的にお金を使うことにしていた。といって、子供二人を大学に入れて毎年、1000万は使うこと!である。
 貯めたところで、それが通帳の数字以外の何ものでもないことを父親の死に様から、学んだ。
 この程度は使ったうちではないが、普段の生活は節約をしていたから、年2?3回の海外旅行など、
 割り切って使うべきことができた。この本、読めば読むほど心が寒々としてくる。
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第三章 かくしてドル覇権は崩壊していく
  P-155
今や処刑されたサダム・フセインは、2000年11月にイラクの石油輸出をユーロ建てにすることを要求した。
彼の公然たるアメリカへの挑戦とその傲慢さは、ドルへの直接の脅威であった。彼がもっていたイラクの
(字数制限のためカット、2010年4月18日)
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2007年04月18日(水)
2206, 反時代的毒虫 ?3
       b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
「反時代的毒虫」ー中村うさぎとの対談「覚悟の文学、命がけの浪費」ーより
浪費癖で借金してでもブランド品を買いまくりを売りにしている「ショッピングの女王」こと、あの中村うさぎ、との対談である。
 (字数の関係でカット2,008年4月18日)                                バイ! UvU/?
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2006年04月18日(火)
1841, 理解する技術ー情報の本質がわかる?2
     +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨ  ー 読書日記             
□第3章ー文章から情報を読み取る基本テクニック
  (字数の関係でカット2,008年04月18日)
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2005年04月18日
(月) 1476, 24歳の日記
  ここで22歳・23歳の日記に続いて「24歳に日記」が始まる。 数回だが。あまり書きたくないのが本音であるが、
自分を見つめ返すためには、目をそむけてはいけない足跡である。途中から、日記をカード式に切り替えたが、
そのカード式の日記帳は全て捨てた。今から考えてみたら残しておけばよかった。残っている日記帳には十数日分は書いてあるが、
大まかにしか書いてない。まず、生活信条が書いてあった。 真面目に書いたものである。それが若さであろう。 
35年経っても、ほとんど変わってない自分がそこにいる。それでは24歳の日記ー十数日分だが、開始である。
直視したくないので、数回で終えるが。中原中也の詩の中に、当時の私の気持ちがそのまま書いてあった。
当時、ある姉に勤めたら薄れ汚れてしまった感じといわれたが、当時の悲しみが直に伝わってくるものだ。 
それと中原中也の心も。それと当時の両親の温もりと愛情もそのまま自分の中に残っている。人は愛情の中で生かされて
いることを実感する。全ての人に感謝をしなくては。特に両親に対して。昨夜、独身時代の自分の夢をみた。
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1970年3月  ー私の生活信条
誠実であることー動機においても結果においても常に清潔であること、愛情を基本とすること
   ー常に相手の意思・立場を理解をして、それを持って自己の満足とする毅然たる態度でー何があっても自分を見失わないで、
自分の善に従うこと、善悪を明確にしておくこと
   ー他人(自分以外の人)に対して、自分と等しく愛するように勤める善悪の基準は他人に対して、いかに自分と同様に
    満足せしめるかにおく打算においても、同じ扱いをする動機において不純はさけることとする
    (最後に拠るべきは純粋な動機のみである)
人間関係ー常に相手側と同じ立場におく    ただし、能力レベルが同等に対してであるが
不言実行(無言実行)ー
    有言不実行の矛盾に陥らないこと 経験を振り返ると無言実行が一番実効があった
    言葉が先に立ったときは、自信のないときと自覚すること
自己投資をすること
    人生とは、投資である。 自分に対して、そして創造行為もである
    与えられた時間、物、金、チャンスを投資に向けること
克己ー 自立性と自主性を持って,他人志向的個人主義を目指す    そのために己に打ち勝つこと
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 1970年3月21日
現在、自分を見直すために会社を辞めた。そして、現在は長岡の自宅にいる。 会社には丁度1年在社したことになるが、
いざ辞めてみて解ったいたことだが、動揺があまりにも大きい。今も夢の中にいるようだ。辞表を出して、2〜3週間大きな
揺れがあった。色いろのことがあったこともあるが、自分も人間だったのだ。これからは決心をしてしまったからには1年ジックリ
勉強のやりなおしである。コンピューター関連は、技能職でしかないので私には向いていない。マーケッテングのほうも面白そうだ。
義兄に西村さんに聞いてみようと思っているが。この一年間どうすれば一番効果のある時間を過ごせるか考えてみなくてはならない。
それより、この一年で一生の自己設計をつくるのがポイントになるだろう。そのために如何するかを考えるべきである。
日記を考えると、即自と対自の会話である。また自分自身である時間。 反省と焦りが交差するところである。
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2004年04月18日(日)
 1111, 「今時の若いものは!」
エジプトの遺跡にも「今時の若いものは・・・」と書いてあったという。数年前から、数人の知人が会社の後輩に対して
「今時の若いものは!」と、批判的にいっている言葉が気になった。年寄り臭い嫌な響きがあった。若い人にも個々それぞれある。
この言葉は自分の価値観が若い人の変化を受け入れられない心理から出ている。「それにしても、今の若いものは!」
という言葉が出てきそうだが。一年前、アメリカがイラクへの侵攻から、若ものの間でイラクが究極の旅行先としてのターゲットに
なっているという。今回のイラクの人質騒ぎも、その類の範疇でしかない。ボラティアの女性だけが救いであったはずが、
??を吸いにいく丁度よい名目?で、NPOを利用してだけ? という疑惑も浮かびでてきた。
18歳の坊やも、共産党一家のパフォーマンスでしかなかったのか。といって、彼らには彼らの正義があったはずである。
インターネットの検索で調べたら、私が書いた文章より、内容の濃いものでてくるから困ったものだ?
しかし、このテーマを考えたらこそ、より深く見えてきたこともあるが。
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 演題:「近頃の若者」 養老猛
この講演は平成10年6月に鎌倉芸術館小ホールにて行われました。その時の講演の録音テープをおこして原稿を作成し、
養老 孟司先生に御了解を得て、このホームページに掲載しています。「近頃の若者」という題をいただきましたが、
私ももう相当な年になったのでこの題がちょうどいいのではないかと思われたのではないかと思います。
「今時の若い者は…」というのは一番古くは、エジプトのパピルスに書いてあるといいます。ですから紀元前の頃から年寄りは
若者のことを「近頃の若い者は…」という習慣というか癖があったようです。自己紹介いたしますと、私は1年だけをのぞき、
小学校からずっと学校におりまして卒業してからは教師になり、東京大学に57歳までおり、58歳からは北里大学におります。
ですから仕事では若い方とお付き会いするというのがほとんどでございました。戦後50年を過ぎましたけれども、この半世紀で
世の中が相当変わりました。その間に若い方もずいぶん変わってきたというのは当然でございます。
私が小学校に入った時というのは戦争中でございまして、1年生の時が昭和19年でした。ちょうど東京で空襲が始まった頃です。
その頃病院に入院したことがありましたが、ご存知のように病院の食事というのはひどいものですが、そのひどいのが戦争中で
したから一層ひどいものでした。その時代、親は食べていくことで精一杯。子供たちは青天井で、学校が終わると川へ行って魚を
捕ったり、空き地で虫取りをしたりの生活でしたので、学校は大変ありがたいところでした。私がまず最初に「近頃の若者」
と違いを感じたのは、団塊の世代でした。  (字数の関係でカット2,009年04月18日)
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2003年04月18日(金)
 744, まずは一日一図から ー2 
これを実行して10日が経つ。 三日坊主と思っていたが、今もしっかりと続いている。
始めたら面白いのだ。一番面倒で避けたい思考が面白いのだから、大変な習慣であり収穫である。
この歳で色いろのことが解り始めている、この鈍さも実感する。 ポイントは
・初めに漫画を中央に小さく書き込み、    ・それに、漫画の「声の噴出し」を書いてしまう。
・そして漫画の上にテーマを書きこむ。    ・「噴出し」に思いついたことを気楽に書き込んでいく。
漫画の人形を書いたケースの場合、自分の分身と思ってしまう為か、頭の中から色いろなことが浮かび上がってくる。
「半分遊び気分で問題の追及」を、結果としてしてしまう。「左手を上に挙げ、右手を腰に当てている小さな人間の絵を
中央に描いて、左右に三づつ声の噴出しを書き込む」と、どういう訳か難しい問題でも、気楽に考えられるのだ。
 読書法で10?100倍の速度が可能という本が多く出版されている。 私の場合、その方法を身につけて10倍以上の
読書力になった。それもこの1^2年である。しかし、「一日一図」を始めてわずか10日で、10倍の思考力が増えた?ようだ。
その程度の頭脳でしかないのが、事実だ。以前から天才のノート法とかいう本を読んで、色いろ工夫していたが「毎日一図の習慣と、
漫画を中心に描いてから、埋める方法」がよい 随想日記を書き始めて、文章力と文章量はそれまでの十倍に増加。そうすると、
「読書力と文章力と思考力」がこの数年で10倍になったことになるが、集中力がそれだけ増えた事は間違いない。
これらの方法は過去からいくらでも在ったのだから、今になってやっと気づいたに過ぎない。
この随想日記を続けてきたことが、こういうノウハウを身につかせているのだろう!
・・・・・・・
2002年04月18日(木)
380, 姉正子さん
 姉正子が亡くなって2ヶ月すこし経つ。去年の6月に来て,3時間半なにを話したか? 大体がこんな内容であった。
・自分の生い立ちー声楽のコンクールで、中沢桂に高校時に負けたことが一生の分岐点であった
・高校しかいけなかったハンデキャップが一生ついてまわったこと
・倒産時に私に助けてもらったのが、地獄に仏であった
・今回自分はセンガンでないが、主治医がセンガンと書いてくれた為、保険が全額降りた。
・いつもこの家に来ると、肩に重い何かが被さるが今回はないのが不思議だ
・両親の思い出、今までの思い出
・なにがあっても自分は生きぬくーEM菌を飲んでいるので順調
・病気の状態ー入院の後先の話 彼女にとって、「もしかしたらこれが最後の実家帰り」という気持ちがあったのだろう。
 彼女にとってここは(自宅)やはり実家なのだ。 この内容から私なりの彼女の心理分析をすると
・この長岡の街で、この世界を出ることができなかった一生であった。
・やはりやってはいけない事?をしてしまった無念、後悔。
・両親に対する恨みと、反面後悔。
・病気の恐怖に対しての自分の気持ちの説得ー自己詭弁
一昨年の手術の前日の20時過ぎか電話が鳴り、「実は自分は肺がんで明日手術。最後の電話をやはり貴方に電話をしてしまった。
これからお風呂に入って身体を清め、手術に臨む。もしものことがあるかもしれない。いろいろ有難う。」
ー私「もし間違えてあの世に行ったら、両親によろしく。それとうまくやって。」
ー正子「仲良くするし、待ってるからね」 だいたいこんなものだった。   面白い人でもあった。

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