堀井On-Line



2882, おくりびと

2009年02月24日(火)

納棺師ーおくりびと

米ロサンゼルスで行われていた「第81回米アカデミー賞」の外国語映画賞部門にノミネートされた「おくりびと」が
外国部門賞に決定した。 この映画の概要といえば、ひょんなことから遺体を棺に納める“納棺師”となった男が、
仕事を通して触れた人間模様や上司の影響を受けながら成長していく姿を描いた作品である。
 
 10年ほど前に長岡市内の叔母が亡くなった。分家でもあるので葬式の主催者として準備を手伝うことになった。 
たまたま喪主の弟の知り合いが葬儀場の担当者で納棺師であった。 納棺師という職業に興味をもって、
色いろたずねたところ、転職の経緯から、納棺師からみた色いろの人生模様を詳しく聞くことができた。 
以前に火葬場の火夫の手記を読んだことがあるが、納棺師の話は初めてである。
  印象に残ったまま書いてみると
・小さな子どもが亡くなった葬儀は、正視できないほどの哀しみが満ちている。
・葬式は、人生模様の凝縮された姿が垣間見られるところ。
・親族が故人を嫌って誰も葬儀をしようとしないケース。門前で「あんな奴は父でも何でもない!」と怒鳴られた。
 「親子で何があったかわからないが、何か深い怨念があったのだろう」と・・・葬儀代は、本人の通帳から
 貰っていたので、丁寧に葬儀社を出した。
・職業として割り切っているので、慣れてしまえば傍で見るほど大変ではない。

ーところで納棺師とは、どんな仕事なのか「検索」で調べてみた。
 実際には納棺師になるための特別な資格はない。そして意外や20代の女性が多い。
  故人への主な仕事は
(1)シリコーン注射などによるやすらかな死に顔づくり
(2)消臭効果のある薬品を口の中に入れる防臭処置
(3)口、鼻、お尻の穴に綿花を入れる詰め物
(4)白装束などを着せる着衣
(5)納棺
(6)遺体の髪や体を洗う湯灌(ゆかん)
   湯灌を行わない場合、納棺師1人で切り盛りしてる。

以上だが、「おくりびと」がアカデミー賞を貰ったことで、この仕事に多くの人が目を向けることになるが・・・


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2008年02月24日(日)
2517, カキクケコの精神

何気なく本棚に塩月弥栄子の「冠婚葬祭入門」を手に取ったら
「カキクケコの精神」があったが、それが面白い。
  「カ」は 感謝することに照れない。
  「キ」は 緊張感を楽しむ。
  「ク」は くつろぐ。
  「ケ」は 決断力。
  「コ」は 好奇心を持ち続けること。
美空ひばりも、この言葉気にいっていたというが、他にもカキクケコの精神として
 「カ」感動、感激。神の心。
 「キ」聞く、気配り、協力。
 「ク」クエスチョン(疑問をもつ)。クリエーティブ。
 「ケ」健康。ケセラセラ(なるようになる)
 「コ」行動。向上心。
  が考えられるが、どうだろうか?「あいうえお」でも「かきくけこ」でも辞書を片手にこねれば
  何でもつくれるということ。「あ=愛情を大切に。い=命をいとおしみ。う=運動を。え=笑顔で。お=お互い様。」
  というと、年寄りの養生か?  「さしすせそ」というと、止めとこう!
  
  最近、30〜40年前に読んだ本を読み返しているが、また違った読み方ができ、また読んだ当時の自分に出会っている
  ようで面白い。 読んだ言葉は何らかの形で残っているのに驚いてしまう。本は精神の滋養になっているのである。
  この年齢になると、その蓄積こそ己の足元を照らす灯りになってくれていることに気づかされる。 
  老醜の狂乱こそ、みっもない。それを避けるために本を読むか、趣味を追求するしかないが?? 

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2007年02月24日(土)
2153, 幸福に驚く力 −2
     オッ(*^○^*)ハ〜ヨウ!
                       ー 読書日記
幸福に驚く力とは、日常の中にある見落としている幸せに気づくことです。
それは大自然の中で己の小ささを自覚すること、その小さな自分の中の、小さな幸せに気づくことが第一歩である。
まずは、その抜粋から ー自分の小ささを知るということー
 ーー
 *世界の広さと深さを感じとる
子どもって小学校も高学年になれば、大人たちを冷徹な目でみますよね。
卑しいなとか、えげつないとか・・・・。でも本の中にはもっと卑しい、えげつない人がいっぱい登場してきますし、
周りに素敵な人だなと思う人がいても、物語の中にはもっと素敵な大人がいっぱい出てくる。イメージできる
人間の幅がぐっと広がってくるわけです。これは今にして思えば本当によかった思います。何故そう思えるかというと、
今の学生は人間を殆ど知らないと思うからです。生の人間に会っていないのではないかと思う位です。
すべてあるのに、何もないって感じ。学生たちは「どうせ大人なんて」とか、「どうせ社会なんて」とよく言うんですね。
「そんなことはない。大人の中には凄い人はいる。人間ってそう簡単にタカをくくれるものではないぞ」と知らせたいのです。
人間の素晴らしさを知り、世界の広さを知ることで、自分が限りなく小さい存在だということがわかってくる。
でも、小ささを知ることが、喜びにもなる。そういう体験を、無意識だったかも知れないが、私は子どもの頃より
ずいぶんしてきたような気がします。学生たちに、「自分がうんと小さいことが、喜びになるような体験をしたいね」
というと、「そんなことをしたら、生きられなくなる」と言いますが、それは、言いかえると、人間というものは
こんなに素敵なんだ、世界はこんなに奥行きあって広いんだと知っていくことなんですね。
苦しみや悲しみは生きているかぎりあって当たり前。それらと闘うことは、その時は苦しいが、でも面白い体験なんだ
ということを、本を読めば徐々に知ってくることができる。自分と周りのわずかな世界しか知らないと分らないんですね。
学生たちは情報が大切というが、でもいくら情報を集めても生きたことにはならない。
しかし物語は読み方によっては疑似体験ができるし、体験を積み重ねることができる。
  ーーー
解)ライフワークの秘境旅行に惹かれる理由の一つは大自然との一体感の感動の中で「自分の小ささを思い知らされる」
  ことである。その実感が歓喜に変わる瞬間、この一ポイントが永遠への窓である。
  求めなければ何度でも永遠を感じとることが可能なのが、人生の面白いところである。人間はアナザー・ワンで
  あると同時に、オンリー・ワンであることを知らされるということです。

 *「傷つく権利」と「怪我する自由」
若い人たちは、愛することを知らないで、愛されることばかり願っている。
悩む力、悲しむ力、あるいは苦しむ力が最近非常に弱っているように感じられます。
現実的に難しいなら、せめて文学を読んでこういう力を少しでも養わなければ。
人には傷つく権利もあるのです。「傷つく」という言葉と「権利」という言葉を結びつけることもできるのです。
いま、学校は子どもたちの安全を考えるあまり、過剰な管理をしています。
でも、事故が起こるたびに「あってはならないことが起こりました」と学校が謝るのを見ていると、
事故はあってはならないのだろうか、と思ったりもする。
人間が本当に自由を求めて生きようとしたら、死をつねに想定しておかなければ、
無理じゃないかと。常に死を含めて考えない限り自由には生きられないのです。
  −−−
解)日本の教育現場が崩壊している幾つかに、先生、校長が過剰に己のミスに神経質になっていることである。
 訓練の入っていない猿以下のジャリ?に、人権とか個性の尊重とかの建前を盾に教育の責任放棄をしている。
 どの世界でも虐めはあるし、弱肉強食は世の倣いである。何が平等である、何が自由の尊重である。
 それは社会的な訓練を受けた人間がいうことである。「傷つく権利」も「怪我する自由」もあって当然である。
 著者の指摘は、そのまま現在の教育の混乱の原因を言い当てている。 
           ~~~ヽ(^▽^)))さいなら!
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2006年02月24日(金)
1788, 愛のアフォリズム−3
    ≪( \(・ω・)/ )≫オハヨゥ☆       −読書日記

ー情熱
情熱はさめると氷より冷たくなります。 (ジャ・シャガール)
                (ノ゜ロ゜)ノ<呪呪氷呪呪
情熱を癒すことができるのは分別ではない。 別の情熱だけである。(ルートヴィッヒ・ベルネ)
                    ー多情女か?・・・
私たちが情熱から解放されるのは、その情熱をとことん味わいつくした場合だけである。(マルセル・ブルースト)
                    ーそりゃそうだ!でも、そうでもない場合もあるが!
火が欲しかったら、煙ぐらい我慢しなくては。 (ドイツの格言)−その煙がむせぶからね〜? (〃 ̄ω ̄〃ゞ                    
カップルが幸せになるケースはごく少ない。情熱が荒々しい炎が燃えつきる前に、愛着というおだやかな火を
なんとか焚きつけることが出来た場合だけだ。(ジェローム・ジェローム) −そうか・・  性格もあるけど!

愛は生理的欲求であり、不可避の身体機能である。 (エルベシェス)  ― 一升瓶?

愛とは、心に感じられるものとなった空間・時間だ。 (マルセル・ブルスト)
      −牢獄にもなり、宇宙空間にもなるということ?(●ゝω・)ノ【 love = 時・ 空間 ☆】
頭は真理によって輝き、心は愛情によって輝く。    (ロシアの格言)

愛情によってのみ、人間は自分自身から解放される。(フィリードリヒ・ベッヘル) ー相手からも解放される!
        
恋人を棄てるのは、空想力が衰えたことを証明する。(ホーフマンスタール)  ーその反対もあるからね〜  たくもう〜!
       (*・ω・)(・ω・*)ずっと一緒にいようね!な〜んてのは一年まで!ー
                      ☆(((((((((・ω・。)iバイバイ♪
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 2005年02月24日(木)
1423, 名画200選 −読書日記

購入して数ヶ月、時々読んでいるが味わい深く飽きない。その半分は観たことがあった。
思ったより多く観ていたのには自分でも驚いた。そのうちTVで観たのが、半分だろうか。
この本を読んで初めて「成る程!」と、今になって感心をしているものが多い。
ラブストーリーとか、ウエスタンとか、サスペンスなどのジャンルに分かれているので読みやすい。
映画は日々つくられ、無数の映画のなかで見れる映画は限られる。その中で、よほど良い映画でないと残らない。
そのため、名画200選の一つ一つの内容の説明・解説に説得力がある。
名画は古典の書と同じで、良いものは何時まで経っても残る。黒澤明の「7人の侍」など何回観ても感慨が残る。
私が時々に感動したと、いま現在いえるのは ベンハー、アラビアのロレンス、駅馬車、荒野の7人、
ウエストサイド物語、モダン・タイムス、ゴッドファザー、ダンス・ウィズ・ウルブス、
そして、太陽がいっぱい、などなどである。しかし、最近の映画があまりにも面白く心に残るものが多い。
 ーー
ビデオで観たい 名画200選
 淀川 長治 (著),佐藤 有一 (著) 知恵の森文庫

生涯を映画にささげた「映画の伝道師」淀川長治は、1998年11月11日この世を去った。
本書の原稿を書き終えたのは同年の春。それを弟子であり、共著者である佐藤有一が丹念にまとめ上げ、
淀川の死後から2年の歳月を経て完成させた。本書は「もっと映画を観なさい」と言い続けた淀川長治の
遺言書であり人生の集大成といえよう。
本書のつくりは、「ラヴ・ストーリー」「サスペンス&アクション」「SF&スペクタクル」「ウエスタン」
「ミュージカル」「ヒューマンドラマ・アメリカ編」「ヒューマンドラマ・ヨーロッパ編」
という7つのジャンルに分かれており、見やすい見開き1ページで1作品を紹介するかたちをとっている

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2004年02月24日(火)
1056, 千回の力

「何事も千回続けると、何かが見てくるか、何かを感じるようになる」という。散歩時に「ありがとう」を
言い続けて、千回を越えたあたりから何かが変わる。心から「ありがとう」の言葉が出てくるのだ。
そういえば、この随想日記も千回を去年の暮れに達成をした。千回を達成した安堵感の為か、その後何も考えた
ことがなかった。そこで改めて「何か変わった事や感じることがあっただろうか」を内省をしてみることにする。
・ものを見る眼が全く変わった。 ー記者の目、書き手の目で現象を見る習慣がついた。
・テーマ探しを無意識にするようになった。
・そして、そのテーマに対し内省をするようになった。
・脳内サテライトの面白さを実感できるようになった。
・自分が知らない読者や、子孫を意識をして書くようになった
「何かが見えたか」と問われれば、別に何も見えないし、「何か感じたか」と問われても、何も感じない。
しかし、書き始めた以前と、それ以降という感がする。脳内を公開することが想像する以上のインパクトを
自分に与えていることになっている。書いている内容に対してコンプレックスも自信も、全くない。
ただ考え、感じた全てを、書き込んでいるだけだ。その集積が、基地としてのネット上にあることは異様な感じである。
「石の上にも三年」も大よそ千日である。一つの言葉を気持ちを込めて千回いえば、大よそのことが達成可能になるという。
「駄目だ駄目だ!」と自然に流されれば、繰りかえしてしまうものだ。言葉は、意識して使わなくてはならないと解っているが・・

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2003年02月24日(月)
691, 「わたしを認めよ!」  −2「読書日記」        
 ー 気になったところを書きうつしてしてみた。

「ふつう」の意味とは・・ 普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれない。当然である。
 だれも知らないからだ。 わたしが考えるふつうとはこういうものである(普通」と区別する)。
 奴隷みたいな退屈な生き方が上と下の中間(中流)に落ち込んだ普通だとするなら、
 目指されるべきふつうとは、みずから選びとった〈中間〉のことだ。 普通が惰性なら、ふつうは意思である。
 すなわち、その場その時に可能な限り最善の判断をしようとすること、それがふつうである。
 たしかに、普通に生きていくのは簡単ではない。けれどもふつうとは困難にして容易である。
 できるかぎり認識と思考の元手をかけて、どう考えてみても自分にとっては これが最善であり最も正しいと思うことを、
 覚悟してやるしかないのである。 むろん判断は一回かぎりではない。 覚悟もまた一回かぎりではない。
  ・・・「断念」について・・
 いうまでもなく、自己承認は挫折の連続である(それゆえくりかえし打ち立てられなければ ならない)。
 自分はよくやっている、だれが認めなくても自分が自分を認めるという弧絶した 自己承認には限界がある。
 すくなくとも、わたしが承認する一人の他者から、わたしは根本的に承認されているという 
 自己確信は不可欠である(たとえ錯覚であれ、この確信がなければ、そもそも〈少しだけ大きな他者〉
 などただの戯言にすぎない。そこまで個人は強くない)。 世界のなかで、わたしはすくなくとも
 ひとりの人間から承認されているという確信さえないところには、ほんとうの勇気や元気は出てこない。
 ところが、ここには根本的な逆説がある。だれも認めてくれなくても、自分はあくまでもふつうを
 一生懸命生きるという覚悟のない者には、他人からの信頼に値する承認はもたらされないという逆説である。
 ー感想
 地方にいると「部落」的噂社会に呆れかえる。もっとも都会は内幕情報社会だが。
 この三層の元−下層は「魂」で、その次は「社会」そして「世間」になる。
 子供時代は「世間」レベルしか見えない。 成人になるにつれて「社会」レベルに生きる比重が大きくなり。
 成人の後半になるにつれて、魂の世界比重が更に大きくなる。
 前に書いた「厭なことはなるべくやらない!」の世界である。
 三層の世界をきっちり意識していれば、特に世間の現象をクールに対処する事が できそうなのだが。                                          ーつづく
 ・・・・・・・・・
 2002年02月24日(日)
 341,遊びについて−1

人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。
まずその達人を事例で考えてみる。一番身近では母がそのプロ?であった。
戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、父とともに苦労の連続であった。
そして長男、次男の連続の不幸な死で今の重症のノイローゼーになった。心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。
亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。
それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。約40年近く遊びきって
亡くなった日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。

子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。遊びの重要さもそのため学んだ。
重点としてだが父は「働く人」、母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。
ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。「遊び」を儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、
罪悪と教えられてなかったか。子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。
ただただ無心に遊んでいた。あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。
人間は生きていかなくてはならない。その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。その為に勉強もしなくてはならない。
しかしそれだけでは、それだけの人生だ。それがクロなら、その対象の白が必要になる。
どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。それを特に母の生き様から学んだ。
一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、「馬鹿な?生き物」である。

遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。そうすると、仕事も遊びになりうる。天才はその典型であろう。
あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。何でも遊びの対象にした「遊び心」を。純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」
と暗示をかけられてないか? 私の趣味の一つにウオーキングある。初めは腰痛対策であった。
今は大事な趣味ー遊びになっている。純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。
その中に純真な遊び心が躍動を始める。何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。
それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。
そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。「遊びになるまで集中する」という事か。

これから散歩だ!


2881,アメリカの住宅金融の惨状とは −2

2009年02月23日(月)

 ーサブプライム金融恐慌の構造と意義ー 伊藤 誠  −2
                        (現代思想ー金融恐慌特集)

ここで著者は二階の建物で、このサブプライムローンを分かりやすく説明している。
1Fが、借りてと貸しての間の第一次住宅金融市場をめぐる問題
2F が、一階部分で形成された住宅抵当権を集めて抵当担保証券として束ね、
 販売し取引する第二次市場の問題としている。
ここでは書かれてないが、隣のビルに格付け会社があり、隠れ通路でつながっている。
格付け会社の直ぐ上の階には保険会社があって、そこが保険をかけることで格付けを上げる仕組みになっている。
そして、それを世界の金融機関にばら撒いていったのである。
本人たちはプロの金融マンという自覚だったが、その実態は態の良い詐欺でしかなかった。
本人達の何割かは気づいていたが、とにかく歩合を稼ぐことしか頭にない連中であった。
特に世界を壊滅的にまでしたのは2Fにおいて重層的証券化をしたことに関わっていたことである。
 −−
このように視覚化して、この問題を考えると分かりやすい。
この問題の性質の悪いのは、2Fの連中が、一階に御客を選ばず住宅を売りつけることを推奨したことである。
1Fのものにとって、誰でも良いといえばホームレスでさえ住宅を売りつけていった。
更に、住宅の値上がりを前提として、車のローンまでつけていたのである。
その毒に変わる可能性のあるサブプライム・ローンを、他の債権に一割の割合で混ぜて束ねて売ってしまったから、
他の9割の債権まで、腐った債権になってしまったことは、何度も書かれてきたことだ。
その債権は、世界中の金融機関、そして資産家、中産階級の資産運用として売られ不良債権化しつつある。
この金融恐慌は、世界恐慌に発展・転化するだろうが、「世界恐慌」を専門とする学者は、1929年の世界恐慌より
遥かに大きい者になるという。この恐慌は三年にわたり深化して、株価の暴落に続き、銀行恐慌の三次にわたる
波状的な大波に見舞われ、アメリカの全銀行の四割の倒産、失業率25パーセント、デフレスパイラル、
世界農業恐慌、再建金本位制による国際通貨体制の崩壊、国際貿易の収縮、経済生活の崩壊をもたらした。
今回は、これに近い、いや、それ以上ではないかという恐怖が広がり始めている。
しかし、日本の巨大なバブルの破裂、アジアの経済危機、ITバブルの破裂に加えて、今回の経済危機でも
何とか大崩壊が現在でも免れているのは何故だろうか? 諸説あるが、今度考えてみる。

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2008年02月23日(土)
2516, 人は何年先に標準を合わせるべきか?
                     (。´_`)ノおはぁ。
以前、経営セミナーに通っていたとき、
ー経営とは短期目標は5年先に焦点を合わせて現在の戦略を立てるべきである。ー
という言葉が印象的であった。しかし、それを実行しただろうか?というと非常に疑問である。 
9・11事件など思いもよらない事件が起きるご時勢であるが、逆に5年というと、読めるのではないだろうか。
現在の世界情勢と日本情勢からみて、この5年間は間違いなく大乱である。
根っ子は情報化を起因としたグローバル化からくる、民族、国家などの既存の体制の崩壊と、
創造が始まるからである。 その意味で、それぞれが選択と集中をした生き残りを
しなければならないのである。 まずはアメリカと中国が大きなポイント。

人間にとっても5年先を読んで現在は何をすべきか考えるべきである。
大方の人は7年と、10年か、どちらかがサイクルである。
それは、その人によって違ってくるが、7年をサイクルとするとき3年、5年を中で切るとよい。
「へ」を7年とみると、三年が右上がりで、4年が下がりになる。これは商売を始めたときの目安となる。 
だから、売り上げや利益を維持しようとしたら翌年から新たに「へ」の字の初年目を始めていなければ
三年目のピークを維持が出来ない。毎年、創業を始めるような革新をしなけらばならないということだ。
「日々新たに」革新してないと現状維持が出来ないということである。
その辺を、しっかりと見極めてないと、右下がりから逃れることが出来ない。これが意外と出来ないのである。
50歳の人だったら57歳の自分を想定して、現在何をすべきかを考えなければならない。
60歳でもよいが・・・私の場合は+7年=69歳の自分、そこから逆算して現在は何をしたらよいか考えるべし!
ということになる。 それもこれも、どうでもよいか?という声が、聞こえてくるが!
                         (●´Å`)ノ ホナ              
・・・・・・・
2007年02月23日(金)
2152, スピリチュアル・ブームを考える −3
     b(^o^)dおっ W(^O^)Wはようー♪
         
香山リカ(精神科医)も現場の様々なケースを見ているから説得力がある。
生まれかわりを前提に生のリセットを真面目に考える人がいるというから、来世などを
吹き込むと間接自殺幇助になってしまう。騙すほうも騙される方も命がけである。
スピリチュアルだけでなく、判断をすべて人に委ねる人を見かける。
本当に多いのだ。携帯電話がそれを助長する道具となっているから、ますます他人志向的になる。
その連中が安直に求めるのがこのブームの背景にある。
ーー
現在の風潮に「これって本当?」とすべてを疑うのは野暮!という価値観の広まりは、
TVの捏造問題とも強く関係している。精神医療の現場では最近、「死後の生」を前提とした上での子供や
若者の自殺を企てる者をみる。彼らがこういった番組の影響を受けてないと、考えにくい。いま売れている、
こういった類の本に「すべてのものはあなたの意志を超えたところで決まっている必然なのだ」
というメッセージが溢れている。

この意志を超えたものは「前世」であったり、「宇宙の大いなる力」であったりするが、
これらの中に重大なメッセージがある。ひとつは「だから、今が不本意なのはあなたの努力不足ではない」
いまひとつは「だから、いくら頑張っても何も変わらない」ということだ。
つまり、「あなたは悪くない」と個人を免責しておいて、「少々頑張っても何も変わらない」と、
努力の放棄や不満の受容を勧めている。少しでも状況を改善したければ、「守護霊」や「宇宙の果て」からの
メッセージを媒介してくれる霊媒師や超能力者の声に耳を傾け、それに従うしかない。

何とかして欲しい」と願う個人が霊や宇宙といった超越世界と直接、つながって
救われようというしておきている、いまのブームは
「組織は世の中を自分たちの力で変えることで何とかなるかもしれない」
といった社会的な視点がまるっきり抜けている。もちろん人生のかなりの部分は理不尽で
不本意なものであり、怒りや悲しみを乗り越えるためには「目に見えないもの」の力も時として。
必要なこともある。しかし、それは苦から身を守る最終手段であって、
日常的に安易に「死後の世界」や「宇宙の力」を持ち出して解決しようというのは、
決して社会の進歩ではなく、むしろ退化と考えた方がよい。

 ーーー
 なるほど、そりゃそうだ。運命論ほど馬鹿馬鹿しいものはないが、
 スピリチャル・ブームの批判につかうとは、さすがである。
 神社のお土産品の「お守り」も、古典的なグッズである。
 お賽銭って、神様への賄賂というが、100円?というのが可愛い!
                 ヾ(●´∀`●)  バイ!
 ・・・・・・・・ 
 2006年02月23日(木)
1787, サンキュー(39)セール
            才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)            
  まあ、どうでもよい話だが、ちょっとした地方の名物の話題のニュースをみて、
  随想日記的に加工すると、こうなる。越後長岡の二月の風景が垣間見れるだろう。  
  ー二月の長岡名物、美松のシュークリームー
        σ(´~`*)ムシャムシャ (*´▽`)◇ ゞ*´▽`*)=3デリシャス♪
長岡で二月の名物といえば、        ┐('〜`;)┌?
美松の39円(税込み)のシュークリームのセールスである。
長岡駅の至近の店で、二月は連日行列をなしているが、行列が切れることは殆んど無い。
面白いのは途切れそうだったので並んで買ったという人が多いことだ。

   売り上げを知りたいと思っていたら、昨夜の民放のニュースで、社長が4、5万箱
  (箱売りー10個)売ると言っていた。てっきり一日と思い電卓を叩いてみた。
    一日とすると、
   ・45万個×39円×28日=4億9千万である。
   ・一人7箱?平均として、6400人?
   ・一時間550人は売れたとしても不思議ではない。
   ・一分で10人は販売は可能だろうから、
   前もって並んでいる人から注文の箱数を聞いていれば処理できる数字である。
   ここまで売れれば、この会社の売り上げの大部分を、
   この売り出しで稼いでいることになるが!?そんなことがあるはずはない。
    でも、一週で4,5万箱なら納得いく?
   会社としての売り上げが6億としてみると、1ヶ月間の可能性のほうが大きい!  
   一番肝心なところが曖昧な文章を書いているのだから!いい加減なものだが!
お客の方も、このシュークリームの行列に並んで年中行事に参加しているのだ。
もう30年以上も続いているから地方の伝統的名物になっている。家内が先日買ってきて一個だけ口にしたが、
39円で一年に一回だけなら良いか? というレベルである。
下手な小手先を使わないのが良いのだろうが、競合店が無いのがポイントなのだろう。 
                          ( ̄〜; ̄) ムシャムシャ
どうでもよいテーマだが、探せば日常のニュースの中にテーマなど幾らでもあるものだ! 
       (((o(´・з・`)グッ。・:*:・ ゚☆w(´・з・`)バァイ

・・・・・・・
2005年02月23日(水)
1422, 新型MPUについて

最近よく新型MPUの記事を目にする。MPUといえば、超小型演算処理装置をいう。
パソコンの頭脳にあたる部分だ。これまでは、米インテルが圧倒的な強さを誇っていた。それに対して、
ソニー、東芝、IBMが三社連合で次世代のMPU「セル」を開発、年内に生産に入るという。
用途はゲーム機にとどまらず、デジタル家電、コンピューター全体に広がる。
今のMPUは「中核のコアが一つ」だが、「セル」は複数搭載しているのが特徴。
MPU内に複数のコアを持つことで、複数の機能を組み込むことが可能になる。
マルチタレントのMPUである。これはインターネット対応に最適になる。

例えば電子辞書にカメラ機能や、電話や、TV機能を入れておくことが可能になる。
携帯電話などにも、更に何種類の機能の搭載が可能になる。今の携帯電話は、
多くの機能を持っているが、これが他にも同じ機能が入り込んでいくと思えば良いだろう。
これからは頭脳を持った製品が多く開発されるということだ。
特にロボットや、ゲーム機、液晶TVなどに多くの機能が入り込むことになる。
そして、それが「簡単に」ネットで結ばれることになる。
想像を遥かに超えたハードが、更にどんどん開発される。
5年後の世界は、これによって全く違った様相を帯びてくるだろう。
コンピューターに関しては、どこまでも進化が続いていく。十年後、二十年後を見るのが楽しみだ!

現在起きている大変革の大元は、この「MPU」の進化にあるといって過言ではない。
ITの進化は止まることがない。このことが人間の在り方まで根本から変えようとしている。
人間の脳に例えれば、脳が朝起きると前日と全く違った高度の進化をしていることだ。
そして、その脳同士がネットで結ばれて爆発的に高度化されていくことと同じである。
本当にどうなっていくのだろう?これからは可能な限り長生きをして、
この進化?の行く末を見たほうが この世に生を受けた意味がある時代になった。

・・・・・・・
2004年02月23日(月)
1055, TVが面白いー上海建築家コンテスト

上海の変貌には、ただただ驚きである。今の中国を象徴しているのが、「上海の高層ビル群」
といって過言ではない。怒涛の勢いで変貌している都市の姿が、そこにある。
その高層ビルの設計家を何人か紹介しながら、現在の中国事情を紹介するTVの番組の内容を紹介してみる。
現在の上海は、各国の設計家の高層ビルの展示会のようなものだ。その中で最近、中国人の若手設計家の
計画をした高層ビルが最近目立つようになってきており、そのいくつかを紹介していた。
「新秀賞」という優秀な若手設計家に与えられる賞があり、若手設計者にとって大きな権威への登竜門になる。
実際に設計した高層ビルと、そのコンセプトに対して専門家数人の審査がある。
そして多くの設計者の中から、5人に賞が与えられる。
TVでは、その内容を詳細に紹介していたが、日本では見る機会がない面白い切り口であった。

19世紀末から20世紀にかけて建られた「リーロン」という低層の住宅が、上海市内の60㌫を占めている。
その再開発として、次々に高層ビルが建てられている。既存の住民は、安く優先的にそこに入居できる。
上海市全体の都市計画の模型があったが、完成時点では殆どロスやサンフランシスコのように、
高層ビルが林立する予定になっている。これも新しい斬新な設計ときているから、21世紀そのものだ。
15年ほど前に北京と上海に行っているが、新しいビルは皆無。わずか15年で、全くちがう都市に変身してしまった。
数年前に北京にも一泊をしたが、その時も、ただただ驚いた。
新空港から北京市内まで、高層の住宅ビル群の建設ラッシュであった。
現在の中国の政治体制は日本の戦後に似ている。社会主義体制が高度成長に必要条件といえる。

日本はアジアの横丁になってしなうのか?前門の狼がアメリカ、
後門の虎が中国になるのだろうか。いや、既になっている!

・・・・・・・
2003年02月23日(日)
690,「わたしを認めよ!」

「ぶざまの人生」「まれに見るバカ」が何とも面白い内容であったので
三たび「わたしを認めよ!」を買ってしまった。これも前書にまけず面白い内容であった。
この3冊は日常の心の何気ない事を取り上げているから、ひき付けてはなさない内容になる。
「なるほど、なるほど!」という説得力がある。人間は誰でも褒められれば、解っていても有頂天になる。
人が褒めてくれない時は、自分で周囲に褒めてくれるように誘導さえする。
「私って若く見えるでしょう?」「あの人と自分はどっちが若く見える」
 この場合明らかに自分の方が若く見える時のみいう。その反面、自己認証が歪んだカタチとして
 貶しに入るケースがある。 私の嫌いな痴呆迷士と子狐に、このタイプが多い。
褒めるということは認証として、一番大事なことである。
しかし、認証はもっと深い意味の話である。前書きと要約を書きうつしてみる。
 ・・・・・・・・
「わたしを認めよ!」 洋泉社新書018
              著者名 勢古浩爾 
まずは「まえがき」の要約
ー我々は認められたがっているーもっと厳密にいうと「承認」されたいのだ。
「まじめでおとなしい」性格!、これは明らかに揶揄を含んだ否定の言葉である。
 わたしには、「まじめでおとなしい」ことのどこが悪いのかまったくわからないが。
 この言葉は自己証明にならないのだ。 根本的には、自分という存在を証明したいのだ。
 人間は承認原則と証明原則の力学として読み解く事ができる。
ー内容  
・人間は「承認」を求めて生きている。自分という存在の意味が他人から否認されるとき、人は絶望し、あるいは暴発する。
 人は、自分の何をどのように認めてもらおうと欲しているのか。狂おしいまでに「承認」を求める人間の心理構造と 
 いかなるものかを考察し、現代日本における承認の実態を解き明かすとともに、最終的な承認である「自己承認」を
 手に入れるための心のありようを探る内容である。何より、「人間に必要なのは、自分の『価値』を『肯定』
 してもらうことではなく、『意味』を『承認』してもらうことだ」と主張している。
ーそれでもわたしが生きる意味とはなにか?
  
ー感想ー
・社会的の承認をまずは求め、と同時に一般の承認ー世間の承認を求め、
 世間も社会も、そんなものどうでもよいという 自分の魂の世界を求める
 ―わたしがわたしを認める世界を求める。これが 「わたしを認めよ!」 の三層である。
  これが人生の意味なのかもしれない。こうして毎日随想日記を書いているのも、
 潜在的に自己承認を求めているのだろう。ただ自己承認を強要してくるやつがいるから始末が悪い。
 自信がないからだ!     ー つづく

・・・・・・・
002年02月23日(土)
340,ある時間の断片ー3 
1968年9月2日  六日町 雲頓庵

朝6時に目が覚める。6時半に顔をあらい掃除をする。
食事の後、「流通革命」を後半100頁を読み終える。
そして昼飯。小千谷の根本医院の長男がやってくる。二浪とか「つらいだろう!」
13時から17時半まで「流通機構の話し」を読む。
中央公論の流通の切り取りも読む。 何か集中が足りない。
21時半に禅堂にいって座禅をくむが、何かごそごそという音がする。
こわごわ見ると猫みたいなのがいる。一瞬凍りつく!
よく見ると小さなイタチみたいだ。皆を呼びにいく。全員でそれを追いかけまわす。
逆に歯をむいてくる。とりあえず戸締りをして、次の日にする。


2880, 上海のバスターミナルにて

2009年02月22日(日)

19日の「NHK・BSの世界のドキュメンタリー」が、迫真に迫っていた。
今年の中国の正月にあたる「春節」に、上海で撮られたもので、
 中国の出稼ぎ労働者の現状を生々しく追ったもの。
  ーまずは、その部分NHKのHPの番組紹介からコピーしてみた。
 《 再訪・上海バスターミナル 〜不況下の帰省ラッシュ〜 》
中国の人々が年に一度、故郷の家族と水入らずで旧正月を祝う「春節」。NHKが2年前に取材した、
好景気に沸く上海の長距離バスターミナルは、春節の直前90万人もの帰省客が押し寄せ大混乱に陥っていた。
人々は貧しいながらも明日への期待を膨らませていた。
しかし今年のバスターミナルは、打って変わり閑散としていた。
世界経済危機の荒波を被り、出稼ぎ者の多くが仕事や生活の基盤を根こそぎ奪われ、すでに帰郷していたのだ。
それでも大晦日のバスターミナルには、追いつめられながらも故郷で春節を迎えたいと願ってやまない人々の姿があった。
バス代を工面するのがせいいっぱいで、土産も買えず身一つで帰省する農民工。給料が支払われず、妻子だけを帰省させて
一人上海に残る工員。故郷に残した我が子に会いたくて、リストラされた夫の反対を振り切って来た母親。
その一方で、大晦日に地方から上海にやってくる人々もいた。地方では暮らして行けず、新天地を求めてやってきた
大家族の農民。出稼ぎから戻らない母親を捜しに来たものの連絡がとれず金も尽きて途方に暮れる父と子…。
金融危機に揺れる中国、春節前の上海バスターミナルで繰り広げられる庶民の悲喜こもごもの人生のドラマを見つめる。
 −−
どのケースをみても、追い詰められた人たちの姿が痛々しい。
特に、出稼ぎから戻らない母親を捜しに来たが連絡がとれず金も尽きて途方に暮れる父子の姿が哀れ。
バスターミナルで二人が途方にくれている姿を映し出し理由を尋ねる所から始る。
地方から出てきたが金を使い果たし、ターミナルの閉門で寒空に追い出される。
そして二人は当てもなく歩き出すが、見かねた若いターミナル職員が後を追って、近くの安宿に自費で二人を泊めてやる。
極限の人間の姿は、それだけでドラマになる。 その時に上海で連絡を絶った母親から携帯に電話が入る。 
「私を捜さないで!」 究極の悲しみの場面である。 翌日、若い職員にいわれたとおりにバスターミナルの
所長を訪ねる。 そして女所長が、帰りのバスに無料で乗せてやる。
思いやってカップヌードルを持たせてやるところは圧巻である。
 他のどのケースをみても深刻な問題が浮き上がっている。
この番組は彼等の姿を通して、大不況の一般庶民の苦しみを訴えたいのだろう。
二年前の春節の上海ターミナルの職員の仕事収めを追った映像と、閑散とした今年を比べて
現在の中国の現状を浮き上がらせていた。 冷え冷えとした10年を予感させたドキュメントであった。

・・・・・・・・・・
2008年02月22日(金)
2515,  iMacの感想! −2
                      オッ ヽ(゚∀゚)ノ ハー
Macを買ってから一月ほど経つ。
これを入れてから2週間もしないうちに4棟のホテルのロビーに6台、事務所に二台、
自宅も含めて9台を導入した。 
とにかく画面が綺麗なことと大きいことでパソコン環境が一変した。
そのキッカケが年に数回事務所に訪ねてくる知人が三年前のパソコンを見て、
「そんな古いパソコンなぞ使っているのは如何なものですか?」といわれたことである。
何かピンとくるものがあり、直ぐ近くある「ヨドバシカメラ」に、パソコンを見に行ったところ、
最新のオール・インワンの「iMac」を見て気に入り、即座に事務所に一台入れた。
旧来のノートパソコンの隣で比較をしてみて驚いてしまった。
そこで決算期の節税対策もありロビーに導入することにした。
珍しいこともあってか、お客の反応は上々で判断は正解のようである。

これまでのパソコンとの差は、既存のカラーTVと、最新のハイビジョンTVの差はある。
当たり前のことかもしれないが、パソコンの世界の三年は質を根こそぎ変えてしまうのである。
さらにiPodも入れたことで、音楽に常に取り囲まれた生活になってしまった。
今朝も、昨日も、朝の三時にベッドの中で音楽を一時間ほど聴いていた。
さらに写真と動画のブログを気楽に見るようになった。
web2.0の流れが、面白い映像や写真が溢れるようになったのである。
電子機器などのハードや、ブログなどのソフトの飛躍的な進歩が時代を根こそぎ変えているのだ。
恐らくモバイルのMacbook.airを使ったら、まったく違った感覚になるのだろう。
それもこれも、やはり経済である。 もし、ここで新潟駅の再開発工事が始まらないとしたら、
思い切ってパソコンを変えようとしなかった。何があっても携わっている事業は健全に
しておかなければならないならない。このテーマとは話はそれたが・・・ あと三年経ったら、
さらにパソコン環境はMac airのように軽量、無線、ノーキボード化の方向に変わるだろう。
                 ゚ο゚)☆グハァッ゙
・・・・・・・・・・
2007年02月22日(木)
2151, スピリチュアル・ブームを考える −2
              オッ(*^○^*) ハ〜ヨウサン

溝口敦の批判も当然ながら鋭い。最近は著書「細木数子ー魔女の履歴書」で、怪しげな女占い師を切り捨てている。
詐欺・たかりの類の小道具としては、これだけ有効な手段は無い。騙されやすい類の人種が興味を持つからである。
ーー
人は成長するにつれ、サンタクロースや魔法を信じなくなる。
現在のスピリチュアル・ブームは大人たちの幼児期への退行現象である。
この世は合理的に動いていることを成長しながら学んでいく。
霊魂や超自然ではこの世は渡っていけない。霊性では数学は解けないし、免許証はとれない。
わずかに世を渡っていけるのは霊性を商売にする人たち、
占い師、スピリチュアル・カウンセラー、新宗教のリーダーと仲間達ぐらいである。
もっともそういう人たちも、ライバルや税務署とやりあう時につかうのは、合理的思考である。
観念論者同士が争うとき、最後に決着するのが唯物論であるのは公理である。

もちろん人はスピリチュアルという袋小路で遊ぶ自由はある。
せめて遊びのときぐらい公理一辺倒の世界から離れたいと思うのも理解できる。
娯楽や気休めとして占いや手相見、神頼み、お守り、など人生の小道具として認められてよい。
しかし、墓相とかいって墓地を買え替えたリ、造りなおす人は金をドブに捨てるのと同じである。 
人生の孝・不幸と先祖のお墓との関係はない。脳科学は発達はますます意識を司るものが物質と
その化学反応であることを証してきた。生命の物質的反応として意識が生まれいる以上、生命が死を迎え、
活動を止めるとき、意識もまた絶える。 死後の霊など存在しないし、存在できない。
現在、霊性の迷いの道に入った人が珍しくもない惨状である。霊感商法にやすやすと騙されて大金を失い、
家族不和を招く。民放各局が視聴率稼ぎで守護霊の霊視やエセ占い師を登場させ、彼らの権威付けや宣伝、
影響力の拡大に力を貸している。

ーー
霊感という言葉ではなく、シックスセンスという言葉ならいいが。
心を込めた、いや魂を込めた作品なら、自分が亡くなっても、その作品が残るかぎり、
その中に籠った魂の痕跡は残るだろう。しかし自分が来世に生まれかわるかどうかは別問題である。
一人一人は、全くの別であるのは当たり前のことである。 エピクロスではないが、
「死なない存在」の死後を如何して問うのだろうか!

遊び遊び、霊ズニーランドの霊界イメージ・ゲーム それでいいではないか!   
ただし、一期の夢と割り切ること             
                  (^o^)ノ バイ!                 
・・・・・・・・・
2006年02月22日(水)
1786, 誰も知らなかった英国流ウォーキングの秘密
       才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)  ー 読書日記

図書館で借りてきたが内容が深いので、中古本だが、ネットのアマゾンで取り寄せた。
それぞれが味わい深い内容で満ちている。ヨーロッパの郊外にある公園に行くと、必ずといってよいほど、
ウオーキングやジョギングやサイクリングをしている人を見かける。その度に生活の豊かさを感じ取っていた。
ウォーキングの本は数多あるが、これだけ詳しく書いてあるのは珍しい。
    
ーこの本の概要をまとめてみた。   _φ[・ω・`*]メモメモ♪
 英国では1800年代にフットパスと呼ばれるウオーキングのための小径が誕生し、
 現在では20万キロも整備されていて生活の一部となっているという。
 イングランドとウェールズ地方だけでも、なんと16万キロメートルの歩くための道が、公道だけでなく、
 私有地の農園、庭先、工場の敷地内をも繋ぎ、そこで人々は自由に通行ができる権利を有している。
 国民の45%がウォーキングをスポーツとして実行し、
 何処かへ着くということよりも歩く過程そのものを楽しんでいる。
           だぁ(=Д= )るぅ(=д= )いぃ(=д=   ブスッ!☆ ―⊂|コ-ω- )
                      ニンニク注射いきますっ!
「フットパス(footpaths)」とは、「人の足によって踏み固められた歩行路」のことで、人だけが通れる道のこと。 
 他には「ブライドルウェイ(bridleway)」があり、これは手綱(bridle)のとおり 人、馬、
 自転車が通れる道のことをいう。
 この本では、英国のランブリング(逍遥)と、日本における散歩の歴史を紹介している一級の内容である。
人は‘歩くこと’という肉体の運動としてだけでなく、精神を様々な様式で駆け合せてきた。
その枠組みを以下のように提示している。
(1)思索のウォーキング 歩きながら考える、アリストテレスからルソーなど思索を深めるために歩く
(2)宗教的ウォーキング 悟りへの歩行、空海の山野行、修験道、八十八個所巡礼、富士山登山講など
(3)自然観照のウォーキング 静かな心で自然に向かい、その本質を見ようとする態度、
   芭蕉、ベートーベン、ワーズワース、国木田独歩などロマンチックな歩行の原点
(4)達成へのウォーキング  アルピニズム、長距離を踏破する
(5)訓練のウォーキング 歩行のなかで体や根性や団体行動の技能の訓練をするための歩行、
   ワンダーフォーゲルや軍隊などの教練、鍛練など「やらせる側の意図」による歩き
(6)余暇活動としてのウォーキング 暇な時に目的もなくぶらつく歩き、無為という行為を楽しむ、
        夏目漱石の散歩、長井荷風の夜歩き
(7)コミュニケイションのためのウォーキング 友人、恋人、家族がコミュニケイションのために歩く
(8)教育のためのウォーキング   自然学習、社会学習のための歩き
(9)見せるウォーキング   繁華街を見せるために歩く
(10)健康のためのウォーキング  フィットネスウォーキング
 −−
 20年近く近くの土手をウオーキングをしてきたが、散歩をしている人が少ないのが不思議である。
 生活に取り入れている人は5佑砲睨たないようだ。
    
初めは腰痛対策と運動のため歩いていたが、現在では「歩くために歩く」に、目的が変化してしまった。
この本を読むかぎり、英国は生活天国の国のようだ。          -,_っ-)ゥンゥン
ーー
山と渓谷社    市村 操一【著】
             =☆(((((((((・ω・。)バイバイ!
・・・・・・・              
 2005年02月22日(火)
1421, 西武鉄道前社長の自殺と、カリスマ失墜

  何回か堤義明について批判的な文章を書いてきた。
・プリンスホテル内で御付が、待っている宿泊客を制して、堤をエレベーターにのせた
・突然ヘリコプターでホテルに乗り付けて、査察をした
(字数の関係でカット09年02月22日)

・・・・・・・
2004年02月22日(日)
1054, 職業性格形成論−3
 ー「営業屋性格論」が解りやすく、面白いから取り上げてみる。

仕事柄、営業の人と接することが多い。
営業にも色いろな種類があるので一括りには出来ないが、彼等には大きな特徴を見える。
「褒めること」と「世間情報の内幕情報屋」を武器にする。遵って、その人の人柄が出てしまうのだ。
一つ間違えば信頼を失い「汚い子狐」として軽蔑の対象になる。
その為には、自分の良い部分を相手に示し、信頼させるがポイントになる。
営業といえば、外商や代理店や飲食業や店のママなど挙げればキリがない。
姉から聞いた話だが、欧州旅行のツアー仲間のリタイアをしたばかりの人の成功話が印象に残っている。
「営業活動で、キーマンが名古屋コーチンの鶏肉が大好物という話を聞いて、雛を買ってきて、
最良の餌と水を与えて育て上げ、潰して、その肉をお歳暮として持っていき続けた」という。
ここまですれば誰でも心が動くだろう。逆に、その位しなくてはプロとしての営業にはなれない。
昔は金持ちや偉い人には「太鼓もち」や「芸者」が、お世辞や芸のサービスを売っていた。
現代では、クラブのママやホステスやバーテンなどが代わって、その役割をするようになった。
現代芸者・太鼓持ちというところか。営業活動で、職務としてキーマンに「どっこいしょ」と持ち上げ、
心の隙を見つけて営業をスムースにするスキルを求められる。
人好きの人でないと勤まらないだろう。必死になれば人好きになるだろうが。
営業は自社の商品を売るのが目的であり、その良さをアピールするのが仕事になる。
そのために、相手の気持を開かなくてはならない。その際たるものは保険屋の営業であろう。
第一保険の日本ナンバーワンの手記を読んだことがある。
トップセールスに相手を絞って、徹底的にお客のサイドに立った保険のシステムを組んでやるという。
そのために顧客大部分が、顧客の知人の紹介でのネットされたものだという。
セールスの機能を保険会社の代行ではなく、顧客の代行と切り替えたのである。

昔から営業のやり手は仕事が終わった後のアフターファイブから仕事をする。
または自分の休みの土曜日を遊びを兼ねた営業をかける。
仕掛けを自分の知恵をつかってフリーの時間外につくっているケースが多い。
へドロといわれる人がいる。時間内しか仕事をできない人である。
公務員系の子息を一般の会社に入れると、本人だけでなく周囲に??をもたらす。
別に本人責任でないから問題は深くなる。父から聞いた話だが、戦前に骨董屋をしていた時、
地元の大手の社長へのトップセールスを思いついたという。
女好きという話を聞いて母に電話をさせたところ直接出てくれたという。そして骨董商をしているが
会ってくれと言ったところすんなり会ってくれたという。もちろん父がいったそうだが。
やはり知恵をつかっての営業ということだろう。その後、その人のキッカケで多くの大手のトップを
紹介してもらったという。何事も必死になれば道が開かれるということか。そこから性格が磨かれるのだろう。
セールスは品性が基本になくてはならない。品性は普段の生活の中から築くものだ。 家系もあるが?
                                        耳が痛い?!
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2003年02月22日(土)
689, 人生の「かたち」
 ーいやなことはやらない!

51歳になった年に、母を見送り(88歳で死亡)、下の子供が大学に入学。
事業では新潟駅前で500室の客室数の完成で、人生の丁度目安がついた年ー人生の分岐点の年であった。
その時に、「好きな事をやり、厭なことは可能な限りやらない」という方針をたてた。
ところが同じような記事が産経新聞に出ていた。哲学者の中島義道氏の文章で 
 ー私流人生の「かたち」ーの{「厭なこと」はなるべくしない}であった。
 きしくも、私と同じ歳で、やはり6年前に決心したというから不思議なものだ。
ー私よりずっと徹した内容で、人生を半分降りようと決意したという。
・社会的成熟を拒否し、世間体を投げ捨て、どんなに嫌われようと、排除されようと、いやなことはなるべくしない
・親戚とか友人の冠婚葬祭は一切省く、大学の校務はギリギリ最低限のことしかしない。
 −5年前と2年前に亡くなった両親の法事にも一切参加しなかった。
・自分の実感から離れる社会的慣用句(「世間語」)を語る事を完全にやめる。
 −感謝してない時は「ありがとう」といわない、心のそこからそう思わない時は「おめでとう」と言わない。
・あまった膨大の時間、18歳の少年のように「生きるとはどういうことなのかな〜。
 まもなく死んでいくとはどういうことなのかな〜」とか考えている。
・楽しいかといえば、全然楽しくはない。むしろすざましく不幸である。しかし、自分の人生のカタチと諦めている。

先日亡くなった同級生が正反対の世界で、必死に自分を演じていた。彼の立場は、それが不可能の立場であった。
6年前に考えたのは、「本当に好きな事は何か?」「いやなことは何か?」であった。

・好きな事は秘境旅行、ウォーキング、事業、読書、居酒屋通い、映画、随想を書くことであった。
 それと世界をもっと広く深く知ることだ。
・今までの付合いの見直しである。「世間体に生きている度合いの高い人」は可能な限り寄せ付けない。
 勿論、それすら解らない人もだ。
・プレッシャーのかかるセミナーや会合には可能な限り出ない。それを割り切って一づつ確実に実行する。
そんなことをいったって、不可能だろうし、高慢でないか!と聞こえるかもしれない。
そのとおりかも知れないし、バカなたわごとと解っている。
でも、中島義道氏のようには徹する事は難しいが、少なからず実行している事は事実である。
このHPを開いてから誰かとどこかで繋がっている実感が強くなった為に、更にこの傾向が強くなってしまった。
中島氏のように多くの読者を持っていれば、その姿そのものを共感する見えない
仲間の存在があるから可能になるのだろう。自分の人生のカタチは自分で創っていくものだ!

・・・・・・・・
2002年02月22日(金)
339,笑う人 

ベトナムに行った時に出会ったバスのドライバーという人。
旅行の最中、ほとんど笑いっぱなしであった。あるいは人を笑わせていた。
お笑いの芸人も2種類いるという。普段の生活の中で「全く笑わない人と、笑いっぱなしの人」と。
その人に「如何してそんなにわらえるのか?」聞いた。「母親が何時も笑っている人で、その影響だ」という。
職業が「観光バスのドライバー」というから、それに磨きがかかったのだろう。
ハワイに初めて行った時のバスのドライバーが「ポパイにそっくりな顔」をしていた。
そして初めから最後まで運転しながら、ニコニコ鼻声で歌っていた。
こんな陽気な笑いは、かって見たことが無く、ハワイにピッタリであった。
あそこまでは無理としても、訓練すれば半分は可能な筈だ。
土壌と、また特に母親の影響が大きいのだろう。子供は何らかの形で両親の分身なのだ。
会社に毎年新人が何名か入ってくる。研修を終えて恒例の歓迎会が毎年楽しみである。
若い女性が研修から解放され、「純粋な笑いの渦」にその会がなるからだ。
知人の数名もそれを知っていて、招待されるのを待っている。
ちょうどこんな感じである。  ー(^<^)!(^^)!(^'^)(^^♪(~o~)(^・^)(^o^)丿


2879, アメリカの住宅金融の惨状とは

2009年02月21日(土)

 ーサブプライム金融恐慌の構造と意義ー 伊藤 誠  −1
                        (現代思想ー金融恐慌特集)

これまで金融恐慌系の本を20冊近く読んだが、実際の数字をみることがなかった。
ところが先日読んだ本の中に、非常に分かりやすくあった。
この数字からみても、アメリカ崩壊という言葉は、決してオーバーではない。
  ーその内容とは、
・住宅金融は2002年から2006年までの景気回復と住宅ブームを圧倒的にリードする役割りを果たした。
 この時期の米国経済の四割は住宅市場に依存するもので、結果として住宅金融の残高は2006年には13兆ドル
 (ドルを当時、120円とすると15000兆円)になり、当時の米国GDPと同額になっていた。
   このうちサブプライム・ローンが13パーセントを占めていた。
・サブプライム・ローンの一戸当たりが20万ドルとされており、850万世帯(一家が三人として)2500万人が
 このローンを背負っていたことになる。住宅ローンが13兆ドルとして、平均40万ドルとすると何と3250万世帯、
 三人家族とすれば人口の三分の一が、この時期に住宅ローンによって住宅を得たことになる。
 −日本のバブル直後の住宅ローンの残高が140兆円というから、約十倍になる。
 それだけでも米国のサブプライム・ローンの方が大きいことになる。
 人口は2・5倍だから、一世帯あたりとすると日本の4倍の大きさで、いかに莫大で深刻かがわかる。
・10年間で米国の住宅価格が2倍当たりになっていたというから、半減することになれば、
 米国人の三分の一が深刻な経済状況に陥るのは明白である。
 特に値上がりを前提で買っていたサブプライム層にとって深刻である。
・昨年の6月に米国の住宅ローンの8・8パーセント、480万世帯が返済未納か、
 差し押さえになり人口規模では千五百万人近くが、住居を失う脅威に曝されている。

 一昨日にオバマが米国住宅市場の再生策を発表したが、そう簡単に解決できるレベルではない。
 7兆円の900万世帯を対象にする再生策だが、一世帯当たり単純にわっても80万弱でしかない。
 自動車と住宅は、向う5年分の先取りしているというから、最低でも景気回復に5^6年はかかることになる。
あの「金持ち父さん」が10年近く前に、本屋に平積みしてあったが、
アメリカでは、この本に従った多くの人が、「貧乏人父さん」になっていったのである。 
実をいうと私も読んだが・・・

・・・・・・・・・・
2008年02月21日(木)
2514, 賢人の知恵 −1
               +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゜・:*☆
まずは、この本の「はじめに」をコピーしてみる。
 ーー
著者のバルタザール・グラシアンは、17世紀のスペインで活躍した著述家であり。イエズス会の修道士です。
神学者アルトゥール・ショーペンハウエルはグラシアンの著作のドイツ語訳を手がけ、日本では森鴎外が部分的な
日本語訳を発表しました。哲学者フリードリッヒ・ニーチェは「ヨーロッパはいまだかつて、これほど精妙にして
複雑な人生の道徳律を生んだことはなかった」と記して、またショーペンハウエルも「人生のよき手引書である」
という言葉を残しています。そして現代においても、高名なテノール歌手であるルチアーノ・パバロッティが
愛読書としてグラシアンの書を挙げているなど、欧米では今もマキヤベリ『君主論』と並ぶ不朽の名著として
読み継がれているそうです。 聖職者の書いた人生訓、というと、皆さんは生真面目で禁欲的、理想的な内容を
想像されるかもしれません。しかし全くそんなことはありません。むしろグラシアンが主張し続けたのは、
冷静な視点で現実を見つめ、思慮分別と洞察力をもって柔軟に物事に向き合うことです。
その背景には、当時のスペインの不安定な政情や社会に対する思いもあったのでしょう。
ともあれ彼の教えは、400年の時を超えて、私たちに自分を高めることの大切さを与えてくれる。
インターネットやテレビによる情報が氾らんし、世の中が恐ろしいほどの速さで移り
変わっている現代において、自分を見失わずに成功を手にするためにはどうすればいいのか? 
そのヒントがたっぷり詰まっているのが本書です。ぜひあなたの傍らに置いて、ご活用いただければ幸いです。
 −−
この本のカバーに、バルタザール・グラシアン氏の経歴がある。
『雄弁な伝道師として圧倒的な名声を得るが、1657年、サラゴサでの聖書学の教授の地位を追われる。
 逮捕され、追放されたタラソナという村で一年後に没した。』とある。
これだけでも、この人物の処世術が生くさすぎることが分かる。
でも書いてある内容は、なるほどと現在でも納得するものが多い。
“善人が損をするのは善良だからではなく、世間を見る目が甘いからだ。”
など、これが伝道師かと思ってしまう言葉がつづく。この言葉を私なりの解釈をすると、善人といわれたら、
よほど甘い人間ということ。それは世間体にいえば、毒にも薬にもならないどうでも「善い人」の意味が含まれる。
政治家になろうとするなら、それを演じればよいが・・・
それは損得の問題ではなく、そういわれること自体が、すでに甘いという見方もできる。
だから宗教が必要なのである。宗教的信念は善人の要素をつくりあげる。
また“正しく生きるな、賢く生きよ”という言葉もよい。正しい悪いは、あくまでも本人の価値観でしかない。
知恵を使って賢く生きるべし!ということだ。知恵は知識を消化したソフトである。
                             ー  つづく
                 (っ´Ι`)っ サイナラ
・・・・・・・・・・
2007年02月21日(水)
2150, スピリチュアル・ブームを考える −1
              才八∋ウ_〆(∀`●)

毎日新聞の2月19日の「論点」に「スピリチュアル・ブームを考える」をテーマに
島田裕己、溝口敦、香山リカの三人のジャーナリストが、それぞれの視点で鋭く、
そのブームについて分析をしていた。 なるほど非常に面白い内容であった。
現在の日本は、一部の強者以外は全体として行き詰まりの様相を呈している。
その中で人間は内側にエネルギーをもとめてしまう。「霊的エネルギーへの欲求が社会に満ちている」
といってよいだろう。心の中に何かが起きているのだろうか?
私自身も父の死をキッカケに十数年間も霊感がついた。何をもって霊感というと難しいが、
とにかく変な感覚がついてしまった。最近はホボ無くなったが、あれだけは実際に「その感覚」が
つかないとわからない。だから、興味を持っている人以外に話さないことにしていた。
生来の盲目の人に、視覚の話をしても理解できないのと同じである。
といって、極端なスピリチュアル・ブームもおかしなものだ。
細木数子の批判文の中でも書いたが、物語を人は求めているのである。それを安直にイメージ化できるのが、
霊とかいうヤツだ。まあ、この三人の切口から、その本質を考えてみよう!    
  ーー
ー島田裕己ーの分析から考えてみよう。
  まず要約すると、
「バブル以降、霊観念の個人化が進展、カウンセラー型の霊能者がはやる」ということだ。今日現在のブームは、
伝統的な霊観念の衰退、希薄化ということと関係している。前は宜保愛子の先祖の霊が適切に祀られていないと、
その祟りで病や不幸がもたらされると考えられ、それを取り除くには先祖の霊を正しく供養しなければならないと説かれた。
 ところが、核家族化が進行して、家の解体が指摘される今、家の比重が低くなり、先祖の霊の祟りはリアリティーが
無くなってしまった。多くの人は家のしがらみに苦しんではいない。少子化で、家の存続も危なくなっている。
そこで今は「個人化」の傾向が強くなり、家の影響は小さくなり、対象が家の霊ではなく、
個人になっている。それは、個人の前世の霊ーすなわち生まれかわりの霊ーに変化したのである。
もし出てきたとしても、それは祖父母など近しい存在に限られるのである。
 −−
解)まあ、これから考えてみると、これだけいい加減なことはない! 霊など心の迷いの時に頼る無知な人間の玩具や
 マジナイと同じ。彼はそういいたいのだろう。父が「墓は本家より大きなものにしてはならない!」と言っていたが、
 それも明治生まれの[家]制度を背景に持った論でしかなかった。家そのものより、個人化の方が重んじられる現在、
 あの父の言葉は何だったのか?墓は「家の抽象的な心のカタチ」だったのか?人は、心の何処かにそれが必要なのか?
 だから レジャーを兼ねた盆帰りをしてお墓に参るのだろう。              
                                バイ  (σД≦)ネムゥ〜
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2006年02月21日(火)
1785, 閑話小題

 ースーパーツチダの倒産ー
地元のスーパーマーケットのスーパーツチダが破産・倒産をした。
前の社長が高校の同級生で三年前に癌で亡くなってしまった。
10年以上前から、会社がギリギリということは本人から聞いていた。逆によく三年も持ったということだ。
地元ナンバーワンのスーパー原信に圧倒的な商品力の差があった。そのため最近では殆んど店には行かなくなっていた。
ダイエーが昨秋、長岡店を閉鎖した後に今度はツチダの閉店でマスマス町が寂しくなる。
長岡のスーパーは原信の一人勝ちの様相になってきた。新潟を本拠に置くスーパーウオロクも、原信との闘いで体力を消耗、
虫の息という噂を聞く。 流通は厳しい時代になってきている。最近は、誰も他人事ではない。
 今度は何処?という感覚が恐ろしい!
ー勇気とは何か ー
 勇気とは怖れを感じないことではなく、恐れることより重要な問題を感じ取ることである。恐れの90佑思い過ごしというが、
 恐れから眼をそむけるのではなく、その中心を凝視することで恐れを克服していく姿勢である。
 むしろ恐れが問題の中心点にエネルギーを集めることになる。
 そしてエネルギーを集中することによって、問題に立ち向かうことである。
 積極とは、極めを積み重ねることである。 極めはリスクを伴う。そのリスクの上でこそ問題の重要性がみえてくる。
「正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向ける」というが、勇気は正しい目標を持ってこそ、その意味が出てくる。
 こういう時代、変化を恐れていても仕方がない。背後の問題を把握して一つずつ解決していくしかない。
 背後の問題とは
 ・情報化社会の到来 ・グローバル化(旧共産圏の自由市場への参入)
 ・日本という国家の極度の疲弊化である。 特に情報化が根こそぎ社会を揺り動かしいる。

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2005年02月21日(月)
1420, FIFAオールスター・サッカー

昨日、スマトラ沖地震のチャリティーの「世界選抜」と「欧州選抜」とのサッカーの試合を見た。
世界の超一流選手だけが参加しているのだから面白くないわけがない。
個々人の世界最高の技が次から次へと出てくる。その上、世界の才能が団結をして闘った内容でもあった。
それぞれの選手の技にお互いに驚いているのが解った。パスにしても、シュートにしても一流の技は芸と言ってよい。
次から次への攻防が全てに無駄がない。
勝負を競うより、一人一人の技術のオンパレード。それも、漫画本に出てくるような技が面白いようにでてくる。
お互いの技が、それぞれの技を次から次へと引き出してくるのもよい。試合内容は、終始「世界選抜」が攻勢をして
6対3で買った。90分が、これだけ短く感じたのは新鮮で感動した内容のためだろう。
これだけ熱狂というより、次から次へと感動したサッカーの試合は忘れることがないだろう。
世界150カ国に放送されていていたというから、10億人以上が見ていただろう。日本人では中田選手が出ていた。
解説のセルジオが、終始「凄いですね!凄いですね!」と繰り返していたが、それだけの、中味の濃い90分であった。
サッカーといえば、緊迫した点の取り合いが特徴だが、勝負より個々人の技術を楽しむというのも良い。
何ごともそうだが、楽しむネタは幾らでもあるものだ。

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2004年02月21日(土)
1053, 判断と決断の狭間

人生振り返ってみると、判断と決断の間に大きな溝があった。
この溝で救われたこともあった反面、大きなチャンスを失ったことも多い。
「判断」とは、正しいか、正しくないかという物差しで計るものであり、「決断」とは、強いか、弱いか、
早いか遅いかによるものによる。そこで心すべきは決断の仕方である。状況をいくら分析しても、それが意思決定に
つながらなければ無意味になる。といって、そこには責任が伴うから、その狭間を冷静にみる視点が必要になる。
判断をしたら、あたかも決断したような錯覚に陥り問題を先送りしてしまいがちになる。
判断は人間の首から上の作業によるものだが、決断は人間の知・情・意のすべてに深くかかわり合う、
つまり全身全霊を駆使して決めるということである。そして判断の優先順位と決断が直前におこなわれる。
そこに人生観や価値観の問題がでてくる。そして、その曖昧さが溝になる。
人生は、その溝の中で泳ぐ魚のようでもある。だからこそ面白いのだ。分裂症という鮫もいるが。

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2003年02月21日(金)
688, ストレス

先日亡くなった同級生の偲ぶ会で、彼の死因について話しが出た。
直接原因は癌であったが遠因がストレスだろうと意見が一致した。
その場の全員が人生で一番厳しい一里塚にさしかかっているから解るのだ。
その場でAが「堀井お前ストレスなど無いだろう!」 わたし「ゼロ!」。
Bが「堀井、お前は与える方だ!」爆笑であった! 
ところで彼らは、「ストレスの解消法をあまり解ってない?」と思えた。
ストレスの潰し方は、他のストレスで潰すのが一番本能的な簡単な方法だ。
しかし、それは更なるストレスの蓄積をしているに過ぎない。
わたしの経験からいうと、「独りになりきるしかない!」 それが全く解ってない、
号泣せざるを得ない立場になって初めて気がつく! それでも気がつかないだろう。
ストレスだけは、気をつけないと。いつの間にか溜め込んでいるのに気がつかない人が多い。
群れるしか能がないから、ストレスの雪だるまになる。「人間は孤独の存在!」である、
また「群れていなくては生きられない存在!」でもある。この二律背反を使い分ける事が必要である。
私の場合はお経とか、ウオーキング、旅行、読書、映画で発散する。
それとイヤな事は繰りかえして考えないようにしている。
この随想日記もストレスにもなるし、反面ストレス解消にもなる。

ここで一句   バカいうな やることだけは やっている

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2002年02月21日(木)
338,「世界がもし100人の村だったら」

この本が最近話題になり、インターネットで早速買ってみた。本屋で立ち読みをしたら、
買わなかったと思う。ほとんどが「TVで放映されている内容」でしかなかった。
昨日、印象に残ったものを「サロンのコーナー」に、デジタル写真で撮り、貼り付けた。
もっと色々な内容があるはずだ、そう思って買った。
すぐ考えたのは、「日本がもし100人の村だったら」が書けるのではないか、という事であった。
日本人は2番煎じはうまいのだが。ただ「テーマ」がよい!ーいや問いかけといった方がいいか。
今まで難しいと意識しなかった問題が見えてくる。テーマの決め方で、問題を深く捉えることが可能になる。

「国家予算」も「県の予算」も、「100人の村だったら」の喩えでもして解説をしてくれたら、
一般の人も関心を持つ。ある人の文章が巧くなった。何故だろうと考えたら、いつの間にかテーマをつけていた。
テーマは円でいう中心点である、芯ができた為だろう。テーマ日記を書き続けて、少し自分の頭がよくなったようだが?
テーマを考えるのと、その内容の構成をするからだ。また書きながら、違う視点にも気づくからである。
100という数字が分かりやすいのと、村の住民という喩えがよかった。
山下清が何か考える時「兵隊の位でいうと,どのくらい?」と問いかけるのと似ている


2878, 閑話小題

2009年02月20日(金)


 *大型店の出店の目玉商品を検証してみた
新潟駅構内に「ビッグカメラ」が今日オープンする。
昨日はプレオープンというので昼休みに行ってみたが、県内最大規模の一万屬箸いΔ世韻△辰胴い。
三層の店舗になっており、四階から八階までが駐車場で駐車台数が800というから本格的である。
新幹線、在来線、バスのターミナルが集結しているので駅中ショッピングセンターとしては、
これ以上ない場所である。至近距離に大型書店があるので、既存の専門店を含めると大ショッピングセンターになる。。
これで駅中の100メートルほどにある「ヨドバシカメラ」が、最終的には撤退をせざるを得なくなるかどうかだ?
これに大型のファッションのH&Mとユニクロでも出て来れば更に面白くなる。
配っていたチラシの毎日の超目玉商品の中から、「コンパクト・デジタルカメラ」を選んで、
価格ドット・コムで7〜8点調べてみた。 しかし半分は同じ位、半分は、その7割の値段であった。
バイヤーも調べての値段設定だろうが。イメージとして安いのを優先しているようだ。
2GBのSDカードを特価台で囃してしたが、780円など廉くも何でもない。PCデポでは三枚で980円。
新聞の4面の大きさのチラシに9日分の日替わり特価品を出していたが、買うほうからしたら、
何処かに欲しい商品があるだろうから、見ていて面白い。店舗と同じである。
この大恐慌?の中、家電の売り上げが激減しているというから、経営のサイドも大変だろう。
  *県民所得差 
 先週になるが県民所得の2006年度が発表された。(以前も少し書いたが) 
 この数年は、それほど変わってないが今年度は様変わりするだろうが・・・
 1〜7位までは前年と変わらず。
 東京が480万でとトップ。
 沖縄が209万で最下位。
 丁度中間の23位が福島で278万。
 新潟県が273万で25位。
  全国の平均が307万円。
 トップ10は、関東と東海ベルト地帯の愛知、静岡、神奈川や、他に大阪、広島などである。
 下位では九州、四国、東北、北海道などが目に付く。
 地元新潟で住んでいる実感として、東京の6割というのは肯けるが、物価や住居などの安さを含めると、
 8割の生活レベルだろう。
 全国平均と、ほぼ同じというのは分かるが、新潟市は中の上、長岡市は中の下という感覚。
 地方は、あまり格差がら露出されてないので気持ちは穏やかになれる。
  田中角栄が健在のころは、新潟県は日本でも有数の豊かさを実感していた。
 当時の長岡市の公共投資と山形県が同じというから、いかに政治の力が大きいかを実感していた。

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2008年02月20日(水)
2513, 思い込み

 *緊張と深呼吸
この歳になって、思いもよらない思い込みや、間違いに気づくことがある。
先日のTVで「受験の際、緊張しない方法」について、オヤッと思わず考え込んだことがあった。
「受験場では、深呼吸をしないこと! ほとんどの人は逆と思い違いをしている。深呼吸はすればするほど、
緊張度が高まります。なるべく深呼吸をしないように、小さく息をするように心かけて下さい」という。
こんなことを聞いたのは始めてである。私の場合は、緊張する場面は、人知れず深呼吸をしていた。
心を落ちつける要点は、深呼吸であるのは自明のことである。しかし、それが過ぎると緊張を柔らげるところか、
逆の効果になるという。改めて振り返ると、多々、思い当たることがある。

その人により、緊張する場面が違っても、それぞれ極度に緊張する場面があるという。
色々の人を見てきたが、驚くほど多様である。その時の体調によったり、温度差の大きい部屋に入ったり、食後など、
自律神経などの狂いにより、何でもないことに赤面したり、極度の緊張でパニックになったりすることは、
多くありすぎて、書ききれないほど。そして誰もが自分だけではないか?と、それぞれが思い込んでいるのである。
自分は、緊張症だ、赤面症だ、精神質症だ、・・それぞれが思っていることを知らないのである。
そんなことを言っていたら、生きていけないから乗り越えているだけである。
それはよいとして、深呼吸が緊張を高めるとは、この歳になるまで気づかなかった。
「リラックスするには、深呼吸をしなさい。ただ、一度だけにしておきなさいよ。
し過ぎると、逆に過呼吸になり緊張は高くなり逆効果になりますよ。
 呼吸は、小さく整えて気持ちを息に持っていきなさい」ということ。

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2007年02月20日(火)
2149, へべれけに酔っ払いてえなあ。
       v(=゚ω゚)ノおはょぅ   −読書日記

この文章を読み終わったとき、その衝撃で暫く茫然としていた。短い文章の中に労働者の生活と哀歓が
よく表現されている。内側にしか破壊衝動を向けざるを得ない者たちの深い哀しみと諦観をみごとに語っている。
この諦観は中年期の男の誰もが何度も味あう屈折した心情でもある。「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、
皆な私が悪いのよ!」でなく、「お酒が悪いのよ!」と、オダをあげなくては生きていけないのが人生。
知人が先日亡くなったが、連れ合いが父親の葬式の晩に自死したという。へべれけに酔っ払っても、何もかも壊しても、
その傷は癒えるわけがない。食道ガンだったというから、毎晩飲みつづけるしかなかったのだろう。                           
 
【人生のことは、小説が教えてくれた】より −2
                      葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」高橋敏夫 中経出版
 松戸与三は恵那山の麓で発電所の建築現場で働いていた。
一日中顔をセメント粉にまみれながら樽からコンクリートミキサーに移す仕事に就いていた。
仕事にヘトヘトになつた頃、樽の中から小さな箱が出てきた。
しかし、作業は彼にはこの中身を確かめる時間を許さなかった。
彼は腹掛けの丼(ポケット)にほうりこんだ。「軽いところを見ると、金も入ってねえようだ」ミキサーがからになり、
終業時間になった。「なんでセメント樽から木の箱が!?」思わせぶりに頑丈に釘付けしてあった。
石にぶつけ何度も踏みつけた小箱のなかからボロに包んだ紙切れが出て来た。
 それにはこんなことが書かれてあった。
ーーー
私はNセメント会社の、セメント袋を縫う女工です。私の恋人は破砕器へ石を入れる事を仕事にしていました。
そして十月の七日の朝、大きな石といっしょにクラッシャーの中にはまりました。そして石と恋人のからだは砕け合って、
赤い細かい石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒へはいってゆきました。

そこで鋼鉄の弾丸といっしょになって、細かくこまかく、激しい音に呪いの声を叫びながら、砕かれました。
そうして焼かれて、りっぱにセメントに成りました。骨も、肉も、魂も、粉ごなになりました。
私の恋人の一切はセメントになってしまいました。残ったものはこの仕事着のボロばかりです。
私は恋人を入れる袋を縫っています。私の恋人はセメントになりました。

私はその次の日、この手紙を書いてこの樽の中へそうっとしまい込みました。
あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私をかわいそうだと思って返事を下さい。
この樽の中のセメントはなにに使われたでしょうか、私はそれが知りとうございます。
あの人はやさしいいい人でしたわ。そしてしっかりした男らしい人でしたわ。まだ若うございました。
二十六になったばかりでした。あの人はどんなに私をかわいがってくれたか知れませんでした。
私はあの人に経帷布(きょうかたびら)を着せる代りに、セメント袋を着せているのですわ!
あの人は棺にはいらないで回転窯の中へ入ってしまいましたわ。
あなたがもし労働者だったら、私を可哀想と思って、お返事をくださいね。その代わり、
私の恋人の着ていた仕事着のきれを、あなたに上げます。この手紙を包んであるのがそうなのですよ。
このきれには石の粉と、あの人の汗とがしみこんでいるのですよ。 お願いですからね。このセメントを使った月日と、
それから詳しい所書きと、どんな場所へ使ったかと、それにあなたのお名前も、ご迷惑でなかったら、
ぜひぜひお知らせくださいね。あなたもご用心なさいませ。 さようなら。

松戸与三は、湧きかえるような、子どもたちのさわぎを身のまわりに覚えた。
彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗にそそいであった酒をぐっとひと息にあおった。
「へべれけに酔っぱらいてえなあ。そうしてなにもかもぶちこわしてみてえなあ。」とどなった。
「へべれけになって暴れられて堪るものですか、子供達をどうします」細君はこう云った。
彼は細君の大きなお腹に7人目の子供を見た。葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」から葉山嘉樹は明治27年福岡県生まれ。
早稲田大学に入学、父の家を売って作ってくれた学費400円を浪費してしまい、学校を退学。生活のため船員になり
カルカッタ航路の船員になったりのち、労働者、新聞記者、夜店の古本屋など転職し、労働組合の組織、
ストライキの指導に専心、三度も入獄の目に合い獄中、小説を書きつづけた。

 「セメント樽の中の手紙」は大正15年雑誌「文芸戦線」所載。    ホン |Д´)ノ 》 ジャ、マタ
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2006年02月20日(月)
1784, 「すごい考え方 」
               おはよ〜 (ゝc_,・*)♪

先日書いた「夢ノート」を、少し難しく書いてある本に出会った。
「すごい考え方 」ーハワード・ゴールドマン著 である。 この本のキーワードは「未来語」である。
ここでパソコンのOSと人間の思考と行動がよく似ていることから、その共通するものが「言語」という。
効果的な言葉として「未来語」が、すごい言葉とみている。夢は現在にとらわれないで未来の構図を立てて、
その視点で思考を進める凄さを看破している。人間の考え方をパソコンのOSとみなして、自分の考え方に入れればよい。
ミッション・ステートメントなどその典型だ。その意味の深さは年齢を重ねた経験から、やっと気がつくことである。
現実にとらわれすぎてアイデアバスターズを自認している人があまりに多い。
アイデアバスターズの人は、アイデアが出ない人である。ドキッとしたら貴方のことだ! ただ安心してよい!
9割が現在しか考えてないからだ。 現在語を使っていると現在の枠から逃げることは出来ない。
未来語のすごいところは「何が可能だろうか」から出発することにある。
考えてみたら当社名に入っているのプロジェクトや戦略は未来語の典型的なキーワードである。
「普通のOS」は「正しくあるべきだ」が出発点となり、「間違っていることを直せ」へと変化していく。
これに対し「優れたはOS」は「効果的になろう」からスタートして、「何が可能か」
「どんな行動をとるべきか」へ思考が発展して、コミットメントへと至る。
夢をどんどん書いて、具現化していくことが凄い秘密があるのだ。現実をビルの屋上から見下ろす視点を常に忘れないことだ。
夢みるオノコだけでは空想家でしかない。具体的な行動の具現化をしてこそ、夢から目標へ変換できるのだ。
 夢と、目標への変換が凄いOS!ということである。
   ある本に面白い一節が鮮明に残っている。
ー「ねえねえ、あの老人生まれてこの方、一度も恋をしたことが無いんだって!現実に溺れすぎたんだってさ!」
「気の毒に!」「何かあの人、ゾンビみたい」 「夢をなくした人ってゾンビというんだ!」
 
・・・・・・
2004年02月20日(金)
1052, アンドロマック

学生時代に見た唯一の演劇である。そして、知人がその演出をした事もあって真剣に見た記憶がある。
内容を殆ど憶えてなかったので、早速インターネットの検索で調べてみた。そして、その時の内容が蘇ってきた。
ギリシャ神話の登場人物が題材となるフランスの古典悲劇で、トロイ戦争の後日談として描かれている。
お互いの片思いからなる4人の登場人物が織り成す愛憎から悲劇が生まれる内容であった。
エルミオーヌ役の女性の熱演が特に光っていた。彼女が全てを失って嘆き悲しむシーンで終わった姿が脳裏に浮かぶ。
以下は、その劇の内容だ。
 −−−
そのギリシャの勇将ピリュスはトロイ戦争により捕虜として連れ帰ったアンドロマックに恋心を抱き、
その息子アスティアナクスを軍の意に叛いて不当に匿っている。その彼の宮殿に、今は亡きギリシャの
総大将アガメムノンの息子オレストが訪れる。表向きは敵将エクトールの遺児をギリシャ方に取り返すための
使者としての訪問だが、オレストの心中は愛しいエルミオーヌを連れ出すことばかり。
オレストはピリュスに会い、遺児の引渡しを要求するが、ピリュスはこれを拒絶する。
オレストは再び戦争が起ころうとも、彼の心の中には今やアンドロマックへの愛しかないのだ。
しかしアンドロマックは、亡夫エクトールへの貞節を守り彼の愛を受け付けない。
却って婚約者・エルミオーヌの許へ戻るよう、ピリュスを諭すのだった。
一方エルミオーヌは、許婚ピリュスに裏切られた怒りと嫉妬のあまり、彼とアンドロマックの仲を裂こうと謀る。
そして、自分を愛するオレストの心を知りながら、彼を計略に巻き込むのだった。
それは、敵国の遺児を匿うピリュスを、裏切り者としてギリシャ軍に攻略させるというもの。

だが、遺児をとるか、エルミオーヌをとるか、という選択をせまられたピリュスは、意思を翻して、遺児を殺し、
エルミオーヌを妻にすると告げる。思いもよらない展開にオレストは、エルミオーヌをかどわかしてでも
ギリシャに連れ帰る決心をする。最愛の息子の命が奪われると知ったアンドロマックは、エルミオーヌの許に命を乞いに行く。
彼女は以前、エルミオーヌの母エレーヌの命を助けたことがあるのだ。しかし憎いアンドロマックの言葉を、
エルミオーヌは聞き入れるはずもなかった。息子の命を助けるべくアンドロマックに残された最後の手段は、
ピリュスの愛を受け入れることだけ。侍女に諭されたアンドロマックは、気が進まないながらピリュスにすがる。
自分につれないアンドロマックにわざと冷たい仕打ちをしていたピリュスは、これを受け前言を取り消して再び彼女に求婚する。
アンドロマックは息子の命を守るため、自らの命を絶つ決意をして、これを承諾するのだった。
二度までもピリュスに裏切られたエルミオーヌは、彼への憎悪に目がくらみ、オレストをたきつけピリュスを殺す計画を立てる。
アンドロマックとピリュスの婚礼の日。オレストはギリシャ軍を率いてピリュスを襲う。
そしてこの悲劇には、意外な結末が待っていたのだった。

以上が検索で調べた粗筋だが、チョッとした内容をこのように一瞬で調べられることが不思議である。
これが情報化ということだろう。作者はジャン・ラシーヌで17世紀の作家である。
この一月も演劇が自由劇場で開催されていたようだ。
自分の壁をつくらず何事にも興味を持つことが大事だと、この歳になってきて実感する。
バカの壁が頑強に取り囲んでいるのが、自分では見えない。
他人からはよ〜く見えるのだが!そして振り返ってみると。地方は刺激が少ないこともあるが。
 
 ・・・・
 2003年02月20日(木)
687,サラ川(サラリーマン川柳)

毎年この時期になると、第一生命のサラ川(サラリーマン川柳)が発表になる。 Webで調べコピーしてみた。
  ー朝日新聞Websieー
 第一生命は17日、恒例となっている「サラリーマン川柳コンクール」の入選100編を発表した。
 サッカーW杯やノーベル賞、タマちゃんなど流行や話題性の高テーマを選んだ作品が多かった一方、
 中高年サラリーマンやその家庭の悲哀がにじんだ作品も目立った。「髪型は息子ベッカム、父ジダン」
 「年収はゴジラ松井の一打席」のお父さん。「オヤジギャグうちの主任は冷やし系」「言ったあと、これセクハラか?
 聞く上司」とからかわれ、 家庭では「午前様妻のイビキにホッとする」。「タバコより体に悪い妻のグチ」と嘆き、
「顔だけがブランド品でない女房」と文句も出るようだ。 娘にも 「大そうじ今年も娘がかたづかぬ」とあたるが、
 結局は 「不景気で家族の団欒(だんらん)取り戻す」。
 そんなサラリーマンに、「人生は川の流れとタマがいう」というのも実感がこもっている。
・・・・・
  *歴代第一位の作品
第15回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位   ー デジカメの エサはなんだと 孫に聞く ー浦島太郎
第14回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ードットコム どこが混むのと 聞く上司ー ネット不安
第13回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ープロポーズ あの日に帰って ことわりたい ー恐妻男
第12回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ーコストダウン さけぶあんたが コスト高 四万十川 ー信彦
第11回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位 ー わが家では 子供ポケモン パパノケモン ー万年若様
第10回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  △[早くやれ そう言うことは 早く言えー 新舞い
   (字数の関係でカット09年02月20日)

・・・・・・・・・・・
 2002年02月20日(水)
337,ホームページの為の文章作法−2

随想日記を書き続けてまず考えたことは、負担にならないで、
如何に自然体で書きつづけるか?
そしてそのノウハウは
・まず数人の前で話を毎日することを想定した。
・気取らず、自然体で書く。
・自分の為に書くー書いていて楽しい文にする。
・話題の底がつきるまで書く、いや尽きた時こそチャンスと考える事にした。
・毎日15~20人の人に読んでもらえるまで、内容を上げる

3週間ぐらい前、定点観測の本屋でコピーライターの書いた「文章上達トレーニング」という本を買った。
「話すように書く」が、自分の方法と同じだったからだ。
・「話し言葉で」下書きするー最も親しい人に話しかけるように書く。
・そしてそれを文章化する。
・更に文章らしくなるように手を入れる、 が要旨である。
文章作法の基本は「起承転結」である。それを「結承転結ぐらいという気楽な感覚で、いいたい事をまず明確に書く。
いい文章とは分かりやすい文章だ。けして美文をいわない。人に話す時は、必ず話している内容は筋は通っているものだ。
そのまま書けばよいというのも肯ける。それが難しいのは、かまえたり飾ろうとするからだ!
「葉書の書き方」の方法論の本の中に「まず結論を初めの2〜3行で書き上げてしまえ!」というのがあった。
その後は、流しでよい。それを先に書いてしまえば後は気も楽になるし、すらすら日常のことが出てくる。
それを実行してから葉書や手紙を気楽に出せるようになった。
 随想日記も基本はそれである。それとなるべく短文にすることだ、ようするにシンプルにする。
短文なら誰でも書ける。それを重ねていけばいい。読むほうも、読んでいて読みやすい。
気取らず、自身の言葉で書く。あと書き換えをなるべく多くやる。上達の訓練はそれしかない。
その点でパソコンはいい。いくら書き換えても汚くなることはない。
それと意外なポイントとして、短時間で一気に書き上げることだ。何事も気合だ。それを何回か添削する。
それと書きだめを幾つか書いておく。書きだめと思って書くと気楽に書けるからだ。


2877, 自分らしくあれ!

2009年02月19日(木)

 

  クリントン女史が慌ただしく日本を駆け抜けていった。
  大学生との対話の中で、ある女子大生の質問 
  「女性なのに、どうして、そんなに強くなれるのですか」に、
  「自分らしくあることよ」と、答えたのが印象的だった。 
 
 ーそこで「自分らしくある」ことを、哲学的に考えてみる

まずその「自己」を考えると「他者」の問題にぶつかる。他者の中の「これ」は時間の経過と同時に発生?する。 
さっき向こうから歩いていた「これ」が現在、橋に立っている。その時に、さっきの「これ」が「自分」になる。
生まれて今まで、他者の間で生きてきた。その他者との境界線の内側が「私」である。
「自分らしさ」とは、それまでの人生で他者との接点の「あり方」、あるいはその内側の蓄積である。
その時点時点で、何かを追求している在りようが「自分らしさ」である。
何かに没頭していて我を忘れている姿に「自分らしさ」が生まれてくる。
初めから「自分らしくあろうと振舞ってはならない」ということである。
役者が仮に信長を演じていたとすると、役者が自分の個性を意識した時、大根役者に陥ってしまう。
我を忘れて信長を演じた時に出てくる味が「自分らしい」のである。
 クリントン女史は、民主党の大統領候補、クリントン元大統領夫人、弁護士、上院議員等々の顔がある。
その役をこなしているプロセスで出来上がった個性が「自分らしい」ということである。 
彼女の場合、どの役をこなしていても、肩書きよりクリントン女史そのものが前面に出ている。
これこそ、名優の証拠である。 言葉づらだけを捉えると「自分らしさ」を、多くの人は誤解する可能性がある。
   
  自分らしくとは、取り組んでいる役割りや、目標、そして遊びに自分を忘れること。
  小林秀雄の「無私の精神」に達することこそ、「自分らしく」なることである。
   「何ごとも、魂をこめてすること」で、自分らしさが生まれ出てくる。

・・・・・・・・・
2008年02月19日(火)
2512, iPod nanoを買ってみた!
                          おっはぁ〜。:.+.:*w(′┏▽┓`●)w
先日、長男が帰省のおりに、ソニーのウォークマンを見せてもらってビックリした。
そこでiMacのパソコンを導入したので、iPodを買ってみようと思い立った。
iPodの機種にはtouch、classic,nano,syaffleがあるが、その中で何を選定するか、
迷った末に、一番小型のnanoに決めた。アマゾンから注文したが、2時間ほど夢中になって時間を忘れるほどであった。
選定の最後の決め手は小ささであった。直ぐに分かったことはタッチとプッシュで簡単に操作でき、何よりシンプルなのが良い。
Macのパソコン同様に、売り場を何気なく遠くからみるだけで、難しそうで近づきがたかった。
どのように数千曲もの音楽を、小さな器械に入力できるのかが、まず不思議であったが、iMacを入れたおかげで、
CDを差し込むだけで入力できることが分かった。まずはミュージック、そしてライブラリーと開いて、iPodとコードを
つなぐだけで、自動的に入力をしてくれる。 だから若者を中心に多くの人が飛びついたのである。
iMac(パソコン)のライブラリーのコーナーにCDや、インターネットで購入した曲を記憶させる手間が少しかかるが、
これはいたし方がない。驚いたのは、CDで入力した曲の情報を自動的にテーマや、作曲者、入力順、聞いた順に分類し、
羅列してくれることだ。さらに流れている音楽の広告も出てくる。これはアマゾンやグーグルと同じである。
それと音質が非常に良い。この複合の機能のついたものが、iPaod touch、
電話機能付きがiPod ifhon、そのモバイルパソコンが、Macbook airということになる。
この小さな中に2000曲も入るのだから驚きである。 最近の進学のお祝いが、ソニーのウォークマンか、
iPodというのが流行になっているとか。面白い時代になったものである。

.........
2007年02月19日(月)
2148, 幸福に驚く力 −1
 オッ(*^○^*)ハ〜ヨウサン!

大雑把に言ってしまえば{人は子供の本と物語の力によって、日常の中にある幸福に驚き、
人生を肯定的に生きることができる}が柱である。 幼児期、少年期の生活環境の重要なポイントが
見えてくる内容である。今回はテーマそのものの[幸福に驚く力]についての、要点を抜粋してみる。
 −−−                 
ー幸福に目を凝らすー
 大人の文学は、よくもまあ、これだけ不幸に目を凝らすものだと思われるほどに、重箱をつつくようにして
 不幸をえぐり出しますね。それはそれで面白いんです。
 では児童文学は何をやっているかというと、幸福に目をこらしているな〜と思うんです。
 一見不幸と見えるなかに、よく目を凝らすといっぱい喜びが潜んでいることを、ちゃんと取り出して書いている。 
 不幸に驚くことは放っていても誰でもする。 不幸に目を凝らすことは放っておいてもみんなする。
 でも、子供の文学はずっと幸福に目を凝らしたり、幸福に驚いたりする心を持った人によって、書かれてきたんじゃないか
 と思うようになりました。だから幼いときに昔話や優れた児童文学に出会うことは、非常に大事です。 
 「昔話を聞いたり読んだりして育った人は、それだけで人生に対する抵抗力がつく」 とはよく聞くが、
 そのことをやっと最近になってわかるようになった気がします。まあ昔話は人生のイメージ・トレーニングをすることである。
 
 ー人生を肯定する生き方
 「昔話を聞いたり読んだりして育った人は、それだけで人生に対する抵抗力がつく」
とはよく聞くことですが、そのことが最近やっとわかってきたような気がします。
昔話はだいたい、主人公が一人いて、いつも前進し続けていて、最後には幸福になるという
筋書きですね。これが繰り返し繰り返し、いろんな物語に出てくる。
これらに出会うことによって、なるほど人はひとつのイメージ・トレーニングができてくるのだろうなと思います。
 それから、必ず善が勝つのも昔話の特徴でしょう。善が勝つ、善が生きのびるということは、
とにかく小さい時にはこれでもか、これでもかと伝えてやらなくちゃいけないんでしょうか。
そうやって生きるということを徹底的に肯定的に肯定してやること。
それをしなかったら、すぐ「どうせ人間なんて」ということになってしまう。
「どうせ生きたって」「どうせ大人なんて」ということになる。

私は児童文学とか昔話は、人生を肯定的に見る下地をしっかり子供の中に作ってくれるのではないかという気がしています。
またそうあって欲しいと思います。『夜と霧』を書いたフランクルが「それでも人生にイエスと言う」を出している。
何だかんだと言っても、それでも人生を肯定しようと、彼は言っています。
その姿勢を昔話とか、子供の本は子供たちに、いえ、広く私たちに伝えてくれているのではないか。
そういう思いをぶち壊そうという力がどんなに大きいか。そう思えば思うほど、せめて小さい時にそれに耐えうる下地を、
と思うのです。

「なんだかんだあっても、でもあの人はこういきてきたじゃないか」とか、「でもあの子は、こういうふうに生きたじゃないか」
とか、「周りはそうじゃないかもしれないけれども、でも周りだけが全世界じゃないわけだし、世界のあちこちに人は暮らしていて、
しかしこれまでだって、あんなふうにも、こんなふうにも生きてきたじゃないか」そういういくつかの「モデル」を持っている
ことの大切さを思うのです。小さいときにたっぷりとそういうものに出会わせてやえば、せめては思春期ぐらいまでは
生きのびられるんじゃないか、それを絶えず強化し、補強していくということは必要でしょうけれでも。
 
(解)毎日の経験の中で、どれだけ幸福に気づくかが人生を豊かにするかどうか、である。
その訓練を童話や昔話を子供の時に読んだり聞いたりする中で培われるというのも肯ける。
幼児期に親戚のオバアチャンに聞いた昔話や御伽噺の積み重ねが、人生の初期段階でハッピーエンドへの物語の刷り込みになって、
その人の人生のベースになっていたのだ。また人生の日々の中の幸福に如何に気づくかが、そのためには、
幸せに目を凝らす必要があり、それはイメージ・トレーニングで培われる!のである。
 幼児期には昔話をジックリ聞かせてあげる、
 少年期には少年世界文学全集、
 青年期にはあらゆるジャンルの小説、
 中年期は自分の好きな小説、
などなどが、人生の基幹を作っていたのである。1ヶ月前から「ファンタジー180冊紹介本」を新幹線の中で読んでいる。
これが、本を開くと異次元の世界にドップリ引き込まれる。 今度その内容について書くが、まあ面白い。
異次元世界のそれぞれ幻想世界がユニークに描いているからだ。 
            ヽ(*´∀`*)ノ.+゜ホンジャ〜バイ♪.+゜
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2006年02月19日(日)
1783, インディアンの心  
         オハ (´・ω・`)(ω・`)(・`)(´・ω)(´・ω・`)ヨ〜
「インディアンの教え」は今まで何度か書いてきたが、ある書物の中で有名な手紙に出くわした。
1854年、ネイティブ・アメリカンのドウワミン族長シアトルが、アメリカ大統領に出した手紙である。
インディアンの崇高な魂が伝わってくる。 数千年の純粋な経験の積み重ねの深い教えがある。
この数千年、人類は何をしてきたというのか? あのラージXとかいう神の名の元で!   ( ノω-、)
 −−−
水のささやきは私の父の父の声です。 川は我々の兄弟であり、我々の渇きを癒してくれます。
川は我々のカヌーを運び、我々の子供たちを養います。
もし、我々のこの土地をあなた方に譲るとするなら、その時あなた方は、川とは我々の、そしてあなた方の兄弟であり、
どの兄弟にも示すその親切を川にも示さねばならぬということを、必ず思い出してください。
白い人の死者は星の間を歩き始めると生まれ故郷を忘れます。我われの死者は決してこの楽しい大地を忘れることはありません。
なぜならそれは、赤き人々の母だからです。我われは大地の一部であり、大地はわれわれの一部です。
香りたかき花は我われの姉妹であり、鹿や馬は大きな鷹は我われの兄弟です。
岩場の山頂、野原の露、ポニーの温かい体、そして人間みな、一つの同じ家族に属しています。
あなた方はご自分の子供たちに、足の下の大地は我々の祖先たちの遺骨の灰であることを教えねばなりません。
彼らが大地を尊ぶためです。子供たちに、地球は我々の親族の命、すなわち、大地は我々の母である、
ということをあなた方の子供たちに教えてやってください。大地にふりかかることは、大地の子らの上に降りかかります。
地上に唾を吐くことは、自分自身に唾を吐くことです。我々は知っています。
大地は人に帰属せず、人は大地に帰属する、ということを。血が一つの家族を結ぶように、そのように結び合っていることを。
            ∵ゞ(>д<)ハックシュン!( ̄^^ ̄)ズルッ…
ー後記ー
近代文明が果して、進化を遂げてきたというのだろうか?
アメリカは、米国本土への侵略を現在も行っているのではなかろうか。アラブ人の怒りは間違ってはいないのでは?
                 ~~ヾ(´ω`●)バイ(●´ω`)ノ~~
・・・・・・・
2005年02月19日(土)
1418, アメリカの強さとは

アメリカの強さに対して、疑問がでている。それが、ドル安や国債の安値の不安定要素になっている。
先日、保険代理店の社長と話す機会があったが、「アメリカの強さは当分揺るがない」と言って、
次の4つの要素をあげていた。
・世界の基軸通貨がドルである
・軍事力が世界でずば抜けている
・金の世界での保有率が70佑鮴蠅瓩討い
・世界の共通言語が英語であること
これがアメリカの強さであり、当分の間は崩壊することはない。
その上に、イギリスと日本の一枚岩の同盟も大きいという。
英国民は6000万だが、英国連邦など国外に出ている英国人は6000万人も存在している。
日本は12600万だが、400万人しか外国にいないとか。実質的な力は日本を圧倒している。
「アメリカは、イギリスと日本と固い同盟を結んでいる限り、基盤は揺るがない」というのも理屈は通っているが。
反面、アメリカ国債やドルなどの紙切れを印刷をして、相手国の資源や商品を騙し取る?商法が(空手形手法)
何時までも続くわけがないことも確かである。その両方とも正しいが当分は安泰であろう。
最後は恐慌か世界大戦で清算すればよいが、もう世界規模の戦争は不可能である。とすると、世界恐慌で清算するしかない。

アメリカの土台にはユダヤの数千年の歴史がある。

・・・・・・・
2004年02月19日(木)
1051、TVが面白いー銀座ホステスの面接

先日、BSTvで放送した「ニューヨークのデート・カウンセラー」を取り上げたが、
翌日も面白い人間模様を見ることができた。銀座の有名クラブのママ三人が[銀座ホステス]
希望者との面接であった。現役ホステスや女子大生と面接をして、気に入ればその場で採用をする。
三人の応募者とも採用をされたが、なかなかの迫真の内容であった。
 銀座ママの質問内容はやはりシビアである。
 ・何故銀座ホステスになりたいのか
 ・どういうスキルを持っているか
 ・男(ひも)がいるかどうか
 ・本人の頭の回転と品性  等々を、質問をしながら見ている。
生き馬の目を抜くような世界で生きてきているママは、華やかな背後にあるドロドロした激しい
競争社会を知り尽くしている。そして、その華やかさを求めてきた女達の行く末を多く見ている。
その一人のママに、最近本を出した[双子屋]の妹の方の「ますいさくら」が出ていた。
その本を図書館で借りてきて読んだが、虚飾は虚飾でしかなかった。

希望者の三人というと、キャバクラのナンバーワンの、見るからに「お水の女」の人と、32歳の子持ちホステスと、
現役女子大生(現在京都でアルバイトでホステスをしている)が面接希望者であった。
面接を通して、それぞれの人生がだんだんと浮かび上がってくる。
水の世界は、好きで入る人、生活の為に入る人、自己逃避の為に入る人、興味本位と色いろある。
やはり水の適正というのがあるのだろう。夜の世界ほど虚と実がはっきり分かれている世界も珍しい。
店サイドは一夜の虚を売るのが仕事。お客は、その虚を解っていて買いに来る。
身体を売るわけでなし、男女の微妙な遊びを売る「クラブ」という商売は世界中で日本しかない特殊のものだという。

銀座の高級クラブといえば、座って5〜10万?という世界。そこで満足をさせて帰ってもらうのだから、
ホステスの人選も非常に難しいはずだ。その面接を(演出部分もあるとしても)TVの番組みに仕上げるから驚きである。
これも情報化の一つであろうか。こんなの見て感心しているのだから、自分の程度が知れるが!
何でも見てやろうというのがモットーと思いつつ、真剣にみてしまった。

・・・・・・・
2003年02月19日(水)
686, まれに見るバカ−読書日記−5
ー バカの定義ー

バカの定義をこの本の中から抜粋してみた。
・小谷野敦「バカのための読書術」の中で「当面、哲学とか数学とか、抽象的なことが苦手、というような人のことである」
・勝谷誠彦「バカとの闘い」で、「バカとは人間に与えられた志を追うという能力を捨てて、馬や鹿のように、
 本能のまま目先の欲望のためだけに生きている輩をいう」 と書いている。で、何故かくもバカが多くなったかというと
「戦後のアメリカ軍の洗脳教育で、 バカをバカと指摘する美しき日本の風習が否定されたからだ」といっている。
・立花隆「東大生はバカになったか」で基本的知的能力を欠くというのでなく
 「教育の目的とは現制度の賛美者をつくることでなく、制度を批判し改善する能力を養う事である」と書いている。
 そこでまたー人間、教養がないとどうなるかというと、幅が狭い近視眼的人間になる。教養とは、
 幅広く全体を見る巨視的能力を身につけることをいう。
・吉野敬介「やっぱしおまえはバカじゃない」本当のバカというのは、すべてを要領よくこなし、何ひとつ
 本物に行き着けない奴の事をいっている。要領のよさや、要領だけで世渡りのうまさを吹聴するヤツはバカの第一条。
 自分だけの小さな規準で満足しているヤツ。これが第二条。
  ーー
 以上がバカ規準として書いてあった内容だ。 わたしがバカと信じてきたのは吉野敬介にほぼ近い!
「誰もがバカであるから、あまりいわれても気にしない事だ」と気休めを考えているのが一番バカということだ。
「つくづく自分てのは、バカだな~」が結論!
                  ー 終わり
・・・・・・・
2002年02月19日(火)
 336,ある時間の断面−2
 −1968年8月31日日記帳より

今日雲頓庵(禅寺)に来る。卒論の勉強の為だが、予想どうりのところだ。 早速座禅をくんでみる。
足が痛くなり無我の境地にさほど遠い。しかし現在の自分が求めていたもののヒントを与えてくれそうだ。
ここに慶応大学を卒業して弁護士の試験勉強をしている高橋さんと、立教女学院の短大生が
10人位いる。面白い人ばかりで明日帰ると言う。帳面を忘れてきた。これから当初の目標の計画立てだ。
ーーー      
  ー9月1日
朝5時に目が覚める。6時半に起き、早速掃除をする。朝食前に高橋さんと裏山に登ってみる。
たった今鐘の音が聞こえてくる。深夜の鐘もいいものだ。昼、彼女らが帰る、何か寂しい。
昼飯時にこの寺の後見人という人と話す。午後は離れの一室で「流通革命」を100ページと
「流通機構の話し」を60ページを繰り返し読む。勉強の集中力が足りないのがいらだつ。
明日より気を入れなおさなくては。夜は10時にうとうとしてしまった。
 後記ー独りで夜30分禅堂で座禅をくんでみる。ロマンチックな感がする。誰も見ていないので自分との闘いだ。
ーーー
捜し物をしていたら「日記帳」が紙袋の底より出てきた。半年分が書いてあった。過去の自分との対面である。

ー2004年02・19日記
もう終わったので、コピーするのを躊躇ったが?


2876, オバマはグランドキャニオンを直視できるか

2009年02月18日(水)

「現代思想」ー金融恐慌特集ー の中の「オバマはグランドキャニオンを直視できるか」マイク デイヴィス著 
  の例えが奇抜だが分かりやすい。
 ーまずは、その概要からー
1540年、初めてグランドキャニオンを見下ろした欧州人のカルデナスが、その景眺望に恐れをなして後ずさりをして、
逃げ帰ったという。その三世紀後に、次に見たアメリカ陸軍のイヴスも二回遠征して、「殆ど凝視に堪えないほどの恐怖」
という報告をしている。 要は二人とも自分たちが観たものを理解できなかった。
その後の南北戦争の英雄と地質学者や画家のチームが、コロラド川に取りつかれるが、その時に初めて、
グランドキャニオンは的確に描写されるようになった。数年かけた調査によって、グランドキャニオンを
受け容れる概念が出来たのである。遠く隔たった時間をかけて、想像を絶する景色を受け入れることが出来たのである。
現在の金融恐慌をグランドキャニオンを探検した人々のように、我われが今回の金融危機を、
これまで持っていた理解力を乗り越えることが出来るだろうかと、問題提起している。
そしてオバマが果たして今回の危機を直視が出来るのだろうか?と・・・
オバマのプランといえば、「社会主義」ではなく、「超資本主義」であり、その中味は、
「少数の巨大銀行に信用を集中して、その大部分を政府系ファンドによって、制御するもの」である。
オバマは、知的にも政治的にも、クリントン主義の気乗り薄な継承者でしかない。
イラクの撤退の替わりにアフガンとパキスタンでの部族戦争を加速する抵当権を設定しただけである。
そして、彼の理想主義が失敗すれば、チェイニーやカール・ロープ、あるいはもっと邪悪な権化が舞い戻る可能性がある。
 −以上だが、
アメリカの商務大臣を一度受け入れた二人が、たて続きに就任直前に急遽辞退した。 恐らくグランドキャニオンを、
この経済危機の中に見たのだろう。 人類が過って経験をしたことのない、深刻な広さと深さを見れば誰も後ずさりをする。  
 今度の恐慌は直視しても対策が限られているために、その火の手は簡単に消すことが出来ない。
今年から3〜5年間は、深刻な大火災が世界中を燃え上がることになる。
その火は、世界中の国家権力を総動員をしても消し去ることは不可能。燃え尽きるまで待つしかないから深刻なのである。
 肌の色?だけでは、消火は無理である。 自業自得と他山の石として眺めている場合ではない。歴史的日々が続く。

・・・・・・・・・
2008年02月18日(月)
2511, 黒柳徹子 −2
                     。・∀・)ノ゛おっは〜
誰でも黒柳徹子のように「好きなことだけをして生きたいが、それが出来ないから苦労するじゃないか?」
という声が聞こえてきそうである。で、どうだろうか?これは自分のこれから自問自答の死ぬまでの
問いかけとして、付きまとう人生に対する影の声になる。
「上を見ればきりがない。下を見れば底がない、横を見れば情けない」という内語と同じ内容である。
仕事でも趣味にでも好きなことを見つけただろうか?見つけたなら、他人のことを羨むこと、
比較することはないはず。彼女の次の問いかけは人生の先輩としての真実の声として、よい指標になる。
 −−
胃腸が人一番強かったのが、幸運だった。いつも食べることを考えてきた。
いま考えているのは、足を、どうしたら、今のままで、百歳まで、保てるのか、ということ。
これは、ジャイアント馬場さん亡くなる前に、『徹子の部屋』で、「あなたは百歳まで生きたいというから、
これだけはやってください」と、おっしゃって、「ヒンデイースクワット50回位と、二階に行くのを二回、
これだけはやってください」と教えてくださった。「どんなことがっても、毎日やってください。歳をとると、
昨日やらないと、もう今日はできません、昨日できたことは今日出来ます」私は、この言葉を遺言としてやることに決めた。
アフリカのリベリアの停電の中でも実行した.50度のソマリアでもやった。それと、美しいものを見る。
わくわくする時間を持つ。といった精神の栄養を忘れない。63度のアフリカの二ジュールや、50度の熱風の吹くイラクでも、
一度の病気をしたことはない。やはり助けを必要とする子供たちと会いたい、とう、進んでやる気持ちがあるからに違いない。
 −−
よいと思ったことを続けることだ。目標を達成するための持続は力である。
百歳まで病気をしないための運動と、好きなことだけをして生きていく割り切りこそ、彼女のエネルギーの源泉なのである。
束縛されて、それしかないなら好きになればよい。どうしたら好きになれるか?を好きになるまで考えたことがあるだろうか?
ギャ〜テイ、ギャ〜テイ、ハラ、ギャ〜テイである。 一度諦めることしかない。
                           (*´∀`)」" バイバイ!
・・・・・・・・・
2007年02月18日(日)
2147, 白い雲に乗って ー2
         b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪

先日のつづきの夢をみた。半分は覚醒をしていたのかもしれない。
前回の夢が契機になって当時のイメージがドンドン出てくる。
如何いうことなのだろうか? それは57年前の世界そのものである。
その世界から此方をみている感覚と、此方の世界の感覚の間の塀の上での微妙な世界に立っているようである。    
 ーー
白い雲に乗って再び、その世界(4歳)へ行ってきた。そこは前回よりリアルな当時の世界があった。
中央保育園の面接があるというので、目新しい服を着せられて、母の手に引かれて「同じぐらいの小さい子が多くいるところ」
に行った。そこは家から10分ほど歩いた小さな小路にあった。面接のオジサンがニコニコしながら色々なことを聞いてきた。
母に前もって聞いていたので、驚くほど上手く答えた。恐らく入れるだろうと思った。
家(店)に帰った後、三輪車に乗って前の安栄館というビルの同じくらいの友達のところに行った。
やはり最近できた大きなビルのところの子だ。 何か遊んでいると楽しい!
その数日後に場面が変わり、幼稚園の合格のしらせがきた。手紙を待っていたが、何時までたってもこないので、
お母さんが「落第したのかもしれないけれど、そんなことがないはずだが・・」と言う。
ガッカリしていたところ、合格の葉書がやっと届いたが、凄く嬉しい。クリスマスの飾り付けのため、二番目の姉の恭子と
近くにツリーの飾りを買いに二人で行った。大きな雪がフワフワと降っている。ツリーに吊るす色いろなものを二人で選んだ。
小さな家とか、星とか、動物とか、人形などがあった。それを袋一杯に買って家に帰って3Fの食堂で飾り付けをした。
ラジオのクリスマスの音楽を聴きながら、それを他の姉たちと飾りつけた。ツリーの電飾がいやに奇麗だ!
こんな楽しい気持ちは初めてと喜んでいる自分を誰かがみている。 あれは誰だろう?
翌日の朝、枕元に箱に入ったサンタの贈り物があった。雪が、ドンドン降っていて窓の下は雪で埋まりそうだ。  
突如、周りを見渡すと誰もいない空間になってしまった。何処に行ったのだろう、皆は!白い靄がかかり、
の中で恐ろしさが襲ってきた。目をつぶって白い布団を被った。目が覚めると、そこは寝室の布団の中であった。     
                              (o ・д・)ツ  バイ!
 ・・・・・・・・
2006年02月18日(土)
1782, ウオーキング・シューズの話
   
                   ((ヾ(*ゝ∀・*)ノ☆゜+オハヨ~゜+.☆
我が家の玄関にウオーキング・シューズが8足も並んでいる。これでも、不燃物ゴミの有料化の前に三足処分している。
趣味がウオーキングのため、チラシなど3〜5割セールなどをみると、ついつい買ってしまうのだ。
そして通勤もビジネス・シューズかわりにも履いている。最近、少しは高めのものを買いだしたが、安いものを買うと
何処か一箇所が磨り減って外出では履きにくくなる。靴ベラを数回に一度は使わないので、踵のヘリが破けてしまうのだ。
その為に捨てるに捨てられないのだ。当たり前のことだが、値段と品質は正比例している。
先日、散歩の途中に見かける靴修理屋の看板のある店に立ち寄ってみた。
70歳半ばの頑固そうなお爺ちゃんが、胡散臭そうな顔で修理の値段を教えてくれたが、チョッとした直しでも
3000〜5000円という。5000円〜12000円の靴の修理には躊躇をしてしまう。それなら、チェーン店で新しいのを買ったほうが良い。          
(*^ー^)/C□~コーヒー   近くの100円ショップで踵の修理用の部品を買い、踵の部分にボンドで貼り付けて使っている。
最近買った二足に靴ヅレ防止と、靴の傷み防止にと貼り付けている。張り続けていれば、二倍は長持ちするだろう。    
10年近く前になるが、一足のウオーキングシューズが気に入って、4~5年間、通勤、ウオーキング、旅行に履きっぱなしであった。
如何いうわけか、どこも擦り切れることが無かった。さて最後はどうなったか?靴底の中央が磨耗し二つに割れてしまった!
過去にも先にも初めてで最後であったが、自慢できる話ではない。今ひとつ話はそれるが、学生時代にガムを何日間、
噛み続けたことがあった! 最後は融解してしまった。 どうでもよいことか?
                                        ε(´',_c')зβyё
・・・・・・・
2005年02月18日(金)
1417, 新シルクロード

 数年前のツアーで、北京からウルムチに飛行機で飛び、そこからタクマカラン砂漠を眼下にみて、ホータンに渡った。
ホータンからはバスに乗り換えて、シルクロード南道を一路カジュカルに数百キロ走った。
右にタクマラン砂漠を見ながら何処までも続く道は、25年前にNHKが放送をした時に見たシルクロードの景色が続いた。
荷車を牽いたロバと老人の姿が印象的である。1980年に放送され、大ブームを呼んだNHKの大型紀行番組
「シルクロード」が、25年ぶりによみがえった。前作では平均視聴率20%を超え、喜多郎のテーマ曲も話題を呼び
シルクロードブームを起こした。当時は遠い遠い異国のイメージであった。25年後の中国の民主化と、経済発展と、
西域での遺跡発掘の進んでいること、などから新シリーズが企画された。日中共同制作の「新シルクロード」
(中国編全10回)として、この1月から1年間にわたって放送を始めた。既に二回放送されたが、見ごたえのある内容であった。 
一回目は、1980年から放送され大ヒットしたNHK特集「シルクロード」に記録された映像と同じ地点にカメラを据え、
風景の25年間の変化を描いていた。さらに映し出された人物のその後を徹底的にリサーチ
・天馬のふるさとで撮影された20歳の花嫁は?
・南疆鉄道の機関車運転手は?
・カシュガル大バザールの楽器職人一家は? と、以前の続編という構成である。
 そこには四半世紀を経た現代中国の変ぼうがあった。

第2部ではシリーズの音楽監督を務める世界的チェロ奏者ヨーヨー・マに焦点を当てていた。
彼は2000年からアジアを中心にした音楽家集団「シルクロード・アンサンブル」を結成、
世界各地で公演を行っている。彼らの活動と民族楽器を多用するテーマ音楽の作曲過程を紹介、
「シルクロードという言葉は現代にあっては相互理解を意味する象徴的な言葉として使用されるべき」という、
ヨーヨー・マの考えを伝えていた。パラグライダーでの低空撮影やCG映像、映画のような再現ドラマなどを活用。
「臨場感あふれる歴史エンターテインメントを目指した」とプロジュウサーのコメントもあった。
1月2日放送では、タクラマカン砂漠・楼蘭の一角にある4000年前の墓地の遺跡・小河墓の発掘に密着。
約70年前に探検家ヘディンが発見した後、忘れられていた。それが2000年に再発見され、発掘が始まった遺跡だ。
撮影中に、彫りの深い顔立ちに亜麻色の髪と長いまつ毛を持つ西欧系と思われる若い女性のミイラが出土した。
まだ生きているような美貌には驚いてしまった。ふた付きのかごを身につけ、中から小麦が出土した。
楼蘭王国以前の推定3600―3800年前のミイラで、小麦の伝播(でんぱ)の歴史が数百年早まったことになる。
2月14日に放送した2回目は世界遺産の敦煌莫高窟(ばっこうくつ)・北窟の調査や青海湖周辺から大量出土した
絹織物の研究成果も紹介していた。トルファンのベゼクリク千仏洞では、龍谷大学の協力で、散逸した「誓願図」の巨大壁画を
CGで再現をしたプロセスが詳しく紹介していた。このような、撮影はNHKではなくては作れない規模である。
準国家放送局も必要ということか。毎月半ばの放送が一年にわたって続くが、また一つ楽しみが増えた。

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2004年02月18日(水)
1050, 客観性ってのは何?

金沢にいた頃(25歳の頃)の話になるが、「客観的に」という言葉を、よく使っていたところ
「客観的というが、客観的と勝手に思っているお前の主観ではないか?俺は客観という言葉が嫌いだ」と言われて、
ドキリとした思い出がある。親しかった金沢大学を出たばかりの寡黙の哲学的な男であったから、なお答えに窮した。
それから客観的という言葉を控えるようになった。「事実」は「客観的事実」と「自己ー主観」にわけることができる?が、
その「客観的事実」も突きつめれば、あくまでも「主観」でしかない。主観と客観の違いは、あくまでも情報量の
比較の世界でしかない。または自分を隠す手法になるケースが多い。(多いほど客観的といっているにすぎない)
真理を追究する科学者は、その目指すところは「客観的事実である」それも、次の真理へのステップでしかない。

この随想日記も、「自己の主観」を第三者の目に曝けだして客観性を鍛えていることになるが。
今まで書いてきた文章を読みかえして、支離滅裂の内容は自分自身でも妥協できないものだ。
「自己主張ー主観」が客観的?に充分耐えられことがまず重要になる。その意味で、常に内省を繰りかえさなくてはならない。
文章化は自己客観化への一歩といってよい。テーマの内容を起承転結の筋道をつけることは脳の機能を有効に使うことになる。
「万物の霊長類である人間の最大の特質は言葉を持った」ことである。
この随想日記を書くようになって、自分の考えをより客観視出来るようになった。
それも55歳過ぎてからのこの三年間である。書き手としての視点を外と内に向けざるを得なくなったからだ。
随想日記というからには「起承転結]をハッキリさせなくてはならない。これが思考能力を飛躍的に伸ばしてくれている。
特にインターネットの検索が使えることが最大の武器になった。テーマさえ決まれば情報はいくらでも取れる。
今まで、社内報の原稿や手紙を書くときは、メモ用紙に下書きして、書き足しや書き直しをした後に、清書をしていた。
ところが現在はパソコンに思いついたことを随時書いた後に文章化と添削をするようになった。これで書く量が飛躍的に増えた。 
またパソコンを開けば、そこが書斎になってしまうことで、隙間時間に気楽に書き込めるようになった。

文章が(紙という物質を媒体をしていたものが)パソコンの画面という非物質の媒体になってしまった。
気楽に他の文章をコピーをして貼り付けて加工さえ可能になった。紙から開放されたのだ。これは書き手にとって
革命的な大事件である。文章化が客観性への第一歩なら、ここで飛躍的に変化したことになる。
紙に書くこととワープロでは、自転車と飛行機の差以上であろう。
だから毎日こういう随想日記も書けるのだ。ここにきて当初の五分の一のエネルギーで済むようになった。
本を出すことを考えている訳でもないし、興味本位で書いているだけでもない。
自転車から飛行機に乗りかえて、今までとは違った視野ができたことの自由さと
一日単位の達成感が味わえるから書いているのだ。自己慰安が最大の動機かもしれないが。

・・・・・・・
2003年02月18日(火)
685, 値段のカラクリ

ダイヤモンド価格の話である。世界で一般にダイヤと金は物質的な価値基準になる。
動乱で最後もって逃げる物質として、コンパクトで便利な塊である。どこの世界でも通用する。
買った宝石を高価と思っていたが質屋に持っていったら、ぜんぜん値段が
つかないことはよくあることだ。じつは、宝石の原価には、面白い原則があるという。
全体の値段が高いものほど、原価の占める割合が大きいのだ。たとえば、100万クラスの指輪だと、
原価が20〜30万。ところが、20万だと、原価は1〜2万いやそれより以下だ。
宝石は買ったと同時に10分の以下になると考えてよい。
数ヶ月に一回位、5〜8割引の宝石などのチラシが入ることがあるが、あれはゴミ?である。
それで満足するのもそれでよいが。規格外の小さいゴミを飾り立てているのだから、面白い。
20万クラスの宝石が売れた場合、原価が10%だが、
・メーカーが15
・卸商が25
・最終の販売店が50
三越や伊勢丹や阪急などの百貨店は、地下の食品で釣って、1〜2Fの宝石・装飾品売り場で、
無知の客を吊り上げ詐欺師商法に近い事をしている。詐欺?を自覚しているから、詐欺るためにあらゆる
仕掛けをつくってある。50佑里い筍牽悪佑陵益を得る為にあらゆる手段を使うのだ。
これしつこくいうが、三越や高島屋が実際やっているのだ!
老人を集めて、飯を食べさせて、詐欺同然の商法を今も実際やっているのだ。
十数年前に、ハワイの飛行場の免税店のテナント料が、売り上げの70数佑報道された事があった。
売れ残りのブランド物を10〜20倍の価格をつけて売っているのがばれてしまった。
JTBとか日本旅行が安いツアーで、詐欺同然の店に連れて行って騙して、原価10%の商品を売りつけていた。
無知という事は、本当にかわいそうなことだ!今の日本のデフレも、こういう仕掛けが壊れているだけでしかない。
これはデフレというのだろうか?

・・・・・・・・
2002年02月18日(月)
335,読書について

・大学にいってよかったのは、「都会の人は本を読んでいる」ことを知ったことだ。
 ー読 書の必要性を学生生活を通して実感
・特に基礎教養としての読書の必要性、しかしノウハウ書の重要性も馬鹿にできない
・知識・情報を得る手段として、人間と本そしてラジオ・TV、 今はパソコンのインターネットである。 
 その価格や内容からみて、まだまだ書物を超えるものは無い。 「おおよそ500円から5000円」の間で
 これだけの情報が詰まっていて、手軽にあつかえるのは今のところ他に無い。
・時空を超えていろいろな人と邂逅できる。 頭の中のバーチャルの世界の触発をしてくれる。
・よい本は自身の中の悪い情報を、どんどん弾き出す働きを持つ。
・特に学校を出てからの読書が大事である。
・学歴でなく、学力が最も重要である。その力を効率良くつけるのが読書だ。
 他人の話を聞けない人の特性が「読書の重要性」のわからない人だ。
・一般に言う「井戸端会議のおばちゃん」は、本を読まない人の別称と言える。いや蔑称か。
・卒業をしてから大体平均2〜3時間は読んできて、この程度の学力だ。
‘子狐’の中に「もしかして全く読んでない自分の姿」をみた時、背筋の寒さを覚えた。
   世間には凄い人が多い、それも過去の人の中に無限に存在している。


2875, ポルトガル人のみた信長と秀吉

2009年02月17日(火)


  「日記をのぞく」ー日経新聞編の一編 ールイス・フロイス「日本史」ー
の中で、ポルトガル人フロイスの見た信長と秀吉の姿が新鮮に写し出されている。
現在、「天と地」をNHKで放映しているが、直江兼継の見た秀吉と信長の姿と重ねると面白い。
  ーその部分を要約すると・・・
1569年4月に、信長と京都の二条城の建築現場で引見、信長はフロイスを気にいったようだ。
フロイスは1581年3月、再び会うが、安土城を自慢したかったようだ。
彼の見た信長は「中ぐらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は少なくはなはだ声は快調で、極端に戦いを好み、
軍事修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった」「酒を飲まず、食を節し、人の扱いには
きわめて率直で、自らの見識に尊大であった」「その鋭い観察眼で捉えたこの武将の人物は、
他の追随を許さぬ迫力と真実性が感じられる」
その信長が亡くなった後に、今度は秀吉を大阪城に訪問する。
フロイスの「日本史」の中の秀吉像は、信長像に比べておおらかではない。
「彼は優秀な騎士であり、戦闘に熟練していたが気品に欠けていた」
「身長は低くまた醜悪な容貌の持ち主」「抜け目なく狡猾」
「極度な淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺」・・・
生理的は反発がうかがえる。
1587年に九州に遠征中に伴天連追放令を発した。秀吉の漁色乱交に、キリスタンの女性たちが抵抗したので、
暴君の秀吉が怒り狂った、とうのが彼の解釈だ。
 ーー
この「日本史」では、外国人ジャーナリスト?の目で当時の日本と日本人が体系だって観察されている。
その点では信長と秀吉を現代人の感覚で観察している目に近いと言えるのである。
更に、信長の最期の姿が仲間の宣教師から九州にいたフロイスに詳細な報告が入る。 それによると、
ー 1582年、6月21日、本能寺の変が起きる。明智方は本能寺を襲い、「手と顔を洗い終えて身体をふいている
信長」を見つけて、背中を射た。信長はその矢を引き抜き、長刀を手に戦ったが、「腕に銃弾を受けると、
自らの部屋に入り、戸を閉じて、そこで切腹をしたと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火して、
生きながら焼死したと言った」更に、「我らが知っていることは、その声だけでなく、その名前だけで万人を
戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては
地上に何ら残存しなかったことである」と・・・ー 
 生々しい信長が直に伝わってくるようだ。 

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2008年02月17日(日)
2510, 黒柳徹子

子供の頃から、いつも彼女の声や姿をみてきた。美空ひばりと黒柳徹子は私の生きてきた時代の中で何時も
ラジオかTVで見かけてきた。現在もTVの『徹子の部屋』などで毎日のように見かけるが、殆ど彼女の番組はみてない。
しかし芸能界の一線で55年も活躍しているのだから、それなりの信条があるのだろう。
どちらかというと、女性の好みとして苦手のタイプ。彼女は子供の頃からの異端児で、学校では劣等生だったという。
ある本に、彼女の手記があったが、なかなか面白い。
 その概要といえば、
 −−
仕事をはじめて5年目に過労で一ヶ月の入院をした。 当時のTVは殆ど生番組で、出ていた番組では
私抜きでもドラマは進行した。その時に、二度と病気をしたくない、と思った。
だから退院をするときに院長に、「死ぬまで病気をしたくないですけで、どうすればよいか?」と聞いたら、
先生はおっしゃった。「長いこと医者をしているが、そういう質問は初めてだ」。
でも、と先生はおっしゃった。この先生は名医だった。「一つだけ方法がある。でもたいがいは、出来ないんだよね」
私は必死に食い下がった。「やります、どんなことでも」「じゃあ、好きなことだけをして生きなさい」
「え?じゃ、明日は芝居を見て、あさってはピクニックをして、しあさってはショッピング。そんなお金はないな〜」。
「誰が遊んでなさいといいました。自分が進んでやる仕事をやること。
身体の疲れは、寝れば直る。でも、嫌だなと思ってする仕事は、少しずつ身体に溜まっていく。
それが繰り返されると病気になるんだと思うんだ。だから、進んでやる仕事はやっていれば、病気にはならないんだと思うんだ」。  
私はそうしようと決めた。だからマネジャーと相談してよく寝ることは勿論だけど、極力、自分が進んでする仕事をするように
生きてきた。もちろん、若いときは難しかったけど、どんな金儲けの仕事が来ても、気が進まないと、
やめた。その代わり、自分が引き受けた仕事は、すべて、これは自分がやりたくて
引き受けた仕事だから、と全力でやった。そんな風にして、50年間、病気なしでやってきた。                                                     ーつづく
ーー
なるほど、素晴らしい信条であり、それが彼女を、ここまで一線で活躍させた源泉である。
ここで何度も書いているが、50歳になったときに、はて、どうして生きようか?と考えた。
そして、50代で一生分を前倒しをして生きること。その為には、嫌なこと、嫌いな人とは
一線を画する。それと、社会の価値観を徹底的に疑うこと。好きなこと、したいことを優先することと決めた。
そうすると楽になった。そして日々が非常に楽しくなった。この経験があるから、彼女の言葉が理解できるのである。
 いや、元々してきたが、より徹するようになった!ということ。

・・・・・・・・・・
2007年02月17日(土)
駅前専門学校の時代の終焉!
         才八∋ウ_〆(∀`●)サン
   
十数年来、長岡や新潟駅前の建設やビルの買収といえば専門学校であった。
しかし、この破竹の勢いはここまで、逆現象が始まるという。 就職難民が体裁を整えるためとと、
とりあえず資格取得をめざすのが専門学校の存在意義であった。就職難民の一時収容所に近い機能が実態?だった。
ところが少子化で絶対数が少なくなったこともあり大學が存続のため、本気に彼らを吸収し始めてきた。
アメリカのように、入るのは優しく、しかし卒業は難しく!へ方針を変えてきた。さらに団塊の世代の大量定年が始まり、
企業も新卒の本格採用を始めてきたため、今年から新卒の超売り手市場に入ってしまった。
 2〜3年前までは考えられないことである。
これが専門学校にとって前門の虎と後門の狼である。「学校法人は、その資格を取って、現在のニーズに
あったソフトさえ揃えれば、これほど面白い商売はない」と、ある経営者から聞いたことがある。 
しかし、どの世界も同じ道筋を通って淘汰が始まる。彼らの崩壊が1〜2年後に雪崩をうって一挙に始まるから問題は大きい。
この数年は気の毒にさえ思える大波乱が待っている・・・どこも自分のところだけは大丈夫と確信しているだろうが。
時代の変化はそれを許さない!新潟でもサッカーや野球のプロのチームを持っている何とかという学校法人があるが、
その華やかさの陰に重大な経営問題がある!のは、少し考えてみれば至極当然のことである。
ここは学校法人に宗教法人を掛け合わせて、節税を武器にしている。
公明党が政権にある限り大丈夫と聞いていたが、そうはいかないのが情報社会。
この十年近く時代の波に翻弄された者として、彼らの行く末に非常に興味がある。
いまの税制では、5年や10年は持つか?とにかく神様を隠れ蓑に、税金払わないで済むのだから!
時代は、いや娑婆は面白いものである!    
                       ホンジャ ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪
・・・・・・・・・・
2006年02月17日(金)
1781, 他罰の人−2
 (*^o^*)オ (*^O^*)ハ (*^。^*)ヨー!!

他罰を理解するために、その対比する言葉を調べてみたら
 ー 自己罰(内罰)
 ー 他罰(外罰)
 ー 非罰    があった。        
 電柱にぶつかって怪我をした時、 w(☆o▽)w
・自分の不注意でぶつかってしまった... と思うのが  内罰・自己罰。
・こんな所に電柱があるからいけないんだ! 誰だここに立てたのは!  と思うのが 外罰・他罰。    
・この程度で済んで良かった... と思うのが   非罰。
 この喩は他罰を考える時に解りやすい これから見えてくるのは 他罰は責任転嫁ということである。
 非罰は仏教的な考え方になる。 この全てを考え、後は忘れるのを待つ!のがベストであるが。
  似た事例として  宗教書に「お寺におまいりにいき、石に躓いて怪我をしてしまった時に
・信心があったので、この程度で済んだ!と思うか、
・おまいりに行ったのに何で怪我をしなければならないのか!と思うか、
 仏教はこの程度で済んだと考える宗教である」 というのがあった。
他罰は外部に原因を見出そうという見方のため、自己欺瞞の傾向が強くなるになる。
自己欺瞞は積み重ねると自己矛盾が生じ 精神の混乱を引き起こす。
そして自己と外部への怒りの温床になる。そのプロセスでトラブルを彼方此方でおこし、深い鬱になる。
他罰の人の傾向は非常に子供じみたところがあり、心に深い傷を負っている人が多い。
小学校、中学校にいた苛めっ子は両親のトラブルの被害者。その腹いせをクラスの弱者に向ける。 
この傾向は一生ついてまわるから恐ろしい! 家庭内離婚を含めて不和の確率が50佑箸いΔら
社会は歪んでしまうのは当然である。   だから教養が必要なのだ!                 
                                ~~~ヽ(^▽^)))さいなら!
・・・・・・・
2005年02月17日(木)
1416, 50肩になった

一月ほど前から、左肩と首が痛む。 通勤時にビジネスバッグを肩にかけていたのが原因?
他に考えられるのはパソコンと、TVの見すぎも考えられた。たまたまNHKの「ためしてガッテン」が、
「40・50肩の特集」をしたのをみて、もしかしたら50肩と気がついた。
サロンパスを張ったところ、痛みは半減をしたが、その後は一進一退である。
更に薬局で塗り薬を買って使ったが、それほど効果がない。最近は、就寝中に痛みで目がさめる。
一般的には、2〜6ヶ月で直るというが、慢性になると数年続くという。ところで、30肩とも、60肩とは言わない。
ある年齢を超えると、ほぼ出なくなるとか。痛くなるのは、まだ老年になってない証拠。
40〜50代の加齢からくる老年期への過渡期に起きる現象。同年代の人に聞くと、何人かが経験をしている。
深夜に痛くなり目がさめるのが気になる。生老病死というが、老いは病が出てくる時節。
生きているから経験できるのだろう。

・・・・・・・・・
2004年02月17日(火)
1049, お金の教訓

「お金はむき出しの真実である」というが、これだけ本音と建前とかけ離れているのも珍しい。
今まで随想日記に、お金に関して何回か書いてきた。といって、本当に解っているのかというと疑問である。
一番金にシビアな坊主も[布施の分だけ経を読む]とかいう。滑稽といえば滑稽である。
世の中の悩みの大部分が金の悩みという。ということは、殆どの悩みは金で解決可能ということになる。
金に対する[金言」をまとめてみようと何冊かの格言集をみたが、なかなかこれはというのが無いが、
その中から幾つかあげてみる。
・「もしも心がすべてなら、いとしいお金は何なのだ?」  ー都都逸
・「金勘定 しているいる妻は 美しい」 ー川柳集より
・「私は金のためにこの世界に入った、芸はあとでついてきたものさ」ーチャップリ
・「10中89、お金は急場を救ってくれる」 −ジョン・ウェイン
・「お金と知識はあの世にはもっていけないよ」生きているうちに使えと!あればだが。
・「お金があれば、どんな悲しみにもたえられる」
  ー財多ければ、悲しみ少なしー
  ー財布軽けりゃ 心が重いーというのもある。
・「小指切れとは当座のことよ、金が泣くなりゃ手まで切る」ー都都逸
・「貧乏は貧乏人を追いかけ、金は金持ちを追いかける」 ユダヤの諺というから恐ろしい。
・「金のない人は、京都の茶屋で遊ぶ資格あらへん」という芸子はシビアである。
 これは昔から欧州の社交界では当たり前だったとか。
・「金と頭とチ○ポはいきているうちに使え」と、本田宗一郎が言ったとか。 まあ彼が言うからよいのだろう。
  ある統計によると 65歳のアメリカ人100人のうち
・金持ち1人、 ・快適な暮らしを送る人 4人、 ・まだ働く人は 5人しか居ない。
・あとの 56人は政府か家族の援助を必要とし、 ・残りの人は亡くなったそうだ。
よく「引退すれば、生活費が減る。だからお金はそんなに必要ない」
という人がいるが、それは間違いだ。生活費は下がるが、医療費は大幅に上がるからだ。
多くの保険機関は高齢者を制度から締め出そうとしている。
これから高齢者はお金を持っていれば生きられるのに、お金がないために死ぬということも起きるのだ。
本屋のエンドに平積みに[300万で生活する方法」というような本が目立てってきた。
最近出た本では、さらに「200万で生活する法」まで引き下がってた本が出てきた。この大不況の中に他人事ではない。
調べてみると過去に多く、金について書いている。いま読んでみてもシビアで面白いが、では実践でというと??
書いている分には面白いが、金に追いかけられだしたら地獄である。

・・・・・・・
2003/01/13
お金はむき出しの真実
字数の関係でカット(2009年02月17日)
・・・・・・・
ー以前書いた文章をこぴーしておきます。
お金について -事業百訓より
[112] お金について
字数の関係でカット(2008年02月17日)

・・・・・・・・・
2003年02月17日(月)
684, まれに見るバカー読書日記ー4

 男・獲物ー獲得法
第2章「バカ本を読む」の中の酒井冬夏「バカ・ゲット」がおもしろい。 
1995年に流行った「バカゲット」とは、「バカ」な男を「ゲット」する、自分に「安らぎ」と「安全」を
与えてくれるバカ男ー獲物を獲得する意味である。この獲得のマニュアル本である。
 目次は「コンセプ」「マーケッングリサーチ」「アポイントメント」「営業」「交渉」「プレゼンテーション」
「接客」「契約」などあって、男と女の関係もビジネスと思わせる仕掛けがある。
・男は「クライアント」であり、
・自分は「会社」であり、
・結婚は「プロジェクト」であるというわけである。
 ところが一転、
・社内で「獲物」を探すのが「近海漁業」であり
・「合コン」は「遠海漁業」
・なんでも手を出すのが「そこ引き網」
・ずっと付き合って結婚するのが「一本釣り」
・同性からの紹介は「おとり漁法」
・シャイなふりをするのは「定置網漁法」
・光りモノでおびきよせるのが「ルアー釣り」女としては「らくして生きる」ために、こういう「バカ」を「ゲット」
 するための手練手管、言葉遣いが、懇切丁寧に手ほどきされている。
 つまり「バカ」男を「ゲット」する「バカ」女の本である。
ー感想ー
こう書いてあると、結婚とは何か基本的に考えてしまう!わたしも「バカおんな」にゲットされた「バカおとこ」だ。
晴れて、バカの夫婦が成立して、子バカが生まれるのだ。まあここまで考えたら結婚はできない。
男などこの本をしっかり読んでおかないと、とんでもないバカ女に一生を棒に振ることになる。
さらにこの本には「正しいバカの選び方」という部分がある。
・・・
間の悪い男のコ。いますよねぇ。男の子ってデリケートな生き物なのです。
要領が悪くって、タイミングが悪くって、不器用で、いつもチャンスを逃してしまう。
・・・・こういう男の子に愛の手をさしのべるのがワタシ達の役目。
こういう男のコがターゲットであります。ワタシタチが求めるのは「安らぎ」と「安全」です。だから、
・結婚生活に向いている男のコ
・よりラクできる相手
・よりコントロールしやすい相手を選んだほうが、勝手に生きられるというモノです。
感想ー30代半ばまで女の職場のこういう中で、ふわふわ浮いて泳いできた!
その辺が一番面白く辛いところだったが。個人は誠実に、集団としては猿として割り切っていればよかったが。
以上のような漁りは、誰にも必要であり、その漁場でいかに仕掛けをつくり、その中から選定しなくてはならない。
その魚が一生の伴侶として当たりかはずれは五分五分ときているから面白い。早ければ新婚旅行で判別できる。
24時間密着するのだから。TVでも当たり外れは五年経たないとわからない、人間は一生経っても気がつかない人もいるが。
バカ本を読んで、ニヤニヤしながらパソコンに打ち込んでいるのが一番バカだ!

・・・・・・・ 
2002年02月17日(日)
334,私の読書法

やはり速読法が中心だ。それも「要点集中主義」だ。
その典型が図書館で可能な限り(10冊)借りてきて、居間の「私の居場所」の横に積んでおく。
食事やパソコンをイジッテッル合間にチョイ読みをする。 通勤で行き帰り読む。
そして返す時間が詰まってくる、もちろん週10冊は読めない。そうすると要点を見ざるを得ない状態になる。
本はその状態でないと、読まないことが多い。返す期間が決められていると、要点をみざるを得ない。
これは買うに値すると判断するとすぐ「ネット」で注文をする。買った本は、すぐ折込に入る。
本の端を重要な箇所を折り込んでしまう。目次、各章、終わりに、図と絵、太字のページを折りこむ。
そうすると、その時点で自分だけの本になってしまうそして身近においておく。読んでいて、
いやパラパラと開いていて、ここは重要と思うと左下を折り込む。折込にも情報を入れる。左上は図示と絵。
急ぐ時は、終わりより逆にめくっていく。そうすると、どういう訳かポイントが良くわかるのだ。
それでも時間が無い時は、この本から一つだけ情報を取るという視点で集中する。
一つはあるものだ、特に「目次」か「終わりに」でそれを探す。
いま一つ実行していることは、本屋に週2回は寄る。通勤途中の二軒のどちらか一軒だ。
本屋も毎日のように、売れているコナーの本を入れ替えている。定点観測である。立ち読みで要点読みが結構できる。
都会ー東京の羨ましいのは神田も含め大書店が多いことだ。情報格差の一番象徴的なところだ。


2874, 成長モデルから 脱成長モデルへ  −2

2009年02月16日(月)


   「もはや成長という幻想を捨てよう」ー佐伯啓思  −2

「規制されたモデル」といえば、戦後日本の20数年の日本経済のモデルが理想であるが、これは成長モデルそのもの。
 結局は資本主義経済はバブルの繰り返すしかないのである。その本質はネズミ溝であるからだ。
 その繰り返しの中で、自由と平等を如何に両立させるかという難しい問題は人類の永遠のテーマと重ねる。
 突き詰めると、どれもこれも共同幻想でしかない。 共同幻想でしか人類はコントロールできないとすれば、
 共同幻想の「正・反・合」を繰り返すしかない。 更に前回に続いてポイントの部分を抜粋する。
  〜〜 
  *『自由放任的競争』から『規制された競争』
「ケインズが終生説いたのは、実は、グローバリズムへの警戒なのである。
『頽廃的で国際的で個人主義的な資本主義が世界をかけめぐり、国内経済を破壊することこそ、彼は恐れたのである。
『それは、知的でなく、美的でなく、公正ではなく、有徳ではない。われわれは、それを嫌っている。
いまやそれを軽蔑し始めている』とさえ彼は書いている。この『資本の気まぐれな浮動』から、一国の経済を守らなければならない。
それこそが、ケインズをして、政府による資本の管理と公共投資を唱えさせた理由なのである。そして、住宅、個人的サービス、
都市の美観、地方生活のアメニティ、といった『国際商品ではないもの』をこそ重視したのである。」
  −−
「今回の危機をきっかけに、世界秩序は、アメリカ一極構造から変わっていくかといえば、アメリカと中国の綱引きになるだろう。
中国は、製造業が成熟しきらないうちに金融が拡大するといういびつな経済構造のため、経済を膨張させていかないと国がもたない。
その点でアメリカと共通している。それに、欧州連合(EU)、中国、ロシア、インド、アラブ諸国、そして場合によっては
ブラジルが加わり、不安定な多極構造になっていく。日本といえば、残念ながら極にはならないでしょう。
国際的な連帯を考え、アメリカを牽制(けんせい)するためにEUに接近し、中国を牽制するために東南アジア諸国と連携するといった、
多面的な戦略が必要になる。―極にならなければ、国際社会の中で埋没していかないために、文化を通じて他の国にアピールしていく。
ただ、ゲームやカラオケだけではだめです。 理念や伝統的精神を大事にして、日本でなければ見られないもの、
味わえないものを再生させていくことが重要になってくる」

「競争によって大きな富を享受できるのは、基本的には、将来にわたって巨大な消費市場を開拓できる国であって、
 日本はおそらくはグローバル化によって、最も厳しい状況に置かれる国のひとつにちがいない。」
「人々がモノにたいする渇望を失えば、残るのは、富の表象であるにすぎない貨幣そのものへのゲーム的な関心であろう。
 ・・・・『モノの必要』から『貨幣への欲望』という現代の経済構造が、その帰結として、ワーキングプアや所得格差といった
『現代の貧困』を生み出し、また、資源や食糧の争奪戦という『希少性』を生み出すのである。『豊かさの中の貧困』と
いっても良いし、『豊かさゆえの貧困』といってもよかろう。」 
 ーー
「本当は『成長モデル』が求められているのではなく、『脱成長モデル』こそが求められているといわねばならない。
生産力が過剰となった時代には、過度な競争によって一見、経済は活況を呈するように見えるものの、実際には、
それは破滅への道に他ならない。このような時代に必要なことは、『競争』から『共生』への転換であり、自由市場から
ある程度管理された市場への転換である。『自由放任的競争』から『規制された競争』へといってもよかろう。
・・・『成長型経済』から『脱成長型経済』への思考転換であり、もっといえば『経済活動のあまりの過剰』となった社会からの
転換を図ることである。それこそ、人口減少、少子高齢化、そして過剰な生産力を抱えた日本が指し示すべき方向ではなかろうか。」
 〜〜
大きなウネリの方向は社会民主主義に向かっていくのだろうが、とどのつまり大部分の生物を巻き込んだ人類の破滅である。
そして、再び新しい動物が生まれ、数億年後に知的動物に進化して同じことを繰り返す。そのサイクルを何度か繰り返して、
50億年後に、地球は消滅する。更に150億年後には、宇宙そのものが消滅する。 しかしブラックホールの先に、
別宇宙が存在しているが、この宇宙の盛衰には関係ない?  

 ・・・・・・・・・
2008年02月16日(土) 2
509, 新・知的生産の技術 −2

好感の持てる人である。東京の知人が言うには「最近、東京では健康を兼ねてスポーツタイプの自転車で
チョットした移動に活用している人が多くなっている。」という話を聞いたばかりなので、成るほどと感心した。
この人の場合は、携帯用のナビまでつけている。ナビは個人の行動まで自由にしているようだ。
ここまで電子機器が発達し、ソフトも高度化したなら、己を空しくして逆に無駄取りをして合理化に徹したほうが
良いに決まっている。その意味で、この本は批判が多いかもしれないが、見習うべきことがあまりに多い。
ここまでグーグルが世界の人たちに支持をされるには、それなりの内容があるはず。
なら、限度のある自分を徹底的に排除をして、己を空しくして圧倒的なベストに
従ったほうが良いという彼女の問いかけが、シンプルで訴える力がある。
・補助脳としてのパソコン
・フォトリーディング、親指シフト、マインドマップなど、じぶんなりのOSを整え
・アナログとデジタル入力のバランスを使い分け
・マスメディア情報を減らし、実体験、他者体験、良書を三大情報源とする。
・自分以外の感覚器、特に耳をもっと活用する
・そして睡眠はよくとり、運動をよくする
だいたい、これにブログや日記、メモをよく取ること、これが言いたいことである。
大部分が進学にエネルギーの大部分の人が取られているとき、このような合理性で自己研鑽に
勤めれば、そこそこのことが出来ることだ。

・・・・・・・・・・・・
2007年02月16日(金)
2145, 「狂い」のすすめ −2
        才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
                              
この本は「世間」に対する私の鳥瞰視と同じトマリ木の目線である。第一章の「狂い」のすすめは、
「世間を幻覚と割り切ること。その為に自分を狂者と割り切ってしまえばよい。
世間は狂っているのだから、そんなものを元々相手にしなければよい。」

私自身の人生を振り返ると、「狂」が一つのキーワードであった。
狂を演じてないと、事業など立ち上げることができない。現状否定が事業の立ち上げの切り口であるからだ。
その辺の二代目が、その「狂」を冷笑しているのをお笑い芸人の目で、その反応を計算している自分の様も面白かったが。
現在もそうである・・。いや、狂いが目立たなくなったということか!
定年を迎えようとしている男が、急ごしらえの定年後の準備を始めている様は、コミックといえばコミックである。
「狂」になって一度自分を破壊しないと、定年後の第二の人生の構築はできない!
その意味で、この本は彼ら向きなのだろうが、はたして理解できるか?
この本では「狂者の自覚」という表現をつかっているが・・・
それまでの人生観を根こそぎ疑って、新しい人生観を構築しないと!それが第二の人生である。
この無自覚な連中を集めて商売にしようと目論んでいる人がいるが、その悪臭は自分では分からないだろ。
でも、その人たちに目先の安らぎを与えるどこが悪いか! という論法も成り立つが! どうでもよいことか。

 この本の中で一番気に入ったのは、ーカタツムリからナメクジへー というところである。
*そこを抜粋すると*
「カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる」私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。
そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。
殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅である。
たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いものだとみるカタツムリでなく、貧困もよいものじゃないかという
ナメクジの目でみることができれば、素晴らしい旅になるはずです。
 インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、
「裸足のどこが悪いんだ、上等の靴を履かされて、重い鞄を持って塾通いと、
裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが幸福なんだ・・・?」とね。

もう一つは ーついでに生きているー である。
「‘人生なんぞ無意味である'と言うのであれば、なんでお前は生きているのか?
それなら、生きている価値がないじゃないか」と言うが、その反論として、
「人生に意味がないなら、自殺さえ必要ないじゃないか」と反論していた。
そのうちにうまい言い方を考案しました。それは、人間は、−ついでに生きているーという言葉です。
人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。 別段、それ以上の意味はない。
人生に意味があり、目的があるとしたら、私たちはその目的に向かって邁進したくなります。
そうすると、競走馬的な人生になってしまいませんか。
 −−
まあ、一日一日を切断して、その一日を「日々是好日」と楽しめということだ。
二度とない人生、そして一日である。著者こそ、実際は逆に生きてきたし、現在もそうだろう。
悩める人に対して、そう教えるのが彼のお仕事であるから、それでよいが。
「人生に対して意味を求めつくしてこそ、その逆もさもありなん」と相まってこそ、人生無意味の意味が深まるのである。
「そんなこと、言われなくても分かっている!」というが、一応、念のため。カタツムリだものね、人生は。
 どっちも同じ? 喩えがね〜 同じか!

 カタツムリが、定年を向かえて、否が応でもナメクジになったとき、その人は如何すればよいか?ということだろう。
 こういうナメクジに新しい殻を与えようとしているのか、「あの人」は!それも既成品を。オーダー作れないもんね!
 その人たちは、今さら。 だから、安直な仕入れ品を当てがおうというのか!
 もともと安直な殻なら、その後の殻も安直で充分というのも理解できるが。
 でも、何かおかしな話である! まあ、考えるに丁度よい材料になるが。
                  b(^o^)ノ バイ!
・・・・・・・・
2006年02月16日(木)
1780, 他罰の人
       (`・ω・。)っノXXXX>C【才ノヽ∋―】゚+。*゚+。

ある本で「他罰」という言葉に行き当たった。他罰性は、現代のキーワードといって。特に情報社会の病巣といってよい。
自分のマイナスすべてを他人や社会のせいにする傾向の強い人間は何処にもいる。
私がタレントの‘みのもんた’を嫌いなのは、職業柄もあるが、他罰性が非常に強いからである。
まあ観ている方も他罰を一緒に楽しんでいるから本人の責任だけではないか。         ~~旦_(^O^ )
人生の後半に(いや前半もそうだが)明るい生活を送っている人の分析がある。
・縦と横の人間関係がキッチリできていて ・本業以外にライフワークを持っていて
・何ごとも前向きで楽観的で       ・他罰性が無いこと   
それと(私の意見だが)奥さんが明るい人である。
 逆に社会に適応できない人とは
 「他罰性が強く、そのため人間関係が崩壊、何ごとも後ろ向きで、趣味が少なく、暗く温かみが無く、
  そのため神経症になっている人」である。    ゙o(≧◇≦*)o o(*≧◇≦)o"ダメ ジャ〜!!             
  誰の中にもある毒素であるが、その傾向が強いか弱いかにある。
  私が敏感なのは、他罰性の強い人間である。自分の中に、あるから嫌なのだろう。    
 その傾向の強い人種は常に攻撃対象を探している。それを思いつくまま挙げてみると ユルサン![(#▼皿▼)]ムキッ
                       ?(;:゜Д゜;:)ヒィイッッ
 親が悪い、友人が悪い、学校の先生が悪い、上司が悪い、会社が悪い、
 政治が悪い、社会が悪い、等々 社会的貧者に、この傾向の強い人が多い。
「人生は最も偉大な言葉」とは‘自分の生きてきた全て(人生)が何もいわなくても全ての自分を語っている’ということ。
 その中で一番の問題になるのが他罰性といってもよい。 ルァァ!! (*`д´)ノチキショ!!! (`Å´)ゴルァ!!
 夫婦間など、男女間のトラブルは他罰から生じる典型なことである。
 自分のことを考えてみれば家内との喧嘩は何時も、どちらが悪いかの言い争いである。    
 会社組織も他罰の牽制で成り立っているといっても過言ではない。
                   つづく      ヾ(。´・ェ・`。)Bye
・・・・・・・・
2005年02月16日(水)
1415, NHK視聴料について

数年前から、NHKの視聴料の支払いに対して疑問を持っていた。
そして、最近起こった不祥事事件である。自宅で三紙とって日経新聞を止めて、WOWOWに加入。
次に新潟日報を止めて、薄型TVを購入した。NHKを止めて、CSに加入したくなるのが当たり前のことである。
以前から会社で支払っているNHKの視聴料の支払いに対して、何時止めるかタイミングを計っていた。
「宿泊のお客は自宅で視聴料を払っている。それが何で、ホテルの客室の視聴料を払わなくてはならないのか!おかしい?」
と考えて当然である。先日のラグビーの番組の中止(途中から抗議殺到で放送したが)で、切れてしまった。
会社に行って早速、「NHKの支払いの必要無し!」と宣言をした。
ところが、呆れた顔をした支配人 「10数年前から、一円も払ってません!」
私「・・・・」やるべきことは、やっていたようだ。個人は、結構NHKの番組みで楽しんでいるので払っている。
ーーー
2005/01/31   ー1399, NHKと朝日新聞

昨日の朝日新聞の天声人語が時期が時期だけに、少し際どい?内容であった。
(後でコピー)
「政治的圧力の有無の報道の件」は、誰がみても朝日新聞の方が正しい。
予算承認という伝家の宝刀を自民党が持っていて、その時の権力者が口を出すのは当たり前。
しかし、今は時代が変わってしまった。?党の権力ボケどもが陰で左右しようとしても、今回のようなことになる。
政治屋どもは国民の直接の批判がアキレス腱である。あの??の二人が介入してないわけがない。
日本人は甘い。私もそのうちの一人だが。不払いが1佑△泙蠅靴ないのが合点がいかない。
2〜3割が不払いになるのが自然である。知人の銀行員が、「不払いの手続きに多くの客が来ている」
と言っていたが、それでこ僅か1佑任△襦NHKの歴代の会長の半分以上が不祥事の責任をとって辞めている。
島ゲジとかいわれた前の会長も不祥事で辞めている。
■《天声人語》  01月30日付
 (字数の関係でカット09年02月16日)
・・・・・・・・
2004年02月16日(月)
1048, デート・カウンセラー

最近、TVが面白い。特にBSTVが色いろな世界を鋭く切り取っている内容が多くなった。
普段知ることができない世界を垣間見れる。
一昨日のBSの、[地球ウォーカー]のニューヨークのデート・カウンスラーの目を通したドキュメントがよい。
結婚相手を見つけるチャンスが少ないのが大都会の独身者の悩みという。特に女性の場合、チャンスが少ない。
大都会は同姓愛が多くて、出会いパーテーを開いても男性の数が少ないのが悩みになる。
10対8といっていたが、実際はもっと少ないようだ。この33歳のティナというブロンドのデートカウンセラーの
目を通したニューヨークの独身女性の結婚問題を掘り下げていた。女性20人位のセミナーで色いろの講義をしているのだ。
現在、学生時代の日記を書き移しているが、男の立場からみても合点することが多い。
結論からいうと[ありのままの自分に自信を持って、オープンに積極的にあれ。但し、これには守るべき原則がある!」という。
 ーその原則とは
・直前(その場)のデートは断る4日後に引き延ばすこと
・相手の言動を分析しない勝手な分析などしないで軽く考えること
・女性の場合、支払いは相手に
・あせりは絶対に見せない
・メールの返事は3回に一回ぐらいにしておく 等々である。 
 この番組に出てきた独身女性を見ていると(いや大方)、男性不信の人が多い。
 前の男性が駄目であっても、次の人が駄目とは限らないのだ。
 男性は、その女性を理解するのに平均4ヶ月かかるという。従って、あまり先?を急ではいけないと。
 ニューヨークでは50涌幣紊領ズ率というから、結婚は大問題になっているという。だから「デート・カウンセラー」
 という職業が大うけなる。ー男性の多い店とか、スポーツバーに行ってチャンスを自らつくり、気楽にー
 というのが要約であった。いい人に出会うためには「下手な鉄砲数撃ちゃあたる」も必要なのだ。
 簡単に最適な相手が見つかる訳がないが、といってそうチャンスがあるわけがない。
 上手く結婚まで持ち込んでも50涌幣紊亮最圓硫椎柔もあるのだから本当に難しい問題。
 特に若い人に言いたいのは、「理想と現実の違いをはっきりしろ!」
 その為には「若さにありがちな自己過大評価と過少評価(特に過大)を修正しろ!」
 「表面的な魅力と同じくらい内面的な魅力をつくれ!」
 「若い時は二度とない、片思いでも良いから死ぬほどの恋をしてみろ」
  こんなこと人にいえた柄か?    全くその通りです!
 
 ・・・・・・・・・・
2003年02月16日(日)
683,まれに見るバカ−読書日記-3
              ー 続く
・・・・・・・・・
2002年02月16日(土)
333、20歳の頃 −1

立花隆の「二十歳のころ」が面白そうなのでネットで買い寄せた。
本屋で立ち読みをしていたが、実際に買い読み始めるとこれが面白い!
立花隆と東大の立花ゼミ生が「各界著名人や無名の人の20歳のころの事」をまとめたものである。
一番の人生の不定形の可能性の塊のころである,と同時に一番不安定のころでもある。
そして一番その後の「人生の基盤」を作っている時期でもある。
私の周辺の人を見ていると「大学時代何をしていたか」で人生が決まってしまう。
その頃遊びほうけていたり、ただ漫然と大学生活を過ごしてきた人は、今もその延長にいる。
人生の要所であることに若さゆえ気づかない。「さすが立花隆!」と思うのは、
「ホームページ上でサイバー大学という形」で進めていったことである。ゼミのメンバーと同じ年代の人と普通なら、
これをやらなくては絶対会えない各界の人から、色々な啓示を受けたことだ。それもホームページ作りを通してである。
まったく羨ましい限りである。人生のOFF−J−T,いやOFF−L(LIFE)−Tそのものだ。
 私の二十歳頃を近くに書いてみよう。 それより学生時代の頃になるか。
 屋上から「通行人の自分」を眺めているみたいで面白い。
 ー2004年2月16日記
この文章が、恐らく「22歳の日記」を公開するキッカケになったのだろう。


2873, 成長モデルから 脱成長モデルへ  −1

2009年02月15日(日)

 「もはや成長という幻想を捨てよう」ー佐伯啓思  
 中央公論 08年12月号が、なかなか説得力のある内容であった。 
   
  ーまずは、そのいくつかを抜粋してみる。                    
「今回の経済危機の原因は長期的に見ると、20世紀を通じて続けてきたアメリカ型資本主義による
経済発展の行き詰まりである。 資本主義の本質は、物的生産力を無限に拡張していくことにある。
だが先進国では70〜80年代に社会が成熟段階に達してしまい、人々がさほどモノを欲しがらなくなった。
その結果、製造業に投資しても大きな利潤が出ないので、余ったカネを金融市場に集めてバブルを常に起こすことで、
経済発展をしてきた。人々が高いお金を払ってまでも手に入れたいと思う『モノ』がもはや亡くなりつつある、ということであろう。
だからそ、製造業は、過酷なまでの価格競争によって、価格を下げるほか無いのである。・・・
今日、『経済活動の過剰』という問題に真っ正面から取り組むべきではなかろうか。
確かに、今日、資源はますます希少となり、食糧も希少化しつつある。食糧の奪い合いが始まろうとしているし、
アメリカ人は借金をしてまで貪欲にモノを買い続けている。人間の欲望は無限であり、モノは有限である。」
  ーー
「グローバル化の第2の波である帝国主義の真相を、英国の経済学者でえあるボブソンは恒久的な消費の低下にあると見ていた。
・・・ ケインズこそ、現代資本主義の最大の問題を消費の低迷に見ていたのである。 かくも豊かな社会が到来すれば、
人々はもはやその関心を『モノ』には向けなくなるであろう。その結果、消費は低迷し、それが資本主義の長期的停滞を
もたらすだろう、というのがケインズの予想であった。『豊かさの中の停滞』である。
豊かさのまっただ中でこそ、資本主義は深刻な問題を生み出す、というのである。」
  ーー
「『貧困への恐怖』と『豊さへの渇望』がもはや経済活力の源とならない。・・・もしそうだとすれば、規制緩和や
市場競争促進政策は、いっそうの生産能力過剰をもたらすだけのことであり、それに伴う有効な需要の伸長がないとすれば、
よほど無理なコスト競争、価格競争をしなければ企業は存続できないであろう。
これは経済活動にあまりに過度な負担を強いることになる。この負担は、まさに、ワーキングプア、フリーター、派遣労働、
所得格差、労働強化、産業空洞化、地方の疲弊という形で表れているのである。(中略)今日、われわれは、消費者としては
できるだけ安いものを買おうとしている。投資家としては株で利益を得たいと思っている。しかし、そのことがまさに、
市場競争を激化させ、組織的な労働を解体し、結果として、労働者としての『われわれ』は大変な目にあっているのである。」
 〜〜〜
 解)この考え方を、もし日本だけで当てはめたら国家そのものが破滅してしまう。何故なら、それを狙った他国が
  逆の方針をするからだ。日本が「ゆとり教育」で、その世代の骨抜きが進行している間に、中国が一子政策を採り
  両親のエネルギーを一人の子供に集中したのである。だから現在の日本の衰退が深刻なのである。 
  しかし、世界がブロック化をして、その中で互いに規制することは可能だろう。 
  日本の衰退を、「成長モデルから衰退モデルへ」と衰退を脱生長と言い換え、気がついたら国家破滅!の危機になる。
  人口縮小に合わせて経済規模を均衡縮小を割り切ってする政策にすることは、間違ってはない。
                     つづく
・・・・・・・
2008年02月15日(金)
2508, 世界をだました男

    「世界をだました男」 (新潮文庫)        ー読書日記
             フランク アバネイル (著), スタン レディング (著),
以前にビデオレンタルで借りてみたが、あまり印象に残っていない。先日たまたま図書館で借りてきた後に、
アマゾンの中古本を買って読んだが、なるほど面白い!殆どが実話というが、さかりのついた男の
あの手この手の必死さが面白い。色いろな示唆のある内容で満ちている。
この内容の概略をまとめるだけの価値はある。生粋の詐欺師の話として割り切って読むと面白い。
政治家は、この手の詐欺師まがいが多いのは見ているとわかる!
ーー
6歳から21歳までアメリカやヨーロッパで詐欺を繰り返して二百五十万ドルを荒稼ぎだした。
連邦刑務所で服役後、数々の職業を経て、その手法を逆手にとって詐欺対策コンサルタントに。
 (以下字数の関係でカット 09年02月15日)

・・・・・・・・・
2007年02月15日(木)
2144, 「狂い」のすすめ −1 

       (~Q~;)  おはよう〜〜ファ〜  サム!
 閑吟抄の中の、「ちろリ ちろり ちんちろり ・・・・一期は夢 ただ狂え」
 を切り口に、世間に縛られないで 自由に生きなさい!と論じている。
 まさに何時も、ここで書いていることである。私にとって、今ひとつ物足りないところがあるが、
 団塊の世代のマニュアル人間が定年を迎えようとしている現在、丁度良い内容である。人生に意味など無い、
 生まれ、飯を喰って、くそをして、死ぬだけだ。 あるのは「いま ここ」だけ! 
   ーまずは、その概要からー                    ー読書日記
                   著者:ひろさちや :集英社
 世間や常識の奴隷になるよりも「ただ狂え」。狂者の自覚を持つことで見えてくることとは…。
 人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく生きようと呼びかける。
   ー表紙裏の内容紹介ー
 今の世の中、狂っていると思うことはありませんか。世間の常識を信用したばかりに悔しい思いをすることもあるでしょう。
 そうです、今は社会のほうがちょっとおかしいのです。当代きっての仏教思想家である著者は、だからこそ「ただ狂え」、
 狂者の自覚をもって生きなさい、と言います。そうすれば、かえってまともになれるからです。
 人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく生きましょう。
 「狂い」と「遊び」、今を生きていくうえで必要な術はここにあるのです。
 
−面白そうな所を何箇所か抜粋してみた-
*『人生に意味なんてありません。「生き甲斐」なんてペテンです。』
*「日本人は人生を知りません。人間らしく生きることができず、エコノミック・アニマル、
  すなわち畜生の生き方をしています。日本人は狂っているのです。」
*「上等の靴を履いてぶくぶく太った日本の子どもと、裸足でやせたインドの子どもと、どっちがまともなんでしょうか!?
  そして、どちらが幸せでしょうか!?  わたしたちの『常識』『物差し』は狂っていませんか!?」
*「ともあれ、遊牧民族は、敵と味方をはっきり分けて考えることができます。 だから楽なんです。 ところが
  われわれ農耕民族の末裔である日本人は、敵か味方かわからない世間を相手にせねばなりません。それがしんどいのです。」
*「浄土経典である『大無量寿経』においては、《人、世間の愛欲の中に在りて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る》
  と言われています。 この「独生・独死・独去・独来」が人間の本質なんです。」

 ・・・・・・・ 
2005年02月15日(火)
1414, スローフード

欧州でまず驚くのはスローフードとスローライフの生活パターンである。
最近、日本でもスローライフ、スローフードが流行りだした。
アメリカ発の便利・効率を優先するファーストフードに対して、スローフードを見直す運動である。
イタリアのブラという街で生まれた運動で、日本スローフード協会によると、次の三つを指標にかかげている。
1、消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質のよい食品、ワインなどの酒を守る。
2、質のよい素材を提供する小生産者を守る。
3、子供達を含め、消費者に味の教育を進める。
アメリカのコンビニエンスという考え方が、食べることにも及んで、画一化が進みすぎて、ものごとを
「味わう」ことが少なくなってしまっている。その反省に立って、食事そのものを見直す運動である。
これは、人生にもいえることで、「スローライフ」の見直しも出てきた。
人生を画一的な面だけでとらえず、ジックリと味あう生き方である。
「それぞれのライフワークで、自分という素材を生かすことを優先していこう」という考え方である。

先日見た映画の中で、船長と妙齢な婦人3人と母娘のディナーでの会話が素晴らしい。
それぞれが初対面で、違う国の出身。一人一人が多くの過去を持っている。それを何気なく自己紹介で言うのだが、
何の嫌味もなく洒落を言いながら食事をしながら話すセンスが素晴らしい。 スローフードの典型であろう。
欧州人は、ともに食事をすることを最も大事にしている。
生き方と食事に大きなつながりがあることを、長い歴史の上で体験的に知っている。
時間と手間隙をかけた心のこもった食事を、心を込めてとることこそが、今の時代に求められているのだろう。
特にスペインは、一日の時間の組み立て方が、欧州の他の国と全く違っている。
朝は、他の欧米と同じ9時頃に始めるが、午後1時か2時から4時ぐらいまで昼休みを取る。
その間、一度家に帰ってシェスタという昼寝をする。(セックスも、その時にすませる人が多いとか)そして8時過ぎまで働く。
その後街に出て、バールと呼ばれる居酒屋でアンチョビなどのツマミでいっぱい引っ掛けて、顔見知りや家族と楽しむ。
街中あちこちにバールがあり、その時間どこも満席である。その後、家に帰って食事をする。  
とにかくバールの値段が安い。彼らにとって、スローフード・スローライフは数百年続いている文化でしかない。
スローフードなどが流行りだすのはイタリアやスペインなどと同じく国が衰退を始めたということだ。
これも事実だから仕方がない。新潟でも全国チェーンの湯葉料理の「梅の花」が出店した。
昼飯を二時間以上かけて主婦などのグループがとる。五頭山の麓にある、釜飯の店など、その走りなのだろう。
金持ちの外食スタイルのカジュアル版ということか!

・・・・・・・・・
2004年02月15日(日)
1047、「22歳の日記」の終わりに

今日で学生時代の日記が終わっていた。何時から何時までという日付の無いフリーの日記帳なのだが、
丁度よいタイミングで最後のページで、最終日の今日だけレポート用紙が貼り付けてあった。
いま一冊の日記帳にあと半年位は書いていたと思うが、ハッキリした記憶が無い。
この日記を書き移していて「恵まれていた環境にいた」とつくづく思う。
「寮生活に、一ヶ月の欧州旅行、ゼミ、クラブ、教授、両親、友人」と多彩な環境が重なっていたことに驚いた。
そこには地方出身の、土がタップリついた、純朴な姿がそのままあった。
この時期に培ったものが一生ついてまわることを、振り返って実感する。それと真面目な姿も、今も昔も一緒である?
大学の専門分野の授業が結構面白かったことと、全く知らない分野を、色いろ知ったのが最大の収穫であった。
また知識や情報や人脈の重要さを実感をした。知的好奇心がこの時期にやっと芽生えたのだから、かなり遅咲きであった。

大学の知識などは、実社会に出てからの経験や読書などの蓄積からみたら、微々でしかない。
「大学を出てないから駄目だ」という自分の思い込みという石をつくらないで済んだのも収穫であった。
当時の学生時代の背景が、昭和40年代前半だったというのも恵まれていた。
特別恵まれていたのではなく求めるものがあったから、見返りに対象が反応した部分もあった。 
この時代のポップスは黄金時代といわれている。高度成長期の波に乗って、素晴らしい歌が次々出ていた。
恵まれた時代にあたった世代は、最後の最後まで恵まれるようだ。年金も、丁度よいようになっている。
同世代の人をみていると、仕事などでハッピーエンドの人が多い。
学生時代に真面目に過ごした人は、その後の人生で順調のようだ。
マージャンや女性狂いをしていた人は、あまり恵まれた人生ではない。知識や生活の基盤をつくっていなかったためだ。 
その一人が自分でもあるが。寮にクラブにアルバイトに酒にと、全て中途半端であった。
しかし、それに気づいて産能大に入りなおして基盤直しをした?が、それでも取り返しがつかなかった。
それほど甘いものではない。基盤はそう簡単には造り替える事はできない。

この日記から、温みを感じ取れるのも確かである。私の人生を振り返って「恵まれていた、ついていた、
面白かった、ありがとう」がキーワードにある。この日記を見る限り学生時代も全く同じである。
この日記を、つまらないという人と、リアルで面白いという人が二分していたようだが、少なくとも私にとっては、
リアルで面白い内容であった。自分の地偕の、あるフロアーに迷い込んだようなものだからだ。
この日記の最後にも感想を書いてある。 もう、こんな赤裸々な日記は書けない!

・・・・・・・
2003年02月15日(土)
まれに見るバカ  −読書日記 −2
ー印象的なところを抜粋するとー

人はバカに生まれるのでない。バカになるのである。
親子という縦の系列によってバカになり、友人・社会という横のつながりによってもバカになる。・・・
なぜ容易くバカになるのか。理由ははっきりしている。人間は楽な事を選ぶ生き物だからだ。
できることなら責任なんか負いたくない。他人の心配などまっぴらである。
難しいことより易しいこと、苦しいことより楽しいこと。不自由より自由。貧乏より裕福。
まどろこしい事よりすぐ成果が見えること、に流される。努力するのも金輪際イヤである。 
これらの諸条件を満たすのは必然的にバカになる。自分中心主義で、物知らずに、自分の頭で考えることができない。
考える努力もしない。だから人に頼りたくなり人の責任にしたくなる。このようにして人はいとも簡単にバカを志向する。
だから親がバカだと子供はつらい。「バカ」を刷り込まれるからだ。
バカになるのに訓練や努力はまったく必要でない。欲望と感情だけがあればよい。
そしてどんな人間でも欲望と感情だけはもっているのである。・・・
もしバカになったら、それはどこまでも自分の責任である。責任がなくとも自分で負わなくてはならない。
  ・・・・
バカがひとりで死ぬまで山の中で生きているのならどんな罪もない。
しかしそのときは「バカ」であることじたいが無意味であろう。
ひとりだけならバカも賢いもないのである。 バカの罪状以下のごとし。
ーつづく
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2002年02月15日(金)
331、自分を愛すること

我々は「自分を愛することを罪悪」と知らないうちに,教え込まれてこなかったか。
人間のいや生物の「遺伝子にはエゴイズムが書きこめれている」という。
まず自分のエゴイズムをハッキリと認めよう。そしてそのコントロールをすべきだ。
自己への愛が自己陶酔やエゴイズムと混同され、否定されている。
私たちの大部分が、実は愛を経験していなかったのではないか?経験してきたのは、実は[報酬]であった。

どこかの「チンドンヤ」のように第三者の容認を目指しているのを、本当の愛といえるだろうか?
第三者の影を探し続けている「子狐」的偽愛・偏愛を愛と勘違いしていた。
まず自分自身を愛し、魂を育てることが「愛」の第一歩である。
その前に人を愛そうとしたり、人に愛されることを求める。
それはオカシイと考えもしない、世界の大部分がそういう人で満ちている。
別にエゴイズムを勧めているのではない。他人に対する愛の希求を、まず自分に向けよ!
自分の魂に慈愛を与えよ!である。自分のやりたい事を見つけやることが、魂に慈愛を与えることになる。

それを第三者に求めることを「愛」と勘違いしている。真にやりたいことを、第三者に求めていないか?
第三者にそれがある訳が無いことを解ってない。新約聖書に「汝を愛するように、隣人を愛せ」という
最も象徴的な真理がある。汝を愛せない人間が隣人を愛することができるのだろうか。
聖書もまず隣人を愛せとか、自分への愛を否定はしていない。宗教的な文章になってきた。
それを知っている人間は他人のそれも解る。自己欺瞞が世界に満ちている。解ってない人間が奇麗事を言う。
他人のアラを探す、無能だからそれしかないのだ。こういう一生を「無能松の一生」という。
私の知人に典型的な奴がいる。もっとも、悲しいことに一番に自分に似ている!
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2月15日 1969年

昨夜のことで、本当に自分が嫌になる。いい加減な自分に嫌悪感を感じる。
あとは、思い残すことなく社会に出よう。学生時代は終わったのだ。
ーこれからの予定として
2月17日に先生のところに最後の挨拶  2月19日にゼミの工場見学11時〜18時
その後、2日間長岡に帰る。2月26日にジャスコ入社式のため四日市に出発
3月2日まで、入社前教育
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 以上で半年続いた日記が終わっている。

その続きを書いていたかどうかは記憶がない。書いていたかどうかは五分五分である。
この一年後、カード型の分類日記を一年間書いた記憶がある。その一年後、全てを捨ててしまった。
本当は捨てなければよかった。この日記よりもっと激しいことが書いたあったようだ。
それだけ、その後の一年は激しい一年であった。心身ともボロボロになっていた。
大學を出て、十数年は誰もがそうだろうが、一生分の問題を吐き出し解決してきた。
三十代半ばからは楽だったのは、それまで精一杯生きたからだ。

それにしても、凄い?20代~30代を過ごしてきたものだ。他の人のことは解らないが、私は限界ギリギリだった。
読んでいて気づいていると思うが、やはり背景は恵まれていたのだ。時代に、両親に、そして先生に、友人に。
月並みの言い方になるが「ありがとうございます」という言葉の重みをつくづく感じる。今も、
当時も一番足りない気持である。「ありがとう」という言葉は、言い尽きないのが人生と振り返って実感する。
この時代の人達に「ありがとうございます」と手を合わせて、この青春日記を終了する。 
少なくとも書き写している間は当時にタイムスリップをしていた。
毎日続いた一時のタイムスリップも、今日で終わってしまった!あまり過去に住むのは良くない。

今年の9月からの同月同日の日記として、再び貼り付けるかどうかは、その時考えるが「もう見たくはない」
のが現在の気持ちだ。半年も経てば気持ちが変わる可能性があるが。当時のこの男の頭をなぜてやりたい。
そして「35年前よ、さようなら!」と、腕がちぎれるほど何時までも手を振りたい気持ちである。
 当時と同じように少し感傷的になってしまった!
「あたらしき 明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に うそは無けれど〜  啄木」
  
この日記帳の表紙にデザインとして書いてあった詩である。
日記帳の下欄には、啄木の詩や日記や書簡集が印刷をしてあった。しかし詩心は芽生えなかった!
  ーーー 
 明日からは、換わりに、次のシリーズとして、 このホームページの「お笑いのコーナー」の、
 ジョークと小話を貼り付ける。 少し品のないところもあるが! 100話以上ある。
 5月まで続く予定である。

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