堀井On-Line



3622, お姥捨てるか裏山へ

2011年02月24日(木)

            「日本の名著名言事典」より ー1
* お姥捨てるか裏山へ
 「楢山節考」 深沢七郎著
ーまずウィキペディアの「あらすじ」から
 山に囲まれた信州のある村。今年も楢山の歌が歌いだされる季節になった。村の年寄りは七十になると楢山まいりに行くのが習わし。
 六十九のおりんはそれを待っていた。息子の後妻も無事見つかって安心したし、山へ行く時の支度はととのえてある。
 済ませることはあともう一つ …。
 −塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る−
 自分が行く時もきっと雪が降る…おりんはその日を待ち望む。孝行息子の辰平は、お供で一緒に行くのだが、気が進まず元気がない。
しかし家計を考えて年明けも近い冬の夜、誰にも見られてはいけないという決まりで背中に母を背負って楢山まいりへと出かけていく。
辛くてもそれが貧しい村の掟なのであった。
 ー以下の部分が凍りつくようである              ―「日本の名著名言事典」紀田順一郎著より
「 お姥捨てるか裏山へ  裏じゃ蟹でも這って来る  這って来たとて戸で入れぬ  蟹は夜泣くとりじゃない 」
 山深い村で昔、年寄りを裏山に捨てた因習がある。或る時、老婆を捨てたところが這って帰ってきてしまったので、
家の者たちは「這って来た、這って来た、蟹のようだ」と騒いで戸をぴったりと締めて中へ入れなかった。
家の中では小さい子が蟹が本当に這つて来たのだと思い込んでしまった。 老婆は一晩中、戸の外で泣いていた。
その泣き声を聞いて子供が「蟹が泣いている」と云ったのである。家の者が「蟹じゃないよ。蟹は夜泣いたりしないなよ、
あれはとりが哺いているのだ」と子供などに話してもわけがわからないので、そう云ってごまかしてしまったのである。
この村では、白米は年に一度の楢山祭の時や、重病人でなければ食べられない。 早くに嫁を貰うことは愚かなことで、
それは少ない食料が減るからである。「曾孫が生まれる」のは多産や早熟の者が続いているということで、嘲笑の対象。
老いても丈夫な歯を持っているのも恥ずべきで、食い意地が張っていて、浅ましいと見做される。この村は七十になった老人は、
裏の山へ捨てられる。 息子が背板に老いた親を乗せ楢山に登っていく時に一言も喋らず、後ろを振り返らないが山の掟である。
  ―
 それほど遠くない時代に日本の山間部には、こういう風習があったようだ。現在の日本は不況不況と騒いでいるが、実際に、
こういう時代が来ないとはいえないことを知らない。隣国の北朝鮮が、これに近い惨状といっても、現実としては考えられない。
それにしても、リアルである。都会などの餓死などの孤独死があるが、楢山考と何処が違うのだろう。
 ・・・・・・・
3257, 閑話小題
2010年02月24日(水)
 * つれづれに
  半年に一度ぐらい、この随想日記、書くネタも何も尽きて呆然とすることがある。
  この数日が、それだろう。 そういう直後に多くのネタが湧き出てくることも経験的に知っている。
  書き続けることの効果を実感しているから維持できているが、書く気力が萎えるのは如何しようもない。
 * 消費税のアップ
  今年度の国家の税収が、予算より2割のダウン。 90兆の支出に対して37兆の収入しかないという異常事態。 
  こうなれば、消費税のアップしかない。 ということで、緊急に「来月から議論に入る」という。
  それしか目先の増収の手立てはない。それにしても、あれだけの綺麗ごとで支出をしておいて、何おかいわんである。
  パーセントのアップは、我われの収入が5パーセントダウンと同じことである。これでは、ますます消費意欲が減る。
  消費税分を値上げはできないところが大部分だろうから、恐慌にますます拍車をかけることになる。
  5年先は、いや3年先の景気を考えると背筋が寒くなる思いである。
 *政界の再編成が動き出した
  民主、国民新党の自民党切り崩しで、二人が移動し、参院の過半数を確保した。これで社民党の連立からの
  離反が時間の問題になってきた。次の仕掛けは、公明党との連立か、自民党の若手をゴッソリと狙うかである。
 *保険業界の現状
  昨日、取引先の保険会社の社長が来社、少し早いが長岡まで車でおくってもらう。保険業も3〜4社の大手の寡占化が始り、
  弱肉強食が鮮明になりつつあり、保険のオバサンや、中小の保険会社の淘汰が激しくなるという。
  5年で200万人が40万人に激減し、保険屋難民が彼方此方で溢れるとか。 何処も同じである。 
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2009年02月24日(火)
 納棺師ーおくりびと
米ロサンゼルスで行われていた「第81回米アカデミー賞」の外国語映画賞部門にノミネートされた「おくりびと」が
外国部門賞に決定した。 この映画の概要といえば、ひょんなことから遺体を棺に納める“納棺師”となった男が、
仕事を通して触れた人間模様や上司の影響を受けながら成長していく姿を描いた作品である。
 10年ほど前に長岡市内の叔母が亡くなった。分家でもあるので葬式の主催者として準備を手伝うことになった。 
たまたま喪主の弟の知り合いが葬儀場の担当者で納棺師であった。 納棺師という職業に興味をもって、
色いろたずねたところ、転職の経緯から、納棺師からみた色いろの人生模様を詳しく聞くことができた。 
以前に火葬場の火夫の手記を読んだことがあるが、納棺師の話は初めてである。
 印象に残ったまま書いてみると
・小さな子どもが亡くなった葬儀は、正視できないほどの哀しみが満ちている。
・葬式は、人生模様の凝縮された姿が垣間見られるところ。
・親族が故人を嫌って誰も葬儀をしようとしないケース。門前で「あんな奴は父でも何でもない!」と怒鳴られた。
 「親子で何があったかわからないが、何か深い怨念があったのだろう」と
 ・・・葬儀代は、本人の通帳から貰っていたので、丁寧に葬儀社を出した。
・職業として割り切っているので、慣れてしまえば傍で見るほど大変ではない。
ーところで納棺師とは、どんな仕事なのか「検索」で調べてみた。
 実際には納棺師になるための特別な資格はない。そして意外や20代の女性が多い。
  故人への主な仕事は
(1)シリコーン注射などによるやすらかな死に顔づくり (2)消臭効果のある薬品を口の中に入れる防臭処置
(3)口、鼻、お尻の穴に綿花を入れる詰め物      (4)白装束などを着せる着衣
(5)納棺      (6)遺体の髪や体を洗う湯灌  湯灌を行わない場合、納棺師1人で切り盛りしてる。
以上だが、「おくりびと」がアカデミー賞を貰ったことで、この仕事に多くの人が目を向けることになるが・・・
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2008年02月24日(日)
 2517, カキクケコの精神
 何気なく本棚に塩月弥栄子の「冠婚葬祭入門」を手に取ったら
「カキクケコの精神」があったが、それが面白い。  「カ」は 感謝することに照れない。
  「キ」は 緊張感を楽しむ。          「ク」は くつろぐ。
  「ケ」は 決断力。              「コ」は 好奇心を持ち続けること。
  美空ひばりも、この言葉気にいっていたというが、他にもカキクケコの精神として
 「カ」感動、感激。神の心 。           「キ」聞く、気配り、協力。
 「ク」クエスチョン(疑問をもつ)。クリエーティブ 「ケ」健康。ケセラセラ(なるようになる)
 「コ」行動。向上心。
  が考えられるが、どうだろうか?「あいうえお」でも「かきくけこ」でも辞書を片手にこねれば
  何でもつくれるということ。「あ=愛情を大切に。い=命をいとおしみ。う=運動を。え=笑顔で。お=お互い様。」
  というと、年寄りの養生か?  「さしすせそ」というと、止めとこう!
  最近、30〜40年前に読んだ本を読み返しているが、また違った読み方ができ、また読んだ当時の自分に出会っている
  ようで面白い。 読んだ言葉は何らかの形で残っているのに驚いてしまう。本は精神の滋養になっているのである。
  この年齢になると、その蓄積こそ己の足元を照らす灯りになってくれていることに気づかされる。 
  老醜の狂乱こそ、みっもない。それを避けるために本を読むか、趣味を追求するしかないが?? 
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2007年02月24日(土)
2153, 幸福に驚く力 −2
     オッ(*^○^*)ハ〜ヨウ!         ー 読書日記
幸福に驚く力とは、日常の中にある見落としている幸せに気づくことです。
それは大自然の中で己の小ささを自覚すること、その小さな自分の中の、小さな幸せに気づくことが第一歩である。
まずは、その抜粋から ー自分の小ささを知るということー
 *世界の広さと深さを感じとる
子どもって小学校も高学年になれば、大人たちを冷徹な目でみますよね。
卑しいなとか、えげつないとか・・・・。でも本の中にはもっと卑しい、えげつない人がいっぱい登場してきますし、
周りに素敵な人だなと思う人がいても、物語の中にはもっと素敵な大人がいっぱい出てくる。イメージできる
人間の幅がぐっと広がってくるわけです。これは今にして思えば本当によかった思います。何故そう思えるかというと、
今の学生は人間を殆ど知らないと思うからです。生の人間に会っていないのではないかと思う位です。
すべてあるのに、何もないって感じ。学生たちは「どうせ大人なんて」とか、「どうせ社会なんて」とよく言うんですね。
「そんなことはない。大人の中には凄い人はいる。人間ってそう簡単にタカをくくれるものではないぞ」と知らせたいのです。
人間の素晴らしさを知り、世界の広さを知ることで、自分が限りなく小さい存在だということがわかってくる。
でも、小ささを知ることが、喜びにもなる。そういう体験を、無意識だったかも知れないが、私は子どもの頃より
ずいぶんしてきたような気がします。学生たちに、「自分がうんと小さいことが、喜びになるような体験をしたいね」
というと、「そんなことをしたら、生きられなくなる」と言いますが、それは、言いかえると、人間というものは
こんなに素敵なんだ、世界はこんなに奥行きあって広いんだと知っていくことなんですね。
苦しみや悲しみは生きているかぎりあって当たり前。それらと闘うことは、その時は苦しいが、でも面白い体験なんだ
ということを、本を読めば徐々に知ってくることができる。自分と周りのわずかな世界しか知らないと分らないんですね。
学生たちは情報が大切というが、でもいくら情報を集めても生きたことにはならない。
しかし物語は読み方によっては疑似体験ができるし、体験を積み重ねることができる。
 解)ライフワークの秘境旅行に惹かれる理由の一つは大自然との一体感の感動の中で「自分の小ささを思い知らされる」
  ことである。その実感が歓喜に変わる瞬間、この一ポイントが永遠への窓である。
  求めなければ何度でも永遠を感じとることが可能なのが、人生の面白いところである。人間はアナザー・ワンで
  あると同時に、オンリー・ワンであることを知らされるということです。
 *「傷つく権利」と「怪我する自由」
若い人たちは、愛することを知らないで、愛されることばかり願っている。悩む力、悲しむ力、あるいは苦しむ力が最近非常に
弱っているように感じられます。現実的に難しいなら、せめて文学を読んでこういう力を少しでも養わなければ。
人には傷つく権利もあるのです。「傷つく」という言葉と「権利」という言葉を結びつけることもできるのです。
いま、学校は子どもたちの安全を考えるあまり、過剰な管理をしています。でも、事故が起こるたびに
「あってはならないことが起こりました」と学校が謝るのを見ていると、事故はあってはならないのだろうか、
と思ったりもする。人間が本当に自由を求めて生きようとしたら、死をつねに想定しておかなければ、
無理じゃないかと。常に死を含めて考えない限り自由には生きられないのです。
 (字数制限のためカット 2011年2月24日
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2006年02月24日(金)
1788, 愛のアフォリズム−3     ≪( \(・ω・)/ )≫オハヨゥ☆  −読書日記
ー情熱
情熱はさめると氷より冷たくなります。  (ジャ・シャガール)
情熱を癒すことができるのは分別ではない。 別の情熱だけである。(ルートヴィッヒ・ベルネ)
私たちが情熱から解放されるのは、その情熱をとことん味わいつくした場合だけである。(マルセル・ブルースト)
                    ーそりゃそうだ!でも、そうでもない場合もあるが!
火が欲しかったら、煙ぐらい我慢しなくては。 (ドイツの格言)−その煙がむせぶからね〜? (〃 ̄ω ̄〃ゞ                    
カップルが幸せになるケースはごく少ない。情熱が荒々しい炎が燃えつきる前に、愛着というおだやかな火を
なんとか焚きつけることが出来た場合だけだ。(ジェローム・ジェローム) −そうか・・  性格もあるけど!
愛は生理的欲求であり、不可避の身体機能である。 (エルベシェス)  ― 一升瓶?
愛とは、心に感じられるものとなった空間・時間だ。 (マルセル・ブルスト)
      −牢獄にもなり、宇宙空間にもなるということ?(●ゝω・)ノ【 love = 時・ 空間 ☆】
頭は真理によって輝き、心は愛情によって輝く。    (ロシアの格言)
愛情によってのみ、人間は自分自身から解放される。(フィリードリヒ・ベッヘル) ー相手からも解放される
恋人を棄てるのは、空想力が衰えたことを証明する。(ホーフマンスタール) ーその反対もあるからね〜たくもう〜!
       (*・ω・)(・ω・*)ずっと一緒にいようね!な〜んてのは一年まで!ー
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 2005年02月24日(木)
1423, 名画200選 −読書日記
購入して数ヶ月、時々読んでいるが味わい深く飽きない。その半分は観たことがあった。思ったより多く観ていたのには自分でも驚いた。
そのうちTVで観たのが、半分だろうか。この本を読んで初めて「成る程!」と、今になって感心をしているものが多い。
(字数制限のためカット 2011年2月24日
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2004年02月24日(火)
1056, 千回の力
「何事も千回続けると、何かが見てくるか、何かを感じるようになる」という。散歩時に「ありがとう」を
言い続けて、千回を越えたあたりから何かが変わる。心から「ありがとう」の言葉が出てくるのだ。
そういえば、この随想日記も千回を去年の暮れに達成をした。千回を達成した安堵感の為か、その後何も考えた
ことがなかった。そこで改めて「何か変わった事や感じることがあっただろうか」を内省をしてみることにする。
・ものを見る眼が全く変わった。 ー記者の目、書き手の目で現象を見る習慣がついた。
・テーマ探しを無意識にするようになった。       ・そして、そのテーマに対し内省をするようになった。
・脳内サテライトの面白さを実感できるようになった。  ・自分が知らない読者や、子孫を意識をして書くようになった
「何かが見えたか」と問われれば、別に何も見えないし、「何か感じたか」と問われても、何も感じない。
しかし、書き始めた以前と、それ以降という感がする。脳内を公開することが想像する以上のインパクトを
自分に与えていることになっている。書いている内容に対してコンプレックスも自信も、全くない。
ただ考え、感じた全てを、書き込んでいるだけだ。その集積が、基地としてのネット上にあることは異様な感じである。
「石の上にも三年」も大よそ千日である。一つの言葉を気持ちを込めて千回いえば、大よそのことが達成可能になるという。
「駄目だ駄目だ!」と自然に流されれば、繰りかえしてしまうものだ。言葉は、意識して使わなくてはならないと解っているが・・
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2003年02月24日(月)
691, 「わたしを認めよ!」  −2「読書日記」        
 ー 気になったところを書きうつしてしてみた。
「ふつう」の意味とは・・ 普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれない。当然である。
 だれも知らないからだ。 わたしが考えるふつうとはこういうものである(普通」と区別する)。
 奴隷みたいな退屈な生き方が上と下の中間(中流)に落ち込んだ普通だとするなら、
 目指されるべきふつうとは、みずから選びとった〈中間〉のことだ。 普通が惰性なら、ふつうは意思である。
(字数制限のためカット 2010年2月24日)
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 2002年02月24日(日)
 341,遊びについて−1
人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。まずその達人を事例で考えてみる。
一番身近では母がそのプロ?であった。戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、父とともに苦労の連続であった。
そして長男、次男の連続の不幸な死で今の重症のノイローゼーになった。心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。亡くなった時、
医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けて
いった。約40年近く遊びきって亡くなった日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。
子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。遊びの重要さもそのため学んだ。重点としてだが父は「働く人」母は「遊ぶ人」と
役割分担がハッキリしていた。ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。「遊び」を儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、
罪悪と教えられてなかったか。子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。ただただ無心に遊んでいた。
あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。人間は生きていかなくてはならない。その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。その為に勉強もしなくてはならない。しかしそれだけでは、それだけの人生だ。
それがクロなら、その対象の白が必要になる。どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。それを特に母の生き様から学んだ。
一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、「馬鹿な?生き物」である。
遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。そうすると、仕事も遊びになりうる。天才はその典型であろう。
あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。何でも遊びの対象にした「遊び心」を。純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」と暗示をかけられてないか?
 私の趣味の一つにウオーキングある。初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。純真に楽しいーのである。
その中に純真な遊び心が躍動を始める。何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で
「遊びに昇華」する。パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。
「遊びになるまで集中する」という事か。これから散歩だ!


3621,閑話小題

2011年02月23日(水)

  * やはり値下がりした薄型TV
 去年暮れに薄型TVがエコポイントの駆け込みで品薄になる現象が生じた。
その時に、直ぐにエコポイントの差額以上に必ず値下がりをすると、ここで断じた。
ところが昨日の新聞記事に早速そのニュースが載っていた。過剰消費の後には値崩れが起きるのは当然であり、
特にテレビやパソコン、携帯電話などの電器商品は、直ぐに型落ちで値下がりする際物の性格がある。
周囲が焦って買い急いでいるのを見てしまうと、その当たり前のことが見えなくなる。明らかに踊らされていた。
かくいう私も夏に買ったが、今では型落ちも含めて三割近い値下げである。 自動車も似たような現象が出ている。
その反動が、今年の日本経済を暗くする。来年の一番底に向けて景気は楽観できない。
  
 * 北アフリカ・中東のドミノ倒しは続く
 チェニジア、エジプトに続いて、今度はリビアにデモが飛び火をし、暴動になっている。最後は軍部がどう動くかが、
ポイントになってきた。 カダフィの外人傭兵部隊が虐殺を拡大する中で、軍部が国民側につきざるを得なくなるのが
流れになるかかどうか。 それにしてもチョットしたきっかけで、数十年続いた強固にみえた独裁国家が瞬時に崩壊するのだから
ネットの威力は絶大。 軍隊内の若い兵士も家に帰れば携帯電話を持っており、虐殺の映像を見れば上下の関係だけで動かない。
恐しいリンチや、罰則があるだろうが・・・ さっそくリビアの空軍の飛行機二機が、デモへの攻撃命令を拒否して
隣国に亡命したとのニュースが流れていた。アッラーの神への絶対の服従とは違ったネット情報で動く若い世代が出てきた。
何処も同じである。成るほど、ネット世界が現実世界を支配してきた象徴的現象である。元をたどれば金融バブルも
ネット取引のグローバル化がもたらした原因。 面白怖い、これまで考えられなかった現象が、雪崩のように起こってくる。
 ・・・・・・・
3256、挫折を考えてみようか −4
 2010年02月23日(火)
誰もが、人生の中で大きな挫折を経験する。 挫折といえば若いときほど、その経験はプラスになるケースが多い。
そのまま、潰れてしまう危険も含まれているから額面どおりにはいかない。しかし、それを乗り越える過程でついた
力は、大きい成長のためのバネになる。  映画監督の新藤兼人の挫折についての言葉がよい。
「挫折をして、挫折のままだったら、今いないわけでしょ。生き延びてきたということは・挫折を乗り
越えてきたからなんです。そうすると、私の財産は挫折です。 乗り越えるためには、試行錯誤
があって、まだ挫折が来る。若い人は挫折をしてませんね。これからするわけなんだから。だから、
若い人と対抗して仕事ができる気持ちになれるのは、私が挫折という財産を持っているからなんです」
 〜〜ネットで出てきた挫折の格言である〜〜   一言一言が身に沁みる!
『転んだ時にはいつでも何かを拾え』  オズワルド・アベリー
『最大の光栄は、一度も失敗しないことではなく倒れるたびに起き上がることである』  ゴールドスミス
『失敗したところでやめてしまうから失敗になる』     松下幸之助
『過失を怖れては何事も為し得ないだらう』        小熊秀雄
『日本人は、失敗ということを恐れすぎるようである』   本田宗一郎
『失敗することを恐れるよりも、何もしないことを恐れろ』 本田宗一郎
『失敗には、許される失敗と許されない失敗がある』    畑村洋太郎
『失敗は人生の免疫である。味わい尽くし分析せよ』    中島義道
『何か始めてうまくいかなかったら、またやりなおせばよい』 大前研一
『努力をあきらめないかぎり、失敗なんてこの世にはないのだ』  ハバード
『我 事において 後悔せず』  宮本武蔵
『失敗のうちで最大のものは、失敗を何一つ自覚しないこと』   カーライル
『受身が身につけば達人 まけることの尊さがわかるから』    相田みつを
『勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る』 徳川家康
『最大の名誉は・・・倒れるたびに起き上がることである』    孔子
『過って改めざる、これを過ちという』             孔子
『おれは落胆するよりも次の策を考えるほうの人間だ』      坂本竜馬
『つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの』       相田みつを
『他人のように上手くやろうと思わないで、自分らしく失敗しなさい』   大林宣彦
『エジソンは失敗を楽しんでいたんとちゃいますか』           ジミー大西
『生きる力とは、成功を続ける力ではなく、失敗や困難を乗り越える力だ』 松井秀喜
『失敗は問題だ。成功しようとしないのは、もっと問題』         ルーズベルト
『恋をして恋を失ったほうが、一度も恋をしなかったよりましである』   テニソン
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2009/09/18
3088,挫折を考えてみようか −3
 ある人に「あなたの『挫折を考えてみようか ー1』を読んだが、貴方には挫折経験がないのでは?」と言われた。
そこで改めて考えてみた。 大学浪人は、そこで進学を断念したのなら話しは別だが、挫折ではない?
金沢時代も挫折とは違う。目的もしっかりあったし、絶好の体験をしているという実感はあった。
創業を目指して彷徨いながら準備をしていたという明確な絵図があった。そうこう考えると、「挫折体験はないのでは?」
という指摘も正しいことになる。 先が見えないで暗い心情になっていた時期で挫折とはいわない。
そうこう考えると、挫折などと軽々しく言わない方がよい!ということか。ネット辞書によると「挫折とは計画が達成できないで
心が折れてヤル気を失うこと」とあった。挫折は、それまでの自分を一度破壊して新たな自分の創造を促すチャンスになり、
竹の節目に譬えることが出来る。 そこに大きな鍵が隠されている。 超越者の声に敏感になることもある。 
それまでが横の時間なら挫折の時節は縦の時間。「節目を打て!」というが、そこで超越者に試されことでもある。 
物語なら、そこを節目としての転換期になり、「起承転結」の「転」の時になる。
挫折の状態は、追い詰められた状況ほど芸術作品や本などを通した超越者の語りかけに鋭敏になる。
「予定挫折」という言葉がある。 挫折を意図的に入れて置いて、人生の踊り場にするのである。。 
そこは枝葉を切って根を養う時節であり、超越の時節になる。「そうか〜挫折と思い込んでいただけか〜」と思ったが、
それでは、挫折が無かったかというと、勿論ある。実は見落していたのである。 大学浪人や創業時の準備は勘違い? 
しかし深傷だったが。最近になって「自分は中学浪人だった」と、何人かの知人から聞いて驚いたが、一番傷つきやすい時期の、
それから見れば、当時の大学は半分近くが浪人経験者で、挫折でもなんでもない。
また私の姉夫婦と実兄夫婦の倒産劇で、大きく挫折をしたのを間近で見たが、壮年、老年近い挫折は厳しい。 
最近はリストラで日常が挫折だらけになっている。 他人事ではない。 予定挫折ともいかないし。
 幸福というビルの最上階の4Fならいいが、屋上から何は? 挫折を茶化すこともないが・・・
「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」か〜! なら日々挫折である。計画が甘いだけ?。
・・・・・・・
哲学について
3087,挫折を考えてみようか −2
2009/09/17
  哲学者のヤスパーの「限界状況」と「包括者」は、なかなか含蓄がある。
ヤスパーは第二次世界大戦でナチへの協力を拒否したため、大学教授を剥奪され、身の危険を感じ
スイスに亡命せざるを得なくなった体験がある。そこから「限界状況」という考えが、色濃く反映している。
『限界状況』とは、突き当たり、そこで挫折するしかない壁、具体的には、死、闘争、悩み、歴史による規定などをいう。 
それらの乗り越え難い厳しい壁を目の前にして、逃避するなら人間は自分を失ってしまう。
反対に、その試練を真摯に受け止めることよって初めて、我われは自分の生きる姿を知ることになる。
 しかし受け止めたところで、限界状況では挫折は避けられない。しかし、この挫折が私たちを超越者(=包括者)
の世界に導いてくれる。 もちろん、ヤスパーが考えたのは、挫折(無力感)から神のような超越的なものへ目が見開かれる
という宗教的なことではない。 包括者を認知するとは、この世の中に決して合理的に理解できないものがあることを
知るということ、理性の限界を知るということである。 理性の限界を認識してこそ、私たちは理性的に思索できる。
それをヤスパーは包括者の認知と提示したのである。 20世紀から、このかた原爆、世界大戦、ナチ、毛沢東などが、
大量殺戮を繰り返してきた。 それは徹底した合理主義の下である。 理性そのものの疑問が生じるのは当然である。 
 我われの挫折も、それを逆バネにすれば自分の無力感を、超越者(作家や芸術家など)から救ってもらう切っ掛けとなる。
挫折は、それから学びプラスに出来れば、これほど効果的なことはない。 その限界状況が芸術、思想、自然、歴史
などの暗号を解いて、包括者を受け入れやすい環境として最適な状態となるのである。
 挫折は、自分の壁が破壊することでもある。 その壁は、自分を守ってもくれるが、反面、殻にもなってくる。
養老孟は、それを馬鹿の壁と表現した。そうこう考えると、人間にとって(特に若いときの)
挫折は必要欠くべからざる経験ということになる。 ところで先日・・・・    〜つづき  
・・・・・・・
2009/09/14
3084,挫折を考えてみようか
 「挫折」については誰かが考えているはず、と調べたら、ヤスパーがいた。ヤスパーは、挫折を「自己に目覚めるきっかけ」
として捉え、自分自身を乗り越える機会とみる。人間は日常の生活に明け暮れで生きているが、それでは真に生きていることに
はならない。なぜ己が世界に生きているかを問い、自分のあり方を求めることが生きる出発点になる。
ところが、それを真正直に守ると最後には挫折が待っている。人は最期は死ぬのである。それを考えると生きている根拠がなくなり、
行き着く先の挫折を「限界状況」とヤスパーはいう。 色いろの挫折を重ね、最後に「死」が厳然と待っているのは、
身近な死が我われに教えてくれる。しかし死を含めた多くの苦悩を通して、人間は真の自己である実存を自覚し、そこから苦悩を
乗り越える「超越」への基盤となる。しかし人間は死の戦いや苦悩を、実存の最終的なあり方と受けとめることが出来ない。
本来は、愛、永遠、無垢に惹かれる存在だからである。  
 ヤスパーは、《 実存は苦悩のうちに挫折しつつ、指し示す絶対者=包括者へと超越することが要求される。
その超越が促すのが「暗号解読」である。 それは一種の象徴で、有限な現実の存在が自らを越えて絶対なる超越を指し示すのである。 
芸術、思想、自然、歴史など、そうした暗号によって、それを包括者へと超越せよ、という指示として受け取るのが暗号解読である。》
と、挫折=限界状況の先のアップスケールとして、自己に目覚めるきっかけとする。人間が生まれ存在しているから挫折をするのである。
そして最後の挫折としての死を受け入れるプロセスが超越だったり、真に生きることであると指摘する。
人間は誰かに人生を代ってもらうことはできない。 限界状況をひとりで背負う、本質的に孤独な存在である。
だからこそ独りに閉じこもらず、自分の実存を他者に開示すべきとヤスパーはいう。
他者との交わりを通して、自分を振り返ることが、更に自分に近づくことになる。
実存に目覚めた人間同士の交わりを、「愛しながらの戦い」と呼んでいる。
 人生を振り返ると、挫折から多くのことを得た。 その時に、新約聖書や、大本教の本に救われた経験がある。
超越者から救われていたのである。40,50歳代の峠越えは秘境旅行で大自然に出会うことで超越していた。
私にとって、大自然の懐が「暗号解読」の場所であった。 更に、多くの都市の美術館の名画などの作品がである。 
「限界状況」の中に、そして、その向うの「超越」こそ、人間の生きている意味が隠されている。
挫折、そして苦悩こそ、人間を超越に運んでくれる。 そこで出会う感激・感動こそ超越状態である


3620, ちょいとした 小話

2011年02月22日(火)

  経済学会にて、ある重大な定理について、多くの質問があった。
 イギリス人: 「その定理は経験によって裏付けられているだろうか?」
 ドイツ人 : 「その定理はいかなる基本定理から演繹されたものであるか?」
 フランス人: 「その定理をフランス語で言ってください」
 日本人  : 「あなたの先生は有名ですか?」
   ――
 ・賢い男 + 賢い女     = ロマンス       ・賢い男 + アホな女    = 妊娠
 ・アホな男 + 賢い女    = 不倫         ・アホな男 + アホな女   = 結婚
 ・賢い上司 + 賢い部下   = 業績順調       ・賢い上司 + アホな部下  = 余剰人員即削減
 ・アホな上司 + 賢い部下  = 能力主義昇進     ・アホな上司 + アホな部下 = 長時間残業
   ――
  なんでもゲームにしてしまう夫婦がいた。何事につけ勝負を競い、たがいに掛けあうのだ。その結果、夫は常に欲求不満だった。
 というのも、結婚して以来彼は妻に一度も勝つことができなかったからだ。だが夫は自分が負ける心配のないゲームを思いついた。
 子供の頃よくやったオシッコ飛ばしだ。壁に向かって、どちらが高くまで飛ばせるかというあのゲーム。
 構造上からいって、自分が勝つことは確実だった。 「さあ、ごらん」彼が言った。
「あの壁に向かってオシッコをするんだ。高くまで飛ばしたほうが勝ちだ」
「分ったわ。面白いゲームね。私に先にやらせて」妻は足を広げ、スカートをまくりあげて狙いをつけた。
 壁の約二十センチの高さの所に彼女の痕がしるされた。「よし」男が言った「今度は俺の番だ」
 彼がジッパーを引き下ろし、モノを取り出して準備を整えたとたん妻が声をかけた。「ちょっと待って。手を使うのはナシよ」
 ・・・・・・・
3255, 「都市主義」の限界  −1
2010年02月22日(月)
   「都市主義」の限界 養老 孟司 著    〜読書日記
 ーまずは、概要となるポイントの文章を書き出してみたー
*仮想社会とは、ネットやTVなどのバーチャルなものではなく、我々の脳内に作られた社会(=都市)であり、
 脳による判断のみで社会を構築していくことへの恐怖が伝わってくる。
「戦後社会の変革を、私は『都市化』と定義してきた。・・・ 戦後の日本がいかに都市化されたか、それがいかに行き過ぎたか、
 それはもはや歴然としている」 『都市化』を脳化ともいう。 都市の全ての物は脳が作り出した意識の産物であり、
 それと対局にあるのが都市生活者が全く意識の及ばなくなった自然である。 日本もヨーロッパもアメリカもその状態にあり、
 現代社会に起きるありとあらゆる問題はそのことに帰結するという。 少子化に決定的な解決がないのは、子供は「自然」である、
 と著者は主張。 自然は都会で排除されるものである(子供も然り)という。
 また、都市で起こる(悪い)ことはすべて「他人の所為」という視点があるからだ。
*文化大革命では「批林批孔」を行っていた。このとき、中国の二大思潮は儒教と老荘思想であり、「文化大革命=老荘思想」
「中国旧体制=儒教」なのだとおぼろげに感じた。「都市主義」対「田舎主義」として、儒教対老荘思想、文化大革命も説明している。
*日本で学園紛争がおきたが、同時に中国では文化大革命が、フランスでも「ラテン区」の騒動がおきている。これらの学生の動きが
 世界で同時におきたのはなぜか? それを氏は「都会と田舎の対立」だったと規定する。都会化するためにはエネルギー供給が
 不可欠である。そのころ石油が安価に供給できる体制が整ったことにより、世界中で都市化が急速に進展した。
*急激に進展する「都市化への反応」が世界各地でおきた学生の反乱だったという。
 当時の運動は、反体制を標榜した。 「体制」とは、「人間が意識的に作り出したもの」である。
 しかし、当時の若者自身が「田舎」を引きずっており、大学は「封建的」で「田舎」的であった。当時の若者は「都会」的である
 ことを志向して「田舎」的である大学に反発、同時に彼らは「都会」主義に反発もして、文化大革命の「田舎」主義にも共鳴した。
  〜〜
 なかなか、面白い切り口である。多くの国ではの人口の三分の二が大都会の周辺に住んでおり、その半分〜三分の一が首都圏に住む。
東京都民の増加が止まらないで、何時の間にか1300万人を超えてしまった。首都圏には大よそ三分の一が住んでいる。
彼等は、異常な位にそれ以外に住む人を「田舎もの」と差別をする。 自分たちは文明の最先端で文化的な生活をしている。
彼方此方で催事があり、それに触れる機会が多いのは事実だが、不自然な生活環境である。 「都会人が優位という感情が、
目くそ鼻くそを笑うレベルでないことは学生時代から認識をしていた。そこで産まれ育った人の固定観念は想像を絶したことを知った。
機能を優先させて不自然な環境に住んでいることが自覚できない。
偶然に、下記の同月同日の上海のターミナルの文章が間接的だが、同じ問題を提起している。    ー つづく
  ・・・・・・・
2880, 上海のバスターミナルにて
2009年02月22日(日)
19日の「NHK・BSの世界のドキュメンタリー」が、迫真に迫っていた。
今年の中国の正月にあたる「春節」に、上海で撮られたもので、中国の出稼ぎ労働者の現状を生々しく追ったもの。
  ーまずは、その部分NHKのHPの番組紹介からコピーしてみた。
 《 再訪・上海バスターミナル 〜不況下の帰省ラッシュ〜 》
 中国の人々が年に一度、故郷の家族と水入らずで旧正月を祝う「春節」。NHKが2年前に取材した、
好景気に沸く上海の長距離バスターミナルは、春節の直前90万人もの帰省客が押し寄せ大混乱に陥っていた。
人々は貧しいながらも明日への期待を膨らませていた。しかし今年のバスターミナルは、打って変わり閑散としていた。
世界経済危機の荒波を被り、出稼ぎ者の多くが仕事や生活の基盤を根こそぎ奪われ、すでに帰郷していたのだ。
それでも大晦日のバスターミナルには、追いつめられながらも故郷で春節を迎えたいと願ってやまない人々の姿があった。
バス代を工面するのがせいいっぱいで、土産も買えず身一つで帰省する農民工。給料が支払われず、妻子だけを帰省させて
一人上海に残る工員。故郷に残した我が子に会いたくて、リストラされた夫の反対を振り切って来た母親。
その一方で、大晦日に地方から上海にやってくる人々もいた。地方では暮らして行けず、新天地を求めてやってきた
大家族の農民。出稼ぎから戻らない母親を捜しに来たものの連絡がとれず金も尽きて途方に暮れる父と子…。
金融危機に揺れる中国、春節前の上海バスターミナルで繰り広げられる庶民の悲喜こもごもの人生のドラマを見つめる。
 −−
 どのケースをみても、追い詰められた人たちの姿が痛々しい。特に、出稼ぎから戻らない母親を捜しに来たが連絡がとれず
金も尽きて途方に暮れる父子の姿が哀れ。バスターミナルで二人が途方にくれている姿を映し出し理由を尋ねる所から始る。
地方から出てきたが金を使い果たし、ターミナルの閉門で寒空に追い出される。そして二人は当てもなく歩き出すが、
見かねた若いターミナル職員が後を追って、近くの安宿に自費で二人を泊めてやる。極限の人間の姿は、それだけでドラマになる。 
その時に上海で連絡を絶った母親から携帯に電話が入る。「私を捜さないで!」 究極の悲しみの場面である。 翌日、若い職員に
いわれたとおりにバスターミナルの所長を訪ねる。 そして女所長が、帰りのバスに無料で乗せてやる。思いやってカップヌードルを
持たせてやるところは圧巻である。 他のどのケースをみても深刻な問題が浮き上がっている。この番組は彼等の姿を通して、
大不況の一般庶民の苦しみを訴えたいのだろう。二年前の春節の上海ターミナルの職員の仕事収めを追った映像と、閑散とした
今年を比べて現在の中国の現状を浮き上がらせていた。 冷え冷えとした10年を予感させたドキュメントであった。
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2008年02月22日(金)
 2515,  iMacの感想! −2              オッ ヽ(゚∀゚)ノ ハー
Macを買ってから一月ほど経つ。
これを入れてから2週間もしないうちに4棟のホテルのロビーに6台、事務所に二台、自宅も含めて9台を導入した。 
とにかく画面が綺麗なことと大きいことでパソコン環境が一変した。そのキッカケが年に数回事務所に訪ねてくる知人が
三年前のパソコンを見て、「そんな古いパソコンなぞ使っているのは如何なものですか?」といわれたことである。
何かピンとくるものがあり、直ぐ近くある「ヨドバシカメラ」に、パソコンを見に行ったところ、最新のオール・インワンの
「iMac」を見て気に入り、即座に事務所に一台入れた。旧来のノートパソコンの隣で比較をしてみて驚いてしまった。
   (字数の関係でカット2010年02月22日) 
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2007年02月22日(木)
2151, スピリチュアル・ブームを考える −2    オッ(*^○^*) ハ〜ヨウサン
溝口敦の批判も当然ながら鋭い。最近は著書「細木数子ー魔女の履歴書」で、怪しげな女占い師を切り捨てている。
(字数の関係でカット2010年02月22日)             
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2006年02月22日(水)
1786, 誰も知らなかった英国流ウォーキングの秘密
       才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)  ー 読書日記
 図書館で借りてきたが内容が深いので、中古本だが、ネットのアマゾンで取り寄せた。
それぞれが味わい深い内容で満ちている。ヨーロッパの郊外にある公園に行くと、必ずといってよいほど、
ウオーキングやジョギングやサイクリングをしている人を見かける。その度に生活の豊かさを感じ取っていた。
ウォーキングの本は数多あるが、これだけ詳しく書いてあるのは珍しい。
  ーこの本の概要をまとめてみた。    _φ[・ω・`*]メモメモ♪
 英国では1800年代にフットパスと呼ばれるウオーキングのための小径が誕生し、現在では20万キロも整備されていて
生活の一部となっているという。イングランドとウェールズ地方だけでも、なんと16万キロメートルの歩くための道が、
公道だけでなく、私有地の農園、庭先、工場の敷地内をも繋ぎ、そこで人々は自由に通行ができる権利を有している。
国民の45%がウォーキングをスポーツとして実行し、何処かへ着くということよりも歩く過程そのものを楽しんでいる。
「フットパス(footpaths)」とは、「人の足によって踏み固められた歩行路」のことで、人だけが通れる道のこと。 
他には「ブライドルウェイ(bridleway)」があり、これは手綱(bridle)のとおり 人、馬、自転車が通れる道のことをいう。
この本では、英国のランブリング(逍遥)と、日本における散歩の歴史を紹介している一級の内容である。
人は‘歩くこと’という肉体の運動としてだけでなく、精神を様々な様式で駆け合せてきた。
 その枠組みを以下のように提示している。
(1)思索のウォーキング 歩きながら考える、アリストテレスからルソーなど思索を深めるために歩く
(2)宗教的ウォーキング 悟りへの歩行、空海の山野行、修験道、八十八個所巡礼、富士山登山講など
(3)自然観照のウォーキング 静かな心で自然に向かい、その本質を見ようとする態度、
   芭蕉、ベートーベン、ワーズワース、国木田独歩などロマンチックな歩行の原点
(4)達成へのウォーキング  アルピニズム、長距離を踏破する
(5)訓練のウォーキング 歩行のなかで体や根性や団体行動の技能の訓練をするための歩行、
   ワンダーフォーゲルや軍隊などの教練、鍛練など「やらせる側の意図」による歩き
(6)余暇活動としてのウォーキング 暇な時に目的もなくぶらつく歩き、無為という行為を楽しむ、
        夏目漱石の散歩、長井荷風の夜歩き
(7)コミュニケイションのためのウォーキング 友人、恋人、家族がコミュニケイションのために歩く
(8)教育のためのウォーキング   自然学習、社会学習のための歩き
(9)見せるウォーキング   繁華街を見せるために歩く
(10)健康のためのウォーキング  フィットネスウォーキング
 −−
 20年近く近くの土手をウオーキングをしてきたが、散歩をしている人が少ないのが不思議である。
生活に取り入れている人は5㌫にも満たないようだ。 初めは腰痛対策と運動のため歩いていたが、現在では
「歩くために歩く」に、目的が変化してしまった。この本を読むかぎり、英国は生活天国の国のようだ。 -,_っ-)ゥンゥン
ーー
山と渓谷社    市村 操一【著】      =☆(((((((((・ω・。)バイバイ!
・・・・・・・              
 2005年02月22日(火)
1421, 西武鉄道前社長の自殺と、カリスマ失墜
  何回か堤義明について批判的な文章を書いてきた。
・プリンスホテル内で御付が、待っている宿泊客を制して、堤をエレベーターにのせた
・突然ヘリコプターでホテルに乗り付けて、査察をした
  (字数の関係でカット09年02月22日)
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2004年02月22日(日)
1054, 職業性格形成論−3
 ー「営業屋性格論」が解りやすく、面白いから取り上げてみる。
仕事柄、営業の人と接することが多い。営業にも色いろな種類があるので一括りには出来ないが、彼等には大きな特徴を見える。
「褒めること」と「世間情報の内幕情報屋」を武器にする。遵って、その人の人柄が出てしまうのだ。一つ間違えば信頼を失い
「汚い子狐」として軽蔑の対象になる。その為には、自分の良い部分を相手に示し、信頼させるがポイントになる。
営業といえば、外商や代理店や飲食業や店のママなど挙げればキリがない。姉から聞いた話だが、欧州旅行のツアー仲間の
リタイアをしたばかりの人の成功話が印象に残っている。「営業活動で、キーマンが名古屋コーチンの鶏肉が大好物という話を聞いて、
雛を買ってきて、最良の餌と水を与えて育て上げ、潰して、その肉をお歳暮として持っていき続けた」という。
ここまですれば誰でも心が動くだろう。逆に、その位しなくてはプロとしての営業にはなれない。昔は金持ちや偉い人には
「太鼓もち」や「芸者」が、お世辞や芸のサービスを売っていた。現代では、クラブのママやホステスやバーテンなどが代わって、
その役割をするようになった。現代芸者・太鼓持ちというところか。営業活動で、職務としてキーマンに「どっこいしょ」と持ち上げ、
心の隙を見つけて営業をスムースにするスキルを求められる。人好きの人でないと勤まらないだろう。必死になれば人好きになるだろうが。
営業は自社の商品を売るのが目的であり、その良さをアピールするのが仕事になる。そのために、相手の気持を開かなくては
ならない。その際たるものは保険屋の営業であろう。第一保険の日本ナンバーワンの手記を読んだことがある。
トップセールスに相手を絞って、徹底的にお客のサイドに立った保険のシステムを組んでやるという。
そのために顧客大部分が、顧客の知人の紹介でのネットされたものだという。セールスの機能を保険会社の代行ではなく、
顧客の代行と切り替えたのである。昔から営業のやり手は仕事が終わった後のアフターファイブから仕事をする。
また自分の休みの土曜日を遊びを兼ねた営業をかける。仕掛けを自分の知恵をつかってフリーの時間外につくっているケースが多い。
へドロといわれる人がいる。時間内しか仕事をできない人である。公務員系の子息を一般の会社に入れると、本人だけでなく
周囲に??をもたらす。別に本人責任でないから問題は深くなる。父から聞いた話だが、戦前に骨董屋をしていた時、
地元の大手の社長へのトップセールスを思いついたという。女好きという話を聞いて母に電話をさせたところ直接出てくれたという。
そして骨董商をしているが会ってくれと言ったところすんなり会ってくれたという。もちろん父がいったそうだが。
やはり知恵をつかっての営業ということだろう。その後、その人のキッカケで多くの大手のトップを
紹介してもらったという。何事も必死になれば道が開かれるということか。そこから性格が磨かれるのだろう。
セールスは品性が基本になくてはならない。品性は普段の生活の中から築くものだ。家系もあるが?耳が痛い?!
・・・・・・
2003年02月22日(土)
689, 人生の「かたち」
  ーいやなことはやらない!
 51歳になった年に、母を見送り(88歳で死亡)、下の子供が大学に入学。
事業では新潟駅前で500室の客室数の完成で、人生の丁度目安がついた年ー人生の分岐点の年であった。
その時に、「好きな事をやり、厭なことは可能な限りやらない」という方針をたてた。
ところが同じような記事が産経新聞に出ていた。哲学者の中島義道氏の文章で 
 ー私流人生の「かたち」ーの{「厭なこと」はなるべくしない}であった。
 きしくも、私と同じ歳で、やはり6年前に決心したというから不思議なものだ。
ー私よりずっと徹した内容で、人生を半分降りようと決意したという。
・社会的成熟を拒否し、世間体を投げ捨て、どんなに嫌われようと、排除されようと、いやなことはなるべくしない
・親戚とか友人の冠婚葬祭は一切省く、大学の校務はギリギリ最低限のことしかしない。
 −5年前と2年前に亡くなった両親の法事にも一切参加しなかった。
・自分の実感から離れる社会的慣用句(「世間語」)を語る事を完全にやめる。
 −感謝してない時は「ありがとう」といわない、心のそこからそう思わない時は「おめでとう」と言わない。
・あまった膨大の時間、18歳の少年のように「生きるとはどういうことなのかな〜。
 まもなく死んでいくとはどういうことなのかな〜」とか考えている。
・楽しいかといえば、全然楽しくはない。むしろすざましく不幸である。しかし、自分の人生のカタチと諦めている。
  (字数の関係でカット2011年02月22日)  
・・・・・・・・
2002年02月22日(金)
339,笑う人 
ベトナムに行った時に出会ったバスのドライバーという人。旅行の最中、ほとんど笑いっぱなしであった。
あるいは人を笑わせていた。お笑いの芸人も2種類いるという。普段の生活の中で「全く笑わない人と、笑いっぱなしの人」と。
その人に「如何してそんなにわらえるのか?」聞いた。「母親が何時も笑っている人で、その影響だ」という。
職業が「観光バスのドライバー」というから、それに磨きがかかったのだろう。ハワイに初めて行った時のバスのドライバーが
ポパイにそっくりな顔」をしていた。そして初めから最後まで運転しながら、ニコニコ鼻声で歌っていた。
こんな陽気な笑いは、かって見たことが無くハワイにピッタリであった。あそこまでは無理としても、訓練すれば半分は可能な筈だ。
土壌と、また特に母親の影響が大きいのだろう。子供は何らかの形で両親の分身なのだ。会社に毎年新人が何名か入ってくる。
研修を終えて恒例の歓迎会が毎年楽しみである。若い女性が研修から解放され、「純粋な笑いの渦」にその会がなるからだ。
知人の数名もそれを知っていて、招待されるのを待っている。ちょうどこんな感じである。 ー(^<^)!(^^)!(^'^)(^^♪(~o~)(^・


3619, 忘却の整理学 −4

2011年02月21日(月)

                  「 忘却の整理学 」外山滋比著
   * 忘却はゴミ出しに似ている
 忘却は、ゴミ出しに似ている。この情報化の時代に必要としない情報は、どんどん捨てた方がよい。
そのままに放置しておくと神経に良くない。「忘却不全症」は、大変なことになる。
アメリカに過去の記憶を殆ど憶えている女性がいるという。何歳の頃の日付をいうと、殆ど思い出す。
これは本人にとって非常に苦痛である。 自分のことを考えただけで、ゾッとする。忘れるから生きていられる。
忘却は不純、不要、よけいなことを洗い落として、昇華、純化させる作用がある。
 フロイトは「人間には、嫌なことを忘れさせ、良かったことを憶えている癖がある」といっている。
海外旅行中は普段の数倍の質量の経験をする。良いこと三分の二、嫌なこと三分の一の思いをする。
そこで嫌な思いを意識的に捨てることにしている。 帰路の飛行機や列車で、連れ合いと良いことだけを少しオーバーに話し、
マイナーの話は絶対にしない。それを復習すれば記憶に残ることを経験上、知っているから記憶の調整をしてしまう。
その記憶のコントロールは非常に重要になる。人生でも、これが出来るかどうか。人の悪口・陰口を趣味にしている人を見かける。
他者批判は自分の影を言っている過ぎないことを知らないのだ。そのゴミが記憶に溜まって悪臭を放っている自分のことを。
その辺に教養が出てくる。忘却のノウハウも教養ということになる。 
ところで痴呆症の現象では、明るいヘラヘラした人の方が多い。何割かは、怒りの比重の大きい人がいる。
性格もあるが、脳は最期は苦痛を与えないように出来ているようだ。ボケたが勝ちか! 天然ボケもいるが。
 若かりし頃に、脳が加熱をしすぎて変になりかけた時、加熱で浮き上がってきた思いを、ノートに書き出し、
乗りこえたことがあった。これもゴミ出しの一つか。比較的、文章を抵抗なく書けるのも、こういう経験がある。
 書く行為も、ゴミ出し? かいな。 自分では宝のつもりだが・・
 ・・・・・・・
3254, 大恐慌 入門  −2
2010年02月21日(日)
 ここで考えさせられる一文がある。P241)
< 古今東西、99%までの人が最終的に投資では儲かりません。1〜2年、仮に10年間儲けたにせよ予期せぬ
 変動やトレンドの変化に対応できず、全て吐き出すのです。 
*1980代には生保をはじめとする金融機関は大量の米国債を保有していたものの、急激な円高で損失を出した。
*1990年から始ったバブル崩壊では、大手銀行が持ち合いの株の大幅評価損で業績悪化もあいまって、
 公的資金の導入を余儀なくされた。2003年までの株式の暴落で年金基金の存続が危ぶまれ、数多くの年金が解散、
 やはり国民の財産だった株式を売却をした。これらは、外国人投資家が買い捲った。
  【投資で儲けることができないのは、投資家が大きなトレンドの変化に対応できないということ】です。
 投資の世界では、トレンドが一方向、特に上げの時は比較的簡単なのです。 日本の1945年から1990年までの日本、
 または2003年から2008年までの世界の株式市場などです。 基本的に買って持っていればよいのです。
 株式などの投資だけでなく、事業など殆んどの投資家も基本的に同じで、トレンドの変化に対応できないで
 損切りが出来ないで、そうこうしているうちに、身動きが出来なくなり損失が拡大する。 >
< 多くの人が巨大な損失を被っている時、何に賭けたらよいか? 簡単です。【円高】にかければよいのです。
 1ドル50円の円高とよくいうが、95円に戻った時です。>
  〜〜
 金取引のベテランだった金に関するプロの評論家が「8勝7敗ならプロの世界では賞賛に値し、超一流。
7勝8敗との一勝の差は、損切りができるかどうか。プロの仲間は自分の収入は金の積み立てを長年している。」という。 
殆どの人は、その渦中に入ると潮流の変化が見えなくなる。 事業30年説がある。10年で儲けて、20年で食い潰す。
 全ての事業を平均すれば大よそ、そんなものか! 現在の飲食店は2−3年で投資回収の目安が常識。あと5年で利益を
捻り出せるかどうか、「へ」の字とは、よくいったものである。
・・・・・・・・・
2879, アメリカの住宅金融の惨状とは
 2009年02月21日(土)
 ーサブプライム金融恐慌の構造と意義ー 伊藤 誠 −1(現代思想ー金融恐慌特集)
これまで金融恐慌系の本を20冊近く読んだが、実際の数字をみることがなかった。ところが先日読んだ本の中に、
非常に分かりやすくあった。この数字からみても、アメリカ崩壊という言葉は、決してオーバーではない。
  ーその内容とは、
・住宅金融は2002年から2006年までの景気回復と住宅ブームを圧倒的にリードする役割りを果たした。
 この時期の米国経済の四割は住宅市場に依存するもので、結果として住宅金融の残高は2006年には13兆ドル
 (ドルを当時、120円とすると15000兆円)になり、当時の米国GDPと同額になっていた。
 このうちサブプライム・ローンが13パーセントを占めていた。
・サブプライム・ローンの一戸当たりが20万ドルとされており、850万世帯(一家が三人として)2500万人が
 このローンを背負っていたことになる。住宅ローンが13兆ドルとして、平均40万ドルとすると何と3250万世帯、
 三人家族とすれば人口の三分の一が、この時期に住宅ローンによって住宅を得たことになる。−日本のバブル直後の
 住宅ローンの残高が140兆円というから、約十倍になる。それだけでも米国のサブプライム・ローンの方が大きいことになる。
 人口は2・5倍だから、一世帯あたりとすると日本の4倍の大きさで、いかに莫大で深刻かがわかる。
・10年間で米国の住宅価格が2倍当たりになっていたというから、半減することになれば、米国人の三分の一が
 深刻な経済状況に陥るのは明白である。特に値上がりを前提で買っていたサブプライム層にとって深刻である。
・昨年の6月に米国の住宅ローンの8・8パーセント、480万世帯が返済未納か、差し押さえになり人口規模では
 千五百万人近くが、住居を失う脅威に曝されている。
  一昨日にオバマが米国住宅市場の再生策を発表したが、そう簡単に解決できるレベルではない。
 7兆円の900万世帯を対象にする再生策だが、一世帯当たり単純にわっても80万弱でしかない。
 自動車と住宅は、向う5年分の先取りしているというから、最低でも景気回復に5^6年はかかることになる。
 あの「金持ち父さん」が10年近く前に、本屋に平積みしてあったが、
 アメリカでは、この本に従った多くの人が、「貧乏人父さん」になっていったのである。 実をいうと私も読んだが・・・
・・・・・・・・・・
2008年02月21日(木)
 2514, 賢人の知恵 −              +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゜・:*☆
 ーまずは、この本の「はじめに」をコピーしてみる。
著者のバルタザール・グラシアンは、17世紀のスペインで活躍した著述家であり。イエズス会の修道士です。
神学者アルトゥール・ショーペンハウエルはグラシアンの著作のドイツ語訳を手がけ、日本では森鴎外が部分的な
日本語訳を発表しました。哲学者フリードリッヒ・ニーチェは「ヨーロッパはいまだかつて、これほど精妙にして
複雑な人生の道徳律を生んだことはなかった」と記して、またショーペンハウエルも「人生のよき手引書である」
という言葉を残しています。そして現代においても、高名なテノール歌手であるルチアーノ・パバロッティが
愛読書としてグラシアンの書を挙げているなど、欧米では今もマキヤベリ『君主論』と並ぶ不朽の名著として
読み継がれているそうです。 聖職者の書いた人生訓、というと、皆さんは生真面目で禁欲的、理想的な内容を
想像されるかもしれません。しかし全くそんなことはありません。むしろグラシアンが主張し続けたのは、冷静な視点で現実を見つめ、
思慮分別と洞察力をもって柔軟に物事に向き合うことです。その背景には当時のスペインの不安定な政情や社会に対する思いも
あったのでしょう。ともあれ彼の教えは、400年の時を超えて、私たちに自分を高めることの大切さを与えてくれる。
インターネットやテレビによる情報が氾らんし、世の中が恐ろしいほどの速さで移り変わっている現代において、
自分を見失わずに成功を手にするためにはどうすればいいのか? そのヒントがたっぷり詰まっているのが本書です。
ぜひあなたの傍らに置いて、ご活用いただければ幸いです。
 −−
この本のカバーに、バルタザール・グラシアン氏の経歴がある。
   (字数制限のためカット 2011年 2月21日)
・・・・・・・・・・
2007年02月21日(水)
2150, スピリチュアル・ブームを考える −1    才八∋ウ_〆(∀`●)
 毎日新聞の2月19日の「論点」に「スピリチュアル・ブームを考える」をテーマに島田裕己、溝口敦、香山リカの三人の
ジャーナリストが、それぞれの視点で鋭く、そのブームについて分析をしていた。 なるほど非常に面白い内容であった。
 現在の日本は、一部の強者以外は全体として行き詰まりの様相を呈している。その中で人間は内側にエネルギーをもとめてしまう。
「霊的エネルギーへの欲求が社会に満ちている」といってよいだろう。心の中に何かが起きているのだろうか? 私自身も父の死を
キッカケに十数年間も霊感がついた。何をもって霊感というと難しいが、とにかく変な感覚がついてしまった。最近は無くなったが、
あれだけは実際に「その感覚」がつかないとわからない。 だから、興味を持っている人以外に話さないことにしていた。
生来の盲目の人に、視覚の話をしても理解できないのと同じである。といって極端なスピリチュアル・ブームもおかしなものだ。
細木数子の批判文の中でも書いたが、物語を人は求めているのである。それを安直にイメージ化できるのが、霊とかいうヤツだ。
まあ、この三人の切口から、その本質を考えてみよう!  ー島田裕己ーの分析から考えてみよう。
 まず要約すると、
「バブル以降、霊観念の個人化が進展、カウンセラー型の霊能者がはやる」ということだ。今日現在のブームは伝統的な霊観念の衰退、
希薄化ということと関係している。前は宜保愛子の先祖の霊が適切に祀られていないと、その祟りで病や不幸がもたらされると考えられ、
それを取り除くには先祖の霊を正しく供養しなければならないと説かれた。 ところが、核家族化が進行して、家の解体が指摘される今、
家の比重が低くなり、先祖の霊の祟りはリアリティーが無くなってしまった。多くの人は家のしがらみに苦しんではいない。
少子化で、家の存続も危なくなっている。そこで今は「個人化」の傾向が強くなり、家の影響は小さくなり、対象が家の霊ではなく、
個人になっている。それは、個人の前世の霊ーすなわち生まれかわりの霊ーに変化したのである。
もし出てきたとしても、それは祖父母など近しい存在に限られるのである。
 解)まあ、これから考えてみると、これだけいい加減なことはない! 霊など心の迷いの時に頼る無知な人間の玩具やマジナイと同じ。
  彼はそういいたいのだろう。父が「墓は本家より大きなものにしてはならない!」と言っていたが、
  それも明治生まれの[家]制度を背景に持った論でしかなかった。家そのものより、個人化の方が重んじられる現在、
  あの父の言葉は何だったのか?墓は「家の抽象的な心のカタチ」だったのか?人は、心の何処かにそれが必要なのか?
  だから レジャーを兼ねた盆帰りをしてお墓に参るのだろう。         バイ  (σД≦)ネムゥ〜
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2006年02月21日(火)
 1785, 閑話小題 
  ースーパーツチダの倒産ー
地元のスーパーマーケットのスーパーツチダが破産・倒産をした。前の社長が高校の同級生で三年前に癌で亡くなってしまった。
10年以上前から、会社がギリギリということは本人から聞いていた。逆によく三年も持ったということだ。地元ナンバーワンの
スーパー原信に圧倒的な商品力の差があった。そのため最近では殆んど店には行かなくなっていた。ダイエーが昨秋、長岡店を
閉鎖した後に今度はツチダの閉店でマスマス町が寂しくなる。長岡のスーパーは原信の一人勝ちの様相になってきた。
新潟を本拠に置くスーパーウオロクも、原信との闘いで体力を消耗、虫の息という噂を聞く。流通は厳しい時代になってきている。
最近は、誰も他人事ではない。今度は何処?という感覚が恐ろしい!
 ー勇気とは何か ー
 勇気とは怖れを感じないことではなく、恐れることより重要な問題を感じ取ることである。恐れの90㌫が思い過ごしというが、
恐れから眼をそむけるのではなく、その中心を凝視することで恐れを克服していく姿勢である。
むしろ恐れが問題の中心点にエネルギーを集めることになる。そしてエネルギーを集中することによって、問題に立ち向かう
ことである。積極とは、極めを積み重ねることである。極めはリスクを伴う。そのリスクの上でこそ問題の重要性がみえてくる。
「正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向ける」というが、勇気は正しい目標を持ってこそ、その意味が出てくる。
こういう時代、変化を恐れていても仕方がない。背後の問題を把握して一つずつ解決していくしかない。
背後の問題とは ・情報化社会の到来 ・グローバル化(旧共産圏の自由市場への参入)
          ・日本という国家の極度の疲弊化である。 特に情報化が根こそぎ社会を揺り動かしいる。
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2005年02月21日(月)
 1420, FIFAオールスター・サッカー
昨日、スマトラ沖地震のチャリティーの「世界選抜」と「欧州選抜」とのサッカーの試合を見た。
世界の超一流選手だけが参加しているのだから面白くないわけがない。個々人の世界最高の技が次から次へと出てくる。
その上、世界の才能が団結をして闘った内容でもあった。それぞれの選手の技にお互いに驚いているのが解った。
パスにしても、シュートにしても一流の技は芸と言ってよい。次から次への攻防が全てに無駄がない。勝負を競うより、
一人一人の技術のオンパレード。それも、漫画本に出てくるような技が面白いようにでてくる。お互いの技が、それぞれの技を
次から次へと引き出してくるのもよい。試合内容は、終始「世界選抜」が攻勢をして6対3で買った。
90分が、これだけ短く感じたのは新鮮で感動した内容のためだろう。これだけ熱狂というより、次から次へと感動した
サッカーの試合は忘れることがないだろう。世界150カ国に放送されていていたというから、10億人以上が見ていただろう。
日本人では中田選手が出ていた。解説のセルジオが、終始「凄いですね!凄いですね!」と繰り返していたが、それだけの、
中味の濃い90分であった。サッカーといえば、緊迫した点の取り合いが特徴だが、勝負より個々人の技術を楽しむというのも良い。
何ごともそうだが、楽しむネタは幾らでもあるものだ。
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2004年02月21日(土)
 1053, 判断と決断の狭間
人生振り返ってみると、判断と決断の間に大きな溝があった。この溝で救われたこともあった反面、大きなチャンスを
失ったことも多い。「判断」とは、正しいか、正しくないかという物差しで計るものであり、「決断」とは、強いか、
弱いか、早いか遅いかによるものによる。そこで心すべきは決断の仕方である。状況をいくら分析しても、それが意思決定に
つながらなければ無意味になる。といって、そこには責任が伴うから、その狭間を冷静にみる視点が必要になる。
判断をしたら、あたかも決断したような錯覚に陥り問題を先送りしてしまいがちになる。判断は人間の首から上の作業によるものだが、
決断は人間の知・情・意のすべてに深くかかわり合う、つまり全身全霊を駆使して決めるということである。
そして判断の優先順位と決断が直前におこなわれる。そこに人生観や価値観の問題がでてくる。そして、その曖昧さが溝になる。
人生は、その溝の中で泳ぐ魚のようでもある。だからこそ面白いのだ。分裂症という鮫もいるが。
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2003年02月21日(金)
 688, ストレス
先日亡くなった同級生の偲ぶ会で、彼の死因について話しが出た。直接原因は癌であったが遠因がストレスだろうと意見が一致した。
その場の全員が人生で一番厳しい一里塚にさしかかっているから解るのだ。その場でAが「堀井お前ストレスなど無いだろう!」 
わたし「ゼロ!」。Bが「堀井、お前は与える方だ!」爆笑であった!ところで彼らは「ストレスの解消法をあまり解ってない?」
と思えた。ストレスの潰し方は、他のストレスで潰すのが一番本能的な簡単な方法だ。
しかし、それは更なるストレスの蓄積をしているに過ぎない。わたしの経験からいうと、「独りになりきるしかない!」 
それが全く解ってない、号泣せざるを得ない立場になって初めて気がつく! それでも気がつかないだろう。
ストレスだけは、気をつけないと。いつの間にか溜め込んでいるのに気がつかない人が多い。
群れるしか能がないから、ストレスの雪だるまになる。「人間は孤独の存在!」である、
また「群れていなくては生きられない存在!」でもある。この二律背反を使い分ける事が必要である。
私の場合はお経とか、ウオーキング、旅行、読書、映画で発散する。それとイヤな事は繰りかえして考えないようにしている。
この随想日記もストレスにもなるし、反面ストレス解消にもなる。ここで一句 「バカいうな やることだけは やっている」
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2002年02月21日(木)
 338,「世界がもし100人の村だったら」
この本が最近話題になり、インターネットで早速買ってみた。本屋で立ち読みをしたら、買わなかったと思う。ほとんどが
「TVで放映されている内容」でしかなかった。昨日、印象に残ったものを「サロンのコーナー」に、デジタル写真で撮り、
貼り付けた。もっと色々な内容があるはずだ、そう思って買った。すぐ考えたのは、「日本がもし100人の村だったら」
が書けるのではないか、という事であった。日本人は2番煎じはうまいのだが。ただ「テーマ」がよい!
ーいや問いかけといった方がいいか。今まで難しいと意識しなかった問題が見えてくる。テーマの決め方で、
問題を深く捉えることが可能になる。「国家予算」も「県の予算」も「100人の村だったら」の喩えでもして解説をして
くれたら、一般の人も関心を持つ。ある人の文章が巧くなった。何故だろうと考えたら、いつの間にかテーマをつけていた。
テーマは円でいう中心点である、芯ができた為だろう。テーマ日記を書き続けて、少し自分の頭がよくなったようだが?
テーマを考えるのと、その内容の構成をするからだ。また書きながら、違う視点にも気づくからである。
100という数字が分かりやすいのと、村の住民という喩えがよかった。
山下清が何か考える時「兵隊の位でいうと,どのくらい?」と問いかけるのと似ている 


3618,  忘却の整理学 ー3

2011年02月20日(日)

   「 忘却の整理学 」外山滋比著
 ここで、著者は早朝に目をつける。どうも、夜の間に忘却が起こることはたしかであると。
忘却が頭を働かせやすく、きれいに整理をしてくれるとすると、一夜明けた朝がモノゴトを考えるに適しているのは当然である。
昔から、それに気づいていた人は少なくなかった。イギリスの詩人のウィリアム・ブレイクに次のようなを紹介してある。
   朝、考える   ひるは はたらき   夕がた 食し   夜は 眠れ
 まず 朝いちばんに思考せよ である。 他の仕事は、そのあとでよい。
昔、中国の役所は、朝、日が昇ると同時に開始されたという。それで、「朝」廷で、効率的であることを知っていたのである。
 日本の諺に、簡単の仕事を「朝飯前の仕事」というのがある。 本来は朝飯前に手がければ、簡単な仕事でなくても、
頭は整理されていて、仕事の判断、手順がたしかで処理が早くなるということから来ている。
もう一つ、思考に向いているのは夕食前である。その時間は早朝と同じで、働いた後で、空腹も加えて脳が活性化している。
更に勧めているのが昼休みの短時間の昼寝。 そこに僅かな時間でも睡眠をとることで、忘却の要素を入れることになる。
 最近、再開をした「モーニング・ペイジ」がある。 白紙の大学ノートに30分位、思いのままを書き付ける。
早朝だから、自然に出てくる言葉は、外部情報に染まってないサラの内部?から声を掬い取ることになる。
ところで以前に、過去の全てを忘却した男の映画をみたことがある。その時に過去の記憶こそ、人間形成をしていると思い知った。
ということは記憶と忘却の形が、その人物形成をしていることになる。忘却の、いま一つの方法は、より刺激の強い経験を
挟むことだ。忘れようとしても忘れられないなら、より刺激の強い何かを探し、そこに気持ちを切り替えることだ。
それは前向きということになる。後ろを向いて記憶を強化ばかりしてないで、目先を変えることが忘却の一番の方法である。
                                              ーつづく
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3253, 置き引き?
 2010年02月20日(土)
一昨日、新潟の万代シティの近くのマクドナルドで海老バーガーを食べて、最後にポテトフライをつまんでいた。
半分ほど食べたところ腹は一杯。 持って帰るか、食べて帰ろうかと。 で、そこからである。60歳後半の暗い顔をした男が
やってきて、私が一番奥に座っている隣席をみて、そのまま店頭にある売店の方に戻っていった。 
自分の席でも確認して注文した商品を取りにいったと、ポテトフライを摘みながら思っていた。 
ところが女性の一人客がきてバックを置いて店頭のほうに戻っていった。その直後に男が戻ってきて、その席をジッと見ている。 
自分の座ろうとしていた席を取られて他の席を探しているのだろうと思っていた。 ところが、もう一人の女性客が目前の席に
バックを置いて店頭に行った。その男、再び戻ってきて、後に来た客のバックを見ている。その時は、その男、自分で座ろう
としていた席を二度まで取られて、それを見ていたのだろうと思っていた。しかし私の一つ置いた席の女性が何か不審そうな感じで、
その男を見ている。 私もホームレスが、食べ残しを探しているのではと思い始めていた。
 ところが入り口近くの台から、チッシュを数枚持ってきて、二人の席の間の机を拭き出した。 その辺から、この男は変だと
じっと見つめた。 バックの置いてある二つのバックを窺っている。 隣の女性も私と同じようにジッと見ていた。 
そのためか結局、何も取らずに出て行った・・・明らかに置き引き。 バックを置いた女性は財布は持っていっているから
大丈夫と思ったのだろう。 少したってから席をたって販売カウンターを見たら、本人は居なかった。ビデオは付いているだろうが。
 バックを窺っていたが、ジッと見ていた二人が居たので何も取らずに出て行ったということ。本の万引きの現場は見たが、
こういうのは初めて。ハンバーガーを食べ終わって店内をボッと見ていたから、気づいたこと。 
外国で日本人が平気で席に荷物を置いて、他に行く。 置き引きは外国では日常茶飯事。 
・・・・・・・
2878, 閑話小題
 2009年02月20日(金)
  *大型店の出店の目玉商品を検証してみた
 新潟駅構内に「ビッグカメラ」が今日オープンする。昨日はプレオープンというので昼休みに行ってみたが、
県内最大規模の一万?というだけあって広い。三層の店舗になっており、四階から八階までが駐車場で駐車台数が
800というから本格的である。新幹線、在来線、バスのターミナルが集結しているので駅中ショッピングセンターとしては、
これ以上ない場所である。至近距離に大型書店があるので、既存の専門店を含めると大ショッピングセンターになる。。
これで駅中の100メートルほどにある「ヨドバシカメラ」が、最終的には撤退をせざるを得なくなるかどうかだ?
これに大型のファッションのH&Mとユニクロでも出て来れば更に面白くなる。配っていたチラシの毎日の超目玉商品の中から、
「コンパクト・デジタルカメラ」を選んで、価格ドット・コムで7〜8点調べてみた。しかし半分は同じ位、半分は、
その7割の値段であった。バイヤーも調べての値段設定だろうが。イメージとして安いのを優先しているようだ。
2GBのSDカードを特価台で囃してしたが、780円など廉くも何でもない。PCデポでは三枚で980円。
新聞の4面の大きさのチラシに9日分の日替わり特価品を出していたが、買うほうからしたら何処かに欲しい商品があるだろうから、
見ていて面白い。店舗と同じである。この大恐慌?の中、家電の売り上げが激減しているというから、経営のサイドも大変だろう。
  *県民所得差 
 先週になるが県民所得の2006年度が発表された。(以前も少し書いたが) 
 この数年は、それほど変わってないが今年度は様変わりするだろうが・・・
 1〜7位までは前年と変わらず。    東京が480万でとトップ。
 沖縄が209万で最下位。       丁度中間の23位が福島で278万。
 新潟県が273万で25位。      全国の平均が307万円。
 トップ10は、関東と東海ベルト地帯の愛知、静岡、神奈川や、他に大阪、広島などである。
 下位では九州、四国、東北、北海道などが目に付く。地元新潟で住んでいる実感として、東京の6割というのは肯けるが、
 物価や住居などの安さを含めると、8割の生活レベルだろう。全国平均と、ほぼ同じというのは分かるが、新潟市は中の上、
 長岡市は中の下という感覚。 地方は、あまり格差がら露出されてないので気持ちは穏やかになれる。田中角栄が健在のころは、
 新潟県は日本でも有数の豊かさを実感していた。当時の長岡市の公共投資と山形県が同じというから、いかに政治の力が大きいか。
 ・・・・・・・・
2008年02月20日(水)
2513, 思い込み
 *緊張と深呼吸
この歳になって、思いもよらない思い込みや、間違いに気づくことがある。
先日のTVで「受験の際、緊張しない方法」について、オヤッと思わず考え込んだことがあった。
「受験場では、深呼吸をしないこと! ほとんどの人は逆と思い違いをしている。深呼吸はすればするほど、
緊張度が高まります。なるべく深呼吸をしないように、小さく息をするように心かけて下さい」という。
こんなことを聞いたのは始めてである。私の場合は、緊張する場面は、人知れず深呼吸をしていた。
心を落ちつける要点は、深呼吸であるのは自明のことである。しかし、それが過ぎると緊張を柔らげるところか、
逆の効果になるという。改めて振り返ると、多々、思い当たることがある。その人により、緊張する場面が違っても、
それぞれ極度に緊張する場面があるという。色々の人を見てきたが、驚くほど多様である。その時の体調によったり、
温度差の大きい部屋に入ったり、食後など、自律神経などの狂いにより、何でもないことに赤面したり、極度の緊張でパニックに
なったりすることは多くありすぎて、書ききれないほど。そして誰もが自分だけではないか?と、それぞれが思い込んでいる。
自分は、緊張症だ、赤面症だ、精神質症だ、・・それぞれが思っていることを知らないのである。そんなことを言っていたら、
生きていけないから乗り越えているだけである。それはよいとして深呼吸が緊張を高めるとは、この歳になるまで気づかなかった。
「リラックスするには、深呼吸をしなさい。ただ、一度だけにしておきなさいよ。し過ぎると、逆に過呼吸になり緊張は高くなり
逆効果になりますよ。 呼吸は、小さく整えて気持ちを息に持っていきなさい」ということ。
・・・・・・・・・・
2007年02月20日(火)
2149, へべれけに酔っ払いてえなあ。
       v(=゚ω゚)ノおはょぅ   −読書日記
この文章を読み終わったとき、その衝撃で暫く茫然としていた。短い文章の中に労働者の生活と哀歓が
よく表現されている。内側にしか破壊衝動を向けざるを得ない者たちの深い哀しみと諦観をみごとに語っている。
この諦観は中年期の男の誰もが何度も味あう屈折した心情でもある。「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、
皆な私が悪いのよ!」でなく、「お酒が悪いのよ!」と、オダをあげなくては生きていけないのが人生。
知人が先日亡くなったが、連れ合いが父親の葬式の晩に自死したという。へべれけに酔っ払っても、何もかも壊しても、
その傷は癒えるわけがない。食道ガンだったというから、毎晩飲みつづけるしかなかったのだろう。                           
【人生のことは、小説が教えてくれた】より −2
  葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」高橋敏夫 中経出版
 松戸与三は恵那山の麓で発電所の建築現場で働いていた。一日中顔をセメント粉にまみれながら樽から
コンクリートミキサーに移す仕事に就いていた。仕事にヘトヘトになつた頃、樽の中から小さな箱が出てきた。
しかし、作業は彼にはこの中身を確かめる時間を許さなかった。彼は腹掛けの丼(ポケット)にほうりこんだ。
「軽いところを見ると、金も入ってねえようだ」ミキサーがからになり、終業時間になった。「なんでセメント樽から
木の箱が!?」思わせぶりに頑丈に釘付けしてあった。石にぶつけ何度も踏みつけた小箱のなかからボロに包んだ
紙切れが出て来た。 それにはこんなことが書かれてあった。
ーーー
私はNセメント会社の、セメント袋を縫う女工です。私の恋人は破砕器へ石を入れる事を仕事にしていました。
そして十月の七日の朝、大きな石といっしょにクラッシャーの中にはまりました。そして石と恋人のからだは砕け合って、
赤い細かい石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒へはいってゆきました。そこで鋼鉄の弾丸といっしょになって、
細かくこまかく、激しい音に呪いの声を叫びながら、砕かれました。そうして焼かれて、りっぱにセメントに成りました。
骨も、肉も、魂も、粉ごなになりました。私の恋人の一切はセメントになってしまいました。残ったものはこの仕事着のボロ。
私は恋人を入れる袋を縫っています。私の恋人はセメントになりました。私はその次の日、この手紙を書いてこの樽の中へ
そうっとしまい込みました。あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私をかわいそうだと思って返事を下さい。
この樽の中のセメントはなにに使われたでしょうか、私はそれが知りとうございます。あの人はやさしいいい人でしたわ。
(字数制限のためカット 2011年2月20日)
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2006年02月20日(月)
1784, 「すごい考え方 」           おはよ〜 (ゝc_,・*)♪
先日書いた「夢ノート」を、少し難しく書いてある本に出会った。
「すごい考え方 」ーハワード・ゴールドマン著 である。 この本のキーワードは「未来語」である。
(字数制限のためカット 2010年2月20日)
・・・・・・
2004年02月20日(金)
 1052, アンドロマック
学生時代に見た唯一の演劇である。そして、知人がその演出をした事もあって真剣に見た記憶がある。
内容を殆ど憶えてなかったので、早速インターネットの検索で調べてみた。そして、その時の内容が蘇ってきた。
ギリシャ神話の登場人物が題材となるフランスの古典悲劇で、トロイ戦争の後日談として描かれている。
お互いの片思いからなる4人の登場人物が織り成す愛憎から悲劇が生まれる内容であった。エルミオーヌ役の
女性の熱演が特に光っていた。彼女が全てを失って嘆き悲しむシーンで終わった姿が脳裏に浮かぶ。
 ー 以下は、その劇の内容。
そのギリシャの勇将ピリュスはトロイ戦争により捕虜として連れ帰ったアンドロマックに恋心を抱き、その息子アスティアナクスを
軍の意に叛いて不当に匿っている。その彼の宮殿に、今は亡きギリシャの総大将アガメムノンの息子オレストが訪れる。
表向きは敵将エクトールの遺児をギリシャ方に取り返すための使者としての訪問だが、オレストの心中は愛しいエルミオーヌを
連れ出すことばかり。オレストはピリュスに会い、遺児の引渡しを要求するが、ピリュスはこれを拒絶する。
オレストは再び戦争が起ころうとも、彼の心の中には今やアンドロマックへの愛しかないのだ。しかしアンドロマックは、
亡夫エクトールへの貞節を守り彼の愛を受け付けない。却って婚約者・エルミオーヌの許へ戻るよう、ピリュスを諭すのだった。
一方エルミオーヌは、許婚ピリュスに裏切られた怒りと嫉妬のあまり、彼とアンドロマックの仲を裂こうと謀る。
そして、自分を愛するオレストの心を知りながら、彼を計略に巻き込むのだった。それは、敵国の遺児を匿うピリュスを、
裏切り者としてギリシャ軍に攻略させるというもの。だが遺児をとるか、エルミオーヌをとるか、という選択をせまられたピリュスは、
意思を翻して、遺児を殺し、エルミオーヌを妻にすると告げる。思いもよらない展開にオレストは、エルミオーヌをかどわかしてでも
ギリシャに連れ帰る決心をする。最愛の息子の命が奪われると知ったアンドロマックは、エルミオーヌの許に命を乞いに行く。
彼女は以前、エルミオーヌの母エレーヌの命を助けたことがあるのだ。しかし憎いアンドロマックの言葉を、エルミオーヌは聞き入れる
はずもなかった。息子の命を助けるべくアンドロマックに残された最後の手段は、ピリュスの愛を受け入れることだけ。
侍女に諭されたアンドロマックは、気が進まないながらピリュスにすがる。自分につれないアンドロマックにわざと冷たい仕打ちを
していたピリュスは、これを受け前言を取り消して再び彼女に求婚する。アンドロマックは息子の命を守るため、
自らの命を絶つ決意をして、これを承諾するのだった。二度までもピリュスに裏切られたエルミオーヌは、彼への憎悪に目がくらみ、
オレストをたきつけピリュスを殺す計画を立てる。アンドロマックとピリュスの婚礼の日。オレストはギリシャ軍を率いピリュスを襲う。
そしてこの悲劇には、意外な結末が待っていたのだった。

以上が検索で調べた粗筋だが、チョッとした内容をこのように一瞬で調べられることが不思議である。これが情報化ということ。
作者はジャン・ラシーヌで17世紀の作家である。この一月も演劇が自由劇場で開催されていたようだ。自分の壁をつくらず何事にも
興味を持つことが大事だと、この歳になってきて実感する。バカの壁が頑強に取り囲んでいるのが、自分では見えない。
他人からはよ〜く見えるのだが!そして振り返ってみると。地方は刺激が少ないこともあるが。
 ・・・・
 2003年02月20日(木)
687,サラ川(サラリーマン川柳)
毎年この時期になると、第一生命のサラ川(サラリーマン川柳)が発表になる。 Webで調べコピーしてみた。
  ー朝日新聞Websieー
 第一生命は17日、恒例となっている「サラリーマン川柳コンクール」の入選100編を発表した。
 サッカーW杯やノーベル賞、タマちゃんなど流行や話題性の高テーマを選んだ作品が多かった一方、
 中高年サラリーマンやその家庭の悲哀がにじんだ作品も目立った。「髪型は息子ベッカム、父ジダン」
 「年収はゴジラ松井の一打席」のお父さん。「オヤジギャグうちの主任は冷やし系」「言ったあと、これセクハラか?
 聞く上司」とからかわれ、 家庭では「午前様妻のイビキにホッとする」。「タバコより体に悪い妻のグチ」と嘆き、
「顔だけがブランド品でない女房」と文句も出るようだ。 娘にも 「大そうじ今年も娘がかたづかぬ」とあたるが、
 結局は 「不景気で家族の団欒(だんらん)取り戻す」。
 そんなサラリーマンに、「人生は川の流れとタマがいう」というのも実感がこもっている。
・・・・・
  *歴代第一位の作品
第15回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位   ー デジカメの エサはなんだと 孫に聞く ー浦島太郎
第14回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ードットコム どこが混むのと 聞く上司ー ネット不安
第13回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ープロポーズ あの日に帰って ことわりたい ー恐妻男
第12回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ーコストダウン さけぶあんたが コスト高 四万十川 ー信彦
第11回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位 ー わが家では 子供ポケモン パパノケモン ー万年若様
第10回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  △[早くやれ そう言うことは 早く言えー 新舞い
   (字数の関係でカット09年02月20日)
 ・・・・・・・・
 2002年02月20日(水)
 337,ホームページの為の文章作法−2
随想日記を書き続けてまず考えたことは、負担にならないで、如何に自然体で書きつづけるか?
そしてそのノウハウは
・まず数人の前で話を毎日することを想定した。  ・気取らず、自然体で書く。
・自分の為に書くー書いていて楽しい文にする。  ・話題の底がつきるまで書く、いや尽きた時こそチャンスと考える事にした。
・毎日15~20人の人に読んでもらえるまで、内容を上げる
3週間ぐらい前、定点観測の本屋でコピーライターの書いた「文章上達トレーニング」という本を買った。
「話すように書く」が、自分の方法と同じだったからだ。
・「話し言葉で」下書きするー最も親しい人に話しかけるように書く。
・それを文章化する。 ・更に文章らしくなるように手を入れる、 が要旨である。
文章作法の基本は「起承転結」である。それを「結承転結ぐらいという気楽な感覚で、いいたい事をまず明確に書く。
いい文章とは分かりやすい文章だ。けして美文をいわない。人に話す時は、必ず話している内容は筋は通っているものだ。
そのまま書けばよいというのも肯ける。それが難しいのは、かまえたり飾ろうとするからだ!
「葉書の書き方」の方法論の本の中に「まず結論を初めの2〜3行で書き上げてしまえ!」というのがあった。
その後は、流しでよい。それを先に書いてしまえば後は気も楽になるし、すらすら日常のことが出てくる。
それを実行してから葉書や手紙を気楽に出せるようになった。随想日記も基本はそれである。それとなるべく短文にすること、
ようするにシンプルにする。短文なら誰でも書ける。それを重ねていけばいい。読むほうも、読んでいて読みやすい。
気取らず、自身の言葉で書く。あと書き換えをなるべく多くやる。上達の訓練はそれしかない。
その点でパソコンはいい。いくら書き換えても汚くなることはない。
それと意外なポイントとして、短時間で一気に書き上げることだ。何事も気合だ。それを何回か添削する。
それと書きだめを幾つか書いておく。書きだめと思って書くと気楽に書けるからだ。


3617, 一連のアラブ世界の騒動は

2011年02月19日(土)

 今年に入って早々から始ったネットで触発されたデモで、アラブ諸国が次々と政変に至る事態に陥っている。
これは、当分の間は続くだろうし、事態は思わぬ方に発展していく可能性がある。 ネット社会に移行しつつある現在、
日本では、まだ地位と肩書きが高ければ偉いと思っている人が多い。 しかし情報が優先されるネット世界では、そんなものは
何の価値も持たなってきた。 アラブ諸国のような旧態依然の権力構造国家が、ネット人間によって、当然のごとく軒並みに崩壊過程に
入ってしまった。 年寄り優先、性差別、情実、肩書き故に威張っていた絶対権力者は、若いネット社会人には、無能な漫画的老人として、
ある日、突然、追い落とされてしまう。 それでは、彼らの中の優秀な人材が、急にとって代われるかというと、そうはいかない。 
情報ネットはフラット化で平等社会にする良い動きもある。 が反面、真の実力が求められる競争社会でもある。
情報社会と知識社会とは違う。 情報社会は、情報が優先されるが、それが知識にまで到達してないレベル。
これまで権力構造の上層部しか持てない情報が共有されるから、否が応でも過去人間は早々に淘汰される。 
 ここで知識と情報の違いは何だろうか?という問いがたってくる。 情報は、本やネット、マスコミ媒体、そして人など、
外部から入ってくるもの。 知識は、一度自分の中で消化され血肉になって内側から出てくるもの。 だから情報社会は恐ろしい。 
事実は一瞬で流れるが、真実は伝わりにくい。 しかし、一部に偏っていた情報がフラット化をする作用がある。
日本では、現在アラブで起こった問題は、この10年間、いや20年かけて起きて、権力構造を変えてきた。
その辺が、アラブとの知識構造が違うのだろう。 この毎日の随想日記は、情報の知識への転換プロセスと、書きながら気づいた。
私の触覚が捉えた情報を、起承転結の文章のパッケージ化してしまう。 そして忘却して、翌年から、毎年読み返すことで、
情報から知識への転換をしていたのである。 鈍くても、5年、10年も繰り返して読めば、知識に転換する。 
 努力の割りに蓄積効果が自覚できないのは、基礎教養の土台に問題ありか・・・。 話しがそれた。
もう一つのネット世界が、旧来の現実世界を破壊を開始した一例である。 間違いなく、近い将来に中国でも共産党を
破壊するか、大改革を迫ることになる。 ここで、モバイル携帯や、タブレット式パソコンが爆発的に普及しだしてきた。
 これが更に、ネット世界の力を急激に増すことになる。 その結果は、誰も想像すら出来ない世界に突き進むことになる。
 ・・・・・・・
3252, 大恐慌 入門 −1
 2010年02月19日(金)
* 「大恐慌 入門」朝倉慶著
 一昨年の9.15のリーマンショック以来、多くの恐慌関連の本を読んで事態の大きさに呆然としたが、ここにきて少し
小康状態を保っている。冬季オリンピックが終わる頃から本格的な波が押し寄せてくる。 既に恐慌は起こったのである。
現在は、緊急措置で平静を保っているだけ。そこで数日前から数年前から去年にかけて読んだ金融恐慌関連の本を重ねて読み返している。
当時は読み過ごしてしまった内容にハッとすることしばしば。その一冊の「大恐慌入門」朝倉慶著がある。読んだ時は、
「色いろな学者の論をダイジェスト的に纏めたもの」と気に留めてなかったが、一年後になって読み返すと簡明だからこそ納得する。 
表紙裏に < これまでは「春の散歩道」。これからデバティブ6京円というスーパーバブルが破裂する。 
世界を覆う「百年に一度の津波」にどう備えるか。> とある。9.15から一年半経つが、アメリカの投資銀行は瞬間的にホボ消滅、
GMとクライスラー、シティバンク、日本では日本航空が破綻した。それ以外は、あまり目立った動きはなかったが、
これからCDSの破綻が表面化してくる。これに比べたらサブプライム問題は公園の散歩みたいなもの。一昨年の大晦日に発刊されたが、
著者の予告していた通り世界各国に国家破綻が現実に問題になってきている。アイスランド、ギリシャと深刻な問題が表面化してきた。
・このスーパーバブルの崩壊は誰も止めることが出来ないし、アチコチで火山の噴火のように吹き出るのは時間の問題。
・オバマは、処理など出来ないで、その責任を問われる悲劇の大統領になる。置き土産は、新ドルへのデノミか、大幅なドル安誘導。
・資本主義の崩壊は、これから始まりCDSを抱えた金融機関や、企業の淘汰が表面化する。 CDOは、まだ300兆円だが、
 これから5400兆円のCDSの問題が出てきざるをえない。それを解決するのは、世界各国が現在の貨幣量を果てしなく増加して、
 ハイパーインフレにし、その結果、新たな貨幣への切り替えを世界中が一斉に実施、CDSをチャラにするしか方法は残されてない。
 まず、ハイパーインフレに転じるに、あと一年はかかるから来年から再来年の2012年末辺りに標準を絞っているようだ。
・失業は欧米で9パーセントを超えているが、日本は救済処置で5パーを維持しているが10パーは時間の問題。 
 〜 まあ、そういうこと!  これらを読む限り楽観論は、この数年は考えられない。    〜 つづく                   
・・・・・・・
2877, 自分らしくあれ!
2009年02月19日(木)
 クリントン女史が慌ただしく日本を駆け抜けていった。大学生との対話の中で、ある女子大生の質問 
「女性なのに、どうして、そんなに強くなれるのですか」に、「自分らしくあることよ」と、答えたのが印象的だった。 
 ーそこで「自分らしくある」ことを、哲学的に考えてみる。 まずその「自己」を考えると「他者」の問題にぶつかる。
他者の中の「これ=自分」は時間の経過と同時に発生?する。 さっき向こうから歩いていた「これ」が現在、橋に立っている。
その時に、さっきの「これ」が「自分」になる。生まれて今まで他者の間で生きてきた。その他者との境界線の内側が「私」である。
「自分らしさ」とは、それまでの人生で他者との接点の「あり方」、あるいはその内側の蓄積である。その時点時点で、
何かを追求している在りようが「自分らしさ」である。何かに没頭していて我を忘れている姿に「自分らしさ」が生まれてくる。
初めから「自分らしくあろうと振舞ってはならない」ということである。役者が仮に信長を演じていたとすると、
役者が自分の個性を意識した時、大根役者に陥ってしまう。我を忘れて信長を演じた時に出てくる味が「自分らしい」のである。
クリントン女史は、民主党の大統領候補、クリントン元大統領夫人、弁護士、上院議員等々の顔がある。その役をこなしている
プロセスで出来上がった個性が「自分らしい」ということである。彼女の場合、どの役をこなしていても、肩書きより
クリントン女史そのものが前面に出ている。これこそ、名優の証拠である。言葉づらだけを捉えると「自分らしさ」を、
多くの人は誤解する可能性がある。自分らしくとは、取り組んでいる役割りや、目標、そして遊びに自分を忘れること。
小林秀雄の「無私の精神」に達することこそ、「自分らしく」なることである。
「何ごとも、魂をこめてすること」で、自分らしさが生まれ出てくる。
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2008年02月19日(火)
 2512, iPod nanoを買ってみた!   おっはぁ〜。:.+.:*w(′┏▽┓`●)w
先日、長男が帰省のおりに、ソニーのウォークマンを見せてもらってビックリした。
そこでiMacのパソコンを導入したので、iPodを買ってみようと思い立った。
iPodの機種にはtouch、classic,nano,syaffleがあるが、その中で何を選定するか、
迷った末に、一番小型のnanoに決めた。アマゾンから注文したが、2時間ほど夢中になって時間を忘れるほどであった。
選定の最後の決め手は小ささであった。直ぐに分かったことはタッチとプッシュで簡単に操作でき、何よりシンプルなのが良い。
Macのパソコン同様に、売り場を何気なく遠くからみるだけで、難しそうで近づきがたかった。
どのように数千曲もの音楽を、小さな器械に入力できるのかが、まず不思議であったが、iMacを入れたおかげで、
CDを差し込むだけで入力できることが分かった。まずはミュージック、そしてライブラリーと開いて、iPodとコードを
つなぐだけで、自動的に入力をしてくれる。 だから若者を中心に多くの人が飛びついたのである。
iMac(パソコン)のライブラリーのコーナーにCDや、インターネットで購入した曲を記憶させる手間が少しかかるが、
これはいたし方がない。驚いたのは、CDで入力した曲の情報を自動的にテーマや、作曲者、入力順、聞いた順に分類し、
羅列してくれることだ。さらに流れている音楽の広告も出てくる。これはアマゾンやグーグルと同じである。
 (字数制限のためカット2011年02月19日)
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2007年02月19日(月)
2148, 幸福に驚く力 −1
 オッ(*^○^*)ハ〜ヨウサン!
大雑把に言ってしまえば{人は子供の本と物語の力によって、日常の中にある幸福に驚き、
人生を肯定的に生きることができる}が柱である。 幼児期、少年期の生活環境の重要なポイントが
見えてくる内容である。今回はテーマそのものの[幸福に驚く力]についての、要点を抜粋してみる。                
ー幸福に目を凝らすー
 大人の文学は、よくもまあ、これだけ不幸に目を凝らすものだと思われるほどに、重箱をつつくようにして
 不幸をえぐり出しますね。それはそれで面白いんです。では児童文学は何をやっているかというと、幸福に目をこらしているな〜
 と思うんです。一見不幸と見えるなかに、よく目を凝らすといっぱい喜びが潜んでいることを、ちゃんと取り出して書いている。 
 不幸に驚くことは放っていても誰でもする。 不幸に目を凝らすことは放っておいてもみんなする。
 でも、子供の文学はずっと幸福に目を凝らしたり、幸福に驚いたりする心を持った人によって、書かれてきたんじゃないか
 と思うようになりました。だから幼いときに昔話や優れた児童文学に出会うことは、非常に大事です。 
 「昔話を聞いたり読んだりして育った人は、それだけで人生に対する抵抗力がつく」 とはよく聞くが、
 そのことをやっと最近になってわかるようになった気がします。まあ昔話は人生のイメージ・トレーニングをすることである。
 ー人生を肯定する生き方
「昔話を聞いたり読んだりして育った人は、それだけで人生に対する抵抗力がつく」とはよく聞くことですが、
そのことが最近やっとわかってきたような気がします。昔話はだいたい、主人公が一人いて、いつも前進し続けていて、
最後には幸福になるという筋書きですね。これが繰り返し繰り返し、いろんな物語に出てくる。
これらに出会うことによって、なるほど人はひとつのイメージ・トレーニングができてくるのだろうなと思います。
 それから、必ず善が勝つのも昔話の特徴でしょう。善が勝つ、善が生きのびるということは、とにかく小さい時にはこれでもか、
これでもかと伝えてやらなくちゃいけないんでしょうか。そうやって生きるということを徹底的に肯定的に肯定してやること。
それをしなかったら、すぐ「どうせ人間なんて」ということになってしまう。「どうせ生きたって」「どうせ大人なんて」
ということになる。私は児童文学とか昔話は、人生を肯定的に見る下地をしっかり子供の中に作ってくれるのではないかという気が
しています。またそうあって欲しいと思います。『夜と霧』を書いたフランクルが「それでも人生にイエスと言う」を出している。
   (字数制限のためカット2010年02月19日)
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2006年02月19日(日)
 1783, インディアンの心    オハ (´・ω・`)(ω・`)(・`)(´・ω)(´・ω・`)ヨ〜
「インディアンの教え」は今まで何度か書いてきたが、ある書物の中で有名な手紙に出くわした。
1854年、ネイティブ・アメリカンのドウワミン族長シアトルが、アメリカ大統領に出した手紙である。
インディアンの崇高な魂が伝わってくる。 数千年の純粋な経験の積み重ねの深い教えがある。
この数千年、人類は何をしてきたというのか? あのラージXとかいう神の名の元で!   ( ノω-、)
 −−−
水のささやきは私の父の父の声です。 川は我々の兄弟であり、我々の渇きを癒してくれます。
川は我々のカヌーを運び、我々の子供たちを養います。もし、我々のこの土地をあなた方に譲るとするなら、その時あなた方は、
川とは我々の、そしてあなた方の兄弟であり、どの兄弟にも示すその親切を川にも示さねばならぬということを、必ず思い出してください。
白い人の死者は星の間を歩き始めると生まれ故郷を忘れます。我われの死者は決してこの楽しい大地を忘れることはありません。
なぜならそれは、赤き人々の母だからです。我われは大地の一部であり、大地はわれわれの一部です。香りたかき花は我われの姉妹であり、
鹿や馬は大きな鷹は我われの兄弟です。岩場の山頂、野原の露、ポニーの温かい体、そして人間みな、一つの同じ家族に属しています。
あなた方はご自分の子供たちに、足の下の大地は我々の祖先たちの遺骨の灰であることを教えねばなりません。彼らが大地を尊ぶためです。
子供たちに、地球は我々の親族の命、すなわち、大地は我々の母である、ということをあなた方の子供たちに教えてやってください。
大地にふりかかることは、大地の子らの上に降りかかります。地上に唾を吐くことは、自分自身に唾を吐くことです。我々は知っています。
大地は人に帰属せず、人は大地に帰属する、ということを。血が一つの家族を結ぶように、そのように結び合っていることを。
ー後記ー
近代文明が果して、進化を遂げてきたというのだろうか?
アメリカは、米国本土への侵略を現在も行っているのではなかろうか。アラブ人の怒りは間違ってはいないのでは?
                 ~~ヾ(´ω`●)バイ(●´ω`)ノ~~
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2005年02月19日(土)
1418, アメリカの強さとは
アメリカの強さに対して、疑問がでている。それが、ドル安や国債の安値の不安定要素になっている。
先日、保険代理店の社長と話す機会があったが、「アメリカの強さは当分揺るがない」と言って、
次の4つの要素をあげていた。
・世界の基軸通貨がドルである        ・軍事力が世界でずば抜けている
・金の世界での保有率が70?を占めている   ・世界の共通言語が英語であること
これがアメリカの強さであり、当分の間は崩壊することはない。その上に、イギリスと日本の一枚岩の同盟も大きいという。
英国民は6000万だが、英国連邦など国外に出ている英国人は6000万人も存在している。日本は12600万だが、400万人しか外国にいないとか。
実質的な力は日本を圧倒している。「アメリカは、イギリスと日本と固い同盟を結んでいる限り、基盤は揺るがない」というのも
理屈は通っているが。反面、アメリカ国債やドルなどの紙切れを印刷をして、相手国の資源や商品を騙し取る?商法が(空手形手法)
何時までも続くわけがないことも確かである。その両方とも正しいが当分は安泰であろう。
最後は恐慌か世界大戦で清算すればよいが、もう世界規模の戦争は不可能である。とすると、世界恐慌で清算するしかない。
アメリカの土台にはユダヤの数千年の歴史がある。
・・・・・・・
2004年02月19日(木)
1051、TVが面白いー銀座ホステスの面接
先日、BSTvで放送した「ニューヨークのデート・カウンセラー」を取り上げたが、翌日も面白い人間模様を見ることができた。
銀座の有名クラブのママ三人が[銀座ホステス]希望者との面接であった。現役ホステスや女子大生と面接をして、
気に入ればその場で採用をする。三人の応募者とも採用をされたが、なかなかの迫真の内容であった。
 銀座ママの質問内容はやはりシビアである。
 ・何故銀座ホステスになりたいのか ・どういうスキルを持っているか
 ・男(ひも)がいるかどうか    ・本人の頭の回転と品性 等々を、質問をしながら見ている。
生き馬の目を抜くような世界で生きてきているママは、華やかな背後にあるドロドロした激しい競争社会を知り尽くしている。
   (字数制限のためカット 2011年2月19日)
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2003年02月19日(水)
686, まれに見るバカ−読書日記−5
ー バカの定義ー
 バカの定義をこの本の中から抜粋してみた。
・小谷野敦「バカのための読書術」の中で「当面、哲学とか数学とか、抽象的なことが苦手、というような人のことである」
・勝谷誠彦「バカとの闘い」で、「バカとは人間に与えられた志を追うという能力を捨てて、馬や鹿のように、
 本能のまま目先の欲望のためだけに生きている輩をいう」 と書いている。で、何故かくもバカが多くなったかというと
「戦後のアメリカ軍の洗脳教育で、 バカをバカと指摘する美しき日本の風習が否定されたからだ」といっている。
・立花隆「東大生はバカになったか」で基本的知的能力を欠くというのでなく「教育の目的とは現制度の賛美者をつくることでなく、
 制度を批判し改善する能力を養う事である」と書いている。 そこでまたー人間、教養がないとどうなるかというと、
 幅が狭い近視眼的人間になる。 教養とは、幅広く全体を見る巨視的能力を身につけることをいう。
・吉野敬介「やっぱしおまえはバカじゃない」本当のバカというのは、すべてを要領よくこなし、何ひとつ
 本物に行き着けない奴の事をいっている。要領のよさや、要領だけで世渡りのうまさを吹聴するヤツはバカの第一条。
 自分だけの小さな規準で満足しているヤツ。これが第二条。
  ーー
 以上がバカ規準として書いてあった内容だ。 わたしがバカと信じてきたのは吉野敬介にほぼ近い!
「誰もがバカであるから、あまりいわれても気にしない事だ」と気休めを考えているのが一番バカということだ。
「つくづく自分てのは、バカだな~」が結論!              ー 終わり
・・・・・・・
2002年02月19日(火)
 336,ある時間の断面−2
 −1968年8月31日日記帳より
今日雲頓庵(禅寺)に来る。卒論の勉強の為だが、予想どうりのところだ。 早速座禅をくんでみる。
足が痛くなり無我の境地にさほど遠い。しかし現在の自分が求めていたもののヒントを与えてくれそうだ。
ここに慶応大学を卒業して弁護士の試験勉強をしている高橋さんと、立教女学院の短大生が
10人位いる。面白い人ばかりで明日帰ると言う。帳面を忘れてきた。これから当初の目標の計画立てだ。     
  ー9月1日
朝5時に目が覚める。6時半に起き、早速掃除をする。朝食前に高橋さんと裏山に登ってみる。
たった今鐘の音が聞こえてくる。深夜の鐘もいいものだ。昼、彼女らが帰る、何か寂しい。
昼飯時にこの寺の後見人という人と話す。午後は離れの一室で「流通革命」を100ページと「流通機構の話し」を60ページを
繰り返し読む。勉強の集中力が足りないのがいらだつ。明日より気を入れなおさなくては。夜は10時にうとうとしてしまった。 
後記ー独りで夜30分禅堂で座禅をくんでみる。ロマンチックな感がする。 誰も見ていないので自分との闘いだ。
ーーー
捜し物をしていたら「日記帳」が紙袋の底より出てきた。半年分が書いてあった。過去の自分との対面である。
 ー2004年02・19日記
もう終わったので、コピーするのを躊躇ったが?


3616, 忘却の整理学 ー2

2011年02月18日(金)

      「 忘却の整理学 」外山滋比著
 この随想日記は、私の「忘却のための整理法」である。 本来、ノートやメモを取るのは忘却をした後に再び思い出すため。
これを書きアップすると、次に出あうのは翌年の同月同日になる。一度記録としてまとめると、毎年必ず出会うことができる。
もう一つの分類コーナーの検索で、思い出したいキーワードを入力すると、過去の記録が羅列して出てくるから電脳そのもの。 
そのためアップした文章は、その瞬間には綺麗さっぱり忘れてしまう。 誰かと雑談をしていて、読み手が書いた内容を憶えいて、
書いたばかりの話をすると「そのことは、先日、書いてありましたよ」と不思議そうな顔をする。
忘却は知的メタボリック症候の回避に有効になる? 一度まとめ、そして忘却の過程を踏む繰り返しは、新鮮な情報、知識に対する
感度は高めてくれる。 起承転結の文章として書き上げることは、電脳としてのパッケージ化になり、安心して忘却が出来る。
 −P31の部分が、忘却と記憶の関係を分かりやすく説明している。―
≪ 記憶はなにもかもすべて覚えようとする。それに対して、忘却は、成功したところ、よいところだけをのこし、よくないところ、
 失敗したことが、後に尾をひいて繰り返されないように、取り払ってくれるのである。もし、失敗した経験がいつまでも生きていれば、
 何度も同じミスを繰り返すことになって進歩は望めない。 よいところだけ残し、悪いところは廃棄してしまう忘却は、進歩、上達、
 学習の重要な原則のはずである。 学習においても、記憶ばかり問題にするのは適当でない。 上達、進歩を支えるのは、後退、
 失敗の部分を除去する忘却のはたらきはきわめて大きい。これまでほとんど注目されることもなく、わけもなく、忘れるな、
 よく覚えておけなどと言われてきたのは不当である。実に長い間、というより、歴史のはじめからずっと、忘却は故なくして汚名を
 受けて泣いていたと言ってもよい。 記憶が陽であれば、忘却は陰である。陰がなくては陽は陽たることができないはずである。
 記憶が活動し成果をあげるには、陰の存在、忘却が不可欠である。両者が協同してはじめて健全な学習、習得ができる。≫
 ー忘却の前に、しっかりした記憶こそ大事。人生の前半に職業の変転で、多くの経験をしてきたが、その都度、総括をして、
 その記憶を革の袋に入れるイメージにして置いた。だから、あまり人生を振り返ることは最近までなかった。
 しかし、数年前から、その革袋から、思わぬ記憶がフラッシュのように飛び出てくる。それも悪くはないが、後ろ向きである。
  忘却の彼方の記憶も、何とも抽象的で味わいがある。 ボロボロで途方にくれていた、あの時の記憶が光り輝いてよぎる。
 ・・・・・・・
3251, 新・マネー敗戦 −2
 2010年02月18日(木)
  * ドル一極の世界通貨システムの崩壊
「既存の赤字を埋めるには更なる借金をしなければならない米国は、特に90年代以後、製造業を切り捨て金融大国に変貌し、
借金をし続けた結果、米国の公的債務残高はいまや64兆ドル(6000兆円)とも言われている。現段階ですでに支払い不能は明らか。
米国にとっては、都合のいいときにドルの価値を高め、各国から投資資金を呼び込み、ある程度借金が膨らんだところで
バブルで弾けさせドルの価値を下げ、借金を実質損として計上できれば、最も少ない金額を支払えば済む。借金体質の米国にとって
最も必要なものは、ドルの価値の大きな継続的な上下である。だが、1971年にドルと金との交換を中止して以来、これを利用した
米国の資金集めと借金棒引きシステムも限界にきた。 金の裏付けをなくしても、これまでは原油という枯渇燃料で価値を
保ってきたドルだが、それも各国の原油決済通貨のシフトがユーロなどで行われる現在、米ドル需要減退は時間の問題。
現存する借金をなるべく多く踏み倒すために、米国は同じようにドル暴落を図るしかない」 
 ーー
 世界の国々は長年、汗水流して貯めた資金の価値を一方的に減額されるのだから変になるが、紙切れしか発行してない
アメリカ本体は、何の問題はない。 そこで金本位制度に戻るか、何割かの金の交換を約束する部分金本位制度にすればよい。
それを見越して、彼等は大量の金を持ち続けていた。しかし日本政府には強力な圧力で最小の金保有しか認めなかった。
現在でも、アメリカの10分の1以下である。 2001年の9.11テロの数ヶ月前に、スイスフランが事前に予知した??が大量に
買いに入っていたと著者の岩本は書いている。 陰謀説は、その辺から出ている。 テロ筋が、スイスフランを買っていたのを
察知した金融筋が、それに便乗したか、それとも為替差損の利益を狙った金融筋がテロを動かしたのか? 
得体の知れない魑魅魍魎の世界である。 アメリカの経済学者が公然と、「アメリカの一極支配はソ連・東欧の崩壊と同時に
始ったが、まだ序盤である。金融恐慌とはいえ、圧倒的な海軍を持つアメリカの軍事力がある限り牙城が崩れることなどない!」
と断言していたのには驚いた。 いまなお、世界はアメリカの手中にあるのだろうか? 
それとも、リーマンショックで世界恐慌を引き起こしとことで、大きく弱体化したのだろうか?
これでは、紙切れで原油をかすみとられるアラブの怒りも分からないでもない。イラク戦争も、ドル一極体制を守るためだった。 
今回も、アメリカを除く世界中がマネー敗戦になる。 そう考えるとアメリカこそが諸悪の根源?ではないか。
ゴールドマンサックスなど焼け太り。 北朝鮮など可愛いもの?
・・・・・・・・
2876, オバマはグランドキャニオンを直視できるか
2009年02月18日(水)
「現代思想」ー金融恐慌特集ー の中の「オバマはグランドキャニオンを直視できるか」
 マイク デイヴィス著  の例えが奇抜だが分かりやすい。
 ーまずは、その概要からー
1540年、初めてグランドキャニオンを見下ろした欧州人のカルデナスが、その景眺望に恐れをなして後ずさりをして、
逃げ帰ったという。その三世紀後に、次に見たアメリカ陸軍のイヴスも二回遠征して、「殆ど凝視に堪えないほどの恐怖」
という報告をしている。 要は二人とも自分たちが観たものを理解できなかった。
その後の南北戦争の英雄と地質学者や画家のチームが、コロラド川に取りつかれるが、その時に初めて、グランドキャニオンは
的確に描写されるようになった。数年かけた調査によって、グランドキャニオンを受け容れる概念が出来たのである。
遠く隔たった時間をかけて、想像を絶する景色を受け入れることが出来たのである。現在の金融恐慌をグランドキャニオンを探検した
人々のように、我われが今回の金融危機を、これまで持っていた理解力を乗り越えることが出来るだろうかと、問題提起している。
そしてオバマが今回の危機を直視が出来るのだろうか?と・・
オバマのプランといえば、「社会主義」ではなく、「超資本主義」であり、その中味は、
「少数の巨大銀行に信用を集中して、その大部分を政府系ファンドによって、制御するもの」である。
オバマは、知的にも政治的にも、クリントン主義の気乗り薄な継承者でしかない。
イラクの撤退の替わりにアフガンとパキスタンでの部族戦争を加速する抵当権を設定しただけである。
そして、彼の理想主義が失敗すれば、チェイニーやカール・ロープ、あるいはもっと邪悪な権化が舞い戻る可能性がある。
 −以上だが、
アメリカの商務大臣を一度受け入れた二人が、たて続きに就任直前に急遽辞退した。 恐らくグランドキャニオンを、
この経済危機の中に見たのだろう。 人類が過って経験をしたことのない、深刻な広さと深さを見れば誰も後ずさりをする。  
 今度の恐慌は直視しても対策が限られているために、その火の手は簡単に消すことが出来ない。今年から3〜5年間は、
深刻な大火災が世界中を燃え上がることになる。その火は、世界中の国家権力を総動員をしても消し去ることは不可能。
燃え尽きるまで待つしかないから深刻なのである。肌の色?だけでは、消火は無理である。 
自業自得と他山の石として眺めている場合ではない。歴史的日々が続く。
・・・・・・・・・
2008年02月18日(月)
 2511, 黒柳徹子 −2              。・∀・)ノ゛おっは〜
 誰でも黒柳徹子のように「好きなことだけをして生きたいが、それが出来ないから苦労するじゃないか?」
という声が聞こえてきそうである。で、どうだろうか?これは自分のこれから自問自答の死ぬまでの問いかけとして、
付きまとう人生に対する影の声になる。「上を見ればきりがない。下を見れば底がない、横を見れば情けない」という内語と
同じ内容である。仕事でも趣味にでも好きなことを見つけただろうか?見つけたなら、他人のことを羨むこと、
比較することはないはず。彼女の次の問いかけは人生の先輩としての真実の声として、よい指標になる。
 −−
 胃腸が人一番強かったのが、幸運だった。いつも食べることを考えてきた。いま考えているのは、足を、どうしたら、今のままで、
百歳まで、保てるのか、ということ。これは、ジャイアント馬場さん亡くなる前に、『徹子の部屋』で、「あなたは百歳まで生きたい
 (字数制限のためカット 2010年2月18日)
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2007年02月18日(日)
2147, 白い雲に乗って ー2       b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
先日のつづきの夢をみた。半分は覚醒をしていたのかもしれない。前回の夢が契機になって当時のイメージが出てくる。
如何いうことなのだろうか? それは57年前の世界そのものである。
その世界から此方をみている感覚と、此方の世界の感覚の間の塀の上での微妙な世界に立っているようである。    
 ーー
白い雲に乗って再び、その世界(4歳)へ行ってきた。そこは前回よりリアルな当時の世界があった。
中央保育園の面接があるというので、目新しい服を着せられて、母の手に引かれて「同じぐらいの小さい子が多くいるところ」
に行った。そこは家から10分ほど歩いた小さな小路にあった。面接のオジサンがニコニコしながら色々なことを聞いてきた。
母に前もって聞いていたので、驚くほど上手く答えた。恐らく入れるだろうと思った。家(店)に帰った後、三輪車に乗って
前の安栄館というビルの同じくらいの友達のところに行った。やはり最近できた大きなビルのところの子だ。 何か遊んでいると楽しい!
その数日後に場面が変わり、幼稚園の合格のしらせがきた。手紙を待っていたが、何時までたってもこないので、お母さんが
「落第したのかもしれないけれど、そんなことがないはずだが・・」と言う。ガッカリしていたところ、合格の葉書がやっと届いたが、
凄く嬉しい。クリスマスの飾り付けのため、二番目の姉の恭子と近くにツリーの飾りを買いに二人で行った。
大きな雪がフワフワと降っている。ツリーに吊るす色いろなものを二人で選んだ。小さな家とか、星とか、動物とか、人形などがあった。
それを袋一杯に買って家に帰って3Fの食堂で飾り付けをした。ラジオのクリスマスの音楽を聴きながら、それを他の姉たちと飾りつけた。
ツリーの電飾がいやに奇麗だ!こんな楽しい気持ちは初めてと喜んでいる自分を誰かがみている。 あれは誰だろう?
翌日の朝、枕元に箱に入ったサンタの贈り物があった。雪が、ドンドン降っていて窓の下は雪で埋まりそうだ。  
突如、周りを見渡すと誰もいない空間になってしまった。何処に行ったのだろう、皆は!白い靄がかかり、の中で恐ろしさが襲ってきた。
目をつぶって白い布団を被った。        (o ・д・)ツ  バイ!
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2006年02月18日(土)
 1782, ウオーキング・シューズの話
(字数制限のためカット 2010年2月18日)
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2005年02月18日(金)
 1417, 新シルクロード
 数年前のツアーで、北京からウルムチに飛行機で飛び、そこからタクマカラン砂漠を眼下にみて、ホータンに渡った。
ホータンからはバスに乗り換えて、シルクロード南道を一路カジュカルに数百キロ走った。
右にタクマラン砂漠を見ながら何処までも続く道は、25年前にNHKが放送をした時に見たシルクロードの景色が続いた。
荷車を牽いたロバと老人の姿が印象的である。1980年に放送され、大ブームを呼んだNHKの大型紀行番組
「シルクロード」が、25年ぶりによみがえった。前作では平均視聴率20%を超え、喜多郎のテーマ曲も話題を呼び
シルクロードブームを起こした。当時は遠い遠い異国のイメージであった。25年後の中国の民主化と、経済発展と、
西域での遺跡発掘の進んでいること、などから新シリーズが企画された。日中共同制作の「新シルクロード」
(中国編全10回)として、この1月から1年間にわたって放送を始めた。既に二回放送されたが、見ごたえのある内容であった。 
 (字数制限のためカット 2011年2月18日)
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2004年02月18日(水)
 1050, 客観性ってのは何?
金沢にいた頃(25歳の頃)の話になるが、「客観的に」という言葉を、よく使っていたところ「客観的というが、客観的と勝手に
思っているお前の主観ではないか?俺は客観という言葉が嫌いだ」と言われて、ドキリとした思い出がある。親しかった金沢大学を
出たばかりの寡黙の哲学的な男であったから、なお答えに窮した。それから客観的という言葉を控えるようになった。
「事実」は「客観的事実」と「自己ー主観」にわけることができる?が、その「客観的事実」も突きつめれば、あくまでも
「主観」でしかない。主観と客観の違いは、あくまでも情報量の比較の世界でしかない。または自分を隠す手法になるケースが多い。
(多いほど客観的といっているにすぎない)真理を追究する科学者は、その目指すところは「客観的事実である」それも、
次の真理へのステップでしかない。この随想日記も、「自己の主観」を第三者の目に曝けだして客観性を鍛えていることになるが。
今まで書いてきた文章を読みかえして、支離滅裂の内容は自分自身でも妥協できないものだ。
「自己主張ー主観」が客観的?に充分耐えられことがまず重要になる。その意味で、常に内省を繰りかえさなくてはならない。
文章化は自己客観化への一歩といってよい。テーマの内容を起承転結の筋道をつけることは脳の機能を有効に使うことになる。
「万物の霊長類である人間の最大の特質は言葉を持った」ことである。この随想日記を書くようになって、自分の考えをより客観視
出来るようになった。それも55歳過ぎてからのこの三年間である。書き手としての視点を外と内に向けざるを得なくなったからだ。
随想日記というからには「起承転結]をハッキリさせなくてはならない。これが思考能力を飛躍的に伸ばしてくれている。
特にインターネットの検索が使えることが最大の武器になった。テーマさえ決まれば情報はいくらでも取れる。
今まで、社内報の原稿や手紙を書くときは、メモ用紙に下書きして、書き足しや書き直しをした後に、清書をしていた。
ところが現在はパソコンに思いついたことを随時書いた後に文章化と添削をするようになった。これで書く量が飛躍的に増えた。 
またパソコンを開けば、そこが書斎になってしまうことで、隙間時間に気楽に書き込めるようになった。
文章が(紙という物質を媒体をしていたものが)パソコンの画面という非物質の媒体になってしまった。
気楽に他の文章をコピーをして貼り付けて加工さえ可能になった。紙から開放されたのだ。これは書き手にとって
革命的な大事件である。文章化が客観性への第一歩なら、ここで飛躍的に変化したことになる。
紙に書くこととワープロでは、自転車と飛行機の差以上であろう。だから毎日こういう随想日記も書けるのだ。
ここにきて当初の五分の一のエネルギーで済むようになった。 本を出すことを考えている訳でもないし、
興味本位で書いているだけでもない。自転車から飛行機に乗りかえて、今までとは違った視野ができたことの
自由さと一日単位の達成感が味わえるから書いているのだ。自己慰安が最大の動機かもしれないが。
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2003年02月18日(火)
 685, 値段のカラクリ
ダイヤモンド価格の話である。世界で一般にダイヤと金は物質的な価値基準になる。動乱で最後もって逃げる物質として、
コンパクトで便利な塊である。どこの世界でも通用する。買った宝石を高価と思っていたが質屋に持っていったら、
ぜんぜん値段がつかないことはよくあることだ。じつは、宝石の原価には、面白い原則があるという。
全体の値段が高いものほど、原価の占める割合が大きいのだ。たとえば、100万クラスの指輪だと、原価が20〜30万。
ところが、20万だと、原価は1〜2万いやそれより以下だ。宝石は買ったと同時に10分の以下になると考えてよい。
数ヶ月に一回位、5〜8割引の宝石などのチラシが入ることがあるが、あれはゴミ?である。それで満足するのもそれでよいが。
規格外の小さいゴミを飾り立てているのだから、面白い。20万クラスの宝石が売れた場合、原価が10%だが、
 ・メーカーが15パー  ・卸商が25パー  ・最終の販売店が50パー
三越や伊勢丹や阪急などの百貨店は、地下の食品で釣って、1〜2Fの宝石・装飾品売り場で、無知の客を吊り上げ
詐欺師商法に近い事をしている。詐欺?を自覚しているから、詐欺るためにあらゆる仕掛けをつくってある。
50?のいや80?の利益を得る為にあらゆる手段を使うのだ。これしつこくいうが、三越や高島屋が実際やっているのだ!
老人を集めて、飯を食べさせて、詐欺同然の商法を今も実際やっているのだ。十数年前にハワイの飛行場の免税店のテナント料が、
売り上げの70数?が報道された事があった。売れ残りのブランド物を10〜20倍の価格をつけて売っているのがばれてしまった。
JTBとか日本旅行が安いツアーで、詐欺同然の店に連れて行って騙して、原価10%の商品を売りつけていた。無知という事は、
本当にかわいそうなことだ!今の日本のデフレも、こういう仕掛けが壊れているだけでしかない。これはデフレというのだろうか?
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2002年02月18日(月)
 335,読書について
・大学にいってよかったのは、「都会の人は本を読んでいる」ことを知ったことだ。
  ー読書の必要性を学生生活を通して実感
・特に基礎教養としての読書の必要性、しかしノウハウ書の重要性も馬鹿にできない
・知識・情報を得る手段として、人間と本そしてラジオ・TV、今はパソコンのインターネットである。 
 その価格や内容からみて、まだまだ書物を超えるものは無い。 「おおよそ500円から5000円」の間で
 これだけの情報が詰まっていて、手軽にあつかえるのは今のところ他に無い。
・時空を超えていろいろな人と邂逅できる。 頭の中のバーチャルの世界の触発をしてくれる。
・よい本は自身の中の悪い情報を、どんどん弾き出す働きを持つ。
・特に学校を出てからの読書が大事である。
・学歴でなく、学力が最も重要である。その力を効率良くつけるのが読書だ。
 他人の話を聞けない人の特性が「読書の重要性」のわからない人だ。
・一般に言う「井戸端会議のおばちゃん」は、本を読まない人の別称と言える。いや蔑称か。
・卒業をしてから大体平均2〜3時間は読んできて、この程度の学力だ。
‘子狐’の中に「もしかして全く読んでない自分の姿」をみた時、背筋の寒さを覚えた。
   世間には凄い人が多い、それも過去の人の中に無限に存在している。


3615, 忘却の整理学 ー1

2011年02月17日(木)

  「忘却の整理学」外山滋比著
 内容= 頭を働かせるにはまず忘れること。情報・知識でメタボになった頭脳を整理し、
     創造・思考の手助けをするのは忘却なのだから。『思考の整理学』の続篇
 * なかなかオシロイ本である。 忘れること・忘却を中心に据えた本は私が知る限り過ってなかった。
 呼吸は、まず息を吐き出さないと新しい空気は吸えないと同じで、忘却によって整理され、きれいに片付いた頭で
新しい知識や情報などを取り入れられるために積極的に忘れろという。一度書いた文章をまず寝かせたり、
気分転換すると思いもよらぬ着想が得られたりするのは、忘却による効果。 忘却が知識を選択的に頭の中で熟成させ、
時間の風化作用で別次元の高みに体系化する働きがある。 忘却はランダムに起こるが、それが個性を形作る。
 ー‘まえがき’の以下の部分が、アラスジにもなっているー
 ・・どうして知識が独自の思考に結びつかないのか。両者の間に忘却を考えないと、説明がつかない。 知識をいったん
かなりの部分を忘れたあとで、もとの知識から離れてオリジナルな思考の生まれる余地が生じる。忘却がないと、知識は途方にくれる。
知識は利用されることを待っているのであって、それだけで、思考、創造をおこす力をもっていない、 むしろ、そのままでは自由な
思考の妨げになるおそれは十分である。そんなことをあれこれ考えていて、忘却論に思い及んだ。記憶と表裏をなす忘却があるという考え。
ナマの知識は使いものにならない。忘却をくぐらせて枯れた知識のみが新しい知見を生み出す。大工は生木で家を建てないのと同じ。
忘却のアポロギア、弁明を思い立ったのは数年前のことだが、どうして忘却がこれほど長い間きらわれ、怖れられ、卑しめられてきたのか。
忘却を称えたことばはないものかとそれとなく心がけてきたが、日本には見当らない。 おしなべて忘却性悪説である、
 ・・ことにコンピューターが異常なほどの発達をとげて人間の記憶力の価値を暴落させている。知識人ほどその衝撃を強く受けている。
コンピェーターを念頭において人間の知的活動を考えたならば、創造的思考がもっとも人間らしい活動であることは明らかになるはずで、
その独創の土壌になるのが忘却である…… そういう考えのもとに、この本に収められた諸エッセイは書かれている。
忘却論ではなく、忘却をめぐるエ・セイを集めたものである。                   
 ーここに書いた内容は、アップした瞬間、ほぼ完全に忘却の彼方になる。 「いま、ここ」に集中すれば、忘却の後々に残る。それがよい!
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3250, 新・マネー敗戦 −1
2010年02月17日(水)
 以前、NHKスペシャルで「シリーズ  マネー資本主義」を放送していた。
■第1回 “暴走”はなぜ止められなかったのか 〜アメリカ投資銀行の興亡〜 2009年4月19日(日)午後9時00分〜 
■第2回 “超金余り”はなぜ起きたのか? 〜カリスマ指導者たちの誤算〜  2009年5月17日(日)午後9時00分〜 
■第3回 年金マネーの“熱狂”はなぜ起きたのか              2009年6月14日(日)午後9時00分〜 
■第4回 ウォール街の“モンスター” 金融工学はなぜ暴走したのか     2009年7月19日(日)午後9時00分〜 
■最終回 危機を繰り返さないために                   2009年7月20日(月)午後7時30分〜 
■ウォール街の“モンスター” バブルは再び起きるのか          2009年12月20日(日)午後9時45分〜 
  再放送も含めて食い入るようにみた。 紙切れ(ドルとアメリカ国債)を刷って、再びアメリカに還流するシステムを
 追う番組である。そこには、紙切れで世界中のものを手に入れる仕組みをインタビューや解説で解明していた。
 それは正にアメリカが親のネズミ溝。それがアメリカ資本主義というらしい。その最大の被害者は、もちろん日本。
ところで先日、知人から、「新・マネー敗戦」を一時間ほど借りて、速読をしてみた。 
大筋は、このアメリカ・ドル本位主義の構造の分析である。 
  * 「新・マネー敗戦」 岩本沙弓著   
 ーこの本の概要といえばー《 ネット参照 》
 19世紀から20世紀にかけて繁栄した英国は、絶頂期でデフレに見舞われた。しかし金本位制を廃止せず緩やかな没落の道を辿った。
その英国に替わった米国は、ドルを世界中に流通させ金本位制を廃止した。 実物資産の裏付けのないマネーの誕生である。
バブルが起きるたび、その対策として投入された膨大なペーパーマネーはさらなるバブルの原因となった。 
自国通貨を基軸通貨として世界に流通させ、ペーパーマネーを溢れさせた米国はさらに原油を用いて、ドルの価値の維持と
産油国経由の米国への還流を図る。 原油決済をユーロで行う機運が出てきた際には、原油決済通貨をユーロに変更したイラクに対し
戦争を仕掛けてまで自国の繁栄を図ってきた。 それでも原油決済通貨の変更がなされる現在では米ドル需要の減退は時間の問題。
6000兆円ともいわれる公的債務残高を積み上げた米国ではドルの減価を通じて、米国債の返済負担を下げ、さらに新しい通貨発行で
再びマネーを呼び寄せることを考えている. .ドルが減価しつつあるトレンドラインからして、2012年秋口には1ドル=60円になる
との予想。米国はそれに併せて何らかの部分本位制の新通貨を発行し借金の棒引きを図ることも決して想像できないことではない、と。
 このような状況の中で、弱肉強食のライオンアメリカとシマウマの日本。その図式は「米国債を外国に買わせ、その後にドル安に
して実質的な借金棒引きにする」こと。 過去においては日本が被害をうけたが、現在は中国がその流れに乗りつつある。
 ーーー以上だが、このカラクリを知ると、隷属国家の日本の姿が哀れである。 70年代以降、金に代わって原油とのリンクに
よって保ってきたドルの価値をなくし、借金を棒引きを図るアメリカ。 そのためには原油の価値を喪失させ、世界の原油の需要の
減退につれてドル需要が減少すれば、ドルの価値も地に落る。で、オバマに変わったと同時に、電気自動車と原子力、風車、
太陽熱へのエネルギー転換キャンペーンである。 行き着くところは、アメリカにとって都合の良い結果になっている。
 その腰巾着だったのが、自民党と完了である。 まずは、そこから、次はアメリカとの距離を置くこと!  ー つづく
・・・・・・・・・
2875, ポルトガル人のみた信長と秀吉
2009年02月17日(火)
  「日記をのぞく」ー日経新聞編の一編 ールイス・フロイス「日本史」ー
の中で、ポルトガル人フロイスの見た信長と秀吉の姿が新鮮に写し出されている。
現在、「天と地」をNHKで放映しているが、直江兼継の見た秀吉と信長の姿と重ねると面白い。
 ーその部分を要約すると・・・
1569年4月に、信長と京都の二条城の建築現場で引見、信長はフロイスを気にいったようだ。フロイスは1581年3月、再び会うが、
安土城を自慢したかったようだ。彼の見た信長は「中ぐらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は少なくはなはだ声は快調で、
極端に戦いを好み、軍事修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった」「酒を飲まず、食を節し、人の扱いには
きわめて率直で、自らの見識に尊大であった」「その鋭い観察眼で捉えたこの武将の人物は、他の追随を許さぬ迫力と
真実性が感じられる」その信長が亡くなった後に、今度は秀吉を大阪城に訪問する。フロイスの「日本史」の中の秀吉像は、
信長像に比べておおらかではない。「彼は優秀な騎士であり、戦闘に熟練していたが気品に欠けていた」
「身長は低くまた醜悪な容貌の持ち主」「抜け目なく狡猾」「極度な淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺」・・・
生理的は反発がうかがえる。1587年に九州に遠征中に伴天連追放令を発した。秀吉の漁色乱交に、
キリスタンの女性たちが抵抗したので、暴君の秀吉が怒り狂った、とうのが彼の解釈だ。
 ーー
この「日本史」では、外国人ジャーナリスト?の目で当時の日本と日本人が体系だって観察されている。
その点では信長と秀吉を現代人の感覚で観察している目に近いと言えるのである。
更に、信長の最期の姿が仲間の宣教師から九州にいたフロイスに詳細な報告が入る。 それによると、
ー 1582年、6月21日、本能寺の変が起きる。明智方は本能寺を襲い、「手と顔を洗い終えて身体をふいている
信長」を見つけて、背中を射た。信長はその矢を引き抜き、長刀を手に戦ったが、「腕に銃弾を受けると、
自らの部屋に入り、戸を閉じて、そこで切腹をしたと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火して、
生きながら焼死したと言った」更に、「我らが知っていることは、その声だけでなく、その名前だけで万人を
戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては
地上に何ら残存しなかったことである」と・・・ー  生々しい信長が直に伝わってくるようだ。 
・・・・・・・・・
2008年02月17日(日)
 2510, 黒柳徹子
子供の頃から、いつも彼女の声や姿をみてきた。美空ひばりと黒柳徹子は私の生きてきた時代の中で何時もラジオかTVで見かけてきた。
現在もTVの『徹子の部屋』などで毎日のように見かけるが、殆ど彼女の番組はみてない。しかし芸能界の一線で55年も活躍している
のだから、それなりの信条があるのだろう。どちらかというと、女性の好みとして苦手のタイプ。彼女は子供の頃からの異端児で、
学校では劣等生だったという。ある本に、彼女の手記があったが、なかなか面白い。 その概要といえば、
 −−
仕事をはじめて5年目に過労で一ヶ月の入院をした。 当時のTVは殆ど生番組で、出ていた番組では私抜きでもドラマは進行した。
その時に、二度と病気をしたくない、と思った。だから退院をするときに院長に、「死ぬまで病気をしたくないですけで、
どうすればよいか?」と聞いたら、先生はおっしゃった。「長いこと医者をしているが、そういう質問は初めてだ」。
でも、と先生はおっしゃった。この先生は名医だった。「一つだけ方法がある。でもたいがいは、出来ないんだよね」
私は必死に食い下がった。「やります、どんなことでも」「じゃあ、好きなことだけをして生きなさい」
「え?じゃ、明日は芝居を見て、あさってはピクニックをして、しあさってはショッピング。そんなお金はないな〜」。
「誰が遊んでなさいといいました。自分が進んでやる仕事をやること。身体の疲れは、寝れば直る。でも、嫌だなと思ってする仕事は、
少しずつ身体に溜まっていく。それが繰り返されると病気になるんだと思うんだ。だから、進んでやる仕事はやっていれば、
病気にはならないんだと思うんだ」。私はそうしようと決めた。だからマネジャーと相談してよく寝ることは勿論だけど、極力、
自分が進んでする仕事をするように生きてきた。もちろん、若いときは難しかったけど、どんな金儲けの仕事が来ても、気が進まないと、
やめた。その代わり、自分が引き受けた仕事は、すべて、これは自分がやりたくて引き受けた仕事だから、と全力でやった。
そんな風にして、50年間、病気なしでやってきた。   ーつづく
ーー
なるほど、素晴らしい信条であり、それが彼女を、ここまで一線で活躍させた源泉である。ここで何度も書いているが、
50歳になったときに、はて、どうして生きようか?と考えた。そして、50代で一生分を前倒しをして生きること。
その為には、嫌なこと、嫌いな人とは一線を画する。それと、社会の価値観を徹底的に疑うこと。好きなこと、したいことを
優先することと決めた。そうすると楽になった。そして日々が非常に楽しくなった。この経験があるから、彼女の言葉が
理解できるのである。 いや、元々してきたが、より徹するようになった!ということ。
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2007年02月17日(土)
 駅前専門学校の時代の終焉!
         才八∋ウ_〆(∀`●)サン
十数年来、長岡や新潟駅前の建設やビルの買収といえば専門学校であった。
しかし、この破竹の勢いはここまで、逆現象が始まるという。 就職難民が体裁を整えるためとと、
とりあえず資格取得をめざすのが専門学校の存在意義であった。就職難民の一時収容所に近い機能が実態?だった。
字数の関係でカット(2010年02月17日)
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2006年02月17日(金)
1781, 他罰の人−2
  (*^o^*)オ (*^O^*)ハ (*^。^*)ヨー!!
 他罰を理解するために、その対比する言葉を調べてみたら
  ー 自己罰(内罰)
  ー 他罰(外罰)
  ー 非罰    があった。        
 電柱にぶつかって怪我をした時、 w(☆o▽)w
・自分の不注意でぶつかってしまった... と思うのが  内罰・自己罰。
・こんな所に電柱があるからいけないんだ! 誰だここに立てたのは!  と思うのが 外罰・他罰。    
・この程度で済んで良かった... と思うのが   非罰。
 この喩は他罰を考える時に解りやすい これから見えてくるのは 他罰は責任転嫁ということである。
 非罰は仏教的な考え方になる。 この全てを考え、後は忘れるのを待つ!のがベストであるが。
  似た事例として  宗教書に「お寺におまいりにいき、石に躓いて怪我をしてしまった時に
・信心があったので、この程度で済んだ!と思うか、
・おまいりに行ったのに何で怪我をしなければならないのか!と思うか、
  字数の関係でカット(2011年02月17日)!
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2005年02月17日(木)
 1416, 50肩になった
一月ほど前から、左肩と首が痛む。 通勤時にビジネスバッグを肩にかけていたのが原因?
他に考えられるのはパソコンと、TVの見すぎも考えられた。たまたまNHKの「ためしてガッテン」が、
「40・50肩の特集」をしたのをみて、もしかしたら50肩と気がついた。
        字数の関係でカット(2010年02月17日)
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2004年02月17日(火)
 1049, お金の教訓
「お金はむき出しの真実である」というが、これだけ本音と建前とかけ離れているのも珍しい。
今まで随想日記に、お金に関して何回か書いてきた。といって、本当に解っているのかというと疑問である。
一番金にシビアな坊主も[布施の分だけ経を読む]とかいう。滑稽といえば滑稽である。
世の中の悩みの大部分が金の悩みという。ということは、殆どの悩みは金で解決可能ということになる。
金に対する[金言」をまとめてみようと何冊かの格言集をみたが、なかなかこれはというのが無いが、その中から幾つかあげてみる。
・「もしも心がすべてなら、いとしいお金は何なのだ?」  ー都都逸
・「金勘定 しているいる妻は 美しい」 ー川柳集より
・「私は金のためにこの世界に入った、芸はあとでついてきたものさ」ーチャップリ
・「10中89、お金は急場を救ってくれる」 −ジョン・ウェイン
・「お金と知識はあの世にはもっていけないよ」生きているうちに使えと!あればだが。
・「お金があれば、どんな悲しみにもたえられる」 ー財多ければ、悲しみ少なしー  ー財布軽けりゃ心が重いーというのもある。
・「小指切れとは当座のことよ、金が泣くなりゃ手まで切る」ー都都逸
・「貧乏は貧乏人を追いかけ、金は金持ちを追いかける」 ユダヤの諺というから恐ろしい。
・「金のない人は、京都の茶屋で遊ぶ資格あらへん」という芸子はシビアである。 これは昔から欧州の社交界では当たり前だった。
・「金と頭とチ○ポはいきているうちに使え」と、本田宗一郎が言ったとか。 まあ彼が言うからよいのだろう。
  ある統計によると 65歳のアメリカ人100人のうち
・金持ち1人、 ・快適な暮らしを送る人 4人、 ・まだ働く人は 5人しか居ない。
・あとの 56人は政府か家族の援助を必要とし、 ・残りの人は亡くなったそうだ。
よく「引退すれば、生活費が減る。だからお金はそんなに必要ない」という人がいるが、それは間違いだ。生活費は下がるが、
医療費は大幅に上がるからだ。多くの保険機関は高齢者を制度から締め出そうとしている。これから高齢者はお金を持っていれば
生きられるのに、お金がないために死ぬということも起きるのだ。本屋のエンドに平積みに[300万で生活する方法」
というような本が目立てってきた。最近出た本では、さらに「200万で生活する法」まで引き下がってた本が出てきた。
この大不況の中に他人事ではない。調べてみると過去に多く、金について書いている。いま読んでみてもシビアで面白いが、
では実践でというと?? 書いている分には面白いが、金に追いかけられだしたら地獄である。
・・・・・・・
2003/01/13
お金はむき出しの真実
字数の関係でカット(2009年02月17日)
・・・・・・・
ー以前書いた文章をこぴーしておきます。
お金について -事業百訓より
[112] お金について
字数の関係でカット(2008年02月17日)
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2003年02月17日(月)
 684, まれに見るバカー読書日記ー4
 男・獲物ー獲得法
第2章「バカ本を読む」の中の酒井冬夏「バカ・ゲット」がおもしろい。 
1995年に流行った「バカゲット」とは、「バカ」な男を「ゲット」する、自分に「安らぎ」と「安全」を
与えてくれるバカ男ー獲物を獲得する意味である。この獲得のマニュアル本である。
 目次は「コンセプ」「マーケッングリサーチ」「アポイントメント」「営業」「交渉」「プレゼンテーション」
「接客」「契約」などあって、男と女の関係もビジネスと思わせる仕掛けがある。
・男は「クライアント」であり、                  ・自分は「会社」であり、
・結婚は「プロジェクト」であるというわけである。ところが一転、  ・社内で「獲物」を探すのが「近海漁業」であり
・「合コン」は「遠海漁業」                    ・なんでも手を出すのが「そこ引き網」
・ずっと付き合って結婚するのが「一本釣り」            ・同性からの紹介は「おとり漁法」
・シャイなふりをするのは「定置網漁法」
字数の関係でカット(2011年02月17日)
・・・・・・・ 
2002年02月17日(日)
 334,私の読書法
やはり速読法が中心だ。それも「要点集中主義」だ。 その典型が図書館で可能な限り(10冊)借りてきて、居間の「私の居場所」
の横に積んでおく。食事やパソコンをイジッテッル合間にチョイ読みをする。 通勤で行き帰り読む。そして返す時間が詰まってくる、
もちろん週10冊は読めない。そうすると要点を見ざるを得ない状態になる。本はその状態でないと、読まないことが多い。
返す期間が決められていると、要点をみざるを得ない。これは買うに値すると判断するとすぐ「ネット」で注文をする。
買った本は、すぐ折込に入る。本の端を重要な箇所を折り込んでしまう。目次、各章、終わりに図と絵、太字のページを折りこむ。
そうすると、その時点で自分だけの本になってしまうそして身近においておく。読んでいて、いやパラパラと開いていて、
ここは重要と思うと左下を折り込む。折込にも情報を入れる。左上は図示と絵。急ぐ時は、終わりより逆にめくっていく。
そうすると、どういう訳かポイントが良くわかるのだ。それでも時間が無い時は、この本から一つだけ情報を取るという視点で集中する。
一つはあるものだ、特に「目次」か「終わりに」でそれを探す。いま一つ実行していることは、本屋に週2回は寄る。
通勤途中の二軒のどちらか一軒だ。本屋も毎日のように、売れているコナーの本を入れ替えている。定点観測である。
立ち読みで要点読みが結構できる。都会ー東京の羨ましいのは神田も含め大書店が多いことだ。情報格差の一番象徴的なところだ。


3614, 哲学は死の練習になるか

2011年02月16日(水)

    * 哲学は死の練習になるか   ー木田元
死についての特集の中に、木田元の文があった。なかなか考えさせられる
  ーまずは、その抜粋から。
≪ 哲学者ハイデガーは『存在と時間』で「自己の死」についてこう述べている。 自己の死は「誰にも替わってもらうことができないし、
誰の助けを借りることもできず、それがくることは確実だが、いつくるのかは決まっておらず、その先にまわってみることなど決して
できない、自己の究極の可能性」なのだ、と。 そしてハイデッガーは、人間にとって「本来的な生き方」とは、この自己の死を
不断に見据え、それに覚悟を定めて生きる生き方、つまり「死に臨む存在」なのだと主張するのだ。
・・・ 自己の死についてのハイデッガーのこの見方はまことにユニークだが、まるで『はがくれ葉隠』のように、つねにおのれの死を
見据えて生きるというのが、いったいどういう生き方なのか、私にはうまくのみこめない。自己の死についてのハイデガーの
こうした主張に対しては、少し年少のフランスの哲学者サルトルも『存在と無』で異論を唱えている。
彼にとって死は私のすべての可能性を無にし、私の人生からすべての意味を除き去ってしまう、まったく不条理な偶発事なのである。
彼に言わせると、私の誕生が選ぶことも理解することもできない不条理な事実であるのと同様に、私の死も、理解したり対処したりする
ことのできない不条理な事実なのだ。ここで面倒な議論をする気はないが「自己の死」に関してだけは、私もサルトルに一票を投じたい。
こちらの方が私の感じ方に近いからだ。 ハイデガー自身、『存在と時間』で持ち出した死生観の根にあるのは自分の個人的信念で
あることを認め、どんな哲学的思索も、結局こうした個人的信念を出発点にせざるをえないのだと主張していたそうである。
・・・つまり、私たちは生命の大きな流れの中から飛び散った一滴のしずくのようなもので、しばらくはそうした個体とし生きているが、
やがてまた元の大きな流れに引きもどされ、蕩々と流れてゆく。それが個体にとっての死なのだ、とそんなふうに思うようになってから
体調が落ちて、あまり永くは生きられそうもないなという気分になったときも、それほどジタバタしなくなったような気がする。
こうした一種アニミステイックな死生観を整理し体系化すると神道のようなものになるのではないかと思うのだが、あまり体系化など
しない方がよいのかもしれない。 本当に死が間近にせまったとき、肉体的苦蒲のなかでこんなとりすましたことを
言っていられるかどうか自信がないが、これが今のところ私の死をめぐる想いである。≫
ー以上だが、言葉を持ってしまった人間は、他者の死を身近にみて、自分の死を思い抱くようになった。
 死んだ人は、その瞬間に何もないが遺体が残る。それが死と勘違いするから、妄想が起こるのだが、その妄想を理性で
 乗り越えようとしても、それも無理の話である。木田元は、滔々と流れていく大河に引き戻されて一滴が固体の死のイメージを
 述べているが、毎年同じ木に咲く桜の花とも、それぞれのイメージがあるもの。
 ・・・・・・
3249, 最近のベーカリー事情
 2010年02月16日(火)
  * ベーカリーのファーストフード化
 数ヶ月前から週に2〜3回は新幹線の改札口に近いベーカリーで通勤途上、昼飯用のパンを買っている。
サンドイッチや、ナンで惣菜を包んだものや、カレーパンなど種類が多くあり、値段の割りに美味しい。中でも食べられる。
300円から500円で済み、外食の半値で済む。他に構内スーパーにある弁当とか、専門店街の菓子屋が売っているオニギリを買っている。 
その御蔭か週一も外食に出なくなった。要は気晴らしに出ていた外食が面倒になったのだ。
 ところで、知人が「カテゴリーキラーの外食が新潟郊外の青山に去年の暮れにオープンした」と話してくれた。
・テイクアウトも、イートイン(店内でも食べられる)も出来るベーカリーで、レストランのような外観と、
 イートインのできる客席はレストラン風
・ポイントは、コーヒーが無料で、二杯目が20円
・家族3~4人で、1500~1800円で食事のできる店というのが受けている・・・
 その話を聞いて、「ラブラ万代の地下にあるベーカリーが、コーヒー無料にして、その脇にある自由食事スペースの
 テーブルと椅子をレストラン風にした感じ?」というと、その通りという。 成るほど、親子三人でパンやミニピザを
 2〜3個ほど食べても、コーヒーが無料なら2000円以下で済む。 長岡と新潟の新幹線構内にあるベーカリーで、パンを買った
 お客にコーヒー無料にすれば、客は何割か増えるだろう。 イートインの客単価は下がるだろうが、客寄せになる。
  考えてみれば、好調のマクドナルドは、コーヒーなどが付いたセットが300〜600円だから、
 別に、取り立てていうことでもないじゃないか、ともいえる。パン屋のファーストフード化ということか。
 一時、焼きたてのパンを出すファミレスがブームになったことがあったが、何時の間にか萎んでしまった。
  あらゆる業種が恐慌の中で知恵を絞って集客をしている。最近では、回転寿司が「握りセット」を始めてきた。
 10カンを違う種類にして安く出す。 スーパーの弁当も300〜400円が中心。500円といえば豪華にさえ感じる。
・・・・・・・・・
2009年02月16日(月)
2874, 成長モデルから 脱成長モデルへ  −2
「規制されたモデル」といえば、戦後日本の20数年の日本経済のモデルが理想であるが、これは成長モデルそのもの。
 結局は資本主義経済はバブルの繰り返すしかないのである。その本質はネズミ溝であるからだ。
 その繰り返しの中で、自由と平等を如何に両立させるかという難しい問題は人類の永遠のテーマと重ねる。
 突き詰めると、どれもこれも共同幻想でしかない。 共同幻想でしか人類はコントロールできないとすれば、
 共同幻想の「正・反・合」を繰り返すしかない。 更に前回に続いてポイントの部分を抜粋する。
 〜〜 
 *『自由放任的競争』から『規制された競争』
「ケインズが終生説いたのは、実は、グローバリズムへの警戒なのである。
『頽廃的で国際的で個人主義的な資本主義が世界をかけめぐり、国内経済を破壊することこそ、彼は恐れたのである。
『それは、知的でなく、美的でなく、公正ではなく、有徳ではない。われわれは、それを嫌っている。
いまやそれを軽蔑し始めている』とさえ彼は書いている。この『資本の気まぐれな浮動』から、一国の経済を守らなければならない。
それこそが、ケインズをして、政府による資本の管理と公共投資を唱えさせた理由なのである。そして、住宅、個人的サービス、
都市の美観、地方生活のアメニティ、といった『国際商品ではないもの』をこそ重視したのである。」
  −−
「今回の危機をきっかけに、世界秩序は、アメリカ一極構造から変わっていくかといえば、アメリカと中国の綱引きになるだろう。
中国は、製造業が成熟しきらないうちに金融が拡大するといういびつな経済構造のため、経済を膨張させていかないと国がもたない。
(字数の関係でカット11年02月16日)
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2008年02月16日(土) 2
 509, 新・知的生産の技術 −2
好感の持てる人である。東京の知人が言うには「最近、東京では健康を兼ねてスポーツタイプの自転車でチョットした移動に
活用している人が多くなっている。」という話を聞いたばかりなので、成るほどと感心した。この人の場合は、
携帯用のナビまでつけている。ナビは個人の行動まで自由にしているようだ。ここまで電子機器が発達し、ソフトも高度化したなら、
己を空しくして逆に無駄取りをして合理化に徹したほうが良いに決まっている。その意味で、この本は批判が多いかもしれないが、
見習うべきことがあまりに多い。ここまでグーグルが世界の人たちに支持をされるには、それなりの内容があるはず。
なら、限度のある自分を徹底的に排除をして、己を空しくして圧倒的なベストに従ったほうが良いという
彼女の問いかけが、シンプルで訴える力がある。
・補助脳としてのパソコン
・フォトリーディング、親指シフト、マインドマップなど、じぶんなりのOSを整え
・アナログとデジタル入力のバランスを使い分け
・マスメディア情報を減らし、実体験、他者体験、良書を三大情報源とする。
・自分以外の感覚器、特に耳をもっと活用する
・そして睡眠はよくとり、運動をよくする
だいたい、これにブログや日記、メモをよく取ること、これが言いたいことである。
大部分が進学にエネルギーの大部分の人が取られているとき、このような合理性で自己研鑽に
勤めれば、そこそこのことが出来ることだ。
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2007年02月16日(金)
2145, 「狂い」のすすめ −2
        才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)                              
 この本は「世間」に対する私の鳥瞰視と同じトマリ木の目線である。第一章の「狂い」のすすめは、
「世間を幻覚と割り切ること。その為に自分を狂者と割り切ってしまえばよい。世間は狂っているのだから、
そんなものを元々相手にしなければよい。」私自身の人生を振り返ると、「狂」が一つのキーワードであった。
狂を演じてないと、事業など立ち上げることができない。現状否定が事業の立ち上げの切り口であるからだ。
その辺の二代目が、その「狂」を冷笑しているのをお笑い芸人の目で、その反応を計算している自分の様も面白かったが。
現在もそうである・・。いや、狂いが目立たなくなったということか!定年を迎えようとしている男が急ごしらえの定年後の準備を
始めている様はコミックといえばコミックである。「狂」になって一度自分を破壊しないと、定年後の第二の人生の構築はできない!
その意味で、この本は彼ら向きなのだろうが、はたして理解できるか?この本では「狂者の自覚」という表現をつかっているが・・・
それまでの人生観を根こそぎ疑って、新しい人生観を構築しないと!それが第二の人生である。
この無自覚な連中を集めて商売にしようと目論んでいる人がいるが、その悪臭は自分では分からないだろ。
でも、その人たちに目先の安らぎを与えるどこが悪いか! という論法も成り立つが! どうでもよいことか。
 この本の中で一番気に入ったのは、ーカタツムリからナメクジへー というところである。
*そこを抜粋すると*
「カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる」私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。
そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。
そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅である。たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いものだとみるカタツムリでなく、
貧困もよいものじゃないかというナメクジの目でみることができれば、素晴らしい旅になるはずです。
 インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、「裸足のどこが悪いんだ、上等の靴を履かされて、
重い鞄を持って塾通いと、裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが幸福なんだ・・・?」とね。
もう一つは ーついでに生きているー である。「‘人生なんぞ無意味である'と言うのであれば、なんでお前は生きているのか?
それなら、生きている価値がないじゃないか」と言うが、その反論として「人生に意味がないなら、自殺さえ必要ないじゃないか」
と反論していた。そのうちにうまい言い方を考案しました。それは、人間は、−ついでに生きているーという言葉です。
人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。 別段、それ以上の意味はない。
人生に意味があり、目的があるとしたら、私たちはその目的に向かって邁進したくなります。
そうすると、競走馬的な人生になってしまいませんか。
 −−
まあ、一日一日を切断して、その一日を「日々是好日」と楽しめということだ。
二度とない人生、そして一日である。著者こそ、実際は逆に生きてきたし、現在もそうだろう。
悩める人に対して、そう教えるのが彼のお仕事であるから、それでよいが。
「人生に対して意味を求めつくしてこそ、その逆もさもありなん」と相まってこそ、人生無意味の意味が深まるのである。
「そんなこと、言われなくても分かっている!」というが、一応、念のため。カタツムリだものね、人生は。
 どっちも同じ? 喩えがね〜 同じか!
 カタツムリが、定年を向かえて、否が応でもナメクジになったとき、その人は如何すればよいか?ということだろう。
 こういうナメクジに新しい殻を与えようとしているのか、「あの人」は!それも既成品を。オーダー作れないもんね!
 その人たちは、今さら。 だから、安直な仕入れ品を当てがおうというのか! もともと安直な殻なら、その後の殻も安直で
 充分というのも理解できるが。 でも、何かおかしな話である! まあ、考えるに丁度よい材料になるが。
                  b(^o^)ノ バイ!
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2006年02月16日(木)
1780, 他罰の人
       (`・ω・。)っノXXXX>C【才ノヽ∋―】゚+。*゚+。
 ある本で「他罰」という言葉に行き当たった。他罰性は、現代のキーワードといって。特に情報社会の病巣といってよい。
自分のマイナスすべてを他人や社会のせいにする傾向の強い人間は何処にもいる。
私がタレントの‘みのもんた’を嫌いなのは、職業柄もあるが、他罰性が非常に強いからである。
まあ観ている方も他罰を一緒に楽しんでいるから本人の責任だけではないか。         ~~旦_(^O^ )
人生の後半に(いや前半もそうだが)明るい生活を送っている人の分析がある。
・縦と横の人間関係がキッチリできていて ・本業以外にライフワークを持っていて
・何ごとも前向きで楽観的で       ・他罰性が無いこと   
それと(私の意見だが)奥さんが明るい人である。逆に社会に適応できない人とは
 「他罰性が強く、そのため人間関係が崩壊、何ごとも後ろ向きで、趣味が少なく、暗く温かみが無く、
  そのため神経症になっている人」である。    ゙o(≧◇≦*)o o(*≧◇≦)o"ダメ ジャ〜!!             
  誰の中にもある毒素であるが、その傾向が強いか弱いかにある。
  私が敏感なのは、他罰性の強い人間である。自分の中に、あるから嫌なのだろう。    
 その傾向の強い人種は常に攻撃対象を探している。それを思いつくまま挙げてみると ユルサン![(#▼皿▼)]ムキッ
 親が悪い、友人が悪い、学校の先生が悪い、上司が悪い、会社が悪い、政治が悪い、社会が悪い、等々 社会的貧者に、
 この傾向の強い人が多い。「人生は最も偉大な言葉」とは‘自分の生きてきた全て(人生)が何もいわなくても全ての自分を
 語っている’ということ。その中で一番の問題になるのが他罰性といってもよい。ルァァ!! (*`д´ノチキショ! (`?´)ゴルァ!!
 夫婦間など、男女間のトラブルは他罰から生じる典型なことである。 自分のことを考えてみれば家内との喧嘩は何時も、
 どちらが悪いかの言い争いである。 会社組織も他罰の牽制で成り立っているといっても過言ではない。  ーつづく      
・・・・・・・・
2005年02月16日(水)
 1415, NHK視聴料について
数年前から、NHKの視聴料の支払いに対して疑問を持っていた。そして、最近起こった不祥事事件である。
自宅で三紙とって日経新聞を止めて、WOWOWに加入。次に新潟日報を止めて、薄型TVを購入した。NHKを止めて、
CSに加入したくなるのが当たり前のことである。以前から会社で支払っているNHKの視聴料の支払いに対して、
何時止めるかタイミングを計っていた。「宿泊のお客は自宅で視聴料を払っている。それが何で、ホテルの客室の視聴料を
払わなくてはならないのか!おかしい?」と考えて当然である。先日のラグビーの番組の中止(途中から抗議殺到で放送したが)で、
切れてしまった。会社に行って早速、「NHKの支払いの必要無し!」と宣言をした。ところが、呆れた顔をした支配人 
「10数年前から、一円も払ってません!」私「・・・・」やるべきことは、やっていたようだ。
個人は、結構NHKの番組みで楽しんでいるので払っている。
ーーー
2005/01/31   ー1399, NHKと朝日新聞
 (字数の関係でカット09年02月16日)
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2004年02月16日(月)
1048, デート・カウンセラー
 最近、TVが面白い。特にBSTVが色いろな世界を鋭く切り取っている内容が多くなった。普段知ることができない世界を垣間見れる。
一昨日のBSの、[地球ウォーカー]のニューヨークのデート・カウンスラーの目を通したドキュメントがよい。結婚相手を見つける
チャンスが少ないのが大都会の独身者の悩みという。特に女性の場合、チャンスが少ない。大都会は同姓愛が多くて、出会いパーテーを
開いても男性の数が少ないのが悩みになる。10対8といっていたが、実際はもっと少ないようだ。この33歳のティナというブロンドの
デートカウンセラーの目を通したニューヨークの独身女性の結婚問題を掘り下げていた。女性20人位のセミナーで色いろの
講義をしているのだ。現在、学生時代の日記を書き移しているが、男の立場からみても合点することが多い。
結論からいうと[ありのままの自分に自信を持って、オープンに積極的にあれ。但し、これには守るべき原則がある!」という。
 ーその原則とは
・直前(その場)のデートは断る4日後に引き延ばすこと  ・相手の言動を分析しない勝手な分析などしないで軽く考えること
・女性の場合、支払いは相手に              ・あせりは絶対に見せない
・メールの返事は3回に一回ぐらいにしておく 等々である。 
 この番組に出てきた独身女性を見ていると(いや大方)、男性不信の人が多い。前の男性が駄目であっても次の人が駄目とは限らないのだ。
  (字数の関係でカット11年02月16日)
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2003年02月16日(日)
683,まれに見るバカ−読書日記-3              ー 続く
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2002年02月16日(土)
333、20歳の頃 −1
立花隆の「二十歳のころ」が面白そうなのでネットで買い寄せた。本屋で立ち読みをしていたが、実際に買い読み始めるとこれが面白い!
立花隆と東大の立花ゼミ生が「各界著名人や無名の人の20歳のころの事」をまとめたものである。一番の人生の不定形の可能性の塊の
ころである,と同時に一番不安定のころでもある。そして一番その後の「人生の基盤」を作っている時期でもある。
私の周辺の人を見ていると「大学時代何をしていたか」で人生が決まってしまう。その頃遊びほうけていたり、ただ漫然と
大学生活を過ごしてきた人は、今もその延長にいる。人生の要所であることに若さゆえ気づかない。「さすが立花隆!」と思うのは、
「ホームページ上でサイバー大学という形」で進めていったことである。ゼミのメンバーと同じ年代の人と普通なら、
これをやらなくては絶対会えない各界の人から、色々な啓示を受けたことだ。それもホームページ作りを通してである。
まったく羨ましい限りである。人生のOFF−J−T,いやOFF−L(LIFE)−Tそのものだ 私の二十歳頃を近くに書いてみよう。 
それより学生時代の頃になるか。 屋上から「通行人の自分」を眺めているみたいで面白い。
 ー2004年2月16日記
この文章が、恐らく「22歳の日記」を公開するキッカケになったのだろう。


3613, 旅ばなし 小題

2011年02月15日(火)

  * マッターホルンの登山ツアー
 先日、BS/TVでマッターホルン山頂の登山ツアーを放映していた。それもNHKの女性ディレクターが、それにチャレンジをする内容。
ここはアルプスの中で最後まで登山を許さなかった標高は4478メールの魔の山。140年前に初めて英国の7人の登山家によって征服された。
しかし下山の途中に4人が足を滑らせて死んでしまった。その山頂へ地元のプロ登山家のガイドが先導して登る内容を克明に記録した内容。
もちろんクライマーは経験者で、登山前に近くの山頂へのロッククライミングで、その人の能力がガイドによって試され、
合格者のみが登山が許される。コースは決まっているので何組も同じコース登っていたことには驚いてしまった。
もちろん、一つ間違えば滑落して死んでしまう。頂上には、登って休んでいる先着者が何組かいて、そのパラダイスを眺めていた。
そのガイドは70回以上、登っているという。 その頂上から見るパノラマの素晴らしいこと、この上ない。
スイスには三回行っているが、学生時代の車窓からみた景色の美しさは今でも忘れることが出来ない。
スイスツアーにトレッキングのコースもあるが、山は、その時の天候で大きく左右される。 
外れたら、山頂からの景色は霧一色で覆われて何も見えないリスクが伴なう。
近くの丘のビューポイントからのマッターホルンは絶品。天候に恵まれた場合になるが、スイス山岳ツアーはお勧めである。
 ここと、カナダのロッキー、ヒマラヤ、北スペインのピレーネの絶景は、深く心に刻みついている。
  一度行ったところは、TV放送で再び楽しめるからよい。

 ・・・・・・・
3248,  閑話小題 
 2010年02月15日(月)
 * 力量と品格
朝青龍の引退について、少し前になるがNHKで特別番組を組んでいた。その中で「強さが抜群だが、品格に問題だが、
その品格というのが、いま一つ分からない」と、解説の元横綱の北の富士が話していた。「国家の品格」という本もあり、
それについて書いたことがある。「知識とか経験の裏づけから滲み出る人間性」と、私は理解している。その番組で、
北の富士氏は「一般にいう常識を守ること」と述べていた。一般でいう常識とやらも何だか分からないが、知識の裏づけのない
常識ほど己を抹殺してしまうものはない。大相撲は品があっても、強くなければ誰も認めない。強い上に、神秘的な綺麗なオーラ
みたいなのが出ているイメージを品格というのだろうか。 相撲は、神事に後に余興で力比べをしたことから始った。 
儀式の一つだから、歌舞伎みたいな神秘を保っていなければならない。
それも、その最高の位にいる横綱は神秘的イメージも必要というのも理屈である。
  * その人物を知るには
その人物を知ろうとしたら、
・子供時代に、どんな環境に居たか ー家族構成と自分の立ち位置(長男、次男・・・・)
・学生時代など、青春時代に何を求めていたのか? 更に人生に何を求めたか、
・何を恐れ、何に笑い、何に怒り、何を喜び、何を悲しんだのか、
・何の仕事をしてきたか、
・仕事以外のときに何をしているのか、
・誰を愛してきたか、
・それぞれの時代の友人は、どんな人だったか、  
・奥さんが、どういう人か、子供がどのような人物に育っているか、
・本棚には、どの本が並んでいるか、
  人生を振り返れば自分の外枠が見えてくる。
・・・・・・・・・
2873, 成長モデルから 脱成長モデルへ  −1
 2009年02月15日(日)
 「もはや成長という幻想を捨てよう」ー佐伯啓思  
 中央公論 08年12月号が、なかなか説得力のある内容であった。   
  ーまずは、そのいくつかを抜粋してみる。                    
「今回の経済危機の原因は長期的に見ると、20世紀を通じて続けてきたアメリカ型資本主義による経済発展の行き詰まりである。 
資本主義の本質は、物的生産力を無限に拡張していくことにある。だが先進国では70〜80年代に社会が成熟段階に達してしまい、
人々がさほどモノを欲しがらなくなった。その結果、製造業に投資しても大きな利潤が出ないので、余ったカネを金融市場に集めて
バブルを常に起こすことで、経済発展をしてきた。人々が高いお金を払ってまでも手に入れたいと思う『モノ』がもはや亡くなりつつある、
ということであろう。だからそ、製造業は、過酷なまでの価格競争によって、価格を下げるほか無いのである。・・・
今日、『経済活動の過剰』という問題に真っ正面から取り組むべきではなかろうか。確かに、今日、資源はますます希少となり、
食糧も希少化しつつある。食糧の奪い合いが始まろうとしているし、アメリカ人は借金をしてまで貪欲にモノを買い続けている。
人間の欲望は無限であり、モノは有限である。」
  ーー
「グローバル化の第2の波である帝国主義の真相を、英国の経済学者でえあるボブソンは恒久的な消費の低下にあると見ていた。
・・・ ケインズこそ、現代資本主義の最大の問題を消費の低迷に見ていたのである。かくも豊かな社会が到来すれば、人々はもはや
その関心を『モノ』には向けなくなるであろう。その結果、消費は低迷し、それが資本主義の長期的停滞をもたらすだろう、というのが
ケインズの予想であった。『豊かさの中の停滞』である。豊かさのまっただ中でこそ資本主義は深刻な問題を生み出す、というのである。」
  ーー
「『貧困への恐怖』と『豊さへの渇望』がもはや経済活力の源とならない。・・・もしそうだとすれば、規制緩和や
市場競争促進政策は、いっそうの生産能力過剰をもたらすだけのことであり、それに伴う有効な需要の伸長がないとすれば、
よほど無理なコスト競争、価格競争をしなければ企業は存続できないであろう。
これは経済活動にあまりに過度な負担を強いることになる。この負担は、まさに、ワーキングプア、フリーター、派遣労働、
所得格差、労働強化、産業空洞化、地方の疲弊という形で表れているのである。(中略)今日、われわれは、消費者としては
できるだけ安いものを買おうとしている。投資家としては株で利益を得たいと思っている。しかし、そのことがまさに、
市場競争を激化させ、組織的な労働を解体し、結果として、労働者としての『われわれ』は大変な目にあっているのである。」
   〜〜〜
  解)この考え方を、もし日本だけで当てはめたら国家そのものが破滅してしまう。何故なら、それを狙った他国が
  逆の方針をするからだ。日本が「ゆとり教育」で、その世代の骨抜きが進行している間に、中国が一子政策を採り
  両親のエネルギーを一人の子供に集中したのである。だから現在の日本の衰退が深刻なのである。 
  しかし、世界がブロック化をして、その中で互いに規制することは可能だろう。 
  日本の衰退を、「成長モデルから衰退モデルへ」と衰退を脱生長と言い換え、気がついたら国家破滅!の危機になる。
  人口縮小に合わせて経済規模を均衡縮小を割り切ってする政策にすることは、間違ってはない。    ーつづく
・・・・・・・
2008年02月15日(金)
2508, 世界をだました男
 「世界をだました男」 (新潮文庫)    ー読書日記
             フランク アバネイル (著), スタン レディング (著),
以前にビデオレンタルで借りてみたが、あまり印象に残っていない。先日たまたま図書館で借りてきた後に、
アマゾンの中古本を買って読んだが、なるほど面白い!殆どが実話というが、さかりのついた男の
あの手この手の必死さが面白い。色いろな示唆のある内容で満ちている。
この内容の概略をまとめるだけの価値はある。生粋の詐欺師の話として割り切って読むと面白い。
政治家は、この手の詐欺師まがいが多いのは見ているとわかる!
ーー
6歳から21歳までアメリカやヨーロッパで詐欺を繰り返して二百五十万ドルを荒稼ぎだした。
連邦刑務所で服役後、数々の職業を経て、その手法を逆手にとって詐欺対策コンサルタントに。
 (以下字数の関係でカット 09年02月15日)
・・・・・・・・・
2007年02月15日(木)
2144, 「狂い」のすすめ −1 
       (~Q~;)  おはよう〜〜ファ〜  サム!
 閑吟抄の中の、「ちろリ ちろり ちんちろり ・・・・一期は夢 ただ狂え」
 を切り口に、世間に縛られないで 自由に生きなさい!と論じている。
 まさに何時も、ここで書いていることである。私にとって、今ひとつ物足りないところがあるが、
 団塊の世代のマニュアル人間が定年を迎えようとしている現在、丁度良い内容である。人生に意味など無い、
 生まれ、飯を喰って、くそをして、死ぬだけだ。 あるのは「いま ここ」だけ! 
   ーまずは、その概要からー                    ー読書日記
                   著者:ひろさちや :集英社
 世間や常識の奴隷になるよりも「ただ狂え」。狂者の自覚を持つことで見えてくることとは…。
 人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく生きようと呼びかける。
   ー表紙裏の内容紹介ー
 今の世の中、狂っていると思うことはありませんか。世間の常識を信用したばかりに悔しい思いをすることもあるでしょう。
 そうです、今は社会のほうがちょっとおかしいのです。当代きっての仏教思想家である著者は、だからこそ「ただ狂え」、
 狂者の自覚をもって生きなさい、と言います。そうすれば、かえってまともになれるからです。
 人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく生きましょう。
 「狂い」と「遊び」、今を生きていくうえで必要な術はここにあるのです。
−面白そうな所を何箇所か抜粋してみた-
*『人生に意味なんてありません。「生き甲斐」なんてペテンです。』
*「日本人は人生を知りません。人間らしく生きることができず、エコノミック・アニマル、
  すなわち畜生の生き方をしています。日本人は狂っているのです。」
*「上等の靴を履いてぶくぶく太った日本の子どもと、裸足でやせたインドの子どもと、どっちがまともなんでしょうか!?
  そして、どちらが幸せでしょうか!?  わたしたちの『常識』『物差し』は狂っていませんか!?」
*「ともあれ、遊牧民族は、敵と味方をはっきり分けて考えることができます。 だから楽なんです。 ところが
  われわれ農耕民族の末裔である日本人は、敵か味方かわからない世間を相手にせねばなりません。それがしんどいのです。」
*「浄土経典である『大無量寿経』においては、《人、世間の愛欲の中に在りて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る》
  と言われています。 この「独生・独死・独去・独来」が人間の本質なんです。」
 ・・・・・・・ 
2005年02月15日(火)
 1414, スローフード
欧州でまず驚くのはスローフードとスローライフの生活パターンである。
最近、日本でもスローライフ、スローフードが流行りだした。
アメリカ発の便利・効率を優先するファーストフードに対して、スローフードを見直す運動である。
イタリアのブラという街で生まれた運動で、日本スローフード協会によると、次の三つを指標にかかげている。
1、消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質のよい食品、ワインなどの酒を守る。
2、質のよい素材を提供する小生産者を守る。
3、子供達を含め、消費者に味の教育を進める。
アメリカのコンビニエンスという考え方が、食べることにも及んで、画一化が進みすぎて、ものごとを
「味わう」ことが少なくなってしまっている。その反省に立って、食事そのものを見直す運動である。
(以下字数の関係でカット 2010年02月15日)
・・・・・・・・・
2004年02月15日(日)
 1047、「22歳の日記」の終わりに
今日で学生時代の日記が終わっていた。何時から何時までという日付の無いフリーの日記帳なのだが、丁度よいタイミングで
最後のページで、最終日の今日だけレポート用紙が貼り付けてあった。いま一冊の日記帳にあと半年位は書いていたと思うが、
ハッキリした記憶が無い。この日記を書き移していて「恵まれていた環境にいた」とつくづく思う。
「寮生活に、一ヶ月の欧州旅行、ゼミ、クラブ、教授、両親、友人」と多彩な環境が重なっていたことに驚いた。
そこには地方出身の、土がタップリついた、純朴な姿がそのままあった。
この時期に培ったものが一生ついてまわることを、振り返って実感する。それと真面目な姿も、今も昔も一緒である?
大学の専門分野の授業が結構面白かったことと、全く知らない分野を、色いろ知ったのが最大の収穫であった。
また知識や情報や人脈の重要さを実感をした。知的好奇心がこの時期にやっと芽生えたのだから、かなり遅咲きであった。
大学の知識などは、実社会に出てからの経験や読書などの蓄積からみたら、微々でしかない。「大学を出てないから駄目だ」
という自分の思い込みという石をつくらないで済んだのも収穫であった。当時の学生時代の背景が、昭和40年代前半だった
というのも恵まれていた。特別恵まれていたのではなく求めるものがあったから、見返りに対象が反応した部分もあった。 
この時代のポップスは黄金時代といわれている。高度成長期の波に乗って、素晴らしい歌が次々出ていた。
恵まれた時代にあたった世代は、最後の最後まで恵まれるようだ。年金も、丁度よいようになっている。
同世代の人をみていると仕事などでハッピーエンドの人が多い。学生時代に真面目に過ごした人は、その後の人生で順調のようだ。
マージャンや女性狂いをしていた人は、あまり恵まれた人生ではない。知識や生活の基盤をつくっていなかったためだ。 
その一人が自分でもあるが。寮にクラブにアルバイトに酒にと、全て中途半端であった。
しかし、それに気づいて産能大に入りなおして基盤直しをした?が、それでも取り返しがつかなかった。
それほど甘いものではない。基盤はそう簡単には造り替える事はできない。この日記から、温みを感じ取れるのも確かである。
私の人生を振り返って「恵まれていた、ついていた、面白かった、ありがとう」がキーワードにある。
この日記を見る限り学生時代も全く同じである。この日記を、つまらないという人と、リアルで面白いという人が二分していた
ようだが、少なくとも私にとっては、リアルで面白い内容であった。自分の地偕の、あるフロアーに迷い込んだようなものだからだ。
この日記の最後にも感想を書いてある。 もう、こんな赤裸々な日記は書けない!
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2003年02月15日(土)
まれに見るバカ  −読書日記 −2
ー印象的なところを抜粋するとー
人はバカに生まれるのでない。バカになるのである。親子という縦の系列によってバカになり、友人・社会という
横のつながりによってもバカになる。・・なぜ容易くバカになるのか。理由ははっきりしている。人間は楽な事を選ぶ生き物だからだ。
できることなら責任なんか負いたくない。他人の心配などまっぴらである。難しいことより易しいこと、苦しいことより楽しいこと。
不自由より自由。貧乏より裕福。まどろこしい事よりすぐ成果が見えること、に流される。努力するのも金輪際イヤである。 
これらの諸条件を満たすのは必然的にバカになる。自分中心主義で、物知らずに、自分の頭で考えることができない。
考える努力もしない。だから人に頼りたくなり人の責任にしたくなる。このようにして人はいとも簡単にバカを志向する。
だから親がバカだと子供はつらい。「バカ」を刷り込まれるからだ。バカになるのに訓練や努力はまったく必要でない。
欲望と感情だけがあればよい。そしてどんな人間でも欲望と感情だけはもっているのである。・・・
もしバカになったら、それはどこまでも自分の責任である。責任がなくとも自分で負わなくてはならない。
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バカがひとりで死ぬまで山の中で生きているのならどんな罪もない。しかしそのときは「バカ」であることじたいが無意味であろう。
ひとりだけならバカも賢いもないのである。 バカの罪状以下のごとし。
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2002年02月15日(金)
 331、自分を愛すること
我々は「自分を愛することを罪悪」と知らないうちに,教え込まれてこなかったか。人間のいや生物の「遺伝子にはエゴイズムが
書きこめれている」という。まず自分のエゴイズムをハッキリと認めよう。そしてそのコントロールをすべきだ。
 (以下字数の関係でカット 11年02月15日)
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 2月15日 1969年
 昨夜のことで、本当に自分が嫌になる。いい加減な自分に嫌悪感を感じる。
あとは、思い残すことなく社会に出よう。学生時代は終わったのだ。
ーこれからの予定として
2月17日に先生のところに最後の挨拶  2月19日にゼミの工場見学11時〜18時
その後、2日間長岡に帰る。2月26日にジャスコ入社式のため四日市に出発
3月2日まで、入社前教育
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 以上で半年続いた日記が終わっている。その続きを書いていたかどうかは記憶がない。書いていたかどうかは五分五分である。
この一年後、カード型の分類日記を一年間書いた記憶がある。その一年後、全てを捨ててしまった。本当は捨てなければよかった。
この日記よりもっと激しいことが書いたあったようだ。それだけ、その後の一年は激しい一年であった。心身ともボロボロになっていた。
大學を出て、十数年は誰もがそうだろうが、一生分の問題を吐き出し解決してきた。三十代半ばからは楽だったのは、それまで
精一杯生きたからだ。それにしても、凄い?20代~30代を過ごしてきたものだ。他の人のことは解らないが、私は限界ギリギリだった。
読んでいて気づいていると思うが、やはり背景は恵まれていたのだ。時代に、両親に、そして先生に、友人に。
月並みの言い方になるが「ありがとうございます」という言葉の重みをつくづく感じる。今も、当時も一番足りない気持である。
「ありがとう」という言葉は、言い尽きないのが人生と振り返って実感する。この時代の人達に「ありがとうございます」
と手を合わせて、この青春日記を終了する。 少なくとも書き写している間は当時にタイムスリップをしていた。
毎日続いた一時のタイムスリップも、今日で終わってしまった!あまり過去に住むのは良くない。今年の9月からの同月同日の日記として、
再び貼り付けるかどうかは、その時考えるが「もう見たくはない」のが現在の気持ちだ。半年も経てば気持ちが変わる可能性があるが。
当時のこの男の頭をなぜてやりたい。そして「35年前よ、さようなら!」と、腕がちぎれるほど何時までも手を振りたい気持ちである。
 当時と同じように少し感傷的になってしまった! 「あたらしき 明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に うそは無けれど〜 啄木」
この日記帳の表紙にデザインとして書いてあった詩である。
日記帳の下欄には、啄木の詩や日記や書簡集が印刷をしてあった。しかし詩心は芽生えなかった!
  ーーー 
 明日からは、換わりに、次のシリーズとして、 このホームページの「お笑いのコーナー」の、
 ジョークと小話を貼り付ける。 少し品のないところもあるが! 100話以上ある。
 5月まで続く予定である。

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