堀井On-Line



3664, 閑話小題

2011年04月07日(木)


  * 駅やSC内のATMが閉鎖は
 今だに駅やSC内のATMが節電を名目に閉鎖されたままである。
これは間接的、現金引き出しの窓口規制そのもの。支店、営業所内のATMは開かれているが数は僅か、不便そのもの。
経済的側面からみたら、大震災と原発事故全体を大地震とすると、大津波は本格的経済恐慌で襲いくる。
電力と節約の呼びかけは、消費を冷やす効果は充分にある。
  
  * スポーツクラブだけは盛況
 家内がスポーツクラブに10年以上も行っているので、同行してみた。
驚いたのは平日の午前に関わらず、中高年の人たちで満杯だったこと。100人位に人たちがマシーンと共に
無言でひたすら運動していたことである。雰囲気は開放的で明るい。分かっていたら、前から通っていただろう。
「平日の10時から17時までの時間帯コース」の会費が大よそ6千円、10〜22時のフルコースだと8千円。 
週に4日×4=16日が平均とすると、一日400円〜500円。 施設からみてそう高い感じはしない。
それより、歩いて15分のところに、公営施設の中に、大きなジムがある。これは、一回300円、3月で1800円。
以前、入会しそうになったが、止めたことがあった。 早朝のウォーキングか、サイクリングをしていたが・・・これからは!

 ・・・・・・・
3299, 金融世界大戦 という捉え方
 2010年04月07日(水)
 * 軍事戦争から金融戦争へ(兵器から債権へ)
 経済評論家の田中宇が「金融世界大戦」という造語で、現在の金融恐慌の本質を説明している。
さらに「金融兵器」という恐ろしい言葉が加わったのである。これをアメリカ国内だけでなく、世界中に時限爆弾入り兵器
という危ないやつである。 何処かで爆発をすると、それは繋がっていて連鎖爆発をする危険なシロモノ。
「世界的な軍事戦争が出来なくなった代わりに、金融による世界覇権をめざした米英が、破壊兵器=金融債権を武器に世界制覇を
狙ったが、それが敢え無く破綻し、世界を恐慌に導いてしまった。 一時、世界経済を米英を親とした「ねずみ講」をつくり上げ、
世界中のものを紙切れで買い漁っていた実態が崩壊した。 これで世界中の貨幣制度の根底に大きなヒビが入ってしまった、しかし
大元のアメリカは破壊した金融機関やGMなどを国有化し、何とか体裁を保っているドルを注入し、立ち直りを図っている。
詐欺師は元もとの金(キン)や資源を温存しているから、ドルや債権の価値を徹底的に下げてしまえば、傷は最小で済む。 しかし被害者は
輪転機を持っているわけでない、その負債を負わされ国家破綻、すなわちハイパーインフレで国民の金融財産の大部分が消滅する。
 世界の国々はアメリカの、こうしたネズミ講の危なさを知らずにアメリカ国債や、アメリカの銀行が発行するCDOやCDSを
見境なく買ってしまったのである。 現在、各国が何とか金融破壊兵器を爆発させないように必死に持ちこたえているが、
これも時間の問題。 ユーロ圏か、アメリカか、中国から、その爆発が始るのは防ぐことは不可能である。 破壊兵器(債権)は、
世界中にばら撒かれ、連鎖して世界中を破壊する。 それはデフレスパイラルから、ハイパーインフレへの転換期に始る。
日本はアメリカの金融占領国の悲哀を株価暴落か、(一時的な円高の後?に)円安という形で日本を襲ってくる。 
「気がつきゃホームでゴロ寝」で、IMFの管理国家として裸同然の国に落ちぶれることになる。
 アメリカは第二次大戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、冷戦、そしてソ連の崩壊後は、アフガン、イラク戦争と戦い続けている。 
ところがソ連が弱体化を始めた1980年頃から、米英は軍事から金融戦争に軸を変え始めたのである。その一つがプラザ合意
から始る日本のバブルと、破綻である。 そして、破綻した日本の金融株や土地を買い叩き、大きな利益を得たのである。
そして、次はイスラムのテロである。軍事産業にとって、これほどの都合の良いことはない。2001年の9・11テロをキッカケとした
アフガン、イラク戦争への突入である。 そこで軍事費を捻出するに何かないかと考えて、米国内の下層への融資を思いつく。
そして、その債権を束ねたバンドル債権をつくり、もっともらしい「格付け機関」をつくり、格付けを高くして金融商品として
世界中に売りつけたのである。 一握りの連中は、それが金融破壊兵器になることを充分に知ってである。 
 そして、ある時期が来ると丁度良いターゲット(リーマン)を見つけ破綻させたのである。 世界中の資産家と金融機関は
サブプライムローンだけんでなく、不動産担保債権や、その損失を保険にした債権などを優良債権と信じて買ってしまった。
実は、これは最も危険な金融武器である。 アメリカ国内にも売りつけているが、その数倍は世界中に販売済みである。
その被害者は、国家管理にして、自分の輪転機で刷った金を投入すればよい。しかし、世界の国々は、それができないのである。
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2924,中沢新一の『三位一体モデル』 −3
 2009年04月07日(火)
『三位一体モデル』中沢新一著   読書日記
 * 煉獄の発明
キリスト教の資本主義にとって、都合の良い「煉獄」を発明した。中世にこれを発明したのは、実に都合の良い大発明にある。
それまでは天国と地獄しかなかった。しかし、この発明で、いったん地獄に落ちた人が煉獄に地獄から這い上がれば、
上から天子がやってきて、天国にむかえてくれますよ、と、こんなことを言い出したのである。こういう経緯を経て、
資本主義が動き出したのである。これは恐らく商人のために考えられたもので、動物の殺生などに従事していた職人たちも、
その恩恵にあやかった。それまでは彼等には、まったく救済がなかった。だから、生前、極悪非道の金貸し商人だった人が、
死後に、煉獄の山を苦労して登り、天国に行ったという話しがでっちあげられるようになった。こうした経緯を経て、
西欧州の資本主義が動き出した。ガシャガシャと動き出したのが13〜14世紀。それから、16,17世紀を経て、
19世紀にフル活動をするようになった。もし煉獄とうの考え方がなかったら、今日の西欧資本主義はなかった、といえる。
ようするに一神教である限り、資本主義の潜在力は抑えられてしまう可能性があった。発達を可能にしたのは、それに加え、
増殖の原理を飲み込んでいたからである。キリスト教は、西と東に分裂したが、東のギリシャ、ロシア、東欧のキリスト教圏では
資本主義は実現できなかったのも「三位一体」の理解法にあったのである。1990年代まで続いた東西対立の、
いちばん深い根っこの部分にも「三位一体」は関係している。さらには、現在のロシアの経済が何故あんなに混乱しているのか、
また、70?80年前に。その地に何故社会主義なるものができたのか。これも、この三位一体の歴史問題と関わってくる。
 ーー
煉獄という言葉を知ったのはロシアの文豪ソルジェニツゥインの『煉獄の中で』である。
地獄の一歩手前のところと解釈していたが・・・
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2560, ホモ・ルーデンス ー2
2008年04月07日(月)
          (*´∀`)」" おはよう☆彡
子供の頃、無我夢中で遊んでいた頃の楽しさ、あの時の無我夢中の気持ちが人生の中で大きな位置を占めていたのである。
人生の要諦、「よく学び、よく遊び、よく働く」のうち、一番満足度が高いのは、「よく遊んだこと」である。 
 ただし「よく」である??。 まずは遊びの本質と定義について書いてある部分を抜粋してみよう。
 ー文化は遊びのなかにはじまるー
遊びは文化よりも古い。動物は人間とまったく同じように遊びをしている。遊びの基本的な要素のすべてが、
すでに動物の戯れのなかにはっきりとあらわれている。子犬が遊び戯れているところを観察してみさえすればよい。
子犬は一種の儀式めいた身振り、動作で、たがいに気を引きあったりする。相手の耳を血が出るほど噛んではいけないという
規則も守っている。まるで恐ろしく怒っているかのようなふりをして見せる。
もっとも重要なことは、子犬はこれらすぺてを明らかに嬉々として楽しんでやっているということである。
このように動物の場合と同様、人を夢中にさせる力、〈面白さ〉のなかに遊びの本質があり、〈面白さ〉こそ、人間にとって
 もっとも根源的なものである。人類が共同生活をはじめるようになったとき、その行動にはすべて最初から
遊びが織り交ぜられていた。 たとえば、人類の最初にして最高の道具である言語である。 
言語によってものごとを表現したり、伝えたりするという行為はいつも遊びながら行われるのである。 
どんな抽象の表現でも、その背後にあるのは比喩であり、いかなる比喩のなかにも言葉の遊びが隠されている。
 *遊びを定義すると
遊びとは、ある限定された時間および空間のなかで行われる、自発的な行為もしくは活動であり、自発的に受け容れられた、
絶対的な拘束力を持つ規則に従っている。遊びの目的は行為そのものにあり、それは、緊張と歓びの感情を伴い、
また〈これは日常生活とは別のものだ〉という意識に裏づけられた、何ものかをめぐる闘争ないし表現である。
このような遊びが地球上のあらゆる地域に同じような形式や観念のもとに存在することが確かめられているが、
このことは、人間に遊びという機能が先天的に与えられているということの何よりの証拠である。
 ーー
日本文化の典型の、茶道とか、華道は、遊びなのか、それとも修養なのか? 前記の内容からしたら、遊びそのものということが
出来る。ひと時の安らぎの茶のひと時を、茶道という文化に高めたのだから粋である。パソコンのインターネットも、
携帯電話も子供や若者の遊び心から飛躍的に普及した。ホモ・ハーベン(働き蜂人間)だけでは人生はつまらないだろうが、
仕事を遊びまで昇華させれば、良いだろう。 死を直前にした人間で、もっと働いておけば良かったと後悔する御仁は少ない。
もっと色いろなことをして楽しみたかった!という人が大部分である。     。・∀・)ノ ホナ!
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2007年04月07日(土)
2195, ファンタジー文学の世界へ ー1    *^○^*)ハ?ヨウサン!
「ファンタジー文学の世界へ 」ー主観の哲学のためにー 工藤左千夫著 (成文社) 
                           ー読書日記
一般的にファンタジーとは、夢 のような空想を元にした小説のことをいい、現代社会から、かけ離れた人物、
 事実、世界観がテーマとなる。前回にも書いたが、ファンタジーには、二通りのジャンルがある。
ハイ・ファンタジー とロー・ファンタジーである。*ハイ・ファンタジーとは、社会構成・環境・文化など、世界観が
詳細に設定されたファンタジー小説のことです。 過去にも未来にも、世界のどこにも存在しない別世界を題材にしている。
*それに対しロー・ファンタジーは、現代を舞台にしたファンタジーで、ちょっとした不思議な世界を題材にする。
   情報社会の中で合理的世界観から一歩はなれて、非合理的な世界を持つことで合理的社会を鳥瞰することも必要となる。
この本はファンタジー感覚の発祥と変遷について書いている。初期ファンタジーは、強烈な目的性を志向し、その通過儀礼を
特徴としている。 それに対し現代ファンタジーの傾向は、目的よりも存在論的視野を目指す傾向が強い、と論じている。
   この本の面白そうなところを、幾つか抜粋してみよう。
(字数制限のためカット 2010年4月7日)
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2006年04月07日(金)
1830, あちら側の世界 ー8
          (’0’)d おっ w(゜Д゜)w ハァ?
「ウェブ進化論」の中で、「グーグルアース」を紹介していた。地球地図・映像検索である。
早速、グーグルのHPよりソフトをダウンロードをして使ってみた。ただただ驚きである。
月の位置から地球に近づいて、見たい場所に降りていって、家や車や木まで見えるところまで接近できる。
もちろん首相官邸や皇居の中もみえる。これで世界中の都市を見ていると、雲の絨毯で下界を飛び回っているような感覚になる。
殆んどの大都市の衛星写真が貼り付けてあり、家の屋上や木や池まで識別ができる。使ってみると、リアルな感覚になる。
「グーグルアース」と、グーグルの検索に入れたところ、皇居や首相官邸、インド沖の大津波の写真、アメリカの本土のステルス
(飛行機)まで紹介されていた。数日前の新聞に、「インド政府がグーグルアースの写真公開に抗議!」という記事が載っていたが、
これでは問題になるだろう。 世界中の政府が衝撃を受け戸惑っているというが、当然である。
北朝鮮など、嫌味か?、かなり詳細の平城の写真があった。原子炉?らしき写真もあった。大都市圏以外は地形認識までしか
できないが、有名観光地には、その情報の入った小さな箱が貼り付けてあり、クリックをすると見ることができる。
検索で「グーグルアース」のキーワードを入れソフトをダウンロードをすれば、誰でも無料で見ることができる。
マウスでズームアップもダウンもできる。手塚治のアトムの目を持って世界中を見ることができるということだ。
この大本の「グーグルマップス」のAPIを公開しているが、リクルートの不動産関連のHPに、マップで日本中の都市圏の場所に
矢印を当てると、地図がアップででてきて、周辺不動産物件の詳細を紹介をするサービスがある。現在は地図だが、
近い将来は写真になるのだろう。アフガンやイラクでは、アメリカ軍がこれを多用して勝利に導いたが実際は顔の認識まで
可能という。スパイモノに出てくる衛星利用のSFもどき内容が、実際に個々人で使えるようになったのである。
「ウェブ進化論」を毎日、繰り返し読んでいるが読むほどに情報化社会の実態がおぼろげながら見えてくる。
ー以下は、あるHPにあった内容だが解りやすく紹介してあったので、貼り付けておきますー
(字数の関係でカット2008年04月07日)             (v^ー°)バイバイ!
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2005年04月07日(木)
1465, なんじゃい、こりゃ!
またかい!このホームページを見ている常連なら、オーバーな表現と思うだろう。
 ただ実感でいう正直な話で、その時書いた文章である。
 ーー
たまたま日本酒を取引先から貰って飲んだ感想をそのまま書く。「これは今までとは全く違うほど美味しい酒ですよ!」
といって置いていった酒である。その人から、普段は飲まないような極上の酒を数回か貰っていたが。
そのことも忘れて口に含んだと同時に、その美味さにビックリ仰天。新潟の土地柄もあり美味しい酒は数限り飲んできたが、
これが特別なのである。早くいえば、今まで飲んだ日本酒で一番美味しい。「嘘だろう、今まで日本酒に関しては美味しい酒は
飲んできたのに。自分が変ではないだろうか」と、飲んで何回も口に含んでみた。 しかし美味しいのである。日本酒に関しては、
この随想日記にも書いたことがあるが、美味しい酒が飲める環境にあった。地元の人がみている前提で書いているが、
美味しいものは美味しい。そこで、その酒の箱を見てみたら、ヤッパリ仰々しい印刷があった。
「ロンドン開催ー第12回国際酒祭り酒類審査会ー世界第一位受賞」と書いてあった。
「天領盃 大吟醸」が、酒の名前。 メーカーは佐渡の「佐渡吟醸株式会社」。
このラベルにつられて、美味しいと思ったのではない。口に入れた瞬間、ただ水を飲んでいるようで何の味もしなかった。
そして二口目を口に入れたとき、何ともいえない香りと味がしてきた。朝日山の久保田(万寿)や、吟醸古酒を少し
薄口にした味というと、かなり大雑把な表現になるが。酒の世界の深さを殆ど知らないが、底の知れない世界があるのだろう。
そういえば先日TVで、メーカー名は忘れたが四号瓶で数万円もする日本酒を紹介していた。
数十年かけて醸造したものであった。 どんな味がするのだろうか。ワインなどは、もっともっと深い世界があるのだろう。
ー酒通がこの文章を読んだら、この程度でと鼻先でわら笑うだろうがー
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2004年04月07日(水)
 1100, 撃墜王の秘密
ある本の「撃墜王の戦法」がなかなか面白い。そのまま書き写してみる。ー第二次世界大戦で「独特の戦法をとった」
二人のパイロットは、ハルトマン少佐とその師であるロスマン軍曹。ハルトマンは確認されているだけで敵機352機、
ロスマンも80機以上も撃墜している。その戦法を最初に考案したのはロスマンである。彼はパイロットになりたての頃、
完治不能の傷を負った。普通、接近戦になると体力が勝っている方が有利であった。そこで普通の戦法ではとうてい
生き残れないと悟ったロスマンは、考えつくした末、自分の体力を補うテクニックを編み出した。
彼は体力戦勝負の接近戦をやめて、計算しつくした戦法に切り換えた。一つ一つの攻撃に、それぞれの計画を練り上げた。
敵に実際に銃弾を浴びせることを考えないで、どうチャンスものにするか、さまさまな情況を分析することに多くの時間を
費やしたのである。彼が攻撃に出るのは確実に勝利が取れるポジションを取れたときだけだった。
理想的な標的となった相手にだけ、ありったけのエネルギーを使って集中攻撃をしかけるのだ。
ハルトマンは、ロスマンの「相手をよく見極めてから集中砲火を浴びせる」戦法が優れていることを、自らの戦果で証明をした。
 ー
ー以上のことより学ぶことは、完治不能の腕を持ったことで、考えつくして全く違った戦法を自ら作った
ことである。色いろな情況の研究に全てのエネルギーを入れたことだ。 孫子の兵法と同じである。
普通のパイロットは、接近戦の銃撃の手法を研究したのに対して、確実に勝利の取れるポジションとりの研究を
  していたのだ。 チャンスが来るまでエネルギーと知識の保存を充分に蓄積していたのだ。
過去に上手くいったケースを考えると、大体がそうである。勝てるポジション取りであったのだ。
人の真似とか、表面を見て準備不足の事業は失敗をしてきた。といって、この時代ジックリ準備といっている間にチャンスは
一瞬で消え去る。難しいところだ。一病息災というが,一つ病気を持っていた方が健康にとってよいのも事実である。
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2003年04月07日(月)
 733, 30年間着ている礼服
現在も着ている礼服は忘れもしない記憶がある。ちょうど30年前になる。父が「あと2週間の命」と医者に宣告された直後に
母にいわれて、「村田仕立て屋」に、父に解らないように出かけて、つくったものだ。今でもしっかり冠婚葬祭に着ているが、
全く古い感じがしない。私が子供の頃に注文服も扱っていた頃から出入りしていた仕立て職人で、腕がよい人だった。
  (字数の関係でカット2011年04月07日)  
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2002年04月07日(日)
 369,植民地経営
西アフリカに行った時聞いた話しである。 文明国を統治する方法として、次の3つがある。
1、直接統治 2、間接統治でそこの王族と手を組み統治 3、隣国に間接統治の王国に攻めさせ統治
大体がこの3つである。まずはフレンドリーに入って行き、徐々に統治していく。その前にキリスト教の宣教者を派遣して、
内側から攻めていくのが常套手段だ。秀吉がそれに気づき、キリスト教禁止令を出したのは賢明だった。
戦後の日本も戦犯の天皇や官僚をそのまま温存させたのも王族の間接統治を狙った為だ。今の日本は王族を飾り物に、
戦後から続く官僚の支配がそのまま続いている。そして悲しい事に、間接統治をされていることに全員満足している。
この不況は「1986年のアメリカのバブル押し付け政策」の結果である。そして、直接支配に今露骨に入ってきたのは
周知の事実だ。今回の9・11テロは、この間接支配の露骨のアメリカ世界戦略に対するテロである。


3663, 9・11、9・15、それをしのぐ3・15 −2

2011年04月06日(水)

 この大震災と原発事故の3・11が、9・11と9・15を超える歴史的事件の仮説の上で、この今後の行末を考えてみる。
それだけ大きな事象なら、これから生じる問題は想像するだけで恐ろしい。
* 9・11の結果、アメリカのアフガンへの攻撃、イラクのフセインへの攻撃で数十万人を殺害し、新しい政権を確立をした。
 このテロは、白(白人系宗教)対、赤(アラブ系イスラム教)の対立が表面化した事件で、文明の衝突である。
* 9・15は米英の金融支配の崩壊であり、世界経済を根底から破壊を始めたばかり、それだけでない500年の欧米的価値観を
 根底から変える歴史的大転換の大事件である。。
* これに対し3・11は、東北の太平洋岸で100年来の最大規模の地震と大津波を発生し、沿岸の原発に直撃。
 その結果、放射能汚染が日本の国そのものを崩壊するかどうかの瀬戸際に陥っている。その上に、世界に汚染を拡大させる
 可能性もある。 さらに世界の原発推進の流れを 根底から変えようとしている。

 事実の中には、真実と虚偽が混ざっている。TVで「風評に気をつけて下さい!」と、政府筋がコマーシャルを流している。
しかし政府の流してきた情報こそが虚偽?で信用ならないことを国民は熟知している。 ネットで、政府より国民の方が
情報を素早く得ているのである。 政府が「原発は絶対大丈夫!」といい続け、それを信じてきた純朴の住民が最大の被害者。
あの歴代の保守系の政治家と官僚の連中に騙された結果が、この様である。 それを今さら「風評に気をつけてくだい!」
といわれても、誰が信じるかである。 地震発生と原発事故の発生して数日後に「本州全滅!」と、ある筋から聞いたときは、
それでも心の何処かで「まさかだろう」と思っていた。 しかし日々刻々、入ってくるニュースを見ていると、
「もしかしたら?」でなく、その仮説?の上で、原発事故の行き着く先を考えなければならない。
「首都圏の官僚の子弟は、遠くの親戚に疎開を始めている」とかが、決して風評で軽々しい、とは思えない事態。
「外国人が、早々、列をなして国外に逃亡した行為と、大多数の人たちが、風評として見逃している
情報の方が正しい」という仮説を立てて自分の中で立てておくべきである。 
  私たちの年代は、充分生きたが、若い人、子供は気の毒である!
 ・・・・・・・
3298, 一年の重み
 2010年04月06日(火)
図書館で久々に小林正観の「人生を楽しむための30法則」を見つけ借りてきた。例の「ありがとう」教の本を書いた人。 
それで一番ありがたかったのは、彼だろう。それはいいとして、何げなく目を通していると、以下のような面白い内容があった。 
一理ある。私の場合というより世界中がインターネットのお陰で情報が手軽に入手できるようになった。 
10年前にパソコンとネットに集中したお陰で、良いにしろ悪いにしろ情報の質と量が飛躍的にアップ、
恩恵を充分に享受している。 20年以上の秘境旅行の積み重ねが相乗効果になりベースが大きく変わってしまった。
一年という時間を以下のような1年の重みの捉え方はしたことがない。 まずは、その部分を抜粋してみる。
≪ 48歳と32歳の間の16年は、単純な年数ではありません。もし今、40歳とすると、40歳までの情報量、
経験量と、41歳までの1年とは、同じ重さを持っています。 その一年は膨大な内容と密度と充実感を持っています。
その41歳までの経験量や知識量、情報量と同じだけの密度と情報量が、今度は42歳までの1年に入ってきます。
つまり今までの人生の総量に相当する情報量や楽しさ、面白さが、これから1年に待っているということです。
今、十代、二十代の方たちにはわからないかもしれませんが、30歳代を過ぎると、加速度的に情報が入ってきて、
人生がますます面白く展開されるでしょう。 そういうわけで、16年の差というのは16年分だから大したことはない、
とうことではなくて、32歳の人と48歳の人は、情報量が二の一六乗違うのです。≫
 〜〜
 それは闘い続けていたり、学び続けている人に言えること、何も変わらない人には当てはまらない?と思うが・・。
私自身の実感は正観に近い。 表面的には誰も分からないだろうが10年前の自分と現在の自分は別人と思うほど変っている。
振動針の幅がプラスマイナスが大きく振れるようになっただけで、成長の変化ではない。逆に、経験量、知識量、情報量が
逆に自分をマイナーな気持ちをもたらしたり、これまでの人生の失敗の傷口を広げることにもなる。
そこで、それは他者も同じような経験をしていることを知らなければならない。 それを知る基盤が教養である。
 ・・・・・・・・
2923, 中沢新一の『三位一体モデル』 −2
2009年04月06日(月)  
『三位一体モデル』中沢新一著   −読書日記
 *「霊」は何か?
ここでいう霊とは、英語でスピリッツ、ドイツ語でいうガイスト、日本語で霊(たま)という。
語り得ない「神」とか「霊」をどう表現するか興味を持って読んだが、神を三位一体モデルとして、「父」「子」「精霊」と
構造的に分解している。一つの見方だが、それを思考法として利用したり、この世界を理解するには有効になる。
その一つの「霊」を、ひとことで「増えていくもの=増殖するもの」としている。「父」たる普遍的なことを、現実の姿として
「子」キリストなどの現象とし、霊(増殖するものとして)を使って世界中に布教していく便利な存在?である。
この霊を組み込んだキリスト教が、<増殖>現象を自分の中に抱えこんで世界に爆発的に布教していくことになる。
それが西欧資本主義の出発点になるのである。ここが、イスラム教と、もっとも深い対立点になる。
 ーー
 * イスラム教との「増殖」をめぐる対立とは?イスラム教は、キリストが神の「子」という点、そして増殖原理である
「霊」を唯一神の中に組み込むという点については、絶対に認めない。イスラム教にとって、神と人間のあいだに立つ媒介する
存在など、あってはならない。イエスなど、ただの預言者でしかない。 ただひとつの神に霊を組み込むなどということは、
絶対にありえないこと。なぜなら、霊は「増殖現象>を起こすなど、唯一の神アッラーは増え得ないからである。
イスラムにとって、アッラー自体は変化しない。しかしキリスト教徒は、じつに微妙なかたちで、「増える」という原理を
組み込んでしまった。イスラムにとって、「神の本質が増えるとはどういうことなんだ」ということになる。
キリスト教は、増殖という現象を内部に組み込むことによって、その後の奇跡的な勢力拡大の基礎をつくっていったのである。
 ーー
結局は、キリスト教は欧米人の世界からの略奪行為の尖兵として、情報機関として建前として使われてきたのは自明だったが、
ここで、その宗教の歪みの部分を解明している。この世界恐慌も、その崩壊の一つとみてよい。 
霊を増殖するものという見方は初めてである。
・・・・・・・・・・
2559, 印度放浪 ー3
2008年04月06日(日)
 ー語録ー2
人間の身体を見ていて神々しいと思ったのは、一ぺん沈んで浮かんできた水葬体だね。水葬にしていったん沈むんだけど、
沈んだあと底につかないのはそのまま浮かばないで流れ浮かばないで底についたのは必ず浮かんでくるんだ。
そうやって浮かんできた時の顔とか身体というのは、不純なものがいっさい流れたような美しいものなんだね。
半眼微笑の仏像そっくりな場合すらある、それが二、三日経つとだんだん膨らんできて、中の血管の血がバッーと表に出て、
まるで不動明王や五大明王みたいに赤黒くなる。それからまた血が引いて漂白されたようになって行く。
水に投げられたひとつの死体をずーっと見ていると、人間のもっているすべてが見えるよ。
日本でも死ぬ時に、これは単なる比喩的な言いまわしだろうけどさ、死ぬ時に一回苦しんだか二回苦しんだか、
三回苦しんだかで、その人の生前にもっている業みたいなものが出るということを言うじゃない。
それとは違うけど、水葬死体も人間のもっている生前のことを全部見せてくれるような気がするね。
 解)日本人は死体を特別に大事に考えている影響が40年前の著者に残っているようだ。
  こういうのを読むと、さっさと重油をかけて焼いてしまうのも良いと思う。その方が余程ドライである。
ーー
犬が水葬体を食っているのを見て、法華経に出てくるクンパーダカをふっと想像したんだ。クンバーダカ鬼は架空の
生きものだから見たことはないが、そういう感じがしたんだ。広角で撮ろうと死体を食っている中洲の犬に近づいたら、
そこにいた一匹が逃げたんだ。それが遠くから十二、三頭を連れてきた。砂けむりを舞い上げてね。僕がエサを取って
しまうとおもったのか、全部がうなりながらにじり寄ってくるんだよ。人間を喰っている犬ににらまれたんだから、
かなり危機感を持ったね。眼を離して逃げたらワーッと襲われてやられるとおもったから、こっちも動けない。
川の中洲だから人間は誰もいない、助けも呼べない。カメラを持って投げつけるような恰好しながら、
それでもこれを投げたら壊れるからやめとこうとおもったりしながら、投げるものを探したわけね。
そのへんは写真にも写っているように頭蓋骨とか骨がけっこうあるんだ。で、犬の目から目を離さないように
しながらゆっくりとしゃがんで、頭蓋骨を四ツくらい集めてこれをかかえて投げるかっこうをしながら、頭蓋骨もったまま
少しずつあとずきりをして川の中に胸まで入ったんだ。犬は向うでウロチョロしている。
奴に向けて力いっぱい投げつけたんだ。暫くするとあきらめて、また向うの死体を喰いはじめてくれたんだね。
こちらは川づたいに三脚のあるとまでやっと辿り着いてね、これでやっと安心して、この三脚を持てぱこれ殴れるから
何となく大丈夫だと思ったわけ。これは後で考えると、地獄で何かしていたような気がするんだ。
 解)インドでないとこういう経験は出来ない。宗教で、かくも文化が違うかが理解できる。
ベナレスのガンジス川の底には骨が重なっているというが。その骨についている貴金属をあさっている子供もいる。
 ーー
インドはね、撮りすぎるとダメなんだ。インドってのは撮れちゃうから。まわリ三六〇度ぐるりと一回転して三十六枚押したら、
一本フィトストーリーができてしまう。だからインドへ行った人の写真ってのはみんな同じになる。写りすぎるってことは、
全部撮ってもダメということなんだね。インドは「何を撮らないか」というマイナスの作業でしか自分の視点が出てこないのね。 
加算とかブラス信仰の社会から行うた人からは、撮らないということも表現であるという発想がなかなか生まれない。
 ?解)これって写真だけを言っているのでなく、全てにいえることじゃないですか。
・・・・・・・・・・
2007年04月06日(金)
2194, 大人のファンタジー読本
    おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ   ー読書日記 
 ー未知なる扉をひらく180選ー       出版:マックガーデン
この本の副タイトルが、そのまま当てはまる内容である。1Pか2Pに一つの小説の概要が書いてある。
その概要だけで大きくイメージが広がるから不思議である。わずか数分の間、ユックリと読んでいるうちに日常を超えて
ファンタジーな世界に引きずりこまれるのである。この本は10年前のパソコン通信の時代からあったネット上の仲間が出会い、
ネット上の語らいからつくり上げた本。180選を45人が要約した共同執筆で10年がかりのエネルギーが入っている。
1P~2Pの要約の中に好きな人の魂が詰まっているから、要約というエキスに引きずりこまれるのだろう。 
これこそ現代の本と云えよう。「エネルギーを使わないで、いつ読んでも現実を忘れられる本がないか?」と言われれば、
間違いなくこの本を勧める。何せ一ヶ月間新幹線の列車の中で読み続けていた本である。初めは図書館で借りて読んだが、
アマゾンでさっそく発注をした(中古本だが)。
  (字数制限のためカット 2011年4月6日)
・・・・・・・
2006年04月06日(木)
1829, あちら側の世界 ?7
    「ウェブ進化論」読書日記      (ヾ(。・ω・)ノ☆゚+.オハヨゥゥゥ゚+.☆
ー「アマゾン」とはー
 =この本から「アマゾン」という会社とは何かを要約しながら、考察してみる。 (このウエブ進化論ー3・ロングテールに
 ついてーに重なるが敢えて取り上げる。ロングテールが書籍以外の商品群に広がるからだ。それは全ての流通経路の大変革を
 予感させる)IT革命の地殻変動を実感させる、もう一つの会社が「アマゾン」である。
 アマゾン・コムの「ロングテール現象」が、その象徴といえる。 本の流通の関係者といえば、インターネットが登場するまでは、
 出版社と流通業者と書店であった。今までの流通経路は店舗や倉庫や在庫といった固定費を抱え、ある程度以上売れる本
 ーつまり「恐竜の首」で収益を稼ぎ、「ロングテール」(恐竜の尾の部分ー80%以上の売れない部分)の損失を補う、
 事業モデルであった。2004年秋にロングテール論が脚光を浴びたのは、「アマゾン」が、この構造を根本から変えて
 しまったことである。日本での年間出版点数は約7万点であるが、アマゾンは230万点もの書籍を取り扱うことができる。
 売れない本には価格競争がないから利幅も大きい。2005年に入って、アマゾン・コムは全売上の約3分の1をリアル書店が
 在庫を持たない本から上げていると発表した。インターネットの世界に異変が起こっている分りやすい事例である。
                    (字数の関係でカット2008年4月6日)
以上だが、最近、本以外の分野に枠を広げてきたが、アマゾンの本当の恐ろしさが出てくるのは、これからである。
世界中の人が、このネットで本格的に買い物を始めるのは、これからである!
間違いなく、あちら側の世界が、こちら側の世界を大きく変えようとしている。     ー (*"・∀・)ノバイバイ!
・・・・・・・
2005年04月06日(水)
 1464, 発想名人 ?読書日記
最近よく本屋で見かける斉藤孝の本を図書館から数冊借りて読んでいたが、また「発想名人」を借りて読んでみた。
内容は前の本からみると軽いが、表紙裏の言葉がなかなかよい。
ー『ネガティブな意見を言っている暇があったらアイディアをだせ!』これが私の最近のスローガンである。
すべての現実の困難は、具体的なアイディアによって乗りこえるものだと私は考えています?
ネガティブな意見を出すのは簡単である。相手の正反対の視点を設定して正面から突き刺すのである。
私も独りで考える時に、正反の問いかけを何回かしてみる。その繰り返しの中で問題を掘り下げる。
(字数制限のためカット 09年04月06日)
・・・・・・・
2004年04月06日(火)
 1099, 「80対20」革命 ー4
「自分の20?のスパイク(強み)を見きわめる問い」が考えさせられて面白い!
 ー以下に書き写してみる。
△あなたが心底興奮するのは、どんなことに対してか?   一番熱心になれることは、どんなことか?
△自分が有名になったと想像してみる。          どんなことなら有名になれるか?
△自分の個性でもっとも特徴的なことは何か。       人と一番変わっているところは何か?
△何をしているときがもっとも幸せで充実していると思うか?
△一番得意なものは何で、他の人より得意なものは何だろうか?
△どんな役割や仕事がもっとも適していると思うか?
△別の分野や活動で、自分が優れていることがないか、あらためて考えてみる。
 できるだけ現在とかけ離れた意外なものがよい。あまり深刻にならない方がよい。
△もし新しいベンチャーを始めて驚くほど成功するとしたら、どんな事業であろう?   想像力をはたらかせて考えてみる
ー以上であるが、現在の自分について考えてみて書いてみた。ここでは書けないが、
如何に深耕があった部分と、無かった部分がよく見極めることができた。今回は内容を書くのは控えるが、この随想日記に殆ど
書いてあることばかりである。まあバカの壁を辛辣に見えてしまっているからだ。もう見せているから今更だが。
全て反省の言葉が多いのが人生と思っているが。
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2003年04月06日(日)
 732, 「こうすれば良くなる」
いまの日本の議論で大部分が「こうすればよくなる!」という発想が基点となっている。
これに対して「もうこの発想から脱却すべきではないか?」という論が新聞にあった。
その内容を私なりにアレンジをして書いてみたー誰もがいまの日本は縮小すべき時期にきていることを知っている。
それを回復とか現状維持を前提に議論しているから、ますますおかしくなる。失業率だって今の倍の2?3倍になってどこが悪い。
それで西欧並みでしかない。日本をとりまく環境が変わってしまったのだから失業が増えて当然である。
 デフレもグローバルになったのだから仕方がない。どうして日本の経済規模を縮小していくかを真剣に議論すべき時期である。
そうしなくては、自然の暴力にもろに破壊されてしまう。恐慌というやつにだ。いまや株価や土地が20年以上前になっているなら、
政府の予算規模も縮小すべきである。それができないなら、恐慌が起こるのが当然である。「良くするなどと考えている非常識」
がまかり通っている。思い切って、国家規模ー予算を20年前に戻すべきと宣言すればよい。それにしても、箱物や道路や橋や
新幹線を造ってしまって、その借金をもあるから単純にはできない。このジレンマからいつ抜け出る事ができるのだろうか?
 ー以上になる。
人の意見をこうアレンジして書いてみると、これが自分の意見になるのだ。
なるほどと、自分でも感心する。大体がこんなものだから批評家が存在するのだろう。
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2002年04月06日(土)
368,リオのカーニバル
いまTVをつけたら、NHKのハイビジョンで「リオのカーニバル」をやっていた。
2時間があっという間に過ぎてしまった。7年前に行った内容をコピーしておくが、本当に素晴らしい内容であった。
今見ている内容は当時に比べ、かなり豪華にかつ派手になっているようだ。
カーニバルは元々はヨーロッパで行われていた、キリスト教のお祭りである。
南米の農園に売られていった奴隷が、一年に一度のカーニバルに与えられる休日に輪を作って歌い踊ったという。
普段でも彼らの楽しみは歌と踊りだけで、それが段々サンバに変わっていったという。1888年に奴隷制度が廃止された時、
彼らはリオに仕事を求めていった。彼らはグループを作って踊っていたが、そのそのトップクラスと準トップクラスが正式に
会場で競う。それぞれチームごとにテーマがあり、それによってストーリがある。それにより、衣装や歌や踊りが決まってくる。
上位のチームにそれぞれのチームにスポンサーが付いているという。それぞれ項目があって、厳格の審査のうえで順位が決まる。
去年から見ているが、ハイビジョンのせいもあるが素晴らしい。一年は全て、カーニバルを中心に回っている。
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H0703ブラジル旅行記
“行って吃驚!玉手箱”主観をこめて現地の実感を書いてみる。カーニバルはリオディジャネロだけでなく全国津々浦々の
都市で行われており、四日間全国がお祭りの為休みとなる。その最も有名で世界的に知られているのがリオのそれ。
リオのカーニバルのランクがA・B・CとなっておりAランクが9チーム、Bランクが15?16チーム、
Cランクは数十チームとなっている。 AとBチームが特設スタジオのメーン、ストリー850mを80分の持時間で
踊りながら行進する。そこは六万人の観客席があり、審判席で厳格に審査され、その年の優勝等順位があらそわれる。
 (字数の関係でカット2010年4月6日)


3662, 閑話小題

2011年04月05日(火)

 * 大相撲の八百長処分
 大相撲の八百長処分が発表され、23人の力士と親方が事実上、角界から追求。
幕内6人、十両9人というから、影響は大きい。私が知る限り現親方も含めて9割が日常的に八百長が行われていたみるのが順当。 
「今さら何が八百長?、何で自分だけが」と追放された力士は合点がいかないのは当然のこと。まだまだもめるはず。 
日本的談合社会の縮図が、そのまま現れた事件。 結果からいうと、情報化が、それを許されなっていたことを察知して
談合システムを変えるべきだったが、伝統を重んじる古い体質が、それについていけなかったことになる。
今後も大相撲が続く限り、この問題は続くはず。伝統芸能の一環として、目くじらを立てすぎるのも問題あり。

 * 都知事選挙TV討論をみて
 日曜日の朝7時半の「新報道2001」をみて、現知事と他の候補のレベルの差に驚いた。
一同に集め議論をさせると、その差異から、それぞれの質が見えてくる。 石原慎太郎が良いということでなく、
他が東京都知事としての素質がないのが、議論の中身から感じ取ることができた。恐らく、石原がたたなかったら、
あの方々の一人が、選出されると都政は滅茶苦茶になると危機感を持ったフィクサーが、石原の引退をとどめたのだろう。
この大震災の中で、他の誰に都政が任せられるというのか? 一応、日本の首都の首長を考えると・・・

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3297, 不思議現象の正体を見破る ー2
 2010年04月05日(月)
 * 手品師 ユリゲラーの超能力
 ユリゲラーも、当時からマスコミに、その正体が暴露されていた。それは後として、私より一歳齢下のイスラエルの
ユリの経歴に興味をそそられた。1946年12月30日、テルアビブに生まれた。少年期に両親が離婚、キブツに入れられ、
色いろあって、15歳でスパイ組織に加わり、2年間の訓練を受ける。そして21歳の1967年にイスラエル兵として
第三次中東戦争に従軍し、戦場で負傷してリハビリのキャンプに送られて療養生活に入るが、そこで、シュトラング
(通称シュト)と知り合い、本格的なマジックの練習を取り組み、初めは友人の誕生パーティーなどで演じていたが、
後には、クラブのショーなどに出るようになる。得意な演目は「ツゥー・パースン・テレパシー」と呼ばれるもので、
目隠しをしたユリ・ゲラーに悟られぬように一人の観客が黒板に数字を書き、全員が確認したところで跡形もなく消してしまう。 
すると、ユリ・ゲラーがおもむろに目隠しを外して、観客に数字のイメージを念じるように要請する。
つまり観客が念波をユリ・ゲラーがとらえて当てようというわけ。 そこで、お客に念じ方が足りないとか、色いろけしかける。
やがて、おもむろに「5でしょう」などと、当てる。 何とことはない、観客席に居るシピが「はなを触ったらといった暗号に
基づいて信号を送っていただけの話。 あまりに単純のため劇場の支配人にまで見破られたが、それでも止めようとしないので、
裁判沙汰までなっている。 有罪の判決で、営業停止になったが、今度はアメリカからプハーリクなる超心理学者がきて、
ユリのショーを見て「超能力」と信じ込んでしまった。 さあ、これが大変な切っ掛けとなった。
 彼はユリをアメリカに連れ帰って、スタンフォード研究所でテストを受けたが、これが、いかに杜撰だったようである。
相棒のシュトが、明らかに巧妙に信号を送ったかが、その結果からして窺える。 その実験は中途半端で中止された。
 しばらくはスプーン曲げなどで世間を、アッといわせたが、アメリカのTV局も考え始めた。
プロのマジシャンと相談してカメラ・ワークを緻密に設定し、ユリ・ゲラーの側にマジシャンを監視役に立てたところ、
彼の売り物の超能力は全く起きなかった。 これは英国と同じ結果となった。 ユリは成功すると、サスガ超能力者、
失敗すると、体調次第で念の集中が上手くいかないこともある、とされるようになった。 アバタもエクボである。
ユリが1974年に日本に上陸、TVに出演した。(私も、その番組を見ていたが・・)まずはスプーン曲げで仰天させた。
当時のマジックにはスプーン曲げなどの演目がなかったので、日本人もすっかり騙された。 その後、日本の少年Sも、
その超能力があると、一世を風靡したが、後に週刊誌のストロボ撮影を通じて、トリックが暴かれた。
何とことはない、投げる瞬間にスプーンを絨毯に押し当てて曲げてから投げていたのである。 ー つづく
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2922,中沢新一の『三位一体モデル』 −1
2009年04月05日(日)
 『三位一体モデル』中沢新一著  −読書日記
図書館で何気なく借りて、目を通したところ面白い本である。特に、キリスト教とイスラム教の違いと、その争いの元を
解りやすく書いている。三位一体とはキリスト教の考え方で、西欧の考え方でもあり『父』『子』『精霊』を指す。
 それぞれの円が三つ重なりあっている図を想像すれば良い。
『父』は 物事の基本になる普遍的なこと。哲学や理念などが含まれる。
『子』は 『父』のベースを具体化する存在。 
『精霊』は 子の働きにより、増殖するコントロール不能な物もの。(販促、宣伝など資本主義の増殖を助ける役割を担ってきた)
この3つがバランスよく配置されることで物事の意味や本質が捉えられ、すべての問題はこのバランスをみると理解出来ると言う。
会社をみると『父』は理念や社会還元、『子』は会社そのもの、『精霊』は販促や生産活動。
『父』の不在が、会社を迷走させることになる。社会問題の多くは、社会の父たる規範が無くなっていることから始まる。
『精霊』はキリスト教社会の中で不可欠なもの。 イスラム社会では『精霊』にあたるものがない。偶像廃止も、
この辺からきている。(お金でお金を生んでだめ<株>はいいらしい)
そのためにイスラムの銀行は利子がつかない建前をとっている。 資本主義の『精霊』に頼る経済はイスラム世界にとっては
『堕落』そのもの、『9.11テロ』でニューヨークのWTC(経済のシンボル)に突っ込んだのも、その攻撃行動という。
 この本は100ページも満たないが、多くの示唆が含まれている。    ーつづく
・・・・・・・・・
2558, 爪もみ療法
2008年04月05日(土)
ある本を読んでいたら、「爪もみ療法」という聞きなれない健康法があった。そこで早速ネットで調べてみたら、
以下のようにあった。
 ーーーーー
 【爪もみのやり方】
・爪の生えぎわの角を反対側の手の親指と人さし指で両側からつまんで揉みます。
・一カ所を十秒ずつ、症状に対応する指は二十秒ずつ、揉みます。
・以上を一日に二から三度行います。
・少し痛いくらいの強さで刺激する。
・薬指だけを揉むことは避ける。(薬指は交感神経を刺激する指のため。他の四本指の刺激と一緒に行なう)
   (字数制限のためカット 2010年04月5日)
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2007年04月05日(木)
 2193, やまあらしのジレンマ    オッ(*^○^*)ハ?ヨウ!
ショーペンハウエルの「やまあらしのジレンマ」の話が面白い。
 ーまずは、その内容からー
あるところに二匹のやまあらしがいた。冬の朝、寒いので二匹のやまあらしは互いに暖めあおうとして身を寄せあった。
しかしあまりに近く身を寄せあった二匹のやまあらしは自分の体に生えているハリで互いに傷つけてしまった。
そのため二匹のやまあらしは相手から離れたが、また寒くなった。そこでふたたび二匹のやまあらしは身を寄せあったが、
また互いに相手を傷つけてしまう。このように二匹のやまあらしは離れたり近づいたりを繰り返し、「最適の距離」を見いだした。
 ーー
この寓話は、我々の心は「寒さ」と「痛み」のジレンマの中でしか「最適の距離」を見いだすことができないことを提示している。
やまあらしのトゲとは、人間の自我(欲望や、社会的立場、感情)をいう。青年期は自我の一番強い時期、だから青春期の恋愛は、
トゲとトゲの刺しあいになり、愛しあうほど傷つけあうことになる。その繰り返しの中から、お互いの最適な距離感を身につける
ことになる。青年期は、傷つきやすい時期でもある。その傷の癒しを他の対象に求め、そこで更に深く傷つくのがあたり相場。
癒しを他に求めること自体が次の傷をつくる準備をしていることになる。そのこと気づかないのが若さからくる無知。
孤独は人間の本質的なことであり、それをしっかりと自覚していないと、傷口がどんどん広がり、化膿していく。 
夫婦関係にも言えることである。トゲとトゲの差し合いを今だしているが、互いの皮膚が30数年の結果、
痛みを殆ど感じなくなってしまった。適当の距離感とは、=あまり親密にならないこと!である。
青年期に女性も友人も、ある距離に近づくとトゲが全身から出るのを感じとった。 あれが、自我だったのだ。  
今もそうだが! トゲは必要である! 自己を守るためにも。 しかしトゲの先は丸くしておかなければならない!     
  ホンジャ、バアアイ   ♪♪((((*`・´))ノ ♪♪
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2006年04月05日(水)
1828, ずっとやりたかったことを、やりなさいー5゜
   +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ       ー読書日記
 ーアーティスト・デートー
「人は皆、内なるアーティストをその心に抱えており、今までの経験や年齢等に関係なくアーティストとしての創造性を
秘めている。そして誰でもカンタンに(もちろん継続と努力は必要だが)その才能にアクセスする方法がある」という。
ここで誤解しないでもらいたいのは、アーティストの才能とは画家・音楽家・歌手・陶芸家・舞踏家
といった俗にいう「アーティスト」だけを表すものではなく、全ての職業に共通して求められる「創造性」の開花をいう。
その意味で、全ての人を対象にした才能開花術である。特にクリエイターの方々(デザイナー、各種コーディネーター、ライター)
には参考になる方法である。机上の空論ではな、才能開花のための実践的なトレーニング法が12週間という
具体的なプランに落としこまれたトレーニングプログラムである。本を読みすすめていきながら書かれている通りに、
一週間約30ページずつ、作業を進めていけばよい。そのプログラムの核ともなるべきものが「モーニング・ページ」と
「アーティスト・デート」。先々回はモーニング・ページを紹介した。今回は「アーティスト・デート」である。
 ーその一部を本文より抜粋してみると…
アーティスト・デートとは具体的に何なのか?それは週に二時間程度のまとまった時間をとって、あなたの創造性の象徴である
「内なるアーティスト」の育成に専念することだ。もっとも基本的な形を言えば「アーティスト・デート」とは旅行であり、
あらかじめ日時を指定しておくデートであり、他人の進入を禁じた時間だ。「アーティスト・デート」には部外者を
同行させてはいけない。行ってもいいのはあなたと、あなたの「内なるアーティスト」、つまりあなたの「想像する子供」だけだ。
恋人も、友人も、配偶者も、子供もだめ ーどんな肩書きの人もお断りだ…
 ーー
 以上だが、要約すると「週に二時間ほど自由な時間をとって、その時間だけは自分が好きなアートを好き勝手にやりなさい」
ということ。私は読んだとき、私が毎朝しているウォーキングが正に「アーティスト・デート」と気づいた。
  ーそれ以外にこの本で印象的なことを抜粋してみる。
《怒りは耳を傾けてもらいたがってる。怒りは声であり、叫びであり、懇願であり、要求である。
 怒りは敬意を払ってもらいたいのだ。というのも、それは心の地図だからである。 怒りは私たちの限界がどこにあり、
 私たちがどこに向かいたがっているか教えてくれる。また、自分が現状に満足できなくなっていることを知らせてくれる。・・
 怠惰、無関心、絶望は敵だが、怒りはそうではない。怒りは友達である。 素敵な友達でも、やさしい友達でもないが、
 きわめて誠実な友達だ。 それは私たちが裏切られたときや自分自身を裏切った時、かならず知らせてくれる。
 そして、自分の興味に従って行動するときであることを告げてくれる。 怒り自体は行動ではない。行動への招待である。》
《アートとは、みずからを社会にさらす行為である。アートは物事に光を当て、私たちを照らし出す。
 そして、私たちの中に残っている暗闇に一条の光を当て、「みえるでしょう?」と語りかける。
 あるものを見たくないと思っている人たちは、それを見せる者に怒りを覚え、徹底的に糾弾する。》
《真摯な表現はクロゼットを開け、地下室や屋根裏に新しい風を送り込み癒しをもたらす。》
     ーー
ずっとやりたかったことを見つけ、それを時間をかけてやりなさい ということか。  ΒΥΕ.._〆('Д'*⊂⌒`つ
・・・・・・・・
2005年04月05日(火)
1463, 「虚構の王国」ー NHKスペシャル
一月前ほど前、このHPで堤義明のことを書いた。ところが、その内容についてTBSの記者から電話が入った。
「自民党の歴代の派閥の長が首相になると3億の祝儀を彼が云々・・」と書いたが、そのニュースソースを知りたいとの問い合わせ、
「翌日の、報道番組に取り上げたい」。キーワードで検索をして、知ったようだ。「ヤバイことを書いてしまった!」と、
少しパニック状態になってしまった。しかし、10年程前には誰も知っていた話である。年代が変わったのだろうと、
知人に何人か聞いてみたところ、「現在はどうかわからないが、当時は流布していた」と聞いてホッとした。
ところで先日、NHKスペシャルで「虚構の王国」ー西武鉄道・土地神話の五輪計画とサミット・闇の株式取引ー
というテーマのドキュメントを放送していた。 その最後のナレーターの言葉が印象的であった。
「虚構の王国の向こうに見えたのは、戦後日本の実像である」この言葉は、現在の日本のバブルの崩壊の姿そのものである。
インフレ時代の勝ち組が、現在負け組に変わっている。最後のバブル崩壊の象徴として西武が浮かび上がってきた。
担保に入れていた西武鉄道の株が上場廃止になってしまい、実質債務超過になってしまった。それをキッカケに、
隠れていた事業のボロが露出してしまった。その具体的な内容のドキュメントであったから、見ごたえがあった。
多かれ少なかれ、時代の流れの中で誰もが出会った現象である。不景気の直撃がレジャー産業に直撃。
更に、海外にレジャーの鉾先が向かってしまった。レジャーもグローバル化が生じたのである。
そのため西武ー国土の思惑が全く崩れ去ってしまった。日本中の観光産業は、その直撃で生死の境を彷徨っているのが現状。
ここにきて、あらゆる分野で根底から変化の現象が現われてきている。全ての国民にとって、他人事の話でないのが深刻である。
ーー
以下は、先月書いた西武鉄道の内容である。あぶないところは、かなり書き換えてあるが。
ーーーー
2004/04/15  1108, 西武鉄道・堤会長の辞任
(以下、字数の関係上カット2008年04月05日)
・・・・・・・
2004年04月05日(月)  
1098, 拾い物
拾い物は殆ど無いが、それでも幾つか記憶が残っている。10年ほど前になるが、池袋のサンシャイン・ビルで何かの研修で
行った時のこと。腹の具合が悪くなりトイレに駆け込んだところ、カードと現金が数万も入った財布が忘れてあった。
現金だけを抜くという手もあるのかなと頭によぎったが、過去に一回もそういう経験をしたこともないし、
良心に対してマイナスになる。早速、案内嬢のところに持っていくと、係わり合いになりたくないというのがアリアリ。
警備の受付のところに直接持っていけという。電話をして呼べばよいのに、本人はタダ面倒でイヤという態度。
(西武系は流通・鉄道系両方ともお客に対して不遜のところがある)言われたところに行っても、その事務所がない。
乗りかかった舟、聞き歩いてやっとのことで警備事務所に届けた。本人からは礼の葉書が一枚届いただけだが、なるほどと思った。
30分以上も歩き回り、その上書類にこと細かく内容を書かされた相手の好意がわかる由はない。
数年前の、通勤の新幹線で高崎と小田原の回数券を10枚近く拾った。これも新潟の駅前の交番に届け出たが、
彼等は直ぐに権利放棄書にサインしろといわれ、何か釈然としない嫌な感じを持った。
そう考えると拾い物は殆どないということだ。そういえば新幹線で皆が降りるのを待っている人がいる。
そしてキョロキョロ見て回っている。週刊誌の面白そうなものを漁っているのだろうが。
もし悪意があるなら、忘れ物を2両でも探したら一年に一度は何かに行き当たるだろう。 考えること自体が卑しいことだ。
・・・・・・・・・
2003年04月05日(土)  
731, 前提を疑ってかかるという事
 「縦社会の人間関係」
「縦社会の人間関係」という中根千枝の本を学生時代のゼミで読まされ、それに対する議論をした事を思い出した。
  ー要旨はー
「日本社会は蛸壺のように縦社会になっている。これは島国特有の社会であると同時に、江戸時代の藩体制がそれぞれの
縦社会をつくった。西欧社会はそれに対して資格社会であり、横社会である」であった。日本社会の人間関係は、
個人主義・契約精神の根づいた欧米とは、大きな相違をみせている。「場」を強調し「ウチ」「ソト」を強く意識する
日本的社会構造にはどのような条件が考えられるか。 「単一社会の理論」によりその本質をとらえている。
日本社会の人間関係は、個人主義・契約精神の根づいた欧米とは、大きな相違をみせているー等々である。 
なるほどそのとおりであると納得したが、そこで問題にしていたのがその縦社会という視点そのものが、
はたして正しいのだろうかという提示であった。「何々それってどういうことなんだ??」私が考えていたのは、
それぞれの部分の成否でしかなかったのだ。根底ー前提から、それがはたして正しいかどうかを疑う姿勢こそ科学の第一歩である。
日本社会こそ「横社会ではないだろうか?」という仮説である。逆に資格社会ー横社会であるという仮説をたてると、
縦社会と同じように説得力があるのだ。「士農工商」という身分社会が大きく社会に残っている日本こそ、縦社会でなく
横社会ともいえるのではないだろうか。その中でも殿様,家老、老中などそれぞれの階級があった。
そしてその資格は日本のどこでも通用するものであった。インドのカースト制度は5百数十種類の身分が細かく決められている。
横社会そのものだが、個々の立場に立てば縦社会といえる。この時に、なるほど前提を盲信してしまう自分の無知の限界を
初めて知った。 常に前提を疑ってみる必要性をこの時より身につけた時だった。
・・・・・・・・・
2002年04月05日(金)
 367,「携帯TV電話」は究極の情報機器。
5年前、マスコミで聞いた内容である。それが今年から始まったのである。「携帯電話」が我々の生活を劇的に変えた。
いや社会を変えてしまった。空間の溝を取り払ってしまった。それ以上に「携帯TV電話」が社会のありようを変えてしまうだろう。
これにそれぞれの場所にカメラが設置して、それにリンクすれば、一瞬にして世界中の何処でも見ることが可能になる。
現在でもそのサイトが多くある。これにデジタルTVをリンクさせれば、想像を超えた使い方が可能になる。
インターネットを使っていて、こんな時代が来るとは思ってもいなかった。それが更に劇的な「携帯TV電話」が普及する時代とは驚き。
昨日もソニーの出井会長がNHKノインタビュウで、情報機器の進歩により、この10年後は世界が劇的に
変わっていると言っていた。これに期待しすぎて、先行投資で電気メーカが苦境に陥っていることも事実だが。


3661, 9・11、9・15、それをしのぐ3・11

2011年04月04日(月)

 この3・11災害は、2001年のイスラム教徒によるテロの9・11、そして現在も進行中の2008年の9・15をしのぐ歴史的出来事である。
地球温暖化の中で原子力発電が容認され、世界中が原発建設を競争するように計画・建設されている潮流での惨事である。
思いもよらない「震度7、マグネチュード9の大地震と大津波、そして原発事故と放射能汚染」である。
リーマンショックで既に日本経済は崩壊を始めていた上に、これ。今年から来年にかけて経済動乱が予測されたが、
3・11の衝撃で、日本の存続の根底を揺るがすだけでなく、地球規模の危機になってしまった。 

 10年前の9・11事件は、欧米とアラブの文明の衝突が露出し、それ以降、世界が変わっていった。
そして2008年9月15日のリーマンショックは、米英の金融支配の構図を根本から破壊してしまった。
今年から来年にかけて、世界規模の経済動乱に入りかけていた矢先に、こともあろうか、日本発の歴史的大惨事である。
 これは人類史上に残る歴史的大事件であり、これまで人類が営々と積み重ねてきた文明を否定する象徴的事態である。
それも66年前に日米戦争で原爆を二回も落とされた国で起こった惨事である。 20年前に経済バブルがはじけ、
右下がりが続いて、去年になて経済力を中国に抜かれ世界第三位に落ちてしまった。
 
 今世紀に入って僅か10年の間で大事件が三回も起こっている。 9・11、9・15、そして3・11の惨事である。
これは9・11、9・15の歴史的大事件をしのぐ大惨事が日本で起ったのである。当然ながら国内は情報コントロールを
されているが、日本人は無防備に、そのコントロール下にある。入手できる範囲の情報で、あとは自分の勘を頼るしかない。
そして、その勘にしたがって、判断をするしかない。 原発事故と放射能汚染は、日々一刻と進んでいる。その結果は? 
 この国は大震災の日をもって、それ以前、以降といわれるほど、根底が変わってしまったのである。 被災民は、全国民になる!
 ・・・・・・・
3296, 不思議現象の正体を見破る ー1
2010年04月04日(日)
「不思議現象の正体を見破る」        安斎 育郎 (著) 
  ―超能力や心霊現象に、人はなぜ騙されるのかー 
 ー内容ー (アマゾンより・・・)
 現在までに報道されたり紹介されてきた不思議現象(超能力、超常現象、予言など)のトリックと、
それを鵜呑みにしてしまう心理状態を解説した書。同氏の他の著作と重複する事例・内容も多いが、本書では、
不思議現象が存在するという根拠にたいし、そのトリックを説明することで、それらすべてがいかに信憑性がないか
(あるという証明になっていないか)を示している。 世界的に有名な事例を紹介しており、それらがすべて単純な
トリックであることに改めて驚く。 圧巻は、漠然とした詩が、大事件と簡単に符合し、いかにも予言であるかのように
曲解して読み取ることが可能かを示した点である。例として、枕草子の記述を深読みすると、一文一語が普賢岳噴火に
ぴったりと符合する!このことからも、ノストラダムスの詩が後世の歴史的事実と多少符合しても、
それが偶然以外の何ものでもないことを暗示している。 現に、世紀末には何も起こっていない。
 〜〜
 ユリゲラー、イギリスのミステリーサークル、コックリサン、念写など、その嘘を一つずつ解明している。
そういえば、ユリゲラーも、ミステリーサークルも、念写などをTVで取上げなくなった。
これはブログなどの情報化のためである。もし、信じていると言えば誰かが知っているカラクリを教えてくれる。
それだけでない、TV局そのものが問題視され、ディレクターは外される。
この本で知ったが、イギリスのミステリーサークルも真実が明らかになっていた。
< 二人の老いた絵描きが、「夜中に麦畑のキャンパスに描いた作品」だったと白状していた。
二人はL字型の棒を持って、実際にデモンストレーションもやってみせた。 
いやにイギリスの麦畑ばかり、という理由が、これである。この現象をプラズマ物理学の立場から研究した
ミーデンは真面目に、この現象は世界各国に出現したと主張、彼だけでなく色いろな人が多くの原因を唱えた。>
彼らは、二人の老人に騙されたのである。こんな調子に、過去の不思議現象の正体を暴いているから、読んでいて飽きない。
 次回は、あのマジシャンのユリゲラーを、今さらだが、オサライをしてみよう。
彼はマジックを超常現象としてショーアップしていただけだが、注目されればされるほど、その稚拙な手法がコミック的。

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2921,不況景色 ー10
2009年04月04日(土)
 * 上野動物園が入園300万人を切る
一昨日のニュースで、上野動物園の入園者が60年ぶりに300万人を割ったと報じていた。
前年より妬く60万人減というから20パーセント減になる。
パンダが死んで居なくなったことと、この不況が直撃という。
9月半ばから4〜5割減ということになる。 家計面で節約対象になったようだ。
また、オーケストラの公演が個人や一般企業の寄付の激減で大赤字に転じていると報じていた。
恐慌状況の中、なかなかオーケストラを聴こうという気になれないのも分かる。
  * 金融サミットで
金融サミット「20G」が開催され、首脳宣言が採択されたが、何か首を傾げてしまった。
公式とは違う決定もなされたのだろうが・・・
  ー金融サミットで合意した主な項目ーは、以下の通りで。
 ▽2010年末までに計5兆ドル(約500兆円)の財政出動により経済成長率を4%押し上げる
 ▽各国中央銀行は、非伝統的手段を含むあらゆる金融政策手段を活用
 ▽為替の切り下げ競争は行わない。2010年末まで新しい保護主義的な措置は取らない
 ▽ヘッジファンドを金融規制・監督の対象とする。タックスヘイブン(租税回避地)の規制強化
 ▽IMFの資金基盤を7500億ドルまで増強する
 ー 世界のGDPは5000兆円というから、その一割を緊急に財政投資をしたところで、
 何処まで効果があるか、非常に疑問を感じる。 世界恐慌は3〜4割のGDPが失われるから、
 年間1500〜2000兆円が失われる。そこに3分の1位を投入しても焼け石に水。
 しかし20Gで世界のGDPの8割を占めるというから、半年に一度、一堂に会して即断することは
 世界的経済の大惨事を避けることが可能という面では、非常に有効がある。
  * 4月に入って、更に悪化
去年の11月後半から、金融危機の影響が経済の現場に深刻に現われてきた。今回の経済危機の第二波である。
そして第三波が、この4月に入って襲い始めてきた。 予測はしてが、やはり現象として直面すると凍りつく。
ただし政府が、三月決算を乗り切るため思い切った緊急融資を上から押し込んだために、とにもかく平穏を保っている。
しかし、決算の結果が表面化する5月になると一挙に現象に現れてくることになる。。
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2557, 印度放浪 ー2
2008年04月04日(金)
この本に著者・藤原新也の《語録》というコーナーがあるが、深い言葉が次々と出てくる。
40年前の25歳の言葉だから恐れ入る。 印度という国が、彼の精神を育てたのか、元々持っていた素養なのか。 
読んでいるうちに、いつの間にか自分と比べている。そして、小さな世界の中で、小さな習慣に甘んじている
自分が浮かび上がってくる。比べること自体がおかしいが。 その一部を抜粋してみる。
 ーーインドへの準備はとういうものだったんですかーー
二つある。捨てること。それに準備しないこと。僕の場合はね。学校。アパート。
家具。本。捨てて支障のないものは全部捨てたり、売り払ったりしたんだけど、そうしてみると、
案外ほとんど自分の身の回りのものに切実に必要なものは、歯ブラシぐらいのものってことがわかる。 
さっぱりしたよ。 準備しないってのはね。情報を一切入れなかったことだね。旅の目的地に関する。
情報を入れれば入れるほど安心はふくらむけど、実像は遠ざかるよ。
十人の人が同じ情報を頭にぶち込んで「自由の女神」を見た場合、皆同じようにしか見えないんだね。
今の情報化社会の旅はこの病が恐ろしく深い。 むしろ実像を見るのが怖いってことなのかな。
実像が自分を侵さないように情報によって保護膜を作ってるのかも知れないね。
解)初めて欧州に行ったときの感激は、一切情報を入れてなかったのが良かった。
 当時は、旅行のショックで精神を病む人が多かった。現在は、あまりに前知識が多く、感動の幅が小さくなっている。
(字数制限の関係でカット2009年04月4日)
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2007年04月04日(水)
 2192, 人生とナメクジの線
              オッ(*^○^*)ハ?ヨウ!
「キャリア」の語源は、ナメクジが這った後に残る線という。思わず噴出してしまったが、人生もナメクジの這った跡の線と思えば、
何も深刻ぶることはない。這っていく前には線は見えないが、後ろにはまるで道のように跡が残り、その跡が進むべき方向を示して
いるようでもある。我われが、明日を考える時に、やはりナメクジの跡の線と同じように歩んできた自分だけの線を振り返る必要がある。
ナメクジの優劣や跡の線など、それが如何したとみれば、悩みの殆どは消える。そういう喩えをみると、さらに展開をしたくなる。
そこで思いつくのが、家付きのナメクジ?、そうカタツムリである。家が無いカタツムリをナメクジとみれば、我われの持ち家など
持つことはない。これでは話が面白くないので、「塩という世間を這いまわり自分の身体を溶かしながら生きるのが人生」
と考えると尤もらしい言葉になる。 ひろ さちや著のー「狂い」のすすめーの中にあった一節を思い出した。
 *そこを抜粋すると*
「カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる」私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。
そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。
そうした気持ちの旅こそ、最高の旅である。たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いものだとみるカタツムリでなく、
貧困もよいものじゃないかというナメクジの目でみることができれば、素晴らしい旅になるはずです。
 インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、「裸足のどこが悪いんだ、上等の靴を履かされて、
重い鞄を持って塾通いと、裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが幸福なんだ・・・?」とね。
 ーー
土手を歩いていると、よくカタツムリが道を横断している。しっかりと、その跡がついているのだが彼らとて大変である。
雀とカラスの丁度良い餌になったり歩行者に踏むつぶされ、線が横断途中で途切れているのを見かける。
お悩みの諸君!悩んでいる自分をナメクジと鳥瞰した喩えで笑えるなら、もう半分は悩みは解決しています。
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2006年04月04日(火)
1827, 日本一短い手紙「私へ」          才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
               ー 読書日記                 
「私へ」の手紙}といえば哲学的にいえば、{即自から対自への手紙}ということになる。だから万人に共通する言葉であり、
一言一言が響いてくる!あの歳の、あの場所で、あのケースで、呟いていた自問自答の言葉がある。
これほど奇麗事の言葉ではなかった。ふて寝をしながら、涙を溢しながら、時間の過ぎるのを待つしかなかった。
こんな言葉が心の奥から聞こえてきたら、あれだけ傷はつかなかっただろう。
この本の中で「私にしかできないことがある。きっとある。今は分からない。」という言葉がある。 
この言葉には、希望と明るさがある。 絶望の海に溺れてしまった息苦しさの上の言葉には聞こえない。
「私へ」という自分が、そこにある! それだけで、明るさがある!
それでよいが。私の自分への言葉を、いま思いついたまま書いてみる。
 ーー
 まあ、いいじゃないか!         それで、いいじゃないか!
 これしか、なかったじゃないか!     それも、これも、 どうでも、いいじゃないか!
 ほんとうに、これでよかったのか?    ほんとうに、あれでよかったというのか?  
 まあ、いいじゃないか! これで!    他に、しかたなかったじゃないか!
 ー
 歳を重ねると、こういう自問自答が多くなるのだろう。 それが老いるということである。 
気持ちは青年のままでいたいものだ! せめて年寄り臭い奴の傍には近寄らないことである。
そのためには常に感動、感激を求めることだ。       お茶どうぞ 且_(゚◇゚ )ノ゙
ーー
日本一短い手紙「私へ」
 一筆啓上賞
おいおい そんなに落ち込むなって 人生少しわかりかけてきたじゃないか。 浅原昭子 青森県黒石市 40歳
お前の大きな財産の一つは、いじめの痛みを知ってることだ。     荒平翔太 熊本県菊池郡合志町 17歳
コノセカイニ アタシハヒトリダケ ソレハアタシヲ ツヨクスル   道志寿佳 福井県坂井郡丸岡町 18歳
ずっと“いい子”の私。やめたいのに本当の私を忘れてしまった。私は何がしたいの? 金島道子 広島県庄原市 17歳
私にしかできないことがある。きっとある。今は分からない。でもある。きっとある。黒木かつよ 宮崎県児湯郡都農町19歳
あなたの心の悲鳴。聞きとれるのは私だけ。私とあなたの寂しい関係。     竹田飛鳥 東京都江東区 15歳
お願い、黙って、私が努力している綺麗な夢の孵化を、手伝って… 陳許玉蘭 台湾 72歳 主婦
一人で来たブラジルだけど、今は五人。俺が我家のル?ツとはくすぐったくなるな。 堤剛太 ブラジル 52歳 会社員
アホでいるこっちゃ。オサキにやるこっちゃ。エライこといわんこっちゃ。  根市政志 青森県三戸郡福地村 65歳 無職
過去の僕よ、犬を飼わないほうがいい、別れる時が、辛いから。    野村朋史 神奈川県藤沢市 14歳 中学3年生
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他にも、多くの印象的な言葉があった! その一つが以下の言葉である。自分に壁を作るのはやめよう。
見えるものも見えなくなるから。自分の可能性は限りないから。ー自分の現在の壁に気がついているのだろうか?タダ、
その気持ちはだいじだが。次は、これ以外の響いた幾つかを抜粋してみる。
    ε(´',_c')зβyё☆βyёε('c_,'`)з゛     
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2005年04月04日(月)
 1462, 永遠に生きるように学べ
学生時代に、「永遠に生きるように学べ、そして明日死ぬかのように生きろ」という言葉に出あった。
最近、再びある本で出会ったが、年齢を重ねたためか、この言葉の重さ・深さを改めて実感する。
母親が向学心が強い人で、その後姿を見ていたので死ぬまで勉強の必要性は感じていた。
その都度、自分も社会も変化していくのだから、基盤も変えていかなくてはならないのは至極当然のことである。
年齢を重ねるほど、経験の裏づけが多くあるので吸収度が高くなる。せっかく地球に生まれてきて、
80年の時間を貰ったのだから、地球のこと、宇宙のこと、そして人間が長年かけて積み上げてきた知識・文化を
可能な限り見て・知って・経験するのが、人間の生きる最大の目的になる。自分で意識をしてこの言葉を自問していないと、
虚脱感の強い・虚無的な人になってしまう。「もう歳だから何で勉強をする必要があろうか」
「まあ世間様と同じように何事なく生きていれば良い」と何もしない生き方になってしまう。
それならまだしも、真っ当に生きている人に対して批判をするのが趣味になってしまうから、
自分に対して更に害を及ぼすのを自覚できない。90?以上?が、私の見る限りそうである。 いや、もっと多いか。
その辺で老人同士が、いい歳をして人の悪口を言っているのをみると、思わず顔をそむけてしまう。
それまで生きてきたようにしか歳をとれないのはわかるが。「永遠に生きるように学べ」は「死ぬまで勉強」と
同義語であるが、響きが明るいのが良い。「明日死ぬかのように生きろ」は人生のコツである。
明日死ぬかもしれないのが人生である。だから「いま、ここ」を大事に生きなくてはならない。
一期一会である。 いま、ここの一瞬は永遠である。生きているとつくづく、このことを実感する。
この随想日記も、そう思って気持ちを集中している。何十年後に子供が読んでも、この今の一瞬の集中の閃きは、
そのまま言葉の中に永遠に篭っているはずである。若き老人達よ,この言葉を自分の手帳に書いて、繰り返し読むことを勧める。
最低千回は口ばんでみるべし。「15歳で自分の人生を投げ出してしまった貴方のこと!」 「自分のこと!?」 「そう!」
・・・・・・・
2004年04月04日(日)
 1097, 落し物
 散歩をしていたら熱くなってきたので、ベストジャケットを脱いだ。持っていた折りたたみ傘をそのジャケットに
入れたところ、いつの間にか無くなっていた。傘はどういうわけか愛着がある。散歩道で15分前にジャケットを脱いだので
その時落としたのだろうと、その道を取って返した。ほとんど誰も歩いてなかったので、そのまま落ちているだろうと
下を向いて道を探したが見当たらない。
(字数制限の関係でカット2009年04月4日)
・・・・・・・
2003年04月04日(金)
 730, 「ほめ芸王」ー読書日記
ー褒め上手は芸のうち
営業を何年もやっているうちに身につける芸である。口先だけの営業手段として、ただで一番効果のある手段だ。
十年以上営業をしていれば、営業術から営業芸にランクアップしてしまっている。
キーマンに会ったときの枕詞として、「さて今日は何の褒めネタでいくか?」と考える。それが営業の第一歩であり、
まずは切り口となる。今日の芸はどの程度であったかを日記に克明につけたらプロであろうが。
「どっこいしょ」と持ちあげて、次に相手を落とすのだ。「どっこいしょ日記」に、おだて上げと落としの日記を
克明に書けばいかに人間は幼いものと解ってくるだろう。 人間は誰も褒めて欲しいのだ!
ー「ほめ芸王」の内容の一部を抜粋する
・わたしはほめない、ほめちぎるのだ。ほめるのでは足りない、ほめちぎらなと、ほめたうちにならない。
・「ほめ下手の人は、ほめているものの、相手を見下げている。ほめるということは、見上げる事である」
 これは言いえて妙である。「このことに関しては全然あなたの方が上ですね」という言い方にすれば、相手も受け入れる。
・「ほめることは簡単だ。しかしほめ続けることはむずかしい」という。
・「感嘆」に勝るほめ言葉はない。
・ほめるとは相手を語ることではない、自分を語ることである。自分のほめ方は自分にしかできない。
・相手をほめることで、自分自身の存在を確認する事ができるのだ。神様の心にならなくては、ほめることができない。
 ほめることで神様の心になれるのだ。怒った顔で、ほめる人はいない。
 ほめる時、人は誰でも、神様になれるのだ。
 ほめるとは、感動である。
 ほめるとは、感謝である。
 ほめるとは、感激である。
 ほめることで、二人の人が幸せになる。
 一人は相手。そしてもう一人は、あなた自身なのだ。
感想ーどうもほめる事は難しい。自信がないのだろか。やはり営業でそうせざるを得ない立場の人は身についている。
私がほめると効果てき面だが、軽々しくほめたくはない。まずは顔色からほめるのもよいが。
家内を実験台に少し始めてみるか! 少なくとも貶すのはやめよう!
・・・・・・・
2002年04月04日(木)
 366, 速読法
先回も書いたが、速読法という本を読んでいて吃驚した。一つ一つの語句に目を合わせるのでなくて、一度にページ全体を眺め、
フォトフォカス状態で文書を眺める。意識下でなく、無意識下でその文書を取り入れてしまうものだ。初め読んだ時、本当かと
疑ったが、実際やってみて驚いた。 (字数制限の関係でカット2009年04月4日)


3660,音信不通だった友人から連絡が!

2011年04月03日(日)

 
 * 5分の差で助かった
 学生時代の友人の奥野和夫さんから、昨日の午後に電話が入った。安否を知るために、
宮城県亘理町の住所先に葉書を出していた。 それが昨日になって本人の手元に届き、電話をくれたのである。
 彼の話の概要とは! 
≪ 妻が病院に行くのに付き添った後、自宅に帰ってきて、たまたまTVを見ていたら、激しい地震が襲ってきた。
それが長い時間にわたり続いたが、急にTVの画面が変わって6メートルの津波が押し寄せるという緊急の内容。
直ぐに6Mより10Mに変わったのをみて、着のみ着のままで自動車で高台の方面に向かった。しかし、道路は
渋滞で前に進まない。そこで機転をきかせ農道に回ったが、そこも渋滞。その間に余震が激しく前に進めないほど。
それでも何とか高台に辿り着いた後の5分後に大津波が襲ってきたという。 その後、避難所に行ったところ
数百人の先客がいて寝れる状態ではない。そこで車の中で一晩過ごしたが、着の身着のままで逃げてきたため、
寒がきつい。 暖房もガソリンが無くなるので、一晩中、5分ごとにエンジンをつけたり、止めたりして過ごした。
朝までの時間が非常に長く感じた。 水洗トイレは、ボランティアの中高学生が水を近くの川から次々と運んでいた。
命は助かったが・・・ 妻が病のため、避難所では悪化の可能性がある。 ふと30分の所に前の会社の先輩が住んでいるのを
思い出し、そこに9日間、避難させてもらった。そのうちに群馬の実家の兄に連絡がついて、車でガソリンを新潟県経由で
持ってきてもらい、何とか兄のいる実家にたどり着いた。最近になって道路が復旧してきたので、自宅を見てきたが、
1Fが海水の泥で滅茶苦茶のため、廃材処理の手続きをしてきた。命一つでも助かっただけで充分! 
火災保険に入っていたが、地震保険には入ってなかった。 ≫
 ー以上が、彼の15分間の電話内容だが、一つ判断を間違えれば助からなかったようだ。
住所の亘町荒浜は仙台飛行場の南下に位置し、阿武隈川の河口にある。 終の住処を、そこに選んだことに
羨ましさを感じていた。 それが、まさか・・・ それでも命が助かっただけでも喜ばなければなるまい。
 他人ことではない、まさか、まさかの日々である。
・・・・・・・・
3295, 果たして、日本は財政危機が訪れるか?
2010年04月03日(土)
  昨日の朝日新聞の ーキーパーソンーのみずほ証券の高田創氏への
「先進国最悪の借金、財政危機は起きますか?」のインタビュー形式の内容が、時が時だけに注目して読んでみた。
  ーその内容を私の主観でマトメテみたー
 日本の国債残高が2010年度で637兆円に達する見通しだが、「先進国で最悪の借金体質」といわれる中で、
 国債発行余力を探った。 どこを危険水域とするか? の問いに・・・
・日本政府は、300兆円の債務超過。しかし、経常収支は長期にわたり安定的な黒字が出ている。しかも個人金融資産の
 レベルが高く、95パーセントが国内で消化されている。父さんが母さんから借金をしてまかなっている。
 家全体としては借金は少ない。しかし、母さんが父さんに不信を持ち、家を出て行くと大変な事態になる。
 長期金利が落ちついていることからみて、母さんが家出の兆しはない。
・日本の租税負担率は23パーセント、試算によると欧米並みの35パーセントに上げると886兆円の資産価値が上がる。
 債務超過分を相殺しても、まだ569兆円の国債発行余力がある。年換算にすると14兆円である。
・消費税率を上げて財源を確保すべきかというと、いきなり上げると元も子もない。ただ、税率を上げずに封印すれば、
 先があるかどうか、心配するものが出てくる。求められるのは将来の展望である。変化に対するガバナンスである。
  〜〜
 これから考えると、アメリカが狙っている日本の個人の金融資産だが、その多くがアメリカ国債を買っている現実、
 それも、何時暴落するかの瀬戸際にあり、その価値も不安定である。ただ、日本の強みは、個人の金融資産があるので、
 ギリシャやスペイン、ポルトガルとは違う。しかし、危ないと日本人が思い、金や、現物に換金しようとすると
 危険になる。ここで高田氏は、国家の経常収益が長期わたり黒字という部分をみている。その経常収益とは。
 民間貯蓄+財政黒字をいい、これが安定している日本は、まだ国債発行が可能と見ているが・・・どうだろう? 
  ・・・・・・・・
 2920,私は嘘しか言いません
2009年04月03日(金)
  ー養老孟司が、対談で次のようなことを述べていていた。
《 数年前に亡くなったユングなどの研究者の河合隼雄が真面目な話をする時に「私は嘘しか言いません」
  と言っていたそうです。これは考えてみたらシミジミと効いてくるセリフです。
  つまり、「私は嘘しか言いません」というのが本当だと既に嘘をついている。
  河合さんは、この言葉に「言葉など当てになりませんよ」という意味を込めていられるのだと思いますよ。》
   なるほど、面白い。 
哲学に似た問題提起があった。 「クレタ人の嘘」である。
ー『クレタ人は嘘つきだ』が真ならば,クレタ人が発した『クレタ人は嘘つきだ』自体が嘘で,
クレタ人は嘘をつかないことになり,『クレタ人は嘘つきだ』が真という仮定と矛盾する。
もし、『クレタ人は嘘つきだ』が偽ならば、クレタ人は嘘をつかないことになる。
つまり、『クレタ人は嘘つきだ』が真となってしまい,『クレタ人は嘘つきだ』が偽という仮定と矛盾する。
『クレタ人は嘘つきだ』の真偽がいずれであると仮定しても、矛盾が起こる。ー
 言葉の何とも妙なところだが・・・
「私は嘘をいいません、信じてください!」 の口癖の人がいた。これほど好い加減な言葉はないが、言うほうも言うほうだが、
騙される方も騙されるほうだ。騙している方も騙されている方も、ボケ漫才のように気づかないから始末が悪い。
それなら「私は嘘しか言いません」の方が良い。 それも、哲学的ときているから面白い。
しかし、それでは世界が回らない。詐欺師は「嘘しか言わない」からこそ、その奥にある言葉の意味を知っている。
言葉は共同幻想、そして仮想を創りあげる。それに己が気づかないから問題は拗れるのである。
「私は嘘を言いません」と真面目に言う人がいるが、「私は嘘しか言いません」を悪用するとどうなるか?
「私は嘘を言わないように心がけている。嘘を言った分、何倍も自分に跳ね返ってくるし、自分の中に残る」
これは、私の基本だが、一般も同じだろうか? 嘘も方便だが・・・冗談のつもりの嘘で何度も大失敗をしたが。
 ところで本当(真実)って何だろう?
・・・・・・・・・
2556, 印度放浪 ー1
2008年04月03日(木)
  『印度放浪』 藤原新也著  朝日文庫
写真家の文章は何故もこのように対象を、そして対象に映った気持ちを上手く表現出来るのだろうか。
言葉の一言一言が詩のようでもある。以前、買って目を通したが、長男がインドへ行ったのを機会に読んでみた。
文庫本になっているが、半分以上がカラー写真で、40年以上前に書かれたものとは思えない。
 表紙を開くと、すぐ次のページに、この一行だけが書いてあった。
ー 歩むことに、ぼく自身と、ぼく自身の習ってきた世界が虚偽に見えてきた。ー
そして、その二ページ後に、
ーぼくは歩んだ。
 出会う人々は、悲しいまでに愚劣であった。
 出会う人々は、悲惨であった。
 出会う人々は、滑稽であった。
 出会う人々は、軽快であった。
 出会う人々は、はなやかであった。
 出会う人々は、高貴であった。
 出会う人々は、荒々しかった。
  世界は良かった。
 《旅》は無言のバイブルであった。《自然》は道徳であった。《沈黙》はぼくをとらえた。
 そして、沈黙から出た言葉はぼくをとらえた。 良くも悪くも、すべては良かった。
 ぼくは全てを観察をした。 そして、わが身にそれを《写実》してみた。
 ーー
40歳になって15年ぶりにこの旅をふりかえった著者が「なぜインドに行ったのか」の質問に言葉がつまり、
その若者の後の影に、過去の自分を投影する。 (若いときの自分について)
 青年は何かに負けているようだった。たぶん青年は太陽に負けていた。
 そして、青年は大地に負けていた。青年は人に負け、熱に負けていた。
 青年は牛に負け、羊に負け、犬や虫に負けていた。青年は汚物に負け、花に負けていた。
 青年はパンに負け、水に負けていた。青年は乞食に負け、女に負け、神に負けていた。
 青年は臭いに負け、音に負け、そして時間に負けていた。
 青年は、自分を包みこむありとあらゆるものに負けていた。
 疲れたその青年の目は表情を失っているかに見えたが、太陽にいられて眩く白熱する、
 目の前の地面を、ただぼんやりと見つめ返すだけの意思をわずかに残していた。・・・・
 ・・・なんか知らんけど目茶目茶に何でもかんでも、負けにいったんじゃないかなぁ。最初の頃は。
  ーー
 インドは何々とは、この本を読むと何もいえなくなる。
 ただ、行ってよかったと、つくづく感じるところである。         ーつづく
・・・・・・・・・・
2007年04月03日(火)
「定年以降の生き方」を考える         才八∋ウ_〆(∀`●)
 今年から、大量の団塊の世代が定年を向かえる。
その第一期生が、この4月から正式に大量に会社から(悪くいえば)放りだされる。
「組織」から離れて「個」として、どのように自立(自律)するかが問われる。
「孤独」「孤立」した時に、自分と如何に付き合っていくかが真に問われるのが、これからの人生である。
それまでの組織内での相互依存関係の環境が、自分自身への依存になるから厳しい。
宅上犬が「明日から家の外で暮らしなさい!」と翌日から屋外に放り出されるのと同じ。
勤めていた会社の価値観は、他では全く通用しないしないことに、そこで初めて気づく。
鑑札のある首輪があるうちは、誰も温かく向かえてくれるが、首輪が外されてしまえば、誰も相手にしない。 
その時ただ一人茫然とするしかない。そこで手っ取り早く「定年退職者の溜まり場」にソソクサと出かけても、
「自己を持たない濡れ落ち葉同士の葉っぱ」の絡み合いになるのは、当然の成り行き。
そこにいるのは自分と同じ「虚しさ」を埋めにきているゾンビばかり。
「人生とは何か」を考えたことのない人は、自我の先の自己が希薄である。
そこでは自我と自我のぶつかり合いになるだけ。ここではゾンビの話ではなく、定年退職後の生き方を
問おうとしているのである。 面白いので、つい話がそれてしまった。
還暦になる前に10~30年かけてライフワークを確立すべし!ということだ。今さら言っても仕方がないが・・  
まあ、面白いから話を続けよう。そこでは即席でもよい、「楽しい」と思えることをやること。
その「楽しい」が何かも解らないから始末が悪いときている・・・何時間やっても疲れないものを探せばよい。 
それも解らない? じゃあ、愛玩動物ーペットが好き?なら、飼えばよい。もういる。もし犬を飼っているなら、
さらに小鳥を飼えばよい。もし持ち家があるなら家を売って、その資金で旅行三昧をすればよい。
その覚悟がなければ、家の中でウジウジすればよい。二度とない人生、最後は楽しみ尽さなければ。
定年後は、年金の他に10万円の収入が理想という。年間120万円あれば、海外の安いものなら夫婦で二回は行ける。
せっかく死が貴方の後ろから追いかけてくる歳になったのだから、その死への恐怖と危機を借りて、他人からの目や、
プライド、見栄など、一度無視することである。死の前では、そんなものは霞でしかない。限られた時間を自分の
奥底の声の通り生きなくては、何の意味もない。死ー無という絶対的な宇宙からみたら、自分の存在なぞ無いに等しい。
だから一度独りになって、ジックリ多くを考えるべきだ。図書館があるでしょう、図書館が!それと身近にいくらでも自然が! 
美術館も、いや百貨店もある。それに気づくには独りになりきることしかできない。誰かに言われそうだ。 
シツコイ!同じことばかり書いている、と。定年の時期なので、ついつい!ウトサイダー的人生観は、これから必要になるから?
                             ホンジャ、バアアイ♪♪((((*`・´))ノ
別の声)そういうけどね、今さら如何すればよいんですか、路頭に迷ってしまっているのだから、致し方ないのです。
ただ、朝起き、飯喰って、ボーッするのも、良いじゃないですか。それしか出来ないのだから。
何で好きなことを探さなければならないのですか? こういう生活が好きなのだから、
ただ比較しているだけじゃないですか。ウジウジして生きる、ナメクジの人生もあるのですよ。
人生、人生というけど、ナメクジのはった跡を言っているだけじゃないですか。 そんなもの!
・・・・・・・・・
2006年04月03日(月)
1826, ずっとやりたかったことを、やりなさい?4           
          ー 3月22日 12:00記
 朝起きがけのモーニング・ページを始めて8日経つ。(3月14日開始)
 学生時代の卒業間近に半年分書いてあった日記がある。 何の構えの無い、筆が向くままの文章だが、 
 もっと日常の些細なことや気持ちの動きを書いてあればと面白いのにと、読み返してみて実感する。
 それをカバーするのが、モーニング・ページである。何でも良いから気の向くままノート3ページに書いていく。
 書くことがなかったら、書く事が無いと書いた上に、その後に「ありがとう、嬉しい、楽しい、幸せだ、ついている、大丈夫、
 許す、よかった」などを自動的に書く。そうすると、不思議なことに何かが出てくる。
 学生時代はそれに近かったが、最近は構えてしまう。モーニングペイジは脳の排水というが、その排水に何かがある。
 この文章も頭に浮かんだままの内容の文章である。毎朝一時間近くかけて修正・構成している随想日記ーテーマ日記も
 面白いが、ただ何も考えないで起きがけに構えないままのモーニング・ページも面白い。
 これはHPで公開はできないし公開したら、そこに構えが入ってしまう。
 ーー
             ー 3月30日 pm12:30記
「8週間は読み返さないこと」とあった。それでも数日前のものを読むとナカナカ面白い。
(字数の関係でカット2010年4月03日)
・・・・・・・
2005年04月03日(日)
 1461, 「どう思いますか格差社会」
昨夜の19時半から22時半の特番が深く考えさせられる内容で、好きな?巨人戦も殆ど見ないで、この番組に見入ってしまった。
社会ウォッチャーとしては、現在の凝縮された社会を見たおもいであった。一部の勝ち組と負け組が、情報ネット社会と
グローバル化のために分かれてきた。それに対して、シビアな議論がつづいた。議論内容はレベルの高いもので、
自由闊達で好感が持てた内容であった。「競争激化の結果としての格差も仕方がない」という前提で議論をしている。
もう日本一国だけの論理は許されないのを周知しての前提の議論であった。格差はどの時代にも元々あったもので今更でもあるが。
格差・差別をいうなら、天皇制そのものを問うことになる。島国の王国の血筋だけで何で??という大問題がある。
国の体裁を取り繕うための飾りに、何で国税・血税であそこまで?という議論がある。アフリカならいざ知らずだが?
北欧的な庶民レベル的王族制度にすべしというと、問題がすりかわってしまうが。面白いのは、出席者が「この中の座っている
席の上側と下の段差で出演料が違う。」という暴露があったことだ。前の席は、大学教授や、成功経営者が占めていた。
 (字数の関係でカット2011年4月03日)
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2004年04月03日(土)
1096, 人生と時間
 1日=24時間、 1年=8,760時間、 80年=700,800時間
 人生80年間を時間換算すると、確かに700,800時間になる。
人間には睡眠や食事、排泄など、生理的に欠かせない時間がある。
そうした時間を1日10時間とすると、70万?292000(10時間×80年)=約41万時間となる。
<人生は41万時間の配分ゲーム>といえる。
・ 1日=労働時間+生理的必要時間(睡眠、食事、排泄etc.)+自由時間
・ 他律的時間と自律的時間
・ ライフサイクル?=幼少期→少年期→青年期→壮年期→老年期
・ ライフサイクル?=被扶養者→生徒・学生→労働→結婚→家族→引退
1日を、一生を、どのような時間で構成するかは生涯設計(ライフ・プラン)、人生設計そのものになる。
自分をライフ・デザイナーと意識している人と、していない人では、異なった結果になることは確かである。
自分が実はデザイナーであることを知らない人から、優れたデザインが生まれるはずがない。時間認識の有無は優れた
ライフ・デザイナーにするための前提条件です。それは豊かな充実した人生を送れるか否かを決定する最も重要な前提条件である。
話は少しずれるが、「自分の時間が持てない」とかいう人が見かけられる。自分の時間を持つコツを知っている人というのは、
自分の「場所」を幾つか持っている。自分の時間を持つことは、自分の場所を持つことと同じことになる。
行きつけの居酒屋やスナックはその典型である。といって、読書の好きな人で居場所など何処でもよい場合も考えられるが。
それでも自分の好きな場所で読むことが最上である。ある哲学書に何げなく書いてあった「心身の問題は、時間の問題である」
という一文も考えさせられる。内容を読もうとしたが、難しので深くは読んでない。ただ経験から、どんな深い心の傷も三年も
経てば殆ど消えている。連れ添いを亡くした人を、年配のヤモメが慰めていたのを聞いたことがる。『何事も三年よ!』と。
倒産や身近な人の不幸や失恋などの心の傷も、完治大体三年である。学生時代の日記を読んで見ると、
次から次へと心の傷を負っている。といって、次の問題が起きると殆ど忘れてしまう。
そう考え見ると、心身の問題も時間の問題と割り切って考えればよいことになる。
「時間が全てを解決する」ということだ。それでは時間とは何ぞやという難しい問題が出てくる。
「人生二度無し」が『自分に与えられた時間』の重要性をズバリ言い当てている。
・・・・・・・
2003年04月03日(木)
729, 「イヌが教えるお金持ちになるための知恵」  ー読書日記
(字数の関係でカット2008年4月03日)
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2002年04月03日(水)
365,ミカン集中法
「ミカンを頭の上15センチ上に置くイメージを抱き、本を読んだり、書き物をすると集中力が数倍増す」という。
読書や文章を書くとき「頭の上に意識を集中するといい」とは昔からいわれていた。
それを「具体的にイメージとしてやると効果が上がる」という事だろう。
今朝、ウオーキングでやってみて効果抜群であった。集中が数倍ついたようだ。この文章はほぼ散歩で頭で書いた。
中国で「魔術師がかぶる三角帽」「思考帽」と実際あったという。落ち着きのない子に罰でかぶせる「ダンスキャップ」もあった。
ミカンもいいが、鳥もいい。 他に気がいったら、飛び去る鳥だ。それを意識していれば、他の思考や情報が遮断されるからだ。
授業でも、読書でも、この随想日記を書くときに早速利用できる。石のアーチの頂点に置くカナメ石に似ているという。
カナメ石は他の石が所定の場所に固定させる役割になる。
注意の一つを一点に集中する事により、残りの集中力を読書などの対象に集中させる事が出来る。
 


3659, つれづれに

2011年04月02日(土)

  * 原発事故の深刻さ

 原発がもたらす影響は、今後どのようになっていくのだろうか? 経済は大きく落ち込むのは目に見えて明らかである。
業界格差は明らかに出てくるだろうが、飲食、ホテル、レジャー関連、タクシーなど三次産業から深刻度が深くなっている。 

 東北、関東地区の農水産も壊滅状態で、米の生産者も、今年の作付けに入ってよいものか、思案をしているのだろう。 
伝え聞くところによると、長岡の奥座敷といわれているリゾートホテルは、お客がほぼゼロの状態が続いているとか。
この冬は豪雪で惨憺ものだったが、さて春が来たという時に、地震と原発事故である。
 
 特に原発事故の成り行きを世界中が、固唾をのんで見守っているのは、死の灰が地球規模に広がる可能性があるからである。 
毎日毎日、TVでこのニュースである。消費マインドが冷え込むのは自然の成り行き。 株と国債の暴落をきっかけに、
ハイパーインフレになるのが、一番考えられる道筋である。その時、「新円切り替え」が実行されるはず。

 日本の危機といえば、元寇、明治維新、日清戦争、日米戦争である。それ以上の危機になっていくのだろうか?
東京では、一部の子供たちの疎開が、静かに行われているようだが・・・

 ・・・・・・・
3294, エッ何!
2010年04月02日(金)
 * 次年度からの予算財源はこれ?
 ドサクサに紛れ一瞬で郵貯の預け限度金額が2倍の2千万円に決定した。閣内対立を演出して、仕方なく鳩山首相が原案通りに
決定したカタチをとったのは筋書きどおり。23年度以降の予算が、このままでは組めなくなるのを見越し郵貯の限度額を上げて、
郵貯残高を増やそうという目論見。穿った見方をすれば、中小・零細金融機関が更に危なくなるのを見越して、その受け皿を
つくっておくメリットもある。3人だけの政党の亀井を金融大臣に据えて泥亀の捨石として最大限に利用している。
もちろん本人も、それを承知、それが政治。先日のTVのモーニング・ショーで金融機関の破綻時の国家補償を
1千万から2千万に引き上げてもよい」と述べていた。「もし郵貯への移動が予想より大きければ見直す」というが、その時は
中小は死に体。見直すわけがない。そこまで、国家が追い詰められているということ。日本の現状は国家非常事態、何でもありである。
「この手があったのか!」というところ。 金融の世界では大問題を、電光石火でしか決定できないため、計画を練りに練ったはず。
1〜2年以内に、日本も米国並みに銀行の倒産ラッシュになるということ。 自民党には出来ないことを、民主党政権は
いとも簡単に実施してしまう。 ある意味、国民新党の存在は、互いにベストの役回りになっている。 
中小企業への金融救済法は今からみれば先延ばし策としても現時点ではベストと評価するしかない。 
この2千万の限度額アップも財源確保の一つになる。次は、消費税である。最低15、そして20パーセントは必要である。
 恐慌の中で、やはり直接税に比重を移動しなければならないが、これをやると、企業の弱肉強食が更に強まる。
といって、これしか国家運営の維持が出来なくなるなら、流れとして容認するしかない。
その分、国民の実収がカットされたと同じことになり、ますます財布の紐を締めることになる。
 少子高齢化も含めて、日本の政治経済のダウンサイジングが進むが、これも受け入れなければなるまい。
この10年間は、世界が動乱を極めることになる。 根底にあるのは情報社会の到来による再編である。
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2919,寝入る瞬間を経験したことがあるか? ー3
 2009年04月02日(木)
 マギーの「哲学人」の中に、次ぎのような文章を見つけた。ー私は寝入る瞬間について大いに頭を悩ませていたが、
 ウィトゲンシュタインは死に関して、それと同じような瞬間を扱っていた。その瞬間を経験しようとしても無理であると
 彼は述べていた。 なぜなら、明らかにその瞬間に意識がなくなるため、それを意識できないからなのだと。ー
 これによると、その瞬間は意識がないのだから、ない意識が、それを経験できないというのだ。「もし哲学者が考えるとしたら?」
 と私が考えた内容と酷似はしている。 しかし私の実体験とは違っている。「あっ!」という数百分の一秒の感覚を、
 寝入る瞬間に直感したのである。 実際にスット意識を失う刹那(瞬間)を感じたのである。
「その瞬間の感覚は、寝入る瞬間の直前であり、寝入る瞬間ではない」 と反論されそうだ。しかし「それが寝入る瞬間だろう」と、
 反論も可能である。それに対して「意識が無意識の世界への移行の瞬間を如何して感じ取るというのか、論理からみて疑問である。
 その直前の刹那が果たして経験できると言うのか?」 と言うだろう。しかし私は、その刹那を感じたのだから、
 何を言おうが事実は事実である。「それでは証明しろ」と言われれば 証明のしようがない。
 この書で寝入る瞬間を経験することは、ほぼ不可能で私は特異経験をしたことが分かった。寝入ったアチラの物語の夢について、
 ここでも多く書いてきたが、気楽に内容を言葉としてノートに書き出すと面白い。 このテーマとは関係ないか! 
  ところで寝入る瞬間の体験って、そんなに大事なこと? って。 ある哲学の本を読んでから、ほぼ皆無というなら、
 私にとって大事なことです! 毎晩、何度も目がさめる者にとって、一度は経験してみたいもの。それを経験したのだから。
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2555, ホモ・ルーデンス ?1
2008年04月02日(水)
『ホモ・ルーデンス』       ー読書日記
      ヨハン・ホイジンガ(オランダの歴史家) 1938年著。
「文化は遊びとして、もしくは遊びから始まったのではない。言うならば、遊びの中で始まったのだ」
  ーすべては遊なりー
〜文化は遊びの中にはじまる〜
ホイジンガーの言いたいことは、この二つに尽きる。
まずは ーすべては遊びなりー(遊びの考察と定義とは) について考察してみよう。
ホイジンガの遊びに対する考察は、プラトンの言葉から始まる。
「真面目にすべきことは真面目にやり、真面目でなくてもよいことはそうしないでもよいのです。
 最高の真面目さを以て、事を行うだけの価値があるのは、ただ神に関する事柄だけなのです。
 これに対して、人間は、ただ神の遊戯の玩具になるように、というので創られた。
 これこそが、人間の部分です。だから人はみな、男も女もそういうあり方に従って、最も美しい遊戯を遊戯しながら、
 今ちょうど心に抱いているのとは正反対の考えで生きてゆかなければならない。(プラトン対話集『法律』)」
著者は、この真面目と遊びの対立において、「真面目は遊びを閉め出そうと努めるが、遊びは喜んで真面目さを
自己の中に抱き込むことが出来る」と、遊びの優位性を説いている。 そして、遊びの定義として、
「遊びは自発的な行為もしくは業務であって、それはあるきちんと決まった時間と場所の限界の中で、
自ら進んで受け入れ、かつ絶対的に義務づけられた規則に従って遂行され、そのこと自体に目的をもち、
緊張と歓喜の感情に満たされ、しかも『ありきたりの生活』とは『違うものである』という意識を伴っている」
「遊びは人間がさまざまの事象の中に認めて言いあらわすことのできる性質のうち、 最も高貴な二つの性質によって
充たされている。リズムとハーモニーがそれである」遊びの定義から、世俗に対して離れているという点で、
「聖なるもの」と「遊なるもの」は同一であると。最後の文章に「人間的思考が精神のあらゆる価値を見渡し、
自らの能力の輝かしさをためしてみると、必ずや常に、真面目な判断の底になお問題が残されているのを見出す。
どんなに決定的判断を述べても、自分の意識の底では完全に結論づけられはしないことがわかっている。
この判断の揺らぎ出す限界点において、絶対的真面目さの信念は破れ去る。古くからの『すべては空なり』に代わって、
おそらく少し積極的な響きを持つ『すべては遊なり』がのし上がろうと構えている。これは安っぽい比喩で、
ただ精神の無力を思わせるかのようだ。しかし、これこそプラトンが人間は神の玩具であると名付けた時に達した知恵なのだ」
 ーー
一流は、その芸を遊びの領域まで到達している。遊びは自由への飛躍ということだ。
次回はー文化は遊びのなかにはじまるーを考えてみる。梁塵秘抄 巻第二 四句神歌 に以下のような歌がある。
「 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」
子供達が純真に遊ぶ心を忘れずに、健やかに育って欲しいと願う気持ちが、
そして、自らもまた、子供の頃の気持ちを持ち続けていたいと願う心がこもっている歌だが。
 ・・・・・・・・・・
2007年04月02日(月) 2190, 飲料水について
           オッ(*^○^*)ハ?ヨウサン!
 何処かの国の大臣様が、不正申告の事務所代の言い訳に「6000円のミネラル・ウォーター」を経費にしている、
 と言い訳をして失笑をかった。
  (以上、字数制限のためカット 2010年4月2日)
・・・・・・・・・
2006年04月02日(日)
1825, あちら側の世界 ー6        b(⌒o⌒)d おっ \(*^▽^*)/ はぁー
ーGoogleという会社とは?ー
グーグルのミッションは「世界中の情報を組織化し、それを誰からでもアクセスできるようにすること」と定義している。
「世界政府があるとしたら、そこで開発しなければならないはずのシステムを全部グーグルで作ろう」ということだ。
そのために「世界中の情報を整理しつくす」というが、そう簡単にはできることでない。
グーグルに関して
ー第2章 グーグル?知の世界を再編成するー の概要から考えてみよう。
(これは、あるHPからコピーしたものだが、簡潔にまとめてある)
・グーグルのミッションは「世界中の情報を組織化し、それをあまねく誰からでもアクセスできるようにすること」
・ネットの「こちら側」であるフィジカルな世界から、インターネット空間に 浮かぶ巨大な情報発電所とも
 言うべきバーチャルな世界である「あちら側」へのパワーシフトが確実に起きる
・情報をインターネットの「こちら側」と「あちら側」のどちらに置くべきか、情報を処理する機能を「こちら側」と
「あちら側」のどちらに持つべきなのか、というトレードオフが、これからのIT産業の構造を決定する本質となる
・グーグルの情報発電所とも言うべき巨大コンピュータ・システムは、チープ革命を徹底追求した全く新しい
 作り方で自製し、 圧倒的な低コストを実現したという意味において、三大潮流のすべてを体現した存在である
・グーグルのビジネスモデルは新しいバーチャル経済圏を形作ろうとしており、
 「知の世界の秩序の再編成」に新しい富の分配メカニズムをもたらしている
・「情報自身の淘汰」に委ねるという思想のもとに、すべての情報を共有することこそが、組織と情報」
 におけるコペルニクス的転回であり、グーグルの組織マネジメントにおけるスピードとパワーの源泉になる
・サービスにおける「人間の介在」の思想の違いから、ヤフーはメディア、グーグルはテクノロジーという本質的な違いがある
  ー以上だが、
「世界中の情報を組織化し、それを誰からでもアクセスできるようにすること」「世界政府があるとしたら、
 そこで開発しなければならないはずのシステムを 全部グーグルで作ろう」というミッションの恐ろしさの一端を、
 多くの人が 実感できたのが、2005年6月に「グーグル・アース」というサービスを始めた時だ。
 無料でダウンロードできるグーグル提供のソフトウェアとサービスを使うと世界中の衛星写真、起伏に富んだ地形の立体画像、
 さらに大都会の場合、建物の意味を含めた詳細の三次元画像を、私たちはパソコン上ですべてみることができるようになった。
 東京の詳細の画像も全部見ることができる。適度の高度からズームアップをしたり、高度を上げて、東京全体を鳥瞰できる。
 これに仰天するが、これは「挨拶代わりにどうぞ」という感覚で、グーグルが世に出したに過ぎない。
 これ一つとっても恐ろしいが、彼らはリアルタイム性や解析度もさらに高め、全地球上の何が起きているかを
 全部閲覧できるシステムをゴールとしているに違いない。チープ革命とは、そういうことを可能にする潮流なのである。
 ーー                   (*・_・)y-~~~ ひといき
  ーさらに他のHPにも解りやすい内容があった。
  (以下、字数の関係でカット2008年4月02日)
ーー
先日さっそく「グーグル完全活用本」?創芸者を買ってきたが・・・
次回は「アマゾン」について書く。                ゝ(-_- ) バイ!
・・・・・・・
2005年04月02日(土)
 1460, 頭脳の果て ?読書日記
この本は数年前に買ったが、目を通しただけで本棚に並んでいた。何げなく手に取ってみたところ、面白い。
前に読書日記で書いた「迷ったときは運命を信じなさい」に似ている。ネット書店の「アマゾン」で、
この本の基本情報を取ろうとしたら、この中古本が何と10倍近くの値段で出ていた。
絶版のため、値段が競りあがっているという。書き込みと、ページの折込をしてあるので売り出せないが、
そうでなかったら、売りに出したのだが。(売り手の戦略の可能性もあるが)それにしても、面白い本である。
特に天才のイメージを借りるテクニックが面白い。天才の感覚を借りるテクニック(Genius Code)、イメージワークである。
天才をイメージで呼び出して、その人になりきり、その人の疑似体験をする。
イメージトレーニングを発展させたと言えばわかりやすい。使いようによっては、かなりパワフルにはたらく。
大まかにいえば、1.リラックスする 2.モデルとなる師を具体的にイメージの中で描写する
3.着ぐるみの中に入るようにして師匠の背中から中に入り、師の焦点と、言葉と、体の使い方を体験する。
 終わった後では、その着ぐるみを脱ぐというような感じになる。
実際、随想日記を書いて読み直すとき、物書きのイメージで批判的に自分の文章を読み返すと、
いつの間に全く違った添削をしている。他にもイメージ・ストリーミングが色いろ書いてある。
 その一つを紹介すると、
1・エレベータのようなものに乗る。
2・ボタンを押すと、他の星に移動する。
3・そこには、他の星の自分がいて、自分よりはるかに能力がある。
4・その自分と一体になって、ものごとを考える。そして何かヒントがでてくるはず。
5・そして元の自分に戻って、そのマシーンにのって帰ってくる。
 まあ、大雑把にいえばこうだ。 私が考えた、「三つの部屋の物語」も、これがヒントかも知れないが。 
更に、いま一つを紹介しておこう。夜寝る前に目を閉じて、最も偉大な9人を透明な顧問にして、彼らと一緒にいると想像する。 
彼らは私を楽しい冒険の旅に導いてくれる。おかげで真実の偉大さに再び深く感謝することができ、創造的な試みに向けて
努力する気持ちと正直な考えを表現する勇気を持つことができる。自分の好きな9人を選ぶのもよいだろう。
「迷ったときは運命を信じなさい」の、ギリシャ神話の神様と似通っているが。これらは、私達が持つ大脳の素晴らしい
潜在意識のメッセージに耳をそばだてることである。また違う視点を得ることが可能になる。
大脳皮質とそれが持つアイデアを吸収したイメージを形作ることになる。そうすることによって、より優れた能力を
発達させることが可能になる。スター・ウォーズに出てくる、フォースをイメージするのも面白い。
フォースは基本的な訓練やテクニカル・スキルをマスターしてみて初めて得られる威厳ある自由な力
フォースとは、右脳と左脳が完璧に調和したときに同時に作用したときに得られる解放された力である。
(フォースー潜在能力から湧き出してくる力)これらのテクニックは幼稚に思えるが、実際は右脳をフルに使うことになる。
・・・・・・・・
2004年04月02日(金)
 1095, わからないという「方法」
この本を本屋で見たとき、てっきりーわからないという「方法」で、自分の枠の世界からでない方法のことを
言っているのかーと思ってしまった。それはできませんと勝手に思い込んで、小さな世界に閉じこもってしまうのも同じ。
立ち読みをして、インターネットで調べてみると、わからないと、一度0に立ち戻って1つずつ理解しようとする
努力方法をいっている。ナルホドと肯いたが、わかるとは何かを一度考えるチャンスにもなった。
わかるとは理解することである。といって何処まで理解するとわかったことになるか、あいまいである。
むしろ「わからないという方法で」対象に入り込んでいくとよい。私はあのひとを、わかっているといって全く
わかっていないのが実態である。あれはこう、これはこういうものという勝手な思い込みを捨て去ることをいっているのだ。
異業種参入が新しい業態を作ってしまうケースが多いのは、むしろわからない「方法」を利用している為である。
・・・・・・・・
2003年04月02日(水)
 728, 天国と地獄
 人生を長く生きてきて「天国と地獄」は死後にあるのではなく、生きている人間の心ー思いの中にあることが解った。
その意味で一生かかって、天国のイメージをつくるのが宗教のはたす役割といってよい。 事業は経営が順調だと天国、
上手くいかないと地獄である。これほどのハッキリしたものはない。上手くいっている時はこの世の天国である。
 しかし経営悪化で、資金繰りが行き詰まり自転車操業になった時は生き地獄そのものである。
その意味では「日本中は現在は地獄のふたが開いている状態」と経済評論家の高橋乗宣がいっているが、
実感としてよく解る。自民党という鬼が今も利権のため地獄の世界に国民を巻き込んでいる!
何ともいえない日本を覆っている暗い雰囲気は、それを物語っている。 サラリーマンはよい職場か、悪い職場で
それが決まってくる。ある時期に倒産直前状態で大手の資本下にあった会社にいたことがある。
この世の地獄である。お互いの足の引っ張り合い、傷のつっつきあいになる。
また上司の相性も、その分かれ目になる。大の男がトイレで号泣!になってしまう。
 家庭もそうだ、基本の夫婦関係が「あたり」か「はずれ」で、天国か地獄かの分かれ目になる。五分五分でまずは、
試される事になるのだ。いかにいい加減に相手を決めてしまうのが人間の弱点だ。誤解をして結婚してしまい、
理解して離婚というケースになってしまう。 重いうつ病もこの世の地獄である。その人が理想としてつくった家は、
その人にとっての天国のカタチという。なるほど解るような気がする。いま住んでいる自宅は両親が
「自分の人生の最後を飾るため」に造った家だ。 そうすると、私は両親の天国世界にいることになる。なるほど!
私の天国は家内と秘境旅行をしている時だ。 それぞれのカタチがある。
・・・・・・・
2002年04月02日(火)
 364,新入社員歓迎会
毎年この時期におこなわれる。 かなり毎年盛り上がる。当社の宴会はもともとかなり盛り上がるが、歓迎会がさらに盛り上がる。
2?3年に一回はトリック・スターが出るが今年は2人いた。お陰で例年の数倍の盛り上がりようであった。
まだ酒の飲み方の解らない新人に飲ませるのだから、こちらも責任がある。その辺を調整しながら、盛り上げる。 
しかし面白いことこの上ない。若い人のエネルギーを戴く感じである。若いということは、本当にいいことだ。とにかく明るい!
花が咲いたという例えがピッタシである。それと時代に左右されている。
    (以上、字数制限のためカット 2011年4月2日)


3658, 価値とは思い込み

2011年04月01日(金)

 
 価値観の価値は「思い込み」とすると、その意味がストレートに伝わってくる。

価値は意味に非常に近いと解釈をしていたが、「思い込み」とすると、より分かりやすい。

人間は、それぞれの思い込みの中で生きている。その思い込みは子供の頃からの周囲の刷り込みがベースになる。

その刷り込みから脱皮していく経験と知識の蓄積が教養になっていく。 大きな挫折をすると、思い込みが破壊される。 

創造と破壊は裏腹であるが、思い込み(価値観)の破壊も重要である。それが節目の切欠になる。

「互いの価値観が違う」というが、「互いの思い込み違う」ことでしかないのが分かる。

まずは自分が何を思い込んでいるかを知ることが、第一歩。 それも、思い込みになるかもしれない。

 価値、意味、思い込みを、絡めて一文をつくると

「価値、価値観と難しいそうにいうけど、そんなことは思い込みという意味でしかない」

・・・・・・・
2010年04月01日(木)
3293, 人みな骨になるならば ー9
  * なぜ簡単に(エゴ)捨てられないのか
「なぜ簡単に人間はエゴを捨てられないのか」が、理路整然と書かれている。
 ー まずは、その部分を抜粋して考えてみる ー
試みに、街を歩きながらエゴの武装解除をしていき、「すべてはブラフマンの現われである。あの広告塔も、
こなたの酔っ払いも、私と同根のものだと実感する修行を続けてみるがよい。 その結果、わかることは、
目の前にある山川草木、鳥獣虫魚はもちろんのこと広告塔や塵芥とさえ、つながっている感覚をわずかに持つことができる。
一番難しいのは、むしろ他の人間と通底しているという実感である。これは予想外のことだ。 人間は他の人間との差異に対して
最も敏感である。 もちろん修行などしなくても、抽象的な「人類」や「同国民」と連帯しているような感覚を持つことができる。 
われわれはスローガンとしての連帯や仲間意識は大好きなのである。しかし、通底体験というのは、そうした観念上のものではなく、
目の前の太ったオバちゃん、向こうからやってくるダラシない若者との瞑想的な一体感なのである。 これが実は難しい。
 このことは、おそらく自我の意識というものが、主として社会集団において自己と他の具体的な成員と
区別をするために発生したのではないかと疑わせる。人間らしさの殆んどの特質が、他の人間との生存競争を
通じて進化してきたと主張する学者が多い。 人の容姿はもとより言語や知略も、たぶんサーベルタイガーや
マンモス相手に開発されたものではない。 異性や仲間との付き合い上、是非とも必要だったのだろう。
自我もまた水辺やサバンナでの生計とか氷河期の気候とかに適応するためでなく、狡猾な同族であるヒト相手の
社会生活を生き抜くために必要だったからだ。
 ーー
 映画の「2012」でも、世界の滅亡に、世界各国が協力しあう場面が、これを読んで浮かんできた。
人の差異は、外敵に対してでなく、社会集団における自己と他者との生存競争を通じて進化してきた!というのが、
鋭い指摘である。 40年前の学生闘争の嵐の中で、田舎出の教条主義の「あれ等」は、同じ方向の分派達との
争いの方が、残酷な死闘になっていった。 殺人の過半数以上が家庭・親族という事実と同じである。
人間の遺伝子の性格は利己主義という。 それを抑えるのではなく、他者の迷惑にならないようにすることと、
社会の有益な何かに向けることが、人から人間になることだろうが、それは建前と割り切るのではなく、
エゴを野獣、いや野性と看做し、コントロールすることが教養か? 酒を飲むと、それがね〜 鵺?

 ・・・・・・・・
2918,「無趣味のすすめ」という問題提起 ー1
2009年04月01日(水)
  新聞広告のー「無趣味のすすめ」村上龍著ーの説明文である。
 ーわたしは趣味を持っていない。小説はもちろん、映画製作も、キューバ音楽のプロデュースも、
 メールマガジンの編集発行も、金銭のやりとりや契約や批判が発生する「仕事」だ。
 趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。
 心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。  真の達成感や充実感は、
 多大なコストと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。
 つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。
  ー 思い切った問題提起である。
「人生は仕事だけではない」ことは今さらだが、中途半端な仕事をしながら、趣味の世界に生きる人間に対する一撃。
 しかし仕事一筋できた男が挫折した時に、趣味の世界を持っていたために救われることがある。
 仕事のできる男ほど、それと同じぐらいの趣味の世界を持っていて それが仕事をプラスへ導く。 
 しかし、仕事を達成するには多大なコストと危険を伴い、常に失意や絶望という底知れない荒海が舟板一枚下にある。
 趣味だ娯楽など、余所見をしている暇などないのも事実。 読書を趣味としてきたものにとって、いや酒が好きで
 居酒屋通いをしてきたものとして、秘境・異郷ツアーが好きで世界中を巡ったものとして、そこには失望も歓喜も
 興奮が満ちていた。 そこは熱帯雨林のように豊穣な世界が存在をしていた。
 しかし、言われてみれば過去の事業を振り返れば、その数倍の豊穣な世界があったことも事実である。 
 要は、「力、愛、知」の「力」の部分に力点を置くべし、ということだろう。
  少し、趣味に力を入れすぎたか? そうでもないか?
 新聞広告に列挙していた内容を次回に書き出してみる。その一つが  ー効率化とゆとりー 
 「農耕と国家が生まれてから、ゆとりを持って生きることができた人は全体の一%もいない。」
 が、面白いが、そうでもないんじゃないかとも思われるが、如何だろうか?
  身近では、一人も存在していないが、いや、ごく身近に一人居る? いや、そう見えているだけ?
 ・・・・・・・・・
2554, 閑話小題
2008年04月01日(火)
 *予習と復習
 人生の終盤に入ってくると、色いろとそれまで気がつかなかったことが、実感としてわかることが
多くなってくる。特に学習に対しての予習と復習の大切さを、あの時、気がつかなかったか悔やまれる。
そういえば、先生が予習復習を口すっぱく言っていたが・・こと、学業に関しては予習30、復習70?と目安だろう。
ここにエネルギーの20?を入れると、効果として200?300?の効果になったのである。ところで中高学校、
そして大学の学業は人生の予習であり、熟年期から、その復習期といえる。その意味では、熟年期こそ人生の一番大事な時期と
言えるのである。先日、知人と「若いときの節目の旅行こそ大事ではないか」と話した。その後の人生で長い時間をかけ、
その経験に知識を加えていくこと(復習)こそが、人生をより豊かに彩ってくれるからである。 
一度行った旅行は何時までも続くのである。
 * 客引き・スカウト行為が今日より禁止
4月1日から、「新潟県迷惑行為等防止条例」改正により、客引き・スカウト行為などが禁止され、
50万円以下の罰金が科されるなど規制が強化される。 以前は古町界隈にイカガワシイ男たちが
立って、客引きをしていたが、数年前から新潟駅前も悪質な客引きが目立つようになった。
来年の国体の開催もあり、迷惑行為防止法が実施されることになったが、これが実施されると
ほぼ客引は他の都道府県の実施例からみて、ほぼ姿を消すことになる。 三月になってから、
自警団も駅前にも出来て見回りが実施されているようで、四月からは、少しの客引きでも取り締まられる。
先週末には、警官が二名立って、客引きに警告をしていたようだ。
ピンクなどの客引きも、仕事はできなくなり、少なくとも新潟駅前と古町では仕事はなくなる。
新潟駅構内にも、カラスといわれる「ホステスのスカウト」が目に付いていたが、これで一掃される。良いことである。
 *ガソリン値下げ
道路関連税制を無くすことは非常に結構なことだ。恐らく、自民党は4月に再議決をして成立を図るつもりだろうが、
そのプロセスで数十年間にわたり国民をだまし続けてきた構図が浮き出るだろうから、これだけでも充分である。
これこそ、道路族を含めた建設マフィアとの金つるである。叩き壊すのは当然のことである。
これで地方が更に不況になってもである。
.......
2007年04月01日(日)
2189, 「考える」とはどういうことか? 
   おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ    ー 読書日記    
「近代哲学再考」 竹田青嗣著
ー「ほんとう」とは何か 自由論ー
池田晶子の本の中で、「考える」を多く取り上げ、考察している。また読書日記でも取り上げた。
「思う」から「考える」へ、どのように変化するかというと、その対象をまず把握することから始まる。
我われが「悩む」というと、悩んでいる対象を把握していないことにある。その把握ー情報収集が考える第一歩が始まる。
把握のプロセスから、すでに考えることになる。「考える」をー検索すると、「問題の解決や,目標の実現や達成のために,
いろいろな経験や知識を組みあわせながら,新たな構想をさぐっていく精神活動。
すなわち,思いをめぐらし(連想,想像,推理),考え(思考,工夫),そして決断する(判断)ということである」と定義している。
ひとことで言えば、「本質の洞察をするための精神活動」ということである。難しいことを解りやすく整理するのが、
私の考える切り口でもある。池田晶子が子供向きに哲学用語を一切使わない文章などは、一瞬で深い真理に導く。
ーこの著の以下の部分は「考えるとは何か?」を考える上で、なかなか解りやすい!
ーー
「プラトン入門」という本で、わたしは哲学の方法原理をつぎのように整理しました。
*「物語」を使わずに抽象概念を使用する。
*「原理」を提示する。
*つねに「一から」(根底)から再始発する。
ーについて、宗教では世界説明をするのに「物語」を使います。そしてこの簡潔な「物語」を通して、世界はなぜ、
どのようにして存在したか、人間はどういう理由で存在するか、なぜ生きて苦しみ、またその生の意味は何か、
といった自己と世界の存在それ自身についての「問い=謎」に対する答えが、明快に与えられる。
 これに対して「哲学」は、「万物」「原理」「水」といった抽象概念を用いて世界説明をおこないます。
ここで抽象概念とは、「一」「他」「同」「静」「変化」「不変」「多」「完全」「不完全」「永遠」・・等々の言葉。
「物語」を排し、「抽象概念」を使うことによって、哲学の世界説明が、特定の文化や民族や共同体の限界を越えて、
 誰もがその思考に参加できるいわば開かれた言語ゲームとなった。
   ??について、哲学は「概念」を論理的に使用しつつ「原理」を提出する、というルールで行われる世界説明
  (人間とは何かを含む)の言語ゲームだ、といえます。そして、ここでの「原理」という言葉は、本来、根本的で究極的な
  「真理」という考え方とは違ったものである。自然科学の、仮説と実験とを繰り返しつつ理論体系を徐々に整備していく、
   という基本方法は、一見、哲学の思弁的方法と異質なものと思える。
   しかし、少し注意すれば、科学もまた、「物語」を禁じ手にし、「抽象概念」を論理的に使用し、「原理」を提出し、
   さらにすでに成立した世界説明を神聖化したり、固守したりせず、常に時代の要請に合わせた、できるだけ深い前提に
   立ち戻ってもういちど理論を組み立て直す、という根本原理によって成立していることがわかる。
   哲学は、ある多様な現象を、どのような「キーワード」(=原理)で呼べば、またそれをどう構成すれば、
   より普遍的な(=広い共通了解を生むような)説明方式になるか、これが哲学どいう思索方法のもっとも革新的な
   方法であり、自然科学はまさしくこの方法を「自然科学」の領域に当てはめ成立したものである。
  ??について、哲学の重要な点がある。
  (字数制限のためカット 2010年4月01日)
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2006年04月01日(土)
1824, あちら側の世界 ?5   オハ (´・ω・`)(ω・`)(・`)
ウェブ進化論ー5  ーオープンソース現象ー(2)
 ー「ウィキペディア」について
この本で知ったのが百科事典の「ウィキペディア」である。まずは、この百科事典から調べてみた。

ウィキペディア (Wikipedia) はインターネット上で作成、公開されているオープンコンテント方式の多言語百科事典。
ウィキペディアはウィキメディア財団の展開する最初の多言語プロジェクトである。 執筆、編集は主に参加者の
共同作業によっておこなわれており、自由参加型である点にも特徴がある。
 (字数の関係でカット2008年4月1日)
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2005年04月01日(金)
 1459, 遠くにありて日本人 ー2
この番組が面白いので見ていたら、先日で最終回になっていた。スペイン在住の日本人画家であったが、その中で
印象的な場面があった。大きなキャンパス全体に、斑模様の微妙な茶色を背景として塗りこんで、あとは数日間、
その画面を睨み続けて、何か閃きが来るのを待つ。そしてヨギッタ一瞬に、それをすくい取るという。
そのキャンパスを睨み続けて数日、やおら絵を書き込み始めた。元々頭には、何の構想もないという。
その構想は、絵を睨んでいるうちに自然に湧いてくるという。自分の潜在意識から湧き出るイメージを絵にするのだ。
ただただ、驚いてしまった。それを見ながら、レオナルド・ダビンチのヒントの掴み方を思い出した。
天井の節目とか、何かの模様を見て、それからの発想・展開をしていったという。
これも、自分の脳(潜在能力)の中のメッセージを得るキッカケにしていたのだ。
その絵の作成行程を最後まで映し出していたが、最終には素晴らしい絵が完成していた。
何ごともそうだが、プロセスは似ているものである。ただし、自分の中に十分の経験と知識があっての話だが。
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2004/12/13
 1350, 遠くにありて日本人 ー1
この番組み、度々見ているが、昨日のアメリカのロス近郊のバイク・ビルダー(手づくりバイク)の日本人がなかなか面白い。
 (字数制限のためカット 2010年4月01日)
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2004年04月01日(木)
 1094, 『携帯電話不安症』症候群
先日、ニュースで携帯電話不安症について特集をしていた。メールが来ないと、不安になってしまい
精神のバランスを失ってしまい、不安と疎外感で一晩中泣いてしまうという。
手軽に自分の気持を携帯電話で誰にも伝えることができる反面、
孤独になる機会が少ない為に、チョッとしたことで精神のバランスを崩してしまうという。
常に誰かと繋がってないと息もできない感覚になるという。
いま一つの特徴としては、'周囲の人と同じような自分'でなければ不安でしかたがなくなる。
それは、今までにない異常な大ヒット現象を生み出す一方、いじめなどの社会不安の増加をもたらしている。
さらに彼らの、「カリスマを求めてしまう心」は、社会をファシズムに走らせる危険性もはらんでいる。
会社員の場合、会社の携帯電話を待たされていると、
・いつも誰かに追われているような気がしてストレスを感じる。 ・携帯電話の電源をオフにする勇気がない。
・呼び出し音がする度にドキッっとする。(心拍数の上昇)   ・冷や汗が出る。
・呼吸が苦しくなる。(過呼吸症候群)            ・動悸・息切れがする。
・お腹が痛くなる。(過敏性腸症候群)
  (字数制限のためカット 2010年4月01日)
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2003年04月01日(火) 727,  
「結婚スピーチ 」-読書日記
     ー死ぬまで忘れられない話 ー  
 この本がタイトルとは違って、斉藤茂太の人柄の為か面白いのだ。おそらく我々のスピーチの数十倍の機会が多いから、
色いろの逸話を集めたのだろう。考えてみれば、夫婦の何ともいえない機微を取り上げるのは結婚式が一番多い。
夫婦の関係ほど微妙で複雑で赤裸々で面白いものはない。
 ー以下を抜粋してみたー私の感想を入れた。
・ある人がアインシュタイン夫人に、「あなたは相対性理論をおわかりになるの?」と訊いた。
 それに答えて「いいえ。でも,わたしはアインシュタインをよく理解していますよ」といった。
(感想)フォード1世に、ある記者が学歴がないことを知っていて、難しい質問をした。
 フォードいわく「それは解りませんが、それが解る人間はすぐ呼べますよ」の逸話を思い出した。
・結婚をしなかったわたしは、なんてバカだったんでしょう。
 これまで見たものの中でいちばん美しかったのは、腕を組んで歩く老夫婦の姿でした。ーグレタ・ガルボ
(感想)朝のモーニングショーで、離婚をしてよかったといっている中年女タレント数人に小沢昭一が、
「歳をとってね、ばあさんと一緒に飲むお茶の味はいいものだよ」といった。元気のよかったバカタレント何もいえなくなった。
・作家の吉川英治は、亡くなる前に奥さんの手を取って、こういった。
 「7たび生まれかわっても,7たびきみと結婚するよ」(感想)わたしの知人の奥さんが亡くなるとき
 「またわたしを貰ってね!」といったそうだ。家内には「今度生まれてきたらあなたとは結婚はしないわ!といわれてしまった。
結婚生活のコツは「また生まれ変わったら、この人と結婚したいと思うように 互い努力することと聞いたことがある。
・人間にとって昔から大事なことは、夜、家に帰ってこないとき、どこにいるのかと心配してくれる人がいるということだ。
                           ーマーガレット・ミード
(感想)アメリカの地質学者の言葉だ。  やはり港があるから楽々遊べるのだ。
・結婚は鳥篭のようなものだ。外にいる鳥は、入りたがり、なかの鳥はいたずらに出ようともがく。 ーモンテーニュ
 (感想)理想は開けっ放しの餌の充分ある篭がよい。 そうもいかないか?! 
 夫婦生活は最後は 明るく、暖かいことと、最後はお互いの品性である。
         「結婚スピーチ 」ー死ぬまで忘れられない話  斉藤茂太著  
                文化創作出版 1996年出版
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2002年04月01日(月)  
363,人に好かれる方法         
 * 聞き役
学生時代読んだ本に、カーネギーの「人を動かす」という本があった。
その中にあったデールの6原則があった。
1、名前を覚える 2、聞き手にまわる 3、誠実な関心を寄せる
4、相手の関心を把握する 5、笑顔で接する 6、褒める ーと記憶している。学生時代まだ田舎を出たばかりで、
人間関係の都会的感覚が身についてなかった。どうしたら人に好かれるか上手くやれるかに、悩んでいた時にこれを読んだ。
即実行、ものの半年もしないうち世界が一変した? もちろん男だが、友人が私の周りにオオバーに云えば屯したのである。
そうも上手くいくものかと自分で驚いたものだ。特に聞き役は大変だ。そこですぐ覚えたのは、聞いたフリをして他の事を
考える事である。と同時に関心の中心に、相手の話題を掘り下げてやる事である。あの頃は頭でっかちである。
誰かに知ったばかりの知識をヒケラカシタイ歳である。誰か聞いて欲しいのである。また孤独で自分を知って欲しいのだ。
そして2年続けていたら馬鹿馬鹿しくなった。「おれはカウンセラーじゃねえぞ!」「今度は逆をやってみよう!」
ヒステリック的に自分でハッタリをかましてみようと。その時読んだ本が「教祖の話術」?赤塚行雄ーであった。
聞き役の寡黙の男が、急にわめきだしたのだから周りは吃驚した。そしてその話にそのバックあるから、その効果があった。
行動科学のシュミレーションをしていたことになる。


3657, つれづれに

2011年03月31日(木)

  私にも大きな試練と転機がきた。 65歳ということか。
 毎日が、原発事故の悪化を示すニュースである。 
 本格的な恐慌へ一歩踏み込んだようだ。
 今日は、ホテル開業30周年になるが、 ・・・
  違う意味でのメルクマールになる!
 偶然だが、以下の文章が身に沁みる。
 ・・・・・・・・・
2010年03月31日(水)
 3292, 人みな骨になるならば ー8
 * くぐり抜けた境地   (p−237)
 ーまずは、スカッとする?部分を抜粋するー  (人によれば、冷水を浴びせらた感じか!)
 これまで縷々と述べてきたことは、要するに世界はわれわれに対して、期待するほどには親切ではないが、
危惧するほど冷酷ではないということだ。 もちろん、われわれの幸運・不運によっては、期待する以上に
慈悲深かったり、また危惧していた以上に残酷だったりするが、それにも特別な意味などないのだ。・・・・
 究極の課題は、われわれがあらゆる無用な縛りを脱ぎ捨てて、自分だけの人生を積みあげることである。
それはたぶん海岸で砂の城を築くような児戯でしかないだろう。いずれ波が浚っていき、後には元の砂浜が残るだけだろう。
そのことが何故、かなしむことなのだろうか。われわれは僅かな時間でも立派に砂の城を積み上げたのに。
この事実だけは、何も否定できない。神であろうと宇宙であろうと。われわれの人生というものは、
ひとつのモニュメント≪記念碑≫である。 それだけで意味や価値の有無など関係ないのである。 ・・・ 
 誰も認めたがらないことだが、おそらくわれわれ一人一人の人生は無駄である。われわれの人生は将来だれにも
顧みられることのない記念碑なのだ。歴史的・空間的に座標を持ちはするが、束の間に開花して終わるモニュメント
でしかない。 早晩、誰も憶えている人が居なくなってしまう無駄な記念碑こそが、われわれ一人一人の生涯である。
無駄ならせめて輝く無駄でありたい。この場合、「何もかもが無駄なら、輝こうが輝かなくても同じだろう」という野次には
抵抗力をつけておこう。 単に、くすんでいるより、輝いていた方が良いだけだという、切り返せなくてはならない。
この「無駄である」という自覚を通してしか、われわれは知的な、あるいは心情的な束縛から抜けきることが出来ない。
「無駄である」という覚悟がないと、現世のさまざまな意味や価値や人道や正義に惑わされてしまう。
臨斉義玄が警戒した「人惑」とは、これら総称したものである。・・・・意味や価値の雲海を抜けきった先には、
実は何もないのである。 それを解放と感じることができない人々は、元の古巣に戻るしかない。
 〜〜
「おそらくわれわれの一人一人の人生は無駄である」 
「無駄であるという自覚を通してしか、知的な、心情的な束縛からぬけきることができない」 
「人生が無駄であると悟ることで、意味や価値の雲海を抜け、その先が実は何もないことを知り、
 それが解放と感じる境地が全てである」と。 般若心経の色即是空、そのものではないか。
それを虚無主義とかいうベールで包んで、色=現象の世界の絶対言明としている全てを根こそぎ掘り起こし、
そんなものは何ということはない!と、断じているのである。 虚無も決してマイナスではないのである。 チロリか
 ・・・・・・・・
2009年03月31日(火)
 2917,日本人の8人に1人が鬱病!
現在日本人の8人に1人が鬱病という。女性と男性の割合は、女性2に対し男性1、の割合で女性の方が倍になる。
イタリヤ人は4人に1人の割合というから、陽気なイタリア人のイメージとは、かけ離れている。
私自身は20歳代半ばまで少しは欝的だったが、本質的には陽気。 欝は青年期は誰でも通る道。
精神的な落ち込みは独りで乗り越えてきたが、落ち込む余裕さえ無かったのが実情。
20年ほど前になるが、取引先の営業の人が重い躁鬱になってしまった。病院の塀の上から内側に落ちるかどうかの
際どい場面が何度かあったが、何時の間にか、その病気の聞き役になっているうち、コントロール役になってしまっていた。
その人も数年前に亡くなったが、「原因」は、プライバシーに関わるから書けないが・・。
本人の口から欝の状態をこと細かく聞いたが、壮絶の一言である。 家中の家財をバットで叩き壊すなど・・・。 
自分では、コントロール不能とか云々。亡くなる数年前から、自分で危なくなると、医者に行って入院を10日ほど願い出て、
落ちつくと退院をしてきた。そうなると精神病ではなく、精神症というらしい。病と症の境は、周囲に迷惑をかけるかどうか。
精神も肉体も同じで、病である。医者と相談をして、発症したときは薬を飲んだり入院をして俗世界から一歩引けばよい。
そのことを本人が相談にくるといい続けていた。欝になる前には必ず異常な躁状態になる。 
そうすると周辺から電話がかかってきて、「欝の発生の予告」が来る。 そして、何時ものパターンが始るのである。
今回の調査の結果の「8人に1人が鬱病」には驚いたが、周りをみると、そういえば・・。2〜3家族に一人になるから深刻。 
生真面目で、常に誰かに頼っていて、周りに気づかいをしすぎ、自然の笑いの無い人。
私は自分の弱さを知っているので、予防の知識を充分に積んだが、それでも最近の不況は心を暗くする。 
毎朝ウォーキングをし、仏壇前で5〜6分瞑想的な祈りをし、美味い酒でも飲んで憂さを晴らせば欝に
なりようがないと思いきや、そうでもない。歳をとると何らかのカタチで欝的状態がついてまわる。
そりゃそうだろう。一つずつ病が加算され、身体は老いていき、友達・親兄弟は亡くなっていけば、
欝状態になるのが自然である。 この世界恐慌は「グローバル欝」を誘発する。
それを利用して戦争を起こし、チャラにしたのが、これまでの方法。 
これからは、無いとは言えないのが世界である。 突き詰めると、やはり戦争??
・・・・・・・・・
 2008年03月31日(月)
2553, ヒルティの幸福論       ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]
アランの幸福論といえば、次にヒルティの幸福論を取り上げなければなるまい。
幸福論といえば、この数年来、哲学に熱くなっているので、浅いというイメージがわいてしまう。
格言や、哲学書の中で、軽く考えるレベルと信じていた。しかし、突き詰めれば幸福感を求めているのかもしれない。
幸せな人より、不幸せな生き方の人の姿?から、その不幸論がシビアに見えるからである。
まあ、それはそれで・・・・ いや、無知が全ての原因ということが、あまりに哀れで!
自分の姿を合せ鏡で見えたのだろう。 所詮、人間は結末は不幸なのだから。カール・ヒルティは1833年生まれの法律家。
アランの「幸福論」はストア哲学的であるのに対してヒルティの「幸福論」はキリスト教的で、お堅い。
アランの幸福論ともに、幸福を、自分の内部だけで完結するものでなく、自分を離れた、外的な環境や社会に対しての関心や、
献身的行動にこそ幸福があるとしている。ヒルティの幸福術のポイントといえば、仕事こそ最高の幸福と思い、
良い習慣を身につけることだ第一 自分の意志で幸せになれる 人間を知ることになる。 
 ーそれぞれの印象的な部分を抜粋してみた。   
「我を忘れて自分の仕事に完全に没頭することのできる働きびとは最も幸福である。」
「本当に大切なのは、なによりも習慣の問題である。 
 第一の主要な規則は、すなわち、われわれは消極的に悪い習慣を捨てようと努力するよりも、
 むしろ常に良い習慣を養うように心掛けねばならぬということである。」
(字数制限の関係でカット 2010年3月31日)
・・・・・・・
2007年03月31日(土)
 2188, 宮城まり子 ー3         (~Q~;)  おはよう??
今日で日経新聞の「私の履歴書・宮城まり子」が終わった。深い世界を垣間見た思いである。
純粋な動機こそ、一番強いのだろうか?彼女にとって、この生き方しかできなかったのだろう。
障害者の一生を受けとめることは、生易しいものでない。人生の全てをかけて受けとめているのだから、
これこそ人生の格闘である。数日前の、この場面が彼女の性格と強さが出ている。
「私がやらなければならない!」という自負が、捨て身でコトに当たれるのだろう。
 ーーー
ねむの木学園が始まったばかりで高校に進学する子はまだいませんでした。
「なぜ」「制度がないんだよ」私は躊躇いもなく東京に帰って、首相官邸に行きました。
1972年の9月16日。どんどん入っていって、「首相にお会いしたいんです」と言うと、2~3分もしないうちに、
大きなしわがれ声がして田中角栄さんが出てきました。「今日は、総理大臣にお知らせしたいことがあって参りました。
両親のない子、貧しい子、よくできるのにお金がない子が日本中の擁護施設にいます。
大學にいくらなら自分で働いたらよいでしょう。けれども働いても定時高校にいけない子もいます。
その子が優秀なら高校にいけるようにしてください。面倒を見る職員のことも少し考えてください。」
「高校へ?」「はい」。総理はしばらく黙って私を見ておられましたが「やあ、ありがとう。勉強になりました。
すぐ返事ができなくて残念だが、待っていて下さい」と言われました。翌年1月17日に二階堂進官房長官から
連絡施設が入り、養護入所児童等で高校に進学できる能力を認めたものには国からの費用を交付する。
直接処遇職員については基本給に12~16?を加算するという制度に変わったことを教えていただきました。
吉行淳之介さん、亡くなって13年たちますが、ねむの木学園で格闘しているうちに、愛する淳之介さんの病気が、
慢性の肝硬炎から肝硬変に進み、その原因がC型肝炎であることをこっそり知らされました。入退院を繰り返す中の
彼の一挙手一投足を素知らぬふりをしながら眺めて「まり子、淳之介とねむの木学園の子供達とどっちが大切なの」
と思うときがあります。「淳ちゃんを一番愛している。そしてもう一つの、一番愛しているのはねむの木の子ども」
私は、愛ってマシュマロみたいに柔らくて、二つに分けたらふわって大きくなると思っています。すこし色彩が違うだけ。
愛って、二つも三つにも増えても大丈夫、愛して、愛して、愛しちゃって、もういっぱい愛しちゃったの。
こんな歌を歌ったことがありました。ミュージカル「イルマ・ラ・ドゥース」の中で。
そして私の淳のことをドクターの野郎は「ガンが見つかりました」と教えてくれました。
豊かな心の持ち主とは、こういう人をいうのだろう! このように人知れず人生を恵まれない
人に捧げている人 が数知れず存在している。豊かさとは何か考えさせられた一月であった。
       ホンジャ~~ヾ(´ω`)バイバイ
・・・・・・・
2006年03月31日(金)
1823, 日暮里界隈 ー3         才八∋ウ_〆(∀`●) 
飲み屋の話になると話は、止まらない!
日暮里の・谷中銀座の商店街が、何ともレトロの味がある。数十軒の商店が両側に並ぶが、空き店舗が一軒も見当たらない。 
昼間は観光客で溢れかえっているのだろう。魚屋、衣料品店、肉屋などパパ・ママストアには商品が満ちていた。
夕方の閉店まぎわの店の雰囲気が何ともいえない情緒がある。こういう風景に惹かれるのは地方の商店街では、
もう失われてしまったからだ。その通りから一歩はいった処に、情緒ある居酒屋が目に入った。
前までいくと料金が書いてあったが、普通の居酒屋の倍近い。次男も一緒なので、たまには良いだろうと入った。
25坪ほどの店だが居酒屋にしては高級つくりである。変わっているのは、店の中央に奥の料理場から人ひとりが
商品を出せる空間のある10席位のカウンターがある。(吉野家のカウンターのような・・)
サラリーマン風の中年男性が4人飲んでいた。その入れ替わりに60歳代後半の品の良い旦那様風の人が入ってきた。
何かのキッカケで話を始めたが、上野周辺で『三河屋』という老舗の葬儀関係の商品を扱う旦那という。
 ( ・・)つ?{}@{}@{}-  やきとりどーぞー♪ 「新潟から来て、東京在住の息子と飲んでいる」というと、
自分の生活圏の文化ー趣味(常磐津・・)とか、町内の話などを面白おかしく話してくれた。
下町文化の話は聞いていても飽きない。二軒目に入った店なので、あまり注文しなかったためか高くは
なかった上に谷中ならではの雰囲気を充分味わえた。  旦_(。-_-。)いい仕事してますな?
ところでJRの日暮里駅駅周辺の居酒屋は、店構えは良いが殆んど外れである。
下町の為か、朝鮮系の店が多い。宿泊しているホテルに紹介された駅近くの居酒屋に行ったら、かん酒(前の客が残して
アルコールの抜けた酒)を出されたり、どう計算しても何割か高く後味の悪い思いをしたこともあった。
日暮里界隈というイメージとおりの危ないところもある。その危なそうなところが面白いのだが!バイ ._〆('Д'*⊂⌒`つ
・・・・・・・・・・・・・・  
2005年03月31日(木)
 1458, はだしの学者ー西江雅之
以前、図書館から借りた西江雅之の旅行記「花のある遠景」を読んで、常識をはるかに超えた生き方に驚いてしまった。
世界を乞食のように放浪して、その土地・土地の言語と文化の研究に従事、50ヵ国の言語を話す。
ハダシの学者といわれるように、目線が現地人になっている。そのためか、どこの地に行っても誰とでも友人になってしまう。
深い教養があってこそである。「砂漠で出会った人と、二人で手を取って歩きながら、どちらかが失敗したら死ぬであろうという
ギリギリの状況で二月、三月と一緒に過ごしたというような経験がたくさんある。別れたらもうその人と生涯会えない。
住所を聞こうにも、手紙を書こうにもその人は字が読めないし、書けない。 居所もわからない。 
そういう経験を何十回も重ねて・・・ そのときの思いは言葉では表現できない。いやしたくない」と、時には言葉を
重ねないことの大切さを述べている。無理に言葉に置き換えるという作業が、驚きを別のものにしてしまいがちになる。
「外国の何とか村を紹介した本があって、読むと面白かったりするでしょう。だけど本当は、その村が面白いんじゃなくて、
書いた人が面白いんです。その人は何とか村を面白がれる力があるんです。面白がる力があれば、世界中どこでもおもしろい。
実力のない人は、変わったものでないとよく見えないんです。」以上の言葉から見ても、
その言葉の奥行きの深さを充分に知ることができる。以前読んだ本の概要を紹介してみよう。
 ーーーー
「花のある遠景」 西江雅之著 (旺文社文庫)
 副題は「東アフリカの裏町から」である。
アフリカであっても、普段多くの人間は街に住んでいる。働いてもいるし、食事もするし、酒も飲むが、
しかしほぼ働いてない。この旅行記で出てくる女たちは娼婦である。彼女らは著者にとっては、性の相手対象ではなく、
キクユ語の先生であり友達である(著者は、言語学者で文化人類学の研究をしている)。
彼女らは娼婦だからといって、娼婦的な陰鬱さが全く無い。さわやかさまで感ぜられるほど、さばさばいている。
  (以下字数の関係でカット2008年3月31日)
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2003年03月31日(月)
726, 結婚式で思う
私は結婚式と葬式に参列するのが好きだ。 その中に色いろな人生の圧縮がみえるからだ。
一般には「人生で集まって褒めてくれる」のは、「生まれた時と結婚式と葬式の三回」だけだ。
そのうち結婚式だけが、祝福されるているのが自覚できる。「人生は結婚式で道半ば」ともいう。
それで人生の大半が決定してしまうからだ。当たりか外れは神のみぞ知るである。
今はジミ婚になってきて「社会の体面や家どうしの対面」というより「本人同士のお祝い、かつメルクマール」
という面が強くなってきている。以前よりは結婚式に対しては、気楽な式になったようだ。
若い二人が夢を持っての門出を祝うのは気持ちのよいものだ。次は葬式である。本来葬式はお祝いであるべきだ。
その人が人生を終えて、無に帰っていくのを送る儀式である。人生の卒業式である。悲しみであると同時に、
その人にとって大きい意味を持つ。参列して思うのは、その人の生き様がそのまま現れていることだ。
その厳粛な雰囲気がなんともよい。その人の「魂と社会と世間がそのまま圧縮されている」といってよい。
人が一人亡くなるのは、その人の積み重ねた人生が無に帰ることである。それぞれの社会的なものもあろうが、
今は生き残った人の体面の場になっている。葬式もそれぞれの残されたものの価値観があるから、とやかくいう問題ではない。
最近は葬式に出席すると、いつも遺影を常に自分の顔に当てはめて考えてしまう。
その目で会場の人達を見ると、何ともいえない気持ちになる。「死んでしまえばお終いよ!」と。
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2002年03月31日(日)
 362,ある思い出-慈善
中学の頃の話である。 隣にMという一家がいた。そこに一歳年上のカッチャンという遊び友達がいた。
その家の裏に倉庫があった。そこに乞食のような生活をしている親娘が住んでいた。母親が肺病で、私のある姉に
あの家の近くに近寄らないように言われていた。カチャンの母親が気の毒がって面倒を見ているという。
カッチャンの父親は数年前亡くなり、母親とカッチャンとその姉と3人の家族。今考えるとカッチャン一家は、
その生活を維持するのに精一杯の筈だ。その苦しい中、その親子を面倒見ていたのだから大変だったろう。
ところが彼女(母親)が癌で、なくなってしまった。神も仏もあるものかである。残されたカッチャンと姉さんは、
おじさんと同居する事になった。その肺病の母親もまた二年後亡くなった。そして娘は施設に引き取られていった。
その事を今から20年前に何かの拍子に思い出した。そのMという人の心に気がついた。どういう気持ちでその苦しい生活の中、
その人を面倒を見ていたのか。そしてその中で死を迎えた時の本人の気持ちは、いかなるものだったのか?
人間の一番大事なことは何であるのか? それとは関係なく、現実は非情に動く。「愛は世界の中心である」という言葉がわかるが、
反面本当かとも疑問が湧く。人生で最後残るのは、そういう愛の行為か。 少なくともカッチャンと姉さんには、
深く残っているのではなかろうか? それとその娘の心に!


30年前の3月31日を前にして

2011年03月30日(水)

  * 創業30周年の日を前にして ・・
 そういえば、明日が30年前の命がけで始めたホテル開業の日である。 当時の名前はベンクーガーホテル。
その一月前の2月28日にホテルの一角でデザイン学生服をオープンをしていた。 いま思い出しても、良い時代だった。
一瞬で消え去る学生服メーカーのネーミングをホテルにつけるという奇抜さが話題をよんだ。平日はホテルに集中。
土日は学生服を販売する変わったホテルである。チンケといえばチンケだが。 当時は、まだ高度成長時代の真っ只中、
創業前に人材を集めるのが大変な時代。 当時と現在の、時代の格差に驚きざるをえない。
ホテルなど誰も経験者がいない中で、右往左往の緊迫した日々が懐かしい。 何かにガムシャラに前に向かえば、
そこには求めるもの答えがあった。私たちは時代背景の中でしか生きることが出来ない。そして、30年後の現在、
当時より客室の価格平均が三割以上も下がっている。 平均給与は数倍に上がっているに関わらずに。 
 ドルショック、バブルとバブル崩壊、2001年の9.11テロ、2008年の9・15のリーマンショック。そして、この大震災。
その中で特に日本は、その都度大きく変動した。 自分の人生を振りかってみて、時代の要請にそって能力をつくり上げ、
成功と挫折をしながら生きていく、それが人生だった。 事業は30年が大きな節目になる。その節目がきた。

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3291, 人みな骨になるならば ー7
 2010年03月30日(火)
 * 健康法は一種の信仰である
 ー まずは、その一部を抜粋してみる ー
長年医者をやっていて、少しは自分でものを考えたことのある人は、病気や寿命は畢竟するところ「運」ということを知っている。
昔ならとうに亡くなっている人が、現代医療で長生き出来たケースもあるが、現代に生を受けた強運である。次に、感染や、
悪性腫瘍、循環障害の大半は不運に起因するところが多い。 出会いしかり、遺伝・体質しかり、生活条件しかりである。
これに無理に生活習慣病と名づけ、本人の素行いかんで完全に予防・解消できるという発想は、希望的観測や信仰に近い。
ただ皆がそうであることを熱望しているから信じられているだけだ。 健康や寿命まで運次第というと不安だからだろう。・・・
 ありとあらゆる健康法をしたところで、それは入手できる限りのお守りを持っているのと大差がなく、死病を発する時には
やはり発するのである。5歳で白血病になる幼児や、20歳過ぎてクモ膜下出血をおこした青年にとって、健康法が
いかなる意味があるか。 ・・・  むしろ健康法とは一種の信仰なのである。本当かどうかは二の次である。
「これさえやっておけば」「これをやめておけば」は、健康と長寿が保証されるかを信じこむことで不安を紛らわせているに過ぎない。
つまり健康法とは念仏とかわらないのである。 たしかに健康法や健康習慣をつづけることは念仏百万遍と同じ安心感につながる。
・・・少なくとも無心で念仏を唱えることは精神衛生によろしい。 もし当人にとって健康食品が美味しく、スポーツが楽しく、
タバコが嫌いで、規則的な生活が好きなら、念仏が趣味と同じで、それに越したことはない。 それは本質的に健康法ではなくて、
単なる好みの問題である。・・・結局、健康法や養生法というのは、いくぶん不確かな「何かのための手段を確保しようとする試み」
以上のものではない。むしろ大事なのは「何か」のほうであって・・・
 モーツアルやショパンが作曲そっちのけで健康法に没頭して長生きして孫に囲まれゲートボールを楽しんだとして、
後代のわれわれにとって何の意味もないし、彼等はモーツアルトでもショパンでもない。
さらに、はっきり言えば、古今を通じて健康法や医療によって最終的に死を免れた者は絶無である。
 ――
 現在も、健康法を色いろ続けている。 ウォーキングは三十年近く続けているし、健康食品も幾つか飲み続けている。
しかし、「そんなものは御守りでしかない」「それを続けていることで安心しているに過ぎない」とまで言うのか。
私は、もしウォーキングを続けていなかったら、間違いなく高血圧などの成人病で、死んでいるか、重症になっていると、
今でも信じている。 しかし、それをしているから少し不節制をしても大丈夫という慢心が出ていることも事実である。
「酒飲まず、煙草も吸わずに、百まで生きた馬鹿がいる」というが、「酒を飲み、煙草を吸って、百まで生きた奴がいる」になる。
実際は、やはり不摂生をした方が早死している。ストレス解消に、徹夜で煙草を吸いながらマージャンしている人に、
癌や高血圧になる人が多いのは誰の目にも明らかである。それで死んでも、死ななくても、その程度でしかない?ということか。 
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2916,とんでもないことなんだよ!
 2009年03月30日(月)
 先週の金曜日の昼、新潟駅至近にあるレストランでのこと。隔月ぐらい入るが、パンとコーヒーが美味しい店である。
食事が終わった後でコーヒーが美味しかったので、追加料金が100円こともあり注文をした。
ところが一口飲んで噴出しそうになった。 (ぬるま湯ではなく)ホボ水に近いコーヒー。出してくれた女性に思わず
「水に近いけど、これって、とんでもないことなんだよ!」と言ってしまった。それより何で、水に近いコーヒーを
出してしまったのか、その方が興味を持った。コーヒーに濃い目と薄めとメニューにあったので薄めを頼んだが、
湯を継ぎ足すのを水と間違ったようだ。フロアーの女性が近くのカウンターで入れていたが。コーヒーは本当に難しい。
一杯ずつ丁寧に出せば時間とコストがかかるし、つくり置きは直ぐに劣化する。当方もUCCから自動マシーンを入れてから、
客の苦情の心配が無くなった。私の知人がコーヒーの専門店を開いた時のこと。 広告代理店の営業担当で20年以上の
付き合いがあった人である。 会社の副支配人が同行したが、彼は元コックなど料理関係のプロ。 帰りの車で彼いわく、
「あの人は素人の域を出てない。コーヒー専門店にかかわらず、他の客が来た時に駐車場の案内のために場を外した。
それも一番、微妙なタイミングに。あの時は、コーヒーを出した後に自分が車を持っていくべきだ」という。なるほど、
奥行きが深い世界である。事務所の前のコーヒー専門店にランチを週一ぐらい行くが、2〜3回、ぬるめのコーヒーを
出したことがあった。客は普段の美味しいコーヒーより、それを憶えているもの。私が新潟で、この事業をしようと
思い立った時に、オークラホテルに人材派遣をしている会社の二代目専務を紹介された。オークラに訪ねて会って
話していると、のっけからド素人がと小ばかにした態度。それはそれで、仕方がないが、一つだけ驚いたことがあった。 
2Fのレストランでコーヒーを飲んだが、少しヌルイコーヒーだった。ところが、コーヒーを出した担当を呼び出して
大声で叱咤したのには驚いた。「こんなコーヒーを出しているのか」と。今から考えると、素人がホテルを立ち上げる
ことなど無謀と間接的に教えてくれたのである。当初は、宿泊より飲食部門に全エネルギーが入ってしまった。
当時は、飲食部門をホテルの「村の鎮守様」に位置づけていた。 守り本尊である。
レストランでは、コーヒーが命である。だから思わず「とんでもないことだよ」と言ってしまったのである。
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2552, アランの幸福論
 2008年03月30日(日)
「幸福論」は、古典的に読み継がれているのが、ヒルティ、ラッセル、そしてアランがある。
 この3つは世界の三大幸福論と言われている。 アランは、19世紀から20世紀にかけて活躍したフランスの哲学者。
 1906年のはじめ、アランは地方紙に、毎日原稿用紙2枚程度の短い文章を書きつづけ、このコラムは
「あるノルマンディー人のプロポ」という見出しで、第一次大戦が勃発する1914年までにこうしたプロポを3078編、
 さらに大戦後に約2000編を新聞や雑誌に書けた。 健全な身体によって心の平静を得ることを強調。全の不運や
 つまらぬ物事に対して上機嫌にふるまうこと。 また社会的礼節の重要性を説く。
 ーーーーー
「幸福であることは他人に対する義務である」「私たちが自分を愛してくれる人のためになしうる最善のことは、
 自分が幸福になることである」「望んでいることはすべて、人を待っている山と同じ。自らよじ登っていかなければ
 ならないのだ」「上機嫌療法を行うと、物事を気持ちの良いシャワーのように受け流し、筋肉をのばししなやかにし、
 食欲がすすみ、気分がさばさばして、生命が元気づく。」「もし道徳論を書かねばならなくなったら、私は、
 上機嫌を第一位におくだろう」「新年の贈りもので私がお勧めしたいのが、上機嫌である。これこそ、贈ったり、
 貰ったりすべきものだろう。何よりもまず贈り主を豊かにする真の礼儀である。これこそ、交換によって増大する宝物である。
 あなたがどこへ投げ捨てても、それは芽を出し、花を開くだろう」「運命は不変ではない。指をパチンと鳴らした瞬間にも、
 新しい世界が生まれているのだ」「嘆きも悲しみも、鳥と同じ。ひょいと留まっては、飛びさっていく」
「まず自分がほほえまなくて、誰がほほえむのか」「私は投獄されれば、毎日たった一人で笑うことを健康法とするだろう」
「幸せとは、すべてが満たされている状態ではなく、多少の満たされない部分があり、それを追求するところに幸せがある」
「体操と音楽とがプラトンの二大療法であった 」「深い悲しみは肉体の病的状態の結果である」
「うつ病者は、グルメのように自分の悲しみの味をかみしめてばかりいる」
「悲しみは病気なのだから、あれこれ理由など考えず、病気として我慢すればいい」(5.ふさぎの虫)
「子供たちには幸福になる方法をしっかり教えるべきである。その第一の規則は、現在のものにせよ、
 過去のものにせよ、自分の不幸について、決して第三者に話さないことである」
 ーーーー
 この本は学生時代に読んだが、本はもう手元にない。そこで図書館から借りて読んでみたが、時間を隔てた後に読むと
 受け止め方が違ってくる。幸福な人と、そうではない人(不幸)の経験をしたり、周囲に実例を多く見たためである。
 何をしても駄目な人、結果として周囲を利用してマイナスを振りまいている人と、その正反対の人がハッキリ分かれている。
 その分岐は「求めよ、さらば与えられる」と、「上機嫌であること」と「基礎教養」と「節度」である。 
 アレンは、そのことを一貫して述べているし、周囲を見ると、その実行の継続がポイントと教えてくれる。知ること、
 経験すること、今ここを上機嫌にすること。同じ人生、面白おかしく節度を守って、求めていかないと!二度とないのだから!
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  (字数制限のためカット2011年3月30日)
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2006年03月30日(木)
1822, あちら側の世界 ?4    
              (@°▽°@)ノオッハヨー
ウェブ進化論ー4  ーオープンソース現象ー
「オープンソース現象」が最近の潮流になっているというが、これが大きな変革をもたらす要素になる。
  ー以下は、この著書 Pー176からの抜粋である。(非常に哲学的にも深い示唆がある)
     (字数の関係でカット2008年3月30日)        ホンジャ o(▽^*)ノ~~
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2005年03月30日(水)
 1457, 乱気流の恐怖
先日「台湾行きの飛行機が乱気流で42人の重軽傷者!」と報道されていた。私も台湾周辺で乱気流に遭遇したことがあるが、
あの恐怖感は言語で言いあらわせない。(どうなるかは神のみぞ知る異常事態)スーッと50?位?飛行機が垂直に落ちる感じで、
体が上につきあがりそうになる。それも何度もつづくから恐怖も頂点になる。
もちろん、シートベルトをしてなければ体が放り出されている。死なないと確証があれば逆に面白い?のだろうが。
飛行機は順調の場合は恐怖感はゼロであるが、乱気流に出あったり、飛行機に不調があるのではないかと疑いが
出たときは恐怖のどん底に落とされる。もしかしたら、このまま消滅してしまうのではないかという恐怖感である。
二十数年前のことだが、ハワイで「飛行機の上部が吹き飛んで座席が丸見えの状態で着陸をした映像」をニュースで見て、
そのリアルな状況にゾッとした記憶が鮮明に残っている。確か何人かが吹き飛ばされたと記憶しているが。
また映画でも墜落ギリギリの状態のものを何本か見たことがある。実際に経験したものでなければ、あの恐怖感はわからない。
飛行機は時速1000キロで一万メートル上空を飛んでいる。そのことに何もない時は気がつかないが、
意識をした時にそのことに気がつく。9・11の時も、実際にテロリストが飛行機を乗っ取ってビルに
突入したのだから乗客は恐怖のどん底であったはずだ。以前にも書いたことがあったが飛行機で夢を見たことがあった。
自分が空に浮き上がっていく。電信柱が下に見えてきて、まずいと思っているうちに夢から醒めた。
そしてやっと地上にいる自分に戻ったと思った瞬間、自分が飛行機の中にいる。その瞬間、直感的に空を1000キロの時速で
飛んでいる体感がした。大声を上げて助けを呼びたいが、回りの人は寝ている。その時の恐怖の極みを今も鮮明に記憶している。
普通の日常では経験できない異常密室空間が飛行機の中である。
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2004年03月30日(火) 
1092, 大相撲・千秋楽
一昨日が大相撲の千秋楽であった。 4人が11日目まで全勝。最後の一番で優勝が決まった面白い場所であった。
一時のつまらない時期を過ぎたようだ。外国出身の力士ということを気にしないようにしたら面白くなった。
幕下、十両、幕内前半に有望の歴史が目白押しに出てきた。大関・横綱になる素質は大体わかるが、それでも多くは外れてしまう。
(字数の関係でカット2008年3月30日) 
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2003年03月30日(日)
 725, 今日の結婚スピーチ
 今日は会社の女子社員の後藤早苗さんの結婚式だ。
何か祝辞をいわなくてはならないが、これはというのが出てこない。気持ちの入らない祝辞ほど聞いていて、
いやなことがないのを知っているから流す事もできない。こういう時は自分の話しをすればよい。結婚観をそのまま
話をするしかないと思ったが、そうはいかない。初めて図書館で「祝辞・結婚スピーチ」のコナーを覗いてみた。
「結婚スピーチー死ぬまで忘れられない話」斉藤茂太著があった。さすがだ、といってそれを読んでいる時間が少ないので、
やはり自分の話しをする事にした。今日の11時10分あたりに話している内容を先に書いて出かける。
ーーーーー
・まずはうちの会社の女性ーすなわち花嫁の褒め殺しとして、彼女が陽気であることを紹介します。
 陽気は最大の美徳であり、素質であります。 陰気は罪悪です。
・結婚は決してよいことことばかりではありません。「二つ良いことさてないものよ」という言葉が
 ありますが、この言葉を一番実感するのが結婚です。離婚がいまや三割を超えているといいますが、
 家庭内離婚を入れたら過半数は破綻です。 家電と同じで、当たり外れは長い時間を経って見ないと解りません。
 あとは神のみぞ知るのみです。当たりであることを心より願っています。 
・また結婚は二人の権力闘争です。それも死ぬまで続く泥沼の死闘です。これも仕方がありません。
 それでは如何したらよいか?「過去の事は持ち越さない、ぶり返さない」ことです。それしかありません。
・私の家内と本当に結婚してよかったと思います。いやそう自己暗示を与えています。陽気であり大らかさからです。
 最後は泣くか笑うかです、なら笑う人が良いのではないかと思います。 まあこの程度にしておきます。
 ライオンに食べられそうになったら、耳元にこっそり次の事を呟けば
 ライオンは逃げ出すそうです「私を食べる前に、少し長い演説をさせてくれ!」と。
良い家庭を築いてください。それと収入の10%以上の天引き預金を習慣にしてください。
以上です。お幸せになってください。 斉藤茂太の「結婚スピーチ」の抜粋は明日か明後日書きます。
・・・・・・・・・
2002年03月30日(土)
 361,イスラエル
主観であるが、旅行をしたところに事件がおきる。ペルー、エジプト、イスラエル、そしてフィジー、
ケニアと次々と、ああそれとパキスタンとネパール。それから考えると、今度はヨルダンかシリアあたりか。
考えてみたらペルーを除けばイスラム教に関係している。イスラエルに行った時に危ない感じがした。
まずは入国審査の審査は異常なくらい厳しいものだった。また国内はあちこちで兵士が機関銃を持って歩いていた。 
私用の時も身から離さないようだ。あちこちの広場に兵隊が駐屯していた。市場で兵隊が3人血相を変えて走って行く。
その後を商店主のアラブ人が何事かと走って行く。これが日常のようであった。
アラブ人地区に入るとやはり民度が落ちるのが解る。4000年の対立は致し方ないのだろう。
 3年前の文章をコピーしておきます。
 ーーーー
 ーH1105  ーイスラエル聖なる旅ー
この旅行は、四千年の旧約・新約聖書に出てくる歴史と出会う旅であった。四国の面積とほぼ同じ中に、
数えきれないほどのドラマがあった。現地の日本人ガイドのシャワ?のような説明が新鮮かつ面白く驚きと感激の連続。
その為か帰ってきて、新約・旧約聖書をじっくり読む事ができた事が最大の成果となった。
関連を含めると十冊を前後二ヶ月たらずで読んでしまった。考えてみたら私の人生の転機の度に必ず聖書か聖書関連の本があった。
人生のもっと早い段階でじっくり読むべきであった!旧約は先入観で固く難しそうであったが、読んでみれば何もむずかしくない、
ただただ面白い!内容であった。旧約はユダヤとユダヤ民族の歴史の書であった。
また新約は出会い=イエスの心との出会いの書と言ってよかった。
 ー印象の強い順に列記してみるとー
まずは何といってもエレサレムである。イスラエルがそのまま凝縮されているといってよい。
四千年の昔から神の名と民族の誇りをかけ、数え切れない戦いの舞台となった。そして現在も続いている。
この街を歩く事は世界の歴史の生き証人と出会い同行することかもしれない。イエスが十字架を背負って歩いた
悲しみの道=ヴィア・ドロロ?サ。磔刑に処せられたゴルゴダの丘。 最後の晩餐の部屋。
イスラム教の重要な寺院=岩のド?ムとアクサ寺院。ユダヤ教徒にとって最も貴い嘆きの壁と広場。そしてダビデの塔。
旧市街を囲んでいる城壁は四千年の歴史の深さをそのまま物語っている。次はモ?ゼの十戒で有名なシナイ半島のシナイ山である。
深夜の二時に三時間かけて登って山頂からのご来光とシナイ山の山並み。そして、その麓にあるカタリ?ナ修道院と、
神の声をきいたという“燃える柴”。そして帰路にたちよったベトウィンの部落。そして、そこで飲んだ紅茶。
 (以下、字数の関係で中間カット09年3月29日)
 


3653, あと一月で10年

2011年03月27日(日)

 何ごとも、一日3時間を10年続ければ「ひとかど」になるという。 で、この随想日記を書き続けて、あと一月で10年。 
で、何だったのだろうか? 常に、「何か書かなければ」という心理的圧迫が感覚を磨く作用をしていた。
ここで何年に一度、書き続けている効用を取り上げてきた。
論理思考が培われたことと、読書の備忘録や、旅行の感想文、そして毎年、同月同日に書いた文章の何年分を
読み返す効用など、現在の私にとって無くてはならない存在になっている。 常に変わったことや、面白いことに出合うと、
その場で自然に起承転結の文章化をしてしまう癖がついてしまった。「記者の目で論理を組み立てる習慣」という、
現象に隠された本質を、あらゆる角度からみる視線である。
 ところで10年一区切りで実はホッとしたところもある。 この随想日記を休むことも考えている。 
一度休むと、再び書くことが面倒になるが・・ 「一日も休まない」というのは実は大きなプレッシャーだが、
反面それが張りになっていた。 何も書かないとなると、頭が変になってしまうかもしれない。
書くということは、自分の心の開放でもあり、自由を獲得している部分がある。
それにしても、10年も続いたものと自分自身が驚いている。「偉そうなことを書いているが、その様は何だ」
が、読み手の心理。 それを分かっていても、偉そうなことを書くことで、自分を開放をする面白さもある。
 65歳、そろそろ自分の痕跡の消しに入る時期に入った。 このまま書き続けるか、それとも形態を変えるか?
書くことの秘儀は少しは?分かった。 書き出すことで、その背後にある膨大の世界を僅かながらでも知覚できたことが
何よりも変えがたい収穫であった。 節目の時であることは間違いない。 

・・・・・・・・
3288, 人みな骨になるならば ー6
 2010年03月27日(土)
  * 意味の意味
 ーまずは、意味深長?の部分を抜粋してみるー
 いろいろと思索した挙げ句、いにしえの賢人たちは「人生に意味があるかどうかという問題に対しては客観的な解答が
あるのではなく、各人が自らの人生に意味を付与するかどうかにかかっている」といった暫定的結論に達したもようである。
これは、ずいぶん心もとない結論である。 こちらの理解の仕方によっては、「みなそれぞれ勝手に意味を見出しなさい」
といっているだけなのである。 だれも、われわれ一人一人の人生に意味・意義・価値などを保証してくれてはいない。
われわれの一生は無意味かもしれないし、意味のあるものかもしれない。それを決めるのは、われわれ一人一人の思い込みに
すぎない、と言わんばかりである。 そして、やはり「思い込みにすぎない」のである。 自分の人生には意味があるとする
あつかましい人物と、宇宙規模で考えれば無意味だとする謙虚な人物との、いずれが正しいかを判断する根拠などない。
思いたい放題であり、思った者勝ちのようなところがある。 なぜこのような次第になるのだろうか。おそらく「意味」とか
「意義」とかの言葉の起源に問題があるように思われる。 それらは「目的」などと同様に、古代人の日常生活の中から
生まれてきた概念である (全ての言葉がそうなのだが)。大昔、まだ人類が人生やら宇宙やらをそれほど真剣に考えておらず、
毎日の生存や空腹のことで頭がいっぱいであった頃、なんらかの対象や行為が役に立つものかどうかが最大の関心事であった。 
そして、自分や身内にとって大切なことが、すなわち「意味」をもち「意義」のあるものであった。 
「目的」もまた本来は、欲求の向かうゴールであり、その達成のために努力という投資と、さまざまな「手段」を講じなければ
到達点にすぎなかった。・・・・・
 たぶん人生や宇宙には「意味」も「目的」もないはずである。 それらもまた木登りや航海と同様、ひとつのプロセスには
違いないから、「結果」はあるであろう。 あらゆるプロセスは、特定の時点をとれば「結果」を伴うからである。
その結果を意味や目的と読み替えることはできるだろうが、それなら宇宙や人生の意味と目的は消滅すること、ないし永遠に
溶け込んでいくこと、あるいは繰り返されることに他ならない。 単なる繰り返し(永劫回帰)には意味がないであろう。
存在するものはいずれ消滅するのだから、存在の最終的な結果は消滅ということになる。 しかし、こんな結末は意味や目的と
言えるだろうか。もしそうなら、われわれの誕生の目的はわれわれの死亡ということになる。それゆえ結果があるからといって
「意味」や「目的」があるとは言えない。「意味」や「目的」というのは単なる結果ではなく、目指すべきものであり、
さらに、あくまでも「自分(われわれ)にとって」という但し書きがついていなければならないのである。
宇宙や人生に、自分(われわれ)にとっての意味や目的があるとしても、それは人間だけの話である。
 〜〜
 人生の意味など、後づけの自己正当化でしかないのは自明のこと。 独りブツブツ呟くように支離滅裂のことを書いている?、
この随想日記のようなもの? 「意味とは、価値に非常に近い言葉」と信じていた。 だから、意味・意味と生半可に語る人に、
「それを価値・価値と置き換えれば、自分エゴの意味づけに気づくのに!」と、何時も内語で呟いていた。
 意味など自分の都合のよい筋書きの為のエゴというと、少し歪んでくる??エゴは決して悪くはない、但し他人の犠牲を・・

 ・・・・・・・・
2913,ホテル&旅館 大淘汰
2009年03月27日(金)
新聞広告に、週刊ダイヤモンドの特集記事が載っていた。 「ホテル&旅館 大淘汰」である。
さっそく書店で買って読んだが、大体予測したとおり直撃の惨状。 内容は東京圏内の外資系高級ホテルと、
日本の御三家、リゾートホテル・旅館の不振を取り上げたもの。ホテルマン45年歴の日本ホテル協会会長が
「初体験」というほどの急激な売り上げダウンに見舞われて激しい値引き競争で収益が激減しているというもの。
ー概要を大きくマトメルと
・外資系ホテルが壊滅状態で、安売りのジレンマに陥っていて、開発ラッシュが一転して 全国で開発の中止、延期が続出
・日本の「御三家」ーオオクラ、帝国、ニューオータニーが沈没  特にオオクラは内部崩壊に瀕している
・能登のホテル百万石も破綻、身売りが多発していて、変化に対応できない事態
 沖縄も観光ブームに沸いていたが一転、閑古鳥が鳴いている
  以上が、この特集の骨子になる。
 ー
全てにわたり、11月以降は二桁のマイナスが続いている。ホテルは在庫の蓄積は効かないので日ごと売って何ぼの商売、
この世界恐慌?は、新規に出店した外資系のホテルにとって、根底から揺らぐのも肯ける。
ハッキリいえば、何処も「稼働率激減、市場は壊滅状態」というのが、ビジネス、都市型ホテル、
リゾートホテル、大型旅館など全ての業態でいえる緊急事態。最近開業したホテルの多くは、実需ベースというより、
「再開発の最大化」のための誘致の傾向が強かった。それに行き場のない外資の資金が後押しをしたことも重なってバブル現象。
大阪、名古屋のホテルも総崩れで20パーセントのダウン、大阪や中国、韓国などのアジア圏の売り上げ激減。
名古屋は自動車業界の惨状が直撃、悲惨な事態である。地元の新潟でも、外資系のビジネスホテルが数軒オープンしたが、
バブルの様相の感がしていた。その上に11月下旬より、極端な稼働率の下落が顕著になっており、深刻という面では同じ。
特に4月からの年度変わりからの予約の状況が非常に悪いのが気がかり。「1〜2年なら何とか凌げるが、後は誰も分からない」
というのが大部分の実感だろう。3年先に、まず一棟が新潟駅再開発の道路拡張の買収予定に入っている目安があるのが救い。
 しかし大津波が覆いかぶさってきている事実は厳然としてある。 <一日、一生>の思いで生きるに丁度よいか?
・・・・・・・・・
2549, 一神教vs多神教 ー3
2008年03月27日(木)           ヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよ?♪
*近代天皇制は一神教か?
   まずは、この本にある、「近代天皇制は一神教か」という部分を抜粋してみる。
ーーー
近代天皇制は一種の一神教、擬似一神教ではなかったかと、ぼくは考えています。
近代日本は一神教の欧米の脅威にさらされて、わが国も一神教で対抗するしかないと思い、京都にすっこんでいた
天皇を引っ張りだしてきて神聖不可侵の神のような存在にし、国民、特に兵士に天皇への絶対服従を強いたのですが、
日本人も追いつめられると同じようなことをしたわけです。ウェーバーがユダヤ教の神、ヤハウェは戦争神だと言った
ということはさっきも話題になりましたが、近代日本も、その前の徳川時代には二百数十年、国内的にも対外的にも戦争を
しなかったのに、明治になってから戦争ばかりやっていました。これも、天皇を一神教の神のコピーのようなものにしたことと
関係があると思います。
(字数制限のためカット2010年3月27日)
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2007年03月27日(火)
2184, 聖地と台所      オッ(*^○^*)ハ?ヨウサン!                  
  「ファンタジーの魔法空間」 ー2  著者・井辻朱美  岩波書店   ー 読書日記  
 前回、「いい場所」とは、台所と屋根裏部屋]という部分を抜粋して考えてみた。
今回は台所と聖地を同定しながら、聖地とは何かを台所とは何か考えてみよう。
 ー まずは、その部分を抜粋してみる。
ー P-41 ある場所に置かれる神像はその[場所]の指標なのである。どこに置いてあって良いというのではない。
日本なら吉の方向が定められており、マルタの台所では「一日じゅうそれが見える」場所がそれである。
神像が置かれる場所が[いい場所]ではなく、[いい場所]に神像を置くことが正しい。
神像的[いい場所]をさらにグローバル的にいったのが聖地であろう。
植島啓司氏は『聖地の想像力』の中で、その9つの条件をあげている。
01:聖地は一?たりとも移動しない。。       02:聖地は極めてシンプルな石組みをメルクマールとする。
03:聖地は「この世に存在しない場所」である。   04:聖地は光の記憶をたどる場所である。
05:聖地は「もう一つのネットワーク」を形成する。 06:聖地は世界軸で貫通しており、一種の記憶装置である。
07:聖地は母胎回帰願望と結びつく。        08:聖地とは夢見の場所である。
09:聖地では感覚の再編成が行われる。
 例えば、エルサレムは01・02の条件によって、3つの聖地になっている。トルコのイスタンブールにある
 アヤソフィア回教徒寺院はかってのキリスト教会を転用したものである。
 逆にスペインのゴルドバは回教徒寺院をキリスト教会に転用したものである。
 それをパワースポットと呼ぶにせよ何にせよ、古代人はそこが聖地であることがわかっていた。
 この聖地の条件は、台所という空間の中での、マルタでいう「いい場所」にあてはまる。
台所は大地の炎の力に結びつき(4)、ウクライナでは、そこでは大家族が一同に会し「座ったり、料理をしたり、
食べたり、洗濯をしたり、寝たり、何でもする」(6,7)ウクライナの台所とはそれ自体が聖地であるという以上に、
家そのものであり、家族にとっての全世界であった。ウクライナにとって、そこはさらに「いい場所」という中心点が必要になる。
マルタの「いい場所」もまた、それはこの世ならぬ世界の道しるべであり、みあかしに照らされた光の記憶は夢見の衝動を誘い(8)、
聖母子像は母胎回帰の夢想と他の信者とのネットワークを示し(5)、
そこに家族の思い出を結びつけるメモリーバンク(06)でもある。それがなければ台所は「からっぽ」なのである。
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私の聖地は、何処だったのだろうか?自分が生まれ育った町が聖地(生地)ということか。  
それにしても、エレサレムは素晴らしい聖地であった。 生生しいが!
                (o ・д・)ツ  バイ!
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2006年03月27日(月)
1819, あちら側の世界 ?2                才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
「ウェブ進化論 」?2  ウェブ社会の現状は?
 ー「あちら側」のウェブ社会と「こちら側」のリアル社会は、あまり融合しないのではないかー
 若い人が当たり前だと思っていることでも、リアル社会の大人たちは何にも知らない。 ネットの「あちら側」の興奮はリアルの
「こちら側」には全然伝わらない。ウェブ社会とリアル社会の本質的融合はイメージできない。ウェブ社会では特殊で
 不思議なことが起き、影響力が大きくなっても、普通に暮らしているリアル社会の人には全然見えない。
 家庭で言えば、お父さんとお母さんはリアルの社会で暮らしている一方、15歳と13歳の子どもはアフィリエイトと
 グーグルのアドセンスで小遣い稼ぎしている。昼間、学校に行ってる間に、子どもたちの分身のウェブサイトがパートの母親より稼ぎだす。
 でも、親にはよくわからない。子どもは相変わらず「勉強していい大学行きなさい」と言われ続けている。
 若い人たちは「説明してもしょうがないからいいや」となってしまう。「ウェブ」と「リアル」の隔絶は時間がかかる。 
 生まれた時にはウェブがあった子供たちが、リアル社会の主役になると変わってくる。 だから長い時間がかかる。世代交代に
 よってしかリアル社会への変化は起きないように思う。シリコンバレーから、日本のIT産業をどう見えているか?現在の日本の
 ベンチャー企業のあり様は、20年から25年ぐらい前のシリコンバレーに近い。90年代後半にシリコンバレー型の起業家経済の種が
 日本にも輸出された。日本社会でも芽が出てきている。普通の経済ルールとは違うから、鬼っ子みたいな企業も生まれるだろう。
 でも、種は植えつけられた。だから20年ぐらいかかると、そういう起業家経済圏が広がってくる。 例えば、ビル・ゲイツは50歳、
 スティーブ・ジョブズも50歳。PC産業が誕生した70年代半ばに20歳ぐらいだった人が、成功したのが80年代前半。
 ゲイツら有名人だけではなく、そういう企業の成長期に会計士や弁護士で入った人がいる。
 ベンチャーキャピタル(VC)でも、グーグル、アマゾンなどへの投資で知られる大手クライナー・パーキンスの
 ジョン・ドーアとかも同じ世代だ。まず親しい仲間と会社を立ち上げた。その後、違う会社で失敗したり成功したりして、
 ある人に引っ張られてこっちにきた、というようなことを繰り返している。彼らは30年間、同じような経験を積み重ねてきた。
(字数制限のためカット2010年3月27日)
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2005年03月27日(日)
 1454, BOSEのステレオー5
BOSEのコンポが居間に入って二週間経った。年に数回しか聴かなかったCDを、一日朝晩平均2時間は聴くようになった。 
  (字数制限のためカット2010年3月27日)
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2004年03月27日(土)
 1089, その一言が運命を!
私の最大の欠点は一言多いことである。それも親譲りの胸を深く切り裂く言葉を言ってしまう。
子供の頃、父親の言葉の鋭さが一番恐ろしかった。そして、その部分を引き継いでしまったようだ。
昨夜もスナックのママから以前、「グサリと、その一言で刺してしまった」状況をリアルに聞かされてしまった。
ついついジョークで言ったつもりが心の一番深いところをついていたからだ。 本当に困ったものだ。
さらに、学生時代のゼミで現象分析の訓練をしたためか、一瞬で言葉が脳に出てしまう。 当時の日記を読んでいると、
その当時言ってしまった「その一言」の多くが思い出される。 家内も私に負けず言葉が鋭い。言い違いや甘さに対して、
即座に強烈な皮肉で帰ってくる。言葉に対しては家庭内でも真剣勝負である。結婚当初になるが、泥酔している私の顔を見て
「白ナス!」と言われたことがあった。鏡を見たら、本当に白ナスのような顔であった。
「言葉の持つ恐ろしさ」をいっている格言が幾つかある。 自戒を込めて列記してみる。
・「神は言葉が持つ破壊的な力から私たちを守っていてくださる!
  鋭い刃物よりも胸を深く切り裂く言葉がある。一生胸に突き刺さったまま忘れられない言葉がある」
・「賢者の口は心にあり、愚者の心は口にある」
・「ガチョウのわめき声は、ライオンの爪よりも痛みを感じさせることがある」というスペインの諺がある。
・「黙れ、さもなくば沈黙にまさる言葉を口にせよ」 ーピタゴラス
・「ふさわしいことを話すのだ。それができなくては黙ることだ」 ージョージ・ハーバード
・「気難しい口調で真実を述べるくらいなら、沈黙を守っていないほうがましだ。
  それは美味しい料理にまずいソースをかけるようなものだ」
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 言葉は人を生かしも殺しもする。一度発した言葉は元に戻すことはできない。 これで人生の幅をいかに狭くしてきたことか。 
特に酒の入った時の言葉の鋭さは「気違いに刃物」である。 酒を飲むときは「一期一会」という気持ちで飲んでいるのが
逆に悪いのだ。酒は脳に敵を入れ込むようなものだ!悪口や陰口は言わないようにしているが、逆に目の前では抑えることができない。
今更、陰口に切り替えるわけにもいかない。陰口をいくら言われても、目の前でグサリとやられるより傷は少ない。
あまり懇意な集会以外は行かないことにしている。 特に殿様蛙のあつまるところには。
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 2003年03月27日(木)
722, 「日本酒について」
新潟といえば「酒と魚と米」と美人?である。新潟の酒に対して書いてみる。朝日山の「久保田」とか「越の寒梅」
などの全国的に知られている酒がある。全国的でないが、ほぼ匹敵する酒として「麒麟山」や「雪中梅」や「〆張鶴」
「八海山」「マスカガミ」など数え切れないほど美味しい酒が多い。私レベルの評価なので、
かなりの先入観が入るが「ごく普通の新潟の酒飲み」の実感を書く。
・「越の寒梅」は確かに美味しい、といって「麒麟山」や「〆張鶴」などの酒と比べて
 ほとんど味のランクは変わらない。 ブランドという自己満足という事だろう。
・「麒麟山」と「〆張鶴」と「越の寒梅」を並べて飲んでも、銘柄を当てる事が難しい。
・私の好きな酒は朝日山の「吟醸古酒」である。 ただ一時期飲んだが、今は飲んでない。
 ワインを飲んでいる感覚になる。あとは「〆張鶴」と「辛口菊水」である。」
・地味だが、長岡の老舗の酒の「吉乃川」も美味しい。
あるレベルを超えると酒は同じ味に感じるのも事実だ。ところで次元の低い話だが、日本酒の場合、二種類の酒を混ぜると
美味しいほうの酒に味が移行する。自分のブレンドをつくるのもよい。以上のことは新潟の酒好きの人は大体同じことを
いうはずだ。新潟はこと酒と米と魚は間違いなく美味しい! あとは美人か? http://www.sakesake.com/kurabetu/12.html
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2002年03月27日(水) 
358,縞模様
縞模様は、中世では囚人やらい病や魔女とレッテルを貼られた人に着せられていた。悪魔の象徴の模様が由来という。
それがパジャマの模様で着ているのは、どういう理由なのであろうか。囚人服や病院服と似ているのは?悪魔の模様であったのが、
いつの間にか日常に使われているのが面白い。よこしま(邪ま)な野郎だ、という語源がここから来ているとは思えないが。
明治や慶応のラグビー部が確かこの模様であったが、知っているいるのだろうか。いや相手がこの模様のために、少し臆して
しまうのを狙う効果もあるか。
シマウマは悪魔の馬と聞いた事がない。そういえば葬式の時、バックに張る布も縞である。いやあれは縦縞か

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