堀井On-Line



3502, 10−10−10 ー③ 

2010年10月27日(水)

「10-10-10 人生に迷ったら、3つのスパンで決めなさい!」
                         スージー・ウェルチ (著)
  *「10−10−10」と「起承転結」
 ここで、著者は、自分の直感を盲信すべきでないともいう。ことにあたって、冷静にあれという。
さらに三つ目の長期的視点も気をつけるべしと釘をさす。それが短期的、中期的より優れているとは限らないことが、
この「10・10・10」が教えている。長期的視点は重要だが、他の時間軸での見方も重要であると。
考えれば考えるほど奥行きが深くなる。 そこで文章作法、いや四コマ漫画の「起承転結」を、これに当てはめてみる。
< 起=現在、承=現時点で実感できる近い将来(1〜2年先等)、転=一時代先の将来、結=永遠、虚無 >という仮説である。
 文章作法も、漫画からみると、転=が最も重要である。10年一昔ともいうし、転を基軸に起と承と結が決まってくる。
そうすると、哲学的に人生を俯瞰して考えると10年先の転に常に標準を合わせて現在、そして数年先を決めるべき、となる。
ある海外ツアーの添乗員が、面白いことを言っていた。「自分は、10年スパンで人生を括ってきた。
卒業をして10年は普通のサラリーマン、そして次の10年は世界を見て歩きたいため添乗員に、その10年に来年なってしまう。
次の10年を何をしたらよいか決断しなければならない。この10年は満足をしているが、次の10年も全く違う分野に
転進した方が良いのは分かっているが」成るほどと、考えさせられた。それは、決して職業とか職場を変えるべし、
ということでなく、職場配点でも、内面の変化でもよい。そうこう考えると、この(大小の)決断のための3つのスパンの視点を
身につけることは非常に重要である。 自分の過去に、あと理屈をつけて次の10−10−10を考えるのも方策である。
転に焦点をあてるために、起が重要になるのは言うまでもない。現在は結の永遠・虚無に垂直にたって通じているからだ。
 そんな難しいことより、三つのスパンで考える習慣を、転、転、転で、いや、テン・テン・テンで考えることだ。
小さな節目、中くらいの節目、そして大きな節目を過去から見つけ、この先に当てはめることである。 
 まあ、何をしてきたのだろうか。 それは100人中100人が当てはまるが、これを当てはめて10年先、?十年先を考えないと。                                                           それより、もう先が無いか!
 ・・・・・・・・・
3127,「法則」のトリセツ ー2
 2009年10月27日(火)
 * エメットの法則  ー後回しは二倍のエネルギーが必要となるー
 他人事にはよく分かるが、自分のこととなると全くみえないから恐ろしい。
仕事を頼むなら忙しい人に頼めとは、出来る人は仕事を後回しにしないで直ぐにやるからである。
ーウィキペディアによるとー
≪エメットの法則とは「仕事を先延ばしにすることは、片付けることよりも倍の時間とエネルギーを要する」
 というリタ・エメットが提示した法則である。 我われはついつい仕事や判断を先延ばしにしがちである。
 そのことは大きなマイナスになることを体験上知っている。だから如何に問題から逃げないようにするかである。
 しかし「やりたくない」という気持ちが勝ってしまい「後で」という言葉が習性になっている。≫
▲ これは、個人だけではない、現在の日本が直面している問題である。そのツケは、結局は我われの後の世代に回ってくるが、
 その根は深く、後に回すしかしないのが現状である。これは、逆に考えれば「何事も先手を打った方が結果として、エネルギーは
 半分で済む」ことになる。戦略的に先を読んで前もって準備をしておくと結果は半分のエネルギーで済むということ。
 たったこれだけの法則、どこまで実行してきたのだろうか?
  〜〜
 * ハロー効果
≪ ハロー効果とは心理的効果の一つで、ある対象を評価をするときに顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が
 歪められる現象のこと。 一般にポジティブな方向への歪みを指すことが多いが、ネガティブな方向へのハロー効果も存在する。
 ハローとは、「後光が差す」というときの後光、聖像の光背や光輪のことで、後光効果、光背効果とも呼ばれる。
 例として、ある人が難関大学卒であった場合、その人が学力においてだけでなく、人格的にも優れていると思い込んでしまう
 ケースが挙げられる。また、有名人やタレントを通じたCMや広告がその商品やサービスを実際に使ったりしたことがないにも
 かかわらず良いイメージを与える。それによって購入意欲を刺激したり、購入したりする。 いっぽう、CMに起用された
 タレントが不祥事を起こしたりすると、商品自体に何の不満も覚えていなかったにもかかわらず購入意欲が削がれたりする ≫
▼ 常に、何処かのバカタレが麻薬事件で問題を起こしているが、あれが実情の素顔でしかない。虚像を売るのが彼らの商売。
 クレオパトラは、それほどの美人ではなく、常に男の視線を意識をして派手な演出効果をしていたとか。特に色と光に、そんなもの。
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2762, 半歩遅れの読書術 
 2008年10月27日(月)
 日経新聞に連載中の書評4年分をまとめたもの。新刊書ではなく、刊行後1-2年経た本を主な対象にしている。
30名が読書にまつわる思いを書いている中身の濃い本である。
冒頭に出てきた荒川洋治のー基本という「本」−僕のジャンル別の『書き方』−の次の一節が面白い。
 ーP-22
M・j・アドラー、C・V・ドーレンの『入門本を読む本』(外山滋比占、一九九七)は本を読む人のための、本だ。
「文学書」を読むときの心得は、「文学の影響力に抵抗してはならない」。たとえぱバリが舞台の小説を読みながら、
ロンドンだったらいいのにね、などと思わないこと。流れに身をまかせよ。それが読者の経験となる。
「文学の中に名辞、命題、論証を求めてはならない」。いうにいわれぬ「何か」を求めることだ、と。
またテレビやラジオなど外側の情報源は「突っかい俸にすぎない」。だから本を手放してはならないと、
「自分の中に精神的貯えをもたなければ、知的にも、道徳的にも、精神的にも、われわれの成長は止まってしまう。
 そのとき、われわれの死がはじまる」。現代人への、警告である。・・・(中略)
さて、ぼくは読みかたではなく、書きかた、主に書くときの気持ちのもちかたをジャンル別に整理してみた。
「簡潔」を旨としたい。 
《小説》自分がその件について書けることをすべて書く。
 「自分がかかえている問題」が一番重要な問題なのだと思って、つきすすむ。
《エッセイ》自分がその件について知ることをすべて破棄する。知識、情報、数字を出さない。
  できあがったら子供や年下の人に見せて、意見をきく。「これでいいかなあ」
《評論》誰もが考えもしない視点をもちだし、「聞い」を突き出す。発表まで、決して人に見せてはならない。
《詩》自分のなかにある「権力」をゼロにする。言葉をも追い払う気持ちで書き、死後に託す。
  生きている人の評価に耳を貸してはならない。
《短歌》五七五七七のうしろの七七にすべてをかける。自己の感情の充足を第一とすると、いい歌?になる。
《俳句》五七五のあとにまだ七七があるつもりで、しかし、途中でぶったぎる。意味が生まれては俳句ではない。
 本当にこうなのかは、どうでもいい。「文学書」不況の時代には、基本的な事柄について、熱く議論することだ。
そうすれば目がさめる。ぼくもわたしも。 基本の中に、「本」がある。
 ーー
−以上だが、何とも迫力がある。
《エッセイ》で、自分の知ることをすべて破棄する!とは、凄い言葉である。
 私など知ることを精一杯書いているだけでしかないから分かるのである。限界の先を書くから人を引き付ける。
また、ここで荒川は知り合った「学ぶ」学生5人組に共通点を挙げていた。
<彼らは雑記長を持ちある> <いつも本屋にいる> <風邪をひかない」の三つという。
風邪を引くのは甘いと思う!という言葉も重く響く。 何事もプロの世界は質量が違うということ。
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2007年10月27日(土)
 2398, 20歳代 海外旅行離れのワケ
                     オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪        
 先日の日経流通新聞のトップ記事の見出しが「20歳代海外旅行離れのワケ」であった。
時代の流れが、その時々の若者の気持ちを決めてしまう一つの事例である。
逆にいえば、この不景気の中、国家存亡の時期に20歳代に6割も海外に行っていること事態がおかしい!のである。
それと、やはり情報化が、この10年間に進んだこともある。 TVで世界中の映像を、こと細かく放送をしていれば、
未知への憧れも薄れてしまう。 さらにインターネットや携帯やゲームなど、旅行より面白そうなものが
手軽に手に入るようになったのも大きい要因だろう。
 ーまずは、その要旨をまとめてみるー
・二十代の海外旅行は過去最大であった10年前の6割に落ち込んだ。
・20代の75?が過去一年間に海外旅行に出かけていない。また、一度も出かけてない人が40?であった。
 その理由として、言葉が心配が14?、何となく心配が10?。
・一回の旅行代が25万で、「高い料金を支払った上に想定外の嫌な思いをしたくない」のが心の奥にあるという。 
 また3割が学生時代に旅行に行った経験がある。 仕事が忙しいが3割になっている。 
「リラックスをするのが目的なのに、海外旅行は長期の休みを取りにくく、せわしなく行きたくない」という。
・それより「リムジンを借りて遊んだり、ホテルで仲間内でパーティーを開いたりして楽しんだ方がよい」という。
 また沖縄や軽井沢などを何度も訪ねているうち、「見知らぬ海外より、身近な土地をより深く知りたい」という。
 最近の若い人は知的好奇心が減少しているのが特徴。 特に男に海外より温泉と預金という人がふえていて、
 海外旅行は一度行けば充分! という風潮もあるという。
  −−
 以上が概要だが、時代がプアーになってきているのを若者は察知して、「高額+不快」な海外より、身近な「温泉・預金」
 に目がいっている風潮。私のように、趣味の大きな柱にしているものにとって「若いうちに可能な限り世界を知っておくべき」
 と思うが。 生活の重視が当面の問題という社会情勢からみたら、それも解る気がする。
 この島国で年間1750万人、15%も海外旅行にいくこと自体が多すぎる。 それだけ良いから行くのだろうが、
 若者の内向けの姿勢にも時代の変化を感じる。それより、日本が高すぎ! まだまだ、デフレで絞りこまないと!
    特にサービス産業は! それとゼネコン!         ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
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2006年10月27日(金)
2033, 躁鬱病について −1
       (。^0^。)ノオッ(*^○^*)ノハ〜 ヨウ! ウジウジしてる?
鬱病について、マスコミで取り上げられることが多くなった。
そもそも人間は軽い躁鬱症であり、迷ったり(分裂)、気分の浮き沈み(軽い躁鬱)は誰でもあることだ。
それがコントロール出来なくなって日常生活に影響を示すから問題である。
数年前に亡くなったが、ある取引先の営業をしていた人が躁鬱病で、十数年にわたり私のところに頼ってきていて助言を与えていた。 
私の経験から、逆療法で辛らつに状況を本人に説明。 いつの間にか病院の先生よりも私のいうことを聞くようになり、
病気が出始めると私のところに先に来るようになっていた。しかし逆に躁の時はなかなか来ない。他の知人から様子がおかしいと
連絡が入り、しばらくすると奥さんから電話がかかってきて、「本人を私のところに行くように説得しましたから、お願いします。
−字数の関係でカットー2010年10月28日ー
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2005年10月27日(木)
 1668, おい、どうすんだ、定年後!−2
 定年になったら「囲碁とか、絵画教室、パソコン教室などに行けば!」と考えてしまう。が、もちろん彼らは何回か
行くが続かない。彼らは元仕事人間が多く、仕事の合間の自由の過ごし方は知っていても、自由そのものの扱い方を知らないのだ。
会社という縦社会の住人だったため心の鎧が自分を閉じ込めて裸の自分を曝け出せないのだ。趣味の会などの横社会には全く馴染めない。
しかし人間であるかぎり、共同体に入ってないと自分を保てない悲しいのが人間。共鳴してくれる相手を必要とするが、もはや誰とも
波長を合わせることが出来ない。そういう人達が、大都会のベッドタウンに溢れている。
2007年から団塊の世代が大量に定年をむかえる。高度成長期時代の騎士たちである。 右ならえ!という生き方しかしてこなかった、
彼らこそ定年後のすごし方を知らない世代だ。 家では粗大ゴミ扱いされて、外の世界の生き方のノウハウが全くない。
電車の乗ると、働いていない自分が許せないのだ。サラリーマン時代の価値観から全く抜けきれないのだ。
群れているだけで、真の孤独を経験していなかったからである。
 ー以上が月刊誌の概略であるー
定年直後は首輪をはめた飼い犬が、家から放り出されて行くあてがなくウロウロしているようなものである。
そこで元の会社の肩書きなど、何の役にも立たないことを初めて思い知る。だからライフワークを長年かけて
構築しておかなくてはならないのだ。その暇がなかった大部分の都会サラリーマンにとって深刻である。
  (字数制限の関係でカット 09年10月27日)
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2004年10月27日(水)
 1303, まさか、地元で大地震!−4
地震から、既に四日目をむかえている。あらためて周囲を見渡すと、思っていたより被害は大きい。
昨夜、一昨夜と、近所の家の電気が全くついてなかったのをみると、ほとんどの住人が避難していたのだろう。
近所では、あまり大きな被害は無いようだが、二軒先の家の玄関先が壊れていた。
やはり一番のショックは、新幹線の脱線事故である。200キロでよく大事故にならなかったものだ。本当に奇跡である。
これで、新幹線の安全神話が壊れてしまった。反面、40年間も死亡ゼロというのが、奇跡に近いといってよい。
これだけ全国に新幹線が張り巡らされていて、走行中に大地震にあわなかったものだ。そう震度6の地震も無いだろうが。
あれだけ大きい石灯篭が倒れるなら、墓石も倒れているのではと寺に行ったが、見た範囲で倒れている墓は一つも無かった。
どうして墓石は倒れないのだろうか不思議である。数百年の知恵が入っているのだろう。
昨日、何時ものコースを散歩をした範囲では
・土手の大小の橋の全てに亀裂が入っていた。橋の交通止めは一箇所(段差が30cmのズレ)、
 注意書きがあったのが数箇所、アスファルトで臨時に修正してあるところが三箇所もあった。
・道路は所々に亀裂が入っており、地震の大きさを物語っていた。
・家は、少し壊れているのが目立つ位で大きな崩壊の家は無かった。
・近所のソフト・ハウスでは、ガレージに事務所内の壊れた棚や机などを出して、修理をしていた。
今回の地震は全ての家庭、事務所の内部が破壊されたのが特徴である。
家内の数人の友人の家は、全てひどい状態。新潟のマンションに住む知人の家は殆ど被害は無かった。
近くにある坂之上小学校の避難所はどうなっているのか、散歩のついでに行ってみた。受付で名前を書いて、
横に積んである毛布をもらって、体育館の空きスペースに座る。何か花見の場所取りをしているようである。 
夜になると人で満杯になっるという。受付の人に「まだ余裕はあるのか?]、と聞いたら、「ある}と言っていた。
昨夜から今朝にかけて2度、震度2〜3の地震があったようだ。今日は、新潟に行く予定だが、どうなる事やら。
高速バスは2〜3時間かかるという。ー随想では、こういう内容を「生もの」という。もっと具体的に、気持ちを正直に
書いておくべきなのだろう。 めったにない体験なのだから。
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2003年10月27日(月)
936, 角栄の怨念 ーこの選挙の面白さ!
 −字数の関係でカットー2007年10月28日
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562, ある時間の断片ー7
- 2002年10月27日(日) 1968年 9月21日
9時起床。11時に図書館に行く。13時にコモンルームでゼミのフルメンバー16名が集合する。
そして八王子のセミナーハウスへ。 近年できたセミナー専用のコテージ付のセミナーハウスだ。
思っていたより敷地が広く建物が近代的なのに驚く。 メインの建物が逆三角形で、異様な感じだ。
宿泊は二人で一部屋のツウィンだ。それぞれのコテージが違うデザインで何か異界に入ったようだ。
空には飛行機が飛び交いまるで欧州にいるようだ。夜から早速議論をはじめる。 課題は「遊び」だ。
「見返りのない、何の目的のない遊びこそが遊びだ」「創造の為に、その背景としてそれは必要でないか」
私の言ったのは「4つの1つとしての位置付けの遊びー「愛、創造、知性、そして遊び」であった。
何かポイントが外れているようだった。 終了後、レストランで石川とゼミの一年後輩の大島君と飲んでいると、
武澤先生がこられる。  その後夜半の12時半に寝る。
ー感想ー
日記を書き写していて、当時の日々がありありと思い出されてきた。背景にベトナム戦争、大学紛争、
そして高度成長期の真っ最中でもあった。歌も二度とこういう時期は来ないというほど名曲が生まれていた。 
その背景を持って誰もが緊張と希望に揺れていた。夏休みは卒論の流通革命論を書く為に一ヶ月、
大阪のメリヤス問屋に行ってきた。その後新潟県の六日町の「雲頓庵」という禅寺に一ヶ月にも行っていた。
そして自宅に帰った後の日記である。学生時代の十数年間の総括の時期であり、また新しい世界への旅たちの直前であった。
この卒業の直前一年は人生で一番良かったときかも知れない。色いろの人との邂逅と喧嘩と別れの時期でもあった。
寝ずに人生について話し合ったのが記録として日記に残っていた。 そういう意味で大学時代に恵まれていた、
当時はその事に気が付いてなかった。寮に、ゼミに、教授に、クラブに、友人に恵まれていた。
赤面する場面は当然カットして写している。 大学で学んだ事は、本を読む事、他人の話を聞きとること、議論をする事、
自分の壁を取り去る事、何事も勇敢にチャレンジする事、戦略的思考をする事など数えればきりがない。
人生で一番良かった時期といえば、やはり大学生活であった。馬小屋のような汚い寮であったが、いや長屋であった。
 ー友人の間でもこの寮が凄いと話題になっていたー
父が5月に来て、翌月から仕送りを2倍にしてくれた、あまりの凄さに同情したのだ。でも楽しい生活であった。
友人が吹き付けるようによって来た。一人になれないのが悩みでもあった。
あの孤独の都会生活で最後には友人が吹き付けるように集まったのは、本当に良い青春の思い出の財産だ。
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[200] 月刊ー文芸春秋  2001/10/27
 今月の‘文芸春秋’の内容があった。
イスラエル旅行から帰ってきら、毎月読んでいた‘文芸春秋と週間誌’を買わなくなった。嘘みたいだが本当の話である。
‘図書館で読めばいい’に変わった。あまりにも旧約聖書の世界が生々しいのだ。今更そんなえげつない現象など
如何でもいい、軽い話でしかないに変わってしまった。 2〜3月に一回買うか買わないかである。
しかし今回は違った!テロの特集で、内容はかなり悲観的に書いてあったが、買う価値は充分ある。
新聞で、インターネットで、TV でその意味はとらえていたつもりであった、かなりシビアにその意味が書かれていた。
 (字数制限の関係でカット 09年10月27日)


3501, 10−10−10 ー②

2010年10月26日(火)


 「10-10-10 人生に迷ったら、3つのスパンで決めなさい!」
                     スージー・ウェルチ (著)
  「何かが始るとき、そして終わるとき、人は立ちすくむ」。
 その時、目先に捉われて、感情が乱れ、思考停止になり、絶望に陥ってしまう。 
 が、そんな節目にこそ、10-10-10は未来に目を向けてくれる。そして未来から節目を見直す思考を促す。
 それも3つのスパンで問題に光を当てることになる。 そこで、自分の価値観は果たして何だろうか、
 自分のシガラミとは何かを気づかせてくれ、人生の優先順位を考えるきっかけになる。 また自分に必要なもの、
 必要なことは何かを見極めるチャンスを与えてくれる。 それが自分の潜在意識の囁きに耳を澄ますことにもなる。 
 未来=10年後だけでなく、現在=10分後・10日後にどうなっている?の視線も重要である。
 目先、とにかく冷静・沈着が必要とされる。
 ここで「10・10・10」を、<バーチャル・コンサルタント>と擬人化して質問を発することを勧めている。
 我が内なる「10・10・10」が、この緊急の事態(質問)の答えは何だろうか?と。
 その質問を明確にすれば、答えの何割かは自然と内から出てくる。それはガイドでもある。 
 そこで、「長期的視点で現在何を準備すべきか、中期的なら何を準備すべきか、そのため現在の具体的行動は何か」
 を冷静に考えることが可能になる。 少なくとも問題に対して前向き思考になる。彼女は、これを「人生管理ツール」という。
 人は闇にいる時、そこに、そのまま留まってしまう傾向が非常に強くなっている。 
 問題に対して、この思考を繰り返しているうちに、人生の優先順位を並びかえる作業をしている。 
 経営は、それを年中考えることだが、慣れは、それを忘れさせる。 しかし10−10−10をツールとして使えれば、
 気楽に長期思考も短期思考もしていることになる。 著者は女性の直感で、10−10−10と単純な三つのスパンで
 考える方法に気づいたこと、そのことが、素晴らしいのである。
 そして3つのスパンで単純に、具体的に考えるほど、気づかなかったこと、漠然としていたことが姿を現してくる。
  ここまで、シンプル化するには膨大のエネルギーを注ぎ込んでいる。間違いなく、これは卓越した決断の思考法である。
  ・・・・・・・・
3126、あいうえお言霊修行
2009年10月26日(月)
 「あいうえお言霊修行 」 矢山 利彦 (著)  ー読書日記
 図書館で、何気なく手に取った本。さっそくポストイットに書き写して、パソコンの画面の下に貼り付けた。
「ありがとう」を何万、いや何十万回か言ったが、最近は言わなくなった。 
今度は「あいうえお言霊修行 」として、せめて一万回をいって見ようか。 以下は、アマゾンの
 ー内容紹介ーと 「カスタマレビュー」
《 言葉には気のチカラがこもっています。そのチカラを脳が感じているのです。
言葉には意味だけではなく、本当にチカラがこもっているのです。「うれしい」「悲しい」・・・。
そうした言葉の一つ一つを脳の深い部分が感じ、プラスとマイナスの言葉に振り分け、そのチカラを身体に伝え、
心の文様をつくっているのです。気がつかないかもしれませんが、「自分の口から出た言葉」「人から聞いた言葉」に、
私たちの身体と心はつねに反応しているのです。》
 ーカスタマレビューで、ホボ7割方を言い尽くしているので、そのままコピーしてみるー
魔法の言葉では、五日市剛さんの『ツキを呼ぶ「魔法の言葉」』がある。  本書では、魔法のプラス言葉
【あいうえお言霊修行】として、『言葉が心を変え』『身体を変え』『人生を変える』方法が紹介されている。
●この言葉は、(声に出して)1万回間違わずに唱えれば、確実に変われる強さがある。
●途中でマイナス言葉を言ったら、振り出しに戻って【0:ゼロ】から、始めること。
   [魔法のプラス言葉]
・「あ」は、「ありがたい」 ・「い」は、「いつくしむ」 ・「う」は、「うれしく」 
・「え」は、「エンジョイ」 ・「お」は、「おおらか」
   [病気になる人、ネガティブ]な人に多い、
  「が・ぎ・ぐ・げ・ご」思考及び行動
・「が」は、「がんばる」 ・「ぎ」は、「義理・義務」 ・「ぐ」は、「グチる」
・「げ」は、「原理・原則」  ・「ご」は、「ごまかす」
1万回間違わずに唱える行動に動くことで、人生は、積極的なプラス思考となり、いい方向に変わると考えます。
魔法のプラス言葉の第2弾です。 行動に動いて、損をすることはないでしょう。
 ーー
指回しをしながら、親指から、あいうえお順に回しながら言うのも良いだろう。
栗田昌裕の指回し体操で「 さわやか、まろやか、のびやか、晴れやか、ほのぼの 」というのがあった。
一時、中年の人が彼方此方でしているのを見かけたが。  良いと思ったら何でもともかくしてみることだ。   
 でも、一万回も、言えるかな? まあ、パソコンの下に貼り付けてあるから、それだけでも良いか?
「がごぎげご」か〜、社民党の女党首が、これ! いや他人事じゃないか〜 そのどこが悪い!とも言えるが。
                                    世界は娑婆娑婆! だもの。
・・・・・・・・・
2761, 金融危機・中国からの視点
 2008年10月26日(日)
産経新聞の【ちゃいな.com】という産経新聞・中国総局長・伊藤正のコラムが、面白い。
中国も、社会主義が抱えている汚職と、一党独裁の矛盾が噴出。更に米国の金融危機の余波を受けている。
やはり米国同様に、これから10年間は動乱になる可能性がある。
 その中国の置かれた現状が先週の産経新聞の一面に掲載されていた。まずは、その内容から・・・・
  ーーー    
 中国が毛沢東の革命路線から改革・開放路線へ転じ、経済発展へスタートを切ったのは1978年12月。
この歴史的転換の主役、トウ小平副首相(当時)は翌1月、外交関係を正常化した直後の米国を訪問した。
トウ氏は経済発展には対外開放が不可欠で、そのかぎは対米関係にあると考えていた。
 トウ氏の外交顧問で訪米に同行した中国の米国研究の権威、李慎之・元社会科学院副院長が、
なぜ対米関係が重要なのか問うと、トウ氏は明快に答えた。「米国についていった国はみな富強になったではないか」
 このエピソードは、先に連載した「トウ小平秘録」でも紹介したが、このとき、トウ氏の頭にあったのは、
米国市場で巨額のドルを手にした日本だったろう。 実際、過去30年間、中国は米国を最重要の経済パートナーに、
対外貿易を振興、急成長を続けてきた。
 中国式発展方式の特徴は、安価な労働力を武器に外資を導入、「世界の工場」として輸出で外貨を獲得することにある。
  (字数の関係でカット、09年10月26日)
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2007年10月26日(金)
2397, 恥をかかせろ、いじめはなくすな ー4
                        (*´・ω・)ノはよー
ここで彼が述べていることを野生動物のファミリーとみれば理解しやすい。父親の役割は子供をつくり、餌を取ってきて、
メスと子供を外敵から守る。これは全ての動物の自然の姿である。 万物の霊長たる人間様は動物とは違う!というが、
その万物の霊長とかいうこと自体、自惚れではないのでは?と、吾身や社会を省みて思わざるをえない。
それと歴史・・・ 父親は父性、母親は母性の役割があるる! 変態と知能指数の低いのは 別だが・・・
これは世界の何処の社会でも同じことである。一番おかしくなっているのがアメリカと日本!
 戸塚宏の次の内容は、現代日本の家庭崩壊の根本問題を指摘している。
当たり前のことが当たり前でなくなっているところに問題の深さがある。
 −−−−−
 *父性と母性*
こうした小学校時代の教育には、父親の力が不可欠である。父親が家の方針を決め、母親がそれを補佐する形が理想だ。
この形を維持すれば、子供は父親の言うことを聞くようになる。実はヨットスクールに来る子供たちの家庭は例外なく父性が弱い。
酒鬼薔薇聖斗事件でも西鉄バスジャック事件でも、犯人の家庭では、父親が弱かった。男女どちらが優れているという話ではない。
役割が違うのだ。「家庭内での男女同権」を唱える人がいるが、家庭で母親が父親並みの権力を持って何かいいことがありましたか、
と問うてみたい。 無論、何もいいことはないのである。
 私は、父親がなすべきことは四つあると考えている。
一つは、子供をつくること。     二つ目は、餌を取ってくること。
三つ目は家族を物理的に守ること。  四つ目は、国を守ることだ。
いきなり愛国心とは、面食らうかもしれないが、父親に愛国心がないと子供は不安になるのである。
自分の数々の経験からこれは間違いない。人間は群れをなす動物で、男は時として群れのために命を投げ出すことがある。
これは男の本能だ。男は強くなろうとするが、それは自分のためだけではなく、群れを守るためでもある。
群れを守ろうとする気持ちが強い人は、父親が強いのである。子供たちも己を捨ててチームや社会、国のために
働くヒーローが好きだ。漫画やテレビなどでもそういうヒーローものにひきつけられる。
男の子は本能的にそれを知っているのだ。いまの日本は、男性が女性化して守ってもらう側になっていることも珍しくない。
群れを守るどころではない。これも教育の悪影響だ。戦後、男に与えられていた責任感が激減したから強くなれなくなって
しまった。女は本能的に保護を求める性だが、男が頼りなければ、女が強くなっていくしかない。
しかし、母親はよほど自覚的にならない限り、子どもを強く育てることはできない。
たいていは子供が素直で勉強ができれば、満足してしまう。それではひ弱な偏差値秀才ができるだけだ。
 (字数の関係で中間カット、10年10月26日)
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家庭がシッカリしているということは、それぞれの役割分担が、あるべき姿であるということである。
父親や、母親になってない両親の子供は、欠陥が出て当然である。それぞれが違う家庭文化を携えて新たな家庭をつくるのは、
簡単なことではない。何処かに歪みが出て当然、しかし、こと子供教育は最低の知識と常識が求められる。
「こころの旅」や、この戸塚宏の本などが「そういう子供」をつくらないためにも
お勧めである。      「エッ!もう、遅い」 失礼しました。 
                SeeYou**(○´ω`○)ノ
・・・・・・・・
2006年10月26日(木)
 2032, 「私」のための現代思想  −16   おはよ〜!(~O~)ふぁ・・ さむい!
 *以下の部分には深く考えさせられた
ー私たちのあらゆる行為や価値は《私》によって支えられるものでしかなく、さらに《私》は<他者>によって支えられています。
そうされることで、この世界で確実なものになります。<他者>による引き受けは、呼びかけによって発生する。
また《私》と<他者>の相互の引き受けあいが、<世界>を構築していく上での基本的な要素であるという。
・「私」が、<他者>に「呼びかける」ことによって、その<他者>において、《私》の存在の引き受け」が発生。
・また「他者」の呼びかけに応じることは、相手を引き受けることになる。・<他者>を‘もてなす’ことによって世界は広がっていく。 
人に呼びかけ、呼びかけに応じ、 そして他者をもてなすこと、これが世界を大きくすることということだが・・
何か一番私にかけていたような気がするが、呼びかけ、呼びかけに応じることが、私の世界を大きくするということが・・・
対象にもよるが、ライオンズ、ロータリーにでも入ることも世界を広める意味で重要? その置かれた環境と状況の中で、
それぞれの目的が自分に適うなら、それが自分の世界として適正な選択になるということか。 他者にも色いろある。 
世界の大自然も他者である。自分が関係する事物、人物すべて他者である。
情報を取るプロセスで、対象からの呼びかけに応じていくのであるから。
 ーーー
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 −?
  ー<世界>をつくるー
 *<世界>を引き受ける者として生きる
前にも述べたが、私たちのあらゆる行為や価値は《私》によって支えられるものでしかなく、
さらに《私》は<他者>によって支えられています。そうされることで、この世界で確実なものになります。
この場合の引き受けられ方には、愛するものとして、子供として、友人だけでなく、敵として、憎悪の対象としてなど様々です。
ここで<他者>による引き受けは、呼びかけによって発生するということを思い出してください。「私」の存在(=《私》)は、
<他者>による呼びかけによって確実なものとなりますが、「呼びかけられた」側の「私」も、
必ず<他者>に対して呼びかけているはずです。 つまり、ここで「私」は、<他者>の存在を引き受けているということです。
こうした《私》と<他者>の相互の引き受けあいが、<世界>を構築していく上での基本的な要素です。
その一方で、「私」を道具としてしか扱わない<他者>も存在します。この場合、「了解不可能な<他者>としてのあなたの存在」
を引き受けないというだけでなく、単に道具や装飾品や遊具としての認識しているだけの状態が現れます。
(以下は字数の関係でカットー2007年10月26日)           *^ヾ('c_'ヽ,,)*.bye  
 ・・・・・・・・・
2005年10月26日(水)
 1667, おい、どうすんだ、定年後!−1
ー「友達づくりサークル」に集う寂しい定年男たちー
私たちの世代も、そろそろ定年に入ってきた。そして耳に入ってくる話は、全く気力を失ってしまった男達の話である。   
20年近く参加している、ある会に出席したところ、その会員の数名がシンポジュウムを開くパンフレットを配っていた。
何か私には積極的に勧めてはいなかったようだ。私にとって今さらの内容ということを知っているからだろう。
「定年後の生き方、過ごし方」がテーマだったが、彼らは何を言おうというのか?
ところで先週の土曜日、図書館である月刊誌をみると
ー「友達づくりサークル」に集う寂しい定年男たちー というレポートがあった。なかなか面白い切実な問題だった。
ーその内容といえば、
あるビルの一Fの焼き鳥屋に午後5時を過ぎると、20人ほどの男たちが焼き鳥を分け合いながら酒を飲んでいる。
「船橋市時活村」のメンバーだ。地元の友達のいない、熱中できる趣味のない、ボランティアをするでもない、
行くあてのない定年退職者が、居場所と仲間を求めて集う。1996年から9年経つという。 村民は現在、280名を数える。
地元に根っこのない、ベッドタウンを中心に住んでいる連中だ。会社を辞めたあと、家の中でゴロゴロしている人達である。
年代は50代後半から70歳位まで。そこでは自己紹介をする時、どこどこに住んでいる誰さん位しか紹介しない。
二時間もしないうちにお開きなる。 一人平均1500円だった。
・入村料は一万円、年会費5000円(二年目からは3000円)
・昼は20種類位あるゲームの何かをするスポーツ関係が多い。ウォーキング、親父の料理講習会・・・
・夕方になると、焼き鳥屋に集って酒を飲む
・ほぼ毎日おこなわれている
・退会者は現在のところいない         −つづく
・・・・・・・・
2004年10月26日(火)
 1302, まさか、地元で大地震!−3
その時は、「震度6の地震とは、こういうことか!」という思いと、「神戸ほどでないな!」、
「性質(たち)の悪い地震ではない!」と考えた。それと同時に「「新幹線大事故の可能性が大きい」と、心配になった。
新幹線の不通は会社(ホテル)の経営に直ぐ跳ね返ってくる。震源の近くを200キロで走っていれば、当然大惨事になる。
時間から考えると、当然可能性がある。(私が乗っている新幹線の時間帯からみて、その辺にいるはずであった)
下りの‘とき’が震源地を200キロで走っていたと、その後知った。脱線で済んで本当に良かったというのが実感。
大事故なら数ヶ月は復旧しないだろうから、経営にとって大問題になる。もしかしたら、一週間程度で済まない可能性もある。
専門家の話では、「この程度で済んだのは奇跡に近かった」とか。百数十人の生命が奇跡的に助かったのだ。
あと数分ずれていたら、対向車の新幹線が衝突した可能性もあったという。当分は、この地震のほとぼりが済むまで
新幹線の乗客は激減するだろう。 昨日の株価が下がったのも、景気に台風と地震が景気に少なからず影響を与えると
読んだからだ。本当に他人事ではない、今週の宿泊は半減するだろう。話は変わるが、母が亡くなって初めて、
たまたま仏壇周りの両親の写真と、遺品を整理した日に大地震が起こるのも何か因縁めいている。
「その時間に、引きつけられて整理をしたのだろうか?」と考えてしまった。葬式用?の大きなロウソクも、ついでに倉庫にしまった。
それが、その日のうちに必要になるのも因縁めいている面白いものだ。仏壇の中のモノが(地震で)全て外に投げ出され、
石灯篭が全て倒れるのだから、因果に結びつければ、亡くなった両親が怒ったと思ってしまうのも仕方がないか。
歩いて数分の長岡高校と、長岡大手高校の前には多くの自動車が停車をしていた。
避難をするために駐車しているのだが、何か非現実的な思いである。私も自宅に電気が通じてなければ、
近くの避難所に行っているか、新潟のホテルで過ごしているであろう。 やはり危ない事態なのだろう。
数時間前の深夜、震度3〜4の地震があった。まだまだ予断は許せない事態である。
・・・・・・
2003年10月26日(日)
935,『年収300万時代を生き抜く経済学』  森永卓郎著 (光文社) 
(字数の関係でカット、08年10月26日)
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561, ある時間の断片ー6
−2002年10月26日(土)
  1968年 9月18日
8時10分前に起床、すぐに学校に行く。夏休みあけ後久しぶりだ。事務管理を聴講後、石川、奥野など5人と
池袋の駅近くの喫茶ウイーンで話をする。それぞれが自分の道や将来を模索している姿が自分と重ねって、独自性が逆に見えて面白い。
その後いったん寮に帰る。6時半に新宿の紀伊国屋で待ち合わせる。歌舞伎町のB&Bで飲む。3人で6000円で高いが
気分が高揚をして面白い。その後三浦というスナックに行く。以前と変わってないが家庭的雰囲気である。
何とかという以前店で顔見知りの女性と踊る。ここも面白い、3人で3000円であった。
奥野が気分が悪くなり、急遽自分の部屋で3人で泊まることになる。私は帰省中の佐々木さんの部屋で泊まる。
 ーーー
 1968年 9月19日
翌日も三人で午後の3時までいろいろの事を話をする。何か今日も予定どうり卒論が書けない。頭の中に最近熱中して読んだ、
精神論の言葉が駆け巡る。言っていることと、やっていることと違いが大きすぎる。ファイトファイト、自分の潜在の力よ!!      
    9月20日
(字数の関係でカット、09年10月26日)
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[199] トレード.オフ  
 2001/10/26
トレードとは野球のトレードである。5名トレードすれば、5名首を切らなくてはならない。これがオフである。
ビジネスホテルのもっと合理化できる業態を考えた。カットできるもの、和室、会議室、ツウィンである。
そのぶんシングルの部屋数をとる。これがトレードオフである。ホット商品を早くコストカットして、安く
、大量に生産、売り抜ける。その時まずやるのが、トレードオフである。まずはこれが基本である。
 (字数の関係でカット、08年10月26日)


3500, 10−10−10 ー①

2010年10月25日(月)

 「10-10-10 人生に迷ったら、3つのスパンで決めなさい!」 
                   スージー・ウェルチ (著)
   ーアマゾンの内容からー
  仕事、夢、結婚、家族、友情。人生に迷ったとき、「決める力」が身につく本。
  紙とペンさえあれば、10-10-10は今、この瞬間から試せます。 もしも、この選択をしたら……
 □その決断は、「10分後(今)はどうなっている?」
 □      「10ヶ月後(ちょっと先)は?」
 □      「10年後(未来)は?」  ・・・こう自問するだけでOKなのです!
  短期、中期、長期と、3つの視点で選択肢を見つめれば、後悔しない決断ができます。
  この本があればぐずぐず迷うクセ、優柔不断、チャンスを逃すパターンが変わります。
 ●もう、うんざりの職場。辞めてしまえば10分後はスッキリ。でも、10ヶ月後に後悔しない?
  10年後、お金は大丈夫? その選択が正しかったと、本当に言える?10-10-10で考えよう。
 ●大事な取引先とのアポ当日、田舎の親が病気に!どう決断をすべきか、10-10-10で考えよう。たった3分集中するだけで、正解が見える。
 ●結婚の見込みがなさそうな彼と、続ける?  別れる? 別れたとき、続けたときのメリット&デメリットは、10-10-10が教えてくれる。
  ■ 経営の神様、ジャック・ウェルチの公私にわたるパートナーの人生とは? ■
 著者スージー・ウェルチは、ジャーナリストであり、四人の子供の母であり、40代で経営の神様、ジャック・ウェルチと運命を
 変える出会いをした魅力あふれる女性。 アメリカでは、女性としての幸せを模索するアラフォーたち、働く女性の共感の声、続々!
 10-10-10は発売まもなく『ニューヨーク・タイムズ』『ウォール・ストリート・ジャーナル』のベストセラーリストにランクインし、
 テレビ番組でも特集が組まれるなど、大反響を巻き起こした。
  〜解) 
  例の「20世紀最高の経営者」といわれたジャック・ウェルチの連れあいである。この本は発売されると同時に
 ベストセラーになりテレビ番組などで特番が組まれるなど大反響を及ぼした本とか。日本では今年の1月に発売されたばかりの本。
 二日前に図書館で見つけて一読して驚いてしまった。10-10-10と分かりやすい。 短期、中期、長期の視点で、直面の問題を
 直感で見定めるに有効である。 思いもよらない出来事に遭遇したとき、現在(10分〜10日後)、中期(10ヶ月〜2年後)、
 長期(10年後)の対処を単純に考える習慣をつければ、その習慣がないのと比較すれば時間とともに膨大な差が出る。
  金投資を考えると分かりやすい。現時点では、これからハイパーインフレは間違いなく起こるのは必定? しかし、2年スパンでは
 大きく乱高下もあるから、目先のかく乱の動きに対し、10−10−10を予測すればよい。10日、10ヶ月は、乱高下するが、
 10年後には三倍以上は間違いないと踏むかどうか。そう判断すれば、思い切って投資をすればよい。
 東芝の株とすると、原子力発電に重点投資をしているので、10年後には株価は5倍と想定し、10ヶ月後は、まだ投資効果が
 見込めないので、塩漬けが出来るかどうか。長期投資の資金の用意があれば長期投資すればよい。等々、見分けることができる。
                                             つづく
  ・・・・・・・・・
3125,「法則」のトリセツ  ー1
 2009年10月25日(日)
  ー 知っているようで知らない「法則」のトリセツ ー水野 俊哉著
 書店や図書館などのビジネス書に記載されている「法則」がカジュアルに面白そうに編成してある本である。
分類が「職場の法則」「仕事の法則」「ビジネスの法則」「勉強の法則」「心の法則」「成功本の法則」と分かりやすい。
160冊以上の書籍からコンパクトにまとめた人生の取り扱い説明書にもなる。
40年以上かけて多くの原理原則の書物を読んできたが、ここで初めて知った法則が次から次と出てくるのには驚いた。
この年齢になって今さら原理原則の勉強でもないが、人生の節々で多くの「法則」で、救われたことは度々である。
また知ってはいたが、注意を払ってなかった法則がコンパクトに核心だけが書かれていると改めて納得する法則もある。
それが、この本の題名「知っているようで知らない「法則」ということ。ここで新たに面白そうな「法則」と、キーワードを考えてみる。
 ーブルーオーシャンとレッドオーシャンー
*ブルーオーシャンとは、競争のない穏やかな海のイメージであり、独自の市場=ブルーオーシャンを切り開くことで、
  さまざまなメリットを享受することができる。一人勝ちのメリットである。  
*レッドオーシャンとは、既に過当競争でマーケットシェアを奪い合い、際限ないコスト競争に突入してしまった市場で、
 過当競争で赤い血に染まっている海のイメージをいう。時代の変わり目には海の潮目は赤色に変わるもの。
    (字数制限のためカット 2010年10月25日)
 ・・・・・・・・・
2760, 閑話小題 
 2008年10月25日(土)
 *毎日が薄氷の上
9月の半ばから、恐慌前夜の重い雰囲気である。日経平均も、三ヶ月で40%以上も暴落、何と7600円まで下がってしまった。
ドルが95円、ユーロが120円。 世界はパニック寸前か、パニックに入っているのだろう。この結果どうなるのか? 
倒産の続出と、失業者の増加、そしてハイパーインフレと、食品の高騰である。それで済めばよいが、数年以内に大小の半分以上の
事業所が倒産、廃業だろう。何か考えただけでゾッとする。それにしても、大津波、世界中を押し流しそうな勢いである。
ー以下は、一年前と現在の比較である。これからみると、まだまだ経済破壊は序盤ということが分かる。
 (2008年 10月22日現在)      
      2007年10月24日       2008年10月22日
ドル円         114.10             97.70
ユーロドル       1.42              1.27
ユーロ円       162.80            124.70
NYダウ       13,675            8,519
米国債(10年もの)  4.3%              3.5%
原油         87.10             67.48
金          757ドル            724ドル
日経         16000            8500
 ーーー
 *アクアラインが1000円に
私のゼミの一年後輩の松下さんが、《道路経済学》とかいう本を出版。その中で川崎市と木更津市を結ぶ、
アクアラインの通過費を1000円とか、2000円に値下げをする運動を起こしていた。
    (字数制限のためカット 2010年10月25日)
 *台風の来ない年は珍しい
    (字数制限の関係でカット 09年10月25日)
・・・・・・・・・・
2007年10月25日(木)
2396, 白い壁とドア                オハヨォ…
 「生」と「死」のイメージを詩的に書いてみた。
  −−
私の生のイメージ、それは白い四角の立方体の壁に囲まれている空間。
十数年前に一度、そのイメージをリアルに持ったことがあった。おそらくは、この白い箱の中の壁の何処かに
見えないドアがあって、ある刹那に、その外に放り出されるのである。白い立方体は生に囲まれた日常である。
その意識下の見えない死へのドアがあって、一度出てしまったら、二度と箱の中には戻ることは出来ない。
白い箱の外は、無。 大きな黒い無限の中で、小さな箱はチリのような存在。いつか、その白い壁が開いて、
その虚無の真っ只中に放り出される。それがスグ明日かも知れない、それとも20年、30年先かもしれない。
その一瞬、白い壁と黒い虚無の狭間で永遠を見るのだろうか? それは歓喜だろうか、それともただ寝入る瞬間のようだろうか?
そういえば寝入る瞬間を感じ取ったことがある。「アッ!」という間の一瞬であった。
それを言葉でいうと、数千秒の一のプツンという刹那のよう。
ーー
以上だが、このイメージにピッタリの詩を見つけた。死の際にたった魂の叫びが詩の奥から聞こえてくる。
ドアの前に立つと、こんな声が聞こえてくるのだろか!それとも「おらは死んじまった」の歌声か。
中島義道ではないが、いずれ誰もが直ぐにドアの前に立たされる。
ーー
暗やみの中で一人枕をぬらす夜は   息をひそめて
私をよぶ無数の声に耳をすまそう   その果てから空の彼方から
遠い過去からほのかな未来から    夜の闇にこだまする無言のさけび
あれはみんなお前の仲間達      暗やみを一人さまよう者達の声
沈黙に一人耐える者達の声      声も出さずに涙する者達の声
                
ー ブッシュ 孝子 (30年前に28歳で逝った女性の詩である。)
            o(*・ー・)〇"ぐっ♪o(*・▽・)ノ"ばーい♪
・・・・・・・・・
2006年10月25日(水)
2031, 「私」のための現代思想  −15
       (+>∀<+)ノ おぁはは〜ようさん!
 前・評)
人間は「生きること自体が『緩慢なる自殺』である」と言ってしまえば、それまでだが、
戦争もある意味では集団自殺ともいえる。 いや集団殺戮の方が正しいか?
《私》にとっての「超越確実言明」を守るために死ぬことも、時にとって必要なのかも知れない。
人間の最後に残された自由へのジャンプとしての自殺もある。自殺にも正しい自殺と、正しくない自殺があるという。
自分であるために死ぬ、それもイスラエルのマサダの砦の集団自殺のように、自殺厳禁のユダヤ教徒の自殺なのだから
意味も深い。この場合の自殺を正しくないとは言い切れるだろうか。誰の目にも明らかな自殺に「子供の道づれ心中」がある。 
子供を自分の所有物と思いこんでいるから、暴挙にでるのだ。自殺をするには、それなりの理由があるが、やはり
「自殺は決して許されるものではない!」のは、道理である。 それが永遠の自由のためにといっても!
ーー
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 −?
 *正しくない自殺*
正しい、正しくない自殺というのも変なものだが、それでも「正しくない自殺」は、誰の目にもハッキリしている。
それを象徴するのがインターネットで知らないもの同士を募り、複数の者達が一度に命を絶つ「集団自殺」である。
彼らは「死ねば楽になる」という「誤論理」で揺らいでいるので、その揺れを止め、自殺を遂行するために、
<他者>による引き受けを必要としている。この場合、普通の他者の共振を受けることもできるが、集団自殺志願者は 
その人たちの《私》を嫌います。
その人たちの《私》は自らの「超越確実言明」を守る方向に走るからです。
そのような呼びかけに答えてくるのは、同じく「死ねば楽になる」と感じ、死を決意している人たちということになる。
それはお互いの《私》の「非存在=存在の否定」を引き受けあうのだから。
「《私》の存在を引き受けてもらう」はずの行為が、「《私》の存在を否定すること」を通して行われるからです。
存在の引き受けは、「存在しつづけることを引き受ける」ことであるはず。
しかし集団自殺は、「ともに存在しなくなること」を引き受けあうになってしまうからです。
{解}死に際まで独りでは不安なので一緒に行こうという弱者の論理もなるほどと思わないでもないが・・・
「死にたいやつは死なせておけばよい」と同じ意味で彼らは「死にたいのだから勝手に死なせて」というレベル。
壊れたラジオは自分地震で自らを直すことが出来ない・・この本を読むまで、自殺について考えたことがなかった。
しかし考えれば考えるほど、自殺を否定できなくなった。 自殺を否定したのは、
「支配階級が最下層の働き手のロスを最小にするためにつくり上げた価値観でしかない」という論もある。
    ーー
 *正しい自殺*
正しい自殺とは、一回性の人生で、闘いぬき、他の物語を時間の許す限り試し、その結果としてギリギリの判断において、
「死ぬことによってしか、<私>が<私>でありつづけることができない」と考えるとき、それは「正しい自殺」
となるということです。これは「名誉のための死」とか、「誰かのための死」を称揚するのではなく、
あくまでも「<私>でありつづけるために死ぬ」ということである。
  ーーー
後評) 正しい自殺かどうか判断できないが、イスラエルで初めて知った「マサダの砦の集団自殺」である。
マサダ砦は、死海の西南にある要塞。ヘロデ王の建てた離宮だったが、70年のローマに対する反乱時、
過激派のユダヤ教徒が最後の砦として篭城したが、ローマ軍によって落とされ、その後2000年間、
ユダヤ人は流浪の民となった縁の地である。ケーブルカーで頂上まで上がるとヘロデ王の宮殿、サウナなどが残っている。
(字数制限のためカット 2010年10月25日)
・・・・・・
2005年10月25日(火)
1666, 日本のこれから 今どきの若者たち
先週の土曜日のNHKで、ゴールデンタイム19時半〜22時半まで三時間にわたって「日本のこれから 今どきの若者たち」 
の討論がおこなわれた。 若い人は、何を考えているのだろうと興味を持って最後までみた。
 (字数制限の関係でカット 09年10月25日)
・・・・・・・
2004年10月25日(月)
 1301, まさか、地元で大地震!−2
この文章を書き出したと同時に、再び大きな揺れである。震度5強と予測して、TVを見たら5弱であった。
まだ、震度に対する体感には誤差がある。既に36時間も経っているのに、今も地震が現在進行形というのが驚きであり、
不気味である。 今朝の地震では、電気と水道が止まらなかったのが救いである。一昨夜の二回目の地震は、揺れると同時に、
電気が消えた。真っ暗になったので、まず仏壇前にあったロウソクを皿に数本立て明かりをとる。地震が少し落ち着いた後、
もう一皿に移動用のろうそくを立てた。今日仏壇周りを整理して倉庫にしまった,大きなロウソク二本を取ってきて更に大きな
明かりの確保をする。その後、懐中電灯を探すがナカナカ見つからない。次に携帯ラジオを探す。両方ともあったが、
今度は電池が見つからない。それでも、やっと見つけ取りあえず居間の整理を始める。現在から考えてみても、
冷静に対処していたようだ。 鉄骨の二階で、かつ座っている場所の空間に、危ないものが無いから冷静でいられるのだろう。
こう書いている現在また震度3の地震がおきている。慌てて、水の確保を思い立ち、鍋にポットに水を入れる。
(ゆれると同時に、サイドボードの前にいってドアを押さえている)その合間に、この文章を書いている。面白い体験である。
電気、水道と、ガスが全て止まると、全く普段の生活がストップしてしまう。 まず、水である。 
トイレが使えない(風呂の水が当面使えたが)飲料水がない。(ジュースが5〜6本、ノンアルコールビールが10本あった)
TVからの情報が途絶えた(携帯ラジオがあった) 食料はスナックが代用できた。感覚的には、一週間は代用で持ちそうだ。 
近くの24時間スーパーに行ったら、閉鎖していたが、隣のドラッグストアーは店内散乱の中で営業を始めていた。 
それでよいのだ、緊急時は。食品と、飲料水が飛ぶように売れていた。 40人位がレジに並んでいた。
地震から一時間もしないうちにヘリコプターの音がした。 報道か自衛隊か解からないが、発生と同時に準備をしなくては、
その時間に飛んでこれないから、その瞬時体制は凄いものである。昨夜は市民の4分の1の4万数千人が、
避難所に夜を明かしたという。電気も、ガスも、水道も確保出来ないのだから、それも当然だろう。
近くに住む兄が昨日の午後、訪ねてきたが、やはり家の中は足場も無いほど倒れたモノが散乱しているとか。
また、庭にある石灯篭も二つ倒れ、隣の家に入り込んでいるという。          つづく
・・・・・・・・・
2003年10月25日(土)
 934, 成果についてードラッカー
ドラッカーの言葉の中に「成果」という言葉が頻繁に出てくる。努力そのものでなく成果をあげることの重要性を説いている。
経営は理屈ではない、結果をいかに出すかだ。 成果能力を問われるのだ。
成果とは長期にわたって業績をもたらし続けることである。ドラッカーは人生の生き方を経営学を通して教えてくれる。
ーこの成果について、ドラッカーの本より抜粋してみるー
・「成果が自己実現の前提になる」
ー成果をあげる者は、社会にとって不可欠な存在である。 同時に、成果をあげることは、
 新入社員であろうと中堅社員であろうと、本人にとって自己実現の前提である。
・「自らの最高のものを引き出す」
ーまず果たすべき責任は、自らのために最高のものを引き出すことである。人は自らの持つものでしか仕事ができない。
 しかも、人に信頼され協力を得るには、自らが最高の成果をあげていくしかない。
・「成果をあげることは習慣である」
ー成果をあがることは一つの習慣である。実践的な能力の積み重ねある。
 実践的な能力は、習得をすることができる。それは単純である。あきれるほど単純である。
・「成果をあげるための五つの能力」
ー成果をあがるための実践的な能力は五つある。
第一に、何に自分は時間をとられているかを知り、残された時間を体系的に管理をする。
第二に、外部の世界に対する貢献に焦点を合わせる。
第三に、強みを中心にそえる。
第四に、優先順位を決定し、優れた仕事が際立った成果をあげる領域に力を集中する。
第五に、成果をあげるように意思決定をする。
 ー以下は字数の関係でカット(2007年10月25日)
・・・・・・・・
560, ある時間の断片 −5 
2002年10月25日(金) 1968年ー9月15日
朝7時半に起床、食事の後に東京の寮に帰る支度をする。
裏の家で姉の正子さんと、帰省中の3番目の姉の優子さんと、甥の宗彦ームーチャンと写真を撮る。
12時5分発の第三佐渡に乗る。いやに長く感じられる4時間だった。青雲寮につく、懐かしいわが部屋だ。
市川さんが飼っているミケに子猫が2匹生まれていた。苦手だった先輩の河路さん、欧州行きが延びてまだ寮にいるようだ。
夕食後漫然とTVを見て過ごす。またマンネリとした寮生活が始まるが、もう残された学生時代の時間はない。
最後はちゃんとして卒業しなくては。
 ー現在の感想ー
日記を書く習慣を持っていればよかった。それと写真をもっと多く撮っておけばよかった。
大学を卒業する前年の8月31日から翌年の2月半ばまでに半年間、気分が高揚としていたのだろう、
日記が残っていた。たまたま6年前に倉庫を整理していたら、その当時の教科書の一番下に隠すようにあった。
机の引き出しに入れて、読み返している、そして折々にこの随想日記に書いている。
一種の躁の状態の自分の気持ちがそのまま残っている。懐かしい本当に懐かしい!
タイムマシンに乗って当時に帰ったような感がする。何も変わっていない自分が
そのままいるのが奇妙といえば奇妙だ。社会に出るにあたり不安と希望に揺れているのが懐かしい。
結局私にとって学生時代が人生の縮図であったようだ。口泡を飛ばして議論をしていた青い時代があった。
・・・・・・・・・・・・
[198] 天の広さ  2001年10月25日                
  * 井の中の蛙,大海の広さ知らず,
 この言葉の後の言葉をもじって‘井の中の蛙大海を知らず!されど天の広さを知る’
この後の「されど天の広さを知る」がいい。世間知らずの学者が考えたか?
    (字数制限のためカット 2010年10月25日)
  * つれずれに
 (字数制限の関係でカット 09年10月25日)


3499, 経済予測脳で人生が変わる

2010年10月24日(日)

 ≪経済予測脳で人生が変わる!―仕事も投資も成功できる「起こりえる未来」の読み方 ≫
                             中原 圭介 (著)
 ー内容紹介ー
 経済予測脳はすべての人に求められている! 日本はいまだ「失われた30年」の道半ば。
これからの厳しい時代を軽快に生き抜くためには、起こりえる未来を予測して、事前に手を打っておくことが必要。
経済予測脳をもっていれば、誤った情報やアテにならないエコノミストの経済予測に振り回される必要はない。
自分自身の経済予測脳で、「本当に起こりえる未来」を見据えた人生の選択が可能になる。
それができる人と、できない人とでは、どちらが豊かな人生を送ることができるのか。
 〜 大まかにいえば、
≪ 経済を予測するには、経済学だけではなく人文科学を学ぶこと。 特に混沌とした時代には、時代そのものの本質と、 
 変化をジックリと見極め、それに適合しながら生きぬかなければならない。そのため、
*「歴史学」を学ぶことにより、過去を振り返り未来に向けてどう進むべきかを考える力を養い
*「心理学」で、経済の非合理的な(=人間的な)動きを理解し予想することができるようにして、
*「哲学」で、社会の本質的な構造と、それがどのように変化しているのかを捉えるようになる。
 経済学は合理的に行動する人を前提にしているが、人と社会は非合理的な側面が含まれるため、
 色いろな基礎教養をベースの上で経済の先行きを読まなければならない。≫ というところか。
 ・・今度の世界的金融恐慌は、100年、250年に一度の衝撃的事件であり、それを見すえれば自ずから根底から
 経済予測が違ってくる。その背景には本格的情報化社会の到来がある。これがグーテンベルグ印刷以来というより、
 人間が言葉を持ちはじめた20万年来の革命的変化をもたらす。 その代表例としてネットなどの情報手段の革命がある。
 そのことを、明確に把握していないと、現在の状況を見間違ってしまう。 この本は内容的には目新しいことは言ってないが、
「この恐慌は過ってない歴史的世界恐慌という事実を見極めて、根底から考えを変えなさい!」をテーマだが、
 それを心に留めさせるだけで充分の価値がある。 そう、この事件は20世紀初頭の第一次世界大戦、世界恐慌、
 そして第二次世界大戦の一連の断層より遥かに大きな事態をシツコイぐらいに認識しなければならない。
  特に、茹で蛙の日本は、である。  
 ・・・・・・・
3124,生きる幻想 死ぬ幻想  ー5
2009年10月24日(土)
   ー何でまた原理主義者は死を恐れず自爆テロをするのかー
 以下の部分で、その原理を説明している。 これでは多神教が敵うわけがない。
 それにしてもイスラム教はイヤな宗教と思ってしまうのも、多神教の日本人だからだろう。
 彼らも恐ろしい神が控えていると絶対言明として刷り込まれていれば、どうもこうもない。
 ー 終末論 ー  P-29
岸田 ▲終末論というのは、単に世界が終わってしまうということとは少し違うのですね。
  終末論はユダヤ教からずっとあるのですが、ユダヤ教の場合は、メシアが降りてきて、唯一の神を信じて
  律法を守ってきた自分たちを窮状から救ってくれる、という思想です。これもまた、奴隷の宗教ということから
  出てくるのです。奴隷として差別され、虐待されている人々は、なぜわれわれがそういう目に
  あわなければならないのかという不満を常に抱いている。
小滝 ▼ユダヤ教は現世的集団救済で、いつか「万軍の主」が派遣したメシアが降りてきて政治権力を握るということになる。
  そもそもユダヤ人は、幾度も周囲の強国に占領されて、国土を失っているんです。ですから彼らの切なる願いは、
  メシアがやってきて、周囲に負けない立派な国を作るということなんです。ただし強力な国を作りたいという
  願いはありますが、全世界をユダヤ教}色にしてやろうとは考えない。そういう意味ではキリスト教やイスラームより
  はるかに内向的です。 彼らの考えは、異教徒や異邦入の存在を前提に成り立っているのです。
岸田 ▼ユダヤ教とキリスト教の根本的違いとは、ユダヤ教では終末でやってくるのは現世的な救いなのですが、
  キリスト教では幻想的にというか、非現世的な神の国を設定して、それが終末に到来するというふうに考えるところです。
  Q  ▼ユダヤ教ではメシアが降臨した後もこの世界が続くんですね。
小滝 ▲そういう意味では徹底して現世的な宗教で、あの世は基本的にはないのです。少なくとも旧約には書かれてない。
   ーー
 ー イスラムの天国 ー  p−35
小滝 イスラムの終末のビジョンははっきりしている。やがてとんでもない天変地異が起こって、この世界は破局を迎える。
 その時にアッラーの前に引き出され律法を守ったか守らなかったかで、天国か地獄に分けられる。
 で、死者たちは、それまでずっと眠ったような状態でいて、終末が来た時に生前の肉体で甦って、裁きを受けるのです。
 だからイスラームでは火葬は御法度。裁きも具体的で、ちょっと御伽話みたいですが、それぞれの人の左右の両肩に天使がいて、
ちゃんと律法を守ったら、それが天使によって記帳され、さぼったら、これまた記帳されていくんです。
 裁きのときはその双方の記帳が天秤に乗せられて、右肩が下がったら天国行きで皮対は地獄行きです。
 裁きは一回かぎりで、地獄から天国に行くということはできません。そのときは現世はなくなってしまい、
 天国と地獄になるのです。『コーラン』には天国の様子もちゃんと描写してあります。ただし男の天国しか書かれていない。
 そこは緑のしたたるオアシスのようなところで、七十二人の処女が侍ってていて、いくら飲んでも酔っぱらわない
 美味な酒がしこたま飲める。 それでは女性が天国に行った場合はどうなるかは書かれていない。
 ただし、殉教者は最後の審番は免除なのです。血だらけの姿をアッラーに見せれば、それで天国行きという事になります。
 ですから殉教者は葬式の際には、血だらけの生々しい埋葬をします。偉いウラマーでも、少しは律法を破ったことがあるから、
 最後の審判は怖いのです。 でも、殉教者はストレートにパスなのです。だから殉教したい人が多くなる。
   〜〜
これらを読んでいると、天国とは「幻想論」を絵に描いたようなもの。ニャロメの赤塚など、この程度の天国を十二分に味わったはず。
日本のプチブルも彼らのいう天国の門前にいるようなもの。と、思うのも多神教徒の浅はかさか! 天国はアラブの地の貧乏人の夢か!  
・・・・・・・・
2759, ソロスは警告する −3
2008年10月24日(金)
 ー要点をまとめると、以下の通りになるー
 この書でソロスは現代金融理論そのものに疑問を投げかける。
*「金融市場のさまざまな変数は均衡値に向かって収斂する傾向がある」という経済学上のパラダイムは偽りでしかないと、
 ソロス自身の哲学を築き上げるが、カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』に影響されたとしている。
 ポパーは"開かれた社会"を「人間は究極の真理には到達し得ず、異なった考え方や利害を抱えた成員同士の
              平和共存を可能にする制度が必要であると認めているような社会」であると定義している。
*これからソロスは彼独自の哲学を育てた。 彼のキーワードは、「再帰性」と「可謬性」。
 ・「再帰性」とは 【人は世界の一部であるために、世界を完全に理解し得ない。 世界に対し操作を加えたとき、
  観測される世界はさっきまであった世界とは異なっているからである。 さらに、究極の真理あるいは確実な情報は
  人間の手の届かぬところにあるという前提を踏まえたうえで、「誤解」がいかにして歴史を動かすのかを探求する理論。】
 ・「可謬性」とは、【人は常に間違っている可能性がある。確実なものなど存在しない。 】
  これを行動経済学の観点から解釈し応用していった。 彼は、誤謬の可能性ではなく、人間は間違うもの!と断定している。
*現在の経済は1929年の大恐慌以来最悪の状態になりつつあり、ドルを国際基軸通貨とした信用膨張時代が終焉を迎えている。(中略)  
 ソロスの分析では、この超バブルには他のすべてのバブルと同じく、人々が誤った投資行動を続ける原因になった
「支配的なトレンド」と「支配的な誤謬」が存在した、という。「支配的なトレンド」とは信用膨張、つまり信用マネーの肥大化であり、
 「支配的な誤謬」とは、十九世紀には自由放任と呼ばれた、市場には一切規制を加えるべきではないという市場原理主義である。
*ソロスは、サブプライムはトリガー(状態変化の引きがね、となる信号)に過ぎず、「信用マネー」と「市場原理主義」という、
 信仰といっても良いほどの巨大な"誤り"が、そのメッキを剥がされつつあり、臨界点に達したとき、四半世紀以上にわたって
 成長してきた超バブルがはじける、と警告している。
  ーP-53 の以下の部分が再帰性について、解りやすく説明してあるー
●ー人間の誤解は社会に大きな影響を与えるー
「再帰性」は、参加者の見方と、事象そのもののありようとの間に成り立つ、一種の循環性、両者の間の双方向的なフィードバックが
生み出す円環だと見ることが可能である。 
  (字数の制限の関係でカット09年10月24日)
・・・・・・・・・
2007年10月24日(水)
2395, 恥をかかせろ、いじめはなくすな ー3
                        *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…
 戸塚の幼児・少年期の教育論は、自分の経験を省みると一つ一つが、よく解る。
そのプロセスを飛ばした部分は青年期になってから、その数倍も跳ね返ってきた。
反面、彼のいう躾や見えない指導は両親からシッカリと仕込まれてきた。片親の場合や、父親が軟弱の場合に
指導チェックが行われない可能性が大きい。やはり理想をいえば小学校時代までは両親の深い愛情と躾が必要である。
両親から5〜6歳の時、こっ酷く殴られたことが何回あった。 但しそれ以降は一切なかった。 
さすがと思ったのは、大學に入ると同時に一人前として、人格の尊重をするようになった。 
多くの子供を育てて経験からの知識であろう。神谷 美恵子の本にあった人生の諸段階にそって導いていたことになる。
道理にそれほど差がある訳がない。 子供がまともに育てるには、それなりのステップが必要ということになる。
「出来ちゃった婚」など、生まれ出る子供からしたら「ふざけるな!」である。その時点で・・、
これ以上書かない方が良いか? ー彼の幼児期の教育論の部分を抜粋してみる。 
 ーーー
  *体罰は三歳から小学生いっぱい*
 では、子供たちのどの時期に何をすればいいのか。それが善でも、もちろん施すにはそれぞれ時期がある。
 年齢に応じたやり方があり、それを超えると虐待になつてしまう。
・三歳までは、完全に保護された状態で肉体と精神が成長していくのが望ましい。
  (以下、字数の関係でカット09年10月24日)
・・・・・・・・・
2006年10月24日(火)
 2030, カラスの話
        (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ
20年間にわたり散歩の途上、色いろの鳥を観察してきたが、特にカラスが面白い。
低空で飛んできて糞を落とされることがあったが、あれは狙ったのではないか?と、今でも思っている。 
時々からからかったりしていたからだ。また私の散歩の時は黒ずくめのためカラスは敵と見るらしく、近くを通るとき威嚇される。
雀、セキレイ、百舌鳥などを襲っているのを何回か見かけたことがある。日本のカラスは生きた成鳥は襲わないと言われているが、
時には襲うようだ。ある日、思いもつかない不思議な場面に出会うことがあった。
小雨の中、近くの高校のグランドの地べたに数百羽のカラスが舞い降りて、ただならぬ雰囲気で情報交換しているような場景があった。
また電線に千羽以上もとまっていることもあった。あれは何かの集会ではないだろうか?
カラスは「羽の生えた類人猿」というほどの高い知能が、動物学者の研究観察から認められている。
その一つに人間と同じような“遊び”の感覚があることである。
 ・目的もなく電線の巻いてあるテープをはがしたり、
 ・空中でゴルフボールや小枝を落として奪い合うラグビーのような行動で仲間と遊んだり、
       (字数の制限の関係でカット09年10月24日)     \(^▽^*)バイ!
・・・・・・・・
2005年10月24日(月)
1665, 中越地震から一年!
昨年の「バードウォッチング」をまず、コピーしてみる。
ー10月23日ー
 去年の丁度今頃に地震がおこった。早夕食が終わった直後であったが、あまり恐怖心はなかった。
秘境旅行を続けてきたのが一番の理由であろう。一回の旅行で、圧縮されたトラブルがほとんどでる。
創業を何回もしてきたこともあるし、仕事の関係で常に現場では何かが起こっている。
真っ暗の中、一つずついま出来る手順をふめばよい。 身の危険が無かったこともあるが、
「この程度でなんで騒ぐの?」が、実感であった。それぞれの建物事情もあるのだろうが。
刺激の濃い日々だったのか。現在も同じ? 丁度花火が打ち上げられている。  黙祷!!
 ーー
以上であるが、実際は凄かった?喉元過ぎればか。近くの高校と小学校が避難所になっていて、一週間は近所のほとんどの家は
(避難をしていて)真っ暗であった。その瞬間からは、毎日ライブでこの随想日記に書いてある。危機になればなるほど面白がる、
楽しむ悪癖がある。良くいえば余裕がある? 悪くいえば性格が歪んでいることになる。 やはり場数を踏んでいることか。
ただ、山古志などの全壊した村で避難所に住んでいる人が一万人近くいるのも厳然たる事実である。
車で10分もしない所に、避難所で生活している人がいる。時々近くを通るが、彼らが普段の生活に戻ることを祈る。
そういえば、自宅内の貸家に被災者が住んでいる。彼らが自宅の裏の貸家を見にきた時の姿が目に焼きついている。
その一年前に、水害にあってやっと落ち着き始めたところ再度、地震にあったという。
一家して、疲れきった肩を落とした姿が印象的だった。
・・・・・・
2004年10月24日(日)
1300, まさか、地元で大地震!
10分ほど前に、電気が復旧する。長岡の市民の4分の1が、学校などの施設に避難しているとラジオで言っていた。
電気とガスが切断されていれば仕方ないのだろうが。仕方がないので17時前に郊外にファミリーレストランを
探しに行くが、一軒だけ和風の地元のファミレスの電気がついていた。そこで食事後、家に帰ってきて18時半に就寝。 
直ぐ熟睡。 電気が今日中に復帰とラジオで言っていたので、電気のスイッチをいれていた。
それが23時半に復旧。何がともあれ飛び起きて、この随想日記を書いている。地震がおきた時は、丁度早夕食を
終えようとしていた時であった。普段、土曜日は家内と居酒屋か、近くのサエゼリアなどで食事をすることになっている。
たまたま、長岡近郊の小千谷市のスーパー・センターにドライブをかねて買い物に行き、惣菜を買ったために、
家で珍しく食事をしていた。殆ど、前ぶりもなく激しい地震がおきた。サイドボードに、コーヒーカップや、茶碗や、
皿が多く詰め込まれている。その半分ほどが、揺れで外に飛び出して割れてしまった。大きな地震が4回、他に小さな
地震が10回前後も揺れ続いた。一時間ほどかと、時計を見ると2時間半も経っていたのには驚いた。
一度なら、それほど驚かないが4度も大きな地震には恐ろしいより、笑ってしまった。 
と同時に、そこが私の面白いところ!「これは県内で、二桁の前半の死者の数が出るだろう」と、
地震の最中に家内に言っていた。 現在起きていることに対しても、解説的な自分が可笑しい。                                                               ーつづく
ああ〜、0時一分前、このソフト今日中でなくては翌日の日付になってしまう。
  ギリギリ間に合った! それにしても余震が絶え間なく起こっている!                             
・・・・・・・・・
2003年10月24日(金)
933, 強みに焦点をあわせよ(集中せよ) ー2
ドラッカーの過去の書物の中から「強み」について、抜粋していた本の項目から書き写してみた。
この中で印象的な言葉として、「無能を並みの水準にするには、一流を超一流にするよりも遙かに多くのエネルギーと
努力を必要とする」である。これは人に対しても、自分の中の能力に対してもいえることだ。
自分の不得手を直すより、得意分野に努力を集中すべきということだ。不得手を直すのは、むしろ害になることもある。
そこに気持ちの集中がいってしまうからだ。「得手に帆を揚げ」という言葉が日本にもある。プラス思考にもつながってくる。
 大組織のサラリーマンに嫁いだ姉たちを見ていると、マイナス思考になってしまっているのが分かる。まずはマイナスを
お互い指摘しあう世界であるからだ。それがまず必要なこともわかるが、マイナスのカバーに神経を研ぎ減らしている。
 ー抜粋ー
・自分の強みはわかりにくい
 ー誰もが、自分の強みをよくわかっていると思う。
 しかし、たいていは間違っている。 わかっているのは、せいぜい弱みである。
・不得手なことの改善にあまり時間を使ってはならない。
 ー自分の強みに集中すべきだ。 無能を並みの水準にするには、
 一流を超一流にするよりも、はるかに多くのエネルギーと努力を必要とする。
  ー以下は、字数の関係でカット(2007年10月24日)
・・・・・・・・
559, ある逸話-外地のガイド
- 2002年10月24日(木)
海外の現地の日本人ガイドにはあまりプライバシーを詳しく聞くなといわれている。
日本で訳ありの経緯できている人が多いという。イスラエルや南アフリカなど日本人の殆ど行かない所では、寂しいのだろう、
自分で全てを話してくれた。南アフリカでの話は今でもハッキリと憶えている。50歳ぐらいの女性であった。
日本の商社に勤めていて、英国人と恋愛結婚して初めは英国本土に行ったが、平凡な生き方に嫌気をさした
旦那の意向で南アフリカに十数年前にきたという。ケープタウンに日本人は二十人前後しかいないと言っていた。
日本人同士の付き合いは殆どないとか。日本人の墓は女性名で一つしかなく、その墓を見てきたが冷えつく思いだったという。
子供ができた時に子供の名前を日本名にするか、英国名にするか大モメだったという。
女性の場合、自分が死んだときに生きてきた自分の証明が残るのは日本名の子供の名前だけになる。
自分という存在が完全消滅してしまうような不安にかられるという。外人と結婚して外地暮らしは若いうちは良いが、
歳をとった時に辛いと言われているが、自分はそれを知らなかった!と言っていた。聞いていても身に沁みる話であった。
人生いろいろあるものだ。10年近く前、ニュージーランドに行った時も70歳近い女の老添乗員が悲鳴をあげていっていた。
「40数年前に豊かさを求めてこの地に来たが、この地より日本が遙かに豊かになってしまった。大誤算だった!」
現在は日本も事情が変わり、そうでもないだろうが??! 全ての事は±ゼロである。
・・・・・・・
[196] 本格的チェーン店の出現
  2001/10/24
日本にもやっと国内資本系のチェーン店で本物が出始めてきた。ユニクロ、家具のニトリ、しまむら、イタメシのサエゼリア、
100円ショップ、無印良品、全国居酒屋チェーンの一部、そして上記の店は今の日本において本格的なチェーン。
 (以下、字数の関係でカット10年10月24日)


3498, 高橋信次の娘・佳子のいう〈魂〉とは

2010年10月23日(土)

  先日の読売新聞の一面に高橋信次の娘の高橋佳子の著書広告があった。
 高橋信次といえばGLAの教祖で、何冊かを20歳代に読んだ記憶がある。
 ーまずはウキィペディアによると
≪ 10歳頃(1937年頃)から現在で言う「幽体離脱」現象のような霊現象を体験するようになり、その肉体の自分とは違う
霊体の自分を「もう一人の自分」と呼び、その現象に幼心に疑問を持ち、以来約32年間、電子工学や物理学等の自然科学を
修めつつ、探求を続けた。しかし、従来の宗教書を読もうとはせずに、独自の探求を続けた ・・・≫
ウキィペディアには、彼とGLAの詳細がこと細かく書かれている。それより、彼女の魂の解釈が分かりやすい。
  ー概要と印象的な部分を私の主観でマトメテみたー
*敗北の時代 ー現在の日本は、困難な時代である。高度成長以降、バブルの崩壊から嘘のように元気を失っている。
 財政赤字は900兆以上にもなり、収入は日ごと目減りを、老後を支えるはずの年金は崩壊の危機に直面している。
 自殺者は3万人を10年以上続けており、明るい話題は陰を潜めている。
*最大の危機は「冒険」の喪失ー 何より問題は、未来に希望が持てなくなり、新しい挑戦が出来なくなっているからだ。
*人間には外界に左右されない内なる可能性があるー そのためには、今までにない生き方に挑戦するとき、前向きな挑戦は
 本当に想像を絶するほどの違いが出てくる。人間の中には、未知の可能性がある。
*「人間は魂の存在」が出発点 ―「人間は魂の存在として受けとめること」 −>「人間は肉体と魂から成り立つ」こと。
 まず人間の肉体は、地球上の生命進化の究極の姿を現す叡智に満ちたもの。 この世界の物質をつくる元素は星の中で生成され、
星が終焉を迎えるとき、超新星爆発で宇宙に散らばったものから出来ていて。その延長が肉体である。その魂の方はどうかというと、
 魂は心とつながり、 さらにその深奥に広がる存在である。肉体の基である外宇宙が百億光年以上のとてつもない広がりを
 抱いているものならば、 これに劣らない広大の内宇宙をもたらしている。仏教の一念三千という言葉は、その広がりを示している。
私たちの心・想いは、平和で満ち足りた天上界から苦しみばかりの地獄界まで、あらゆる世界に通じています。
その魂の抱いている内宇宙とは、それにとどまらない。 魂の次元は過去・現在・未来が一つになり、自他を超えるもの。
魂とは、この人生だけでなく、永遠の生命として経験してきた幾度もの人生の記憶と限りない智慧を湛えた存在であり、
私たちを超えた無意識の膨大な経験と記憶の貯蔵庫、宇宙の源という次元に繋がっています。あらゆる生命と存在を一つに
結びつける、つながりと絆が張り巡らされたどの宇宙を、≪ユニバース≫と呼ぶ。 その≪ユニバース≫こそ、計り知れない
広がりと深さを抱いている私たちの母胎であり、だからこそ、私たち人間は、宇宙=ユニバースに通じる
ゆたかな智慧によって 自らが進化するだけでなく、世界と光の共鳴を果たせる存在となる。
*魂が引き出す宇宙=ユニバースの世界 ―我われは偶然が支配する科学的世界観の下では、自分が意味もなく生まれ、
 世界とは特別なつながりはないと思っているかもしれない。しかし、そうではなく魂の次元に気づいた時、みな「つながり」
 によって生かされる「絆」の塊となる。その絆の基、宇宙の源には、私たちが拠るべき、全ての解答と青写真が湛えられている。
〜〜
解)魂について、これだけ明快に説明している文章も珍しい。
「魂とは、生前、死後に自他を超えて広がる広大なる内宇宙の基につながっている」は、神秘的、宗教的である。
 ・・・・・・・・・
3123, 生きる幻想 死ぬ幻想  ー4
2009年10月23日(金)
 「生きる幻想 死ぬ幻想 」 岸田 秀 (著), 小滝 透 (著)         ー読書日記
 宗教は「死に対する恐怖を軽減する役割」が大である。死がやがて訪れることを知ってしまったので、
 その恐怖こそ、人類が長年にわたって個々人が乗り越えなければ壁であった。 
 一神教は、それを利用して神というラージXに対する恐怖を洗脳し、バラバラの人心を一つにしようとしたのである。
 エジプトの奴隷が集団でイスラエルの地に逃げてきたのだから、その奴隷には恐怖心を植え付け煽るしかない。
  −以下の部分は、その辺の事情を分かりやすく述べている。
  * 恐怖の神 * P-24
岸田:一神教は、「対神恐怖」の宗教だと以前から言っている。唯一神を奉じる人々は、神という主人の奴隷であって、
 戒律に違反すると、神から厳しい処分を受ける。この恐怖が一神教徒の行動の規範です。彼等はあまりにも神が恐ろしいので、
 神以外のものが恐ろしくなくってしまい、平気で無関係な人間を軽んじてしまう。彼らが尊重するのは同じ神を信じる人間だけ。
 そこから、キリスト教徒ではない先住民や、異教徒に対する虐殺が由来する。神は主人、人間は奴隷であって、奴隷は
 主人の命に従わなくてはならないのです。そうしないと酷い目にあわされてしまうのです。自殺など、とんでもないことです。
 一神教の文明圏で自殺が厳禁されている理由は、奴隷には自殺の権利などないのです。
 自殺は神との契約を破棄することなので、最大の違反です。奴隷が主人の命である律法を守っていれば、
 主人は『救い手』を遣わして、奴隷たちを窮状から救い、万人の主にしてくれる。 それが一神教の基本テーマです。
小滝:これに対して日本人は対人恐怖症なのです。社会で相手の信頼関係の中で「じゃあ、そうしましょう」
 となるのです。約束を破らないのは、彼に悪いとか世間での自分の評価を気にするからです。
 しかし一神教徒は神に叱られるから約束を守るのです。
岸田:対神恐怖と言うのは、それが共有されれば、人間の行動を規制するのに非常に役立つもの。
小滝:彼らにとって、異教徒というのは、同じ神に誓うという条件を満たせない者たちなので相互の信頼関係を結べないのです。
 異教徒の契約は常に仮契約でしかない。 その辺に一神教徒の異教徒への非道の原因があるようです。
 ーー
 アメリカという一神教国が多神教国を冷酷な割り切りの視点でコントロールしている背景を上記からも知ることが出来る。
・・・・・・・・
2758, 仏文学者が、この一連の「金融恐慌」を書くと!
 2008年10月23日(木)
仏文学者の鹿島茂が毎日新聞の文化欄に「株価暴落ー最悪は次の最悪の前兆ー1929年の再来か」と題して書いていた。
経済学者でもなく金融関係者でもない文学者が書くと、‘凄いこと’を文学調にアッサリと書き上げる。
1929年の金融恐慌では株価の下げは波状的に、最悪は次の最悪の前兆として押し寄せ、それが三年に及んでいる。
結果として株価は八分の一になってしまった。 それよりフロント係の 「窓ですか、ベッドですか?」は、絶妙。
「窓ですか、バスタブに睡眠薬、丈夫な紐の、ドチラですか?」は、実際に・・・・?
  −−−
【 「この数日は、大暴落の期間中でまちがいなく最も陰欝な日々であった。組織的な買い支えはとうに姿を消し、
 この頃には組織的な気休め発言も放棄されている。となれば、せいぜい皮肉なユーモアにでも紛らわすしかない。
  (中略)ダウンタウンのホテルのフロント係は、ベッドをご利用ですか、それとも窓ですか、と客に尋ねたそうな」
                             (ジョン・K・ガルブレイス『大暴落1929』日経) 】
 この九月二九日に日本を発ってパリに到着したら、テレビも新聞も米下院で公的資金投入法案が否決されたため
ウォール街で記録的な大暴落というニュースで持ちきりだった。・・・・
さて、長らく世界中の人が恐れていた「起こるべきこと」がついに「起こってしまった」。 
今回のウォール街大暴落が一九二九年に似ているのか、それとも一九八七年のブラックマンデーに似ているのか?
と問われたら、私は間違いなく前者だと答えるろう。
なぜなら、暴落は市場の自動的調節などではく、雇用不安という死に至る病の兆候を示しているからである。
一九二九年の悪夢は確実に現実化し、一九三〇年の大恐慌を再び到来させるにちがいない。 
 以下、ガルプレイスの本を参考にして、今回の大暴落に続くであろう展開を占ってみよう。
後にブラック・サーズデーと呼ばれることになる一九二九年一〇月二四日の木曜日、大暴落は前場に始まった。
十一時には市場はすさまじい狼狽売り一色となり、追い証を払えなくなった人の担保株は売り払われた。
十一時半には、完全なパニックとなった。しかしあまり知られてないが、ブラック・サーズデーは後場では回復しているのである。
昼休みの間にJP・モルガンの事務所で大手銀行家たちの会合が開かれ、株の買い支えを決定したというニュースが伝わったため、
相場は猛スピードで回復し、結局、タイムズ平均の終わり値は一ニドル下げに止まった。 金曜、土曜と相場は安定した動きを
見せたので、投資家は一安心した。悪夢は終わったかに思われた。 だが、終わってなどいなかったのである。
 一〇月二八日月曜日、相場」は記録的な下げ幅を示した指数が、火曜日には最悪の様相を呈し始めた。
出来高はブラック・サーズデーを大きく上回り、前日の月曜日に匹敵した。
 (字数制限のためカット 2010年10月23日) 
・・・・・・・・・
2007年10月23日(火)
 2394, 恥はかかせろ、いじめはなくすな −2
 戸塚宏も、何人かの人を死なせて6年間刑務所の中で過ごしてきた男である。
もちろん死なせた自責の念も常に自分の良心の呵責もあるだろう。
そして檻の中で、教育とは何か身体を張って考えたはずである。だから、これだけのことが言えるのである。
早くいえば、終戦時に日本を骨抜きにしようと、腰抜け憲法をアメリカが押し付けた。
そして、今日までそれを大事に大事にしてきた。国民の去勢化である。そして、その完成が、あの「ゆとり教育」である。
その結果が現在の、公立の小中学校の先生と生徒の様である。 さらにニートとかいう完成品である。 
そして人生を投げてしまった奇妙な人たちである。彼は教育の最終目的は、子供たちを『独立』させることだという。 
だから独立にいいものは善で、悪いものは悪。ハッキリさせている。だから体罰は善。いじめも善。 
褒めるより叱るが善に決まっている断言する。学校にカウンセラーなどトンデモナイものを導入。これ自体がおかしいという。
 −戸塚の文を抜粋しながら考えてみる。
 ーーーーー
*体罰もいじめも善である*
   恥ありて且つ格(ただ)し   恥を知るは勇に近し
 前者は論語で、後者は中庸の一説である。恥をかくことが人間を進歩させることを昔の人はちゃん、とわかっている。 
 (字数制限のためカット 09年10月23日)
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2006年10月23日(月)
2029, 中越地震から今日で二年
       (+>∀<+)ノ おぁはは〜ようさん!
中越地震から今日で丸二年になる。今では私の周辺では「中越地震」の話題をする人は一人もいない。
もう一年以上、地震の話をしたことは無い。大きな地震の確率は他の地域より少なくなったし、世界の刺激的ニュースが、
身近な出来事など忘れさせてしまう。臍が曲がっているためか、当時、その事態を楽しんでいる自分に呆れていた。
数百メートルの小学校には夜になると殆んど避難。一月ぐらいは自宅周辺の殆んどの家には灯りがついていなかったし、
毎日のように余震が続いていた。その最中余震が起こる度に家内と震度当てをしていた。
地震発生の一週間後に、新潟に行こうと車で出たところ20分もしないうちに、高速道路に入る直前で震度5の余震が発生、
そのまま引き返してきた。 さらに、その数日後に新幹線で通勤途上に震度4の地震にもあった。
でも、ああまたか〜位にしか感じなかった。秘境旅行を三十数回行っていて神経が麻痺しているのだろう。
また仕事がホテル業ということもあり、緊急事態になるほど冷静さが要求されるためか?
「この程度で騒ぎすぎ」と独り呟いていたのも事実である。 夜半に余震が連日あったが、家の倒壊の心配がないので
冷静でいれたが、古い家の人で、危ない経験の少ない人の不安感は遥かに大きいかったのだろう。
 隣の家から女の子のひきつけの悲鳴が聞こえてきた。わが家の被害が比較的に少なかったが、
隣同士でも被害は全く違う。また2キロ先の山の麓の住宅地は悲惨な状態であった。
その一月もしないうちに、自宅の裏にある空家に被災民の一家が引っ越してきた。
   (字数制限のためカット 2010年10月23日) 
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2005年10月23日(日)
1664, ウィリアム・ブレイクの詩
  ー字数の関係でカットー2007年10月23日
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2004年10月23日(土)
1299, 「23歳の日記」
 事務所の移転で、部屋の整理をしていて、一冊の見た事のある小さな鍵付のノートが出てきた。
開いてみると日記帳である。「22歳の日記」の続編である。その続編があるとは、思ってもいなかった。
おそらく、「22歳の日記」とセットで、何処かにしまっていたのだろう。
 もっとも、入社したてで激務のせいか、8ヶ月で17日分しか書いてなかった。
 ー3月5日から11月初旬の間であるー
かなり刺激的な内容もあって、肉体的にも精神的にも極限状態が手に取るように解かる。読んでいて戸惑ってしまっている。
三重県の四日市から、神戸に転勤するまでの心の軌跡や、具体的な日々の有様が、そのまま書いてあった。
 小さな会社が三社合併をした年で、その交流の1弾として方々に転勤させられていた。今から考えてみても、
異常な日常の連続であった。まあ良い体験をしたのだろうが、当時の流通は今でいう3K そのものであった。
 流通革命の旗手と上手く煽てられて、合併の最前線の駒に使われていた。 一番立場の強い会社に入社したため、
惨めな目には会わなかったが、それでも、一日一日が変化の激しい体験の連続であった。まあ、それは40歳近くまで続いたが。
 研修が終わり、現場に配属された初日の事や、卒業式に出席する為に一度東京に帰ってきた2日間のこと。
(当時は卒業前の3月1日に仮入社するところがあった)悩んで、学生時代に通った禅寺に行ったことや、
神戸の日々のことなど、その時々の気持ちが書いてあった。
 スーパーの店頭での「瀬戸物の叩き売り」は、映画に出てくる「男はつらいよ」の寅さんの口上とほぼ同じである。
当時の関西のスーパーの肉屋や魚屋の職人には・・?それだけでない、スーパーの店員なんぞは下の下という風潮があった。
何が流通革命の旗手かと、ただただ驚きであった。 汚い寮に住んでいたとはいえ、学生時代のアカデミーな世界とは一変、
地獄の底に突き落とされたというのが、その時の偽ざる実感であった。もし、この文章を読み返さなかったら無意識で、
当時の記憶の消去を頑なにしていただろう。それだけあまり思い出したくない日々であった。誰もが入社したての頃はそうだろうが。
 書き残すということは非常に長い目でみても有益なことである。「猿人類と人間の差は魂を持っているかどうかの差である。
魂とは、言葉を持つことによって得ることが出来る。」という猿人類学者の言葉を、このような日記を読み返すと実感する。
言葉で書き残してなければ、当時の心の叫びは残ってない。おりおり、配属の日の日記とか、卒業式の光景、そして神戸の日々とか、
禅寺の一日を書き写してみるつもりだ。 ただし五日間のみにする。あまり当時を直視したくない。
心情を書き残すということは魂を書き残すことと実感する。 今このような日記を書けといっても書くことは出来ない。
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S5709事業百訓 
 ー1982年7月9日記(社内報)より
 何かの偶然で私自身全く貴重な経験をしてみた。 修業という事で、三重県のA社に勤め、考えるところがあり再び学校へ入り、
その後石川県のB社に再就職をし、
  ー以下は字数の関係でカットー2007年10月23日
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2003年10月23日(木)
932, ある旅行代理店の廃業
 ツアー大好き人間として、旅行代理店遍歴を多くしてきた。
ー以下は字数の関係でカットー2008年10月23日
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558, 仕事と性格形成
          - 2002年10月23日(水)
知らないうちに人間の考え方は、自分が実際に携わっている仕事に影響されているのを最近強く感じる。
私のような大商圏を相手にする仕事の場合、どうしても小商圏を相手に仕事をする人との考え方が正反対になる。
気が合う相手は大商圏の仕事や、大手相手の事業をしている人だ。 小商圏といえば、お互いの目を気にして「世間様」
を第一にしなくてはならない。お付き合いとかの人間関係の中から情報やビジネスチャンスを捉える事が重要となる。
大商圏を相手にしていると、逆にそれが邪魔になることが多い。 近目と遠目のちがいである。遠視になってしまい
近くのことが見えなくなる、逆に小商圏は近視的視点になってしまう。この違いの乖離が最近特に大きくなってきている。
最近それを指摘されるが、といって今更変えようとも思わない、また指摘する人は小商圏相手の仕事をしている人だ。 
もっともそのことすら理解できない人だ。数年前から間隔をおいているが、そうすると大部分の人になってしまう。
最小限の人とのいきちがいは仕方がないと割り切っている。 銀行も政府系や都銀との付き合いに傾く。
人間関係もどうしても地元でない人が多くなる。地元の人と一切付き合わないで済むから、地元では異様に思われているだろう。
大商圏的生き方として当然の事と受け止めている。特に父親はこの傾向が強かったモデルがいるから更にそれで良いと思ってしまう。
気が付いたら一人というと頑固爺の末路だろうが、その辺の変身は早い。 ある中国出身の作家がいっていた。
「地元で商売をするな、因縁がらみで何も見えなくなる。 他所なら全く関係なく、ビジネスとして割り切れるから。」
全くそのとおりである、ブラックジョーク以下の現象がビジネスで日常になってしまう。 地方の景気が最近悪いのは、
これに近い原因である事はいうまでもない。 情報化でグローバルの時代になってきた為だ。
これからの時代ますます大商圏的生き方の流れになる。 手前勝手か??
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[195] 宗教戦争ー6−  2001/10/23
 ーイスラム原理主義とはー
  ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の違い
原理過激派はイスラム教を母体としたカルト教と思えば簡単である。ややこしいのがイスラムが母体という事である。 
モハメッドは一人考えた!「何故アラブ人に偉大なる神がないのか、預言者がいないからだ。
そうだそれを考えている自分が預言者になればいい」と考えたのだろう。
まずは「コーラン」をユダヤ教の「タルムード」の代わりと考えた。そんなもの、宗教とは。
宗教学者ひろさちあ氏が月刊誌に、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の違いを解りやすく書いていた。
ユダヤ教は・・・・「旧約聖書」プラス「タルムード」
キリスト教は・・・「旧約聖書」プラス「新約聖書」
イスラム教は・・・・旧約聖書プラス「コーラン」
まずベースが旧約聖書である。  三宗教のうち、
・父親的な立場がユダヤ教、その父親から長男のキリスト教が誕生、次男のイスラム教が誕生した。
・ユダヤ教では、ーアブラハムが神ヤーヴェと契約を結んだ。
 その契約は、人間のほうからは、あなた以外の神と絶対に拝みませんと誓い、その契約にもとずいて
 神は人間にあれこれと命令する。その命令が律法だ。 したがってユダヤ教は本質的にー契約宗教です。
   ー以下は字数の関係でカットー 2007年10月23日


3497, お金の教養 −3

2010年10月22日(金)

 ーお金の教養ー「お金の仕組み」 泉正人著
  
  * 何が「浪費」で、何が「投資」か
 何もかもが節約ばかりでは人生は面白くない。それでは貯蓄が目的になっては、お金の本来の価値を楽しむことはできない。
価値あるものにはしっかり使い、価値のないものは、使わないというルールが必要である。
著者は日常使う小さなお金を、使い方によって、「投資」と「消費」と「浪費」の三種類に分けている。
・買ったものが、払った以上の価値がある=「投資」
・買ったものが、払った額と同じ価値がある=「消費」
・買ったものが、払った額以下の価値しかない=「浪費」
 これは分かりやすい。 私の場合、海外旅行は、払った5〜10倍の価値は充分にあった心底思っている。
飲んでまわって三軒目以降は払った額の半分以下か零と思うことが多い。 これは浪費。
土曜日など家内といく居酒屋などの飲食店は払った同額の価値だから、消費。 そう具体的にみると、
それぞれの意味が実感できる。 時に浪費の方が有意義?のことがあるが、ただ酒に飲まれている方が多い。
テレビ、パソコンは投資。 昼飯は消費。 本は大部分は投資。 週刊誌は消費で、月刊誌の文藝春秋は投資?消費?
これは実際に買って読んでから分かること。去年買った電気アシスト自転車と海老反り器械と腰叩きマシーンは投資。 成るほど! 
両親から捨て金を使うな!と教えられたのは、価値のあるなしを意識して金を使えということ。
関西人は概ねこれに徹している。 マイホームは思い切って良い家を買うが、普段の生活は質実剛健にする。
 金の使い方だけでなく、著者はこれを時間について当てはめている。 英会話の勉強に当てている時間や、
健康のためのスポーツは投資の時間。 休みの日に、何をやっていたか記憶のない時間が浪費。
睡眠は、それが人間が生きるため必要な時間で(必要経費として)投資になる。一年を振り返って、あれは良かったと
思える時間が投資である。 そういう視点で「金と時間」の使い方をチェックしてみると、面白い。
長期的投資と短期投資にも分けられる。 浪費が入った三つが混合するから面白いもの。 浪費と思っていただけのことが
実は投資だったり、投資と思っていたことが浪費だったりする。これは時間がたってみないと分からない。
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3122, 生きる幻想 死ぬ幻想  ー3
2009年10月22日(木)
 「生きる幻想 死ぬ幻想 」 岸田 秀 (著), 小滝 透 (著)     ー読書日記
 中世に西欧の国々が世界を拡大していく過程で、構造主義ではないが、決して南米や東洋より優れているのではなく、
逆に劣っているのを知ることになる。 勝っているのは人殺しの技術だけ。 そこで西欧人は自分たちの方が優れていると、
信じたと思ったのである。同じ神を信じると認めあった仲間内では、平等とか隣人愛を言うが、そこから外れた者については、
公然と差別をし、何をしてもよいことになる。人間扱いされなかった奴隷たちが救いの神として唯一絶対の神を信仰したが、
その神は復讐の神だったからである。現在、原理主義者が平気でテロを仕掛けるのも、この辺の事情による。
 ー以下の部分は、その辺のことを詳しく書いているー
 * 大航海のカルチャーショックと、ペスト発生の由来 (P−13)
Q: 西欧キリスト教文明が、十一世紀以来、イスラームと敵対していたというお話ですが、その後、
 大航海時代から帝国主義と、猛烈に世界に進出していきますね。そしてその際にきわめて大規模な虐殺が起こっている。
岸田: 大航海時代でアフリカ、アジア、アメリカ、インドなどに出ていったのですが、その結果、ヨーロッパ人はますます
 劣等感と敗北感が募ったと思います。 誰だって、ふるさとの地で何とか暮らしていけていれば、決してふるさとを捨てて遠い
 外国なんかへ行きたいとは思わないものですが、当時のヨーロッパ人はヨーロッパに安住できないいろいろな事情がありました。
 人口の四分の一から三分の一が死んだと言われる十四世紀半ばのペストの大流行、打ち続く飢饅、宗教的迫害など。
 ヨーロッパ人自身は、進取の精神で広く世界へと進出したと思っているようですが、他の大陸へ出掛けていった連中は、
 客観的には、命からがら逃げ出した難民でした。 十五世紀の終わり頃は、ヨーロッパよりインドや中国のほうがはるかに
 文化的にも経済的にも上で、豊かな生活をしていたのですね。 ヨーロッパの難民たちは、世界を知ることによって、
 ヨーロッパがいかに遅れていて劣っているかを発見したのです。 その劣等感というか敗北感をひっくり返すというのが、
 近代ヨーロッパ人の植民地主義を支えた情熱なんですよ。 われわれのほうが遅れている、劣っていると感じて、
 それ以後のヨーロッパ人は、われわれのほうが上なんだ、優秀なんだということを証明しようと必死でした。それ以後、彼らが、
 何かにつけて、ヨーロッパのほうが進歩していると繰り返し繰り返ししつこく主張したがったのも、この必死の努力の表れでした。
小滝: ペストのことで一言注釈しておけば、あれもキリスト教に原因があるんです。 当時は修道院があちこちにでき、
 実に多くの成人男子が修道院に入っていたそうです。その食糧をまかなうために、大規模な森林伐採をやったのです。
 さらに森林伐採には宗教的な意昧もあって、森を残しておくと、土着的な精霊信仰が生き残って、異端や異教が生まれるので、
 キリスト教を広めるという意味でも森林を伐採した。そうしたらフクロウとか蛇とかがいなくなって野ネズミが大発生し、
 それにペスト菌を持ったノミやダニが寄生したもので、大流行を引きおこしていった。
 〜〜
  現在、アメリカをはじめ西欧文明が基礎から揺らいでいるが、この辺の一神教が主導してきた文明の行き詰まり。
 そして、これからは中国、インド、東南アジアの文明が必然的に世界をリードしていくしかない。
 アメリカの属国として戦後の経済成長を続けてきた日本も、ここで大転換期をむかえたのである。
 ・・・・・・・・・
2757, 今後のノーベル賞の有力候補は?
 2008年10月22日(水)
 一昨日の産経新聞 【正論】の ー ノーベル賞で「銀メダル」の日本 ーが、面白い! 
 その中で、今後の日本のノーベル賞の候補を何人か挙げていた。
 アメリカの国力を感じるが、日本も満更ではないことが窺える。
  ーーー
 ●≪政府の50年目標も有望≫
 アカデミーが南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3氏の日本人に2008年のノーベル物理学賞を授与すると発表し、
翌日には同化学賞を下村脩氏に贈ると発表した。日本人がノーベル賞を受賞するのは、2002年の田中耕一氏(化学賞)と
小柴昌俊氏(物理学賞)以来6年ぶりで、同じ分野の賞を3人で共同受賞するのは初の快挙である。
この結果、自然科学系のノーベル賞を受賞した日本人は13人となった。
今回の快挙を含めて、最近ノーベル賞での日本人の進出が目立つ。 化学賞は2000年から白川英樹、野依良治、田中耕一
の3氏が3年連続で受賞しているから、下村脩氏で4人目。
 (以下、字数の関係でカット2009年10月22日)
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2007年10月22日(月)
2393, 恥はかかせろ、いじめはなくすな
 戸塚宏が、「新潮45」6月号に寄稿していた文章が考えさせられた。彼は自分の戸塚ヨットスクールで、生徒を何人か
 死なせた責任で6年の実刑を終えて、再びヨットスクールで指導をしている。石原慎太郎も弁護者で彼を支持している。
 ーまず彼の論の概要をまとめてみるー
  *力は悪か、いや善である。
・6年経って出所して、子供たちは良くなったかといえば、ますますオカシクなっている。
 生気がなくなり、得体の知れない無力感を漂わせ、一方で些細なことで直ぐに自殺する子供が増えている。
・暴れる子供はまだよいが、無気力で何も行動を起こさない子供は直しにくいし、完全に直らない。 
 登校拒否とか、引きこもりやニートといった、社会に反発する力のない子供たち。彼らは幸福を感じる能力もないし、
 幸福になろうと行動もしない。人類始まって以来の、最も奇妙な生きものが出来上がってしまった。
・明らかに戦後教育が間違っていた。戦後教育は「力は悪なり」と教え込んでいた。教育者も親も、その信者で子供を
 強くすることは悪だと思い込んでいた。 そして子供たちを弱く弱く育ててきた。しかし、力は善に決まっている。
 弱ければ役に立たない。海で溺れている子供を、腕におぼえのある人が助けて、子供は一命を取りとめることができる。 
 力があればこそ助けられるのである。 強いからこそ、行動ができるのである。 
 それをどこで、どう間違ったのか、「悪」としてきたのが、戦後教育なのだ。
・子供を教育するに当たって、「褒めて育てる」ということがまかり通っている。
 「叱るより褒める方が正しい」と親も先生も思い込んでいる。だが「褒めるより叱る方が正しい」に決まっている。 
 褒めて褒めて、みんな駄目にしてきたのである。 叱ることを、罰のひとつとしてみよう。 罰は世界中にある。
 だから人間の本能である。 本能は種族保存を目的としているから善、当然、罰は善である。
 駄目な奴、失敗した奴を罰しようというのは、善なる目的を持っている。 それは、 相手の進歩でもある。 
 罰は相手のためを思ってやることなのだ。叱ることも同様で、相手を考えて叱ってやるのだ。
・いまは何でも気に入らないこと悪いことは人のせいにするような若者が増えている。自分が幸福でないのは、あいつが悪い、
 社会が悪いという具合に。自分の責任を棚上げしてしまう。だから自分の責任として考えなければ、その人の責任はない。
・叱って、自分のやったことは自分の責任だと、その責任を明確にしてやる。
 そうして初めて己がよくわかるものなのだ。 自分より上の人がわかってくる。
 そうするとそこに出てくるものは何か。 恥である。恥は怒りを導き、人間を進歩させようとする意志と行動を生む。
 つまり、恥をかく能力は自分を進歩させる能力なのだ。だから私はいつも、いかに恥を出してやるか、に心を砕いている。
  ーーー
 ヤンキー先生とかいう、わかったようなことを言っている男をTVでみかける。それなりに若者を理解して指導をして
効果を上げているのだろう? しかし、何か若者に媚びているだけに思えて良い印象はなかった。半年ほど前に戸塚宏と、
ヤンキー先生が議論をした。数分でヤンキーの化けの皮が吹っ飛んでしまった。見ていても気の毒で、哀れな無様な姿が、
そこにあった。私の見方が歪んでいたのか、自省しながらみていたが、そうではなかった。
不良のエネルギーの方向を変えることと、引きこもりの心に火を点ける視点は違うが。
戸塚の「叱って『恥だし』をして、怒りを導き出し、意志と行動を生み出させること」これはやる気を引き出す基本。
それにしても、9割の若者たちは酷い、あまりに酷い! 自ら気づいてないからなお恐ろしい。    ーつづく
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 2006年10月22日(日) 2028, ネット空間「セカンドライフ」
                          才八∋ウ_〆(∀`●)
最近のネットには、日々驚かされることばかりである。
 ー朝日新聞の文化欄の記事(10月19日)ー
:現実に溶け込む仮想世界「もうひとつの世界」で起きたメディアの地殻変動: には驚かされてしまった。
「ネット上の仮想世界で建物を作ったり、売ったお金で現実に住居を手にいれた」というような夢のような話が起きている。
 (以下、字数の関係でカット2008年10月22日)
           (+●∀●)ノ さいなら! さいなら!
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2005年10月22日(土)
1663, 「人生の実りの言葉」−3
 ー独創?
・この章ー独創?ーの冒頭の「ゲェテとの対話」ーエッケルマンを抜粋してみる。
「世の人はつねに独創(オリジナリテート)の話をするが、どういう意味だろう。
 生まれるとすぐ世界は影響しはじめ、そして死ぬまでつゞく。一体エネルギイと力と意志と以外に自分のものがあるか。
 若し私が偉大な先駆者や同時代の人に負うた点を一々あげることができたら、残る所はきはめて僅かだろう。」
・更に、この章の一番のさわりの文を抜粋する 
 (以下、字数の関係でカット2008年10月22日)
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2004年10月22日(金)
 1298, 2000年前のポンペイ −2
 図書館で何気なく歴史コーナーを見ていたら、「『ポンペイ』完全復活、2000年前の古代都市」というグラビア集があった。
一ケ月位前にTVで『ポンペイ』を特集していたのをDVDに録って、その面白さに繰り返し見た後なので、思わす時間を忘れて、
その場で見入ってしまった。もちろん、借りてきて見ているがTVよりさらに深い内容である。
本は、映像では表現できない違う役割がある。 AC/79年8月24日、ヴェスヴィオス山の大爆発で火山灰で埋没したこの街は、
その18世紀半ばからの発掘によって、古代ローマを知る上で大発見になった。それまで、古代ローマの遺跡といえば、
ローマ市郊外の遺跡であったり、地中海沿岸の都市であった。ローマ帝国は、このような街が数千もあって支えられていた。 
しかし、それらはその後の追加工事などで、当時の原型を殆ど留めていないものばかり。 これだけ、完璧に残って
発見されたのは歴史上初めてである。街そのものを、石膏(火砕流)を流し込んで、そのまま保存したようなものである。
 ーそのグラビアの内容とはー
・街全体の航空写真と、それを元につくられた街の復元の絵
・それで解ったポンペイの都市計画図 そして街の構成と築造技術
 (以下、字数の関係でカット2009年10月22日)
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2003年10月22日(水) 
 931, 強みに焦点をあわせよ
「強みに焦点をあわせる」経営学者のドラッカーの一番好きな言葉である。
企業にしても人間にしても当てはまることだ。強者は強みを最大限いかすから強者になり、
弱者は弱みのうえに自己を置くから弱者になるのだ。まずは自分の強みとは何かを探さなくてはならない。
過去の中でうまくいった事、埋もれている潜在的な何かを自分で探すしかない。 企業もしかりである。 
その強みを活かしていくと、それが違いになってくるのだ。 それを個性というが。 強みを探すとき、
「他との違いを探す」方法もある。 違いの中に強みがあることが多い。弱点に見える中に、強みがある場合も多い。
 一例をあげると、柔道の棟田という重量級にしては、極端に背が低い選手がいる。
彼は外国の背の高い選手に強いのだ。重心の位置が低い利点を活かして、相手を投げ飛ばす。
 強みを活かし続けると、そこに独自性が生まれてくる。強みに焦点を合わすと合わさないとでは、時間の中で
大きな差が生まれてくる。ついつい弱点の矯正に気が回って、いつの間にか重心がそこにいってしまう。
弱点を修正することより、強みを活かすことに全力をあげる事だ。 人を使う場合もそうだ。
ついつい弱点に眼がいってしまう。意識的にその人の強みを探し出して使うことだ。私を例にとるとーまた露出だが、
・8人兄姉の末っ子 ・両親とも商家の出で商売大好き人間 ・私の幼児期は敗戦の真っ只中で、転業の創業期  
・末っ子の知恵 ・人を内側から多くみている ・負けず嫌い  これは強みでもあり、弱点にもなる。
 少なくとも勤め人より、商売系が向いている。それも時代の変化に対しての創業系ー転業を活かすのに向いている。
 弱点は自制がきかないで突っ走ってしまう危険がある。
・・・・・・・
557, 基調色-着こなしのコツ −2  2002年10月22日(火)
 ある洋服屋だった社長から聞いた話である
ー昔の大金持ちの旦那衆は、目立たない高級呉服を似た柄で何枚も持っていて毎日着替えていた。
よほどの目が利く人でないと、その違いが判らない。無頓着にいつも同じ服を着ていると思わせていたという。
チョットした柄の違いのもので、羽織や帯や足袋をかえていた。そういう粋な着方が本当のお洒落だとかー
基調色を決めておくというのに合い通じる内容だ。たったこれだけの話の中に多くの教訓が入っている。
シンプル、スタンダード、スペシャリテー、セグメントのチェーン理論のドライ主義が全て入っている。 
一番主義と集中主義である。目立たないーシンプル、スタンダードー似た柄で、高価なースペシャリテー、
何枚もーセグメントである。何代も続く家柄という長い時間の中で、体得した知恵なのだろう。
日本も洋服を着るようになって、まだ日が浅い。 着こなしでは当然欧米人に比べ落ちるのは仕方がない。 
しかし和服ではチャンと着合わせが出来ていた。 色というと7色が基本となる。どうしても私などは単色と思いがちだ。
しかし赤一つとっても数千種類もあるという。理屈からいえば無限のはずだが。 江戸時代はその色の違いを楽しんでいた。
そして自分の好きな赤を決めていたという。 本当にイロイロあるものだ。
・・・・・・・・
 至高体験-1 2001/10/22
もう10年前に読んだコリン・ウイルソンの‘至高体験’が面白かった。
フロイトは‘性’で、ユングは‘聖’で、アドラーは‘権力’の視点で精神分析を深めていった。
しかし彼ら心理学者は精神症・精神病の患者の医者の立場だ。これに対して‘非常に健康的な人’の持っている
性格的特性とかを調べた。そしてその共通点を探したところ、普通の人に対して‘至高体験’が多いという事だった。
至高体験とはこれ以上ない感激の極み、絶頂の幸福感をいう。インドを旅行した時、ツアーで一緒だった女性に
「20年前にインドに来たとき、ハシシー麻薬を吸ったことがある」と言ったので「どういう気分になるのか?」聞いた。
「とにかく楽しくって、笑いが止まらなくなった」とのこと。しかし薬物は中毒になる。死ぬときの痛め止めの
薬物の楽しみに取っておくとよい。 ある姉が嬉しそうな顔をして、「極致の喜びを味わったことがある?」と
数年前か私に聞いた。少し躁鬱の気がある人で、近くにいた義兄がハッとした。
「まさかオルガニズムの事でも言い出すのでは?」と私もその瞬間思った。「それでは貴女はあるのか?」と聞いたら、
「一度ある」という。もちろん私がそういう系統ー精神分析とか、心理学が好きということは解らないようだった。
そちら(セックス系)の内容でなかったが、「私は三桁は軽くある」、と答えると全く信じられない反応であった。
「そんな事絶対あるわけはない」という。「それでは長島が昨年(7〜8年前)セリーグで10月6日に大逆転優勝をした時に、
至高体験したのでは。長島は三桁は至高経験をしているのでは?」といった時、やっと納得した。
私の場合では、海外旅行で数十回はある。また事業で一仕事終えた時、緊張感の極めの合間の一瞬の弛緩の時、
あるいは会社の忘年会とかに絶対的幸福感になる。 (それだけ盛り上がる)上げれば限がない。
これはある程度の訓練も必要だ。会社で昼休みに30分、アルファー波の発生器に‘聴く麻薬の音楽’
(アルファー系音楽)を繋げて、もう10年以上聞いている。(アルバム日記に写真あり)
それを毎日している為か酒を飲んだ時など、直ぐブロックが外れそれに近い状態になる。
少しきわどい内容になるが、コリー・ウイルソンのその本に、「ロシアンルーレットがその状態になりやすい」
と書いてあったことをおもいだした。ピストルに弾一発を入れ、弾そうを回すやつだ。そして引き金を引く。
6分の1で死ぬやつだ。死の緊張感と助かるのを楽しむ。 そして相手と自分が死ぬまでやるやつだ。
助かった時の幸福感は至高体験に近いらしい。家内が不思議そうな顔をして、何人もの友人が
「自分を不幸と信じているみたい?」という。 少しは勉強すれば?と思う。 生きているそれだけで素晴らしいのに!


3496, お金の教養 −2

2010年10月21日(木)

 ーお金の教養ーみんなが知らない「お金の仕組み」泉正人著
  * 一番の無駄は生命保険?
 ここで著者は、保険の無駄を指摘している。例えとして、25歳から「月3万円」の終身保険を加入したケースをあげている。
年にすると36万になるので80歳まで払い続けたとして、36×55年=1980万、つまり終身保険は2千万の買い物になる。
それを、「月額3万円」の分割払いをしているだけのこと。 保険屋の甘い言葉につられて、深く考えないで印をおしてしまう。
30歳代の10年間で死亡する確率は1パーセントという。その間に払う金は何と360万円になる。それを年利5パーで運用を
すれが500万近くなる。 命をかけた博打にしては全く採算に合わない。これに対し損害保険の方が、ずっとましである。
年間5万も払えば、対人賠償も、対物賠償も、無制限で万一の場合も保証されるし、自分の事故保険も5万をかけたとして、
合計年間10万円で充分。それに対して生命保険ほど馬鹿馬鹿しいのはないと断じている。
 もちろん生命保険を個人として入ったことはない。あれは人間の不安を利用した悪徳商法ぐらい知っていたからである。
  * マイホームは買うべきか、それとも借りるべきか? (以下の半分は私見が入っている)
 一番の資産は、まず家屋敷である。親から家を貰えない人は、家を一生かけて購入しなくてはならない。
しかし、その購入に対して少しも考えない。 少しオサライでマンションの購入を考えてみる。もちろん商売だから、
業者は土地を購入し、建物を建て、営業マンを雇い、利益を加算した値段で売却する。考えなければならないのは、これから。
それは売り手の論理。 買い手は、買ったと同時に販売経費分は消滅する。その瞬間に、それは中古品になり、一年一年古くなる。
捨てるほどの金があれば別だが、新しいマンションを買うのはドブに金をすてるのと同じ? それでもマンションに住みたいなら、
中古マンションの掘り出し物を数年にかけて探しだし買う方が段違いに有利。 都心なら新宿とか、渋谷近くの、駅から数分の、
競売物件とかである。中古の場合は、新興の業者だけは避けるべきだ。住友とか三菱とかの系列なら、数十年先の信用がついて
まわるから、年月に耐えられる商品を前提に計画される。しかし、数年前までは、全国の駅周辺に多くみられた「穴吹工務店」
「ライオンズマンション」「ダイヤパレス」などは、既に消滅している。 著書では、物件価格は家賃の200倍以内が妥当という。
更に30年後の価値想定もしておかなければならない。10分の1か、5分の1である。(例外もあるが・・)
私は、マンションは中古以外で考えるなら一戸建住宅を勧める。何故なら、家の価値の半分を占めている土地は腐らない。
だから買うなら若い将来性のある立地の住宅地を選ぶべき。 特にデフレになると無知からくる矛盾が現れる。他人ごとでない?
 娑婆は、幻想でなりたっているから、夢を買うのにケチをつけることはないが・・・   
 ・・・・・・・・
3121,金(きん)について
 2009年10月21日(水)
 ここにきて、金の価格が動きだしてきた。世界は、大恐慌に向けて動き出したかどうか。
  ーまずは金について、その現状をダイジェストにまとめてみたー
・現在の金の地上在庫(有史以来採掘された量)は約16万㌧で、オリンピックプール約3杯分。
 残されている推定埋蔵量は7万6千トン(50mプール1.5杯分)で、地上在庫の半分しかない。
 公的機関が保有している「金」は約3万2千トンで、地上在庫の約22%を占めている。
  その用途は、宝飾品約50%、公的機関20%強、民間投資15%強、工芸品等10%強。
(2007年)安全資産とはいえ、その需要は宝飾関連が多い。現在、新たに採掘されてる金は、
 年間2500㌧弱で、ここ10年ほどで頭打ち状態。
 16万トン×3千円として500兆円もあれば、地上在庫全ての金が購入できることになる。
・各国・地域・公的機関の金保有量は、
1位  米国     8133,5トン   2位  ドイツ    3412,6トン
3位  IMF    3217,3トン   4位  イタリア   2451,8トン
5位  フランス   2340、7トン   6位  中国     1054  トン
7位  スイス    1040、1トン   8位  日本      765,2トン
9位  オランダ    612,5トン   10位 ロシア     536、9トン
   最高値 1980年1月 6,495円    1982年9月 4,326円
   最安値 1973年3月  750円    1999年9月  836円
  これからみて、現在値の3000円が高いのか安いのか?
 私は「本格的世界恐慌あり」と見ているので、3年後には5000円は超えていると信じている。
 金は投機というより長期保存の投資として目先に惑わされないだ。
 ・・・・・・・・・
2756, 何か変な世界の空気!
 2008年10月21日(火)
 *AIG、当初借り入れ8・4兆円の融資枠、ほぼ使う!
株は九千円を回復したが世界経済の実態は火が燃え盛っているようだ。 昨日の日経新聞に何気なく
「AIGが、FRBからの当初借入総額850億ドルのうち829億ドルをほぼ使い切って、残りはわずか
21億ドル。6日には緊急融資枠として378億ドルが追加され、現時点では融資枠総額が1228億ドルになってしまった」
とあった。 近々に、この1,200億ドル(円換算で12兆円余り)を使いきるだろう。
既に単純計算でも三千億の利息が発生しており、このままの状態が続くと、FRBは重大な決断を迫られる。
恐ろしいことだ。 AIGだけでなく何処の火薬庫の火が点火するかの問題になってきた。
リーマンの負債の毒だけでも大きな火種である。それにGM/フォード、シティー、まだ表面化してない
大手金融機関、大手企業が何時表面化するか分からない事態である。
 *北朝鮮が変
ー 以下は字数の関係で中間カット(2010年10月21日)・
・・・・・・・・・
2007年10月21日(日)
2392, 人生で出会いしもの
                           φ(* ̄0 ̄)ノ[才八∃一]ヘ
10月02日(火) の {「2373, 人は60歳で何をしたか」−2} の読書日記で、作家の新井満が寄稿していた
「60歳以降に何をすべきか」について書いた。ところが、その中で彼の奥さんとの出会いの話が非常に印象的だった。
人の出会いの不思議さをつくづく感じる内容。 20歳代に何回かダブル・デートで、片方が結婚したケースがあった。
私は相性のあう相手がいなかったか?ためか、簡単に一生の伴侶を決めてしまう彼らを見て、「何でもっと色いろな人を
見てからの方が?」と、不思議でならなかった。「本当に決めなければならない時は、それなりの人と出会うもの」と、
信じて疑わなかった。更に常に4人の姉と比べて、それ以下?は妥協できない! あとは両親に対して自信を持って紹介できる人?
という無意識の判断があった。 ところで、姉と上さんドッチが?? まあ、それはそれで・・・
色いろあって、新井満の、こういう出会いに驚いてしまった。もう少し、色いろな女性と付き合ってから
という生き方もあろうに? というのも、相手次第ということか! それにしても幸せな人だ。
 ーその一部を抜粋してみるー
 *人生最悪のコンディションで出会った運命の人は誰だったか
人にはそれぞれ、運命的な出会いというものがあります。 私にとっては妻との出会いがそうでした。
19歳の大学生のときに、郷里の新潟から上野行き特急の座席指定車に乗ったら、隣の席に座っていたのが、たまたま彼女だった。
以前から、おふくろには「東京の女には気をつけろ」とよくいわれていました。
見るともなしに見ると、どう考えても典型的な東京の女性。ベレー帽かぶって、その上にミニスカートです。
 ・ 以下は字数の関係で中間カット(2007年10月21日)・
  ーーーーー
最終の学校時代に出会った人が最適の人と出会う確率が高いというから、
彼は彼なりに最高の人と出会ったのだろう。
・・・・・・・・
2006年10月21日(土)
2027, 「私」のための現代思想  −14
        おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・
 ーこの章の一番のポイントは次の部分であるー
ある個人の「死」とは、<身体>に属する要素が存在しなくなることを指す。死によって、<身体>が消滅し、<身体>の属している
「声」も消失します。それでも<私>を構成する要素である「超越確実言明」は消滅しません。また構築されていた《私》も消滅しません。
    ーー    
 何度も何度も、この部分を考えてみた。納得できるような、釈然としないような深い内容である。
《私》が死なないのは、ソクラテスの《私》がプラトンによって記録されて、永遠に生きていることをみても解ることだ。
《私》は消滅しないということが哲学的にみて正しいとすれば「いま生きている瞬間」を全てを丁寧に、そして人生そのものを、
あらためて考え直さなければならない。 {<私>と《私》は消滅しない}という言葉を「超越確実言明」としていれば、
過去の人生は変わっていた!「死んでしまえば、それまでよ!」を{超越確実言明」としてきたが、そうではないということだ。 
ブログなどで自分を語り、公開する時代なら尚のこと顕わになる。その意味で、この本は難しい内容だが、根本から人生観を
考えさせられる。「私」のことだから、根本問題である。
<身体>が消滅しても、<私>と《私》は消滅しないというカルトみたいなことが論理的にもいえるとは・・・
もう一度、本当に納得できるものか振り返ってみたが、矛盾は無い。 <身体>も<私>も《私》を大事にしなくては!
ーー
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 −?
 ー 正しく死ぬ・正しく生きる ー
 *<私>は「死」によっては消滅しない*
「《私》は、<他者>によって引き受けられている」<身体>が消滅しても、<私>は存在しつづける。決してカルトではない。
ある個人の「死」とは、<身体>に属する要素が存在しなくなることを指す。
死によって、<身体>が消滅し、<身体>の属している「声」も消失します。
しかしそれでも、<私>を構成する要素である「超越確実言明」は消滅しません。また、構築されていた《私》も消滅しません。
さらには、<声>によって共振することはできないものの、<他者>も消滅しません。
 <身体>が無くなり、「声」への応答がなくなったことによって、<他者>は直接的に「糧」を得ようと
《私》や<私>に接近し、それによって、<他者>が共振を受け取ることができます。
一方、死によって発生するのは、「もはや『糧』を得ることのできない私」であり、「受益を放棄した私」です。
死んだ後に残るのは「<他者>によって引き受けることのない生」としての《私》と「超越確実言明」の束としての<私>。

 *「死ねば楽になる」は正しいのか?*
「死ねば楽になる」は、「死ぬ」−>「辛さから逃れる」と変換できる。そこでの「辛さ」とは、束縛から逃れられないときに
<私>が発生する信号である。それは「私」が「逃れる物語」を遂行中であり、かつ、そこにおいて「自由が失われている」
ことを指している。「辛さ」とは、<私>において発生し、<私>に含まれる概念であるということです。
したがって、まず「どの物語が『辛さ』を発生させているのか」を考えるのが、論理的な思考であるはずです。
それがわかれば、それを放棄すればよいだけですが『生きること自体が辛い』という場合は、自ら死を選ぶことになっていまいます。
[<身体>の消滅]−>[辛さから逃れる]は正しくありません。なぜなら、[辛さ]とは<身体>に属する概念ではないからだ。
但し、[<身体>の消滅]→[痛みから逃れる] は、可能です。 痛みは身体が発している信号なので、<身体>が消滅する
ことによって発生しなくなります。[<私>の消滅]−>[辛さから逃れる]という図式を考えなくてはなりません。
これが[死ねば楽になる]という表現の意味です。 末期ガンの患者が望むそれ?
 <私>の思考は、すべて「超越確実言明」という基盤を支えとして、その上に構築されています。
そして「超越確実言明の束」とは<私>そのものです。それに、論理は自己言及できないということを考え合わせると、
 <私>という基盤の上に構築された論理が、<私>を否定するという構造は、矛盾していることになる。そして、
その結果として「<私>の否定」を意味する「死ねば楽になる」という考えは誤りであり、成立しないことがわかります。
 −−
 以上だが、死ねば楽になるのは、身体の苦痛とそれに伴う絶望だけ。 精神の歪みが「死ねば楽になる」と妄想させる。 
それでも、死にたくなるのは解るけど! だから、死後に天国のイメージを作りあげたのだろうが・・  
その一つが音楽、そして絵画であろう。毎晩、クラシックを聞きながら「ア〜よい一日だった!」と思いながら寝入っているが・・
それでも夜半にマイナスの気持ちが襲ってくる。 それが人間じゃない?
死ぬしかない時、「死ねば楽になる」と思えたら実際のところよいが、理屈は違うのです・・ まあまあ!
                Good.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.bye
・・・・・・・・・
2005年10月21日(金)
1662, 「人生の実りの言葉」−2
 ー運命
 この章『運命』冒頭のモンテーニュの「エッセー」の一節がよい。
ー運命はわれわれに幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。
それを、それよりも強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いる。
われわれの心がそれを幸福にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである。ー
自分の人生で、いつも何時もこの心の葛藤があった。そして、いつも何事も修行と思えば気分まで卑屈になることはなかった?
何事も、その対処をするに如何考えるかである。 高見順がガンによる死の前にこういう詩を作った
    電車の窓の外は   光にみち
    喜びにみち     いきいきといきづいている
    この世ともうお別れかと思うと
    見なれた景色が    急に新鮮に見えてきた
    この世が        人間も自然も
    幸福にみちみちている  だのに私は死ななければならぬ
    だのにこの世は実にしあわせそうだ
    それが私の心を悲しませないで  かえって私の悲しみを慰めてくれる
    私の胸に感動があふれ    胸がつまって涙が出そうになる      高見順『詩集 死の淵より』
    ーーー
    死に切迫した人間の、ぎりぎりの葛藤から生まれる孤独の詩である。誰もが身近な人の死に直面した経験があるはず。
    (以下は字数の関係でカット(2007年10月21日)
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2004年10月21日(木)
1297, 原価は一人170万円
毎日新聞の『外国人事件の実情』という、シリーズものの記事によると、「フィリッピンパブや、外人パブや、
性産業に売られる女性の値段は一人当たりの原価が170万円前後。女は原価の3倍の500万を返すまでは逃げられない」という。 
その筋の男の話によると、「タイの女性なら、シンガポールやブルネイに寄らせて、その国の偽造パスポートで日本に入国させる。
両国は、日本入国にビザが必要ないからだ。 現地からブローカーが付き添い、例えば上野のホテルで170万円と引き換えで引き渡す。
タイ、フィリッピン、台湾、コロンビア・・・。
 以下は字数の関係でカット(2007年10月21日)・・
・・・・・・・・
2003年10月21日(火)
 930, 自己責任の時代
 今日、ある見積もりの結果を見たら、77万円と240万の二つの結果であった。工事関係は素人が餌食でしかないのだろうか。
当事者が解ってやっているのか、どうかも問題であるが。今のホテルを創めるとき、客室掃除の下請けの見積もりをとった。
五社の見積りは最低が月67万で最高が280万。 凄い世界を垣間見た思いをした。建設業界は業界そのものが、こういう恐ろしい世界。
 いま道路公団総裁が首を切られそうなり、自民党の癒着の暴露を脅しにして、情けない醜態を見せている。
今までの官僚社会主義世界の暴露と、自民党の利権汚職構造を露呈してをしてくれるから!、面白いといえば面白い。
奇麗事で人間信頼の経営などというと、こういう手あいが工事で入り込む。社員もだが。
ホテルの創業時には二代目の??ビル管理の専務が、二倍の見積もりを持ってきた。小ばかにしたような面をしていた。
  : 以下は字数の関係でカット(2009年10月21日) :
・・・・・・・
556、一秒一円の価値
- 2002年10月21日(月)
[時は金なり]というが、人生という意味でわかり易く考えてみよう。一秒一円で一生を80年とすると何と25億円になる。 
時給1000円のアルバイトとすると一生で換算すると7億円だ。時間をお金に置き換えるのはおかしいが、わかり易く
考えるに丁度よい。高利貸しや銀行はその事を一番知っており、借りる方はその事を一番解ってない。
海外旅行は大体の目安が一日3〜4万、実質滞在日が4〜5万円である。一年を一秒に圧縮すると、一年前が
3153万年前になる。数年前に恐竜がいたことになる。150年前が地球誕生、400年前がビッグバンになる。
人生を考える時に一日に圧縮して考える事がある。昼の12時ですでに40歳で、60歳で夕刻の6時である。
そうすると私は17時半あたりになる。このテーマとは関係ない事だ。製品もグラムあたりで値段を読む事がある。鉄が安い象徴で、
パソコンの半導体が高単価である。人生で感動の場面は金かプラチナの価値、平凡な日々を銅か鉛と例えると、
可能な限りそういう場面を求めていった方がよい事になる。芸術や大自然に可能な限り触れ感動のシャワーを浴びる事だ。
・・・・・・・・・・・・・
「193」 まだ生きている! ー漂流
 2001/10/21 
もう古い?話になったが、数ヶ月前に「33日の漂流の後、奇跡的に助かった漁船の船長」がTVに出ていた。
「スイカが流れてこないかなーとか、おや今日も生きているとか、なかなか死なないもんだとか、ぼーと考えていた」
このような一つづつが奇跡の原因らしい。スイカが流れてこないかなーはプラス発想、なかなか死なないもんだは生に執着しない、
今日も生きているのかというは、事故(自己)の客観化、一人者で、一人船長で待っている家族もないのも諦念にあったのだろう。
10年位前ののヨットレースの佐野某の漂流記を読んだことを思い出した。 鴎をを捕まえて食べていたらしいが、
一種の死の瞬間の倒錯?がすごい。「乗っているボートごと垂直に数百メートル昇っていった」という。
「それは夢でもない事実としかいえない出来事だった」という。かれは手記で今でも絶対に事実と信じていると強調していた。
 ユングがそれに似た経験をしている。瞑想をしていてそのまま天に上るくだりである。インドの上空をどんどん昇っていく、
インドの国の地形,青い海,そして地球が見えたという。それがそのずっと後,宇宙飛行士が見た光景と同じであった。
中世では人肉を食べた内容が克明に残っていたりした。子供の時読んだジョン・万次郎を思い出した。


3495, お金の教養

2010年10月20日(水)

  ーお金の教養ーみんなが知らない「お金の仕組み」泉正人著
 図書館で借りてきた本だが、具体的な内容が面白い。 学校では「学問教育」と「職業教育」は教えるが、
その取り扱い方は教えてくれない。日本は「お金は不浄なもの」という思い込みがあり、社会でも家庭でも、
お金について教えてくれることはあまりない。武士は食わねど高楊枝、という風潮があるのが日本である。
学校では「成績表」「通知表」を受け取っているが社会に出た後に「お金の成績表」を受け取ることはない。
実は、預金通帳こそ学校の「通知表」という。 お金に対する能力とは、「貯め方」「(小さなお金の)使い方」
「(大きなお金の)使い方」「稼ぎ方」「増やし方」「維持管理」と、「与えること」。
・「貯め方」は、著者は収入の2割を貯金にするというが、これは以前から言われていること。
・「使い方」は、*要は節約と、*買う前に払う価値があるもの・サービスかを考えよ。
・あとざっくりな記録で現状を把握せよ、
 1、お金の管理する仕組みを作る  2、6:2:2の法則  3、領収書の分類
 2の6:2:2の法則は、まず2割の預金、2割の自己投資、そして最後に残りを使う法則をたてよ、である。
 領収書の分類ボックスに入れた後に、それぞれをスクラップするのも良い。若いうちに知って実行していたら良かっただろう。
 ▲ ところで、逆もある。私が両親をみていて考えたことは、
「残したところで、それは通帳の数字の桁が増えだけのこと。使える時に使わないと、それは通帳の数字でしかない。
そこで、40歳から60歳まで、年間に???万は使い切ることを決めた。 そうすると使えるのである。
贅沢をできる金額でもないが、一点豪華主義で秘境ツアーに絞り憑かれたように家内と行ったが、
こういう時代になり、かつ歳を重ねると、つくづく正解だったと思う。気力、体力、金力、時代背景、環境などが揃ってないと、
そうそう続けることは出来ない。歳をとると、行動範囲が狭まれる。
 最近は、こういう類の本が書店に多く並んでいる。しかし、のっけから2割の天引き預金を実行となると、なかなか難しい!
やるか、やらないかの決断だが。 あとは、その人の人生観もある。
 ・・・・・・・・・
3120, 再び、読書について  2009年10月20日(火)
  * 書斎は未来の図書館
  森本哲郎が読書についてに、次のように書いている。
≪ 私は読書は何よりもまず本をさがすこと、探して買ってくること、買ってきて本棚に飾ることと確信している。
 実際に本を読むのは、いつかでいいのだ。書斎とは、この意味で「未来の図書館」というべきだろう。 ≫
 ー 全く、その通りである。この言葉を知っていたら、より豊かな時間を書斎で過ごしたはずである。 
 本屋で気に入った本に出あっても、いま読みかけの本で手一杯ということで見逃した本が、あまりに多い。
 書斎を、そのように位置づけていたら、自分の書棚には、その蓄積があったはずである。
 決して、読まないでも、その本に囲まれて休日を過ごしているだけで、充分に幸せのはずである。
  開高健が「古本屋歩きは釣りに似ているところがある。ヤマメを釣ろうか、フナを釣ろうかと目的をたてることなく
 歩いていても、たいてい、一歩店に入っただけで、何となくピンと来るものがある」というが、そうして買った本を
 書斎の一角に納めておいて時どき手に取るのもよいだろう。 あまり本を読まない人にとって、読書をするのが
 勉強をすることと勝手に思い込んでいるようだ。しかし本来は楽しみとして、集めた本棚の本を、独りで早朝や深夜に
 読むことである。 そのとき、そこは、自分ひとりの安住の場、かつ別世界に浸る時間になるのである。
  ショウペンハウェルは、彼の読書論で、「いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、
 量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。何か一つのことを知り、一つの真理を
 ものにするといっても、それを他のさまざまな知識や真理と結合し比較する必要があり、この手続きを経て初めて、
 自分自身の知識が完全な意味で獲得され、その知識を自由に駆使することができるからである。」と語っているが、 
 それも独り、書斎の中で考えてこそ可能になる。
  選定、書棚に納める、そして独り読み、考える、そしてメモ、等々、その一連で読書は成り立っている。
 旅、読書、芸術鑑賞、談笑、散歩、そして家族との団欒は、人間の行為としてベストの習慣。
  その中でも、読書は必要欠くべからざることである。
・・・・・・・・・
2755, 閑話小題
 2008年10月20日(月)
 *一昨日は高校の同級会
高校の同級会が一昨日あったが、25年間ほぼ毎年開かれている。大体、20人位があつまるが、この10年近くで4人が亡くなった。
他のクラスの人が参加をしたりの入れ替わりはあるが、7割は固定メンバーで、和気藹々と時間を忘れる一ときになる。
最近の話題は年金と、病気と、不景気と、孫と定年の話が中心になる。「今回は年末は金融恐慌のため深刻になるだろうから、
早く開いた」と冗談ともいえない幹事の挨拶があった。ギリギリまで出席しようか止めておこうか迷ったが、この年齢になれば
一年後に無事でいられるかどうか、目先のことは積極的に参加することと出席した。 まあ、面白かった!
 *今年の旅行は?
さてと、今年の旅行と思った途端に、この金融恐慌である。何があっても一度は海外に行くと決めているが、
歴史的な重大な状況に気合が入らない。最後にとっておいたアメリカ西海岸の国立公園巡りか、英国辺りかの最終判断の段階。
この20年近く憑かれたように旅行に行ってきたが、今後10年の大不況を考えると良かった。
数年後からはロングステーも考えていたが、どうなることか!
 *我が家の庭
最近、早朝のウォーキングの帰宅後に我が家の庭で時間を過ごす習慣がついたが、そこで庭が生きていることに気づいた。 
両親が魂を入れた庭が、二人とも亡くなっても、そのまま生きているのである。それも時間とともに変化している。
父が石と木、母が花を入れたが、それが四季と共に変化をし、段々と深みを増しているのである。
それに気づきだしたのは両親が庭をつくった年頃に、私が到達したということか。
母が亡くなった時に、この家を処分をして新潟市に移動しようかと考えたが、決断できなかった。
このまま家にいて本当に良かったと思えるようになった。 春夏秋と、両親が植えた草木の花が、何処かで咲いている。
家には、それぞれ家霊がいるというが、庭をみていると合点がいく。
・・・・・・・・
2007年10月20日(土)
 2391, 哲学と心の病
                   (っ´Ι`)っ { おはよう
 図書館から度々、月刊誌「新潮45」を借りてくる。月刊誌としては人気があって最近の本は殆どが貸し出されているが、
時にタイミング良く借りることが出来ることもある。お目当ては中島義道「哲学者というならず者がいる」のコーナーと、
ご存知、中村うさぎ「セックスという教養」。 これに、あと一つ中味が濃い特集などの中に面白い記事が必ずある。
たまに読むには良いが、毎月というと毒が強すぎる。今回の中島義道のテーマ「哲学と心の病」が、これまた面白い!
いま問題になっている「ひきこもり」の問題の根本を鋭く解いている。
  ー面白そうな部分をコピーをしてみる
 ーー
「哲学と心の病」というテーマで講演会の講師をしたおりのこと。
・・・初老の紳士が手を挙げた。引きこもっている息子に対する相談である。
「どうしたら生きがいを見つけてやれるのでしょうか?」という質問であった。私は「生きがいなんて、みな嘘っぱちです。
人生は凄まじい修羅場ですし、そのあげく、どうせ死んでしまうんですから」と思わず叫んでいたが、こういう父親にこそ、
言いたいことが山のようにある。 彼は知的で温厚そうな紳士であり、自分のごまかしを、汚さを、ずるさを微塵も恥じている
風には見えなかった。 そこが問題なのである。 その言いようもない鈍感さに、息子は全身で抗議しているのである。
・社会のルールに従って、仕事において評価され、結婚して家庭を守ることが そんなに立派なことなのか?  
それがあんたの「生きがい」なのか?それに何の恥も覚えないのか!
・想像力をたくましくして、自分は極悪人かもしれない、と思うことが入生において一隣でもなかったのか! 
それほどあんたはおめでたいのか!そのえらい顔を引っさげてこの俺を「導きたい」のか!息子が思っているのはこのこと。
私は誤解しては困るが、こういう青年達が掛け値なしに「正しい」と、思っているわけではない。
哲学に身体の芯までボロボロに侵食された者が、単純きわまる人生観をもっているはずがない。
私は、そういう両親を攻撃している息子もまたずるいと思う。そんな、反吐が出るほど軽蔑する奴の庇護の下に
ひきこもっているのだから、同じ穴の狢である。そう叫んで家を出、放浪の旅に出てこそ、彼の言葉は輝いてくる。 
だが、ひきこもりの青年はそうしない。勇気がないのか? それだけではない。 ひきこもりとは両親に対する復讐に
ほかならないからだ。両親がおろおろすればするほどおもしろい。 途方にくれるほど、喜びがくみ上げてくる。
彼は、じわじわと相手のの心身を滅ぼしていく復讐の喜びをもって、人間として最も卑怯な輩に転落したのだ。・・・
 ーー
 中島自身のことを書いているから、この辺の洞察は鋭い!彼の文を読んでいると、決して家庭円満ではない。
息子の、そして自分の、その辺の狡さをチャンと見ているから、これだけ抉るように書けるのである。
引きこもりの息子など叩き出せばよいだけなのである。ただ、それが出来ない弱点を息子が見抜いているだけでしかない。
マイナスの循環の時は、そう理屈のようにならないものだが。浪人生活をすると逆に独りで部屋に引き込まなければならない。
自分が招いた日陰の身である。引きこもりは社会に適応できないのが理由。そこで如何に意欲を持ちえるかどうかだが・・・
敵が身近な人の場合は、それを打ち破るのは膨大なエネルギーを要する。いずれにしても生きるのは大変なことです。はい! 
それを肌で体験させる戸塚スクールの肯定派です。それが無理なら、せめて見学でもさせろ!親子して!                  
                     (。´・ェ・`。)Bye            ーつづく
・・・・・・・・・
2006年10月20日(金)
2026, 戦後生まれが 80パー弱に        (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜
「戦後生まれが80?」と新聞にあった。
私より年上は全体からみて二割弱しか存在してないことになる。 世界からみれば一割もいないということだ。
私が終戦の半年後に生まれたので、戦後生まれの境目の年代になる。
10年の区切りごとに「戦後生まれが何?」と発表されるので、それがそのまま、自分より歳下の比率になる。
ある統計値を調べてみたら
 ー私より歳下が
 ・10歳時点で  25パーセント      ・20歳で    40パーセント
 ・30歳で    50           ・48歳で    66パーセント(三分の二)
 ・60歳の現在は 78           ・75歳で    
 ・90パーセントが歳下になる。
それにしては地方のせいか、老年が多く目立つ。 齢を重ねるとともに、当然のことながら年上の人が少なくなり、
そして自分も消滅していく順番になる、それが人生というもの。現在の平均年齢は38歳という。
新幹線で通勤していても、背広を着ている同年輩は少なくなった。いつの間にか、歳を重ねてしまっている。
歳を重ねるにしたがい、世の中が澄んで見える反面、新鮮な感覚が少なくなっているのに気づく。
人生二度無いと何時も口癖にして、その時々にやれることを 最大限実行してきたつもりだが、
まだまだやり残していることが無限にある。 誰もだろうが・・・        \(^▽^*)バイ!
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2005年10月20日(木)
1661, 腰痛ー3
過去に何回か腰痛について書いたことを思い出し、HP内の検索で調べたら一昨年と三年前に書いてあった。
家内からは、去年の10月に腰痛になっていたといわれたので、毎年一度は腰痛になっていることになる。
例年、5月の連休前後か11月になる。今年は、イタリア旅行でなってしまった。軽い時で、二週間。
重い時は一ヶ月近くかかる。今回の腰痛は全治三週間である。痛みのピークは一昨日で、昨日の夕方から反転して
時間ごとに良くなり始めた。しかし、油断をすると直ぐに元に戻る。腰痛はきつい、そして気力が失われる。
季節要因と内臓の問題もある。特に寒さに弱い。そういえば5〜6年前に、思いで深い腰痛があった。
横になっても立っても何をしても痛いのだ。脂汗が滲み出て、うなっているしかない。一回も医者にいったことが
無いのが、腰痛に対する私の態度である。しかし、その時だけは一人で救急車を呼ぼうとした。
ホッカイロを腰に当てて、時間を稼げば半月もすれば直る経験則がある。だから、ただ耐えるしかない。
  2003/11/13  953, 腰痛ー2
腰痛のことは以前にも書いたが、一昨日の朝、例年どおり腰痛が出た。
いつも季節の変わり目に出るが、私の場合は寒さで体を冷やしてしまうのが一番の原因である。
いま一つは、パソコンを座って打っていると腰に負担がかかる。今のところ時間をかけて暖めるしか方法はない。
(以下、字数制限の関係でカット)
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2004年10月20日(水)
 1296, 新潟市官製談合
昨日の全国紙が数社、一面トップで「『新潟市官製談合』で強制調査」を取りあげていた。
今朝の新聞では「新潟市役所の幹部を逮捕!」と出ていた。やらないよりよいが、今さら何をやっているのかの感がする。
自民党の(土建たかり派閥の)衰退が背景にあるのだろう。このコーナーで、当初より何度か、政治家を含めた国家的犯罪を
指摘してきた。かなり、偏った見方ではないかと思われた人が多かっただろうが、こうして、スコミに出る様になった。
現在の日本は、自民党の土建族の議員を金目とした、ゼネコン・マフィアシステムが全国津々浦々まで張り巡らされいるのだ。
巧く見積もりを出したつもりでも、設備屋とか、鉄骨業者から全てが筒抜けになる。
彼等は薄ら笑いしながら、談合をしているのだ。 ちなみに仕切りは新潟県では、
・箱物は大成建設、
・土木は鹿島建設 というのは、その筋では公然の秘密?である。末端の市の幹部本人にとって、マフィア・システムに
沿って前の上司の談合汚職の手順を、ただ受け継いだだけだ。そこで今までの流れに反することをすれば、直に左遷される。
ー以下字数の関係でカットー2009年10月20日ー
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2003年10月20日(月)
929, 忘れられない「悲しい話」
 昨夜は知人の父親が亡くなり、その通夜であった。87歳の大往生であったが、親の死は傍目で見ているよりずっときつい。 
死は直視できない。死に関しての悲しい話を書いてみる。我家の分家は二軒ある。父が長男で、弟が二人いたためである。
長岡にその一軒がある。母の7回忌にオバが来てくれた。86歳で影が薄かったのが印象的であった。
その半年後にあっさり亡くなってしまった。母の法事で「こういう会に出れるのは最期では」というのが、もの悲しい。
 その時の酒席で、「人生で色いろ多くのことがあった!」と言っていた。その数年前に溺愛していた長男が自死をしていた。
そして、その数年前には近くに嫁いだ長女が癌で亡くなっていた。そのうえに、長男の葬式を取り仕切っていた長女の亭主も
数ヵ月後に自死してしまった。その時「自死する気持ちが良くわかる!」といっていたのが気になっていた。
また叔父は40年前に亡くなっていた。 そのことは触れず、ある子供の死のことを打ち明けていた。
「赤ちゃんを病気で死なせてしまった。今の技術では助かっていたのだが、当時は仕方がなかった。
病院から死んだ子供を家に一人で背負って帰る時、段々子供が冷たくなって死後硬直をしていくのが背中を通して感じた時は、
本当に悲しかった!」とシミジミ言っていた。 最後、私にその悲しみを言い残しておきたいのだろうと思った。
聞いているだけで、その時の悲しみが、そのまま直に伝わってくるようだった。 叔母は天理教の熱心な信者になることで、
その苦しみの数々を乗り切った。最期の最期は、宗教しか人間の苦しみを救うことが出来ないのだろう。
「神はあるかないかでなく、あらねばならない」という言葉が、こういう話を聞くと納得できる。
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555, 針と糸
        2002年10月20日(日)
先日、25年来の知人と酒を飲んだ。
大手の支店長をしていたが、請われて奥さんの実家の専務に3年前に納まった。地元の中堅の会社である。
義弟が社長で大変だろというと、糸と針の喩えで自分が糸に割り切ってしまえば問題がないといっていた。
面白く、ずばり本質をついた喩えにいやに納得をした。 社長業を針というのも上手い喩えだ。
時代に対して一点集中で鋭く縫いこむのが社長業だ。何か耳が痛いが、もっと痛い人が今は多いだろう。
この針と糸の喩えを社長専務の関係だけでなくいくらでも云える。このテーマ随想日記もそうだ。テーマが針、
それに対しての随想記が糸である。なかなか良い針が見つからない。糸なら経験がたっぷりあるから?いくらでも材料はある。
戦略と戦術の関係もそうだし、頭脳と心の関係も、夫婦の関係もいえるだろう。
夫婦では最近はどっちが針か糸かハッキリしないが。それを使い分けるのはあくまで主体の自己ある。
最近は布ー服の流行が激しく変わっていくので大変だ。デザインの選定と工賃も厳しくなっているし、本当!
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「192」 種銭ー2
         2001/10/20
物覚えのついた4〜5歳のころから、年末の31日にお年玉を姉兄揃って貰った。それが楽しみだった事を思い出す。 
一旦渡しておいて、次の日に全額取り上げられるのだ。そして貯金通帳に入れられてしまう。高校になるまでそれが続いた。
そして高校に入って暫くすると、なにか株を自分で考えて決めろと言う。そしてある株を買った。その日から株式のコナーを
目を凝らしてみるようになった。子供のころから、両親に玩具を一回も買って貰った憶えがない。友達の家に行くと、
箱に玩具が一杯入っているのを見て、信じられなかった事を今でもありありと憶えている。 
といってお年玉は自分で稼いだ金でないことも確かだ。株の上達の本を読んだとき、
「まずは種銭をつくれ、それも強い金でなくてはならない。それは自分が汗水を流した芯のある金でなくてはならない。
そういう金でなくては株で利益は絶対にあげることは不可能だ」これは事業でも当たり前だ。
しかしこの強い金を創るのが一番大変なのである。 父は子供たちに、我慢をしてまず種銭つくりを教えたかったのだ。
お金に対してシビアなのは、実際のこういう教育があったからだ。実際のところ、金に対してみるところあまりにも甘い。


3494, 金が高騰

2010年10月19日(火)

 ここにきて金が高騰している。リーマンショック時には1トロオンイシス900ドル代だった金価格が、
先日1380ドルをつけた。何と二年で40パーセントの値上がり、年率で2割づつ上がっている。
国内価格は、円高のため27パーセントだが(3千円ー>3千8百円)、それでも値上がり幅は大きい。
ゴールドマン・サックスは一年後には1650ドルまで値上がりを予測する。 二年後に3000ドルの予測もある。
8年前に金の上場投資信託(ETF)が出来て、そこを通して機関投資家や個人の投資資金が流入している。
その残高も5年前の5・6倍に膨らんでいる。 リーマンショックによる世界金融危機が一番の値上がり要素。
各国は危機乗り切りのため通貨をばら撒いたため、投資家などに通貨不信がおきて金投資に向かっている。
「実はユダヤ資本が上げるだけ上げておいて、一挙に売りを浴びせられる」という説は、先日ここで書いた。
この一年間に投資需要が二倍になっている事実からみて、やはりバブルである。 金の世界の在庫は16万トン。
それほど多くはない。10年前には300ドルだったから4倍以上になっている。 これは金が上がったというより、
通貨の価値が下がっているのである。 中国、インドが外貨準備のドルを金に換金していることも高騰要素である。
 世界中の政府は金融恐慌を乗りこえるため、過剰の通貨を発行し、銀行、企業に融資をした。それは仕方がないが、
今度は、その政府が国家危機に陥ってきたのである。 そのツケは何らかの形で直接国民に回ってくることになる。
金や、食料などの値上がりが始ってきたのである。金の値上がりの意味することは来年か、再来年にかけて
起こるだろう大動乱の先触れとすると、恐ろしい。 だんだんと恐慌が姿をあらわしてきた。

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3119、久々のジョーク ー6
2009年10月19日(月)
 少女が女になるにはどれくらいかかる?    ひとつき
 〜〜
 長年牧場の仕事をしてきた親方が、弟子を連れてしば刈りに行った。「親方。この木、じゃまだから切ってしまいましょう」
「待て!50年前、わしはこの木の下で、男として初めての体験をしたんじゃ。思い出の木じゃ。残しておいてくれ」
「へえ。そうなんですか。親方も隅におけないなぁ。じゃあ、あっちの木を切りましょうか」
「待て!その初めての体験のとき、あっちの木の下で彼女の母親がじっと立っておった。やはり思い出の木じゃ。
 残しておいてくれ」「親方……。もしかして初めての体験のとき、相手のお母さんにずっと見られてたんですか?」
「そうじゃ」「お母さん、黙ってなかったでしょう。何て言いました?」     「モー」
 〜〜
 とあるパーティの席でのこと。母親に連れてこられていた三歳の男の子トニーが、突然母親に向かって「おしっこしたい」と
 大声で叫んだ。息子の無作法に母親は思わず顔を赤らめ、彼にそっと言った。「これからはおしっこをしたくなったら
『歌を歌いたい』と言ってごらん。そうすれば私はお前がおしっこをしたいのだとすぐ分かるからね」
「『歌を歌いたい』だね?うん、わかった。これからはそう言うよ」
   そして、その日の夜――
 父親と母親の間に寝ていたトニーは、おしっこをしたくなって目を覚ました。そこで父親を起こして「歌を歌いたい」と言った。 
何も知らない父親はびっくりして言った。「夜中は歌を歌う時間じゃないよ。明日まで我慢しなさい」
しかしおしっこが漏れそうなトニーは、どうしても今じゃないとだめと言う。
そこで父親は仕方なくこう言った。「じゃあ、布団の中でいいから、お父さんの耳元で静かに歌ってごらん」
 〜〜
 友人に裏切られ、全財産を失い、荒れた暮らしで体を壊し、不治の病に冒され、ひとり寂しく死の床についている男がいた。
突然、目の前に妖精が現れて言った。 「どんな願い事でも構いませんので、あなたがかなえたい事を3つ言ってください」
男は即答した。「友情と財産と健康が欲しい!」そして、感激して男は続けた。「ありがとう!もう何と言ってよいのか..」
「いいえ、どういたしまして」妖精は答えて言った。「こちらこそ、アンケートに御協力いただき、ありがとうございました」
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2754, 世間とは、一人ひとりの人間の繋がり
 2008年10月19日(日)
「世間」については何度も「身近な数人の縛り付けられた小さな常識の網でしかないと!」と、否定的な意味で扱ってきた。  
 それでは「世間」とはいったい何か?を、岸田国士が「恐怖なき生活について」で、次のように書いている。
【「社会」という概念とは一致しないが、その道徳と習慣と、特に群集心理によって支配される意志表示とを重くみた考え方で、
 それはまた、自己保存のほかなんらの理想をもたず、非情ともいうべき形式的な掟の上にたち、 すぺての異分子的存在を
 排撃する本能のきわめて目立つ、地域的、時代的に限られた一社会を指すものと思われる。】
 と・・・、 簡潔で分かりやすい。≪世間=非自由≫と割り切って、沈み込まないように意識をしてきた。
 しかし、次の 佐野洋子の「私の猫たち許してほしい」の文章に出会い衝撃を受けた。
【 ある時、通りの下から二人の女の声が聞こえた。一人は相手をたしなめているようだった。
 もう一人はその人よりも若いらしく、とぎれがちにいいわけをしているようだった。
 ずいぶん長い間、ひそひそと立ち話をしているけれど、ことばは聞こえなかった。
 あるいは二十歳の私には、水商売の女の人たちの話に興味がなかったのかもしれない。
「あなたそんなことをしていると、世間が狭くなるよ」ということばだけがはっきり聞こえた。
 そしてあとは静かになってしまった。 私は、「世間が狭くなる」ということばを初めて聞いた。
「世間」ということばが、私の知っている「世間」ではない様子をして、ありありと私に見えてきた。
 私には、「世間」というものは、目に見えないものであった。漠然と私をとりまいているものであり、
 少し古めかしい、少し私を束縛するものであり、とりはらいたいものであった。その時はじめて、私は‘世間というものが、
 一人ひとりの生きている人間のつながりである’ということを理解した。】 が具体的で分かりやすい。
  これからすると、世間を否定することは人間を否定することになる。
 (字数の関係でカット2010年10月19日)
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2007年10月19日(金)
2390, インターネット社会の凄み
                 オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
連日のようにインターネットを介在したサイト犯罪が話題になっている。
自殺サイトの自殺依頼による殺人、見知らずの男がサイトを介在して集まっての殺人事件、円天というネズミ講の
応用の詐欺もサイトを巧妙に利用したものである。「フラッシュ・モブ」という新しい現象も起きている。
インターネットを通じて広く呼びかけられた群集が公共の場に終結し、あらかじめ申し合わせた行動を取る即興の集会。 
  (字数の関係でカット2009年10月19日)
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2006年10月19日(木)
 2025, 「私」のための現代思想  −13       オッ(*^○^*)ハ〜
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって《私》となり、最初の「超越確実言明」
を行うということです。簡単に言えばー「私}を認める者の存在ーを通して《私》になる。
その一番最初は、普通は母である。 初めの他者が母である。両親によってタップリ愛情を注がれた子は、
初めの出会いで、その存在基盤が強固になるのである。その基盤の上に「超越確実言明」が成立し、《私》は
強固になっていくのです。両親の愛、特に母親の愛は《私》の基盤を決定する。「ごうの虎」の年に生まれた人は気が強い!
という言葉を聞かされて育った女性が、それが「超越確実言明」になってしまえば、気が強くなってしまうのも当然である。
代々婿取の家系での長女で、A型で、ごうの虎年生まれで、男子高校を卒業で、中途半端な短大卒で、両親にタップリ愛情を
注がれて育った、ときた分には、亭主としてたまったものでない。誰の話??何の話??強固の《私》の基盤の人の実例の話。
 −−−
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味−?
  *「共振」のエネルギー −
私たちにとって<他者>とは、私たちが<出会い>を経験したすべての人たちです。 私たちが出会い、その存在を知りえた相手は、
それがたとえ直接には顔を見たことのない人であっても、既に亡くなっている人であれ、「私」にとっての<他者>であり、
この「私」の存在を引き受ける者となりえます。出会いのあるところ、多かれ少なかれ、必ず共振が発生します。
そして、それによって《私》にエネルギーが与えられます。このエネルギーは、消費されない時は、「私」の内部に滞留し、
消費された時には、「外部への振動」となってあらわれます。人は、生きている限り、共振しつづける存在です。
 *「私」が《私》となる瞬間 −
初めて母親の声を聞いたとき、「私」が個体としてこの世界に生まれてきて初めて「私」=《私》は
「私は私が母の声を聞いたことを知っている」という「超越確実言明」を行います。
これは、言明の正しさの基礎となる「超越確実言明」のうちで最初に発生するのが、
「私が存在する」ではなく、「ある他者が存在する」であることを意味しています。
そしてこのとき同時に、《私》の存在の基盤が与えられます。それは、「私」が《私》になる瞬間です。
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」です。
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって《私》となり、
最初の「超越確実言明」を行うということです。「超越確実言明」の強度は、論理的な正しさによるものではなく、
「《私》の存在」の強度に支えられています。そして「《私》の存在」の強度は「<他者>による引き受け」によって
その力を増していきます。頑健な「超越確実言明」の上には、堅牢な「論理」を構築することができます。
そのようなとき、その論理によって構築される<言葉><価値><物語><世界>は、頑強な「個別の正しさ」を
持つことになります。
 * 弱い「超越確実性言明」−
逆に、<他者>によって「厚く引き受けられない」とき、「《私》の存在」は強度を弱め、
「超越確実言明」も弱いものとなっていきます。そうすると「超越確実言明」を基盤として、
その上に<価値>や物語>をつくり上げることが難しくなってしまいます。
前に書いた、「仮面」を思い出してみてください。仮面と、その下の顔の関係です。
「仮面」が役割であり、「その下の顔」が「私は〜である」という形式の「超越確実言明」です。
芝居を上手く演じるには、ある程度その「舞台」、つまりは<世界>に
没入しないと上手くいきません。「没入できる」ということは「戻ることができる」ということが前提です。
それは、「私が〜である」という「超越確実言明」にしっかり支えられている状態であれば、
役割から降りることもできるし、役割に没入しても、「仮面の下の私」を無くしたりしません。            
 ーーー
仮面を見極め、仮面を演じる、これを趣味にするのも 面白いだろうが、傍から見れば下手な三文役者の姿がみえみえである。
「超越確実言明」がしっかりして、役を演じているのが、あの代議士たち。ちゃうちゃう、絶対違います!と、
天の声が聞こえてくるが!最近は「超越確実言明」の出来てないのが、多くなっている。元々いたが、目立たなかっただけか?        
                      (。・ω・)ノ☆゚+.バイ!
・・・・・・・・
2005年10月19日(水)
1660, 「人生の実りの言葉」−1
               読書日記
「中野孝次」著の「人生の実りの言葉」がよい。その冒頭の「愛」についての言葉が胸に突き刺さる。
愛について、これだけ解りやすくストレートに語っている言葉も珍しい。 
 ーまずは、その一説を書いてみる。
1、愛について
 わたしの誕生を司った天使が言った 喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
 行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも ( ウィリアム・ブレイク )
 わたしがこの詩句を知ったのは、ドイツの作家H・E・ノサックの小説『盗まれたメロディー』を訳しているときだった。
小説の中ではこれは流行歌の歌詞としてさりげなく出されていたのだが、わたしはただちにこの言葉の魅力にとらえられた。
こんなに直戟に愛というものの性質を示した言葉があるだろうか、とおもった。
この詩句の要である”Go Love”という二つの単語を一つにしたところに、この詩のすごさがあるのである。
一方的な、自発的な、無限の無償の行為としての愛の性質が、そのことによってくっきりと描き出された。
ノサックはこの詩句の背後にはこんな思いが潜んでいるのではないかとして、
『絶望のむこう側にだけ、ひょっとすると、他人を助ける可能性があるかもしれぬ。』
という章句を書いているが、たしかにそういう冷えきった荒涼たる背景の中から
このほとばしるような命令「行きて愛せ」が発せられたような気がする。ブレイクは愛の詩人と言っていい。
 ひとの悩みを見て  自分も悲しまずに おれようか?
 ひとの嘆きを見ながら いたわり 慰めずに すまされるか? 「ひとの悲しみを」寿岳文章訳
そういうブレイクの生涯の思いを圧縮した言葉が、ここに引用した”Go Love”だとわたしはおもう。
こういう言葉は一度心につきささると忘れられないものになる。
そして折々に心のうちに浮かびあがって、われわれの人生をみちびく。それが真なる言葉の力だ。
 ーーーー
以上だが、この「行きて愛せ」という言葉は実に力強い。
ひさびさに素晴らしい言葉に出会った。 いま一度復唱してみようわたしの誕生を司った天使がいった
喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも
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2004年10月19日(火)
 1295, 地球交響曲 第四番 ー1
先日、BS/TVで、第四番を放映していた。地球交響曲第一〜第三番は、知人の紹介で(自主公演を)新潟、
長岡などの公共施設の会場で見ていた。TVでの放映は殆どされてないようだ。 このシリーズで言わんとしていることを
要約すると、ー地球は、それ自体が大きな生命体であり、全ての生命、空気、水、土などが有機的につながって生きている。
これをGAIAというが、テーマを背景に、この地球の素晴らしさを紹介していると同時に、環境破壊の実情を提示している。
第四番では、霊性について、以下の4人を通して、地球の賛歌を歌っている。
・ガイア理論の提唱者のジェームズ・ラブロック、   ・沖縄の版画家の名嘉 睦稔
・タンザニアでチンパンジーの研究家の ジェーン・グドール
・そして、ハワイのさーふぁー ジェリー・ロペス である。
第四番(いや、このシリーズで)の内容を要約すると、
ー21世紀は、人類にとって“霊性”(スピリチュアリティ)が求められる時代になる。
         (字数の関係でカット2008年10月19日)
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2003年10月19日(日)
 928, 介護関係の現状
 介護関係の施設や法律を調べ始めて二ヶ月経つ。一日一日が新鮮な情報が、どんどん入ってくる。
その情報の一つ一つがパズルゲームを解くようだ。開発担当のSさんの母親が現在進行中の介護の状態である。
私も亡くなった母親が軽い老人性痴呆症になり、5年間半の介護経験を持っている。
この分野には事業チャンスがあるが、立ち上げに時間がかかる上に法律関係が各省ごとに絡んでいて躊躇する。
ホテル業に重なるところが多いので、類推が可能なことが利点である。 箱物ー建物と設備とソフトが一体になっている。
そこを一つずつ解きほぐしていけば、意外と簡単なのだろう。 まだまだ全体把握に時間がかかる。
・老齢者専門のアパート・一DKマンション・マンション
・上記の一階に介護業者と食事サービス業者をテナントで入れるもの
・本格的に介護業者を建物の中心に入れて介護を重点にするもの
・3ヶ月までは臨時に介護をするーショートステーのサービスをするもの
・昼だけをみるーデーサービス
・重度の痴呆の老人を収容する特別老人ホームなどなどである。この二ヶ月間、そのタイプの殆どの施設を見てまわってみた。
難しく考えないで簡単に考えないと、頭が混乱してしまう。ホテルの視点の切口で、参入できるかの見極めがポイントになる。
 (字数の関係でカット2010年10月19日)
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554, 人生に目的はあるだろか?−2
 - 2002年10月19日(土)
ある雑誌に、たまたま数日前に書いた「人生の目的」について書いてあった。まさに偶然の一致であった。
京セラの会長の稲盛和夫氏の[[何のために生きるか」の一文である。
ーー人生の目的とは、心を高めることです。心を純化する。 心を浄化する。人間性を高める。人格を高める。
これが人生の目的です。波乱万丈の現象に遭遇しながら、その現象に対処しながら、自分の魂を磨いていくこと。
それが人生の目的です。これを具体的に言い換えると、世のため人のため尽くすことです。
世のため人のため尽くすことが人生の目的と考えてきたが、心を高めることが、人生の目的であった。
そのために仏教の六波羅蜜の修行をしなくてはならない。 一生懸命に働くことが、利他の心を持つことが、
そのまま人生の目的になる。仏教的な人生の目的というところか。
果たしてそうだろうか?奇麗事でしか思えないが。別に心など磨かなくても、知らずに磨かれているいるものだ。
心の純化などいうことは、汚れているから言いたくなるのではないか。
汚れのない若い乙女に人生の目的など必要ないことになる。もっとも磨かなければ汚れた小母ちゃんになってしまうか。
今日死ぬ明日死ぬのギリギリの人がこれを読んだら、そうだそうだといわない筈だ。
戦争で逃げ回っている人もそうだ。「なにを甘ったるい事を言っていやがる」と思うであろう。
苦しい時に心の修行と思えるのは素晴らしいが。 けっして心の純化だけが目的でないはずだ。
 ・・・・・・・
 [191] 種銭   2001/10/19
事業を興そうとした時、まず問題になるのが事業資金である。俗に言う種銭である!これが硬くないと芯にならない。
資金の芯が甘くなると、事業そのものが甘くなる。二代目とか婿養子が事業で失敗するのが、解ってないケースが多い。
松下幸之助しても、中内功も出発点でそれなりに財産があった。全くなかったのは私がしっている範囲では、
山種証券を興した山崎種三と、国際興業を興した小佐野賢治と、ニュー大谷の大谷某ぐらいだ。
そのくらい種銭をつくるのが大変で時間がかかる。20歳の頃読んだ山崎種三の自伝がおもしろかった。
「米屋小僧をしていた時、鼠を捕まえて警察に持っていくと僅かな報奨金がもらえた。米屋なのでいくらでも鼠がいる、
毎日鼠とりで捕まえ警察に持って行った。親方の許可を得て、その金でヒヨコを買った。落ちている米をヒヨコにやり育て、
鶏から卵をとって、それを金に変えこつこつ貯めた。それを元手で成長しそうな株を買った。
そうしてそれを拡大して株師になり株の取引会社までつくった」
それをよんだ時、ハッとした。父親が恐らくその話を知っていたのではと思ったからだ。


3493, 人生、よもやま話 ‐2

2010年10月18日(月)

 幼児の頃は、聞くもの見るもの全てが新鮮で遊びの対象になる。 まだ憶えているのが、初めて海を見たときだった。
長岡から当時の列車で一時間足らずの柏崎で見た青い海と、潮風の臭いと、漁船と、近くの箱に入った魚に驚いた。 
同じ歳の親戚の男の子が海岸近くにいて、近くの寺に夏ごと泊り込みで遊びに行っていた。
 実家では店のビル全部が遊び場であった。 また幼稚園に入ってから直ぐに何人かの友人が出来た。その一人が焼鳥屋の息子。
家に行くと焼き鳥の仕込みをしていた親父さんが、イオリで焼いて食べさせてくれた白モツの味は今でも忘れられない。
その店(鳥梅)は、現在もある。 そのうちに、郊外にプールが出来て夏になると通っていた。 歳の離れた兄が5メートルの
飛び込み台の上から足を持って逆さまに吊り下げられた恐怖心は生々しい。 その頃の楽しみの一つが祭りの屋台である。
その幾つかに家族で行ったり、一人でも行っていた。 特に「チケンサマの祭り」が多くの屋台や、植木の店がたつ。
そこで一軒ずつを一日かけて見るのである。 その中で、金魚と鯉の出店が気に入りだった。父は「贅沢は敵」の明治気質の人、
三輪車以外の玩具など殆ど買って貰えなかった。 そのため、祭りでも何かを買う楽しみではなかったが、普段には見れない
珍しいものを見る楽しみとしていた。 その癖が現在で残っている。 あまり物が欲しいと思わないのは、そのため。
新しいデジタル商品を除けば、見るだけで満足してしまうから安上がりである。骨董品を見るのは好きだが、それを欲しいと
思ったことはない。所詮は倉庫のゴミでしかないことを知っているからである。美術館で見れば充分である。
 そうこう考えると、なるほど「魂の故郷は幼児の頃の思い出」というのは肯ける。人生は記憶で彩どられている。

 ・・・・・・・
3118, 生きる幻想 死ぬ幻想  ー2
2009年10月18日(日)
「生きる幻想 死ぬ幻想 」岸田 秀 (著), 小滝 透 (著)  ー読書日記
  * 一神教批判をめぐって
 多神教の日本人と一神教徒の欧米・アラブ人とは肌の色だけでなく、根本的に考え方が違う。
一神教徒は多神教の多い黄色人種や黒人を元もと見くびっているのである。宗教そのものは、本来そういうもの。
だから、今さら、そういう異種の人と割り切り付き合うしかない。 外国旅行をしていると、辛らつな人種差別を
感じとることは度々である。 今さらのことだが。 アメリカは、中近東にサウジアラビア、東洋に日本という
赤色と黄色の属国があるとしか捉えていないのである。いざとなるとCIAが陰湿な謀略を属国日本に仕掛かける。
  〜以下の文章を読むと、その辺のことが、よく見えてくる〜
 Pー6  ユダヤ教・キリスト教・イスラームは、同じ「一神教の神」を奉じる兄弟宗派です。
一般に「旧約聖書」と呼ばれているのはユダヤ教の聖典で、これはキリスト教もイスラームも聖典として認めています。
キリスト教にとっては『旧約聖書』プラス『新約聖書』が聖典であり、イスラームは『旧約聖書』と『コーラン』が聖典です。
同し神様を奉じているのに、どういう角度で見るかによって、歴史的に分派しているわけです。ですから、この三つの宗教は
「セム系一神教」とか「アブラハムの宗教」と呼ばれている。このうちユダヤ教は、一応ユダヤ民族と呼ばれる人々の
「民族宗教」で、あまりほかに拡がっていかない、むしろ閉ざされていく傾向を持っていますが、キリスト教とイスラームは
「普遍宗教」として民族・文化を超えて拡がっていこうとする。 これが非常に問題を起こすのです。
一神教というのは基本的に自分たちの神だけが真実の神である、と主張しているわけですから、他の宗教には非寛容です。
実際、他の神々を否定し、殺していきます。そして極端に言えば、自分たちの神を信じない者は人間ではないと考える。
ところが一神教徒にとって最も大きな敵は、同じ一神教の他宗派なのです。多神教徒は、劣った連中、迷妄の徒だと思って
下に見ることができますが、同じ一神教の仲間だと、そうは行きません。これはちょうど左翼の中で一番敵視して闘ったのは、
むしろ国家権力やブルジョワ階級よりも、同じ活動をしている分派の方だったのと同じ心理です。
 解釈を違えた者同士は、まったくの異教徒よりもっと敵となるんです。
 P−50 僕の仮説では、人間はもともと黒人で豊かなアフリカに住んでいた。ところがそこに色の白いアルビノが
生まれて、それが差別されて、中東やヨーロッバに追いやられた。そういった差別された連中がまたエジプトでも差別されて
生み出したのが一神教であって、もともとユダヤ教は恨みがましい宗教だという説です。自分たちが差別され、
虐げられてきたから、他に対して攻撃的になり、他を差別する。ユダヤ教は、さきほども言ったように、エジプトで奴隷になって
いた入々が、モーゼという英雄に一つにまとめられて、パレスチナに逃亡してきて、現地の神々を追い払ってつくった宗教ですし、
キリスト教も、ユダヤ教徒のなかで差別されていた人たちがつくり、ローマ帝国の中で差別された人々に広まった宗教です、
だから万軍の主という神や、復讐の神といった、自分たちを差別する連中をやっつけてくれる神を作り上げたのです。 
キリスト教がヨーロッパに拡がったというのも、ヨーロッパの特に北部は、非常に自然が過酷で、そこに追いやられた白人たちは、
人類史的に見れば、ひどく悲惨な目に遭っています。だからこそ、ああいう磔になって死んだ人が教祖であるような宗教が、
ヨーロッパ人にとっていちばんフィットしたのではないかと思います。教祖は人々が同一視できるというか、自分を
そこへ投げ入れることができるような存在である必要がありますから。
 〜〜
 多神教と一神教が戦えば、間違いなく後者が勝つことは、歴史が証明している。
 多神教にとって、一神教もその一つだが、一神教は他の神を認めないのだから、心根が全く違う。
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2753, ジム・ロジャーズの金融危機インタビュー
 2008年10月18日(土)
ライダーの投資家で知られてる、ジム・ロジャーズが、この金融危機についてインタビューしていた。
この人の本は四冊読んでいるが、その行動力と眼識には目を見張るものがある。 ここで、
ー「今回のバブルはおそらく世界史上、最悪の借金バブルだった。今後10年は第2次世界大戦以来、
最悪の景気後退になると思う」 金融機関の公的救済についても否定的ですね。
「救済は間違いだ。わずか数千人の金融村の人たちを救うために、3億人のアメリカ人が害を被る。ーと、語っている。 
これから10年は、世界にとって際どい日々になる。 【金融危機インタビューより  朝日新聞(08年10月17日)】
 *ドル失落は始っている   
ーソロス氏と創設したファンドが10年で運用利回りが4千%を超えたことは有名です。
原油など商品市場の高騰を早くから指摘していた一方で、ドルの暴落をずいぶん前から予想していますね。
「私は米ドルも、投資銀行も売り続けている。バーナンキ(米連邦準備制度理事会議長)は4年間、宅市場には
問題がないと言い続けてきた.が大間違いだった。彼は経.も市場も通貨も何も分かっていないと思う。
知っているのはお金を刷り続けることだけだ」 ドルの基舳通貨体制は崩れるのでしょうか。
「米ドルは今、すでにその地位を失いつつあり、今後数年でドルの価値は大きく失われると思う。
10年前は世界の外貨準備の7割はドルだったと思うが、いまは63%だ。中東湾岸の米国の友好国でさえ、
ドルでなく別の通貨での決済を議論し始めている。こういうことは最初はゆっくり.起こる。
それが次第に速度を増し、最後にはドルからの逃避が起こる」ー米国の投資銀行心、政府系住宅金融
「ファニーメイ」や「フレディーマック」が大きな問題を抱えていると、数年前から指摘していましたね。
「市場は狂乱状態にあり、あまりに過熱していた。仕事を始めたはかりの29歳の若者が、高級車『マセラッティ』
を乗り回し、年に1500万ドル(約15億円)も稼ぎ、『僕は頭がいいから当然だ』といさにう顔をしていた。
正気の沙汰じゃない。狂ったような巨大なバプルが発生していた」「無職の人が、頭金なしで、
四つも五つも家を買えるなんてことは歴史上なかった。あり得ないことが起こっていた。
金融や歴史、市場を少しでも学んだものなら、すぐに分かる」1危機対応として大幅に金融緩和を続けると、
どんな影響が考えられますか。「さらなるインフレ、ドルの価値下落、高い金利だ。
はんそうこうを重ねれば重ねるほど、経済は長期低迷する。欧州もお金を刷り続け、日本は超低金利、
これはすでにひどい問題を引き起こしてい.る。ガソリン、教育費、娯楽費だって過去2、3年でみな値段が上がっている」
「今回のバブルはおそらく世界史上、最悪の借金バブルだった。今後10年は第2次世界大戦以来、最悪の景気後退
になると思う」ー破綻の連鎖を避けるために米政府が実施するという、金融機関の公的救済についても否定的ですね。.
  ー以下は字数の関係でカットー2010年10月18日
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2007年10月18日(木)
2389, こころの旅  −3         c⌒っ *・∀・)φ【才八∋ゥ♪】
  「こころの旅」神谷 美恵子 (著)
 第一章、人生の出発点の中の
 −人生の諸段階ーの説で、八段階の半分の四段階が11歳までに区分されている。
更にいえば、5歳までに三段階が終わっているのである。これからみると、小学校で既に勝負がついているのである。
いや、もっと厳密にいえば、小学校入学時に質として、もう範疇に分けられていたのである。
以前、最終区分前の中学校の成績順が、そのまま人生を決めていると書いたが、エリクソンによると、
小学校でホボついていることになる。 そう小学校も、中学校と同じことが言える。
一番、二番、三番、四番とその後の消息を聞くと、そのまま拡大した人生である。
私は4番位であったが、男で7番以内で地元に帰ってきたのは私だけである。といって兄弟でもえらく違うから、
一概にはいえないのだろうが。 大學の時に当時の親友だった男に、「お前は竹のようなヤツだ。
遊ぶが、ある所までいくと元に戻って自分の姿勢は崩さない」と言われたが、それが子供の時からの親の
生きる姿勢を見てきたからである。それでも自分の殻を必死に破ろうとしてきたが、これでこのザマである。
 以下は、その人生の諸段階の部分である。意味は深い!
ーーー
人生をいくつかの段階に分けて考えることは昔から多くの人が試みてきた。成人までの発達段階についてはフロイトの
図式が長い間君臨してきたが、最近はピアジュの長年の実証的研究による図式がつねにこれと比較対照されるようになった。
全人生の分析としては、シャーロッテ・ビューラーの「生活曲線」が興味ぶかい試みである。最近では
エリック・エリクソンの「ヒトの八年代」が注目をひいている。その年齢的区分だけを示すと、次の通りである。
*乳児期。*二〜三歳。*四〜五歳。*六-十一歳。*十二−十八歳。
*成人早期。*中年期。*老年期。
 この各年代にそれぞれの課題と危機があるが、それがうまく乗り越えられたときには生きて行く上で大切な力が身にそなわる。
その力とは「徳」である。エリクソンは原語(ラテン語)の意味で使っているのだ、とわざわざことわっている。つまり道徳的な
価値判断のニュアンスを加えたくないのであろう。しかも人間の生を支える力は、そのまま「徳」でもあるわけだから、
それでこのことばを使うのだという。たとえばエリクソンの考えるところでは、乳児期の課題とは「基本的信頼感」を
形成することで、これがうまく果たされると「希望」という力あるいは徳が人にそなわるという。 
   次は彼のルッター研究からの一節である。
 (以下、字数の関係でカット2008年10月18日)
ーー
解) 高校か、大学を卒業するまでは親の責任がある。特に10歳になるまでは、大事な時期である。
「二回生まれ」とは面白い説である。「全く同じ人生を過ごしたい」と、思えるかどうかだろう!
両親と、連れ合いの相性が良いかどうかが基準だろう。それと、自分か!
                      ヾ(´_`●)ノ ノヾィ♪
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2006年10月18日(水)
2024, ある「煉獄」の中にて
               才八∋ウ_〆(∀`●)
これからの内容は本人の同意を得て書いている。
(もし本人の同意なくして書いたとしたら、本人を著しく傷つけことになる上に、裏切り行為になる。
 本人曰く「母の苦労を多くの人に知ってもらえるから、書いてもよいです!」・・)
そこには誰も悪人はいない、存在するのは人類最大の問題(嫁・小姑など家に存在する)不条理である。
Aさんの話を聞くうちに浮かび上がってきた奥行きの深い話である。どこの家にも、このような問題はあるが、
あまりにも複雑な構図である。それを背景としてAさんの一人間としての素晴らしさが浮かび上がってくる。
                       〔註〕煉獄とは、地獄と娑婆ー現世の中間にあるところ
ー女性Aさん(25歳)の視点で書くー (以下、敬称は略す)
・Aの母親F(48歳)が夫と離婚、Aと弟を引き取り中越地区にある実家に出戻った。
・実家にはFの両親B・C(80歳前後)と、Bさんの未婚の姉のD(80歳代前半)がいる。家は大きな家ではない。
・Aの母親Fは、AとAの弟E(21歳)を育てるため身を粉にして働いた。
 そしてAは女子短大を卒業、新潟に就職して5年目になる。
 弟Bはコンピューター専門学校を卒業、今年から首都圏のソフト会社に就職した。
・ところが母親は立ち仕事で人一倍働いたため、腰痛が悪化。去年から働きに出れなくなり収入も途絶えた。
・そのため元々折り合いが良くなかった同居の叔母Dとの人間関係のバランスが崩れてしまった。
 子供二人が家を出ていってしまったことと、母親Fが働けないため収入が途絶えたことで、
 弱い立場の陥り、その結果として鬱病になりかけている。
・Aにとっては、そんな実家には帰りたくないが、そのままにしていたら母は重度の鬱病になり廃人になってしまう。
 A一人の収入では母親を引き取れない。そこが地獄絵図の世界としても、その狭い家に帰らないと
 母は間違いなく潰れてしまう、 という内容である。 
  露骨に言ってしまえば、
 ・「行かず後家」と、・その実家に「出戻ってきた母」と、・嫁の立場の「お祖母さん」と、
 ・その間でシドロモドロする「お祖父さん」が、織り成す小さな世界の蓄積された‘葛藤ドラマ’ということになる。
   (以下、字数の関係でカット2009年10月18日)        (*^ワ^*)i バイバイ
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2005年10月18日(火)
1659, 北イタリア旅行記−8
 ー旅行雑感−1
 旅行中に、色いろな思いや出来事に行き会うことが多い。ただ、文章にするには如何書いてよいものかと切り捨てている
 場合が多い。しかし、むしろ面白いのは、知りたいのは、思い出として取っておきたいのは、その方が多いだろう。
・一人、50代半ばの女性が参加していた。百回近くは、旅行しているという。 娘の就職を有利にする為に、娘の学生時代に
 年13回も一緒に旅行に出たという。 プロテニスや、プロ野球、スケートなどの何ママとかパパは聞いたことがある。
(松井や、イチロウ。テニスの・・・・)一流旅行代理店に入社させるために、旅行に徹底的に連れて出たという話は初めて。
 その努力が実って、めでたく大手航空会社に就職が叶ったとか。本人が旅行代理店に勤めたかったので、娘にその夢を託したという。
・今回の旅行は、ヴェニスで雨がドリャブリ。その寒さの為か腰痛になってしまった。
 そして帰国後も、その腰痛がさらに悪化してしまった。もう10日近く経つのに、全然よくならない。
・「欧州の豊かさは日本のゆたかさとは雲泥の差がある」とバブル只中、当時の東京相互銀行の長田頭取の手記にあった。
 イタリアで感じたことは、3000年の歴史の蓄積の豊かさを実感した。街の教会にしても、
 公園、家にしても、数百年も経っている。 それがすべて長年かけた先祖からの遺産である。
・どの国もそうだが、北が豊かで、南が貧しい色分けになっている。
 イタリアも同じであった。イタリア人は、自分の出身をイタリアとほとんどいわない。
 シチリアとか、トスカーナとか、ローマという。彼等は数百年もそれぞれの地区が独立国だったためだ。
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2004年10月18日(月)
 1294, 県知事選挙ーつれづれ
昨日は県知事選挙。 実のところ、ギリギリまで誰に入れたら良いか焦った。
家内と誰を入れたらよいか消去法をしたところ、全てが消えてしまった。共産党、社民党、泡沫、泡沫、自民党。
まず自民党を消去、次に社民党、そして共産党、そして泡沫、そして塗れ雑巾の元??、誰もいないのだ。
今の「公務員型・現状維持・最?知事」で県民は白けている。そのため、最悪の知事選びの選挙であった。
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2003年10月18日(土)
927, 「楽しく生きるには」−読書日記
 学生時代の日記帳を見ていて気がついたことは、「人生楽しく」をそのまま実行していたことだ。
その点では今と変わりはない。 よく読むと、議論をしているか、本を読んでいるか、遊んでいるか、
酒を飲んでいるかだ。これは遊びのセンスと個人主義に関係しているようにも思える。
遊びと勉強の重要性が、この日記の中から読み取ることが出来る。
遊んでいなくては精神のバランスを保つことが出来なかった。
今の楽しい気持ちとは違うようだ。不安と期待と焦りが大きく背後にあった。
「楽しく生きるは」は誰にとっても、生きるうえで大きなキーワードだろう。
それでは、如何したらそれが出来るかを書いた本があるかというとほとんどない。
小さな既成概念に縛られて、その縄の存在すら気がつかずにストレスになる。
 以下は字数の関係でカットー2008年10月18日
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553, 基調色
- 2002年10月18日(金)
私に着こなしの事を語る資格はない。しかし、実質的合理的な着方なら話せる。背広やブレザーは自分の基調色を決めておく。
背広は細かいストライブの濃紺である。ブレザーは茶か紺で今は紺だけだ。背広は7~8年前から、同じに見えるものにしている。
古くなってきたら上下を換えても第三者には解らない。実際は換えてきたことはないが,昨年は同じ背広を2着買った。
カジュアルのジャンパーやセーターも黒か紺に決めている、白やネズ色とも合わせられるからだ。
海外旅行ではあまりみっともない着合わせはできない。ある程度はチャンとした服装でなくてはならない。
欧米人は白と黒を基調にして、あまり派手な色は着てない。 パーテーや外食の時は着飾っているが、
昼のカジュアルは質素でシンプルである。日本人の団体をみると、チンドン屋の集団だ。
自分の基調色の必要性に気づくのに30数年かかった。 基調色を決めておけば、靴下やネクタイや鞄も色を絞るれる。
若いうちは何でも似合うからよいが。歳を重ねたら、みっともない格好だけは避けたい。それが色の組み合わせで出てしまう。
最近気がついたが、ネクタイと靴下の色の組み合わせが重要とのことだ。濃紺なら黒でよいと思っていたが、
ネクタイの色に合わせてもよい。 ネズの靴下を葬式やお歳暮などで貰って履いていたが、
ネクタイを知らないうちにネズの入ってものにしていた。これは無意識であった。
おしゃれとは本来自分の欠点をカバーするのが目的という。若い時は長所を引き出すと良い。
・・・・・・・
「182]」偽悪
2001・10・18
この言葉を聴いたとき、‘へーえこんな言葉もあるんだ!’と驚いた。 また言葉のもつ深さと魅力もその時感じた。
ー以下は字数の関係でカットー2010年10月18日

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