堀井On-Line



2902, 脳と仮想  ー2

2009年03月16日(月)



   「脳と仮想」茂木健一郎著    ー読書日記
ー印象に残った部分を抜粋してみるー

・広大なグランドキャニオンの前に立とうが、北極のオーロラを見上げようが、体験する広大の光景は全て脳内現象である。
世界に脳だけあるといっているのではない。そんなことは当然のことだが、外部から入った刺激に基づいて脳のニューロンが
活動しなければ、我われは広大の宇宙を表象することはできない。逆に、もし広大な宇宙が無くても、脳の中で
ニューロンがある時空的な様式で活動すれば、私たちは広大な宇宙を表象することになる。もしそうなら、逆理が浮かび上がる。
もし私たちが体験することが全て脳内現象なら、私たちは何故、広大な宇宙を思い浮かべることが出来るのか?
いかに、私たちの思い描く世界は、脳内現象として一リットルの空間に閉じ込められていながら、無限定の空間を志向する
ことができるのか? ・・・「熊本より東京の方が広い。東京より日本のほうが広い。日本より・・・」で切ったが、
三四郎に男はいった「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と。
・「真理がどこにあるかといえば、それは仮想の世界にあるというしか言いようがない。どこかの博物館に、
これが真理でございますと飾ってあるわけがないのである。
私たちの精神の中枢に仮想がある。そのように考えると、「見る」ということの本質も違って見えてくる。
・現実のどこにもない仮想は、現代人の心の中でも中枢の位置を占めている。
私たちの精神は、頭蓋骨の中の「今、ここ」の局所的因果性の世界と、「今、ここ」に限定されない仮想の世界に
またがって存在する。 私たちの精神は、本来的に二重国籍者なのである。
・脳内に閉じ込められているだけでなく、心の本質的な属性をとらえた概念が「志向性」である。
志向性とは、心が何かに向けられた状態をいう。そこに心が
・私が恥じたのは、人間がそもそも生きものであり、それであるがゆえに、厳しい生存条件に置かれてきたことを
理屈で判っていても、感覚的に忘れていたことである。つまり文明に飼いならされていたのである。
真実は恐ろしい姿をしている。 人間は、なぜ、「平和」という仮想を生みださなければならなかったのか。
「愛」という仮想を生み出さなければならなかったのか。
平安仏教を特徴付ける「極楽浄土」というヴィジョンは、どのような生の必然性から生み出されたのか。・・・
私たちの意識の中で生み出される様々な仮想は、このうえなく厳しい人間の生存の中で、私たちの心が傷つき、
その傷が治癒される際に放射される光のようなものはなかったか。
 ーーー
考えてみたら、自分に対しても、頭に浮かんで考えている相手にしても、社会も、全て「仮想」でしかない。
「精神の中枢に仮想がある」と自覚すると、良きにつけ悪くにつけ仮想している自分を見ている自分も
仮想ということに気づく。自分の頭蓋骨の中の一リットルの脳は自分でさえ得体の知れない世界である。

・・・・・・・・・
2538, 一神教vs多神教
2008年03月16日(日)

   最近、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教に対して疑問を持ち始めた矢先に
   図書館で、この本を見つけた。 この3つの宗教の元はユダヤ教で、共通の唯一の神を信仰している。
   それがお互いに憎しみあい殺しあっているから、複雑なのである。 早く言えば民族戦争なのである。
 ー概要を解りやすく箇条書きにすると、
 ??
・元祖であるユダヤ 教は、迫害されて逃亡した奴隷たちの宗教、迫害され差別された人々の宗教のために
 恨みと復讐心がこもっている。被害者は、その被害をより弱い 者に移譲しようとすることで被害者の劣等感、
 屈辱感を補 償しようする。 他人を同じように不幸にして自分を 慰める。  
・差別された奴隷たちがモーゼに 率いられてエジプトから逃亡する過程で形成された「民族」として
 ユダヤ人となり、ユダヤ教自体も、その逃亡過程でエジプトのアトン信仰の影響を受けながら、
 純粋な一神教へと形成されていった。
・ユダヤ人の中でさらに差別されていた人たちを救う宗教としてイエスがキリスト教をつくった。
 そのキリスト教が、ローマ帝国の奴隷、下層民に受け入れられ、ローマ帝国の国教となり、
・多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し 付けられて、
 心の奥底で「不幸」を感じた。そのため一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、
 自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、
 近代ヨーロッパ人の基本的な行動だったのではないか。
・欧州で差別された人々が新大陸に逃げ込んで、その先住民へ攻撃と迫害などをしていった。
 そこで造られたのがアメリカという国。つまりアメリカは被差別の最終駅になる。
 だから潜在意識の中で人類を恨み、攻撃的になり、非常に強くなった、という。
・ヨーロッパ人が、人種差別に基づく残虐性を発揮して世界制覇を果たしたのは、
 強烈な被害者意識があったからだという。 それをもたらしたのは、白人の始まりが白子で、
 そのために黒人からアフリカから差別されて追われたことと、
 ローマ帝国に無理矢理キリスト教を押しつけられたことだという。
・多神教の日本も欧米の圧迫に耐え切られなくなり、唯一絶対神という天皇制を発明した。
 近代天皇制は一種の一神教、擬似一神教として、外に戦争を仕掛けるようになった。
人類の不幸を被抑圧民族の連鎖という神経症として論じている。これがル・サンチマンである。
--
知識を持ってしまった人間は、己の生の限界も知ってしまった。
そして未来の不安と恐怖というマイナスの気持ちを解消するため、そして民族を統一するためにアブラハムは
ヤフーという唯一絶対神を創ったのである。これがマイナスにもプラスにも人類に影響してきた。そして現在もである。

・・・・・・
2007年03月16日(金)
 2173, 「いい場所」とは何か 
         才八∋ウ_〆(∀`●)          
     「ファンタジーの魔法空間」ー 読書日記
        著者・井辻朱美 岩波書店
    
著者が恐竜や古代文明を求めて博物館めぐりをしていた時に気づいたのは、
博物館という場所が、外界とは切り離された凝縮された場所ということである。
最も古い時代の物は必ず最下階に展示され、そこから上の階に昇るにつれて現代に近づいていく。
そして出口には必ず土産物屋やカフェが置かれて「現実へのなだらかな再接続が準備されている」
という。 博物館は時空のトラベルの装置であり、空間化された時間である。
またテーマパークのアトラクションも、閉ざされた建物に入ることによって短い死と再生を体験するように仕組んである。
そういう空間を創り出し、体験することこそがファンタジーの核であり、ファンタジー作品を支えているのは
そういった空間なのではないか、という切り口である。それに気づいた時、著者はファンタジーを「場所」や
「空間」という隠れたコードから読み直すと、より面白いという。
この書ではファンタジーを、
・「家」という空間のファンタジーと、
・「旅」という、別世界への道程のファンタジーと、
・「魔法」のファンタジーの 3つの織りなす物語と説明している。

ところで、「いい場所」とは何か?意識したことがあるだろうか。それは突きつめれば家族の団欒という場所である。
そこで、われわれの精神をつなぎとめ、温め、力を与えるのである。そこには厳しい父親がいて、優しい母親がいて、
温かい食事を皆でとること、そこが「いい場所」なのである。
いい場所に神棚を置くのではなく、いい場所だからこそ、神棚を置くのである。
民族にとっては、その聖地が「いい場所」になる。これも然り、そこが、いい場所だから聖地にするのである。
村にとって、鎮守様の祭ってある広場でおこなわれる盆踊りが「いい場所」になる。
家の「いい場所」の台所は、一家団欒のための煮炊きの釜戸のあるところ。
そこは家という母性的な庇護空間の中でもとりわけ母と結びつく。

もう一つの、「いい場所」とは、屋根裏部屋(今では子供部屋)である。
とりわけ自分の部屋の押入れの中とか、押入れの天井の空間があれば、
そこが子供の隠れ場になる。 そこで最も静かな孤独への上昇をこころみる。
母親から見れば、そこに引きこもって誰もそこにはいれようとしない変な空間だが、本人にとってそここそが聖地なのである。
そこで独り高みから、世の中を見下すことができる唯一の場所である。しかし、独り閉じ篭っていたその場所も、
ある事件を契機に出ざるを得なくなる。ある事情で、ある日あっさりと何でもない空間になってしまう。

これは、誰でも経験する通過儀礼である。「いい場所」は誰でも持たなければならないのだ。
しかし、それは年代ごとに変わっていくものでもある。変われなくなったのが、引きこもりになる。
この冒頭に博物館に触れたが、そこは人類の屋根裏部屋でもある。
我われの中に刻まれた古い記憶の痕跡として懐かしい場所にある。そこは屋根裏部屋にある、先祖の写真だったり、
家の宝と同じようなものである。
   
最近、図書館から4冊のファンタジー関連の本を借りてきたが、ただ単に異空間や、魔法の話ではない。
自分の心の屋根裏部屋の中の秘密の箱を開け、違う世界へ誘う魂への扉である。
色いろの人生経験をしてきたからこそ味わえるファンタジーも、また良い。
数年前からWOWOWでファンタジーの映画やレンタルDVDを多く観ていた。
「ハリー・ポッター」や「指輪物語」「ナルニア物語」など・・・
秘境ツアーでケニアやパタゴニアで遊びに行くことも、ファンタジーの世界を旅するようなものである。
そこが私にとって、もう一つの「いい場所」である。             
               ヽ(*´∀`*)ノ.+゚ホンジャ?バイ♪.+゚
・・・・・・・
2006年03月16日(木)
1808, ずっとやりたかたことを、やりなさい ?1
       (☆-v-)。o○《Gооd Мояйiиg》○            
                   ー読書日記
図書館で何気なく借りてきて読んでみたが、すばらしい本である。早速、中古だがアマゾンで発注をした。
特に、「モーニング・ページ」の技法がよい。自分の心のブロックなどを徹底的に見つめて、
気がつかなかった心の奥から知恵を引き出す合理的な手法である。  
人生は自分の馬鹿の壁を一生かかって乗り越えていく道筋であることを、この本が教えてくれる。
『夢日記』と同じくらい深い示唆がある。
               (*^ー^)/C□~~ コーヒー
ーまずは、訳者のこの本の紹介文であるー
  ジュリア・キャメロン著 菅 靖彦訳 サンマーク出版 

人は誰でも、自分の中にアーティストの子どもを住まわせている。
その子どもを大切に養い育てれば、創造的な生き生きとした人生を送ることができる。
どうすれば自分の中のアーティスト・チャイルドを育てることができるのだろう。
その疑問にきわめて具体的なプランをもって答えてくれるのが本書
『ずっとやりたかったことを、やりなさい』(原題『the artist’s way』)である。
著者のジュリア・キヤメロンは十五年以上も前から創造性のワークショップを
手がけており、本書はそのワークショップの豊富な体験を元に書き起こされている。
彼女自身、映画の脚本や監督を手がけ、『ワシントン・ポスト』『ニューヨーク・タイムズ』
『ローリング・ストーン』などに、いろいろな論説を載せているアーティストだ。
(字数の関係でカット2009年3月16日)
                              ー  つづく
ーーーーー
2005年03月16日(水)  
1443, 孤独についてー4

「孤独であるためのレッスン」NHKブックスー諸富 祥彦 (著)を図書館で借りてきた読んだ。
過去に4回、随想日記に「孤独について」書いてきた。
この本はより掘り下げた`孤独であるためのレッスン'が主テーマである。
今流の言葉でいうと、「孤独力のつけ方」が大筋である。
「孤独力」には、
・消極的な意味では、自分が他人の目に左右されずに生きる能力。
・積極的な意味の「孤独力」は、自分自身と深く対話することの出来る能力。
 深さの次元が、ここでは問題になる。 この「孤独力」が、楽しく生きるための大きな要素になる。
孤独はすばらしい。孤独こそが人が人として生きる王道だと、孤独を賞賛し、そして孤独を全うするには、
「自分を超えた地点から自分をながめるもうひとつの目を意識してその目を通じて自分をながめることができること」という。
{年二回の海外旅行は、その目を養うために行っている}といってもよい。
また、「人は孤独なときだけ、精神の深みへ降りていける。そして、本来の自己を探し当てることができる」と。
さらに、「本来の自己を探し当てた人だけが、真に他者との出会いができる」と。
(逆に言うと、真の自己を見つけ出していない人は真の出会いができない、
ということ)子狐を嫌うのは真の自己の何かも知らない輩だからだ。
だから、「寂しいからといって、ただ単に人と群れていたら、真の自分は見つけられない。
無理に人に合わせていたら、自分を見失ってしまう。群れない自由な孤独人たれ」と。
「ひとりだと感じているあなた。 人の中にはいりこめないと思っているあなた。
わずらわしい人間関係から、逃れたいけど、できないと思っているあなた。孤独になることを恐れないで。 
ひとりになって、本当に自分のやりたいことは何か、見つけ出して。..」と。この本が語りかけてくる。
 この中の<孤独であるための8つの条件>がよい。
1:「分かり合えない人とは、分かり合えないままでいい」と認める勇気を持て。
2:人間関係についての「歪んだ思い込み」やこだわりに気づけ。
3:自分の人生で「本当に大切な何か」を見つけよ。
4:「自分はまもなく死ぬ」という厳然たる事実を見つめよ。
5:「たった一つの人生という作品」をどう作るか、絶えず空想しながら生きよ。
6:ソーシャルスキルを身につけよ。 他人の話を聴き、他人を認めよ。
7:「この人だけは私を見捨てない。どこかで見守っていてくれている。」そう思える人を見つめよ。
8:自分だけは自分の味方であれ。「自分を見守る眼差し」を自分の中に育め。

人との距離感を適度に保つため、むやみやたらと人に近づかないように相手との距離を保つためと考えた方が良いが。

P-172の文章が孤独について、わかりやすい要約になっている。

ー私はこれまで、こう述べてきました。孤独を恐れるな。孤独は、人生の普遍的な本質であり、

(字数の関係でカット2009年3月16日)
 ーーー
この詩は孤独を恐れている心を励ましてくれる。
【詩】ゲシュタルトの祈り
わたしはわたしのことをやり、あなたはあなたのことをやる。
私はあなたの期待に応えるために、この世にいるわけではない。
あなたは私の期待に応えるために、この世にいるわけではない。あなたはあなた。わたしはわたし。
もし偶然にお互いが出会えれば、それは素晴らしいこと。もし出会わなければ、それはそれで仕方がないこと。
フレデリック・パールズ作 (ゲシュタルト療法の創始者)

 ・・・・・・・・・
2003年03月16日(日)
711, キャッシュポイント

 このシビアの言葉が気に入った!ヤクザが恐喝のネタを掴んで「これ脅せる、銭になる!」
という瞬間がキャッシュポイントといってよい。 人生の中で、自分では気がつかないポイントがあったはずだ。
私のごく身近の人に、集ることを人生のポイントにおいている人が数人いるが「これをいっちゃお終いよ」の世界だが。
子供が資産を受け継いだその瞬間も、その人にとってキャッシュポイントである。
 「キャッシュポイント」は、その人にとって経済的に豊かになってしまう、豊かさの源泉のポイントである。
これは誰にでも必ずある。成功する人は人生のある時点でこのキャッシュポイントを見つけている。
この、「自分の内奥に眠る資産」を現金化する方法を見つけてしまえば恐れるものはない。このキャッシュポイントを
いかに探って掘り当てるかが重要なテーマである。これを見つけ、実際にお金に変えることができると、
この上ない幸福感を感じる。本人にとっては「これでお金をもらっていいの?」と考えてしまう感覚である。
そういうものをどんどん掘り進めることがポイントになる。 しかしこのポイントは結果としてしか解らないことが多い。
この反語としての言葉、失禁ーいや失金ポイントがある。私も何回かある、致命傷にならなかったから事業が生き延びているが。
キャッシュポイントより失金ー失敗ポイントのほうが厳しいのが現実である。
事業は14勝一敗では駄目で8勝7休の方が優先されなくてはならない世界である。
それまでの蓄積を一瞬に奪い去ってしまう。 上手くいった時も失敗した時も、そのポイントにいきつくまでの準備に
全ての原因が含まれている。 この言葉はチャンスポイントとも言い換える事ができる。
チャンスはそうあるものでない。やはり準備をしっかりしておかなくては
その一瞬を捉えることができない。このキーワードをレンズとして過去を振り返ってみると面白い。
やはり自分の意志がチャンスポイントをつくっていることが解る。
逆に危機ポイントをみてみると、その裏腹である。チャンスは危機であり、危機はチャンスでもある。

・・・・・・・・・・・
2004年03月16日(火)
1077, 三分間

スピーチ三分、カラオケ三分、電話三分、メッセージのやり取り三分、
スポーツでは、ボクシングが一ラウンド三分、相撲も土俵に上がって立合いまで三分である。
数年前まで、公衆電話の料金が三分十円だった。本の立ち読みも大体一冊三分である(私の場合だが)。
インスタントラーメンは、お湯を入れて三分である。これは意味が違うか?我慢できる時間が三分ということか。
この随想日記の閲覧もユックリ読んで三分である。これ以上だと、気持ちが他に移り変わってしまう。
集中の一ユニットが三分ということだろう。効率面から考えると、三分の積み重ねをするのが合理的といえる。
会社の朝礼で「三分間スピーチ」を毎朝各人に持ち回りでするところがあるが、これは思考訓練と自己表現の場になる。
 岡惚れ三年 本惚れ三月 思い遂げたが三分間
これは全く関係ないか。


2901,のど自慢全国大会

2009年03月15日(日)



昨夜、NHKで「のど自慢大会」があった。参加1万組の中から選ばれた15組というだけあって、
誰がチャンピオンになっても不思議ではないほど素晴らしい内容。
初めから最後まで涙が溢れた状態で聞いていた。 彼らの歌が一期一会のステージだからである。
ジェロ、北島三郎、和田アキ子が、15人の歌が終わった後に歌ったが、彼らの歌に敵うわけがない。
土曜日のゴールデンタイムに歌えるチャンスは一生に一度、全てを、一曲にかけた魂の雄叫びに自然になっていた。 
盲目の少女がチャンピオンになったが、優勝をして貰った大きいトロフィーを北島三郎が代わりに持とうとするのを拒み、
最期まで重そうに抱えながら歌った場面が感動的であった。 あの重さは一生忘れることができないだろう。
恐らく専門家が15人それぞれにプロが歌と振り付けの指導をしたのだろうが、素人の初々しさに加味されて
何ともいえない雰囲気をかもし出していた。 

現在は、カラオケやスナックで素人がプロ並みになっているが、それにしても上手い。 
哲学的にいうと垂直に魂が入っている(一期一会・・永遠)のである。またNHKの演出も良かったのも見逃せない。 
それぞれの歌の背景にある人生劇場を浮出していた。歌は人生劇場を情念化した時空の世界で、歌っている間は、
その世界に我を忘れて没入しているのである。
現実だけでは人生は、あまりにも厳しく過酷である。別世界を持たないと人は生きることだ出来ない。
それが読書の世界であったり、酒の世界だったり、趣味の世界だったり、それぞれある。
「のど自慢」を哲学的に考えることもないが、情念の世界を無視することもない。

そういえば、月に1〜2度はスナックで、カラオケを歌うのが習慣になっている。
何で人は歌いたくなるのだろうか? それは物語を求めているからだろう。
物語を歌で辿っているのである。ミニ自己実現、そして、ささやかな宴ということだ。
また一年に一度の楽しみが増えた。 歳を重ね人生の深みが少しは見えてきたか!

・・・・・・・・・・
2537, パリ高級娼婦館女主人の告白 1
2008年03月15日(土)
                ゚+.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゚・:*☆
  ニューヨーク州のスピッツァー知事による買春疑惑が表面化したと昨日のTVで放送していた。
  疑惑は、連邦捜査当局による高級売春組織摘発の中で浮かび上がったもので、
  先月中旬、訪問先のワシントンのホテルにニューヨークから高級売春婦を呼んだ際に、
  売春組織への電話が当局に盗聴され、同知事と特定された、という。 疑惑を受け「家族を裏切った。
  家族と州民に謝罪する」と事実上、疑惑を認め辞任の意向。
  2期8年間の州司法長官を経て、2006年、民主党から知事選に出馬し当選。
  07年1月、州知事に就任した。州司法長官時代には、売春組織の摘発にも積極的に取り組み、高い評価を得ていた。

  そこで思い浮かぶのが、マダム・クロード著 「愛の法則?パリ高級娼婦館女主人の告白 」である。
 ーこの本の紹介文と著者の履歴からして面白い。

1960年代から’70年代、パリで最高級売春宿を経営していたマダム・クロード。
フランス通の訳者が、その数奇な人生、知られざるフランスの裏面を紹介。
彼女の洗練の秘密は?女性の本当の幸せとは?「パリの粋」が見えてくる一冊。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」)
 グリュデ,クロード
1923年、フランスに生まれる。
’62年、友人ナディーヌから売春宿を受け継ぎ、「マダム・クロード」となる。
以後、70年代初めまで、各国の王や大統領、政治家を顧客とし、営業を続ける。
’74年、ある政治家との関係を巡り、クロードの館は閉館へ。
’77年、税金問題から逃れるため、アメリカに渡るが、’85年フランスに帰国したところを逮捕され、
以後4カ月刑務所に収監される。
出所後、2番目のネットワーク作りを開始するが、このことにより、再度刑務所に収監される。
’86年より、PR業、結婚相談所、美容アドバイザーなど様々な仕事に就く。
’94年、自叙伝『madam』(ミシェル・ラフォン社)を出版
ーー
ここの館の顧客名簿にはアラブの王族や欧州の貴族、ケネディー大統領はじめ各国の政治家、大金持ちが名をつらねていた。
ここを足場にフランスを代表する映画女優、皇太子妃や伯爵夫人にのし上がった娼婦が数多いという。
マダム・クロードは、自身が少女時代に修道院で尼さんから受けた躾を、街の売春婦に変身プログラムをつくり、
整形手術、肌の手入れ、性の技巧、ダイエット、ファッション、ハンドバックの中味に至るまで微にいり、
細にいり指導していったという。まあ、下手な子女よりもズット品良く仕上げたのだろう。
これを切っ掛けに、この本は見直されるだろう、恐らく!
                          つづく
・・・・・・・・・・
2007年03月15日(木)
2172, 獄中記
 (~Q~;)  おはよう  ファー   ?読書日記
                         佐藤優著  岩波書店

新幹線の通勤の車中に毎日50ページを、延べ10日間かけて読破した。
読んでいるうちに自分が牢獄に入っているような錯覚をする本である。著者の逞しいのは、
直ぐに頭を切り替えて読書・勉強の場と、割り切ってしまうところである。そして、人間としての尊厳を
保って哲学的問いに取り組んで、62冊の獄中ノートを書いたエネルギーには、驚ろかされた。

この本で国策捜査の恐ろしさの一端を見せつけられた思いである。
冷静に振り返ってみると、鈴木宗男と佐藤優は何をしたというのだろか。
「外務省を二人で牛耳って北方領土の二島返還を独断交渉を進めたことが、国家利益を損ねた」というが、
それが犯罪といえるのだろうか? 国家権力の闇の深さ思い知らされた内容である。
戦前の特高と、現在の検察と何が違うというのだろうか。もっとも、鈴木宗男も出すぎていたことも確かだが。
  印象に残っている部分を幾つか抜粋してみる。
 ーー
 拘置所内での生活は、中世の修道院のようです。中世の修道院や大学では、書籍は一冊しか所持することが認められず、
それを完全に習得するか、書き写した後に次の本が与えられるシステムだったそうです。 
拘置所もそれにかなり近いところがあります。 私本については三冊しか房内所持が認められていません。・・・・
案外、現在の環境で少数の本を深く読む生活も気に入っています。・・・・
禁固刑ならば、書籍の差し入れと筆記具の使用が認められるとの条件の下で、何年でも耐えられるような気がします。(p40)

拘置所生活も自分でリズムを作ってしまうと、それなりに楽しいです。
過去数年間、否、十年以上にわたって、腰を据えてしたかったけれども、時間に追われ、できなかった勉強をするよい機会です。
・・・・外に出て、将来家を建てることになったら、東京拘置所の独房にそっくりの小部屋を作り、思索と集中学習用の
特別室にしたいと考えています。それくらい現在の生活が気に入っているということです。   (p63-64)
おそらく、「拘置所は学習と鍛錬の場」と自分で決めてしまったからでしょう。
食事もおいしく、集中して勉強できる現在の生活を私は心底楽しんでいます。
保釈の必要ありませんし、接見禁止が続いていたほうが会いたくもない
面会希望者との会見を断り、気まずい関係になるよりもずっとよいです。(p69)
この制約をどのようにして利点に転換するかをよく考える。
恐らく、記憶力、構想力の強化ということになると思うが・・・。
しかし中世、近世と較べれば、文明の恩恵に浴している。紙もほぼ無制限に使えるし、図書も十分に入手できる。
ボールペンという文明の利器もあり、夜は電灯の下で勉強できる。
概ね、戦前の学者よりも恵まれた環境にあると見てよい(特にボールペンの点で)(p82)
ある意味で、拘置所内での生活は、夏目漱石の「それから」における代助、
「こころ」における先生のような「高等遊民」の世界に似ていると思います。(p112)

私が学術書を精読するときは、同じ本を3回、それも少し時間をおいて読むことにしています。
第1回目、ノートやメモをとらず、ときどき鉛筆で軽くチェックだけして読む。
第2回目、抜粋を作る。そして、そのとき、内容を再構成した読書ノートを作る。
第3回目、理解が不十分な箇所、あいまいな箇所についてチェックする。
このような読み方をすると、10年経っても内容を忘れることはまずありません。(p.165)

私も外にいるときには速読で1日1500?2000頁は書物を読むようにしていました。
私の場合、速読とはペラペラと頁をめくりながらキーワードを焼き付けていく手法。
目次と結論部分だけを少しゆっくり読みます。対象となるテーマが馴染みのものならば、
500頁程度の学術書ならば30分、一般書ならば15分あれば読めます。
そして、ワープロで、読書メモ(これは20分くらいかかる)を作ります。
こうすると1日で1500‐2000頁くらいの書物を読むのもそう難しくありません。
ただし、対象についての知識のない本については不可能です。
どんな本でも斜めに読むことができるという意味での速読法がないと思います。
まずは背景となる知識(「教養」)がどの程度あるかが問題になります。
この「教養」をつけるという作業が本当にたいへんです。  (p.171)
 ーーー
これだけの能力を見せつけられると、自分能力が惨めに思える.内容は、やはりリアルである。    
変な惨めさが無いのは、やはり知識の裏付けがあるためだろう。彼の著書は特異の経験という意味で、
十年、二十年後まで残るだろう。そして、あの女代議士と、小泉も。
後記)後で気がついたことだが、三年前の今日、「獄」というテーマで、この随想日記を書いていた。 
                             面白い偶然の一致である。
                  (^o^)ノ バイ! 
・・・・・・・・・
2006年03月15日(水)
1807, 新書と文庫について
                おっ w(゜Д゜)w ハァョ?
「いまどきの新書」永江朗著ーを読んでいたら、新書と文庫について書いてあった。
新書が大きく変容しているのを実感していたので、その内容に注目をした。
そこで、それをベースに「新書と文庫について」纏めてみた。
 ーー
書店には新書と文庫のコーナーがあるが、新書と文庫は少し前までは、地味な存在であった。
デザインは、書店ごとに統一されていて似たようなもの。テーマも[学術・教養もの]と呼ばれていた。
新書・文庫という形態は、岩波書店の岩波新書・文庫が始めたもの。
岩波新書は現代的教養を、岩波文庫は古典的教養を集めた。相手は主に学生で学校の先生を次のターゲットにした。 
ところが、最近になり新書が大変身をしてしまった。多くの出版社が新書を作るようになり、岩波新書、中公新書、
現代新書の御三家に割ってはいってきた。      (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが?                       
値段が安いことがうけ、古典的教養書という意味あいは薄れ、軽いエッセイや対談や、
趣味的な旅行本、写真集や、はてはマンガ本的なものまで新書として出版されだした。
不景気や印刷技術の向上や物流の合理化を背景として、何処でも読みやすい小型本としての手軽さが受けてきた。
またデジ・カメや印刷の高度化で安価に写真などが新書に、掲載できるようになったこともある。
本屋も、文庫本のコーナーを拡充して、文庫本を平置きして買いやすくしている。
学生時代買った新書本が今でも自宅の書棚に多く残っている。小型で場所をとらないので残しておけたこともある。
中公新書の加藤秀俊『整理学』、川喜多二郎の『発想法』 講談社の現代新書の立花隆『知のソフトウエア』
岩波新書の梅棹忠夫『知的生産の技術』など、懐かしい本が2百冊位が捨てられることなく並んでいる。
かっては古典の代名詞だった文庫が、単行本の普及版、小型版、かつ価格破壊版になってしまった、ということだ。
                              ホンジャ o(▽^*)ノ~~マタ?
・・・・・・・
2005年03月15日(火)
1442, ホテル・レストランショー

店舗ショーに続いて、毎年のこの時期に有明のビッグサイトで4日間にわたって開かれる。 
先週、日帰りで見学してきた。
店舗ショーと同じく、癒し系のラジウム石を使ったサウナや、化粧水を使ったエステなどが目立った。
日本人は疲れているのだろうか?それとも女性の立場が強くなり、そういう出費には目がないのだろうか?
これも一過性であろうが、時代が変わったのもあろう。合理的な考えが進む一方、体や心の癒しには平気で大金をつかう。
私自身も大型薄型TVやDVD,そしてソフト関係にはお金を使う。
その反面、外食や飲み代や日用品や衣料には非常にシビアになった。
出店していた音響メーカーの「ボーズ」の、30万近いオーデオを買ってしまった。
こういう世界も、技術革新がドンドン進んでいるようだ。ベーカリーの世界も日進月歩のようで、冷凍パンを、
そのままレンジで焼き上げてしまう技術が開発され、パートでもクロワッサンやデニッシュを焼き上げることが可能になった。
街のレストランなどが、焼きたてのパンを70?100万円の器械で、気楽に出せるようになった。
ホテルが一般的に不況で、新たなサービスを付加して客を取り込もうとしている。
ベッドもシングルベッドの下に、もう一つのベッドが収納してあって、家族ずれのお客にも即応で
きるものなどが、目についた。また、防犯カメラなども多く展示されていた。

・・・・・・・
2004年03月15日(月)  
1076, 《獄》

昨日、何げなく朝日新聞の社会欄を開いたら、<獄>が大きく載っていた。内容は山本譲二元代議士の獄中の体験談であった。
刑務所の服役の体験談を読んだことがあったが、直視できない異常な世界である。
体験談の文章によると、収監された晩は一晩中誰もが泣き過ごすという。
政治とは清濁併せ呑む世界であり、奇麗事の世界とは違う。。犯罪になるかどうかは、
「洗浄を幾つか通して政治資金を集める体制があるか、無いかの差でしかない」のも事実である。
全ての政治家は、一歩間違えると監獄が待っているといえる。この文章を読むと、刑務所だけは入りたくないと思う。
別世界のことではない。ある日思わず、交通事故をおこして動転して轢き逃げをしないとも限らない。
それとも酒を飲んでいて、隣の客と喧嘩をしてとか・・・・
asahi.comを検索したら、この文があったので貼り付けておきます。

ー以下は朝日新聞に載っていた内容である。
■《獄》「詫び状」が扉を開けた
 看守に促され、栃木県の黒羽刑務所の分厚い鉄扉を抜けると、妻真由美さん(39)の姿が目に飛び込んできた。
 02年8月13日午前5時。 刑務所近くの空き地でまんじりともせず4時間をすごした妻は、
 いまにも泣き崩れそうだった。目が合うと駆け寄ってきた。
「お帰りなさい。長い間、ご苦労さまでした」抱きとめることができなかった。
 1年2カ月。隔てられた面会室のアクリル板が目の前にあるかのような錯覚に山本譲司さん(41)はまだ、
 とらわれていた。「苦労はそっちだと思うよ」 看守を横目にそう答えるのが精いっぱいだった。
 東京郊外の妻の実家に着くと、軒先に、1人砂遊びしている息子がいた。
 到着を知った義母(62)は1歳半になった孫を抱き上げると、山本さんの胸に押し込んだ。
「パーパ。パーパ」  罪の重さと、待ちわびてくれていた人のいる幸せとを、体全体で受け止めた。
 衆院議員による秘書給与の詐取という「申し開きのできない」狡猾(こうかつ)な犯罪で受けた判決は、
 懲役1年6カ月の実刑だった。早稲田大を卒業後、現在の民主党代表の菅直人氏の秘書を経て、
 26歳で都議に当選した。衆院に転じて2期目。独自の都市政策を掲げ、「民主党のホープ」と
 持ち上げられ始めたさなかの蹉跌(さてつ)だった。01年6月、罪を認め服役した。
 配役(はいえき)先は、刑務所内でもほかの受刑者や見学者の視線にさらされることのない
 隔離舎房?知的障害や重い身体障害のある受刑者たち50人のための施設だった。
 「大変なんてもんじゃないよ、あそこは。汚物まみれでね……」
 看守は、そこに世話係の一人として赴く山本さんを哀れんだ。
 その通りだった。ろうそくの色分けやひも結びなど繰り返される軽作業に付き添いながら食事や風呂の介助もする。
 漂う悪臭に吐き気を催しながら、房の床や壁にこびりついた汚物をつめではぐ。
 週に2度、たった10分の楽しみだった入浴は、湯に汚物が浮かんでいることも 珍しくなかった。
 出所後は、保護司のもとへ月に2回、顔を見せて近況を知らせ、息子と向かい合うほかは何をするでもなく
 数カ月が過ぎた。手元には毎日のように妻から届いた手紙300通と、その返信、それに独房で書き連ねた日記があった。
 自らへの戒めと、かつて1票を投じてくれた人々への詫(わ)び状として、経験のすべてを記そう??そう意を決し、
 2階の一室にこもった。400字詰めで6千枚。推敲(すいこう)を重ねて800枚にまとめた原稿は昨年末、
 『獄窓記』(ポプラ社)として結実した。 著書は思いもかけず、閉ざされがちな世間への扉を押し広げた。
「だれも語らず、伝えられることのなかった刑務所での障害者の処遇のありようをあなたは初めて記した。
 話を聞かせてもらえないか」
                        (字数の関係でカット(2008年03月15日)
・・・・・・
2003年03月15日(土)
710,「逆さ仏」の時代

 親が子供の葬式を出す意味である。戦前生まれの人は、成人までに自然食で育った。
しかし戦後インスタントラーメンが丁度出始めた頃から防腐剤の入った食品が出始めた。
また農薬の散布で毒入りの農産物を口にするようになった。
農家は出荷する農作物と自分たちが食べるー農薬なしの農作物を分けているとも聞く。
最近の人間の骨は腐らないという、防腐剤がたっぷり骨に入っているためだという。
上記の理由で、20年位前に西丸震哉が40歳寿命説を言い出した。先日も親戚の人が98歳で亡くなったが、
7人の子供のうち3人が亡くなっていた。逆さ仏も今は珍しくない時代になってしまった。
 ある薬局を経営をしている人から、絶対に缶物は口にしないことと教えてもらった。
それと内臓物ー焼き鳥やタラコーや白砂糖やカップヌードルなども毒を口にしているのと同じとか。
緩慢なる毒殺をされているのだろう。その意味ではスーパーの食品売り場は毒物売り場そのものだ。
少しでも注意をしていれば、その量を減らす事はできる。
 あるホテルの人から聞いた話だが「離婚調停でホテル住まいの母子が半年間
三食インスタント物を部屋で食べていた」と聞いたことがあった。聞いていて背筋が寒くなってしまった。


2900, 脳と仮想

2009年03月14日(土)

  「脳と仮想」茂木健一郎著  
                 −読書日記

松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」で、以前、読書日記で取り上げたことがある。
 ーウィキペディアによると
共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。 日本の思想家である吉本隆明が用い、
有名になった言葉である。吉本は、自分の共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、
ただ手垢がついているから使いたくなかったと述べている。
 吉本隆明は、著書「共同幻想論」で人間関係は、3種類に分類されると提唱した。
▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。
▼ 対幻想  = 個人と他者とのプライベートな関係。 ?家族・友人・恋人がこれに当たる。
▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合がこれに当たる。
 ー以上だが、
 これを読んで、いささかショックであった。日本社会を構成している「世間」=地域社会をみていると、
地域の共同幻想を抱いている集団社会が露出して見える。 
また宗教団体も教祖様の教えの刷り込みをした共同幻想集団のことも明白である。
自己幻想も、対幻想も、多くの幻滅を経験した結果として、所詮は自分も、自分を取り巻く社会も幻想で成り立ち、
そのバブルと破裂の繰り返しているだけということが分かった。 死に直面したり、リタイヤをする時に初めて、
勤めた会社を含めた全てが共同幻想の中で、自己幻想と、対幻想を持って生きてきた自分に直面することになる。
 
 図書館で茂木健一郎著「脳と仮想」を借りてきた。 幻想と仮想と、何処が違うのか? 似たものなら、
脳との関係はどうなっているのか?と、考えながら読んでみた。 
この本のテーマの「仮想」は、飛行場で5歳の姉が妹に問いかける「ねえ、サンタさんていると思う?」という
何気ない一言から始まる。サンタクロースという仮想の現われ方、その我われの現実の生活への作用の仕方の中にこそ、
人間が限りある人生を生きる中で忘れてはならない何ものかがある。 それを徹底的に追求した本である。
ヒントは吉本隆明の「共同幻想」から得たのだろうが、それは書いてない。しかし、切り口は鋭く説得力がある。
次回には、印象に残った部分を書き出してみるが、「共同幻想論」に劣らない。
般若心教の「色即是空 空即是色」にも通じる道理でもある。

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2536, 意志するということ!
   2008年03月14日(金)

ーある作家の大病経験からー
               っ´Ι`)っ { おはよう
  作家の石川好の大病経験の手記が、「生老病死」の「 老病死」を迎えるに当たって、
  示唆を与えられた内容であった。彼は以下の文章を書く4年前にリュウマチに罹り、
  インドの病院に入院した経験から、病気経験だけでなく、人生の在り方まで学んだようだ。

ーまずは、その部分を書き出してみた。 とくとご覧あれ! 
 −−
病床に伏して思い知ったのであるが(今更気がついたとて遅きに失するのであるが)、
体力のある人間はおのれの体力を過信するものである。
もし仮にわたしの体の一部にでも弱い部分があったのなら、
日常生活においても仕事においても、病気いうことをわきまえ、自重していたはずなのだが、
体力に自信のあるわたしはそれまでひたすら走り続けたのであった。
無病息災という言葉があるが、重い病気を患い、むしろ一病息災が望ましいのだと思ったのである。
入院中インドの医者の、その技術的なレベルが優れていることに驚くとともに、医者と患者との関係が
いかにあるべきかを巡回してくる毎に話しかける、その見識に、わたしは深く心を打たれたのであった。
例えば、わたしが入院した日、医者達は次のように述ぺた「私たちはあなたの病気を治し、元の体に戻す自信がある。
しかし何より重要なのは、あなた自身が我々と同じ医者のメンバーになる自覚を持つことです。
それは、具体的な治療は我々がするのですが、あなたには病人であるあなたを、
精神的に励ます医者の役割をやってほしいのです。あなたに自分の病気を直す意志や気持ち、
あるいは闘争心がなければ我々がどんなに努力をしてもあなたを完治させることは難しいのです」
病人になってみれば、頼るのは医者だけだと思っていたが(勿論それは間違いのない事実であるが)、
その先生は、病人になったが故に、なおさら人間は自ら生きる意欲を持たなければならない、
と暗に言っていたのである。 自分達医者は病人の自己回復力を手伝う人間にすぎないからだ。
そういう考え方をその医者は説明しようとしていたのだ。こういう医者達との会話の中で、わたしは思い知ったのであるが、
人の生き死にとどう立ち会うかを職業とする医者が、結局人間はすべてその人の意志の強さ(あるいは弱い意志の持ち主で
あるのならばその弱い意志をどのようにして強くするのか)を鍛えるために生きているのだ、ということを、
これまた暗に伝えているように聞こえるのであった。わたしは前に述べたようにそれまでの人生で入院したこともなく、
また十人家族の中で育っても、母親が長いこと腰を痛め入院した.ことを除けば全員がすこぶる元気だったので、
病気とか、それが進行しての死というものを深く考えることはなかったのだが、
 −−

以上だが、「宇宙の意志が、地球を奇跡の星として創り出した。
そしてそこに自然と、生命をつくり出し、人間を創り、この宇宙の意志が(己の目で)
自分自身を見るようにした。」(幕末の僧)のである。意志こそ、大自然の力である。
かつ知識を積むことのできるようになったのは、目に見えない意志があればこそである。
インドの医者の言いたかった、
「結局人間はすべてその人の意志の強さ(あるいは弱い意志の持ち主であるのならば
 その弱い意志をどのようにして強くするのか)を鍛えるために生きているのだ」、
その意志こそ、我々人間の一番大事な何かが隠されているのである。
「死ぬまでは生きている」のである。そして生きている間は、意志を大事にすべき。」
ということだ。

・・・・・・
2007年03月14日(水)
2171, 考える日々                    −読書日記
           池田晶子著 毎日新聞社出版

この本は、9年前の『サンデー毎日』の連載コラムをまとめたものである。
一昔前のためか、少し感覚がずれてはいるが、それでも彼女独特の現世、そして現象への白けた眼が面白い。
私も、知人にはアウトサイダーとか、大変な人と、思われている?が、それをむしろ目指しているのだから始末が悪い?。
しかし、彼女の視線は私のような中途半端ではない。そういえば、哲学者の中嶋義道も「哲学者というならず者がいる 」
という単行本を出しているほど、奇人を自称している。彼女の本を読んでいると、何か親しい友人と語らっているような
気持にならから不思議である。 世間の現象を醒めた眼で見据えているところが同調できる。
 この本の中の面白いところを書き出して、考えてみよう。
 
−酔うほどに冴える、はずだったがーより 
 ー P164ー
ーかっては、すごかった。普通の成人男子は、ほぼ間違いなく、先に潰れた。
それも私の場合、相手が潰れるまで見極めて、しかし、それをしっかり覚えているから、
相手はたまったものではない。言ったこと、口走ったこと、その状況の仔細まで、
全部覚えているのである。それだけ圧倒されて、彼らは早々酔っ払ったのではないか。
仕方ない。私は、酔うほどに冴えわたる体質なのである。
酔うほどに、理性と知性が燦然と冴えわたり,全宇宙の全現象が見える。わかる、わかった、という感じになる。
妄想ではない。じじつ、そうやって手に入れた認識はたくさんある。
飲みながら考えるのが面白くて、かっては、そうしながら、認識メモをつけていた。
またの名を『酔っ払いの覚書』というそれは、さながらウィゲンシュタインばりの、とまでは言わないが、
その一瞬に閃く洞察を?まえてとじこめた断片群、これが、けっこう今の仕事の核の部分になっている。
 酒のことを「スピリット]]と名づけた感性は人類に共通しているようだ。
あの液体は、私にとって、明らかに「精神」であり、思考の円滑油もしくは起爆剤として作用する。
いや、作用したのだった、かっては。ところが最近は、飲むと考えるのが面倒になってくる。

 ー P−166ー
政治家や偉いさんなど、高級料亭で高級な酒を飲みながら、仕事の話をするという、
その感覚が信じられない。酒がもったいない、酒に申し訳ない、私ならそう信じる。
貧乏性ではない、仁義に欠くと感じるのである。・・・・
 男性が、女性のいる店にのみに行く、そのことだけで私はその人を信じなくなる。
ああ、この人は、酒を飲みたいんじゃないんだ。・・・・
この仕事を始めた頃は、編集者に連れられて、いわゆる『文壇バー』なるところにも何度か行ったが正直なところ、
ああいうところは好きではない。そうは言っても狭い業界らしく、互いにどこの誰かと言うのは知っているのだろう。
見てみぬふりをしながら強烈に牽制しあっているのが、よくわかる。
有名作家が太鼓持ちの編集者を引き連れて入ってくると、店の雰囲気ががらりと変わる。
あっちでヒソヒソ、こっちでヒソヒソ、なかで如才ないヤツはオベンチャラを言いに出向くし、
作家は作家で、俺のことを知らぬかという顔で見回しているから、アンタなんか知らないよという顔で、意地でも続けたりする。 
うまいわけが無い。やっぱり酒は、大事に飲みたい。少なくとも私にとっては、人生における大事な時間。
意に染まぬ人と飲むよりも、断然ひとりの方がいい。まだ覚めやらぬまま、日も暮れてきた。
今日の仕事は、これでお終い、これ一本。さて、酒ビンを抱えて、今宵も私はスピリットの旅に出る。
   ーー
   解)この本のあるページに、この時期に小さなガン細胞が発見された、とあった。
    死因は腎臓ガンというから、やはり酒の飲みすぎ?ということか。
    酒は般若湯というとおり、頭を中を活性化させる。凡人はそれを活用できないが、哲学者にとって思考活性水として
    思考の飛躍にはモッテコイであるが、それが命取りになってしまった。 それにしても生半可な酒飲みでない。
    酔ったときの一瞬の知恵を掬い取ってしまうというのも、彼女ならではである。
    また、文壇バーの文士様の姿を面白おかしく描写しているが、だいたい酔っ払いなど、こんなものだ。
    何処かの街の御名士様溜まり場バーなど、ほぼ同じである。私自身、そういう御名士様溜まり場バーには一切行かない。
    スナックでも4千円までの店しか行かないからニアミスはない。
    寂れた、うら悲しそうな小料理屋かスナックで、オダをあげるのが好きである。
      酒に沈没したオナゴ哲学者・池田晶子に献杯!
                              o(▽^*)ノ~~=バイ
・・・・・・・・
2006年03月14日(火) 1806, 秋葉原再開発
     |。っω-)..。oо○(゜+。ぉレ£∋ぅ゜+。)

先日、東京・秋葉原にたち寄って、その変容に驚いてしまった
三十年以上前から秋葉原のワシントンホテルが定宿で、年数回は電気街を歩いていた。
しかし5年ほど前から日暮里のホテルに変えてしまった。
久しぶりに秋葉原の電気街など駅周辺を散策したが、駅周辺の再開発で街が一変。
最近になり、電気・電子機器などの世界の秋葉原と注目されているが、猥雑な感じが残っていて、街そのものが面白い。
昨年、筑波都市と列車が直結したこともあり街が萌えているようだ。IT宅族にとって、この街は魅力のある街だ。
立ち寄った当日(3月9日)に、秋葉原UDXが開業したが、その事実を知らなかったため見学できなかったのが残念。
再開発地区「秋葉原クロスフィールド」に オフィスや飲食店街などの複合ビルが立ち並んでいる。
秋葉原文化の発信地としての役割が期待されているようだ。
東京に行く度に、エネルギーを東京にとられ地方がマスマス弱体化していっているのが手に取るように分る。
東京駅や新橋周辺だけでなく、神田界隈、秋葉原、上野・アメ横、日暮里と下町の個性の集積が出来ているようだ。
特に東京駅再開発が2011年に完成予定というが、日暮里、上野、秋葉原、東京、新橋と駅周辺の再開発が進んでいる。
これに地下鉄と結びついて、足の便が非常に良くなっている。
 これがバブルなのか、本物なのか十年先には判るだろう。

                          o(▽^*)ノ~~=バイ〜バイ♪
・・・・・・・
2005年03月14日(月)
1441, 星野富弘ー詩画展 −2

先週、近くの長岡中央図書館に行ったところ星野富弘ー詩画展が2Fで開催されていた。
3年前に新潟市に隣接している豊栄町で見ていたこともあって、今回は見るのをパスをしたが、
いま一度見ておけばよかったと後悔している。
画家から見たら、星野さんの絵に対して違う見方をするだろが、絵からは花に対する思いと、
美しさへの感動が直に伝わってくる。花という儚い一瞬の生命の光りが、そのまま絵にこめられている。
花が自分で星野さんを通して、その姿を刻印しているようだ。
首から下が麻痺で動けない状態で、口だけで描くのだから、「念写のような」という表現の方が正しいのかもしれない。
誰もが感動するのも納得する。反面、あまりに波動が強いこともあって、少し不自然?の感もするが、
絵は、それで良いのではないだろうか! いかなる状況でも、人を感動させる道があるものだ。

以前、書いた文章をコピーしておきます。
ー文章に書き残していると、その時の感動、感想が残るからよい。 絵に残すのは、もっと残るだろう。
ーーーーー
2002/06/28
星野富弘ー詩画展 −1

先日、新潟近郊の豊栄の公会堂で彼の詩画展に行ってきた。
数百人が来ていて,何ともいえない熱気に包まれていた。

ー彼の概略は
・私と同じ年の1946年生まれ。24歳のとき教師をしていたクラブ活動で、首の骨を骨折して手足の自由を失う。
・入院の2年目より口に筆をくわえて文や絵を書き始める。
・9年後の退院の年に前橋で絵画展を開く。
・その後国内やアメリカ各地で花の詩画展を開く。
・1991年に生地の群馬県勢多郡東村で村立富弘美術館を開く。 毎年40万人が訪れるという。
彼のことを知ったのは十数年前の「到知」という雑誌である。
対談だったと思うが、その中で「傷口よりあなたの優しさが沁みこむ」という文が忘れられない。
早速詩画集を買って絵を繰り返し見た。口で、これだけの絵を書くエネルギーに別世界を感じ取った。
今回の豊栄の「花の詩画展」で彼の絵を同じ目線で直接見て、自分が彼(星野)そのものになって、
自分の絵を見ているような気持ちになってしまった。何か悲しい、しかし底から突き上げてくるような暖かさを感じとった。
更に動けない自分と花が一体化したような。花も星野という一つの生き物が自分と一体になっていることを喜んでいる感覚。
見方によっては、反対に不自然な絵でもある。 これまで一人の人間に見つめられた花が過去にあっただろうか?
愛情と言葉とエネルギーに包まれ一体化して、絵として表現されたことが。絵の世界ではあったのか知れないが。
決して幸せでない、動けない自分に対する苛立ち、諦め,怒り、そして愛がそのまま絵と文を通して迫ってきた。
地方の女性が一生、因縁に縛られ他の世界を知ることなく終えようとしている。
そういう人にとって、その絵と文は、いま流行の癒しとなるのだろう。

・・・・・・・・・
2004年03月14日(日)
1075, スペインのテロ

・スペインのテロがあったが、次は日本と連想をしてしまう。
「大国?で、60年近く戦争が無いこと自体が異常」と考えたほうがよい。
何かが起こるのは必然と考えておいたほうがよいだろう。北朝鮮が仕掛けてくる可能性もある。
イスラエルやシリアでは、生の虐殺のすざましい話を聞く。シリアの前首相のサダトは、テロリストの
潜伏している町の住民全て殺して、町ごと埋めてしまったという。それ以来、シリアではテロは無くなったという。
旧約聖書を読んでいると、預言者が「この町をの虫一匹残らず殺せという神の
お告げがあった」いえば、そのとおりにしてしまう世界である。一神教は仏教とは違う世界なのだ。
それに対抗する為に「マホメット」がアラブ人ようにイスラム教を創作した。
その争いから、グローバル化になってしまった現在、逃れる事は不可能である。
中国のウイグル地区でイスラムに滅ぼされた仏教国の遺跡を見てきたが、仏教とイスラム教では
(戦いという点で)次元が違う。だんだんアルカイダの術中に引き込まれているのかもしれない。
これはテロというより戦争のゲリラ戦と考えたほうがよい。
日本は新幹線か山の手線をバズーカ砲一発で大混乱だろう。

・・・・・・・・・
2003年03月14日(金)
709, シンプルー2  
 −ワンプライス・ショップ

私の経営するホテルはワンプライスホテルである。ホテルは値段を数種類にしておいて、
繁盛時期ー夏期や連休や、週間単位では火水木曜日に高い値段の比率をあげて売るのが常識であった。
それを一切無視してお客本位にしたのが当ホテルだ。 100円ショップもそうだ。
スナックでも、時間性で3千円とか5千円という店がある。九州の境内の土産物屋で、中学生が多く入っている店があった。
千円均一の店であった。修学旅行の中学生に一番手ごろの千円に絞って品揃えをしてあった。
土産物屋でも業態が可能であったのだ。
居酒屋で300円か400円の均一の店を出せばと思うのだが。
料理や酒すべてワンプライスにすればよい。おそらく多くある筈だ。おでん屋もよいのではないだろうか。
今なら不況なので200円均一にして、ビールなら生ビールだけにして、千円のセットー5品から出せばよい。
格安なセルフの讃岐うどん屋が流行っているが、これも100円ショップにすればよい。
素うどん100円、トッピング100円とか。すべての事にいえるのは「絶対に例外を認めない!」ことだ。
一つでも認めれば意味がなくなる。100円ショップで「200円コーナー」をという誘惑にかられそうになるが。
例外なく均一100円だからよいのだ。値札をつける必要もないし、値下げの必要もない。
ヘドロ商品は2個100円にすればよい。メーカーも問屋も分かりやすいし、お客の方もそうだ。
ワンプライスでなくても、ファミリーレストランや居酒屋チェーンでは値段を3〜5種類に絞っている。
「シンプルイズベスト」の典型である。駄目な店ほど多いアイテムの商品と値段の店が多い。無知の涙を地にいっている。
こういう眼で見ていると、飲食店ウォッチングになる。


2899, イオンの誤算

2009年03月13日(金)


イオンには大学を卒業直後、ジャスコの創業期に一年在社したことがある。
まだジャスコ・オカダヤという名前で、三社合併の一期生。僅か一年でも全エネルギーをようした記憶がある。
その後のジャスコの躍進は目を見張るものがあったが、地方の郊外型SCに全エネルギーを傾けたことと合併が
最大の戦略ポイントであった。辞めた直後に三菱商事と組んでダイヤモンド・シティを設立したのを憶えている。
その7〜8年後に長岡に立ち寄った元同僚の話によると、「SCが大当たりで、テナント料だけで元が充分とれ
本体の出店はイニシャルコストも、ランニングコストも零になる」という。
なるほど、その後も快進撃を続けるのも肯ける。この10年は常に時代の変動の中で株価は2〜3千円をつけていた。

ところが、去年からイオンに対して「悪質なデマが流されている」というニュースを時どき見るようになった。
株価を意図的に下げるためだという。
先週、たまたま日経ビジネスの去年12月8日号「イオンの誤算」の特集を図書館で見つけた。
それによると、やはり重大な岐路に差しかかっているようだ。 
この時期〈12月)の株価総額が二年前のピーク時の四分の一、10年前の現在の社長が就任時期の二分の一。
さらに現在550円まで下がっているから、さらに25パーセントも下がっているので六分の一になる。
僅か二年余りに六分の一は、重大な事態である。 このままでは第二のダイエーになってしまう。
時代の激流は、あのイオンさえも飲み込んでしまう。
この10数年も拡大路線を続けてきたかというと、アメリカの「ウォルマート」の影に追われたため。
しかし西友を買い取って乗り込んできたウォルマートは、その後、日本の風土に合わずに大苦戦。
意識のしすぎのようである。 その上に三つのマイナス要素が重なった。
・まずは出店拡大にストップをかけた「まちづくり三法」である。
・次にこの金融危機のため、公募募集に対して出資者が激減してしまった。
・さらに稼ぎ頭だったイオンクレジットの金利が18パーセントに引き下げられ金利収入が激減。
  要するに郊外型SCバブルが弾けてしまったのである。
これ以上下がると、恐れていたウォルマートが株を買い集める可能性も充分に出てくる。
 百貨店の大同合併も含めて、流通も氷河期に入ってしまった。

・・・・・・・・・
2535, 今年のフランチャイズ・ショーの感想
2008年03月13日(木)
                 ヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよ?♪
二年ぶりにホテル・レストランショーと、フランチャイズショーを見てきた。
晴海に出来たビッグサイトで毎年開かれているが、30年来毎年行っていたが、この数年は隔年にしている。
おおよそ大会場を二回周る。 一度目は大雑把に見て周り、二周り目は気になったところに行く。
もともと店舗ショーと、一緒に行われていたが数年前から分離、開催されるようになった。
ただ不景気のためか、年々勢いがなくなっている。 
 ー今回、面白いと思ったのを挙げてみると、

*木製のカプセルホテルのベッドである。
 家具屋が忠実に防音をテーマにして作ったもの。ホテルのテナントが撤退したあとに狙いを付け提案型にしたのが
 ポイントという。 当方にぴったりだが、少し値段が高いのが玉に瑕だが、木製のカプセル内は寝ていても
 抵抗感が無いのがよい。 何か押入れの中で寝ているような感覚になる。
 しかし木工団地の家具屋に行って特別仕様でつくれるレベルである。
 だから提案型にしなければ、誰もが自分で家具屋と組んで作るだろう。

*次に面白いのが電子レンジ・炊飯器。
 特別仕様のレンジにビニール製の器に米と混ぜ物をいれて米を炊くもの。
 20種類ほどのチャーハンや、炊き込みご飯や、雑炊が手軽に作れる。
 ホテルやレストラン向きのもので、ご飯が電気釜のものよりはるかに美味しい。

*ホルモン焼き肉屋のフランチャイズも面白い。
 客単価が普通の焼き肉屋の7割の3500円が売りだという。
 広島の業者のようだが、出店の全てが成功していると豪語していた。
 それと「10円饅頭」「新しい形の質屋」のフランチャイズも面白い。

*ある厨房メーカーが「つぼ八」の部長にインタビュー方式でオール電化の厨房を紹介していた。
 スペースを取らないですむのと、厨房の温度の不快さを防げるという。
 光熱費の20?オフになると言っていたが、一切火を使わない厨房には驚いた。
 
  行きつづけていると、バブルの崩壊以降の日本の衰退がハッキリ見えてくる。
  それと問題意識を持ってみてないと、何も見えてこない。
  今回の私の問題意識は「今まで無かった、変わった店と商品」である。いずれにしても、夢があってよい!

・・・・・・・・・
2007年03月13日(火)
2170, 「日の名残り」ー 2   読書日記
       (~Q~;) おはよう?? ファ?

最後にある丸谷才一の解説の中の、ある一節がよい。
彼をしてこれだけの解説をさせるのだから、カズオ・イシグロの作家のレベルを窺い知ることができる。
 ーまずは、その解説の一節を抜粋してみるー

ーヘーゲルの名文句に「従僕の眼に英雄なし」あるが、ヘーゲルは、「それは英雄が英雄でなく従僕が従僕だからだ」
と言い添える。服を着せたら長靴をぬがせたり、身のまわりを世話してくれる卑小な男にかかると、
どんな歴史的人物も偉大なところが見えなくなる。欠点しか目につかない、というわけだ。
そういう理屈で押し切ることで、ヘーゲルは彼の歴史哲学を構築した。そうしてたいていの歴史小説は、
英雄を従僕の眼で見る手法と、英雄崇拝的な民衆の眼で見る態度とをまざあわせる手法で成り立っている。ー 
 ーー
 この文章を読むまでは「英雄の私生活はその偉業を除けば普通の人と何ら変わらない」
という解釈で、従僕の卑小な眼の限界というヘーゲルの隠された意味を初めて知った。
最近、「そうだったのか!」と、知らなかったことがあまりに多い。
良く解釈すれば、知識が増えた分だけ周辺の知らないことに気づいたということになるが。
そんなレベルには、まったくないことは自分がいちばん知っている。
またいかにもイギリス的なところが書いてある一節を紹介してみよう。断片からみる文化も興味をひかれる。
  
ー私どもの世代にとりましては、執事としての職業的威信が雇主の人間的価値の大きさに比例して決まってくると
言って過言ではありません。 ・・・  父の世代の執事は、世界を「はしご」に見立てていたと存じます。
いちばん上には、王室や公爵家をはじめとする、古い家系を誇る家々があります。
やや下がったところに、「新興階級」が位置し、サラにずーと下がってある位置を越えると、あとは単純に
財産の多寡で上下関係が決まります。多少とも野心のある執事は、このはしごをできるだけ高くまで上ろうとしましたし、
一般的には、高く上るほど、その職業的威信も増したと言えましょう。
もちろん、ヘイズ協会の言う「名家」の背後には、こうした価値観が隠されていたのです。
・・・ 私どもの世代では、この世界を「はしご」ではなく「車輪」に見立てていました。
それは、偉大なお屋敷を中心に回転する車輪なのです。中心で下された決定が順次外側に放射され、
いずれ、周辺で回転しているすべてにー 貧にも富にもーいきわたります。職業的野心を少しでも持つ執事なら、
誰でも車輪の中心を望み、そこへできるだけ近づきたいと願ったでしょう。   ・・・・(中略)

ー執事になりたての頃は、私も雇主から雇主へ頻繁に移動いたしました。
それは、最終的にダーリントン卿に巡りあう幸運に恵まれるまで、そのときどきの地位から永続的な
満足を得られなかったからにほかなりません。召使部屋の火を囲んで「偉大さ」の何たることかを語り合った当時、
ミスター・グレーアム、私も、この問題にこのような側面があろうとは思いもつきませんでした。ーー
ーーーー
この本を読んでいて、イングランドに行きたくなった。学生時代に行ったイングランドの印象は良くなかった。
プライドだけ高く、昔の威光がもの悲しそうに光っている国。もう二度と来たくない、というイメージがあった。
しかしその時、イギリスは数年いると深い魅力に圧倒されるとも聞いた。
面白いもので、一昨年に北イタリアに同行した人からイングランドの旅の誘いの手紙が来た、さてどうするか。
友人の息子がアイルランドに留学に行っているので、二人で夏に訪ねていこうかと、先日酒を飲んで盛り上がったが、
どういうものか?北イタリアの人に今日明日に手紙を出さないと!この本を読んで感じ取ったことは、
国の品格ということだろう。
この礎は世界中の植民地から奪略をしてきた富から成り立っていることも事実である。 
突き詰めれば、どう考えるか?である。
                 ヾ(●´∀`●)  バイ!        
・・・・・・・・
2006年03月13日(月)
1805, おひとりさまー3
          (○´∪`●)φ...【ォハョゥゴザィマス】

「おひとりさま」について、二回書いてきたが、この言葉を流行らせた原本の、岩下久美子の「おひとりさま」
は読んでなかった。ところが先日図書館で、この本を見つけて読んでみた。自立した女性というより、
自立した人間について書いてある。私のような「ひとりさま」のプロ?は、今さらの内容だが。
組織に組み込まれている人に自立した行動に苦手な人が多い。
共通の目的を持って分業をしているので、お互いの連携が前提になる。
群れる傾向の強い女性に、この本は良い教訓になる。一人で行動するのは若い女性にとってまだまだ制限がある。
一人では出来ないことが二人だったら出来ることを女性は知っている。
「おひとりさま」という言葉が広く受けられるようになったのは、時代の要請があるからだ。
この本で面白いのは、「パラサイト・ラブ」という言葉である。
携帯電話がパラサイトを助長させたのだろうが、愛情寄生虫とは良くいったものだ。
ひとりー孤独ーを愛せない人間が、お互いを愛せるわけがない。
ひとりの時間をキチっと持てない人間が、二人の時間を維持できるわけがない。
自立してない人は、相手の自立が理解出来ないので適度の距離を保てない。
だから、人間関係が短期的になってしまう。相手に気持がいってしまうので、気持ちが不安定になってしまう。
情報化の時代である。「自分は、こうである!」という『個』を確立しておけば、そしてブログなどに主張しておけば、
会うべき人との出会いのチャンスは幾らでもある。
           ((o(´・з・`)グッ。・:*:・゚☆w(´・з・`)バァイ
・・・・・・・
2005年03月13日(日)
1440, 閑話小題ーつれづれに

ーライブドア問題ー
ライブドアとフジTVの日本放送株の新株予約権発行を巡っての地裁の発行差し止めの仮処分申請は、
ライブドアの言い分が認められた。フジと日本放送の経営者の保身のための「奥の手」でしかないのは、
自明のこと。フジのトップがあの程度ということがハッキリしたのが第一の収穫。
いろいろな問題があるのだろうが、それだけでも堀江の今回の問題提示はよかった。
それにしても、なんじゃいあのフジの連中!判決が不利になると、急に低姿勢に変身しだした。 
時代の変化と金融のことが解ってない。多くの解説者が「あのフジの??」と論をはるだろう。
あくまでも結果を待って言っているに過ぎない。

ードロドロした話ー
数年前のことだが、「慶応の在学中に、会計士の試験に合格をした男がいる」という
知人の話を聞いて、「是非面白そうなので会わせて欲しい」と頼んで、会った人がいた。
大学と、(会計士になるための)専門学校に同時に通ったという。
話していて、目から鼻に抜けるような頭の切れる人で、地方では珍しい人というのが印象的だった。
しかし、人生の一番大事な時期に全く社会から隔離されたいた左脳人間にも思えた。
でも、こういう人のほうが、痴呆名士様よりズットまともであるが。
痴呆迷死的な要素は一年もあれば、いや一週間もあれば飾り立てることができる。
税理事務所の二代目で、会った時は親父の会社に入社したての頃であった。
「親父も、事務所の人たちも大変でしょう?」と聞くと、「そのとおりで困っている」との返事であった。
たまたま、アニメの「「千と千尋の神隠し」」が話題になっていた時で、
「あの大きな赤ちゃんに類推できるのでは?」というと、本人も「全くそのとおり」と納得していた。
ところが2?3日前のこと、新潟日報の三面を見て驚いてしまった。
親子して逮捕されたとの報道。病院乗っ取り事件で、複雑なドロドロした事件のようだ。
補助金詐欺というが、「せっかく貰えるものなら」という気持ちも解らないでもない。
それだけ補助金とはいい加減なものでしかない。
政権を保持している政党が圧力業界と組んだ??の要素が強い。その方が問題である。

ー「NHKのど自慢チャンピオン大会」ー
昨夜、「NHKのど自慢チャンピオン大会」を見た。16組がグランドチャンピオンを目指して熱唱したが、
ある女性をうたう前に家内に、「歌う前だが、この娘が間違いなく優勝するだろう!」と、いったら、
その予言どおり優勝をした。もしかしたら、彼女の歌を偶然聞いていた可能性があるが、
ホボのど自慢は見ていないので、見ていない。見た瞬間、光る何かを感じただけなのだが。

ー今日の「閑話小題」は、「閑話休題」をもじったものであるー

・・・・・・・
2004年03月13日(土)
1074, ホテル・レストラン・ショー (2)

ユビキタス(隠れたコンピュータ)を利用した調理器具や健康器具などが目立っていた。
その一つが電子調理機器である。IH式の焼肉機器も、その一つであった。
焼肉屋といえば多大な設備投資が掛かる、個々のテーブルに換気機能が必要だからだ。
それがHI方式で、換気設備が必要なくなり手軽に、焼肉コーナーや焼肉店が出せるようになるという。
また製麺機や小型餃子製造機やパン焼き機とか、職人(経験)の分野へのハイテクによる代替えが進んでいるようだ。
中国に生産基地を置いて、内装工事や家具を現地で生産して、短期間でコンテナで送り届ける会社があった。
紳士服の一部が数年前から行っていたようだが、建設の分野まで中国現地生産が出てはじめた一例である。
大よそ国内の3割?半分の価格をうたい文句にしていた。他に目立っていたものに、インターネットカフェがあった。
漫画喫茶がいち早くインターネットやゲームを取り入れて新しい業態をつくりあげていた。
若者を中心に社会的認知を得てきてるようだ。インターネットカフェが出来ると、近くのビジネスホテル客が激減するとか。
個別に仕切られたボックスのリクライニングの椅子で、千円?2千円で一晩過ごせる。
これにシャワールームでもあれば、別にホテルで寝る必要もないのだ。
カプセル・Hから、更により小さなスペースで済ます流れになってきているのか。

・・・・・・
2003年03月13日(木)
708, シンプルー単純の勧め

「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に」というが、
「難しいことをシンプルに」とも言い換えることができる。何事もまずはシンプルにである。
チェーン理論の基本は「シンプルに、それをスタンダードにしつづければ、スペシャルになっていく」である。
「スペシャルをスタンダードにしていけば、シンプルになる」ともいえるが。
 デジタルは10進法を0・1の二進法に置き換えたところから出発している。
アメリカの大統領だったレーガンは全ての問題をー「テーマとそれに対して3分類、それを3分類、さらに3分類と
27分類にした報告書を出させて、それに従い判断していた」という。この分類こそスタッフの最重要な仕事である。
 自分の生き方をはっきり決めておけば、自然とシンプルになっていく。
それに遵って生きていけば、判断と決断は簡単になる。複雑になっていくのは、自分のルールや生き方が確立されないからだ。
自分で判断をする主体性があれば、全てがシンプルになっていく。
私の場合は早いうちに創業をしたのが最大のメリットであった。
正しいかどうかは別として、とりあえず主体的に判断せざるをえなかったからだ。
「最期は独り」ということを常に自覚していれば、シンプルに生きられる。
複雑に考える必要もないし、悩みも最小になる。何事も単純に単純に単純に
考えれていけばよい。画家の山下清などは、それがプラスに働いたのだろう。
シンプルということは、ABC分析でいうAに絞る事でもある。エネルギーの集中ということだ。


2898,現在、歴史的転換期の真っ只中

2009年03月12日(木)

現在、我われは途轍も大きな歴史的転換期に立っている。
・東欧・共産圏と、ソ連の解体を20年前に見せつけられた。
 誰も自分の生きているうちにソ連が解体するなど想像すら出来ないことであった。
・その直後から、パソコンによるインターネットや携帯電話などによる情報革命を目の当たりにした。
・21世紀の初頭の2001年9月11日にはニューヨークの二つのビルに旅客機による自爆テロが起きた。
・そして今度は、アメリカ資本主義帝国の破綻と世界恐慌である。
 それと、そのアメリカで歴史上初の黒人の大統領が誕生した。
この一連の出来事は、何か得体の知れない歴史的な転換期に我われが立たされていることを知らせている。
  近代という名のロシアを含めた欧米主導の進歩と共同幻想が破壊したことである。
そして、欧米の暗示から醒めた世界中の民族と、これまでの欧米の文明の衝突が数十年にわたり本格化する
岐路に立っているのが、現在地ではなかろうか。 そうすると、今年にかけてイスラエル国内?の
アラブ地区での虐殺が象徴的に際立って見えてくる。世界の中東・イスラエル化が今度の行き着くところだろうか。
アメリカはイラクを捨てて、戦線をアフガニスタンまで下げようとしているが、
イラクからの名誉ある撤退のための方便とも考えられる。 最終的には日本まで下げてくる可能性もある。
アメリカの国力が、この恐慌で大きく疲弊してしまったからである。
 そこで日本は大きな選択を迫られることになる。
・中国と距離を置いて、アメリカ、カナダ、ロシア・シベリア地区、日本のラインの同盟を組むか、
・中国、韓国、台湾、アジアと組んだブロック化の仲間入りをするか、
・何処とも距離を置いた欧州のスイス的な方向か、になるだろう。
どれをとるにしても、日本の国力があまりに疲弊しているので、大きな問題が次から次へと起きるだろう。
今までのアメリカのポチの存在であることは不可能である。
 私の人生だけでも、世界の激変を多く目撃することができた。時代の激変という面で何世紀も生きたような気がする。
  濃厚な時代を生きることが出来た!ということか。

・・・・・・・・・・
2008年03月12日(水)
「金と口の出し方」?2

ー「金と口の出し方」の問題に対して、更に書き写してみよう。
 ーー
「金は出すが、ロは出さない」とか、「金は出すが口も出す」とかいう言葉がある。
それで、この金と口の出し方について、いろいろ考えて見た。
・まず、金を出す方の立場から。 金は出すが、口は出さない、という結構な人。寄附などこれに当たるだろうが、
ほかにそんな奇特な人はまずいないだろうと思われるが、それが、意外にある。銀行の預金者。それから、日本の納税者。
ただし、政治献金を出す大企業も、口先ではそんなことをいうが、むろん大嘘で、
ほんとうは次項に属する。金は出すが、口も出すというのは、社員に対する社長。
テレビのスポンサー。それから、たいていのパトロン。
金は出さないが、口は出すという勇ましいのは、ろくに税金も払わないで、
何とか国家に文句をつける方々。もっとも一方で、政治家とは公然脱税業であると心得て、
これもほとんど税金を払わないくせに、国防だの教育だのに、大きな顔をして口を出す政治家が
ワンサとあるのだから、アイコである。金は出さないが、口も出さない、というのは、アカの他人である。
・次に金をもらう方の立場から。金は出せ、その代り口を出してもいい、というのは大抵の場合、女房がそうだろう。
正確にいえば、口を出してもがまんするしかないということだろうが。
金は出せ、口を出すな、というのは、セガレや娘が親に対していいたいせりふだろう。
金を出さなくてもいい、その代り口も出すな、というのは、アカの他人に対しては、こういうよりほかはない。
金は出さなくてもいい、しかし口を出してくれ、という人。 こんな人はいない。    『半身棺桶』
 ―ー
以上だが、これはゲゼルシャフトとゲマインシャフトの混同の話になる。
(この難しそうな話は後日、読書日記で書いてみるつもり)己と他者の関係の話にもつながってくる。
一般的に、他人の知恵を借りるのはタダというのが一般の通り相場である。
それを如何に他者(本)から引き出し、それを己の知恵に摺りかえるのが読書の効用である。
話は変わってしまったので元に戻す。「金は出さないが知恵を出してくれ」ってのが、何人かいる。
無料コンサルトを当然のように求めてくる人。それも、交互の利益になるならいいだろうが、そうじゃない人の場合・・

・・・・・・・・
2007年03月12日(月)
2169, 書店のカテゴリー・キラーの業態
               オッ(*^○^*)ハ?ヨウサン!

土曜日の朝、新潟駅裏に開店した『ジュンク堂』について書いていた。
コーヒータイムに、その日の朝日新聞・土曜版の一面トップをみたら、なんとジュンク堂社長の
インタビュー記事の特集をしていた。偶然にしては出来すぎである。「意味ある偶然の一致」である。  
それより「私の感覚も悪いものではない!」とほくそえんだが・・・。

  ーこの朝日新聞の内容をまとめてみると、
・最新の池袋本店は地上9階、地下1階で日本最大の2000坪(6600M)の売り場に約150万冊が並ぶ。
少しでも多く本を置こうと、レジは1階だけにしてある。各階の窓際には特注したナラの机とイスが並び、
客が座って本を読める。テラス付きの喫茶店もある。「図書館のような書店」である。また新宿店も最近、大幅増築。   
・「立ち読み厳禁、座り読み大歓迎」をうたい文句に店内に机とイスを入れ、社員の制服をエプロンにし、バーコードを
読み取るレジを導入してある。今では多くの書店で見られるが、先駆けたのは、書店界では後発のジュンク堂だ。
・95年の阪神大震災で中核の2店が壊滅状態になったが、その年から全国展開を開始した。98年に累損3億円を抱え、
経営危機に陥ったが、ボーナスカットや家賃下げで切り抜けた。「後発のため他の書店がやらないことをしらないと
歯が立たない。震災で退路を断たれた。チャレンジ精神はマイナス要因のおかげ。リスクを持たないと大きくなれない。
・年商約400億円、経常利益は5億8600万円である。店舗数27店、正社員とアルバイトで1800人の企業。
・最初の店から340坪(1100平方メートル)で開店。小さな書店に将来がないことは、
社長が親戚の書店・問屋の外回りでわかったこと。神戸では大型店はダメだと言われていたが大型店しか物件がなかった。
大型店なら専門書をそろえないと数字が取れないことも、やってみてわかった。
担当者ごとに勝手にやれる制度にしたところ担当者が懸命に勉強して、専門書をどんどん増やし、自然に超大型専門店になった。
・全国展開のきっかけは? 大都市でなく中堅都市でも大型店は可能。モデルを作れば向こうから出店の話が来ると考え
94年に明石市に大型店を開店。バブル崩壊でビルががら空き、家賃が安くなったのも大きな要因である。
明石開店の直後に大分市から話が、その成功例を見て鹿児島から話が来る。
・店内で客が座り読みする机とイスを入れた理由は?というと。
「専門書を探すのに時間がかかって足が疲れる。本を選ぶための机とイスがほしいし、
コーヒーがあればなおいい」と顧客から言われたのが元である
。神戸の2号店に初めて喫茶と座り読みコーナーを設け、96年の大阪・難波店で机とイスを本格的に導入する。
・座って読んでしまえば、本を買わなくなるか?というと、そうではなく、ただ読みできる本は買う値打ちがないと割り切った。
専門書は数ページのためだけに買ってくれる。専門書だから座り読みが成り立つ。
・図書館のような書店と呼ばれ、売るよりも品ぞろえが目的というくらいの、
愚直な品ぞろえが信条で、「日本国中どこにも置いてない本を見つけた。さすがや」といわれるのが、店の基本。
・駅から歩いて1.5等地を探します。2等地は不便で、1等地は高い。 利益率がよくない書店はやっていけない。
・今はネットで本を販売する社会になったが、ネットで調べたメモを手に来店する客がかなりいる。
ネットは競合だけでなく、客を店に誘導してくれる。こちらにとっても有益なツールだと思っています。
  ーーーーーーー
 久々に面白い店をみたが、ウェブ2・0の流れと似ている。お客の立場に立ってサービスを徹底させないと、
 生き残れないということか。今後、週1?2度の昼の散歩コースになる。
                       ホンジャ、バアアイ ♪♪((((*`・´))ノ ♪♪
・・・・・・・ 
2006年03月12日(日)
1804, 店舗ショー
     才ノヽ∋?_φ(≧ω≦*)♪ ございます!
     
毎年、この時期に店舗ショー(FC、警備防犯、資材、店舗機器)が、大規模に開催される。 
今回も2日間にかけて見学をしてきた。時代の流れを見るなど悠長なことでなく、
何か一つか二つでも具体的に何かを把握することを課しているが、それでも漠然としたものになる。
顔みしりが何人もいて情報を交換する。幾つかの館内を歩いて歩いて歩き回る。その中から時代の変化が見えてくる。
今回の圧巻は警備防犯の館内であった。直接の仕事とは関係がないが、防犯という視点でみると面白い。
特に、防犯カメラと録画を大手メーカーが本格的に力を入れていた。
マンション、オフィス、学校関係が本気になって対策を始めたためだ。
メガネに超小型カメラを設置するのもあった。まだ電波では飛ばせないと言っていたが、可能になるのも時間の問題だろう。
人の視線の映像を気楽に携帯電話でみたら面白い。BS・TVで外国の街を人の目線で歩き回る番組を土日に放映している。
ちなみに、昨日はスペインのトレドだった。 あと面白いのはビッグサイトの館内の公衆電話のように館内のコーナーに
パソコンが並んでいて、コインタイマーがついていて10分100円で使える。席は何時みても満席であった。
フランチャイズの館では、昨年と一昨年、勢いのあったインターネット・カフェと、癒し系の店と、セルフウドン店、
の出店が激減。それに引きかえラーメン店が根強く、多く出店していた。  (●´∀`)σ)д`○)プニッ♪
全体のイメージとして、「ユビキタスが浸透、IT化と結びついて時代が大きく変化をしてきた」ということだろう。
店舗の機材の館ではスーパーで商品を買い物カゴに入れると、それがそのままカウントされてカートの液晶画面に表示される
のが印象的であった。数年先のスーパーのスタイルだろう。
自分の口座から自動的に引き落とされれば、スーパーのレジの携帯も様かわりする私の買い物の半分以上がネットである。
この傾向はもっと進んで、根こそぎライフ・スタイルを変えるだろう。どのへんに落ち着くのか?
                †_(・ω・*)β.。.:*・゚βyё
・・・・・・
2005年03月12日(土)
1439, BOSEのステレオ?2

会場で見たものより一回り小型のコンポ・ステレオの広告が、数年前から雑誌などに出ていた。
たまたま先月あるBS・TV局で、このステレオのミニ特集を見て、「一度は聞いてみたい」と思っていた。
店舗ショーのコンポは、広告で見ていたコンポの3倍近くの値段。もちろん買う気はなかったが、
その音が耳に焼き付いてしまった。そして、いつの間に自分でも買えないものかと考えるようになった。
分割をすれば何とか買えるが、衝動買いにしては高い買いものになる。
「次週のホテル・レストランショーに出店するかどうか」聞いたら、出店するという。
そこで時間を置いて冷静になって判断をすることにした。翌日、長岡で友人と酒を飲みながら前日の話をした。
ところが9万弱の、広告に出ていた方のミニ・コンポを買って、聞いているという。 
曰く「その上機種が売り出されると聞いている。それだけの価値は十分にあるはず。
現在持っている機種も素晴らしい!」3日前のホテル・レストランショーの会場でも、それでも迷っていた。
ところが担当が、「まだ迷っているのですか、それなら3ヶ月前に買ってくれた本人に直接聞いてみたらよいですよ」と、
50?先のブースの人を指した。そこで、言われたとおり聞くことにした。「全く素晴らしい!ぜひ勧めます。
損をした感じは全くないし、私の部下に音響マニアがいて、聞いてもらったところ驚いていた。間違いはありません」
とのこと。互いに打ち合せている様子でもなく納得をした。 気持ちの問題で、ローンで買うことにした。
私が28万円のコンポを買うとは、自分でも不思議である。納品は、来週末というが、その感想も後日書く。

・・・・・・・・
2004年03月12日(金)
1073, ホテル・レストラン・ショー (1)

先週のフランチャイズ・ショーと同様、五年ぶりに一泊2日でホテル・レストラン・ショーに行ってきた。
FCショーの方がエキサイティングだったが、ここも見るべき内容が多くあった。
2会場で3月9日から12日まで晴海のビック・サイトで開催されている。
ホテルと飲食関係の調理器具と、家具・設備と、各種ソフトの展示・相談会である。
笑ってしまうほど面白いものや、唸ってしまうものが多くあった。

ーフランチャイズ・ショーと同じく、数回に分けて面白い順に書いていく。
・まずは「厨房機器・用品」のディスカウント・リサイクルチェーン。新潟にもあるが、それは単独店である。
 そこに出店していた店は全国チェーンで、ほしい機器は全国から取り寄せが可能なのだ。
 チェーン・ネットの一番良いところが機能しているようだった。飲食店一軒を、全国から取り寄せたリサイクル品で、
 半額前後で開店可能という。店舗の名前もズバリ「テンポスバスターズ」である。
・鰹節屋のコーヒーのドリップ式を真似た、出汁を取る方式にも驚いてしまった。
 挽いたコーヒーのように、カツオ節を粒状にして、大型ドリップにいれ、熱湯をかける。
 カツオ屋でしか出せないアイデアである。「カツオ節を削って煮込んだ出汁と同じ味が出る」と若い社長が言っていた。
 数ヶ月前に死んだ父親の考えたものだという。紅茶パックのような、小さい出汁パックの商品化はあるのだろうが?
 もし無かったら、面白い商品化が可能なはずである。
・TVで見たことがあるが、「自動式天麩羅揚げマシーン」も面白い。
 天麩羅は揚がってくると浮いてくるのを利用して、揚がってくると、金網のコンベアに乗るようなっている。
 入れると、自動的に揚げあがった頃に反対側に出てくるのだ。よく考えたものである。
 チェーンのコロッケ屋がこれで大当てをしているとか。自動飯盛機を使えば天丼屋が手軽に出来る。
 これにカツオパックの抽出した出汁をかければよい。ある天丼チェーン店がこれを利用しているという。
・笑ってしまったのが、ラーメンの水切り器である。湯であがったラーメンの水切りは、ラーメンつくりのポイントである。
 これをいい加減にすると、麺と出汁の微妙な混ざり具合が崩れてしまう。しかし全身で振らなくてはならないのだ。
 何と、すくい上げた麺を金網ごとに機器に入れると、バキュウムのように水分だけを数秒で吸い上げてしまうのだ。
 これには唸ってしまった。千円床屋の、頭を洗う代わりに掃除機を応用した「吸い上げ機器」と同じ方法である。
 人間のすることは殆ど機械に代行可能なのだ。その横で人間の腕のようなものが中華鍋を振り上げていた。
 これなら美味しいチャン飯が苦労しないで作れそうだった。
                                   つづく
・・・・・・・・
2003年03月12日(水)
707, モンゴル大相撲

 先場所の各段の優勝は序二段を除いて全て外人が取ってしまった。今場所からは、両横綱とも外人である。
外人力士が50数名いるうち8割がモンゴル出身である。下位の有望力士の大部分が外国力士という。
数年後は幕内上位は大部分がモンゴル人に占められる可能性が出てきた。
今の横綱の朝青龍より強くなりそうな素材を持ったようなのが私の目で見ても数人はいる。
更に彼らはモンゴルの大地で羊の肉を食べ、馬に乗り自由に生きているため骨格からして違う。
更に所得が日本の100分の一しかないために、関取になれば数ヶ月でモンゴルの一生の生活費が稼ぐことができる。
目の色が変わるのは当然の事である。今の日本人が敵うわけがない。
日本の相撲のルーツはモンゴル相撲という説が有望である。グローバルの時代、それでもよいと割り切ったほうが良いだろう。
一時代前には考えられなかったことだ。ロシアに朝鮮にアメリカにモンゴルと面白くなってきたが、
日本人だけと割り切っていた方がよかったのかもしれない!巨人・大鵬・玉子焼きの時代は終わったのか。


2897,自民党はすでに死んでいる

2009年03月11日(水)


  ー自民党はすでに死んでいるー 上杉隆 (月刊SITGHT)

「STGHT」という雑誌に、政治ジャーナリストがインタビュー形式の「自民党はすでに死んでいる」が、
正しく現在の自民党の姿を浮き彫りにしている。。
すでに死んでいるのなら、「あの連中」は、ゾンビの集団ということになり
彼等の信じがたい政策と右往左往の理由が理解できる。
 戦後の大部分の間、色いろあったにせよ、一応国民の支持を受けて日本の舵取りをしてきた。
小泉も含めて20年間、日本を彷徨える船のように衰退へ導いてきた。
最後の締めは、安部、福田、麻生という二代目、三代目が政権を放り出しを含めて
未曾有の無策を露呈してしまった。 それを一番身近にみてきた政治ジャーナリストが、
彼らの崩壊過程の姿を辛らつに切り捨てているため往生際の悪い醜態が漫画のように思えてくる。

結論の「自民党はすでに死んでいる」の理由を、本の末尾で以下のように述べている。
《2001年4月に、小泉首相が誕生した時に、山本一太さんと会う機会があった、その時彼は
 「自民党は、小泉という奇人が登場して、たまたま助かった。だけど、小泉がいるから助かったので、
 この人がいなくなったら自民党は終わる」と。 その時に喩えたのが自民党は恐竜だったと。
 その恐竜は、森政権が最後で、倒れてしまったけど、小泉が一人出てきて、それが支えてきただけ。
 それがいなくなれば倒れるだけと。7年前の山本さんの話は、そのとおりであった。》
 ーここで上杉隆は自民党の現状を冷たく以下のように切り捨てているー
・麻生内閣の支持率が下がるのは、今さら驚くことではない。問題は、自民党がまだ古い自民党の
 手法、政治体質を維持している麻生に「ノー」といっていることに、気がついてないことである。
・麻生は、小泉が体現した総理の権限、官邸主導の強さを一番真近で見てきたので、それを在任期間で
 使わないと死ぬに死ねない。もう全ての人は彼を見捨てていている。彼は死んだまま存在しているに過ぎない。
 しかし、その権限の絶大なことだけは知っている。その効果も・・・
・自民党はだれでもいいんでしょう。 政権与党でいることが自民党の目標であるから。
・2009年、大きく変わることは3つある。政治と、行政と、メディア、この3つである。
 なぜ国民が国民が必死になって自助努力をして、家族を抱えながら、やっているのに。
 金融だって、農業だってとっくにオープンになって、それでも頑張っているのに、なぜマスコミと、
 役人と、政治家だけが護送船団方式で安全なところにいて、一切変わろうとしないんだ。
・「自民党政権は、政権担当能力がないことを自ら認めているのだから、もう下野でしょう?と」
 国民は深く実感しているのに、字もマトモに読めないアフォウ首相が政権に汲々としている。
 国民からしたら、民主だろうが、自民だろうが、もともに政治をしてくれればよい。
 自民党は耐久年数が、すでに終わっている。
 ー
 以上だが、さすが政治ジャーナリストである。現在の自民党への国民のさめた目を、チャンと押さえている。
 政治家、官僚が悪いと思っていたが、マスコミの腐りを指摘している。
 国民はマスコミのコントロールを冷静に見ているし、またインターネットという別チャネルを獲得している。
 そして、先ほどの「三者」のいい加減さをネット上で指摘、批判をしている。
 そりゃそうだろう、何にも分かってない若い記者が、知った風に書いても、人生経験の深い人が
 ネットをフルにつかって情報を得ている。 むしろ一般の方が遥かにプロ化している。
 それは政治に対してもいえること。ゾンビの醜態劇場も、とにかく大衆の民度が低いと騙される可能性がある。
  ここまで酷いと大丈夫だろうが・・・ 
 
・・・・・・・・・
2533, 人間魔界図鑑 
2008年03月11日(火)

この事業を始めて28年になるが親戚縁者は、一人も入れてない。
実家の会社で子供の頃から父と兄との葛藤や、親戚の従業員のイザコザを見てきたからだ。
親戚の場合、首を切りにくい。彼らは親戚の立場を利用しようとするから歪みが出るし、これほど使うほうからして、
タチの悪い相手はいない。その逆も言えるのである。立場違えば、これほど微妙な相手はいない。 
姉の舅も20年近く勤務していたこともあるが、・・・・ まあ、やめておこう。
次の文章が、人間の本性を辛らつに書き表わしている。
 ーー
 「金と口の出し方」
Pー25
「君はまだ若いから、わしの意見をきいておけば、何かの参考にはなるだろう。
わしはね、これでもずいぶんひとの面倒をみた。ぽんぽん金もやった。たくさんんの人間を一人前にしてやった。
ー君、君もすこしは人に知られるような人間になってみなさい。蟻やら蝿みたいな奴が、ウヨウヨとたかってくるよ。
そんな奴にかぎって、みんな面倒をみられ、金をもらい、一人前にしてくれるのを当然と思ってるな。
そうした意味でいちばん不愉快なのは、あかの他人より、知人親戚という奴だな。
わしがこうなるまでには、血の小便を出すほど奮闘した。しかし、むろんわしひとりの力とは思わん。
恩になったひとはずいぶんある。しかし、そういう知人親戚と称する奴とは何の関係もないな。
なかには、生まれてから、いちども顔をみず、名も知らなかったような親戚が続々と現れてくる。
叔母の従兄の細君の妹が嫁にいった先の義弟なんて連中だ。 あの安藤も、わしを叔父さんと呼んどるが、
その口だ。むろん、わしには一切合切みなたかるがままにしておいた」
「・・・・・・」
「ところがだ、それが、ちっともありがたがらんのだ。いや、ありがたがってもらいたくないが、
恩を仇でかえす連中が多いのだな。これをわしの不徳のいたすところなんて、
ていさいのいいことをわしはいわん。かんがえてみると、はじめからただで人にたかろうなど
という気を起こす人間は、所詮それだけの人間なんだ、むろん、それはそれでよろしい。
そういう連中にかぎって、あまりものにならん。そいつらはたかっただけの勘定を、
どこかでじぶんで支払うことになっとるようだが、それはわしの知ったことじゃない。
ただ、よくよく見ていると、はじめわしが金をやり、面倒をみてやったことが、
かえうて害をなしておるのだね。世の中はこれで通ると甘くみる根性をうえつけたらしいのだな。
そうと知ってからは、わしは一切無意味な金は出さんことにした。
人間は、自分のカだけで生きてゆくべきものだ」 「・・・・・・」
損得をいえば、はした金をやって悪口をいわれん方がトクだよ。しかし、わしもこの年になれば、
死んだあとで馬鹿者の悪口がのこることより、この世にじぶんの養成した馬鹿者をのこすことの方がいやだ。
ーしたがって、わしは、わしにちかづく人間はだれでも、その人間の値打ちだけの待遇しかせんのだ」、
                                 『極悪人』
・・・・・・・・、
2007年03月11日(日)
2168, 池田晶子が亡くなった!ー 2
            おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ
    
先日、8年前に出版された『考える日々』の中古本をネットで買ったが、最近の本を読んでいるためか、
一つピンとこない部分があった! 哲学者も8年で大きく成長するようだ。
彼女を偲んで、印象的な彼女の文章を幾つか書き出し考えてみる。
 ーー
『人生のほんとう』 ー人の死は悲しいのかー 

・・・親しい人が死ぬと、当然「悲しい」という感情が起こります。
ただ、なぜ悲しいのかなと少し距離を置いて考えてみると、第一に「もう会えない」という思いがあります。
その次がたぶん、「かわいそう、気の毒だ」「死んだひとは悲しいんじゃないか」そういう思いもありますね。
でも、これはよく考えてみると、わからないんですよ。ひょっとしたらそれも思い込みではないかと考えることもできます。
死んだ人が悲しいと思っているかどうかはわからない。死ぬのが本人にとって悲しいことなのかどうか、
われわれにはあくまでもわからないんですよ。だって、われわれは死んだことがないわけですから。 
(略)けれど、たいていは、「もう会えない」という感情のほうが、悲しみの内容としては強いのでしょう。
でも、その「もう会えない」とはどういうことかと考えてみると、裏から言えば、会えたこと自体が、
そもそも奇跡的なことだったと気がつくことになる。つまり、なぜ存在するのかわからない宇宙に、
なぜかわれわれは存在していて、なぜだかわからないけれども、その人と出会ってしまったわけです。
これはすごく不思議で、これ自体が奇跡的なことだったと気がつくと、悲しんでばかりでもなくなる。
驚きとともに、感謝にも似た感情も起こってきますね。また、会えたこと自体が奇跡ならば、なぜまた会えないことがあるのか、
という考え方もできますね。さきほど「無というものはない」といいましたが、いなくなるということは、実は無がないかぎり
「ない」のですから、いなくなるということ、無くなるということはないともいえる。
おそらくそれが、われわれがなぜだか出会ってしまったという奇跡の意味でしょう。 「一期一会は存在の構造です」
 ーー
解)昨年末に義母が亡くなった時に悲しんでいる家内に、{亡くなったとしても、自分の生きてきた過去が消えるわけでなく、
 母親が生きているより身近な存在になっただけ。「いま・現在のここ」で母親を思い出せば、会っていると同じではないか。
 もう会えないということ自体、将来のことで今のことではないか。いま、キッチリと母親と心の中で会話ができれば、
 それでいいじゃないか。}と諭したところ、「それでも会えないという事実は事実。」と言い張る。
「それでは、貴女が明日、来月生きている確証がどこにある?灰になってしまった母に会いたいというのはセンチメンタルな感情。
 それはそれで良いが、悲しいという気持ちは、死という在りもしない言葉に縛られた感情でしかない。
 そこを早くしないと、『母の死というイメージ』に降りまわされているだけ!死のイメージを早く払拭すればよい!」
 ーー
『あたりまえのことばかり』
ー言葉はそれ自体が価値であるー

生きるために必要なものは、言葉であって、金ではない。なぜなら、金のために生きる人もまた、
なぜ金のために生きるのかを問うためには、言葉によらなければならないからである。
生きている全ての人は、問わなければならないからである。「なぜ人は生きるのか」。
したがって、言葉はそれ自体が価値である。人がそのために生きるまさにその価値である。
価値とは思わないもののために人は生きることをしない。それなら、「真善美」という言葉は、
われわれの全生活をその根底において衝き動かしている価値そのものではなかろうか。
価値ではないものを間違えて価値だと思うためにも、これらの価値による以外にないのだから、われわれの人生とは
言葉そのものなのである。「売れなければしょうがない」、そう言う彼らが間違えているのは、
損得という価値と善悪という価値だ。しかし、値段は価値ではない。
逆に、言葉に値段がつくと思うそれがその人の生の価値だ。だから、安い言葉を大量に売り飛ばして平気なのである。
「読まれなければしょうがない」、言葉を仕事に選びながら、なぜそう言うことができないだろうか。
ーー
解)言葉自体が価値とは、自分が絶対と信じていることそれ自体が、言葉の羅列としてこびり付いている
 絶対確実言明でしかない。その絶対確実言明(信じきっている価値)自体も小さな自分の体験か、
 親か世間様の価値をそのまま信じた結果でしかない。
 頭の良し悪しは、言葉がストンと脳に入るかどうかで決まってくる。
 他人事ではないが、「本を読まない人は、ストンと言葉が脳に落ちない」のだ。
 体験を経験に落とし込むには、そこに言葉を介して脳に刻み込む作業が必要になる。
 その為にも言葉への変換能力と、逆に言葉から脳への変換作用が必要となる。
                 ~~ヾ(´ω`●)バイ(●´
ーーーーーーーー
2006年03月11日(土) 1803, 閑話小題
 (☆-v-)。o○《Gооd Мояйiиg》○

ー日曜日の殿町
先週の話になるが、家内が所用で留守なので日曜の殿町にウオーキングを兼ねて行ってみた。
日曜日に飲み屋街に行くのは十年に一度あるかないかである。 17時半の殿町の実態は! 
スナック・バーは殆んど休み。駅前のチェーン店の居酒屋は全て営業。個人の居酒屋の三分の一が営業。 
ピンク系はホボ休み。そこでマンションの1Fにある古びた居酒屋に入ってみた。
40年営業を続けていて、マンションなどの立ち退きなどで、この店で三店目という。
居酒屋にしては、ネタがそろっていたが、客単価は居酒屋として上の下?ー4000円位。
「開いていて客が来てくれれば、それでよし」で、用が無いかぎり店は開いているという。
何軒か店を覗いてみたが、その時間帯でも数人の客が入っていた。
  (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが? C□^(゚◇゚;)ノ゙ アチチ!
ー道州制についてー
道州制について以前にも書いたが、最近になって新聞に大きく扱われだした。
市町村大合併の次に、道州制も流れだろう。47の都道府県を五分の一にして、思い切った権限委譲は、
日本国をスリムにするベスト?の方法である。情報化が進んだ現在、県そのものの機能は遅かれ早かれ必要はない。
時代の変化に対応していく為にも必要なことである。反面、州都の所在地以外は間違いなく寂れるだろう。
ある新聞の全国知事調査で、道州制賛成の知事が47人中27人。反対が二人。 どちらでもないが18人という。
知事のかわりに首相制度にして、現在の日本の首相制度を大統領制度にすれば、役割がハッキリする。
その位のことをしなければ、この日本の行革は追いつかない。
ー自民!どうしたー
自民党のライブドアの送金指示メール問題で、前原民主党代表への風当たりがあまりにも弱い。
推測するに、前原代表が改憲論者で憲法改革が待ったなしの現在、自民党にとって前原の方が組みやすいからだ。
小沢一郎が表舞台に出てきたら、自民党にとってマイナスになる。
国会対策委員長が渡部恒三になったのだから、鳩山が代表、幹事長が小沢も考えられる。
それにしても、渡辺恒三が国会対策委員長になったと同時に、風が変わるのだから、政治は面白いものである。
                   ε(´',_c')зβyё
・・・・・・・
2005年03月11日(金)
1438, BOSEのステレオ

先週の店舗ショーのあるブースで立ちすくんでしまった。
今まで聞いたことのない生演奏のような音楽がコンポから聞こえてきたのだ。
立体的な音響効果がきいた上に、それぞれの楽器が分かれて聞こえてくるようであった。
(好きな人なら、格別取り立てる音ではないだろうが、音の世界には全く無粋な人間の話である)
看板を見ると「BOSE」という名前が目に入ってきた。立ち止まって聞いていると、セールスの人が話しかけてきた。
 その内容をリアルに再現してみる
ー凄い音でしょう!
これこそ音響マニアが百万円以上をかけて部屋に音響機器をセットした音です。
誰もここで‘信じられない’と立ちすくんでしまいます。新商品で、まだ一般には売られていません。
コンサートの音を解析したボーズ博士がある発見をした。その研究から解ったことは、
楽器からリスナーに届く直接音は10?。残りはまわりの壁、天井に反射して到達する間接音であること。
間接音が音の暖かさ、臨場感、豊かさを認識させる大事な役割があるとわかった。
この発見からスピカーで20世紀最大といわれるモデルが誕生した。その理論を発展したのが、この小さなステレオです。
全面左右に二個。 側面の両側に二個。後ろの両側に二個。
合計六個の中高音スピーカーを配置してあり、間接音と直接音を理論の通り配置してあります。
その音は後ろは後ろと、その方向にそのまま直線的に流れ、壁に向かって反響してきます。
また、それぞれのスピーカーを専用アンプで別々にドライブさせてある贅沢な方式がこの音を出しているのです。
これなら、マニアが凝りに凝った音響機器と部屋で聞くと同じ音楽が素人でも聞けるのです。
だから、貴方だけでなく誰もが立ちすくんでしまうのです。
ーー
以上が、その中年の担当のトーク?の内容である。それをリアルに憶えているのは、
「信じられない」音であったからだ。以下は、BOSE社のHPの会社概要のコピーです。                                                                 ーつづく
かなえるために歩みつづける会社です。人間は「音楽を聴いてくつろぐ」といった
いつまでも変わらない欲求を持っています。BOSEではその欲求を満たすために
「自然に聴こえる音楽の再生」を最大の使命と考えています。

・・・・・・・・・
2004年03月11日(木)
1072.つれづれにー今日はお笑いの日ー3
 ーお笑い   ジョーク・ユーモア辞典より
(字数の関係でカット2009年03月11日) 

 ・・・・・・・・・ 
 2003年03月11日(火)
706, スーパーTV-コンビニ戦争

 昨日の21時のスーパーTVの番組が面白い。私の初めの事業の立ち上げが、郊外型貸しビルであった。
ところがドルショックがカウンターパンチになってしまった。 誰もテナントが入らないのだ。  
これが良かったのか悪かったのか?! いかなる場合でも最悪を想定しなくてはならないことが、
骨の髄まで知ることになった。その一角で養老の滝のフランチャイズに参加して、
日本で初めての郊外型居酒屋を始めた。日経流通の記事に大々的?出た。まあそれはそれでよい!
 二年前に長男が失業した時に、息子の仕事にコンビニと考えた。
そしてまずは情報を取った結果は、すざましい内容で、開いた口が閉まらない世界であった。
土地持ちの酒屋や、自然消滅寸前の小売店を狙った搾取商売そのもの。
無知の敗者を狙った残酷物語。しかし自殺より良いのかもしれない。
出店では当たりと外れの部分がある。当たりると本部は、その店を基点として周辺に店を出すのだ。
卑劣そのものの世界である。しかし彼らからすれば他の競合店が出る前に自社の店を出すのは当然のことである。
 当たり外れは実際のところ店を出してみなくてはわからない。
セブンイレブンの場合、当たりは一日あたり100万円、外れは50万円だ。
平均が62?63万万である。外れは、そのマニュアルがあってハイサヨナラの世界。
当たりの場合が、それをダシにして他のオーナーに売りこむ。無知ー無力のオーナーは、如何にもならないのだ。
「よくやるよ!」という世界である。今の北朝鮮のドン様と人民の世界である。
しかし契約の世界なら仕方がないのが現実である。
 当然家庭内は崩壊のケースが多くなる。子供の非行や離婚や自殺が多いのは当然の事だ。
何よりも、商売がなによりすきかどうかが問題になる。そうでない人が安易にやるから、こじれるケースが多い。
好きな人がヒットしたらこれほど面白い仕事もないだろう。したがって決してなるべきでないといってはいない。
やる前に熟考して、覚悟をしてやるべきだといっているのだ。
 フランチャイジーの立場から見れば、家賃分は入るし一日60万の売り上げがある。
しかし、オーナーは大体夫婦一人当たり時給7百円位の人件費の収入にしかならない。
それで満足するかどうかである。人の褌で相撲をとるとロクなことはないが、能力がないことには仕方がない世界である。


2896, オーラをみたことがあるか? −2

2009年03月10日(火)

オーラをみたことがあるか? −2
 
 *それをブロッケン現象というらしい!

 前回の「オーラをみたことがあるか?」を書いた翌日、これを読んだ知人A氏が来て「自分も見たことがある」という。
「亡くなった父が登山が好きで、早朝の登山で自分の姿のオーラを見たという。それをブロッケン現象といい、
登山仲間の間では、これを見ると遭難しても助かるというジンクスがある。父も何度も登山で遭難しかけたが、
助かった経験を持つ。そういう自分も、早朝のゴルフで自動散水しているところにゴルフの球を取りに行った時に、
自分の影のオーラを見た経験がある」という。 それをブロッケン現象と言うと教えてくれた。
ドイツのブロッケンという山でよく見ることが出来るので、そういう。
 ーそこでネットのウィキペディア辞書で調べてみたー
ブロッケン現象は太陽などの光が背後からさしこみ、影の側にある雲粒や霧粒によって光が回折され、
見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現われる大気光学現象。 光輪 ともいう。
山岳の気象現象として有名で、尾根の日陰側かつ風上側の急勾配の谷で山肌に沿って雲(霧)がゆっくり這い上がり、
稜線で日光にあたって消える場合によく観察される。 航空機から見下ろす雲や、平地でも川霧等に現われることがある。
・虹に比べて、見かけの大きさは10分の1程度と小さく、光の輪は何重にもなる場合がある。
 また、見る人の影が十分小さければ、中心点にも輝点が見られる。内側は青色で、外側は赤色。
・ブロッケンの妖怪(または怪物)とも呼ばれるが、日本では御来光、山の後(御)光、仏の後(御)光、
 あるいは単に御光とも呼ばれる。これは、古くは阿弥陀如来が姿を現したと考えられていたためである。
 槍ヶ岳開山を果たした僧・播隆の前に出現した話が有名。
 ーー
 私が母のオーラを見たときは、早朝の靄〈モヤ〉がカカッテいたため。
ただ、あれが私が経験した稀な現象でないことを初めて知った。昔の人が自分のオーラを見たら神の仕業と思うだろう。 
私は、人体の周りにはボデーフィールドが在ることを知っていたので、たまたま見えたと思ったが。 
 自分のブロッケン現象を見てみたいが、無理か。

・・・・・・・・・
2532, ウェブ時代 5つの定理 ?2
2008年03月10日(月)

ーまずは第3の定理の概要から

  第3定理は「技術者の眼(め)」である。21世紀のビジネスは、科学と技術を抜きにして考えることはできない。
アントレプレナーシップとチーム力を、その根底で突き動かしているのが「技術者の眼」だ。
 シリコンバレーの中核には、科学や技術を愛する人たち独特の価値観が深く根付いている。
起業家やエンジニアばかりでなく、経営者、投資家や金融機関にまで、
文系的な管理者的な論理とは全く異なる精神が貫徹されている。
 特に2つのことが重要である。
・1つが西海岸特有のカウンターカルチャー(伝統的・支配的な文化に対抗する文化)から強い影響を受けた思想である。
・もう1つが「大きな技術の流れに逆らっては絶対にダメだ」という考え方である。
 ≪カウンターカルチャーは中央集権化された権力に軽蔑(けいべつ)心を示し、まさにそれが、
 リーダー不在のインターネットの世界だけでなく、PC(パソコン)革命に対しても哲学的基盤を与えた≫
 
 これは、1960年代から70年代のカウンターカルチャー思想を牽引し70年代にシリコンバレー発で始まったPC革命から、
 現在進行中のウェブ進化に至る思想的基盤には、技術こそが反中央、反権威、アンチ・エスタブリッシュメントの
 個をエンパワー(力を付与)するものだという考え方が根強くあった。
 その力を起爆剤に現状を破壊し、フロンティアを切り開こうというのである。
 事実、PCは誕生当初から、個が技術を使って権威と対抗できる革命的な道具として産声を上げたものだ。
 個人一人一人の自由を最大限尊重すべきだとし、国家や体制に縛られるのを嫌うリバタリアニズム(自由至上主義)に、
 個の力を強めるパーソナルテクノロジー、管理されないネットの自由を信奉する考え方が結びついたのだ。
 ーー
解)
 著者は「中央集権的な、経営者的な、社会的な視線より、全く違ったPC革命を見通せる
 技術者の目が必要」と看破している。それは一人一人の自由を尊重する考えである。
 これはオープンソース化に繋がるものである。
 それとオープンソース化などで、技術が日々革新されていく中で、革命的な技術者の目が
 更に必要になる。世界の頭脳が繋がってしまったから、そこには止まることのない進化が
 核爆発を起こしているのである。 その爆発の先を透視できる技術者の目こそニーズとなる。 
 全く統制経済の社会主義とは何だったのだろうか? 逆だったのである。
 世界はネットで根底から変化を始めた。 「全く違う地球が、もう一つ出来た」
 と著者が述べているが、その象徴がグーグル・アースである。
 そして、少し違った切口になるが、アップルの「iMac phon」である。
                          ー つづく
・・・・・・
2007年03月10日(土)
2167, 「日の名残り」 ー1    読書日記
            才八∋ウ  _〆(∀`●) 

福田一男著「成熟への名作案内」で紹介してあった本である。
さっそく、インターネットで取り寄せた読んだが、英国在住の日本人作家カズオ・イシグロ(石黒一雄)が
執事スティーブンスにー偉大さの条件は、品格にあるーと言わせているところが良い。

ー2007/01/20 に「2118, 品格について?2 」ーで書いたが、その本の中で、他に幾つかのプロとしてのあり方、
そして品格について、英国的文化にも興味を引かれる。英国の上流階級のマナーと考え方と教養とは何かを、
執事の眼を通して論じている。ホテルのマネジャーの職業に似ているところがある。
何か反省させられるところが多い本であった。
パタゴニアに行ったとき、ツアーの品の良い中年の添乗員が、若い時に何年間か英国暮らしをしていたといっていた。
(大手銀行系から脱サラしたが、事業に失敗して・・・・)「執事のつもりで、何なりと仰せ付け下さい」
という言葉の通り、執事のように自分を押し殺し手際よく役割をこなしていた。
この本を読んでいると、英国の歴史の深さと豊かさが感じられる。
イギリスといっても、その背後にはオーストラリア、南アフリカ、カナダなどの国が連邦をなしていて、
英国人が多く住んでいる。日本とは、その隠れた豊かさのレベルが違うようだ。
 ーー
旅先の最後の日、桟橋で見知らずの老人と話す場面がある。
その老人の言葉がよい!「なあ、あんた、わしはあんたの言うことが全部理解できているかどうかわからん。
だが、わしに言わせれば、あんたの態度は間違っているよ。いいかい、いつも後ろを振り返っていちゃいかんのだ。
後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ。何だって?昔ほど仕事ができない?
みんな同じさ。いつかは休むときくるんだよ。わしを見てごらん。引退してから、楽しくて仕方がない。
そりゃ、あんたもわしも、必ずしも若いといえんが、それでも前をみなくちゃいかん」
その時だったと存じます。男がこう言ったのはー「人性、楽しまなくちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。
足を伸ばして、のんびりするさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う。
みんなにも尋ねてごらんよ。夕方がいちばん一日でいい時間だって言うよ」

男が立ち去ってから20分ほどになります。私はここに残り、いまの瞬間をー桟橋のあかりが点燈するのを待っておりました。
さきほど申し上げましたが、楽しみを求めてこの桟橋に集まってきた人たちが、点燈の瞬間に大きな歓声をあげました。
その様子をみていると、先ほどの男の言葉の正しさが実感されます。たしかに、多くの人々にとりまして、夕方は一日で
いちばん楽しめる時間なのかもしれません。では、後ろを振り返ってばかりいるのをやめ、もっと前向きになって、
残された時間を最大限楽しめという男の忠告にも、同様の真実が含まれているのでしょうか。

 ーーー
執事の自分語りの言葉を通して、イギリスの田舎の光景と文化を浮かびあがらせている。
今年の旅行は、イギリスかアイルランドへ?と誘惑にかられる本である。
品性か?!その視点で自分の人生を振り返ると、それは教養の深さに結びつく。
といって、品性とか教養を信じちゃいけません。ローマ帝国以来、それを自認して来た連中の残虐非道をみれば解ること。
結局は、アブラハムの発明した神に問題がある!といえるのか。(生意気そうに?
これ先日亡くなった池田晶子の言葉!の租借) 
              つづく    (⌒▽⌒)/"”さいなら!

・・・・・・・・・
2006年03月10日(金)
1802, 世界三大   (☆-v-)。o○《Gооd Мояйiиg》○

「世界三大○○」と検索してみて、その種類の多さに驚いた。世界中で代表するような存在として、
滝、山脈、料理、絵画、美術館など思いつくが、それ以外は考えたことがなかった。
それに興味を持つ者たちにとっても、三大という意味は大きい。
その3つを制することは、世界を制することにも等しい。本当に「世界三大」がどうかは?より、
「そう呼ばれる」ということが基本であり、かなり微妙なものが多く含まれている。
ナイアガラの滝など、世界の滝を見てきて、非常に疑問である。

ーその幾つかをインターネットでコピーしてみたー
 世界三大というと一時でも細事から離れ、大きな気持になれるからよい。(゚ω゚)(。_。)ウミュ(゚ω゚)(。_。)ウミュ           

ー*自然、地形 ?
世界三大河川
  アマゾン川、ナイル川、ミシシッピ川
世界三大運河
  キール運河、スエズ運河、パナマ運河
世界三大瀑布
  イグアスの滝、ナイアガラ滝、ヴィクトリア滝
世界三大夕日
  釧路市、バリ島、マニラ
ー*構造物・建設物ー
世界三大天然橋
  雄橋、プレヒシュ、ロックブリッジ
世界三大図書館
  大英図書館、アメリカ議会図書館、フランス国立図書館

ー*遺跡 ?
世界三大陵墓
  始皇帝陵、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、クフ王のピラミッド
世界三大秘宝
  ツタンカーメン黄金のマスク、ミロのヴィーナス、モナ・リザ
世界三大宗教空間
  法隆寺(日本仏教)、サン・ピエトロ大聖堂(カトリック教)、
 《パルテノン神殿(ギリシャ神話)、タージ・マハール(ヒンドゥー教)》

ー*文化・芸術ー
世界三大劇場
  オペラ座 (パリ)、コロン劇場(ブエノスアイレス)、スカラ座 (ミラノ)
世界三大歌劇場
  ウィーン国立歌劇場、オペラ座 (パリ)、スカラ座 (ミラノ)
世界三大バレエ団
  ロイヤルバレエ団(イギリス)、オペラ座 (パリ)(フランス)、
  ボリショイバレエ団(ロシア)

ー*世界三大美術館 ー
  エルミタージュ美術館、ルーヴル美術館、メトロポリタン美術館 、ミレー美術館
世界三大国際映画祭
  カンヌ国際映画祭、ヴェネチア国際映画祭、ベルリン国際映画祭
世界三大交響曲
  運命(ベートーヴェン)、未完成(シューベルト)、
  新世界より(ドヴォルザーク)
世界三大ピアノ協奏曲
  ベートーヴェン(第5番「皇帝」)、チャイコフスキー(第1番)、
 《リスト(第1番)、ラフマニノフ(第2番)》
世界三大ヴァイオリン協奏曲
  ホ短調(メンデルスゾーン)、ニ長調(ベートーヴェン)、
《ニ長調(チャイコフスキー)、ニ長調(ブラームス)》
世界三大行進曲
  旧友、軍艦行進曲、星条旗よ永遠なれ
世界三大叙事詩
  イリアス、カレワラ、ラーマーヤナ
世界三大近代建築家
  ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、
  ミース・ファン・デル・ローエ
世界三大肖像画家
  東洲斎写楽、レンブラント、ベラスケス
世界三大文豪
  シェイクスピア、ゲーテ、ダンテ
世界三大ファンタジー
  指輪物語、ナルニア国物語、ゲド戦記

ー*食ー
世界三大料理
  フランス料理、トルコ料理、中華料理
世界三大珍味
  キャビア、トリュフ、フォアグラ
世界三大スープ
  ブイヤベース、ふかひれスープ、《トムヤムクン、ボルシチ》
世界三大ハム
  プロシュット・ディ・パルマ、ハモン・セラーノ、金華ハム
世界三大ブルーチーズ
  ゴルゴンゾーラ、スティルトン、ロックフォール
世界三大果実
  マンゴスチン、マンゴー、チェリモヤ

ー*経済・産業ー
世界三大経済(金融)都市
  ニューヨーク、東京、ロンドン
世界三大発明
  活版印刷、火薬、羅針盤
世界三大モーターショー
  デトロイト・モーターショー、東京モーターショー、
  フランクフルト・モーターショー

ー*スポーツ・競技ー
世界三大スポーツイベント
  オリンピック、FIFAワールドカップ、
 《フォーミュラ1、世界陸上選手権、ツール・ド・フランス》
世界三大レース(モータースポーツ)
  インディ500、モナコ・グランプリ、ル・マン24時間レース

ー*宗教 ?
世界三大宗教
  イスラム教、キリスト教、仏教
世界三大聖人
  釈迦、イエス・キリスト、
 《マホメット、孔子、老子》
世界三大聖地
  エルサレム、バチカン、マッカ(メッカ)
世界三大聖堂
  ウェストミンスター寺院、サン・ピエトロ大聖堂、
  カテドラル (セビリア)
世界三大悪妻
  クサンティッペ(ソクラテスの妻)、
  コンスタンツェ・モーツァルト
 (ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの妻,
 《ソフィア・トルストイ(トルストイの妻)、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
  (ナポレオン・ボナパルト第一夫人)、北条政子(源頼朝の妻)》
世界三大美女
  ヘレネ、クレオパトラ、楊貴妃
世界三大予言者
  ノストラダムス、ジーン・ディクソン、エドガー・ケイシー
世界三大植物園
  キューガーデン、ベルリン植物園、モントリオール植物園
                マタ!  ’ω‘●)ノ
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2005年03月10日(木)
1437, 感動について

人間の一番重要な能力は感動である。
感動力という言葉もあるが、その能力は‘感動の回数と質の賭け合わせ’により醸造される。
「質の高い感動をいかに多く体験をするか」が人生のポイントになる。
親は子供に、感動体験をシャワーのようにチャンスを与えることが、躾と同様に一番の家庭内教育になる。
展覧会、音楽会、名作映画、本、旅行、自然などに直に接する機会を増やしてやることだ。
それは個人ー自分自身ーにも言えるが。感動は自分を変えてしまう力がある。 
その都度、感受性が鋭く豊かになっていく。 感動は、対象の振動に共鳴することである。
共鳴は対象と同一化することになる。共鳴するほど、振動の対象が内面に焼き付けられるのは、同一化のためである。
そして奥に沈殿し、心の豊かさになる。感動の最高のものが歓喜になる。いや歓喜は、その一歩手前の経験でしかない。
歓喜さえ通り越してしまっている状態が至高体験である。
感動体験は自分の小さな殻を叩き割る役割を果たす。その殻からの脱皮が重なりが多くの対象の波動に敏感にしてくれる。
「一流のものを見て聞いて、体験しなさい!」とは、そこから出ている波動に共鳴しなさいという意味である。
人間も本も、然りである。良い学校に行きなさい!というのは、良い先生、良い仲間に出会えるからだ。
もっと青少年の頃、本を読んでおけばよかったと悔やまれる。今更だが。

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2004年03月10日(水)
1071, フランチャイズ・ショー ?4

三日間もいると見る必要のないと思われるものまで見てしまう。
コンタクトレンズ・ショップ、中古ゴルフ用品、中古釣具、結婚紹介所、近視矯正器具販売、などなど。
以前より関心のあった介護ビジネスも、経営という面で面白い。数年で投資回収が可能なのだ。
この厳しい経営環境の中で、異質の世界であった。その中で、デーサービスに絞ったFCがあった。
新潟では乱立ぎみで来年度で飽和状態になるというが、一年で投資回収可能のケースもあった。
ところで会場に足マッサージ器具の展示品があった。毎回、必ず会場で販促をしているのだが、
行く度にドンドン良くなっていく。プロが足を揉んでいるようであった。足を両側から包み込んで強く圧縮する。
但し上代15万、割引で8万円もしたが、それだけの価値があったようだ。健康機器もドンドン良いものが出てきている。
フランチャイズ・ショーの会場は今の第4次産業の見本市でもあった。
今の時代、経験をパックにして売ることも買うことも可能なのだ。

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2002年03・10
旅行中で書きみなし


2895, 不況景色 −9

2009年03月09日(月)

去年の9月15日以来、毎日が恐慌の進行のメルクマールを書く日々になっている。
この一年で中国で二千万人、アメリカで四百万人の失業者が増加。
直近の12・1・2月の三ヶ月でアメリカは200万人が失業をし、
それは年率にすると800万人。中国は今年は更に二千万人が失業するという。
日本も水面下で失業が増え続けている。
来月辺りから爆発的な倒産とリストラにより失業者の激増が予測される。
 昨日の朝日新聞の一面トップで 
「失業者 雪崩打ち生活保護へ」ー1月は最多の116万世帯ーと報じていた。
5年前の2004年の100世帯、14年前の1995年の60万世帯、
25年前の79万からみると、異常な増加。
この事態の中では当然だが、それが更に大幅に失業者が増加し続けるのである。

・日本では、夫65歳、妻60歳以上平均で、収入平均が17万、支出が25万。
 残りは預金の取崩しや子供からの援助など。
・国民年金も40年払い続けて、満額で一人当たり6万6千円、二人で13万あまりだから、
 ギリギリまで働かないと個人営業者は生活できない構造になっている。
・支出25万円の内訳は、食費6万、住居2万、水道光熱1万6千、
 保健医療1万6千、交通通信2万7千、その他が11万1千円。
地方では、最低生活は月に15万円と税務所の担当から聞いたことがある。
中小会社や、個人営業者は船板一枚下は地獄。 だから日々が刺激があって面白いが、
反面、常に最悪の事態を常に想定して生活している。
この百年か数百年に一度の恐慌は弱者を土壇場に追い詰めることになる。

 イギリスでは、あのロイドが国家管理になり、4大金融機関のうち2つが国家管理になってしまった。
まずは世界の銀行が破綻しているが、これからは実体経済がやられ企業倒産が続くことになる。
その影響をモロに受けざるを得ない事業のため、毎日が生きた心地がしないが、
成るがままに身を任せるしかない。 今さらジタバタしても、しなくても同じことである。
現金商売というのが、目先は何とかしてくれる。 1〜2年は何とか大丈夫? 
二年後には駅前再開発による道路拡張で「一つのホテルの買収計画」が具体化するので、
まずは二年さえ凌げばよいことになっている。 まあ何とか成るようになってはいるが・・・。
それすら、大津波は根こそぎ破壊するかもしれない、それが世界恐慌である。

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2008年03月09日(日)

産経新聞のトップページに5回にわたって連載さっれた梅田望夫の【ウェブ時代 5つの定理】
が面白い。 梅田の本を読むのは4冊目になるが、今のところ外れはない。
  その5つの定理とは、
 その1 アントレプレナーシップ
 その2 チーム力
 その3 技術者の眼
 その4 グーグリネス 自発性に導かれた「時間」
 その5 大人の流儀  になっているが、 
  まずは1と2の概要をまとめてみよう。
第1定理は「アントレプレナーシップ」(起業家精神)。
 新しい物事に対する積極的意欲、リスクを引き受けて果敢に挑む姿勢、不確実な未来を楽しむ精神の持ちよう、
 飽くなき探究心や冒険心や没頭、変化を求める心、自分の頭で考え続ける力、始めたら徹底して勝つまで
 やりぬく気持ち、といった要素がこの言葉には含まれる。
 ≪シリコンバレーの存在理由は「世界を変える」こと。「世界を良い方向へ変える」ことだ。
 そしてそれをやり遂げれば、経済的にも信じられないほどの成功が手にできる≫
 これはアップル創業者兼CEO(最高経営責任者)のスティーブ・ジョブズの言葉である。
 「アントレプレナーシップ」を支える「常軌を逸した熱」は、「やりたいことをやる」という気持ちと、
 「社会をより良くしたい」という思いの組み合わせによって持続する。
 お金が最優先事項では長期にわたってそういう熱が持続しない。倫理性と経済性が融合したシリコンバレーの
 そんな独特の論理が、仕事の面白さを倍化させ、強い「働く意欲」の源になっている。
第二の定理はチーム力
 ≪Aクラスの人はAクラスの人と一緒に仕事をしたがる。Bクラスの人はCクラスの人を採用したがる≫
 この言葉をシリコンバレーでは格言としてよく耳にする。Aクラスの人は、
 自分を向上させたいと常に思っているから、自分より優れた人と一緒に働きたいと考えるが、
 Bクラスの人は実力に不安があるから自分よりも劣った人を採用してしまう、という意味である。
 チーム編成においてはAクラスの連鎖を作るべし。
 イノベーションを生むには、選りすぐりのチームを組成するところから始めなければならない
 という経験則が、この言葉の背後にある。
 ≪世界を変えるものも、常に小さく始まる。 理想のプロジェクトチームは、会議もせず、
 ランチを取るだけで進んでいく。チームの人数は、ランチテーブルを囲めるだけに限るべきだ≫
 これは、サン・マイクロシステムズ共同創業者のビル・ジョイの言葉である。
 マイクロソフトもアップルもグーグルも、すべては数人のチームによる熱狂的な没頭から始まった。
 「世界を変える」イノベーションを生む一番大切なことは、資金でも設備でもなく、
 情熱を持ったわずか数人の力を結集して爆発させる「チーム力」にある。
 ーー
この二つはソニーの創業時の井深や盛田などと同じである。日本にも筑波という素晴らしい都市があるが、
そこの個性的な創業者の姿は見えてこない。研究都市だから、少し違うとしてもである。

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2007年03月09日(金)
2166, 日本の人口動態の推移   オッ(*^○^*) ハ?ヨウサン!
 「超リタイア法」ー野口悠紀雄 ー読書日記

解りやすく、面白い本である。その中で人口動態が書いてあったが、解りやすく要点がまとめてある。
日本の人口が一昨年から減少に転じた。それなら、歴史的にみて日本の人口はどのように
推移していったのか知りくなるのが人情である。  
 人口推移を大雑把にまとめれば、
・1600年(1200万人)から1700年(2769万)までの間に倍増し、その後江戸時代の終り(3228万)までの
 約150年間はほぼ一定だった。
・明治維新(3481万人)から昭和の初め(6000万)までに倍増し、
・さらに昭和初めから現在までに倍増した。400年で10倍、140年間で4倍、
 80年間で2倍に増え、今後約100年の間に半分に減ることになる。

ーまずは、そこを書き出してみるー
・江戸時代の総人口は、前半で成長し、後半は停滞した。1600年に約1200万人であった総人口は、
 1700年に2769万人となったが、1720年の3128万人から1850年の3228万人まで、ほぼ一定に留まった。
 日本の近代的な人口統計は、1872年(明治5年)から存在する。この年の総人口は3481万人である。
 すでにこの頃から、人口増加率は年率0.5%というかなり高い値になった。
 そして、1880年代の終り頃からはさらに高まって、年率1%程度になった。江戸時代の停滞社会から脱却し、
 富国強兵と近代産業国家をめざして成長過程に入ったことが人口面にも明瞭に現われている。
 総人口は1891年(明治24年)に4千万人を突破し、1912年(大正元年)には5千万人を超えた。
 人口増加率はこの頃からさらに高まって、1.4%程度となった。
・1926年(昭和元年)に、総人口は6千万人を突破した。明治維新以降約半世紀で、日本の総人口は
 約2倍に増加したわけである。 日本が江戸時代とはまったく異質の社会になったことがわかる。
 この頃の人口増加率は年率1.5%程度と、きわめて高い。
 総人口はさらに増え続け、・1936年に7千万人、・1948年に8千万人を突破した。
 終戦直後には、それまでの勢いをさらに越える猛烈な人口増加が続いた。
 1940年代後半の人口増加率は2%を超えている。年間の出生児数は、1920年から52年まで、毎年200万人を超えている 
(39、45、46年を除く)。 最近の出生児数は年間115万人程度であるから、違いに驚かされる。
 総人口は1967年に1億人を超えた。1%を超える人口増加は、その後も76年まで続いた。
 しかし、これから後、人口増加率は傾向的に落ち始めた。 86年には0.5%になり、94年からは0.2%台に落ちた。
 現時点(2003年6月)の日本の総人口は、1億2761万人と推計されている。昭和の初めから、約2倍に増加したことになる。
 しかし、これがピークであり今後日本の人口は、継続的に減少してゆくものと見られている。
 国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口」
 (平成14年1月推計)によれば、2006年にピークになり、2010年に1億2747万人、20年には1億2410万人になる。
 その後、30年に1億1758万人、40年に1億938万人になる。そして、50年に約1億人となり、2100年には、約6413万人に
 なるものと予測されている。我われは、日本列島に生息する日本人の数が最大になったさまを見ているのである。 

「平均寿命」は、0歳児が何歳まで生きられるかを示すものだ。日本人の現在の平均寿命は、女性が85.23歳、
男性が78.32歳で、どちらも世界一になっている。 明治から大正期までは、女性が40歳代の中頃、男性が
40歳代の前半だったから、その後非常に大きな変化があったことがわかる。
これは、成人した人がどのくらい生きるかを見るには適当でない。
とくに過去の時点では、乳幼児死亡率の高さが平均寿命を大幅に下げていた。
この時期を生き延びたものは、平均寿命より長く生きると期待できるのである。
この点を補正するには、「平均余命」という概念を使う。これは、ある年齢に達したものがその後生存すると
期待される年数である   (したがって、「平均寿命」は、0歳の平均余命である)。
リタイアという問題を考えるには、平均寿命ではなく、60歳程度の人の平均余命を見るのが適切だ。
1891年?98年(明治24?31年)において、60歳の平均余命は、男12.8歳、女14.2歳であった。
60歳になった人は、男なら72.8歳、女なら74.2歳まで生きると期待できた。
現在、この数字は、21.44歳と26.85歳になっている。
現在60歳である人は、男なら81.44歳まで、女なら86.85歳まで生きると期待できる。
60歳の日本人の平均余命は、この1世紀の間に、10歳程度延びたことになる。
ーー
以上だが、成人になった平均寿命は、思ったほどは延びてはいない。
80年間で二倍になった人口が100年かけて元の6000万人に戻ると思えばよい。
「江戸初期から10倍、明治初期から4倍、昭和初期から2倍に増えた人口が、昭和初期の人口に100年かけて戻る」
ということだ。 これだけでも人口動態に関してチョッとした物知りになる。
人口減少に対し社会資本は比例しては減らないから豊かさは増える。
その現象に対し、自らを変えていくシステムを構築すればよいだけである。
その意味でも州制度をとり、それぞれの地区に州知事か首相を置いて、思い切った権限の移譲が必要だろう。
                    (o ・д・)ツ  バイ!
ーここで気がついたが、去年の同日に、やはり野口悠紀雄の読書日記だった。

・・・・・・・・・
2006年03月09日(木)
1801, 日本経済改造論   ー読書日記
                     才ノヽ∋?_φ(≧ω≦*)♪             
またまた野口悠紀雄である。このところたて続き読んでいるが、どの本を読んでも
飽きさせないから不思議である。この本では、現在の日本経済の不況の原因が
・1940年体制を起点とした戦時体制を引き継いだ1945年体制以降から
 現在まで続いている間接金融による銀行支配にあるとしている。
・また日本企業のリスク回避的な行動にも原因がある、と指摘している。
従ってそれらを克服するには45年体制から続いている間接金融 から直接金融に移行し、
リスク回避的な企業が市場から直接資本を集め、新しい事業を立ち上げない限り今後の日本経済は
立ち行かなくなることを指摘している。企業がリスク回避的であることを利益率の低さから考察している。
食料自給率の低さこそが日本の食糧の確保を確かなものにしていると看破。
人口問題は、人口減少が問題なのでなく、年齢構造の高齢化が問題であると指摘。
日本企業の資本収益率は国際比較で見てもきわめて低いし、長期トレンドとしてこれを高めることは容易なことでない。
郵政民営化は不要であり、他にもっとやるべき大事な仕事がある、それは年金改革と税制改革などである。
 第一章では、日本経済の現在を概観
 (以下、字数の関係でカット2009年03月09日)

・・・・・・・
2005年03月09日(水)
1436, つれづれなるままに

ー面白い日記のコーナー
10年後の私が現在に立ち戻って来たイメージで日記を書いている。
それが書いていて面白い。  実際の日記より書きやすいのである。 それと、現実が良く見える。
なかなか10年スパンで物事は考えにくい。が、日記で遊びとして書くと、気楽に現在の自分を見つめることができる。
新しい発見である。我が内なる天使様?か、守護神様か?か、冷静に見つめている良心か?
その目で見ると、いかにつまらない事に日々追われていることに気づく。
ーーー
ーはなまる・うどんーについて
 一年ほど前に、「はなまる・ウドン」にFC加入をして、セルフうどん屋を新潟市内に数店開店をしようとした。
ところが契約直前にフランチャイズ・ショーに行って、数社の競合相手の話を聞いて急遽中止をした。
セルフうどん屋の状況が、彼等の言っていることと違うのだ。
6千万の投資をする直前で、あと2?3店舗も出店するはずであった。
その後、社長が例の詐欺で問題になった豊田商事の元社員ということが週刊誌に暴かれた。
その直後に牛丼の吉野家に株式の33・4?を売却、その系列化に入った。
そして現在、ほぼ出店ストップの状態である。焦りもあって、調査もしない甘さもあった。
軽い損失で済んだのは、不幸中の幸いであった。佐渡で一店だけ「はなまる」が開店したが、
悲惨な状況という風評が入ってきた。経営は、ひとつ間違えば舟下は地獄である。

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2004年03月09日(火)
1070, 美容整形医師の「美人の定義」

ある月刊誌に書いてあった美容整形医師の「現代美人の定義」が面白い。
ーその文章を書き写してみるー
普通、美人と問われれば「目がパッチリ」「肌がきれい」「鼻が高い」「小顔」
・・・と思いがちだが全部間違い。現代美人とは「顔立ちが整っていること」が絶対条件。
浜崎あゆみの目であろうが、ベッカムの鼻にしても、バランスが悪ければ立派なブス(ブ男)である。
つまりプロポーションの良いのが美人であり、いくら部品がよくても組み立てが悪くては
ブスなのです。一点豪華主義の美人は存在しません。むしろ全部地味なほうが美人なのです。
日本の伝統的美人は雛人形に見られるように、目も鼻も口も全て小さく平べったい顔をしています。
ヨーロッパの美人はミロのビーナスに見られるように、口も鼻も口も全て大きく、立体的な顔をしています。
美人に見せるには、全部大きいか全部小さいかどちらでも良いから均一化して、バランスをとることが重要なのである。
日本人は突出することを嫌います。「出る杭は打たれる」などいって、平均的な小さくまとまった美しさを好みます。
これが美人の基準にもなる。いま一つは、権力によってその基準は左右される。
北朝鮮では「金正日がいい男の面」になっている。欧州の貴族は、それだけで顔立ちに係わらず美人美男になる。
 ー以上である。

美人バランス論ということか。中年になってきて、特に45歳を過ぎると急激に体形や顔立ちが崩れるのは
バランスが悪くなる為であったと考えると納得できる。本来、化粧はそのバランスを直すためするものである。
わざわざ崩している人がいるが。太りすぎも体形のバランスの崩れを直すため痩せようとするのだ。
固太りの人は、それほど見たほどデブに見えないのはバランスが崩れないからであろう。
西欧的美人より日本的美人の方が歳を重ねた時に美的段差が小さいのは、チマチマしているから
バランスの崩れが小さく済むためだ。顔は、その人の家系や過去の集約として現れるが、
化粧一つで誤魔化しがきくから恐ろしい。といって品位などは三日も経てば直ぐ見えるが。

・・・・・・・ 
2003年03月09日(日)
704, [つかず離れず]ー群れない為に

「つかず離れず」は人間関係の基本である。「和して同ぜず」ー和同の精神である。
(仲良くはしても、お互い同じでない事を理解することだ)「隣の芝生は緑に見えます」
「隣の花は赤い」は 同じ意味だ。「味噌汁の冷えない位の距離」は嫁姑の距離である。
以上は相手が良く見える距離を保つことの必要性をいっている。
人間関係には「親しき仲にも礼儀あり」という基本ルールがある。
離婚した女性を見ていると、この距離感の果たす役割の解ってない人が多い。
スナックや居酒屋のママは離婚経験者がほとんどだ。
フレンドリーで、お互いに距離を置かないのがプラスに働くのが皮肉である。
お客は群れに来るのだから丁度フィットするのか。 群れといえばこういう話しがある。
私のある姉が東京圏で、サラリーマンに嫁いで団地に住んでいる。
そこで色々な家庭を見ていて、子供の数の理想は3人以上と言っていた。
「3人以上だと群れという感がする」「家庭は群れの場、その為にはその数が必要と見える」
といっていたのが印象に残っている。人間は孤独を求めると同時に、何らかの形で群れてないと生きていけない。

 カナダやアラスカで一人で荒野に住んでいる人が街に出てきて人に会うと、ハイになって話しまくるという。
スナックなどでは多く見かけるという。何か解るような気がする。都会のスナックの片隅で一人飲んでいる人は、
人間の持つ両面を裏表にした姿である。 群れの中で自分を見失わないためには、自分の世界をしっかり持ち
距離を保つことが必要だ。 朝鮮人は儒教の影響が非常に強く、家庭の結びつきが日本に比べ格段に強い。
それに比べ日本は幕藩体制を300年続けてきた為か、組織に対する所属意識が強い。侍は藩に?百姓は5人組に
組み込まれていた。韓国人ー朝鮮人と結婚した人はその文化の違いに驚くという。基本的には日本人と全くかみ合わない。
とくに男女間の距離感が違うという。韓国では結婚した男は妻以外の女性とはどんな形でも
付き合ってはならないという不文律があるらしい。夫婦間の愛情は濃密で老夫婦でも小さな布団に一緒に寝る。
 韓国人は情が厚く、寂しさに耐えられないために、家族間の人間関係は深い。
他人同士でも一つの共同体になったときには「親しき仲にも礼儀あり」という日本的習慣は通用しないという。
親しくなったら甘えてもいいという発想があるという。今でも地方では日本でも強く残っている。
韓国人は親しくなればなるほど相手を騙す。馴染みの店から不景気だから来てくれと電話がかかったら、
それはサービスをするという意味でなく、馴染みだから高い金を払ってくれということになる。
あの北朝鮮の金王朝の異様さは、この濃密さを政治体制にくみ込んだためである。
 韓国的濃密さは日本では一番嫌われる。日本人と韓国人の結婚の話が少ないのは文化の違いがあまりに大きいからだ。
朝鮮人が日本で「つかず離れず」のスタンスで住むには最適。在日朝鮮人にむしろいえることか。
いつの間にか朝鮮人論になってしまったが、「つかず離れず」とは正反対の文化である。
逆にいえば、「つかず離れず」こそ日本人の文化といってよい。色いろな社会に属すことを好む日本人は、
「つかず離れず」が一番良いスタンスになるからだ。属している共同体が、それでいて最優先にする。


2894,厭世的時勢に、楽天であること

2009年03月08日(日)

 「厭世」とは、まず自己を厭うがゆえに世界を厭う心の習性をいう。
「楽天」とは、幼児の頃から両親を初め周囲から愛され、それ故に自分を愛する心の習性をいう。
人生を振り返ると、悲しいこと、苦しいこと、不安、恐怖心など、多くの精神的苦痛があったが、
なぜノイローゼや自殺に追い込まれなかったかというと、それ以上に楽しいこと、面白いこと、
明るい展望があったからである。 いや、それを見守ってくれる家族・友人があったからである。
そのもとは幼児体験、そう両親の絶対的な愛情が基本。楽天性は、まずは親子関係の中でジックリと育てられる。
基本的に親は子どもに絶対的な愛情を降り注がなければならない。しかし家庭内にも色いろの事情がある。
幼児期に親父が事業に失敗してしまったり、両親の不仲もある。 最近では離婚確率が家庭内離婚を含めると過半数。
その中で自分を楽天的性格にするためには、教養を自ら積むしかない。

 最近になって「楽天は意思」とつくづく思う。人間は誰でも心の底は楽天でないと生きていけない。
「自分だけは大丈夫!」と思っているからこそ、エネルギーが、生命力が、発露してくるのである。
いずれにしても、誰もが直ぐに死んでしまうのだから、生きている間は、面白可笑しく生きること。
ただし、将来の見通しだけはシッカリと立てた上だが。 だから楽天には長期的な生存確保が前提になる。
毎日、安心して日々を過ごせる生活力があり、時代の変化に堪えられる力を持ち、それ故に互いの信頼を
維持できることが基本になくてはならない。その前提がないと心が不安定になり、厭世家になるのである。
楽天家過ぎてホームレスになった人はいても、楽天的なホームレスは、ごく一部を除けばいない。

 このブログをみていると悲観論者と思われるかも知れないが、振り返ると楽観主義者である。
その場その場を何とか切り抜けてきたが、「最後は命までは失わないだろう」という開きなおりがあった。
問題に対して「正中心一点無」と、中心点に気持ちを集中するように勤めてはきたが・・・
それを心がけていると一時的にマイナスになっても、何時の間にかプラスに転換している。
「ベストを尽くして駄目なら仕方がないじゃないかい、皆の衆」の心である。 
再び書くが、幼児期の親の絶対的なシャワーのような愛情こそ、人間のエネルギーの溜池である。
その溜池が無い人は分からないだろうが、有る方は無い人を直ぐに見抜いてしまう。
 親を見ろ、特に母親を。 家庭を持ったら連れ合いを見ろ。 次は、子供を見ろ。 ほぼ見える!
愛情が満ちているかどうか、品性が備わっているかどうか、その部分だけを見れば良い。
 言えた(品)柄でもないが・・
最悪を想定して、その時の備えを常に整えていること。 それを受け入れる心の想定をしておくこと。
これが、「厭世的時勢に、楽天であること」の結論。「悲観の線路の上を楽観という電車で走ること」  
地道に生きていれば、何があっても、何とことはない? そうもいかないのが人生だから辛いところだが。

・・・・・・・・・・・
2530, 千年働いてきました ー2
2008年03月08日(土)
                    ー読書日記
第四章の 日本版バイオテクノロジーの発明
 の「売り手、よし買い手、よし羊よし」が面白い。
  その要約とは・・・
 ーー
ベルトコンベアーに送られる前、羊たちは一匹ずつ仰向けにされ、脚の付け根あたりに注射をされる。
オムツ代わりに付けられるのが、テニスのネットみたいな白い網で包まれて、その後に放牧される。
それからひと月ほどして、ネット羊たちはまた作業場に舞い戻ってくる。
そのネットをオーストラリア人の作業員が二人がかりで外してみたら、すっぽんぽんの羊が姿を現す。
羊の形をしたウールのコートが、つるりと出てきたようなものである。SFチックである。
「羊の毛刈り」という重労働を劇的に軽減することに成功した企業の名は「ヒゲタ醤油」。
創業390年という醤油製造業の老舗中の老舗が、伝統的な「醗酵技術」を応用したものだった。
 羊の毛刈りは牧畜関係者にとって、頭の痛い問題だった。中腰で行う重労働で賃金は安いが、腰をやられてしまう。
そこでオーストラリア連邦研究機関が目を付けたのが、ヒゲタ醤油が開発し、大量生産化に成功した薬剤。
そのキッカケが抗がん剤で頭髪が抜ける現象であった。それを逆用した薬剤を作ったのである。
それで、毛が散らばらないようにネットを付けたのである。
その薬剤は毛が直ぐに生えてくるようになっている。薬代は一匹あたり50円位で毛刈り代の10?ほど。
 ーー
面白いものである。 ヒゲタの社長がいうに「醤油は微生物をうまく利用して商品を作るわけだから、
オールド・テクノロジー。同じバイオだから出来るんじゃないかと、バイオに進出したわけです」
このヒゲタ醤油も創業が1616年、あと数年で400年になる。

携帯電話一つを取ってみても、
「折り曲げ部分」福田金属箔粉工業(創業307年)
「振動装置」田中貴金属工業(創業121年)
「液晶画面用鏡」村上開明堂(創業125年)
「人口水晶発信器」エプソントヨコム(創業116年)
と、まさに「老舗製造業」の伝統技術の集大成といった趣なのである。
そんな「老舗企業」21社の5つの共通点を著者は以下のように指摘している。
 1 同族企業だが外部の優秀な人材の登用を躊躇しない
 2 時代の変化に対応して事業内容は変化させてきた
 3 創業以来のコア家業は譲らない
 4 分をわきまえ好景気でも投機をしない
 5 「町人の正義」を実践してきた
「自分の本分を守るり、変化には弾力的に、投機などせず、婿養子などの血を躊躇しないでいれる」ということだ。
そういえば神社仏閣、いや天皇も仕事に一種とみれば・・・・ 宇宙のゴミの中の微生物の話は止めておこうか!

・・・・・・・・・
2007年03月08日(木)
2165, 駅周辺専門店ビルの開店、三店!
              (~Q~;)  おはよう??  サム?!

 三月に入って、新潟駅周辺の大型集合専門店ビルなど三店がオープンした。
 さっそく見学をしてきたが、なかなかよい!新規オープンは夢があって新鮮で良いものである。
   
・まずは駅から徒歩10分のSCの中にあるダイエーの撤退後の専門店街ビルの「ラブラ万代」。
 SCの万代シティーは、「伊勢丹」と「若者向けファッション店街ビル」と、
 「ラブラ万代」の集積化で、さらに集客力を増すだろう。
 今回開店したラブラ万代は3万平米の規模の地下1F、地上6Fのビル。
 最上階に紀伊国屋があり、他にユニクロ、ロフト、ギャップなどがあり、
 地下にはイオンの食品スーパーが入っているが、そのテナント・ミックスが非常によい。
                         (評価 90~95点)
・次に上越新幹線の改札口にある、JRの専門店街の「CoCoLo」の本館が改装オープンしたが、
 今までの少し堅い雰囲気がカジュアル的になり、開放的で入りやすくなった。 
 毎週一度は通っていた地元の本屋の「文進堂書店」は、至近距離に開店した大型店の
「ジュンク堂書店」に壊滅的な打撃を受けるだろう。     
                                 (評価 75~80点)
・駅裏にある大型ビルの一階と地階の2フロアーの「ジュンク堂書店」は、シンプルだが、主通路とサブ通路の幅広く
 とったなかなか良い店である。書店として5千平方は広いスペースで、『本以外一切扱ってない』のがよい。
 店内6箇所に、検索のパソコンを置いていて自分の欲しい本が探せる。
 100万冊の在庫の取り揃えが売り(特徴)である。 ロビーのような広いスペースに椅子と超大型のTVがあり、
 セルフのコーヒー・スタンドがある。ちょっとした時間を潰すのにもってこいである。
 書店は、20~60分の滞店時間が相場だが、これなら60~90分の時間がつぶせる。
 「ターミナルの超大型店の新しい業態とは、こういうもの」と、見せつけられたようだ!
 街中のスーパーストアの新しい業態である。    (評価 90?95点)
 これら開店は新潟駅周辺への一極化の動きの一現象である。「何処も同じ都市の風!」ということだ。 
                 (*^○^*)ノ バイ!
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 2006年03月08日(水)
1800, 「一夫多妻」男
          (ρ_・).。o○ おはよぉ・・

少し話は古くなったが、「一夫多妻」の事件は日本中の多くの男達の丁度良い、酒のツマミ?。
私など家内一人でも辟易しているので、羨ましいとは全く思わなかったが?
本人は酒池肉林で幸せだっただろう?その後、12人の多妻は現在でも共同生活をしているという。
行くところが無いのだろうが、何か現代の病巣を象徴している。

この事件から直に思い浮ぶのは、九州のキリスト研究集団千石イエス(千石剛賢)である。
本人は数年前に78歳で本人は亡くなったが、残った彼女らはクラブを今でも経営しながら集団生活をおくっている。
(TVで、この事件に関連してクラブ内の様子を放送していた。)マスコミが騒ぐほど千石イエスの会は問題の無い会。
            ♪(〃⌒▽⌒)八(〃⌒▽⌒〃)八(⌒▽⌒〃)♪
今回の事件が産経新聞の社会面のトップ記事で詳細に掲載されていた。
    
 そのポイントをまとめると
・擬似家族に温かさを求めていた。現在でも12人の女性は、主のいなくなった東大和市の民家で暮らしている。
 親との関係が希薄な中、一夫多妻の生活の中で集団生活の楽しみを見出した。
 彼女たちは、「外の世界が間違っており、自分たちだけが正しい」と凝り固まった状態にあるのではと推測される。
・「夢の中に出てきた宇宙生物に指示された」という話は嘘。恐怖心をあおり一緒に暮らすのが目的だった。
 女性を増やしていったのは、収入も増え生活も安定するためで、女性が増えるほど、孤独や寂しさを解消できると思った。
・洗脳とマインドコントロールは違うもので、洗脳は強い力でねじ伏せるもの、
 マインドコントロールは日常の生活の中で情報を与える方法で、このばあいはマインドコントロールであった。
・占いに関しては、あくまで肩書きだけで、女性を集めるための口実でしかなかった。
・手口としては、被害者を多妻の一人にするため、候補を見つけると自宅に妻の一人に誘わせて、
 隣の部屋で事情を盗み聞いて、あたかも占いが当たって信じ込ませる手法だった。
 ー
 以上だが、人間の性(サガ)の深い問題である。オットセイのハーレムの雌も気楽で良いのかもしれない。 
              ヾ(。´・ェ・`。)Bye
・・・・・・・
2005年03月08日(火)
1435, 人生の第四コーナー

私の年齢ともなれば競馬でいえば第四コーナーを回って最後の直線コーナーになる。
名馬は、この第四コーナーから最後の追い込みに本当の力を出す。
逆にいえば胸突き八丁でもあり、一番大事な時期でもある。
両親の生き様を直接目にすることができた。それは、長年かけた楽しみを追及することである。
その準備を如何にしてきたかが問題であるが、その一つにお金もある。
先日書いた中年クライシスは、社会的世界だけで生きてきた人間に生じる。
ライフワークのベースをつくっておかなくては、人生の第四コーナーの直線で息が尽きてしまう。
今年の4月1日から、私の同期の定年が始る。私の知る限り生き生きしている人は僅かである。
自分の趣味と独自の世界をつくっていなかった人が多い。
人間には、社会的側面の欲求を満たす部分と文化的側面の欲求を満たす部分がある。
直線コーナーまでは、社会的側面の充実が主になり、その後は文化的側面の欲求の充実が主となる。
社会的側面を一つずつ剃り落としていく為には、本当にしたいことを見つけておくことである。そのためには、
まずは孤独、孤立を恐れてはならない。それを恐れていては社会的仮面ーチンドン屋ーを演じ続ける日々しか過ごせなくなる。

51歳の年に、ジックリと考える節目の時期があった。そこで「60歳までに、それ以降の人生を全て詰め込んで生きる。
人生の余白を残さない!やりたいことは、この十年で全てやりつくす」と決めた。
これは人生設計というより、ある程度の悟りに近かった。その60歳まであと1年、この8年でやり残したことが多い。
このHPも一種の自分史でもあり、遺言でもある。他人から見たら、この程度のことかも知れないが。

・・・・・・・
2004年03月08日(月)
1069, フランチャイズ・ショー ?3

変わったものでは、「ブランド物の中古品仲介店」があった。
そのシステムが理にかなっていて面白い。TVで以前、このシステムの商売を見たことがあるが
FCは初めてである。「その辺街中情報」としては、とっておきの内容である。

ーその内容とはー
・対象商品はブランド品だけに絞り込む。持ち込まれたブランド品の売価をお客と店が交渉をして決める。
 目安は定価の10分の1だ。また千円以下は扱わない。
・展示した時点で、客は10%を店の展示代金(場所代)として払う。40日で売れない場合は、お客が商品を引き取る。
・売れた場合は、店・30?:顧客・60?の取り分になる。それでも中古専門店から買い叩かれるよりは有利だという。
・お客はまず50代、40代、そして30代の順で、中年女性が中心とか。買い手は掘り出し物を求めて定期的にくる。
・店サイドはリスクはゼロである。ブランドの鑑定のノウハウは、フランチャイザーが数日間かけて
 本部で教え込む。高価なもので鑑定が難しい場合は本部に送り届けて鑑定をしてもらうという。
・本部からは、全国からオークションで仕入れをしたブランド物が送られてくる。 
 フランチャイザーの狙いは、その販売経路だという。
 
なるほどFC本部も、店サイドも、売り手も、買い手も、誰もが有利になることになる。
面白いことを考えるものである。面白いシステムだが、店長の個人的能力が最も必要とされる仕事でもある。

話は全く変わるが、会場をまわっていて、FCの競合店のことを聞くと、間違いなくお互いにマイナス情報を流す。
特にナンバーワンに対する批判はすざましい。よく聞いていると、その「立場の範囲の視点」でもある。
より多くの角度の情報がほしい場合は、多くの競合店に聞くにかぎる。 お互いの限界がより見えてくる。  
人間関係にも似ているが。
                       ー続く
・・・・・
2003年03月08日(土) 703, 
「金持ち父さん貧乏父さん」ー読書日記

 この本を読んで、読めば読むほど納得する事が多い。もうこの歳でいまさらというひとがいたら何回か読んで、
自分の子供にぜひ説明すべきだ。貧乏父さんなら失敗談として尚更である。読んでいて気がついたことは、
大阪商人に似ていることだ。徹底的に節約型で、合理的である。違うのは投資に対しての積極性だろう。
金持ち父さんと貧乏父さんの考え方の違いを書き写してみる
ー金持ち父さん   ・・上段
 貧乏父さん語録  ・・下段ー
・「どうやったらそれを買うためのお金を作り出せるだろうか?」
 「それを買う為の金がない」
・「一生懸命勉強をしろ、そうすればいい会社を買う事ができる」
 「一生懸命勉強をしろ、そうすればいい会社に入れる」
・「この家は負債だ。持ち家が自分にとって最大の投資であり、最大の投資
  という人は大いに問題がある」
 「この家は私たちにとって最大の投資であり、最大の資産だ」
・「私が金持ちなのは子供がいるからだ」
 「金がないのは子供がいるかだ」
・「金は力だ」
 「お金には興味がない」 
・「私はお金のために働いているのではない、お金が私のために働いているのだ」
 「お金のために働いているのだ」
・ 「人は損をするのが怖くって、その為に損をする」

金持ちは自分のためにお金を働かせる中流以下の人間はお金のために働く
「無知」が「欲望と恐怖」を大きくする。「恐怖と欲望を大きくするのは無知だ。
ある程度のお金を持った人の多くが、金持ちになるほど、それを失ったときの恐怖を強く感じるのは無知のせいだ。
お金はニンジンなんだ。けして手に入らない幻みたいなものだ。もし馬が自分の姿を遠くから眺めることができれば、
自分の立場がわかり、ニンジンを追いかけることが自分にとってためになるかどうか、考え直すかもしれないだろう?」
人間の一生が「無知」と「啓蒙」のあいだの絶え間ない戦いである。
人間が自分を知るための情報や知識を求めなくなると、すぐに無知が忍び寄ってくる。

金持ちになりたかったら、お金について勉強しなくてはならない。
「お金の流れの読み方」は高層ビルの基礎に喩える事ができる。
・まずは資産と負債の違いを知ることである。
ー資産は私のポケットにお金を入れてくれる
ー負債は私のポケットからお金をとっていく

「どうやってお金を稼ぐか」でなく、「お金をどう使うか」である。つまり「稼いだあとどうするか」だ。
一番悪いのは「稼いだ金は全部使う」ことだ、収入が増えた分、支出の増えるだけの事。
だから「馬鹿が金を持つとろくなことが無い」という格言がある。

 普通の人は、まずは夢の確立の為に、家を持ち、車を買い、家庭用品を買い揃える。
ある程度の自己資金を貯めてからすべきなのに。せめて車は返済をかなりの額を返してから買うべきである。
これらの負債のために一生返済のおわれるのだ。

著者の感心する言葉は次の言葉である。
ー私だって人並みに贅沢は好きだ。
「人並み」と違うところは、ふつうの人が贅沢品を借金で買おうとするが、私はそうしないことだ。
借金で贅沢品を手に入れることを覚えた人は、周囲の人が持っているものを何でも手に入れるという
「罠」にはまっていくのだ。何かほしいものがあると、人はお金を作り出すことでなく借りることばかり考える。

ーお金に関する私の哲学の基本は、資産欄に種をまくことだ。これは、お金を作るための「公式」といってよい。

ー実践にあたって、いつも覚えておいてほしいことが一つある。それは「楽しむこと」だ。これは単なるゲームにすぎない。
勝つこともある、負けてそこから学ぶこともある。でも、どんな時でも楽しむ事だ。勝ったことが一度もない人は、
勝つ気持ちより負けるのを恐れる気持ちが大きいから勝てないのだ。

私の経験からして、要約をすると
・お金の知識について、もっともっと学ばなくてはならない。
・若いうちから、長期戦略を持って自分の財テクを磨き上げなさい。
・自分の収入の中で、種銭を作りー積み立てをして、それで財テクをしなさい。
・お金をつかうことと生活を楽しむ事はイコールではない。
・資産と負債の違いをハッキリさせること。
・考え方が人生を左右すること。
・本当の教育の基本はお金に対する知識であること。
お金に対する知識に対して、これだけ解りやすくストレートに書いてある本に初めて出くわしたのが実感だ。
そして両親が夕食時にいつもお金と投資と商売の成功談を話していた。
それが最大の教育だったことが確認できたのが最大の収穫であった。


2893, 年寄りの持病自慢は、老人の猥談だと!

2009年03月07日(土)

50歳半ば頃から同級会では、年金か成人病の自慢のしあいか、誰かの死の話が中心になる。
青春時代に自分の体つきや身なりを気にしたり、性体験を陰で話したり、猥談を話したくなる時期があるが、
それと同じく、自分の「体調」や「病気体験」について語りはじめる老人の「健康談議」を「老人の猥談」というらしい。 
五十歳代半ばの下半身の衰えは男の共通の話題。 その次は癌体験か糖尿病か心臓病などの成人病の披露のしあい。
こういう場しか、深刻な悩みを聞いてくれるところがないこともある。 それを老人の猥談とは上手くいったものだ。
要するに下半身のことや持病の露出は、人様の前では極力避けるべきである。
猥談に関しては家では御法度であった。マナーとして当然のことだが、それが平気でいう人がいて驚くことがある。
母からは、「匂いのするような話をしないこと」が刷り込まれていた。
それと同じことが、「自分の持病を公然と話すことが、老人の猥談談義」というと、なるほど肯ける。
言うなら、抽象的に、なるべくは人前では言わないことである。
歳を重ねるほど二重三重に注意しなくてはなるまい。

60歳までは死は後ろから迫ってくるが、70歳になると前からくる感じになるという。
だから互いに傷口を披露したくなるのだろう。

・・・・・・・・・
2529, 山田風太郎 のアフォリズム
2008年03月07日(金)

彼の本が好きで、何冊か図書館で借りて読んできた。
暗い中に何ともいえない温みがあり、2年に一度は彼の本を読んでいる。
また亡くなる前に朝日新聞に『あと千回の晩飯』が連載したことがあった。
なかなか文に鬼気迫る内容だったことを憶えている。 先日も、『人間魔界図鑑』を借りて読んだが、
  著作群の中からの警句やアフォリズムなどの 採集を、一冊にまとめたもので読みやすい。
手元に置いておきたい本と判断し、アマゾンの中古本を注文することにした。
以下の文章は 「人生(時間)のセイムスケール」というHPの中の
 山田風太郎のアフォリズムなどを抜粋コピーしたものである。
 −−−−
★「神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す」
★「我が命は地球より重い。他人の命は犬より軽い」

★「人は生まれ、苦しんで死ぬ。人生の要点はそれでつきている」
★「みんないう。いつか死ぬことはわかっている。しかし、「今」死にたくないのだ」

★「---いろいろあったが、死んでみりゃ、なんてこった、
 はじめから居なかったのとおんなじじゃないか、みなの衆」

★「死が生にいう。〈おれはお前がわかっている。しかし、お前にはおれがわかっていない〉」
★「死の瞬間に何人も悟るだろう。--人生の目的なるものが、いかにばかばかしいことであったかを」

★「生きながらそれは、多少ともすでに神曲地獄篇の相を帯びている」
★「いかなる人間も臨終前に臨終の心象を知ることができない。
 いかなる人間も臨終後に臨終の心象を語ることができない。何という絶対的聖域」

★「生は有限の道づれ旅 死は無限のひとり旅」
★「幸福の姿は一つだが、不幸のかたちはさまざまだ、とトルストイはいった。
 同じように、人は、生まれてくる姿は一つだが、死んでゆくかたちは さまざまである」

★「女ほど世にも尊きものはなし、釈迦も孔子もひょこひょこと生む」
(「お血脈」という落語のなかの狂歌)

★「死をはじめて想う。それを青春という。
★「人間は正視することの出来ないものが二つある。太陽と死だ」(ラ・ロシェフーコー)

★「同じ夜に何千人死のうと、人はひとりで死んでゆく」
★「人は死んで三日たてば、三百年前に死んだのと同然になる」

★「人生の大事は大半必然に来る。しかるに人生の最大事たる死は大半偶然に来る」
★「君の骨も乾かぬうちに、君の名も行為も忘れられた」

★「もし自分の死ぬ年齢を知っていたら、大半の人間の生きようは一変するだろう。
 したがって社会の様相も一変するだろう。そして歴史そのものが一変するだろう」
★「臨終の人間〈ああ、神も仏も無いものか?〉。神仏〈無い〉」

(字数の関係でカット 09年03月7日)
 ーー
 次回は、『人間魔界図鑑』の中の面白そうなところを抜粋してみる。
後記)また二年前の今日、山田風太郎のアフォリズムについて、書いてあった。
 偶然というより、必然か、ネタ切れか、同じことしか考えられないのか?
 その程度ということか? 死について心せよ!ということか!

・・・・・・・・・
007年03月07日(水) 2164, 宮城まり子
    (~Q~;)  おはよう〜〜 サム!

3月の日経新聞の「私の履歴書」は、
「ねむの木学園」園長の宮城まり子である。 まだ6回目だが、なかなか面白い。

 宮城まり子といえば私の小学校の頃から映画などに出ていたが、甘っ2007たるい声が印象的であった。
その後、芸能界をやめて「ねむの木学園」を開いた。もう二十年前のことになるが、TVでその
  「ねむの木学園」を放映した。 その時の子供の絵を見たときの衝撃は今でもハッキリと憶えている。
ピカソのような絵だが、絵から純粋な子供の心が直に伝わってきたからである。
役者をやめた後からも、人生の舞台の「役割り」を正直に生きている人である。
「人生を思いのまま生きている人がいる!」というのが当時の感想であった。
「私の履歴書」の一日目に書いてあった、 学園を開設するにあたっての、
愛人?の作家・吉行淳之介との3つの約束がよい。
1.愚痴はこぼさないこと。
2.お金がないと言わないこと。
3.君を信じてくる子のため、やめてはいけません。
その時、宮城まり子は「ハイ」と答えたという。

三回目の、彼女の母の教えの「感じたまま」の言葉が印象的である。
ーそこを抜粋してみるー
私は母と並んで絵を描くのが好きでした。小学校に入って間もない頃でした。
並んで描きながら私は母に聞きました。「お母さまはどうしてそんなに絵がうまいの?」すると母は
「まりちゃん、人の絵をうまいなどと思っていけません。人は人、自分は自分。自分の絵をお描きなさい。」
  と少し厳しい口調で言いました。
「お母さんは大人になってしまったから、あなたのような素直な絵は描けなく
なってしまったの。あなたにはあなたの絵があります。好きなように描きなさい」
大きくなったら絵描きさんになりたい。私の初めての夢でした。
しかし母の言いつけを守ると学校で叱られました。絵の時間にラジオ体操をする人を描いたときのことでした。
その人がとても気持ちよさそうに見えたので、感じたままに描いたら 腕が背よりも長くなりました。
  先生は「真面目に描きなさい」といいました。
「ねむの木学園」では私は絵も担当していますが、一度も「上手ね」と言ったことは ありません。
  「うれしいわ」と言っています。だって「上手ね」と言ったら子供はそれで安心をして満足してしまいます。
 ーー
書き写しているうちに20年前のTVの内容を再び思い出してきた。「ねむの木学園」の知恵足らすの子供が
  ピアノ演奏をしたが、鍵盤に魂を込めたピアノの音に気持が引き込まれた。
感動のあまり、その番組のビデオを何人かに見せた思い出がある。
    今月は、毎朝彼女の魂と出会うことができる!

 ・・・・・・・・・
2006年03月07日(火)
1799, 風太郎の死ぬ話   (○´・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ
              −読書日記
山田風太郎の「死」に関する本を読むと、色いろの人の死に様が面白可笑しく書いてある。
そして読み終わって「死」が軽く思えてくるから不思議である。
また「死」を考えることは、「生」を考えることになるのに気がつく。
死に様が、そのまま生の完成といえるということだろう。
  これまでも山田風太郎の『死』について取り上げてきた。
暗いと言われるが、お経を読んでいるようで逆に安らぎを感じる。
 私が風太郎の死に対し一番好きな言葉がある。
「・・・いろいろあったが、死んでみれりゃ〜、なんてことった。
はじめから居なかったのと同じじゃないか皆の衆」である。

この本の中にも強烈な言葉が次々と出てくる。
・信長は本能寺で死んだからこそ信長であり、西郷隆盛は城山で死んだからこそ隆盛なのである。
 あるゆる欲望を満喫し、大往生した死に方は、その人の人生が誰の同情も関心も共鳴を買わないという点で、
   芸術的に失敗作である。

・フィリップ・アリエスの「昔の死は、人が死にいく人物を演技する喜劇的な悲劇であった。
 今日の死は、人が自分の死ぬのを知らない人物を演技する悲劇的な喜劇である」を取り上げ、
   これによって、著者の風太郎が「人は管につながれて生まれてきて、管につながれて死ぬ」
   というアフォリズムを作ったという。
 
・「 臨終の人間『ああ神も仏も無いものか?』  神仏『無い』」
 「また臨終の人間『いま神仏が無いといったのは誰だ?』   答え無し。
  ー暗い虚空に、ただぼうぼうと風の音」
  −−−    
    ここからはこの本(風太郎の死ぬ話)から少し離れる!
    死といえば宗教学者であり東京大学教授だった
    岸本英夫の「わが生死観 」の言葉が深く響いてくる。
    十年間の死と闘いの中で冷静に死の恐怖の心理を克明に書いている。
     
     父の死に際をみていたので、その恐怖感が理解できた。
     
ーその一部を紹介してみるー

もう一度くりかえしていえば、死後の生命の存続を信じない私が、 癌というような思いもかけない病気のために、
  生命飢餓状態におかれ、死の暗闇の前にたたされたのである。天国や浄土などの理想世界を信ずるものにとっては、
死後の世界は、暗闇ではない。 一つの実体である。しかも、輝かしい世界である。
しかし、私にとっては、それは、真黒の暗闇であった。私は、その絶望的な暗闇を、必死な気持で凝視しつずけた。
そうしているうちに、私は、一つのことに気がつきはじめた。
それは死というものは、実体ではないということである。死を実体と考えるのは人間の錯覚である。

死というものは、そのものが実体ではなくて、 実体である生命がない場所であるというだけのことである。
そういうことが、理解されてきた。生と死とは、ちょうど、光と闇との関係にある。
物理的な自然現象としての暗闇というのは、それ自体が存在するのではない。
光がないというだけのことである。 光のない場所を暗闇という。
人間にとって光にもひとしいものは、生命である。 その生命のないところを、人間は暗闇として感じるのである。
死の暗闇が実体でないということは、理解は、何でもないようであるが、実は私には大発見。
これを裏返していえば、人間に実際与えられているものは、現実の生命だけだということである。
  人間は、日々の生活をくり返して生きている。 これは、疑いのないことである。 人間にとって生命は実体である。
  しかし、人間にとってあることは、今生きているということだけである。
人間には、生命がある。 五十年か六十年か生きているが、その寿命の中の一日一日は、どの一日も、
すべて人間にとっては同じように実体としての生命である。
どの一日も同じように尊い。寿命がつきて、死が近ずいたとしても、
その死に近い一日も、健康の時の一日と同じように尊い。
そのいのちのなくなる日まで、人間は生命を大切によく生きなければならない。
死というのは別の実体であって、これが生命におきかわるのではない。
ただ単に、実体である生命がなくなるというだけのことである。
このような考え方がひらけてきた後の私は、人間にとって何よりも大切なことは、
この与えられた人生を、どうよく生きるかということにあると考えるようになった。
いかに病に冒されて、その生命の終りが近ずいても、人間にとっては、
その生命の一日一日の重要性はかわるものではない。
つらくても、苦しくても、与えられた生命を最後までよく生きてゆくよりほか人間にとって生きるべき生き方はない。
このようにして、死の暗闇の前に素手でたっていた私は、このギリギリの限界状況まできて、
逆に、大きな転回をして、生命の絶対的な肯定論者になった。
死を前にして大いに生きるということが、私の新しい出発になった。
それ以来、私は、一個の人間として、もっぱらどうすればよく生きることができるかということを考えている。
しかし、そう生きていても、そこに、やはり生命飢餓状態は残る。
人間は、一日一日をよく生きながら、しかも同時に、つねに死に処する心構えの用意をつずけなければならない。
 ーー
岸本は死の告知を受け、   ガ━━Σ(゜Д゜|||)━━ン!!
「身の毛がよだつほどおそろしい」と実感を述べている。
その恐怖を乗り越えて、「いま」を生きることの尊さに目覚め、
「今が最後」とつねに思いつつ生きるところに、
自分の安住をおいた。
             ☆~~ヾ・ェ・)o尸~死んじまえばそれまでよ!
                            マタネ~♪
ーーーーー
2005年03月07日(月)
1434, 滝の話

1月前になるが、「白川義員の世界百名瀑布に挑む」をNHK・ハイビジョンを見た。
再放送で見るのが二回目だが、一回目見たときと同じ位の感動をおぼえた。
よいものは何ごとも、見れば見るほど、知れば知るほど、その奥行きの深さが見えてくる。
滝、氷河、山脈、草原、断崖、海岸などの大自然に対する感動は何にも変えがたい。水には、生物が発生した
  「海水」の原点がある。「生き物」のように、色いろな表情をみせるため、本能的な何かが騒ぐ。
世界3大瀑布といえば、
・ブラジルの「イグアスの滝」
・南アフリカのジンバブエの「ビクトリアの滝」
・カナダの「ナイアガラの滝」である。
・そして、4番目が南米のベネゼイラにある
「エンゼルフォールの滝」である。その中でイグアスの滝は、ずば抜けている。とにかく規模が他の滝に比べて桁違い。
昔、アメリカの大統領夫人が、この滝を見て「ああ、可哀想なナイアガラ!」と思わず言ったという。
しかし、何で三番目がナイアガラなのか解からない。ただ、美しさは抜群である。
遊覧船で滝の近くまで行って、180度の滝に囲まれてみる豪快な光景はさすがに凄い!
   ー以下字数の関係でカットー

・・・・・・・
2004年03月07日(日)
1068, フランチャイズ・ショー −2

主観を込めて「面白い順」に書いてみる。
・まずは「1980円のフグチリ」を売りにしているフグ専門店。
 フグ専門店の3分の1値段で、ふぐ料理の価格破壊を目指している。 味は高級専門店にまけないという。
 以前TVで見たことがあったが、実際担当者から生で聞く話は格別面白い。
「フグ料理や開店指導やフグの供給」をするという。 客単価は6700円とか。
   開店資金まで希望なら融通するとか。 現在は東京から30キロ圏がチェーンテリトリーという。
 別にフグ屋をする気はないが、何事も好奇心で聞いてみたが、本当に面白い!
  ・次は介護ビジネスで、デーサービスだけに特化した業態のFCが面白い。
 一日あたり、顧客?一人単価一万円、人件費一人当たり一万、ハード(施設)の
 ランニングコストが一日1万。ビジネスとして割り切ると面白そうだ。
 30人収容で、職員9人のチームでまわす。開店指導から軌道に乗せるまでのノウハウの販売である。
・保育園の開店指導主体のFCもあった。
 開店が一番大変で、一度オープンをしてしまえば、その後のノウハウは
  ほぼないとか。開店ノウハウ販売型FCと堂々と言ってのけるのもよい。
・目立ったのが、インターネット・カフェである。 漫画本とゲームとインターネットの併設のもので、
   時間制の料金システムのものが 印象的であった。(例:15分ー100円)
・自分史のCD作成の商売もあった。50万円で写真から履歴や文章などをCDに収め、
10年間大手銀行の貸金庫に預けて置くシステム。死んだ後に配る饅頭本の現代版といえる。
 面白いことを考えるものである。
                     ー 続く
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2003年03月07日(金)
702, 心と魂

以前に社内報の事業百訓で、 「心」と「こころ」と「魂」の違いを書いたことがあった。
ーホームページH09/05-見聞皆師
先日、ある本を読んでいたら、パソコンのハードデスクを「魂」、ソフトを「心」に喩えていた。
ーその概要は以下に書き写す
 魂と心は厳密に言うと違います
・魂はパソコンでいうとハードディスクやCPUを中心としたハードウエアにあたり、
・心は基本OSを含むソフトと例えることが出来る。
 
  心の基本形成は、親の心のエネルギーを吸収しながら6才頃に、そのアウトラインがほぼ完成するという。
    パソコンでいえばウインドウズのインストールを終えた状態。
・「こころ」の核となっているのが魂で、これは生まれながらのもの。
・魂は天命・宿命に関わり
・心は運命を左右します。
・そして双方の共同作業の結果が、あなたの「個性・能力」となって現れる。
魂の進化は心とともに ある。 パソコンは平成8年春の製品でクロックは120しかありません
150以上を指定してあるウインドウズMeはインストールできない.

メモリーとハードディスクは最大限増設してあるが、クロック増設の手間と費用に見合うだけの魅力がMeに有りや否や?
深層心理学者のユングは「魂はしだいに進化し、聖なる方向に向かっていく」といっている。
  この進化の方向に関わってくるのが心なのです。 Me(心の向上)を諦めたので、
  ハードウエアのクロック(魂)は120のままで進化していません。

こころの葛藤とは魂と心の綱引きをしている。 魂は多くの業(ごう、因縁ともいいます)を持っていて、
その業は縁あらば表へ出ようとしています。 それが自己本位の好ましくない事だったら、心がセーブをかける仕組みに
なっているが、本質的には「魂の方が強力」です。 魂が要求している事柄を実行して良いかどうか…を
・「判断するのが心なのです」が、
・「決断するのは魂」です。
心が「ノー」という結論を出すと、そこで魂と心の綱引きが始まるのですが、
魂が心の判断を無視して行動を起こすと、人間社会の中では往々にして問題行動となる。
40にして惑わず、という言葉があるように、どうやら人間は、その年代以上にならない
ことには、「魂を制御できるだけの心は完成しない」ようだ。

ー以上であるが、喩えが解りやすい。
 また他の本で「自己」と「魂」は似ているとか。 自己の背後にある大本が「魂」といってよい。
「自己実現」を「魂をつくること」と言い換えたほうが むしろ解りやすいことからも納得できる。
 ー魂の喩えとして
・心の親。
・心の故郷
・心の実家
・宗教心
・他己
・御祖先様
・心の積み重ね
・神ーラージX

「心を込める」と「魂をいれる」と言葉の重みが違う。
「魂を入れる」は全身全霊を入れるという意味合いにがある。
そうすると全身全霊ということか。対象の物事に対して「魂がこもる」ともいう。
一生は「魂をつくること」ということか。自己実現を図る事だ。

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