堀井On-Line



3538, メビウスと、自・他

2010年12月02日(木)

  * 他人とは何か
池田晶子の「自分の内側と、その対比としての他人」についての考察がよい。
 「14歳からの哲学」の『他人とは何か』で、以下のように述べている。
【「自分が存在しない」ということは「ない」、ということも、先に気がついたことだったね。
 だから、やっぱりすべては存在するんだ。存在しないということはなくて、世界も他人も存在するんだ。
 すべてが自分として存在するんだ。なぜなら、自分でないものが存在するということはないからだ。
「他人」なんてものは存在しないと最初に言ったのは、この意味だ。 他人の存在を認めないとか、世界には自分しか
 存在しないとか、そんな子供じみたこと話をしているんじゃない。これは本当に深くて、本当に難しい話なんだ。
 これも、ここだけの話だけど、このレベルの議論についてこれるのは、世の大人でも本当に少数だから、
 君は、そういう大人を目指せばよい。 ・・・・  大きい自分に小さい他人同士がつながっているからだ。
 大きい自分のう〜んと深いとろまで到達しているような人、たとえばお釈迦様とかキリストとか、そういう人なら、
 他入の痛みも他人の心も、自分の痛み自分の心として、きっと一瞬でわかってしまうに違いない。
「メビウスの輪」を知ってるね。内側を辿って行ったら、そこは外側だったというあれだ。
 君は、「自分の内側」と言った時、体や心の内側のことを思うね。でも、その内側が、外側の自然法則によって
 動いているのなら、その内側って、じつは外側のことじゃないだろうか。内って、外なんじゃないだろうか。
「自分の内」「自分の外」なんて、よく考えれば、決して言うことはできないことなんだ。なぜなら、すべてである自分には、
 内も外もないからだ。じゃあ「自分の外に存在する他人」という言い方で、人は何を言っていることになるのだろうか。】
  〜〜
「心の内側を辿ると、そこは外だった」は言いえて妙である。すべてが自分として存在すということを、メビウスの輪から
考えると、分かりやすい。世界の秘境や異郷に行った先は、自分の内になり、そして外にもなる。行けばこそである。
そして、それぞれの延長が、それぞれ続いている。記憶がメビウスの輪になり、それが大きくなリ続けている。
帰ってきてからでも、そこの旅番組やネットを見たりしながら、その旅行の延長線上に加わるからだ。家内が度々言うが、
「行かなければ、他の番組を見ている」のである。自分が存在してなければ、地球など知りえない。 死んでしまえば、
地球が消滅したと同じことになる。その己の存在にとって、他者も自分もないのである。

・・・・・・・
3163, 金本位制度が復活?
2009年12月02日(水)
 昨日、日経新聞を何気なくみていたら、以下のような記事があった。
  * 中国政府高官「金保有、10年以内に1万トン」ドル安で買い増し論
 30日付の中国紙、中国青年報によると、国務院(政府)国有重点大型企業監事会の季暁南主席は2兆ドルを超す
外貨準備の運用について「金の保有量を3〜5年以内に6000トン、8〜10年以内に1万トンまで増やすべきだ」と指摘した。
現在の保有量は約1000トンで、1万トンへの買い増しは実現可能か微妙だが、ドル安が続くなかで政府内で金の買い増し論が
勢いを増しつつあるもようだ。 中国の外貨準備高は9月末時点で2兆2726億ドル。うち約7割をドル資産で運用し、
金の比率は2%弱にとどまる。最近のドル安を受け、政府内では外貨準備の運用をドル以外に振り向けるべきだとの議論が
再燃しており、なかでも金は「安全資産」として評価が高まっているとみられる。
 ワールド・ゴールド・カウンシルによると、金の保有量(今年9月時点)は米国が8134トンで世界一。
ドイツの3408トン、イタリアの2452トンが続く。季主席は外貨準備運用の直接の担当ではないが、
今回の発言は政府内の多数意見を反映しているとの見方が多い。(北京=高橋哲史) (11月30日 19:45)
 ――
 以上だが、最近になって、米国の金本位論が再燃し始めているようだ。元もとあった論だが、こういう情勢で改めて
見直されているとも受け取れる。「ニクソンが金本位を止めたが、それは一時凌ぎで、こういうドルの乱発後には、
金本位制度に逆に戻し、新ドルと兌換にすれば、下げきった金は暴騰する。 紙切れのドルを無制限に刷って、
ドルの価値が下がったと同時に、金本位制度に逆戻りにすればよい」というアメリカにとっての秘策。
「逆ニクソンショック」で、再び世界の金融の主導権を握ろうというもの。 戦後一貫して、日本の金保有に直接・間接的に
介入してきた。そして、とどのつまりは、アフガン・イラク戦争の戦費捻出でドルを無制限に発行、そのツケが回ろうとしたときに、
金本位制度にして新ドルに替えてしまうという魂胆である。そこで急遽、中国は、金を3〜5年で5倍、10年で10倍にしようと意図で、
上記のような方針になったと受けとめられる。 その意味で、今年と来年は日本経済の混乱をアメリカは画策してくるはず。
ドル安も、その一つなのか。日本は今もそうだが、金融恐慌の戦災の跡地に、さらに止めの爆弾を落とされている。
それも理解できないのが日本国民。この暮れから、不況の波は更に大きく日本を襲う。 悲観的になって当然である。
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2798.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・7
2008年12月02日(火)
 ー失敗を恐れるな!
「自分のカでは どうにも ならないことは、心配するな」 という言葉、今度の恐慌で、
 心配の極みで読んでみて、ホッとした道理である。 まあ、仕方ないことは仕方がない。
【第6の法則】
  失敗を恐れるな。 しようともせずに 逃してしまうチャンスことこそ恐れるに値するのだ。
  〜〜〜
「人間ができる 唯一の独創的な行為こそ、間違えることなのである」     ービリー・ジ。エル
「人には正しいことだけでなく、間違ったことをする権利もあることに気づいたとき.、子供は大人になる」ートマス・ザス
「意味のある努力は、やってみる前には 簡単には見えない。だが、実際にやってみて結果が良ければ、
 その時点から振り返ってみると、簡単であったように 思い返せるものである」ーエドワード・テラー
「自分のカでは どうにも ならないことは、心配するな」        ユダヤ人の友人のコトバ
「金をなくしても、何も失わない。 誇りをなくせば、多くを失う。勇気をなくせば、すべてを失う」ーユダヤ人の友人の言葉
「自分を破壊する 一歩手前の負荷が、自分を強くしてくれる」     ーニーチェ
「過去というものには、 常に馬鹿馬鹿しさが つきまとう」      ーマックス・ビアボーム
「人生では、時には愚か者を 演じなければならない 時がある」     東欧ユダヤ社会の諺
「夢も悪夢もみたけれどへ 夢があったからこそ、 悪夢を乗り越えられたのた」  ージョナス・ソーク
「そもそも人間という存在は、ものごとを完壁には理解することができない生き物である。
 このことに気づくと、間違えることは恥ずかしくなくなる。 恥じるべきは、過ちの修正を怠ったときである」      
                                       ージョージ・ソロス
「悲観主義は、ユダヤ人が決して 手にすることができない 高級品なのです」  ーゴルダ・メイヤー
「たくさんの失敗を 重ねてみて、 はじめて真実の全体像に 出会えるのだ」   ージークムント・フロイト
「経験は、素晴らしい学校だ。 ただ、授業料が高いのが タマに傷だが」     ーヘンリッヒ・ハイネ
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2007年12月02日(日)
 2433, お茶ひき        (●っー3。○)・・・ハッ!(●`・v・´)オハヨサン♪
最近、長岡・殿町の小さな居酒屋とかスナックに行くと、不景気な話ばかりである。
先週は二度も「お茶をひいた」という話など決して珍しくない。歳のせいもあるが、最近はスナックで飲んでも
前ほど面白くなくなってきた。酒のツマミでも買って、家でTVを見ていた方がよほど刺激的である。
  (字数制限のためカット 09年12月2日)
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2006年12月02日(土)
2069, 書画骨董の話 −1               才八∋ウ_〆(∀`●) 
 戦後になって転業するまで、実家が何代か続いた骨董屋であった。そのため転業後も父は書画骨董を趣味にしていて、
常に居間には書画骨董があった。私が父の40歳を過ぎてからの子供のため、暇をみつけては散歩代わりに、
骨董店に何度も連れられていった記憶がある。門前の小僧の何とかで、真贋を見分ける眼がついたようだ。
さらに、海外旅行で有名な美術館に行く度に世界の名画を数知れず見てきた。そのためだろう、書画骨董の真贋の鑑識眼が
ついてしまったようだ。贋物に騙され、それを糧に眼を肥したプロには足元に及ばないが・・
TVの「お宝鑑定にでてくる真贋は、ある程度はわかる。(誰も解るか?)
書画骨董を自分で買ってまで欲しいと思わないのは、どういう理由か? 逆に人は何で自分の手元においておかなくては
ならないのか不思議でさえある。そんなもの、自分の倉庫や居間に置いておく必要はない、美術館に置いて公開すべきである。
死にかけて初めて、そのことに気づく耄碌が大部分だが。それが趣味なら、他者の言うことではないが。
名の残っている人の書画は、波動というか何ともいえない雰囲気が漂っている。それと品格というか気品である。
絶妙のバランスである。これは自然の中に多くみられるから自然の中にこそバランスが存在している。
そのバランスを表現するには、それなりの技法があるはず。それを知りたいと思っていたら、ある本で偶然見つけた。
中国の山水画の六技法である。波動を出している本体の構造をつくりあげる技法とは・・・
 ーーー
以下はインターネットで調べた「画の六法」である。
1、気韻生動 ‐ 初期においては気と韻律、動勢と生命感ある絵画か。物質が保有する詳細から来る気韻を正確に掴み取って、
  その特色を描けるに到るか。実在物との正誤を欠かずに。かつ、自身の気韻もそこに同調するかどうかも重要になる。
  自身の気韻と、描画対象の気韻。
2、骨法用筆 ‐ 物の正確な形(骨法)は正確に取れている、技巧ある筆運びか。己が骨子が如くして大事に扱い、
  己が骨知る生活が如く、筆を良く知る。己が筆が如く用いる事で、筆や自身を大切に生活出来る。
3、応物象形 ‐ 媒質の形状個性を、いかんなく象徴化し、応用できるか。媒質に応じた象徴を塑写す。
  物質の詳細にまでいかんなく応え描にて象を描き成す。媒材詳細に正確に適応し、
  かつ緻密で正確な状態に更に実在性を加えた状態での象徴たらしめる。
4、髄類賦彩‐ 精髄究めるべくした具体性とかね合わせる。
5、経営位置 ‐ 構図は正確で、意味のある位置取りか。描くにおいては描画対象に対して意義を成し、
  自らの位置掴み取るにおいては描画に最も適した媒材や自身の位置取りであるか。
6、伝模移写 ‐ 模写力はある。 以上は南斎の「謝赫」が、その著作『古画品録』の序において説いたもの。
 その第1、の「気韻生動 きいんせいどう」を「謝赫」が絵画の最高理想とした。
 ーまあ、そのままでは難しいから解りやすくいうと、
 1、「気韻生動」とは、直感的に感じとらせる、名伏しがたい迫ってくる躍動である。
   自分の気合いと韻律を、エネルギーを込めて対象物への投入すること。
 2、その絵には、しっかりした基礎となるデザインがある、それが「骨法用筆」。
 3、その対象を的確に描写しなくてはならない、それが「応用象形」。
 4、それに色づけをするのが、「髄類賦彩」である。
 5、さらに構図をきちんとまとめる「経営位置」。
 6、こうした技術を身につけるため、古人の名画に数多く接して、
   その作品に忠実に模写する修行をするのが「伝摸移写」である。
 骨法用筆以下の5法は,努力して会得することができるが,「気韻生動」は天与の才能と
 人格をそなえた人物のみが実現できるとして、その後の文人画の根本的思想となったという。
 −−−
こういうのが、解るようになってきたのは、やはり熟年になったからか〜      つづく
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2005年12月02日(金)
 1704, 家訓づくりのすすめ −1  
「今さら家訓でもないだろう」と思いつつ、図書館から借りてきて読んでみたら、これが面白い。
個人の心得としても、そのまま通じる。近年、世間を騒がせているモラルの低下や犯罪の増加、
ニートやフリーターの大量出現も、家族のあり方と無縁でない。目の前で説教をしても、
今どきの子供は聞かないが、家訓として書いて貼っておけば必ずみるものだ?
                (;`・ω・)ノ ---===≡≡≡【えぇ?!マジ?】
著者は、この時代の家庭の危機を救う方策として「家訓づくり」を提唱している。
350の家訓サンプル付で、家訓を作る時の注意事項も具体的でよい。
 家訓とは、その家の中心人物が、一族や家臣のために自分の体験に基づいた教訓である。
 しかし、その言葉の多くは、現在の個人に対しての戒めにもなる。 へ(~Д~*へ))))... ...((((
第二章「家訓の歴史」と「名家の家訓」がよい。
有名なものとして、徳川家康・伊達政宗・岩崎家の家訓・遺訓は何度か目にした事があるが、
記録として今後目を通したいので写してみた。              φ(。。*)
 −徳川家康の家訓ー
一、人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し、必ず急ぐべからず。
一、不自由を常と思えば不足なし
一、心望み起こらば、困窮したる時を思ひ出すべし
一、堪忍は無事長久の基
一、怒りは敵と思え
一、物好きは末に歎くことありと知れ
一、勝つことばかり知りて負くることを知らねば、害その身に至る
一、唯だ己を責めて人を責むるな
一、何事も及ばざるは過ぎたるに勝れり           〆(´m`) ムフッ
ーーー
何度かわが家の家訓を書いたことがある。家訓というより、常々両親が言っていたことをまとめたものだ。
・保証人になるな
・金の貸し借りは絶対にするな
・お金を決して粗末に扱わないこと お金を前にすると、人間は変身をす  ¬_¬)ちらっ   
・借金は極力しないこと   (`´ゞ
・親しき仲にも礼儀あり、誰とも同じ距離を保つべし
・私生活は、奇麗にしておくべし  特に男女間に関しては、家庭内に持ち込まないこと
・生活は質素倹約を基本とすべし
・政治には最小限の接点にすること
まあ、明治時代の人は大体こんな考え方が8~9割であっただろう。
これを土台に『わが家の家訓』を制作中だ。これをやりだしたら、面白くて面白くて!     
  φ(._. )カキカキ 3(-ω-。)クシャクシャ (。-ω-)ノ⌒゜□ ポイ 〆(。。)
夫婦で共同作業をしておけば離婚の確率は低くなるだろうに?        (^_^)/~~
・・・・・・・・・
2004年12月02日(木)
 1339, 「酒乱になる人、ならない人」  ー 読書日記 −1
男なら一生のうちに何度か酒で失敗したことがあるはずだ。私も酒大好き人間として、何度失敗したことか。
大失敗をしても、数年もしないうちにまた酒の失敗を繰り返す。一番の敵を、平気で口から脳に送りこむのであるから
人間は馬鹿の生きものだ。酒で家庭を壊し、職場を追われ、最愛の人にも愛想をつかれる。
過去に多くの酒乱の人や、アルコール依存症の人を見てきた。そして、私も一過性の酒乱になったこともある。
それでも、間違って朝起きたら女性と?ということは一度も無かったし、暴力沙汰で留置場ということも無かった。
しかし、危ないことは数知れずである。アルコール依存症の手記を月刊誌で何度か読んだことがある。
TVに本人が出てきて、生々しいアルコール依存症の話を淡々としていた。三連休、4連休の休みに、大量の酒を買い込んで
三日間続けて、意識を失っている以外のみ続けるという。信じられないような精神状態になるようだ。
身も心もボロボロになる。 私も色いろ試した結果、酒の自制のルールをつくった。
・一人酒を飲まない(一人で外にのみに行かない) ・外での2日続けての酒はさける ・週2日以上はさける 
・23時以降には帰る ・一軒目では、酢の物、野菜サラダか漬物を初めのつまみにする
・飲んだ後の、食事ーラーメンなどーはさける ・不愉快な酒は絶対に飲まないー気の合わない人の屯する店には行かない
・飲み会の場合は必ず酔い止めのドリンクを飲む ・家では 日本酒は飲まない(在庫をおかない)
 ノンアルコールビール(350ml)を一本と、紹興酒(300ml)を一日の基準にする
・女性とは一々にならない
ーブラックアウトー
 飲んでいて、あるところから記憶が全く無くなることを「ブラックアウト」という。
 (字数制限のためカット 09年12月2日)
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 2003年12月02日(火)
972, ナレッジマネジメントー3
 ー「ベンチマーキング」と「ベストプラクティス」
 ナレッジマネジメントといえば、その手法として「ベンチマーキング」と「ベストプラクティス」が頭に浮かぶ。
 ・ベストプラクティスとはー自社に比べて、優れた業務方法のことをいう。 
  他業種のよりすぐれた業務手法に多くのヒントがある。
 ・ベンチマーキングとは,ーベストプラクティスに学ぶ経営変革手法のことをいう。
 ‘解りやすく’いえば、「他業種のベストのモデルを見つけて、徹底的に真似ることである。」
 ‘難しく’いえば「系統的且つ継続的な測定プロセス。ある組織が業績を改善する為に役立つ情報を得るために、
  組織のビジネスプロセスを継続的に測定し、世界のビジネスリーダーと比較するプロセス」
  業界の内外を問わずベストなものとの比較を行うことによってギャップを埋め、現状を改善する有効な方法である。
  前向きなプラス志向の経営手法といってよい。
    ー以下は字数の関係でカット (2007年12月02日)
 ・・・・・・・・・
598,八ちゃんの時代ー2
 2002年12月02日(月)
少年期までは今考えても、かなり刺激的な環境で育った。生後3ヵ月後に、長岡の東神田から大手通に帰ってきた記憶がある。
もしかしたら父親の話の刷り込みかもしれないが。子宮の中の記憶のある人もいるとか。お手伝いの背中におぶさっていたのも
這い這いも憶えている。歩かされた時に面倒くさいと思った事も。商売の真っ只中で育ったせいか、今も人ごみが好きである。
スーパーや飲食店に行くのが異常に好きなのは三つ子の魂百までだ。競合店がオープンすると偵察に行った、5歳の頃である。
家族全員が毎日の売り上げに一喜一憂をしていた。もう50年以上も昔のこと。今考えると当時は金色に輝いていた。
生きるのに必至の両親の姿がそのまま伝わってきていた。素晴らしい時を両親と共有できたのだ。
兄二人の死とその5〜10年後の母の心筋梗塞の死線があった。これで母は死ぬんだと思った、しかし生き延びた!
2歳の頃に実家で更に新しい事業を始めた。その記憶が生々しい。ビル建設の完成まで住んでいた木造の家の下に丸太を入れ、
近くの公会堂の前の広場まで移動した。 完成するまでそこで店を開いていた。
建物の完成した引越しの日々が生々しい。コンクリトーと生壁の匂いと混乱の凄みを。
あの時代は皆が必死であった。
  1階は店,           2階が倉庫兼事務所、
  3階が自宅兼店の食堂と風呂、 4階が従業員の宿舎兼後方であった。
 毎日が戦争のような日々であった。 


3537, 上質な人生

2010年12月01日(水)

図書館で【上質な人生へようこそ】ー『セオリー』2007年vol.12 ーという特集の雑誌をみつけた。
まず人生に上質などあるのか?という平凡な反発があったが、テーマからして面白そうで読んでみた。
期待に反して? なかなか奥行きの深い言葉が次々と出てきた。 
下質な人生なら、周辺にいくらでも転がっている。誰もが、自分を少しは上質と思っているから生きられるのである。
私に、「貴方にとって上質な人生とは、どのような人生か?」と問われれば、「自分のやりたいことを早く見つけ、
生涯を通して楽しむことが出来て、最後に面白くて、良かったいえる人生」と、迷わずにいう。
それぞれの人生があるから、他人が比較するものでない。そのためには努力と忍耐と勇気が必要である。
  □ この特集の中で印象に残った言葉を抜粋してみる
*「お金の使い方で分かります」イタリア人は貯蓄をゼロにして、この世をさる。 
 「家と車について考え方を変えるー家と車に日本人は金をかけすぎ。小さな家でもいいじゃないか!
  家と車のローンで一生を終えてしまう人生に疑問。 お金の準備、遊びの準備が必要」大前研一
*「他人の基準にふりまわされ、ゆたかな人生を追い求めるほど、『上質』とはかけ離れていく。
  物が溢れる今の時代だからこそ、自分の基準で(ほどほど)を知ることが必要」
 「仕事も人生も、型を極めながらも肩の力が抜けた、ある種の軽やかさを持つところに、真の上質が宿るのです」                   
                                      「女性の品格」著者・坂東真理子
*「『将来なんてものは、どこにも存在してない。現在幸福である以外に、幸福であることはあり得ない。」池田晶子
*「『また会いたい』そう思わせる人が、上質なんだと思う」 
  〜〜
 中学校にしろ、高校にしろ、やはり上質というか、品の良いのはいた。残念?なことに、それがそのまま成績にも、
その後の人生にも大きく影響をしていた。品性が良いだけでなく、バランス感覚が違っていた。この年齢になってから、
若いときに出会ってきた人などを改めて照射してみると、全く違った基準でみることになる。品性だけは、隠しようがないもの。
 やはり、家柄や、生まれ持った本人の性質があるようだ。 なるほどカントがいう、『良心』が親から受け継がれてきた人と、
その逆の人とでは、長い人生で大きな差が出るもの。 それが端的に出るのが、酒癖、女癖である。
 私など、・・・・・

・・・・・・・・
3162,人生に関する小題
 2009年12月01日(火)
* 人生は玩具箱
「人生とは畢竟、運命の玩具箱だ。人間とはその玩具箱に投げ込まれた人形だ。」(有島武郎)
言いえて妙である。 そこには、これまで乗った車、住んだ家、他の人形もある。
「玩具の喩えを他人に喩えるのは問題である」と、いうのは別の機会にする。そこで「人生は宝箱」という言葉が思い立つ。 
(恐らく誰かが比喩をしているはず)行蔵の一つ一つが宝とすると、幾らでも宝はある。 それでは「人生はゴミ箱」というと、
それほど無いのは、無意識で自分の心をコントロールしているためか? そうでもないか?お宝は、心の底から感動したこと、
全身全霊で何かに打ち込んでいた時と事をいう。反対に、ゴミ箱は中途半端な時間を過ごしていた時?
 無駄も必要だから、それは違うか。
  〜〜
* わたしは地上でたった一人になってしまった
 「孤独な散歩者の夢想」は、64歳のときに書き始め2年後の死ぬ直前に終わった文章、ルソーの絶筆である。
「第一の散歩」から「第七の散歩」まであり、その後は「八、九、十」がメモのような文章が続く。
 冒頭で、「こうしてわたしは地上でたった一人になってしまった。 人なつっこい人間でありながら、万人一致の申合せで
人間仲間から追い出されてしまったのだ・・ わたしは、かれらから離れ、すべてのものから離れたこのわたしは、いったい何者か」
と問う。「自分に残されたことは、すべての世間から放逐された自分はいったい何者なのかを探求することだけなのだ」と自覚する。
 私の周辺で倒産時の男たちの気持ちは、まさに、このようだろう。多くの取引先、そして部下を路頭に迷わせ、自分の存在の
卑小さと、嫌らしさに自己嫌悪を一人する。 自分は何者なのか?ただ、歩くこともままならぬ、折れてしまった、これ!である。
 〜〜
*「人生は軍務のようなもの」と考えれば楽
 エピクテートスの「人生談義」の中に、以下のような言葉がある。
《 人生は軍務のようなものであるのを諸君は知らないか。 或る者は歩哨をやらねばならないし、
また或るものは戦うために出て行かなければならない。 皆が同一の処にいることもできなければ、
また善いことでもない。だが、君に何かもっと辛いことが課せられるとき、君が将軍から課せられた
任務を果たすことを怠って不平をいい・・・ それは軍隊がそういうものということを理解していない。
というのはもし皆が君のまねをするならば、人は豪を掘りもしないだろうし、また保塁をめぐらすことも、
危険を冒すこともしないだろう。 むしろ戦争に役に立たぬように思われるだろうからだ。(中略》・・・・
各人の生活は戦役、しかも長い複雑な戦役のようなものである。君は軍人の本分を守らねばならない。》
 = 最近、つくづく実感することである。「人生は不条理!と割り切るしかない」ということか?
 ・・・・・・・・・
2797.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・6
2008年12月01日(月)
 ー「学ぶ」ことは「知る」こと。「知る」ことは「変わる」こと。
 ダーウィンの次の言葉が好きだ。「もっとも強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き残るわけでもなく、
 唯一生き残れるのは、変化できるものである。」だから「学び」、「知り」その結果、「変わる」ことしか
 生き延びることが出来ないのだ。それにしては、あまり代りばえしないのは、如何いうことか・
  ーーー
「第5の法則】
  「学ぶ」ことは「知る」こと。 「知る」ことは「変わる」こと。「その瞬間に、わたしは自分が本当に
やりたいことを確信した。誰かのためではなく、打算的でもなく、自分の中のにある純粋な興味から、ただただ、
それを学びたいという 気持ちが芽生えたのだった」 エドワード・テーラー
「学ぶということは、これまで理解していると ずっと思い込んでいたことに対して、
 突如として まったく違った見方をすることです」          ドレス・レシング
「教育とは、学校で習ったすべてのことを 忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう。
 そして、そのカを社会・が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、
 みずから考え行動できる人間をつくること。 それが教育の目的といえよう」 アルバート・アインシュタイン
「学べば学ぶほど、 自分がどれだけ無知であるかを思い知らされる。
 自分の無知に 気づけば気づくほど、よりいっそう学びたくなる」     アルバートアインシュタイン
「どんな教育もつきつめていけば、独学につながる。
 その意味で、独学が唯一の教育であると、私は確信している」       アイザック・アシモフ
「知恵を獲得する過程で、 忍耐があれば、すでにその半分は 手に入れたようなものである」  ユダヤの諺
・・・・・・・
2007年12月01日(土)
2432, 田淵節也 −「私の履歴書」最終日        オッ ヽ(゜∀゜)ノ ハー
11月の「私の履歴書」は野村證券の元会長の田淵節也であった。週に2日位は読んでいたが、昨日が最終日であった。
アメリカの衰退と、その隷属国家の日本の動乱?を予測。バブルが弾ける直前に、彼が「株は長期に低落する。
「時代は変わった」と言ったのを憶えている。その時、「株屋のオヤジがこんなことを言ってよいのか?」と驚いたが、
再び、ここで同じことを予言している。「また、海の色が変わる!」という。
 ーーー
ー日経新聞「私の履歴書」2007年11月30日ー
 =アメッポンの行く末は 世の中変わる、不変の真理=
  *再度・海の色*
バブルが弾ける直前に、僕は株式相場の潮の変り目を直感して「海の色が変わった」と発言したことを書いた。
今、その時感じたのと同じような胸騒ぎを覚える。 「アメッポン」(アメリッポンと言う人が多いが、
僕はアメッポンを使う) と言われる日本は米国に振り回されてきた国だ。
その米国が今また大きく変わる節目にあるような気がしてならない。
 来年の大統領選挙で優勢が伝えられている民主党候補が勝てば、イラク戦争への厭世気分が一段と高まり、
中東情勢は混沌とするのではないか。中東情勢が混沌とすれば、ペーパーマネーのドルの信認が低下し、
米国は金や原油、穀物などの実物資産を裏付けとする新しい通貨制度を考え出すのではないかと思う。
そうなれば、金本位制が「ドル本位制」に変わって以来の大変化だ。世界中が混乱、
アメッポンの日本は一番大きな影響を受ける。 既に、世界はざわついてきた。
僕は安倍晋三前首相のお父さん(安倍晋太郎元外相)と親しかったが、安倍さんが総理になった時、
「蒸留水しか飲んだことがない人は持たないのではないか」と思った。 小沢一郎さんが天下を取るのか
小泉さんが再登場するかは分らないが、いずれにしても、日本は大揺れするのではないか。
高度成長期以来、ぬるま湯につかってきた日本は、久しぶりに大激動の時代を迎える
ことになるように思う。 僕は日本の将来を悲観も楽観もしていない。 日本は世界屈指の豊かな国だ。
「職人国家」としてそれなりのステレータスを保っていけると思うから心配していない。
最近、円高を歓迎するようになったのは進歩だと思う。もっとも、軍事力も持たずに「金融立国」
の幻想を抱いている人は幻滅するかもしれないが……。「履歴書」を書く機会を与えられ人生を振り返っても、
僕の人生なんて波欄万丈には程遠く大したことはない。改めて人生観を自問すれば、「人間は太古の昔から
同じことを繰り返している動物」ということだ。 人生は思った通りにならない。それは残念なことだが、
だから人生は面白いのであり、結果的にハッピーなのではないか。
「人間三代でチャラ」とはよく言ったもので、いい事ばかりは続かないし、悪い事ばかりも続かない。
人間、何が幸せで何が不幸か、本当のところは分からない。それもまた人生の面白いところだ。人間は変わらないが、
世の中は変わる。これが実感であり、不変の真理なのだと思う。・・・・
 −−−−
解)今年から5〜10年にかけて、歴史的にみて動乱期に入った!ということだ。
それと日本を「職人国家」という見方も面白い。今後のアメリカの没落は誰の目にも明らかなこと。
とすれば、アメリカの国債を半強制的に持たされた日本は、アルゼンチン並みへのプロセスに入るのは当然である。
                  (σ’д゜)バイ!
  ・・・・・・
  2006年12月01日(金)
 2068, あたりまえなことばかり −19
     (+>∀<+)ノ おぁはは〜ようさん!
  哲学的にみると、トラウマ「心的外傷」に対して、心は物理的に存在していないのだから、外傷と言えないという。
 しかし深い悩みを持った人は、心を肉体に喩えると大きな傷を負っている。大きな傷として仮定して、その傷口を消毒し、
 外科的な手当てが必要である。それが精神科であり、セラピーの役割となる。それぞれの立場・見方も必要である。
 以前は、癒しなどの言葉は無かった。精神科があってもセラピーなどあったのだろか。手相などの占いが、昔流の
 セラピーの役割をしていたのだろう。私の場合の心の危機の場合、読書、音楽、ウォーキング、酒を飲んだり、
 このHPなど、癒しそのものである。最近は、これに早朝の曼荼羅モーニング・ページである。 
 それに毎朝の仏壇の前の祈りもある。ストレスなど溜まるわけがないが、それでも少しは溜まる。  
 自分の連れ添いが自殺したり、子供が自分のミスで死んだりした時に、癒しなどという言葉は、
 あまりにも甘く聞こえてくる。自分で自分を救う以外ないだろうが、自分で自分を癒すなどできはしない。
 そう考えると、癒しとは「目先の心の傷を応急処理すること」ということになる。
 それも大事なことである。それをしなかった為、精神病になる糸口になるからである。
 まあ、この本の抜粋もなかなか面白いが・・・ 
ーーーーーーーーーーー
どうすれば癒されるのか  
ーーーーーーーーーーー
癒しは「ストレス発散」「コンプレックス解消」に比べると、具体性に欠ける。ストレス解消のためカラオケに行く。
コンプレックス解消のために化粧をするという具体性は無い。 何となくふわふわと浮わついた「雰囲気気」、
それが当の癒しであるとするならば何となく納得する。 だとしたら、癒されるべき傷などどこにも無かったか、
その程度のものである。具体的なものが見えないから、漠然とした物欲しげなそこへ、各種のグッズやセラピーが
商品として流通するという構図である。しかし、受動態「癒される」の主語あくまでも「自分」なのだから、
主語を支点にこれを能動態に変換すれば、「自分が自分を癒す」になる。「癒し」とは、各種グッズやセラピーによって、
自分で自分を癒す能動的行為であると言うこともできる。自分で自分を癒すとは、どういうことであろうか。
癒すためには癒されるべき傷がなくてはならない。傷とは何であろうか。傷ついているのは自分である。 
そう思っているのは誰だろうか。「自己治癒」という、いっけん明瞭なようなこの概念は、日常レベルの予測を
はるかに超えた、広がりと奥行きと複雑さを持っている。それは、一般的な問いのある種の逆転によって垣間見られる。
「私とは何か」   −>「何が私であるのか」 「心とは何であるか」−>「何が心であるか」
「心はどこにあるか」ではない。「何が心であるか」である。「どこに」は、既に三次元空間内にそれがある存在している
ことを前提としている。脳も心もこの三次元空間内の物体である。しかし、心の痛みは、その痛みはそのものは、物理的な
存在ではない。本来、物理的な存在でないものを、物理的な存在であるように表象する、もしくは表象させるそのような
命名が、多くの誤解を生じさせている。トラウマ「心的外傷」、その視覚的イメージが、何がしかの塊り状のものが、
傷口を空けているという光景である。 心的外傷、すなわち心が外から受ける傷である。
物理的でないものの、「外」、その「内」とは、どのような区分であろうか。「心の外」とは、どこを指すのであろうか。
「心」に外と内があるというのは、これも長い我われの錯誤は、「私」が身体であるという一方の強力な錯誤と手を組んで、
「私の心は体の内側に存在する」、その主観である。そしてそれは客観としての世界もしくは他者とは関係しないか対立する、
という錯誤の世界像として定着する。したがって、「私の心に傷を与えるのは、世界もしくは他者である」。
トラウマ理論とは、あるいは主客二元の世界観に典型的な、短絡的解釈ではないだろうか。
幼少期に虐めを受けたから性格はこうなった、という遠い原因から、あなたにそういわれたから私は傷ついた、
(字数制限のためカット、10年12月01日)
・・・・・・・
2005年12月01日(木)
 1703, 政府系金融機関の統合                (~O~)ふぁ
政府系金融機関が三年後に統合されることになった。郵政民営化にともなう郵貯の出口の縮小処置である。
悪く言えば、中小金融機関への貢ぎもの(中小企業の債権)である。      ヽ(ヽ゜)ヒイィィィ!!!
思いきった人員整理も断行されるから、政府系金融機関の職員は仕事にはならない。統合は地方の切捨てでもある。(@_@;)
戦後60年、地方への過剰投資が目にあまったことも事実。 四国への三本の大橋の建設は、この象徴である。 (=_=;)
糖尿体質の現在の地方には過激な手術になるが、グローバルの時代に中途半端な体質変換では日本そのものが衰弱死をしてしまう。 
(字数制限のためカット、09年12月01日)
 ・・・・・・・
 2004年12月01日(水)
 1338, 「自分を活かす極意」ー 読書日記−2 
    ー自分のクセを技に変えるー
   三色ペンの技法に次いで、この言葉が印象的である。 その文章を抜粋して考えてみる。
  ーでは、ふつうに日常生活を営み、ある程度の年齢に達成した私たちには何を技にすればよいのだろうか。
   私は究極的には「クセの技化」だと考えている。 武道や芸道ではクセを直して技を身につける。
   しかし、年齢を重ねると、クセはほとんど直らないものである。   それを直そうとするよりも、それを芸にする、
 (字数制限のためカット、10年12月01日)
・・・・・・・・
2003年12月01日(月)
971, ナレッジマネジメントー2
 「マルコムボルドリッヂ国家品質賞」について
字数の関係でカット(2007年12月01日)
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 2002年12月01日(日)
597, スーパー床屋 −2
そこで働く人たちはほぼ全員椅子貸しの契約社員。 TVで見た範囲の知識だが、頭の洗いは省略をして掃除機の
ようなもので吸い取ってしまう。髭そりもオプションになっているようだ。一人当たり10〜15分で仕上げてしまう。
   特に土曜と休日に集中するという。それなら美容院もあってもよいのではと思ったら新潟にも全国チェーンで
「クイーン&キング」という名で青山にあるという。 これなら家族でいける。知人が最近スーパー床屋に
切り替えたと言っていた。月に一回行っていたのを2回行くようになったとか。それでも安いという。
「将来殆どがスーパー床屋にきりかわるだろう」と言っていた。自宅の近くのSCゾーンの一角にスーパー銭湯が開店するが、
その中にスーパー床屋が併設されると家内が言っていた。 500円の銭湯に1500円の床屋で2000円である。
それでも床屋の半額なら大部分がそちらを選ぶだろう。 今の回転寿司と寿司屋の使い分けの状態ににてくる。
寿司屋も数年前に80?は回転寿司に取って代わると食堂専門誌に書いてあった。現在その流れが加速している。
年に1〜2度寿司屋に行って、月に1〜2度回転寿司に行くパターンになってきている。
学生時代の事を思いだした。池袋駅の地下に半額に近い床屋があった。多くの若い女性の従業員がいて広い店であった。
いつも満杯であった。ただ一回で二度と行かなかった。若い女性にミニスカートに胸の開いたブラースを着せて色気を
売っていた店がある時期流行ったという。 クラシックを流している床屋もあった。 何か床屋談義になってきた


3536, 沈黙せよ!

2010年11月30日(火)

「語りえぬものからの問いかけ」という東大駒場〔哲学・宗教・芸術〕連続講座ー
《 「言い表せないもの」の詩学 −チュッチェフ『沈黙』の逆説ー沼野充義 》の「沈黙」という詩に、
 思わず息を飲んでしまった。 何か、毎日、自分が書き続けていることを根底から否定されたようである。 
否定されるほどのものも無いことを私が一番知っているから書いているだけだが。
  ーまずは、以下の文と詩からー
【 チュッチェフには「沈黙」と題された詩がある。この詩人は、ドイツ・ロマン主義の影響の色濃い哲学的・
思弁的な作風で知られ、バラティンスキーと並んでロシアにおける思想詩の系譜の一人とみなされている。
「沈黙」も、そういった傾向を代表する彼の初期の代表するチュッチェフ初期の代表作の一つで、ロシア人なら
誰もが知っているほど有名なものです。文豪のトルストイはこの詩に感激し、「なんという驚くべき作品だろう!
これ以上の優れた詩を私は知らない」とまで言ったと伝えられていす。それほど有名で優れた詩であれば、
これまで多くの専門家によって数多くの研究や解釈がなされてきたのも、また当然のこと。 ・・・・・
翻訳で読み、解釈するという作業にはどうしても限界がありますが、そのことを肝に銘じたうえで、
しかしそれでも何かを読み取ることができるかどうか、読解を試みてみましょう。
  ー 沈黙! ー
沈黙せよ、隠れよ、そして隠せ           自分の気持ちも夢も―
魂の深みでそれらは                 夜の星のように黙々と
昇っては沈むことを繰り返しているがよい     それに見惚れ、沈黙せよ!

心はどうしたら自分を言い表すことができるのか   他人にお前のことがどうして理解できようか
お前の生きがいが他人にわかるだろうか       心に思うことも口に出せば嘘になる
泉を掘り返しても、水をかき乱すだけだろう      ただ泉の水を飲み、沈黙せよ!

自分自身の中で生きることだけができればよい    お前の魂の中にはまるまる一つの
神秘的で魔法のような思念の世界がある       その思念を外の騒音がかき消し
昼の光が追い散らしてしまう               それら思念の歌に耳を傾け、沈黙せよ! ……
 〜〜
「 ・・・・・・・・・・ 」この詩について、何かを語れといっても・・ 「HP読みながら、いつも思っていた!」って言わない。
 思念公開も面白いもの。 土いじりや、趣味の世界、神への思念に没頭すると、沈黙せざるを得なくなる。 ーつづく
 ・・・・・・・
2009年11月30日(月)
3161,つれづれに ー閑話小題
 * 円高 85円
為替が円高・ドル安に動き出してきた。 それにつれて金の価格もジワリと上がってきている。
年末に向かって周辺も冷え冷えとし、殺伐としてきている。 年末年始は大荒れになるのか、それとも何とか
中小企業特別救済で乗り切れるのか? 公共事業の大幅カット、そしてボーナスの減額、デフレスパイラルによる
不況の深化などで、一日一日と厳しさを感じる。 この上に円高というから、救いようがない。 
社会はますます内向きに成りざるを得ない。
 * 「坂の上の雲」がNHKドラマの初回が放送されたが
「坂之上の雲」が日曜日夜のNHKで数回シリーズのドラマとして放送が始った。 私たちの年代の多くが、
この小説に大きく感化された。 筋立ては、秋山兄弟と正岡子規の生きかたを通して、明治時代の人間像と
時代背景を書いている。 ある意味で、戦後日本人に一番影響を及ぼした歴史小説で、「大きな物語」の典型。 
20歳代の青春時代を思い出しながら、このドラマを見るつもりである。 ただ、小さな物語(個々人の物語)
の時代の現在、大きな違和感も出てくるだろう。 司馬遼太郎が晩年、日本のバブルの狂態をみて、
「自分が、こんな連中の時代のために、小説を書いてきたのではない」と怒っていたのも印象的である。
 * 同じ映画を二度みたのは始めて! 
土曜日にシネマ「2012」を再び観てくる。映画を二回つづけて観るのは初めてである。 
二回目にみた方がズシリとくるから凄い。 初回は、世界崩壊のリアルさと、物語の筋たての両方に気持ちがいったが、
二回目は地球崩壊の画面をリアルに観ることに絞って、気持ちを入れて観た。そのため前回には観えなかった画面をシビアに
感じることができた。何で、これだけ引きつけられるのか?といえば、地球規模の破壊スケール。 
南極と北極が入れ替わるというから。 金融恐慌から恐慌への過程の中で、タイミング的にピッタリの内容である。
 ・・・・・・・・・
2008年11月30日(日)
 2796.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・5
ー 金を追うな、金に追われるような人間になれ ー
【第4の法則】 金を追うな、金に追われるような人間になれ
 「空気人間になれ」
(ゲットーに住むユダヤ人は隙間で生きていかなればならなかった。自分に対する誇り、自尊心が確立されているから、
仕事の体裁などにこだわることはない。チャンスとみれば偏見に囚われずに何でもやる。元手が少なくても、
わずかなチャンスを確実にっかみ、成功に近づいていく。空気のように軽く、どこにでも入っていく。それでいて、
空気のように誰もが必要とする資質を兼ね備えた人間。苦難を空気化した人間、それがルフトメンシュである。)      
                               ユダヤの知人の言葉
*「この仕事で 豊かな気分になることはない
 ただあるのは、どれだけ稼いでも、新しいレベルの 相対的貧困感に 苛まれること」 ユダヤ人の知人のコトバ
*「神がお金について どう考えているのかを 知りたいのでしたら、
 どんな人に神が お金を与えたのか を観察してみるといいでしょう」  ドロシー・パーカー
*お金は手段にすぎません。自分が行きたいところには 連れていってくれますが、
*11ポ・ドの金塊よりも、 1オンスのツキのほうが 価値がある」  東欧ユダヤ社会の諺
*「人生は、賢者にとっては 夢であり、 愚か者にとっては ゲームである。
 金持ちにとっては 喜劇であり、 貧乏人にとっては 悲劇である」 ショーレム・アレイヘム
・・・・・・・・・
2007年11月30日(金)
2431, ネット君臨      ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。
「ネット君臨」−毎日新聞取材班ー(出版・毎日新聞社)
                       −読書日記
この本を図書館で見つけ、読んで驚いてしまった。この春先に毎日新聞が連載したものを本にしたものだが、
この連載は大きな社会問題を提起、幾つかの規制の法案ができるキッカケになった。
私も政治や、ゼネコンなどの談合に批判を書いているが? 言い方には気をつけなければと自戒させられた。
マイナーの人?いや色いろな考えの人が見ているのである。それにしても、ネットによる虐めの陰湿さには驚いてしまう。
特に「2ちゃんねる」上における、匿名による誹謗・中傷の内容は、人を死に至らしめるほどの内容に満ちている。
毎日新聞の連載をまとめた本だが、ネットのマイナス面に絞っているのも、ネット社会の規制を考える面で、良いこと。
*まずはアマゾンの、この本の紹介文から
 ー内容紹介ー
匿名社会の恐怖、拡大するネット犯罪…。ネット社会の急速な進展は、我々の生活 に便利さや効率をもたらす一方、
さまざまな負の部分を生み出している。ネットは我々をどう変えるのだろうか。また我々はネット社会をどう築けばいいのか。
ネット社会に警鐘を鳴らした毎日新聞取材班の大反響連載「ネット君臨」の書籍化。本書では、国内最大のネット掲示板
「2ちゃんねる」に代表される匿名による誹謗・中傷が人々の暮らしに深刻な影響を与えている実態を現場から報告。
「2ちゃんねる」の管理人ひろゆき(西村博之)氏にインタビューしている。さらに国の政策がインフラ整備に偏り、
企業や個人のマネーゲームを生んでいる実態や米国、韓国、中国のネット犯罪の現場をルポ。
 ー概要ー
マスコミがこれまで殆ど触れてこなかったネットの問題点に真正面から切り込んでいる。
難病(拘束型心筋症)の上田さくらちゃん(四歳)がアメリカでの心臓移植をうける費用(約一億三六〇〇万円)
を賄うために「さくらちゃんを救う会」が結成され、ボランティアによる募金活動が開始された。
(字数制限のためカット、09年11月30日)
・・・・・・・・・
2006年11月30日(木)
2067, あたりまえなことばかり −18
                      (+>∀<+)ノ おぁはは〜ようさん!
人生には、それぞれに相応しい時期がある。その年齢ごとに新しい経験を織り込んでいくのが人生である。
私の中学校のクラスは卒業後も非常に仲がよくて、節目ごとにクラス会を開いていた。地元にボス的な女性がいて、
その都度声を掛け合って20人は集まっていた。卒業後15年ほどしてからは1〜2年ごとにクラス会を開いていた。
担任の先生の停年の年には(18年ほど前)、湯沢に一泊した翌日、長岡に帰ってきて、延々と夜半まで
三〇数時間も一緒に飲み続けた。最近までは毎年のように理由をつけては会を開いていた。
そこで見えてくるのは、「歳をとるから老いる」ということではないことである。
経験を自分の人生の中で織り込んでしまえば、生きるということ、老いることも、むしろ面白く、味わいが深くなる。
人生など大したことがないものである。深刻に考えるだけ馬鹿馬鹿しい。気楽に考えて、その時々を真正面から
生きていさえすれば、それでいいんじゃないか! ということである。
        ( ^3)〜♪よ〜よ〜それが一番、難しいんじゃないかい!        
 ーーーーーーーーーー
 老いは個人の生を超え  −? 
 ーーーーーーーーーー
老いるほど人生は面白くなるという言い方は、確かに可能である。その歳まで、いったい何をしてきたのかと
訝りたくなるような老人が多い。おそらく、何もしてこなかった。摂食、生殖、快楽の追及以外何もしてこなかった。
刺激に反応して、反応したら忘れるといった動物的生存の日々、そういう人々は、したがって老いることを拒む。
動物的生存に価値がある限り、肉体の衰えは価値の喪失以外ではないからだ。老いた自分に価値が認められない。
「老醜」とは正確には自虐的に使われる。逆に、内省を知っている人は美しい。 鏡を内側に持っているからだ。
外に映る鏡の姿が崩れているにしても、ともに崩れる必要がない。若年からの内省の習慣、老いるほどにその姿は違って見える。
内省すること、心の姿を整えること、それが魂の世話をする意味である。歳を重ねると、内省と回顧が判然としなくなるが、
面白いのは、このとき回顧されているのが自分の人生ではなくなっているということだ。自分の人生を振り返ってその視野に、
自分の人生としての人類の人生、すなわち「歴史」が、当たり前のように入ってくるようになる。
内に鏡を所有して生きることの面白さは、その現在の鏡に過去が映っているからだ。
過去とは現在以外ではなく、歴史とは自分以外のものでなかった、と気づかされるのだ。
それが鏡が鏡であることの秘密である。「歴史は鑑である」とは、本来その意味であった。
 ーー  
 母親が80歳の時に、「私の生きた5〜6倍前に家康や秀吉が生きていたと思うと、大して昔じゃなかったのね!」
 いった言葉は、歴史が鑑であるという意味ではないが、ハッとする言葉であった。 自分の生きた時間と家康の
 生きていた時代を対比して感じ取った言葉だからだ。 田中角栄がどうした!と、今では確信を持っていえる自分がいる。
 それは自分の人生とは比べようもない実力を持った人も、過ぎ去ってしまえば、ただの悪名高き犯罪者でしかなかった政治家。
 その男が活躍していた時、私は学生で、雲の上の人とみていた。いまは、「何じゃい!戦後バブルの波に浮かんだ泡以上でも
 以下でもない男。 そしてまだ、その娘が馬鹿丸出しで恥をさらしているだけ」としか思えないのも、自分が生きてきた
 時間の中で、自虐の自分を鑑にしてみるからだろう。 (-"-;) これも長年生きた歪みが、この言葉であるということだ。
 あと十年経てば70歳、20年経てば80歳である。これは生きていればの話で、もしそこまで生きていて加齢した自分を
 自虐していたとしたら、全く何もしていなかった人生を嘆いているだけになる。それは現時点でも言えることである。 
   (ノ≧ロ)ノ< いまさら何をいってんだ、ばかやろぉ〜〜〜!!!       (*^ワ^*)i バイバイ
・・・・・・・・
2005年11月30日(水)
1702, 中学校還暦同期会 −2      nemu(ρ_-)
先日「中学校の還暦同期会とはこんなものだった」という概略を書いた。
今回は還暦から人生を振り返って、感じたことを書く。人生の60代に入り、
40数年ぶりの幼馴染に会い感じたことは「人生の成功とか、失敗は大して変わりはしない」ということだ。(いや、あるか?)         *上手くいったという人はそれでよし、
 *上手くいかなかったが、それも自分の責任、悔いはなし、というのもそれでよし。
  要は、自分の人生の受けとめかたである。人生の成功・失敗とは何だろうか?改めて考えてみる必要がある。
 どういう人生であっても、明るくニコニコしていればそれで良いのではないだろうか。(≧▽≦) 本当か?
 誰にでも悔いがあるのが人生である。それに対し、でも生まれてきてよかった!と、心から思えれば良いのではないか?
 そうすると、笑いと感謝さえ失わなけれ、「『ありがとう』を一日、千回いって、その結果として自然の笑いが出てくればよい」
 ということになる。♪〜(=^ε^= ) 出席している人は、比較的に恵まれている人?のためか、全体として、明るい人が多かった。
 めでたい席で暗い顔もしていられないのだろうが。私が、彼らの気持ちを代弁していうと、
「ここまで、人生の良いところを生きてこられて良かった!」というのが、偽らざる気持ちだったろう。
 年齢に気持ちがついてきてないのが本当のところだろう。 人生は短い! 成人式ということだ! (^_^)/~~baybay
 ・・・・・・
 2004年11月30日(火)
1337, 「自分を活かす極意] 」   ー読書日記 −1
  齋藤スタイル―自分を活かす極意   齋藤 孝 (著)           
書店のエンドでよく斎藤孝の本を見かけたが手にとるだけで買わなかった。いや一度、この著者の本を図書館から借りてきたが、
読まずに返したことがあった。先日、図書館でこの本を見かけ借りてきて速読をしたところ、内容が濃厚である。
斉藤孝の多角的世界を集大成してある。日本語、身体、能力、読書、教育、子ども…。
多彩なテーマを独自のスタイルで語たりかけていて、斎藤ワールドのダイジェストといえる。
対談という形を通して著名な人の意見と議論がより深みを持っている。特に「三色ボールペンで読む日本語」
のダイジェストの章がよい。赤ペンチェックの言葉が多い。「図化と文章化」 「具体的かつ本質的」
「エネルギーを出し続けているが故に、技も必然的に磨かれていく」などもよい。著者は、「勉強でもスポーツ仕事でも、
自分が体験し学んだことは、自分のスタイルとして練り上げ、技化しなければならない」といっている。
齋藤氏の「スタイル」と、ノウハウの集約書である。ー今回は、まずは三色ペンについて書いてみる。数年前に、
「三色ボールペンで読む日本語」を図書館から借りてきて目を通したが、ほとんど読まないで返してしまった。 
おそらく他に面白い本があったのだろう。しかし先週の土曜日に、この本を借りてきて再度「三色ペン」の効用を読んで、
4色ペンを買ってきた。
ー著者の勧めの青、緑、赤だけの三色ペンが無く、これに黒の入った4色ペンしかなかったー
まずは買うことによって、実際の効果を確かめたかったのである。
この本では、三色ペンで読書をしながら
・重要な部分を「赤」の線、 ・少し重要な部分は「青」の線、 ・面白いところを「緑」の線、 
で色分けをすることを勧めている。これは取りも直さず20対80法則の、20の区分けをしていることになる。
( 以下、字数の関係でカット 2010年11月30日 )
・・・・・・・・
2003年11月30日(日)
970, 「遺言川柳」
 UFJ信託銀行が11月25日に単行本「遺言川柳」を発売をした、と新聞やTVで話題になった。
当銀行が「遺言川柳」を募集したところ、約1万2000人から5万通以上の作品が寄せられたという。
せいぜい2000〜3000作品」と見込んでいたUFJ信託銀行にとってうれしい誤算だった。
そこで急きょ、出版社からの申し出で「敬老の日」を狙った作品集の発行が決まるなど、「遺言川柳」がちょっとした
ブームになっているという。遺言といえば、両親とも、私にとって「有利な遺言」を書いて亡くなった。
遺言は残された子供にとって、その後の人生を左右するほど大きい要素になる。母が亡くなったときは、
さすがに4人の姉に「恨み辛み」をいわれた。それだけ、両親は「家」というものを重んじていたのだ。
両親が亡くなるとき、同居をしていたため情が移っている部分と、末っ子という特殊要因もあった。
 相続は、それぞれの子供に連れ合いがいるから複雑になる。日常でおこる争いの一番の原因になる。そして生々しい。
ー以下の遺言川柳は一つ一つの意味の深さを十二分に実感できる。
 −−−−−−−
ー特選ー 1作品
・遺書書いて 腕立て伏せを 二十回 (64歳・男性)
 ーー
ー入選ー 5作品
・遺言も 開けてみるまで 宝くじ (25歳・女性)
・情よりも 法が出しゃばる 遺産分け (63歳・女性)
・書き替える たびに痩せゆく 遺産額 (70歳・男性)
・通夜の席 銀行マンが 勢揃い (55歳・不明)
・遺言を 地球が書いて いるらしい (46歳・男性)
  ーーーー
以下は、字数の関係でカット
 2007年11月30日
・・・・・・・・・・
2002年11月30日(土) (2)
 596, スーパー床屋は席貸業 -
最近、新潟でも目立つようになってきたスーパー床屋の実体が面白い。日経流通新聞の広告でフランチャイジーの
募集の内容に興味を持った。「経営は理髪師の免許がなくても可能です」どうして?と思うのは当然である。
若い人が既存の店で修行と称してタダ働きに近い状態?を強いられていた職人の世界である。
そのプロセスを踏まないと新規の出店の時に想像を絶する嫌がらせに会うと聞いていた。
誰もが知っているあの日本的馬鹿いや愚かの世界である。関西人がそこに目をつけ、チェーン化を始めた。 
場所貸し業と捉えたのである。スーパー床屋のシステムはその席貸し業に組み替えたシステムである。
この辺の話しは良く解る。オーナーは不動産業なのである。最適な立地の不動産のオーナーと
理髪のフランチャイザーが組む。フランチャイジーはマニュアルどおりにやればよい、タダそれだけでしかない。
席を借りた人は働いただけお金になるのだ。札幌のススキノで飲んで帰るタクシーの運転手さんの話が今でも忘れられない。
深夜のタクシーは倒産した人の最後の砦の世界という。とりあえず、お金がほしい自分達の必至の金稼ぎの世界である。
タクシー会社も深夜の高い人件費を考えると、そのままタクシーを丸投げで貸したほうが良いという。 
その応用がこのスーパー床屋の世界なのである。場所貸しで割り切った若い人が必至に働いてもらった方がいい。
若い人で4〜50万稼ぐ人がいるとか。都会の既存の床屋はここにきて大きな落ち込みが始まり、また新規開店が
激減したとか。床屋の世界おまえもか!である。そういえば宅配便の運転手はもっとシビアの世界だ。
 (以下は、字数の関係でカット 2010年11月30日 )


3535, つれづれに ー 閑話小題

2010年11月29日(月)

  * 自分の初めの感じたことを信じなさい!
 夏の終わりごろにニューカレドニアに行った時の話。 ホテル内の土産店で若い女性二人が土産物に迷っているところ、
60歳代半ばの日本人男性が話しかけていた。「自分の初めの感覚を信じなさい!」と。「私に、そんなことを言ったら
『アフォか、御前は!』と思うが、若い女性になら良いか?」と独り言を頭の中で呟いていた。 
その言葉は、正しくもあり、間違ってもいる。これは経験からいえること。経験の浅い人になら、自分の感覚を信じて、
まず決断をし、その結果をフィードバックする方が、躊躇して何もしないより良い、ということになる。 
それを信じて軽い気持ちで判断をして大失敗を数限り経験してきた私にとって、そんなことは若い女性にしか言えないこと。
その人に何か怪しげなバナナ的雰囲気を漂わせていたが。同じ言葉でも、受止め方は年齢、知識・経験の質量で変化する。
  * 尖閣ビデオでYoutubeが注目される
 もう古い話?になったが、海保のビデオ流出事件でYoutubeが更に注目を浴びてきた。
Youtubeは10分間の制限があるが、個々人が撮影したビデオを自由に投稿できるもの。僅か5年前に若い二人の米国人によって
つくらたサイトで、一年後にGoogleに2000億円で売却された。日本にも、その翌年2007年に上陸、瞬く間に普及した。
一日20億回のアクセスがあり、このサイトから世界的に有名になる人が続出。 数ヶ月前から面白そうなものを私のブログに
貼り付けている。過って見たことがない面白い映像が次々と見つかる。TV番組でも、世界の面白映像として毎週紹介する番組が
既に出来ているが、その多くは見たもの。 面白いビデオの右側に関連したビデオの写真が貼り付けられ、アクセス数が
書かれているので、関連したビデオにネットサーフィンできる。 そこで、思いもよらない世界を垣間見るケースが多くなる。
コスプレ、ラップ、ペットなど、知らなかった世界を知ることが可能である。ところで、あのビデオについて石原慎太郎が、
「売国奴の治世者が、英雄的行為をした人を国辱罪で訴えるという奇妙な現象が起きている」と発言。言い得てるが、
それが東京都知事ときている。訴えると脅され、「チャンと受けてたって証言をする」といったら、何も言わなくなったとか。
 面白いと笑ってられないのが、この国の現状。
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3160, ドバイが債務不履行!
 2009年11月29日(日)
 アラブ首長国連邦のドバイの資金繰り悪化が表面化した。数年前にドバイの発展する様子をNHKスペシャルで放送したが、
石油で得た資金で競って超高層ビルを中心とした新都市の様相には驚いた。 世界のクレーンの3割が、そこで動いているという
信じがたいことも報じていた。大金持ちの若い御婦人が高級ショップで「もう、買うのに飽きてしまった、ツマラナイ!」と云々。
しかし今年に入り一転、金融危機と石油の値崩れで、歴史に残るバブル崩壊を映し出していた。 
数年前の活況時のドキュメントの映像と比較した内容だから、その段差は極端。さながら映画のようである。
そのドバイの債務不履行は5兆円というが、数十兆円になる可能性がある。欧米の金融機関、特に欧州の金融機関が直撃という。
また日本のゼネコンの大林や、清水建設も大きな請負をしているというから大打撃になる。鹿島、大林がどうか分からないが・・
大手ゼネコン総倒れの可能性さえある。さらに日本の大手銀行もドバイワールド向けの債権を多く抱えている。 
さらなる本格的な金融崩壊の引き金が、この辺になるかもしれない。 この金融恐慌の底は深い。それに関係して、
ドルとユーロが値下がりの圧力がます。80円割れでなく、70・60・50円割れもありうる。その時、日本はどうなるのか、
考えただけで身の毛がたつ。 師走と新年は大荒れになるのは覚悟をいていたが、なるほど、次はドバイが発火点ということか。
銀行閉鎖や、国家非常事態宣言!も、というとマサカと思うが、そのマサカが次々と起こる。
 何が何処かで、戦争をしかけるか? ありそうな事だ! 大きなテロをキッカケに、イスラエル?北朝鮮?
ロシア・東欧?で、G20が抑止力になるか、どうかだ。 
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2795.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・4
 2008年11月29日(土)
【第三の法則】 口はひとつ 耳はふたつ
「神が人間に二つの耳と一つの舌を与えたのは、話すよりも聞くことを重視したからである」 ユダヤの諺
「口を閉じれば閉じるほど、自分の話を聞いてもらえる」
「噂はかならず三人の人を殺す。 噂をばらまく人、疑問を抱かずに噂話を聞く人、そして噂の対称になっている人だ」
「美徳と称するものは、 他人の嫉妬を刺激するものだが、控えめであることだけは例外だ」 ユダヤの諺
「捕まえた鳥を逃しても、また捕らえることが出来るかもしれないが、
 一度発した言葉を 取り返すことはできない」          ユダヤの言葉
「知恵に近づくには、まず沈黙し、次に相手の話に耳を傾け、第三にそれを自分の中に吸収し、最後は人に教えてみることだ」                                                   ソロモン・カビロール 
  (字数制限のためカット09年11月29日)
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2007年11月29日(木)
 2430, <おばあちゃん> 『いのちの書』ーより
「ちくま哲学の森」シリーズの第2巻の『いのちの書』という生死の関する22人の内容が驚く内容の連続である。
死刑の立ち会いの詳細、実際に拷問にあった本人の手記、臨終のこととか。死に関しては、日常の中では、誰もが
見てみないふりをする。しかし書き手が言葉として書き連ねると、それ自体が物語になるだけの深みを持つ。
この本の冒頭の金子光晴の詩がよい。
 ーーー
<おばあちゃん>  金子光晴
『若葉』のおばあちゃんは   もう二十年近くもねてゐる。
 すべり台のやうな傾斜のベッドに  首にギプスをして上むいたまま。
 はじめはふしぎそうだったが  いまでは、おばあちゃんときくと すぐ<ねんね>とこたえる『若葉』。
 なんにもできないおばあちゃんを  どうやら赤ん坊と思ってゐるらしく サブレや飴玉を口にさしこみにゆく。
 むかしは、蝶々のやふにへんぺんと 香水の匂ふそらをとびまはった おばあちゃんの追憶は涯なく、ひろがる
 そしておばあちゃんは考える。 おもひのこりのない花の人生を 『若葉』の手をとって教へてやりたいと。
 ダンディズムのおばあちゃんは 若い日身につけた宝石や毛皮を みんな、『若葉』にのこしたいと。
 できるならば、老いの醜さや、病みほけたみじめなおばあちゃんを 『若葉』のおもいでにのこすまいと。
 おばあちゃんのねむっている眼頭に じんわりと涙がわき 枕にころがる。願ひがみなむりとわかってゐるからだ。
 ーー
 ある伯母が晩年に「歳をとることは、無念なこと」と言っていたとを、聞いたことがある。偶然に去年、老いを取上げていた!
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2006年11月29日(水)
2066, あたりまえなことばかり −17
                         おふぁ  ファ〜
そろそろ、死に支度モードに入らなくては、と思っていたが。チョッと待てよ!死なないのだから、
そんな準備などする必要はない。が、しかし歳相応にギアを変える必要はある。還暦を過ぎたのだから・・
両親の死に際に、二人とも同居していた。そして「老いる」姿と、肉体的終末を看取って、
決して歳をとるのも悪くはないと実感した経験がある。さらに老いた色いろな人と人生を多く語り合った。
だからこそ、老いることはまんざらでもないことを知っている。一つだけ「死は存在しない」ことを、
彼らが知らなかったのを除けば。「死は観念でしかない」ことが、解るはずはないのは当然である。
母親が、痴呆になっても学ぼうとする姿勢が見えた。これである、魂は永遠の学びをしていく。
ただし、それなりの人生を活きてこそ、だが・・
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老いは個人の生を超え
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人は、老いるという存在の現象を、なかなか素直に認めることができない。それを否定的に感じてしまうのは、
若さという経験を先にしてしまうからだ。やがて人は、例外なく順番に40,50歳と年齢を重ね、老いるという現実を
肉体の事実として知ることになる。老いることは死と違って逃れようもない現実である。生きられてしまった事柄とは、
端的にかこである。それは動かせない事実である。過去は動かせないと知るということは、自分の人生がそのようであったと、
それ以外ではあり得なかった、このとき、人は人生の一回性の秘密に触れているのだが、多くの場合それは、それぞれの
感情や感傷によって覆い隠されてしまう。記憶に苦痛の伴わない人は幸福である。過去は動かせない、しかし動かせる未来もない。
なぜ自分の人生はこのようでしかあり得なかったという、存在への問いが、溜息に等しいような老いの時間は哀しい。
生きるということを、物理的肉体の生存と定義するなら、老いていく過程として生きていくのは肉体を失っていく過程である。
しかし、我われの直感は、決してそんなふうに感じてない。老いていくことによって、得ているものはたしかにある。
何かが確実に増えていくと感じるもの、それは何か。精神というより、むしろ魂である。成熟するのは魂である。
魂は成熟する。「ソウル・メイキング」と呼ばれるもの。現代風の言い回しも、ソクラテスふうには「魂の世話」となる。
経験と時間を織り込みながら、魂であるところの人生を織り上げていくと、いった意味合いらしい。
縦糸に時間を、横糸に経験を、織り込みことで織り込まれつつ、魂が自身を織り上げていく行程は、
刻々老いてゆく肉体の老いとは反比例して豊かである。いや、肉体の老いとは、それ自体が新たな経験の
他ならないのだから。それすらも、織り込みつつ色はその深さを増すのではなかろうか。
人生とは、生死の間に存在する時間である。なるほど論理的には、人生には生と死、すなわち一とゼロしか存在しない。 
したがって、時間もまた存在しない。しかし、現実には、人生は一とゼロの間に存在するもの、すなわち無限である。
有と無の間で生成する質である。質は論理でない。論理が指示する、論理自身の影である。
論理的には存在しない死を、しかし現実には存在するとして生きているという、このこと自体が人生の不思議である。
その存在しない死が近づいてくる老いの時間とは、いよいよ玄妙なものになっていくはずである。
かって老いたことのないわれわれにとって、それは未だ知らない質である。老いるという未知の経験、未知の質を、
味あうことなく拒むのは、死ぬのを待たずに既に生きることを拒んでいるようなものである。   
ーー               
 死か〜 まあ、麻薬をタップリ楽しんで、消えていくのも悪くないが・・
やはり、朝いつの間にか死んでいるほうがよい。魂の成熟か〜 無限の宇宙に浮かぶ
未知の質か〜 人生は!    (+>∀<+)ノ  バイバイ
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 2005年11月29日(火)  
1701, ほめ芸王 ー2
以前、一度借りてきた「ほめ芸王」を、再び借りてきた。前に読んで、チャンスがあったら可能な限り褒める
ように勤めようと思っていたが、これが難しい。家内を対象に褒めるように勤めているが、馬鹿馬鹿しい。
  というわけで、いま一度借りてきてジックリ読んでみた。    funn~(。_。)q
 以前借りてきた時に印象的だったのは、
 ・褒めるのは芸・技であるから、自分流のノウハウを確立すべし、
 ・褒めれば、神の心になれるだった。褒められれば、舞い上がってしまうのに、
  人に対しては気楽に褒めようとはしない。ー必然性が無かったからだろうが。    
だいたい酒席で、酒を注ぐときは自分が注いで欲しい時だ。自分が褒めて欲しい時に、人を褒める。
-字数の関係でカット(2007年11月29日)
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2004年11月29日(月)
 1336, 2000年前のポンペイー5
一昨日のNHKスペシャルで「ポンペイ」を特集していた。落書きを切り口に番組みを構成していたのが、新鮮であった。
たまたまポンペイについて書いていたので、その偶然の一致が奇妙な気分である。2000年前の生々しい人間の心が、
落書きの中に出ていた。話は少し逸れるが、エジプトのルクソール神殿の遺跡の壁にあったレリーフに兵隊の絵があった。
同じ絵が多く描かれていたが、現地の日本人の女ガイドの説明が面白い。 その兵隊うちの一人だけが、ところどころ
逆向きに向いているのだ。当時の多くの職人の一人が、命をかけて?わざっと逆向きに彫ったという。いつの時代でも、
そのような遊びがあった。それよりも、数千年の時空を超えた男の生身の人間的なジョークを伝えているのがよい。
ーその番組みで紹介していためポンペイのメモには
・〔私と貴方が一緒に踊ったことを憶えていて、訪ねてきてくれてラブレターを
 置いていってくれた〕返事が壁に書かれていた。
・隣近所のお知らせー人々は回覧板かわりに壁を使ってコミュニケーションをしていた。
・現在の通りの商店看板と殆ど同じものが、当時のポンペイの街にもあった。
・ポンペイの街には400軒の店があった。 24時間営業の居酒屋があった。
 その居酒屋の奥の部屋でゲームと会話をしている絵が残されていた。
・食料品店の壁には、掛け売りのメモが書きこまれていた。家計簿的なメモもあった。
・果物屋には桃が売られていたメモがあった。  等々である。
メモから、当時の変化がうかがい知ることが出来るという。
当時のローマ帝国の政策の大きなものとして、パンと、サーカス(街には必ず円形劇場がつくられていた)を庶民に
与えることであった。AD・54に17歳で皇帝になったネロが、その政策を更にエスカレートさせていった。
そのためか、贅沢の限りをつくす考えが一般にまで浸透を始めていた。
その頃のメモに〔今を楽しめ〕というのがあった。それがエスカレートしたのかタブーのメモもあった。
・下品の言葉を慎むように
・他人の妻には手を出さないこと
・食事をしていて、着物を汚さないように宴会場の壁には、酔っ払いの落書きに〔とことん飲むぞ!〕
というものもあった。富める者と貧しいものとの格差が鮮明になり始めてきていた。
そして、貧しい者の荒んだ心がそのまま落書きになっていた。「あの男に災いあれ!」
当時の円形闘技場の落書きの中に「闘技場の外で多くの人同士が剣をもって争う姿」があった。
試合を見ていた同士が喧嘩になって殺しあう事件が起こったのだ。
普段の生活が、火山で時がそのまま密封され生々しい世界が奇跡的に今に多くを語りかけている。
 −このポンペイのシリーズはまだまだ続くー
・・・・・・・
2003年11月29日(土)
969, 幽霊店舗
 昨日、初めて聞いた言葉である。 それが「幽霊店舗」である。一瞬何のことか解らなかったが、
次の瞬間に直ぐに理解した。 「経営者が夜逃げか破産をした店で、店舗のオーナーか銀行が、
既存の従業員にそのまま営業をさせて、間接管理をしている店」でないかと。次の店が決まるまでの
店舗の劣化を防ぐ為である。実際のところ聞いてないので真偽は解らないが、間違いがないだろう。
 興味があったので、その幽霊店舗に行ってみたら、何事もないように営業をしていた。
 (字数制限のためカット10年11月29日)
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[242] ゼネコンー2
- 2001年11月29日(木)
同じ見積もりでも、3〜4割の値段が違ってくる。平気で目の前で2000万・3000万、いや数億の値引きをする。
普通の感覚の世界とはかなり違った世界である。今の不況の原因をつくったのは、ゼネコンの存在が大きいといってよい。
日本的特質がそのまま現代的に残っている。この30年近くはゼネコンの付合いを欠かせたことがなかった。
社会勉強をその世界を知る事で,たっぷりさせてもらった。悲劇、喜劇の渦巻く世界でもある。しかし男の世界でもある。
新しい創造に携わるからだ。よしやるか!という決断から、彼等との付合いが始まる。彼らのシステムに現場主任(現場代人)
と言う責任者が、殆どの権限を与えられる。その能力次第で完成のレベルが違ってくる。
(字数制限のため、カット 09年11月29日)
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ある時間の断片
 11月29日 ー1968年  
10時前に起床。 12時に学校に向け出発。川崎の約束を破ってしまった。昼飯後、ゼミに出席。一回も口を開かなかった。
どうしても自信がもてなかった。それか、傷をつきたくない為か。 17時に終了。 帰寮後、食事をする。
21時から一時間、本を読む。 その後佐藤のところで酒を飲む。一年後輩の間中のブーちゃんと議論伯仲する。
かなりいい加減なことをいっていたようだ。 明方の3時過ぎに就寝。
ー「今日のゼミについて」で考えたことー 
 ゼミで、個人主義と集団主義について、各自の意見を出し合って議論をした。ホワイトのいう集団主義は「個人」
を決して働かせない。それは個人の創造性と個性と本質を見失う可能性が高い。グループ活動は個人の水準を引き下げる効果が大。
大勢順応を強要し、個人を否定し、創造的活動を破滅させる。一般的にいえば人間活動を妨げる制約を持っている、という意見がある。
個人主義においても、集団という環境に合わせて目標に向かっていく条件は必ずある。反面、集団主義は集団であるがゆえに
不可能を可能にする側面を持っている。言葉の捉え方のニュアンスの差があった。集団で鍛えられたものと、そうでないものとの差は
大きいのは事実である。それは個人の能力の差もあるし、個人の分析能力や統合能力によるだろう。私も人間関係主義?によって
流されて、自分の本質を見失っていた部分が大だ。しかし今やその段階はすぎたようだ?
 利己主義ー>集団主義ー>個人主義とである。個人主義とは、帰属を決して集団に置かないことではないか。
個人に帰属を置くことである。自己の中に生きることである。その時おきる集団との格闘により自己を獲得していくことだ。
そして集団に対しては協調をすることだ。「友人に対しても、相対する相手」に対してもだ。
それは寂しく、辛いものである。その葛藤の中でこそ個人は生長するものだ。人間関係に捉われて自己の創造性や
個性を否定することだけは、やってはダメだ。 その葛藤の中に本当の知識が現れてくるのだ。
 ーーーーーー
−2003年11月28日記ー
ーこの35年前の日記を読んでー
あくまでも「今の自分」と「過去の自分」の話しだが、いま読んでいても、真っ当なことを考えていたこと?
に驚いている。いまの自分よりよほど筋が通っている。ゼミと武澤先生の影響があったためだろうか。
多くの友人と口泡を飛ばして議論を毎晩していたせいだろうか。それとも一生の分岐点に立っていたためであろうか。
この日記がなければ全ては忘却の彼方である。「忘却の彼方にいる自分の姿」に驚いている。
現在の方が、体験と知識量が数十倍いや数百倍も多いはずなのに。決して現在の自分に劣っていない
当時の自分がそこにいるのに驚きである。当時は、経験量に対してのコンプレックスは全くなかった。
それだけの自信を全員持っていた。 裏付けもあったのだ。その後も挫折を数多く繰り返す中で、自己喪失感の強い体験を
何度もした。全くの無能感、それも痴呆症的な感覚の呆然感である。その中で、遙か彼方の自分が、
これだけの文章を書いていたことに驚いている。他人からみれば馬鹿みたいかもしれないが。


3534, エコポイントの駆込み購入の愚!

2010年11月28日(日)

 * エコポイントは目先延命の劇薬、それが切れる来年は? 
 少し考えれば分ることだが、「エコポイントの駆け込み購入」で、このところ家電チェーンが賑わっている。
しかし、この騒ぎが終われば値崩れが起きて、このポイント以上に値下がりをするのは火を見るより明らか。
元もとエコポイント制度そのものが、恐慌に対する延命のためのカンフル剤で、目先の苦痛を避けるためのもの。
しかし来年の前半には、この前倒しの反動が大きくなる。薄型TVは典型的な相場商品、大きく値崩れをするのは火を見るより明らか。
そういう批判がないのは、マスコミがメーカーから広告を貰っているため。地デジ化は来年の7月、その間に大きく値下がりは
当然のこと。その上に世界的恐慌の火の手が更に大きくなる。 他人事ではない、当方は460台のTVの買い替えがある。
来年7月の瀬戸際ほど安くなる、と仮説を立てたところ、このことに気づいたのである。エコポイントは、間接的には住宅、
家電、自動車メーカーに対する間接的援助ではないか。そのピエロが、それで買いに走っている大衆。決して穿った見方ではない。
誰も気づかないだけで、これはこれで良い。それを声高にいうこともない。国家にとって目先の失業と倒産を避けなければならない。
しかし来年は、この反動で、日本経済は大きく落ち込むことになる。 「来年、怖い!」が、キーワードか。
デフレ・スパイラルが更に大きくなる。総中流が、総下流社会に墜ちていく。しかし、総下流が大部分なら、それが普通になり、
総中流ではないか。 ブラックジョークになるが、それが社会主義の理想とするところ。格差のない清貧の社会。
ただし選ばれし者は別。当然の権利として何代かの権利が保障される。その意味で、日本の政治家は社会主義体制で守られている。
 で、国家は衰退している。しかし、これは愚民化された国民の無知のなさる技。 失われた20年から、さらに失われた
10年が始った。このグローバルの時代は、世界の住民が平準化していくということ。 
最も恵まれた時代が終わり、その豊かさが失われていく30年の、後半の10年が始ったということ。
 その愚民の一人か〜 それにしても生きてきた65年間の世界は、大きく変動した。
ドラッガーは「断絶の時代」という書を40年前に出したが、以来、想像を絶するほど時代が大きく動いてきた。
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3159,金を通して世界を読む  −2
2009年11月28日(土)
 「金を通して世界を読む 」 豊島 逸夫 (著)
住宅価格下落を予測して、下げで大もうけをしたジョン・ポールソンが近く金《ゴールド》を中心としたファンドを始めるという。
彼が3〜5年スパンで金に「兆」単位を投資するというから、2〜3倍以上の高騰を予測しているはず。 
銀も一年前から高騰を始め、年に90パーセント以上も値上がりをしているから、金はまだ40パーセントだから、
50パーセントの値上がりと考えることができる。 そうはいかないのが相場の世界である。まあ、どうなることやら。
 ーこの本の中で、含蓄の深い部分を抜粋してみるー 
 日本で最も金が売れる地域といえば、京都である。 店舗の面積坪当たり最大の金小売店も京都にある。
京都には宗教法人が多く、資産も蓄積されている。 長年歴史の波にさらされてきたからこそ、スイス流の
「最後に頼りになるのは金」という考えも強いようだ。 ある金ディーラーが縁あって某名刹の住職と面談したときのこと。
住職曰く「金は先の大戦でもそのまま残り、資産として破損することはありませんでしたな」。 ディーラー氏答えて
「はあ、第二次大戦でも京都は空襲を免れましたしね」。 住職「なにをおっしゃる。私の申しているのは応仁の乱のことです」。
各県別に見ても、金が売れる地域というのは必ずしも県庁所在地とは限らない。 現代の経済行政の中心地より、城下町であった
都市のほうが資産のストックは多いようだ。 郡山より会津、山形市より米沢、青森市より津軽、というようなあんばいである。
一万円札の新札への切り替えのときのこと。 ある歴史ある都市の貴金属店に金地金を買いに訪れた顧客がボストンバッグから
取り出した紙幣の束は半分濡れたような古い旧一万円札ばかり。どうやらそれは地下にでも眠っていたのか、独特の古いインクの
すえたような臭いが店中に広まった(筆者も新入行員だった頃、銀行の金庫で同じ臭いで気持ち悪くなった経験がある)。
紙幣同士がくっついてはがれないので、まず1枚1枚と丁寧にひきはがし、乾かすこと四時間。やっと紙幣勘定機に入った。
 ーー
 こういう金融恐慌だからこそ、「金」ということだろう。 そして世界中の投機筋が買いに入った?
金の動きから世界をみていると、測り知れない世界の一端が見えてくる。 間違いないのは重い10年が続くということ。
 ・・・・・・・・・
2794.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・3
2008年11月28日(金)
【第二の法則】
  なんでも鵜呑みにするな!人間は鵜ではない。
「世間において 常織とみなされていることに対して、疑問を呈する勇気を忘れてはならない。
  健全な猜疑心こそ、ものごとの裏に潜む本質を見極める近道である 」    ロバート・ルービン
「誰もが同じように考えているときは、一人として真剣には考えていないものである」 ウォルター・リップマン 
「貴殿の理論が狂っている、つまり突飛であるかという点では、我々の意見は一致している。
  だが、正解になる可能性があるほど狂っているかについては、意見がわかれている。
  私の直感では、まだ十分に狂っているようには思えないのだが」       ニールス・ボーア
「二つの文化のうち、それぞれの半分だけ足しても、一つの文化は 生まれてこない」 アーサー・ケストラー
「半分の真実といえば聞こえはいいが、本当は真っ赤なウソである」     ユダヤの掟
「権力とは 究極の媚華である」                 ヘンリー・キ・ソシンジャー
「違うよ。そうじゃないんだ。君は、思考していない。ただ、論理に支配されているだけなんだ」 ニールス・ボーア
「嘘には三つの種類がある。 ウソ、 真っ赤なウソ、 そして統計である」 ベンジャミン・ディズレイリ
  ーーーーー
何事も、自分の頭で一度は精査することが必要である。それが、考えることになるのだ。考えない方が良い人が多いが。
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2007年11月28日(水)
2429, 20世紀を生き、21世紀を覗き見て
           (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
大よそ半世紀少しを20世紀に生き、世界の色いろな変化を見てきたが、明治・大正生まれの人は、その感慨は更に深いだろう。
この20数年間、憑かれたように秘境ツアーで地球の果て?を見てきて、自分の庭とは言わないが、デズィニーランドのように
世界の文明と自然を見ることができたのが最大の収穫である。21世紀になって、携帯電話やパソコンによる情報革命の
大きな変動を見るにつけ、何と恵まれためぐり合わせが良かったと、信じられない思いである。
情報化が良いか悪いかは二の次に置いて、これだけの知識・情報が世界を駆け巡る事態はSFの世界に迷い出た思いである。 
20世紀と対比できるから言えるのだろうが。恐らく、数百年、いや数千年の経験を60年余りの時間の中で味わったのである。
その不思議である。 21世紀は、やはり違う世界である。それも想像を遥かに超えた。
その結果だろうか?、この数年から哲学が面白くなってきたのである。この地球の大自然の由来は、宇宙の果ては、
130数億年前のビッグバンは何故おきたのか、それ以前は何があったのか、人間の6千年の文明史はどのようになっているのか、
等々、疑問が噴出してからである。地球を見てまわり、少なからず人生経験を積み、人類の遺産の文化や文明を見てきた。
そして、知れば知るほど、知らないことの多さと不思議の多さに呆然とする。
それらを考えること(哲学をすること)で、少しずつ理解できると哲学者は言う。
「死んでしまえば、それが何だった」としてもである。少し地球に存在し、少し認識したということか? 
それが存在の不思議を問う存在論になり、認識の意味を問う認識論になる。我われは地球に、遊びに、働きに、
そして学びに来ているのである。「よく遊び、学び、学べ」とは、よく言ったものである。
                 (((。・-・)从ホンジャ
・・・・・・・・・
2006年11月28日(火)
2065, あたりまえなことばかり −16
  b(^o^)d おっ W(^O^)W  はよー! ー♪
この女哲学者よりも、私のほうが「心の中で生きているとは、どういう意味か」という内容に関しては、
深い経験をしているように思えたが、どうであろうか?両親が亡くなったときに、あくまで夢?であるが、
色いろな体験をしているからだ。父の場合、父の方の心理そのものになったり、母親も最近まで夢の中に出てきたからだ。
{全過去の記憶を現在として保有する「心」とは、その意味で存在そのものではなかろうか。
記憶は、「心の中」に存在するのではない。記憶こそが存在する現在である。
逆に、我われが現在生きるとは、存在の記憶を生きることである。}「記憶をなくした男」の映画を観たことがあるが、
まさに上記のとおりである。「自分が何者かわからない」ほど、恐ろしいものはないと、寒気がしたのを憶えている。
ただ、虚無が自分を取り囲んでいるだけだろう。本人がどうしてよいか解らない心理が、その映画で出いていた。
「過去を消したい」と思うのは、都合の悪い過去を消したいだけである。
「いま、ここ」は、全過去があるからこそ、垂直に立ち上がる。
ーーーーーーーーーーーー
他者の死はなぜ悲しいのかー?
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*心の中で生きているとは、どういう意味なのか? 肉体として存在しないけれど、
記憶として存在する他者は、その限り、「存在する」。この存在の意味を考えてみよう。
死んだ人が心の中で生きている、しかし、先に我われは、死んだ人はあの世にいると納得したのではなかったか。
心の中にいながら、あの世にいるその人は、すると、どこにいることになるのか。彼は「今」どこにいるというのか。
生きていたのは誰なのか。という、かなりの程度奇妙な問いが、押えがたく立ち上がってくるのが、ここである。
更には、「生きている」ということすら、肉体の所有と消滅で理解できるような自明な何かなのか。
肉体として消滅してなお、死者は生者の記憶として存在する。死者の記憶を心に抱いて、生者もまた死者になる。
それなら、その人が存在したということはなかったことになるだろうか。そんなことはあり得ない。存在したことは存在する。
すなわち過去は現在である。 全過去はこの現在に存在しているということだ。
全過去の記憶を現在として保有する「心」とは、その意味で、存在そのものではなかろうか。
記憶は、「心の中」存在するのではない。 記憶こそが存在する現在である。
逆に、我われが現在生きるとは、存在の記憶を生きることである。
  ー2009年11月28日ー字数制限のため削除ー
・・・・・・・・・
2005年11月28日(月)
1700, 人生の価値についてー2  (*´o)*ゞふぁぁ

このHPの維持も、「退屈と不安の解消が目的か?」と、問われれば、「目的ではないが、手段である」が答えになる。
退屈に対して、これだけ赤裸々に抉っているのも珍しい。「小人閑居して不善をなす」というが、閑居に対する姿勢が
小人かどうかを決めるのだろう。閑居は何か悪いように錯覚するが、逆に最も大事なことである。
アラブの遊牧民は、閑居を第三の時間ー瞑想、仕事と遊びと、そして休みの時間)として、一番大事にしている。   
第104節の「人生の退屈そして不安 」でさらに、生きるとは何かをさらに掘り下げている。
 何ヶ所か抜粋してみる。                 φ(・_・)
 ードストエフスキーはシベリアの徒刑地で、
   懲役の労働が囚人達に苛酷なのは、仕事の内容のつらさではないという。
    つらさという点では農民の方がよほど苛酷なはずだ。
     しかし、農民には自分のために働いているという目的がある。
      だが懲役の労働には目的も意味もない。
      それが刑罰の刑罰たるゆえんである。
 ー彼は囚人達が「意味の無い労働」でない、
   例えば家を建てる仕事を与えられると、
    にわかに夢中になり、生き生きしてくるさまを伝えている。
     強制労働で立派な家を建てても、賞金がもらえるわけではないし、
      刑期が短くなるわけでもない。
       それでも囚人達は少しでも具合よく、良い家を仕上げようと
        一生懸命になるという彼の深い観察のうちに、人間の生きる目的
         ということの秘密が宿っているのではないだろうか。」 
      この節で、人間の日々の行動に何らかの目的があることの重要性が説かれている。
    ‖┓  ((  
  (_)   匚P 
   ━┻    
 ードストエフスキーは次のようにいう。
 「もしも囚人に、一つの手桶の水を他の手桶にあけ、
  それをまた逆に始めの手桶にあけたり、砂を搗いたり、あるいはまた、
   土の山を一つの場所から他の場所へ移し、それをまた元へ戻す
    というようなことをさせたら・・・・
     囚人はきっと四、五日も経ったら首を吊るか、
      でなければむしろ死んでそんな侮辱や苦痛から逃れようと思って
       どんな罪でも犯すだろうと思う」     ヽ(゜Д゜;)ノ!!  
 ーわれわれの暮らしや仕事もまた、つきつめて考えると
  「一つの手桶の水を他の手桶にあける」
   作業の繰り返しのようなものだと自嘲せずにいられぬ一面をも具えている。
    しかしそれを刑罰とも感じないし、苦痛とも感じないのは、
     我々が鈍感だからということもあるが、毎日の活動の中に、
      なにか物を作る行為にも似た行為によって自分で自分を生かす目的なり
       意味なりをいつの間にか黙って自ずと見出して、その日その日の自分を
        無言のうちに支えているからだともいえるであろう。」
   (以上、字数制限のためカット 2010年11月28日)
・・・・・・・
2004年11月28日(日)
1335, 「おカネの発想法」 ー読書日記−2
 ー前回に続いて、印象的なところを抜粋してみるー
 ーおカネが本物かニセモノかという点は、実は本質論ではないのです。
そのおカネが受け取ってもらえるのか、それとももらえないのか、というところに、おカネであるか否かを
峻別する本質があるというその性質がおカネにとって最も重要な「一般受容性」なのです。
おカネが増えるとしたら、それはそのおカネを使ってビジネスをする人がいるから増えるのです
 ー株式会社の株式を所有していると、万が一倒産したときに投資がパーに
なってしまうということを「リスク」と呼んでいるのであれば、
株式会社に勤めることはもっと大きな「リスク」である。
 おカネの発想法に基づく株式投資
・どの株式会社がうまくいくかわからないから、いろいろな株式会社に分散投資することによって、
 全部が全部ダメになるということのないようにしよう
・二〇銘柄に分散→「転職してみたい会社の株式」がお勧め株式投資における究極の目的は、
 おカネを儲けることではないのです。 株式投資の究極の目的は、人を動かすパワーを手に入れるということ。
ーおカネというツールに頼らないコミュニケーション能力を持っている人はおカネが要らないということなのです。
おカネがなくとも、他人を動かせる人には、おカネは不要なのです。おカネに頼らなくとも、自分の好きなモノが
手に入る人には、おカネは要ない。めざすべき究極の姿は、「自分自身がおカネになる」ということ。
コミュニティとか、仲間とか、人望とか、信頼性とか、信用というモノはカネと同じなのです。
そういうおカネをどういうふうに獲得していくのかが極めて重要なのです。
おカネは、インフレで価値が減ってしまいますが、コミュニティとか、仲間とか、人望とか、信頼性とか、
信用というモノは、インフレによって影響を受けません。逆に、そういうときこそ、真価が発揮されるに違いありません。
『金持ち父さん貧乏父さん』の教えには反してしまいますが、まずは仕事をしておカネを稼ぎながら、
自らを鍛えなければなりません。何も他のことは考えずに一二〇%の力を現在の仕事に注ぎ込むべきである。
節約ができる人は、意志が強い人です。自分の行動を自分でコントロールできる人です。
外部の雑音や他人の行動に惑わされることなく、自分の意志を貫ける人です。そして、意志が強いということは、
財産形成で成功するために不可欠の要素なのです。複利を味方につけられるかどうかが、あなたの財産形成の成否を決定づける。
財産形成のメインエンジンは、仕事からの収入→最も重要な投資は自己投資。
財産形成のスピードをアップするためには、仕事で成功することが一番重要(中略)株式を売買する前に、
まずは自分を磨く――それが財産形成の王道です。
 ーーー
ー以上が抜粋である。
書き写すに(前回分を含めて)2時間近くかかったが、戒めのためだ。
   (以上、字数制限のためカット 2010年11月28日)
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2003年11月28日(金)
968, 「企業の人間的側面」
以下は字数の関係でカット
この後は、分類のコーナーの検索に「X理論とY理論」と入れてください。
ー2007年11月28日ー削除
・・・・・・・・・
594, パソコンの恩恵
- 2002年11月28日(木)
毎日飽きずに、こうも書けるか種明かしをしよう。パソコンのおかげである。 会社の机の上と、自宅の居間の
パソコンの存在のおかげで、パソコンが無かったら絶対に不可能である。何か思いついたときパソコン内のメモ帳に書きこむ。
それに気楽に書き足していくのである。最後に適当にテーマを書いて保存しておく。反対にテーマを思いついたら、
まずはテーマと思いついたことを2〜3でも書いておく。特に夕食前後に面白いキーヮードが出てくる。
10秒もしないうちに書ける休止状態にしておき、遊び感覚で打ち込む。これで飛躍的に文章力と量が増えたのだ。 
その場が一瞬に書斎に変わるのだ。更にパソコンのよいことは修正と追加が軽くできることだ。順序も考えないで、
思いついた事が打ち込めるのだ。後で順序を並べ替えればよい。そのプロセスは思考である。そうするとパソコンは思考機械になる。
これが紙に書くとそれ自体で気分が重くなる。さらに書きなぐっていると、頭が混乱してくるのだ。勿論大切な事だが。
ポイントはテーマなどは後で面白おかしく書き換える事だ。毎日書き続けて解ったことは推敲の回数を重ねるほど
文章は良くなっていくことだ。文章上達はそれしかないといってよい。それがパソコンの場合簡単にできるのである。
話しは変わるが随想日記の最大の読み手は実をいうと私なのだ。数ヶ月前のある日の随想日記を突然ランダムに呼び出して、
毎日のように読んでいる。その都度、こんなことを書いていたのかという驚きがある。
これは自己対話をしていることである。あるいは自分を深耕していることにもなる。これもパソコンだからできる。
書斎に移動して読む必要はない。我が家には書斎はない、いや必要ないのだ??
この一年半で、自分の文章力が飛躍的に向上した。これは毎日文章を書き続けたことと推敲を毎日重ねたおかげである。
その最大の武器がこのパソコンである。 それとホームページのおかげだ。
誰かとつながっているという動機づけがあったからである。パソコンは知的玩具です。 痴的にもなるが?!


3533, 竹森俊平の「漂流を始める世界経済」

2010年11月27日(土)

 経済専門雑誌「Voice」12月号に、竹森俊平「漂流を始める世界経済」があった。
彼はリーマンショックの直前に、それを予測するような著書「資本主義は嫌いですか」を出版している。
直ぐに読んだが、そこで「紙切れ通貨制度」の功罪を呈示し、そこから生じる厄介な問題がいくら抱えても、
われわれは管理通貨制度と、うまくつきあっていくしかない!と論じている。 
 「漂流を始める世界経済」の中で彼は、2011年の記憶をあらかじめ消去してしまいたいほどの経済惨状を予測する。
 【 来年には世界経済が二番底に陥る可能性が高く、その様相が悲惨になるからだ。 主要国指導者は己の判断ミスを認めず、
責任を外国に転嫁し保護貿易主義に走る。しかし保護主義によって事態が好転しないため、指導者への信頼は一層地に墜ち、
その後の操縦席に人がいない状態になり、世界経済の漂流が始まるという。
 そこで二番底は、ギリシャ危機以降、PIIGS(ポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペイン)の
破綻と考えたが、それを撤回した。 ヨーロッパのエコノミストや政治家と、逆に財政刺激策の継続を説くアメリカの
カウンターパートとを比べると、景気浮揚に失敗するのはヨーロッパと思われるが、ヨーロッパの政治エリートは、
大衆の意向に反して豹変が許されている。「状況が変わった」と、今までと百八十度異なる政策をとることも可能である。
しかし選挙民の思惑にがんじがらめなのがアメリカ。失業率9%台の高止まりも、本来、緊急景気対策費65兆円のおかげで、
その程度でいられると読むべきだが、「巨額な対策費にもかかわらずそんな効果しか上げられないのか!」と受け止めるのが
アメリカ国民の実態である。 さらに今年末には前政権による所得減税が終了し11年からは増税が始まる。
「ティーパーティ運動」が声高に叫ぶ「これ以上無駄な税金を使うな」を、政治家が無視できなくなる。
ということは、二番底がどこかで発生するとみてよい。 今や二番底と保護貿易主義という暗雲がたち現われている。
ここで世界は問われているのは政治のありようである。】
 ー以上だが、来年、再来年にかけてリーマン・ショックを震源とした大津波が、3年後にウネリをあげて襲ってくるのは
  避けることの出来ないこと。それ以来、何度も何度も書いてきたが、10年は続く。100年、250年に一度の大変動である。

 ・・・・・・・・
3158, 金を通して世界を読む  −1
 2009年11月27日(金)
  「 金を通して世界を読む 」 豊島 逸夫 (著)
  このところ、金の価格が動き始めてきた。年初からみると、4割の上げで3500円。
 銀が9割上げていることからみて、まだ上がるという強きの見方が大勢である。
 この本、半年前に買って目を通したが、あまり積極的には読んでなかった。
 しかし、ここで新聞などで金の値上がりが報じられたこともあり、再び読み始めたが面白い。 
   まずは、その一分内容を書いてみる。
・ 投機を目的とするか、投資なのかをハッキリすべし。
・ 金は一般的に「有事の買い」といわれるが、実は「平時の買い、有事の売り」である。
・ ドルは200年、金は2000年の通貨の歴史がある。
・ ドル発券国のアメリカの外貨準備に占める金の割合は70パーセント以上。  中国・日本は1パーセントに過ぎず、
  巨額のドルを保有。欧州のドイツ、フランスは50パーセント以上。中国の金の生産量が南アを抜いて世界一位。
  その日本は、金が高騰すると、貴金属のリサイクルが進んで、一転輸出国になる。これは国力衰退の象徴である。
・ 金は30年前の5千数百円をピークに停滞が続いたが、10年前の1999年から長期上昇トレンドに入っている。
  10年前の底値は250ドルである。現在は1200ドルに近いので10年で5倍近い値上がりになる。
・ 実物資産の不動産と比較すると、金には 
  *固定資産税がかからない。 *売買市場が完備されており、日々の価格も外為同様に公表される。
  *小分けが出来る。 *資産の隠匿手段として最適  *利息などキャッシュフローを生まない。
   しかし、これがアラブなど中東の金持ちにとって、アッラーの教えに反しないので金保有は都合が良い。
   〜〜
 以前にも少し「金」について取上げたが、金といえば商品取引業者の餌食になる「金の投機」が思い浮かぶ。
 目先の動きの先物で利ヤザを稼ぐ際どいもの。 著者は、その道のプロだが、長年の結果が8勝7敗だが、
 そのプロ筋では8勝の結果は評価は高い。金投機のプロは8勝7敗で生き残り、7勝8敗で消えていく世界。
 その8勝と7勝の一勝の差は、「損切り」。 問題は負けが込んでいたときに、いかに手早く見切るか、
 それが出来ないという。 今に戻ると希望的観測を持ちたがるが、よほど強い意志がないと出来ないという。
 だから、相場のプロも自分個人の資産運用に関しては純金積み立てと決めている。
 相場に魔法の杖がないことを骨身にしみているので無益なゼロサムゲームには、参加しない。
 仲間のデーラーも同様だという。 そういう世界が投機筋ということだ。 恐ろしい世界である。 ーつづく
 ・・・・・・・・
2793.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・2
 2008年11月27日(木)
「自分を大切にするものは、他人も大切にできる」とするなら、「自分を大切にしないものは、他人も大切にしない」ことにある。
こういう人間、本当に多いよな〜、と思っていたが、じゃあ、御前さんはどう?と言われると、酒飲みすぎて、
命を縮めているじゃないか。そして酒の勢いで他人を傷つけているじゃないかい?と言われれば、成るほど、納得する。
「自分の意志の主人となり、良心の奴隷となれ」(ユダヤの諺)は、至言である。
 ーーー
「ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法のコトバ 」−2    読書日記
【第一の法則】
  自分を大切にするものは、他人も大切にできる。
「自分が ありのままの自分でいられるような人生を 謳歌するためには、音楽家なら作曲し、画家ならば絵を描き、詩人であれ
詩を書くのだ。自分の命にそった生き方を選ぶことが、人間にとって、もっとも自然な姿なのである」エイブラハム・マズロー
 ー
「無理して人と違う自分を演じようとする必要はない。
良い結果を出そうと頑張れば それだけでじゅうぶん人とは違う自分を演出できるのだ」 アーサー・フリード
 ー
「盲人の国では片目の男は王様だ」    ユダヤ人の友人のことば
 ー
「自分を信じるのだ。 自分の力は、自分が思っている以上に あるものだ」     ベンジャミン・スポック
 ー
「自分に対して とことん正直になること、それが心身に良い影響を与えるのである」 ジークムント・フロイト
 ー
「いつも自分一の外側に、カや自信の源があると信じて捜してきました。でも、本当は自分の内側から 
 にじみ出てぐるものなのです。 いつだって 自分の中にこそ、強さや自信の源はあるのです」 アンナ・フロイト
 ー
「世の中を敵にまわして戦う時は、世の中につけ!」        フランツ・カフカ
 ー
「よく、あの人はまだ自分を探し終えてない、などという人がいるが、
   そもそも自分とは 探すものではない。 みずからが創り出すものである」 ユダヤの諺
 ー
「みんなにイイ奴とは、誰の友達でもない」  ユダヤの諺
 ー
「自分の意志の主人となり、良心の奴隷となれ」   ユダヤの諺
 −
「わたしのモットーは、心に生じる罪悪感を 決して疑わないこと」  フランツ・カフカ
・・・・・・・・・
2007年11月27日(火)
2428, 自分を理解するため他者・コンピューター −2
                                才ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪
人間と動物とが共通に有している能力よりも、知的・理性的側面が、
人間固有の特徴として逆照射されたが、今度は特有の特徴を凝縮したコンピュータから
人間に向けて照射したら何が浮かび出るのだろうか。 
この数日、コンピューターから人間を照射した、動物と人間の差異は何か?を
自分の頭で色いろ考えてみた。 
・喜怒哀楽の激しい感情、
・欲望の過大性、
・自らの知恵で環境を変える能力、
・考えることを考えるー哲学をする能力、
・新たな他者としてのコンピューターを使い、支配する能力、
・言葉を持ち、それを書き写す能力、 
・自らの意思を持つ能力、
・自らの神を創造する能力、
 を持ち、それ故に自ら自然界を道連れに消滅する宿命を持った動物である。 まだまだ幾らでもあるが、
 私が今考えた「動物と人間の境い目」である。そうこう考えると、やはり動物とは違う存在である。
 更に人間は、この新たな他者を爆発的に発展させ、自らの周辺の環境に融合しだした。
これが良いにつけ悪いにつけ、次の大きな問題になってきた。 世界が一変しだしたのである。
 −前回のレポートの続きである。
   ーー
 *現実感を変えるバーチャル・リアリ一アイ  ーコンピューター
                           黒崎政男(哲学者)
そして、今日では、コンピューターと哲学をめぐる聞題群はさらに広がっている。1980年代から始まったコンピューターの
パーソナル化は、予想を超えた速度で進行し、コンピューターはあっという間に個人的生活の内部にまで浸透した。
コンピューターは、もはや、われわれに脅威を与える他者という遠い距離に留まるのではなく、完全に環境として
われわれを取り巻くようになった。 そしてさらに、コンピューターとわれわれの関係はさらに密接になっていき、
〈われわれの外部としてのコンピューター〉という性格さえ危ういものとなっていく可能性が出てきた。
つまり、現在さまざまな形で間題となっている〈バーチャル・リアリティ〉である。
われわれわれは、今やそれをわれわれの身体の一部として、あるいは頭脳に一部として
組み込もうとしているわけである。その意味で、人問とコンピューターとの結びつきは、もしかしたら、
着実に進行しているのだろう。それは、脳に直接機械を埋め込むという、ミンスキー教授が言うような
原始的な方法によってではないかもしれない。われわれの環境が、電子的に媒介された映像などで満たされていくとき、
そして、人々のコミュニケーションがほとんど電子的な媒介によって営まれるようになったとき、われわれの現実感の変容
という形で、それは進行していく。コンピューターは、人間とはなにか、を逆照射してくれるあらたな他者として、
今日、きわめて意味深い存在者なのであるが、今後、人間は自己規定をどのように遂行していくのだろうか。 
あくまで、人間性にこだわっていくのか、それとも、そんな課題は放棄してしまうのか。興昧は尽きないのである。
 −−
10年先、いや5年先さえ、想像すらつかない変容が待ち受けている。
 それを見るだけでも現代に生まれた良かったと思っている。
                         ヽ(。・c_,・。)ノ バイ
・・・・・・・・・
2006年11月27日(月)
2064, あたりまえなことばかり −15
           o( `▽´ )Ψオハヨウ!           
7歳の頃、一番上の兄が死んだ時に姉に「死んで兄ちゃん、どこに行ったの?」と聞いた。
そのときの姉の答えは、「白い馬になって、空の上の昇っていたいったのよ」であった。数日後、兄が白い馬になって
空に昇って行った夢をみた。子供ながらに、その時の両親と兄・姉の悲しみは敏感に感じ取っていたのだろう。
こういう経験を重ねて、死は怖いもの悲しいものという先入観が植え付けられたのだ。
亡くなってから何度か「どこかに行っていた兄が帰ってきた夢」をみた。
空の彼方からというより、そのつど事情が変わっていた。兵隊から帰ってきたり、旅行より帰ってきたり・・・
人は元気で長生きをしなくてはならない。世界も、自分も変わっていく。それは遥かに予測や想像をこえている。
いま、ここは全てである、しかしその全ての背後に得体の知れない世界がある。
それを知りえるには、変化していく自分の世界と経験の蓄積の範囲でしかない。    
ーーーーーーーーーーーー
他者の死はなぜ悲しいのかー?
ーーーーーーーーーーーー
言語と論理に即して考える限り、「死は存在していない」。自分の死は言うに及ばず、他人の死すら「見つからない」。
しかし、だからこそ、「他者が死ぬ」とはいったいどういうことか悩ましいなぞとなる。死は存在しないが、死体は存在する。
他者の死体の存在によって、現実の出来事になる。死の境によって動いていた体が動かなくなる。この変化の意味、
これが理解できない。理解できないまま、死体は然るべき手順で処理され、無くなる。
(カット 09年11月27日)
・・・・・・・・
2005年11月27日(日)
 1699, 人生の価値について −1    −読書日記 
    『人生の価値について』西尾幹二著 新潮選書  (-_ゞnemu  (~O~)ふぁ
  この本では、どうしたら人生に成功するかという、いわゆる人生での成功の秘訣や、いかに生きがいを見つけるか
 といったことは書かれておらず、生きがいとは何か、成功は価値に等しいのか、が述べられている。
 成功失敗、幸福も不幸も、希望も絶望も、生も死も、結局は同じものの二面性にすぎないという。
 「人生は偶然に支配され、何が起こるか分らないからこそ、生きるに値する」という、宿命を認めているところは
  本人の人生体験を重ねて深いところを見据えている。
  104節からなる各々の文章が、どれを読んでも解りやすい文章で読者を深いところで納得                             
 ー90節の「希望について 」が、心に残った。
 重病患者ばかりが入っている病棟に入院したときの著者の記述が鋭い。
 著者がそこで不思議に思えたのは、明日にも死ぬかも知れない人々にも「社会生活」があることである。
 余命幾ばくもない患者たちが、日常のささいなことに心をとらわれていることである。
 明日の命も知れぬ人が、ナイター中継に夢中になっていたり、同じ病室の人に悪く思われないように
 気をもんでいたりすることなど、「死」という大きくて困難な問題を直視しないようにしていることを知る。
    Σ(゜Д`;)ア…ア…アッハァァァァァァァァ?!!    死にたくない!
 このような経験から感じたのは 日々の小さな出来事に敏感になることで、困難で恐ろしい(死)を考えないで
 すむようにする人間のたくましい実態である。 パスカルはこんなふうに言っている。
 「人間と言うものは、どんなに悲しみに満ちていても、もし人が彼をなにか気を紛らわすことへの引き込みに
 成功してくれさえすれば、そのあいだだけ幸福になれるものである」また102節の「人生の長さについて」もよい。
 「人生は快楽や楽しみごとや不安や緊張や困難で、いっぱいに満たされているのが通例である。
 だから時間は素早く過ぎていく。しかしそういう物を何かの偶然で突如欠いてしまうと、時間はとたんにだらだら
 と怠惰に流れ、退屈という新しい苦痛が発生するのである。 時間はそのさなかではむやみに長く感じられる。(′O`)hima〜
 「今過ごしつつある時間を長く感じることを人間は一途に嫌悪し、これを避けようとするのだ。
  できるだけ時間を短く過ごすことが生の確証であり、生きがいの充足をしていると思っている。」  
  著者は「あらゆる人間の行動はすべてその人の暇つぶしである」と述べている。
  この人間の行動というものの中には仕事や家事、学術的な研究まで含まれる。暇であるという状態は、その人に
  自己の生の無意味感を与える。それを感じたくないがために、我々は何かを行っていなくては生きていけないのである。
  何かこの辺を読むと人生とは何ぞやとか真面目に考えるのが馬鹿馬鹿しくなる。                        
 ・・・・・・・・
 2004年11月27日(土)
1334, 「おカネの発想法」ー読書日記
父が末期ガンで死期を悟った時、私に意味深のことを言ったことを思い出す。
「紙に一千万と書いて、この一千万と通帳の一千万と自分にとって何が違うだろうか。
 今さら一千万の現金を手にとって使おうとしても何に使えない」 と。死を目前にした父にとって、
いくら現金があろうが、それが何にもならない。お金も、元気なうちに使わなくては価値がない。
「使えるから価値があるので、使えないのは価値がないのと同じである!」と言いたかったのだろう。
好きな事業をしてきて、地方としては戦前・戦後と二つの時代に渡って成功をしてきた人である。
そして、道楽も幾つか持ち人の数倍も人生を楽しんでいた。「全く同じ人生を、いま一度生まれてきた繰り返したい!」が、
父の最期の口ぐせになっていた。父は事業の恐ろしさを知り尽くしていたので、最悪のヘッジとして不動産や、証券や、
古道具や、現金にして溜め込んでいた。 しかし死を目前にして、何だったのか疑問を持ってしまったようだ。
反面、事業をしていると、資金は命の次に大事であるとを思い知る。会社の血液である。
「ある日突然、思いもよらない時代の激変が起こって裸になってしまう!」ことが、経営の宿命である。 
そのため、経営はそれに備えて置かなくてはならない。 しかし、あるところまで生きてきたら、
生き方そのものを転換をしなくてはならないことを、その時に父から教えてもらった。
ーー
ーーこの本の印象に残ったところを抜粋してみる。
ーあなたは、おカネである金貨を大きな袋に詰め込んで船に乗り込んでいます。
ところが、乗っていた船が激しい嵐に襲われて、船を捨てて避難しなくてはならなくなりました。そこであなたは、
金貨の袋を腰にくくりつけて海にとびこみました。海底に沈んでいきながら、あなたは人生を振り返りこう思い悩みます。
私はお金を所有していたのか、それとも、お金が自分を所有していたのだろうか、・・・と。お金は所有するものであって、
所有されるものではありません。 お金に振り回されないためにも、お金を所有することの向こうにあるはずの
リアルなコミュニティの重要性に気づくべきです。
 ーー
ーヤップ島の石のおカネの話と我われの通貨とどこが違うというのか。
ヤップ島には、車輪のついた乗り物がなかった。したがって、道路も整備されていなかった。
そこで、、1898年にドイツ政府がコロリン諸島をスペイン政府から買取り、所有権を引き継いだ時、荒れ果てた道を
修繕するように通達を出しました。ところが、全然修繕が進みません。そこで、ヤップ島の通貨として
指定したドイツマルクで金を取ろうしたが、島民達は、笑うだけで自ら修繕しようとしません。
そこで一計を案じました。通達を出した村や町に役人を送ると、価値ありそうな現地の通貨の「フェイ」に「×印」をつけて、
政府所有にしたのです。この政策がウソのように効果をあげ、ドイツマルクに対して、何とも思わなかった島民は「フェイ」
を失ったことを悲観して、ひっしに働きだした。 修繕が終わると、政府は「フェイ」に書かれた「×印」を消して回りました。
島民たちは自分達の財産が戻ってきたことを心から喜んだという。ヤップ島のひとを笑うのは自由だが、本当に笑えるだろうか。
というのは、私達がお金と信じている預金通帳のデーターも、本質的には「フェイ」に書かれた「×印」と大同小異だからだ。
・・・・・
2003年11月27日(木)
 967, PDPテレビをいれ一年、の感想
 一年前の随想日記を振り返って読んでみて、PDPテレビをいれて一年経ったことに気づいた。
(字数制限のためカット 10年11月27日)


3532,  何か哀しい北朝鮮

2010年11月26日(金)

 どちらが先に砲撃をしたか分からないが、28日の米韓の合同演習の直前というところがポイント。
その二日前に、金親子が砲撃をしてきた基地を視察した?ということからみて北朝鮮の先制と報じている。
12月4日に日米による尖角列島付近の合同演習も控えているので、中国と北朝鮮が打ち合わせを充分にした上の
攻撃と見ることも出来る。これはアメリカにとって黄海での原子力空母派遣の大儀名分を手に入れたことになる。
韓国軍の中に前回の哨戒艦の撃沈に対し沈黙をせざるを得なかった反発から、アメリカ空母からの攻撃の誘発を
狙った砲撃を北朝鮮に仕掛ける兵隊が出て、一挙に全面戦争もありえる。アメリカにとって、北の原子炉を破壊するに
丁度良い機会になる。そうあって欲しくないが、アメリカも何を考えているか分からない得体に知れない国。
あのドン様も、病気であとさき短いと考えて、自分の命と道づれに戦争の中で死を選択しても不思議でない。
と同時に、日本にテロを仕掛ける可能性もある。昨日の新潟駅には、いやに警官の姿が目立っていた。
この数日は、黄海から目を離すことは出来ない。あの「緊張感のない息子の顔」からして、瀬戸際を越えてしまう可能性は充分。
中国も、一つ判断を違えれば、動乱になるほど多くの問題を抱えている。またオバマも中間選挙の敗戦で追い詰められている。
北京万博、アジア大会、そしてアメリカ中間選挙も終わり、この辺で、朝鮮で一騒動を起こすに丁度良いタイミングである。
年末まで、あと少し。今年の後半期のイベントは、これになるのか? 欧州はアイルランド危機で、極東の小紛争でしかない。
アメリカも体力が消耗し尽くしているのを見込んだ上の、北の仕掛けで、我慢するしかないのか、ここも。
 もし、全面戦争になったとしたら、アメリカにとって一番有利な展開になる。中国と日本に対する威嚇という面でも。
ところで「何か哀しい北朝鮮」からすると、この国の現状は「何か惨めな日本」「何か哀れな日本」ということになる。

 ・・・・・・・・
3157,つれづれにー 閑話小題
 2009年11月26日(木)
  * 金か〜
 金の動向が気になってはいたが 一月前あたりからジワジワ動き出してきた。金が上がるのではなく、他の貨幣が下がるのだ
という理屈は言いえて妙である。住宅価格下落をよんで、下げで大もうけをしたジョン・ポールソンが近く金《ゴールド》
を中心としたファンドを始めるという。彼のことだから、3〜5年の最低のスパンで金に兆単位を投資するというのだから、
ズッシとくるのは当然である。 恐らく、2〜3倍の高騰を予測しているのだろう。銀も、一年前から高騰を始め、
年に90パーセント以上も値上がりをしているというから、銀に正比例すると、金はまだ40パーセントというから、
50パーセントの値上がりが見込めることになる。そうはいかないのが、相場の世界の恐ろしさである。どうなることやら。
 * その時、犬が吼えた ワン!
 まだ忘れることが出来ないが、ウソのような本当の話がある。
学生時代のドイツ語の授業のことである。 ドイツ語を日本語に誰かが訳していた時のこと。
「そこで犬が吼えた」と訳した時に、ハカッタように何処かから犬が「ワン!」と吼えたのである。
部屋中、教授も含めて大爆笑だった。 あれほどの面白タイミングの面白い偶然は、後にも先にもない。
あれから44年もたったか。年齢を重ねると、一年前も、50年前も同じようなものか。
 *「ランチョンテクニック」
 食事をともにした相手に心を許しやすい心理傾向を「ランチョンテクニツク」という。
我われは自律神経が午前中と午後とでは働きが違うが、これは人類がまだ狩猟生活に明け暮れていた頃の名残で、
「交感神経」が「闘争と逃走」を、「副交感神経」に、午後は「休憩と食事」のモードを司っているからである。
つまり朝から昼にかけては論理が支配する「論理モード」に、夕方以降は「感情モード」になっている。
 これをさらに応用すれば、ランチ時は「論理モード」なので、契約や提携などビジネスモードのシビアな話をしても
「ランチョンテクニック」で緩和される。 そして「感情モード」の夜に食事をする相手は、ビジネスの話はそこそこに
親密度がアップする接待モードが効果的になる。 だからロジカルにビジネスの話を進めようとする外国企業はランチを
共にすることを好み、取引先との人間関係を大事にしたい日本は夕食を共にしたがる。
 そういえば、自分をみるに、朝一番には、この随想日記の最後の仕上げをし、出社した後には前日の数字を見て、
新聞と手帳や手書きの日記帳に何やら書きつけ、それが終わると遊びモードに入ってしまう。
自由に気ままにインターネットをしたり、本を読んだり、とにかくリラックスをして考える。
・・・・・・・・・
2792.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・1
 2008年11月26日(水)
 ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法のコトバ  −1
    「ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法のコトバ 」 スティー ブ・モリヤマ (著)
 この本はユダヤ民族に流れる哲学や思想が151の名言・フレーズとして紹介されている。
図書館で借りてきて何気なく読んでみたが、中味の濃い内容が次から次へと出てくる。ユダヤ流「成功のヒミツ」は、
ビジネスの成功者やノーベル賞受賞者は人口比でみても多いのですが、ユダヤ人の成功哲学には、「金儲方法」の類は
まったく見当たらない。実践の結果として、財力や知性が身につく教えが多い。彼らに一貫しているのは、「知識」ではなく、
「知恵」に対すこだわり。彼ら成功者たちは、先人や親からのそうした教えを自分で消化し、実践している。
 ー以下は、この本の説明文と、9つの成功法則である。
  〜〜〜
この本ではユダヤ流・成功法則を以下の9項目に分け、各項目に関連するユダヤ人成功者たちの名言を付記している。
各法則を一つ一つ文字でこと細かに説明するよりも・この方がより効果的に行間に流れているユダヤ哲学を伝えられるのでは
ユダヤ人は他人と差別化することを重視しているため、多種多様の解釈がでてくるが・読者の置かれている状況も
多種多様である以上、そのほうが具体的事例に当てはめやすいかもしれない。
●ユダヤ流・成功法則 1        自分を大切にするものは、他人も大切にできる。.
●ユダヤ流・成功法則 2        なんでも鵜呑みにするな1人間は鵜ではない。
●ユダヤ流・成功法則 3        口はひとつ、耳はふたつ。
■ユダヤ流・成功法則 4        カネを追うな!お金には追われるようになれ。
●ユダヤ流・成功法則 5       「学ぶ」ことは「知る」こと。「知る」ことは「変わる」こと。
●ユダヤ流・成功法則 6        失敗を恐れるな。やろうともせずに逃してしまうチャンスこそ、恐れるに値するのだ。
●ユダヤ流・成功法則 7        何もしないことこそ、最大のリスクなのだ。
●ユダヤ流・成功法則 8        無から有を生み出す喜びを知れ!それには「質問力」が大切だ。
●ユダヤ流・成功法則 9        笑ってツキと若さを引き寄せろ!
 〜〜〜
 これらの内容は、著者が過去十余年にわたってヨーロッパで働きながら集めた世界中のユダヤ人による
 名言の一部である。収集した約1万の名言の中から厳選したというだけのことはある。                            
・・・・・・・・・
2007年11月26日(月)
2427, 自分自身に「なる」こと     (。・ω´・)っノXXXXXXXXXX>C【才ノヽ∋―】
 人生を振り返ると、全てが自分自身に「なる」ためのプロセスのような気がする。先日、小学校の同期会があったが、
それぞれの生き方をしてきたとしても、突きつめてみれば「自分らしく生きてきたかどうか」である。 
人生の質でも濃さでもない。そんなことは生きてきた、生きていることからみれば、些細なことである。
死線を何回か乗り越えてきた人、北アフリカとフランスに十年住んでいた人など、色いろな人生を背負った、
それぞれの人生を垣間みて、「人生で何をしたかより、その人らしい生き方をしたかどうか」こそ、振り返った時に問題になる。  
残るのは「本人らしさ」だけである。 以下は、『哲学の教科書』・中島義道ー の中の文章である。
 −−−
 ここに、最高の自己表現、誰にでも適性があり、かつ人生の最高目標に据えるにふさわしいことが一つ残されています。
それこそ、はじめに触れました(自分自身になる」というとです。 全ての人は個人なのだから、そのまま何もしなくとも
人生の最高目標をもう達成していると考えるなら、そんな甘いものではない。マザー・テレサは、視線を絶えず苦しんでいる
人達に向けながら、このうえなく「自分自身になる」ことを実現している。あるいは自分のよい個性を伸ばす事も
「自分自身になる」である。特別世間的には偉くなくとも、その人のそばにいるとホッとするような人や安心するような人は
どこにでもいるものです。しかし「自分自身になる」ことは、必ずしも世のため人の為になることを含意してはいません。
この言葉には「よいこと・悪いこと」といった枠を越えたもっと根本的な意味があります。
それは、「生きること」そのことを目標にする「生きること」そのことを問題にすると必ず「死ぬこと」が影のようについてまわる。 
前に紹介した禅の坊さんたちの修行の目標は、例えば白隠の「いつかは生死を離るべき」のように、あるいは道元の、
「生をあきらめ死をあきらめるは仏家一大事の因縁なりのように、「生死の区別」そのものを幻と自覚するようなところにある。
最終的にはこうしたことに収斂することは認めながらも、しかし多くの若い人々は必ずしもつねに,「生」、や「死」そのものに
悩んでいるのではなくーすでに見たように一就職とか結婚、あるいは自分の肉体とか性格など目前の具体的なことに
悩んでいるのではないでしょうか。そこで、次にこうした悩みについて考えてみます。 
私はいかなる(いわゆる)些細な悩みであれ、本人がそれを悩むかぎりは、彼〔女)にとって悩む理由はあると思っております。 
いやむしろ、(いわゆる)些細な悩みであればあるほど、誰もそれを真剣に取り扱ってくれないゆえに、本人の内部でいつまでも
くすぶり続けるのです。 では、どうしたらよいか。ある欠点に悩む人はその欠点を消去ないし改善するのではなく、
それをー変な言い方ですがー「伸ばす」ことです。 
ーー
著者の事例が良い、「長谷川町子からサザエさんを、美空ひばりから演歌を取ったとしても、本人が生きたことから見れば
些細なことでしかない。」それを死期を悟った時に、本人が一番気づいたはずである。
著者は、これまでの価値観を根本的に揺らぐようなことを平気で述べる。それだけ生きるということ自体が価値があるということ。 
 少し考えれば、当たり前のことだが、その当たり前のことに気づかない!だけである。 
                  *´・ω・)ノ バイ!
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2006年11月26日(日)
 2063, 親戚の交通事故
一昨日の夜20時過ぎに家内が柏崎の実家の近くに住む妹に電話をしたところ、彼女の連れ添いが交通事故にあったという。
「入院中の義母が、数日前から具合が悪い」という連絡が数日前に義妹から入り、私と見舞いに行く打ち合わせの電話をした時に、
その知らせを聞いた。 「数時間前に亭主が交通事故にあい、病院で手術中」という。昨日の朝さっそく病院に行き、集中治療室に
入っていた本人と話したが、身近の人の重傷の交通事故の人は初めてである。顔は倍近く腫れあがり脚は二箇所骨折、
来週ふたたび手術という。 首の骨も折れているという。たまたま、義妹と家族が買い物に出ていたが、頭はしっかりしていて、
見舞いのお礼をいっていたが、正視できない姿であった。オートバイで直進していたところ、交差点で右折の軽自動車と激突。
意識不明のまま、救急車で運ばれたという。タバコも吸わず、酒ものまず、「家業の自転車屋と、社会保険労務士と、貸家、
貸し駐車場を経営、真面目を絵に書いたような人。今まで事故も一切起こしたこともなく性格どおり平穏な人生であった。
人生何が起こるか解らない。来週の手術次第で、どうなるかは今のところ解らないとか。私が同じ状況なら、誰もが、
「ヤツも、やっと罰が当たった!ざまをみろ」と、異口同音言われるだろうし、それも肯けるが・・交通事故は車を運転している限り、
一生のうちに、平均すると重傷の人身事故(軽傷から死亡事故までを均すと)に出合うという。車や、オートバイで人を殺傷して
しまったという話は、何度か聞いたことがあったが、本人が重傷のケースは初めてである。二十年ほど前に日光街道で‘ありがとう右折’
で止まってくれた車の後ろから直進してきたきたオートバイを撥ねたことがあった。撥ねた瞬間、その場面がスローモーションのように
展開したのが脳裏に鮮明に残っている。ボンネットにライダーが宙返りをして、バッタと、かぶさった影像である。
たまたま人身事故にはならず、オートバイの損害保険程度で済んだが・・一期一会は、決して感激・感動・感謝の場面だけではない。 
家内がいった、「事故の前に時間を引き戻したいでしょうね!」という言葉が、印象的である。
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2005年11月26日(土)
 1698, 辺境へ −3
 この本の内容とは、少し違うが私が行った辺境を印象深い順にあげてみる。
(辺境というよりむしろ、異境ー‘Σq|゜Д゜|p ワオォ ’という意味である。)
1、やはり一番は中国ウィグル地区のタクマカラン沙漠のインド側のホータン〜カジュカル〜パキスタン国境のクンジュラフ峠
  〜カラコルムハイウエー〜フンザ〜アフガン国境のペシャワール~イスラマバード。
 2、アルゼンチンとチリーパタゴニア地方    3、南米のベネゼイラのギアナ高地
 4、タンザニア      5、イスラエル   6、北インド   7、アイスランド
 8、ケ二アのヌーの河渡り  9、ネパール 10、シリア・レバノン・ヨルダン  11、エジプト       
12、モロッコ    13、桂林   14、ペルー 15、ブラジルのカーニバルと、イグアスの滝
 (以下、字数制限のためカット09年11月26日)          (◎-◎;)!!
 一番辛かったのは、生理現象である。( ̄ω ̄;)!!
 時差と食べ物の関係で2〜3日 体調を崩す。それを恐れていては、何処にもいけるものではない。
 ただどういうわけか、強盗・窃盗にはあったことはない。ツアーの良いところだろう。
 大自然や異文化から受ける大きな感動や驚きからみれば、その前に立ちふさがる壁は踏み石でしかない。
 それだけ、素晴らしい景色と感動が待ち受けていた。できる時に、できる事を、できるだけしておいて良かったのが 実感。              
・・・・・・・・
2004年11月26日(金)
 1333, 2000年前のポンペイ −4
遺跡の中でポンペイの遺跡は、奇跡に近い状態で当時の世界をそのまま閉じ込めて現在に提示してくれている。
この世界のグラビアの本を開いているだけで、気持ちが2000年の時空を飛び越えてローマの時代にはまりこんでしまう。
この小プリニウスの手紙には、大きな衝撃を受ける。この青年の知性にも、驚きざるをえない。
( 字数の関係で、カット。あとは、分類の検索に載っています。)
  (2007年11月26日)
・・・・・・・
2003年11月26日(水)
 966, 悪口についての一考察 −2
どんなに憎んでも、面と向かって言ってはいけない言葉がある。だから、その人の居ないところでいう悪口は楽しいのである。
これが人間の悲しい性である。4~5年前にある泥酔の高校の同級生二人に呼び出されたことがあった。
片っ端から知人の悪口を言っていたが、私を呼び出す前までは私の悪口を言っていたのがミエミエであった。
そして「人の悪口は楽しい!」といっている姿に唖然とした。そう、こう書いているこの文章も、彼らの悪口である。
 私の場合、こと人間の真髄に関しては何を話しても悪口になってしまう。虚飾などどうでもよい? 見えるのは
裸の猿の狂った姿である。大学のたまたま入った学部が社会学部であった。早くいえば人間学である。
人間関係の網の構造を瞬時に洞察する訓練を受けているから始末が悪い。さらに、こういう社会学的な本が好きで
40年近くも読み続けているから知らないうちに外語化しているのだろう。
表面的な付き合いの人間には、全てが悪口に聞こえるはずだ。同級生のスナックのママに説教をされたが、
その道のアマチュア? ということは知らないようだ。ところで悪口という概念は、なんの思想も持ち得ない。
ー怒れば、ストレス解消・精神衛生などという隠れみので、自己のプライドなど微塵もみせず?に罵詈雑言をいい続ける。
ー気分の良い時は調子よく聖句などを持ち出してきて、「悪口はいけません」とのたまう。
 この二面性を持っているのが人間の姿である。 悪口の後で「仕方ないさ、人間だもの」と繰りかえす。
ー悪口をいま思い出せる言葉を羅列してみるとー
「服のセンスが悪い」「だらしがない」「カスが人間をまとっているような奴」「子狐のような奴」「屑どもめ」
「仕事が出来ない」「気がきかない」「痴呆迷死」「ミス何々ー失敗ばかりする女」「ダニ」「自民党のような奴」
「たかり」「くそったれ」「共同便所のような女」「東京ガス」 悪口はまるで無尽蔵である。
嫉妬心・怒り・敵意・ねたみ・憎しみ・優越感・軽薄など心の底に渦巻いているドブから発するガスである。
・・・・・・・・
592,ーこころにのこった詩ー2
 - 2002年11月26日(火)
 ー兄弟ー びーと たけし
兄ちゃんが、僕を上野に映画を見につれていってくれた
初めて見た外国の映画は何か悲しかった
ラーメンを食べ、喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ
兄ちゃんが、後で入ってきた、タバコを吸っている人達に
殴られて、お金をとられた
帰りのバス代が一人分しかなく
兄ちゃんがおりた
僕はバスから飛び降りた
兄ちゃんと歩いて帰った
先を歩く兄ちゃんの背中がゆれていた
僕も泣きながら歩いた
 −−
ーこれを読んで子供のころの出来事を思い出した! これを詩的に書いてみるー
小学校の低学年の頃、兄と歩いていた         兄が急に頭に手を当てた
帽子を取ると頭が血だらけだった           兄はそれを見て泣き出した
帽子に穴があいていた                すぐに誰かが空気銃を撃ったのが解った
近くに不良の中校生がいた              彼だろうと思った
兄の手をひいて帰った                その問題は大きくはならなかった
それから10年経ってその少年は殺人事件をおこした  ざまみろと思った
 −−
この文章を考えて寝たため昨日の朝、ビートたけしの兄弟の夢をみた。夢の中の対談で私が司会者だった。
たけしが兄にふざけて昔貸した200円を返せという。また二人で読んでいる新聞を取り合いをしている。
兄弟でいつの間にコントをしている。それがこの詩のように仲がよいのだ。
何か失われた家族を見ているようであった。
また自分の脳の想像力の凄さ単純さに驚かされる。自分でいっているのだから間違いがない。 
・・・・・・
ある時間の断片 
 1968年 11月26日
9時15分に起床。10時半に学校へむかう。川崎と待ち合わせて、ノートを借りる。食事後川崎と「サルビア」へ行き話す。
「昔の彼女に会って婚約を知り、再び結婚を前提で付き合いたい」といったという。聞いていて馬鹿馬鹿しくなってきた。
    (字数制限のためカット 2010年11月26日)


3531, 専門家を疑ってかかれ!

2010年11月25日(木)

    * 「ローゼンハン実験」 ー専門家の先入観を疑え―
 先日の朝日新聞の勝間和代「人生を変える法則」のシリーズに、以下の実験に関する法則の紹介があった。
  医学など、こんなものだろうが、アメリカ的で何とも面白い。 まずは、その内容から・・                               
【 精神分析学に、「ローゼンハン実験」という有名な実験があります。
これは、1973年に米国の心理学者のデービッド・ローゼンハン博士が友人7人を募り、8人で12の病院に「幻聴が聞こえる」
と訴える偽(にせ)患者を装って診察を受けに行ったところ、診察にあたった医者がそれを詐病と見抜けず、全員入院させられて、
薬物治療を受けることになったというもの。この実験は、医学界から大変な反論と反響がありました。
ある病院は、偽患者はかならず見分けられると主張し、ローゼンハンに、好きなだけ偽患者をよこせと勝負を挑みました。
じつはこのときも、ローゼンハンの完勝でした。なぜなら、この病院は、3カ月間で診察した193人の患者のうち、
41人が偽患者だと見抜いたと発表しましたが、なんとローゼンハンはこの病院に一人も偽患者を送りこんでいなかったのです。
もちろん、当時と現在では、精神疾患に対する診断基準が違うため、いま、偽患者を装って受診しても即入院とはならないでしょう。
しかし、経験則に重きをおく医学では、医者が、短時間で患者の訴えの虚実を見分けることは大変、難しく、なんらかの病気の診断を
下そうとしてしまいがちだというのです。 現代で、同じような偽患者による追試を行うと、入院こそさせられませんが、念のため、
ということで薬が処方されることがあるでしょう。これも、医者が、患者の期待に、なんとか応えようとするためです。
この実験の教訓は、専門家たる医者の立場からみると、先入観にとらわれてはいけない、ということです。さらに、患者が嘘をつく
可能性を念頭に置き、物事を熟知していると自負するあまり、あるパターンに押しこめて理解しようとしていないか、
常にチェックすることです。また、患者の立場からみると、こちらからの情報が正確に伝わらないと、誤診を犯す可能性があると
いうことを理解しておくべきでしょう。しかし、この実験から、「専門家はあてにならない」と即断すべきではないと思います。
専門家も間違える可能性を念頭に置きながら、互いに信頼関係を築き、ベストな情報を交換し合うことが必要でしょう。
                              (勝間和代ー経済評論家・公認会計士)ー2010年11月22日 】
 ー 医者も間違えることをことを患者サイドは、常に意識しておかなければならない。要は、医者も能力の差があり、正確な
 診断を下せるとは限らない。それが精神疾患となれば、尚更である。これは、医者だけでない。社会一般にも言えること。
 専門家と称する人が言うことが、常に正しいとは言えないということだ。引退近い力士が、負けが込むと医師から、色いろな病気の
 診断書のお墨付きをもらい休場する。見ているほうからすれば、力の衰えからくる実力で負けが込んだのは一目瞭然。
 医者も阿吽の呼吸で診断書を書く。 ところで、考えてみれば、人間の認識ってのは、全てが先入観でしかないのでは? 
・・・・・・・
3156,デフレ・スパイラル
 2009年11月25日(水)
 政府が先日、三年数ヶ月ぶりにデフレ・スパイラルに入ったと宣言をした。この宣言は消費者の財布をますます閉めることになるが、
賃金・GDPも17年前の水準まで落ち込んでおり、購買が減るのは当然である。そういう当ホテルの客単価もピーク時の3分の2である。 
ネット予約の顧客が全体の四分の一になっているが、破格値である。 そういう私も本の半分以上はアマゾンで中古本を買う。 
カメラや、ブルーレイ録画機も、健康機器も、電気自転車も、何でもかんでもネットで一番買い得のものを選ぶ。 
また週初めは通勤途上の新潟駅で、週末の売れ残りのバナナか、村上の牛肉の値下がり品を買う。 
家内は初めの頃は買ってくると怒っていたが、今では逆に頼まれる始末である。 新潟駅駅ビルにビッグカメラがあるので度々、
カメラや薄型TVを見にいくが、この数年で廉くなっているのが分かる。先日、長岡のアピタの隣のシネマ館にいったが、
60歳以上は千円である。 またユニの衣料コーナーで驚いたのが紳士服。二着で一万五千円だったが、柄も生地も悪くない。 
思わず買いそうになってしまったが、踏みとどまった。 デフレ宣言を報じていた新聞をみていたら、紳士服の単価が一年で
4割以上もダウンしているとあった。家内がジーンズが好きで、微妙なカタチで購買を決めるというが、廉くても、その微妙な部分は
チャンとデザインに取り込まれていて悪くないという。  既に大手スーパーや百貨店などは、究極の消耗戦に入っているが、
こうなると弱いところに打撃は大きくなる。その山が年末年始にくるはず。ユニクロも、デフレを察知し、60週記念売り出しで
思いきった値下で先手を打った。 大盛況だったというから、他店の出鼻を挫いたことになる。それだけ、ユニクロは大きな影響を
与える存在のなってしまった。 企業にとってはデフレは厳しいが、消費者の節約にとっては良いことになる。
しかしハイパーインフレが始った訳でないのが、まだ救い。金(ゴールド)がジワジワ値上がりを始めてきた。
大荒れの一現象だが、見逃せないことである。
 ・・・・・・・・・
2791, 新型インフルエンザ
 2008年11月25日(火)
このところ、連日のようにTVで鳥インフレエンザの脅威について報道している。 60年か70年に一度は、
必ずといってよいほど大流行が起こるが それが近々という。世界で最大、一億5千万人が死亡、日本では60万人と言われているが、
鳥インフルエンザH5N1型の場合、感染の六割が死亡するといわれる。半数が感染した場合、三割とすると????万人である。
(最悪の場合だが)それは防ぐことは不可能で、何時起こるかの問題というから、深刻である。新型インフルエンザの発生は、
20世紀中に3回も発生して、大きな被害を出した。そのなかでもスペインインフルエンザ(1918年〜1919年)が知られており、
世界で人口の25%〜30%が罹患、4000万人が死亡したと推計されている。飛行機のない時代であるにも関わらず、
日本でも2300万人が感染し、39万人もの人が死亡しました。(阪神大震災の約8倍)当時の新聞によると、郵便、鉄道、
電話などのあらゆる社会システムが麻痺し、食料や熱さましの氷が高騰するということが起きたという。
題名を忘れたが、アメリカの、ある町で発生、あわや町中の人ごと焼き払う寸前にワクチンが発見され、急場がすくわれた、
という映画を観たことがあった。スペインインフルエンザは世界中に流行の波が到達するまで6〜9ヶ月の期間であったが、
現代社会は人口の増加や都市への人口集中、航空機などの交通機関の発達などから、世界中のどこで発生しても短期間でまん延する。
厚生労働省の発表によると、海外で発生してから日本に到着するまでの時間は、2週間〜4週間程度と予測される。
「新型インフルエンザウィルス」は動物、特に鳥類のインフルエンザウィルスがヒトに感染し、ヒトの体内で増殖するように変化し、
ヒトからヒトへと効率よく感染する。現在、毒性が非常に高い「H5N1型鳥インフルエンザ」がヒトからヒトへ感染するように変化、
世界中に一挙に感染する可能性が高い。鳥インフルエンザが人と人の間を空気感染する菌は、実験室の中で二回の突然変異で生まれた。
これが世界のある場所で、何時発生するかは分からないが、世界的爆発的が発生することは間違いないという。
それがH5N1の進化したインフルエンザなら、・・・・・・。 恐ろしいことだ。タイミング的に世界恐慌とセットで、
世界を根こそぎ変えることになるが、結果として人口の多い中国が最後は生き残ることになる。ただ、中国共産党は跡形もなく、
無くなるだろうが。いや、こういう時ほど、独裁国家の方が政治形態としてプラスに働く。 やはり中国か?
そろそろ、準備を始めるか! それも年内に?  どうするのか?って、自分で考えましょう!  
ウガイとマスクのセットは売っている、ネットでも・・・  (この情報源はTVとネットで、間違いありません)前門の狼、
後門の虎である。 21世紀の玄関先は破壊と混沌から始ったようだ!それに参加できることを喜ぶべきか、悲しむべきか?
・・・・・・・・
2007年11月25日(日)
2426, 「おばあさん」初体験
                   |* ̄o ̄|お|* ̄O ̄|は|* ̄。 ̄|よ
朝日新聞の「生活」のページのーひとときーという欄に切実な投稿があった。家内が読んで「もう直ぐこういう経験をするかもね!」
と教えてくれたのである。一年ほど前に山の手線で偶然にシルバーシートの前に立ったことがあった。若い人が座っていたが、
その時に「もしかしたら、席を譲られるのでは」という不安感に陥ってしまった。結果として譲られなかったが、
次の駅が来るまで頼むから譲らないでと願った経験がある。 
(字数制限のためカット 2010年11月25日)
・・・・・・・・
2006年11月25日(土)
 2062, モーニング・ページその後!
                   (~Q~;) おはよう〜〜 ファ〜
今年の3月半ばから始めた「モーニング・ページ」を相変わらず続けている。今年に入って新たに加わった習慣である。
何も難しいことはない、ただ起きざまに大学ノートに思いのまま書く。ポイントは、毎日必ず書くことである。
(以前にもかいたが)書き始めて8ヶ月、改善を重ねた結果、曼荼羅図のように中央にハートの絵を書いて、
周辺に9つの円を描いた中に書き込んでいく。健康コーナーや、 随想日記のヒントコーナー、 読書コーナー、
つれづれにのコーナー等々、 だいたい位置が決まってきた。大学ノートを横にして上下のページを朝一番に書き、
昼や夜に思いついたことを、その上に書き込む。内容が一人歩きするのかと期待したが、脳の排水レベルで留まっている。
書き連ねているうちに、思ったままのことをスラスラかけるようになったのが一番の収穫だ。
それと毎日ほぼ同じことを書いている自分に驚いてしまう。MP(モーニング・ページ)の習慣を40年前に、
いや10年前に身につけていたら、もっともっと豊かな人生をおくれただろう。
随想日記のように蓄積されていくうちに、知らずに何かが生まれてくる可能性を秘めている。 
起きて、真っ白の状態そのままで書くのが良いのだろう。一種の座禅、瞑想である。頭に浮かんだことを文に書き出すと、
浮かんでは消えている雑事を掬い取るのと同じ。脳の排水を小まめにしていることになる。 その排水の中に時には
砂金が入っていることもあるが・・夜半みた夢と、前日読んだ本の印象に残った書き込みがよい。
  この一日一文と、モーニング・ページは私にとっての生き甲斐?になっている。
 それと( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪も                 (*^ワ^*)i バイバイ
・・・・・・・・
2005年11月25日(金)
1697, 哲学マップ              
 「哲学マップ」(貫成人 ちくま新書)が面白い。哲学とはどんなもので,他の哲学とどういう関係を持っているかの
 地図を示そうというもので、切り口を変えた哲学史ともいえよう。最近、哲学がますます面白くなっている。
 極限の自己対話の本音の部分と、過去の哲学者の自己対話との重なりに、自分の練りを今という瞬間に突きつめる。
 それが日常の足下を掘り起こし、日常の外に出ようとすることになる。だから哲学は常に日常の中でおこなわれなくてはならない。
 自分が鵜呑みをしてきたことが、どんな哲学の範疇であるか、そして、他の哲学からみたら、
 どういう関係にあるかしれば、その思い込みから自由になることができる。
ーこの本の大筋はー     φ(・ω・〃) ♪
 哲学の発想法といえば,
  1.全体を問題にする,  2.日常性から出る,
  3.形式的である,    4.方法についても慎重であるべきである、 の4つである。  
また哲学的な「問い」を次のように立てている・・
(1) 「〜とは何か」という問い (イデア:現実の二項対立でとらえる ープラトン)
(2)「わたしとは誰か、なにを知りうるのか」という問い (自我/対象、主観/客観の二項対立でとらえる  デカルト)
(3)第一と第二の問い組み合わせカテゴリーが人の認識メカニズムにアプリオリ-先天的-に組み込まれている、と考える
 (「経験に先立つ本質」 カント)
(4)「なぜそれを問うのか」という問い 価値を差異に還元して考えるニーチェである。(虚構、流動性 ニーチェ)簡単に言えば、
(一)は「真理」への希求に関する問いであり、
(二)は、人の「認識」についての問いといったところか。
(三)については、「経験に先立つ本質」についての問い
(四)は「超越的実体を否定し、すべての差異が諸力のせめぎ合いによって生まれる流動性を肯定する」
   と書かれていることから、「流動性」(不確実性?)がキーワードになる。                  
20世紀の哲学は,               (*´o)*ゞふぁぁ…
 現象学, 言語分析, 言説分析, 精神分析, 実存分析, 構造分析
などの道具を使って行われている。大雑把すぎるが、この本の大きな柱になっている。   (^┰^)ゞ
・・・・・・・ 
2004年11月25日(木)
1332, 23歳の日記−4
 1969年 3月29日 ー四日市にて
勤めて、まだ一ヶ月も経ってないのに、既に壁に当たっている。後方部隊の管理部は総員37名、そのうち30名が若い女性。
今年配属された男子4名の他に、課長と係長と肩書きのない古手の男子2名が男だ。それにしても肉体的の限界の激務である。 
寮で同室の堀田君は本店から離れている郊外の食品スーパーに配属されているが、話からすると、仕事の厳しさは本店の管理部は
彼よりも数倍厳しいようだ。部屋に帰ってきて、布団にバタッと倒れる状態である。それでも、既に数回同期の4人と三回も
居酒屋に行った。同期の仲間は西尾、桜井、渡辺、そして私の4人だ。酒好きというのが共通点である。
いずれも地方の大學出身のせいか純粋であり、温厚である。学生時代の寮の連中からみれば地方大学出身の為かすれてないのがよい。
上司の松又さんは九州出身の純朴な好青年である。高卒で8年目だが仕事が出来る。我われ四人に、非常に気を使っているのが解る。
今の課題は、同僚としての女性に対してどう接してよいのか解らないことだ。純朴な地方の擦れてない若い娘達の同僚としての
対応の仕方である。傷つきやすい敏感な年頃である。全く難しい。自分としても、どう気持を開いてよいのか解らない。
やはり、自分を取り払わないとわかっているが。それと、寝る時間の前に本を読む癖だけはつけておかないと。
本店には、300人ほどの女子店員がいるが、息を呑むような美人が7〜8人はいる。働く女性の姿が輝いている姿を
身近にみるのは初めて。小説を見ているようだ。それにしても良く働く、いや働かされている。
 ー4月2日
どうも、若い女性を扱うのは難しい。他の三人は結構上手く、楽しそうなのに自分は駄目なのだ。
まず彼女らを人間として認めなくてはならないのだ。何か焦りを自分に感じている。
取りあえず、問屋の名前を一つずつ憶えてみよう。 次に店内の配置図を頭に入れてしまおう。
そしてコード名を憶えよう。何か一日一日に追われているだけだ。統一伝票の合理的なシステムには驚かされる。 
4枚綴りの複写で、それが本部用、店用、取引先分類、そして最後の一枚は、受領書として相手方に送り返される。
この伝票システムが仕様書発注として内容が細かくないようが伝票にギッシリ書かれるのだ。凄いと思わざるを得ない。
 ---------
 2003年11月25日(火)
965, 悪口についての一考察 −1
 悪口については、随想日記の中では何回も書いている。しかしテーマにしたことは無い、一番イヤなテーマだからだ。
 昨日、新聞を見ていたら‘メジャー’ヤンキ−スの松井は中学校二年生以来、悪口を言ったことがないという。
 (所詮は勝ち組が言っているから注目している部分もあるが) それでは「私の場合は如何だろうか?」と考えてみた。
 本音でいうと 可能な限り言わないようにしている。その為には嫌いな人のいる場には極力行かないようにしている。
 例えば、ライオンズとか商工会議所などである。痴呆名士志向の子狐的人間である。
 地方で頑張っている人はこういう傾向が強いから始末が悪い。 自分より肩書きや収入が多い人間には媚びへつらい、
 下の人間には尊大な人だ。まあ仕方ないのは解っているが。「お前の姿でもある」といえば、そうかもしれない。
 人間にとって自分は善人であり他人は悪人なのである。自分を理解しろと必死になるが、
 嫌な人を理解しようとはしない。それは、怠惰という無精者に過ぎないことに気づいていないからだ。
 辞典には
 ー悪口は「他人について、劣っていると(事実に反し、また実際以上に)いう言葉」とある。
 ー陰口は「その人のいないところで、いう悪口」と書いている。
 悪口とは事実に反してと書いている。 週刊誌などは、それで持っているいるようなものだ。
 大衆の一番弱いところを狙っているのだ。 辞書のとおりならば、悪口の経験のある人は虚言罪で天国の門は間違っても
 叩かれないことになる。思いつくまま「悪口」について頭に浮かんだことを書いてみる。
・「悪口はドロボーより悪い!」と曽野綾子の本にあったが、まったく
 曽野(その)とおりである。ドロボーは人を殺さない、しかし悪口は時に人を殺す。
・悪口は結局は、自分の事をいっているに過ぎない。 したがって根は深い。
 ただ自分で気がついてないのだ。 悪口はその人の歪んだ心象風景といってよい。
・悪口にも色いろある。 本人に面と向かっていう悪口と 陰でいう悪口がある。
・宗親(居酒屋おやじ)「馬鹿野郎!これで俺等居酒屋が、商売でもっているんだ!でも酷いもんだよ!
 サラリーマンの悪口は耳を塞ぎたくなるより、『その対象の奴より、言っている本人を張り倒したくなるよ!! 
 まあ、そうでもしなくては精神のバランスが保てないのだろうがね』     続く
 −−−−
591, ある時間の断片ー13
  2002年11月25日(月)   
 ー 1968年 10月3日ー
9時半起床。 10時40分学校へ出発。 12時に図書館に行く。途中で石川と会う。
図書館で数人の人と話ばかりで、試験勉強が身に入らない。試験は予想どおりで、簡単であった。 
必死になったのが馬鹿みたいである。帰寮後、床屋に行く。 夕食後TVを見る。 今の自分が何かあるべき
自分とのギャップが大きい。どうかしているのではないか? 石川に今日言われた。 「かなりいいかげんだ!」と。
そうだ、新潟の六日町の禅寺の雲洞庵にいこう! これで遅れた分が取り戻せるだろう。このままだと、
その半分以下だろう。 この7日か8日にいこう。 そこで集中して卒論の大筋をまとめあげよう!
同時に人生の将来図ー目標とか理想をつくりあげよう。 イメージにまでにしてしまおう。
 ーーーー   
 11月25日(火曜日) 1968年
朝10時起床。 卒論のマトメをしたが中途半端であった。部屋に米林がくる。彼もかなりクールのようだが。
(字数制限のためカット 2010年11月25日)


3530, ハーバード白熱教室 ー2

2010年11月24日(水)

 海難で生きるために三人が一人の人肉を食べてしまった事件で、多くの問題が出された。
海の遭難現場での異常事態で、どの答えが正しいとはいえないが、これをヒントに正義を論じ、考えることは可能である。
 次にサンドル教授は、「イチロウの年俸は高いか?」を問題定義をしている。 イチロウの年俸は15億円。
それに対し、日本の教師の年俸は400万、400倍。オバマは3600万だから、その40倍になる。
イチロウの年俸が高すぎるという意見と、妥当という意見を生徒から導き出して、議論を進めていく。
これも、美徳と貢献などの問題を提起し、議論を導き出していく。何でアメリカ大統領の40倍の報酬が妥当か、
逆に、それは不当すぎるほど高いと言えるのか等々を・・・・ この問題には自由と平等・公平の問題が含んでいる。
 二時間目からは「戦争責任について」である。そこで生じた道徳的義務と責任は *個人的なものと、*集合的なものと、
分けて考えられる、としている。カントは「責任は自分自身の自由意志と、選択によって生じる」という立場、
要は純粋実践理性よって生じるという。 道徳の根本原理によって、普遍原理に達することが出来る、という。
アリストテレスは、「責任は、よき生についての私たちの考えによって成立する」という立場である。
 次に「義務」について、「殺人を犯した家族を警察に突き出すべきかどうか」を事例に議論を進めていく。
家族の立場をとるか、社会を優先させるべきか、当然に意見が分かれてくる。互いの議論の中から問題を捉えていく。
彼の授業は、古代哲学者や近代哲学者などの思想を現代の問題に結びつけるやり方で、対話をしながら考え方そのものを
教えていく。 先に書いた私の学生時代のゼミの授業の進め方、すなわち「自分自身で考えること、それを進めることが、
本当の教育」であるということだ。判断、決断する前に、独りで考えを進められる能力が教養である。
 我われは、誰もが哲学をしている。そのレベル、効率化の向上は可能である。パソコンから類推すると、解りやすい。
哲学(考えることを考える)は、全ての人にとって最も重要である。何故、生きるのか、何故死ぬのか?人生に意味があるか?
 ・・・・・・・・
3155, 「 2012 」
2009年11月24日(火)
  * シネマ 「2012」
 その迫力の凄さの予告をみて、初日の幕開けを観てきたが、期待以上の内容であった。 
現在のCGの技術をフルに生かした映画であり、次から次へと想像を絶する破壊の画面が続く。
映画館の大画面と音響で観るから良いのである。 特に後半は次から次へと都市破壊の映像が映し出され、
思わず座席にしがみついてしまうほど。都市破壊の場面や大津波は圧巻!エベレスト山頂近くまで洪水が押し寄せ、
ワシントンのホワイトハウス、自由の女神、ハワイ、ローマのバチカン、エッフェル塔などが、
次々と破壊していく場面などは観るだけの価値はある。 これを映像で観ている自分が不思議に感じた。
「マイケル・ジャクソン」と同じく、上映中に、いま一度見たいと思えたから、お勧めである。 
  ーまずはHPの紹介文からー
 2012に世界が終わる!マヤ文明の黙示録的予言を描いたSF映画である。
天文学や数学に長け、高度に発達しながらも謎に包まれたまま消滅した古代マヤ文明。
マヤ人のカレンダーであるマヤ暦は極めて正確なものとして知られているが、その暦は西暦2012年12月21日で
突如終わっている。 いつのころからか、その理由は「2012年には地球が滅亡する」というのが西洋世界では通説となり、
多くの書物が著され、数多くの人がこの説に現実的な恐怖を抱いている。 この2012年を舞台に、その終末世界と人類が
生き残れるかどうかを描いたデ超大作が『2012』である。『ID4』『デイ・アフター・トゥモロー』など、
過去幾度も“地球的危機”を描いてきたエメリッヒ監督がついに地球の滅亡を描き出す!
 〜
 2009年。太陽の活動が活発化し、地球の核が熱せられた結果、3年後に世界は終わりを迎える。
この驚愕の事実をいち早く察知した地質学者エイドリアンは、すぐに米大統領 主席補佐官に報告。
やがて世界各国の首脳と一握りの富裕層にのみ事実が知らされ、人類を存続させる一大プロジェクトが極秘に開始される。
そして2012年。売れない作家のジャクソンは、子供たちとキャンプにやってきたイエローストーン国立公園で、
政府の奇妙な動きを目撃。世界に滅亡が迫っていることを、偶然知ってしまう…。
 ――
 後半は、これでもか、これでもか、というほど次々と都市破壊、地球破壊の場面が続く。
最後のオチが、これまた面白い! 選ばれし者の乗ったノアの箱舟は、宇宙船でなく、近代的な箱舟で、
隆起した南アフリカに向かうところで終わる。その箱舟には選ばれし者以外の人の値段が一人あたり1千憶。
・・・・・・・・
2790, 閑話小題
2008年11月24日(月)
 *金融危機 あれこれ
 AIGが8兆円を使い切り、追加支援をいれて15兆円に拡大しているが、米国政府も見切りをつけなければなるまい。
見切りをつけたと同時に本格的な恐慌になるので、手の打ちようがなく果てしなくドル投入しなければならない事態。
当方の保険は日本のアリコに入っている。 日本は大丈夫というが、日本の保険会社の何処も買収に腰が引けている。
 他にも、政府系のファニーメイが赤字2.9兆円。 更に家電チェーンのサーキットシティも倒産(負債2,300億円)。
現在は、ビッグスリーのGM、フォード、クライスラーも倒産の秒読み、全米の銀行ナンバー1のシティも重体という事態。
 その中で、十一月になってからホテル宿泊も影響が出始めてきた。 やはりタダゴトではない状況になってきている。
日々、事態は深刻度を増しているのに日本政府の機能は混乱しているというから、どうもこうもない。
 *定額給付金の愚挙
定額給付金について、全国世論調査では反対が、賛成の二倍。決定のニュースを見たときに思わず咳き込んでしまったが、
それは私だけではなかった。あの人の知能レベルが、定額給付金の愚挙になったということ。怒りより日本の行末の方が心配。
日本中は、この時期に、この程度の人物が首相と呆然状態である。 100年に一度の経済危機と言いながら、
その対処が目先の選挙対策の苦し紛れの金ばら撒きをしている姿は何だろ?。
これで、自民党政権は全くのレイムダック。【医者は社会的常識に欠けている】は、よく言ってくれたが・・・
  *散歩の光景
一年ほど前から、朝のウォーキング途上(冬場を除いて)80歳位のオジイサンが土手に立って、
通りすがりの人に親しそうに話しかけている。 軽い痴呆が入っているようだが、それでも一人で来て、帰っていく。
毎日、色いろな人と会うのが楽しみのようで、多くの人と立ち話をしている。何度か声を掛けられたが、挨拶だけにしている。
痴呆の人は歩き方が小またで、蟹股のようになる。母親の晩年がそうだから分かるのである。
兎に角、人懐こく挨拶をするので、誰もが彼の世界に引きこまれるようだ。人品卑しからずの雰囲気があり、
少年のような顔が良い。 犬を連れた子供からも何時の間にか友人のようになっている姿が、愛嬌がある。
痴呆症の人にとってはゴールデンタイムになるだろう。 時に姿を見かけないと、心配になるほどだ。
  *猫派、犬派?
先日の朝のTVで、「あなたは猫派、それとも犬派?」という話題を取り上げていた。
犬派が44%、猫派が16%、どちらも同じぐらいが40%との結果であった。大よそ三対一ということになる。
犬は素直で、従順が良いというし、猫は独自性があり、クールのところが良いとのこと。 
私は犬が好きだが、家内がペット全てが嫌い。少し珍しい人種である。
・・・・・・・・・
2007年11月24日(土)
2425, 自分を理解するための他者・コンピューター −1  ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ] 
   ーまずは、私の感想文からー                   
  人間は自分の弱さをカバーするため、そして知識を持ったために神をつくった。
  それは他の生物から見たら、人間にとって都合の良い空想の産物でしかない。  ある雑誌に載っていたレポートを
  読んで考えさせられてしまった。19世紀に始まる進化論が人間は動物でしかないと主張、それまでの人間理解を根本から
  大混乱させてしまった。そこで人間と動物の違いが問題になった。動物の中の人間を浮き上がらせている諸特性ー例えば、
  計算合理性、言語能力、抽象化能力などが浮かび上がらせて、我われ人間の根拠となり始めたのである。
  しかし20世紀半ばから出現したコンピューターは、動物とは違う、人間を理解する新たな<他者>になったのである。
  それが人間たらしめている特性を凝縮したものときているから、問題は更に人間とは何かを考える問題提起になる。
  動物とは逆の立場のコンピューターから人間が照射されて、動物と人間の差異を見ると、浮かび上がるのは何だろう?
  さらに、人間とコンピューターが融合してきたため、人間とコンピューターとの差異も見えにくくなってきている。
  その意味で現在の人間は哲学的に見ても大きな曲がり角に来ているのである。
   さらにコンピューターは人間の能力の概念を変えようとしている。
  ーー
「人間とは何かを逆照射する新たな他者  ーコンピューター」 黒崎政男(哲学者)   
 *自分を理解するために他者が必要*
いま見てきたことからも明らかなように、現代科学技術の最先端を意味する〈コンピューター〉と、古代ギリシャ以来、
古色蒼然と続いてきた〈哲学〉との関係を論じることは、決して突飛な思いつきでも奇妙なことでもないことは明らか。
哲学者たちが長い間考えてきたことを知ることは、人工知能にとって決して無駄ではないし、現代科学技術の最先端で、
何が問題になっているかを知ることは、新たな発想のきっかけとなるだろう。
さて、それにしても、コンビューターという機械の研究と、人間の知識の研究が、かくもリンクするのはなぜだろうか。
それは、コンビューダーが、人間とは何かの問題を逆照射してくれる存在だからである。
われわれは自分を理解するために、他者を必要とする。だから、19世紀から始まる〈進化論〉の主張が、人間の自己理解に
大きな混乱と変動を引き起こすことになったのは当然である。自分とは動物ではないものであったはずなのに、自分は動物だった、
と知ったら、自己を浮かび上がらせるべき他者(つまり、自己を確定すべき境界線)が消失することになるからだ。
そこで、通常動物には欠けていると考えられる諸特性因たとえば、計算合理性、言語能力、抽象化能力などが、われわれ人間の
アイデンティティの根拠となりはじめたのである。そして20世紀の半ばに出現してきたコンピューターは、人間を理解するための
新たな<他者>となったのである。人間ではないものが動物だったときには、人間と動物とが共通に有している能力よりも、
知的・理性的側面が、人間固有の特徴として逆照射されていた。しかしコンピユーターは、この「論理的能力」を特化した
存在であるので、今日では、人間とは何か、を考える場合、その知的・論理的能力は、人間固有の特徴としてクローズアップ
されにくくなってきている。むしろ、動物と共通する能力のほうが、逆照射されはじめている、といえるだろう。
だが、コンピューターと動物という二つの〈他者〉から、同時に自己を隈界づけ、確定しようとすると、この両者に挟まれて
人間の自己理解は深い困難を抱えこまざるをえない。動物という<他者>によってわれわれを逆煕射しようとすると、
コンピューターと我われとの差異が見えないし、コンピューターという<他者>によって
動物とわれわれとの差異が見えにくくなるからである。     ○(´・ω・)ノ ホン ヂャァネッ
・・・・・・・
2006年11月24日(金)
2061, 虐めについて
         (+>∀<+)ノ  おぁはは〜ようさん!
‘虐め問題’の解決などあるはずがない、家庭内の不和が原因にあるからである。
自分にかかった血を学校の弱者に塗りつけるのが虐める方の理由である。情報化により弱肉強食社会の傾向が
強くなればなるほど、家庭内へストレスが持ち込まれざるを得ない。
総下流社会化の傾向の中で、そのストレスの捌け口が弱者に向かうのも当然である。
振り返ってみれば、小学校、中学校で酷い虐めがあった。虐めっ子は家庭内が壊れていたためか、
その後の人生をみると不遇の人が多い。逆に虐められていた方が、まともになっている方が多いのは面白い現象だ。
ただ潰されないことが前提だが。こういう時代になったら、「ギブアップ・システム」をつくり、虐められっ子の転校を
しやすい環境をつくってやることも必要だ。数年前のことだが、中学校時代に殺してやりたいほど憎んだ男が、
40数年ぶりの同窓会で隣の席に座った。隣に座るまで「殺してやりたいほどの憎しみ」を忘れていたから、
大したことはなかったのだろうが・・ 酔った勢いで、「お前は中学校時代に理不尽なことで頭を殴っただろう。
小中学校時代で殺してやりたいほどの男の7人のうちの一人だ」と言ったところ「あの当時、両親の不和で自分でも大荒れで、
誰見境なく喧嘩をうっていた。野球部でも、俺がいたため何人も辞めていってしまった。 ところで7人のうちの何番目?」
とのこと。「三番目!」他のクラスだったが、そのネジレの酷さは私の耳にも入ってきた。 
今さら指摘されることもないという風。集団社会に住んでいれば、何処でも相性の合わない人が一人や二人はいるもの。
四苦八苦の中にも「怨み憎む人と出会う苦しみ(怨憎会苦)」があり、娑婆にいる限り避けて通ることはできない。
だから、小中学校時の虐めも、娑婆ー社会に出たときの火の出るような虐めに対する予行演習でもあるといえるが・・・ 
袋叩きにしたいのあまりにも多い。 誰も加害者であり、被害者でもあるのが娑婆である。
  でも人生は、嫌なことの数百倍、よいことがある。探し求めればだが!
   −−
朝日新聞の一面に〈いじめられている君へ〉「すばらしい瞬間必ず来る」が連載されている、なかなかよい。
 短い人生論のようでもある。 その一つをコピーしておこう。
 ーあさのあつこ さん 2006年11月14日ー
 (字数の関係でカット2008年11月24日)
・・・・・・・・・
2005年11月24日(木)
1696, 辺境へ −2
  この本で紹介している星野道夫の「人を通して風景を見る」という言葉がよい。
  写真も、同じことがいえる。 やはり現地人の入った写真は背景をひきたてる。
  そのことに最近になって、やっと気がついた。人生も同じである。全く今まで何をしていたのか?ヽ(゚Д゚;)ノ!!
  旅行記はおおよそ、飾らない真実の言葉で綴られている。写真と共に読むと、その場に吸い込まれてしまう。                    
  最後の章の[忘れえぬ人々ーあとがきにかえて]の中の、著者の言葉がよい。        
   ー世界をあちこち歩いたことで、たくさんの経験を積み、さまざまなことを考えさせられる機会を得た。
  しかしなんといっても、ヒマラヤを旅をする中で得られたもの、ひと言では表現できない「気」のようなものが自分の中に、
  あるいは取り囲まれるように存在するのを感じる。ヒマラヤの高みは天に近く、心安らかになり容易に俗世間を思うことが出来る。
  麓にはその山を敬う人々が暮らし、心優しくたくましい。そんな世界を歩き、体験した中で、いい[気]を感じる。
  下界では絶対に出会えない心洗われる風景、永遠なる宇宙の時間の流れ、すべてを許すことのできる大きな心、
  世界には多くの宗教があるが、それらの底にある根源が少しだけ実感できたようだ。自分の目で見て、
  体で感じた自然や秘境の大きさは、いかに人間が小さく儚いかを教えてくれて、地球にいる自分の姿勢を正してくれる。ー
                シ──(-ω-)(-ω-)(-ω-)──ン
  ひと言ひと言が、ズシリと胸の奥に響いてくる。この言葉の数分の一を味あうために、旅行に出ている。
  秘境の地に行けほど、人々が優しく、文明の地ほど、人がけばけばしいのは、如何いうことか? 
   都会は、その典型として現出している。 人類は何をしてきたのだろう。     (^_^)/~~
 ・・・・・・・・
 2004年11月24日(水)
 1331, 相撲に思う
数年前までは、
・学生相撲 対 序の口からの叩上げ相撲の対戦であったが、現在では
・外国勢士 対 日本勢、 ー異種格闘技化
・古参力士 対 新鋭力士 対戦を見ていると、その分類に7割は入る。
 (字数制限のためカット2010年11月24日))
 ・・・・・・
2003年11月24日(月)
964,「アルビレックスの優勝」
 今日13時から新潟で、地元のアルビレックス新潟と大宮アルデージャの一戦が行われた。
アルビレックスが1−0で勝ってJ2の優勝を決めて、サッカーのJリーグの一部昇格を決めた。
(字数制限のため、カット 09年11月24日)
・・・・・・・
590, 愚か者と馬鹿者
- 2002年11月24日(日)
宗教学者の対談の中で、愚か者と馬鹿者の定義をしていた。
・愚か者とは社会一般の常識しか知らない者。
・馬鹿者とは一般社会を離れて見ている者。 そう見ると、世間様は愚か者の世界そのものだ。
見るところ80?が愚か者? 愚か者の目で見たら、超越している人は正しく馬を鹿という
文字どうり馬鹿者だろう。「馬鹿になれ!」とかいうのは愚か者に対する宗教者の視点である。
教養はその視点を時間をかけて積み上げた経験と知識をいうのか。私などは愚か者に馬鹿が加わった馬鹿愚者である。
それすら気が付かない愚か者よりマシなのか、それ以下なのか?社会常識を元々知らない事と、知った上で離れてみる
視点を持つことは別だが。愚か者はその識別さえできない。私の知人のある匂いを持った愚者の群れは一番嫌う人種だ。
嫌うという事は、自分もその匂いを持っているという事だ。何か誰にもいえることだから、誰もが考えてしまう問題だ。
「男はつらいよ」の映画の場面に印象的な場面があった。ある地方の少し頭の軽い男に誰かが「この馬鹿!」といった。
言われた男が「馬鹿に馬鹿というのが一番馬鹿だ!と母ちゃんが言っていたぞ!」
 よく考えてみたら、自分が一番愚者だった!!? 気がついているか、いないかの差だろうが!                  
・・・・・・・
11月24日 (日曜日)  1968年
10時に起床。
ある部屋で、朝っぱらからダンスの模擬講習会をしていた。面白そうなので早速参加をする。
ジルバとルンバとブルースを一通りマスターはする。15時に市川さんが部屋に来る。その話をすると「自分にもダンスを教えてくれ!」
ということで、今度は私の部屋で講習会みたいになる。
そういえば昨日スナックで飲んでいたとき、三年の植本くんが「(同じゼミの同期の)田島さんが、
私について評価をしていた」といっていたと教えてくれた。「堀井はいつも人を冷静に見て平等に
公平に評価をしてくれる」といっていたという。また反面「自分が傷つくのが恐くって構えている。
それが堀井の壁になっている」ともいっていたとか。 なるほど鋭いものだ。 
そういえば深井にも同じようなことを言われた。「絶対にわき道にそれることはない。
   (字数制限のためカット2010年11月24日)) 


3529, ハーバード白熱教室 ー1

2010年11月23日(火)

 一昨日(日曜日)のNHK・TVで15時から2時間、東京大学での日本版アンコールのサンデル教授の授業をを見た。
ハーバード大の彼の講義には、毎回1000人以上の学生が出席しており、1636年に創立された同大の歴史上、
最大の履修学生数を誇り、あまりの人気ぶりに、大学側は非公開の原則を覆し、初めてメディアに講義を公開した。
その一つを以前に見たが、私でも理解できる内容であった。 日本でのアンコール版は、一般から応募した1千人の生徒との
質疑応答を中心としたもの。 元のハーバード大の授業内容は、米国のボストン公共放送局が制作し、昨年、全米ネットで
放送した放送権を買い取ったNHKが邦訳をつけ、今年4月から全12回での放送を始めたもの。
東大の大教室には一般から募った1000人以上の参加者が詰めかけた。 彼の講義の特徴は、サンデル教授が提示した
究極の事例研究を通して考えさせていく手法である。 
 始めのテーマは「正義とは何か」である。 まず正義を、彼は3つ上げてた。
* 幸福の最大化 (ベンサムの最大多数の最大幸福)
* 人間の尊厳に価値を置く (カントの主張)
* 美徳と共通善を育む (アリストテレス) 
 初めのテーマは、(18世紀に実際にあった事件=)難破した船乗りが救助を待つ間、最も衰弱した1人を残りの3人が殺し、
その肉を食べて飢えをしのいだという実話を挙げ、「道徳的に許されるか」との問いを投げかける。 まず初めの学生は、
「3人が生き延びるためには必要だった」「被害者の同意があれば許される」という立場、しかし他の学生からは
「どんな場合でも殺人は殺人」「食人は許されない」という否定論が出てくる。色いろな議論の中から、初め上げたベンサム、
カント、アリストテレスの立場の哲学を導き出し、会場の生徒たちを巻き込んでいく。サンデル教授は、学生たちの意見を
踏まえた上で、「最大多数の最大幸福を求める行為が望ましい」と主張した18〜19世紀の政治哲学者ベンサムの功利主義が、
常に正しいとは限らないことを示唆したり、カントの立場も示唆したりする。
 この授業で奇妙な既視感が浮かんできた。 そう、私が度々、ここで書いてきた、学生時代の人事管理の武澤ゼミでの
放課後の週二回のゼミである。 人事上のトラブルを、ある一管理職が書きつらねた難問の文章を渡され、次回に、
それについて15〜6人が議論する。 初めはランダムに背後にある問題を抉り出して、最善の解決策を考え出していく。
次々と、問題に対する意見を搾り出すが、そこには教授が難しそうな顔をして目たないように座っている。
したがって甘い指摘は許されない緊張感が張り詰めている。 もちろん甘い意見は、その後の誰かに指摘され潰される。
2時間の議論を終えて部屋から出たときには、太陽が黄色に見えるほどだった。そこで思い知らされたのは絶対的知識不足である。 
一年前の欧州一ヶ月の旅行で破壊された固い壁が、さらに粉々になっていた。時間をかけ考え考え考えること!人生それしかない。
 ・・・・・・・・
3154,低反発マットと腰痛
2009年11月23日(月)
 低反発マクラを使ってみて想像以上良かったので、居間用のクッションとしてマクラにバスタオルを巻いて使っているが、
その後、ベッドに低反発マットを敷いて寝ている。 使い始めて2ヶ月ほど経過するが、マクラと共に非常に良い。
腰痛も少なくなったようである。 寝返りが、これまでの半分以下になったようだ。それと横向きが少なくなった。
人は平均、左右、仰向けなど平均10回ほど寝返りをするが、それが4〜5回?ほどになった。だいたい寝返りの時に
目がさめるから、少なくなった分、良く寝れることになる。それは腰や肩の部分が身体に合わせて包み込むような感じで、
マクラと首も同じである。実感として、寝心地が二倍は楽になったようだ。 これだけは実際に数ヶ月、寝てみないと
分からない。 特に腰痛の人にはお勧めである。 この特徴は身体との接点の部分だけが沈み込むことにある。 
シートの方が身体に合わせてくれるのである。 誰もが寝入りの数時間は熟睡するが、その後、身体と布団の接点部分の
重圧で寝返りが多くなる。  ところで、ビックカメラには低反発のマクラ専門コーナーがある。 
私のはニトリで2千円だが、そこは4千〜2万以上。どこが違うのか聞いてないが、低反発の沈み具合が違うのだろう。
 他にマットの素材にゲルマニウムやセラミックが混入されているのもある。 (私は、枕の下にゲルマニウム石を置いている)
 低反発マットもニトリで6980円の値下がり品を買ったが、通販では1〜2万円が通り相場である。
ベッドには、低反発枕と、その下にゲルマニウムの鉱石、それに低反発マットをセット、目にはゲルマニウムのアイマスク、
耳には、100円ショップで買った耳栓をしている。 その積み重ねの結果は充分出ている。
 良さでは、低反発マクラ、マット、耳栓、アイマスクの順である。就寝は人生の三分の一を占める割に、人は無頓着である。
この低反発マットを使って気づいたが、ウォーターベッド、これ良いんじゃないか? もちろん、ハンモックも良いが。
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2789,人生ゲームを楽しまむため、生まれけん! −2
2008年11月23日(日)
  人生ゲームの基準を、私ならどのようにするかを考えてみる。
 昔から言われているように「良く遊び、良く学び、良く働く」を目安にすると解りやすい。
 ・どのような趣味をもって、ライフワークにしてきたか。
 ・どのような仕事に従事して、楽しんだか。
 ・長年かけて教養を積み上げてきたか。
 ・それらを達観できる視線を、自分の孤独の世界で創りあげたか、である。
 人生の価値基準は心の内の問題だから、第三者がとやかくいえることではない。この4つを、どうバランスよく拡大、
深耕したかを、自分のゲームとして楽しんだかが人生ゲームを楽しむことと、定義づけてみた。
鼻歌を歌いながらスキップするしかない場面も人生には往々にある。人生には、ある程度の長生きも必要である。
人生を楽しむには、楽観的で、能動的でなければなるまい。そのためには、常に楽しい明日をイメージして、
その実現の準備を地道にすることだ。耳には、何時も心地良い音楽を流すことは、誰でもできる。 目は、大自然の風景や、
美術館で良い絵や陶器をみたり、本やネットで良い写真や、ビデオで映像をみることができる。 鼻や口は、
季節季節の新鮮なものを食べればよい。 誰でも、身の回りに楽しめることは、幾らでも転がっている。
「おもしろきなき世を おもしろく」は、長州藩士、高杉晋作の辞世の歌である。
彼が死ぬ間際に、そばにいた野村望東尼(福岡の女流歌人)が受けて、「すみなすものは心なりけり」と下の句をつけたというが、
成るほど上手い歌である。 いずれにしても、ゲーム化した段階で、自分を客観視する冷静さを持つことになる。
何が起きても 「その時は、その時。 それも、また娑婆経験」と、魂が、自分の心に語りかける冷静さこそ
ゲーム化で身に付けることで可能になる。 人生を振り返ると、全く下手なゲーマーの自分が見えてくる。

そういえば、最近、「人生ゲーム」というゲームがマスコミで話題になっている。ウィキペディアによると、
【 原型は1860年ごろ、イギリスの印刷業の社長Milton Bradleyによって考案された「The Checkered Game of Life」。
  日本版は、1968年、株式会社タカラ(現タカラトミー)から発売された。 タカラトミーの発表によると、
 日本版の累計出荷数は1000万個を超える。 ゲームシステムは、双六の発展形。ゲーム序盤のルーレット目によって
 「人生の筋道」が決まり、その後の人生が左右されていく。プレイヤーはサイコロではなく「ルーレット」を回し、
 人の一生になぞらえたイベントをこなしていく。現在でも改良版が発売されているという、息の長いゲームである。】
 面白そうなので、一度してみたいものだ。
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2007年11月23日(金)
2424, 四四太郎の日記 −9
            (ヾ(´・ω・`)ノオハヨウ(o´-ω-)o)
一年ほど前に、新しいブログ「四四太郎の日記」をつくってみた。
すぐネタが尽きたのと、幼稚に思えたことで一年間、放っておいた。 先日、バードウォッチのコーナーに
久々に悪戯の貼りつけがあったのを機会に、新しいブログに切り替えようと思いたった。
そこで多くのブログを実際に立ち上げてみた結果、去年開設したブログが(私にとって)ベストと判断、
ブログ名を「四四太郎の日記」から「バードウォッチ」に変えて、再スタートを切ることにした。
全く記憶から消えてしまった自分の書いたブログを、第三者の目で読んでみた。読後感として、それほど幼稚でもなく
400年前からみた現代の現象が書いてあり、本当に?祖先様が語りかけている感覚になってしまった。
{「私」の中の<私>の中核の《私》}とコンタクトしているからだろう。「チロリ、チロリ、チンチンチロリ」ではないが、
週に一度、曜日でも決めて、御先祖様に出てもらうのも悪くは無い。このブログの内容は記憶から全く消えていたが、
四四太郎に最近?亡くなった縁者を連れてきてもらい、実際に?話し合うのも面白い。何か神がかりになりそうだが、
恐らく面白い出会いと、意外な対話になるだろう。書くということは、 不思議なことである。
 ーー
ところで、いま、その「四四太郎」が語りかけてきた。
 *宗親(ペンネーム)
【おい、宗親よ、何で一年間も放っておいたのだ。せっかくワシという先祖のブログを立ち上げていながら!
亡くなった縁者と出会えたのに、何で無視をしようというのか? お前のように400年前の先祖の霊ブログを
つくろうというヤツはいない。せっかく面白い視点を与えてやろうとしたのに。
少なくとも週に一度ワシの魂を使って現代を透してみるのも面白かったではなかったか。
まあ、再び、このブログを再開しようというのも何かの縁じゃ。魂というのは、言葉じゃ、それもワシのような霊の言の葉は、
その中核じゃろう。魂の入った古典も、歴史家を通した偉人の言葉も残るのじゃ。決して何も不思議なことではない。
その人が生きたそのまま、全てが刻印されるのじゃ。そして、生きているときに思ったこと、考えたこと、そして経験は
魂として何時までも、「ある」のじゃ。だから私を借りて語ることは、お主が一人で語ることと、
全く意味が違ってくるのである。 それと、お前は一年前にワシが連れてきた父親と
あまり深く話そうとしなかっただろう。父親は多くを語りたかったのをお主は知らなかったのだ。
お主は、父親が亡くなった時に父の魂が夢を通してお主の魂に入っただろう。
それを父親は、言いたかったのだ。もっともっと世界を見ろ!知れ!何でもやってみろ!ということだ。
今度は、金曜日の午後と土曜日の朝にワシを呼び出すのじゃ。 わかったか! 11月23日  5時45 
・・・・・・・
2006年11月23日(木)
2060, あたりまえなことばかり −14
            (o_△_)oゴロン(o_ _)o.。o○グーオハヨ〜           
{人が死を見るのは「死体」であって、「死」そのものではない。
「存在しないこと」であるところの死が、目に見えるわけがない。
見えるのは物質としての「死体」なのである。しかし、多くの人は、この両者を混同する。
死体を見たことによって、死を見たと思うのである。見たことで、死を理解したと思い込む。
こうして、自分の死の観念を、他者の死体という現実で、現実のものと思い込む。}
 恐らく人類の一番の思い込みが、死であろう。 無を言語化したのと、死を言語化して、
それに恐れおののいているのに酷似している。 尽きる間際の混乱を恐らく恐れているのだろうが。 
「生など一瞬の稲妻でしかない」と、思いつつ恐怖のどん底のパニックなりつつ、
ヨタヨタと消えていくのだろう。 面白そうだが・・せめて極上のモルヒネで最高の気分で         
ーーーーーーーーーーーー
他者の死はなぜ悲しいのかー?
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死は観念である。 人が、自分の死をいう観念を、現実のものと思い込むに至る経過について考えてみたい。
死ぬことを知らない人は死なない。レトリックではない。「意識そのもの」とは、「存在すること」に
他ならないからである。「存在しないこと」としての死は、意識そのものには存在しない。
「存在しないこと」という観念が存在するのでなくては、人には、死ぬということはないのである。
言葉の抽象度が高すぎるので、いくらか具体的に考えてみたい。生まれて初めて人の死に出合うのは、誰か他者の死である。
自分の死に出合うことはありえないから、人は他者の死に出合う以外ない。
おそらく、幼少の頃、誰か身近の人の死を見る。 「死を、見る」     ( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪
しかし、ここでは細心の注意をはらって考えたい。人が死を見るのは「死体」であって、「死」そのものではない。
「存在しないこと」であるところの死が、目に見えるわけがない。 見えるのは物質としての「死体」なのである。
しかし、多くの人は、この両者を混同する。死体を見たことによって、死を見たと思うのである。  (~Q^(^┰^;)ゞ
当然である。「存在しないもの」としての死が、存在するものとして見つかるわけがない。
こう考えると、自分の死だけでなく、他者の「死」もまた「存在しない」。そもそも存在しない死に対し 
「死」と名づけたことにより、死は存在していることになったというのが真相なのである。
                         死(0_0)〜† 死っし "ゞ(`')
死とは言葉以外の何ものでもないのである。死が存在すると信じ、死への恐怖に追われて生きてきた我われにとって、
こんな、その意味で馬鹿げた事態は納得できないかもしれない。 しかし、「無」を言語化した刹那、あたかもそれでは、
無が存在するかのようになるではないか!我われの日常は、事の初めから、存在と言語の共犯的奸計に巻き込まれて進行。
ふとそのことに気づき、存在と言語の外へ出る道はないことも悟った時、逆に人はそれを自覚的に生きようと
構えを変えるはずである。わかりきったと思い込んでいた生と死の日常が、いかに摩訶不思議なものであったか。
その意味でそれは新たな誕生、生の再生になるのではなかろうか。       (*⌒ヮ⌒*)ゞ  バイ!
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2005年11月23日(水)
1695, 辺境へ −1   ー 読書日記
 素人の身として辺境へは、ツアーでしかいけないが、「辺境・秘境」をキーワードにして、この十数年近く アフリカ、南米、
シルクロードなどを家内と共に行ってきた。図書館にあった、「辺境へ」−大谷映芳著ーはもう5~6回以上借りてきて読んだ。
 そして、ついにインターネットで新・中古本だが、買ってしまった。 写真も、文章も体験をそのまま書いてあるので、
心に直に迫ってくる。この本で、著者が一番思いの深いの7ヶ所を紹介している。チベット・ヒマラヤを除いた5ヶ所
 訪れているので、私にとって非常に魅力のある内容で、何回読んでも飽きることはない。        
   まず著者の大谷映芳の「内容紹介文」をコピーしてみる。  
 ー「ニュースステーション」で、高視聴率を獲得した“秘境ドキュメント”。
  ブータン、ギアナ高地、ドルポ、アフリカ大陸グレート・リフト・バレーなど、その取材は、全世界の秘境と
 言われた地域に及ぶ。今は亡き冒険家の植村直己や夭折した写真家・星野道夫、グレートジャーニーの関野吉晴氏ら
 その旅の思い出とともに、こうした世界の秘境エリアをレポートしてきた著者が綴る紀行と貴重な写真を多数掲載した写文集。
  ーこの本の7ヶ所とは、   w((´ω`))wワオッ!!
 ヒマラヤの王国ブータン/ 南米大陸のギアナ高地/ 南米パタゴニア/ 西ネパールのドルポ/ アフリカ大陸の
 グレート・リフト・バレー/ 北極圏のグリーンランド/東チベットのヤルツァンポで、写真とともに紹介している。
 その写真が素晴らしい。また人々との出会いなどが中心に書かれているのも特徴。
 現地で出会った人々の話や、亡くなった冒険家の植村直己さん、写真家・星野道夫君、探検家の関野吉晴さん等の話も面白い。           
  ー彼のこの本に対するコメントも良いー
「地球上にこういう素晴らしい所がある事を知ってもらいたいし、そういう場所が冒されつつあるということは人類にとっては
非常に危機的状況であると思うんです。 そしてこういう本を書くと改めて日本の事を思うんですね。 
比較というんですかね。∩゙ヽ(。・ω・。)へ   (以下、字数の関係でカット09年11月23日)       
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2004年11月23日(火)
 1330, ワインの話
昨夜は、兄夫婦に誘われて、ボジョレー・ヌーボを家内共々飲みにいった。
兄の友人が金欠病でドロップ・アウトの代理に誘われたのだ。盆と正月以外、あまり飲む機会がないので丁度よい機会であった。
しかし空きっ腹のためか、かなり泥酔をした、いつものことだが。ワインといえば海外旅行の機内で無料の極上のワインが飲み放題。
字数の関係でカット(2010年11月23日)
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2003年11月23日(日) 963, 「コーリング」ー映画日記
 字数の関係でカット(2007年11月23日)
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589, 癒しについて
- 2002年11月23日(土)
癒しはヒーリングの訳語だ。ヒーリングの意味は「本来備わっている自然治癒を引き出す事」をいう。
そうすると癒しの意味はそれを妨げているものを取り除く事になる。人間の中の元々ある力を導きだす事だ。
気安く癒しを求める事がおかしい。安易に傷を治したいというからだ。甘い生き方を更に甘さで埋めようということだ。
垂直に自分を突きつめないでー軽く傷を治そうというのがみえみえだ。更にゴッドマザーやゴッドファザーが出てきて
治そうとするから傷が深くなるのだ。このホームページに癒しのコーナーがあるのはいかなる事か?笑って時間をやり過ごす為だー
傷ついた時や疲れたときの居酒屋の自分のコーナーのつもりだ。生きていれば傷つくのは仕方がないことだ。
消毒をしっかりしてバイキンよけの薬を塗って時間を待つしかない。感謝が足りないのが傷口を大きくしている。
縦の自分の関係が浅くなっているから、横の関係に惑わされるのだ。
垂直に自分を掘り下げるチャンスにすればよい。 深いところで変わらなくては、傷が治るわけがない。
・・・・・・・・・
ある時間の断片
 1968年 11月23日(土曜日)
10時起床。洗面後、OB会に行く準備をする。 駒村のところに「多恵ちゃん」と、飯野さんが来ている。
佐藤のことだが、何か割りきりがつかない。先日の件で陰険な抵抗にあっているようだ。
飯野さんは別に約束を破った私が悪いが、まあいいか。佐藤とはこれで完全に気持が離れてしまったようだ。
ゼミのOB会の出席のため、高輪ホテルにいく。14時半に始まる。17時半に終了。空腹に油系を食べたためか、
気分が悪くなる。先輩は組織人という感じで、魅力のある個性的な人はいない、仕方がないが。 
その後、高輪プリンスに行き、コーヒを飲んでくつろぐ。そこで、ゼミの同期で親しかった石川がしつこくからんでくる。
最近無視をしていることに対する怒りだろう。いま石川と妥協したら、お互いマイナスだ。腹を立てないことだ。
その後、高木と三年生の三人と5人で、武蔵小山の「なつめ」というスナックに飲みに行く。
そのママさんが面白い。 千田敏さんという名のホステスもなかなか面白い。非常に面白い時間を過ごす。 
ホステスどうしの争いの大変に見えた。0時過ぎに店を出る。1時に帰寮、2時に就寝。いろいろあった一日であった。

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